建築界の《常識》を考える-2・・・「耐震」の語は 人を惑わす

2014-03-08 11:57:27 | 専門家のありよう

春は名のみの風の寒さよ・・・当地の梅は、やっとこの程度まで開きました。
雪こそ消えましたが、啓蟄が過ぎたとは言え、寒さが厳しい毎日です。
暑さ、寒さも彼岸まで・・、というのは本当だな、と毎年思います。



[文末に3月11日付東京新聞社説を転載させていただきました。11日9.27]
[追録追加 8日16.55]

もう直ぐ、東日本大震災から三年になります。
ここしばらくの間、「防潮堤」「防波堤」、「耐震」「耐震補強」の語が飛び交うのではないかと思います。

少し前のTVで、「耐震補強」工事の費用が捻出できないので廃業に追い込まれるという老舗の旅館の話が伝えられていました。それは、
映像で見る限り、私には、簡単には壊れそうにないように思える昔ながらのつくりの木造建物でした。
そうかと思うと、耐震補強で、客室の窓に鉄骨の筋違:すじかい:ブレースが設置され、それまで一望に見渡せた海の目の前に障害となって立ちふさがり、客室としての意味がなくなってしまった、という海浜のホテルの例も報じられていました。
そしてまた、東京都では、一度に全面的に補強ができない場合、たとえば今年は一階だけ、次の機会に他の階を、というように分割して補強を行う「施策」を講じて「支援」している、という話もありました。
    いずれも「理の通らない」話です。
なぜこういう報道がとりたてて行われたか。
それは、平成7年(1995年)制定の「建築物の耐震改修の促進に関する法律」が施行されているにもかかわらず、不特定多数の人びとが使う公共的建物などの「耐震化」が遅々として進んでいないからです。今後は耐震補強を促すため、、未施工の場合は、建物名・建主・持主名を公表で、着手を強いるのだそうです。
    これも「理不尽な」話です。
    何故なら、いずれも竣工時点では「合法的」な建物であったからです。法律の「基準」が、「勝手に変った(変えられた)」からに過ぎません。

何度も書いてきましたが、「耐震」「耐震建築」「耐震補強」という語・概念の理解・認識は、一般の方がたと制定者・専門家とでは大きく違っている、のは明明白白の事実です。
たとえば、「耐震補強の目的」について、先の「建築物の耐震改修の促進に関する法律」の冒頭に、次のようにが書かれています。
  この法律は、地震による建築物の倒壊等の被害から国民の生命、身体及び財産を保護するため
  建築物の耐震改修の促進のための措置を講ずることにより建築物の地震に対する安全性の向上を図り
  もって公共の福祉の確保に資することを目的とする。
これを、一般の人びとは、どのように理解するでしょうか。
おそらく、耐震策を施してある合法的な建物(すなわち「確認」済の建物)は、大地震に遭っても、無事に地震をやり過ごし、使い続けることができる建物、そこで暮し続けることができる建物である、と理解するでしょう。
これは、「耐震」の語に対して人びとが抱く共通のイメージ、つまり「常識的認識・理解」に他ならないのです。
辞書にも「耐震:地震に耐えて損傷しないこと」とあります(「広辞苑」)。「耐震」の「耐」という字の語義は、「支えることができる、負担することができる・・」といった意味ですから、この理解は決して間違ってはいない、具体的に言えば、「この建物は震度7程度の地震に耐える基準で設計されている」という文言を、その建物に住んでいる人たちが、文言通りに、「この建物は、震度7程度の地震に耐えられ、それゆえ地震後も住み続けられる」と理解しても、何ら間違いはないのです。
   耐震を売り言葉にしている《住宅メーカー》の住宅も、多くは、そのように理解されているはずです。

ところが、先の法律の言う「耐震」とは、具体的には、次のことを指しているのです。
1)建物の供用期間中に数回起こる可能性のある中規模の地震に対して、大きな損傷は生じないこと
または、
2)建物の供用期間中に一度起こるか起こらないかの大地震に対して、居住者の命にかかわるような損壊を生じないこと
   もう少し具体的に言うと、次のようになります。   
   中規模地震(震度5程度)に於いては建物の水平変位量を仕上・設備に損害を与えない程度(階高の1/200以下)に押え、構造体を軽微な損傷に留める、
   また大規模地震(震度6程度)に於いては中規模地震の倍程度の変位は許容するが、建物の倒壊を防ぎ圧死者を出さない
   ことを目標とする。
すなわち、地震に拠って建物に生じた損傷が、人命にかかわらない程度の損傷であったならば、その建物は「耐震性のある建物」の範疇に入る、ということになるのです。
そしてこれが、行政の方がた、及び、この法律に拠りどころを与えている「有識者」「(耐震工学の)専門家」の方がたの「耐震」についての「認識・理解」であって、一般の人びとの「耐震」という語・概念に対する「認識・理解」とは天と地の如くかけ離れているのです。
   「有識者」「専門家」の用語法が、世の中のそれと異なることは、例の三階建木造建物の実物大振動実験の際の「倒壊」の語の「解釈」で露見しています。 
   原発事故関係についての「有識者」「専門家」のそれや、「宰相」の「福島原発はコントロール下にある」との「「認識・理解」も同じです。

すなわち、法令の言う、たとえば「この建物は震度7程度の地震に耐える基準で設計されている」という文言は、「この建物は、震度7程度の地震で、人命に損傷を与えるような破壊は生じない(だろう)」という意味に過ぎず、「地震に遭っても住み続けられる」ということは、何ら保証していない、ということなのです。
「耐震(基準)」「耐震補強」の「耐」の字を、字義通りに、つまり通常の用語法で、理解すると、とんでもないことになるのです。
   

しかし、「耐震基準」をつくった人たちは、行政も含め、この意味するところを正確に伝える努力をせず、ただ念仏のごとく「耐震」を唱えているだけです。
それゆえ、このままでは、「一般の人びと」と「「行政」及び「有識者・専門家」の間の認識の差:齟齬は、大きくなるだけでしょう。

けれども、この「一般の人びと」と「「行政」及び「有識者・専門家」の間の認識の差:齟齬について深く考えることこそが、地震に拠る災禍を考えるにあたって最も重要な視点であるのではないか、と私は思います。
なぜなら、単に建物が壊れるか、どの程度壊れるか、ではなく、地震に遭ったとき、どのように生き抜けられるか、暮し続けられるか、について考えることこそ最重要の課題のはずだからです。
建物の損傷が、人命に損傷を与えない程度であるかどうかは、そのほんの「部分」の話なのであって、
その損傷の中で、どのように生き延びられるか、暮らせるか、それこそが、そこに実際に生き、暮している人びとにとっては、最重要の課題なのです。
しかし、「耐震」基準を決めた方がたは、このことを、考えているでしょうか、考えてきたでしょうか。
人命にかかわらない損傷でも、損傷は損傷です。
「人命にかかわらない程度の損傷」と言うとき、その損傷した建物の中に居続けられるか、あるいは、そこから逃げ出せるか・・・、そこまで考えて言っているでしょうか。
考えてみれば、多くの法令に「・・・国民の生命、身体及び財産を保護するため、・・・公共の福祉の確保に資することを・・・」云々同様の文言が必ずありますが、その具体的な方策は語られていない
のが実際ではないでしょうか。

それは何故か?
それは、どのように生き抜けられるかという問題は、この方がたの視界にはない
からです。それは、別の専門家の領域・分野の問題だ・・・。


このことを考えさせるコラム記事が、2月27日付毎日新聞朝刊に載っていました。下記に転載します。


ここには「防潮堤」「防波堤」の例が挙げられています。
「防潮堤」「防波堤」は、通常は、護岸のための一般名詞でありますが、数多く津波被害を被った地域では、「防潮堤」「防波堤」とは、「耐・津波構築物」を意味します。
その場合の「防潮堤・防波堤の設計」も、建物の「耐震設計」が「耐えるべき地震の大きさ」を設定する(仮定する)ことから始まるのと同じく、
「前提」として、防ぐべき波の大きさを設定(仮定)します。そして、「耐えるべき・防ぐべき大きさ」として、過去に経験した「最大値」を計上するのが常です

その値を超える事態・事象が生じるとき、それが「想定外」の事態・事象です
法令の「耐震基準」が、何度も変ってきたというのは、すなわち、想定外の事態・事象が、少なくともその改変の回数だけ過去に起きた、ということに他なりません
ということは、「想定外」の事態・事象の発生の「予想」は、字の通り、想定不能である、ということを意味します。
これを普通は、「自然界には『人智の及ばない』事態・事象が厳然として存在する」、と言います
ところが、何度も書いてきましたが、工学の世界では、「人智の及ばない事象が存在する」、などということを嫌います。科学・技術は何でもできると思い込んでいるからです。

   本当にそう思うのならば、「想定外」は禁句のはずですが・・・。
しかし、この科学・技術への絶大な「信仰」に依拠した「工学的設計」は、
えてして、耐震設計をした建物は(過去最大と同規模の)地震に遭っても安全・安心である、防潮堤・防波堤を設ければ(過去最大と同規模の)津波に遭っても安全・安心である、という「信仰」を人びとの間に、広めてしまうのです。

そして、今回の地震にともなう津波では、人びとが防潮堤・防波堤があるから大丈夫だからと思い込み避難しなかった事例がかなり起きていたということを、先の記事は紹介しているのです。

私は、この記事は、「工学的対策≠安全・安心の策」という「警告」である、として読みました。
そして、「被災者に学ぼう」とする地震学の方法論の「転換」に共感も覚えました。
そして更に、単に当面の震災の被災者に学ぶだけでなく、過去に津波の被害を被った人びとにも学ぶべきなのではないか、と私は思います。
なぜなら、そのような事態に遭うことの多い地域に暮す人びとは、そういうところに暮す「知恵」を培ってきているはずだからです。
本来、人は、どのような地域に暮そうとも、自らが暮さなければならない地域・場所の「特性」を勘案しつつ暮すのが当たり前です。
「特性」とは、その地の「環境の様態・実態」と言ってもよい。
数日前に、ヘリコプターから見た津波の実相が報じられていました。
その中で、「浜堤(ひんてい)」という初めて聞く用語を耳にしました。
河川沿いに形成される「自然堤防」のごとく、海の波により永年のうちに自然に形成される「堆積地」のことのようです。そして、海岸の集落はこの「浜堤(地)」に営まれることが多い、というのも「自然堤防」と同様のようでした
水に浸かったり波に襲われることの多い土地に暮さなければならない場合、当然のこととして、少しでもその状況を避けられる場所を人は探します。比高の高い所です
そういう場所として、「自然に形成された場所」を選ぶのです
それは、単に探すのが容易だからではありません。
「自然に形成された場所」は、形状を維持し続ける可能性が高いことを知っていた
からです。
と言うより、「形状を維持し続けることができるような場所」だからこそ、そういう地形が形成される、ということを知っていたからだ、と言った方が的確かもしれません。
それが、その地に暮す人びとのなかに培われ定着した「知恵」であり、その地に暮す人びとの認識した「その地の特性」に他なりません。
「被災者に学ぶ」とは、その地に暮さなければならない人びとの「知恵」を知ること
そのように私は思います。
   海岸の「浜堤」上の集落立地は、「浜堤」についての「学」の成立以前から存在しているのです。
   縄文・弥生集落の立地も同様です。
   私の暮す地域には、縄文・弥生集落址が多数在ります。いずれもきわめて地盤堅固なところです。
   と言うよりも、私の暮す通称「出島」と呼ばれる霞ヶ浦に突出す半島様の地形自体、地盤・地質ともに堅固であるが故に、その形状を為しているのです。
   現在の地形図で確認すると、この半島は、福島~茨城にかけての八溝(やみぞ)山地から筑波山に至る山系の端部にあたることが分ります。
   山並みという形を維持できるのは、その一帯が周辺に比べ堅固であるからのはずです。
   古代の「常陸国」の「領域」を見てみると、先の山系の東から南側の、太平洋に面した一帯であることが分ります。
   一帯は肥沃で、気候は比較的穏やか。人びとは暮すにはきわめてよい、と判断し、その一帯の比高の高い地に定着したようです。
   古墳の多さとその建設地の位置がそれを示しています。

