建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

1983年度「筑波通信№3 続・水田の風景・・・・風景の成り立ち」

2019-11-05 16:26:46 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №3」 A4版10頁 

 

   ・水田の風景・・・・風景の成り立ち  (1983年度「筑波通信 №3」 1983年5月)

水びたしの風景

 久しぶりに筑波山に登ってみた。あいにく雨上りだったから、遠望はきかなかったけれども、足もとに拡がった景色は一見に値するものであった。私はその景色を見て、いままでこの季節には筑波山に登ったことがなかったことに、あらためて気がついた。それは、いわば初めて見る景色だったのである。

 足もとは、一面の水びたしであった。水が低地を浸し、悠々とした大河のごとくに延々と続いている。その一面の水の拡がりのなかに、緑あざやかな木々のかたまりが、小島のように浮き、家々の屋根が緑の間に見え隠れしている。集落なのである。

 もしこの景色を写真にとり、〇〇川氾濫!などという見出しでも付ければ、なかには信じてしまう人がいるかもしれない。それほど水びたしという感じを受けるのである。ただ洪水と違うのは、水が濁って見えずそして鎮まっていることである。

 この水は、なにも前日からのかなりの雨のせいではない。水びたしに見えているのは、一面の水田なのである。ちょうど田植えどきで、田んぼに水が張られているからなのである。昨年も私は「水田の風景」という一文を書いた(1982 ・ 6 第3号)。それは地上で見た水田の風景であった。そこで私は、ほんのわずかな落差を無数の水平面で構成し、自然流下のまま延々と続く水田、そしてそれを成し遂げた人々は驚異的な存在である、と書いた。そしていま私は、その偉業を上空からながめているわけである。そして、その驚異的な存在を、あらためて印象づけられているのである。数年前、中国の上海から西へ飛行機で飛んだとき、眼下に拡がる広大無辺の大平野の一面が水びたしに見えた。どこに人が住んでいるのかと不審に思ったほどである。だが、このちょうど田植えどきの日本の水田地帯の上空を飛べば、やはり一面水びたしに見えるのではなかろうか。

 

 五万分の一あるいは二万五千分の一の地図を拡げ、それをやや遠くからながめると、河川とその河川がつくりだした氾濫原(かつて河川が流れ、そしてことによると洪水のときにはまた流路になるかもしれないところ)と、その河川が削り残した、あるいは削り得なかった台地・丘陵・山地部分とが、画然として読みとることができる。そして、その平らかなる部分いっぱいに水があふれ流れている場面を想像してみると、それはまさに悠然とした大河の様相になるはずだ。いま私がながめている風景は、それを実際に(流れこそしないが)実現してみせてくれているようなものなのだ。つまり、洪水にあえばひとたまりもないであろうと思われるこの平らかなる部分は、水稲栽培に向いた土地で、そして人々は長い年月のあいだにこの可耕地をすべからく水田と化してしまったということに他ならない。これは大変な事業であると言わねばなるまい。

 なぜなら、(昨年も書いたことだが)いまのいわゆる圃場整備なら、いよいよになれば給排水を機械にたよればよいし、まず第一に広範囲にわたっての地図・測量図がある。その意味ではきわめて合理的にことを処理することができ、いわば容易な土木工事のうちに入るだろう。だが、いま私が見ている風景は、かならずしも全てがそういう近代的な土木工事によってできあがったのではない。それ以前に既にその下地はつくられていたのである。

 

 

  

水田の諸相

 私の足元に拡がっている山すその、少し山側に入りこんだ部分(上の地図参照)は条里制の名残りのある水田である。先述の水びたしの地域の中央を流れる主要河川桜川の一支流域に聞かれたものである。支流が本流に合するあたりの標高が15mほど、そしてこの条里制の遺構のあたりのそれは25~35 mである。そして、合流点から遺構の最奥部までは約3000mであるから平均勾配は150分の1ぐらい、一方合流点から本流の河口までは約15km、従って平均勾配は1000分の1である。1000分の1というのは1000cmつま10m行って1cm上る(あるいは下る)という勾配であるから、いかにゆるやかなものであるかわかるだろう。水はけは悪いと言ってよい。つまり、一帯は湿地帯なのだ。勾配150分の1という傾きは、これはもう目に見えて傾いていることがわかる。 1m50cmで1cmの傾きというのを目の前に描いてみればすぐわかる。水を導くのも、また水はけをよくするのも容易である。因みに、現在の排水管の設計でも、150分の1あればまあ問題はない。

 

 水稲の裁培は、その土地の勾配そのものとは関係なく、言ってみれば水が得られればよい。湿地があれば(得られれば)よいのである。だから、水稲裁培の極く初期段階でも、先に例示した二様の地も選ばれ得たと思われる。だが、1000分の1勾配程度の土地:湿地帯は、いわば常設の湿地帯であり、そもそもその成因からして肥えた土地でもあるから、耕作向きの土地なのだが、同時にそこはまた不安定でもある。増水により、またいつ流れが変るかわからないからである。つまり、常設の可耕地ではあっても、安定した耕地ではなかったのである。

 もとより水稲に拠り定住生活をおくる以上、人々が安定した耕地を求めるのも当然なことだろう。人々が、まず初めに好んで選んだのは、昨年5月の「善知鳥(うとう)によせて」(1982・5第2号)のあとがきで紹介した、「やち」「ぬた」「うだ」など場所によりいろいろな名で呼ばれる「川の源流のような幅も狭く深さもそんなにはない湧水や小河川のまわりの湿地帯」つまり、猫の額ほどの狭い谷状の土地であった。こういうところならまず変動はないから、労せずして安定した耕作が可能であった。あちこち歩いてみると、いまでも、このような土地はまずほとんど水田になっているし、現在荒れはてている所でも、かつてそこが水田であったことを十分にうかがい知ることができる。(休耕田として見捨てさせられたのは、こういうところが多い。)

 もとより、より広い湿地を田とした場合もないわけではあるまい。しかし、安定度の面で、変動の少ない場所は滅多になく、せいぜい河川とは縁の薄い沼沢地ぐらいしか考えられず、そういうところは限られるはずである。

 

 

 だが、こういう「やち」・・・・状の土地は、その生産量を限定してしまうから、それに拠る生活をも限定してしまう。絶対面積が足りないのである。そこで選ばれてくるのが、さきの条里制の遺構の残されているような状況の土地である。水はけよく、河川の増水の影響の少ない土地である。たとえば、ちょうどいま私の眼下に見える河川の一支流がつくりなしたちょっとした平地部分である。上図を参照していただきたい。

 この図の白ぬきの部分が水びたしの部分、つまり水田である。そして図中「筑波町」という標示の「町」の字のあたりから左手に拡がる白ぬきの場所が条里制遺構の地と言われ、つい最近までは実際に条里を目で見ることができたという。古くは水田を「たい」と呼んだらしいが、図中の神郡(かんごおり)、館、臼井、立野、六所(ろくしょ)、・・・・の集落(元はそれぞれが村であった)が筑波町として合する前の一時期は、「田井村」としてまとめられていたようだ。小学校の名は、いまでも「田井」小学校である。

 

 古代、人々はかなり早くからこういうところに目をつけたと思われる。各地に残る遺構も、大体これに似たような場所に多いようである。もちろん、その水田化は、条里制施行以前からのはずである、ここは水稲栽培は容易で、生産性も高く安定し、それに拠る生活もまた安定し得たであろう。そしてそれは、また当然の結果として、為政者の側から見れば、格好の収奪の対象となる。条里制という土地区画制が、単に直接的に収奪を目的として生まれたかどうかは知らないが、いずれにしろ、目をつけられたことはたしかである。それというのも、当時にしてみれば、圧倒的に生産性の高い、しかも安定した収量が見こまれた土地だからである。こういう場所をその拠るべとしての耕地とし得た人々は、当然のこととして、財力と地位を築いてゆく。いわゆる古代の各地の豪族の拠点となった土地もまたこのような場所であった。

 おそらく、かなり時代が下るまで、水田の主役はこのような古代以来の土地と、せいぜいそれの隣接の地であったのではなかろうか。時代とともに、人口増とともに、新田の開発は必然のことではあったろうが、広大な低湿地全域への進出は、まさに夢のようなものであって、辛うじて河川の変動から逃れ得られそうな湿地のなかの微かな高所(せいぜい数m高いだけだ)にへばりつき、不安を抱きながら、耕していたにちがいない。不安定な、しかし広大な、可耕地を目の前にして、その安定化は彼らの常の焦眉の急であっだろう。だが、単純に時間軸で見る限り、安定化の作業は遅々として進まなかった。かといって、もちろん彼らが努力を怠っていたわけではない。第一努力などいうことばで済まされるような生易しいものではなかったろう。なにしろ生活がかかっているのだからである。だから、いわば生活に追われるようにして、低地へ低地へと、攻められるところから順次入殖をしていったのである。その速度は、現代の目からすれば遅々としたものに見えるかもしれないが、それが彼らの速度であった。そして、その長い長い間に、数代いや数十代にわたる間に、低地開拓の技術は、それぞれの地において、着々と醸成されていたのである。もしも、この平野開拓へ向けての技術の醸成・蓄積がなかったならば、徳川は決して関東平野に(江戸に)拠点を置く決断をしなかったろう。それより百年前であったなら、だれが、関東平野をいわば思いのままに扱おうなどと考えただろうか。仮に徳川が政権をとったとしても、百年前なら、江戸は拠点にし得なかった。

 

人が風景をつくる

 実際、江戸期に入ってからの平野低地部の開発は目ざましいものであった。さきほどの地図の白ぬきの部分のなかに見られる集落は、これが山上からながめたとき水びたしのなかの浮島に見えたわけだが、おそらくその根は近世以降に人々が住みついたときの拠点にまでさかのぼることができると思われる。特に江戸期以降、低地の安定化に意がそそがれてこういう集落の根が、低地のあちこちに生えていったのだ。

 当然、平野全体としての生産量は増加したのであるが、各部で見ればこの新開の地の生産性は、既存の地(つまり古代以来の地)のそれに比べると、数等劣っていただろう。たとえば、聞くところによれば、茨城県南から埼玉の中東部へかけては、いまでこそ生産性の高い豊かな米どころであるけれども、生産性が高まりだした(つまり安定しだした)のは大正期からで、それが決定的に安定したのは、なんと第二次大戦後、しかもかなりたってから、いわばつい最近のことなのだそうである。大正ごろより、機械力の導入による排水、乾田化が飛躍的に進み、そして戦後、数度にわたる台風被害(洪水)を契機としての整備が、これも近代的な機械力にたよって進んだからである。それにより、それまで人々の意のままの介入を拒んでいた低湿地が、見事な田んぼと化していったのである。

 このような、土地土地によってその生産性が安定した(つまり生活が安定した)時期が違うということは、その土地に拠ったそれぞれの村の構えに敏感に反映しているように思われる。あの条里制の敷かれたような土地は、いまでもあいかわらず豊かな土地なのだが、いわば古代よりいまに至るまで常に、それに拠った村々の生活を安定したものにしてきただろう。これに対し、低地の新開の地は、決して人々の生活を安定して保証するものとは言い難く、ほんとについ最近まで、極く貧しい状態を強いられていた。因みに、いわゆる民俗学者と呼ばれている柳田国男は13~16歳の少年時代を茨城県南の利根川べりで過しているが、後に、その明治二十年ごろを回顧して次のように記している:「・・・・の町に行ってもう一つ驚いたことは、どの家もいわゆる二児制で(あると)いうことであった。私が兄弟八人だというと、どうするつもりだと町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情は、子供心ながら私にも理解できたのである。あの地方は四五十年前に、ひどい飢饉に襲われた所である。・・・・」。このあたりは、いまでは穀倉と呼んでもおかしくない風景を呈している。

 

 だから、それぞれの土地が過去たどってきた道すじによって、それに拠った村々の構えが違ってくるのもまったく理の当然なのであり、実際に歩いてみても、その差はその風景に歴然として表われていることを感じることができる。いわば、風景が(人々の営為の)歴史を語っているのである。

 あの古くから開かれ、古くから豊かであったと思われるあたりの村々を歩いてみよう。多分その村々の人たちの田であろう、もう田植えの終った水田のまんなかに降いたち、そこからその村(集落)へ向うことにする。それらの村は、新開の村々とは違い、浮島ではない。四周を水田の海に囲まれてはいない。いわば、水田を海にたとえるならば、その浜辺、特に入江状のちょっとしたひそみだとか、あるいはその海にとびだした半島状の地にへばりついている。さきほどの地図を見ていただければ、このことはお分りいただけるだろう。前者の例が立野や六所の集落で、ここは南に開けた気分のよい所である。後者は神郡や館の集落で、ちょっと見ると島のようにも見えるがそうではなく、裏手の山と地続きである。この後者の場合、神郡と館の間の入江状の部分があるのに、前者の例のように人が住みつかなかったのは、多分、北向きで日陰げのようであるからだろう。

 いずれにしろ、水田と村との間は、坂道があり、そのあたりから樹木がうっそうと茂りだし、木の間隠れに家々が見えてくる。もちろん、古くから豊かな土地だといっても、家々は変っているはずである。だが、家々をとり囲んでいる樹木は、ことによると家々よりも古いのではないかとさえ思えるほどだ。樹木の一本一本は若くても、全体のつくりなす姿:林相は、いわば年季が入っているように見えるのである。道も、そして屋敷への入り口も、どこもみなしっとりとした、人の心をなごませる形を、私の目の前に見せてくれる。道の両側には、屋敷境をなす素朴に刈りこまれに垣根がならび、そこに口を開けた入口からは(ときには立派な門があるときもあるのだが)そこだけ陽をよく浴びた庭が見え、屋敷内が思った以上に奥があり広いのに、ちょっとびっくりする。その庭に面して、母屋が建っている。それはまことに人なつっこい空間である。あの、遠くから見るとうっそうと茂っているように見える林のなかに、どうしたらこんなすきまができるのかと不思議に思えるほど、その陽あたりの庭はゆったりとしているのである。おそらく、こういう集落を真上からながめると、樹林のなかに、ぽかりぽかりとある大きさのすきまがならんでいるのを確認できるのではなかろうか。そして、私たちはとかく、人のすまいというと家という建物そのものを思ってしまいがちなのだが、こういう例を見るにつけ、すまいはこのすきま:樹林のなかにあいた穴全体なのだという意を、あらためて強くする。つまり、樹林や垣根に囲まれた屋敷全体ですまいが成りたっているのである。

 そして、樹林がすまい:屋敷を形づくるのに重要だからこそ、代々手が入れられ世話をされ大事にされ、その結果、あのようにうっそうとした年季の入った姿を呈しているのである。これは一朝一夕にしてできあがったものではないのである。そしてそれはもちろん、いわゆる天然自然の林ではなくまったくの人工林なのである。あの国木田独歩描くとこの武蔵野の雑木林も、なんとなくそれこそが武蔵野の自然などと思われていたようであるが、あれもまた毎年手を入れられた人工の姿で、もし手が入れられなければ、あんな具合の林相にはならないのだそうである。だいたい、いつのころからか、私たちが私たちの身のまわりで見かけるいわゆる自然の景観というものが皆、実はまずほとんど人が手を入れることによって成りたっていたのだという厳然たる事実が忘れ去られ、字のごとく自然のままに放っておかれたものが自然だと思われるようになったのが、決定的な誤りなのである。私たちの身のまわり、日常のまわりには原生の自然などないのである。そして、手を入れるという作業の結果それらが成りたっていたという重大な事実が人々から忘れ去られたとき、原生の自然はもとより、あの人工の自然をも、人々は平気で軽く扱うようになってしまったのだ。生活の必然として手塩にかけるという過程を失ったとき、それらのもののもつ重み、大事さ、ほんとの価値をも、同時に失ったのである。

 

 かくして、その根をはるか昔にまでさかのぼれる村々は、一見してそれと分る実に見事な樹林でつつまれることになり、慣れてくると、遠望するだけで、村の所在が判別できるようになる。

 これに対して、新開の地は、いま一つ、こういう言いかたを許してもらえるならば、すさんだ感じがある。それはもちろん、あの堂々としたいわば完熟の期に入ってしまったような村々に比べてのはなしであり、都会の新興住宅地などに比べれば数等ましである。それはちょうど、成長の過程で現代をむかえてしまったという感じで、続々入りこむ現代風なやりかたが、その順調な成長をとめてしまったかのような気配が見受けられる。考えてみれば、こういう所の方が、あの完熟した村々よりも現代が入りこむすきが多いのである。しかも、生活にゆとりができた、つまり生活が安定したのはつい最近のことだからなおさらである。その上、その安定は、生産性の向上と安定である以上に、現金収入の安定であったから、それまでの変化とは違う様相を呈してしまったのだ。

 あちこち歩いていて気がつくことなのだが、この新開と思われる村々では、いらかをそびえさせ、屋根を神社か寺のように反らせ、やたらと軒が高く、材も太々しい、新築のそれなりに豪華版の家を目にすることが多い。まわりの古い家がつつましいから余計目だつ。実際それは、目だつことに意義を認めているらしい。おそらくそれは、それまでの数代というもの叶えようにも叶えられなかったことを、最近に至っての急激な財力(換金された現金)がそれを可能にし、勢い余ってこういう形に走ってしまったに違いない。ことによると、ほんのつい最近まで飢えにあえいでいた新開の村の方が、金力の点では旧村よりまさってしまったのではあるまいか。逆転したのである。あの新しい家は、そのことのいわばシンボルなのだ。それはまことに奇妙な家である。どう考えたって農業向きには思えず、第一、風景にそぐわない。というより、そういう風景のなかから自ずと生れたのではない。だが私には、一概にそれを否定する気にはなれない。彼らがそうつくりたかった心情は、仮にその吐露のしかたがおかしなものであったとしても、ある意味では当然のことであったのだし、はたがとやかく言うことでもないからである。第一、時間はかかるかもしれないが、もしそれが彼らの生活に適さないことが身にしみて分れば、彼らは(彼らの次の代は)それを修正するに決っているからである。あの古き村においても、もちろんこれほどの突然変異的なことはなかったろうが、これに似たことは過去何度もあったに違いないと私は思う。あの古き村において目にする完熟の姿も、一度にして成ったのではなく、いわば時のフイルターでこされた姿なのではなかろうか。

 

風景の原点

 私はいま、数年前目にしたある光景を思いだしている。茨城県西の、ほんのつい最近まで近代的交通機関から見はなされていたいわゆる陸の孤島と呼ばれた地域を歩きまわったときのことである。そこは、水田主体ではなく畑作が主である(水田がないわけではない)。畑作といってももとは桑畑が主であったようで、それが煙草・茶に変りここ最近は東京向けの野菜の産地に変身し、全般に現金収入が急増した土地柄である。わざわざ全般にと断ったのは、もとは貧富の落差が激しいところのようであったからである。

 このあたりを遠望すると、水田地帯と違い、のどかにしてなだらかな丘が延々と続き、やはり集落はうっそうとした樹林に囲まれている。ここで目につくのは、家々が(つまり屋敷が)いわば角刈りにされた高さ7・8mの樹木に囲まれている姿である。ほぼ方形の屋敷の四周をその巨大な垣根に囲まれているわけだから、遠くからは、緑の立方体がならんでいるように見える。建物の屋根は、緑にくるまれてしまって、まずほとんど見えない。近くによってみると、この巨大な垣根は、常緑の樹木:たとえば椎:をいわば矯正してつくったものだ。垣根の厚みは1~1.5mぐらい。樹木は垣根の長手方向に5~6mおきに植えられ、枝をその長手方向に、ちょうどすきまを埋めさせるように強引に引っ張り、逆に短手つまり厚みの方向への自由な生長を押さえつけることによって、この角刈りはできあがっている。こうなるとそれは、いねば緑の城壁で、入口もこの城壁にアーチ状の口が切り開かれ、あたかも城門のようである。門から中をのぞくと、そこには先に述べたのと同じく人なつっこい落ち着いた空聞が、その外側とはまるで違った空気をともなって拡がっている。こうなるとこれは、明らかに、普通言われるような単なる防風林としての解釈では不足のようだ。これはむしろ、すまいを形づくるためにつくられた壁なのだ。先に述べたあの古き村々のすまいづくりが、樹林のなかに穴をうがつやりかたであったとすれば、ここで見るやりかたは、なにもないところに樹木を植えこむことによって穴をつくるやりかただと言えるだろう。

 この集落から大分はずれた利根川沿いの河川敷のようないわば荒地に(そこは川のそばではあるが水がないから水田にならない)一軒の家が建っていた。どうやらそのあたりをまったく新たに畑にせんとして住みついた人の家らしく、どこかでもらってきた材でつくりあげた、掘立て小屋のようなみすぼらしく見える家であった。私の興味をひいたのは、その家のまわりに、ほんの1~2mの高さの細い樹木が、多分それがその人の頭のなかにある屋敷境なのだろう、方形に、その貧しい家をとり囲む意志を示して植えられていることであった。それは、よく見かける生垣にさえなっていなかった。すきすきなのである。私は、あの堂々とした緑の立方体の屋敷構えの家の映像を、この目の前の屋敷の上に重ねていた。この屋敷は、いつ、あの緑の立方体になるのだろうか。

 私は、この一見みすぼらしい屋敷構えに、人間の強い、しかたかな意志と、日ごろ私たちの身のまわりで目にする風景の原点を見る思いがしたことを、強烈な印象として覚えている。   

 

風景が歴史を語る

 私たちが、自然保護だとか、景観保存だとかいうことばを聞くようになってからもうかなり時間が経ったような気がする。だがそれらは、いまもって、いずれも、既存の自然・既存の景観の保護・保存であって、その意味することは、極端に言えば、一切それらに手をつけるな、ということに等しいだろう。

 だが、私がこの筑波山からながめている水びたしの平野の景観はもとより、およそありとあらゆる私たちの身のまわりに拡がる自然も景観も、どれ一つとして原生の姿のままのものなどありはしない。どれもこれも人が手を入れ、そしてつくり成しかものなのだ。手を入れたからこそ既存の自然の景観も在ったのだ。しかし、人々が(特に大多数を占めるようになった都会の人々が)この人の手によって成りたったという厳然たる事実を忘れてしまったとき、自然も景観も、単なる絵・映像としてしか見られなくなってしまい、手の入れかたさえ分らなくなってしまったのだ。

 私たちの日常をとり囲む自然も景観も、それには絶対的・固定的な理想形があるのではなく、本来、人々の営為を通じて、時代とともに、いわば醸成されて生まれくるものなのだ。そして、だからこそ、風景が歴史を語ってくれるのである。

 だが、いま水びたしの水田の向うに煙っているあの研究学園都市の偉観は、はたして、このような意昧での歴史を語る風景になり得るのであろうか。

 

 

あとがき

〇3ページに載せた地図は、国土地理院の五万分の一地形図を基に、概略、水田として使われている土地だけを残して、網点をかぶせてみたものである。ここにでてくる集落は、まずほとんどが農業に拠る集落なのだが、図中の中央「つくば」とある駅の周辺のかたまりは違う。あたりに水田がないから網点をかけてしまってあるが、しかしここはその周辺と同じく低地であり、山のはりだしなどではない。元はここも水田であったと見てよいだろう。そこから網点を取り除き白ぬきの部分に組みこむと、山すそがつながり、白ぬきの部分も川すじなりの自然な形となる。(ここで言う自然なということばの意味は、もちろん、然るべくしてある、というそのことば本来の意である。)ここは駅ができてから生まれた農業集落とは違う成因の集落:町なのである。

〇こうして見てみると、この地図に示されている地域は、未だに、然るべくして在る地形と、その然るべくして在る性状に対して、人々が然るべく適応した(適応しようとした)様子を歴然として残している地域であると言うことができるだろう。そしてこれが、農業に拠って生きる人たちの必然的につくりだす風景なのである。農業とは、もともと、然るべくして在る土地に、然るべく適応することを業とするものだからである。

〇だが、農業のように然るべくして在る土地に直接的に適応する要がなくなったとき、人々はどう住むのだろうか。「つくば」の駅のまわりの町は、その土地そのものにではなく、駅に拠っている。だが、駅の設定はなにに拠ったのか。そもそも、町に住む人たちの住いの構えかたは、なにに拠ったのか。機会をあらためて考えてみようと思う。ただ一ついま言えることは、たとえば東京も、いまその上に展開している密集した住居を、時間を逆に追い、次々とはぎとってゆくと、ついには3ページに載せた地図同様の状態に戻ってしまうだろう、ということである。といって、私は別に、いわゆるルーツ探しをしようというのではない。ストーリーを、それぞれの時代のストーリー、それぞれの時代をつなぐストーリーを探り、知りたいのである。

かっこうが鳴いている。昨年の、というより、このまえの、こういう日ざし、こういう風、こういう具合の表情を木々が示した、そういう時、やはりこの鳥が鳴いた。人々は、太陽がめぐるということに気づく以前に、めぐる季節に気づいていたのではあるまいか。

〇それぞれのご活躍を祈る。

          1983・5・25            下山 眞司


「第Ⅳ章ー3-A5参考曽根原家,堀内家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-29 11:17:17 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A5参考, まとめ」A4版4頁

 

参考 曽根原家  1600年代中期  所在 長野県 安曇野市(旧 穂高町)有明新屋

東 面                                                                   日本の美術№287より

 

 

寛政頃(1790年代)の平面

 

   寛政~明治初期までの平面

 

