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建築界の《常識》を考える-2・・・「耐震」の語は 人を惑わす

2014-03-08 11:57:27 | 専門家のありよう

春は名のみの風の寒さよ・・・当地の梅は、やっとこの程度まで開きました。
雪こそ消えましたが、啓蟄が過ぎたとは言え、寒さが厳しい毎日です。
暑さ、寒さも彼岸まで・・、というのは本当だな、と毎年思います。



[文末に3月11日付東京新聞社説を転載させていただきました。11日9.27]
[追録追加 8日16.55]

もう直ぐ、東日本大震災から三年になります。
ここしばらくの間、「防潮堤」「防波堤」、「耐震」「耐震補強」の語が飛び交うのではないかと思います。

少し前のTVで、「耐震補強」工事の費用が捻出できないので廃業に追い込まれるという老舗の旅館の話が伝えられていました。それは、
映像で見る限り、私には、簡単には壊れそうにないように思える昔ながらのつくりの木造建物でした。
そうかと思うと、耐震補強で、客室の窓に鉄骨の筋違:すじかい:ブレースが設置され、それまで一望に見渡せた海の目の前に障害となって立ちふさがり、客室としての意味がなくなってしまった、という海浜のホテルの例も報じられていました。
そしてまた、東京都では、一度に全面的に補強ができない場合、たとえば今年は一階だけ、次の機会に他の階を、というように分割して補強を行う「施策」を講じて「支援」している、という話もありました。
    いずれも「理の通らない」話です。
なぜこういう報道がとりたてて行われたか。
それは、平成7年(1995年)制定の「建築物の耐震改修の促進に関する法律」が施行されているにもかかわらず、不特定多数の人びとが使う公共的建物などの「耐震化」が遅々として進んでいないからです。今後は耐震補強を促すため、、未施工の場合は、建物名・建主・持主名を公表で、着手を強いるのだそうです。
    これも「理不尽な」話です。
    何故なら、いずれも竣工時点では「合法的」な建物であったからです。法律の「基準」が、「勝手に変った(変えられた)」からに過ぎません。

何度も書いてきましたが、「耐震」「耐震建築」「耐震補強」という語・概念の理解・認識は、一般の方がたと制定者・専門家とでは大きく違っている、のは明明白白の事実です。
たとえば、「耐震補強の目的」について、先の「建築物の耐震改修の促進に関する法律」の冒頭に、次のようにが書かれています。
  この法律は、地震による建築物の倒壊等の被害から国民の生命、身体及び財産を保護するため
  建築物の耐震改修の促進のための措置を講ずることにより建築物の地震に対する安全性の向上を図り
  もって公共の福祉の確保に資することを目的とする。
これを、一般の人びとは、どのように理解するでしょうか。
おそらく、耐震策を施してある合法的な建物(すなわち「確認」済の建物)は、大地震に遭っても、無事に地震をやり過ごし、使い続けることができる建物、そこで暮し続けることができる建物である、と理解するでしょう。
これは、「耐震」の語に対して人びとが抱く共通のイメージ、つまり「常識的認識・理解」に他ならないのです。
辞書にも「耐震:地震に耐えて損傷しないこと」とあります(「広辞苑」)。「耐震」の「耐」という字の語義は、「支えることができる、負担することができる・・」といった意味ですから、この理解は決して間違ってはいない、具体的に言えば、「この建物は震度7程度の地震に耐える基準で設計されている」という文言を、その建物に住んでいる人たちが、文言通りに、「この建物は、震度7程度の地震に耐えられ、それゆえ地震後も住み続けられる」と理解しても、何ら間違いはないのです。
   耐震を売り言葉にしている《住宅メーカー》の住宅も、多くは、そのように理解されているはずです。

ところが、先の法律の言う「耐震」とは、具体的には、次のことを指しているのです。
1)建物の供用期間中に数回起こる可能性のある中規模の地震に対して、大きな損傷は生じないこと
または、
2)建物の供用期間中に一度起こるか起こらないかの大地震に対して、居住者の命にかかわるような損壊を生じないこと
   もう少し具体的に言うと、次のようになります。   
   中規模地震(震度5程度)に於いては建物の水平変位量を仕上・設備に損害を与えない程度(階高の1/200以下)に押え、構造体を軽微な損傷に留める、
   また大規模地震(震度6程度)に於いては中規模地震の倍程度の変位は許容するが、建物の倒壊を防ぎ圧死者を出さない
   ことを目標とする。
すなわち、地震に拠って建物に生じた損傷が、人命にかかわらない程度の損傷であったならば、その建物は「耐震性のある建物」の範疇に入る、ということになるのです。
そしてこれが、行政の方がた、及び、この法律に拠りどころを与えている「有識者」「(耐震工学の)専門家」の方がたの「耐震」についての「認識・理解」であって、一般の人びとの「耐震」という語・概念に対する「認識・理解」とは天と地の如くかけ離れているのです。
   「有識者」「専門家」の用語法が、世の中のそれと異なることは、例の三階建木造建物の実物大振動実験の際の「倒壊」の語の「解釈」で露見しています。 
   原発事故関係についての「有識者」「専門家」のそれや、「宰相」の「福島原発はコントロール下にある」との「「認識・理解」も同じです。

すなわち、法令の言う、たとえば「この建物は震度7程度の地震に耐える基準で設計されている」という文言は、「この建物は、震度7程度の地震で、人命に損傷を与えるような破壊は生じない(だろう)」という意味に過ぎず、「地震に遭っても住み続けられる」ということは、何ら保証していない、ということなのです。
「耐震(基準)」「耐震補強」の「耐」の字を、字義通りに、つまり通常の用語法で、理解すると、とんでもないことになるのです。
   

しかし、「耐震基準」をつくった人たちは、行政も含め、この意味するところを正確に伝える努力をせず、ただ念仏のごとく「耐震」を唱えているだけです。
それゆえ、このままでは、「一般の人びと」と「「行政」及び「有識者・専門家」の間の認識の差:齟齬は、大きくなるだけでしょう。

けれども、この「一般の人びと」と「「行政」及び「有識者・専門家」の間の認識の差:齟齬について深く考えることこそが、地震に拠る災禍を考えるにあたって最も重要な視点であるのではないか、と私は思います。
なぜなら、単に建物が壊れるか、どの程度壊れるか、ではなく、地震に遭ったとき、どのように生き抜けられるか、暮し続けられるか、について考えることこそ最重要の課題のはずだからです。
建物の損傷が、人命に損傷を与えない程度であるかどうかは、そのほんの「部分」の話なのであって、
その損傷の中で、どのように生き延びられるか、暮らせるか、それこそが、そこに実際に生き、暮している人びとにとっては、最重要の課題なのです。
しかし、「耐震」基準を決めた方がたは、このことを、考えているでしょうか、考えてきたでしょうか。
人命にかかわらない損傷でも、損傷は損傷です。
「人命にかかわらない程度の損傷」と言うとき、その損傷した建物の中に居続けられるか、あるいは、そこから逃げ出せるか・・・、そこまで考えて言っているでしょうか。
考えてみれば、多くの法令に「・・・国民の生命、身体及び財産を保護するため、・・・公共の福祉の確保に資することを・・・」云々同様の文言が必ずありますが、その具体的な方策は語られていない
のが実際ではないでしょうか。

それは何故か?
それは、どのように生き抜けられるかという問題は、この方がたの視界にはない
からです。それは、別の専門家の領域・分野の問題だ・・・。


このことを考えさせるコラム記事が、2月27日付毎日新聞朝刊に載っていました。下記に転載します。


ここには「防潮堤」「防波堤」の例が挙げられています。
「防潮堤」「防波堤」は、通常は、護岸のための一般名詞でありますが、数多く津波被害を被った地域では、「防潮堤」「防波堤」とは、「耐・津波構築物」を意味します。
その場合の「防潮堤・防波堤の設計」も、建物の「耐震設計」が「耐えるべき地震の大きさ」を設定する(仮定する)ことから始まるのと同じく、
「前提」として、防ぐべき波の大きさを設定(仮定)します。そして、「耐えるべき・防ぐべき大きさ」として、過去に経験した「最大値」を計上するのが常です

その値を超える事態・事象が生じるとき、それが「想定外」の事態・事象です
法令の「耐震基準」が、何度も変ってきたというのは、すなわち、想定外の事態・事象が、少なくともその改変の回数だけ過去に起きた、ということに他なりません
ということは、「想定外」の事態・事象の発生の「予想」は、字の通り、想定不能である、ということを意味します。
これを普通は、「自然界には『人智の及ばない』事態・事象が厳然として存在する」、と言います
ところが、何度も書いてきましたが、工学の世界では、「人智の及ばない事象が存在する」、などということを嫌います。科学・技術は何でもできると思い込んでいるからです。

   本当にそう思うのならば、「想定外」は禁句のはずですが・・・。
しかし、この科学・技術への絶大な「信仰」に依拠した「工学的設計」は、
えてして、耐震設計をした建物は(過去最大と同規模の)地震に遭っても安全・安心である、防潮堤・防波堤を設ければ(過去最大と同規模の)津波に遭っても安全・安心である、という「信仰」を人びとの間に、広めてしまうのです。

そして、今回の地震にともなう津波では、人びとが防潮堤・防波堤があるから大丈夫だからと思い込み避難しなかった事例がかなり起きていたということを、先の記事は紹介しているのです。

私は、この記事は、「工学的対策≠安全・安心の策」という「警告」である、として読みました。
そして、「被災者に学ぼう」とする地震学の方法論の「転換」に共感も覚えました。
そして更に、単に当面の震災の被災者に学ぶだけでなく、過去に津波の被害を被った人びとにも学ぶべきなのではないか、と私は思います。
なぜなら、そのような事態に遭うことの多い地域に暮す人びとは、そういうところに暮す「知恵」を培ってきているはずだからです。
本来、人は、どのような地域に暮そうとも、自らが暮さなければならない地域・場所の「特性」を勘案しつつ暮すのが当たり前です。
「特性」とは、その地の「環境の様態・実態」と言ってもよい。
数日前に、ヘリコプターから見た津波の実相が報じられていました。
その中で、「浜堤(ひんてい)」という初めて聞く用語を耳にしました。
河川沿いに形成される「自然堤防」のごとく、海の波により永年のうちに自然に形成される「堆積地」のことのようです。そして、海岸の集落はこの「浜堤(地)」に営まれることが多い、というのも「自然堤防」と同様のようでした
水に浸かったり波に襲われることの多い土地に暮さなければならない場合、当然のこととして、少しでもその状況を避けられる場所を人は探します。比高の高い所です
そういう場所として、「自然に形成された場所」を選ぶのです
それは、単に探すのが容易だからではありません。
「自然に形成された場所」は、形状を維持し続ける可能性が高いことを知っていた
からです。
と言うより、「形状を維持し続けることができるような場所」だからこそ、そういう地形が形成される、ということを知っていたからだ、と言った方が的確かもしれません。
それが、その地に暮す人びとのなかに培われ定着した「知恵」であり、その地に暮す人びとの認識した「その地の特性」に他なりません。
「被災者に学ぶ」とは、その地に暮さなければならない人びとの「知恵」を知ること
そのように私は思います。
   海岸の「浜堤」上の集落立地は、「浜堤」についての「学」の成立以前から存在しているのです。
   縄文・弥生集落の立地も同様です。
   私の暮す地域には、縄文・弥生集落址が多数在ります。いずれもきわめて地盤堅固なところです。
   と言うよりも、私の暮す通称「出島」と呼ばれる霞ヶ浦に突出す半島様の地形自体、地盤・地質ともに堅固であるが故に、その形状を為しているのです。
   現在の地形図で確認すると、この半島は、福島~茨城にかけての八溝(やみぞ)山地から筑波山に至る山系の端部にあたることが分ります。
   山並みという形を維持できるのは、その一帯が周辺に比べ堅固であるからのはずです。
   古代の「常陸国」の「領域」を見てみると、先の山系の東から南側の、太平洋に面した一帯であることが分ります。
   一帯は肥沃で、気候は比較的穏やか。人びとは暮すにはきわめてよい、と判断し、その一帯の比高の高い地に定着したようです。
   古墳の多さとその建設地の位置がそれを示しています。

   群馬県東南部(板倉町など)の利根川沿いに、かつて、屋敷内に「水塚(みづか)」を設けるのが当たり前であった地域があります。
   「水塚(みづか)」とは、屋敷内の一角に土盛りをして、母屋とは別に、そこに二階建ての建物を建て、一階を備蓄倉庫、二階を非常時の住まいとし、
   加えて、軒には小舟を吊り下げている場合もあります。利根川の氾濫時への対策で、小舟は、建物が危険になったときの避難のための用意です。
   留意しなければならないのは、単に盛り土をしているのではない、つまり、単に洪水の予想水位より高ければいい、という判断ではない、という点です。
   氾濫時の利根川の水流をまともに受けない場所を選定しているのです
。それは、現地を見ると納得がゆく。
   いま、「予想水位より高ければいい、という判断」と書きました。
   この「予想水位より高ければいい、という判断」こそが、現在の「工学設計」の拠って立つ「基点・前提」です。耐震設計も防潮堤設計も、皆同じです。
   小舟を吊り下げることまで、考えが及ぶわけもない・・・・


では、建物の設計では、被災者・被災地からに何を学ぶか。
構築物の頑丈さを得る方策、それはその一つではあっても、それで全てではないはずです。
転載した記事の最後に、「歩いて行ける高台に頑丈な小学校を建て、避難所の機能を持たせ、数十年ごとにより頑丈に建て替える・・」という記述があります。
私は、先ず、建設地の選定に心することが第一ではないか、と思います。
同じ高台でも、自然形成の高台と人工の高台では性質が異なります。
自然形成でも、たとえば土石流のつくった高台は、人工とほとんど同じはずです。
つまり、自然形成の場合でも、その土地の「経歴」「履歴」を「理解する」「知る」ことが重要なのではないでしょうか。
いわゆる科学・技術を信じると、とかく、人は何処にでも暮せる、建物は何処にでも建てられる、と考えがちです。その考え方を「学」が率先して正す必要があるように、私は思います。