   群馬県東南部(板倉町など)の利根川沿いに、かつて、屋敷内に「水塚(みづか)」を設けるのが当たり前であった地域があります。
   「水塚(みづか)」とは、屋敷内の一角に土盛りをして、母屋とは別に、そこに二階建ての建物を建て、一階を備蓄倉庫、二階を非常時の住まいとし、
   加えて、軒には小舟を吊り下げている場合もあります。利根川の氾濫時への対策で、小舟は、建物が危険になったときの避難のための用意です。
   留意しなければならないのは、単に盛り土をしているのではない、つまり、単に洪水の予想水位より高ければいい、という判断ではない、という点です。
   氾濫時の利根川の水流をまともに受けない場所を選定しているのです
。それは、現地を見ると納得がゆく。
   いま、「予想水位より高ければいい、という判断」と書きました。
   この「予想水位より高ければいい、という判断」こそが、現在の「工学設計」の拠って立つ「基点・前提」です。耐震設計も防潮堤設計も、皆同じです。
   小舟を吊り下げることまで、考えが及ぶわけもない・・・・


では、建物の設計では、被災者・被災地からに何を学ぶか。
構築物の頑丈さを得る方策、それはその一つではあっても、それで全てではないはずです。
転載した記事の最後に、「歩いて行ける高台に頑丈な小学校を建て、避難所の機能を持たせ、数十年ごとにより頑丈に建て替える・・」という記述があります。
私は、先ず、建設地の選定に心することが第一ではないか、と思います。
同じ高台でも、自然形成の高台と人工の高台では性質が異なります。
自然形成でも、たとえば土石流のつくった高台は、人工とほとんど同じはずです。
つまり、自然形成の場合でも、その土地の「経歴」「履歴」を「理解する」「知る」ことが重要なのではないでしょうか。
いわゆる科学・技術を信じると、とかく、人は何処にでも暮せる、建物は何処にでも建てられる、と考えがちです。その考え方を「学」が率先して正す必要があるように、私は思います。

「人びとの長きにわたる営為に学ぶ」姿勢があったならば、どんな土地でも建てられるのだ、という考えを、人は抱かないはずです。そうであれば、たとえば、低湿地に住宅地を造成し「液状化」に遭遇して慌てふためくなどという事態も起きないのです。
これは、一言で言えば、それぞれの土地の歴史を知ることに他なりません。
先の「浜堤」地に集落が営まれているように、「長い歴史のある集落の立地、そしてそこでの住まいかたは、その地域に暮す人びとの、『その地域の環境特性』についての『理解に基づく判断』の結果を示しているのだ」と、今に生きる私たちは理解すべきなのです。
『その地域の環境特性』とは、「日本という地域全体としての特性」及び「その地域に特有・固有の特性」の両者を含みます。四季があり、四季特有の気候の諸相(たとえば台風や梅雨など)がある、頻繁に地震や火山活動がある、などは前者であり、たとえば台風時の特有な風向き・・、などは後者にあたります。
このようないわゆる「自然現象」に対して、人智で抵抗できると考えるようになるのは(津波には防潮堤を考え、地震には耐震構造を考えるようになるのは)、近現代になってからのこと、それ以前は、人智では対抗できないと考え、そのような自然現象のなかで、如何に生き抜くか、暮し続けるか、に人智をそそいだのです。


「構造力学」は、誕生した当初は、「人びとの為す判断」の「確認」のために機能していたのです。
では、その「人びとの判断」は如何にして為されたのか
それは、人びと自らの「事象の観察」を通して得た「事象についての『認識』」に拠って為されたのです。
その「認識」を支えたのは、「人びとの『直観』」です。
そのために、人びとは「感性」を養いました。「観察⇒認識⇒知恵」、この過程を大事にした、大事に養ったのです。

つまり、「学」が「判断」を生んだのではありません。これは、厳然たる事実です。

本来、諸「学」は、人とのかかわりの下に出発したはずです。
ゆえに先に転載した記事にある「被災者に学ぶ地震学」への「転換」は、
「学問のための学問」から「人にとっての、人としての学問」への転換、「原点への回帰」を意味しているように私には思えました。
建築学もまた、建築学こそ、建築:建物をつくること、その本来の意味を問い直すことを、今からでも決して遅くはない、始めるべきであるように私は思います。

先人の知恵の集積は、例えば、遺跡・遺構や数百年にわたり永らえ得た建物や集落・町・街・・などは、私たちの目の前に多数遺されているのです。
それはいずれも、人びとの営為、すなわち人びとの「認識」「判断」の結果に他なりません。
そこから、私たちは、たとえば地震に対しては、「耐震」ではなく、人びとの「対震」の考え方、その「蓄積」を学べる
はずです。
そしてそこから得られる「知」は、如何なる「《実物大》実験」で得られる「知」よりも、比較にならないほど豊饒である
と私は考えています。

「有識者」「専門家」の言辞に惑わされないために、自らの「感覚」「感性」に、更に磨きをかけたい、と思います。


[追録 8日16.55][さらに一記事を追加しました 12日 9.00]
同様なことを、下記でも書いています。なお、それぞれにも関連記事を付してあります。
想像を絶する「想定外」
此処より下に家を建てるな・・・
建物をつくるとはどういうことか-16
建物をつくるとはどういうことか-16・再び
保立道久著「歴史の中の大地動乱」を読んで
わざわざ危ない所に暮し、安全を願う
さらに関連記事を追加します。
/gooogami/e/dced003d265269bc123c36e66a4f38b9">建物は「平地・平場」でなければ建てられないか
さらに追加[14日 9.15]
取り急ぎ・・・・「耐震の実際」

3月11日付東京新聞社説を転載させていただきます。全く同感です。[3月11日9.27追録]

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建築界の《常識》を考える-1・・・「断熱」「断熱材」という語

2014-01-12 20:33:26 | 専門家のありよう

この冬一番と言われた寒波が通り過ぎた朝のケヤキの梢。
寒々としていますが、近くに寄ると、新芽がふくらみつつあります。



![文言追加 13日 9.00]

建築設計や施工にかかわる方がたが、建築確認申請時の「煩わしさ」について:根本的には、建築基準法およびその関連諸規定に起因する「煩わしさ」なのですが:「愚痴」をこぼしているのをよく聞きます。
一言で言えば、「基準」と称する「規制」が多く、そのなかに、どう考えても「理不尽なこと」つまり「理が通らないこと」が多いからです。

しかし、愚痴をこぼす方がたが、日ごろ「理の通ること」を口にしているか、というと、必ずしもそうとは言えないように思います。建築設計や施工にかかわる方がたの多くが、日ごろ「理の通らない建築用語」、あるいは「理の通らない《常識》」を意に介していないように見受けられるからです。
その状況が、結果として「法の名の下理不尽を蔓延らしてしまっている最大の因」ではないか、つまり、「付け入る隙(すき)を与えている」、専門家であるならば、率先して「理不尽な《常識》」に異を唱えなければならないにも拘らず、むしろその「普及」に手を貸しているのではないか・・・。簡単に言えばいわゆる「オウンゴール」ではないか、と私は思っています。


そこで、ここしばらく、「日本建築構造・中巻」の紹介の合間を縫って、この建築界に蔓延る《常識》について、思うところを書いてみようと思います。
「事例」は、選択に困るほどいっぱいあります。「耐力壁のない建物は地震に弱い」、「瓦屋根の建物は地震に弱い」、「床下の防湿には地面を防湿コンクリートで覆うのがよい」、「(人工)乾燥した木材は伸縮しない」、「防腐剤を塗れば木材は腐らない」、「太い木材を使えば頑丈になる」・・・。

そこで、これらの事例のなかから「代表的な」いくつかを選び、それについて書くことにします。当然、既に何度か書いたことと重複する点がありますが、ご容赦ください。


今回取り上げるのは、「断熱」「断熱材」という用語。

この用語は、今や、建築関係の方がただけではなく、一般の方がたの間でも広く通用しています。
住宅はすべからく「断熱性能」が求められる、あるいは、住宅は「高気密・高断熱」が肝心である・・・・。
これらは、住宅メーカーの広告では、「耐震」とともに多く見られる用語です。しかも、建築関係者・専門家も、あたりまえのように使っているために、世の中に、多くのそして大きな「誤解」を広めている用語である、と私には思えます。

漢字は、言うまでもなく「表意文字」。したがって、「断熱」とは、「熱を断つ」という意、「断熱材」は「熱を断つ材料」との意になります。
しかし、英語では、断熱は“Thermal insulation”そして、「断熱材」は“ Materials used to reduce the rate of heat transfer”になるはずです。つまり、「熱の移動する割合を減らすような材料:熱伝導率の小さな材料」のこと。
残念ながら、漢字の「断熱」「断熱材」からは、 to reduce the rate of heat transfer の意が「読み取れない」のです。
一言で言えば、英語圏では、「断熱可能な材料など存在しない」ことを前提にしている。
漢字圏でも、それは同じはずです。だから、本来、漢字には「断熱(材)」という語彙はなかったと考えてよいでしょう。
正確に伝えるのであるならば、「熱移動低減材」あるいは「熱移動緩衝材。
「保温材」「保冷材」の方が「断熱材」よりもマシかもしれませんが、それでも「温度を一定に保ち続ける材料がある」かのような誤解を生む・・・。
もしも、(完全に)「断熱」「保温」「保冷」可能な材料が存在したならば(そのようなイメージをこれらの語は与えるのですが・・・)、「世の中の常識」はひっくりかえるでしょう。
ところが、そのようなイメージ・誤解を蔓延させながら、「断熱」の語が大手を振って世の中に出回っているのです。
しかも、「専門家」であるはずの「建築界の方がた」の誰も、おかしいと言わない・・・。不思議です。 
   私が学生の頃は、「断熱」ではなく「インシュレーション」という呼称が使われていたと思います。適当な語がなかったのです。
   おそらく、「断熱」という語は、理工系の現代人が造った和製漢語ではないでしょうか。
   なぜなら、明治人ならば、このような誤ったイメージを生む語は造らなかったと思えるからです。
   明治期に造られたコンクリート⇒混擬土などは言い得て妙な造語ではありませんか。
   多分明治人なら「インシュレーション」に絶妙な漢字をあてがって済ましたかもしれません。
     「断熱」は、木造軸組工法を「在来」工法と読み替えた《企み》と同趣旨の造語ではないか、と私は推測しています。
     そして、こういう語を発明した方がたの「思考」法に、「原子力ムラ」の方がたと同じものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。

そこで、なぜこれほどまでに「断熱」という《概念》が《一般化》したのか、知っておいた方がよい、と思いますので、かつて(2005年)、茨城県建築士事務所協会主催「建築設計講座」のために作成したテキストから、当該部分を抜粋して転載させていただきます。
 


驚くべきことは、1980年の「指針」で「断熱材」が推奨されて以来、「現場」から、木造建築での壁内等の腐朽の急増が指摘されていながら、指針の見直し(それも十分とは言えない内容)が為されたのは1999年、つまりほぼ五分の一世紀後だったということ。その間、多くの建物をダメにし、なおかつ「現場」を大きく混乱させ、その「混乱」は現在にまで及んでいるのです。
今、建築に関わる方がたで、上記の「経緯」をご存知の方はどのくらい居られるでしょうか。「経緯」を知らぬまま、「断熱」の語に振り回されている、というのが「実情」ではないでしょうか。

私は、居住環境を整えるにあたり、「インシュレーション」について考えることは重要なことだと考えています。
しかしそれは、「断熱材」を如何に使うか、ということではないはずです。
そうではなく、「インシュレーションについて考えること」とは、居住環境の熱的性質の側面について、熱の性質に基づいて考えることであると私は考えています。

