建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「我が村 ・ 桜村」  1983年度 「筑波通信 №10」

2020-02-11 10:13:02 | 1983年度「筑波通信」

 

PDF「わが村・桜村」(含「枯れ木に花は咲かない」「住宅建築」1983年掲載)A4版9頁

「わが村・桜村」        1984年1月    

 衆議院議員の選挙も終り、諸人こぞっての政治評論の季節も、また元どおりに何事もなかったように、折からの師走のあわただしさのなかに消えていってしまうにちがいない。それにしても、今年の冬は寒い。

 この選挙の一週間前に、わが村でも村長選挙があった。

 わが村桜村は、いわゆる研究学園都市の大部分が属している村である。人口も、昔からの村人たちと、開発とともに新しく流入してきた人たちとから成っている。大学生の大部分が桜村民である。そして、ここでは通常、昔からの村人を旧住民、流入組を新住民と呼んでいるが、もう少し詳しく語りたい人たちは、昔からの村人たちを原住民、流入組の内でも開発当初の何もないころからいる人たちを先住民、いろいろできあがってから入ってきた人たちを新住民と呼ぶことが多い。流入組をこのように分けるにはそれなりの理由がある。同じようによそ者でありながらも、この二者ではものの感じかたがまるっきりちがうからである。この後者の分けかたでの先住民(つまり、何もないときに流入してきた人)たちは、この村が不便であるとか文化がない、などとは決して軽々しくは言わないのだが、新住民(つまり、ある程度までできあがってから移ってきた人たち)は、概して、そういうことを平気でいう。一例で言えば、旧住民はバスの便がよくなった、と言い、新住民はバスの便が悪いという。なぜこうちがうのかと言えば、それは極めて単純な理由によってである。よいか悪いか、その評価基準がちがうからなのである。何もないところに、いわば開拓者のごとくに移り住んだ人たちにとって、一日に数えるほどしかなかったバスの便に比べたら、今はまさに雲泥の差である。こんなにも便利になったのである。そして彼らは、生活の利便を向上させるために、いろいろとやってきた。そういう所で生活するにはどうしたらよいか、身をもって考えてきた。というより、考えざるを得なかった。郷に入ったら郷に従ったのである。

 だが、まるっきりの新住民たちはちがう。彼らの基準は、たとえば東京にある。なにごとも東京なみでなければならないと思う。それでいて緑が多く、空気のきれいなのがよい、などという。言ってみれば勝手なものだ。そういったよさは、あたりが東京なみでないからこそ得られているのにも拘らず、それを(なにもしないで)両方ともいただこうというのである。そして、ここには文化がないと言う。そのときの文化とは、いわゆる東京の文化である。東京の文化というのがいったいあるのかどうかは知らないけれども、とにかく最新の東京の文化、(あるいは情報と言った方がよいのかもしれない)のことなのだ。あるいはそれは、西欧の文化のことなのかもしれない。桜村などでは、東京とちがって西欧からあまりにも遠すぎるというのだろう。それはそうだ。開発区域をちょっとはずれて、同じ村のなかの昔ながらの場所へ行けば、そこにあるのは日本の(あくまでも日本の)農村であり、田舎の香水はときおりただようことはあっても、いうところの西欧の香りなど、これっぽっちもないからである。文化とは西欧の文化を言うのだと(未だに)信じている人が多く、とりわけ学園都市に移り住んだ人たちには学者・文化人と世で呼ばれる人たちが多く、彼らのあこがれはあくまでも西欧であるらしいから、学園都市には文化がない、文化をつくりだすためには教会がなければならない、などと真面目に言いだす文化人さえいるのである。(もちろん新住民の全部がそうだというわけではない。)これは少し度はずれた例ではあるが、しかし、移住者の多くは東京をはじめとした都会での生活に慣れ、いろいろの情報のなかから(つまり選択肢のなかから)選ぶのをあたりまえとしてきているから、そして、選べるものがたくさんあることが文化だと感ちがいしているから、自ら創出しなければなにもない村の状況は、文化がないように見えるのであるにちがいない。

 開発の当初に移り住んだ人たちもまた、当然のことではあるけれどもその移住地のありさまに対して、りつ然とした思いを抱いたはずである。なぜなら、そこには研究学園「都市」の歌い文句とはうらはらに、何もそれらしきものはなかったからである。あるのは、これも場ちがいに見えたはずだが、突然そそりたつ公団住宅風のアパート(つまり彼らの住み家)と建設中の研究施設、そしてはてしなく続く山林田畑と、一雨降れば泥沼になる道・・・・だけ。夜になれば漆黒の闇。住む所があるだけ、まだよしとしなければならない。私白身、1970年ごろであったか、その一角に建てる学校の敷地の下見に来て、いささかどころか大分、その状況に驚いた覚えがある。ここに都市ができるのだろうか、という思いもなくはなかったけれども、それ以上に、関東の東京からわずかしか離れていない所にこんな場所があったのか、という驚きの方が強かったように思う。延々とうねるように続く大地。その上にところどころに散在する村落。そのときの私にとっては、まさに「こんな所に人が住んでいる」という驚きが先にたったのである。バスの便は極端に悪く、かと言って車で歩くにも道をよく知らないと迷うだけ。遠くに筑波山が見えるときだけが唯一のたより。よもや数年後にここに移り住むとは夢にも思わなかったのだが、しかしそのとき既に、あの先住民たちが居ついていたのである。学校用地の下見をそのころやっていたくらいだから、当然新設の学校などあるはずはなく、子どもたちは昔からの村の学校に通い、従って村人たちのつきあいも結構あったらしい。村人たちによる野菜などの青空市場もよく開かれていたようである(このごろはあまり聞かないが、それでも週に一度ぐらい、泥だらけのとったばかりの野菜などをもって、村のおばあさんが尋ねてくる)。

 この先住民たちは、状況が状況だから、かなり早い時点で、ここで都会なみの生活慣行を求めることが無意味であることを悟り、そこでの生活のありかたを考えだすのである。商店が近くにあるわけではなく、あっても雑貨屋さん程度だから、そこで、たとえば週に一度の買だめがあたりまえとなり、そしてそのショッピングのためには、、バスに期待をもてないから、車が必需品となり免許をまず取得することとなる。考えてみると、これはこのあたりの昔からの村人たちのやっているのと同じパターンなのだ。ただ、村人たちは、ある程度まで食糧は自給しているけれども、この先住民たちにはそれがないだけのちがいである(もっともそれは重大なちがいなのだが)。妙な話だが、こういう所に住むと、大型冷蔵庫の意義、そのあるべき姿がよく見えてきて、デザイナーはいったい何を考えてデザインしているのか、文句の一つや二つが言いたくなる。簡単に言えば、そういう状況の下で生活すると、もののありかた、ものへの対しかたはもとより、生活のすすめかたに至るまで、少しばかり大仰に言うと、根源的に考えざるを得なくなるわけなのだ。裏返して言えば、都会的生活での慣行がいったい何であったのかが問われるのである。

 しかしいまや、この先住民たちの数は相対的に少なくなってしまい、新住民が圧倒的多数になっている。彼らの多くは、郷に入って郷に従うこと(つまり状況にあわせて生活を適応させること)をせずに、ただいたずらにないものねだりをしたがるのである。

 

 その一方で、この新住民のふるまいに似た考えかたが行政当局、とりわけ国や県のレベルにあるようだ。町村合併をして「都市」にしようというのである。ここは20万都市にするのが当初の計画だったのだが、いまでも開発地域はもとより周辺まで数えても、その半分にもなっていない。 20万都市の絵にあわせて道路その他を造ってあるから、その維持だけでもけたたましい額になる。村や町だけでは完全に持ちだし、赤字である。「市」にして国から金をせしめよう、というのが合併論の論理であって、そうすれば自ずと文化的にも向上する(その意味は都会なみになる、ということだ)というのである。その人たちは、これまた恐るべき発想をする。たとえば、いま村役場には大学卒がほとんどいない。だから運営が下手だ。市にして職員を精選すれば、ずっとよくなる。こう言うのである。これを合併促進の研修会で、町村職員を集めた席上で広言したというのであるから立派も立派、何をか言わんやである。市にして雇用が増えるというけれども、その職種がいかなるものか、推して知るべしだろう。

 

 この人たちのもう一つ面白い発想は、市になることによって、地価が上り、それはすなわちストック(財産の価値)が増えることであるから歓迎すべきだ、という考えかたである。実際に、いま学園都市開発域のまんなかあたりの地価は、住宅地で、坪あたり25万以上などというのがあたりまえになりつつある。たしかに土地持ちの資産は増えたかもしれないが、なにかそこで商売でもしないかぎり、普通のサラリーマンでその土地を買える人はそうざらにいない。だから、土地持ちの人たちは、やむを得ず草ぼうぼうにして、まさに土地を遊ばせるか、学生相手の下宿屋さんを営んで生活をしているのが多い。元通り畑を作ろうにも、もう作れるような状態では(人も土地も)ないのである。たまたま最近の朝日新聞の地元版に紹介された短歌が、そのあたりの状況を端的に語っているので、ここに転載してみる。

  学園におおかた耕地はつぶされて農婦人夫となり今日も出てゆく

                          (佐藤春介)

 

 開発が言われだしてからそろそろ二十年、実際にいろいろな研究施設が動きだし人が流入しはじめて十年(今年、開設十周年を祝った施設が多い)、開発当初のあの甘い話が決して甘い話ではなかったことを、地元の人たち(原住民たち)は、さめた目でながめはじめているようである。

 あの多くの開発がそうであったように、ここでも開発は地元の人たちすなわち先住民たちの存在を忘れ、あるいは無視した、一方的なものであったのである。

 

 さて、村長選挙はこういう複雑な状況をかかえた村で行われた。有権者数は、昔からの村人(すなわち原住民)約8,000、新たに移住してきた人たち(すなわち先住民と新住民)約17,000(このなかには学生がおよそ2,000はいるだろう)である。流入人口が完全に地元を圧倒しているのである。主たる候補者は、地元人たる元助役と、都市開発を推進したい人たちが強く推す新住民の弁護士。前回のときも同様に地元の元教育長とこの弁護士の対戦であったがわずかな差で地元人の勝利。従って今回の場合は、大方の予想では確実に新住民サイドの勝利になるだろうと思われていた。数の上の単純計算では、どう見ても元助役の側が不利に思えるのである。

 ところが、結果はちがっていた。元助役7,500、弁護士5,000、それにもう一人の共産党候補2,500という結果がでたのである(投票率60%)。

 これは、思いもかけない大差である。

 新聞記者の分析によれば、地元候補7,500の内、少なくとも2,000は移住した人たちからの票ではないか、とのことであった。たしかに、そう考えると勘定が合うのである。そうしてみると、移住民候補者ならびにその支持者たちは、同じ移住民の選択によって破れたのである。ものごとそう単純にはいかない見本のような話である。

 

あ と が き

〇暮になってなにかと忙しく、なにがなんだか分らないうちに歳だけはとってしまいそうである。

〇暮の一日、所用で甲州、信州へ行ってきた。主要国道をほぼ一日車で走る破目になって、例のスパイクタイヤ公害の実態を十分に賞味させてもらった。ほんとにこれはすごい。立寄った家で出してもらったタオルで顔をぬぐうと、たちまちねずみ色である。それにしても、なんとトラックが多いことか。並行して走る国鉄の貨物列車は、機関車がもったいないような短い編成でさっさと行ってしまうのに、国道は荷を満載したトラックの列、おまけにのろのろの渋滞。鉄道線路がもったいない。 トラックは戸口から戸口へとどいて運賃も安いから荷はみんなトラック便に移ってしまったのだというけれども、それではなぜ運賃が安いのか。それは、道路の維持管理費を負担してないからである。国鉄はそれを一式自前でやっている。その費用は自動車諸税とは比べものにならないほどの高額なのである。もし自動車に、鉄道なみの維持管理費を自己負担させたならば、またたく間に自動車利用が減り、鉄道荷物・貨物が増えるはずだそうである。それによる連鎖反応(好ましい方向への)は大変なものだろう。

〇最近、「住宅建築」なる雑誌に寄稿した一文を付します。「通信」に書いてきたことを再編したようなもので、いつぞや紹介した「土は訴える」という本の評に名を借り、言いたいことを言ったという妙な文ですが、ついでにご笑覧ください。

〇新年もそれぞれなりのご活躍を!

       1983・12・29             下山 眞司

 

投稿者より    「筑波通信」の掲載は、今まで通り隔週とさせていただきます。 隔週の間の週は、しばらくお休みを頂きます。

       よろしくお願い致します。                                下山 悦子


「参考 日本建築技術史年表」 日本の木造建築工法の展開 

2020-02-04 10:45:15 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の建築工法の展開 参考 建築技術史年表」.pdf

PDF「日本の木造建築工法の展開 目次 第Ⅰ章~第Ⅴ章」A4版2頁

 

参 考 建築技術史年表(2009年版)      奈良時代以後のスケールは年数に応じています

 

 

 投稿者よりご挨拶申し上げます。

 故人下山眞司作成の「日本の木造建築工法の展開」について、昨年2月より、本ブログに掲載を致してまいりました。

 第Ⅰ章から第Ⅴ章まで掲載が済み、残すところ最終章の「第Ⅵ章」のみとなりました。

 「第Ⅵ章」16頁は、現在の状況について述べている部分にあたります。

 ご推察いただける方もおいでと思いますが、第Ⅵ章は現在の状況についてのいわば直球ともいうべき内容が少なからずあり、この数か月、本ブログに掲載ができるか検討してまいりました。  

 できれば掲載したく、第Ⅵ章の再編成、掲載図版の再作成を試みておりましたが、部分的にせよ直球を変化球に転じることは、やはり容易ではなく、最終的に、本ブログへの掲載を行わないことに致しました。 

 最終章を掲載できずに終えてしまうということは、投稿者として残念で、またお読みいただいている皆様には大変申し訳ありません。

 

 故人の建築に対する姿勢は、すでに故人自身がこのブログで多岐にわたって述べております。 何かの折にはお寄りいただきたくお願い申し上げて、「日本の木造建築工法の展開」を終えさせていただきます。

 突然の終了ではありますが、どうぞご了承のほど、お願い申し上げます。

 

 「日本の木造建築工法の展開」には、様々な時代の建物の詳細な資料が集められています。 普段はなかなか目にすることのできないその貴重な資料を時代を追って掲載できたら というのが、当初投稿者が考えたことでした。 その望みがかないましたこと、厚く御礼申し上げます。 

 

 「同 展開」の投稿を終えるにあたって、故人が2009年に作成致しました「参考 日本建築技術史年表」を掲載させていただきます。 また第Ⅴ章までの目次(ノンブル入り)をPDFで添付致します。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。                           

                    2020.02.04                  投稿者 下山悦子 

 


「情 景 二 題」  1983年度「筑波通信№9」

2020-01-28 10:02:08 | 1983年度「筑波通信」

PDF「情 景 二 題」 1983年度「筑波通信№9」

  情 景 二 題

 土浦の駅も今年になって駅ビルが建ち、何の変哲もない普通の近代的な駅になってしまった。昨年までは、一説によれば船に見たてたというそれなりに風情のある木造の建物だった。地力の都市の玄関である国鉄の駅には、このようにその土地のイメージ、シンボルをそのまま形にしてしまった例が、かつては少なくなかったように思う。寺院をかたどった奈良の駅などは、未だそのままだろう。
 その駅の建物も、その都市が元来その門前町として発展してきた、ある寺院を模したものであった。大きな地方都市の駅前ならどこでもそうであるように、この地力中心都市の駅前にも、ロータリーと噴水のある駅前広場があり、バスやタクシー、そして人の群れであふれている。駅側から広場の対岸へは、横断地下道も通じていた。

 ある冬の朝、私はその駅前の、広場をはさんで駅の真向いにあるビルの最上階の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。広場を目の下に見ることができる私の席には、冬の朝日がたっぷりと差しこみ、それだけでも外とは比べものにならないほど暖まっていた。北国の町並みは朝もやのなかにかすみ、昨夜町にも散らついた雪で化粧した山々も、遠くまた近く、朝の光の中で鈍く輝いている。駅前では朝のラッシュが始まっていた。
 私は何ということもなく、ただ広場をぼんやりと見おろしていた。しばらくして私はあることに気がついた。たしかに駅前に車も人もあふれてはいるのだが、それは東京の大きな駅のようにのべつまくなく群れているのではなく波があるのだ。いっとき広場一帯が車や人であふれたかと思うと、次の瞬間にはそれが消えてしまう。どうやらそれは列車の到着・発車時刻と並行しているようだ。列車の時刻が近づくと、広場にバスが集まり始め、そして、最盛期にはあっという間に、それこそ身動きができないほどにバスで埋ってしまう。バスから降りた人たちが、寒そうに駅舎の中に吸いこまれる。そして広場は、空のバスだけとなり閑散となる。しかしそれも束の間、今度は駅舎からどっと人が吐きだされてくる。列車が着いたのである。人々はそれぞれ、歩き、そしてバスに乗り、人もそしてバスも広場から去ってゆく。静かになり始める。駅前には、タクシー待ちの人たちの列とタクシーの列が残っている。がそれも一人また一人、一台また一台と消え、そして、次の列車の到着時刻のころまで、広場にはほんとの閑散が訪れる。 10分もすると、早々と客を送り届けてきたタクシーがぽつりぽつりと戻ってきて、タクシーだまりが埋ってくる。客はいないから、運転手たちは三々五々立ちばなしなどしている。一時の広場の休息の時。歩く人もまばら。人の群れ、車の群れに隠れていた噴水が、多分薄く氷が張っているのだろう、鉛色の水面に落ち、時折吹く寒風にあおられた水が、池の外の路面をぬらしている。
 このような波が、さきほど来もう何度となく繰り返し、広場に押しよせ、そして引いていっていたのである。おそらく、この波動は、その間隔の長短こそあれ、朝から晩まで駅頭を洗い続けているのである。そして、東京あたりの大きな駅でもこれとほぼ同様なことが起きているはずなのだが、ただ、列車の間隔が短かく、そしてまたいくつもの線が乗り入れ、しかも相互の接続も考慮せずに次から次へといわば勝手な時刻に到着し発車するから、全体としては均されてしまい、このようなめりはりのある波動が感じられず、いつでもわさわさしているのである。そしてその場合、ラッシュ時には、ある時間幅で大きくふくらんだ波が津波のように押し寄せ、さきほど書いたこの地方の駅頭を洗うリズミカルないわば心地よくなじめる波動というものは全く感じられない。
 私は興味をそそられて、この駅頭を洗うリズミカルな波の動きを観察し続けた。私があんなにまじまじとバスの屋根を見たことは、そのときまでかつてなかったろう。色とりどりに塗られたバスの胴体はいやでも日常目に入るが、屋根など普段は気にもしていない。それはなかなか愛きょうがあった。ここのバスは全体にてんとう虫かなにかの虫の背中のようだった。ビルの中は厚いガラスで外の音があまり聴えてこないから広場をそういった虫がうごめいているように見えた。

 その押しては返す駅頭の波打ちぎわに、波に動ぜず立ち続ける人物がいた。人の波に埋もれても、波が引くと、相変らず前の所に立っている。駅舎の前ではなく、そこから少し離れた横断地下道の入口近く、人の流れ路からわずかにはずれた所にその人は立っている。若い女性のようである。初め私は気がつかなかったのだが、彼女はもう大分長いことそこに立ち続けていたようだった。彼女は駅の方に向き、列車が到着し、しばらくして人々が駅舎からあふれでてくると、二三歩前に出て身を乗りだすように人波に目をやっている。人を待っているのだ。待ち人は列車に乗ってやって来る。寒いのに、駅舎の中で待てばよいのに、などといらぬお節介めいた思いもわいてきたが、あそこで待つにはそれなりのわけがあるのだろう。人波がまばらになり、待ち人は今度の列車でも来なかったらしい。彼女は再び元の場所に戻る。かなり長いこと彼女はこれを繰り返していたのである。
 私が彼女の存在に気づいてからも、もう三四回は波が打ち寄せたように思うが、待ち人は一向に現われない。何回目かの波が引いていき、広場が閑散となりかけたとき、ついに彼女はあきらめたらしい。やおら彼女はその場を離れ歩きだした。その時、一瞬、腕の時計に目をやったようにも思う。彼女は、ゆっくりと二三歩駅の方へ向う素振りを見せたあと、ひるがえって今度は地下道に向い足早に歩きだした。時計に目をやったように思えたのは、あるいはその時だったかもしれない。彼女は駆け降りるようにとんとんと階段を降りだした。何も知らない人には、それは軽やかな足どりに見えただろう。だが、二三段降りたところで、私は彼女のリズミカルな足の運びが一瞬乱れたのを見た。それは一瞬にもならないほんとにわずかな時間であった。降りるのをやめようとしたかのように見えた。それはおそらく、もう少し待つべきではないか、今去ってしまうとすれちがいになってしまわないか、駅の伝言仮にでも書くか、しかしそれはまずい、・・・・といった彼女の心の内に交錯した思い、迷いの卒直な表われだったのだろう。そして再び一瞬後、彼女はそれを振り切るかのように、前よりも更に足早に地下道へ消えていった。
 