 北アルプスの東に広がる安曇平安曇野にある農家。 島崎家とともに、本棟造の原型を示す事例と考えられている。

 この地域では、南にドマとマヤを置き、居室部を北側にとる例が多い。

 これについては、寒冷地であるためにマヤを暖かい側に置いた、との言い伝えがあるという。 また、安曇平特有の冬季の南北方向の強風が、オエ居間に吹き込むのを避ける目的もあったようである。 基準柱間 1間:1821㎜ (6尺1分)

復元 平面図

図、写真は曽根原家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より

 

 一般に本棟造では、切妻屋根妻側大戸口をとるが、曽根原家では平側大戸口がある。

 同高にを建て、@1間の格子状の梁を組む架構は、他の本棟造と同じである。

 

                                                                      復元 桁行断面図

 

 

ドマから北側、オエを見る 柱は@1間   寛政期差鴨居を入れてドマ~オエ境の柱2本を切取る。   

  小屋 見上げ

 

 材種 オエ周辺:サワラ ザシキまわり:ヒノキツガスギネズコカラマツ  柱径 4寸3分角~4寸8分角

 足固、腰・内法:いずれも3寸7分×1寸 2間もの 桁行、梁行同高 桁行上端楔締め 隅は小根枘 継手 略鎌   

 

矩計図

図、写真は 曽根原家住宅修理工事報告書 より

 

 

 

参考 堀内家  宝暦~天明(1750~1790年)頃  所在 長野県 塩尻市 堀内

  

  

正面外観                    写真・図は日本の美術287より

 

 正面外観

 

 復元平面図 

 

 表側のザシキまわりや、正面の外観(上写真)は、明治初頭の改造によるもの。

 幕末から明治にかけて、見えがかりを重視する傾向が生まれる(高山・吉島家など)。島崎家の明治12年の改造(化粧のための差鴨居の付加)も同様である。

 

 

 

 上は、島崎家(上段)と堀内家の梁行断面図を同一縮尺で示した図である。

軸組格子状の梁組は両者ほとんど変らず、それより上の部分と外部意匠に堀内家は意をそそいでいることが分る。 (島崎家は同修理工事報告書より,堀内家は 日本の民家2 農家Ⅱ 所載の図を編集作成)

 

付 島崎家の破風板、堰板(せきいた)の詳細             島崎家住宅修理工事報告書より  

      

破風板の峠部の継手           堰板の取付け                堰板の継手 

 

 

 以上、関東・甲信地域の農家住宅を見てきました。

 これらの農家住宅は、いずれも畑作主体(養蚕も含む)の地域の住居です。

 この地域は、いずれも歴史が古く、したがって建物づくりにおいても、それぞれの地域の暮しに適応したつくり:技術・形式が定着しています。

 一方、生産量では群をぬく関東平野中央低地部は、徳川幕府になってからの開拓地(干拓地)がほとんどで、地域としての歴史は古くはなく、それゆえ水田主体の農家住宅の事例は多くありません。

 

 ここに挙げた事例は、最も古いものでは300年、新しいものでも200年以上、いずれも大きな損壊を被ることなく、代々住み続けられてきた住宅です(近代以降、とりわけ明治以降に見られる粗雑な改造や補修による腐朽などによる破損等は見られます)。

 すでに、島崎家の建屋の使い方の変遷で見たように、このような長期にわたり住み続けてこられた理由は、以下に要約できるでしょう。

 

1)当初の建設された建屋の規模が適切である。

  接客用に設けられた部分を除いた居住部分の当初の規模は、小松家で約30坪、他の事例は、いずれも40坪(130㎡)を超えている。 また、敷地も大きい。 註 当然、いずれも居住部分は平屋建てが基本で(富沢家などは、二階建てであっても居住部分は一階である)、敷地は最低でも建屋の5倍以上ある。

 

2)当初の設定が、住まいの基本に忠実で、建屋全体を基本的にワンルーム:一つ屋根の簡潔な形体とし、その内部のゾーン分けの比率が適切であり住まいの基本ゾーン分けについては21頁参照)、架構ゾーン分けに矛盾していない掘立ての時代より、空間と架構の一致:架構=空間:は、建物づくりの基本であった)。

  時々の暮しに合わせた改造も、このゾーン分け内で行われている。

 

3)架構そのものの改修、改造は、暮す上で支障を来たす1間ごとの上屋柱や、ドマ境の差鴨居の後補により撤去する、などが主で、小屋架構まで変えるような改造は行なわないで済んでいる。

 註 明治以降、見えがかりを重視した改造が増える傾向が見られる。 その際、見えがかり重視の結果、架構上の欠陥(島崎家で見られた均衡を欠いた差鴨居の挿入による柱の折損など)を惹き起こした例がかなりある。 また全般に、明治以降の補修は粗放な例が多いようである(古井家箱木家においても見られる)。

 

4)横材折置もしくは簡単な差口で納め、継手は簡単な方法を用いて上に置く、などを原則とした簡潔な工法でつくられている。 

 その結果、材料の加工(刻み)や竣工後の補修・修繕なども容易であった。

 

 

 農家住宅の建設、営繕にかかわるのは、それぞれの地域の工人と、そこに暮す一般の人びとです。このことを考えるならば、上記の要件は、きわめて納得のゆくものである、と言えるでしょう。

 つまり、これらの要件は、そこで暮す人びとにも「見える」つくり方である、ということにほかなりません。そうでなければ、建物の維持、営繕は、人びとにとって至難の技になってしまうのです。

註 ここでは本棟造の事例を多く紹介しましたが、それは、本棟造の住居には、当初の架構・形を変更することなく代々住み続けた事例が多いからです。  本棟造は、その架構の特徴:単純な切妻屋根で、柱を同高にして@1間の格子状に梁を架ける:から、当初の設定さえ適切であれば、改造・改修が容易なつくりであったからだ、と考えられます。

 


1983年度「筑波通信№2 構えの諸相」

2019-10-22 10:53:57 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №2」 A4版10頁 

1983年度「筑波通信 №2」 1983年5月

      構えの様相・・・・あり得るべくしてある構え・・・・

中央線の沿線風景

 生暖かい雨上りの夜気の一角に蛙の声を聞いたような気がした。四月一日のことである。立ち止った。やはりそうであった。まだ数が少ないとみえて、とぎれとぎれに聞えてくるのである。今年はどういうわけか、春だというのに、いつもなら夜気にむせるほど充ちている沈丁花のにおいがただよわない。しかし、日一日と確実に季節は巡っていたのである。

 私がいま毎週通っている甲州は、四月に入ってからしばらくが見ごたえのある季節である。梅が散り、代って桃やすもも、桜、山つつじ、もくれん・・・・がいっせいに花開く。とび色の大地に花の色がぼうっとかすんでにじんでいる。山あいに、そのとび色の大地を地色にして、まだ葉の茂らないぶどう園、家々のかたまり、そして、にじんだ花の色が、まさに所を得て展開している。かすみのかかった盆地のはてには、まだ雪を輝かせている南アルプスが浮んでいる。中央線の列車が笹子トンネルを抜け甲府盆地へ向け下ってゆくとき、その景色に思わず息をのむのが、ちょうどこの時分のことだ。

 私は中央線が好きだ。たしかに中央線の沿線は都内では有数の人口密集地で、高架橋を走る電車から見る一面の家また家の光景にはものすさまじいものがあるけれども、しかし東海道線などとは違ってそういう光景がはてしなく続くということはなく、新宿を出た列車は小一時間もすると、それまでの光景がまるでうそであったかのように、突然、ほんとうに突然、まったく異った景色のなかにとびこんでしまう。山あいに入ってしまうのである。そこから松本まで、一部を除けば、ほほ同じような景色のなかを走り続ける。見ていて飽きのこない景色である。

 沿線の風景をこまかく見てゆくと、家々は建てなおされ、甲州街道の他に中央自動車道も通るようになり、鉄道自体もスイッチバックなしですいすい急勾配を上ってゆく。風景の一部をなすそれぞれのものは大きく変っているのであるけれども、しかし、その風景全体から受ける印象は、もうひと昔もふた昔も前のころのそれと、なんら変ることないように私の目には映る。人々のありとあらゆる営みは、狭い山峡にへばりついている。たとえば、家々はやっと見つけたようなちょっとした平地部分に群がり、耕すことのできるところは全て耕しつくし、道も鉄道も、近代土木技術の粋をつくした中央自動車道でさえ、その狭い山峡を、そこを流れる川ともども、まるでもつれあった糸のようにひしめき通っている。

 中央線は、地図を見ても、また実際に乗ってみてもすぐ分るように、かなり曲線が多い。しかも小さな曲線の連続である。でき得る限り山はだなりに、そしてまた山はだ沿いに点在する町や村をこまめにつないで走るからである。これに対して、この中央線の線路の右になり左になりして走っている中央自動車道は、近代的な土木技術を駆使し、昔だったら到底思いも及ばなかっただろうと思われるルートを、言わば強引に走りぬけようとするから、いたるところで山半分がなくなり、そのぶざまな切断面を、これまた無粋というか無残というか、モルタル塗りの厚化粧でおおいつくし、あるいはまた、とてつもなく巨大な橋で谷間をひとまたぎにしていたりする。これに比べたら、中央線の橋やトンネルなどは、まるで鉄道模型みたいに可愛らしい。だが中央道の近代的な土木工事にしたところで、つまるところ、いかようにしてみても、まっさらのキャンバスに思いのままの線を引くようにはルートはつくれず、この山峡という大地の形状・状況から逃れるわけにはゆかないのである。要するに、この狭い山峡に対した場面での人々の営みのありかたは、時が変り、人が変り、生活が変り、技術も変ったというのに、基本的にはなにも変っていないと言ってもおかしくない。山峡という大地の形状が、人々の営みかた・そのありかたを、いかんともしがたく左右してしまっているのである。おそらく、このことが私に山峡変らずとの印象を与えているのに違いあるまい。

 

しっくりとおさまるということ

 中央線のトンネルには、車両の大きさぎりぎりの、窓から手を出せば壁にさわれるような、小さなトンネルがときおりある。多分古いトンネルである。こういうトンネルの入口は、きまってものすごくこったつくりになっている。工芸的だと言っても言いすぎでないほど手をつくし、あたかもアーチ状の門のようである。それは、すっかりそのまわりになじんでいる。かならずしもそれは、古色を帯び、樹木が繁茂してしまったせいだけではなく、そのつくりようにあるのだと私は思う。その点、近代土木技術のやりかたは至極淡白である。無造作である。

 だが、もう何回となく中央線を往復し、四季おりおりの風景を目にしているうちに、私はあることに気がついた。たしかに中央自動車道に代表される近代土木技術のやりかたはまことに無造作なのであるけれども、しかし、この山峡で見る限り、それは、関東平野で目にした新幹線の高架橋や東名自動車道のそれのようには、私にそれほどの異和感を与えないのである。私の目が見慣れてしまってなんとも思わなくなってしまったのではないか、とも考え、ここ数回意識してながめているのであるが、どうもそうではないようである。もちろんしっくりこない場所もあるけれども、他の例に比べて、たしかに異和感を感じることが少ないのだ。たとえば、折をみて実際にその気になって見てもらうとよいのだが、中央道の橋や橋脚はまことに巨大で、もしもそれを関東平野の広大な拡がりのなかで目にしたら、多分異和感を持つと思われるし、同様に、盛土をして造った土堤状の部分も、平地で見たら度肝をぬかれるほど大きいはずなのだが、ここではそれほどには感じないのである。

 なぜそうなのか。その一つの理由は極く単純な話で、それらの構築物がいかに巨大であろうとも、その背景になっている言わば大地が造りなした構築物であるところの山々に比べたら、まさに比べものにならないほど小さなものだからである。どんなに低い山だろうと、その形状は、いかんともしがたく人々の営みを圧倒してしまうということだ。さしづめ、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空みたいなものなのである。

 しかし、これだけでは、しっくりとおさまっているという感じの説明はつきにくいように思う。というのは、明らかに大地の所作に比べたら小さなことなのに、どうみてもしっくりゆかない、いま一つおさまっていない、落ち着かない印象を持つ場合があるからである。別な言いかたをすると、なにかことが起ったら、たちまちに崩れ去ってしまうのではないか、というような感じを抱かせるのである(もちろん、実際には壊れはしないだろうが)。

 いったいこれは何なのだろうか。

 私は今号の初めのところで、ぶどう園、家々のかたまり、そして、にじんだ花の色がまさに所を得て展開している、と書いたが、いまここで書いたしっくりとおさまっているあるいは落ち着いているという感じは、この所を得ているという表現と同じだと見なしてよいと思われる。

 ことによると、ここに掲げたいろいろな表現は、安定感の一語に尽きるのかもしれないが、しかし安定感だと、単純に形体そのものの安定の度合の話に持ちこまれてしまうおそれがある。それが単純に形体そのものの話でないことは、たとえば非常に危なげながけっぷちに建っている建物でもしっくりおさまっている場合があることや、逆に、どう考えても安定していると見なされてもよい所でも、建てかたが悪いとしっくりゆかない場合があることを考えてみれば、このことばがあまりふさわしい言いかたでないことが分ってくる。

 そのように考えてくると、これらのいろいろな表現のなかで、「所を得ている」という言いかたが一番妥当なのではないか、と私は思う。がけっぷちであろうがどこであろうが、所を得ている、という言いかたなら十分に意を尽せると思うからである。

 

所を得たさま

 仙台の大通りの街路樹は、けやきの並木である。普通、東京あたりの街路樹は台風の時季に枝が刈りとられてしまうのだが、ここのはそうでなく、もちろん手は入れられていると思うが、言わば成長のし放題というおもむきがある。道路はトンネル状におおわれる。木々の枝々は微妙にからみあっている。そして、よく見ると、一本の木の枝が占有し得なかった間隙を、隣りの木の枝が見事に埋めているのである。隣りあう木同志がそれぞれの占有空間を一つの境界線(面)で密に接しているわけで、少し大げさに言えば、一本の木を切り倒したとき、そこにはその木の形をした空間が残っている、と言っても言いすぎでないほどだ。そして、切らなかった方の木、つまり突然できてしまった空き間にさらされる目になった木の枝々が、そこにあった木のおかげで、ひずんだ形になっているかと言うと、そんなことはなく、それなりに見れる形になっている。そうは言ってももちろん独立樹のそれと違った形であるのは確かであるが、けれども、東京の街路樹や、植木屋さんによって散髪され続けた庭木が見せるようなどこかゆがめられたような所はない。木に思いがあるとすれば、まさに(隣りを微妙に気にしつつも)思いのままにそれぞれが枝をはり、全体が形づくられた気配がある。これはほんとに見事である。上海で見た街路樹もそうであった。なんの木であったか忘れたが、街路は完全におおわれ、トロリーバスの架線が枝のなかに埋もれていた。街路樹ではなく、まるで屋敷林のようなおもむきさえあり、下刈りがよくされた林のなかのようでもあった。

 おそらく、「所を得ている」という感じかたは、この街路樹のようにそれぞれが言わば思いのままに(あるいは勝手に)のび放題にのび、それで全体がつくられているような場面において、その一本一本の木々のありかた、構えかたに対して言われるのではないだろうか。あり得べくして(その形で)あった、という感じである。そしておそらく、真の意味での「調和」とは、こういう場面を指して言われるはずなのだが、得てしてこの「調和」という言葉は、このあり得べくしてあるという言わば過程を忘れて、単純に(その結果としての)形の問題に還元されそうな傾向があるので、私はあまり使いたくない。そしてまた、このあり得べくしてあるということは、別な言いかたでは、自然である、という言いかたに置き変えてもよいのだが、これもまた多く誤解されがちな表現であるため、これも私はあまり使いたくない。

 

 つまり、この文の冒頭の、ぶどう園、家々のかたまり、にじんだ花の色が所を得て展開している、というのは、そのそれぞれが、あり得べくしてあるとの感じを、私に抱かせた、ということなのだ。山々に咲き急ぐ自生の木々は、それこそ自然界の法則に素直に従っていて、その意味であるべき所にあってなんの不思議もなく、それを私たちもいつしか知っている。それゆえ、あり得べからざる所にある樹木が植っていたりすると(それを知っている人は)異和感を持つ。(もっとも最近では、このある樹木のあり得べき所についての感覚が損なわれているようで、またそういう時代でもあるがゆえに、ことさら植生の話があらためて論じられたりするのでもある。言わばその昔なら常識であったことどもが、ことによると植木屋さんでさえ分らなくなっていたりするようだ。)

 そしてこういう感じかたは、木々に対してのみならず、それらの生えている大地そのものの形状に対しても、私たちは持っていると言ってよいだろう。川の流れは、大地の形状により流れるべくして流れ、滞るべくして滞りそして淀むことを私たちは(いつしか)知っているし、これは他の大地の形状についても同様である。(もっともこの感覚もまた、どんどん常識の外へとびだしてしまい、代って、そういう感覚を経由しない「知識」が隆盛をきわめつつあるらしいから、この点についても、あり得べくしてという感じかたをする人が少なくなってきているようだ。)

 

 それでは、ぶどう園や家々のかたまりが所を得ているというのはどういうことなのだろうか。ぶどうは確かに植物であり、その生長は自然界の法則に従うかもしれないが、ぶどうとなると様相が違ってくる。まして家々のかたまりとなるとなおさらのことだ。これらは、言うならば人為によるものだ。そういった人為が所を得ている、あるいは、あり得べくしてある、と見え感じられるというのはどういうことなのか。

 あたりまえの話だが、人為は、まずもってして人為が先にあったわけではない。先にあったのは、まず、大地そのものであった。そしてまた、これもまたあたりまえの話なのであるが、いま目にする人為が全て、同時にできあがったわけでもなく、ある人為の前には、既にして、別の人為があったのである。従って、人為とは、まずもって人の大地に対しての処しかたに拠るのであり、そしてまた、既に存している(言わば大地の一部に化しているかの如くにある)人為に対しての処しかたに拠るのである。私はこれを(大地に対する、あるいは、人為に対する)「構えかた」と呼ぶのがふさわしいのではないかと考えている。それゆえ、これら(の人為)が所を得ているという感じかたは、言いかえれば、それらの「構えかた」が当を得ている、あるいは、あり得べき構えを示している、という感じかたなのだと言うことができる。けれども、(言いかたをいろいろと変えてはみたものの)いずれにしたところで、いかなるものを、当を得ている、あり得べくしてある、と言うのかと問われれば、それは結局のところ、私たちの感性に拠るのだとしか言いようがあるまい。

 

構えるということ

 手元の国語辞典から、「構える」「構え」の項をぬきだしてみた。

 構えは当然構えるの名詞形であり、それぞれの項目の一番目に示されている語義は「構」という漢字の原義でもあるようだ。おそらく「かまえる」あるいは「かまう」という日本語がまず存在し、それには(建物を)つくるという意があったがゆえに、それに「構」の字があてられたのだろう。多分、「かまえる」の最も本質的な意味は、二番目の説明にある語義なのではないかと思う。すなわち「ある姿勢をとって相手に対する」という意である。因みに「かまう(構う)」の項を見てみると、その初めに「こだわって気をとられる」「気にかけて対処する」と示されているから、いずれにしろ「かまえる」「かまう」ということばには「対する」「対処する」という意味がもともと含まれているのであろう。

 だから、建物・家をつくることを称して「かまえる」という言いかたがなされた根底には、建物・家をつくるということは、(外物に対して)身構える:ある姿勢をとることと同じようなことだ、との認識が人々の間にあったからなのだと理解してよいのではなかろうか。人が自らの身を外物に対して構えるという感じを、そのまま、建物づくり・家づくりの場面にもあてがうことができる、としたということだ。

 

 おそらく、人が自らの身を外物(もちろん他人も含む)に対して構えるというそのままの意味での身構えるということの(具体的な)感じはだれでもすぐに思い浮べることができるはずである。実際に私たちは私たちの遭遇する場面に応じて、それなりの身構えを(ときには意識してそしてときには無意識のうちに)しているからである。そしてそれが徹底すれば、格闘技の(身)構えの型にまで到達してしまうほどだ。この格闘技の構えの場面が、おそらく、身構え、あるいは、ある姿勢を(外物に対して)とることの本義を端的に示していると見てよいだろう。

 すなわち、外物に対してわが身の存立を確保するための所作、これがその本義に他ならない。外物に対し攻撃をかけるのか、外物の攻撃を防御するのか、それとも外物と平和共存でゆくのか、それによりつくりなす構えは変るかもしれないが、いずれにしろ、どの構えにするかの選択をも含め、その拠ってたつ根本は、わが身の存立の確保以外のなにものでもないはずである。くだいて言えば、自分が安心していられる状態を確保するためにとる姿勢、それが身構えなのだ。そして人は、生れてこのかた、それぞれが、それこそ身をもって、場面なりの身構えかたを学び、身につけてきているのである。

 

 このように「かまえる」ということの本義を考えてみたとき、家をつくり、建物をつくるということをも「かまえる」と称すことの理由が、うっすらと分ってくるように思う。なぜなら、家をつくる、建物をつくるということは、つまるところ、わが身の存立を保証してくれる場所を確保するための所作に他ならないからである。強いて言えば、その場所にいる限り、人は(狭い意味での)身構えをする必要がない。その場所が、彼にとってもはや外物ではない、彼のものになってしまっている、そういう場所。そして、もしもそのような場所を持たなかったならば、彼は常に身構えていなければならないのである。

 もちろんこのような「場所」は、単なる狭い意味での自分の城ではない。なるほどたしかにいわゆる都会的な生活をしている人々にとってはこの自分だけの居場所としての建物だけが狭い意味での自分の城でよいのかもしれないが、しかしそれが全ての人々に共通なのではない。それは、その人がなにに拠って生きているか、つまりなりわいに拠るのであって、先に見てきた山あいの村では、人々は多くいわゆる農業に拠っていたのである。その彼らにとってわが身の存立を保証する場所というのは、単に身の隠し場所であればよいのではなく、まずもって耕すことができる所でなければならないのであり、従って、彼らは自ずと自然界の法則を熟知することになる。言うならば、彼らは秀れた自然科学者なのである。彼らは人為的にぶどう園をつくる。もちろん、ただぶどうを植えれば、それでぶどう園ができるわけではなく、まずもってぶどうを知らなければならない。そして彼らは、ぶどうがあり得べき場所を知り、あり得べき場所を探し、あり得べき場所を造成し、そして初めてぶどう園が誕生する。

 ぶどう園を例として書いたが、およそ農業というのはみなこういうものだったはずである。だから、農業に拠った人々にとって彼らの存立を保証する場所というのは、単に家そのものだけなのではなく、まず耕すことのできる所を含めた全体であり、家屋敷はその一部であったにすぎないと見るべきなのだ(そのように見てくるとき、狭い意味での農民の家の構えが何であったかが見えてくるように思われる。それは決して、単純に、都会風な文化的住居像をあてはめ、比較し論じ得るものではない)。

 こうして、あの山あいでは(農業をなりわいとする)人々が、営々として、自分たちのすまう場所を(広い意味で)構え続けてきたのである。あるいはそれは、大地への積み重なる人為、その人為への新たなる人為の積み重ねであるとも言い得るし、あるいはまた、近代風に言えば、大地に対する土木事業の連続であったと言えるであろう。いずれにしろ、人々のそれらの営みの根にあったことは、(彼らのなりわいの下で)大地を知り、(先行の)人為を知り、自らを知ることであった。そして、自らの存立に支障をきたすがごときことはしない、ということであった。それが、彼らの所作のありかたを決定的にしていたのである。

 

 私の目の前の山あいの風景は、人々がそのあり得べき場所を探し求めた(あるいは、いまも探しつつある)人々の(その土地での生活のために大地へ対した)諸々の営為の結果物により成っているのである。おそらく、なにも山あいに限らず、なんらかの人為の加わった風景というのは全て、本来、こういうものだったのである。つまり、私は、そういった土地での人びとの生活のための構えの結果の諸相とそれらの織りなす全体を見ているわけである。そして、先に述べてきたように、それらの人々の営みは、それぞれそれがあり得べき所でなければ営まれないのが本来の姿なのであり、そこのところが(よそものの、あるいは一見の客としての)私にも読みとれる、つまり、なるほどね、とそれらの彼らの営みの根にあるが私にも分る(ように思える)から、「まさに所を得て展開している」との感想が私の口から出てくるのである。

 そして、多分、そのが分ったように思え、もっともなやりかただと思えたとき、それらが(あるいはそれらのつくりなす全体が)安定したもの、調和したもの、あるいは、自然なもの、として私の目に映るということなのではあるまいか。単なる形象上の安定感調和感、あるいは自然さ、を見ているのではないのである。もとより私が直かに目にしているのは、それらの形象であることにまちがいはないのだが、ただそれだけでよしとしているのではなく、言わばその背後をも見ているということである。なにもこれは私だけの癖なのではなく、大方の人たちも(意識しているかどうかは別として)このように見ているはずである。畑を目にして、畑という形状の単なる形象として見て済ます人はまずいるわけがなく、たとえ作っている作物の名を知らなくても、(人が)なにかを作っている、ということは、だれもが認めているはずである。当然、口に出しては言わないかもしれないが、その背後にいるそれを作っている人たちの存在も識っている、人為の存在を認めているはずなのである。

 

近代的構法の本性

 近代技術による中央道の構築物のうちのあるものが、私に異和感を与えないのは、結局のところ、それらが、所を得ている、あり得べくしてある、との感を私に抱かしめたからなのである。

 だが、そうかといってそれは、それらの近代的構築物が、ここで私が述べてきたようなやりかたでつくられてきたためであるかというと、決してそうではない。それはやはり、他の多くの近代的なやりかた同様、近代合理主義的発想、一言で言えば、経済的効率主義によって貫かれていると言った方がよいと思われる。