ところが、「熱」というのは、きわめて分りづらい「対象」です。
温度と湿度の関係、それに材料・物質自体の性質が微妙に絡んでくる。これを「立体的に」把握することは容易ではないからです。
たとえば、南部鉄器や山形鉄器製の急須は、鉄だからすぐに冷めるように思えますが、陶磁器製のそれよりも湯冷めしにくい、という特徴があります。この理由を説明するのはなかなか難しい。
あるいはまた、「土蔵や塗り壁づくりの建物の内部が恒温、恒湿なのはなぜか」、そしてまた「土蔵の壁や煉瓦造の壁は、RC壁造の壁に比べ、日差しを浴び続けても熱くなりにくいが、それはなぜか(土、煉瓦、コンクリートの比熱:温まりやすさ:は大差ないのです!)」・・・この説明も難しい・・・。


   ここに掲げた「指針」の場合、居住空間の「室温」をいかに「閉じ込めるか」「一定に保つか」という一点に「関心」が集中したこと、
   つまり、「現象」を単純図式化した結果、いろいろな問題を起こしたと考えてよいでしょう。
   そのとき、特に、「木材の特質」を無視したことが問題を大きくしています。

そこで、前記講座のテキストに、一般的な熱の性質の「指標」である「熱伝導率」と「比熱」を諸物質・材料についてまとめてみた表がありましたので、以下に転載します。ただし、これによって、何かが分る、というわけではありません。あくまでも「概観」です。



熱伝導率は、註に示したように、置かれた「環境」の温度・湿度で異なる、という点に注目してください。一筋縄ではゆかない証です。
参考として挙げた塗り壁(土壁)、煉瓦壁の特徴も、「熱」の問題が、単純ではないことの一例です。
   瓦の土居葺きも、土壁と同じ効能を持っていたのかもしれません。
往時の人びとの建物づくりでも、当然、居住空間の熱的側面も、工夫の対象であったと考えられます。しかし、これらの工夫は、架構の工夫などに比べ、「見えにくい」、つまり「分りづらい」のです。塗り壁づくり、土蔵造りなどは、比較的「見える・分る」事例なのでしょう。「越屋根」なども、その一つかもしれません。
   
   土蔵の詳細については、「近江八幡・旧西川家の土蔵の詳細」で、土蔵の屋根の施工詳細は「西川家の土蔵の施工」で紹介しています。
   この例は、直に瓦を葺いていますが、別途土塗屋根上に木造の小屋・屋根を造ることがあります。かつて、東京・杉並の農家の土蔵でも見かけました。

屋根面のインシュレーションについては、これまで私も、いろいろ試みてはきましたが、どうするのがよいのか、未だに確信を持てていない、というのが正直なところです(壁は、大抵漆喰真壁なので、施さない場合がほとんどです)。
「棟持柱の試み」で紹介の例では、二階は天井を設けない屋根裏部屋の形ですが、屋根面からの熱射を避けるためのインシュレーションは、屋根面(天井内)の空気をドラフトで越屋根部で排出する方策を採っています。その設計図が下図。
   天井は、垂木下面に杉板を張り、野地板と天井板との間の空気を排出する方策です。同じく、野地板と瓦の間の空気も排出しています。
これは、「煉瓦の活用」で紹介した事例で最初に行った方策の継承。いずれの場合も、一定の効果はあり、屋根直下の部屋でも夏、熱射により暑くはなっていません。
   室内は、越屋根の欄間の開け閉めで通風を調整しています。ただ、建てつけの悪さと、収縮により、隙間風で冬季は寒い![文言追加 13日 9.00]

ところが、同じ考えで、仕事場兼自宅の屋根で、下図のように、棟押えの部分に下図のような細工を施しましたが、ここでは、あまり効果がありません。屋根裏部屋は、夏暑くなるのです。

この違いは、ドラフト効果の大小だろうと推測しています。
越屋根に施した例では、通気孔は20mm径@約45㎝、棟板押えの場合は、棟のほぼ全長にわたって排気用の空隙がある。
考えてみれば当然なのですが(後の祭りとは、まさにこのこと!)、前者の方が排出孔が小さい分、ドラフトの速度が大きくなる。つまり、空気がよく流れる。
   工事中に、タバコの煙を流入口に近づけると、勢いよく流れたことを覚えています。
それに対し、後者の場合、排出孔が大きいので流れが遅くなり、その分熱せられた空気の滞留時間が長くなるからだ、と思われます。
排出口を限定すれば(小さくすれば)、多分改良されると考えていますが、未実施、つまり確かめていません・・・・!   

  
もう少し、往時の人びとの surroundings の熱的側面への対応のありようについて学習しなければ、と思いつつ、長い間疎かにしてきてしまっているのです。
往時の人びとの知恵に学びたい、と思っていますが、とっかかりが分らない・・・。とにかく、事例を集めることかな?
寒冷地にお住まいの方、是非ご教示願います。(暑い地域の対処法はおおよそ推測できますので・・・)![文言追加 13日 9.00]
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「ここに、《建築家》は、要らない」 

2012-09-17 15:25:32 | 専門家のありよう

       滝 大吉 著 「建築学講義録」第一章 建築学の主意
蔵書印で隠れている箇所を補うと、以下になります。
  建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
  成丈恰好能く丈夫にして無汰の生ぜぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問にして・・・

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[文言補足 18日 2.30][文言追加 18日 7.17][文言補足 18日 10.07]

先日、ある市役所に勤める方からメールをいただきました。
同意をいただきましたので、その一部を紹介させていただきます。場所や人物が特定されないように加工してあります。
   ・・・・・   
   今日、〇大学の若手の〇先生の話を聞きました。
   〇市役所(の建物)は〇さんの「作品」で、とてもすばらしい。
   あなたの市(私の勤め先)でも〇さんを呼んで設計してもらったら?
   と言われ「カチン」ときました。
   これまで、設計者は施主の要望を超えた設計をしないといけない、と思っていましたが、
   今日の話で変わりました。
   それは、施主(市民)は、今流行りの一「建築家」の思惑通りに動かされているだけ、
   つまり、施主を含めて「作品」の一部にされてしまっているだけ。
   それではだめなんではないだろうかと。 

   「建築家」がいなかった時代にも建物や街が美しかったように、  
   そのような時代の人びとが持っていた感覚をもって、
   「建築家」の思惑を超えないといけないんではないかと。
   「建築家」がいなくてもいい建物や街ができるんだ!ということを
   いつか○先生に言ってやりたいと思いました。

   こんなことを考えて、なかなか涼しくならない私でございます・・・
   ・・・・・

たとえば、F・L ライトが設計・計画に関わった建物について、あるいは構想段階の様子について、それらに係わる諸資料(設計図のコピー、スケッチのコピー、あるいはできあがった建物の写真など)を編んだ書物を、通常 F・L ライトの「作品集」と呼んでいます。
同じように、ある彫刻家の制作した彫刻の写真やデータなどを編纂した書物も「作品集」と呼ぶことがあります(美術館ではカタログ:目録などと呼ぶようです)。絵画の場合も同様です。

では、ここで常用される「作品集」の「作品」は、ライトの場合(つまり、建築に係わる場合)と彫刻、絵画などの場合と、同じ意で扱えるのでしょうか。扱ってよいのでしょうか。

紹介したメールの内容を理解するためには、この点について考えてみる必要があると思います。
すなわち「作品とは何か」。

「作品」を英語では work と言うようです。
   作品:製作物。主に、芸術活動によって作られたもの。文学作品。(広辞苑)
   作品:心をこめて制作したもの。狭義では、文芸・美術・工芸など芸術上の制作物をさす。(新明解国語辞典)
   work:④a 細工、製作 b(細工品・工芸品・彫刻などの)製作品
       ⑦(芸術などの)作品;著作、著述 特定の個々の作品をいう場合は
         a picture by Picasso のように言うことが多い。・・・・(新英和中辞典)
では、ここにでてくる「芸術」「芸術活動」とは、何を言うのでしょうか。
   芸術:①技と学[後漢書 孝安帝紀]
       ②(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、観賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。
        絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを       
        指す場合ももある。(広辞苑)
   芸術:一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人生の哀歓などを美的表現にまで高めて
       描き出す人間の活動と、その作品。文学・絵画・彫刻・音楽・演劇など。(新明解国語辞典)
   art :①芸術;美術・・・②専門の技術、技芸;技巧、わざ、腕・・・(新英和中辞典)

広辞苑の解説では、「観賞的価値の創出・・・」の活動・所産とし、絵画、彫刻、工芸、詩、音楽、舞踊と並んで「建築」が出てきます。
つまり、「建築」も「観賞の対象」として見なされています。
おそらく、これが、現在の世の中の理解・解釈の大勢なのかもしれません。

しかし、「建築」は、他の絵画・彫刻・工芸・詩・音楽・舞踊などとは、決定的な違いがある、と私は考えています。
それは、他がすべて、それに関わる「個人」の、いわば「思い通りになる」ものであるのに対し、「建築」はそうではないからです。
「建築」の場合、自らが自らの思いを実現すべく身銭を切って作品の制作に関わる場合を除き、制作物は制作者個人の思い通りになるものものではない のです。
言い方を変えれば、建築は、必ず他者に関わる、あるいは、他者が関わる、ということです。
単なる観賞の対象として、一個人によって、その個人の「表現」の為に、制作されるものではない、のです。[文言補足 18日 2.30]
   「建築」という語は、古くから存在する語彙です。
   しかし、明治以後(正確に言うと明治30年:1897年以降)、この語は、ARCHITECTURE に対応する日本語として
   使われるようになります。
       現在では、漢字を用いる諸地域で、同様の意に使われています。
    本来の「建築」は、字の通り、建て築くこと、すなわち build を意味します。
    ARCHITECTURE の当初の訳語は「造家」でした。それを「建築」に変えよう、というのが伊東忠太の提言。
    その提言からの字が取去られて現在の「建築」が生まれてしまったのです。
    研究社の「新英和中辞典」では、ARCHITECTURE :建築術、建築学 とあります。
    これは多分、英語の原義に忠実な訳だと思います。
    そういう理解・認識が日本では欠けているように思います。
    なお、このあたりについては「日本の『建築』教育」「実業家:職人が実業家だった頃」で触れています。

現在、多くの建築に関わる方、特に「建築家」を任ずる方がたの多くは、「建築の設計」とは(私の常用語で言えば「建物の設計」とは)、絵画・彫刻などのいわゆる「造形芸術」と同じく、「自ら(の独自性・個性・考え・・・)を表出する、表現すること」だ、と考えておられるのではないでしょうか。つまり、広辞苑の解説そのまま。
それはすなわち、「実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って(よって)真美を発揮するに在る」という「理解」にほかなりません。   
この文言は、伊東忠太の「造家」を「建築術」に改めよ、との提言趣意書にある一節です。
彼は、なぜ「造家」の語を変えたいと考えたのか。
この文言は、次の一節に続きます。
「・・アーキテクチュールの本義は啻に(ただに)家屋の築造するの術にあらず・・・」。
そして更に次のように続けるのです。
「彼の墳墓、記念碑、凱旋門の如きは決して家屋の中に列すべきものに非ざるなり。・・・」
つまり、「家屋の築造」などはいわばマイナーなもの、というわけです。
これは推測・憶測ですが、彼が「家屋」「造家」を嫌ったのは、家屋、造家には、必ずそこに住まう人が、非常に具体的な人が、居るからではないか、と思います。
具体的な顔を持つ人びとにかかずらうことは、「創作」すなわち「我が表現」の邪魔にしかならない・・・。だからこそ「実体を建造物に藉り・・・」という文言が挟まれることになるのではないでしょうか。
建造物には必ず他人が居る。まともにそれに係わっていたら、思うようにならない。それゆえ実体を建造物に藉りることになったのです。
   伊東忠太が教育に携わった時代の建築教育では、「どのような意匠の」建物にするか、に集中しています。
   「意匠」とは、簡単に言えば、形体のこと。当時では西欧の「様式」に拠る形体が中心。
   東京大学建築学科図書室には、当時の学生の図面がいくつか保存されていますが、その中には、
   立面図に、この立面の建物をいかなる用途の建物に供すべきか、を書き記したものが多数あります。
   これは裁判所向き、・・・などという詞書(ことばがき)です。
   しかし、そのいずれにも平面図はありません。
   では、何をもって立面が決められたのか?
   おそらく、彼の地の建物の写真、図、図面などがモデルだったのでしょう。
   伊東は「意匠至上主義の時代でより多くヨーロッパ趣味をあらわしたものが、よりよい建築である」、と
   述べているそうです。(岸田日出刀著「伊東忠太」)
では、こういう時代の教育を受けた方がたの設計した建物は、出来が悪かったでしょうか?
必ずしもそうではありません。むしろ、使える建物が多い。今話題になっている大阪の中之島にある図書館(下図)などもその一つではないでしょうか。