 文章にすると長くなるが、彼女が待つのをあきらめて歩きだし、そして地下道に吸いこまれるまでのできごとは、ほんの数秒の内に起きたことで、普段なら私だって気がつかなかっただろう。
 駅前では朝のラッシュも終りに近づき、列車を降りる人も、そして待つ人たちも少なくなり、駅前特有の昼間のけだるさが訪れかかっていた。

 

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 そのとき建築学科の学生であった彼は、夏季休暇で家に帰っていた。彼の家は地方の小都市にあった。その町は歴史の古い町で、そういう町によくあるように、明治のころに建てられた洋風の建物がまだあちこちに残っていた。
 夏休みの宿題に、彼には建物のある風景のスケッチを描くことが課せられていた。そして、彼はこの洋風の建物の一つを描くことにした。彼が描く気になったのは、病院の建物であった。白っぽいペンキの塗られた木造洋風の二階建の建物で、囲りにはこれも古風な柵がめぐり、そこに開いた門のわきには、そういう建物にはよくあるように守衛所があって、そこには守衛が一人、所在なさげに座っていた。その門へ通じる道の両わきには、これも建物と同じぐらい年月を経ているのだろうか、大きな街路樹がならび、道の上におおいかぶさっていた。さながら緑のトンネルとなったその道は人通りはさほど多くはなく、ただ真夏の太陽が木もれ日となり路面にさしているのが印象的であった。
 彼は、その道のやや病院よりの場所に画架をすえ、そこから木の間ごしに見える建物を描くことにした。よく晴れあがった暑い日の昼下り、その町は盆地にあるから暑い日は滅法暑くなるのだが、この緑の通りだけは時折涼風が吹きぬけ別天地のようだった。通りには涼をとりがてら散歩する人をちらほら見かけるだけだし、病院の構内もときどき白衣の人が通るだけ。あたりには夏の日の午後の静けさがあった。
 彼のスケッチは順調に進んでいたわけではなかった。こった造りのあの洋風の建物は、絵にするとなると結構難しい。はかばかしくなかった。散歩のついでの道草に、彼のスケッチをのぞきこんでゆく人もいた。彼にとってそれは、仕事がうまくいっていないことも手伝って、いらだたしく、うっとうしかった。時間はいたずらに過ぎていった。彼は、今日はもうやめにして明日また来ようかと思いだしていた。
 そのとき、彼はまったく気づいていなかったのだが、彼のそばに和服姿の老人と若い女性が立っていた。彼の後から彼のスケッチを見ている。彼はちらっと彼らを見た。こざっぱりとした身なりの品のいい老人と、大きな麦わら帽子をかぶり清々しいワンピース姿の、年のころ二十四・五の女性であった。二人は連れらしく、どうやら女性の方が絵に関心があるようだった。彼はなんとなく気恥しく、思わず顔が紅くなるのをとめようがなかった。彼女はなお熱心に彼の手先を見つめている。彼の手はますます重くなった。やがて彼らが立ち去る気配を見せ、彼は内心ほっとした。と、そのとき、彼女が後から声をかけた。「明日もいらっしゃるんでしょう?」彼は突然のことにどぎまぎし、あいまいに「ええ、まあ」とだけ応えた。彼らは病院の方に向って、老人の歩調にあわせ、ゆっくりと歩み去った。あたりには、また元どおり、木もれ日が鮮やかに地面に落ちていた。彼はそれっきり、その女性のことなど忘れてしまっていた。
 翌日はあいにく天気はよくなく、ときどき雨がぱらついた。彼は絵を描きにゆくのをやめにした。

 次の日は、再びよく晴れあがり、また暑くなった。あの通りの風景は地面が少し湿っぽい他は一昨日と何も変らず、路面にはあいかわらず夏の陽ざしが木もれ日となり落ち、涼風が通りすぎていた。
 彼が画架をひろげてしばらくたったとき、病院の守衛が彼の方に向って歩いてきた。一昨日ここで絵を描いていた人と同じ人かどうか確認したあと、守衛は彼に白い紙袋をさしだした。けげんそうな顔をした彼に守衛は説明しだした。昨日の午後、若い女の人が尋ねてきて、あそこで絵を描いていた学生さんがもし来たら渡してくれと頼まれたのだという。彼がその日も来ると言っていたので来てみたけれどもいない、少しは待ったのだが列車の時刻がせまり、もう時間がない、とのこと。聞けば、数日の予定で、その病院に入院している祖父を見舞にはるばる京都から来ていて、その日の夜行で帰るのだという。
 彼は、もうすっかり忘れていた一昨日のことを思いだした。大きな麦わら帽子をかぶりワンピースを着た女性が、老人と連れだって、病院の方へ通りを去ってゆく光景が、ありありと目の前に浮んできた。あの女性だ、と彼は思った。彼の心は騒いだ。守衛はことの一部始終を話し終わると、門の方に帰っていった。

 白い紙袋の中には、とりどりの菓子が入っていた。
 彼は、なにか非常にとりかえしのつかないことをしてしまったのではないか、との思いにとらわれてしまっていた。
 あのときはさほど気にもとめず、ちらっとしか見なかったあの女の人の姿を、探るようにして思いだそうとしても、彼の内に見えてくるのは、あの大きな麦わら帽子と清々しいワンピースの姿だけであった。彼はもどかしさを覚えた。どうしてもっとちゃんと見なかったのだろう。どうして昨日描きに来なかったのだ。どうしてどうでもいいような返事をしてしまったのだろう。彼は自分をのろいたかった。

 今でも、夏のふとした一瞬などに、あの大きな麦わら帽子、ワンピース姿、木もれ日・・・・など、あの時の光景が突然彼の目の前に浮んできて、そのたびに、あのある種のもどかしさと、とりかえしがつかないとの思いがないまぜになって、彼の心の一角を横切っては消えるのである。
 重要文化財に指定されてしまったあの病院も、今は他所に移設されてしまって、もうない。そして、あの風景も、今はもう、わずかに彼の心の内に残っているだけである。

 


あとがき

いつもなら、駅頭で目にした情景をもとに、たとえば「駅」についての考えかたの移り変りなどについて、ながながと書くはずである。最初はそのつもりであった。ところが、途中で、後段の話をたまたま耳にして、その話も紹介したくなった。というのも、こういう類の体験は、おそらくだれもが、程度の差こそあれ味わっているのではないか、しかし、普段はすっかり忘れてしまっているのではないか、たまにはこんなこともあるのだ、と思いだし、思い起してみるのもわるくはない、そんな風に思ったからである。そして、今回は何も言わずに、情景だけを書くことにしたのである。

とは言うものの、感想を一つだけ書く。
〇後段の彼の話を聞いたとき、私にも、おぼろげながらその光景・情景を描いてみることができた。そして多分、私もまた淡い悔恨の情を抱くにちがいない、とも思った。ただ、私には「とりかえしのつかない」ということばが今一つ心のどこかにひっかかってならなかった。私はあえて、とりたてて「とりかえしのつかない」と言うようなことはない、と言い切ってみた。当然のことながら、そんな不遜なことが言えるのか、というような反論が返ってきた。はっきりと論理だった理由の用意があって言ったわけでもないから、そう反論されると口をつぐむだけだった。しかし私は、そうかといって前言を撤回したわけでもなかった。
 もし彼が、翌日も絵を描きにきて、あの女性と話を交わし、そしてその日が過ぎていったとしたならば、彼の内にそのときのイメージが強く残っただろうか。まして、昨日のうちに今日のことが全く予想できていて、そのとおりになったとしたならば、やはり何事も残らなかっただろう。残念ながら、私たちには明日の予測はできない。今日になって、昨日までのことをあとづけることだけができる。そしてそのとき、あそこでああしたらこうなっただろう、と思うことはできる。しかしそれは、つまるところ結果論でしかない。悔んだとて戻れるわけがない。そういうように考えるなら、生きてゆくということには、とりかえしのきくことなどなく、全てがとりかえしのつかないことなのだ、と私は思う。おそらく私が「とりかえしのつかないことなどない」などと言ったのは、だったら「とりかえしのきくことを見せてくれ」と言ってみたかったからではないだろうかと思う。えらく強気のように聞えるかもしれないがそうではない。私の内にだって、無数に近い悔恨の情がうず高く積っている。時折精確な人生の設計図を描いておけばよいではないか、などという思いがわかなかったこともないけれども、つまるところ、それは建物の設計以上に難しい。というより不可能に近いだろう。そういえば私が子どものころきらいな質問は、大人が好きでよくやる「将来何になりたい?」という問いかけだった。私はいつも困惑した覚えがある。今の私だったら、なるようになる、などと小生意気なことを言ったかもしれないと思う。もちろん心のどこかに願望めいたものがないわけではなかったろう。しかし、それがどう具体化されるか分りもしていないのに、結果だけを言うのにはためらいがあったのだ。今の私も、基本的には何も変ってないようである。今私は大学の教師をやっているけれども、私の過去のどこを探しても、大学の先生になるなどという願望など見つからないだろう。あるいはそれは、とりかえしのつかない道に入ってしまったのかもしれないけれども、先行どのようになろうとも、それを帳消しにするわけにはゆかないのである。その意味では、あの駅頭の彼女のように、一見軽やかな足どりで、これからも更にうず高く積るであろう悔恨の情を背負いつつ歩くしかないらしい。建物の設計もまた然り。うまくいった、と思うのはそのときの、しかも単なる自己満足にすぎぬかもしれず、何らかの悔恨の情は必らずついてまわる。それでも設計をやるというのはいったいなぜなのか、設計などやれる器か、などと自問自答しはじめ、自分は偽善者ではないか、と思いたくなるときもある。

年が暮れる。新年もまた、それぞれなりのご活躍を!
          

         1983・12・1           下山眞司 


「第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷,Ⅴ 明治期以降の住宅の様態」

2020-01-21 10:21:10 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C参考,Ⅴ」A4版3頁

 

第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷

武家屋敷の諸例  黄色に塗った部分は接客用空間。

は、藩主の江戸中屋敷であり、敷地が広大。 いくつかの建屋を渡り廊下でつなぐ分棟式の構成。

① 宇和島藩 伊達家 江戸中屋敷 平面図                       日本建築史図集 より

       (投稿者より  2020.01.27  図版掲載ミス:②図版が重複:があり、①図版を差し替えました。訂正致します。)

 

は中級の旗本屋敷。 敷地は約300坪。

18世紀前半、旗本の屋敷は、禄高により70坪から2300坪まで13階級に分れていたという。この例は、江戸麹町にあった禄高300石の武州代官の屋敷。

中級旗本屋敷 平面図                            日本建築史図集 より

 

は、岡山にあった下級武士・樋口竜右衛門の屋敷。 敷地は約100坪。

③ 下級武士の屋敷              平井聖 日本建築の鑑賞基礎知識 より

 

 

Ⅳ-4 近・現代:明治期以降の住宅の様態  

 江戸幕府の解体により、それまで各藩に属して暮しを維持してきた武士階級、とりわけ中級以下の武家は、帰農できる者には限りがあることから、多くが職を求めて都会へ集まります。

 しかし、都会には、その人たちを受け容れる職が用意されていたわけではなく、ましてや住まいが用意されていたわけではありません。そこで、この人たちは仮の拠点・仮の住まいをつくるべく奔走し、また、その人たち向けの貸家をつくる人たちも現われます。

 当時の都会、たとえば江戸あらため東京の中心部:ほぼ現在の山手線の内側に相当する一帯:の居住地に適した場所の大半は、下記の(14頁の)図3、図4に見るようにすでに住宅地になっており、新来の人びとの住み着く場所はないに等しい状態でした。当時の都会に残されていた土地は、居住地に適さない土地、谷筋などの低湿地だけだったのです。

図3 寛文年間(1660年代)の江戸     図集 日本都市史(東京大学出版会)より 

 

図4 江戸の藩邸の立地                                                  同書より

 

 低湿地でも、下記の(14頁の)図5のように、蔵前周辺の低湿地には、商工業の性格上、多くの商工に携わる人びとがすでに住み着き下町を形成していましたから、ここに新たに住み着くのも難しいことでした。そのため、新興の都市居住者たちは、既存の居住地のいわば隙間に住み着くしかなかったのです。

 

図5 明治30年頃の東京中心部   陸地測量部 1/20000地形図より 文字・スケールは編集

 

 この新興の人たちが構える住宅は、すべてがこれまで見てきた諸例のように長年住み続けることのできる建屋ではなく、いわばとりあえずつくりの建物が大半であったと言ってよいでしょう。

 下図は明治期の都市居住者:勤労者の住宅です。敷地の大きさは分りません。 なお、方位は、①②は上方が南、③は上方が北です。縮尺は各図ほぼ同一です。

 

① 明治初期の勤労者住宅    日本建築の鑑賞基礎知識より

 

 明治初期の勤労者住宅            日本住宅史図集より

 

③ 明治30年代の借家 (夏目漱石、森鴎外が住んだ) 日本建築の鑑賞基礎知識(至文堂)より 

 

 おそらく、①程度の建屋や、長屋が多く、つくりも仮設に近いものだったのではないかと思われます。           しかし、これらには、規模の大小にかかわらず、明らかに武家住宅の影響が認められます。

  明治末から大正期になると、目加田家のように、南側の諸室と北側の諸室の間に廊下をとるいわゆる中廊下式住宅が現われますが(218頁参照)、これも基本は武家住宅を踏襲しています。

 

 

Ⅴ 幕藩体制の崩壊:近代化と建築界の概観

  明治に入り、建築界にも大きな変化が訪れます。近代化のために、各職方の下で養成するというこれまでの工人の養成法に代り、大学や専門学校による建築教育が始まります(当初は建築ではなく、造家と呼ぶ。工部省工学寮造家学科:1873年、工部大学校造家学科:1877年開設)。

 しかし、近代化の基本は、脱亜入欧つまり文物・生活一般の西欧化を目指すものであったため、建築教育で為されたのも西欧建築の様式・技術の吸収が主な内容でした。

 教育の内容に日本の建築・建物が登場するのは、西欧に留学した人たちが留学先で、自国の建物について問われても何も答えられなかったこと、彼の国では自国の建築についての知見の蓄積があること、を知ってからのこと、明治も中頃になってからのことです。 

 建築の高等教育は高踏的に過ぎるとして職方諸氏(当時は実業者と呼ばれた)向けに西欧建築技術の具体的な教科書「建築学講義録(滝大吉著、実業者対象の工業夜間学校での滝の講義録)が刊行されたのは明治23年(1890年)ですが、日本の建物についての書物の刊行はそれからさらに十数年遅れます。ここに、近代化の下での「日本の建物の扱われ方」の様態がよく表われています。

 日本の建築についての解説書「日本家屋構造(工業専門学校用の教科書、齋藤兵次郎著)の刊行は明治37年(1904年)、日本の建築用語辞典「日本建築辞彙(中村達太郎編)は明治39年(1906年)の刊行です。

 しかも、これらの書物で触れられている日本の建物・建築についての知識・知見は、すでに現代同様、技術・技法の部分的な知識、あるいは用語の解説が大半を占め、日本の建物づくりの基本的な考え方の解説はなされていません

 たとえば、「日本家屋構造」には、下のような矩形図が載っています。

 

 

 

 しかし、これはあくまでも矩計図の一例にすぎず、この図がいかなる形体の建物の矩計であるか、の説明・解説はありません。

 この書には、継手・仕口の図や解説が載っていますが、その場合も、いかなるときに、いかなる部位で、なぜ何のために用いるかなどについての説明はありません。その点は現在の建築の教材とまったく同じです。これは、明治政府の一科一学の奨めの結果であった、とも言えるでしょう。すでにこの頃から、現在と同じように、部分の知見を足せば全体になる、との考え方が主流になっていたのです。

 どのような全体を、いかにして構想するか、材料:木材をいかに扱うか・・等々、日本の建物づくりの全工程について知ることなく、様式・形式に言及する傾向はこの頃から始まっているのです。

 その一方、従来の職方は、新興の技術者たちより下位に位置づけられ、この人たちに蓄積されてきた莫大な知見を無視・黙殺する傾向が生まれ、残念ながら、この風潮は、以後現在に至るまで、衰えることなく続いています。 近代化というしがらみから、いまだに抜け出せていないのです。 

 


「 点 と 線 」  1983年度「筑波通信№8」

2020-01-14 10:41:00 | 1983年度「筑波通信」

PDF「 点 と 線 」(1983年「筑波通信№8」A4版8頁)

     「 点 と 線 」

 朝八時半、やや薄くもやがかかり、地物は全て露を帯びている。甲州の十月半ばの朝は、霜の朝ももうそう遠いことではないことを思わせる。
 折しも、黄ばみ始めたぶどう園に囲まれた急坂を、一人のおばあさんが気ぜわしそうに登ってきた。かなりの歳のようだ。家のだれかに送ってもらったのなら、坂の上まで車で来れたはずだから、きっと先ほど国道を上っていったバスを降り、ここまで歩いてきたのにちがいない。坂の途中で一息つきかけ、その時問も惜しむかのように、ほんの一瞬天を仰ぐかの素振りを示しただけで歩みを続け、建物の中に消えていった。
 私は今でもそのときの情景を鮮明に思いだすことができる。丁度そのとき私はカメうを手にしていたのであったが、その印象深い情景に対してカメラを構えることはしなかった。というより、カメラを持っていることを忘れ、おばあさんの心の内に思いをはせ、半ばぼうぜんと、その情景を見つめていたのである。       
 昨日から私は再び「 S 園 」に来ている。冬に向って、暖房の試験のために訪れたのである。そして今日は園の運動会。昨夜は園生たちもはしゃぎ、そして指導員たちは(それを見るのはほんとに久しぶりのことだったのだが)てるてる坊主をつくって、所々にぶらさげ、好天を祈っていた。
 あのおばあさんは、孫の運動会を観に、開始は十時だというのに、心せいてもう訪れたのである。聞けば、孫に会いに、今までも足繁く通ってきているのだそうである。
 
 私も半日つきあうことにした。園には広い庭がないから、運動会は園から2kmほど下った町の中心にある昔の高校分校跡を借りて開かれる。いつもは駐車場になっている元校庭は、今日ばかりは晴々しく飾られていた。昨日のうちに、指導員たちの手で整えられたのである。父母たちも集まり、町の人たちもちらほら様子を見にきている。おばあさんは最前列に陣どり、始まるのを待っていた。
 たどたどしいことばの園生の開会の辞があり、運動会は始まった。全部あわせても百人足らずの、ほんとに小さな小さな運動会だから騒がしくなるほどのにぎわいにはならないけれども、それなりの熱気・活気のある競技がくり拡げられている。会場整備も含め、さきごろ開かれた保育園の運動会よりも立派だ、というのが観にきていた町の人のことばだった。私もその熱気にのまれ、一日カメラマンになる気になった。私は園生たちの素顔を撮りたかった。格好の場所があった。校庭に面した元校舎の二階である。そこからは、全景も、そしてカメラを意識しない一人一人の表情も、手にとるように見ることができる。
 そんな活気のなかで、一度だけ、白けたな、と思えるような瞬聞があった。園生たちにとって、大きな楽しみの一つである昼食のときのことである。昼食は幕の内弁当と園の調理員たちが前日から仕込んだおでんに豚汁。父母たちもそれぞれなにがしかを用意してきているようだった。家族が観に来ている園生たちに家族と一緒の食事が許され、それまで一かたまりになっていた園生の群れから彼らが抜け出たあと、その一瞬は起きた。約半数の、家族がだれも来ていない園生がそこに残された。私は彼らの表情に、寂しそうなかげりを見たような気がしたのだが、それは私の思いこみのせいだけだっただろうか。なにかその一角から空気が抜けてしまったような、そんな気がした。まずいな、と私が思ったとき、その気配を察したかのように、指導員のいく人かが、おでんを載せた盆を持って、努めて快活に、さあ食べよう、と分け入りその場の空気をかえたので、瞬時にしてまた前のように和んだように見えた。だが、彼らは確実に、家族がそこにいるかいないか、その差を感じとったのではあるまいか。ことによるとそれは、彼らにとっては日常茶飯事だったのかもしれないが。
 
 私は、昨夜園の役員の一人から聞いた話を思いだした。いま入居している園生の半数以上のいわゆる家庭環境には、何らかの問題があるのだという。身寄りがない、身寄りはあっても、たとえば兄弟姉妹は、それぞれの生活で手いっぱいである、あるいは経済的に厳しい状況にある、・・・・という環境。昼食のとき園生席にとり残された人たちは、もちろんなかには単なる都合でだれも観に来なかったという人もあるだろうが、大半はそういう事情を背負った人たちだと見てよいだろう。
 そうであるとき、そういう彼らには単なる運動会の昼食時の白けなどとは比較にならない大きな問題がのしかかってくることは自明だろう。
 彼らが更生施設での生活を送るなかで、社会復帰できるまでになった:更生した、としよう。だが、それが、彼らが自立した生活を送ることができるようになった、ということを意味しているかというと、決してそうではない。これはあたりまえだ。彼らの生涯は、依然として、一定程度の「支え」を必要とするのである。だれが支えるか。身寄りはそういう状況にある。彼らが歳をとれば、身寄りも歳をとる。(それは、家庭環境に問題がない場合でも同じである。)つまるところ、園を出たら彼らは一人になる。たとえ就労先が見つかったとしても、拠るべがない。それゆえ、園を出るに出れない。園は更生施設ではなく定住施設化してしまう。その結果、更生施設への(とりわけ信頼がおけると思われる施設への)入園希望者は、列をなして待つことになる。
 これは、つまるところ、制度としてはたしかに養護学校・更生施設・通勤寮・授産施設・・・・といった具合に外見上は整えられてはいても、障害者の生涯という視点から見ると、それはあくまでも単に「点」としての対応しか示していない、ということだ。しかも、それらの「点」の相互のスムーズな連携は決して十全であるとは言いがたい。「点」はあっても「線」がない。健常者ならばそれでもよいだろう。自力で「線」を構築できないわけではないからである。心障者の場合はそうはゆかない。
 いま各地で心障者を抱える親たちの自分たちの施設づくりが盛んになっているが(この「 S 園 」もその一例だし、この園の見学者のなかにもそういう意向を持った親たちが多い)、それらはどれも「点」としての施設ではなく「線」としての施設:自分たちがいなくなったあとでもその代行をしてくれる施設を望んでいる、と見た方がよいだろう。明らかに、制度と要望がくいちがっているのである。