 というのも、いろいろ見てみると、先にも書いたように、所を得ていると思えるのはその全てではなく、それにはある種の傾向があることに気づいたからである。それらは、まずほとんど、両側から山が迫ってきた狭い峡谷状の場所において見かけることが多いのである。こういう場所では、既に、人家も耕地もそして道も鉄道も、その厳しい制約のなかでとにかくぎりぎりいっぱいそれぞれの所を得てしまっていて、生まれつきの大地と人為とが、これもせいいっぱいせめぎあっているから、言うならばもはや余裕がない。だから、そこにまた新たに道をつくろうとするとき、昔ながらのやりかたも、近代的なやりかたも、実は、結果として、同じ解答を出すしかないのである。

 つまり、昔ながらの方法では大地の法則に則り、既存の人為を尊重するなかで最も容易な構えをとろうとするだろうし、(そして当面の手持ちの技術では不可能ならば一つの願望として心のうちに暖めておくだろう)、近代的な方法では、人家や耕地はその取得費がかさむから避け(それは別に、既存の人為を尊重しているのではない)、しかも工費がなるべくかからない策をとる(昔ならトンネルでぬけただろうと思われる場所を、いまでは山を取り除く手段に出るのもそのためだ。長期的に見れば絶対に大地の力には勝てないと思うのだが、平然と無残な切断面をさらしている。たしか昨年の夏、その一つが大崩落を起したはずである)。どちらのやりかたをとるにしろ、こういう厳しい制約の所では、結果として同様な結論となるのである。違いは、唯一、その技術の差でしかない。

 それゆえ、ひとたびこういう厳しい条件がゆるむ場所にさしかかると、近代的やりかたは、たちまちその本性を露にする。そこでは経済的効率主義によるフリーハンドを可能にする余裕地があるから、容易にして安易な策をとることになる。そこでは、その土地なりのあり得べくしてあるというありかたを考えるいとまもなく、むしろなかば強引にルートが引かれ、構築物がつくられる。そういう場合、それは全く所を得ているとの感じを私に抱かせないのである。

 

感性の復権

 もう多分お気づきのことだと思うが、私がここで述べてきたことは、結局のところ、私の(ものごとへの)感じかたの話である。そして、そのようなことは、いまの世のなかでは、まったく個人次第のたよりないものだと見なされ、多くの人々は、もっとたよりになるいわゆる客観的な拠りどころを求めようとするだろう。そのようななかで、たとえば経済的効率主義、ひいてはいわゆる近代合理主義は、もっとも手っ取り早いものの一つである。だから、それ的な(もっともらしい)説明を受ければ、人は仮に異和感を感じ、本意でないと思っても、単なる一個人の感じにすぎないではないかと言われ、また思いこみ、引っこんでしまうのだ。だが、それはまちがいだ。私たちは、私たち一個人の感じかたからこそ、まず出直すべきなのだ。私たちは、伊達や酔狂でものごとを感じているのではないからである。私たちにとって、感性の復権こそが急務であると、私は思う。なぜなら、それこそがリアリティに直面しているからで、元をただせば、既存の全ての知識体系も、つまるところはどれもみな、個々人の感性から出発していたはずなのである。

 

 いま山峡は、花の季節に終りを告げ、新緑が輝きだしつつある。そして筑波では、また田植がはじまり、そして、まだひと月も経っていないのに、いまはもう、蛙の声の聞えぬはざまを見つけるのさえ難しい。

 

あ と が き

〇「・・・・その印象のなかで、比較的鮮明に残っているのが、清洲橋と永代橋の姿である。それぞれ違った趣があるが、いずれも均斉のとれた美しい姿態をしていると思った。・・・・私はこの二つの橋の姿を想い起すだけで、隅田川を感ずるのである。この二つの橋は、私にとっての隅田川のシンボルにさえなっているといってよい。よく考えてみれば、橋は人と川とのかかわりを象徴する一つの重要な存在なのかもしれない。川は、そのほとりに住む人びとを結びつけもするし、隔てもする。隔てられた人びとを結びつけるのが舟と橋であろう。そして、舟と違って橋はいつも厳然として存在し、川と人びとの結びつきをその姿によってたえず暗示しつづけるのである。橋が川のほとりに住む人たちのシンボルたりうるゆえんであろう。その点で、近ごろまことに口惜しく思ったのが、新しい新大橋である。まえの新大橋がそれほどみめうるわしかったというわけではない。しかし、今度の新大橋はいささかひどいというのが、私のいつわらざる実感である。機能主義と経済効果主義しか人に感じさせることのないようなこの橋は、象徴としての資格をまったくもっていない。設計者は、毎日人びとの眼に映る橋の存在を何と考えたのであろうか。・・・・新しいこの橋を見るのさえ不愉快である。かつての〈橋梁工学〉には〈美学〉の要素があったようにきいている。建築物と同じように、あるいはそれ以上に、橋梁の設計をささえるものは工学的技術とともに美学であったに違いない。そしてその美学は風土と伝統のなかで育てられた民衆の美意識を基盤として成立するものだったはずである。日本の工学から、いつそのような美学が喪なわれてしまったのであろうか。・・・・」玉城哲著〈水紀行〉より

〇私はこの二年間、「通信」の文中で、徹底して「美」だとか「美しい」とかいうことばを使わないできた。多分、今後も使わないだろう。別に私はその概念の存在を否定しているわけではない。このことばを使えば、なんと簡単にすむことか、と思ったことも何度かある。だから、この引用した文章などみると、その内容に同感を覚えるとともに、あっさりと美学ということばを使っていて、変な言いかただが、うらやましいなと思う。私がこのことばを使わないのは、極めて単純な理由による。得てしてそれが、単に、形象上の問題にすりかえられてしまうからである。仮にそうなると、ものをつくるという人為の本来の存在のありかたが見失われ、形象上の操作におとしめられるおそれがあるからである。

〇四月早々から書きだしたのだが、週に一・二回の甲州行と新学期のなにやかやで、書き終えるのが大分おそくなってしまった。おかげで、蛙の声量に、時の経つ早さを教えられた。

〇三月号に少し触れた「知恵おくれの人たちの家」づくりの発起人の一人から、次のような便りをいただいた。「・・・・園をつくるためにいろいろしたことは、私たちにとっては、やらなければならないこと、〈食べものがなければ食べものを作る〉と同じようなことなのです・・・・。」

〇それぞれのご活躍を祈る。

            1983・5・1            下山 眞司

 


「第Ⅳ章ー3-A5島崎家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-15 12:45:28 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A5,参考」A4版6頁

 

A-5.島崎家  享保年間(1716~1735年)  所在 長野県 塩尻市 片丘

南西からの全景                         

  

大戸口、玄関正面

 

 島崎家は、長野県塩尻市の中心部から北東へ約3.5km、松本盆地の東に連なる鉢伏山系高ボッチ山西麓の緩斜面、片丘地区にある畑作農家。

 切妻板葺き屋根妻入りで、塩尻地域に多い本棟造(ほんむねづくり)の古い事例の一つ、それゆえ、本棟造の原形式を示していると考えられている。

 建設当初のままと見られるカミザシキ床の間壁貫(建込み仕事)の墨書から修理工事報告書では享保年間の建設とされたが、元禄13年(1700年)にある程度完成し、享保になって完成した、という説もある。以来、解体修理が行われるまでの間、建築当初の形式を保ちながら、約260年以上、代々島崎家により住まわれてきた。なお、その間の各時代の使い方を知ることのできる資料が残されていて、その点でも貴重な事例である。

 島崎家は建設当初、地域の村役を務めていたため、武家を招じる接客空間として、カミザシキまわり(式台ゲンカン二ノマ)が設けられた。

 片丘地域をはじめ一帯には、この接客空間を除いた5~6間×7~8間程度の同じ形式の住居:本棟造:が多数見ることができる。

 

 

 

 復元 平面図  復元後も家人が一部使用のため、北東部に便所が設けられている。 

 

 島崎家板葺き屋根は、勾配がかなり緩く、約2寸7分だが、一般には2.5寸~3.5寸程度の例が多い。

 四周と間仕切になる通りに同じ高さで柱を1間間隔で建て、その上に@1間で格子状にを架け、束立て小屋を組む。 基準柱間 1間:6尺1分(1821㎜) 註 徳川幕府の検地の間竿では、1間を6尺1分とする規定があり、この地域では、この数字が建物にも援用されたという説もある。

復元 梁行断面図

写真・図は島崎家住宅修理工事報告書より

 

 

   

伏図 梁の長さ、継手位置を示す。・印は柱位置     母屋伏図 継手小屋束上で鎌継ぎ 

       

太枘を設け、重ね継ぎ          小屋梁~妻梁~柱        小屋束と小屋貫端部         

 

解体時の梁組 明治12年に、一部の梁が切断された。

 

軸組 :自然石の礎石建て。 カラマツサワラクリ。当初材にサワラの転用材。 計画寸法4寸3分角。各柱はほぼ同高(12尺材使用)。 折置または枘差し鼻栓込栓の両様)。柱通りには足固貫。ただし梁行では大引が兼ねる。  

小屋組 梁・桁:主にマツ。他にケヤキクリカシサワラ。 桁行下木梁行上木にして@1間の格子に組む。 継手は柱上で重ね継ぎ鎌継ぎ蟻継ぎ併用。 

  天井見上げ図  平面図に対応

 

復元桁行断面図 

図・写真は島崎家住宅保存修理報告書より

 

 

 

 ープラン 

 

 

ダイドコロ 大戸口見返し 板壁部分はマヤ

 

 

オエ 北側ネマ側)見上げ                 オエ 東側(イタノマ側) 

 

 

オエ 西側(ダイドコロ側)見上げ 右手ネマ境の壁      オエ 南側 板戸はゲンカン 明かり障子は土間境 畳は仮敷

 

          

ミザシキ 南~東にまわる縁・土庇             左奥:カミザシキ、手前:二ノマ、右奥:ゲンカン

 

 

島崎家代々の建屋内使い分け:間取りの変遷      

 島崎家では、遺された諸資料から、建屋内の時代ごとの使い方:間取りが下図のように判明している。

  当初の建屋の梁伏と使い分けを対応させたのが上段左図。記号のA~Dは、21頁住まいの原型で解説したゾーン分けの記号。

 島崎家住宅修理工事報告書より転載・編集

 

 図1は、想定された当初平面図復元平面図は、この平面の北側に廊下と便所を設けた)。

  改造は、常に、梁伏と対応して行なわれ、特に、明治初頭までは、空間のゾーン分けとも対応した改造が行われている。

 明治12年の改造(図3)は婚礼のため。このとき、オエを東西2室に分け、ゲンカン境、二ノマ境、土間境のが内法下で切断され、差鴨居が入れられ、オエ間仕切にも3間の差鴨居が新設された。その結果、この差鴨居のおさまるコザシキ南西隅の柱は折損していた。なお、この時期以降、一部に踏み天井で2階を使うようになる。 

 大正期になり(図4)、ネマ・コザシキ南側、オエとの間に1間幅の畳廊下がつくられる。マヤは不要となり居室化。この頃から、当初のゾーン分けが維持できなくなる(図5)。

 島崎家の間取りの変遷は、長く使いこなせる建物の必須条件を示している。

  あえてその条件を箇条書きにすると、1)当初の規模が適切である、2)当初の建屋の形体が簡潔な形である、3)当初の建屋が改造・改修あるいは補修が可能な架構・構造で、簡潔な工法でつくられている・・などが挙げられよう。

 参考資料 日本の民家調査報告書集成9 中部地方の民家3 山梨・長野(東洋書林)

 

 (「第Ⅳ章ー3ーA5参考小松家」に続きます。)


「第Ⅳ章ー3ーA5参考小松家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-15 12:45:02 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「第Ⅳ章ー3ーA5島崎家」より続きます。)

 

参考 小松家  延宝・貞享年間(1673~1688年)頃  所在 長野県 塩尻市 片丘 

 島崎家からほど近いところに、島崎家より約半世紀前に建てられた小松家が復元保存されている。

 

復元建物 西面(斜面に沿わせ、西に向いて配置)   写真・図は小松家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より

 

 小松家は茅葺寄棟で、当初は土間2室の構成で、村役を務めるようになってから、奥に接客用のザシキなどを増築している。 復元された建屋は、この増築された段階の姿。

 小松家は他地域で見られる上屋+下屋の構成をとらず、上屋だけで構成されている。

  平面:空間の構成が、島崎家など本棟造の住居に類似していることから、板葺本棟造が生まれる前段階の形式と考えられている。

 修理時(1977年)

              

ザシキ増築時(1790年代):復元平面  

     

      建設当初(1673~88年頃)

 

 

復元 平面図  基準柱間:1828㎜(6尺3分)柱材:当初 クリ 後補:ツガ、スギ 柱径など不詳、5寸程度か

 

 

復元 行断面図

 

復元 梁行断面図                        写真・図は小松家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より

 

 小屋又首組で、梁行断面図のように中途に斜め材を入れたトラス様の形をしており、簡潔で爽快な空間をつくっている。


 

小屋裏 見上げ    

 格子状に組む架構法は、本棟造に通じるところがある。実際は、写真よりもスレンダーである。)

 

土間から土座を見る   手前右手 大戸口へ   右手 シモザシキへは土座から入る  奥左 カミオエ 奥右 カミザシキ 

 

軸組 組立中             写真・図は小松家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より 

                参考資料 日本の民家調査報告書集成9 中部地方の民家3 山梨・長野(東洋書林)

 


1983年度「筑波通信№1 人それぞれ・・・・それぞれのストーリー」

2019-10-08 10:16:51 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №1」 A4版10頁 

 1983年度「筑波通信 №1」 1983年4月

       ひとそれぞれ・・・・それぞれのストーリー・・・・

 会話の場面

 「おはよう」

 「おはよ・・・・、あら、どうしたのその顔?」

 「ううん、なんでもない、虫にさされただけよ」

   ・・・・・・

 妙な書きだしで恐縮である。ラジオの番組に「ことばの十字路」というのがある。聞くともなくそれを聞いていたとき、こんな会話が耳にとびこんできた。それも、何回も同じことをくりかえすのである。実は、声優の加藤道子さんが、この同じ台詞を、司会者が指示する場面設定に応じて、その場面での微妙なニュアンスを合んで読み分ける、そういういわば実験を試みていたのである。一つの場面は、まったく単純な、家庭のなかでの朝の一場面としての娘と母の会話、もう一つは、そういう平凡な日々の状景ではなく、ある事件の発端となる場面での娘と母の会話、これがその読み分けにあたっての注文であった。しかも、いまここに記したようなシナリオの一部としての場合と、話しことばの間につなぎの文が入る小説の一部を朗読する場合の二通りについてそれぞれを読み分けていたから、都合四通りの読みかたが試みられたことになる。

 それはもう実に見事であった。それぞれの場面が、ありありと目の前に浮んでくるのである。もちろん、司会者が設定した場面の説明をあらかじめ私は聞いているわけだから、その思い入れによる聞き分けが働いていないわけではないけれども、明らかに読みかた(しゃべりかた)の違いによって、思い浮べる場面が違ってくるのである。

 要は、文字に書きかえてしまうと全く同じ文章になってしまう会話も、その会話が交わされている場面によって、しゃべりかた・話しかたが違っていること、日常では私たちは(なにも声優だけでなく)極く自然にそのように同じことばを使い分け(話し分け)ているということ、そしてまた、私たちが文字に書かれた文章を読むときでさえ、私たちは単にそこに書かれている語句の文字どおりの意味内容だけを読みとっているのではなく、その文章が書き示そうとしている状況あるいは書き手の状況を頭に描くといういわば補完作業を同時に行いつつ、その文章の言わんとすることを限定・判定しているのだということ、こういったことを実験で示してくれたわけである。

 たしかに、私たちの日常の会話の場面を考えてみれば、私たちはその場の状況や、相手の目・身ぶり手ぶりなどまでをも読んで話を交わしているのであって、決してことばそのものだけにたよっているのではないことが直ちに分ってくる。だからこそ、そういう言外のことを全て、耳にすることばを基に補わなければならない電話による会話が難しく、そしてときにはもどかしくさえなるのである。

 

 ときおり聞くだけなのだが、この「ことばの十字路」という番組は、わずか十五分にしてはなかなか面白い。特に今回、その最後に加藤道子さんが語ったことも、これは聞き捨てにできないものであった。司会者が、声優としてのこういう会話の読み分けのこつや苦労などについて尋ねたのに対して、彼女は大略次のように答えたのである。その場面に応じた話しかた・しゃべりかたをすることは、その場面に自分を置いてみればよいのだから、それはそれほど難しくはない。難しいのは、それがどういう場面であるかの判断が直ちにできるかどうかにかかっている。いまここで読み分けた例は難しかった。なぜなら、たった三行の会話部分だけを読まされるのでは、たとえそれが娘と母の会話であることが示され、場面の状況を説明されても、それでその場面がよく分ったわけではない。これが小説やシナリオの一場面ならば、その場面に到るまでの間に、既に、どういう娘と母なのか、どういう状況なのか・・・・などが十分に判ってしまっているから、容易にその場面を我がものとすることができる。しかし、たった三行だけだと、そのほかは全て自分でストーリーを想定するしかないし、第一、この娘と母の関係にしても、ただ一般的な娘と母の関係が分っているなどという分りかたでは到底リアルな場面には行きつけず、その点についてもある仮定をしてみることになる。そういう意味で、不確定な要素が多すぎ、従って役になりきれず、いま一つリアリティに欠けてしまうから、ここでいま試みた読み分けは決してよい出来だったとは思えない、と。(ここでいま私が文章化した彼女のことばも、実際の話しことばではもう少し要領のよい話しかたであって、書きことばで彼女の言わんとすることを極力伝えたいために、いろいろと語間を私が補ったのである。)

 会話の場面では、私たちはある状況を共有しつつ話をすすめているから、わざわざその状況を説明する要がないのだが、書くとなると、この省いたところの状況の説明をまずしなければならないのである。

 

旅での場面

 旅をしている私たちが、とある町に降りたったとしてみよう。その町が初めての町であればなおよい。私たちは、目に入り、そして初めて経験するその町でのものごと、できごとを、それこそもの珍らしげに見、また味わうだろう。そして、そのときの感想やら想いが、その町についてのいわゆる第一印象をかたちづくってしまう。この町への訪問が、そのとき一回限りで終ってしまえば、おそらく、私たちのその町についての理解というものは、この第一印象によりかかったかたちでつくられてしまい、その後いわば永久にその理解がその町に対して語られてしまうことになるだろう。

 ところで、この第一印象、すなわち私たちが目にし経験するものごと・できごとに対しての私たちの(初めの)感想や想いというのが、ただ単純にそのものごと・できごと(の側の責任)に拠ってひき起こされたものなのであるかというと、そうではない。そのときの私たちの視点如何によってそれは左右されると言った方が、むしろ、あたっている。私たちは、そのときまでの(そしてそれからあとの)私たち自らの経験の一部・一場面として、そのとき私たちの目の前にあるものごと・できごとを扱っているからである。いま私たちが目の前にしているものは、通常では、私たち自身の係わるストーリーの一部としてしか、私たちには見えてこないということである。しかしこれは、考えてみればあたりまえなのであって、私たちのストーリーの一部として(とりあえず)扱ってみる以外に、それに対処し、それを位置づける手だてが他にないのである。

 そしてこれが、単に、素通りの一観光客の感想にとどまる限りではとりたてての問題にもならないかもしれないが、しかし、もしも話がそれを越えて進むようならば、問題が起きてくる。すなわち、私たちにその町について理解する必要が生じ、それに対して、一見の客にすぎなかった私たちの印象に拠ってのみそれが語られるとき、つまり、私たちの印象はあくまでも私たちのストーリーの一部でしかないという事実が忘れ去られ、あたかもそれが(万人共通の)普遍的なストーリーの一部であるかのように扱われるとき、そこに大きな問題が生じてくるのである。

 ある町を初めて訪れた私たちの目の前にあるものごと・できごとは、当然その町の人たちの目にもとらえられているだろう。だが、彼らのとらえかたは、これも当然のことながら、私たちのそれと同じではなく、あくまでも彼らのストーリーの一部としてのそれであるはずである。だから、私たちが私たちのストーリーの展開の一局面としていま新たにつけ加えようとしているその町のものごと・できごとは、その町の人たちのストーリーから見れば、その長編のほんの一部、三行はおろか一行にも満たないわずかな部分でしかないのである。もしもこのことを忘れて、その町のものごと・できごとを、私たちの側の視点のみで(あたかもそれが唯一絶対かの如くに思いこみ)推し測るならば、そこでは、ことによれば「ものごと・できごと」の理解はできるかもしれないが、決して「その町のものごと・できごと」についての正当な理解が生まれるわけがなく、むしろ、回復不能に近い誤解と不信の種がまかれてしまうという大問題が生じてくるのである。

 

場面とストーリー

 もう一つ別な事例を考えてみよう。

 三月は入学試験の季節である。受験生ならずともうっとおしい季節である。人が人を右か左かにふるい分けるというのだから、はなはだうっとおしいのである。私の係わっている分野の入試は、いわゆるペーパーテストの点の高低に拠った選別ではなく、いわばそれ向きの資質があるかどうかを見ることになるから容易ではなく、判断に迷う場面も少なくない。それをもおして選別してしまうのであるから、入試が終ったあと、淡い悔恨の情を抱かない人はないと言ってまずまちがいないだろう。ほんとに適切な判断だったろうか、と。(妙な話だが、そのとき抱く感懐は、私の場合、設計した建物が建ってしまったときのそれに似ている。)

 考えてみると、入学試験というのは、「試験」というものを通してたまたま表われ見えた(受験生ひとりひとりのストーリーのなかの)たった三行をもって、受験生を判定する作業であると言うことができる。どのようにしてみたところで、つまるところ私たちにできることは、そのたった三行を見ることだけである。従って問題は、そのたった三行で何を見るかということにかかってくる。もしも、その三行だけが受験生の全てを表わしているなどと思ってしまったら、これはとんでもないことなのだ。私たちは、その三行を基にして、言うならば彼の来しかた行く末のストーリーを思い描いて、この大学に向いているかどうかの判断をする破目になる。それゆえ、受験生にどういう三行を表わしてもらったらよいかが試験問題作成上の大問題となってくるわけである。

 これもこの間放送で聞いたある医者のことばであるが、それによると、いわゆる名医と言われている医者は、患者が診察室へ入ってきた瞬間に一切を察知するのだそうである。つまり、そこへ入ってきた患者の挙動・表情その他そこで患者が示している現象(これはあくまでもたった三行であるにすぎないはずなのであるが)から、単にその現象を知るのではなく(たった三行だけを知るのではなく)それをあらしめているストーリーを見ぬいてしまうということである。病状というある限られた場面に係わるからではあろうが、彼はそれに係わるいわば普遍的なストーリーと、その一環としての三行について、十分に分ってしまっているのである。だから、彼に診てもらう患者は、検査づけ、薬づけの目にあうことがない。名医の行う検査は、彼の察知したことの確認の意味しかもたないから、必要最小限の検査しかしないのである。しかしこれが、三行しか見えない医者になると、話がまったく逆になる。彼には三行だけが見えてストーリーは見えていないから、ストーリーを確定するためにやたらと検査をすることになる。彼は、大量の検査結果のなかから、やっとストーリーを見つけだすのであって、そういう意味では、彼は患者を診ているのではなく、検査結果を診ているわけである。患者は目の前にいるのであるが、彼は検査の向う側に患者を見ているわけである。近代医療は、ことによるとそれを(それこそが科学的であるとして)目ざしてきたのであるのかもしれない。

 

 いわゆる学カテストにのみ拠る入学試験は、この近代的医療における検査に似て、受験者をその検査の向う側に置き、更に悪いことに受験者本人が絶対に見えてこない。なるほどその検査結果も受験者の一面であることはたしかではあるけれども、その結果からいかなるストーリーが読めるのかとなると、皆目見当もつかない。少なくとも、それ向きの資質があるかどうかはその結果だけからは読めないというのはたしかなことである。というより、大学で学ぼうとする人たちのストーリーの確認のための検査という目的がないままの検査:学カテストになってしまっているわけなのだから、そうなるのもあたりまえなのである。もちろん一定の学力が必要なことは認めないわけではない。しかし、私の係わる分野では共通一次試験の結果に加えて論述、口述・面接を加えているのだが、後者により私たちが得る判断は、必らずしも前者の学カテストの結果とは比例していないという事実は注目してよいことだと思う。論述や口述では、本人がはっきりと目の前に出てきてしまい、本人の意向・意志・意欲は、もちろん百%とは言えないけれども、確認することができるのである。私たちは彼がまとめた自分の考えを読み、わずかな時間ではあるが彼と話をし、その三行をもとにしていわば行間すなわち彼なる人物の全容:ストーリーを読むわけである。なかなか名医にはなれないが、しかし、共通一次の点が少々悪かったので偏差値の都合で芸術系の大学なら入ると指導されてきたような受験生は、たちまちにして見破られてしまう(大学で学ぶ目的をはっきり自分のことばとして言えないのである。大抵の場合、そういう彼は、これも多分そう言うように指導されたに違いない他人のことばをしゃべる)。論述・口述は、まともにつきあうと非常にくたびれるけれども、しかしいまのような受験産業専横の時代:偏差値信仰尊大な風潮に対抗するためには、論述・口述だけとは限らないにしても、いずれにしろ本人のストーリーを確認する手だてを講じるようにしようというのが、心ある同僚だちとよく話すことである。私の係わるところでこのような方法がとれるのは、受験者の人数が少ないからで、人によると受験者数が多いところでは効率の面で不可能であると言われてしまいそうだが、言うまでもなく、入学試験というのはただ早く効率的に選別できればよいというものではない。因みに、先日見たTVの報ずるところによれば、かのハーバード大学の入学者選定は学カテストには拠らず(実施しないのだという)志望者ひとりひとりに対しての面接を含む数ヶ月かけての調査に拠るのだそうである。もちろんこれが成立するためには、志望者はもとより、大学の側にもはっきりとした意向・意思・意欲が要求されることは言うまでもない。