                      鈴木 博之・初田 亨 編「図面に見る都市建築の明治」(柏書房)より転載編集

しかし、現在の「建築家」の設計した建物は、その多くもまた「実体を建造物に藉り」我が意の発露に心したものではないかと思いますが、大半が使える建物ではない、と言ってよいと私には思えます。そして、寿命も短い。
この違いは何なのでしょう。
それは多分、明治初頭に生きた方がたには、人の世についての「素養」があったからだと思います。それは、江戸時代の人びとならあたりまえに持っていた「素養」(明治初頭の事業に携わった渋沢栄一や久原房之助といった方がたも同じだったように思えます)。
つまり、その建物は人びとにどのように使われるか、について、あたりまえのこととして一定程度分っていた。その「程度」は、現在の「建築家」のそれとは比較にならないほど高かった、と言ってよいのではないでしょうか。
多くの職人の方がたに読まれた「建築学講義録」では、「いかにつくるか」が述べられ、「何をつくるか」については触れていません。
これも、当時の職人の方がたにとって、「何をつくるか」は自明のことだったからだ、と考えられます。
なぜなら、職人:専門家は、常に人びとと共に在ったからです。

現在の「建築家」を任じる方がたの多くは、自らを表現すること、それをより高めることに「熱中」し、人の世は、「彼らが意匠の運用で真美を発揮するために藉りる『実体』」を提供してくれるものに過ぎない、と思っているのかもしれません。人びとと共にいる必要はない、のです。むしろ鬱陶しい・・・。

いったい、彼らがつくる建物:作品は、何なのでしょう。
     

9月11日付の毎日新聞夕刊に、「第13回 ベネチア・ビエンナーレ国際建築展 報告」という特集ページが組まれていました(全文は、毎日 jp でアクセスできると思います)。
タイトルは「注目された『人間性』」。日本からの出展のテーマは「ここに、建築は、可能か」であったとのこと。そして、展示責任者は某「建築家」。
記事の中に、ある「建築評論家」の言が紹介されていました。
「(彼は)世界的に評価の高い日本の建築家の中で、最先端を歩む表現者の一人。その彼が大震災を機に建築を根本から見直すというのは『事件』だった。」
この発言の紹介のあと、記事は次のように続きます。
「・・・今回、社会との関係が問い直されたことも大きい。(今回の)総合ディレクターが掲げた全体テーマは“ common ground ”。歴史や文化など、建築と人々の『共通基盤』を再発見する狙いが込められている。アート色が強かった前回に比べ、全体に堅実な内容に仕上がった。・・・」
   「事件」については、「理解不能」で触れています。

この「報告」は、建築に係わる多くの方がたに特有の、言わんとすることがよく分らない文章でした。
  たとえば、アート色とは何だ、art とは違うのか同じなのか、一体何なのか?
  「注目された人間性」って何?
  「建築と人々の『共通基盤』を再発見する・・」って何?
  今まで、建築と人びとはどんな関係にあると思っていたの?・・・などなど

そして、「根本から、0から見直した」結果が今回の展示なのだとすれば、何ら「見直し」がなされていないのではないか、単にこれまでと「目先」が変っただけなのではないか、と私には思えました。
なぜなら、根本から見直したのならば、それを展示するなどということに至るはずがないからです。
まして、「ここに、建築は、可能か」などとは言わないはずです。言えないはずです。
メールにある「・・・施主(市民)は、今流行りの一『建築家』の思惑通りに動かされているだけ、つまり、施主を含めて『作品』の一部にされてしまっているだけ・・・」という「指摘」は実に的を射ているのです。[文言追加 18日 7.17]
私には、黙々として、外からの「評判」など一切気にせず、今なお支援活動を続けておられる多くの無名の(名が広まることなどは無用と考える)方がたに対して極めて失礼な行動に見えてしかたがありませんでした。[文言補足 18日 10.07]
「ここに、《建築家》は、要らない」のです。

かつて、私が、学生の方がたに必ず最初に言ったのは、建物の設計は、設計者の(個性)表現のための造型制作ではない、ということでした。
建物の設計で、設計者が名前を表わす必要はない、と私は思っているからです。ただ、責任をとるだけ。

冒頭のメールにあるように、私たちが、「素晴らしい」と思う古の建物や街並みを、誰が設計した、などと問いますか?まして、誰それの設計だからいいんだ、などと思いますか?

私が「設計したのは誰だ」と知りたくなるのは、ここをどうして、何を考えてこうしたのだろう、と気になったようなとき。
それは大工さんかも知れず、建て主さんかも知れません。そしてその誰もが、生前に、俺がやった・・・などとは語ってくれてはいません。だから、通常、それが誰だか分りません。
これはかつての「専門家」の間では、あたりまえだったように思います。
その極めつけは、「地方巧者」ではなかったか、と私は思っています。

むかしむかし、芸術系の大学の建築教育は、工学系の大学のそれとは異なり、もっと art 的、design 的な側面が全面に出るべきではないか、と問う学生がいました。
私は、art や design の語を説明するのではなく(それをやっていたら時間がかかり面倒なので)、次のように問い直しました。
「あなたは建物をつくる専門家になりたいのでしょう?」
学生「そうです」
私「建物をつくる、ってどういうことかなぁ」
それで終り。

私は、「建築家」や「建築評論家」・・・を任ずる方がたに、同じように訊ねたいのです。
建物をつくる、ということを、どのように考えておいでなのですか、と。

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感想:「分別」のコスト

2011-08-24 11:30:01 | 専門家のありよう


これから更に厚く深い暗雲に覆われるのか、それとも雲が取れ、光明を見出せるのか・・・。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[リンク追加 27日 9.45][リンク追加 9月3日 19.08][リンク追加 13日19.02]

数日前の毎日新聞に、原発の「廃炉」のプロセスと、それに要するコストについての詳しい解説が載っていました。
毎日jpにも載っています。下記です。

福島には、分別のない人たちの為した「計画」のせいで、無住の地、居住不可の地が生じてしまうようです。

当地の「ごみ」の分別収集はかなり徹底しています。
しかし、これを読むと、原発推進を進めて来られた方がたの、分別のなさが、よく分ります。これに要する費用は、一体誰が負担するのでしょう?!
そして、それ以前に、この方がたの分別の責任は?
こういった方がたをこそ分別しなければならないのでは・・・。

特集ワイド:福島第1原発廃炉 年月も費用も「未知の領域」


なお、ついでに、下記も載せます。
「風知草」

共感を覚える発言をされる方へのインタビュー記事がありましたので追加。[追加27日 9.45]
「この国は・・・」 

原発事故収束には、放射能を帯びた土等々の処理が問題になります。どこにそれを置くのか。この問題についての「反応」に対する香山リカ 氏の発言をリンクします。[9月3日 19.08]

gooニュースで紹介されてiるイギリスの新聞ガーディアンに載った記事。[リンク追加 13日19.02]

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感想・・・・続々・素晴らしい論理

2011-07-20 19:31:13 | 専門家のありよう
今月いっぱいに何とか恰好をつけたい設計、暑さと湿気の中で、まさに追い込みの最中。
そんなわけで、「『形』の謂れ-6」の編集、遅滞しています。
ことによると、月末まで、できない・・・。

下図は、いずれ紹介させていただくつもりでいる DAVID MACAULAY 著 “CITY’に載っている古代ローマの木造橋建造の様子。



  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[追録追加 21日 6.17、24日 9.59]]

今日(20日)の毎日新聞に、経団連の会長とのインタビュー記事が載っていました。

会長曰く(要約です)、
  脱原発が進み、おまけに、再生エネルギー買取り法案などが通れば、
  電力が不足し、電気料金は上がり、企業は海外に出ざるを得なくなり、
  日本の産業が国際競争力を失う。
  そんなことを進めたら、「国敗れてソーラーあり」という世の中になる・・・・。

これは、最近の経済産業省の大臣の発言:日本の産業が空洞化する、だから、原発を・・・という素晴らしい論理と、軌を一にしています。
   私は、海外に出て行きたいなら、勝手にどうぞ、と思っています。
   それでは国内の仕事が減り、「国民」が困るぞ、などというのは、勝手。
   国内にいたくないのなら、どうぞ。
   その国外だって、いつまでも廉い電力が得られるとは限らない。
   そしてまた、廉い国へ出てゆく・・・のですね。
   そうして、「根無し」になる・・・。それでいいのでしょう。
   「その先」がない。これは論理的必然。

こういうことを言う人たちには、福島原発事故で居住地からの避難を余儀なくされている方がたの姿が目に見えないのでしょう。

同じような事故が起きたら(起きないという保証は、これまでの《安全神話》のように、「起きないと思い込む」以外、まったくない)、
「国敗れて、原発(のみ)あり」ということ。人が居ないのです。居られなくなるのです。
「国敗れてソーラーあり」ならば、人が居ます。居られます。
この違いが分っていない。
「分る」のは、どれだけ「儲け」が出るか、だけの《計算》。

もしかしたら、人の住めなくなった一帯の地価が安くなるはずだから、買い占めて、放射線量の減った将来、工業用地にしよう・・・、などと考えているのでは、と思いたくなります。《安全な原発》を新設して・・・。
だけど、そこで、誰が働くのでしょうね?
廉い労働力を、安全だからと説いて、支援・協力という《大義》で、海外から人寄せする?

私にはよく分らないのが、最近の大方の「企業」の、「生産」に必要なものは、自前ではなく、他に廉く求めて、「利」を得る、という発想。簡単に言えば、楽して儲けるという策。
例えば、工業用地。主要な設備が整っている用地を求める。整っていなければ、地域の自治体に、その整備を望む。してくれなければ、立地をやめる。・・・
いつから、こうなってしまったのだろうか。

それについて思い出すのは、明治の企業人の考え方。
たとえば、足尾鉱山の経営と小坂鉱山の経営の違い、そのあたりに「起源」があるのかもしれない、そう思えます。

片や汚染水垂れ流し、指摘されても直さない。どこか、東電に似ていますね・・・。
片や、最初から汚染防止の策を講じた・・・。こういう企業、今、あるのかなァ?

発電機、発電所、いろいろな機械、建材(煉瓦など)、水道、住宅、病院、学校・・・こういった必要なもの一切を自前でつくったのが小坂。
これについては、下記で書きました。
「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山

同じことは、鉄道建設の変遷にも現れているように思います。
現在、「儲からない」鉄道路線は(もちろんバス路線も)直ちに廃止する、それが当然と思われています。
しかし、ある時代までは違いました。
これについては、下記を。
鉄道敷設の意味:その変遷-1
鉄道敷設の意味:その変遷-2
鉄道敷設の意味:その変遷-3

喜多方の煉瓦蔵がどうして生まれたか、それも、往時の人びとの考え方の結果。
「実業家」たちの仕事-1
「実業家」たちの仕事-2

「近江商人」の考え方も、現代の大方の「商」の考え方とは、雲泥の差。
これについても以前に触れました。
近江商人の理念

明治維新が目指した「いわゆる《近代》」とは、「今」のような「世界」「社会」になることが「本望」だったのでしょうか?


経団連の会長さんや、東京電力・九州電力の会長・社長さん、もちろん、偉い大臣たちに、「お幾つになられました?」と訊きたくなります。
なぜなら、「理」の通らない「素晴らしい論理」で、平然として、あたりまえの顔をして、いろいろと語っていらっしゃる。
いい歳をして・・・・!

それとも、こういう私が時代錯誤なのでしょうか?