 いわゆる公共施設・社会施設というものは、言うまでもなく、人々の生活を補完するためのものだ。そして、その整備にあたっては、半ば常識的に、人々の生活をいわば縦割りの機能別断面でとらえる対応(たとえば、教育・医療・福祉・・・・)が考えられ、制度化されてきている。先に記した心障者の施設群も、心障者の状態を年令別・成長別、あるいは障害度別に、すなわち機能別に考えられたものだ。それは、少なくとも外見上、心障者の状態に対して、合理的な因数分解で対応しているから、あとは個々の因数:個々の施設を充実すればよいかのように思われる。実際、心障者の施設はもちろん、いわゆる公共施設は全て、この機能分担、縦割り分業でその整備がすすめられているのは事実である。
 だが、こと心障者に対するかぎり、重要な視点が欠落していた。つまり、年令・成長も、障害度の軽減:更生も、それは一個人の上に継続して起きる、という認識:視座の欠落である。だから、現状では、心障者は、その成長とともに、機能別に段階別に用意された施設を次々と渡り歩くことになる。まして、身寄りがない場合には、その人の生涯は、それは本来連続したものであるにも拘らず、いくつかの「点」に分断され、たらいまわしとなる。心障者を抱えた親たちの心配は、まさにこの点にある。親たちは、外見上の合理的機能分担・分業によって、あたかも荷分け作業でもするように、一人の人間を分類して片づける発想ではなくあくまでも一個人の連続した生活に視座をおいた発想を求めているのである。
 しかし、考えてみると、この発想の転換、つまり、人々の個々の生活の視点にたっての公共施設の役割のとらえなおしは、全ての公共施設についてもなされる必要があるだろう。なぜなら、人々の生活を補完することを考える、ということは、人々の生活をその外観上で因数分解・機能分解することではなく、あくまでも、人びとの個々の生活を補完すべく考えるということのはずだからである。言いかたを変えれば、ある公共施設の価値は、単にその施設自体が整備充実しているか否かによってきまるのではなく、それが、人々の個々の生活遂行にあたりどのように取りこまれ有効に働いているか、によってきまるということだ。現状の多くの公共施設には、この個々の人が個々の生活に応じて使う、という発想はなく、あるのは全て、合理的機能分担・分業自体の強化だけだといってよい。それは必ずしも、人々の個々の生活遂行にとって都合がよいわけではない。むしろ、多くの場合は不都合のことの方が多いはずだ。にも拘わらず、不満が顕在化しないのは、人々が(止むを得ず)、先に記したように、それら「点」と「点」の間を自力でつなぎ、とりあえず済ましてしまっているからだ。そして、たまたま心障者の場合はそれがなし得ないがゆえに、顕在化して表われている。多分、いやきっと、こうであるにちがいない。機能別断面で見る分業化・専門化が、そもそもの本義:生活の総体を見えなくしているのである。
 
 先号のあとがきで、最近多発している甲信地方の洪水についての感想を記したが、その後、あいついで、それに係わる話を知る機会があった。一つは、10月10付の朝日新聞「論壇」に載った論文によってである。全文をそのままコピーして載せることにする。 

      

 水田が、洪水の際の遊水池としてもさることながら、洪水になる以前の水量調節弁として重要な役割をもっていた、という指摘は、既に紹介した「土は訴える」という本にも述べられている。長野県下の全水田に10cmの水をためると、その総量は6000万t、諏訪湖に匹敵する水量となるそうである。ということは、降雨時には、なににもまして水量調節のクッション役をしてくれるということに他ならず、見かたを変えると、水田がダムの代りをしていてくれるのである。(ついでに言えば、水田は重要な地下水供給源でもあるという。水田には、代かきから収穫までなんと1500mmの水が注ぎこまれるのだそうである。その水は、元をただせば天水なのであるが、水田はその天水を直接河川へ流下させず、一時滞留させているわけである。)そしてそのある部分は地下へ浸透するのである。)
 昭和の初め、日本の「たな田」(極端な例では「田毎の月」と呼ばれるような例、「千枚田」などとも言われる)を見たアメリカの地理学者が、「日本のピラミッド」つまり、これをつくりあげた農民のエネルギーは、ピラミッド建設のエネルギーにもまさる、と言ったそうである(いずれも同書による)。そして、長野県下では、昭和55年に、全水田面積の20%にあたる水田が、米の生産調整のために消えていったという。それは、先はどの計算でゆくと、中規模ダム一個分、1500万tの機能に相当するのである。そしてまたその減反は、機械化農業に不適な「たな田」状の田(つまり、山ぎわの田)がねらわれるから、その点から考えると、水田のダム機能は、上流に近い所ほど減ったことになる。
 それに加えて、この論文にあるように、全ての小河川はコンクリートで固められ、水があふれないように改修された。結果は、これも論文にあるように、本流が一挙に増水する。タイムラグなく小河川(支流)から水が流れこむからである。そして、本流の断面はそれに耐えきれずに決壊してしまう。多分このような事態は、論者の指摘をまつまでもなくこれから各地で起きるのではなかろうか。
 そして、この事態への対応は、今度は本流そのものの断面拡幅だろう。しかしこれがとてつもないことになるのは自明である。もしそれを完全にやるとしたら、本流流域の耕地は大幅に削限せざるを得ないだろう。

 先般、かねてより構想をたてていた青森のT氏の集中講義がようやく実現を見たが、彼が実際に現地でやりあっている一事例も、まさにこの点であった。土木の専門家たちは、治水というと直ぐに河川をコンクリートで固めたがるのだそうである。タイムラグをもって流れていた時代の水量に基づいて断面を計算して固めてしまい、そこへその結果タイムラグのなくなった水が流れるわけだから、結末は見えている。彼いわく何年かに一度の少々の洪水は大したものではない。それよりも、無用の長物に近い河川改修による被害の方がこわい、と。しかし、専門家が彼の意見をとりいれるのは、常に、何かことが起きてからなのだそうである。
 
 ここにおいても、合理的機能別分担化・分業化・専門化が、ものごとを総体としてとらえる見かた:視座を見失い、ただいたずらに、分担・分業した各「点」のなかだけでことを処理しようとする傾向が見られるのである。風が吹けばおけ屋がもうかる、という話は、単なる笑い話として見るべきではない。そこには、ものごとの生起に係わる真理が語られていると見た方がよさそうだ。もちろん私は専門化・分業化を否定するつもりはない。ただ、ものごとの生起の論理を見失った専門化・分業化は(つまり、その専門のなかだけでことを処理して済まそうとするような専門化・分業化、すなわち「点」的発想は)、それは決して専門・分業とは言い得ない、と思うだけのことである。

 その意味で、T氏がここ四半世紀にわたり青森上北地方ですすめてきた施設創りの紹介は、その発想が単なる縦割りの「点」の集合でない点で(つまり柔軟な点で)まさに傾聴に値するものであった。かといってそれをリアリティをもって語ることは、到底私にはできがたい。その一部のことについては、先年、ほんのその上っ面だけを「七戸物語」のなかで紹介したが、あれではまったく不十分である。なんとかして本にまとめてもらおうと、いま考えているところである。
 彼は、集中講義の最後にこう学生たちに語った:「どこの地域にも通用するようなやりかた、というものはない。それぞれの地域に、それぞれのやりかたがあるはずで、人々はそれを目ざし、専門家はそれを考えなければならないのではないか」と。
 このなかの「地域」ということばは、そのまま「場合」ということばに置き換えてもよいだろう。要は一律の分断法でものを見ては困る、ものの見かたの根本になければならないのは、あくまでも総体を見ることでなければならないということなのだ。

 あの「 S     園 」の役員が語ったことを続けると、いま、この園の設立に係わった親たちのなかで、もう一つ別の夢物語がかわされているのだという。それは、老人ホームの夢である。ゆくゆくは老人ホームをつくりたい、というのである。私がちょっと不審そうな顔をしたのを見て、彼は説明した。老人ホームと言っでも、いま園にいる人たちだけが入るのではない。自分たち、つまり親も一緒に入るのだ、と。老後、自分たちもまた、だれかに支えてもらわなければならないときが来るだろう。そのとき、これも一定の支えを必要とする成年した我が子とともに、そこで暮す。少しのことなら老人の自分たちにもできるだろう。そういう老人ホームをつくれないだろうか。
 聞きようによると、これはこの人たちのエゴイズムだ、と言われかねない。けれども私は、そうは思わなかった。本来、公共施設・社会施設が補完しなければならない人々の生活というものの実相は、(別の言いかたをすれば、人々が公共施設・社会施設に望んでいるものは、)まさにこういうものだと私は思うからだ。いまの制度は、このことをまったく忘れてしまっている。その合理的因数分解の発想のなかで、個々人の姿が見えなくなってしまったからだ。

 

あとがき
〇10月の初め、文中にも書いたけれども、青森のT氏が来られ、集中講義が開かれた。「共存互恵」。これが、彼のこの四半世紀にわたってやってきた地域計画の根本であると言ってよい。普通なら直ぐに町村合併をしてしまうのに、そしてそれこそが合理的だと思われるのに、この青森上北地方の四町村は、あくまでの四町村のまま、しかし合同で、地域の諸々の計画を行ってきた。その計画の卓抜さ、柔軟な発想は、まさに驚くべきものであった。録音して多くの人々に聴いてもらいたいと思うほどだ。その話を聞いてしまうと、一時中央で盛んに言われた「地方の時代」などというせりふがいかに安っぽいものであるか、よく分る。中央はそんなせりふを言う前に、地方が地方であるための最高の策、地方分権の強化こそやるべきなのだ。そのとき多分、地方は中央を上まわった形の動きを示すにちがいない。だが、T氏たちは、中央にほとんどの権限をにぎられたなかでなお、これだけのことをしてきたのである。(T氏が「自治あおもり」誌に書いた論文「共存互恵」が私の手元にある。もしご希望の方があれば、コピーしてお送りします。それにより、四半世紀のほほ概略が分ると思う。)

〇「 S    園 」に泊ったとき、園生のO君のお母さんも来ておられた。私はてっきりO君に面会に来られているのだと思っていたら、実はそうではなかった。指導員の方々と一緒になっていろいろと園生の世話をしていたのである。家にいるよりもここにいる方が安まる、とのことであった。

〇ことしは寒くなるのが早いようだ。紅葉はあまりきれいではないが、毎朝、落葉が道を埋めるようになってきた。そして夜は、とめておいた車の窓に露が一面に下りている。もう少したつと、これが氷になる。そうなるとやっかいだ。うっかりしてウォッシヤーでもかけようものなら、それもたちまち氷と化す。もうじきそういう冬が来る。

〇それぞれなりのご活躍を!風邪をひかれぬように!

        1983・10・31              下山 眞司 


「第Ⅳ章ー3-C2横田家」 日本の木造建築工法の展開

2020-01-06 21:13:45 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C2横田家」A4版7頁

C-2 横田家住宅  1794年(寛政6年)建設  所在 長野県 長野市 松代町 

松代 位置図 印  方眼1目盛:4km       関東圏道路地図 東京地図出版より

 佐久から流れてきた千曲川が、松本平からの犀川(さいがわ)と合流する手前一帯が上杉氏武田氏の合戦の場であった川中島。 その南側山際の平地に武田氏の居城:海津城が設けられた場所で、その後17世紀初めに真田氏の居城となり城下町が形成され、その概形は現在も見ることができる。

 横田家は眞田家の家臣。奥会津・横田の出ゆえに横田を姓としたという。 横田家住宅は、七代当主が1794年(寛政6年)に建てたことが墨書で判明。 敷地も当時の大きさを維持(約3600㎡:約1200坪)、表門隠居屋土蔵なども残っている稀有な事例。

 図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

黄色部分:接客空間・隠居屋に対応 (着色・文字は編集)

 

表門から主屋 式台を見る 左奥:隠居屋  

 式台 正面

 

        

復元 平面図 図の方位は上方が南    (着色・文字は編集)

 

復元 桁行断面図

 

  南面 全景 (竣工時)

                   

の間~座敷 南面 右手は隠居屋 南面(竣工時)

 

  勝手~茶の間~南の間 南側(近影)

 

 勝手~茶の間~南の間 正面(近影)

 

 

                      

復元 梁行断面図 上:客待の間~南の間  下:式台~玄関~茶の間   文字は編集

使用材料  土台:ツガまたはクリ  幅3.4寸~5.3寸 高さ3.5寸 追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎ各1箇所、他は腰掛け鎌継ぎ  柱:式台まわり ツガ4.5寸角  座敷、客待、玄関、南の間 スギ3.7寸角  土間、勝手、茶の間 スギ3.5寸角  便所 スギ3.0寸角 根枘 深さ3寸×幅1寸

 

下の架構模式図と断面図で架構の全体がつかめる。  梁・桁の類を柱位置から持ち出して継いでいないことが分る。

 

 

 

について材寸が詳細に記入されている。材種は、式台まわりがツガ、他はスギ(前頁参照)。材寸の詳細は、通常は野帳どまりで、このような詳細が示されている報告書は稀有である。

 

 横田家では、間仕切のある通りには、すべて土台が据えられている。 この図は、土台材種材寸ならびに継手・仕口を明示した図。 これも報告書としてはきわめて珍しい。

足固貫内法貫、そして飛貫の入れられている位置を示した図。 これも、通常の報告書では見られない。上下の別、継手箇所などが記入されている。

図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

写真説明用キープラン                 (着色・文字は編集) 

黄色に塗った部分が接客用空間  横田家目加田家と異なり、北側に玄関があるため、接客空間の裏手にあたる居住空間が南面している。

 

玄関の間 西~北西面板戸どま境 北面障子式台

 

式台からの玄関間 正面襖:茶の間 左手襖:客待の間

 客待の間 東~南面 左手襖:座敷境              

  客待の間 西~北面 左側襖:茶の間へ 右側襖:玄関の間へ 

座敷 正面(東面) 右手障子:南面濡縁へ  

 座敷 西~北面 欄間付き襖:客待の間へ

 茶の間 西北どま 

 

 茶の間~南の間 茶の間には天井がない

南の間 北面 二階への階段 

南の間 東~南面 

 

座敷 南西隅柱の刻み 詳細           左の図を基に作成 敷居・鴨居・付長押 詳細

    

 

 

参考 一般的な鴨居の取付け法

 

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 1     柱に待枘(まちほぞ)を植え、敷居を上から落す。

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 2   待枘(まちほぞ)と込栓の併用

 

参考 一般的な敷居の取付け法 3    柱に樋端を刻み、敷居大入れにし、下部にを 打ち樋端部を密着させる。

 

 


「動機の必然」 1983年度「筑波通信№7」

2019-12-31 13:05:05 | 1983年度「筑波通信」

PDF「動機の必然」(1983年度「筑波通信№7」)

  動機の必然    

 美術の秋などという言いかたについていつごろから言われだしたのかは知らないけれども、毎年いまごろになるとそういう話題が新聞紙上などを飾るようである。ことしは、それにうってつけの事件が起きてひときわひきたった。ご存知の写真模写の一件である。いや、正確に言えば、入選取り消しの一件と、展覧会場から撤去の一件の都合二件である。作者の弁解や評論家諸氏の講釈など、いろいろと書かれてはいたが、ど素人の私には、いま一つ合点がゆかなかった。合点がゆかないというのは、なぜ写真を模写したのがいけないのかが、私にはよく分らないからである。

 決定的な事実は、なにはともあれ、とにかく一度は、これらの絵は二作とも、よいものとして評価されて入選していた、つまり、審査員のお目がねにかない、絵の質として一級のものとして評価を与えられていたということである。しかしその絵が写真の模写であることが判ったとたん、選外と同等のものにおとしめられる、というのはいったいどういうことなのだろうか。

 制作の課程が分ったとたんに画面に変化が起きるわけもなく、従って絵の質に変化が起ったわけでもない。そうだとすると、入選が取り消され、壁から取り外された理由は、ただ一つ、その絵の質が悪かったからではなく、写真を模写したというただそれだけのこと、その制作課程がいけなかった、ということになるだろう。もっとも、制作課程がいけなかった、などといういわば一般的な言いかただと、逆に、制作課程がすばらしいものならば入選して然るべきだ、という論理が成りたってしまうことにもなるから、つまるところ、写真に拠った、ということがいけないことだと見なされたということになるだろう。しかし、どうして写真に拠ることがいけないことなのか、そのあたりのことが、少なくとも新聞紙上で書かれ言われていることからは、私にはさっぱり分らない。「絵としてよいものならよい」としてどうして済まないのかが分らないのである。

 これが写真のコンテストであって、他人の写真を盗んだとか、まるっきりコピーしたとかいうのならば、人選取り消しになっても不思議ではない。だがこの場合はそうではない。写真を模写しようがしまいが、彼女または彼は人の作品をそっくりいただいたわけではなく、あくまでも自分の目を一度通過させた、その意味では創作をしたことに他ならないからである。だからこそ、審査員諸氏もまた、一度は「よいもの」として認めたのである。写真をもとに絵を描くことは、よほどおぞましきこととされているにちがいない。

 もっとも、ともに写真模写が問題とされたのであるが、この二つの事件はそれぞれその問題のされかたが微妙にちがい、一件は単純に実物の写生ではなく写真を写しとったことの当否が問われ、もう一件では、その写真が自分の撮影によるものでなく他人のものであったことが特に問題とされたようである。だが、そうであるならば、写真を模写したことが露見しなければ話が済んでしまうのか。あるいは、その写真が自分が撮影したものだったならよかったのか。そう考えると、これはどうも作品の質とは関係のない論議のように、素人の私には思えるのである。もしも、「だれだれの写真による〇〇」というような題で出品したら、それは審査の対象になるのか、それともならないのか、そこのところがいまひとつ分らないのである。そういえば、音楽では「だれだれの主題による〇〇」とか「だれだれ編曲の〇〇」(つまり、原曲の作者は別にいる)があって、原曲よりも親しまれよく演奏される例がある。

 

 この事作の当事者である彼女や彼がある写真をもとに絵を描こうと思ったのは、おそらくその写真に彼らの心を動かすなにものかがあって、彼らはそれを絵に描きたかったのだと私は思いたい。それとも、そうではなく、自らの手による写生の省略のために、あるいは写真のもつ表示能力の卓越さにかぶとをぬぎ、つまり表示技法上のために写真を援用したのであろうか。そうだとすれば、彼らは写真のような絵を描いたにすぎなくなり、一度はそれらの絵を入選と認めた審査員たちもまた、その点のみで(つまり表示の技法の点のみで)それらを評価していた、ということになるだろう。

 つまるところ、よい絵というのは、その絵が人に訴えるなにかに拠るのか、それともその表現のしかた:技法に拠るのか、はたまたそのいきさつに拠るのか、いったい何なのか分らなくなってくる。素人の私には、そういう絵を描きたい、というそもそもの動機が作者にあった、つまり、それが写真であれ実物であれ何であれ、そこに作者はなにかを見た、そしてそれを表してみなければいられなかった、そしてそれを表現し得て観る人にもそれが伝わり見えた、そういうものが、「よい」ものが備えもつ要件なのではないか、との極めて単純な考えかたしか持てそうにもないのである。たしかに技法のうまいへたはあるかもしれないが、そのもののよさが単に技法の問題ではないことは、たとえば、西欧のロマネスクのものなどを考えてみれば明らかだと思われる。非常に稚拙としか見えないけれども、そこから伝わるなにかがある。それはつまり、観る人の側のなかにわき起るなにかに他ならない。それらの稚拙としか言いようもないものが、観る人をしてそうさせるのだ。私には、その技法が決して洗練されたものではないにも拘らずそのような具合に訴えてくるのは(あくまでもそれは私の目の前に結実しているものがそうさせるのだが)、その結実しているものに表われているところの、そう作らざるを得なかった動機そのもののせいなのではないか、すなわち、単なる結果物そのものの形の上の「よさ」ではなく、そうせざるを得なかった切実さと言うかあるいは執念とでも言うか、そういったものがどんと迫るかたちで伝わってくるからではないか、と思える。

 

 美術の世界でよくモティーフ(motif:仏語)ということばが使われる。通常の意味は、辞書によれば、芸術的表現活動の主題、ということになるが、ややもすると、単に題材ぐらいの意味としてしか使われていないのではなかろうか。このことばの本義である「動機」としての主題という意味が見失われているのである。