 

ものごとの判断

 さきほど私は、近代的な医療は、近代的であり科学的であろうとして、検査結果という客観的諸データの向う側に患者を押しやってしまっているのではないか、と書いた。

 しかし、こういう風潮はなにも医療だけに限らず、いまやあらゆる局面で似たような傾向が表われているのではないだろうか。考えるべき対象を、いくつかの要素に分け要素ごとのデータの群と化す要素分析主義・客観データ主義が、合理主義の名の下に、あたかもそうすることだけが唯一科学的であるかの如くに思いこまれて、いたるところで横行しているように私には思えてならないのである。診察室に入ってきた患者を一目見て彼の状態を察知してしまうようなさきほどの名医は、良く言って名人芸、悪く言うと主観的判断に拠りすぎ客観的裏づけがなさすぎるとして、いま通常では歓迎されないだろう。入学試験における論述・口述試験も、いまもって、その判断に試験官の主観が入り客観性に欠けるとして疑問に思う人が少なくないらしい。

 だが、およそ人間が下す判断で、主観によらない判断というものがあるだろうか。判断するという行為の場面を考えるならば、診察室に入ってきた患者を一目見て判断することも、諸データを多種多様に収集した後におもむろに下す判断も、つまるところは主観によるものであることには変りはないのである。だから、諸データがある方が、あるいは諸データの量が多い方が客観的であると単純に思いこむことは、言って見れば迷信に近いことなのだ。諸データが自動的にある判断を示してくれるわけではないからである。かの名医とて、いいかげんにやまかんで判断をしているわけではもちろんなく、患者に見られるある状況を目にしてそのような状況を示すに到る過程:ストーリーをいくつか思い描き、そのなかから当の患者の状況にもっとも妥当と思われるストーリーを比定しているわけで、彼にとっては、諸データは既に言わば消化されているのである。おそらくそれは、彼の体験により培われたものであろうが、しかしそれは単に経験年数に比例しているわけではなく、彼が常にある現象を見てそれをあらしめるであろうストーリーを見るべくつとめてきたか否かにこそ拠るのだと言うべきだろう。

 逆に言えば、仮に諸データがいくら多量に集まろうが、それらデータをしからしむるストーリーの見通しがたたない限り、それらデータは言わば死語に等しいのである。しかも、そもそもこのストーリーというものは、そういったデータ化された諸要素を、それだけをつぎはぎして語られ得るものではなく、必らず諸要素の間のデータ化されていない言わば空白部分を補い埋めるという作業が必要なのであり、それは見る気がなければ(すなわち、ある見通しがなければ)決して埋められない。第一、「対象をいくつかの要素に分析してみる」ということ自体、それらの要素が言わば天から降ってきたかの如くあらかじめ存在していたわけではなく、「この対象はこれこれの要素の組み立てとして見ることができはしまいか」というある見通しの下の試みにすぎず、従ってその見通しは、あくまでも、そう見通した人の主観に拠らざるを得ないのである。なぜ彼がそのような見通しをたてたのかと言えば、もちろんどこかでそういう見通しを拾ってきたわけではなく、彼のうちに、その対象に係わる事象・現象の(部分ではなく)全体を不都合なく説明して見ようというがあったからである。そして、つまるところ、そのがなければ、見えるのはばらばらの事象・現象だけであって、ことの本質すなわちその事象・現象をあらしめているストーリーは絶対に見えてこない。名医の卵にもなり得ない。

 そして、もしもこの彼の主観に拠る彼の見通しが(少なくいまのところ)その対象に係わる事象・現象を全体として不都合なく説明していると思われたとき、その彼の見通しは(少なくともいまのところ)客観性のあるものとして扱われるのである。端的に言えば、生き生きとした現実に対して、その見通しが、それを損なうことなく対応している、生き写しである、との保証が(少なくともいまのところ)あるということだ。

 

 「客観」ということは、本来、このように一度必らず(それぞれの人の)主観を経過した、その向う側に初めて見えてくるものなのであって、決して(いまとかく思いこまれているように)主観と言わば対立した、主観の外側に存在するものではないし、そしてまた(これもいまとかく思いこまれているように)固定的にして絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものでしかないのである。かの名医をして名医たらしめたのは、なにも彼が天才であったからではない。彼が常に(彼の主観に拠る)見通しをもち、そしてその見通しを常に彼の目の前の生き生きとした現実にぶつけてみる、そして見通しを描き改める、そういう(考えてみればあたりまえの)体験をし続けてきたからなのである。常に生き生きとした現実を直視し、しかしそれにおぼれることなく、常に本質へ迫るべく見通しをたて、しかしそれを固定化し絶対視することがないゆえに、逆に彼は、その彼の主観の向うに客観的なるものを見透すことができるようになったのである。要は、彼には、その気があるからなのだ。考えてみれば、大学の入学試験というのは、それぞれの分野でそれなりのその気をもとうとする気のある人たちを探すことなのではないだろうか。その意味では、学カテストの点がそれに応えているとは言い難い。

 

ストーリーを知ろう

 だが実際にはいま、ここで記したような主観と客観の本来の関係はまったく誤解され、ある固定的、絶対的な客観というものが私たちとは別の世界に存在しているかのように、山に入って宝物でも探すように、探しまわる。それはむしろ、あてもなく、と言ってよいだろう。いつかは本命にぶちあたるとでも思うのか、あるいはそれらの群こそが本命をかたちづくるとでも思うのか、目に見えるもの、かたちをなしてとらえられるもの、すなわち数値化してとらえられるものが、それこそが、それだけが客観的なるものだとの思いこみのなかで、収集される。目に見えず、かたちをなさず、従って数値化できないものは、むしろ非合理のものとしてその存在を認められず、認められても不確定で客観的でないとして捨て去られる。さきに私が要素分析主義・客観データ主義と称したのは、こういう傾向を指したのだ。この傾向は一部の人だけではなく、多かれ少なかれ、ほとんどの人に見られるのではなかろうか。みながみな、「裸の王様」を目の前にしていても、データがないと、「裸の王様」と言わなくなってしまっている。逆に、データがあると、見えないものまで見えた気になる。そこに、全ての真実は、目の前にしているものにではなく、データの上にあるかの迷信が誕生する。それは更に、人をしてデータ集めに狂奔させる。悪循環である。と同時に、ますます、生き生きとした現実はデータのかげにかくれてしまう。データの群こそ現実かのようにさえ思われだす。たとえば、学カテストの偏差値がその人の能力の全てを表わしているかの、とてつもない誤解が正々堂々とまかり通り、文句も言えず、言わなくなる。生き生きとした人それぞれは、たった一片のデータのかげで、窒息しかかる。

 いったい、たった一片の、言いかえればたった三行の断片の文章で、しかもその字面だけによって、小説を読んだとする人がどこにいるだろうか。私たちは、小説を一通り読むことに拠って、その三行の意味を逆に知るのではなかったか。私たちに必要なのは、なにごとによらず、ストーリーを知ることであって、三行だけを知ることではない。ただ、私たちが現実に出会う場面は、できあがったある一つの小説の場面ではない。私たちそれぞれが、言わばそれぞれの小説をもっていて、ある同一と思われる場面も、それぞれの小説ではそれぞれ独自の場面に位置づけられるのだ。従って、私たちの出会う場面はいかにしたところでたった三行なのだが、それを理解しようとしてその三行だけをもって処することはもちろん、私の小説を押しつけることも、本来、できないのであり、どうしてもそこで、他の人の小説・ストーリーの存在を認め、またそのストーリーそのものをも推し測り、思い量るという作業が必要になる。そして、この作業はあくまでも私たち個々の主観に委ねられているのであり、他からは与えられるものではなく、また、それこそが真の意味でのコミュニケーションの根になければならないのではなかろうか。

 そして、この互いの主観を通しての作業の果てに、これまた真の意味での「客観的なるもの」の姿が見えてくるはずなのである。

 

あとがき

〇私がいま週に一度通っている工事現場を、たまたま訪れた人がいた。彼は、とても信じられないという口調で、現場監督がなってないときめつけた。場内の整理がなってないというのである。私はまた、それを聞いて、とても信じられないと思った。なぜなら、私自身は整理がなってないとは思っていなかったからである。たしかにその日、現場は見た目には乱雑に見えたはずである。というのも、その前日のかなり夜おそくまで、現場はコンクリートの打設で戦場のような忙しさであり、そのあとかたづけが未だに終っていなかったからである。つまり、私には整理まえの(あとかたづけまえの)乱雑として、彼には整理をさばった乱雑として、見えたということなのだ。

 もし彼が、その翌日この現場を訪れたなら、彼はきっと、まったく逆の感想を述べたにちがいあるまい。こう考えてみると、彼がもらした感想が、仮に事実にあっていたからといって、それをそのまま受けとってしまうのもまことに危険なはなしだということになる。なぜなら、それはたまたま事実にあっていたという可能性の方が強いからである。私は、なぜいま乱雑であるかを説明するのに(つまりストーリーを説明するのに)苦労した。ものごとが「分る」ということは難しいことだと思った。

〇私のところの大学院修士課程の講義には、社会のそれぞれの場面で活躍されている方に語ってもらう番組が組んである。いわゆる非常勤講師というかたちでお願いするのである。非常動講師をお願いするにあたって、当人の資格審査というのが行われる。履歴書と業績目録なるものの提出が求められる。昨年、ある町の行政マンを講師として申請したところ、だめだと判断されてしまった。業績がないからだという。私が彼を申請したのは、彼に、その町の各種の計画を実行に移した業績があるからだったのであるが、だめなのだという。なぜなら、彼が、その業績を論文等のかたちで世に発表していないからなのだという。私はいささかどころか大いにあきれかえり、数ヶ月にわたってかみついた。行政なるものの実績は、一々ペーパーで発表するものではなくそれはその町のなかに蓄積されるものである。こういうと、その蓄積が、いかに秀れたものであるかというなんらかの客観的データか、だれか有名な人のおすみつきがあるか、という。私が彼に語ってもらいたかったことは、その蓄積そのものではなく、そこへ到らしめた活動の課程についてであったのだが、あいにくそれはある定型をもったものでなく、つまり目には見えない類のものだ。数値化されたデータになるわけがない。まして有名な人たちなど、彼がなにをしてきたかなど、知るよしもなければその気もないのだから、おすみつきなどというものもあるわけがない。それよりもなによりも、行政マンというのは、名前をふりかざして表にしゃしゃりでるものではない。こういくら説明しても、まったく分ってもらえず、いまも闘争継続中。その人の履歴とは、本来の意味では、その人のストーリーに他ならず、つまり何をどうしてきたかを示すものなのだと、私は思うのだけれども、どうやら一般には、そこに書きこまれる字句そのものにのみ意味があるらしい。論文があるかどうか、その数がどのくらいあるかだけが問われ、それになんの意味があるかは問われないらしい。勲章の量がものを言うのは、なにも軍隊だけではないようである。

〇ふとしたきっかけで(ことによると思いつきにすぎなかったのかもしれないが)このような毎月通信をはじめてしまって、あっという間に二年間がすぎてしまった。なぜこのような言わばばかげたことをはじめてしまったのかと思う一方、もっと昔からやっておけばよかったとも思う、複雑な気持ちでいる。前者の気持ちは、自分のなかにおさめておいたってよいものを、なぜ他人までまきぞえにしなければならないのか(つまりなぜ他人に読んでもらおうなどと大それた気になるのか)ということに根ざした気持ちである。やはり自己顕示欲の一変形なのではなかろうか、などといろいろ考えてときおり自己嫌悪にもおちいりかねないから、あるところから先は深く考えないことにしている。もっと昔からやっておけばよかったという後者の気持ちは、人に読んでもらうかどうかとは別のところから来る思いで、要は、毎月いろいろ書いてみて、随分と学習もせずに長い時間すごしてきたものだということにあらためて気づいた言わば後悔の念に根ざすものだ。

〇いろいろと書いてみて、「これはこうなんだ」とかねて思っていたことも、いざそれを文章にしてみようと思うと(つまり、文章で説明しようとすると)そのかねて思っていたことが、実はあちこち穴だらけであったということに気づき、そんなに簡単には文章にならないということを、いやというほど味わった。「これはこうなんだ」と思いこんだあと、それをつめるという作業をもう長い間やってこなかった、ということにあらためて気づき、もっと昔から文章にしてみる、その思いを書いてみる、ことをしておくべきであったと思うのである。私の文章のなかに、「ふと考えると」「考えてみると」「そうなのだ、これはこういうことなのだ」的な書きかたが多発するけれども、これはほんとうに文章を書いているうちに「ふと考え」「そうだ、これはこういうことなのだ」と思い到ったそのままを書いているのである。ほんとうはこういう所は舞台裏にしまっておくべきなのかもしれないけれども、なにせぶっつけで書いているからこうなるのである。そしてそれは、もっと昔からやっておくべきだった。

〇もっとも、私のなかでは一方で、舞台裏をかくしてまとまったことだけを書くよりも、具体的な事象・現象を目の前に置いて、そこから思いを右往左往しながら展開するのも、かえってわるくない、とも思っている。場面を共有することを通じて、ことが観念的に走るのがふせげるのではないかと思うからである。

〇私がここに書き記していることは、具体的な事象・現象を目の前にしての、言わばメモのようなものである。こういうメモは大分昔、学生のころ、一度は書きつけたこともあった。それをやめて、随分と久しかった。その当時のそれといまやっていることの根本的なちがいはなにかというと、当時のそれはまったく個人的なおぼえ書であって全てそれは自分のなかで処理すればよかったのであるが、いまやっていることは人に読まれてしまうという条件が一つ決定的に加わるから、単なる思いつきのメモでは済まず、極力つめてみなければならないという状況に、私自身がおかれているという点にある。人が読むのだから呼んで意の通る文章にしたてなければならない。そうすればするほど、埋めなければならない穴がいっぱい見えてきて、尽きるところがない。そういう意味では、この二年間、ほんとうによく学習させてもらったと思う。もっともそれは、人に読んでもらうということに拠っているわけだから、はなはだ虫のいいはなしなのだが。

〇そして、虫のいいはなしだと思いつつも、ことしもまた続けてみようと思う。これも虫のいい話だけれども、ご意見、ご異見があったら、是非問い詰めていただきたい。

〇それぞれのご活躍を祈る。

         1983・3・29              下山 眞司


「第Ⅳ章ー3-A3広瀬家, 高野家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-01 13:29:05 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A3,4」A4版8頁

 

A-3.広瀬家住宅  17世紀後半   旧所在 山梨県 塩山市 上萩原  現在 日本民家園(川崎市 生田緑地内)

修理前の南面   

修理前の間取り(平面図)               写真・間取り図共に日本建築史基礎資料集成 二十一 民家 より

 

 屋根の一部を突き上げて中二階を設け蚕室にしていた(突き上げ屋根)。突き上げ屋根の建屋は、この地域の特色。 

 

 甲府盆地の東北部、笛吹川沿いの丘陵地、勝沼塩山周辺には、茅葺の切妻屋根の農家が多い。一帯は養蚕が盛んな頃は桑畑、現在はブドウ畑になっている。

復元平面図               

 出入口は大戸口一箇所のみ。四周は土塗り真壁で囲われている。いどこは土間に直接莚(むしろ)が敷かれていた。ざしきなかなんどおくなんどは、大引を転がし根太を掛け板張り。 そのため、床高は低い。

復元桁行断面図                 平面・断面図共に日本建築基礎資料集成二十一民家より転載・編集

 

 黄色に塗った柱が構造的には主要な柱:上屋柱。丈が高く、中途に差物が入る。 ただ、東妻面と、いどこなかなんど境では、中間に柱が立ち、ともにまで達する棟持柱となる(橙色の柱)。

 一般には西妻面も棟持柱とするが、広瀬家では次写真のようになかなんどざしき境の柱となかなんどおくなんど境のを結ぶ差物上の束柱で受けている(西妻面写真参照)。

木材材種:大半がクリ、 側柱 径:見付3寸~5寸 不整形、 上屋柱 径:約5寸~8.5寸角 不整形 、いずれも土台はない。

仕口 上屋柱~梁:折置  繋梁~側柱:折置  繋梁~上屋柱:枘差し鼻栓  中途梁・差物~柱:同上

 註 旧所在地では、東面していたが、民家園に移築の際、南面に変更。ここでは、移築後の方位で記している。

  

 

南面                                     日本の美術№287より

 軒がきわめて低い。 土塗り壁は、縦小舞をからげ、横小舞を添えて塗っている。 壁の下部は、柱間に地覆を渡して収める。必要に応じ下地窓を設けている。

 

西妻面     差物上に棟持束柱         日本建築基礎資料集成二十一民家より 

 

 

南~東面  東面中央のが棟持柱                日本の美術№287より 

 

 

いどこ~ざしきを見る           内部写真は日本建築基礎資料集成二十一民家より                 

 

 

どぢ~うまや     上屋柱間差物棟通りを立てるを受ける。

復元梁行断面図               日本建築基礎資料集成二十一民家より転載・編集    

 橙色を塗ったは、いどこなかなんど境の棟持柱平面図に対応)

 

 この架構には継手はなく、横材は、すべて仕口枘差し鼻栓渡り腮)で組立てられている。いずれも手の込んだ細工を必要としないが強度的には確実な仕口である。

 外見は一見素朴・稚拙に見えるが、架構の構想は、使用材料のクセを勘案しつつ、立体として緻密に練られている。 たとえば、下図梁行断面図に見られる棟持柱へのの取付け位置の段差や、差物鴨居)と繋梁の段差などは巧みである。

 

 

参考 高野家(甘草かんぞう屋敷) 18世紀後半  所在 山梨県 甲州市 塩山 

南面全景  中央線塩山駅前にある。                    日本の美術№287より            

 甲府盆地の東北、塩山、勝沼周辺には、棟持柱を多用した切妻屋根で、一部屋根を突き上げ、中2階あるいは3階を設ける事例を多く見かける。先の広瀬家は、その原型。

 

日本建築史基礎資料集成 二十一 民家 より転載・編集

 

 当初は茅葺が主だが、明治以降、瓦葺に変わる(茅葺の改築によるものと新築の双方がある)。いずれも、江戸時代後期以来この地方で盛んになった養蚕にともなうもので、中2階以上は蚕室に使われた。

 高野家は、有数の甘草栽培農家で、中2階以上は、養蚕ではなく甘草の乾燥場として使われた。甘草屋敷の名は、そのためである。

 建物は3階建て、平面図の印を付けた柱は棟持柱。 土間に立つ太い柱は3階床までの柱で、先端の二股部で桁を受けている(次写真参照)。 棟持柱の南北両側にを設け、側の管柱で受ける構造形式。

  

東妻面                        日本の民家2 農家Ⅱより

 棟持柱から両側にが飛び、管柱で受ける。 各層の梁~梁の横材は 近在には屋根を二階までとして、バルコニーを設ける例もある(瓦葺に多い)。

  

3階内部                       滅びゆく民家より

 棟持柱の四方にが差される。 斜材は、架構の桁行方向の歪み直しに入れられたもので、突っ張り棒と呼ぶ方が適切だろう。

 

 

2階内部                                 日本の美術№287より

 自然の二股で3階床のを受けている。

 

(「第Ⅳ章ー3-A4高野家」に続きます。) 


「第Ⅳ章ー3-A4富沢家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-01 13:28:28 | 「日本の木造建築工法の展開」

(第Ⅳ章ー3-A3より続きます。)

 

A-4.富沢家  1790年(寛政2年)頃  所在 群馬県 中之条町 大道

 榛名山の北側の町、中之条から、三国街道(国道17号)湯宿へと抜ける街道の大道峠の手前に位置する標高約650mの新開の農村で、養蚕が主な生業であった地域。

 富沢家は、新開の頃から当地に住みつき、運送業も営み(うまやが4房あるのはそのため)、享保頃以降は名主を務めている。

 

南側全景                                   日本の美術287より  

2階平面図 

1階平面図

桁行断面図                     平面図・断面図共に日本の民家1農家Ⅰより 数字は編集

 梁行約7間の入母屋屋根の南面を切り上げてできる2階のほぼ全面を蚕室に使った梁行断面図参照)。2階の高さはきわめて高い。 

使用材種 土台:クリ(外周部のみ) 柱:土間まわり クリ  座敷まわり スギ   梁:クリ、マツ 桁 :マツ、スギ、カエデ   又首:マツ

材寸:矩計図参照  土台:120×133(4寸弱×4.4寸) 柱:座敷まわり 4.3寸角  土間まわり 7~8寸角(推定)

梁行断面図 上:居室部分 下:土間部分   

 

  

矩計図(座敷部分)        断面図・矩計図共に日本の民家1農家Ⅰより 

 間仕切部の礎石建て、外周の土台に立つ。  

   

土間から居室部を見る                         日本の民家1農家Ⅰより  

     

 

  

註 図に付した番付は説明用で、実際の番付ではない。  平面図・断面図は日本の民家1農家Ⅰより転載・編集    

 平面図の赤丸を付した柱は2階小屋梁までの通し柱。   

 上掲写真の土間中央右の柱は二・ほ通し柱。 この柱に上下2段のが差口で納まる。上段の梁は根太を受ける。

五・ほ」の柱は管柱で、頂部のに、上段のが載り、そのまま伸びて出梁となる(下写真参照)。下段のは、五・ほ差口で納まる。

この上下2段のは、写真・梁行断面図のように、桁行方向四通りは~と間のを挟み、に、へ通りでは、この上に根太受けが架かり、これも出梁となる。したがって、土間の上部は、格子状にが組まれていることになる。

 

  

                                     日本の民家1農家Ⅰ 

 桁行方向の東端では、は通り通し柱2階床桁を差口で納め(上右の写真)、小屋束立組又首を受ける台の載るは、さらに伸びてうまや上の束柱で支える。 うまや部分の2階床は、他より一段低く、は通りの差物飛貫)レベルに設けられ、飼料の倉庫に使われた。

 

 ざしき~おくり 梁行断面図 

 ざしき 西~北  天井の四通り      カラー写真は日本の民家1農家Ⅰより

 

  なかのでい 桁行断面図

   なかのでい~上段

 

 2階 キープラン 

 2階内部 視点から

 2階の三通りは、又首を受ける陸梁の北端の通りで、で縫われた柱が並ぶ。写真Aの囲いの箇所はざしきの囲炉裏の上部にあたる。蚕室を暖めるため。

 

2階内部 視点から                  日本の民家1 農家Ⅰより

 主部は簡単な仕口だけで緻密に計画されている。

 


1982年度 「筑波通信№12 建物は、雨露さえしのげればよい か」 前半

2019-09-24 11:51:06 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №11」1983年3月 A4版16頁 

   「筑波通信 №12」 1983年3月

       建物は、雨露さえしのげればよい  か

小学校変じて工場となる

 二年ほど前であったか、上州の山あいを、気のむくままに車でめぐり尋ねたことがあった。夏の終りの暑い日の昼下りではなかったかと思う。空が、都会の空とちがって、抜けるように晴れあがっていたのを覚えている。ひと休みしようかと思っていたところ、谷あいの小さな村、というより集落にさしかかった。私は小さな谷川沿いの道を下ってきたのだが、そこで、別の道が同じように別の小さな川に沿って下ってきて合わさっている。いわゆる落合と通称される所である。前方に、見るからに村の社が在ると分るこんもりと茂った木々が見え、それに隣りあって、これも見るからに小学校だと分る木造の、昔懐しい形の小さな建物が在り、校庭はいい具合に木かけとなって涼しそうだ。校庭には大人が数人いるだけで子どもの姿は見えない。きょうは日曜だったな、そう思いながら、あそこでひと休みさせてもらおうと決め、車を乗りつけた。

 学校は家並みよりほんの少しだが高みに在り、別天地のように涼風がそよぎわたっていた。大人たちは麦わら帽をかぶったお年寄りたちで、ゲートボールに打ち興じていたのであった。校舎の軒先きのくつぬぎ石に腰を下しひと息入れ、あたりを見まわすと、光景は明らかに私の見知った学校そのものなのに、なんとなく学校らしくないにおいがある。これも昔の学校でよく見かけた石づくりの門柱にかかっている表札をあらためて見なおすと、なんとここは学校ではなく工場であった。〇〇縫製工場。つまりいわゆる既製服を仕立てる工場である。しかし、どうもにおちない。もう一度あたりを検分しなおして合点がいった。ここは、元小学校、いま縫製工場なのだ。工場の表札の下に、門柱に埋めこまれた〇〇小学校という表札がかくれていた。おそらく、学校・分校の統廃合策の結果(戦後の一時期、地方行政の合理化策の一環として盛んに行われた)廃校となったのだと思われる。この近くのどこかにコンクリートのかたまりみたいな新しい近代的な学校が建てられ、子ども達は合理化に協力していままでに倍する距離を通学しているにちがいない。この工場は、いわばその跡地利用なのだ。村の婦人が子どもに代ってここへ通い、多分自分たちは手に通すこともない服などを仕立てているのである。都会でもてはやされるいわゆるブランド品の多くは、こういうような地方の小さな工場で生産されるものが多いのだそうである。それにしても、学校の校舎をほとんど改造もせずに縫製工場に転用するとは、なかなかの知恵者がいたものである。工場といっても、裁断のできる広さとミシンなどが置ければいいのだからたしかに十分用が足りる。仮に新規に工場をつくるとしても、この建物と同じように、大きな室がいくつか用意されていればこと足りる。そして、元の校庭は、工場としてはそれほど利用の途があるわけでもないから、村の人たちの利用にまかせ、お年寄りたちがゲームに熱中していたわけなのである。