追録 [21日 6.17] 
  註 以下のリンク先は、削除されたようです。[10月29日 11.20追記]
毎日JPに、「どうする電力総連:経営者と一体で原発推進の果てに・・・誰が命を護るのか」という特集記事が載っています。
東電の労働組合も傘下にある「電力総連」の原発事故に対する「対応」について、書かれています。
「電力総連」支援で当選の参議院議員の素晴らしく怖ろしい発言には、心底驚きます。

追録-2 素晴らしい発想 [24日 9.59] 
「誰が原発の天井に穴をあけるのか・・・」

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参考:「評価」の内容・・・・ご都合テストで「評価」して 再稼動?!

2011-07-12 12:05:03 | 専門家のありよう
ムクゲ、満開になりました。これから、次から次へと咲き続けます。



  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「化学業界の話題」というブログの11日に発表された「政府の統一見解」紹介記事の中に、
EUの「原発ストレステスト」の詳細が載っていました。

文中に、
「3月11日の福島の事故を受け、この事故を教訓に同様の事故がEUで発生しないよう、すべての原発を再評価するもので、早くも3月25日に欧州委員会でこの問題を議論し、EUの全ての原発のストレステストを行うことを決めた。」
とあるように、
EUでは、4ヶ月ほど前に原発の「安全」について、検討が始まっています。

その間、手を拱いていた日本で、突然のように浮上した日本版ストレステストがいかなるものになるのか、
比較するために、以下に、そのまま転載します(読みやすいように、段落を変えてあります)。
  どうやら、日本版ストレステストは、
  「再稼動」が「目的」の non scientific な《テスト》になりそうです。
  「普通の人びとの原発事故によるストレスが、いかに増大するかを評価」するためのテストになるのではないでしょうか。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  EUは、域内の原発143基のすべてについて6月1日からストレステストを行っている。
  3月11日の福島の事故を受け、この事故を教訓に同様の事故がEUで発生しないよう、
  すべての原発を再評価するもので、
  早くも3月25日に欧州委員会でこの問題を議論し、EUの全ての原発のストレステストを行うことを決めた。

  EUは「福島事故で、考えられない事態が起こること、
  2つの自然災害が同時に起こること、
  全電源の喪失が起こることを学んだ」としている。

  テストは包括的なもので、以下の事態に耐えうるかどうかを調べる。

  ①天災
   地震、洪水、極端な低温、極端な高温、雪、氷、嵐、竜巻、豪雨、その他
  ②人の起こす危険(失敗、行為)
   飛行機墜落、原発近辺での爆発(ガスコンテナー、近くでのタンカー爆発)、火災。
   テロ攻撃(飛行機での突っ込み、爆弾)

  地震に関しては、操業前に、過去の地震を参考にし、
  その地域で予想される地震に耐えられるかどうかについてはチェックを受けている。
  しかし、福島の例で、過去にその地で起こったよりも強い地震がありうることが分かった。
  このため、Richter scale 6に耐えうるとして設計された原発は、それ以上の地震にも耐えられるかどうか、
  即ち、すべての安全機能が稼働するか、安全に停止できるか、電力の供給は十分か、
  放射性物質が放出されずに閉じ込められるかどうかをチェックする。
  洪水や、他の天災についても同様。

  電源に関しては、どんな事態でも、電源がカットされた場合に十分なバックアップ電源を持つこととしている。
  数日間電源がカットされても大丈夫か、
  最初のバックアップのバッテリーが動かない場合にどうするかなどにも答える必要がある。

  飛行機墜落(災害、テロとも)については、原発の格納容器が厳しいダメージを受けるかどうかをチェックする。
  そのため、材質、壁の厚さ、接近する飛行機の重量、スピードなどを検討する。

  ドイツは最近の専門家による安全検査の結果、南部にあるビブリス原発など4基が、
  飛行機の墜落に構造的に耐えられないと判定されている。

  爆発、火災についても同様。

  このほか、テロ攻撃に対する予防措置が検討されるが、これは各国のセキュリティに関するもので、
  公表できないという理由で(ストレステストは全て公表される)、「専門家委員会」を別途設置して調査する。

  テスト方法については欧州委員会とEuropean Nuclear Safety Regulators' Group (ENSREG) とで協議して決めた。

  ストレステストは3段階で行われる。
  ①Pre-assessment
   原発の操業責任者がストレステストの質問に答え、証明する資料や研究、計画を提出する。
  ②National Report
   各国の規制当局が上記回答が正しいかどうかチェックする。
  ③Peer reviews
   多国籍チームが②をレビューする。
   このチームは欧州委員会の1人と27か国の規制当局から6人の合計7人から成る。現地訪問も行う。

  ストレステストは2012年4月末までに完了する。
  ストレステストの結果を受け、各国はどうするかを決定する。
  その国の責任ではあるが、
  EUとしては、対応が技術的にか、経済的にかでできない場合、停止されると信じるとしている。
  報告は公表されるため、停止しない場合にはその国は国民に理由を説明する必要がある。
  欧州委員会はまた、EU域外の諸国(スイス、ロシア、ウクライナ、アルメニア)の原発事故の影響を受けるため、
  各国と原発の再評価の話し合いをを行っている。
  各国とも前向きで、ロシアは既に国際的な核の安全のフレームワーク作りの具体的提案を行っている。

  欧州委員会は更に、IAEAや途上国に対し、安全レビューや国際的な枠組み作りの協力の用意があるとしている。

  付記 
  アルメニアの原発は「EU全体にとって危険な存在」とされている。
  旧ソ連の第一世代型VVER440/V-230タイプの耐震性を改良したV-270型で、Metsamor に2基あった。
  出力はそれぞれ40.8万Kwで、1号機は1977年から、2号機は1980年から操業を開始した。
  1988年12月7日にアルメニアで地震が発生した。
  地震による被害はなかったが、原発からスタッフが逃げてしまい、原子炉加熱の危機も生じていたとされる。
  旧ソ連閣僚会議はアルメニア原発の停止を決め、1989年に2基とも停止した。
  その後、アゼルバイジャンとアルメニアの戦争が起こり、
  自国に化石燃料をもたないアルメニアは化石燃料をまったく輸入できない状況となった。
  このため、6年半にわたり、極度の電力不足の状況となった。
  アルメニアは1991年末に旧ソ連から独立し、原発の運転再開と新規建設への支援を西側に求めた。
  米・仏・露社の技術支援を得て、1995年11月に第2号機の運転を再開した。
  EUは2004年までに閉鎖することを求めたが、現在も運転を続けている。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

残念ながら、ジャーナリズムは、「一般」向けに、上っ面だけしか報じていません。
以下は、NHK online にあった解説。

  欧州連合(EU)が実施している原発のストレステストでは、他国の専門家を含めた相互評価が実施される。
  EU=ヨーロッパ連合の「ストレステスト」は、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、
  これまで想定していなかった事態も含めて原発の安全性を再確認する評価の仕組みで、
  5月にテストの実施について合意し、域内にある143基すべての原子力発電所が対象となっています。

  テストでは、地震や洪水などの自然災害で異常事態が発生した場合の備えなどについて評価するほか、
  発電所の近くでの火事や爆発、それにテロ行為なども想定することにしています。
  そして、外部電源やバックアップの発電機などすべての電源が失われた場合や、
  冷却水が失われるケースなど、炉心冷却の機能が失われた場合の備えについて
  評価することを義務づけています。
  ストレステストは先月1日から始まり、このうち第1段階のテストは、EUが定めた手順書に従って
  原発を運営している企業がみずから行ったうえ、10月31日までに報告書を提出します。
  この報告書を基に、各国の原子力規制当局が12月31日までに第2段階の評価を行ったあと、
  各国の代表などからなるチームが最終となる第3段階の評価を行います。第3段階の評価を行うチームは、
  実際に原子力発電所への立ち入り調査を行う権限も与えられていて、来年4月末までに最終的な報告書を作成し、
  EUの首脳会議に提出することにしています。
  最終報告書では、ストレステストを通じて明らかになった問題点とともに、
  その対処方法についても盛り込まれることになっていますが、
  EUでは、多額の費用がかかるなどの理由で対処が不可能な問題が分かった場合には、
  その発電所を閉鎖することもやむをえないとしています。

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感想・・・・続・素晴らしい論理

2011-07-05 21:35:56 | 専門家のありよう


舌を噛みそうな名の花にきているキアゲハです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[リンク追加 6日 23.18][追記 8日 19.29][追記 9日 12.30]

九州電力の玄海原発の地元の町長が、再稼働を認める発言をしています。
曰く、安全性を国が保証しているから、そして、再稼働しないと《経済》が衰退するから、と。
これは、安全と考えているから安全だ、といういかんともしがたい詭弁の《論理》を鵜呑みにした結果です。
おそらく、財布の中身が心配で、福島の現状には思いが至らないのでしょう。
そんなことより、予算の60%を占める原発がらみの「現金」の方が大事、という論理。

当の九州電力の会長さんは、世の中の「脱原発」の動きは、「風評」によるものだ、と仰せられていました。われわれは「風評被害」を蒙っている、と言いたいのかもしれません。
これは、何処かの政党の偉い方の仰せられた、「これは集団ヒステリー」、との言に一脈通じます。
極めつけは、東電会長の、想定外の天災なのだから免責を・・・、という願望。


なぜ、原発立地町村が、偏在しているか。
それは、それぞれの町村が、財政的に苦しいからにほかなりません。ところが、原発立地を認めるだけで多額の「現金」が降ってくる。

では、なぜ、それらの町村は、財政が苦しいのか。
それは、「富」が都会に、特に大都会に集中する「構図」になっているからです。
財政的に苦しい町村をつくっておいて、「富」の集中する大都会の「消費」のためのエネルギー:電力を「安全な原子力」にたより、「安全だ」という「まことしやかな言辞」を弄して、それら財政的に苦しい町村に、その立地を押し付けてきたのです。

ものごとの理にしたがうのならば、必要とする大量のエネルギーは、それを必要とする地域でまかなうべきであり、その方がコストもかからない、そして、そこで生じる廃棄物も、その地域内で処理する、それが当たり前。地産地消です。
であるならば、原発も、そして使用済核燃料の保管も、電力の大使用地区である大都会が負うべきでしょう。安全なんだから・・・。
もっとも相応しい場所、それは東京や大阪です。キタナイものは他所にもってゆく、そういう論理は通りません。それこそ「無理」というもの。スジが通らない。

   私は、学生の頃の、御茶ノ水駅下を流れる神田川の光景を思い出します。
   いまや知っている人が少なくなっていると思いますが、
   江戸期には飲料水としても使われていた神田上水を、
   常に、何隻もの舟が列をなして下っていました。
   その舟は、水道橋の駅の近くにある配船所から出てくるタンカーです。
   タンカーの積荷は、都内から集めた糞尿。
   どこへ行くのか?
   東京湾外だと聞いたことがあります。
   そこで、海に捨てていた・・・。海には黄土色の筋ができたそうです。
   江戸期はどうしていたか。
   近郊の農村へ運ばれ、肥料になっていました。農家が収穫物を持って、その代替に持って帰ったのです。

「経済」:「経世済民」とは、危ないものを危なくないとウソを言って現金を付けて他所に押しやり、その金で町村の財布が潤う、そういうことを言うのではありません。
このやり方は、金持ちが、貧乏人のほっぺたを札束でひっぱたいてよろこんでいるに等しい。


また、昨日であったか、中部電力の社長が、簡単に言えば、浜岡原発を止めるなら、金をよこせ、という「要求」をしていました。
「お客さまと株主に対して申し訳ないから」と言うのが、その理由。
おそらく財布の中身が心配で、やはり、福島の現状には思いが至らないのでしょう。
簡単に言えば、金に目がくらみ、想像力が衰えている・・・。

私が率直に思ったのは、どうしても再稼動したいのなら、使用済核燃料を、すべて電力会社の本社ビル内の一画で保管することを確約べきだ、ということ。できないわけがありません。安全なのだから・・・。場所が足りないのなら、超高層ビルでもどうぞ。