「人びとの長きにわたる営為に学ぶ」姿勢があったならば、どんな土地でも建てられるのだ、という考えを、人は抱かないはずです。そうであれば、たとえば、低湿地に住宅地を造成し「液状化」に遭遇して慌てふためくなどという事態も起きないのです。
これは、一言で言えば、それぞれの土地の歴史を知ることに他なりません。
先の「浜堤」地に集落が営まれているように、「長い歴史のある集落の立地、そしてそこでの住まいかたは、その地域に暮す人びとの、『その地域の環境特性』についての『理解に基づく判断』の結果を示しているのだ」と、今に生きる私たちは理解すべきなのです。
『その地域の環境特性』とは、「日本という地域全体としての特性」及び「その地域に特有・固有の特性」の両者を含みます。四季があり、四季特有の気候の諸相(たとえば台風や梅雨など)がある、頻繁に地震や火山活動がある、などは前者であり、たとえば台風時の特有な風向き・・、などは後者にあたります。
このようないわゆる「自然現象」に対して、人智で抵抗できると考えるようになるのは(津波には防潮堤を考え、地震には耐震構造を考えるようになるのは)、近現代になってからのこと、それ以前は、人智では対抗できないと考え、そのような自然現象のなかで、如何に生き抜くか、暮し続けるか、に人智をそそいだのです。


「構造力学」は、誕生した当初は、「人びとの為す判断」の「確認」のために機能していたのです。
では、その「人びとの判断」は如何にして為されたのか
それは、人びと自らの「事象の観察」を通して得た「事象についての『認識』」に拠って為されたのです。
その「認識」を支えたのは、「人びとの『直観』」です。
そのために、人びとは「感性」を養いました。「観察⇒認識⇒知恵」、この過程を大事にした、大事に養ったのです。

つまり、「学」が「判断」を生んだのではありません。これは、厳然たる事実です。

本来、諸「学」は、人とのかかわりの下に出発したはずです。
ゆえに先に転載した記事にある「被災者に学ぶ地震学」への「転換」は、
「学問のための学問」から「人にとっての、人としての学問」への転換、「原点への回帰」を意味しているように私には思えました。
建築学もまた、建築学こそ、建築:建物をつくること、その本来の意味を問い直すことを、今からでも決して遅くはない、始めるべきであるように私は思います。

先人の知恵の集積は、例えば、遺跡・遺構や数百年にわたり永らえ得た建物や集落・町・街・・などは、私たちの目の前に多数遺されているのです。
それはいずれも、人びとの営為、すなわち人びとの「認識」「判断」の結果に他なりません。
そこから、私たちは、たとえば地震に対しては、「耐震」ではなく、人びとの「対震」の考え方、その「蓄積」を学べる
はずです。
そしてそこから得られる「知」は、如何なる「《実物大》実験」で得られる「知」よりも、比較にならないほど豊饒である
と私は考えています。

「有識者」「専門家」の言辞に惑わされないために、自らの「感覚」「感性」に、更に磨きをかけたい、と思います。


[追録 8日16.55][さらに一記事を追加しました 12日 9.00]
同様なことを、下記でも書いています。なお、それぞれにも関連記事を付してあります。
想像を絶する「想定外」
此処より下に家を建てるな・・・
建物をつくるとはどういうことか-16
建物をつくるとはどういうことか-16・再び
保立道久著「歴史の中の大地動乱」を読んで
わざわざ危ない所に暮し、安全を願う
さらに関連記事を追加します。
/gooogami/e/dced003d265269bc123c36e66a4f38b9">建物は「平地・平場」でなければ建てられないか
さらに追加[14日 9.15]
取り急ぎ・・・・「耐震の実際」

3月11日付東京新聞社説を転載させていただきます。全く同感です。[3月11日9.27追録]

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建築界の《常識》を考える-1・・・「断熱」「断熱材」という語

2014-01-12 20:33:26 | 専門家のありよう

この冬一番と言われた寒波が通り過ぎた朝のケヤキの梢。
寒々としていますが、近くに寄ると、新芽がふくらみつつあります。



![文言追加 13日 9.00]

建築設計や施工にかかわる方がたが、建築確認申請時の「煩わしさ」について:根本的には、建築基準法およびその関連諸規定に起因する「煩わしさ」なのですが:「愚痴」をこぼしているのをよく聞きます。
一言で言えば、「基準」と称する「規制」が多く、そのなかに、どう考えても「理不尽なこと」つまり「理が通らないこと」が多いからです。

しかし、愚痴をこぼす方がたが、日ごろ「理の通ること」を口にしているか、というと、必ずしもそうとは言えないように思います。建築設計や施工にかかわる方がたの多くが、日ごろ「理の通らない建築用語」、あるいは「理の通らない《常識》」を意に介していないように見受けられるからです。
その状況が、結果として「法の名の下理不尽を蔓延らしてしまっている最大の因」ではないか、つまり、「付け入る隙(すき)を与えている」、専門家であるならば、率先して「理不尽な《常識》」に異を唱えなければならないにも拘らず、むしろその「普及」に手を貸しているのではないか・・・。簡単に言えばいわゆる「オウンゴール」ではないか、と私は思っています。


そこで、ここしばらく、「日本建築構造・中巻」の紹介の合間を縫って、この建築界に蔓延る《常識》について、思うところを書いてみようと思います。
「事例」は、選択に困るほどいっぱいあります。「耐力壁のない建物は地震に弱い」、「瓦屋根の建物は地震に弱い」、「床下の防湿には地面を防湿コンクリートで覆うのがよい」、「(人工)乾燥した木材は伸縮しない」、「防腐剤を塗れば木材は腐らない」、「太い木材を使えば頑丈になる」・・・。

そこで、これらの事例のなかから「代表的な」いくつかを選び、それについて書くことにします。当然、既に何度か書いたことと重複する点がありますが、ご容赦ください。


今回取り上げるのは、「断熱」「断熱材」という用語。

この用語は、今や、建築関係の方がただけではなく、一般の方がたの間でも広く通用しています。
住宅はすべからく「断熱性能」が求められる、あるいは、住宅は「高気密・高断熱」が肝心である・・・・。
これらは、住宅メーカーの広告では、「耐震」とともに多く見られる用語です。しかも、建築関係者・専門家も、あたりまえのように使っているために、世の中に、多くのそして大きな「誤解」を広めている用語である、と私には思えます。

漢字は、言うまでもなく「表意文字」。したがって、「断熱」とは、「熱を断つ」という意、「断熱材」は「熱を断つ材料」との意になります。
しかし、英語では、断熱は“Thermal insulation”そして、「断熱材」は“ Materials used to reduce the rate of heat transfer”になるはずです。つまり、「熱の移動する割合を減らすような材料:熱伝導率の小さな材料」のこと。
残念ながら、漢字の「断熱」「断熱材」からは、 to reduce the rate of heat transfer の意が「読み取れない」のです。
一言で言えば、英語圏では、「断熱可能な材料など存在しない」ことを前提にしている。
漢字圏でも、それは同じはずです。だから、本来、漢字には「断熱(材)」という語彙はなかったと考えてよいでしょう。
正確に伝えるのであるならば、「熱移動低減材」あるいは「熱移動緩衝材。
「保温材」「保冷材」の方が「断熱材」よりもマシかもしれませんが、それでも「温度を一定に保ち続ける材料がある」かのような誤解を生む・・・。
もしも、(完全に)「断熱」「保温」「保冷」可能な材料が存在したならば(そのようなイメージをこれらの語は与えるのですが・・・)、「世の中の常識」はひっくりかえるでしょう。
ところが、そのようなイメージ・誤解を蔓延させながら、「断熱」の語が大手を振って世の中に出回っているのです。
しかも、「専門家」であるはずの「建築界の方がた」の誰も、おかしいと言わない・・・。不思議です。 
   私が学生の頃は、「断熱」ではなく「インシュレーション」という呼称が使われていたと思います。適当な語がなかったのです。
   おそらく、「断熱」という語は、理工系の現代人が造った和製漢語ではないでしょうか。
   なぜなら、明治人ならば、このような誤ったイメージを生む語は造らなかったと思えるからです。
   明治期に造られたコンクリート⇒混擬土などは言い得て妙な造語ではありませんか。
   多分明治人なら「インシュレーション」に絶妙な漢字をあてがって済ましたかもしれません。
     「断熱」は、木造軸組工法を「在来」工法と読み替えた《企み》と同趣旨の造語ではないか、と私は推測しています。
     そして、こういう語を発明した方がたの「思考」法に、「原子力ムラ」の方がたと同じものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。

そこで、なぜこれほどまでに「断熱」という《概念》が《一般化》したのか、知っておいた方がよい、と思いますので、かつて(2005年)、茨城県建築士事務所協会主催「建築設計講座」のために作成したテキストから、当該部分を抜粋して転載させていただきます。
 


驚くべきことは、1980年の「指針」で「断熱材」が推奨されて以来、「現場」から、木造建築での壁内等の腐朽の急増が指摘されていながら、指針の見直し(それも十分とは言えない内容)が為されたのは1999年、つまりほぼ五分の一世紀後だったということ。その間、多くの建物をダメにし、なおかつ「現場」を大きく混乱させ、その「混乱」は現在にまで及んでいるのです。
今、建築に関わる方がたで、上記の「経緯」をご存知の方はどのくらい居られるでしょうか。「経緯」を知らぬまま、「断熱」の語に振り回されている、というのが「実情」ではないでしょうか。

私は、居住環境を整えるにあたり、「インシュレーション」について考えることは重要なことだと考えています。
しかしそれは、「断熱材」を如何に使うか、ということではないはずです。
そうではなく、「インシュレーションについて考えること」とは、居住環境の熱的性質の側面について、熱の性質に基づいて考えることであると私は考えています。

ところが、「熱」というのは、きわめて分りづらい「対象」です。
温度と湿度の関係、それに材料・物質自体の性質が微妙に絡んでくる。これを「立体的に」把握することは容易ではないからです。
たとえば、南部鉄器や山形鉄器製の急須は、鉄だからすぐに冷めるように思えますが、陶磁器製のそれよりも湯冷めしにくい、という特徴があります。この理由を説明するのはなかなか難しい。
あるいはまた、「土蔵や塗り壁づくりの建物の内部が恒温、恒湿なのはなぜか」、そしてまた「土蔵の壁や煉瓦造の壁は、RC壁造の壁に比べ、日差しを浴び続けても熱くなりにくいが、それはなぜか(土、煉瓦、コンクリートの比熱:温まりやすさ:は大差ないのです!)」・・・この説明も難しい・・・。


   ここに掲げた「指針」の場合、居住空間の「室温」をいかに「閉じ込めるか」「一定に保つか」という一点に「関心」が集中したこと、
   つまり、「現象」を単純図式化した結果、いろいろな問題を起こしたと考えてよいでしょう。
   そのとき、特に、「木材の特質」を無視したことが問題を大きくしています。

そこで、前記講座のテキストに、一般的な熱の性質の「指標」である「熱伝導率」と「比熱」を諸物質・材料についてまとめてみた表がありましたので、以下に転載します。ただし、これによって、何かが分る、というわけではありません。あくまでも「概観」です。



熱伝導率は、註に示したように、置かれた「環境」の温度・湿度で異なる、という点に注目してください。一筋縄ではゆかない証です。
参考として挙げた塗り壁(土壁)、煉瓦壁の特徴も、「熱」の問題が、単純ではないことの一例です。
   瓦の土居葺きも、土壁と同じ効能を持っていたのかもしれません。
往時の人びとの建物づくりでも、当然、居住空間の熱的側面も、工夫の対象であったと考えられます。しかし、これらの工夫は、架構の工夫などに比べ、「見えにくい」、つまり「分りづらい」のです。塗り壁づくり、土蔵造りなどは、比較的「見える・分る」事例なのでしょう。「越屋根」なども、その一つかもしれません。
   
   土蔵の詳細については、「近江八幡・旧西川家の土蔵の詳細」で、土蔵の屋根の施工詳細は「西川家の土蔵の施工」で紹介しています。
   この例は、直に瓦を葺いていますが、別途土塗屋根上に木造の小屋・屋根を造ることがあります。かつて、東京・杉並の農家の土蔵でも見かけました。

屋根面のインシュレーションについては、これまで私も、いろいろ試みてはきましたが、どうするのがよいのか、未だに確信を持てていない、というのが正直なところです(壁は、大抵漆喰真壁なので、施さない場合がほとんどです)。
「棟持柱の試み」で紹介の例では、二階は天井を設けない屋根裏部屋の形ですが、屋根面からの熱射を避けるためのインシュレーションは、屋根面(天井内)の空気をドラフトで越屋根部で排出する方策を採っています。その設計図が下図。
   天井は、垂木下面に杉板を張り、野地板と天井板との間の空気を排出する方策です。同じく、野地板と瓦の間の空気も排出しています。
これは、「煉瓦の活用」で紹介した事例で最初に行った方策の継承。いずれの場合も、一定の効果はあり、屋根直下の部屋でも夏、熱射により暑くはなっていません。
   室内は、越屋根の欄間の開け閉めで通風を調整しています。ただ、建てつけの悪さと、収縮により、隙間風で冬季は寒い![文言追加 13日 9.00]

ところが、同じ考えで、仕事場兼自宅の屋根で、下図のように、棟押えの部分に下図のような細工を施しましたが、ここでは、あまり効果がありません。屋根裏部屋は、夏暑くなるのです。

この違いは、ドラフト効果の大小だろうと推測しています。
越屋根に施した例では、通気孔は20mm径@約45㎝、棟板押えの場合は、棟のほぼ全長にわたって排気用の空隙がある。
考えてみれば当然なのですが(後の祭りとは、まさにこのこと!)、前者の方が排出孔が小さい分、ドラフトの速度が大きくなる。つまり、空気がよく流れる。
   工事中に、タバコの煙を流入口に近づけると、勢いよく流れたことを覚えています。
それに対し、後者の場合、排出孔が大きいので流れが遅くなり、その分熱せられた空気の滞留時間が長くなるからだ、と思われます。
排出口を限定すれば(小さくすれば)、多分改良されると考えていますが、未実施、つまり確かめていません・・・・!   