 私がロマネスクのものや、あるいは極く素朴ないわゆる民芸と言われているもの(この呼びかたは私は好きになれないのだが)に魅かれるのは、それらを作った動機:極めてさし迫ったそれを作らざるを得なかった動機が、なんのてらいもなく素直に表われているからではないか、そして、その動機というのが、単なる思いつきや単なる感覚的な衝動のそれではなく、彼らの生活上の必然的な動機だからではないかと思っている。考えてみると、いま作られるものの多くには、こういった迫力ある動機を感じさせるものが少なくなり、いわば表面的な、ただいたずらに皮相的な感覚面だけをくすぐるようなものや、技法上の巧みさだけを追うものが多くなっているような気がしてならない。

 これは私白身の経験上でも言えるようで、資金も豊富でゆとりをもって設計できた建物(そう滅多にあるわけではないが)よりも、極めて厳しい条件のもとで、いわばなりふり構わず、ぎりぎりのところで設計せざるを得なかった建物の方が、どうも結果がよいようなのである。というのも、どうやら、前者の(つまり、いわばゆとりのある)場合には、その建物があらねばならない「必然」についてのつめが甘くなり、その甘いつめのまま、いわば上塗りだけにせいをだしてしまいがちになるからのようで、逆に後者の場合はゆとりはないから「必然」をぎりぎりのところまでつめてかからないとものにならず、それゆえできあがりにもその成果がぴりっとしたものとなって表われるのだと思われる。これを先きほどの言いかたで言えば、その建物を作る「動機」が、しっかりとした「必然」の裏づけを持っているかどうかに係わっているのだ、と言えるのではなかろうか。「必然」のつめを忘れたとき、いかに上塗りに技巧をこらしても、結果はふやけたものになってしまうようである。

 

 先月の末、群馬県の東端にある板倉町という町を訪れてみた。そこは渡良瀬川と利根川にはさまれた河川の氾濫原にできた町で、隣接する埼玉県北川辺町(埼玉県のなかで、この町だけが利根川の北側にある)群馬県明和村、そして館林市の郊外を含めた一帯には、一見したところ、のどかでゆたかな田園風景が拡がっている。

国土地理院 5万分の1より

 

 私がこの町を訪れてみる気になったのはTVのせいだ。たまたまそのころ、TVのローカルニュースのなかで利根川流域の風物を紹介する特集があり、そこで、板倉町に現存する「水塚(みづか・みつか)」を報じていた。板倉町は私のから一時間ほど車で西に行ったところにあり、群馬県方面に行くときはいつも通っていたのであるが、古い町だとは思いつつも、ついぞ尋ねてみることもせずにいたのである。

 あたり一帯のどかでゆたかな田園風景である、と先に書いたが、実際はこのあたりはとんでもない地域である。渡良瀬川と利根川という源のちがう大きな河川がこのあたりでぶつかりあい、一帯はしょっちゅう洪水に見舞われていたのである。いま見るようにひとまず落ちついた風景になったのは、巨大な堤防が築かれ排水設備が施されるようになった極く近年になってからで、以前は常に水の脅威におびやかされていたらしい。だからであろう、集落のあちこちに、水神、竜神がまつられている。

 このとんでもない水の脅威にさらされる土地に人々が住みだしたのは、決して古いものではなく、おそらく近世になってからだろう。氾濫原であるから肥えた土地ではあっても、並みのことでは住めなかったはずである。しかし、時がすぎ、人口も増え、新しい耕地を求めて、人々は押しだされるようにしてここに進出、入植する。やたらに進出したのではない。氾濫原のなかのわずかに高い土地を見つけだし、そこを住み家としたのである。いま、このあたりを遠くから見ると、平原のなかに、まるで島のように、こんもりとした樹林におおわれた集落が浮いているが、これらはほんとに、まずほとんどが、氾濫原のなかのわずかに高い土地だといってまちがいでない。北川辺町のあたりでは、地図にはっきり見えるが、平地のなかを蛇行する川が生みだした自然の微高地(自然堤防と呼ばれる)上に、線状に続く集落を見ることができる(もっとも、遠望する限りでは、なかなかそうは見えない。また、蛇行していた川も、いまはもう川の態をなしてないから、予備知識がないと分らないかもしれない)。

 だが、多少でも小高いからと言って、それで水の脅威からまぬがれ得たわけではない。洪水に対しては、それでは役たたずなのである。かと言って、そこから逃げだすわけにはゆかない。そういう土地で、生き続けねばならないのである。そういうなかから生まれたのが「水塚」というやりかたである。生活してゆくのに最低限必要な物資・家財を水害から守り確保すべく、屋敷の一画に土盛りをして小山を築き、その上に倉を建てておき、万一に備えるのである。この小山には、多分水流による破壊を防ぐためだろう、樹木が密に植えられており、しっかりしたものでは、足元を石垣で固めてある。石など手近かにころがっているような場所ではないから、どこか遠方から運んできたはずで、その点から考えると、石垣で固めたのはより近年になってからだろう。こういう小山を「水塚」というらしい。屋敷の中央に主屋が南面して建ち、水塚は大体その西側にある。なかには屋敷全体を土盛りした家もあるが、それは少なく、ほとんどの場合、主屋は原地盤の上に建ち(原地盤に30cmほどの盛土はしてある)、水塚との比高は2~3m、つまりおよそ一階分ある。だから、遠望すると、水塚の上に建つ倉の屋根の方が主屋のそれを越えてそびえている。倉といってもそんなに大きいものではないし、また土蔵のようなつくりではなく木造のままだから、やぐらのようにも見える。水塚をとり囲む樹木がうっそうと茂って、全体の背景となっている。

 主屋は、大体がこじんまりとした平面で、やたらと拡がるということはなく、その代り、屋根裏も使える中二階~二階建となっている例が多い。屋根裏といってもちゃんとした窓が開いている。養蚕をしていた農家にもこういう例があるけれども、この場合もそうなのだろうか、まわりに桑畑がたくさんあったようにも見えず、私には、このやりかたも水害と関係があるのではないかと思えてならなかった(少しばかり水がつく程度の洪水ならば、それで一時しのぎができそうである。)。

 あとになって気がついたのだが、屋敷地のなかで、水塚を西側に設定するというのも、ことによると、水害を考慮した結果のやりかたなのかもしれない。ここの場合、西側はすなわち川の流れ(したがって洪水のときの流れ)の水上にあたる。そこにおかれた水塚は、その上に建つ倉を守ると同時に、その水下側にある主屋への水流を緩和する防波堤の役割ももっていそうに思えるからである。他の土地の例も調べてみなければ分らないが、ただ単純に西側に置いたわけではなさそうである(西側はまた、冬期の赤城下しが吹きおりてくる側でもある)。

 

 このような水への処しかたは、しかし、一朝一夕にして生まれたものではない。おそらく、何度も水に流され、それでもなおその土地にしがみつかざるを得ない、そういう生活を何代も積み重ねてゆくうちに獲得したやりかたなのである。

 いずれにしろ、この土地での暮しかたを決的づけていたもの、そしてまた、家一軒を作るにあたっての決定的な「必然」・「動機」となったもの、というのは、まさに、この地で住む以上はいかんともしがたく対面せざるを得ないところの洪水への対処のしかたであったと言ってよいだろう。

 

 いまでは、この土地を洪水がおそうということも聞かなくなった。利根川の堤防は昔の3倍の高さになったと言い、低湿地では機械による排水が行われ、もう昔のような心配をしなくてもよさそうに見える。あたりには、都会と同じような家々が、低地もものともせず、建ちはじめている。彼らの家づくりは、既に、水に対するのとは別の「必然」・「動機」に拠っているらしい。いったいそれは何なのだろうか。

 考えてみると、いま、多くのもの作りの場面で、なにゆえにそういう結果でなければならないか、という「必然」をつめることが少なくなりつつあるのではなかろうか。「動機」が「必然」とかかわりないところで発生しているのである。

 

水塚のある家―1  館林市赤生田(あこうだ)

主屋は平屋、中二階がある。左手の建物が水塚の上の倉

  水塚へ上る階段

 

水塚のある家―2 北川辺町曽根    

主屋は二階建

 

あとがき

〇コシヒカリの刈り入れが始まっている。このあたりの稲は8割がたがコシヒカリだそうである。ことしは九月の初めに突風が吹き(これは極めてものすごく、組立て中の鉄骨造の体育館が倒壊したほどであった)腰の弱い品種のコシヒカリはほとんど寝てしまい、おまけにそのあと長雨が続いたので芽の出たものもあるとのこと、困っている農家が多いそうである。それでも、遠くからながめるかぎり、水田は黄金色に染まり、豊かな田園風景に見える。昔は8割がたを一品種で作るということはなかったようである。コシヒカリに集中するのは、それがおいしいからなのはもちろんだが、それよりもなによりも、高い値で売れるからのようである。いま、稲もまた換金作物なのである。その昔、水塚に拠って暮しをたてていた農民がこれを知ったら、びっくりするにちがいない。

〇台風10号が過ぎ、秋の空か拡がるようになった。ことしは台風の数は少ないにも拘らず、やたらと水害があったような気がする。とりわけ甲州・信州がひどくやられているようだ。そういえば、ここ数年、甲信地方は毎度のように被害に遭っているように思う。異常に雨が降ったからなのだろうか。しかし、これまでにこの程度の雨が降らなかったわけはあるまい。治水の計画だって、その程度のことは計算ずみだろう。そうだとすると、別の原因があるはずだ。一つ想像できるのは、開発が山の奥まで進んだことだ。たとえば甲州のぶどう園。いまではかなりの急斜面も、立木を伐りとりぶどう園となる。ぶどうは、極端な場合には10m角の土地に1本のぶどうの樹だけで栽培できる。樹木の密度は極端に小さくなる。結果は明らかであろう。降った雨は直ちに急斜面を流れ下るのである。川にそそぐまでにタイムラグがないのである。川は一気にふくれあがる。

〇風が吹くとおけ屋がもうかる、というのは笑い話ではあるが、ものごとが連関しているという点では真実をついている。スイス以外のヨーロッパ諸国の農業のやりかたは、いま日本の農業がやりかけているのと同様に、速効を旨とする(たとえば、穀物飼料による牧畜:草地によらない)やりかたに戦後このかた切りかわっていたのだが、いまようやく、その見直しが始まっているのだそうである。耕地が荒れはてたのだという、(朝日新聞9・ 30夕刊)。

〇人間が持っている知恵というのは、もっとトータルな視界を持っていたのではなかろうか。

〇先号あとがきで、山形県西馬音内と書いてしまったが、秋田県が正しい。

それぞれなりのご活躍を!

              1983・10・3         下山眞司

 

 

★ロマネスク美術:西ヨーロッパの主として11~12世紀に行われた中世美術をいう。(世界大百科事典 平凡社)より

 

ティロル城(Schloss Tyrol)の聖堂入口  1150年頃 北イタリヤ 大理石 

 

同上左側             故人蔵「ロマネクス」より 慶友出版

 

 

「聖母子像」11・12世紀 ツューリッヒ国立美術館 木彫     「ロマネスク」より

 

 

「栄光のキリスト」1167-88 レオン(スペイン)サン・イーシドロ教会パンテオン・デ・ロス・レイエス 壁画  故人蔵「ロマネスク美術」より 学習研究社

 

「マティルド王妃の刺繍(部分)」1080年頃 麻地 毛糸刺繍0.5×70.34m(全体) バイユー司教区美術館 
1044年4月に現れたハレーすい星を王と人々が驚く様をわずかな色糸で描いた部分。  「ロマネスク美術」より

 

 

 

 

投稿者より

この1年間迷いながらも、故人のブログに拙い編集投稿をしてまいりました。

お忙しい中、お寄り頂き、ありがとうございました。

どうぞよいお年をお迎えください。                                   下山 悦子

 


「第Ⅳ章ー3-C2目加田家」 日本の木造建築工法の展開

2019-12-24 10:40:11 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C1目加田家」

 

Ⅳ―3 近世の典型-3:住宅建築 

 C 住宅建築-3:武家住宅

 武家の住宅も、先ず全体の空間を構想しそれを分節させて各室を配置する、空間と架構を一致させる、という点では農家住宅商家住宅と同じですが、武家の住宅には、ここまで見てきた農家住宅商家住宅とはかなり異なる点が見られます。

 それは、接客空間の位置づけです。

 農家住宅商家住宅でも、家人の居住空間に加えて接客空間が付設されることがありますが、その場合は、あくまでも、居住空間を先ず正当な位置に設け、次いでその端部に接客空間を設ける、という手順を踏むのが一般的です。

 

 上の図は17世紀半ばにつくられた椎名家の復元平面図ですが、接客空間は東端部に用意されています。

 

 ところが、武家住宅では、接客空間が先ず設けられ、その残りの部分に居住空間をつくる、という手順が踏まれるのが一般的なのです。

 この独特のつくりかたには、すでに観てきた寺院の客殿建築の影響が大きく影響しているものと考えてよいでしょう。下の図は、その典型とされる17世紀初頭:1601年に建てられた園城寺光浄院客殿です。

 

 寺院の客殿は、寺院の本体あるいは庫裏とは別個に設置され、玄関から見て最奥の室で主人・当主が控え、そこへ向って客が伺候(しこう)する、というかたちに応じた室の配置がなされます。

 この接客のために用意された室の裏側に、接客を支えるためのサービス用の空間を並列させるのが一般的です。

 この形式の諸室を備えるつくりは、一般に書院造と呼ばれますが、武家住宅では、このサービス用の空間の位置に、家人用の空間が配置されるのが普通といってよいでしょう。

 

 こういう形をもつ武家住宅は、幕藩体制の崩壊にともない都市に集中した旧武士階級(多くは中級以下)が求めた住居にも大きく影響します。つまり、都市には、これまでの商家や庶民の住居とは別種のいわば書院造の亜流とでも言うべきつくりが生まれてきます。

 

 

C-1 目加田家住宅  18世紀末~19世紀初頃の建設  所在 山口県 岩国市 横山

 目加田家は天保の頃、岩国藩の御用人役を務めた中級の武士。

 南北39m×東西31mの約1200㎡(約400坪)の敷地のほぼ中央に建つ。

 

 

 

                      図は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 

 接客部分3室を南面に横一列に並べ、その北側に家人の居住部を置く武家住宅の典型的な空間構成。

 いわば、南北2列配置の客殿建築:書院造(例:光浄院客殿)の北側サービス用諸室に家人の諸室をあてがったと見なせるつくり。

 南側に接客用玄関式台を設け、玄関の間東側に脇玄関がある。

 目加田家では、南北2列の間に畳廊下を設けている。

 屋根を瓦屋根とし、主要な諸室に竿縁天井を張っている以外、架構・つくりには農家住宅と大きな差異は見られない。 四畳、二畳、畳廊下は、動線用の空間。

 

南面 式台を見る                             日本の美術№296 武士の住居 より 

塀の内側は、座敷前の庭。 この瓦屋根の葺き方は、この地域独特の方法という。

 

式台・玄関脇玄関        日本の美術№289 民家と町並み(中国・四国) より

 

 

式台 右手は土間入口へ  

 

                    西側外観 縁の左は

 

西側 遠景    

 

                       東側 遠景            モノクロ写真は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 

 

 

使用材料  礎石建て 自然石、式台は方形加工石  柱:マツ 平均4.0寸角  貫:マツ 厚0.65寸×丈3.5寸 継手 略鎌  内法力貫:マツ 厚1.7寸×丈7.0寸(玄関の間~次の間)  足固貫:マツ 丸太材 末口4寸内外 角材 厚2.0寸×丈4.0寸 柱に枘差または略鎌楔締  差鴨居:マツ 幅3.8寸×丈9.0寸(台所まわり

 

 写真説明用キープラン

 

  

次の間から見た座敷視点A)          日本の美術298 武士の住居 より  

       

四畳から裏手に並ぶ裏座敷五畳の間を通して見る(視点B

 

四畳から二畳を見る(視点C  

 

                階段上がり端から見た2階室内視点D)   白黒写真は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 


「虫に刺されて」 1983年度「筑波通信№6」

2019-12-17 12:00:45 | 1983年度「筑波通信」

PDF「虫に刺されて」(1983年度「筑波通信 №6」) A4版9頁 

  虫に刺されて  (1983年度「筑波通信№6」)

 先日、ものすごく暑い日だったが、久しぶりに池袋から東上線に乗った。昼下がりで空いていたし、冷房もほどよく効いていたから、快適であった。

 川越あたりまではさほど変わった風にも見えなかったが、それから西はわずかな年月の間にすっかり変っていた。沿線にあった緑濃い林は、きれいさっぱりとなくなり、他の私鉄沿線と何ら変りない風景になっている。もちろん、あたり一面に拡がっていた水田も埋め立てられ、見るかげもない。住宅公団の大きな団地や、軒を接した建売住宅が建っているのである。

 そういう新興の住宅地にでも住んでいるのだろう、明らかに都会風のなりをした幼児連れのお母さんが二人、途中の、これも新設の、なんとなく歯の浮くような名のついた駅から乗りこんできた。どうやらスイミングスクールにでも行くのであるらしい。二人ともそのまま青山あたりを歩かせてもおかしくない、いかにも若奥様風のぱりっとしたワンピースを着こなしていたのだが、その脚を見て、やはりここはまだ田舎なのだ、と私は思わずにやりとした。お二人の脚は、出ているところ一面、それはみごとな虫くいの跡。私の経験では、あれはどう見てもぶよの類にくわれた跡のはずだ。いくら林や田んぼがなくなったとはいえ、都心に比べればまだそういう自然は残っているのだ。彼女たちの靴がまたしゃれたものであったから、その虫くいの跡が妙にひきたって見えた。

 私の左足首の近くにも虫くいの跡がある。もういまは二・三箇所かまれた跡が残っているだけだが、十日間ほど膨れあがったままで、いたがゆくてたまらなかった。刺された記憶はまったくないのだが、車の運転席の床に大きなあぶがひっくりかえっていたから、犯人は多分こいつだろう。あぶは、刺しているときには痛みを感じないのである。八月の初句のことである。ちょうどそのころ、車で数日ほど東北めぐりをしてきたのだが、このあぶは、そのときの土産にちがいない。例のごとく、極力主要道や大きな町は避け、発展開発から取り残された町や村ばかり寄ってきたから、多分、その最後の村あたりの産物なのだ。

 

 東北の町や村も、しばらく見ないうちに、大分変ってしまったような気がする。もちろんその印象は外見からくるもので、おそらく生活自体も変ってしまっているだろうが、しかしそこのところは、たまたま通りかかった、いわばよそものの私にはさだかには分りかねる。

 青森県には、北海道へ向って突きでた二つの半島があるが、その東側の半島:下北半島の太平洋に面した海岸沿い、基地の町三沢あたりから北の一帯は、淋代(さびしろ)などという地名もあったりして、わびしい所だった。まさに字の如く風雪を耐え忍んできた、ねじれた細い松林が続き、そこに点在する村々の様子もまたわびしい限りであったような記憶があるが、いまはそうではない。家が、少し大げさに言うと、軒を接するほどにまで増えたのである。その昔は、茅葺屋根の家が数軒、肩を寄せあうように集っていただけで、わびしい風景が延々と続いていたものだが、北の方に行くとまだその気配が多少残っているが、三沢あたりはもうすっかり変わってしまったのである。茅葺の家も数が減り、もう数えるほどしかなく、それも潮風に打たれていまにも朽ちはてんばかりだから、いずれ近いうちに、これらもまた新しいつくりの家にとって代られるにちがいない。

 この、このあたりに増えている新しい家々のつくりは、これはなんと言い表したらよいのか、あえて言えば、まことにけばけばしいものだ。写真を見た人が、まるで盆ぢょうちんだ、と言ったけれども、それはまことに言い得て妙だ。屋根はゆるい傾斜の鉄板で色とりどり、棟や破風は盆ぢょうちんの木部のように模様で飾られ、壁には所々に、これも色とりどりのタイルがはられている。お金は相当かけているのだが、なんとも珍奇に見える。なにも、昔ながらのつくりかたをまるごと経承しろとは言わないが、これではまるで突然変異である。これはいったい何なのだろう。もしかすると、基地の町・三沢が醸しだした独特の空気がそうさせるのかもしれない。たしか、このあたりの人々は、大半が、何らかの形で基地と係わりを持つことで暮しが安定したのだ、というようなことを聞いたことがある。そんななかで、そこから少しはなれた原野のまんなかで、折しもむせるように煙ってきたその地力特有の霧のなかに浮びあがったマンサード屋根の牧舎(ことによると住居)は、軒先までがコンクリートブロック積みだったから最近のものだろうが、なにかほっとするほどさまになっていた。

 

 

 この三沢あたりの風景は、どちらかと言えば特異な風景なのだが、しかし一般に、鉄板葺の家々が多くなっている。しかもそれが、どういうわけか、ほとんど赤茶色:鉄さび色なのだ。屋根だけが妙に浮いて見える。私にとって、東北の普通の町の一般的な印象は、この赤茶色の屋根だと言っても、それほど言いすぎではない。どこの町であったか、国道のバイパスが、川沿いに発展した町をまいて小高い所を通過していたが、そこからながめたその町は、一枚の赤茶色の薄板をもみくちゃにして拡げたような感じであった。