エコノミックアニマルという和製英語がありました。
相変わらず、多くの偉い方がたが、後生大事に、その系譜を引継いでいるらしい。
天秤にはかからない、かかるはずのない「安全」と「《経済》の安定」という範疇の異なるモノを天秤にかけている。
「科学」立国などとは言っても、決して理を通さない、理の通らない国、日和見・ご都合主義の国、それが現在の日本。

追記
本当の scientist の理の通った言説を教えていただきましたので、紹介します。
小出裕章氏が、この春、参議院で、参考人として述べられた「意見」の記録映像です。[追加 6日 23.18]

再追記
「やらせメール」発覚。
これまた、「民主主義とは、『理』ではなく、数の多少でものごとを決めること」、と思い込んだ人たちの「必死の」策なんでしょう。
政治の世界の「多数派工作」と何ら変らない。以前のタウンミーティングなるまやかしもそうだったのだから、今さら驚くにはあたらない。
けしからん、と語っている政治家たちが、本気にそう思っているとは、到底考えられないのです。いいところ、下手だなァ、ばれたのか、程度が「本心」では・・・。

ところで、「ストレステスト」なる「概念」が突然湧き上がりました。
よく聞いてみると、西欧では、すでに進行中とのこと。
ところが、そういう「事実」を報じたメディアがない、というのが不可思議です。
そして、ここにきて突然表面化したことが「波紋」を呼んでいる。

その「波紋」とは、ついそこまで来ていた「原発再稼動」が、「水をかけられ、できなくなったではないか、けしからん」というのが大方。
私には、本末転倒に聞こえます。「再稼動」が絶対の目標になっての態度だからです。
「ストレステスト」の妥当性が問われていない。

西欧でやっているものを、日本がやらない、ということは、「近代日本の『性格』」として、いまさらできない。だから、やらざるを得ない。

そこでおそらく、「再稼動が可という結果が出るような内容のテスト」にする画策がなされるでしょう。「やらせメール」と同じ構図です。
「科学」立国日本の、「科学」認識は、そんなものなのです。
つまり、「理」よりも「利」の論理。
財界の偉い方がたの仰せられていることも、それに尽きる。[追記 8日 19.29]

産経新聞に、このまま原発が再稼動しないと、電力不足で、日本の産業界の空洞化が著しくなり問題だ、という記事が載ってました(gooニュースにありました)。
要するに、そうなると生活も大きく影響を受ける、だから再稼動が必要だ、と言いたいようです。
福島原発の事故で、地域の空洞化が進まんとしています。簡単に言えば、人が住めなくなる。現になっている。
一旦事故が起きれば、無人の世界が広がる。そんなところで、産業が振興して、どうなるというのでしょうか。第一、働く人もいないではないですか。
さらに、火力発電が増え、二酸化炭素の排出量が増加、温暖化が進む、という「心配」もなさっています。核燃料廃棄物や放射能は問題ないんですね。

どうして、いい歳をした大人の日本人が、こういう非論理的は記事を書いて平気なのでしょう。
子どもの方が、もっと筋の通る見かたをするのではないか。なさけない話です。[追記 9日 12.30]
コメント (1)
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感想・・・・素晴らしい論理

2011-06-26 23:57:35 | 専門家のありよう



今日は、一日中、寒く、霧雨が降り続いていました。
その中、今年もムクゲが咲きだしました。ほぼ去年と同じ頃です。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[註記追加 27日 8.48]

「玄海原発」の稼動再開に向けて、「住民に対する説明会」が開かれた、というニュースが報じられていました。
「住民」というのは、説明者側が選んだ住民。選んだ「基準」は不明です。しかも、僅か7人。
この「説明会」を、地元のケーブルテレビを通じて放送した(させた)とのこと(メディアの「役割」も問われるはずです)。

この期に及んで、まだ「前代」と同じようなことを繰り返している、同じようなやり口が通用すると考えている、その時代錯誤もさることながら、その「内容」を聞いて、驚きました。

一言で言えば、「安全と見なされるから安全である」、という恐るべき論理。しかも、訳の分らない《専門用語》を「これみよがしに」に並べている。
これで、人を納得させることができる、考えているとするならば、福島原発の事態を、まったく真摯に理解していない、ということを証明しているようなもの、と私なら考えます。

世の言う「安全神話」はタメにするものだった、という事実が明らかになった今、別の新たな「神話」をつくればコトが進むと考える、その安直さ。
多分、この次は、稼動を再開しないと、地元(の「経済」)が疲弊するぞ、金をやらないぞ、という「脅迫」のはず。
地元の「長」の発言に、すでにその兆しが見え隠れしていました。

金をばらまいて、地域が潤う、ということを「経済」(あるいは地域の振興)と言うのは、誤りです。私は、そう思います。
「経済」とは、本来どういう意味であったか、考え直すべきではないでしょうか。

ついでに言えば、水産業に「民間の資本」を注入すると復興が進むいう「提案」や、山を崩して盛土と合わせて平地をつくり街をつくる、という「提案」も報じられました。
これもまた、この期に及んで、まだこんなことを言うのか・・・・、というのが私の感想です。
そういう「提案」は、やはり、「経済」という語の原義が忘れ去られていることの証左にほかならないのです。

「経済」とは、「経世済民」(経国済民)を略した言葉です( economy の原義も考えてください)。
この原義にそわないのであるのならば、別の語を使ってもらいたいものです。別の語、たとえば「銭儲け」。

経済については、下記を。
「経済とは何だ」

27日付毎日新聞のコラムにも、福島原発の地下防汚壁建設が進まない「素晴らしい論理」の存在が指摘されています。[追加 27日 8.48]
  「風知草」

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求められるのは「実業者」

2011-06-02 22:42:22 | 専門家のありよう


梅雨に入って、庭の遊水池(とは少し大げさ、雨落溝の雨水を一時的に溜めている小さな池:農業用のFRP製500リットルの水槽)のヒメスイレンの葉の上で、夜が更けてくるとどこからか出てきて鳴き交わすアマガエルのうちの一匹。今は全部で3匹。にぎやかです。
フラッシュにもびくともせず。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回、お粗末な「建築家」の思考について書きました。
もちろん、「お粗末」とは、私の感想です。

むしろ、お粗末と思わない方がたの方が、現在の建築界では、多いのかもしれません。
なぜなら、建築設計に係わる方の多くが、皆、一儲けしようと思っているか、あるいは、《アーティスト》でありたいと思っているか、そのどちらかだ、と言っても少しもおかしくないような状況に見えるからです。
つまり、「建物をつくる」という行為が、いったい、どういうことであるのか、皆忘れてしまっているように、あるいは、分ったつもりでただ「やり慣れた」行為をしているように、私には思えるのです。
そうであるならば、先回紹介したような「建築家の発言」が「脚光を浴びる」のも合点がゆくというもの。

建築界がこのようになった最大の要因は、明治の近代化策にあった、というのが私の持論です。
簡単に言うと、明治に始まった「建築教育」、その背後に潜む「思想」にある、ということです。

その「思想」にいわば反旗をひるがえした人がいなかったわけではありません。
「近代化」の教育を受けたにもかかわらず、その問題点を自ら修正すべく動いた人びとです。その一人が滝 大吉 氏です。
滝大吉 氏が重視したのは「実業者(家)」の存在でした。

「実業者(家)」とは、実際に建物づくりに携わる人たち、先回紹介した「現代の代表的建築家」とは異なる人たちです。
滝 大吉 氏は、「実業者(家)」がいなければ建物はつくれないことを実感していたのです。それは、今だって変りはありません。

現在、多くの建築設計者は、「設計図」を描きます。
しかし、多くの場合、その「設計図」では建物はつくれません。どのようにしてつくったらよいか、その図には示されていないのが普通だからです。
言ってみれば、まさに「絵に描いた餅」。つまり、「こんなものにしたい!」という「設計者」の《イメージ》にすぎない。
   何故、「こんなものものにしたい」のかは、多くの場合、不明です
したがって、必ず「施工図」なるものが必要になります。そして、そうするのが「当たり前」にさえなっています。しかし、本人には「施工図」が描けないのが普通。
私は、それでは「設計」図ではない、と考えています。できるかぎり、設計図だけで現場が仕事ができる、そういう図にしたい。そうでなければ「設計」の意味がないのではないか。
   前川國男 氏の(事務所の)設計図は、現在の多くのそれとはまったく違い、本当の設計図になっています。
   あの時代の設計図は、大抵そうなっています。皆、本当の「建築家」だった!

   実は今、心身障碍者施設の設計の追い込みでてんやわんやです。
   できるかぎり、設計図だけで仕事ができるように、いろいろと仕事の手順を考えながら描いています。
   それゆえ、手直しが多い!!


では、現在のような状況に何故なってしまったのか、滝 大吉 氏は何をしたか、当時の「実業者」の仕事はどんなものだったか・・・などについて、以前に書いた一連の記事の一部をを下記にまとめてみました。2006年に書いたものですが、私の考えは何ら変っていません。

日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在 どこで間違ったか
まがいもの・模倣・虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事 建物の形体とは何か
「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃 滝大吉著『建築学講義録』について
実体を建造物に藉り...・・・・何をつくるのか  《建築計画学》の残したもの
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺
学問の植民地主義  《権威》の横暴

なお、「実業家たちの仕事」で紹介している喜多方の煉瓦造の図が小さくて読みにくいので、近日中に大きな図版で紹介させていただきます。

 

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理解不能

2011-05-26 19:17:02 | 専門家のありよう
[文言改訂 27日 7.30][註記追加 27日 12.12][註記表記改訂 28日 16.52]

数日前、5月23日の毎日新聞夕刊「文化欄」に、次のような記事が載っていました。



   記事の執筆者が、どこまで、発言を正確に伝えているかは分りません。
   ただ、通常、こういう記事の場合、発言者の了承を得るものだ、と私は理解しています。[文言改訂 27日 7.30]
   以下の私の感想は、「この記事の伝えている発言内容」についてのものです。
   

「建築家」の「思想・思考」の様態については、ある程度は「想定内」ではありましたが、この「発言内容」は、まさに「想定外」でした。

曰く 「人間がどう自然と折り合いを付けていくのか、問い直す時期がきた」
曰く 「避難所や仮設住居に居心地のよい『心の拠点』をつくりたい」
曰く 「人間の欲望と建築が結びつき、経済も回ってきた。足元が揺れる思い」
曰く 「震災後、文化が深いところで変りつつある。自分も建物をつくるうえで変っていかなければ」
曰く 「建築家も『私』を超える必要がある」
・・・・・

順に見てゆきます。

いったい、「折り合いを付ける」も「付けない」も、これまで、「自然」をどのように「認識」していたのだろうか、その「説明」なしで、見直すも何もないでしょう。私は寡聞にして、この方の「自然についての認識」を聞いたことがありません。
「折り合い」とは、「妥協」、すなわち、「対立した同士が譲り合って解決する」という意味(「広辞苑」「新明解国語辞典」その他)。
この発言から察するに、発言者はこれまで、「自然」を対立相手として見てきた、ということをいみじくも語っている、と理解できます。
たしかに、そう言われると、発言者の「作品」のありようが「納得」ゆきます。
そして、「問い直す時期が来た」というフレーズが、地震がなかったなら、今まで通りやるだけだった、ということをも示しています。

「心の拠点」は、避難所や仮設住宅にではなく、本来、「日常」に求められるのです。
避難所や仮設住宅は、それこそ、字の通り「緊急時」のもの。人は、「日常」にそれを必要とする。
建物をつくることは、空間を「日常」に供するもの。そのように認識・理解している私にとって、この発言は、一体何なのだ。
「日常」に「心の拠点」になるものがない、
特に「建築家」の「作品」にはない、ということについての「認識」が欠如しているのではないか、そう私には思えます。
つまり、まずもって「日常」を直視してほしい、私はそう思います。[文言改訂 27日 7.30]

「人間の欲望」だと?
そんな風に人間一般に「普遍化」してはもらいたくない。
人間の欲望ではなく、「建築家の欲望」ではありませんか?だとすれば、発言はまさにその通りです。

震災後、「文化」が深いところで変りつつある?
この文言も、発言者の「文化」についての「認識(の程度)」をいみじくも示しています。
「文化」って、そんなものなのですね。
「文化」というのは、私たちの外側に、あたかも「固形物」の如くに存在するモノなのですね。
そういう意味の「文化」を英語では何て言うのでしょう。少なくともそれは culture ではない。

建築家も「私」を超える必要?
やっぱり、これまでやってきたのは、「私」のためだった、ということ?