  
もう少し、往時の人びとの surroundings の熱的側面への対応のありようについて学習しなければ、と思いつつ、長い間疎かにしてきてしまっているのです。
往時の人びとの知恵に学びたい、と思っていますが、とっかかりが分らない・・・。とにかく、事例を集めることかな?
寒冷地にお住まいの方、是非ご教示願います。(暑い地域の対処法はおおよそ推測できますので・・・)![文言追加 13日 9.00]
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「ここに、《建築家》は、要らない」 

2012-09-17 15:25:32 | 専門家のありよう

       滝 大吉 著 「建築学講義録」第一章 建築学の主意
蔵書印で隠れている箇所を補うと、以下になります。
  建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
  成丈恰好能く丈夫にして無汰の生ぜぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問にして・・・

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[文言補足 18日 2.30][文言追加 18日 7.17][文言補足 18日 10.07]

先日、ある市役所に勤める方からメールをいただきました。
同意をいただきましたので、その一部を紹介させていただきます。場所や人物が特定されないように加工してあります。
   ・・・・・   
   今日、〇大学の若手の〇先生の話を聞きました。
   〇市役所(の建物)は〇さんの「作品」で、とてもすばらしい。
   あなたの市(私の勤め先)でも〇さんを呼んで設計してもらったら?
   と言われ「カチン」ときました。
   これまで、設計者は施主の要望を超えた設計をしないといけない、と思っていましたが、
   今日の話で変わりました。
   それは、施主(市民)は、今流行りの一「建築家」の思惑通りに動かされているだけ、
   つまり、施主を含めて「作品」の一部にされてしまっているだけ。
   それではだめなんではないだろうかと。 

   「建築家」がいなかった時代にも建物や街が美しかったように、  
   そのような時代の人びとが持っていた感覚をもって、
   「建築家」の思惑を超えないといけないんではないかと。
   「建築家」がいなくてもいい建物や街ができるんだ!ということを
   いつか○先生に言ってやりたいと思いました。

   こんなことを考えて、なかなか涼しくならない私でございます・・・
   ・・・・・

たとえば、F・L ライトが設計・計画に関わった建物について、あるいは構想段階の様子について、それらに係わる諸資料(設計図のコピー、スケッチのコピー、あるいはできあがった建物の写真など)を編んだ書物を、通常 F・L ライトの「作品集」と呼んでいます。
同じように、ある彫刻家の制作した彫刻の写真やデータなどを編纂した書物も「作品集」と呼ぶことがあります(美術館ではカタログ:目録などと呼ぶようです)。絵画の場合も同様です。

では、ここで常用される「作品集」の「作品」は、ライトの場合(つまり、建築に係わる場合)と彫刻、絵画などの場合と、同じ意で扱えるのでしょうか。扱ってよいのでしょうか。

紹介したメールの内容を理解するためには、この点について考えてみる必要があると思います。
すなわち「作品とは何か」。

「作品」を英語では work と言うようです。
   作品:製作物。主に、芸術活動によって作られたもの。文学作品。(広辞苑)
   作品:心をこめて制作したもの。狭義では、文芸・美術・工芸など芸術上の制作物をさす。(新明解国語辞典)
   work:④a 細工、製作 b(細工品・工芸品・彫刻などの)製作品
       ⑦(芸術などの)作品;著作、著述 特定の個々の作品をいう場合は
         a picture by Picasso のように言うことが多い。・・・・(新英和中辞典)
では、ここにでてくる「芸術」「芸術活動」とは、何を言うのでしょうか。
   芸術:①技と学[後漢書 孝安帝紀]
       ②(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、観賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。
        絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを       
        指す場合ももある。(広辞苑)
   芸術:一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人生の哀歓などを美的表現にまで高めて
       描き出す人間の活動と、その作品。文学・絵画・彫刻・音楽・演劇など。(新明解国語辞典)
   art :①芸術;美術・・・②専門の技術、技芸;技巧、わざ、腕・・・(新英和中辞典)

広辞苑の解説では、「観賞的価値の創出・・・」の活動・所産とし、絵画、彫刻、工芸、詩、音楽、舞踊と並んで「建築」が出てきます。
つまり、「建築」も「観賞の対象」として見なされています。
おそらく、これが、現在の世の中の理解・解釈の大勢なのかもしれません。

しかし、「建築」は、他の絵画・彫刻・工芸・詩・音楽・舞踊などとは、決定的な違いがある、と私は考えています。
それは、他がすべて、それに関わる「個人」の、いわば「思い通りになる」ものであるのに対し、「建築」はそうではないからです。
「建築」の場合、自らが自らの思いを実現すべく身銭を切って作品の制作に関わる場合を除き、制作物は制作者個人の思い通りになるものものではない のです。
言い方を変えれば、建築は、必ず他者に関わる、あるいは、他者が関わる、ということです。
単なる観賞の対象として、一個人によって、その個人の「表現」の為に、制作されるものではない、のです。[文言補足 18日 2.30]
   「建築」という語は、古くから存在する語彙です。
   しかし、明治以後(正確に言うと明治30年:1897年以降)、この語は、ARCHITECTURE に対応する日本語として
   使われるようになります。
       現在では、漢字を用いる諸地域で、同様の意に使われています。
    本来の「建築」は、字の通り、建て築くこと、すなわち build を意味します。
    ARCHITECTURE の当初の訳語は「造家」でした。それを「建築」に変えよう、というのが伊東忠太の提言。
    その提言からの字が取去られて現在の「建築」が生まれてしまったのです。
    研究社の「新英和中辞典」では、ARCHITECTURE :建築術、建築学 とあります。
    これは多分、英語の原義に忠実な訳だと思います。
    そういう理解・認識が日本では欠けているように思います。
    なお、このあたりについては「日本の『建築』教育」「実業家:職人が実業家だった頃」で触れています。

現在、多くの建築に関わる方、特に「建築家」を任ずる方がたの多くは、「建築の設計」とは(私の常用語で言えば「建物の設計」とは)、絵画・彫刻などのいわゆる「造形芸術」と同じく、「自ら(の独自性・個性・考え・・・)を表出する、表現すること」だ、と考えておられるのではないでしょうか。つまり、広辞苑の解説そのまま。
それはすなわち、「実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って(よって)真美を発揮するに在る」という「理解」にほかなりません。   
この文言は、伊東忠太の「造家」を「建築術」に改めよ、との提言趣意書にある一節です。
彼は、なぜ「造家」の語を変えたいと考えたのか。
この文言は、次の一節に続きます。
「・・アーキテクチュールの本義は啻に(ただに)家屋の築造するの術にあらず・・・」。
そして更に次のように続けるのです。
「彼の墳墓、記念碑、凱旋門の如きは決して家屋の中に列すべきものに非ざるなり。・・・」
つまり、「家屋の築造」などはいわばマイナーなもの、というわけです。
これは推測・憶測ですが、彼が「家屋」「造家」を嫌ったのは、家屋、造家には、必ずそこに住まう人が、非常に具体的な人が、居るからではないか、と思います。
具体的な顔を持つ人びとにかかずらうことは、「創作」すなわち「我が表現」の邪魔にしかならない・・・。だからこそ「実体を建造物に藉り・・・」という文言が挟まれることになるのではないでしょうか。
建造物には必ず他人が居る。まともにそれに係わっていたら、思うようにならない。それゆえ実体を建造物に藉りることになったのです。
   伊東忠太が教育に携わった時代の建築教育では、「どのような意匠の」建物にするか、に集中しています。
   「意匠」とは、簡単に言えば、形体のこと。当時では西欧の「様式」に拠る形体が中心。
   東京大学建築学科図書室には、当時の学生の図面がいくつか保存されていますが、その中には、
   立面図に、この立面の建物をいかなる用途の建物に供すべきか、を書き記したものが多数あります。
   これは裁判所向き、・・・などという詞書(ことばがき)です。
   しかし、そのいずれにも平面図はありません。
   では、何をもって立面が決められたのか?
   おそらく、彼の地の建物の写真、図、図面などがモデルだったのでしょう。
   伊東は「意匠至上主義の時代でより多くヨーロッパ趣味をあらわしたものが、よりよい建築である」、と
   述べているそうです。(岸田日出刀著「伊東忠太」)
では、こういう時代の教育を受けた方がたの設計した建物は、出来が悪かったでしょうか?
必ずしもそうではありません。むしろ、使える建物が多い。今話題になっている大阪の中之島にある図書館(下図)などもその一つではないでしょうか。

                      鈴木 博之・初田 亨 編「図面に見る都市建築の明治」(柏書房)より転載編集

しかし、現在の「建築家」の設計した建物は、その多くもまた「実体を建造物に藉り」我が意の発露に心したものではないかと思いますが、大半が使える建物ではない、と言ってよいと私には思えます。そして、寿命も短い。
この違いは何なのでしょう。
それは多分、明治初頭に生きた方がたには、人の世についての「素養」があったからだと思います。それは、江戸時代の人びとならあたりまえに持っていた「素養」(明治初頭の事業に携わった渋沢栄一や久原房之助といった方がたも同じだったように思えます)。
つまり、その建物は人びとにどのように使われるか、について、あたりまえのこととして一定程度分っていた。その「程度」は、現在の「建築家」のそれとは比較にならないほど高かった、と言ってよいのではないでしょうか。
多くの職人の方がたに読まれた「建築学講義録」では、「いかにつくるか」が述べられ、「何をつくるか」については触れていません。
これも、当時の職人の方がたにとって、「何をつくるか」は自明のことだったからだ、と考えられます。
なぜなら、職人:専門家は、常に人びとと共に在ったからです。

現在の「建築家」を任じる方がたの多くは、自らを表現すること、それをより高めることに「熱中」し、人の世は、「彼らが意匠の運用で真美を発揮するために藉りる『実体』」を提供してくれるものに過ぎない、と思っているのかもしれません。人びとと共にいる必要はない、のです。むしろ鬱陶しい・・・。

いったい、彼らがつくる建物:作品は、何なのでしょう。
     

9月11日付の毎日新聞夕刊に、「第13回 ベネチア・ビエンナーレ国際建築展 報告」という特集ページが組まれていました(全文は、毎日 jp でアクセスできると思います)。
タイトルは「注目された『人間性』」。日本からの出展のテーマは「ここに、建築は、可能か」であったとのこと。そして、展示責任者は某「建築家」。
記事の中に、ある「建築評論家」の言が紹介されていました。
「(彼は)世界的に評価の高い日本の建築家の中で、最先端を歩む表現者の一人。その彼が大震災を機に建築を根本から見直すというのは『事件』だった。」
この発言の紹介のあと、記事は次のように続きます。
「・・・今回、社会との関係が問い直されたことも大きい。(今回の)総合ディレクターが掲げた全体テーマは“ common ground ”。歴史や文化など、建築と人々の『共通基盤』を再発見する狙いが込められている。アート色が強かった前回に比べ、全体に堅実な内容に仕上がった。・・・」
   「事件」については、「理解不能」で触れています。

この「報告」は、建築に係わる多くの方がたに特有の、言わんとすることがよく分らない文章でした。
  たとえば、アート色とは何だ、art とは違うのか同じなのか、一体何なのか?
  「注目された人間性」って何?
  「建築と人々の『共通基盤』を再発見する・・」って何?
  今まで、建築と人びとはどんな関係にあると思っていたの?・・・などなど

そして、「根本から、0から見直した」結果が今回の展示なのだとすれば、何ら「見直し」がなされていないのではないか、単にこれまでと「目先」が変っただけなのではないか、と私には思えました。
なぜなら、根本から見直したのならば、それを展示するなどということに至るはずがないからです。
まして、「ここに、建築は、可能か」などとは言わないはずです。言えないはずです。
メールにある「・・・施主(市民)は、今流行りの一『建築家』の思惑通りに動かされているだけ、つまり、施主を含めて『作品』の一部にされてしまっているだけ・・・」という「指摘」は実に的を射ているのです。[文言追加 18日 7.17]
私には、黙々として、外からの「評判」など一切気にせず、今なお支援活動を続けておられる多くの無名の(名が広まることなどは無用と考える)方がたに対して極めて失礼な行動に見えてしかたがありませんでした。[文言補足 18日 10.07]
「ここに、《建築家》は、要らない」のです。

かつて、私が、学生の方がたに必ず最初に言ったのは、建物の設計は、設計者の(個性)表現のための造型制作ではない、ということでした。
建物の設計で、設計者が名前を表わす必要はない、と私は思っているからです。ただ、責任をとるだけ。

冒頭のメールにあるように、私たちが、「素晴らしい」と思う古の建物や街並みを、誰が設計した、などと問いますか?まして、誰それの設計だからいいんだ、などと思いますか?

私が「設計したのは誰だ」と知りたくなるのは、ここをどうして、何を考えてこうしたのだろう、と気になったようなとき。
それは大工さんかも知れず、建て主さんかも知れません。そしてその誰もが、生前に、俺がやった・・・などとは語ってくれてはいません。だから、通常、それが誰だか分りません。
これはかつての「専門家」の間では、あたりまえだったように思います。
その極めつけは、「地方巧者」ではなかったか、と私は思っています。

むかしむかし、芸術系の大学の建築教育は、工学系の大学のそれとは異なり、もっと art 的、design 的な側面が全面に出るべきではないか、と問う学生がいました。
私は、art や design の語を説明するのではなく(それをやっていたら時間がかかり面倒なので)、次のように問い直しました。
「あなたは建物をつくる専門家になりたいのでしょう?」
学生「そうです」
私「建物をつくる、ってどういうことかなぁ」
それで終り。

私は、「建築家」や「建築評論家」・・・を任ずる方がたに、同じように訊ねたいのです。
建物をつくる、ということを、どのように考えておいでなのですか、と。

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buzz communication をこそ・・・・ある教師の苦悩

2011-04-06 21:36:19 | 専門家のありよう
[末尾に註記追加 7日 16.14]

数日前、一通のメールをいただきました。
事故原発の近くの県の、ある教育機関で教師をされている方からでした。

このような思いをされている方は、おそらく多数おられる筈です。

承諾をいただきましたので、公開させていただくことにします。
書かれた方が特定されることのないように編集してあります。


      夕暮れのクロボケです。例年より10日ほど遅い開花です。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[語句補足:紹介者 8日 8.43][誤字訂正:紹介者 9日 17.30]

長文メールで恐縮ですが、思うところを綴りました。

私は以前より原発には反対です。
原発自体そして廃棄物の安全性に疑問を持っているからです。

自分は就職するとき、不覚にも勤務先が原発に近いということを全く思い出さずに就職を決めました。
電気料金には「原子力立地給付金」なるものがあり、小額ですが返金される仕組みがあります。これを知ったときに原発の近くに住むことを初めて意識したのでした。このお金を受け取り拒否するか本気で考えました。

自分は原発反対でいながらにして、原発に就職するものを多数輩出する学校に勤めるという矛盾を抱えている人間です。

偉い方がたの主導でいきなり原発をなくすということは、多くの人々の職を奪うことから現実的ではないとも思っています。
皆が考え直して廃止の方向に進み、このような大きな事故の起こる前に働く人々の職をいきなり奪うことなく、徐々に廃止できればいいのだが、、と願っていました。そうはなりませんでしたが。