 しかし、そこが私の予想に反し学校ではなく工場であったことは、私のなかに、かなり強い異和感とでも言うべきもの(ふにおちないこと)をわきおこらせた。

 

それらしい建物

 いったい、谷沿いの道を下りながら前方に見えだした建物を見て、直ちに私が「あれは学校だ」と思った(思いこんだ)のは何故だったのだろうか。

 一つその理由として考えられるのは(そして通常一般的に考えられそうなことでもあるのだが)、私が前方に認めた「建物の形」が、見るからに「学校らしい形」をしていたからだ、というものである。

 たしかに、私たちは町なかを歩いていたり、車窓から移りゆく外の景色をながめているようなとき、ある建物が目に入ると、大体その用途・建物の種類(学校だとか役場だとか病院だとか・・・・)を推定することができるように思えるし、あるいはまた初めて訪れた町で、ある(用途の)建物を探すようなとき、私たちは知らず知らずのうちに「それらしき建物」を目で追っているようにも思える。これはなにも私のような建築に係わりをもつ職業の者にだけある習性なのではなく、普通の人たちでも同じだろう。実際、晋通の人たちも、ある用途の建物に対して「それらしい形」「それらしいつくり」をあらかじめ頭のなかに描いているのではないか、そう思えるような場面にぶつかることもしばしばある。

 たとえば、このごろはそれほど目にはしなくなったけれども、ある建物が新築されたことを紹介する新聞記事などで、「ホテルのような」〇〇という形容が使われることがよくあった(いまでも地方新聞などでは見かけることがある)。ちょっと見に、いままでのその種の建物らしくなく豪華である、などという場合の形容に使われるのである。使う人はそれほど深い考えがあってその形容句を使ったわけでもないだろうが、その根には、(たとえば)「建物で豪華なのはホテルである」という認識と、「その種の建物というのは本来かくかくしかじかのものだ」という認識(しかしいま目の前にしている新しい建物はその認識にあてはまらない)が在るからだと見なしてよいだろう。私自身が係わった建物でも、「学校らしくない」学校を形容するのに、「鶏小屋のような」とか「工場のような」とか言われたことがある。おそらくこの場合は、その場の場景描写の形容のためはもとより、そこでなされている教育が質の一定のブロイラーや画一的製品を大量に生産しているという皮肉がこめられているわけでもなく、まったく単純に日ごろ見慣れていた鶏小屋や工場の建物の形に似ている、という意昧が強いだろう。最近係わった上州・妙義山ろくに建った住宅の場合には、それがちょうど妙義山への道路に面していたからなのだろうが、工事中、通りすがりのドライバーが、なんだドライブ・インじゃないの、とか、いつ開業するのか、とかしょっちゅう大工さんたちに尋ねたそうである。なるほどね、と思いつつもやはり苦笑せざるを得なかった。住宅だと判ると大抵がっかりするのだという。よほどドライブ・インらしく見えたにちがいない。 こういった例をいろいろ思い浮べていると、ますますその建物(の用途)なりの、たとえば「学校の形」「ドライブ・インの形」というものがあるのではないか、と考えたくなってもおかしくないように思われる。

 だが、私たちはほんとうに建物をその形によって、それだけによって判別しているのだろうか。

 

場ちがいということ:場景の判別

 私たちは、私たちの経験を通して(だろうが)、学校だとか工場というものについて、一定の知見を持っている。これは確かなことである。そういった「ことば」を目にしたり耳にするだけでも自分の知っている工場や学校の姿を頭のなかに描くことができることが、それを証明している。しかしそのとき、私が頭のなかに描くものは、学校、工場という建物そのものの形だけであろうか。 

 そこのところをもう一度考えなおしてみると、そういった「ことば」によって私たちが頭に想い描いている(あるいは、そういった「ことば」に託している)ものは、決してその建物そのものだけではなく、むしろその建物自体を合んだある場景の姿なのだ、ということに気がつくはずである。つまり、「工場」[学校]ということばによって、私たちは、ある場景のなかにある工場や学校(の建物)を直ちに頭のなかに描いているということである。けれども、ここで場景と書いたが、それは決してある具体的なそれとは限らない。ある具体的な特定の場景が頭のなかに浮びあがらないわけではないが、むしろそういったことばによって具体的に特定し得るいろいろな個々の場面の場景を越えた、それら個々の例を統べるそのことばに最も相応しい(と思われる)場景を描いているのである。その意味では、場景というよりも情景と書く方がより適切なのかもしれない。私たちは日常的に実に多種多様な場面に遭遇するわけなのだが、私たちはそれらの場面の場景を(便宜的に)括り分ける。それにそれぞれある名前をつける。その一つとして「工場」や「学校」ということばがあるのだから、逆に言うならば、ここで「個々の例を統べる場景:情景」と書いたことは、「工場」とか「学校」ということばに(私が)託している概念の姿だと言ってよいだろう。

 そして、更に詰めて考えてみるならば、ある建物を、それが工場であるとか学校であるとする(私たちの)判別は、たしかにその建物の形自体によることもないわけではないが、むしろ、そのある建物が在るその背景をも含んだある光景:先のことばで言えば場景(あるいは情景)そのものによることがより大きいのではないかと思われる。

 だが、この光景あるいは場景・情景というものは、建物のような物として固定し得るものではないから、それをことばによって示すとなると、どうしても(便宜上)ことばとして置き換えることの容易な固定できる物:建物が前面にしゃしゃりでてくるのである。そして、実はその物に対応していることばに、その係わる諸々の場景:情景をも付託されていたのだということが、とかく忘れ去られるのである。その結果、私たちはもともと固定できる物だけを見ているのだ、あるいは、ことばというものはある物的に限定できる対象に対応しているのだ、というような誤解が生じるのではなかろうか。

 

 七面倒な言いかたはやめよう。要するに私たちは、工場、学校という判別を、場景をもって察しているのだ、ということだ。私たちが(あらかじめ)工場や学校ということばで知っているものは(言いかたを変えれば、私たちが経験を通じて身につけている知見というものは)、それぞれの用途の建物(すなわち、それぞれの建物での人々の生活に他ならないのだが)の持つ特有の場景:情景なのである。もっとくだいて言うならば、私たちはたちどころにそれなりのふんいきを察知しているのだ、いうことである。

 たとえば、木造の切妻屋根の長屋状の建物というのは、一昔まえなら学校・工場・兵舎・病院・・・・といったようにいろいろな用途の建物としていたるところで見られたものである。だからといって、建物の形が同様であるゆえに、それらの用途の判別が私たちにまったくできなかったかというと、そんなことはなかった。その建物のまわりにただようふんいきによって、私たちにはたちどころに、これは学校、これは工場、といった具合に見分けがついた。場景によって察しがついたのである。

 現代の建物ではどうか。たとえば鉄筋コンクリート造のビジネスホテルと独身者寮。これは大抵形としてよく似ている。かといって私たちがそれを見まちがえることはまずない。ある繁華な駅前に、そういう形の建物があったとしよう。人は決してそれを独身者寮とは見ないはずである。なぜなら、そのようなことはまったく場ちがいだと思うからである。つまり、それぞれがあるべきを知っているから場ちがいだと思うのだ。

 以上書いてきたように、ある建物を見て私たちがそれを〇〇だと判別するのは、どうやらその建物の在る場景によるのであるらしいということが分ってきた。

 ところで、先に例として挙げた木造の切妻屋根の長屋を見て、それを個人の住宅と見ることはあるだろうか、あるいは、あの独身者寮的建物を見て、幼稚園だと判別することはあるだろうか。そのようなことはまずあるまい。前者においては長屋の住居と見ることはあっても個人の住居とは見るわけはなく、後者にあっては、ことによると、倉庫や工場かもしれないと思うことはあっても、決して幼稚園とは思わないのである。これはどういうことか。これがすなわち、先に、「(建物の用途の判別は)その建物自体によることもないわけではない」と書いたそのなかみに他ならない。つまり、私たちはある建物の姿格好:つくりを見て、そういった建物において展開し得る生活(の場面)を、おそらくそれも私たちの経験を通してであろうが、知っているからなのである。すなわち、私たちは私たちの生活の各場面のありよう、(生活の)場面の場景を十全に知っているものだから、ある建物を見ると、たちどころにそこであり得る場面を思い描いてみることができるのである。

 いま、私たちの生活の各場面の場景は・・・・という言いかたをしたけれども、この場面は具体的に物的にその境い目を明示できるわけではない。その場面を何らかの名前をつけて呼ぶことはできても、その名前に対してある概念がいわば物的に限定あるいは固定されて対応しているのではない。

 しかし、そういう性格を帯びている私たちの生活のある場面の場景の一部に限ってそれを物的に限定してみることは、できないことではない。そして、その物的に限定し得たものを、私たちは「建物」と呼んでいるのではないだろうか。建物は、私たちのある生活の場面の場景の、そのまたほんの一部を物的に固定してみたにすぎないのであり、当然そこだけがそのある生活の場面の全てではない。「学校の建物」が学校(という生活)の場面となる全てではない、ということである。

 こう考えるならば、ある建物を見て私たちがそれを〇〇だと判別するのはその場景による、という言いかたに全て含まれてしまうと言ってもよいだろう。

 

 また七面倒くさくなってきたから、ここでいままでのことをまとめてみよう。

 私の前方にある形をした建物が見えてきた。それからあと、私が「あれは〇〇だ」と判別するまでの過程を図式的に言うと、およそ次のようになる。すなわちまず、そういう姿格好の建物において展開し得ると思われる(それを場面とし得ると思われる)生活の全て(と言っても、その「全て」は私の経験と経験に基づく類推との積み重ねによる全てにすぎず、従って相対的なものなのだが)を頭のなかに拡げてみる。次いでその建物を含むある場景全体を見て、そこを場面として成立し得る(そこで行い得る)生活を、先に拡げておいた生活群のなかから選びだす。そして「あれは〇〇だ」あるいは「あれは〇〇か〇〇だ」あるいはまた「あれは〇〇のような類の(用途の)建物だ」との判断をくだすこととなる。もちろんこれはあくまでも図式的に示してみたにすぎず、もとより私たちがこのようなまるでコンピュータにかける手続きのような手順でことを進めているわけでもない。ここまでの判断を、(普通の人なら)瞬時にしてやってしまう。そしてまた、ある場景においてあり得る生活の全てを拡げてみる、というとき、その「あり得る」との判断は、たとえば学校教育によって教えられたものではなく(また教えられるような類のものでもなく)、まさに、私たちそれぞれの経験によるのだ、としか言いようがないだろう。つまるところ、その根本的な判断は、私たちそれぞれの「感性」の所業なのである。

 私たちそれぞれの[感性]に判断が委ねられている。などと言うと、いま大抵の場合、ひんしゅくをかうことになっている。それでは個人の主観的判断ではないか、客観性に欠ける、と。この見かたが誤りであることについては、いままでもときおり書いてはきたが、いずれそれ専業に書いてみたい。いずれにしろ、現代というのは、私たちそれぞれの「感性」に自信をもたなくなった時代、私たちそれぞれの「経験」をもないがしろにしたがる時代であると私には思える。考えてみれば、私たちの「経験」は、私たちがそれを意識しているかはどうかは別として、私たちそれぞれの「感性」に拠っているのである。

 

 かくして、私があの元小学校・現縫製工場で感じ異和感も、そしてあの妙義山ろくの住宅に対してのドライバーたちの誤解も、無事(理屈の上で)説明がつく。(理屈を言うまでもなく明らかなことなのだが。)

 要するに、前者においては、それが工場であるということが、(私の経験によれば)その場景にそぐわない、つまり場ちがいである、との思いを私に抱かせたからに他ならない。なるほどたしかに、あの建物自体は部分的場景としては縫製工場のそれにもなり得るかもしれないが、その建物を含んだ全場景は、決して工場の場面にはなり得ないと(私には)思えたのである。あの場所には工場は似あわない、ということだ。そして、逆な言いかたをすれば、あの建物を工場に転用した知恵者は、建物だけを見て、その建物の在る場景に対しては目がゆかなかったのであり、従って、そういう建物であるならば、それがどのような場所に在ろうが一切構わず工場にする、という考えが根底にあったと見なしてよいだろう。その意味では、この知恵者は、はなはだ近代的な思考法の持ち主であったと言うべきなのかもしれない。なぜなら、近代的な建物では、まずそのほとんど全てにおいて、建物だけが考えられているからである。

 後者のドライバーたちの場合は、その誤解はむしろはなはだ好感のもてる素朴な誤解であるように私には思える。その建物は切妻瓦屋根の平家建で、れんがを多用し、その玄関先がかなり広くとってある。建物だけを限って見れば、住宅ともドライブ・インとも、はたまたちょっと気のきいたモーテルと見てもおかしくはない。ドライバーたちがそういった可能性のなかからドライブ・インを選択したのは、彼らの進行方向に観光対象としての妙義山がでんと構えていたからである。つまり、その建物を含んだ場景が(彼らの立場からすると)彼らをしてドライブ・インと判断させたのである。彼らにとってその判断はまことに真実そのものだったのだが、しかし事実はちがっていて、そして彼らはがっかりした、というわけなのだ。そういう意味では、彼らの判断は(従って、そういう判断を彼らにさせた彼らの「感性」は)素直にして健全なものだったと言うべきなのかもしれない。

 

生活の場面と場景:建物は「生活」を容れる「器」か

 筑波に住むようになってから、いわゆる田舎の風景により強く魅かれるようになった気がする。以前からきらいではなかったのだが、ここを拠点にしてあちこち動きまわるとき、そういう風景を見ないで済ますわけにはゆかない、そういう環境にいるせいなのか、自分でそんなことを言うのもおこがましいのだが、そういう風景を見る目が肥えてきたようで、それとともに魅かれかたもまた強くなってきたらしい。もちろんここで私が風景と言っているのは、単に絵にかいてきれいな風景というような意味のそれではなく、この文で使ってきた場景ということばの方が適切なのかもしれない。いずれにしろ、私か忘れかけていたいろいろなことをあらためて考えさせてくれるきっかけをそれは私に与えてくれ、それが多分また私を強く魅きつけるのだろうと思う。

 そういう経験を通して最近つくづく思うのは、都会や新興の開発地で見かける建物には、どうしてああも多種多様な形があるのだろうか、ということである。

 住居をひとつ例にしてみても、そこで見かけるものは、まずことごとく異なった形をしていると言ってよいだろう。それはなにも個人の住居に限らず、このごろでは、これまでほほ画一的であった公営の集合住宅までもがそうなりだした。私の住む研究学園都市の公務員住宅など、実にもう数えきれないくらいの形があり、当然その形に応じて一戸の室割りも異なってくるのだけれども、なぜそのように異ならなければならないのか、その必然性は私にも皆目分らない。それにもまして最近の公営住宅では、傾斜した屋根にして、瓦をのせ、でこぼこを設け、あるいはジグザグぎくしゃくさせる、といったようなつくりのものが増えてきた。おかけで、形はますます多種多様にしてまた複雑(そして怪奇)となる。

 これは、これまでの画一的なつくりかたへの反省の上にたち、形やその建物の外側にできる場所の単調さを救い、一戸一戸に個性とプライバシイを与え、コミュニティを形成させ易くし、それにより人間味のある居住環境をつくりだすべく、地域の伝統をも踏まえて考えだされた、のだそうで、いまやお上のお墨付ももらい全国的に流行りつつあるらしい。

 しかし、多分もうこれに類似したやりかたの住宅群はあちこちで見られるようになっているから、機会があったらのぞいてみてほしい。そこで私たちの目に入ってくるものは、あたかも私たちの目を傷つけんばかりに、これでもかこれでもかと次々にとびこんでくる建物の角々だ。それぞれに競って見えたがる複雑な形をした物たちは、まるでそれを目的としているかのように私たちのなかに、どうしようもないほどのいらだたしさだけを積みあげてくれる。そして、そういう場景が、つきることなく単調に続くのである。その意味では画一的でさえある。これはもう個性とか人間味とか言う以前の問題である。そしてそういう場景は、少なくとも私の「感性」に拠れば、決して人の住まいの場景とはなりがたく、もしも自由に意のままに住まいの場面を選ぶことができるのならば、私はこれを選はないだろう。こういうような場景にはいったい何がふさわしいのかいろいろ考えてみたけれども、遊園地のビックリハウスぐらいしか思い浮かばない。だが、こういう場景を、自由に意のままに選ぶことのできない世のなかであることをよいことに、住まいの場景とするというのである。暴挙である。おそろしいことである。これが反省の結果ならは、その反省自体を疑いたくなる。そして、それにもましておそろしいのは、こういうやりかたが、これまた画一的に全国的に押しすすめられつつあることだ。こういうやりかたの住宅群は、学園都市のまわりにも現われだしている。

 学園都市のへり(もとからの村や町との境)を歩いていると、学園都市内に建つ、いま書いたような住宅群をはじめとする近代的な建物を遠望することができる。目を反対側に向ければ、そこには、いまは大きく変りつつあるがそれでも昔ながらの面影を残すもとからの村々のたたずまいを見ることができる。つまり、そこにたつと、近代的なるものと旧いものとを、同時に対比しながらながめることができるわけである。

 私はそこから、あの近代的先進的な都市の建物群を見ていて、いつもふと思う。あの建物群は、たとえばあの住宅群は、たしかに住宅以外のなにものでもないが、どれもみな、住宅でしかないな、しかも、あるきわめて限定されたパターンでしか対応できないな、ことによると一代限りだな、と。そこで目にする場景には、私に、あれもあり得る、こうもあり得る・・・・と、いろいろな(生活の)場面を思いおこさせるようなところがなにもない。ある場面だけ、それしかないのである。そこに物的に設定されてしまっている場景は、ある限定された生活の場面にしか対応できないのである。逆に言えば、ある限定した生活の場面を物的な場景により固定している、ということに他ならない。あの住宅群のなかに立ち入って私が感じるいらだたしさは、多分、この第三者の手により設定されてしまった生活の場面に自らをはめこまなければならない息苦しさからくるものなのだろう。私は、手とり足とりされて、第三者の意のままに(自らの意のままにではなく)動かないと、十全にそこでは暮せない。もちろん(やむを得ず)そこに住みつけば慣れるだろう。しかしそれは、場景を見ての私の判断によるのではなく、いろいろな苦き経験の結果身についてしまった言わば条件反射的行動にすぎないのである。

 おそらくこのようなことを書くと、建物を建てる以上、そこで行われる生活の場面を限定せざるを得ないではないか、と言われるかもしれない。実際、いま普通に、建物というのは生活を容れる器である、という考えかたが強いから、それに従えば、器に容れるもの、つまり生活が限定されなければ器自体をどのようにしたらよいかが決らない、と考えてもおかしくない。そして、近代的な建物は、なにも住宅に限らず、そのほとんどがこの考えかたに則ってつくられてきた。その意味では、先に書いた、住宅が住宅でしかないというのは、そういう考えかたの当然の帰結であって、むしろ模範的解答なのだといってよい。そしてその延長上に、建物はその建物の用途なりという意味での「らしい」形が生まれ、つまるところ、建物の用途(建物名称)別に別の形があって当然ということになる。容れるものが異なるのだから、それをおさめる器が異なってきて当然である、という論理そのものには一点の非のうちどころもないから、だれもがそれをうのみにしてしまう。だれもが、たとえば、図書館活動は図書館という独自の建物を必要とする、あるいはそのあげくのはてに、図書館という建物がないとよい図書館活動は期待できない、などと思いこみ、更にそのはてには、(よい)図書館(の建物)をつくることが図書館活動であるかのようにさえ思うようになる。ここに示したさいはての現象が、いま各地で盛んな文化施設づくりに現われている。 

 どうしてだれも、この論理の前提に疑いの目を向けないのか、私には不思議でならない。

 

建物の使い分け

 さて、ひるがえって旧くからある村々の方を見てみよう。その光景はいま見てきたあの近代的な建物がおりなすにぎやかなそれに比べて、ため息がでるほど静かで単純だ。同じような屋根、同じような形の建物、同じような森‥‥、ある意味では画一的だと言ってもよい。そのなかできわだって形の違いを見せているのは、新興成金の家ぐらいのものだ。これが以前「蔵のはなし」(1981年12月)で紹介したような村であったならば、そのようなことさえないだろう。あのとき、その村では蔵がとりわけ目立ったと書いたけれども、その目立ちかた(というより私の関心をひかせたもの)は、この新興成金の家のような形の主張によるものではなかった。そこでは、蔵とてもどれも同じ形同じ屋根であった。

 だからといって、そこで私が目にしているのが、単調で個性がなく画一的な場景であるかというと、既に「十人十色」のはなし(1982年4月)のときに書いたように、そのようなことはない。むしろ、そこで私が目にする場景は、先に書いた近代的なそれとは違い、私にいろいろな生活の場面の可能性を想起させてくれるという意味で、非常に豊かな示唆に富んでいる。そこにあり得る(あって然るべき)生活の場面はこれこれである、というが如き限定・固定はそこにはない。近代的な建物の多くがそうであるように、その用意された器にのみ適合した生活:だれかの手になる「期待される生活像」に我と我が身をあてはめる必要はない。

 そして、よく考えてみると、少なくともある時代までは、村々でも町々でも、たとえは大人たちの寄り合いのための建物も子どもたちに読み書きを教えるための場も、とりたててそれぞれなりの別の形をした建物であったわけではなく、同じ形の建物で済まされていたはずである。更にさかのぼれば、社でさえ普通の家の形をしていた。つまり、同じ形の建物が、異なる用途に使われていたのである。

 それでは、その用途、すなわち使い分けは何に拠っていたのだろうか。明らかにそれは、その(同じ形の)建物の在る場景に拠っていたのである。おかれる場景により、そこであり得る生活の場面が異なることを人々は知っていた。だから逆に、ある生活の場面のために、ある場所を選び、建物は同じ形で済ましていたのである。彼らは場ちがいということを知っていた。彼らなら、社のわきの元小学校を工場として使い分けようなどとは思わなかったにちがいない。そして、もしも既存の場景のなかに、自分が求めている生活の場面が展開し得る場景が見出せなければ、彼らは既存の場景に手を加え、それに相応しい新たな場景にしてしまうことさえいとわなかった。「屋敷」の造成などはたとえばそのよい例だろう。しかし、そこに建つ家は、まわりにあるのと変らない同じ形の建物なのである。

 

 さて、私は近代的な風景と旧式な風景とを、幸か不幸か同時に見わたせる学園都市のへりにたち、いろいろ考えてきたのであるが、どう考えても私には、この旧式なやりかたの方が理にかなっている(つまり合理的である)ように思えるのである。ところが、その線で考えをつめてゆくと、実はその先に(既にある程度は見えているのだが)ある意味では私自身驚くような、とんでもないある一つの言いかたが見えてくる。すなわち、「(そうであるならば)建物は、雨露さえしのげればよい」のではなかろうか、と。

 

(「筑波通信№12」後半へ続きます。)


1982年度 「筑波通信№12 建物は雨露さえしのげればよい か」後半

2019-09-24 11:50:35 | 1982年度 「筑波通信」

(「筑波通信№12」前半より続きます。)

 

建物は、雨露さえしのげればよいか

 「建物は、雨露さえしのげればよい」という言いかたは、以前の私であったなら、少なからず反発を感じたであろう言いかたであった。これは、多くの場合、「(だから建物なんて)どうでもいいんだ」と言うのと同義に私にはきこえたのである。またそれを言う人も、ほとんどの場合そういう意味で使っている。どうせお金なんかかけられないんだから、と。つまり、逆に言えば、金さえあればちゃんとした家にするぞ、という意味が言外に含まれた言いかたなのである。そしてそれ故に、そういう意味での「雨露さえしのげればよい」という言いかたに好感がもてなかったのである。どうでもいい、なんてとんでもない、金高の問題ではない、そう反発したのである。

 だがもちろん、ここで行きついたこの言いかたの意味は、このような意味ではなく、もう少し本質的な意味をもつ。

  「雨露をしのげればよい」的な言いかたはいつごろからあるのかと思い、ふと思いついて、久かたぶりに「方丈記」などひっぱりだしてみた(多分高校のころ以来である)。その昔読んだときには、ある種のにおいが感じられて好きになれなかったのだが、今回はそれほどにおいを感じないで読めた。私が歳をとったせいか、それともその昔の私の読みが足りなかったのか、そこのところは分らない。それはさておき、彼は言う。仮りの宿にすぎない家を、いったいだれのために苦心してつくりたて、どうしてそんなものを見てよろこぶのだろう。家の高さやきらびやかなさまを競って何になる。仮小屋(いおり)で十分用が足りるではないか。そして彼は組立式(いま風に言えばプレファブ式)の仮小屋をつくり(車二台で運べたそうだ)それを好みの場所に構えて住み家とした。彼にとって、その場所の選択が重要であったらしく、その場の場景をことこまかに描写している。その意味では、彼も、建物は雨露さえしのげればよいではないか、と言っていると見てよいだろう。