こういう指摘は、ことによると、揚げ足取りのように聞こえるかもしれません。
しかし、決して揚げ足取りではないのです。
なぜなら、揚げ足取りとは、言葉尻をとらえて言うこと。
私は、その「内容」、そういうことを言わしめた発言者の「思考」についての感想を述べているのです。
こういうことは、「建築の世界」では、何も言わずに「なあなあ」で済ますのが常です。
しかし、「なあなあで済ましてしまう」と、「建築家の世界」では、こういう無思慮な発言がまた繰り返されるのです。だから、敢えて言うのです。

だいたい、地震で、たとえそれが如何に想定外の巨大さであろうが、
そんなことで簡単に「思想」が変るなんて、私には理解不能
「建築家」とは、気楽な稼業ときたもんだ・・・。

これらの「発言」は、「想定する」「仮定する」「検討する」・・・を「評価する」という語に置き換えて「満足する」のと同じ構造のように、私には見えるのです。

   註 私は、「自然 vs 人間」「風土 vs 人間」・・・などのような二項対立的な考え方は「不得意」な人間です。
      そんな考え方をすると、人間ではなくなってしまうように感じるからです。      
      先に、「建物をつくるとは、どういうことか」シリーズの第2回で、
      道元の「・・・うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず・・・」を引用したのも、そのためです。
      なお、このシリーズの全体は、
      「建物をつくるとは、どういうことか-16」にまとめてあります。
                                 [註記追加 27日 12.12][註記表記改訂 28日 16.52]

コメントがありました。
そのご意見の参考として、かつて書いた記事をリンクします。
「アンリ・ラブルースト・・・・architect と engineer 」     
コメント (2)
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buzz communication をこそ・・・・ある教師の苦悩

2011-04-06 21:36:19 | 専門家のありよう
[末尾に註記追加 7日 16.14]

数日前、一通のメールをいただきました。
事故原発の近くの県の、ある教育機関で教師をされている方からでした。

このような思いをされている方は、おそらく多数おられる筈です。

承諾をいただきましたので、公開させていただくことにします。
書かれた方が特定されることのないように編集してあります。


      夕暮れのクロボケです。例年より10日ほど遅い開花です。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[語句補足:紹介者 8日 8.43][誤字訂正:紹介者 9日 17.30]

長文メールで恐縮ですが、思うところを綴りました。

私は以前より原発には反対です。
原発自体そして廃棄物の安全性に疑問を持っているからです。

自分は就職するとき、不覚にも勤務先が原発に近いということを全く思い出さずに就職を決めました。
電気料金には「原子力立地給付金」なるものがあり、小額ですが返金される仕組みがあります。これを知ったときに原発の近くに住むことを初めて意識したのでした。このお金を受け取り拒否するか本気で考えました。

自分は原発反対でいながらにして、原発に就職するものを多数輩出する学校に勤めるという矛盾を抱えている人間です。

偉い方がたの主導でいきなり原発をなくすということは、多くの人々の職を奪うことから現実的ではないとも思っています。
皆が考え直して廃止の方向に進み、このような大きな事故の起こる前に働く人々の職をいきなり奪うことなく、徐々に廃止できればいいのだが、、と願っていました。そうはなりませんでしたが。

では、無力な自分が原発廃止に何ができるか、何をなすべきか、自分なりに考えました。
結論は、
原発に就職を希望する者には、「心ある技術者」となって、いつかその危険性に気づき、内部から原発廃止の声を上げて欲しい、というものです。

「心ある技術者」のイメージを私なりに固めるのに大きな影響を与えたのは、ゴルゴ13と言う漫画の原発事故を題材にした「2万5千年の荒野」という作品の中の第三話です。

この作品は、ある評価でゴルゴ13のベスト作品になっています。
自分はこの作品を読んで本当に涙をこぼしました(ただし、ネットに書評を書いている方がたの多くとは、そのツボは異なります)。

数学を教え、全く素人のラグビー部の顧問の私が、「心ある技術者」の育成として、何ができるでしょうか。
原発に勤める親、親戚、知人を持つ学生に、
その親や親戚、知人が聞いていたとしても決してブレないことを学生に言うとしたら、
自分に嘘をつかずに何が言えるでしょうか。
何か大きなことはできそうにありませんし、気の利いた何も言えそうにありません。

この震災での非常事態を憂える被災せずにすんだ若者たちが、自分に何ができるだろうか、何か発信できないだろうか、と思うのに似ているような気がします。

自分に素直にできること、それは、まさしく学生に「2万5千年の荒野」を勧めることでした。
何の疑いも持たずに原発賛成を口にする学生には、この作品を読むことを勧めています。

かつて原発見学があったころは、この本を宣伝してクラスに置きました。
「諸君らの親御さんや親戚、知人には原発関係の方もいるだろう。世の中は原発賛成の人も反対の人もいる。
自分は原発反対だが、いきなりなくすということもできそうにない。少なくとも自分にはその方法は思いつかない。
もしも原発の仕事をしたい、という者がいるならば、その人には『心ある技術者』になって欲しいと考えている。」というような事を言いました。

今は原発見学はなくなりましたが、昨年の10月に原発に将来勤めたいというある学生に、この漫画を勧めたら、学生の間でまわし読みとなり、今私の手元にありません。

「技術者倫理」という言葉を耳にするようになってから久しくなりますが、「技術者倫理」という言葉で、私が真っ先に自分が思い出すのは「2万5千年の荒野」です。
世間で「技術者倫理」と言われるとき、その問題点は「経営者倫理欠如」に帰すべきものばかりと言う気がします。

「2万5千年の荒野」でも、原発事故の一番大きな原因は、「経営者倫理欠如」ですが、「技術者倫理」が「経営者倫理欠如」を凌駕します。
私が涙をこぼしたのはそこでした。
日頃から技術者として保身も考えずに行動し続けた技師が、最後までその姿勢を崩さずに行動し、経営者側を動かしたところに涙がこぼれたのです。
単に英雄的な行動をしたところでも、その姿勢に敬意を払うゴルゴ13がタバコに火をつけてやるところでもありません。

私の「心ある技師」には実在のモデルもいます。
原発技師ではないですが。その人は、小学2・3年の頃に原子力潜水艦にあこがれていました。
それがいつの頃からか反原発に変わりました。
「事実」と正しい「認識」があれば、そのように変わるものなのだと考えています。
その人は小型機器ではありますがが、低電圧省電力の研究をしています。そして原発関係メーカーにいながら、タバコのポイ捨ての会議中に、それよりも原発の廃棄物を考えるべきだ、と発言するような男です。

私の心の中の「心ある技師」は、原発賛成で原発に勤めた者が身近に原発に接し、危険と認識し、原発反対に変わり、世の中に広める技師。実在しない「2万5千年の荒野」の「心ある技師」バリーと、実在する私の知る低電圧・省電力研究者をもとに、私の心の中の「心ある技師」は形づくられたのです。

原発で当初行方不明が2名いると報道されました。
そのうち1名は、私の担任したクラスの学生らしいと知らされました(ネットで確認すると、操作を誤った上に逃げている、などというひどい噂もありました)。
彼に「心ある技師」の話をしたかはっきりした記憶はありませんが、卒業謝恩会のときに話をしたような記憶がおぼろげながらあります。
このような結末が待っているならば、私は特攻を勧めた教員と同罪だ、と思うと、本当に胸が痛みました。
彼がその場で、常人には考えもつかぬ防御策を講じ、無事であることを願っておりました。

教育を続けていくべきか、自分の教育で悔いが残ることは何か、という思いが混沌として苦しい日々を過ごしました。
自分がこの原発事故を前に成し得たことは、「心ある技師」になることを勧める他にも何かあったのではないかと考えました。数理論理学に携わる者として。

それは、誤った前提の上に、いくら精密な推論を重ねても、結論は無意味であることを、きちんと教育すべきこと。

自分には明らか過ぎて強調する気もないことですし、きちんとした議論ができる方なら何でもないことですが、
「研究者」と呼ばれる方には、そんなことも分っていない、としか思えない方がたがいて、更にそういう方がたに煙に巻かれてしまう現実がある。

何が危険か、ということまでは踏み込まないとすれば、「事実」をみれば、原発が危険なことは明らかです。
 0.制御できなくなった原発は危険。
 1.何かあったら原発は制御できない。
 2.「何か」は起りうる。(「想定外」の津波とか)
 3.原発は危険。
これに反論できる人はいないと思います。
論理学以前に筋道たてて考えられる人なら、反論の余地の無い議論。

ところが「結論ありき」の方は、このような話をされると決まって直接の反論はせず、「・・・だから安全」という議論に持って行きます。
例えば次の如し。
 A.今までの津波の高さは xメートル。
 B.(x+α)メートルの防波堤を作る。
 C.津波以外にも同様のことを考える(地震については耐震基準を満たしている・・)。
 D.対策は講じたので原発は安全。
こんな議論にだまされてしまう。
あるいは「専門家」自身が分っていない。
今後(x+α)メートル以上の津波が来ないと何故言えるのでしょうか。
耐震基準を満たせば安全などと、どうして言えるのでしょうか。
耐震基準を満たしたものが、いままでいくらでも壊れているというのに。

安全と言う結論を得るために、間違った前提のもとに推論を重ねる。そして事故が起きれば「想定外」。

今回の震災では、
「数値信仰」の馬鹿らしさと、「まず前提を疑う」ことの大事さを再認識させられました。
一例を挙げます。
近在では「安定ヨウ素剤」が配布されました。ヨウ素の必要量はどのように算出されたのでしょう。昔少しだけ探しましたが見つけることはできませんでした。
それにそれほど真剣に探す気もありませんでした。

被爆前に摂取すれば何パーセントの効果が期待され、被曝24時間以内なら何パーセントの効果が期待され、などというデータを目にすれば、あらかじめ被曝させられる被験者がいなければならず、[誤字訂正 9日 17.30]
原水爆の実験に際して待機させられた兵士たちが実験台にさせられたぐらいしか、自分には思いつかなかったからです。
さもなくば全くの捏造データでしょうか。
ヨウ素の摂取が効果的というのは信じられましたので、後は自分で考えようと思いました。

ヨウ素不足気味の欧米人によるデータなら、普段からヨウ素を十分摂取している日本人は少量でよいだろうと考えました。
ヨウ素を多量に含む食品も調べ、昆布、とろろ昆布であることがわかりました。子供ができたとき、妻にこれらを十分備蓄しておくように言いました。これはもう5年くらい前の話です。
このことを思い出したとき、「まず前提を疑う」「数値に頼らない」ことをまさしく行っていたのだなと思いました。
他にも放射線量と健康被害の関係も、数値の根拠に疑義があります。
何故メディアではこの数値はこういうことを根拠に決めた数値だということを言わず、X線撮影と比べるだけなのか、不思議です。

「(間違った)前提の上にいくら精密な推論を重ねても結論は無意味である」[語句補足:紹介者 8日 8.43]
「まず前提を疑え」「数値の根拠を知れ」
学生に大事にして欲しいことはいくらでもありそうです。

常人には思いつかぬ防御策を講じてどうか無事でと願っていた行方不明の2名が、既にタービン建屋で亡くなっていたことを知りました。
一人はきっと私のクラスにいた卒業生です。お二人のご冥福を祈りたいと思います。
操作ミスをして逃げて酒を飲んでいた、などとふざけたことをネットに流していた馬鹿どもと、この状況で「...今回の原子力問題についても死者は出ましたか...」などとテレビでのたまった大馬鹿評論家には、体を張って危険に立ち向かうことなど出来ぬでしょう。きっと涙の一滴も流すことはないのでしょう。