 もとよりこれが初めから赤茶色の鉄板葺であったわけがない。多分、昭和の初めぐらいから徐々に鉄板が出はじめたはずで、それも当初のはコールタール塗りでまっ黒、鉄板も最近のように長尺ものがないから小さいものをひし形や長方形にはいであるし、細工も手がこんでいる。そういうのは見ていて安心できるから不思議である。しかし大部分はより近年になってのもので、赤茶色はトタンによく塗るさび止めペンキの色なのだ。鉄板葺の前は場所によると板葺があったかもしれないが、おそらく大部分は茅葺であったのではなかろうか。だから町によると、茅葺、茅葺の上にそのまま鉄板をかぶせたもの、初めから鉄板葺で考えた(旧い)家、そして最近の鉄板葺、とが混在している所もあり、ちょっとした町では、ほとんどが鉄板葺の建物になってしまっている。そして、更にちょっとした町では、そこへ鉄骨やコンクリートの平らな屋根が続々と進出しだしている。雪が少ない所ならまだしも、雪が降ったらどうするのだろうかと人ごとながら気にかかる。土地土地で微妙にちがった姿をしていた村や町も、どこもどんどん一様になってゆくらしい。そうしてみると、あの三沢あたりの特異な形ときめつけた家々は、ことによると、現代の地域性の表れなのかもしれない、と皮肉に、そして真面目に思えてきたりする。

 それでも、このようにどんどん都会風に、一様になろうとしている町をほんの少し離れると、そこにはあい変らず昔ながらの茅葺の家があったりする。そういう家を見ると、あの町なかで旧い鉄板葺の家にぶつかったときと同じように、妙にほっとするのであるけれども、それは決して私が懐古趣昧だからではないだろう。何と言ったらよいか、あえて言えば、その場にぴったりだからである。屋根だけが浮きあがってくるわけでもなく、壁だけが目だつわけでもない、あるべきものがあるべき姿をして(というより、姿につくられて)そこにある、とでも言う他はない。所を得ているのである。

 

 八甲田山系の北側にある七戸(しちのへ)町から八甲田への道すじのちょうど町の家並みを出はずれたあたりにもそんな家があった。水田から一段上った段丘上の、道に面し、まわりを林と、よく手の入れられた畑とに囲まれた、まだそれほど傷んでいない茅葺の家である。車で町から坂道を上ってくると、まず茅葺の屋根から見えてくる。これはもう、ほんとにさまになっている。小割りのガラスが入った古びた建具がはまっている。後になって取り付けたのではなく、初めからなのだそうである。昭和の初めの建設だ、と柔和な顔つきのおばさんが話してくれた。当時は珍しかっただろう。間取りは普通の農家と同じと言ってよく、ただ、かなりの寒冷地だから、吹き通しになるような縁側はなく、閉じ気味のつくりになっている。土間は向って右:東側にとられ、その一画、東南の角には馬屋が仕切られている。七戸町あたりを、下北半島の下北に対して上北(かみきた、郡名でもある)と呼ぶが、この地方は古代より馬の産地であったらしく、古間木(ふるまき)などの「牧」地名も残っている。 

  東北線の「三沢」駅の旧名は「古間木」:ふるまき:であった。しかし、最近駅の近くにできた引湯の温泉場が「古間木」と書いて「こまき」と読ませたため、こちらの方が幅をきかせはじめたらしい。

  近世、このあたりまでが「南部」に属し、変らず馬の産地で有名で、近代になると軍馬の産地として、戦後は北海道にならぶ競走馬の産地として名が通っている。競走馬は、いま、大きな企業牧場で養成れているが、軍馬ぐらいまでは、個々の農家も農耕馬ともども飼育していたものと思われる。馬屋などは、不用になると改造されてしまい、大抵の場合、復元でもしないとその原形を見ることができないのが普通だが、ここではまだしっかりとした形で改造もされずに残っていたのである。

  南部は曲り家(まがりや)が有名だが、このあたりでは見かけないようである。

 そんな風に思いつつ土間を見せてもらおうとして近づいて驚いた。馬屋はいま納屋としてでも使っているのだろうと単純に思っていたのにそこに何か動物がいる気配がある。しかも大きなもの。それは牛であった。茶色の肉牛である。近づく私に向い、奥から出てきてしきりと威嚇しているのである。奥の力をのぞいて合点がいった。生れたばかりらしいかわいい子牛がいたのである。そういえば、いまこのあたりでは、かつての馬に代り、農家は肉牛・乳牛を飼育していて、あちこちに共同放牧場がある。かつての馬屋は産室として使われているのである。

 土間の一画に馬屋を設ける家のつくりがあるのはかねてより知ってはいても、実際に、馬ではないにしろ、一つ屋根の下に家畜と起居をともにしている生活を見たのは、これが初めてであった。後日、秋田県の田沢湖町の近くでも同じように牛を飼っているのを見かけたから、牧畜・酪農をやっている家では、いまでも古い家をそのように使って暮している場合が多いのかもしれない。

 親牛の威嚇にめげず、近づいて詳さに見てみると、土聞との仕切壁は一応あるものの、板壁はすきすきで向うが透けて見える。あぶが群れて翔んでいる。清潔に整えられてはいるけれども、特有のにおいはあたり構わずである。子牛が育つまでの短い期間だとはいえ、大変そうだ。まして、そんな一時期だけではなく、少なくとも半年以上の長期にわたって、昔は起居を共にしたのであろうから、その大変さは、想像を絶するものがある。そこの所のリアリティには、いま一つ私には近づき難く、まさに字の如く垣間見るのでせいいっぱいだ。

 もんぺ姿のおばさんは、上着も長袖でだぶだぶ、出ているのは顔と手だけ、頭も手ぬぐいをかぶっている。半袖シャツの私は、だから、あぶにとっては格好の標的になる。追っぱらうのに苦労する。昔からの農作業着の姿格好に納得がゆく思いである。あれが体にぴったりだったりしたら、いたる所刺されてしまうにちがいない。私の足首を刺したあぶは靴下の上から刺している。よほど目のつまった厚手の生地でなければ防げまい。そして、そんな厚手の衣服がぴったり体に着いていたら、たまったものではないだろう。体全体をだぶだぶに薄手の布でおおうというやりかたに、変な所で納得する。虫に対しても、陽ざしや暑さに対しても、そしてもちろん作業性も、これはうまくいっている。

 

 蚊帳(かや)というものがあった。後になって聞いておけばよかったと思ったのだが、あの牛飼いの家では、まだ蚊帳をつっているのだろうか。それとも、都会のように、殺虫剤を散いたり、たいたりしているのだろうか。しかしそれでは、どう見ても間に合いそうもない。もちろん、あの東上線の車内で見かけた虫さされのご婦人たちの家では、蚊帳はないはずだ。第一、多分、彼女たちの往む家では、蚊帳をつるにも壁には長押(なげし)はもちろん釘一本打つところがないのではあるまいか。ことによると、彼女たちはもう蚊帳なるものを知らない世代であるかもしれない。いま大学生諸君は昭和三十年代の生れ、もうじき四十年代の生れの人たちが出てくるが、彼らはまず蚊帳というものを知らず、知っていたとしても、実際に蚊帳をつっての生活を味ったことのある人はまず都会育ちの人たちにはなく、地方の人たちでも数少いと思われる。私が高校のころまでは、私の家でも蚊帳をつっていたように思う。もう二十五年ほども昔のことだ。蚊帳をつるのは、子どもにはそれなりに難しく技術がいったし、蚊を入れないようにして蚊帳のなかにもぐりこむのも、それなりのこつがあった。長押の裏側が斜めに切られていることを私が知ったのは、蚊帳つりを通してなのである。それにしても、蚊帳のなかは子どもにとって楽しい世界であった。日ごろ見慣れた屋内に、更に半透明でふわふわした屋内がたちまち出現するのである。それに、麻でつくられたあのはだざわりは清々しい。

     

 

 蚊帳が一般に普及したのは中世以降のようだが、考えてみると、これはなかなかの発明である。とにかく、虫の群れている世界のなかに、虫と無縁の空間をつくりだしてしまおうというのだから、これは並の発想ではない。なにしろ、言ってみれば際限ない虫の群れなのだから、それを一々殺すなどという発想は、どこをたたいても出てこなかっただろう。

 戦後ある時期まで、多分占領軍の指導ではなかったかと思うのだが、蚊の発生源を断つべく、DDTやBHCをやたらと散布したことがあったけれども、これは蚊帳という発想に比べると、たしかに源で断つという局面では合理的ではあるが、かなり無暴で恐しい発想と言うべきだろう。それは、ゲリラを追いだすというたたそれだけの目的で、ゲリラの隠れ家になる密林を根絶やしにすべく枯葉剤を散布したのと一脈相通ずる所のある発想である。日本という湿潤な風土は、必然的に蚊やらその他の虫の世界ともなるわけで、それらだけを不用なものとして除去してしまうことは、それこそ生態系が変りでもしなければできない相談である。実際、最近読んだ「土は訴える」(信濃毎日新聞社刊)という本によると、戦後このかた農業近代化の一環として盛んになった個別害虫対応型の薬剤を初めとした諸種の農薬散布は、土壌の生態をすっかり変えてきてしまっているのだという。そうだとすると、それは、そもそも人々がそれでよしとして拠ってきたはずの風土そのものを、知らず知らずのうちに改変・改悪してきたことに他ならないが、そのことにはだれも気づいていないということになる。

 たしかにもう大抵の所では、蚊帳をつらなければいられないというほどには蚊はいなくなった。私の子どものころには、蚊帳にもぐりこむのに蚊と道づれにならないようにするには相当こつがいったほど蚊がいたものだ。それだけまわりに蚊の住める世界があったのである。蚊帳なしで殺虫剤だけで済ますことができるというのは、言い換えれば、それだけ蚊の往む世界がなくなったということだ。そういえば、私の住む筑波研究学園都市には、不思議なことにせみが少ない。日常的にはすっかりせみが鳴かないことに慣れて気づかなくなっているのだが、旧村部を通りかかって、油ぜみがじーじーと暑くるしく鳴いているのを聞いたりして、そうだ、夏はせみが鳴くんだった、と気がつくほどである。樹木がないわけではない。公園はたくさんあって、多種多様な樹木が植えられている。しかし、まずほとんどせみの声は聴くことがない。おそらく、開発にあたって、地表面をあらかたひっくり返し、改変してしまったため、地中に十年もの年月暮すというせみの幼虫が絶滅してしまったからなのではないかと思うが、さだかではない。東京でさえ、せみは鳴いているのである。せみの声を聴けない夏というのは、考えてみると、淋しいものだが、そのように思うのもまた、私か懐古趣味だからなのであろうか。

 

 つい先日、学園都市に隣接するある町の人たちと懇談する機会があった。その町では、ここ十年ほどの間に簡易水道が普及して、それまでは唯一の飲み水供給源であった井戸が、またたく問に消えていったとのことであった。場所によると夏場枯れたり水量が減ることもあったが、とりたてて汚染がすすんだわけでもないから、いまでもおいしい水を飲みたい人たちが細々と使ってはいるそうである。しかし、コックをひねれば、必要な場所に必要なだけ自由に水が得られる利便性は、たとえ水道料が要ろうが、なにごとにもかえがたく、井戸はほとんど放置され消えつつあるのである。水道の普及による水の白由化が、大きく生活を変えたであろうことは想像に難くない。一例をあげれば、それまでは井戸水が得られず(つまり、掘ってもいい水が得られず)、従って家も建てられなかったような場所(たとえば、低湿地のまんなか)にも家を構えることができるようになり、集落の様相も変り始めている。当然、家うちでの生活にも変化が現われているだろう。

 そして、驚くべきことに、水道化が始まってたった十年しか経っていないのに、既に子どもたちはつるべ井戸が何であるかを知らなくなっている、とその人たちは半ばあきれ、そして嘆いていた。別にこの人たちは町の古老なんかではない。多分、三十代の人たちである。都会ずまいの子どもたちが知らないのならまだしも、現に、使われなくなったとはいえ、まだ姿をとどめているものを見ているはずなのに知らないのだという。おそらく、この記憶喪失の傾向とそのスピードはまさに現代そのものの象徴であると言ってもよいだろう。なぜ井戸が水道にとって代られるのか、つまり、水というものの生活にとっての重さ:意味、水道を敷くということの(本質的な)意味、がまったく省みられることなく、水道の(現実的な)利便性のみをクローズアップし、それをただ使うだけがあたりまえになってしまっているのである。その一方で、「私たちの郷土」のような副読本が編まれ、子どもたちに郷土の昔が教えられるとき、たった十年前の昔のことをいったいどうしてくれるのだ、というのがこの人たちの複雑な思いであるらしかった。

 私にも、この人たちのいらだちがよく分るような気がする。「歴史」を学ぶということが、なにかこう今の生活とは無縁の対岸にある珍しいものを見ることであるかのように扱われ、人間の生活の正当な、あるいは順当な(もちろん、いろいろな波風をも含んでのはなしだが)変遷のストーリーを知るということがないがしろにされているのは、まったくおかしく、まちがっている、と私は思うからである。

 おそらく、つるべ井戸もそのうち「文化財」となり、そして初めて副読本や教科書に載せられ、そういう回り道をして初めて子どもたちは井戸について知るのだろう。だがそのとき、既に、井戸のリアリティは、生活とはほど遠いものとなっているだろう。生活にとっての大事なことと、稀少価値としての大事なことが、混同され、とりちがえられ、あるいは、すりかえられて教えられることになるのである。

 

 さきほどの蚊帳もまた、多分そのうちに「文化財」として、あるいは「民俗資料」として、郷土資料館などの片すみでほこりをかぶるようになるのだろう。もちろん私も、そういう日常の生活用具で、使われなくなったものを、資料として後世へ伝えてゆくことは必要なことだと思ってはいる。問題は、それでいったい何を伝えるか、なのだ。その点で、私は、文化財の「財」の字にひっかかりを覚えるのである。なぜなら、それは得てして稀少価値としての評価のみにすりかわってしまいそうだからである。

 古代以来の多くの使われなくなったものが、文化財にされてきた。たしかにそれらの多くは、正当な、あるいは順当な道すじをたどって使われなくなったものであるにちがいない。それらが使われなくなったのは、それらの本来の役割が(逆な言いかたをすれば、それらのものを必要としたその「必要」が)、他のもの、あるいは、やりかたにとって代られ、受けつがれたからなのである。そういった本来の本質的な役割を、根本的・絶対的に不要とするような状況になったために消失していったものというのはまずほとんどないだろう。まずは大抵、なにかにとって代ったのである。

 では、蚊帳の衰退はどうなのか。網戸がそれにとって代ったか、殺虫剤がそれに代ったか、あるいはそれとも、虫のいない世界になって、根本的に変ってしまったのか。

 

 戦後にぎにぎしく唱えられ実施された「生活改善」運動や、その後のいわゆる高度経済成長・技術革新にともなう動きのなかで、多くのものや、やりかたが消えていった。それらはいずれまた「文化財」としての評価が与えられるのかもしれないが、しかし、それらの多くのものや、やりかたが、すべて、順当な道すじをたどった結果として消失していったとは、私には思えない。むしろ、その消失や変容は、内からの潜在的な活力によって生じたのではなく、外からの、本質を見失った他動的な力によったものではなかったか。

 もちろん、いまさら、消えていったことを、ただ嘆いてみてもはじまらない。問題なのは、戦後このかたの経緯のなかで、ものごとや、やりかたの発展・進歩・成長・・・・変容は、本来、生活に密接に結びついた、生活に根ざした内的な活力によって、その道すじをたどるものであるという重大なことが忘れ去られたことである。

 それはすなわち、それぞれの土地にはそれぞれの生活のしかたがあった(たとえば、同じ作物をつくる場合でさえ、それぞれの土地なりのやりかたがある)ということが見失われ、いわば全国一律のやりかたが推奨されることにも連なってくる。だれも、子どもたちに、たった十年前まで存在した井戸の意味さえも適格に伝えようとしないのである。ことによると、十年前まで非文明であったことなど、知る必要もない、などと思われているのかもしれない。というのも、多くの場面で、都会の基準が絶対的価値基準であるかのように見なされ、それにどれだけ近づくかが目安にされる傾向があり、それに遠いことをもって恥とするかのような気配さえ感じられるからだ。

 ものごとや、やりかたの発展・成長が本来たどるべき(生活の結びついた)道すじは、俗なことばで言えば、そこでの生活の知恵によってたどられるべきなのだが、こういった戦後このかたの風潮のなかでは、もはや、そういった知恵が生まれる素地をもぶちこわされ、ただいろいろのものが受け売りの形でとびこみで入ってくるだけになり、真の意昧での創造力も根こそぎにされてしまう。いま、あちこちで伝統的なる「もの」の見なおしが盛んになってきているようだが、それは決して、単に伝統的なる「もの」そのものをあげつらうべきではない。大事なのは、それらがなぜそうなったか、そしてなぜ消失したのか、そして更に言えば、なぜいまになって、それらを「伝統」としてもてはやさなければならなくなったのか、その点について考えることなのだ、と私は思う。そしてこの視点が、いまの世のなかでは、決定的に欠落しているのである。

 私の左足首の虫くいも、もうわずかに跡を残すだけである。痛みは一時のもの。私もまた、ときどき、あぶに刺されなければならないのかもしれない。

 

 

あ と が き

〇学園都市ではせみが鳴かない、などと書いたせいでもないだろうが、夕方、鳥にでも追われたのだろうか、5階の私の室の窓に、油ぜみが飛びこんできた。少しは増えてきたのかもしれない。

〇東北もまた、いたるところで新しい道がつくられ、そして、まずほとんどの道は舗装されていた。どんな奥地でも、人家のあるところまでは舗装されている。交通事故も増えているのだろう。山形の西馬音内(にしもない、と読むのだそうである)という町を通りかかったとき、警官が一台一台車をとめて何かしているところにぶつかった。検問かな、とも思ったが、なんとなくその場の空気に険しさがない。私もつかまった。検問ではなかった。そこはちょうど神社(アグリコ神社というらしい)の前、神官ともども、通りすがりの車に、お守りを配り、簡単におはらいをしていたのである。交通安全運動というわけである。その町の名産だというそばまんじゅうはうまかった。

〇隣り町によい木造の学校があるときいたので見に行った。昭和26年の建設というから、そんなに旧いものではない。戦後の資材不足のころのものである。しかし手入れがよいから、見ごたえがある。建具などは元のままで、非常にしっかりとしている。外まわりのペンキは、この夏休みに、父母の労力奉仕で塗ったもので、それまでは建設当初のままだったのだそうである。きけば、この校舎は、そもそもが、地域の父母の普請により建ったのだという。学校は、その部落の高台に在るのだが、元は部落のなかにあり、明治からのものであったが、戦後、学校の統合問題が起き、一時は廃校となるはずだった。それに反対する部落の人からの声は開きいれられず、そこで、部落の人たちが自力で全てをまかない造ってしまったのがこの学校なのである。彼らは建築委員会をつくり、いくつかの小委員会のもとで、敷地の取得、資金ぐり、資材あつめ、町との交渉・・・・を実行したらしい。新任の校長先生が散逸していた各種の資料の収拾に懸命になっていたのも好感がもてた。設計も町の大工さんがやったらしく、図面も残っていた。一度、あらためて詳しく調べてみようと思う。参画した人たちは、もう70歳になっている。 30年以上も前のはなしである。そして、いま、若い親のなかには、とりこわして近代的な鉄筋コンクリート建にしたら、などという声も、少しではあるが、出てきているのだという。

〇それぞれなりのご活躍を!   