では、無力な自分が原発廃止に何ができるか、何をなすべきか、自分なりに考えました。
結論は、
原発に就職を希望する者には、「心ある技術者」となって、いつかその危険性に気づき、内部から原発廃止の声を上げて欲しい、というものです。

「心ある技術者」のイメージを私なりに固めるのに大きな影響を与えたのは、ゴルゴ13と言う漫画の原発事故を題材にした「2万5千年の荒野」という作品の中の第三話です。

この作品は、ある評価でゴルゴ13のベスト作品になっています。
自分はこの作品を読んで本当に涙をこぼしました(ただし、ネットに書評を書いている方がたの多くとは、そのツボは異なります)。

数学を教え、全く素人のラグビー部の顧問の私が、「心ある技術者」の育成として、何ができるでしょうか。
原発に勤める親、親戚、知人を持つ学生に、
その親や親戚、知人が聞いていたとしても決してブレないことを学生に言うとしたら、
自分に嘘をつかずに何が言えるでしょうか。
何か大きなことはできそうにありませんし、気の利いた何も言えそうにありません。

この震災での非常事態を憂える被災せずにすんだ若者たちが、自分に何ができるだろうか、何か発信できないだろうか、と思うのに似ているような気がします。

自分に素直にできること、それは、まさしく学生に「2万5千年の荒野」を勧めることでした。
何の疑いも持たずに原発賛成を口にする学生には、この作品を読むことを勧めています。

かつて原発見学があったころは、この本を宣伝してクラスに置きました。
「諸君らの親御さんや親戚、知人には原発関係の方もいるだろう。世の中は原発賛成の人も反対の人もいる。
自分は原発反対だが、いきなりなくすということもできそうにない。少なくとも自分にはその方法は思いつかない。
もしも原発の仕事をしたい、という者がいるならば、その人には『心ある技術者』になって欲しいと考えている。」というような事を言いました。

今は原発見学はなくなりましたが、昨年の10月に原発に将来勤めたいというある学生に、この漫画を勧めたら、学生の間でまわし読みとなり、今私の手元にありません。

「技術者倫理」という言葉を耳にするようになってから久しくなりますが、「技術者倫理」という言葉で、私が真っ先に自分が思い出すのは「2万5千年の荒野」です。
世間で「技術者倫理」と言われるとき、その問題点は「経営者倫理欠如」に帰すべきものばかりと言う気がします。

「2万5千年の荒野」でも、原発事故の一番大きな原因は、「経営者倫理欠如」ですが、「技術者倫理」が「経営者倫理欠如」を凌駕します。
私が涙をこぼしたのはそこでした。
日頃から技術者として保身も考えずに行動し続けた技師が、最後までその姿勢を崩さずに行動し、経営者側を動かしたところに涙がこぼれたのです。
単に英雄的な行動をしたところでも、その姿勢に敬意を払うゴルゴ13がタバコに火をつけてやるところでもありません。

私の「心ある技師」には実在のモデルもいます。
原発技師ではないですが。その人は、小学2・3年の頃に原子力潜水艦にあこがれていました。
それがいつの頃からか反原発に変わりました。
「事実」と正しい「認識」があれば、そのように変わるものなのだと考えています。
その人は小型機器ではありますがが、低電圧省電力の研究をしています。そして原発関係メーカーにいながら、タバコのポイ捨ての会議中に、それよりも原発の廃棄物を考えるべきだ、と発言するような男です。

私の心の中の「心ある技師」は、原発賛成で原発に勤めた者が身近に原発に接し、危険と認識し、原発反対に変わり、世の中に広める技師。実在しない「2万5千年の荒野」の「心ある技師」バリーと、実在する私の知る低電圧・省電力研究者をもとに、私の心の中の「心ある技師」は形づくられたのです。

原発で当初行方不明が2名いると報道されました。
そのうち1名は、私の担任したクラスの学生らしいと知らされました(ネットで確認すると、操作を誤った上に逃げている、などというひどい噂もありました)。
彼に「心ある技師」の話をしたかはっきりした記憶はありませんが、卒業謝恩会のときに話をしたような記憶がおぼろげながらあります。
このような結末が待っているならば、私は特攻を勧めた教員と同罪だ、と思うと、本当に胸が痛みました。
彼がその場で、常人には考えもつかぬ防御策を講じ、無事であることを願っておりました。

教育を続けていくべきか、自分の教育で悔いが残ることは何か、という思いが混沌として苦しい日々を過ごしました。
自分がこの原発事故を前に成し得たことは、「心ある技師」になることを勧める他にも何かあったのではないかと考えました。数理論理学に携わる者として。

それは、誤った前提の上に、いくら精密な推論を重ねても、結論は無意味であることを、きちんと教育すべきこと。

自分には明らか過ぎて強調する気もないことですし、きちんとした議論ができる方なら何でもないことですが、
「研究者」と呼ばれる方には、そんなことも分っていない、としか思えない方がたがいて、更にそういう方がたに煙に巻かれてしまう現実がある。

何が危険か、ということまでは踏み込まないとすれば、「事実」をみれば、原発が危険なことは明らかです。
 0.制御できなくなった原発は危険。
 1.何かあったら原発は制御できない。
 2.「何か」は起りうる。(「想定外」の津波とか)
 3.原発は危険。
これに反論できる人はいないと思います。
論理学以前に筋道たてて考えられる人なら、反論の余地の無い議論。

ところが「結論ありき」の方は、このような話をされると決まって直接の反論はせず、「・・・だから安全」という議論に持って行きます。
例えば次の如し。
 A.今までの津波の高さは xメートル。
 B.(x+α)メートルの防波堤を作る。
 C.津波以外にも同様のことを考える(地震については耐震基準を満たしている・・)。
 D.対策は講じたので原発は安全。
こんな議論にだまされてしまう。
あるいは「専門家」自身が分っていない。
今後(x+α)メートル以上の津波が来ないと何故言えるのでしょうか。
耐震基準を満たせば安全などと、どうして言えるのでしょうか。
耐震基準を満たしたものが、いままでいくらでも壊れているというのに。

安全と言う結論を得るために、間違った前提のもとに推論を重ねる。そして事故が起きれば「想定外」。

今回の震災では、
「数値信仰」の馬鹿らしさと、「まず前提を疑う」ことの大事さを再認識させられました。
一例を挙げます。
近在では「安定ヨウ素剤」が配布されました。ヨウ素の必要量はどのように算出されたのでしょう。昔少しだけ探しましたが見つけることはできませんでした。
それにそれほど真剣に探す気もありませんでした。

被爆前に摂取すれば何パーセントの効果が期待され、被曝24時間以内なら何パーセントの効果が期待され、などというデータを目にすれば、あらかじめ被曝させられる被験者がいなければならず、[誤字訂正 9日 17.30]
原水爆の実験に際して待機させられた兵士たちが実験台にさせられたぐらいしか、自分には思いつかなかったからです。
さもなくば全くの捏造データでしょうか。
ヨウ素の摂取が効果的というのは信じられましたので、後は自分で考えようと思いました。

ヨウ素不足気味の欧米人によるデータなら、普段からヨウ素を十分摂取している日本人は少量でよいだろうと考えました。
ヨウ素を多量に含む食品も調べ、昆布、とろろ昆布であることがわかりました。子供ができたとき、妻にこれらを十分備蓄しておくように言いました。これはもう5年くらい前の話です。
このことを思い出したとき、「まず前提を疑う」「数値に頼らない」ことをまさしく行っていたのだなと思いました。
他にも放射線量と健康被害の関係も、数値の根拠に疑義があります。
何故メディアではこの数値はこういうことを根拠に決めた数値だということを言わず、X線撮影と比べるだけなのか、不思議です。

「(間違った)前提の上にいくら精密な推論を重ねても結論は無意味である」[語句補足:紹介者 8日 8.43]
「まず前提を疑え」「数値の根拠を知れ」
学生に大事にして欲しいことはいくらでもありそうです。

常人には思いつかぬ防御策を講じてどうか無事でと願っていた行方不明の2名が、既にタービン建屋で亡くなっていたことを知りました。
一人はきっと私のクラスにいた卒業生です。お二人のご冥福を祈りたいと思います。
操作ミスをして逃げて酒を飲んでいた、などとふざけたことをネットに流していた馬鹿どもと、この状況で「...今回の原子力問題についても死者は出ましたか...」などとテレビでのたまった大馬鹿評論家には、体を張って危険に立ち向かうことなど出来ぬでしょう。きっと涙の一滴も流すことはないのでしょう。

「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画があることを以前から知っていたのですが、この震災で知人からも知らされました。
ミツバチと地球の回転は再生可能の象徴。
ミツバチの羽音は buzz communication :口コミで伝えていくことの象徴。
メディアで大きく扱われることのない「上関原発・祝島」の問題、スウェーデン電力事情、再生可能エネルギーの話を題材にしたものだそうです。
 
世の中は変わるのでしょうか。
今必要なのは、大メディアに拠るのではない buzz communication なのかもしれません。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

註記 7日 16.14 
このメールも触れている「上関原発・祝島」にかかわるドキュメンタリー映画の上映会が下記のとおり開催されるとのこと。ブログ「リベラル21」からの転載です。
お近くの方、どうぞ。

2011.04.07 ドキュメンタリー映画「祝の島」緊急上映会
■短信■

 中国電力が山口県上関町に建設中の「上関原発」に対する周辺の島民の反対運動を記録した映画「祝の島」の緊急上映会が開かれます。この工事は、福島原発事故を機に中断されています。

ドキュメンタリー映画「祝の島」緊急上映会

日時:2011年4月9日(土)14:30/18:30
トーク:14:30の回上映後 本橋成一(写真家・映画監督)×纐纈あや(祝の島監督)
     18:30の回上映後 山秋真(ライター)×纐纈あや(祝の島監督)
会場:NPO法人地球映像ネットワーク 神楽坂シアター
    地下鉄東西線 神楽坂駅(神楽坂出口)より3分
    東京都新宿区赤城下町11-1 http://www.naturechannel.jp/access.html
料金:予約 1,000円/当日 1,200円(限定各30席)
予約:ポレポレタイムス社 Tel:03-3227-3005 E-mail:houri@polepoletimes.jp
(岩)

コメント (2)
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《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その3 (完)

2009-12-11 15:02:59 | 専門家のありよう
      
       会津・喜多方の蔵造り 
        会津では、蔵造りの建屋が人びとの「願望」であった。
        煉瓦蔵は蔵造り相応の暮し易さがあり、蔵造りの技術を継承・発展させ、
        昭和30年代まで、つくられ続けていた。


[今回で終りですが、また長くなります。]

大学入試の社会科で受験生に最も敬遠される科目は、日本史と世界史であるという。
実際、入学した学生に問うてみると、高校で日本史を学んだ学生は半数にも満たない。中学校で学んだのが最後で、以後日本史とは無縁であり、ほぼ完全に忘れている。
仮に覚えていたとしても、平安京に何年に遷都したか、平安時代の文化を代表する作品は何であるか、などということだけで、それさえ覚えているのは珍しい。
当然世界史についても同様である。

《国際化》が叫ばれ、《国際交流》《国際関係》あるいは《比較文化》に関心を持つ学生が増えているが、そういう学生たちでも変りはない。
《国際的》とは、外国語が喋れ、外国に行くこと、と勘違いしているのかもしれない。そして、そういう時代だから、もはや(各国の)『歴史』を学ぶことなど無用である、とさえ思っているのかもしれない。留学生の方が日本について知っていたりすることも不思議でない。

それも無理もない。
わが国の学校教育自体が受験目当てになっているからである。受験が終われば忘れてしまうのである。
おそらく、何故歴史を学ぶのかということの認識が教育の現場から喪失しているのだろう。
とりたてて年号や作品名を覚えることを教えなくてもよいから、何故歴史を見るか、その重要なことだけは教えておいてくれないか、というのが私の願望である。
それさえあれば、逆に、時代や時代の文化の特徴も、ことによれば名前も、そして何よりも、文化とは何か、人の営為とは何か、考える姿勢が自ずと身についてくるはずだからである。

しかし、これも驚くにはあたらない。
大学の建築教育も(建築教育以外でも多分同じだと思われるが)、そしてそれを支えているはずの《大学教師》も、欧米の最新事情には(相対的に)通じてはいても、日本(の建築)の歴史を知らない、踏まえていないのが《あたりまえ》だからである。
日本の建築史は「日本建築史」の講座担当者が知っていればことが済む、おそらくそういうことなのだろう。すでにして、建築を学びあるいは教えることにとって、『歴史』を知ることがいかなる意味を持つのか、その認識が欠如しているのである。

   追記
   国際的:international この互換は、それぞれの語の意味の上で間違っていません。
   国際的:国-際 的 
   「際」:出合うこと、会うこと、交わり の意
   international:inter-national
   inter: 中の、間の、相互の という意
   ゆえに、いずれの語も、「国」「national」が、前提になります。
   その前提がないと、この語は、ともに成り立たちません。

考えてみれば、土地柄から、木材で構築物をつくるのがあたりまえであったわが国で、多くの《建築専門家》が木造を知らない、分らない、難しいと言い、木造を多少でも知っていると自ら《木造建築専門家》と称して憚らない、などという最近* の事態ほど異様なことはない(* 1993年当時の「最近」ではあるが、現在も変らない)。
そしてそれを、少しも異様と思わない《専門家の世界》は、常軌を逸していると言わねばならないだろう。

『建築史』の碩学が、いたずらに様式や細部の差異だけに目をやらず、
人びとにとって建物をつくるとはどういうことであり、
そしてそれをどうやって、何を使ってつくろうとしたか、
それが何故、どのように変ってきたのか、変らなければならなかったのか、
人びとの営為とのかかわりで建築の歴史を見る視点を確立していたならば、

また『技術史』の碩学が、技術を天から降って湧くものとしてではなく、いたずらにそのルーツを探すのでもなく、技術とはそれぞれの地域の人びとの生活を営む上での勝れた知恵の結集であるとの視点で見ていたならば、

そしてまた、『構造』の碩学が、木造を最初からダメなものと決めつけず、過去幾多の事例とその技の移り変りのなかに、人びとの知恵の結集を見るだけの素直な視点があったならば、