 

 いま私が係わっている知恵おくれの人たちの家づくりは、その設立主体が少しばかり風変りである。これは、知恵おくれの子どもを抱えた親たちが、自らの先きゆきと、いまの世の状況とを考え、その設立を企図したものである。その詳細は省くが、彼らはほんの数ヶ月で意を決し、自分たちの出資金を基金とし、それに補助金、借入金等を加え、二年数ヶ月後のいま(それは長いようで、実は極めて短期間というべきだろう)初夏の開園へ向け、建物を新築中である。その経緯にまつわる諸々の事件は、それだけでもこの「通信」の格好の素材とするに十分である。

 それはそれとして、その仕事に係わりを深めてゆく途中で、私はふと考えた。幸い補助金も借入金も一応の目途がつき建物の新築が実現可能となったわけなのだが、しかしもしもその目途がつかなかったならば、この親の集団は、この計画を断念、放棄してしまっただろうか、と。答は否である。彼らは断念しなかっただろう。

 いま、金操りの一応の目途がつき、と簡単に書いた。しかしその目途は、たった数語のことばで書ききれるほど簡単なことなのではない。なるほどたしかに当初からそういう資金援助の制度としての利用の可能性はあったにしても、実際に使えるという保証があったわけではなく、目途がついたのは、設立運動が始まって相当経過してから後のことである。その段階で、補助金も借入金もだめだという逆の目途がついたとき、つまり建物新築が不可能だと判ったとき、「はい、そうですか」と従順にその計画を断念したとは、私には到底思えない。そのときまでの運動の、あるいは親たちの、ポテンシャルの高まりは、決してその計画の放棄を許さなかっただろうと思うからである。(つまり、それほどこの集団の動きは強烈なものだった。なにしろ、やろうではないか、という呼びかけから、やろうと心に決めた集団が結成されるまでが、たった数ヶ月なのである。常識人ならだれしも無暴と言うに決っているこの計画をやろうという者が、二十六人も、たった数ヶ月で結集したのである。)

 ではそうなったとき、彼らはどうその運動の方向を転換しただろうか。多分彼らは、建物の新築がだめならだめで、別の手だて:たとえば手ごろな廃校になった建物でも場所ごと譲りうけ手を加えるとか・・・・を講じて、目ざす「知恵おくれの人たちの家」づくりを実現してしまったのではないか、と私は想像した。彼らのそれへの強い願いと、そしてその実現へ向けてのポテンシャルから考えて、それが極く自然の成りゆきだと思えるからである。

 私はこういう現実にあり得そうな状況を、彼らの迫力ある行動ゆえに、言わば気楽に、他人ごとのように想像してみたのであるけれども、ふと我にかえってその状況を現実のものとして考えなおしてみたとき、私はそのことのもつ思いもかけなかった事の重大さに気がつき、がくぜんとした。なぜなら、それはすなわち、目ざす「知恵おくれの人たちの家」のためを専ら考えてつくられた建物でなくても、「知恵おくれの人たちの家」はできるのだ、ということを意昧しているからだ。「ある用途のための(あるいはある用途のためだけの)建物(あるいは建物の形)」、という考えかた(つまり「なかみ」に対してそれを容れる「器」という建物観)の虚しさが、観念的にではなく実在感をもって見えてきたのである。

 そしてそのときにも、「(そうであるならば)建物は、雨露さえしのげればよい」という言いかたが、その先に、ちらちら見えたのである。

 

 いま私たちは、先にも少し触れたように、たとえば図書館活動は図書館(という建物)で、医療は病院(という建物)で、人々の集いは公民館とか文化センター(という建物)で、・・・・子どもの遊びは児童遊園・公園(という場所)で・・・・行われるのがあたりまえだと思い、それらがなければ、そういう活動があり得ないかのようにさえ思ってはいないだろうか。事実、図書館は図書館活動のためにあるのだし、病院は医療のためにある。他も同様、ある用途のために考えられた。私もそれを認めるのにやぶさかでない。だが、その逆はほんとに真なりか。

 ここで言いかたを逆にしてみよう。つまり、図書館活動は図書館という建物がなければできないか?医療は病院という建物がなければできないか?・・・・と問うてみるのである。答は簡単である。全て、基本的に、可能である。もしそれができないというなら、言わゆる発展途上国では医療は行えなくなる。仮小屋であれテントであれ、基本的には行えるはずなのだ。NHKブックスで当事者が紹介している東京・日野市で行われている図書館活動(運動と呼ぶべきかもしれない)は、いまでこそ図書館という建物もあるが、そもそもは図書館という建物なしの活動であり、そしてまた図書館という建物の建設自体を目ざした活動でもなかったと私は理解している。どういうことかと言えば、それ向きの建物が用意されているかどうかということは、その活動自体の存立には、第一義的には何の係わりもないということなのだ。活動は、基本的には、ひさしを借りてでもできるということである。そういう意味で、雨露さえしのげればよいのである。そして、それらの活動が恒常化し定着していったとき、それに、借りものでない専用の建屋が提供される。それとても、いまのようなそれらしい建物なのではなく、ただの建屋(場合によっては他の用に供してもおかしくない建屋)であったろう。それがおそらく、病院、図書館、・・・・という特化された建物のはじまりの姿であったはずである。それもまた、従って、雨露がしのげればよかった、のである。

 

共通の認識の基盤づくりのために

 私は別に、なにごともやればできるのだ、などという精神論をぶつためにこんなことを言っているのではない。

 もちろん、図書館、病院、・・・・といった建物が、雨露しのげる仮小屋で十分だ、などと言っているのでもない。

 雨露をしのげる仮小屋でも(つまり、そのためを考えてつくった建物でなくても)、それを適切に構えることによって、私たちのいかなる生活、いかなる活動の場面とも成り得る(あるいは、成し得る)という事実を冷静に見つめるとき、建物づくりにあたって私たちが望んでいること、すなわち建物づくりにおいて私たちが成さなければならないこと、その本質:文字どおりエッセンシャルなことが私たちには見えてくるはずで                            あり、私たちはそれこそをまず見る必要があるのではないか。私が言いたいのは、まさにこのことだ。

 くどいようだが、あの「知恵おくれの人たちの家」をつくろうと奔走した無暴な人たちが望んでいたものが何であったか、もう一度考えてみよう。彼らは、「知恵おくれの人たちの家」という「建物」あるいは「施設」そのものをつくることを望んでいたのか。そうではない。彼らが望んでいたのは、「建物」や「施設」という言わば物的なものをつくることではなく、知恵おくれの人たちの「生活の場面」を安定させる(安定した状態として確保する)ことであった。だからこそ私は、先に、もしも経費の確保が不十分ならば、彼らは廃校でもなんでも適当なものを探してきて間にあわせてしまっただろうと想像したのである。「建物」あるいは「施設」自体の新設というのは、あくまでもその一つの、まったく一つの、やりかたにすぎないのである。

 従って、その一つのやりかたとして可能となった「建物」新設においてこの無暴な人たちが望んだことは、当然のことながら、いま極く普通にやられているような、「知恵おくれの人たちの現状をふまえ、彼らの生活形態はこれこれである、あるいは彼らのあるべき生活形態はこれこれである、と設定して、それにあわせて微に入り細に入り工夫した容器をつくる」ことではなかった。もしそうしたならば、それは、この親たちには、知恵おくれの人たちの生活が物的にも管理されている、と受けとめられたにちがいない。彼ら親たちが自ら「家づくり」に走ったのは、そもそも、既存の多くの施設では知恵おくれの人たちの生活の場面が、あまりにも管理されすぎていたからなのだ。それはなにも物的とばかり限ったものではなく、それ以前にそれ以上に、人的にも管理される場合が多いのだそうである。生活の場面が、限定された生活形態のもとに組織だてられ管理されるのである。そしてこのことは、こういった施設についてだけにある現象なのではなく、ほとんどの生活の場面についても同様なのだ。

 

 ちょうどこの文を書いているとき、ある中学校で先生が生徒を刺したといういたましい事件が起き、TVのニュースでは、その中学校の校舎が映されていた。割れたガラスを押えるためか、それとも割れても飛散しないようにするためなのか、ガラスに紙テープが十文字に張られた窓が大写しになっている。それを見たとたん、私は戦時中の窓のガラスを思いだし、そして同時に、ある突飛な、しかし十分にあり得るある事態が目の前に浮んできた。もしかするとこれから先、校内暴力(いやなことばだ)に耐える学校建築、などという建物が欲しがられ、また研究の対象となり提案されたりしだすのではなかろうか、と。

 なぜなら、建物とは生活を容れる器である、という考えかたに(単純に)従えばそうなるはずで、現に建築の専門家(と称する)人たちがやってきたこと、(そしてその考えかたに従順に従ってきた)普通の人たちが建物に対して(つい)望んでしまってきたことといえ、多かれ少なかれ、構造的にはまったく同様のやりかたなのだから。そして、窓はせいいっぱい小さく、ガラスは網入りで格子もはまり、どこからも見通しがきき陰になる所がなく、その中央に塔があり、そこにはガラス張りの職員室があって、先生がたは生徒の行動の一部始終を安全にながめていることができる。もちろん電話の回線は警察に直通。なんのことはないかつてのかんごくのような学校建築。それが理想の学校建築になる。

 これはブラックユーモアか。私はそうは思わない。いま私たちのまわりにある私たちの生活の場面が展開する場というのは、多かれ少なかれこれと寸分違わぬ構造の考えかたでつくられているのだと言ってもよく、ただ、このようなブラックユーモア風極端に走っていないがゆえに、見かけの上では、気がついていないだけにすぎないのである。

 

 ここまでくれば、先刻私が行きついた言わば逆説的な言いかた、すなわち、建物は「雨露さえしのげればよいのではないか」という言いかたの意味がお分りいただけるだろう。そのように言ってみることによって、建物をつくるということは何であったか、そして、そもそも私たちの生活の場面とは何であるのか、私たちは、専門家であるか否かを問わず、共通の基盤にたち認識することが可能となるのではないかと私は思うのである。そして、専門家が専門家である由縁のものは、まさにこういう言いかた、問いかけを卒先してできるか否かにこそかかっているのではないかとも思う。私がこの言いかたに行きついてがくぜんとしたのは、一つにはこの言いかたがものごとを裸にして見せてくれるそのすごさのせいでもあるが、もう一つには私自身そのような問いかけを自らに課したことがなかったことに気がついたからなのである。

 

あ と が き

〇二年目もなんとか無事に済みました。ひとまずほっとしています。

〇正直言って、二ヶ月に一度に改めようかと思ったこともありました。大体月の半分はこれを書くのに使ってます。と言って朝から晩までではありません。言うならば空き時間を使うのです。それで数えて半月なのです。ちょっと書いて別のことをやることになります。別の仕事が終わってまた書きだす、このくりかえしです。書きながら考える、言わばそんなやりかたなので、この中断は結構役にたちます。別の仕事をしながら、さっきああ書いたけれども、こう書いた方がよかった、だとか、あれはむしろこういうことだ、とか思いつきます。ときには書きなおすことになります。今回の場合がそうでした。これでいける、そう思って書きだしたのですが、途中で進めなくなってしまいました。一日すぎても一ページも進まないのです。そんな日が一週間近く続きました。先が見えないのです。二月が普段の月より三日少ないのがうらめしく思えました。あせりました。書いてみては別の仕事から戻ってきてすぐ書きなおし、こればかりやっていて、少しおくらすか、などと思っていたとき、例の中学校の事件がありました。そのTVで校舎の姿を見ていて、急に話の展開のやりかたが見えました。だから今回の文の大半は、あの事件のあと書いたものです。しかしそんなわけで調整するひまがなく、読みにくく分りにくいと思います。

〇ひまがあったら、この話はもう一度、こんどは建物をつくるとは何かということに焦点をしぼって書いてみようと思います。

〇それはそうと、先号についても、もう一度整理しなおして書き改めるべきだというきつい忠告をいただきました。

 〇岩波新書に「日本の私鉄」というのがあるのを最近知りました。私があちこちひっくりかえして探した開業年月など、みんな詳しくまとめてでています。がっくり。でも、開設の背景については(私の言うような背景については)全く触れられていませんでした。ついでに言えば、あの号(1982-12第9号)は、割とよい評が得られました。たまにはそういうこともなくては。

 〇この一月にわが村の村長選挙がありました。いま村の人口は、旧村1に対して新住民2ぐらいの割合だと思います。(詳しい数字ではありません。とにかく新の方が多いのです。)そこで新の側の特におえらいさんたちが軸になって、村長の言うならば乗っとりを企てました。候補者をたてたのです。単純計算で勝つと思ったのでしょうね。でも見事に失敗しました。よいことでした。新の人たちは新の人たちのことしか考えませんものね。

 〇今年度もこの号で終りです。拙い文を読んでいただき、ほんとうにありがとうございました。四月からまた気分を一新して書こうと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

〇いま、この通信を読んでいただいている方々は、数の上では決して多くありません。郵送させていただいている方が49名。あと手渡している方が10名内外です。どの方もどこかで私が知りあい、私に大きな刺激を与えてくれた人たちです。

〇重ねて、来年もよろしくご批評のほど、お願いいたします。

〇それぞれなりのご活躍を!

          1983・2・25             下山 眞司 


「第Ⅳ章ー3ー1椎名家」 日本の木造建築工法の展開

2019-09-17 13:13:03 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A1,2」A4版8頁

 

 「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ  近世ー3」

・・・・数学的な自然研究は、正確な計算がおこなわれるから精密なのではなく、その対象領域への結びつきが精密さの性格をもっているので、そのように計算されねばならないのです。  これに反して、すべての精神科学さらに生活体についての諸科学も、まさに厳密であろうとすれば、必然的に精密さを欠くことになるのです。 つまり生物を或る時間-空間的な運動量として把えることはできても、そのときはもはや生物として把えられてはいないのです。

 歴史記述的な精神科学の不精密は、なんらの欠陥ではなくて、この種の研究の仕方にとって本質的な要求を充たすことにすぎないのです。むろん歴史記述的な学問の対象区域の企画と確保とは、仕事の面からいっても、精密科学(自然科学)の厳密さの実行よりも、遥かに困難なのです。・・・・               ハイデッガー「世界像の時代」(理想社)より

 

・・・・我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を「取り巻いて」いる。この事実は常識的にきわめて確実である。 そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、引いてはそれの「我々」に及ぼす影響をも問題とする。有る場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に・・・・それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。

しかし我々にとって問題となるのは、日常直接の事実としての風土が果たしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。・・・・

・・・・風土の現象において最もしばしば行なわれている誤解は、自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。・・・・                和辻哲郎「風土」(岩波書店)より

 

 一体世界のいろいろな民族は皆それぞれ独自の形式の生活を営みそしてそれに相当する独自の様式の家に住んでおります。これを発生的に考えて見まして、どこの民族の家も一室主義に出発してそれに多少の潤色を附加せられたものになっております。蒙古の包(パオ)やアイヌの小屋を初めとして我々の先祖の住宅だったと考えられる伊勢の神宮や出雲の大社なども「妻入り」「平入り」の差だけで一室主義を原則としたものだったのでしょう。そしてその原始型からやがて、寝る所だけを別にした形式が生まれます。世界中の住宅には実にいろいろの種類があり、それに大小の変化もありますが、この根本の要領だけはそのまま維持されているというて決して間違いありません。この意味で、我々日本人の従来の百姓家も町の「しもた家」も立派に民族の家たる資格を持っておるのです。

・・・かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。そして日本人は今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。  しかし、私は深くそして堅く信じます。タウトは桂離宮に驚く前にまず所在の日本の百姓家に驚けばよかったのです。そしたら日本に滔々として百姓家を見直すということが風靡したかもしれませぬ。

 従来とても我々の間に「民家」の研究という種類のことはありました。しかしこの研究には何か「取り残されたもの」に対する態度、「亡び去らんとするもの」に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきているのが実情です。 しかし私の考えによれば、私どもが軽々にこれを「民家」と呼ぶことがすでにいけないのです。私どもはこれを「民族の家」といい直さなければなりません。そのとき我々のうかつにも軽蔑してきた百姓家が、実に厳然としてさんらんたる白日光を浴びながら私どもの前に立ち現れてまいります。私どもはじかにこの民族の「たましい」に面接しようではありませんか。・・・         遠藤 新「一建築家のする―日本インテリへの反省」(雑誌「国民」)より

 

Ⅳ-3 近世の典型-3:住宅建築

 先に、室町時代末に建てられたと考えられる農家住宅、古井家箱木家を観ましたが、それ以降、近世:江戸時代になるまでの間の一般庶民のかかわる建物:住宅の遺構は存在しません。

 しかし、近世につくられた建物を見ると、その間に、農家住宅はもちろん、一般庶民の建物づくり:住まいづくりの技術は、格段の展開を見せたことが分かります。

 ただ、その場合、農家、商家と武家では、つくりかたに大きな違いが見られます。すなわち、農家商家では、中世の古井家箱木家と同じように、日常の暮しに応じ、架構=居住空間という竪穴住居以来のつくりを継承しているのに対して、武家の住居では、寺院建築において発展した客殿建築、その流れを汲むいわゆる書院造にならい、日常の暮しより接客を重視したつくりが好まれ、建物の見えがかりの形に意をそそぐ傾向が強く見られます。 

 註 武家のつくりは、幕藩体制解体後、都市に居を移した旧武士階級の住宅に、さらに形式化して継承されます。

 そこで、住宅建築を生業別、すなわち、農家、商家、武家に分けて、その代表的な事例を通じて、住まいづくりの技術を観てみたいと思います。

 

A 住宅建築-1:農家住宅

 農家住宅は、当初の寺院建築同様、上屋+下屋の方法でつくられるのが普通で、古井家箱木家もその方法を採っています。

 上屋のつくりかたには、梁行を先行する折置組桁行を先行する京呂組がありますが、古井家箱木家とも折置組にしているため、建屋内には上屋の柱が立ち並びます。

 この不便を解消するため、古井家では、江戸時代におもてちゃのま、そしてにわに立ち並んでいたを取り除く改造をした記録が残っていて、その後も間仕切と柱位置を一致させる改造が何度か行われています。箱木家においても、そのような改造が行われていたことが、当初材に残された痕跡から判明しています。

 

 上屋+下屋方式の建て方にともなう不便の解消のための工夫は、おそらくどの地域に於いても、どこの建物においても行なわれたと考えられますが、その過程を知ることのできる遺構はありません。しかし、いつ頃からかは分りませんが、上屋の柱を省いて建物をつくる技法があたりまえになります。今回紹介する椎名家北村家には、その成果を見ることができます。さらに、地域によって、種々な建て方も現われ、養蚕が盛んになると、二階建ての建屋も自由につくられるようになります。

 また、外形を見ても、農家住宅では、茅葺では寄棟あるいは入母屋が一般的ですが、地域によると切妻屋根もつくられ、高冷で風の強い地域では、板葺き屋根が発達します。

 つまり、人びとは、その地域の状況に応じて、その地に最も適したつくりかたを探し続けてきた、その結果:結実した姿が、各地に現存する住居遺構であると考えることができます。

 以下に、そのいくつかを基に、人びとが何を考えてつくってきたか、見てみたいと思います。

 註 いわゆる「民家」研究では、間取りの型の変遷、軸部のつくりかた、小屋のつくりかた・・・に分けてみる見方を採るのが一般的ですが、ここではその見方は採りません。また、「民家」という語も使わず、農家住宅商家住宅・・・という語を使うことにします。

 

A-1.椎名家住宅  1674年(延宝2年)  所在 茨城県 かすみがうら市 加茂(現地保存)

                      

1960年代の南面全景  滅びゆく民家 河島宙次著 より   

 

                    1960年代の間取り(復元修理前)   滅びゆく民家 より  

 

 椎名家は、東日本に現存する建設時を確定できる最古の住居遺構。 

  霞ヶ浦の北部に飛び出す半島:旧出島村:のほぼ中央部に、現地保存されている。出島は、標高25m程度の厚い関東ローム層に覆われた丘陵状の地形で、微小な谷地田が数多く刻まれている。 この地には、古代以来人々が住み着き海進期の縄文時代までさかのぼる住居址貝塚古墳が数多く残っている。

 古代の畿内からの官道東海道)も、東京湾を横断し、房総半島を経て、霞ヶ浦を渡り出島を通り、半島の東側の付け根付近に置かれた常陸国府へと至っていた。国府跡が現在の石岡市。

 また、一帯は、中世以降は馬の産地としても栄え、の付く字名も見られる。椎名家も、この丘陵上で馬の生産・放牧を含む農業を営んでいたようである。 椎名家は、村役を務めていたため、接客空間(ざしきげんかん)が用意されていた。

 

平面図                    日本の民家1農家Ⅰ(学研)より

桁行断面図                 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集 

で囲んだ材は内法位置では、は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固めで囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ろまざしき境の差鴨居付長押を一材でつくりだしている。

 

 

 西~南面 近撮

 

 南面 近撮

 

 

どまからひろまをみる                          日本の美術№287 より。

ひろまの三方には、内法付長押がまわる。奥のざしきには、小壁上の高さで天井が張られる。

 

   

左上 どまよこざ境の出隅の柱見付6.7寸×見込6.0寸)への繋梁の差口:枘差し鼻栓  右上 同上柱を南から見たところ(柱見付6.7寸 

 柱間の横材の仕口は、ほとんどが枘差し鼻栓。 

 基準柱間 1間:1909mm=6尺3寸 2371mm≒1.25間=7尺8寸 ひろま、ざしきの幅:桁行幅=2.5間

 材寸 側柱:スギ 3.7~3.9寸角、大戸口:4.7寸角、 内部柱:ケヤキ、シイ、土間境:6.7~6.9寸角、ざしきまわり:4.7~4.8寸角。  梁・桁、大引など:マツ。

梁行断面図                 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集 

で囲んだ材は内法位置では、は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固めで囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ろまざしき境の差鴨居付長押を一材でつくりだしている。

 

  

左手:よこざ その奥はねまへの板戸 繋梁鼻栓が見える。 ひろまからざしき 境の差鴨居長押一木、他は付長押。この差鴨居には延宝2年の墨書があった。

 

 (「第Ⅳ章ー3-A1椎名家」に続きます。)


「第Ⅳ章ー3-A1椎名家,2北村家住宅」

2019-09-17 13:12:33 | 「日本の木造建築工法の展開」

 (第Ⅳ章ー3-A1椎名家住宅」より続きます。)

 

 

 椎名家平面図

  

   

椎名家梁行断面図      日本の民家1農家Ⅰより        古井家梁行断面図            日本の民家3農家Ⅲより  

 

 椎名家では、上屋+下屋架構の上屋柱に相当する主要な柱列が、上図の色をかけた部分を挟んで置かれている。 従来の上屋+下屋架構では、上右図の古井家の例のように、上屋柱上にが架けられ、又首が組まれる。 

 

 これに対して、椎名家では、主要柱相互は中途を丸太の差物飛貫に相当)で繋ぎ、その上の位置より両側(南北)に伸び、側柱主要柱とを結ぶ繋梁上に設けた束柱で受け、全体は鳥居状の形をなしている(左上図参照)。 主要柱列上にはない。 また、この差物は、桁行方向のいわば背骨にあたる丸太梁を受けているが、丸太梁が大きく湾曲しているため、柱への取付き位置は柱ごとに異なる桁行断面図および写真参照)。

 註 このように主要柱上にを通さないつくりを四方下屋造と呼ぶという。 なお、差物のへの仕口は、枘差し鼻栓(写真参照)。繋梁は、側柱折置主柱へは、枘差し鼻栓(写真参照)。 

 この架構法の採用により、椎名家では、小屋組はもとより、空間構成も、上屋・下屋の束縛から解放されている。

  一般の人びとの間では、すでに17世紀半ばまでに、柱-梁-柱で構成される門型を並べ、容量不足の場合には各面に下屋を増築するという二次元的な発想から、当初に立体として三次元的に構想することが普通になっていたと考えられる。

  

  

 ひろま南側の 突きあたりはげんかんへの板戸         小屋組詳細   真束又首 棟木又首の上に据え

 

   

 どま 西北隅部見上げ           を受けている約5寸9分角

 

 どま以外では、主要柱列内法上に貫が3段入り、下2段分を小壁としているが、上部にははない。 

 

   

 ひろまからどまをみる  鴨居樋端は後補                 日本の民家1 農家Ⅰより

 

 

A-2.北村家住宅  1687年(貞享4年) 旧所在 神奈川県秦野(はだの)市 堀山下 現在 日本民家園(川崎市 生田緑地内)

 秦野は、丹沢山麓に位置する畑作地帯。煙草の栽培で有名。

 建設時は鍛冶谷村で、同村の大工、隣村平沢村の大工の名と貞享4年の墨書が小屋束の枘から発見された。

 

南正面          右端のだいどころどま)まわりの壁は割竹張り真壁     日本の美術№287より

平面図 柱間寸法 1間:6尺   柱はケヤキ、クルミ  平面図・断面図共に日本の民家1農家Ⅰより

 

桁行断面図

ひろま~だいどころどま)               床と天井は竹すのこ  どま境上の小壁割り竹張り  日本の美術287より

 

梁行断面図                                 日本の民家1 農家Ⅰより

 