「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画があることを以前から知っていたのですが、この震災で知人からも知らされました。
ミツバチと地球の回転は再生可能の象徴。
ミツバチの羽音は buzz communication :口コミで伝えていくことの象徴。
メディアで大きく扱われることのない「上関原発・祝島」の問題、スウェーデン電力事情、再生可能エネルギーの話を題材にしたものだそうです。
 
世の中は変わるのでしょうか。
今必要なのは、大メディアに拠るのではない buzz communication なのかもしれません。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

註記 7日 16.14 
このメールも触れている「上関原発・祝島」にかかわるドキュメンタリー映画の上映会が下記のとおり開催されるとのこと。ブログ「リベラル21」からの転載です。
お近くの方、どうぞ。

2011.04.07 ドキュメンタリー映画「祝の島」緊急上映会
■短信■

 中国電力が山口県上関町に建設中の「上関原発」に対する周辺の島民の反対運動を記録した映画「祝の島」の緊急上映会が開かれます。この工事は、福島原発事故を機に中断されています。

ドキュメンタリー映画「祝の島」緊急上映会

日時:2011年4月9日(土)14:30/18:30
トーク:14:30の回上映後 本橋成一(写真家・映画監督)×纐纈あや(祝の島監督)
     18:30の回上映後 山秋真(ライター)×纐纈あや(祝の島監督)
会場:NPO法人地球映像ネットワーク 神楽坂シアター
    地下鉄東西線 神楽坂駅(神楽坂出口)より3分
    東京都新宿区赤城下町11-1 http://www.naturechannel.jp/access.html
料金:予約 1,000円/当日 1,200円(限定各30席)
予約:ポレポレタイムス社 Tel:03-3227-3005 E-mail:houri@polepoletimes.jp
(岩)

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文言

2011-03-26 18:21:39 | 専門家のありよう


客観的に文章を書く、というのは、普通、事態・状況を、先入観を持たずに、あるいは私情を交えずに、描写するというような意味と考えてよいでしょう。
しかし、一見客観的に見える文章が、実は「為にする」ためのものである場合があります。

今日、次のようなニュースが伝えられていました。例の、原発事故現場で健康に差し障る被爆者が出た件についての東電の「報告」です。

  「1号機で高い線量が出た情報が現場全体に伝わり、注意喚起していれば
  今回の被ばくを防げたのではないか。
  情報共有が甘く反省している」


たしかに、状況を、まるでドキュメンタリーのように「客観的に」描写しています。

だが、ちょっと待ってください。
「情報が現場全体に伝わる」には何が必要か?
「情報を伝える」という作業です。この作業なしに、情報が伝わるわけがない。

では、この事故の場合、「伝えるのは誰か」?
現場を遠くで見ていた人?空から見ていた人?TVを見ていた人?・・・そうではない。
「高い線量が出た」ということを知っていた人です。
それは誰か?
東電(の現場担当者)です。

もう一つ、同じことが「情報共有が甘く・・」というところにも見られます。
「情報共有」は、「情報」を知っている人が、知らない人に伝える、という作業がなければ成り立ちません。
誰が「情報」を知っていたのか?
東電(の現場担当者)です。

つまり、この東電の「報告」は、
「現場の線量が危険なほど高いという事実を、知っていたけれど、現場作業者に伝えなかった」というきわめて簡単な文言で済むのです。

なぜ、このような もってまわった言い方をするのでしょう。
当然、「わけ」があります。

こういう文章のつくりかた、書き方は、工系の人たちの文章に多いように思います。

  今日は触れませんが、いつも私が引っ掛かる語があります。
  それは「評価」という言葉。
  たとえば、東電のHPにある「津波対策」の文言にもあります。
    原子力発電所では、敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、
    過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を
    数値シミュレーションにより評価し、・・・

この語も一見「客観的」に見える語です。
なぜ、この語が頻繁に使われるようになったのか?

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想像を絶する「想定外」・追補・・・・「絶対」の裏側

2011-03-23 17:15:09 | 専門家のありよう
 [註記追加 27日 09.19]
 [註記追加 26日 15.40]
 [註記追加 25日 22.10]
 

「公表される情報」以上に、早く広く濃く汚染が進んでいるようです。

原子力発電所の建設工事に実際に係わって来られた方の「現場からの報告」があることを知りました。
書かれた方は10数年前に亡くなられていますが、「現場」からの一発言として、参考までに転載します。

「原発がどんなものか知ってほしい」


   註 [註記追加 27日 9.19]
     黒澤映画「夢」の中の一話「赤富士」についての感想を記したブログがあります。
     原発が損壊し、放射性物質が押し寄せる・・・という「夢」
     「見えない敵」

   註 [註記追加 26日 15.40]
     福井のタカムラ氏から、次のサイトを教えていただきました、
     原子力安全委員会委員だった方の「意見」です。

   註 [追加 25日 22.10]
     皆様からのコメントを読んでいて、
     大分前に宮沢賢治の著作について書いた「感想」を思い出しました。
     下記です。
        「グスコンブドリの伝記」から


コメント (5)
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ちょっと休憩・・・・学・研究とは何? 商い・ビジネスとは何?

2010-06-11 10:39:05 | 専門家のありよう
[図版追加 18.31]


  解説文が読みにくいので、末尾に、画と解説文を個別に載せました。[図版追加 18.31]

この画と解説は、1951年に第一刷が出された「講談社版 世界美術大系 第15巻 フランス美術」に載っているもの。
1414~1416年に描かれた「ペリー公のいとも華麗なる時祷書」の「二月の暦」。
解説に書かれているように、12ヶ月の暦のあとに宗教的主題の画が120枚以上も続くという。
解説は、柳 宗玄 氏。
この方の文章は素晴らしい。たとえば、
「・・・中世美術は実験室の美術ではない。それは建築の壁面と取り組みながら自ら生れる形であり、色彩である。さらにそれは、民衆の生活そして信仰の中から自から生れるものでもある。それは床の間の置き物ではなく、実用的必然性を担ったものである。それは手先で起用にひねりだしたものでなく、人間の全生命が籠っている形なのである。・・・」

「二月の暦」とは、季節はずれ、と思われるかもしれません。
久しぶりに手にとって、目にとまったのです。
この本は、半世紀以上も前、ロマネスクと呼ばれる時代の建物や絵画、彫刻などに強く魅かれて購入したもの(当時の値段で2300円。日本育英会の奨学金が2000円/月の頃です)。
今でも変らず新鮮で、強く魅かれます。Architecture Without Architects に魅かれるのと同じです。
とりわけ、世の中が欺瞞と作為に充ちている昨今は新鮮です。だから、目にとまったのかもしれません。    *******************************************************************************************

昨日遭った「欺瞞と作為」の事例

その一
昨日、ある方からのメールに、その方は、例の建築士の3年に一度義務的に受けなければならない講習会に出てきたのですが、講習会のテキストの一画に次の一節がある、と紹介されていました。以下です(因みに私は受けていません。ことによると、資格剥奪も覚悟で受けないかもしれません)。
  「建築基準法の仕様規定に従って設計する場合の、構造設計の中核をなす概念に
  『壁量設計』がある。簡便な方法であるが、これが日本の住宅の耐震性の向上に
  果たした役割は計り知れない。近年の地震で、『新しい建築物には被害は少ない』と
  報道されることがしばしばであるが、それはこの壁量設計の成果といえる」

その二
例の、「倒壊した『三階建て長期優良住宅』」の「報告」がやっと出されました。
それによると、「倒壊した原因は断言できない」とのこと。
その一方で、実験での入力状況など、実験の「正当性」ついて、延々と書いている。

その三
日経BPから、《7割を工事につなげる「耐震診断」は、何が違うのか?》というキャッチコピーで、ある書物の案内がメールで配信されてきました。
いわく
 本日は日経ホームビルダーより、近日発売予定の
 「見てすぐわかるDVD講座  実践・耐震リフォーム」のご案内です。
 日経ホームビルダーでは、木造住宅の耐震診断400件の実績を持ち、
 うち約300件で耐震補強工事を受注した〇〇〇〇氏のノウハウに注目。
 7割を超える受注率を実現する「耐震診断」と「補強計画」は何が違うのかを
  「見てすぐわかる」ようにDVD講座としてまとめた自信作です。

その一と二は同じ方がかかわっていることは言うまでもありません。

その一。
ここにある「近年の地震で、『新しい建築物には被害は少ない』と報道されることがしばしばである・・・」は、要は、「学の成果」を「日常の事実」をもって示すことを意図した言辞にほかなりません。
そうであるならば、同じ論理の延長上、当然、最近どころか数百年も、「基準法の仕様に反する」建物が、いくつも健在であることをも、事実として認めなければならなくなる筈です。
ところが、それはしない。何故?

その二。
理由が断言できないようなら、簡単に言えば、理由が分らないのならば、少なくとも「基準に従っても、壊れることはある」と明言しなくてはなりません。

それにしても、「理由が断言できない、分らない」と言うのはおかしい。
なぜなら、そもそも、彼らの「拠って立つ理論」は、幾多の被災事例をみて、その「理由を断言する」ことで成り立ったのではないか?
どうしてそれらについては「理由」を「断言できた」のか?
きわめて条件のよい筈の実験で、起きる筈がないことが起きた、その理由が「断言できない」というならば、被災事例の「理由を断言する」のは理が通りません。

つまりこの「報告」は、自らの「ご都合主義」を、「自ら証した」ことに他ならないのです。

自分にとって「都合のよい結果」だけを実験に求めるのならば、それは scientific な実験ではないのです。それは、「儲けるため」の実験以外の何ものでもない。

その一、その二の事例は、つまるところ、これに関わる方がたの「ご都合主義」を、端無くも自ら実証していただいたようなもの、つまり「自白」。

その三。
耐震診断は、「儲けるため」の作業なのか?
以前、「耐震診断-耐震補強」というのは、霊感商法の臭いがする、と書きました。こういう書物が出されるということは、まさにその「証」。
こういう書を「日本『経済』新聞社」のグループ会社が出す、それで平気でいる。

先回の「ひとやすみ」で紹介した一文にもあるように(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/aa6aaaa11b9cb734a578b36d56c292bf)、「経済」とはこのような「仕事で金を集めること」は意味していなかったはずです。「商売」「商い」とは、こんなものではなかった(だから霊感「商法」という語は、本当は誤用なのです)。気にする人もいるようで、そういう方がたはビジネスという語を使うようです。しかし、どう転んでも、同じ。
「経済」を売り物にするのならば、あらためて自ら使う「経済」の「定義・語義」を明らかにした上で使ってもらいたいものです。

なぜ、こうも頑なまでに「理」と「語」に拘るか。
きわめて単純です。欺瞞と作為の、これ以上の蔓延を防ぎたいからに過ぎません。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
見にくかったので、冒頭の図版を、個別に載せます。




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音なしの構え

2010-02-24 13:59:27 | 専門家のありよう
     
      話題は暗くても、写真は清々しく!

22日に触れた建築設計事務所代表らによる「入札妨害・談合事件」。
発端は「代表」はじめとする容疑者の逮捕。それが11日。そして明日で2週間。

既に触れましたが、その「代表」は、茨城県建築士会、茨城県建築士事務所協会の理事でもあり、また日本建築家協会の会員でもあります。

ある会社で一社員はもちろん役員に不祥事の疑いがかけられたとき、「〇〇が容疑をかけられているのは甚だ遺憾です。事態の推移を注意深く見守っています。」とかなんとかコメントが出されるのが常だろう、と思います。
しかし、少なくとも現在のところ、役員を務めている会からさえも、出てはいないようです。

これはいったいどのように考えたらよいのでしょうか。
企業、会社ではないから・・・なのでしょうか。
それとも、こんな風に思うのは、異様なのでしょうか。
しかし、会員に対して、それでは失礼至極です。会費を払っているのですから。

何か、昨日触れた、自分の言ったこと:「約束」の期日を過ぎても何のことわりもない「木の・・・協議会」と同じ「体質」を感じるのは、私だけなのでしょうか。

こういうのが、建築界の「常識」でないことを祈ります。

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