そしてさらに『建築計画』の碩学が、過去の生活の姿を、いたずらに《遅れた、改良すべき》生活とは見なさずに、そこに「人びとの生活」=「人びとの営為の真の姿」を見るべく努め、やたらに人びとの生活を《先導的に》《指導・改善》しようなどという大それたことばかりを考えなかったならば、

おそらく、いま目にする建築界の異様な状況は結果しなかっただろう。


かつて、《近代化》にために脱亜入欧が標榜された明治時代、将来の《先導的指導者》を約束されていた当時の帝国大学の学生たちは、捨て去るべきは過去の日本であるという「信念」の下、専ら西欧の《知識》の収集につとめたのであるが、彼らは留学先で日本のことを尋ねられ、はじめて「日本のこと=自国のことについて知っておくこと」も必要らしいと気がつく。
たとえば、わが国のおそらく最初の日本建築にかかわる辞典である『日本建築辞彙』の編著者である中村達太郎でさえ、書簡に「・・・・私は当時石灰は英国の何処に生産するかを知っていましたが、日本のどこに産出するか皆無知っていませんでした。日本建築構造も皆無知りませんでした。・・・・」と記している。
彼はその無知を知り、帰国後、それまで彼らが黙殺しようとしてきた大工・棟梁について日本の建物づくりの技を学び、先の著作にとりかかるのである。

おそらく現在、わが国の大半の《専門家・研究者・建築家》は、「日本建築について皆無知らない」し、知らなくてよいとさえ思っているのではなかろうか。そして、それを改めようとの気配は、ないに等しい。
それでいて日本の建築について《先導的・指導的》であろうとした場合、幾多の誤まった考え方を《先導》してしまうことさえ、十分にあり得るのである。
その一つの例を挙げよう。

会津・喜多方は蔵の多い街である。多くは土蔵であるが、それに混じって多数の煉瓦造の蔵がある。しかも町なかに限らず農村地帯にまで煉瓦蔵はある。
他の地域に例がないこの「異様な事実」に対する解釈として、東北地域の民家研究の第一人者を任ずるある研究者は「・・・・明治30年代にこの地で(煉瓦の生産が)開始(されたが)、必ずしも販路が順調では(なく)、その結果(煉瓦製造者は)出資者への配当や燃料代の支払いも滞りがちで、製品の煉瓦や土瓦を現物で引き取るよう要請されたとも伝えている。『煉瓦造蔵は作りたくて作ったのではない、作らせられたのだ』という住民の苦笑まじりの述懐もあるから、おそらく喜多方の・・・・煉瓦造は似たような事情で増加していったものだろう・・・・」(「喜多方の町並Ⅱ:伝統的建造物群保存調査報告書」より)、「・・・・昭和の初め頃まで、この付近一帯に増加した(木骨に煉瓦を被覆した)煉瓦造は、(煉瓦の吸水のため)内部の木柱が土蔵よりも腐食しやすいなどの欠陥が分って新築が後を絶った。・・・・それでも在来の白い土蔵と茅葺の集落のなかでも結構調和して見えるから奇妙である・・・・」(図説・日本の町並」より)と述べている。

同じく喜多方の蔵を紹介した『写真集・蔵』では、高名な建築技術史の権威は「明治24年の濃尾大地震後、煉瓦造は地震に弱いという評判が地下水のように地方の人々の耳に浸み込んでいた(ので、煉瓦造は日本には定着しなかった)・・・・」と記し、大正12年の関東大震災以後には、地方でも煉瓦造建築は完全に途絶えてしまうという《通説》を展開している。

       
        喜多方郊外の散村 土蔵と煉瓦蔵(手前)が並ぶ

おそらく、何も知らない人が、これら学術図書の部類に入る報告書や解説書・紹介所の類を読めば、そこに述べられている《事実》を「真実」としてそのまま信じてしまうだろう。
なぜなら、学者・研究者が真実の探求者であるとの「通説」が信じられるならば、その言説も真実であると思い込むだろうからである。
考えてみれば、これほど怖ろしいことはない。

噂、伝聞が誤まった情報を伝えることはよく言われることである。流言蜚語(飛語)の名のとおり、その多くは、文書によらない伝聞の過程中に捻じ曲がるのであり、発信源は必ずしも誤まっているわけではあるまい。
しかし、発信源が誤まっており、しかもそれが《権威ある学者の著した文書》に明記されていたならば、これはとんでもないことになる。
《権威》のお墨付きで《世論操作》がきわめて容易に行なわれることは、明々白々だからである。

ところで、喜多方の煉瓦造建築は、明治30年代、登り窯による煉瓦製造の開始とともに始まり、大量生産工場による他地域の廉価な(しかし喜多方向きではない)煉瓦や瓦に圧倒され、登り窯の操業が経済的に困難になる昭和30年代までのおよそ60年以上にわたり建て続けられ、しかも、その後も喜多方産の煉瓦による地元の人びとの煉瓦蔵建設の潜在的需要は変らずに強かったというのが事実である。
喜多方の人びとにとっては、喜多方向きにつくられた地場産の煉瓦は、喜多方の建物づくりにとって重要な材料の一つとなっていたのである。
つまり、喜多方の煉瓦造は、他の地域がどうあれ、喜多方の人びとの、それをよしとする独自の判断によりつくられてきたのである。

ということは、先に引用した《学者・研究者・権威者》の著述はすべて《嘘》《いいかげん》であるということになる。
考えてみれば、借金の返済のために、嫌なものを60年もつくり続けるほど喜多方の人びとがお人よしのはずはなく、木柱が腐るような建て方を、60年も黙って認めるはずもない。
そして、大地震の被害のニュースを知っても、彼らは彼らの煉瓦造を断念しなかった。彼らには喜多方の煉瓦造に自信があったのである。

   註 喜多方の煉瓦造建築についての詳細は下記参照
      「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1」

いったい、なぜ先の著作に見られるような《嘘》や《いいかげん》な著述が平然となされるのか。
それは、《専門家・学者・研究者》が、地域を見る目を持たない、しかも養わないからである。
彼らにある《視点》は、常に《中央》からの視点である。
《地方》は、常に《中央》のおこぼれにあずかるもの、このいかんともしがたい『地方』蔑視、地域に生きる人びとへの蔑視が、先のような著述を平然と生み出す真因になっていると見なして、まず間違いない。
地域・地方研究を標榜する一群の《研究者》たちでさえ、はたして『地方蔑視観』を根底から拭い去っているかどうか、はなはだ疑わしい。地域は単なる一つの《研究対象》にすぎないかもしれないのである。

研究社の英和中辞典の“local”の項には、わざわざ注釈として「首都に対するいわゆる『地方』の意ではなく、首都もまた local である」と記されているが*、このような注釈が施されるということは、わが国にいかに『地方蔑視観』が根強いか、『地方』“local”という語が誤解されているか、を如実に示していると言ってよい。

   * 研究社「新英和中辞典」の local の項には次のようにある。
     ①場所の、土地の
     ② a (特定の)地方の、地元の、地域特有の〈首都に対するいわゆる「地方」の意には
       provincial を用いる;首都もまた「一地方」なので local である〉。
       ・・・・
       b 以下略

かつて人びとは、ものごとの真実を自らの身をもって判断していた。判断の「基準」は、それぞれの地域の人びと自身のものであった。同じものごとが、異なる地域によって別の意味、別の理解を与えられることも、またあたりまえであった。
むしろそうであるからこそ、明治以前、人びとは、他国を含めて他の地域との『交流』により、いろいろなことを虚心坦懐に学び得たのである。

すなわち、判断の基準が、地域により、人により、つまり(それぞれの)「生活の必然」の違いにより異なり、画一的ではないこと、これが人びとにとっては当然すぎるほど当然の認識であった。
その意味では、古代以来江戸時代までの日本人は、現在よりも数等『国際的』であった、と言うことができるかもしれない。

しかしながら、おせっかいな人たち(先の《肩書》の人たち=《先導的》であることを自負する人たち)は依然として、地域により、人により基準がまちまちでは、ものごとがいいかげんになる、と思っているようだ。

しかし、よく考えてみよう。
人は、自らのために、自らの生活遂行のために必要なものごとを、いいかげんに為すものだろうか。
人びと=「一般大衆」は、それほど愚かなのだろうか。
《学者・研究者》は、それほど賢いのであろうか。


ここでもう一度喜多方の煉瓦造に触れれば、煉瓦を多用した喜多方の人びとには、とかく一般にありがちな、煉瓦でつくれば洋風になる、という考えはなかったことに注目すべきである。
彼らにとって煉瓦は、たまたま目の前に現われた、彼らの建物づくりに使えると判断された一材料にすぎなかったのである。

彼らは、《中央》の人たちのような煉瓦造に対する思い入れはなく、それまでに培われていた自前の技でそれを巧みに使いこなしたにすぎないのである(使えないと判断すれば、使わなかったに違いない)。

そして、これも重要なことなのだが、煉瓦を使うようになっても、それ以前の技術はもとより、職人の仕事も、決して切り捨てることがなかったことも、注目してよいだろう。それまでの職人組織が破壊されることなく、新たに生まれた「煉瓦職」とともに共存したのである。

この柔軟さこそ、本来、地域の人びとそれぞれが持っていた力なのであり、その連続的行使が明治以前の日本の建築の歴史であったということを、いまあらためて確認する必要があるだろう。
そこには明らかに、現代の切り捨て・廃棄が当然の《合理主義》とは根本的に異なる「思想:考え方」が背景にあったのである。


木造に関するここ数年の動きをいろいろ見聞きするなかで、私によく分ったのは、関係者はもとより、木造に関心を持つ人びとが、あまりにも、わが国固有の木造建築技術・その歴史について、そして、わが国の木造建築が現在の状況になった『いわれ』について、知らない、知りたがらない、触れたがらない、ということであった。
私には、最近の動きは、《単なる木造に関心を引くためのキャンペーン》にすぎないように見えた。《この春の流行は〇〇色・・・・・・》という化粧品のキャンペーンと何ら変らない一過性の動きにさえ見えたのである。熱が冷めれば、季節が、時代が変れば、また関心は別の所に向いてしまうかもしれない、そういう類の動きである。

わが国の木造建築をとりまく状況は、たしかに早急な対症療法とリハビリテーションが必要に思える状態であることは事実である。出血があれば止血しなければならず、社会から遠ざけられていたからには社会復帰のためのリハビリテーションも必要であると考えたくなるのも事実だろう。

けれども、その「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションは、単なる病の転化にもなりかねない。必ず、症状の真因を究める必要があるはずである。
残念ながら、最近の木造再興に関する論議には、この視点がまったくない。

   追記
   この文章を書いてからおよそ15年、相変わらず木造で林業振興を、国産材を使おう、という動きはあります。
   しかし、山林の多くは相変わらず荒れたままです。
   一部の《篤林家》が居ることは居ますが、それを《ブランド》にしてしまう場合も多く見かけます。
   どこまで行っても、稼ぐことが先行する、ここでも近江商人がいないようです。
   しかしそれは、林業家のせいではない、けしかける《建築家・専門家そして行政》のせいなのです。
   「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションを考えるからなのです。
   そして一方では、原始林を伐採した廉価な外国産材が相変わらず大量に輸入されています。
   極端な話、外国産材の量が減れば、否が応でも国産材を使うはずなのですが・・・・。

この「真因」:わが国の木造建築の現在の悲しむべき状況を生みだした根本的な原因については、・・・・「新建築」誌1987年6月号の「流浪の木造校舎:木造建築の悲哀」* において概略のべさせていただいたが(* 先回転載してあります)、
一言で言えば、(「真因」は、)木造建築を取り巻く《専門家・建築家》の世界の《異様さ》にあると考えている。

しかし残念ながら、この《異様さ》は、建築界では一向に実感されていないように思われる。《異様さ》は気付かれもせず、気付こうともしない。
《異様さ》が日常になる、それに気付かなくなる、これは最も怖ろしい症状である。
私自身も、ともすれば、その《異様な日常》に埋没してしまいかねない。
それを放置したままでの木造再興論議は、かつての建築界の過ちを再び犯すことになるだろう。

今回私が、「木造建築を増やすための提案」という趣旨の編集者の依頼に反して、いろいろな局面の《異様な》症例を多々書き連ねてきたのは、《建築界の異様な日常》をより詳しく具体的に示すことにより、《異様さ》を思い起こす一つの契機になれば、と願ったからである。


これからのわが国の学校などで木造建築が増えてくるには、木造でそれらの建物をつくることが、何ら特別のことではなく、かつてのように『あたりまえ』に扱われるようになることが必要だろう。
したがって今後、木造建築が増えるために必要なのは、木造が『あたりまえ』になるための条件・環境整備である。
すなわち、『異様さ』を改めることである。《専門家》はそれに係わる必要があるだろう。

しかしそれは、木造復活のためと称するまた新たな《先導・指導》《管理》のための画策を企図することではない。
《専門家》自らが率先して、自らの考え方、その拠って立つ立脚点を正常に戻すことである。
そして、わが国の建築の歴史について、わが国の木造技術について、その持つ豊饒(豊穣)な可能性について、あらためて根本的に学び直すことである。

もちろん、このような根底に戻る、文字通りの radical な論議は、やっている暇がない、それほど事態は切迫している、との異論を唱える人もいるだろう。
しかし、この《異常さ》は、普通の人びとの意志とは関係なく、
《専門家》と称する一握りの人たちの手によって、ここ1世紀以上という長きに* わたって(* 明治以降)、
「それ以前の人びとの営みの積み重ね」=「歴史」を徹底的に破壊し、切り捨てることにより、人為的につくられてきたものである。

その結果として生じた《異常さ》の修復が、一朝一夕でできると考えることの方がおかしい。
田畑の耕土は、一朝一夕にはできない。耕土にするための人びとの長い年月をかけての営みが必要である。
しかし、その耕土を破壊することは容易である。一日でもできる。
そして、一度破壊された耕土の復活には、ほとんどゼロからの出直しに近い営みが必要なのだ。

もしも《専門家》が、これを一晩で再興できると思っているのならば、
あるいは対症療法で再興できる程度の認識でことにあたっているのならば、
そのような木造復権論議は、あまりにも事態の認識が浅すぎる。事態の理解が甘すぎる。