 椎名家と同じように、主要柱列間より両側にが伸び、又首を受ける。繋梁上の束柱が受け、桁もその上に通っている(四方下屋造)。

 しかし、主要部の架構では、椎名家とは異なり、中途の差物飛貫)はなく、内法上に4段のを組む。最下段ののひろま側には付長押様の材が張られている桁行断面図、写真参照)。 この4段のの入った部分は、割り竹を張った小壁としている梁行断面図および写真参照)。

 


1982年度 「筑波通信№11 風景について」 前半

2019-09-10 16:36:16 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №11」1983年2月 A4版16頁 

        「筑波通信 №11」 1983年2

       風景について

 風景、景色、光景、景観・・・・といろいろ似たことばがあるが、ここでは、それほど厳密な定義づけをして風景なる語を使っているわけではない。普通に使っている風景の意として気楽に読んでほしい。

  暖冬だから雪はないだろう、そう思ったのはまったくの思いちがいであった。暖冬であるが故に例年になく雨が降る。そして、このような高地では、雨は雪になる。

 この正月三が日、南信州のとある山小屋で寝正月をきめこんだ。この時期、この地方は北信の裏日本型気候とちがって冷えこむことはあっても雪が降りつもるほど降るということは少なく、そうなるのはもう少しおそく少しばかり春めいて低気圧がしきりと南岸を通るようになってからだ。しかし今年は、もう二・三十センチも積っていた。どうやら筑波の暮の雨がここでは雪であったらしい。それも、風もなくしんしんと降り積ったらしく、吹きだまりもなく一様に積っている。春が来るまでとけないだろう。

 それでいて、いつもこの時期には真白のはずの八ヶ岳や蓼科山などはちょっとがっかりするぐらい冬らしくない。例年ならとっくの昔に積ってしまったはずの雪が、ようやっと最近になって積りだしたのだろう、まだところどころに山はだか見える。そうであってもやはり、その山なみの日に映える姿はすばらしい。三が日、天気は弱い冬型、南信は快晴。実に心地よく澄みきった空が拡がっている。ところどころに一見春を思わせるような柔らかい雲が泳いでいる。山のあなたの空遠く・・、そういう想いはこうでなければ生まれはしまい、そんな風に思わせるほど山の向うが輝いて見える。あの山の向うには、こちら側とはちがう何かがある、そういう想いをほんとに馳せらせる何かがある。そういう向う側まで予測させるほどにまで、山はくっきりとその姿を見せている。日が動くにつれ山容は刻々と変る。そして夕映え。私の一番好きなときが来る。あれほどにまで快活であった空が徐々に寂しげな色に変り、やがて暮れ残る空のなかに山は夕日を浴びて一段と輝きを増し、そして一瞬ののち山はあたかも切絵のようになり宙に浮く。日の入った方をふと見やれば、シルエットになった山の端が燃えている。見る見るうちに空はその深さを増し、星があそこにもここにも光りだす。そして、また山が輝きだした。月が上ったのである。そういえば、年の暮が満月であった。深いやや青味を帯びた闇のなかに、昼間のあの明るさとはちがい冷たく輝く山が浮びあがる。街の燈火が眼下の谷間の平地のあちこちに点滅しはじめた。手前の、葉がすっかり落ちてしまった林間では、積った雪が昼にもまして明るく、しかしやや青白く、新鮮に輝きだしている。木々の影は枝先の一本一本まで数えられるかのようにくっきりと雪の上に刻まれて動かない。風がないのである。静寂。外はもう氷点を大分割っただろう。

 

 私はいま、山小屋のなかから外をながめている。室内は、無粋な石油ストーブのおかげで、大分暖かい。けれども風景の見える窓ぎわによると、そこは北側だから、大きなガラスが直かに外の冷気のかたまりを伝えてきて、ひんやりとする。私のいる山小屋は、北斜面に、北を大きく開けて建っているのである。

 本州の中央部、甲府盆地の西で、一本の谷間を隔てて、北に八ヶ岳、南に南アルプス(赤石山脈)が相対している。谷間をぬって中央線が走っている。私のいる山小屋は、そのあたり、南アルプス山系の北端の山の一角、八ヶ岳の西面の全容を一望にできる北斜面に在る。八ヶ岳だけではない、そこから続く蓼科山・霧ヶ峰・・・・と一連の山々を一度に見ることができる。けれどもそんなところだから、冬至の前後の一時期、まともに陽の当らないときがある。後に背負った山の端すれすれに太陽が通ってしまうのだ。まわりに在るのも、ほとんどがこういう北に開いた山小屋ばかりで、土地の人の家はまず一軒もない。住んでいないのだ。と言うより、住むはずもない、住もうという気もおきない、そういうところである。

 標高約1150メートル。土地の人たちは標高1000メートルぐらいから下の方の、谷沿いの比較的平らな部分:山々のすそ野に、いくつかのまとまりをなして住んでいる。その家々の燈火が、夜、私のいる小屋から、またたいて見えるのである。ここは高冷地農業の本場。高原野菜の産地。高冷地にもかかわらず米もつくっている。米の収量日本一の農民が出たこともある、という信じられないような話を聞いたことがある。厳しい環境ゆえに、逆に仕事に熱が入るのかもしれない。すそ野にある田畑は、比較的最近の開拓であるらしい。八ヶ岳の広大なすそ野を開いた整然とした田畑を、私のいる小屋から、あのすばらしい山々の風景の前景として望むことができる。

 こういう風景がとびこんでくるように、私のいる小屋の中心をなす室の北面いっぱいが大きく開け放たれているのである。普通言うところの「借景」である。この小屋は、実は私自身の設計なのだが、この風景を全部のみこんでやろうという試みは設計当初からのものであった。と言うより、この敷地の選定に係わりをもったときからその気があったと言った方がよい。そういう風景が目の前に拡がるような、そういう場所をわざわざ選んだのである。そして、実のことを言えば、そのすばらしい風景を見るとなると北向きになるなどということは観念的には分っていたのだけれども、それが実際にどんなことになるのかほとんど気にもせず、まったくその風景をたよりにしてつくってしまったのである。山へ向いている意識の方が強く、北を向いているなどという気はほとんどなかったから、あるとき磁石で方位を確かめてみて、あらためてびっくりしたことがある。それは、ある年の暮、陽が少しも当らないので不審に思って調べてみたときのことである。冬至のころ、太陽がずっと低く寝てしまうということに、これもあらためてびっくりした。もしも、このような陽のあたらない家を普通につくってしまったら、それこそ目もあてられない。なぜそんな場所を選んだのだと、一生たたるはずである。この小屋が、ときおりこの風景を味わうために来るためのような家だからこそ救われるのである。

 

 「(浅間温泉の)宿の上等の座敷というのは、むしろ山とは逆な方角に窓を開いていた。アルプスの見える窓などは、冬になると寒い風が吹きこんでくるものとしか考えられていなかった。・・・・」これは一昨年の通信№5(1981 ・ 8)で紹介した文章の一節である。そうである以上、この宿は、おそらく陽あたりのよい場所に南面でもして建っていたのにちがいあるまい。そして、私のいる山小屋の眼下に点在する家々もまた、まずそのほとんど全部、家のなかからすばらしい風景が見える、などということには一切関係ないつくりかたで建てられているとみてよいはずである。冬期、この地方は、谷に沿って風が吹きぬける。ただでさえ寒いのに風が吹くと一段と冷えてしまう。家々は、その広大な大地から頭を出さないように、大地のひそみに建てこんでいるのが実際である。まずどの家も、すばらしい景色の拡がる北側を閉じている。第一、大地のひそみに入りこんでしまえば、そんな景色など見えなくなってしまう。敷地の選びかたからして、風景などとは無縁なところできめられているのである。

 だとすると、こういう土地の人たちの家のつくりかたと、私がこの山小屋で試みたような「借景」というつくりかた、この二つについて考えてみたくなる。

 

 京都に行くと、あちこちに、「借景」の庭あるいは建物があるけれども、考えてみると、それらもまずほとんど全て、普通の人たちの家ではなく、寺院や宮家の別荘の庭や建物である。普通の人の家にあるとすれば、それは母屋ではなく離れにおいてである。寺院の場合も、方丈など寺院の本体部分にはなく、それより奥の、ややくだけだ書院の部分においてよく見られる。(と言って、それは日常の生活が行われているところではなく、日常生活は更にその裏手の部分、いわゆる庫裏を中心に営まれている。そして庫裏は普通の家と大差ない。)京都の北に、円通寺という「借景」で名の知れた寺があるが、そこでは比叡山をとりこむため書院の部分が東を向いて開いている。実際、そのあたりから見る山はなかなかのものだ。けれども、その寺のまわりの家々は、山容をとりこむことなどとは関係なく、大体南向きである。

 私が現在住んでいる所でも、筑波山がよく見える。筑波山という山は平原のへりに突出して立っている山だから、その山容もそれなりの景観となる。その昔、江戸の町からも、西の富士山、北の男体山(日光)とならんで際だって見える山の一つでもあったらしい。いまでも、よく晴れた日には、高層ビルからなら見えるそうである。この筑波山のふもとあたり、平原のとっつきには、昔から人が住みつき、いまでも大きな町はそのあたりにある。江戸中期以降に開かれたと思われる集落が、山から少しはなれた平原のなかに数多く点在しているが、そこから見る筑波山も、それは足もとからてっぺんまでの全容が見えるから、なかなかのものだ。だから、このあたりの小学校の校歌で、筑波山に触れないものは皆無であると言ってよいくらいである。しかし、そういった町や村を歩いても、筑波山の景色をそのままとりこんでしまおうなどと考えてつくられた家はこれも皆無であるといってよく、それは、いま私がいる山小屋のある町や村の、土地の人たちの家々とまったく同じである。

 私は先年、この八ヶ岳のふもとの町で、ある人と知りあいになった。とある食堂で、このあたりの風景を描いた素朴な木版画が壁にかかっているのを見かけ、これをつくったのが町の人だと聞いて尋ねて見る気になり、そして知るようになったのである。彼は元校長先生。この町の生まれ。在職中信州中を転勤で歩きまわり、そのとき印象に残ってしまった風景を、なんとか記録しておきたいという気になり、退職後はじめたらしい。写真より版画の力が感じをよく伝える、そう思ってはじめたことであるらしいが、もともと素人。それがかえって素朴な味をだしているようだ。この人の家は町なかにあり、普通の家とかわりなく南面していたのだけれども、ただ彼の仕事場の一角は、それは倉を改造したものらしかったが、そこだけ北東側に大きな窓が開けられ、あっと驚くほどすばらしい八ヶ岳を望むことができた。そうなるように直したのだそうである。私のいる小屋とちがって、南アルプス、富士山、そして八ヶ岳を一望できるところに建っているから、なおさらすごい。気のむくままに、母屋からここへ出てきて、独りこの景色に見入るのだそうである。版画を彫り、あるいは刷り、そして手を休めてお茶をのみつつ景色を見やり季節を想い、かつて訪ねた土地を想う。そしてときにはそこをはなれてスケッチ旅行に赴く。言うならば、自適の生活。そういう毎日。

 土地の人たちの家のつくりかたが、景色などとは無縁である、そう書きながら実はこの人の家のことを思いだしたのである。母屋の方も、その立地上、つくりようによっては景色をのみこむことができるのに、一切そういう手だては講じてない。だから、この人の仕事場も、普通の人たちの家からすれば異例なのである。        

 その気になって、この町のあちこちを歩きまわってみると、そういったすばらしい風景をとりこもうとしたつくりかたは、最近建ったらしい旅館、民宿、ドライブインといった類のいわゆる観光施設と山荘・別荘などに見られ、もしも普通の家でそれらしきものがあるとすれば、それはまったくたまたまその場所に普通のやりかたで建ててしまったら景色が見えてしまった、そういうような場合のようで、だからとりたてて景色がよく見えるように、などという策を弄したりはしていない。

 それでは、土地の人たち(普通の人たち)がそういった景色などに対してまったく無関心なのか、というとそうではない。立ち寄ったガソリンスタンドや店の人が、今日は山がよく見えるでしょう、だとか、今年は山の雪がおそい、とか、紅葉がだめだ、とか私に話しかけてくるのは、必ずしも私がよそもので一見観光客風に見えるためだけではないだろう。もしも彼らがそういったことを日ごろ気にしてなかったとしたら、それを話題にすることもないからである。寒い、とか、暑い、とか、天気がいい、とかいう時候のあいさつの一つとしてそれが語られると見た方が自然なのである。私がそれに適当に応じていると、ときには、どこそこに行ってみなさいよ、南アルプス、富士山、八ヶ岳どころか諏訪湖の向うに北アルプスはもとより中央アルプスまで見えるから、いい気分だよ、などと教えてくれる人もいる。行ってみると、なるほどすごい。まるで日本のまんなか、それも屋根の上にでも登って、大げさに言えば、四海を独り占めにでもしたようないい気分になる。土地の人たちも、いい景色をちゃんと知っているのである。ただ。その場所には家は建っていない。小高い、田畑のまんなかである。冬のいまが一番見通しがきくのだけれども、しかし立ちつづけていると、吹きさらしだから凍えてしまう。

 こうして見てくると、土地の人たちは、すばらしい景色、風景というものをちゃんと気にはとめてはいても、少なくとも見えがかりの上ではそれを直かに建物のつくりかたに反映させるというような、そういうつくりかたは、普通にはしないのだということが分る。

 

 それでは、いま私のいる山小屋と、先の元校長先生の仕事場とは、それがともに外の風景を内にとりこもうとしている点で似ており、それゆえ同じつくりかたなのだ、と見てしまってもよいのだろうか。つまり、京都の円通寺も、この町の元校長さんの仕事場も、そして私のいる山小屋も、あちこちにあるドライブインも、それはどれも(金のかけかたの多少、つくりかたの巧拙、は別にして)「借景」という手法を使った同じつくりかたなのだ、と見なしてよいのだろうか。

 いったい、私をして、いま私が居るこのようなつくりの山小屋をつくろうと思わしめたもの(それ以前に、このようないわば人も住めないような場所を敷地として選ばしめたもの)は何であったのか。

 それは、そこからながめる景色が、構図として、あるいは図柄・絵柄として、きれいなすばらしい、あるいは美しい・・・・景色であった、ただそれだけのことだったのだろうか。あるいはそのような言いかたでもよいのかもしれない。それがきれいであり、すばらしい、あるいは美しい・・・・ということは、どうやらまちがいのない(私だけではなく他の人たちもそう思う)ことのようであるから。だが、ふと、このきれいだとかすばらしいとか美しい・・・・とかいうことが何であるのかと考える。すると、これらの形容詞が、実は、ある景色に面と向ったとき、それを見ている人の口から思わずとびだした、言うならば感嘆詞のごときものである、ということに気づく。だから、きれいな景色だとかすばらしい景色だとかあるいは美しい景色・・・・だとかいうのは、より正確な言いかたをするならば、そのような言わば感嘆詞を人をして発せしめるような景色のことだ、ということができる。その景色が、それに対した人に、そのような言わば感嘆のことばを発せしめるようなある思いを抱かせた、そういう言いかたが許してもらえるだろう。それゆえ、つまるところ、そういう感嘆のことばの根底にある思い、それがいったいいかなるものであるかが、なににもまして問題にされなければならないのではないだろうか。

 けれども、いま通常では、この思い、すなわち見ている人の側のことは(それが個々の人の間題であるからだろうか)むしろ問われず、景色そのものの側、すなわちその景色の図柄・絵柄としての構成・構図などが問題とされる。きれいだとかすばらしい・・・・という形容詞にて示されるものが、景色そのものにてんから備わっている属性であるかのように扱われている。きれい、すばらしい、あるいは美しい・・・・こういった人の側にわき起った状況を形容するための詞が、固いとか重いとかいう物そのものの性状を形容する詞と同列に扱い済まされているということである。

 およそことばというものは全て、かならず人の感性を通過して生まれるのであるけれども、しかし生まれたことばには、言わば感性に密着したレベルにとどまるもの、感性を通過しきって言わば対象の側に付与されたと言ってよいレベルのものまで、その間に多様なレベルで存在しているにも拘らず、いまや、それを一様に、しかも対象の側に付与された、対象と一対一の関係を保つものとしてのみ                 扱う傾向にある。そうならないものは、むしろ、厳密さを欠くものと見なされる。そこでは、ことばというものを、あの多様なレベルに言わば分散配置せしめた、人間の巧まざる知恵・思慮深さ、真の意味での厳密さ、についての認識がまったく失われてしまっている。

 

 省みてみると、私がこの山小屋をつくったときのその言わば動機となった私の思いは、いま私が小屋のなかから外の景色を見つつ思っている思いと、ほとんど差がないように思われる。もし違っているとすれば。初めてこの地の風景を見たときよりかれこれ十年近く経過し、見える風景に係わる多少の知見が増えたことだけだろう。初めのころは、夜景の街の燈りを見ても、それはあくまでも闇に点滅する光の群れ、一言で言えば「きれいな夜景」としてしか見えなかったけれども、いまでは、あたりを歩きまわった結果の多少の知見ゆえに、あのまたたいているのはあの集落のあの曲りかどのあたりだとか、あそこに一つだけきわだって見える燈は八ヶ岳農場のはずだ・・・・とか比定できるようになっているし、昼間ならばもっといろいろな所を比定できる。しかし、私が景色を見て感じいっているのはその初めのころとほとんど変りなく、あの町この町がどんなであろうともそんなこととは関係なく、言わば「自然」そのものに私は感じいっているのである。私の向う側に在る、私を越えた。そして私を圧倒して在る言わば抽象的な概念としての「自然」に対している、そういう気分である。それはちょうど、海岸で打ち寄せる波に見入っているとき、あるいはまた流れる川面をあきずながめているとき、そういうときおちいるあの気分、ひきずりこまれてしまうのではないかとおそれつつたたずんでいなくてはいられないあの気分に似ている。見入るうちに、自分自身がなんとなく所在ないもののように見えてくる。

 そして、考えてみると、私はこの気分を求めてときおりこの小屋に来るのだし、そもそもがそのためにこういう小屋をつくったのだと言ってよいように思われる。いかなる町が在り人がいようとも、少なくとも当面それはどうでもよい。はなはだきざな言いかたをすれば、そういう景色を見ているうちに、見ている自分がそれとの対比のなかで見えてくる、それにより自身を見つめることができる、そのために、求めてここへ来るのである。そういう小屋にしたかったのである。

 

 こう書いてくると、このような思いに私をおちいらせるためには、ある自然の風景、しかもきわだって目に入るすばらしい風景がありさえすればよいかのように思われるかもしれない。もしもそうならば、観光地で見かける展望台やながめのよいドライブインなどでも、言わゆる景観のすばらしい所ならどこでも、そういう気分にならなくてはならないのだが、どうもそうではない。たしかに、その場をはなれがたく思う、そのまま見入り続けたいと思う場合もないわけではない。行きつけの店のきまった席というのがあり、ひまさえあればそこに座って外の景色をじっとながめている、などという映画のシーンや歌謡曲の一節のような場面も実際にないわけではないだろう。しかし、展望台などからのながめは、言うならば一過性のきれい・すばらしい・・・・で終ってしまう。あるいはきれいな図柄・絵柄・・・・で終ってしまう場合の方が、どう考えても多いようである。つまり「絵葉書」的すばらしさへの感動である。私がこの山小屋で思っている思いは、そういった「絵葉書」的感動とは別のむしろそれを越えたもののようであり、対面している景色が、他よりもきわだった、すばらしいものであればどんなものでもよい、というわけでないのはたしかである。では、どういう場合に私はそう思うのか、そういう思いを抱くのか。どうも、見ている景色が一つの画面として私の前に、私をはなれて、ついたてのごとくに在る場合(そう感じられる場合)はだめで、私自身がその景色の一部に言わば組みこまれてしまっている、そんなように感じられる場合にそういう思いにかられるらしいのであるが、しかしそこのところは私にも未だによく分りきっていない。いずれにしろたしかなのは、すばらしい・・・・とかいう形容の意味することには、「絵葉書」的感動レベルのそれとは違う、それを越えたレベルのものもある、ということである。

 けれども、すばらしい、きれい・・・・ということばを対象が備えている属性のごとく扱うだけでなく、更に、この「絵葉書」的レベルの話としてのみ扱い済ますのが世の大勢でもあるらしい。風景・景色・景観・・・・いろいろなことばが飛びかっているけれども、その意味することは、多くは、言わば「銭湯の富士の絵」なのだ。

 

 先に私は、私がこの山小屋を訪れるのは(従ってこういう思いに浸るのは)ときおりであると書いた。

 しかし、もしも(そこが住める所か否かは別として)私が仮に住みついたとしたら、私の思いはどうなるだろうか。あいかわらず私はそこに私を越えた言わば抽象的概念としての「自然」を見続けるのだろうか。

 おそらくそうではないだろう。

 ときおりとは言え、十年近くもここを訪れることを重ねると、そこで目にする風景に係わる多少の知見が増えるということを先に書いたけれども、これがそこに住みつくとなると、この知見はいやおうなしに増えてくる、というより増えざるを得ないだろう。初めのうちの知見は、これも先に記した通り、地物についてのそれが多い。歩きまわること(これには、ある目的をもって歩く場合もあるし、気の向くままにそぞろ歩くこともあれば、そして不本意ながら道に迷って歩くこともある)によって得た地図的な知識と、現に目の前にしている景色とを重ねてみて、目に見えているそれぞれの地物が比定されてゆくのである。比定されてゆくのには自ずと順序があり、具体的に自分が何らかの理由でその地物と深い係わりを持たざるを得なかった所(それには当然、道に迷ってえらい目にあった、などというのも合まれる)から順に定まってくる。

 面白いことに、見えている地物を、たとえば五万分の一の地図と、照しあわせながら比定していった場合には、そこで得た知識は、その時その場かぎりとなってしまうことが多い。次に見るときにはすっかり忘れている。私のいる小屋からは、はじめに書いたように八ヶ岳の西面が一望にでき、ご承知かと思うが八ヶ岳はその名の通りいくつかの峰より成っている。私はその峰々の名を覚えようとした。ところが、そのうちのいくつかは覚えたのだがたしか赤岳と権現岳だったと思うが、なかなか覚えられない。そのときは覚えたつもりが、次に訪れたときには、どっちがどっちだか忘れているのである。というのも、私のいる所からは、その二つがなんとなく似て見えるのである。おまけに視角の関係で、地図の上の配列通りにあるいはその物理的高さの順に、見えはしないから、地図の上のならび方を覚えてもだめである。いつも、地図の上に私のいる地点を見つけだし、そこから直線をそれぞれの峰の頂へ向けて引き、つまり地図上の作図で、なるほどなるほどと思うわけである。この作業自体は、それはそれなりに面白いけれども、しかし、そういうことで覚えたことと、実際に言わば足でかせいで覚えたこととは、そのなかみが違うようである。

 

 そしてもちろん、住みつくようになれば、ときおり訪れる場合とはまた少しばかり違って、暮してゆくために必然的に係わりをもつものの比重が大きくなる。そして時間が経てば経つほど、その量も増え、目の前の風景は知った色で塗りつぶされてゆく。しかもその知見の内容は、はじめのうちは単なる地物そのもの(あの曲りかど、あの道、〇〇小学校、〇〇の工場・・・・いう類)であったのが、だんだんそうではなくなってくる。たとえば、あのあたりの田畑はどこそこのだれそれのものだ、とかいう具合に、それまではあくまでも私自身に係わりをもつことがらだったのに比べ、言うならば風景とともに他人の顔が浮んできたりするようになってくる。小学校といったって、ただ小学校ではなく、自分の子どもが通っている、あるいはあの家の子が通っている学校、〇〇さんの奥さんが先生をしている学校・・・・というように、私のそこでの暮しが必然的に係わりを持たなければならない言わば人の世が、目に見える風景ともども私に見えてくる。

 「自然」にしてもそうである。きれいな山だとか林だ・・・・などというものではなくなる。あのあたりはたらの芽がよく採れるんだ、昨年はあいつが先きまわりしていいとこ全部持っていっちまったから、ことしは・・・・だとか思いながら見るようになる。いや、これは単に目に見える風景についてだけではない。朝起きて今日は一段と冷えこんだな、などと思った瞬間、あのガソリンスタンドのおばさん(多分〇さんといった具合に名前で思うだろうが)「きょうは寒いねえ」などと方言まるだしで、もこもこ着こんでストーブにかじりついてぼやいているぞ、なんて光景が浮んでくる。土地っ子に似あわず、おかしいくらいに寒がりだからである。こんな具合に、そこに住めば住むほど、見るにつけ(そして聞くにつけ)私の頭のなかは、私がここで暮してゆくにあたって係わりを持たなければならない人の世のイメージでいっぱいになる。おそらくそうなってくると、たとえば町で人とすれちがい、寒いねえ、とか、冷えるねえ、とか一言二言交しても、それは単なる儀礼的時侯のあいさつなのではなく、ほんとのあいさつ、つまりきょう二人がともに味わったことのお互いの確認の意昧をもったことばになってくるのではなかろうか。

 おそらくこの町の一角に住みつき、なじんてしまうと、私の目の前に拡がる一帯は、それを見ることによって直ちに人の世が浮びあがってくる所とそうでない所という具合に、人の世の浮びあがる強さ、濃さに応じて塗り分けられるようになるだろう。それはまた裏返して言えば、すなわち私自身が思うがままに歩きまわれる言わば私の世界の地図が具体的に描かれる、そう言ってもよいのである。それは当然、私の生活のしかた、つまり町のなかにこもりきってすごすか、それとも隣り村はおろか遠くまでその行動範面にするか、によって変ってくる。