             1983・8・30             下山 眞司


「第Ⅳ章ー3-B3 西川家」 日本の木造建築工法の展開 

2019-12-10 11:26:25 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「第Ⅳ章ー3-B3西川家」A4版6頁

 

B-3 西川家  宝永3年(1706年)~   所在 滋賀県 近江八幡市 新町2丁目

 

近江八幡 位置図       黄色部 近江八幡 印  他の近江商人町:湖岸より 能登川,  近くに 五箇荘,  山側 日野       明治20年 迅速図より

 

 

 近江八幡 市街図              旧西川家住宅主屋・土蔵修理工事報告書より

 

 西川(利右衛門)家は、近江八幡を拠点に蚊帳を主とした商いを営んでいた。

 琵琶湖周辺:近江一帯からは、多くの商人が生まれ、全国的に活躍し、商社の伊藤忠、百貨店の高島屋、布団の西川・・・など現在に続く多くの商店等が生まれている。

 その独特な商いに対する考え方は有名で、その点を含め近江商人と呼ばれている。各地にある酒造業、醸造業には、その地に居付いた近江商人が多い。 ただ、近江商人の商いに対する考え方が、継承されているとは言いがたいのが現状である。

 

近江八幡 町割図  色の街路は、西川家のある新町通り   旧西川家住宅修理工事報告書より(着色は編集) 

 

  旧西川家住宅修理工事報告書より(黄円は編集)

 

 

 

 

     

  

平 面 図              ← 新 町 通 り →

 

 

桁行断面図                            図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 

 

 

  2階 見上げ図

 見上げ図

                梁行断面図   左が新町通り

 

2階キープラン

 

   A 上り端 梯子を掛ける 

 

B 通り側を見る          図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より                       

 

 

 旧西川家住宅修理工事報告書では、開口装置:建具についても時代考証を行い、詳細な図が掲載されている。

 下に、主出入口の摺り上げ戸はね上げ戸の部分の矩計図はね上げ戸詳細図を例として挙げた。

 また、土蔵の土壁部分は新造に等しく、他事例の調査を基に施工され、その工程の記録も詳細に報告されている。ここでは一般図のみ転載する。

 

主出入口の開閉装置(右手が新町通り

 

 

 

  

図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より図中の文字・着色は編集)                

 

 

西川家の土蔵  主屋とともに重要文化財指定されている。

 

1階内部                          (文字は編集)  

 

 3階内部  

  

土蔵 平面図 下から1階、2階、3階

 

 

 梁行 断面詳細図     図、写真共に 旧西川家住宅(主屋・土蔵)修理工事報告書 より 

 

 

 以上観てきたように、商家住宅では、継手仕口に刻み:加工に手間のかかる技法が使われているほかは、居住空間確保の原則すなわち、先ず全体を当初に構想し、次いで部分をその全体の中で構築してゆく、所要空間と架構を整合させる(間仕切と架構の一致)、必要以上に大寸の材料は使わない、横材の継手は柱通り上に設け、持ち出した位置で継がない・・・などは農家住宅とまったく変らないと言えるでしょう。 註 破風板付長押など一部の仕上げ材、化粧材などでは関係なく継いでいます。

 

 残念ながら、これらの原則と、それを具現化した工法について、現在の建築教育の場面で説かれることはありません。 そして、木造建築の一例として下図のような工法が、「在来軸組構法」の呼称で示されているのが現状です。 

 

 

 

 図で明らかなように、これは、全体から部分を考えるのではなく、部分を足してゆくと全体になる、という考え方の架構であり、横材は柱から持ち出した位置で継ぎ、材寸を場所ごとに細かく変える・・・など、明らかにこれまで観てきた農家住宅、商家住宅とは異なる考え方による架構です。

 建築の教材の中には、奈良・今井町高木家住宅が「伝統和風木造」の呼称で紹介されているテキストもありますが、「在来軸組構法」と「伝統和風木造」の両者の違い、あるいは関係についての解説はなされていません。おそらくそれは、その教材を使う人に委ねられているものと思われますが、その点について知り得る的確な資料などは、どこにもないと言ってよいでしょう。

註 上記のような工法は、木造建築についての解説などでも多用されていますから、一般の人が、これが「模範的な」木造建築という「理解」を持ってしまってもおかしくありません。

 

 このような「工法」が生まれた背景には、近代:明治になってから急増したいわゆる「都市居住者の住宅」が、他の既存の住宅に比べ、震災などで大きな被害を蒙ったことと無関係ではありません。

 このような「都市居住者の住宅」がどのようなものであったか、次に、武家住宅とともに観てみたいと思います。

 なぜなら、「都市居住者の住宅」の被災には、その立地とともに、「武家住宅」特に中小以下の「武家住宅」のつくりが、大きくかかわっていると考えられるからです。 

 


「現代 頼母子講・・・・父母による『施設』普請」 1983年8月

2019-12-03 10:20:45 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №5」 A4版10頁 

  現代 頼母子講・・・・父母による「施設」普請・・・・ (1983年度「筑波通信 №5」)

 頼母子(たのもし)講あるいは頼母子無尽という中世以来庶民の問に脈々と生きながらえてきた制度がある。大言海によれば「相救ヒテ頼もしキ意」とあるが、要するに、数人が集まって一定の口数と給付すべき金品を予定し、定期にそれぞれ引き受けた口数に応じた金品の掛込を行い、抽選、入札その他の方法により、順次金品の給付を受ける組合類似のしくみのことである(平凡社・世界大百科事典他による)。

 鎌倉時代に、一団の人々が相寄り、少しづつ金穀を出しあい、これを一団中の困窮者に融通し救済したのにはじまり、神社・仏閣の維持修繕あるいは社寺への参拝費の融通などにも利用されたという。そのしくみは、室町時代にはほぼ現在行われているものと大差ないまでに整えられたらしい。言うならば、いまの共済組合のごとき性格がある。親もしくは親方と呼ばれる一人または数人の発起人とその発起人が募集した数人ないしは十数人の仲間から成り、それを講というのである。江戸期になると、講の目的によっていろいろな目的に広がった。たとえば、特定人の救済のための「親頼母子]、被救済者の特足しない純然たる相互扶助のための「親なし頼母子」などかある(以上、いずれも同上書による)。

 先号で紹介した「 S   園  」の話について、いろいろな声がきこえてきた。建物についてもさることながら、あの「施設」の建設の経緯や、前文で「現在の状況」としてしか触れなかった状況について詳しく知りたいというのである。そして、これをどのように説明したらよいものかと考えていたとき、ふと思いついたのが、なんとなく知っていた「頼母子講」というしくみのことであった。この施設の建設は、言ってみれば現代風頼母子講によって建てられたといえるのではないか、と。そこで事典などをあたって「頼母子」について調べてみたのが前述の内容である。わたしが頼母子になぞらえたのは、それほどまちがったことでもなさそうである。

 

 いま私の手元に、「 S   園  」の建設を願った親たちのガリ版刷りの文集がある。親たちが考えていたことを知るのには、そのいくつかを紹介するのが一番手っとり早いだろう。

 

〇子どもが小学校3年生のころでしたでしょうか。片道1時間半位かかる養護学校に親子で通っていたのですが、電車のなかで、私の向い側に座っている子どもに知らない女の人が何かしきりに言っています。そばに行ってきいてみると、赤ちゃんを抱いた人が立っているので、席をゆずってあげるように話をしていたとのことです。「この子は知恵おくれだから」と言いかけて、思いなおして、子どもを立たせ席をゆずりました。

 「知恵がおくれていても身体はしっかりしている。知恵は遅れていても、世問は、9歳の子は9歳にみる」。だから、頭を使うことは無理としても身体を使うことはできるだけ歳なみにさせなければと思いました。そして、親としてその努力をするつもりでした。ところが、どんなに秀れた教育者の子どもでも、その学業の修業は親ではできかねるように、この子たちの生活習慣の訓練をすることは、なかなか親では難しいのです。人にあずけると「とても良い子」なのに、将来をだれにもまして案じている親には「とても困った子」なのです。かと言って、精神年令が3歳にもならない、身体は大きくなっても、パンドラの筐(かご・かたみ・キョウ)から出てきたといううそとかねたみとかを身につける以前の人間のような人を他人にあずけることはできません。あずける未来も考えられません。私と子どもとは30歳違うので、真剣にその差を縮める方法がないかと考えたものです。考えに考えて悩みに悩んで到達した答が、親がつくり、親が(集って)育ててゆく施設だったのです。・・・・

 

〇・・・・知恵おくれだと分ったとき、あちらこちらと病院めぐり、とうとう大阪では納得がゆかず、治療と教育の場所を求めて上京し、・・・・なけなしの財布をはたいての母娘での東奔西走の明け暮れ、文字どおり、髪ふり乱してのいだ天走り、何とも哀れで、他人の目にはちょっとおかしい姿ではあったのです。泣いた涙の量は計り知れず、眠れぬ夜は数えきれず、・・・・武蔵野の雑木林の中に立ち、闇を見つめたこともあったのです。

 

〇・・これまで親は、先生や近所の方がたの理解と協力を得て、なんとかがんばってきましたが、この先どうあがいても、この子を残してゆくわけで、親なきあと、安心してまかせておける生活の場をつくっておかなくてはなりません。・・・・

 

〇私はこの子がかわいいです。いとおしいのです。またにくらしくもあるのです。こんな澄んだ目をしているのに、こんなにかわいい手をしているのに、努力しないのだろうか・・・・。たとえ少しでも良い効果があってほしい。「生あるものは変り得る」私はこのことばを信じます。現在の社会のなかでは、障害児の生きてゆく基礎はまだまだ非常に微弱だと思います。私たちの子どもがこれからどんなに成長したとしても、それだけで生きてゆくことができるとは考えられません。

 

〇名前を呼んでも何を話しかけても知らん顔、視線をあわせることはほとんどなく、おもちゃなど全く興味を示しませんでした。夜中にきまって目をさまし、大好きなひもをふっては明けがたまで遊んでいる状態が来る日も来る日も続きました。・・・・真夜中に子どもと二人で起きているときなど、「いっそのこと・・・・」と考えたのも一度や二度ではありませんでした。4歳をすぎたころ、幼児グループという(非公認の)通園施設があるのを知り、通いはじめました。そこに2年、(理解ある)幼稚園に1年、(養護学校が義務教育として制度化されてから、その)小学部へ入り、そこを終えて、いまは中学部にいます。・・・・私たちの一番気がかりなのは、学生生活を終えてからのことなのです。・・・・

 

〇土曜日の午後、寄宿舎を尋ねると、待ちかねていたらしく、体じゅうで喜びを表して、ぴょんぴょん跳びはねています。一週間よくがんばったね、というと、おかあちゃん、とこたえます。こういうように呼ぶようになったのは、この養護学校の寄宿舎に入ってからです。それまでの12年間、おかあさん、と呼ばれてみたいというのが夢だったのです。その夢がかなうことになったきっかけは、皮肉にも、主人の入院という不幸があったからです。核家族ゆえの窮余の策で寄宿舎に入れたのでした。それは大きな試練であったとみえ、おねしょをしはじめたり、わざといたずらをしたり、自分の体を傷つけたりして困らせました。それを見るたびに、家庭から離すことはマイナスなのではないかと悩みながらもどうすることもできず、親子ともども耐えるしかありませんでした。

そんなとき、ある日突然、おかあちゃん、と言いだしたのです。それをきっかけに、好きな先生や友だちに愛情を示すようになり、土曜日、おかあちゃん、おむかえ、と自分に言いきかせながら、月曜から土曜までは寄宿舎にいなければいけないのだと納得できるようまでに成長したのです。たまたまやむを得ず家庭から離したわけですが、それまでどおり家庭においたら、はたしてこれだけの成長をしてくれたろうかと思うとはっきり言って私には自信がありません。家庭という温床はもちろん必要条件ですが、この子たちの能力を最大限伸ばしてやるには十分条件とは言えないのだと認めざるを得ません。よき指導者のもとでの生活が望まれるのです。

 

〇・・・・多勢の人のなかほど孤独を感じるということがありますが、(障害児が)普通児のなかへ入ってゆこうとすればするほど、みじめな気持になることも事実で、幾度も挫折感を昧ったものです。健康な人も、障害のある人も、いたわりと謙虚な気持で互いに認めあう社会であってほしいというのが、障害児を持つ親の一番の願いではないでしょうか。いままでの施設はもちろんのこと、老人ホームでさえも、人里離れたさびしい所に建てられることが多かったのですが、(私たちの望む施設は)そうあってはほしくないのです。(私たちの望んだ施設ができ、子どもたちをそこに入れたら)親の役目は済んだとは、わたしたちのだれも思うわけもなく、親だけでは限界がある生涯教育を、専門の方の指導の下でしていただき、そして物心両面でできるだけ支えてゆきたい、というのが、私ども親の心境です。

 

〇児を抱き想いのままに雲を追う 流れゆきたる病児との日々

 

 この文集は、建設予定地の地元の人たちに施設建設の意義を理解していただくために編まれたもので、ここに引用したのはごく一部である。

 おそらく概略お分りいただけたのではないかと思うが、この親たちをして、いわば無暴な施設づくりに走らせたものは、おおよそ次のように要約できるだろう。すなわち、親たちは平均すると30代後半から40代。子どもの年令が10代前半、いわゆる中程度から重度の障害のある子どもを持っていて、家庭だけでの保護に先行きの不安を抱いている。つまり、養護学校を出たあとの行く末が不安なのである。もちろん、通園施設、通勤寮、更生施設、授産施設、あるいは収容施設等、建前の制度としては整えられつつあるが、それでもなお全般的に不備といってよく、入所を待たされることはあたりまえになっている(たとえば、この「そだち園」は更生施設にあたるが、入所志望者は30名の定員に対し、5倍以上の167人もいたのである)。そしてまた、それらの施設の多くは(全てではないのはもちろんだが)人里から隔離されすぎたり、まったく収容所であったりして、子どもそれぞれの個性に対応した指導や教育の点では頭をかしげたくなるものになりがちなのである。ひどい場合には、大きいことはよいことと、という企業論理がもちこまれたりさえするのである。

 親が望むような施設ができるようになるのを待っていても、国などの動きは決して早くない。まして、それを待っていたのでは親子とも歳をとり、先きゆきの不安は増えるばかり。であるならば、指導者を探して自分たちで望ましい施設をつくってしまえないだろうか。

 

 実際、自らの手で自分たちの望む施設を、といういわば無暴な夢は、とある日の午後、喫茶店での(障害児を持つ)数人の母親の会話からはじまったのだそうである。彼らは既に、それぞれ自分の子どもを抱え東奔西走してきているから、いろいろな施設や指導・教育のさまを知っていた。実現の可否は別として、夢に実体をもたせることはむしろ簡単なことだったろう。問題は、実体を実現させ得るかどうかなのである。おそらくそれが母親たちの強みなのであって、父親たちであったならば、実現の見込みなどあるわけはないとして夢は夢として放りだしたにちがいないが、母親たちは逆にかすかな手ざわりをもとに調べだした。一定の自己資金と土地がありさえすれば、国からの補助金によって設立が可能なことが判ってきた。そこまで判ると、さしもの現実的な父親たちも心を動かしだす。数人の母親たちが発起人となり、施設設立を願う集団が発足する。 25の家族(当初は26)が結集するのは、そんなに時開がかからなかった。ほんの数ヶ月なのである。もちろんそれには、この親たちの熱意もさることながら、現在園長をつとめているT氏をはじめとするその道の先導的な指導者・専門家たちの側面あるいは正面からの援助があったことは言うまでもない。

 彼らはいろいろな施設の見学会や、結集した全家族親子の参加する合宿をするなどして意志の結束につとめるとともに、一家族200万円の資金積みたてを行い、あわせ土地選びに奔走した。 200万円という金額は決して小さいものではなく、土地選びはずぶの素人にとっては初めての、しかも海千山千の不動産業者が必らずかんでくる厄介な代物だったといってよい。

 

 土地ははじめから山梨県の東部に白羽の矢がたれられ、いろいろ探された。その理由は、大きく言って二つあった。一つは、東京都内には土地がないこと、仮にあったとしても法外な値であって手がでないこと、あるいは人里離れた場所になってしまうこと、そしてもう一つは、園長自身、ここ十数年山梨県営の心障者施設で活躍されていた関係で、なにかと地元の関係者とのコンタクトが得られやすいことが、運営上も得策だったからである。更に言えば、そこは東京からは車で1時間ちょっと、父母が容易に訪れることができるのも決め手であった。(毎土曜・日曜には東京へ送迎車を出すそうである。)

 土地は、現在の地に決定するまでにいくつもの候補地があった。そして、これが決るまでの経緯は、まさに筆舌に尽し難い。別にとりたててこの種の施設の建設反対が(都会でのように)あったわけではない。むしろ、町を構成している各部落のなかでの微妙な人間関係の確執が部落内での対立を生み(たとえば、あれが賛成するならば反対だ、というようなことも起きるのである)あえて反対をとなえる理由として逆に施設反対を持ちだすこともあったようである。もちろん、施設アレルギ一が皆無であったわけではないが、日夜を問わぬ父母の説明(一戸ずつまわるのである)に、まずほとんどの人たちは納得してくれたのである。いまも、まず友好的だし協力的である。いずれにしろ、土地が最終的に決ったのは、開園予定の8ヶ月前、それまでに1年半以上もかかったのである。その間に、一方では国の補助金の申請は着々と(というと簡単であるが、やたらと書類がおびただしい)進み、その面での可能性は、まず確実なものになってゆきつつあった。いまだからこそ言えるのではあるけれども、この1年半以上にわたる地元の人たちとの接触は、決して無用なことではなかったと私は思う。いまの地元の人たちの理解と好意は、それによって醸成された面が多分にあると思うからである。もっともその時点では、なかなか土地が決らず、土地が決らないことは即補助金も下りないことであったから、いらいらのしどおしであった。

 

 設計者としての私がこの設立に係わりをもったのは、父母たちの結集が終り、土地選びがはじまりだしたころのことであった。つまり、いまから2年半ぐらい前になる。この人たちとの出会いは、まったく偶然だと言ってもよいだろう。大分前に、ちょうど中野の江原小改築問題というこれまた前代未聞の父母の運動に傍から参画していたころ、これも折から制度化された都立養護学校の設計について、その学校へ子どもを通わせることになる母親から相談を受け、都の教育行政に精通していた江原小の母親たちに都への仲介をお願いしたことがあった。養護学校の相談に見えた人が、この今回の「 S  園 」設立のそもそもの発起人(喫茶店で夢を語った人たち)の一人だったのである。江原小の人たちは、ことによると忘れているかもしれない。

 私も何度か、土地選びの段階で、現地を訪れたけれども、しかし、あの父母たちのようには地元の人たちと接触したわけではない。私のしたことは、その段階では、候補地の建設敷地としての可否や問題点を示し、場合によると、そこでの建物の姿を図にしてみること、そして地元の人たちに説明する程度であった。むしろ私はそのとき、この父母の、まさに驚嘆すべき熱意・迫力と、地元の人たち(主にぶどう園などを営む農家の人たちである)のしたたかさと村の人間関係の微妙さ・複雑さに、文字どおり、教えられる、との思いでいっぱいであった。普通の(都会の)設計ならビジネスライクにすいすいと割り切って進む話が、ここではそうはゆかない。おそらく、ビジネスライクにすいすいと事を進めること自体が、どこか重要な点を見失っているのではないか、というようにさえ私は思ったものだ。多分それはまちがっていないだろう。

 土地がさまざまな曲析を経てほほ落着をすると、設計図をひかなくてはならなくなる。てんてこまいをするのは、今度は私たちの番だ。仕事は敷地の高低測量を自前でやることからはじまった。

 そのときまでに、別の敷地での計画案として数案既に提示し、いろいろな検討は行われていたのであるが、敷地が変り、急挙また三案ほど計画案をつくりなおした。そして、いま建っている建物の基本は、実は、ほんの2・3時間で、園長の自宅でつくりあげたものである。昨年の七月半ば、猛烈な雷雨のさなか。いま決めないともう時間がない、まるで試験を受けているような気分で、せっぱつまってつくりあげたものである。とにかくこの案でGOサインがでて実施図面作成に移行するわけであるが、そこに至るまでの諸々の経緯もまた筆舌に尽し難いと言ってよい。しかしそれは、設立運動そのものに比べたら小さな小さなことなのだ。

 

 私が(正確には私たちなのだが)この設立・設計にあたって考えたことは、先号で、少しまわりくどい言いかたではあったけれども、言わせてもらったので、あらためて詳しく言うつもりはない。けれども、一言だけあえて付け加えさせてもらうと、私は、心障者の更生指導・教育(の理想的な形)はかくかくしかじかなものである、あるいはあらねばならない、などということをあらかじめ設定して事をはじめることはしなかった。

 なぜなら、指導も教育も、心障者をしていわゆる社会復帰せしめることをもって目標としても、それへ向っての具体的なやりかた・展開は定型があるわけでもなく、絶対的な姿があるわけではない、ただあるのは、試行錯誤・模索の連続だけだと私は思うからである。だが、ともすると建築家の多くは、その建物での生活のしかた(この場合で言えば、指導・教育のしかた)を定め、それに合うように室を用意すればよい、とする考えかたをとってきたから、そのあるべき生活の型の設定に意をそそぎがちであったように思う。この考えかたは、なにもこの種の建物でなくても、まちがいだと私は思う(これについては、なかば逆説的に「建物は雨露がしのげればよいか」1983.3 昨年度第12号で、分かりにくい書きかたであるが、書いたとおりである)。ならば、この設計で私は何を考えたか。それは極めて単純な話であって、一軒の「家」をつくることなのであった。

 

 実施設計は八月と九月のニケ月。ここで考えられたことのポイントはいかにローコストで質を高めるか、という点に尽きる。建物は約1000㎡の平家建、一部二階。鉄筋コンクリート造が要求される(耐火建築=コンクリートという規定がある。当初、工期短縮をねらい、屋根を鉄骨で考えていたのだが、この規定ゆえに全面的にコンクリートとなる)。かけられる費用は、建物(電気・給排水・暖房・調理設備などを含む)に対して約1億6000万円、坪当り約53万円、おそらくこれは普通の小学校よりも安いだろう。こうなると、重点的に費用を使うしかない。構造を極力簡単にし、既製品を最大限使い(アルミサッシは住宅用の一番安いのを使う、など共通のおさまりを各所に使う一方で、配管の保全を容易にするため全館に床下のピット(トンネル)を設け、温風の床暖房をしくんだりしている。暖房等は、いわゆるセントラル方式をやめ、ブロックごとに制御するようになっている。これも保全経費を安くするためである。こういう施設の場合、建設費もさることながら、運用上の経費が安価になることも重要なのである。床材は相対的には高いものを使っているが、壁や天井材は、多分、これより安いものはないという材料:石こうボードを使っている。しかし実際に見ていただくと判るのだが、それほど安いなあとの感じは受けないはずである。それは、ほぼ全館にわたって、木製の幅本(床と壁の境)、腰長押(こしなげし:床よりの高さ約80cmの位置にまわした帯)、長押(なげし:床より約180cm)、そして天井の回り縁を盛大に設けたためである。天井にも、要所に、木製の縁を付けている。壁の保護にもなるし、またものをはりつけたり、かけたりするのに都合がよい。使った木自体は決して高い材ではないが、たったこれだけで、非常に木村を使ったような錯覚を与え、全体が暖か味を帯びてくるから不思議である。これはなにも私たちの独創でもなんでもない。その昔、フランク・ロイド・ライトという建築家(昔の帝国ホテルを設計したアメリカ人)が多用した手法であり、元をただせば、多分、彼は日本の建築からその手法を学んだはずである。