そうであれば、そうであるからこそ、今先ず必要なのは、
『《専門家》のノーマライゼーション』なのではあるまいか。

    ・・・・たとえば、農村、漁村、散村、どれもこれも国土の大事な一部分です。
    そこに住んでくれる人がいなくては荒廃してしまう。住む人なしでは、
    そこに祖先が長い歳月をかけて育て上げ、そして伝えてきた文化も消えうせてしまう。
    それぞれの土地の食事や祭といった文化を担っているのはあくまでも人です。
    その人がいなくなっては、なにもかもなくなってしまう。
    ・・・・・・・・
    自分たちの食事や自分たちの祭りを手放すということは、
    自分たちの立っている大地と切れてしまうのと同じこと、やがてわたしたちは、
    どうして自分たちがこの日本という土地に住んでいるのか分からなくなってしまいそうです。・・・・
                       「毎日新聞」1992年10月26日『井上ひさし 響談』より  
                                                      〈完〉

   追記
   おしまいまで読んでいただきありがとうございました。

   正直な気持ちを言えば、
   ノーマライズできない人、したくない人、現状のままでいたい人・・・・は、
   「名誉専門家」の称号を差し上げますから、今すぐ引退していただきたい、という思いです。
   普通の人びとを馬鹿にしてはいけません。
   フランス映画だと思いますが「自由を我らに」というのがありました。
   そうなのです、「自由を我らに!」なのです。何か封建領主との斗いみたいですが・・・。    

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《専門家》のノーマライゼーション-その2:補足

2009-12-09 12:09:56 | 専門家のありよう
[語句追加 14.45][註記追加 22.41]

明治の「近代化」以降現代に至るまで、わが国の建物づくりでは、ひたすら「木造からの脱却」を目指した策が講じられてきました。
その実相を「新建築」誌1987年6月号に「流浪の木造校舎―木造建築の悲哀」で簡単に記したことに触れました。

   註 全文は下記を [註記追加 22.41]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2b5bd8ad052da3130502a112256b5a2e

その中から、学校校舎の場合について、その「策」の変動の様を如実に示す文書を紹介します。
実に僅か25年ほどの間に、「変動」が意図的に起こされたことが分ります。

先ず、1959年(昭和34年)の文書から。これは「鉄骨校舎のすすめ」です。
ここでは、第二次大戦後、学校校舎の建物について、何がなされてきたか、おおよその経緯も書かれています。言い回しが変な文ですが、原文のままです。

     

そして、そのおよそ25年後、1985年(昭和60年)の文書から。これが「木造校舎のすすめ」。

     

こんな風にコロコロ変るのは「指導」ではありません。朝令暮改の見本です。

ところで、この木造からの脱却を説き、そして木造への復帰を説く、実は、その背後に、建築側として(語句追加 14.45)、見え隠れしているのが同一人物とその周辺の人たちである、と知って驚かない人はいないでしょう。
節操のない、恥を知らない《専門家》の代表です。
そして、勘のいい方は、おそらく推定できる筈です。そうです。例の「一統」の「祖」となる方たちなのです。変り身の早さ、抜群の方たち。その《自分たちの伝統》は、実に見事に継承されているのです。

暮しやすく、安全な建物づくりのすべてを、人びとに任せれば、かつてのように(近世までのように、近現代なら昭和初頭までのように)、ずっとよいものができるはずです。
コメント (7)
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《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その2

2009-12-08 18:07:27 | 専門家のありよう

本題と関係ありません。神社の杜の様子です。

[前回の続き:今回も長くてくたびれるかもしれません。ご容赦を]
[文言追加改訂 23.07][文言追加 9日 15.14][註記追加 9日 22.20]


かつて、日本中の学校はほとんどが木造であった。
そのとき、木造であることを高らかに標榜した《意欲的》な建物があったろうか。《斬新な》技術を示威した建物があったろうか。
あるいは鉄筋コンクリート造の学校が現われたとき、《斬新さ》や鉄筋コンクリート造であることを示威的に標榜した《意欲的》な建物があったろうか。
そうではないだろう。
最近の学校建築に比べて、一般的な木造校舎や、敗戦直後の鉄筋コンクリート造の学校建築(たとえば、昭和25年:1950年建設の「西戸山小学校」など)の方が、よほど清々しく、空間としてよく考えられていたように思えてならない。




私が通った小学校は、当時の木造の標準的な校舎であったが、窓まわり一つをとっても、その神経の行き届いた配慮・丁寧さは*、最近の設計とは比べものにならないほどよく考えられていた。

   * 腰壁から上、窓は3段の構成になっていて、どれも引き違い戸でした。
     1段目は、窓台から座った子どもの頭くらいの高さまで、2段目は、そこから内法高まで、
     そして3段目は、内法から天井近くまで、いわゆる欄間、子どもの手ではなかなか開けられない。
     ときどきの気象状況に応じて、開ける窓を選べたのです。
     ある年代の方々は、こういう学校で育っていて、知っています。

そのような「使える建物」を考えた設計による建物は、当然「使いこなし」「維持」も容易である。なぜなら、それこそが設計の焦点だったからである。
そして当然そこでは、子どもの神経がさかなでされるようなことはなく、使われた材料をこれみよがしに示威するようなところも、また設計者の存在を誇示するようなところも、いささかもない。そういう意味では、少しも《意欲的》でもなく、《斬新》でもない。

しかし、「使える建物」をつくるという点では、きわめて「意欲的」であり、常に「斬新的」であったのではなかろうか。
いかなる材料であれ、当時の「建築家・専門家」は、学校という子どもたちの住む(暮す)空間をつくる、という一点に神経を払っていた。
これに対して、最近の木造建築は、木造で建物をつくるのではなく、専ら《木造の表現》にうつつをぬかし、それに反比例して、こまやかな配慮が抜け落ちているように私には見える。

明治のはじめ、若き伊藤忠太は「建築とは『実体を建物に籍り(かり)意匠の運用により真美を発揮する』ことである」と定義したが、いま《建築家》は、建物に名を借りて、巨大な《積木遊び》に夢中になっているのかもしれない。
要するに、《建築家》は木造を「あたりまえ」に扱っていないのである。

もちろん、最近の木造建築は、《木造であること》を社会に強く印象づけること=キャンペーンをはることが、木造の復権のために必要なのだ、という《政策的》考え方の反映としてあるのかもしれない*。

   * 私は、木造建築で林業の振興を、という論に乗ることを拒否してきました。
     それを言わない、といって非難もされました。
     しかし、その考えは、今でも変りありません。
     建物をつくるのは、林業のためではないからです。
     林業が衰退したのは、木造建築がないがしろにされたこともありますが、
     それよりも、低い関税で外材を輸入する策にこそ、最大の原因があるのです。
     日本の環境に適さない2×4工法を導入することと、外材の大量輸入は併行しています。
     これが最大の原因なのです。[文言追加改訂 23.07]
     「木造推進⇒林業振興」に触れた文書を、9日に「補足」として載せました。[文言追加 9日 15.14]
    
しかしながら、いま、《専門家・建築家》には、そのようなキャンペーンを展開する前に、あらためて思い起こしてもらいたいことがある。

一つは、すでに冒頭にも触れたが、明治以来のわが国の建築の歴史は、《先導・指導的》であらんとする(人びとを管理したがる)《専門家》による、あるときは鉄筋コンクリート、またあるときは鉄骨をと、ひたすら木造からの脱却を目指したキャンペーンの連続であったこと、そしてその結果こそが現在の木造建築衰退の状況である、という歴史的事実についてである*。

    * これについては、事例をあげて論評した一文があります。
      「流浪の木造校舎」(「新建築」1987年6月号)
      9日に「補足」として、事例の「文書」を載せてあります。[文言追加 9日 15.14]
      なお、この一文は、下記に全文を載せてあります。[追加 9日 22.20]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/2b5bd8ad052da3130502a112256b5a2e


そしてもう一つは、そもそも《建築家》と呼ばれる《専門家》は、明治以来の《近代化》策とともに、それまでわが国の建物づくりを担ってきた大工・棟梁の系譜とは一切無縁に、むしろ進んで縁を切ることを目指して発生した存在であった、という事実についてである。

この認識の作業は、すなわち、《専門家》の行為のありようとその基盤についての「歴史的再認識」の作業にほかならない。
しかしながら最近、《専門家=学者・研究者・建築家》は、これらの経緯についてなかなか振り返りたがらない。
過去の世代の引き起こしたことには、関係がないと思っているのかもしれない。
過去よりもこれから先を急ぐことが大事なのだというのかもしれない。

つい先日世を去ったドイツのブラント元首相は、「国民の半数はヒトラー時代の責任とまったく関係ない世代になったが、それでもだれ一人、歴史から免れることはできない」と語ったという。
残念ながら、最近のわが国では、歴史は《免れるため、忘れるため》にあるようだ。
「日本の歴史教育は忘れることを教え、ドイツのそれは想い出すことを教える」。これは最近、新聞紙上で読んだある評論家の言葉である。


もちろん《専門家》たちの歪みは、ただ木造建築についてのみならず、(建築にかかわる)ありとあらゆる局面にわたっている。
・・・・「筑波研究学園都市」に・・・・数年前* に話題になった鉄筋コンクリート造の学校がある(* 1993年当時の数年前)。
《新しい世代の学校の創造》として《専門家》の間で《評価》が高いようなのだが、私にはその理由がまったく分らない。
これは「やりきれないな」というのが私の正直な感想である。
感受性豊かな子どもたちの感性を、日ごと「やすり」で削り落とすような建物だからである。

《F・Lライトの本質に学んだ》という[設計者の理念]が盛られた《単調に陥らないデザイン上の数々の工夫》(《 》内の文言は、日本建築学会「作品選集」からの引用)は、子どもたちの前に「もの」として、「視覚風景」として立ちはだかり、知らぬ間に彼らの感性に傷をつけ、ひいては子どもたちの「創造力「想像力」さえ奪ってしまうだろう。

なぜなら、本来私たちは日常、それぞれなりに、またそのときなりに、私たちのまわりに空間を感じ、その意味を読み取りつつ生活をしている。それを通じて、私たちそれぞれのなかに、それぞれなりの「心象風景」が形成される。

これに対して、強制的なあるいは一方的な意味の押し付けとなるようないわば威嚇的なまでの「視覚風景」の存在は、私たちの空間での自由を束縛することになりかねない。
形状面での《単調に陥らないデザイン上の数々の工夫》は、かえって逆に人の「心象風景」を画一的・単調にしてしまうという単純な事実が分っていないのである。

この学校に見られるような、子どもたちの「心象風景」の形成を無視した「視覚風景」の造成は、単なる設計者の勝手な思い込み、あるいは《遊戯》にほかならず、子どもたちの感性にとっては「やすり」同然となる。
いったいライトの設計思想のどこに、このような考えがあったのだろうか。
「師」と仰がれたライトが唖然・呆然としていることは間違いない。
何もこの例だけではない、私たちが生活の中で接する最近の建物には、概してこういう傾向の建物が多いのである。

   追記
   幼稚園、保育所というと、多くの場合、《大人の幼児感》が建物の形に表れる。
   たとえば、はでな色彩、童話をモチーフにした形、などなど・・。
   私には、これは《大人の(勝手につくった)感覚》の押売りにしか見えない。

もとより《建築家》各々が、誰に学ぼうと自由である。
何を考えてつくろうが、それをどのように説明しようが、それもまた自由である。
学校建築の《専門家》を自負することも自由である。
そしてまた《専門家》の集まりである《学会》が、あるいはまた《評論家》や《ジャーナリズム》が、そのお先棒を担ぐのもまた自由である。
実際、いま*《建築界》では、これらの自由は見事に花開いている。

   * 1993年当時の「いま」であるが、今もまたあいかわらずである。

けれども、ここに唯一、行使されていない『自由』がある。『批判と論議の自由』である。
いかに崇高なる考えの下で設計がなされようが、おかしいものはおかしいのである。
おかしいと思う者が、誰もいないなどということはあり得ない。
おかしい、と相互に批判がなされてよいはずなのである。それがあたりまえである。

この素朴な論理が通用せず、互いに顔色をうかがい、そういう考えもあるだろうと仲良く認めあい、『批判と論議の自由』の権利が放棄されている《建築家》の世界は、どう考えても「あたりまえ」ではない。

そもそも、先のような自薦他薦の《解説》が学会の名の下で平然とまかり通り、相互に何の批判も論議も交わされないまま放置されるのであるならば、《学会》もまた学会とは名のみの「異常な集団」といわなければなるまい。それとも「学会」とは同業者の「権利(利権?)を護る寄合い」にすぎないのだろうか*。

   * そういう「批判・文句」があるのならば、学会に加入してそこでやれ、とよく言われたものです。
     「異常」だから入らないのだ、ということが分らないようなのです(今でも)。
     それゆえ、私のような「発言」は、なんとかの遠吠え、と見られるらしかった。


かつて、建物をはじめ、ものごとのよしあしは『普通の人びと』により判断された。
そして、よいもの、間違いのないものをいつでもつくれる工人は、人びとから安心して仕事をまかせられ、尊敬された。
つくるものが人びとのものであって、工人のためのものではなかったからである。
というより、工人の考えることと人びとの考えることが一致していたのである。
彼らは『何をつくるのか』『人びとの生活が何を必要としているか』『人びとの必然は何か』、あたりまえに分っていたから、あたりまえのように『人の住む空間』がつくれたのである。
それゆえ、そこに生まれる空間は、《単調に陥らないデザイン上の工夫》などという姑息な手段で装う必要もなかったのである。
それができること、それこそが『専門家』の専門家たる所以であった。
したがって、彼がどこでその技を磨こうが、何を考えようが、最後は人びとにより、できあがったものにより判断されてきた。

残念ながら、昨今、ものごとの判断が他人まかせとなっている。
というより、人それぞれに判断がまかされることが疎まれている。
人びとにまかせると判断を誤まるとでも思うのだろうか、判断の絶対的《基準》をつくり、絶対的《評価》を下したがるおせっかいな人たち=各界の《権威者・識者・専門家》がいる。
しかし、誰が、いつ、彼らに「判断」を委ねたのであったろうか。

おそらく人びとも、このおかしさに気が付いているはずである。疑問に思っているはずである。ただ言わないだけなのである。あるいは、言えないだけなのである。
長年飼い慣らされた結果であろうか、《権威》に盾ついても所詮だめ、との諦観に達しているのかもしれない。
(近現代の)日本はいわれるほど「民主的」でない。閉鎖的である。素朴に、率直に、「王様は裸だ」と声を出さねばなるまい。孔に閉じこもらずに、「王様の耳は驢馬の耳」と叫ばねばなるまい。