 こうなってきたとき、あの「自然」はどこへいってしまったのだろうか。私の念頭から、まったく去ってしまったのか。そうではない。ちゃんと存在している。ただ、その存在のしかたが変っているのである。うまい表現のしかたがないのだが、あえて言えば、私の暮しが係わる風景のなかで(つまり私の世界のなかで)「自然」はもはや対象化し得ない形で、その私の世界のなかにくみこまれてしまっているのである。なくてもよいものではない、それがあってはじめて私の生活がある、切っても切れないもの、「空気」みたいなものとして、それは存在しているのである。そうであるからこそ、それについてのちょっとした話題も、時候のあいさつ同様、そこに住む人たちの共通の話題、すなわち共通の認識となることができるのだ。だからこそ、ときおり訪れるとはいえ、顔なじみになったガソリンスタンドや店の人が、あそこからだったら山がきれいでしょう、などと話しかけてくるのである。

 かといって、町に住み続ける人たちの家は、そのつくりにおいて、わざわざ「自然」と面と向うようなやりかたをまったくと言ってよいほどとりはしない。しかし、それは無視しているのでもない。おそらく私もここに住みつくようになったら、そうなるだろう。もはや「自然」などと、とりたてて口に出して言わなくさえなるかもしれない。私の吸っている「空気」のなかにそれはある。とりだしてみろ、と言われれば、即座にとりだせる、しかし普段は強いてとりだすこともない、言いかたをかえれば、実物を目の前にしなくても直ちにそれを思い浮べることができる、そんな具合になっているのだ。しかしそういう暮しは、はた目から見ると、そういったすばらしい風景とは、せっかくそういう風景があるのにも拘らず、一切それを無視しているように見えるかもしれないがそう思ったらそれはまちがいなのだ。その証拠に、こういう町に住みなれた人が、何かの理由で町を出て、どこか遠くで暮すようになったときふと以前の自分の家のことを思った瞬間目に浮べる姿は、実は、あの昔吸っていた「空気」のなかにひそみこんでいた「風景」なのである。そういう「風景」のなかに在る自分のかつての家であり生活なのである。そういう「空気」として在ったものが、その土地をはなれたとき、はじめて対象化されて見えてくるのである。

 だから、もし私が一念発起してこの町に住みつきはじめたなら、はじめ対象化して見えていた風景は、どんどん日常的な「空気」と化していってしまうのである。おそらくそれが、住み慣れる、ということなのだろう。日常的な生活では、はた目から見ればきわだって見える風景も、とりたててとりあげるまでもないあたりまえなものとして扱い済まされるのである。私が正月をすごした小屋がある町は、その名を富士見という。諏訪から甲州へ向ってここまで来ると、ここではじめて富士山をまのあたりにすることができる。そこから町の名が生まれたのである。ところが調べてみると、この名は、明治7年の町村合併に際してはじめて生みだされた名前で(そのときは富士見村であった)、合併した旧村名にはそのどれにもそれらしき名はない。もちろん八ヶ岳のふもとにあることを言い表すような名もない。原の茶屋、木の間、大平新田、若宮新田・・・・といった名である。当然富士も見えたし、八ヶ岳は目の前にあった。しかし彼らは、それをもって村の名にはしなかったのである。明治になってはじめて景色をはた目で見る見かたが入ってきた、そう考えてよいだろう。それまでは、そこで富士が見え、八ヶ岳を仰ぐことは、そこに住みついている人たちにとっては、とりたてて騒ぐこともないあたりまえのことだったと言ってもよいのではなかろうか。よそから来た人には目新しいことも、その土地の人にはあたりまえなのだ(そして、よそから来た人たちにとってもそれは、その人が住みついてしまえば、あたりまえなものに変ってゆく)。

 「観光」というのは、よそものの目に目新しく映るものによってなりたつのである。だからときおり、どこそこの山はいい山ですね、などと土地の人に話しかけたりすると、そうかねえ、なんて、いささか拍子ぬけの返事が返ってきたりすることがある。なにがそんなにいいのかね、というわけである。実際、その土地の人にとってはなんでもないようなことが「観光」の対象になってしまうのである。それをして「観光資源」というらしい。

 

 それでは、もうこの町にすっかり住みついてしまった私が(もっともほんとに地に足が生えたように住みつくには相当時間がかかると思うけれども)、その吸う「空気」のなかから、意識的に「風景」をとりだして見る気になったならば、どうなるのか。

 実は、この状態が、先に紹介した(いまは風景版画に熱中し自適の生活を送っている)元校長先生の毎日なのであり、そしてその仕事場のつくりも、それに心したものであったのである。

 いま、その町に住みついているのではない私と、もうなが年住みついている元校長先生は、同じ部屋の同じ窓から、同じ景色をながめている。目に入ってくる光景はたしかに同じである。すばらしいですねえ、いいなあ、と私がいう。彼も、ね、いいでしょう、と応ずる。なんとなく話が合ったように私は思いこむ。だが、その思いこみは、既に書いてきたことで明らかなように、必ずしも彼の「いい」と合っているわけではない。いや、少しは合っていないこともないけれど、むしろ、大きく見れば、合っていない、と言った方がよりよいかもしれないのである。なぜなら、彼は、まず「空気」の存在を自覚し、そのなかからその風景を抽出して見ているのに対し、私は(この町に住みついていない段階での私は)、その「空気」を知らない。私が吸っているのは、ここの「空気」ではなく、別の所:現に私が住みついている所の「空気」なのである。(あるいはことによると、私自身が既にその吸っている「空気」が何であるのか分らなくなってしまった私になってしまっているかもしれないのである。)そうであるとき、同じ景色を見ているのだから、彼も私と同じようにそれを見ている、などと思いこむなどは、はなはだおこがましいことなのだということに気づく。唯一の救いは、彼と私が、その見ていることはどうやら違うにも拘らず、同じ風景を目の前において話ができている、ということだ。

 おそらく彼とのつきあいを深めていけば、私は彼の見ているものにほど近いものを見ることができるようになるだろう。同じものを目の前に置いているからである。そしてまたおそらく、そうなり得るということこそが、すばらしい風景、きわだった風景、気になる風景・・というものの効用というものだろう。(ただし、このような場合、私と彼の見ているものが同じに近くなるためには、そこに住みついていない私の方から、極力彼の立場に近づくべく努めなければだめだろう。)

 このように考えてくると、明らかに、住みつくようになってからの私と、ときおり訪れる私とでは、同一の風景に対していても、その見えかたが違ってくる、ということができそうだ。

 

 先に私は、ときおりそこを訪れる私が、その目に入る風景に、私を越えた、言わば抽象的な概念としての「自然」を見ているのだ、というような趣旨のことを書いた。そして、いま書いてきたように、そこに住みついた私も、その「空気」のなかから意識してとりだして「風景」を見ることができ、そしてそこに同じように抽象的な「自然」を見るだろう。そして、ことによると、その「自然」を言おうとして、少なくともことばの上では同じ表現をとるかもしれない。だが、ことばの同一、表現上の同一は、必ずしもそのことば・表現に託されたなかみの同一であることは保証せず、この場合は、むしろそのなかみは違うと言った方がよいだろう。同じように抽象的な「自然」であっても、その「抽象」のなかみが違うのである。

 だが私には、まだ、この違いについて、うまい説明ができない。それを承知であえて言えば、そこに住みついた私が見る風景に見出している「自然」は、その場所:町での私を含めた人の世のなかから(つまり私のその場所での生々しい具体的な生活のなかから)真の意味で抽象した「自然」であり、従ってそれによって得たなかみ(概念)は、それを更により高度に抽象化した概念へと昇化させることができる一方、それとは逆に、それをもとにして、生々しい具体的なそこでの生活を想起することもできる、という性格を備えている。(それゆえ、その風景はその町の「生活」を象徴するものになり得、だからこそ、その町を遠くはなれて町を思うとき、その風景が目の前に浮びあがるのである。)当然そこでも「私」というものが見えてくるはずだが、その「私」もまた、そこに生活している生々しい具体的な私から抽象された、ふくよかなふくらみをもった「私」の姿であって、決して観念的な(理屈の上での)それではないだろう。

 それに反し、先に私がはなはだきざっぽく、自分を見つめたいがためにその風景を見にくるのだと、鼻もちならない書きかたをしたとき(それは決してうそではないけれども)、その風景はなにもその風景でなくてもよかったのである。私の生々しい日常の具体的な生活はそことは別の所にある。その日常の本拠地をはなれ、なおかつ「私」をきわだたせてくれるような、そういう風景ならば、強いてこの町でなくたってよかったのである。そしてまた、そうやって「私」を見つめるやりかたは、日常の生活のなかで「私」をみつめるやりかたよりも、数等容易なことであり、ややもすると単に対比という観察レベルとどまり、あるいは観念的な、理屈の上の認識にとどまってしまうのではなかろうか。

 ときおり訪れる私がある町のある風景に見るもの、そしてその町に住みついた私がその同じ風景にみるもの、その見るものの違い(あるいは見えかたの違い)というのは、おそらくこういうものではないかといま私は考えている。しかし私自身がまだすっきりしていないから、あいかわらずこれは私にとって宿題である。

 

 ところで、ある町に住みついた私が、その吸う「空気」と化してしまった事物に対し、意識的に目をやったなら、などといとも簡単に言ったのであるが、これはそんなに容易なことではない。日常の生活(それはあくまでもその「空気」の存在ゆえになりたっているのだが)に没頭している人にとって、一々その「空気」を気にしなければならない必然性は何もないし、第一その人たちが係わる事物がその人たちにとってしっくりとおさまって、とりたてて目だたない状態であるからこそ「日常」と言うのであり、もしその「空気」をかき乱したりしたならば、それはすなわち「日常」ではなくなってしまうと言ってもよく、だから、日常の生活を営みながら且つその「空気」をもとりだして見つめてみるなどということは至難の技なのである。だからこそ通常に日常の生活を送っている人たちは「空気」をあげつらいはしないのである。そして実際に私自身の日常を省みても、自分の日常が何であるか分ろうとすることがいかに難しいことか、それだけはよく分る。見つめなければならない対象がすなわち見つめている本人なのだから。

 

(「筑波通信№11後半」に続きます。)


1982年度 「筑波通信№11 風景について」 後半

2019-09-10 16:35:55 | 1982年度 「筑波通信」

(「筑波通信№11前半」 より続きます。)

 

 こうして考えてくると、ある町に住みつき、なお且つその「空気」を見つめることのできる人というのは限られてくる。それは、ことばは悪いが、ひまのある人、ひまをつくれる人、である。(一瞬でもいいから)。その日常の生活から身をひき高みにたってながめる時間(それをいまひまと称したのであるが)をもてる人である。あの、いま風景版画に熱をいれている人、自分の仕事場(版画制作のための)を持ち、仕事場の壁に「借景」の窓を開けた人、はどういう人であったか。彼は、校長であった。現役をあがった人、ひとまず生活の糧は保証され、日常の生活、かつては自分もそのまっただなかにあったその日常の生活とつかずはなれずの位置にいられる人である。言ってみれば、彼は他動的にその時間をあてがわれ、あるいは逆に、そういう立場・状況におかれてしまったからこそ、風景に目がいったのである。もちろん、だれでもがそういう状況になれば同じようにふるまうわけではない。おそらく彼の場合には現役のときから、その日常において、ふと風景に見入るときがあったに違いない。日常においても、一瞬そういうひまをつくることができた人であっだろう。それは歩きながらのことであったかもしれず、仕事のちょっとした合間のことであったかもしれない。とにかく彼には、そういうがあった。しかしそれは、直ちに版画に描き、あるいは仕事場をつくりその壁に窓をあけるということには連ならなかった。現役から身をひいたとき、風景は彼に迫って見えてきた。多分こういうことだろう。

 

 いわゆる「借景」の庭や建物というのが、まずほとんど寺の書院や宮家の別荘そして普通の人の家の離れにおいて見られるというのも、こう考えれば納得がゆくのではないだろうか。それらのである人たち(つまりそういうつくりをつくった人たち)の生活は、普通の日常の生活の一段高みにいられる生活であった。別な言いかたをすれば、世の人々、まさに日常に没頭している人々の生活をはすっかいに見て暮す、あるいは暮さなければならない、あるいはまた暮さなければいられない、そういう生活を日常とする人たちであった。(そしてもちろん、その生活の糧はひとまず保証されていた。)普通の人たちの生活と、つかずはなれずの生活が彼らの生活なのであった。それなしに彼らの生活もないのである。

 そして彼らは、その「借景」の風景に、いったい何を見たのだろうか。単に美しい風景、すばらしい景観、かすみたなびく春の山、紅葉に燃えそして雪をかぶった山を見てよろこんだのだろうか。そうではない。そうではないと私は思う。彼らがそこに見たものは、人の世であったはずなのだ。その風景には、その風景を「空気」のごとくに吸って生きている人々のその土地での生活、彼らがつかずはなれず、はすっかいに見て暮しているその人の世が、象徴されているからである。その象徴された人の世を、どのように彼らが見たか、それは知らない。ある場合には、そこに未練を思ったのかもしれないし、あるいはまたそこに来しかた行すえを観じたのかもしれない。いずれにしろ彼らは、そのすばらしい景色と、借景により一体となることを通じ、そういうしかたで人の世と交ったのではなかろうか。

 なぜ私かそう思うか。それはまったく単純な事実による。もし彼らが、単に、美しい、すばらしい、きれいな風景をながめるだけを目的としたのならば、なにも町なかとつかずはなれずの所などに居を構えなくてもよかったのである。そういう風景は、その地をはなれても、いくらでも見つけられた。しかし。そうしてしまったならば、それは「遁世」になってしまう。彼らはそうはしなかった。彼らはその地とつかずはなれずの場所に、その地で生きる人たちにとっては切っても切れない風景を借景にし、思いを人の世に馳せながら、そこですごしたのである。世俗からは、はなれることはできなかったのである。

 あるいはこの推測は、少しばかり強引であるかもしれない。しかし、上記の件や、主な借景建築・庭園の建主の素性を二三調べてみると、私にはどうもそのように見えるのである。そして、いずれにしろ。彼らが借景によりとりこんだ風景、すなわち「借景」という技法が、単なる映像としての景色、「絵葉書」的景観、が目あてではなかったことは、それは絶対に確実である。それを、単に「絵葉書」的美しさで見て済ますのだけは、明らかにまちがいである。

 それではいったい、いま私がいる山小屋の「借景」は、何なのだろうか。どうやらまた一つ宿題ができてしまったようだ。

 

あとがき

〇一昨年九月の号のあとがきで、いつも山にとりかこまれている人の山の見かた(従って見えかた)は、ときおりその山を見る人のそれと、どう違うのか、一度尋ねてみたいと書いた。それ以来別段そのことばかり考えてきたわけではもちろんないが、たまたまこの正月、久しぶりにすばらしい山のすがたをながめているうちに、それという確信もないままに、風景について書いて見る気になった。

〇一昨年から昨年にかけて、上州・妙義山のふもとに住宅を設計した。妙義山からながれるゆるい東斜面の敷地で、そこに立つと妙義山が目の前にたちはだかり、なかなか追力がある。あの特異なスカイラインが切れる右手のはざまには、浅間山の頂も見える。このすばらしい景観は、敷地から見ると、ちょうど真西に拡がっていることになる。このあたりに建つ家は、昔のものも今のものも、まずほとんど南面している。つまり、山の方へは向いていない。ところが私は、この家を、平然と、西向きに設計したのである。山から敷地までの聞には、仮に将来家が建ったにしてもどうということもない拡がりが維持されそうなので、敷地から山までの前景と山自体、全部ひっくるめて家にとりこんでやろうと思ったのである、つまり「借景」である。少し大げさに言わせてもらうと、妙義山から流れでた大地の流れを、家がせきとめている。そんな感じになっている。それはそれなりになんとか格好はついたと思うのだが、ふと、これでよかったのかという気がしてくるのである。ときおり訪れるにはいいかもしれないが、毎日山をうけとめているというのがいいものなのか、それはそれで構わないのか、どうもそのあたりが、自分でも分らなくなってきた。これが今回の話を書くもう一つの動機でもあった。

〇書いてみて分ったかというと、どうもすっきりとはなっていない。

〇いま建設中の知恵おくれの人たちの家では、設計のときとりたてて強く意識したわけではないが(しなかったわけでもないが)目の前に、それはちょうど真南にあたるのだが、富士山が浮いて見える。これはまた見事である。特にいまは空気が澄み雪をかぶっているから圧巻である。ここに住む人たちは、これをどう見るのだろうか。

〇いずれにしろ、書いたら宿題が残ってしまった。収穫といえば収穫ではある。

〇風景にどのように対しているか、そんなところに注意を向けては本を読んだことはそんなにないが、今後は少しその気になって読んでみようかと思う。

〇きょうの夕刊に、いくつかの詩・句が紹介されていた。私の知らない詩であった。

    あの山は誰の山だ どっしりしたあの山は ・・・・

    枯れ山の月今昔を照らしゐる

    一月の川一月の谷の中

〇そして、私が風景を気にしているのは。私がいずれにしろ見えてしまうものをつくる仕事に係わりを持っているからである。それもまた風景の一部になってしまうからである。

〇先号のなかみは少し舌たらずなので、いずれ書き改めるつもり。

〇それぞれなりのご活躍を!風邪をひかれぬように!

       1983・12・8             下山 眞司        

                           


「第Ⅳ章ー2 参考 喜多院客殿, 修学院離宮客殿, 本願寺対面所」 日本の木造建築工法の展開

2019-09-04 18:01:21 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「第Ⅳ章ー2-参考、付録」A4版9頁

 

参考 喜多院 客殿 1640年(寛永17年)ごろ造営  所在 埼玉県 川越市     

 天台宗無量寿寺の一院、当初北院と言い、徳川家の帰依を受けた。江戸城からの移築か。全般に、材寸が大きいが、匠明の示す数値よりは小さい。架構法、室内形式は、基本的に他例に同じ。

 

 

平面図                         日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 

 

 

南側外観                          日本建築史基礎資料集成十七 書院Ⅱ より

 

上段の間(天井と下がり壁の見切りは付長押)   原色日本の美術12城と書院 より

 

 

 

桁行断面図   小屋筋かいは修理時の追加             

 

梁行断面図                   断面図:日本建築史基礎資料集成十七 書院Ⅱ より転載・編集

柱間基準寸法 6尺5寸(実測によると6尺4寸4分~5分)柱径 5寸3分    

 

 

参考 修学院離宮 中御茶屋 客殿 1682年(天和2年)造営

 旧東福門院後水尾ごみずのお天皇*の中宮)の御所の客殿 奥御対面所を移築した建物。ほぼ当初建物のまま。修学院離宮後水尾院の離宮。

 

平面図                         日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 平面図                         日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 

 

桁行断面図                      日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より

 基準柱間 6尺5寸  柱は4寸2分角(面取り)、縁まわりのみ4寸8分角。 架構は、他の例と同様、下がり壁の付長押裏に貫を通す手法。

 

 

南側外観 

 

一の間北面の床、違い棚      

 

一の間南面から庭を望む            写真:日本建築史基礎資料集成十七書院Ⅱより  

 

 

考 本願寺 対面所および白書院  1630年(寛永7年)ごろ  所在 京都市内 

 浄土真宗本願寺派本山(親鸞が宗祖)の接客空間。対面所(上段以南)と紫明の間・二の間・三の間白書院)は別の建物を移築接合(納戸が接合部)、対面所西側の雀の間~菊の間は増築と考えられている 。

 

  

平面図                    日本建築史基礎資料集平成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 

 

 南面外観

 

 対面所 正面を見る

写真:日本建築史基礎資料集成十七書院Ⅱより

 

 

梁行断面図

 

桁行断面図                      断面図:日本建築史基礎資料集平成 十七 書院Ⅱ より転載・編集                      

 


 通常の方丈建築・書院造と同様、頂部と脚部をで固めた軸組上に、格子状の大梁桔木によるを組み、7段ので束を固めた小屋組を載せ立体を一体化している。増築に際しても同じ工法を採用。 

 壁に耐力を期待してはおらず、それゆえ、壁、開口の位置の設定はまったく任意である。

 安土桃山時代以降、多くの大規模建築が建てられているが、そのいずれも、方丈建築・書院造で培われた工法の延長上でつくられていると見なしてよい。

 

 

 以上概略見てきたように、古代末に始まった二重屋根構造:桔木構造は、中世の方丈建築、近世の客殿建築を経て、いわゆる書院造と呼ばれる建物群に広く使われています。

 下図に、それらを要約してまとめてみました。

 橙色に塗った箇所が、架構の立体化・一体化を担っている二重屋根:桔木構造+小屋組の部分です。

 

      

 これらの建物を通観すると、建屋の外形が、簡潔で左右・前後がおおむね相称であること気付きます。

 これは、この間の各種の造営を通じて、桔木構造がもたらす効能、すなわち、脚部と上部を貫で固めた建屋主要部の自立性を、さらに建屋の四周にまわした桔木構造の庇・軒先部で補うという効能が工人たちの間に知られていたからであり、桔木構造による鍔つば状部分(つば:刀の柄と刀との間にある環)は、四周に取付いてはじめて立体効果が生まれること、一面でも欠けると立体効果は減殺することを認識していたのです。 

 

 土桃山~江戸初期に多く造営された木造の巨大建築:二条城書院本願寺系の諸建物、妙法院・庫裏など:においても、同様の工法がいわば拡大して用いられていますが、それは単に書院造の形体を好み、それを模写したからではなく、その工法の効能が広く認識され、援用されたものと考えられます。

 現在、巨大、かつ重量のある屋根は、重心が高く、地震に対しては不利である、との見かた、考えかたが「常識」として一般に広まっています。

 しかし、外壁、間仕切とも大半を開口装置とした安土桃山期に建てられたこれらの巨大建造物は、幾多の地震に遭いながらも、すでに400年近く、倒壊・損壊することなく現在に至っています。つまり、いわば、自然という大実験室での実物大の実験に堪えてきているのです。この事実は、事実として受け止めなければなりません。ではなぜ、堪えてきたのでしょうか。

 それは、先の「常識」:重量のある屋根は、重心が高く地震に対しては不利であるという常識は、掘立柱方式の場合には言い得ても、礎石建ての建物の場合には符合しないからです。

   註 ここで言う礎石建て方式とは、古来の工法のそれを指し、礎石上に据え置く方式

 地震とは、地面・地盤の震動のことです。

 掘立柱方式の建物の場合、建物は地面・地盤の動きに追随して動きます。一方で、地面・地盤が動いたとき、建物には慣性による力も働きます。建物が、地盤が動く直前の位置を保とうとすることによって建物に生じる力です。

 たとえば、地盤・地面が右へ動いたとき、建物は、足元では地盤・地面とともに右へ動き、上方は元の位置を保ち続けようとします。それは、地盤・地面から見れば、左へ動くことになり、その大きさは、建物の重量に比例します。したがって、掘立柱方式の場合は、見かけの上では、足元は右へ、上部では左へと動かされることになります。その結果、地震の際、重量が大きい建物は、たとえば屋根の重い屋根の建物は、軽い屋根の建物よりも、大きな挙動を生じることになります。すなわち、先の「常識」は、掘立柱方式:建物が地盤・地面に固定されている場合の「常識」にほかなりません。

 これに対して、礎石建て方式の場合、建物は、地盤・地面の動きには追随せずに、元の位置を保とうとします礎石との間に摩擦がありますから、摩擦の程度に応じた追随はします)。

 重量が大きいほど元の位置を保とうとする働きも大きく、したがって、屋根の大きく重い建物は、礎石建ての場合、地震にともなう挙動が少ないことになります。極端な言い方をすれば、建物の下で地盤・地面が勝手に動くということになります。原理的に、建物の下で地盤・地面が勝手に動く、という現象は、礎石建ての場合、建物重量に関係なく、すべての建物に共通する現象です布石上に置かれた土台建ての建物が、地震の際、布石上を滑ることがありますが、これもこの現象の一例です)。

 以上見てきたように、中世の普通の建物から戦国期の城郭はもとより、安土桃山期~江戸初頭の巨大建物群に至るまで、壁が少なくあるいは偏在している多くの建物が、今日まで存在し続けてきた理由は、中世以来、一般、上層を問わず、工人たちの間で培われてきた建屋を簡潔で左右・前後相称の形にまとめ、部材を徹底して一体の立体になるべく組上げる技術・工法にあると言えるでしょう。 

 それは、単に桔木などを使用さえすればよいのではありません。部分の足し算からは全体は生まれないことを熟知していた工人たちは、そのような使いかたはしません。

 彼らは、常に先ず全体を見通し、次いで部分を考えているのです。

 それは、彼らの使った図面にも現われています。彼らの描いた図面は、次の例のように、単なる絵ではなく、施工に使うことのできる絵、工程を踏まえて描いた絵なのです。 

 

 

参考 江戸城 本丸 大広間 絵図 万延元年御普請絵図(1860年)  古図にみる日本の建築 より

 設計図=施工図の実例 柱間1間を1寸で表記 材の種類、寸法などを色と記号で区別 凡例は読めるところだけ転記

足固伏図   凡例 右から 側足堅め 足堅め 大引 床束 1寸:1間荷持柱

 

土台伏図   凡例 右から  槻 槻 檜 荷持柱

 

 

屋根水取図   凡例 赤線 実線:柱筋  破線:間仕切 赤丸数字:柱間寸法  文字読めず!

 

小屋梁配図   凡例は 色で材料名 数字で材寸  文字読めず!

 

(「第Ⅳ章-2-付録」に続きます。)