 

 とにかくローコストに徹し、設計はあがったのだが、次の難題は、いかに年度内工事として完了するかであった。十一月初旬の着工で工期は正規には五ヶ月、大目に見てもらっても六ヶ月しかない。工事は敷地への取付道路からはじめなければならず、足場も悪い。おまけに冬であるから作業時間も短かく、その上寒冷地。これ以上はないという悪条件。実際に本体に手がつけられだしたのは、十二月も末、だから主体は年が開けてからとなってしまった。それでいて、五月の連休前にほぼできあがってしまったのであり、この問の経緯もまた、筆舌に尽し難い、としかまったく言いようがないのである。

 

 そして六月一日、建物はできあがり、施設は開園した。「夢が実体を帯びてくるころは、まさに夢であって楽しかった。しかし、実体が実現するまでは、これはまさに、スリルとサスペンスに満ちた綱渡りの連続であった]とだれかが述懐していたが、それはほんとに実感である。私が先号に付けた「 S  園 によせて」という文の末尾で「・・・・建物は、いま、何事もなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降ってわいたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです」などと言わずもがなのことを書いたのも、この実感が強烈だったからなのである。

 

 施設の建物はできた。しかし、この施設建設を目ざした現代頼母子講は、目的を達したとして解散できるわけではない。目的は建物そのものをつくることではなかったからであり、第一、この大事業は自己資金だけでは成し得ず、補助金の他に、7000万円という多大な借入金をかかえている。それを今後20年間、返し続けなければならない。そして、もう一つ根本的な問題がある。それは、頼母子講とは根本的に違う点なのだが、出資者必ずしもこの施設を利用できない、という点である。それはなぜか。補助金の性格ゆえである。補助金は公共の事業に対する補助であるから、建前としては、入所者を出資者の子どもに限定することはできない、というのである。 200万円という出資が可能な恵まれた人だけが補助金の恩恵を受けられるというのでは不公平である、という行政側の説明は、確かに一理ある。つまり、この講に参加した25人の家族は行政側に言わせると(建前の上では)数少ない秀れた施設づくり:施設運営にのりだした篤志家・ボランティアということになってしまうのである。

 もちろん、ここに結集した父母たちが、単に篤志家たらんとしたわけではないのは言うまでもない。彼らは、それぞれ、将来この施設に自分の子どもたちを入れることを望んでいるのである。そして、現に、この父母たちだけではなく、実は他に多くの父母たちが、自分たちの施設づくりを望んでいるのが実際なのである。これはいったいどういうことなのだろうか。

 端的に言えば、確かに一時に比べれば各種の心障者施設は整備されてはきているが、未だ十分なわけではなく、更に重要なことは、父母たちが心底から自分の子ども(の未来)を託し得ると信頼できる施設がないということを意味しているのである。国や都道府県などが建ててきているいわゆる公共団体立のこの種の施設でさえもが、決して父母の願望に応えているとは言い難く、むしろ、公共団体立の方に問題が多いようである。建物にかけられる費用も多く立派なのだが、建てかたも、規模もそして運営も、単に制度上の施設にすぎない場合が多く、父母たちの目には、字のごとく収容所としか見えないことがしばしばある。実際、父母たちが信頼できる施設というのは、経済的にもきりきりの民間の施設のようである。だが、こういうことは、公共団体立の公共の施設の本義から言って、おかしなことだ。しかし、おかしな現象は、なにもこの種の施設についてだけではない。他のいわゆる「公共施設」が、まずほとんど、その「公共」の本義からかけはなれているのである。ただ、他の公共施設の場合、それを使う側がなんとかやりくりし、また設立側も適当にお茶をにごして済ますことができるけれども、この種の施設ではそうはゆかない。そのありかたのありさま、そのまずさは、ことばの上の説明や弁解では済まず、直接的にしっかり見えてきてしまうのだ。本来、全ての公共施設が、本当の意味で対応していなければならないはずの、その「公共」を構成している「個」の問題に対する想いの欠落が、この種の施設では如実に明らかとなってくるからである。

 その意味では、この「 S 園 」の設立を願う父母の運動は、そしてそれに類するいろいろな、そして各地での運動の顕在化は、まさに「行政]のありかた、いわゆる「地方公共団体」「国」の「公共」に対する理解のしかた:認識のありかた、、を問うていることに他なるまい。人々は、税金という掛金を毎年積んでいるにも拘らず、「地方公共団体」あるいは「国」という頼母子講は、少しも「頼もしく」ないのである。そして、だからこそ彼らは、自らの頼母子講を組織したのである。

 

 だが、ここで、ことによると、一つの疑問が提起されるかもしれない。この人たちは200万円用意できたからいい。借金をしようがしまいが、とにかく 200万用意できた。借金もままならない人たちはどうするのかという疑問である。正直に言って、私にはそれに十分に答える回答がない。そして、こういう疑問があるからといって、この彼らの運動を、ぜいたくな運動だとは思わない。 200万の有無に拘らず、いまの世のなかで、公共施設のありかた・建てられかたの本来のありかたを問う意味では、必要不可欠なことだと思うからである。できる所からやらなければならないと思うし、現に、「 S 園 」設立に係わった父母たちも、200万がない人たちはどうでもよいなどとは、少しも考えていないからである。

 

 まさに筆舌に尽し難いことがいっぱいあった。しかし、この運動の傍に参画できたことは、建築の設計に係わる者の一人として、設計者の係わりかたを問われる意味で、望外の幸であり、そして、現実に建物ができあがったなどということは、まさに信じられないくらいである。

 

 開園後一ヶ月半経った七月半ば、泊りかけて訪れてみた。皆が歓迎してくれた。設計のまずさも目についた。だが、入居者たちは、どうやらそれぞれ好みの場所も見つけ、なじんでくれたようであり、建物は生きていた。そして、全ての職員は、さわやかに、情熱をぶつけていた。多分、この人たちの力で、「 S    園 」が名実ともに「 S 園 」として結果したとき、そこでまたあらためて「公共施設」とは本来何であったかが、世に問えるのではなかろうか。

 

あとがき

〇筆舌に尽し難い、ということばは便利なことばである。これによって、大分話が簡単になる。たとえば、農民のしたたかさ、としか書かなかったことも、具体的に書きだしたらどれだけの分量になるか知れたものではないし、そしてまた都会の生活に慣れた父母の行動原理もまた、この農民のそれと対比して書いてみたくなる。実際のはなし、同じ日本人でこれだけものの考えかたが違う、と感嘆したものであった。

〇私が一番感心し、そして困ったのは、建物づくりはつまるところ人間関係次第でよくもなりまたわるくもなる、ということを、なかなか分ってもらえないことだった。たとえば、同じ一つの細工を仕上げるのでも、職人が気分よく仕事できるかできないかが仕上りを左右してしまう、ということが、近代的契約に慣れてしまっている人たちには不思議のことのようだった。仕様の指示が同じなら、気分のよさわるさとは関係なく仕様どおりに仕上って当りまえだ、と信じてしまっている。理屈は確かにそのとおりなのだが、しかし、それはそうではない。ロボットではなく人間だからである。彼らは同じ10万の仕事だって、仕事にのれば、その10万を、それ以上の価値にすることを心得ていて、そうだからといってやりすぎたとか損をしたとか、決して思わないはずなのだ。

〇この父母たちが、実際に出資した額は200万である。しかしそれは、あくまでも、帳面づらのはなしである。彼らが地元に、ときには泊りがけで日夜訪れ、また勤めを休み役所と話し合いをもち、あるいは集会をもつ、といった諸々の日常的な活動は、もとより手べんとうであり、それは数字に単純に置きかえてみても、多分、出資額に倍する以上のものになってしまうだろう。つまり、単に金さえあればできるというものではないのである。

〇ハングリーな条件の方がよいものがつくれるんですね。いまのところ、見にくる人たちにはわりと好評で助っているが、そのうちの一人が語った皮肉ともなんとも分りかねる評語である。意外とあたっているかもしれないとも思う。

職員は皆若く20代が多い。その活動のさまを何と言い表したらよいかといろいろ考えたけれども、さわやか、ということばしか浮んでこなかった。

暑中お見舞申しあげます。それぞれなりのご活躍を!

       1983・7・28                 下山 眞司


「第Ⅳ章ー3ーB2 高木家」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-26 10:35:32 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B2」

 

 B-2 高木家  天保年間(1840年頃) 所在 奈良県 橿原市 今井町

 

みせのまの外部 柱脚部の横材は地覆   日本の民家6 町屋Ⅲより

平面図                  図は日本の民家6町屋Ⅲ高木家住宅修理工事報告書)より                

 

 

 桁行断面図

 

 

  日本の民家6 町屋Ⅲより

 みせは庇部まで畳敷梁行断面図参照)  豊田家は庇部は縁として板戸で仕切っている。 格子の内側に2枚折りの明り障子蔀戸(しとみど)を設けている。上は障子を開けたところ、下は閉めたとき。

 

  

どま東面  貫:4寸×8分 下から3段目は込栓、他は楔締め    どま 通り側・大戸口を見る  日本の民家6 町屋Ⅲより

 

 高木家は代々酒造業を営み、嘉永7年(1854年)頃の当主が、この建物で、醤油屋を始めた、と伝えられている。

 豊田家のおよそ180年後の建設で、土台を用い、いわゆる大黒柱はなく、通し柱管柱とも4.2寸角で統一している(北面庇部を除く)。

 飛鳥川に近く、地下水位約80cmの場所ながら、豊田家に比べると良好で、礎石の沈下は、東西両側の土台下で約2~4cm、礎石建て部分で約7cm程度と少なかった。 ただ、敷地四周の度重なるかさ上げにより、土台下や柱脚部の腐朽、虫害が激しい場所があった(豊田家ほどではない)。

 小屋組の損傷はきわめて少なく、雨漏りによる腐朽が見られる程度であった。(解説は高木家住宅修理工事報告書による)

 6尺3寸の畳を基準にした内法制どま部分の逃げで調整。

 

 1階 ざしき 床と違い棚

使用材料   礎石:自然石、切石   土台:ヒノキ 5寸角 継手:腰掛鎌継ぎ  柱:総数61本  内通し柱32本 ヒノキ  管柱ともすべて4.2寸角北側庇部3.6寸角) 根枘 平枘 頭枘 平枘または重枘  大引:足固め貫は使用せず、大引、根太で代用。ヒノキまたはスギ 4.5寸×4寸程度 転用材が多い  貫:ツガ 4寸×0.8寸程度  差鴨居:マツ 6.5寸~10寸×4寸 柱仕口 込み栓 差鴨居~差鴨居 シャチ継ぎ  二階根太受け(胴差・床梁)マツ 丈6.5寸×幅4寸程度

 

架構分解図            日本の民家6町屋Ⅲ (高木家住宅修理工事報告書)より

 

 豊田家の約180年後に建てられた建物。 いわゆる大黒柱、太い柱を用いず、通し柱管柱とも4寸2分角とし、東側、西側の壁面では土台建てとしている。

 今井町土台が使われるようになるのは、18世紀後半と考えられている。 土台は、礎石天端をある程度均した上、土台下端を削って据えている。  土台は、東西の側壁にだけ使われていることから水平の定規として扱われたのだろう

 高木家では、足固貫が使われず、大引根太がその役目を担っている。 これは、土台を据えた東西の軸部には足固めの必要がなく、その延長の考え方と思われる。

 

 豊田家では、貫は小屋貫以外では、軸部でどま東側面にわずかに使われているだけだが、高木家では開口の必要のない東西の面には徹底的に使っている。

 その場合、東西面では、を半間ごとに入れている。これは、大断面の材料(太い差鴨居など)を多用しないことへの対策と考えられる。

 2階床は、豊田家と同じく、差鴨居の上の束柱で支えた根太掛け床梁)に根太を架ける方法(後出の ほ通り分解図参照)。

 

六通りの差鴨居 取付け分解図               高木家住宅修理工事報告書より(着色は編集)

 

 

へ-六 柱 差鴨居 仕口詳細図

                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より 

 への差鴨居の仕口は、長い枘竿)をつくりだし、① 込み栓でとめる ② を貫通し、反対側の差鴨居に差し、シャチ栓で締める の方法がとられている。 これは、4.2寸のため、貫通する孔の加工が容易だったからだろう(道具の進歩もあった)。 込み栓は、仕口内にあるため仕上がると隠れる。

 

 

通りの根太掛け(床梁)の支持法と継手 ほ通りは、みせのま~だいどころ中央の南北の通り平面図参照)。

                   

                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より                                   

 根太掛けは、間仕切上の六通り十四通り腰掛鎌継ぎ継がれるが、その継手部を、各通りの差鴨居上の束柱が受ける。 それゆえ、束柱頭枘平枘を受ける枘孔は、継がれる2材に、半分ずつ彫られる。

 

  

                                     日本の民家6 町屋Ⅲより

2階は全面竿縁天井を張り、すべてザシキとして使われている。 左:上がり口 右:全室を南から見る

 

参考 高木家の地震履歴

 高木家は、天保年間(1830~1843年)に醸造業を営む本家から分家しているので、その頃に建屋が建てられたと推定されている(嘉永7年=安政元年:1854年に醤油屋を開業しているから、どんなに遅くとも、その時には既に建っていた)。

以下、発生年月日、被災地、マグニチュード、被災状況の順で記載。

1854年07月09日(安政01年) 伊賀・伊勢・大和一帯        M7.2 奈良で潰家700戸 

1854年12月23日(安政01年) 東海・東山・南海諸道        M8.4:安政東海地震

1854年12月24日(安政01年) 畿内・東海・東山・北陸・南海・山陽 M8.4:安政南海地震(前記地震の32時間後)

  註 上記安政期の三つの大地震に遭ったかどうかは建設時期によるが、おそらく遭ったと考えてよい。

1891年10月28日(明治24年) 岐阜県西部 仙台以南で有感   M8.0:濃尾地震 内陸地震で最大、全壊14万 

1899年03月07日(明治32年) 三重県南部           M7.0 大阪・奈良で煉瓦煙突被害多数

1936年02月21日(昭和11年) 奈良県北部           M6.4:河内大和地震

1944年12月07日(昭和19年) 紀伊半島南東沖   M7.9:東南海地震 静岡、愛知、三重などで全壊17599戸

1945年01月13日(昭和20年) 三河              M6.8:三河地震

1946年12月21日(昭和21年) 紀伊半島南方沖   M8.0:南海地震  中部以西各地で全壊11591戸

1948年06月15日(昭和23年) 紀伊水道南部          M6.7

1952年07月18日(昭和27年) 奈良県北部           M6.7:吉野地震

1955年01月17日(平成07年) 兵庫県南部     М7.3:平成7年兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災) 

 

 高木家は、建設後、何回も大きな地震に見舞われていることが分る。この地域の人たちは、昔から何度も大きな地震を経験しており、建物の「対地震策」についても十分検討がなされていた、と考えてよい。

 

 

参考 視覚と屋根の形

① 屋根勾配と見えがかり

 

② 視覚矯正の手法

 

③ 狭い道と屋根の形体  今井町の例

 

 

④ 広い道と屋根の形体  妻籠宿の例

 

 

 


「開園式のスケッチ・・・・はしがきに変えて」 1983年7月

2019-11-19 10:09:10 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №4」 A4版10頁 

   開園式のスケッチ・・・・はしがきに代えて・・・・   1983年度「筑波通信 №4」

 彼は昨夜慣れないところで寝たせいか、よく眠れず、きょうは朝からきげんが悪いのだという。それでもいまは、食堂わきのギャラリーのベンチにすわりこみ、お得意のひもあそびに興じている。 20cmぐらいのひもを持ち、ひらひらさせたり、まるめたり、またほぐしたり、一心不乱に自分の手元を見つめながらすごしている。それはなにかをつくるのに熱中している職人のようだ。このコーナーが気にいったらしく、どこかへ出かけても、自分の部屋へつれ戻されても、すぐにまたやってくる。ときおりその愛用のひもを私にさしだして、何かを語りかける。

 もう一人の彼は、さきほどからずうっと、もう半ときになるだろうか、廊下の戸を開けはなち、庭に向って立ち、体を左右にリズミカルに、ちょうど起きあがり小法師をゆり動かすように、ゆっくりとゆすりながらそのリズムにあわせて、擬音を発している。というより、そのように私には見える。電車にでも乗っているつもりなのかな、とも思うがよくはわからない。彼はもう、この新しい所に慣れてしまったのか、ときおりそこをはなれて、あちこち見まわってきてはまた同じことをはじめる。

 彼女はお母さんのそばをはなれられないらしい。お母さんのそばにべったりだ。そんなところは、はにかみやの普通の女の子。

 彼のお母さんはつい先日亡くなられたのだという。お父さんの方が彼を一人ここにおいて帰ってしまうことが気になっていたたまれないのに、彼はまるで屈託がない。それがまた、かえって、お父さんを心配させるようでもある。お父さんは、いましばらく、帰るに帰れないだろう。

  ・・・・・・・・・・・

 きょうは、ここしばらく工事監理に通いつめた知恵おくれの人たちの家: S 園 という名である:の開園式、夕べから第一陣が住みだしている。これは、開園式の行事でごったがえしている一隅で目にした光景である。おそらくこれから、こういった場面が、毎日のように、いくつも展開するのだろう。普通の建物だと、人は初め、とまどいは見せつつも、部屋の名をたどり、知った風に歩きまわるのだが、この人たちの場合はそうではない。多分彼らの目の前にあるのは、部屋の名のないそれぞれの空間なのだろう。彼らは素直にそのありのままの空問に向っているのではないだろうか。部屋の名前にこだわらず、空間そのものに対されるというのは、設計者として一番こわいことだ。というのも、普通の場合は、説明のことばでごまかしがきくからである。この場合は、ことによるとごまかしがきかないかもしれないのである。

 いずれにしろ、ともかくも開園式までこぎつけて、ここ二年ほどのいろいろのことどもも、いわばすっかり過去のなかに埋ってゆくのだろう。それでいいのである。建物というもの、いや全ての人の営為というものはこういうものなのだ。ただ、だれがやったかれがやったというのではない、ただそれが天から降ってわいたものだとだけは思ってもらいたくはない。営為は、人の営為だということである。

 

 今号は、開園式のために用意した文章で通信に代えようと思う。因みに、この S 園 は、主として東京西部地区に住む親たちが費用を出しあい、また借金をしてつくりあげた、定員30名、せいいっぱいローコストで建てた小さな園である。なぜ親たちがその気になったか、という点にこそ、現在の状況が示されていると私は思っている。もしも多少なりとも関心がある方があれば、お問いあわせ願えれば、そしてなんらかのご協力をたまわれば、私としてもこの上なく幸いである。

        1983・6・27                 下山 眞司 

 

「 S  園 」によせて   設計者の立場から

 甲州塩山からほぼ北へ、秩父の山々を雁坂峠で越え武州へと通じる昔からの街道があります(車は峠を通り抜けられません)。笛吹川をさかのぼる道すじです。

 中央線を塩山で降り、この街道を二十分ほど車で行きますと、牧丘町という町に入ります。町の本拠地は、笛吹川とその比較的大きい支流との落合いにありますが、町域はかなり広く、あたりの山あいや斜面に点在している多くの集落を合わせてできた町です。牧丘という名前は、古代以来、ここが牧(馬の牧場です)であったことに拠っています(~の牧、というのが元の呼び名のようです)。いまは斜面一帯、見渡すかぎり、ぶどうを主として、桃、李、杏などの果樹園です。四季折々にすばらしい所ですが、とりわけ春さきは、さしづめ桃源郷です。笛吹川の谷奥には雪をかぶった秩父の山なみを望み、そしてその反対、川下:南の方角に、これも雪に輝く富士山が浮いています。そして、その間の人里は、花の色に霞んでいるのです。

 車が街のにぎわいを抜け、五分ほど上り坂を走ると、左手に見るからにお寺さんとわかる建物と、それと少し間を置いて並んで、何用の建物なのか一瞬判断に迷う建物が見えてきます。地面にへばりついたような、黒っぽい寄棟の屋根、土色をした壁の建物です。町の人たちが「御殿のようだ」と言うそうですが、それはお金がかかっているという意味よりも、その屋根の寄棟の形がなんとなくそれを思わせるからでしょう。

 この建物が正式名称「心身障害者更生施設・ S 園 」の建物なのです。そうわかると、大抵の人が、施設らしくないですね、だとか、ユニークな施設ですね、などと言うのだそうです。

 しかし、この建物は、決して、「ユニークな建物」を目ざしたり、あるいは「新しい考えかた」に拠って、設計されたのではありません。ここで考えられ、為されたことは、極く「あたりまえなこと」だ、と私たちは思っています。

  そしてまた、この種の施設を見慣れた人の目に、この建物は、ユニークで、風変りで、そしてことによると異常で非常識なものとして映るかもしれませんが、しかしそれは、そのいままで見慣れたこの種の施設・建物が、あまりにも「ユニーク」「風変り」そしてときには「異常」であったからなのだ、とさえ私たちは思ってもいるのです。

 