   追記
   私にとって、ブログは、予想外の、またとない手段でした。
   何の気兼ねもいらずに、言いたいことが言え、それへの「反応」が直に伝わってきます。
   いわば、自由な「一人出版社」。   
   それでいて嘘は言えない。本名で書くのは、その保証のため。
   おそらく、いま転載している一文を読まれる方の数は、掲載誌上で読まれた方よりも
   多いのではないかと思っています。
   そして、読まれる方の「熱心さ」も違うように思います。
   
いまから20年近く前* のことになろうか(* 1970年代の中頃のこと)、南会津の村を訪れたときのことである。
村の中心部の一画に、見るからに倒れそうな小屋が一軒建っていた。何の変哲もない鉄板屋根の小屋である。
住宅のようでも集会所のようでもあり、とにかく外目にはその用途を推し量ることはできなかった。
村人の話では、これはこれから先も取り壊すことのできない大事な建物なのだという。
何故このようなボロ家が彼らにとって大事なのか、不審そうな表情が私の顔に浮かんだのだろう、彼らは説明を加えてくれた。

かつて四周を山に囲まれたこの村は、冬季交通が途絶し、夏季は冷害に悩まされ、自給できる人口に限りがあり、次男三男は婚姻を許されず、長男が嫁を迎えると居づらくなり、そのような者達が寄り合う場所として自力でつくりだしたのがこの小屋なのであるという。
いまでこそそのような事態が解消されたとはいえ、その彼らの言い知れぬ苦労を考えたら、その小屋を取り壊すなどという哀しいことが、どうしてできるか、というのである。

農業経済学が専門の玉城 哲氏も、その著『水紀行』の中で、氏にとって衝撃的であったある体験を語っている。そのまま引用しよう。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

・・・・冷害の青森県上北地方(かみきた)をあるいていたとき・・・・《田舎のバス》はそのうち橋にさしかかった。
橋のたもとに「一級河川・相坂川」という看板がでている。・・・・建設省が掲げたものである。

相坂川といっても、ほとんどの人はどんな川か知らないであろう。私も・・・・あの有名な奥入瀬川が「相坂川」であるとはまったく知らなかった。
そこで、私もいささかいたずら心をおこして、隣りのおばあさんにきいてみた。
 「おばあさん、この川の名前知っているかね」
 「おら知らねえな、よその人はオイラとかいうがな」
たぶん、そんなような返事だったと思う。私はいささか唖然として、思わずききかえした。
 「おばあさん、川の名前知らないのかね」
 「川の名前など、おら知らねえ、松の木があれば松の木川だ」

そのときうけた私のショックを、ここで表現することは容易ではない。私はしばらく、何と言ってよいかわからないまま、まったく沈黙に陥り、車窓の風景を眺めるだけであった・・・・。

私たちは気軽に、地図に書いてあるからということで、利根川とか、淀川とか、木曽川などといっている。そして、それが地元で何と呼ばれているかなどということなど考えてみもしない。ところが、それはしばしば地元の人びとにとってはよそ者のいい方なのかもしれないのである。・・・・

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――    
考えてみれば、建物を建てるのも、ものに名前を付けるのも、それにはすべてそれなりの『そこに生きる人びとにとっての必然』があるからである。
そうであるならば、そうしてつくられた建物の場合、それがいかに貧弱であろうと、いかにみすぼらしかろうと、そしていかに壊れそうであろうと、人びとにとって大事であることに変りはない。

おそらく、いかなる建物であれ、あるいはまた行事や慣習であれ、名前であれ、およそ人びとの為してきたこと=営為は、それが目に見えるものであれ、見えないことであれ、それらを為すための技をも含め、すべて人びとにとって大事なものごとなのであり、好き勝手に、また簡単に、捨て去り、切り捨て、忘れ去ることのできるはずのものではないのである。

このことを、ふと忘れてしまいそうになっていた私にとって、南会津での体験は実に衝撃的であり、玉城氏の述べられた事例もまた同様であった。
よそ者が(《専門家》が)背後に隠されたその地の「物語」を知らずして地域に介入したり、地域のものごとの当否や価値を勝手に決める:流行の言葉で言えば《評価する》:などという、いま世の中で通例になっているやりかたが、いかに無意味にして重大な誤りであるか、あらためて気付かされたのである。

最近* 知った話であるが、地域主義、地域の復権を唱え、各地の自治体などをまきこみ、《共同体的設計組織》をつくり、その実、その組織を多弁な弁舌で言葉巧みに牛耳ることで仕事を増やしている《東京在住の建築家》がいるそうである(* 1993年当時のことだが、いまも変らない)。
東北のある町での彼の仕事を見たが、単にその地域のつくりを形状だけまねたものにすぎず、その地域独特の技術や材料について、まったく何等顧みられていない、その唱える《地域主義》とはいったい何なのか、と思わざるを得ない内容であった。
地元の人もおかしいと思ってはいるが、《民主的》装いをとる組織を牛耳る詭弁に近い多弁さゆえに、口下手な地域の人びとは、意見が言いづらいのだという。

ここまで巧妙になると、私は絶句するだけだ。「唾棄(だき)すべき」という表現は、まさにこういうことへのための言葉としてあるのだろう。
《専門家》の唱える「民主的」「地域主義」のなかみは、概してこの程度なのである。

   追記
   何か「木造建築」をめぐる現在の動きと似ているところがありますね。
   実は、この方は、現在、日本の木造建築を引っ掻きまわしている「一統」と
   同じ研究室の出身なのです。
   この研究室は、どういうわけか、そういう「性向」があるみたいです。
   ちなみに、教師時代、学生たちに、将来郷里に戻るのならば、
   卒業後直ぐに戻るべきだ、故郷に錦を飾ろう、などというのはやめなさい、
   と私は言ってきました。   
   これを傍で聞いた私の元同僚(この方も「一統」の一人で、例の「木の建築フォラム」の理事です)に、
   「各地に網を張る準備ですね」と言われました。
   私がその「意味」に気が付いたのは、ずっと後になってからのこと。
   これなども「一統」の「性向」の一端を示す例と言えるでしょう。

かつて、各地域では、建物をはじめ当代以前の人びとの手により営まれつくられてきた事物は、すべて、先の南会津のエピソードで触れたような意味で、人びとによって大事にされてきていた。彼らの生活の場である「環境」に対してもまったく同様であった。

彼らには、現在のような《文化財》や《環境》という概念は存在しない。
彼らには、基本的に、その事物が立派だから、代表的なものだから、資料として価値があるから、という類の《選別基準》《評価基準》はないのである。
しかし彼らは、現代の《文化財》概念や《環境》概念を持つようになった人びとよりも、環境や先人の為してきた事物を、大事に、大切に扱ってきたのである。

彼らにあったのは、彼ら以前の人びとの営為を尊敬し、尊重する精神であった。
彼らの『今』は、彼らにとっては『過去』、彼ら以前の人びとの『今』があってはじめてあり得たのだという『歴史』認識、現在ではすっかり消滅してしまった理解・認識がごくあたりまえに彼らの内に在ったからだと言ってよいだろう。
したがって、かのボロ家が物理的に崩壊してしまったあとでも、彼らは何らかの「証」をその地に刻む作業を、当然のごとく行なったにちがいない。それが彼らの『今』を保証してくれたものだからである。

残念ながら、このような『歴史認識』は、いま、《専門家》の意識から完全に欠落し、そしてそれが《あたりまえ》であるかのように事態は進行しており、また誰もそれに気付かない。気付いていても言おうとしない。そのまま見過すのがまた《あたりまえ》だと思われている。

むしろ、《専門家》は、次から次へと新たな《評価基準》をつくることに汲々としているとさえ言ってよいだろう。
いわば勝手に《基準》をつくり、それから落ちこぼれるものは廃棄する、切り捨てる、考えてみると(考てみるまでもなく)これは怖ろしい《思想》である。

いったい、どうして《専門家》に一義的に、一方的に《価値》を定める権利があるのだろうか。
いったい、いつ、誰が彼らにそれを委ねたのであったろうか。

[長くなりました。以下は次回にまわします]

付録
先回、体育館の地盤が転石だらけの急斜面、と書きました。
ここは、筑波山で有名な「男女川(みなのがわ)」の源流近くで、一説によると、中世には寺院があったが、土石流で流され、以降放置されていた、と言われています。
転石だらけでボーリングなど不可能な土地です。
この場所での基礎の施工の様子の図版を載せます(「住宅建築」1987年7月号)。
場合によると、巨岩の上に鉄筋を組み立て、コンクリートを打って岩に一体化する方法も採っています(写真右)。





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《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その1

2009-12-05 00:06:37 | 専門家のありよう
倒壊した「木造3階建住宅・震動台実大実験」の試験体について、主催者の「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」に、その設計図・仕様などの詳細な資料の「事前開示」を要望し、先月(11月)19日に「事前開示の準備中、今しばらくお待ちください」との旨の連絡をいただいてから、半月近く経ちました。
おそらく準備に手間がかかるのでしょうから(設計図はあったはずだから、普通はそんなに時間がかかるとは思えないのですが・・・)もう少し待ってみようと考えています。

本当は、今回の「倒壊」事件の検証は、実験当事者ではなく、「第三者委員会」で検討すべきことがらではないか、とも思っています。
なぜなら、実験だからよかったものの、もしも実際の建物であったならば大ごとで、当然、設計者ではない第三者が原因究明にあたるはずだからです。

ところで、「(財)日本住宅・木材センター」のHPから、当該実験についてのニュースが消えたことはすでに触れましたが、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」のHPでも、そのニュース:「実験の案内PDF」:が読めません(それ以外の記事:PDFは、時間が経ったものでも載っています)。
それゆえ、その実験がどんな実験だったかを知るには、「公式」には「(独)防災科学技術研究所」のHPの報道機関向け9月28日付け「案内」だけになりました(ケンプラッツの10月30日記事は見ることができます。4日には最新のコメントも入りました。http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20091030/536517/)。

その一方で、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」「(財)日本住宅・木材センター」HPでは、ニュース筆頭に「木造建築のすすめ」「伝統的木造軸組構法実大静加力実験結果速報」の「PDFによる公開」が掲載されています。
まるで、「木造3階建て住宅の震動台実験」が行われ、そして想定外の事態が起きた、ということ自体が、この世になかった、かのようです。

その実験以外の記事の記載は残っているわけですから、人の噂も75日、今は静かに静かに、「噂」が頭上を通り過ぎるのをひたすら待っているのでは、と言うより、そうありたい、という願望が、「歴史的事実」の抹消に走らせたのかもしれない、などと思ったりもします。

しかし、いやしくも専門家・研究者集団です。しかも国費の補助も受けているのですから、そんなことはないと信じて、約束の履行を待っています。


先回、四半世紀前に書いた一文を載せました。
その10年後、1993年に、「《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が『あたりまえ』になるには」という標題で、当時の《木造建築推進》の動きと、それに係わる建築家、専門家・研究者の様態について論評した一文です。やはり「尖がった」文でした。
これは、「建築設計資料 40:木造の教育施設」(1993年 建築資料研究社 刊)に、「筑波第一小学校体育館」(下の写真・図版)を載せていただくにあたって書かせていただいたものです。
今でも通用する話なので、転載します。

これは先回のよりも長く、一回では紹介しきれませんので、数回に分け、また中途を略して載せさせていただきます。


筑波第一小学校体育館 原設計の模型・平面図・断面図(「建築文化」誌1987年5月号より)  
原設計は、小屋(屋根)の架構に「甲州・猿橋」「越中・愛本橋」の工法を援用していた

**********************************************************************************************

  《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには

    ・・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象を与えたのは、
    ・・・・廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。
    その言葉を生きることは、
    知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、
    ・・・・極めてむずかしいことだろう。
    「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。
    「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。 
          加藤周一「山中人話・スタインバーグは言った・・・より」

最近*、木造の学校建築が増えてきているという(* 1993年当時のこと)。
周知のように、文部省もそれを支援する「通達」を出すまでになっている。
明治以来、第二次大戦敗戦後も含め100年を越える年月をかけて、わが国は《専門家》を中心に、官学あげて《木造からの脱却》に向けて邁進してきたわけであるから、これが本当に方向の転換を意味することであるならば、まことに画期的であり、結構なことと言わねばなるまい。

ところで、私は、最近にわかに活発になってきた木造推進の動きと、各地につくられている木造建築に対して、いくつかの疑問を感じている*(* 1980年代後半~1990年代初め頃の動向)。

一つは、木造を推す理由についてである。

たとえば、昭和60年(1985年)に出された「文部省教育助成局長通達」には、「ゆとりと潤いのある環境の確保」と、《林業振興の一環としての木材需要拡大促進》のため、《柔らかで温かみのある感触を有する》木材を用いて《温かみのある》教育環境をつくることを推奨している。

木造の建物は《暖かで、人間的である》、だから木造を、という趣旨は、木造推進を唱える人たちの口からよく聞く言葉である。

最近のTVでも、東北の村の木造の廃校を借りて夏季市民大学を主宰している高名な文化人類学者が、木は生き物、木材になっても生きている、石や煉瓦に比べ質感が暖かい、だから木造建築は人間的である、木造の学校がよい、と説いていた。

しかし、私は、この論には強い疑問を感じている。あまりにも短絡に過ぎる論理であるからである。

この論理にしたがえば、西欧の石造や煉瓦造の建物は、その無機質の質感ゆえに、すべからく冷たく、非人間的な建物であるということになるだろう。
しかし誰もそうは思うまい。

むしろ、西欧をはじめとする諸国の古来の石造や煉瓦造の建物の方が、最近のギラギラした日本の木造建築よりも数等人間的である。
私も木材という材料は、煉瓦や石などとともに好きであるが、このような・・・・一面的な視点からの木造復権論議は、贔屓の引き倒し、かえって建物をつくることについて、建物と材料の関係について、誤解をひきおこす恐れがあるように思えるのである。

私は、建物を木材でつくれば、あるいは仕上げに木材を使えば、直ちに学校校舎が人間的になる、よい建物になるなどとは、いささかも思っていない。そのような考え方は誤りであるとさえ思っている。
鉄筋コンクリートであれ、鉄骨であれ、はたまた石や煉瓦であれ、その主たる材料が何であれ、よい建物をつくることができる。
現に、人は昔から、その住む地域で最も得やすい材料を使いこなし、自らの住む空間をつくってきた。

材料が木材であるか石であるか、はたまた土そのものであるかは、まさに、その人が住まねばならない地域の特性次第であった。
人びとは、得られる材料で、住める空間=「人間的な」空間に仕上げたのである。
要は、つくりかた、材料の使い方次第なのであり、それに先立つ第一の問題は、『何がよい建物なのか=人が住む空間とはいかなるものか』ということなのである。
最近の木造建築推進論議には、この肝心な点についての論議が抜け落ちている。

もう一つの疑問は次のような点についてである。

すなわち、最近の木造建築が、そのどれもが《木造でつくったこと》を《高らかに》標榜すること、そしてさらに《意欲的》で《斬新な木造》であること、を《追求すること》にのみ神経が払われているように見えることである。

そしてまた、何でもよいから木材を多量に使えば、木造振興⇒木材利用・木材需要の拡大⇒林業振興・地域振興に連なると単純に考えているように見えることである。

私が先年その設計にかかわった「筑波第一小学校*体育館」(* 現在は廃校になり他施設に貸し出されている)・・・・は、(地盤が転石だらけの急斜面であったがゆえに)木造で設計することにしたのであり、「木造を見せる」ことや「構築法を見せる」ことはその第一の目的にはなく、もちろん《斬新》であることも念頭になかった・・・・。
しかし、残念ながら、・・・・訪れる見学者の多くは、木造の特殊な構築法と誤解し、骨組みを見上げるばかりで、「体育館」は見てゆかないようだ。

この体育館を木造で設計することにしたとき、私は、在来* の普通の技法の応用でつくれることを念頭においていた(* 語彙の本来の意味。在来工法の意味ではない)。特殊な技術・工法を採ることは考えなかった。
特殊な技量や技術をもつ人だけがつくれる構築法ではなく、誰にもあたりまえにできる方法でつくろうとしたのである。
木材も多量に使っているように見えるが、特に多いわけではなく標準的な量である。

最近*、かつて林業で生きていた町村が、その林業再建振興策の一環として、公共施設を木造でつくることが流行している(* 1993年当時のこと)。・・・・話題に(なっている)例を見ると、その多くは特殊な工法:たとえば木材をボールジョイントを用いて接続する工法など:を前提とした設計である。
ある事例の設計者によれば、「《ほぞや継手のような目を見張る名人芸》によって組み立てられるかつての木造工法を復活普及させるのは、職人がほとんど姿を消してしまった現在、不可能である」から、ボルトナット工法も積極的に受け入れるのがこれからの新しい方向である、という*(* 現在でもこう考える方々が多い)。

この工法の場合、たしかに木材の継手に、かつての工法を必要としないが、その一方で、ボールジョイントの製作を必要とする。しかし、この部材は、町の金物屋で容易に手に入るものではなく、町の鉄工所で簡単につくれるものでもない。いわば特注品であり、製作所も限定され、作業にも特殊な技術を必要とするから、町の職人・技術者に普通に扱えるとは限らない。
それゆえ、施工は町の業者(ではなく)大きな企業に発注することになる。つまり、町の支出する費用は、町の外へ持ち出され、町の経済的振興にはならないことになる。
したがって、こういうやりかたが《あたりまえ》である限り、林業の町のシンボルとして木造の建物が華やかに誕生しても、木造普及の波及効果はまったく期待できないだろう。木造は面倒だと思われるだけである。

たしかに、町や村に職人・技術者は少なくなった。しかし、木材をいかに大量に使っても、これ以上さらに彼らにできる仕事を減らして、何がいったい地域振興なのか。それは彼らの「切り捨て」である。
切り捨てることが本当に「必然」なのか。彼らを切り捨てる権利が《建築家*》にあるのか。
《建築家*》のこういう単純で底の浅い《合理化思想》は、払拭しなければなるまい。
なぜ「職人・技術者」が少なくなったのか、その根本的な理由を、《建築家*》はいま、率先して考えてみる必要がある(* この《建築家》は、建築にかかわる人たち、という広義の意味である)。

・・・・・中略・・・・・

最近の《建築家》は《斬新》であることを非常に好む。《新しい》という言葉にとりわけ弱い人種である。おそらくそれは、自らの《独自性》、いわゆる《アイデンティティ》の表出が、《新しい》《斬新》であることによってのみ可能なのだ、と信じているからだろう。

しかし、「新しい、斬新な創造」とはいったいどういうことなのだろうか。
あるノーベル物理学賞受賞者は、「豊かな創造」は「過去のしがらみにとらわれない」ことにより生まれると語ったという。
しかし、この言葉が、過去との訣別、過去を忘れることだと理解されたなら、発言者の真意にもとるだろう。それは大きな誤解だからである。
われわれは、いったん出来上った一つの結果=形・形式にとらわれやすいという性向がある。それにしたがっていると無難に思える。
そのとき、いったいそれがなにゆえの結果=形・形式であったかが忘れられる。
そうなれば、それから先、そこに何の進展もないのは明らかである。

「過去のしがらみにとらわれない」という言葉の真意は、ものごとを根本的に、根源的に*考えろ、ということであって、過去を忘れろということではない(* 英語の radical は、根源的な、という意味で、根源的に考えるとその時代の「普通の考え方」に比べ「過激に見える」ため、「過激な」と訳される)。

同様に、「新しい」「斬新」ということは、決して、過去との訣別、過去を忘れることではない。
しかしながら、過去を全否定し、というより、過去の蓄積についてまったく知らず、知ろうともせず、一見《目新しい》こと、いままでにないことを行うのが創造であると誤解されがちだ。

かのノーベル賞受賞者は、物理学の過去の蓄積について十分に知った上で、事象の解釈の理論を「新たに」構築しなおしたのである。

それに対して、過去について十分に知らず、知ろうともせず、適当に、恣意的な(ほとんど思い込みに近い)理由を付け、《目新しい》ことに突っ走るのが《新しい》と思い込んでいる、それが現代の建築の《専門家》である。

鎌倉時代、東大寺の勧進であった重源(ちょうげん)は、「新しい」構築法により東大寺の再建を行なった。いわゆる「大仏様(だいぶつよう)」といわれる貫を多用する、前代までの工法に比べ、まさに「革新的」な技法である。
これは、当時の中国・宋の技法の導入といわれ、重源の元には宋の技術者もいたようであるが、調べてみると、宋の方式を丸のまま移入したわけではないようである。

彼らは、わが国において前代までに到達していた技法にも精通しており、当然、平安末期には技術が停滞し、形式化・様式化していたことも十分に知っていた。
それゆえにこそ「過去のしがらみ」=「形式・様式」からの脱却、技術の根本的な見直し、建物をつくることと技術の関係についての根本的な見直し、真の意味での合理化を彼らは行ない得たのである。
それは決して過去の技術や職人との訣別を意味するものではなく、もちろん切り捨てでもない。むしろ、その延長上の革新であった。だからこそ「革新的」なのである。
もちろん、《時代》を表現しよう、《目新しさ》を示そう、などということは彼らの念頭にはなかった。彼らの目的は、唯一、それまでに蓄積されてきた技術を真に合理的に駆使して、東大寺を再興することであった。

ところで、先のボールジョイントを多用した事例の設計者は、重源を引き合いに出し「・・・・コンクリートと木造の混成、大架構立体トラス、バットレスの採用など、かつて鎌倉時代の初期に重源が東大寺の建立に際して創出した唐様(からよう)の現代版と自負していいのではないかと考えている。唐様によって、和様のスケールをはるかに越す巨大建築を可能にしたようにである。しかも文化的にもまったく新しい形を世に示すことでもあって、あの時代の革新、公家から武家社会への転換を見事に表徴したようにである。・・・・(原文のまま)」と記している。

おそらく、比べられた重源がこれを知ったら、驚き、呆れることは間違いない。
重源の仕事のなかみはもとより、日本の歴史、文化や建築の流れについての理解が、あまりにも浅薄すぎる。手前みそすぎる。
「歴史」が形式的にしか見えておらず、むしろこれは、最近の《建築家》の多くに見られる恣意的な思い込みをまさに《表徴》する文章といってよい。

[長くて、お疲れ様でした。以下は次回です]

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「グスコンブドリの伝記」から

2009-11-16 10:18:40 | 専門家のありよう

宮澤賢治の作品に昭和7年(1932年)に発表された「グスコーブドリの伝記」という「童話」があります。
その一節に次のような箇所があります。特に赤枠内に注目。
 
   
   「宮澤賢治全集 第十一巻」(筑摩書房)より

宮沢賢治は一つの作品を仕上げるまでに、何度も手を入れることで有名で、発表してからさえも推敲しています。
この「グスコーブドリの伝記」も、いわばその原型を示す「グスコンブドリの伝記」がその数年前に書かれています。

「グスコンブドリの伝記」では、先の一節部分は次のようになっています。
この二つを比べて大きく変っているのは、赤枠で囲ったところです。

   
   「宮澤賢治全集 第十巻」(筑摩書房)より

私が知っていたのは「グスコー・・・」の方でしたから、「グスコン・・・」を読んだときは、特に赤枠内には、正直、「すごいこと書いてある」と驚いたものです。特に、おしまいの発言。
おそらく彼の「体験」がこの文言を書かせたに違いありません。

世に公刊するにあたっては、きわめて温和な表現に変えたのは何故なのか知りたくなりますが、そのあたりについては、全集の「校異」だけからは浮き上がってきません。

赤枠内のおしまいのあたりを書き写し、段落を読みやすくすると、次のようになります(仮名は旧のまま)。

   「・・・私はもう火山の仕事は四十年もして居りまして
   まあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますが
   いつ爆発するかどっちへ爆発するかといふことになると
   そんなはきはきと云へないのです。
   そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、
   あなたは命をかけて、
   わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのために
   はたらくものなのです。」

私が「グスコン・・・」の方を初めて読んだのは、10年以上前のことですが、そのとき思わず「イーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて」いる学者に、現在の「学識経験者」の姿を重ねてしまっていました。「わたくしは命が大事」なのです。

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雑感・・・・落とし穴

2009-08-17 03:43:05 | 専門家のありよう

残暑お見舞い申し上げます。
近在の蓮田では、いまごろが花の咲くころ。

8月になると、毎年TVやラヂオはドキュメンタリーをはじめ、多くの特別番組が組まれる。今年は例年になく濃い内容のものが多かったように思う。
その中でも、「人間魚雷・回天」と「セミパラチンスク核実験場」についてのドキュメンタリーは深く考えさせられた。そこに関わった人々に、共通の「思考」が見て取れたからである。
それは、視野が狭まったときに、ややもすると陥る「思考」、「目的」追求のためには「手段」を選ばなくなる「思考」である。

すべての人がこの「思考」に陥るわけではない。
自らを「選民」「選良」と思い込んだ人ほど陥りやすいようだ。そのとき、その他大勢は、彼らの目には、単なる「もの」、あるいは意のままに動く「ロボット」としてしか見えなくなる。

「回天」には、こういう「非正常」なアイディアをあたりまえのように発想し、設計を指示した人びとと、設計した人びとがいる。そして、つくられた「回天」への「乗務」を命じた人と、命じられた人。

「セミパラチンスク核実験場」は、当時のソビエト・ロシアの中枢の人びとが計画した「核爆弾」開発のための実験場。
現在のカザフスタンの草原地帯の広大な土地を使った。
もちろん無人の地ではなく、計画された草原地域の境界沿いには、近接していくつかの村落があった。その草原地帯で牧畜を営んで暮す人たちである。

1940年代に、ここを実験場として選定した人たちは、実験場として「こんなによいところはなかった」と言う。発言の主は、一流の科学者。村落のあること、そこに多くの人びとが暮していることを知った上での発言。大した影響はない、というのである。
これは、原発立地、廃棄物処理施設立地に際して、今でも言われる言葉と同じ、「為にする言」であることは言うまでもない。

「セミパラチンスク核実験場」周辺の村人たちには、何が行なわれるのかは説明がなかった。そして、今から18年前まで、数十回にわたる核実験(地下実験も含む)が行なわれ、村人たちの飲料水である地下水も、当然放射能を浴びた。
放射能を浴び続ける人びとには、特有の障害が発生した。白血病や癌の多発である。
しかし、実験当事者(国)ならびに科学者は、実験との因果関係をなかなか認めない。

原発立地、廃棄物処理施設立地にからんでの「大した影響はない」という明確な根拠の開示のない発言同様、科学者による非科学的なご都合主義。得てして科学者や技術者が陥る性癖。判断の根拠が、「功利性」に委ねられてしまう。それは、自らの「保身」のための結論としか考えられない。功利性が、科学性よりも優位に立つのである。
しかし、村人たちには、代々に引継がれる障害の多発。いまでも続いている。

これに比べると、「回天」の設計は、もっと「単純な思考」の結果だ。
しかしそれを、戦時中という異常な事態での思考と見たら間違いだ。
なぜなら、現在の選良・選民たちの思考も、「回天」の発想者、製造指示者、設計者と何ら変っていないからだ。
建築界はその典型。すべての人びとの思考を停止させ、一律の方向にもってゆこう、という動向を「法令」によって行なうのは、「立法府」を経由した民主主義的形体を採っているかのようでいて、実は、「回天」を生んだ思考と何ら変っていない。あるいは、むしろ、より「巧妙」になった「操作」と言ってよいだろう。
そして、その「判断」が予期せぬ結果を生んでも、言を左右にして責任は認めない。

民主主義といえば、どう考えても「非正常」としか思えない「動き」もあった。
例の「派遣」の業態を規制する法改正の気配に対して、「改正反対」を唱える署名運動。派遣規制は雇用の機会を少なくしてしまうから、というのがその「論拠」。
人を「もの」扱いにしておきながら、数の多少をもってコトを決めようというたくらみ。「民主主義」を「多数決主義」と「誤解」した行動である。

そんな中で「救われた」のは、ある空調機メーカーの行動を報じたドキュメント。その会社は、その分野ではぬきんでている有名な会社。
そこでは、ある時代の社長が、いわゆるリストラ、すなわち不況の際でも、就労者の首切りは一切行なわない主義を唱え、以降その方針を貫いてきているのだという。今回の「不況」でも同じ。
理由はきわめて簡単だった。不況だからといって就労者の首を切れば、「技術」の継承に断絶が生じてしまう、という理由。
以来、「技術」にとって、蓄積と継承が重要だ、という認識が、会社首脳はもちろん、就労者すべてにとっての「常識」になった。

あたりまえのことが、稀有のことに見えてしまう変な時代!

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