 私たちは、旅に出ると、宿屋に泊ります。 

 旅に出る、ということは、その毎日が、日常の毎日とは違った毎日になるということです。

 そして、宿屋というのは(いまでは旅館とか hotel といいます)、人が自分の家をはなれ、いわば異常な毎日を過ごすとき、自分の家の代りをしてくれる、言うならば仮のすまいです。ちゃんとした宿屋でなくてもよい、とにかく仮のすまいがないと、旅の毎日が成りたちません。

 その昔、私たちが旅の途中で仮のすまいとして求めた宿屋は、まずほとんどが、いまの言いかたで言うと、和風でした。というよりもなによりも、それは、日常私たちがすまいとしている自分の家とさほど違わないつくりでした。hotel とか hostel などと呼ばれる西洋の宿屋もまた、その昔はそうであったでしょう。

  宿屋というのは、旅人に仮のすまいを提供し、もてなすことが業でしたから、人々の家とさほど変りのない建物であったというのも当然なことだったと思います。

  因みに、英語の hotel,hostel は、ともに、host という語と関係があります。host というのは、客人をもてなす主人のことです。病院を英語では hospital といいますが、これも hos tの親戚すじの語です、つまり、宿屋、ホテル、病院、・・・・これらは、客人をもてなすことに意義を認めた建物だったのです。(ついでに言えば、バーのホステスも host からきています。接客婦、多分アメリカ産です。もとはやはり hostess 旅人をもてなす女主人の意です。)

  けれども、いまの宿屋、旅館、ホテルは違います。

  仮に和風の昔ながらのつくりの宿屋があっても、そこで私たちが受けるものは、いまひとつよそよそしくなじめません。眠れさえすればよいのだと割りきっても、なかなかそうはゆきません。

 一つには、そのつくりが、和風の形はしていても、私たちの日常の和風とは既に違ってしまったいわば和風様のつくりになってしまっているからでしょう。古い宿屋では、そんなことはありません。

  もう一つは、宿屋商売から、「もてなす」という意識が消えてしまい、単に、仮のすまいの場所だけ提供するという意識が強くなったからでしょう。host する、という原義が薄れたということです。これは当然、建物のつくりかたにも影響します。宿代も、host することへの代償としてではなく、場所代・室代になっています。Host する、ということのなかには、当然のごとく、場所を供して、という意が含まれていたのだと思いますが、いまではそれが、場所代とサービス料に分れたわけです。これが徹底しますと、場所づくりとサービスすることとは、別々に考えられるようになります。合理的だと言えば合理的ですね。近代的なホテルはこの最たるものです。

 

 それでは、この「 S  園 」のような建物は、どう考えたらよいのでしょうか。ここに居る人たちは、それぞれ自分の家を離れ、出てきた人たちです。自分の家・家族から離れている人たちが居るということだけから見ると、宿屋つまり仮のすまいとして考えられるようにも思えます。だが、そうでしょうか。違います。少なくともあの近代的な宿屋やホテルではありません。強いて言えば、あの原義の意味での宿屋です。つまり、それぞれの人の、それぞれの家の代りをしてくれるものです。

 であるならば、この「 S  園 」のような建物は、家つまり人のすまいをつくるのと同じ考えかたでつくらなければならない、と私たちは思います。

 

 しかしいま、このような「施設」や病院の建物も、そこに(仮に)住む人たちに接する人たちも、その多くは、あの近代的・合理的な旅館やホテルの建物、従業員、あるいは経営者、と同じようになってしまっているのではないでしょうか。

  考えてみてください、このような「施設」に(仮に)住む人たちがそれぞれ自分の家にいたとき、親たちは、その子どもたちの面倒を看るのも、しつけを指導するのにも、あの近代的な旅館やホテルの従業員のサービスのようなやりかたでしていたでしょうか。

 host する、ということのそもそもの意味が見失われてしまったのです。あの host を語源とする hospital においてさえ。

 

 この「 S  園 」の建物は、その寸法も材料も、そしてつくりも、できるかぎり、ちょっと大きめの住宅をつくるようなつもりで設計しています。なぜそうしたかは、ここまで述べたことで、おおよそはおわかりいただけただろうと思っています。要は、ここに住まなければならない人たちにとって、ここはすまい:家以外のなにものでもない、ということです。

 

                                                                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より  

          

 たとえば、この「 S  園 」の床をとりあげてみます。ご覧になればすぐわかることですが、まわりの地面からの床の高さは、普通の木造の住宅の場合と同じです。玄関には、ちゃんと上り框があります。縁側のような廊下に腰かけて足をぶらぶらすることもできます。この高さは、昔の農家の土間と座敷の高低差と同じぐらいの寸法です。日本の住宅では、昔から、土の上では履き物、上り框から上では履き物なしでした。よくはわかりませんが、泥んこになる稲作主体の農業をするなかで生まれた知恵なのかもしれません。こうすれば、土間より上の間は自ずと汚れないでしょう。履き物で上るには相当気がひけます。家のなかに入るときは履き物をぬぐという習慣は、建物のこういうつくりが保ってきたのではないか、とさえ思います。

 しかし、近代的な建物では、床がどんどん地面に近づきました。上下足を厳格に分ける建物においてさえそうです。これでは、風が吹いたって泥は吹き上りますし、どうしたって上の間が汚れてしまいます。履き物のまま、ちょっと上ったっていいや、なんて気にもなります。そうなると、上の間をいつも清潔に保つため、掃除が楽な材料の床がよい、ということになります。泥が上りこんだ床の掃除は、どうしたって乱暴になりますから、材料もそれ向きとなります。合成樹脂製の床材がはやるわけです。

 そして、上下足を厳しく分ける建物では、上の間でも別の履き物を履くのがあたりまえのようになり、だれも不思議にも思わないようです。そして、合成樹脂製の床材だと、ますます履き物が欲しくなります。

 

  「 S  園 」の建物の床は木製です。便所の床まで、一部は木製の材料を使っています。ほんとは、縁側に普通使われる桧の縁甲板を使いたいところですが、残念ながら費用の点で無理でした。それでも、ここで使ったのは、住宅の室内用の床材です。ですから、掃除も住宅での掃除と同じやりかたになります。住宅の掃除と同じような気の配りかたが必要になるでしょう。

 この床の上なら。素足で歩いてもらってもよい、と私たちは思っています。便所だけを除いて。日本の住宅は昔からそうでした。土間より高い上の間では、床上を歩くとともに、そこに坐りもしました。これは、基本的に、いまでも変りありません。でもいまは、板の床の部分はスリッパを履くのがあたりまえのようになってしまいました。洋風が入りこんでから、なんとなくそうなってしまったのだと思います。けれども、スリッパを履くという慣習は、床の上に坐ることもあるようなすまいかたにとって、必らずしも適切だとは言えません。不潔だからです。素足は、汚れればすぐ洗えます。かつての室内履き・足袋も、そしていまの靴下もしょっちゅう洗います。しかし、スリッパはどうでしょう。一週間に一度洗った、などということは聞いたこともありません。スリッパ以外のいわゆる上履きも同じです。要するに、土間からわざわざ離した上の間を、土足で歩いているようなものなのです。旅館の浴場の脱衣場で、スリッパと裸足が同じ床面で混じりあい、不快感を覚えたことがありませんか。

 もとはと言えば、すまいのつくりかた、すまいかた、材料の選びかた、そしてその手入れのしかた、これは全て一体のものとして考えられていたのです。

 いくら生活が洋風化して椅子に腰かけるくらしかたが増えてきても、私たちの生活から、床に坐りこむくらしかたが消えてしまうことはまずないでしょう。以前の私たちのくらしかたは、土間から上では、極端に言えば、坐るか立つかでした。洋風化が時の流れであると単純に考えてしまうと、合理的な生活は、腰かけるか立つかだと、ふと思いたくもなりますが(スリッパ導入は多分そのせいです)、そうではないでしょう。いまの私たちの生活は、坐るか、腰かけるか、立つか、なのです。そうだとすると、昔ながらの和風のつくりでは間尺にあいません。もちろん、洋風でもそうです。

 毎日の生活のなかで、襖や障子の引手の位置が少し低いなと思ったことはありませんか。慣れてしまっているので気にならないとは思いますが、その気になって見なおしてみると、立って開けたてするには少し低めです。いまでこそその開けたては、大抵立つたまましますが、もとはといえば、坐った姿勢で開けたてすることが多かったのです。引手の高さは、それによって、自ずと決ってくるのです。立った姿勢向きでは必らずしもないわけですが、立っての開けたてが多くなったいまでも、その尻尾を引きずっているのです。面白いことに、洋風のドアのノブの位置も、本場のそれに比べると、身長の差を考えにいれても、少し低めです。長い生活慣習のなかで引手の高さはこんなものだという観念ができあがってしまっているからなのでしょう。こういうことはよくあることで、その正常化には時間がかかります。

  しかし、襖や障子をなぜ坐って開けたてしたのでしょうか。

  近ごろ、ある旅館の和室に泊って、こんな経験をしました。その和室は襖をへだて前室につながり、ほんのわずか、10cmほどの段差があります。和室でくつろいでいますと、声がかけられ襖が開きました。女中さんがそこにぬっくと立ちふさがるように立ち、私を見下しています。気押されるような感じです。昔の旅館の女中さんはこんな風には部屋に現われなかったでしょう。必らず坐ってこちらを見ていたように思います。そうしますと、目線がそろいますから気押されるような感じは受けません。

 つまり、坐るか立つかの和風の生活が、襖や障子を坐って開けたてするという所作を生みだしたに違いありません。そうすることによって、坐っている人が脅やかされることがふせげるのです。

  

 いまは、坐る、立つ、の他に、腰かける、もつけ加わりました。そして、坐る姿勢が主となる和室に入るのに、わざわざ坐って戸を開けるというような面倒くさい所作も省略するようになりました。ですから、いままでの和風のつくりのように、和室とその他の部分たとえば廊下がほほ同じ面で続いているようなやりかただと、場合によっては、さきほどの近ごろの旅館での体験のように、和室にいる人がくつろげなくなることが十分あり得るのです。いまの建物で和室を設けるときには、この点を考えに入れてみる必要があるように思います。もしもあの旅館の和室と前室の関係が、ちょうどあの昔の農家の土間と上の聞のような高さ関係であったなら、女中さんが立っていても、別に気押されるような感じを受けることもなかったのではないでしょうか。

 この「 S  國 」の建物の畳敷の室:和室の床面は、ラウンジと呼んでいる板の間(カーペットが敷いてあります)より、ちょうど椅子の高さ分高くなっています。もしそれが、ラウンジの面とほほ同じだったならばどうなるか、想像してみてください。多分、うらびれた、うそ寒い感じの室になってしまうのではないかと思います。

 ただ、この段差は、少し危いのではないか、という声も聞かれます。今後の様子を見ながら考えてみようと思っています。

 床の話にことよせて、「 S  園 」の建物の設計にあたって考えたこと、というよりも、日ごろ考えていること、の一端を述べてきました。要は、一軒の家をつくるのと同じに考えたということです。 そのことは、屋根をはじめ、いわゆる外観を見ていただいても、おわかりいただけるのではないか、と思っています。

 

 けれども、建物づくりは、所詮、いわば舞台をつくったにすぎません。ここに住みつく人たちが、みごとにその毎日を演じることによってはじめて、この建物はほんとの意味での家、ほんとの意味での「施設」になるのだと思います。そして多分、みごとな毎日を演じてゆく上で、舞台に、おもわしくない点が見つかることでしょう。そのようなとき、私たちは、よりよい舞台にしつらえなおすように考え努めるつもりです。私たちは、ここで、みごとな毎日、新鮮で生き生きとした毎日が演じられることを望んでいるのです。

 

 

 そして最後に

 「 S  園 」の建物は、形をなして残りました。しかし、それが形をなすまでの過程は、もう見えません。この「 S  園 」という「施設」設立の想いに燃えた人たちの、まさに血を吐く思いの毎日は、形をなして残るものではありません。そして、建物の工事に着手して以来六ヶ月、その間に実際にこの建物をこしらえるのに手をかしてくれた職人さんは延べ数千人にもなりますが、しかし、この人たち流してくれた汗もまた形をなして残ってはいないのです。

  「 S  園 」の建物は、いま、何ごともなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降って湧いたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです。

 

 そして、この建物が「 S  園 」なのでもありません。くりかえしになりますが、建物は「 S  園 」の舞台でしかないのです。ここに住みつく人たちによって、みごとな毎日、生き生きとした毎日が演じられたとき、それが「 S  園 」なのです。

  末尾になりましたが、あの延べ数千人に及ぶ職人さんたちを操り仕事をしていただいた株式会社 H  組 の方々に篤く感謝の意を呈します。

                   1983年6月1日

                      設計者一同( S  園 建設構想研究会)

 

 

 

  

 

 

                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より 

 


「第Ⅳ章ー3ーB1豊田家」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-12 12:15:11 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B1」 

 

B 住宅建築-2:商家住宅

 町なかに暮す人びとの住居は、町なかの地割:狭い間口で奥の深い敷地:に建てるという制約を受けます(間口で租税を納めたからだと言われています)。そのような町なかにつくられた住居は、一般に町家と呼ばれます。

 どの時代にも町家はありましたが、現在遺っている町家は、徳川幕府が成立して世情が落ち着き、町が安定してから建てられた建屋がほとんどです。

 町には、周辺の地域の人びとの暮しに必要な機具などの製造にかかわる職人や、物資の流通にかかわる商人、その人たちの下で働く人たちなどが住み着きます。

 たとえば、大阪の、近江の近江八幡、江戸の蔵前日本橋界隈などは、町として大いに発展して多くの町家が建てられています。

そのなかでも商家の住宅は、町家の代表的なつくりとなります。

 

 しかし、現在遺っている町家の事例は、文化財として移築保存されているもの、あるいは、当該の町が「近現代の開発」の荒波を受けることが少なかった地域に限られます。

 1970年代頃から、町家とも従来のまま遺っている地区が脚光を帯びるようになります。「近現代に生まれた町・町並み」に比べて、その佇まいが、人びとの目に、好ましいものに写ったからです。その結果生まれたのが伝統的建造物群保存地区制度です。木曽路の妻籠宿がそのはじめです。以来、多くの地区が保存地区の指定を受けています。 

 ただ、この制度には、すでに23ページで触れていますが、大きな問題点がありました。

 それは、「何を保存するか」という点についての「合意」があいまい点です。

 多くの場合、保存地区に遺っている建物の形体を保存し維持することに目標が置かれています。

 たとえば、当該の地区内で新築や改築を行なう場合、その外観を、その地区の代表的な建物(重要文化財に指定された建物など)の見えがかりの形体に倣うことが求められます。それゆえ、その地区で現在の暮しを続けるには障害になり、できあがった町は、あたかも時代劇のセットのごとき様相になってしまうのです。

 町は、一時にできあがるものではなく、それぞれの時代の蓄積がその表情をつくりだすのです。したがって、それぞれの時代の材料やつくりかた、形が変っていてあたりまえです。木造の建物に並んでコンクリートの建物が建っても構わないのです。それらが「同じ考え方」の下でつくられたとき、町並みの佇まいも壊されることなく継承されます。それが無視されたとき、町並みも壊されます。

 この論理は、農家住宅など比較的散在して建てられる場合でも同じなのですが、とりわけ、建屋が肩を並べて建つ町なかでは、その影響が目に見えるかたちで現われてしまうのです。

 

 以下にいくつかの典型的な町家の事例を紹介しますが、それを建物単体としてではなく、通りへの対し方、隣家への対し方・・・など、町を形づくる一要素として見る必要があります。

 ここでは、地区全体が保存地区に指定された奈良県橿原市の今井町、近江商人の町として成長した近江八幡の商家住宅を中心に見ることにします。

  

B-1 豊田家  寛文2年(1662年) 所在 奈良県 橿原市 今井町

 今井町は、室町時代末頃、一向宗の門徒が集まってつくった寺内町(じないまち)を基に発展した町。その中心になったのが称念寺(下図参照)。

 

 今井町位置図

 奈良盆地を南から北、そして西へ流れる大和川の上流:飛鳥川の西岸に位置する。

 

 今井町地割図                             日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 東西約600m×南北約300mの一帯は濠で囲まれていた。 寺内町の頃から、町人の自治の下に商業が発達し繁栄を誇っている。 中世には、寺内町から普通の町になるが、町人自治は継承された。 今から30年ほど前まで、町内には交通標識がなかった。警察が町に介入するのを嫌ったからだという。

 享保年間(1700年代初頭)、戸数900(内持家220余、借家700余)、人口4000人、江戸時代通じて、ほぼ一定。 現在は、自治意識は以前に比べ希薄になった感がある。

 今井町には、地区のまとめ役であった今西家をはじめ、8戸の重要文化財建造物に指定された持家層の建屋があるが(上図参照)、ここでは中間層と考えられる豊田家高木家を紹介する。

 豊田家は1662年、高木家は1840年頃の建設で、約180年ほど建設時期に差があり、その間の技術的な変容を見ることができる。

 

 

 通り側の外観                                                                           日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 当初は材木商牧村家の所有。2階壁面の紋がそのことを示している。

 明治初年に豊田家が住み始める。ここに住むようになった豊田家は醸造業の本家からの分家。したがって、現在は豊田家ではあるが、材木商牧村家の本店としてつくられた建物である。

 牧村家は、西の木屋と称し繁栄、幕末には大名貸もしているほどである。

   

 

平面図   ぶつま上には2階を設けない (番付は、豊田家住宅修理工事報告書の番付による。)

 

桁行断面図             平面図・断面図は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集     

 

 今井町飛鳥川大和川上流畔の沼沢地につくられたため、地下水位が高く、地盤は軟弱である。 解体修理時、礎石にはかなりの沈下が見られ(最大は平面図のり-六柱の168mm)で、床組材はほとんど腐朽、軸組部の柱などにも腐朽が目立ち、多くの虫害(シロアリ)も発生、建物は全体に西南方向に傾いていた。 軸組に比べ、小屋組には腐朽や虫害は見られない。

 はすべて礎石立て。 り-六柱の場合、礎石は約70cm径、厚50cm弱の自然石を用いているが、地業は穴を掘り握り拳程度の川石を敷き詰め突き固めて礎石を据え、周囲を突き固めた程度で比較的簡易であった。                                          

 軸部の組立は、東なかのまの2本の太いケヤキ柱の建てを行い、この柱間の差鴨居足固貫を入れ、次いで西側の差鴨居足固貫をいれ2階梁を架けて6室を固め、次にしもみせまわりを組み、どま側の柱建てを行い、を入れ周囲の敷桁をまわし、どま上の牛梁を架け、桁行の2列のを架けて各梁行を架ける、という手順を踏んでいる。

 2階床梁は、差鴨居上の束柱で受けている(現在の胴差方式ではない:架構分解図参照)。

 平面は、室側を6.3尺×3.15尺の畳、4.8寸角の柱を基準にした内法制で計画し、どま側で逃げをとり調整したものと考えられる。 解説は、豊田家住宅修理工事報告書による。

 

 

どまからみせ(左手)東なかのま見る 柱ほ-六   写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集  

 

どま通り側・大戸口を見る 太い柱ほ-六           

 

          

みせ 通り側開口   

  

どま見上げ 牛梁十二通り                  どま東面  貫:3.7寸×1.1寸 モミ材

 

梁行断面図                      日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集

 

 

東なかのま見る 差鴨居14.7×3.9寸   ほ-六、 ほ-十二柱  写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載

 

 (「第Ⅳ章ー3ーB 1 豊田家 後半」に続きます。) 


「第Ⅳ章ー3ーB1 豊田家住宅 後半」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-12 12:14:32 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「第Ⅳ章ー3ーB1 豊田家」より続きます。)

 

使用材料:礎石 切石転用石造り出し自然石     柱:総数75本内 通し柱21本 ほ-六柱 11.1寸角ほ-十二 9.5寸角ともにケヤキ い-十二 6寸×4.4寸  他はヒノキが主、平均4.8寸角  根枘 平枘頭枘 平枘または重枘

足固貫:約丈3.7寸×幅1.1寸 継手 略鎌楔締め    差鴨居 東なかのま 14.7寸尺×3.9寸、他は丈9.6寸程度×3.9寸    貫:土間東壁面 モミ 3.7寸×1.1寸 柱芯納め   小屋貫:モミ 2.1寸×0.7寸 継手 略鎌中途継ぎ

 

架構分解図 番付は、豊田家住宅修理工事報告書の番付による。 日本の民家6 町屋Ⅱ(豊田家住宅修理工事報告書)より転載・編集

                      

 

 

                   豊田家住宅修理工事報告書より転載(着色・〇は編集)

十二通り 差鴨居分解図 

差鴨居~柱の仕口 ① 枘差込み栓 ② 雇い枘を、送り蟻に植え込み、差鴨居を差し、シャチ栓を打ち締める 

 

      

ほー十二柱~差鴨居 仕口 送り蟻 詳細        この方法は、柱を貫通する孔をあける必要がない 

 

 

                                  日本の民家6 町屋Ⅱ

2階床組 桁行詳細 差鴨居上に束立て根太掛け床梁1階大引に相当)を架け、根太を受ける。  

 

 

 

2階床組 梁行断面 2階には部分的に差縁天井を張る       日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集 

 

 

 矩計図                             日本の民家6 町屋Ⅱ(豊田家住宅修理工事報告書)より