建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

1982年度「筑波通信№9 今日のない明日・・・・近代化ということ」前半 1982年12月

2019-08-16 14:05:31 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №9」1982年12月 A4版15+2頁 

       「筑波通信 №9」 1982年12月

       今日のない明日・・・・「近代化」ということ・・・・

新幹線は沿線を発展させるか・・・・鉄道と地域の「開発」

 上越新幹線が開通した。

 開通を数週間後にひかえた新聞紙上では、開通にいたるまでのいろいろな裏ばなしが特集で組まれていた。例のごとく、政治がらみの生ぐさい話である。その記事のなかで私の目をひいたのは、ある駅が決定されるにいたった経緯:その解説であった。三国山系から越後平野にさしかかった最初の駅の位置についてのものである。それは在来の上越線の一小駅に設定されている。それゆえ、政治がらみの駅なのではないかという疑惑があるというのである。これに対して、それは全く技術的な検討の結果であって、政治的な圧力などによって決まったのではない、というのが国鉄側の説明であった。そして私の目をひいたのは、この「純粋に技術的な検討の結果」ということばであった。

 それによると、ある標高で三国山系をぬけでた列車の、そのスピードと安全を保つべく、こう配、カーブを地図上で検討してみたところ、妥当と思われる線が決ってきた。そしてその線上に上越線の交点を探したところ、それがその小駅の近くだった、というのである。技術的に合理性が追求されたのならば、やむを得ない結論なのかもしれない、大概の人はそう思って納得し、いささかふにおちない思いを抱いた人たちでも、なにやらむづかしそうな技術的な解説などもちだされると、それに対抗できる反論の用意もまたなかなかむづかしいと思うから、結局うやむやのままになってしまう。「技術」だとか「専門」だとかいうことばはまるでいまでは魔法のことば、そのひとことで大抵の人は恐れをなして口をつぐんでしまう。

 だが、この国鉄の説明に素直に従うと、上越新幹線はその路線の決定に際し、いわば山越えの技術的解決にのみ熱心で、どこの土地:町を通るか、駅はどこがよいか、といったことは特に考えてはいなかった、ということになる。通常の感覚で考えるならば、これではものごとの順序が逆ではなかろうか。つまり、鉄道を敷設するのであるから、まずその鉄道の通過地点をいろいろ考える、そしてそのためにはとこでどう山を越えるのがよいか、それにはどう技術的に対応しなければならないか・・・・ざっとこういう具合に話がすすむのがあたりまえではないか。先の国鉄の説明では、新幹線の目的は単に山を越えることにだけ意味がある、そんなことにもなりかねない。

 しかしふと考える。この国鉄の説明は少しもうそは言ってない、本音なのかもしれない、と。確かにはじめから通過経路が考えられなかったわけではなく、ちゃんと考えはした。ただそのとき考えのなかにあったのは、始点の東京、終点の新潟、そして途中の主だった分岐点の大宮、高崎などだけで、その他のところはあくまでも単なる通過点(主目的を達するためにやむなく通りすぎる途中)にすぎない、そう考えられていたと見ることもできるかもしれない。そもそも、新幹線網という思想がそういうものなのだからである。主目的は東京と新潟をいかに速くつなぐかにある。途中は、いわばついでなのだ。

 しかし、新幹線の思想がどうあれ、鉄道というものに対して、人々は近代以降鉄道というものがはたしてきた効果・役割についてのバラ色の夢を持ちたがる。鉄道が通り駅ができ・・・・そしてそこには繁栄がある。幾多の例でそうなった話を人々は知っているから、そうなることを夢みて誘致合戦が行われ政治家がからんでくる。世のなかもまた、鉄道というとすぐに政治色で見るようになる。だが、「途中はついで」の新幹線に、近代の鉄道がはたしてきたと同じような発展の期待を、その沿線の人々は持つことができるのだろうか。私にはそう思えない。

 

 近代になっての鉄道の敷設は、たしかに世のなかを変えてきた。鉄道があるかないかは、その町の繁栄の度合に大きく影響した。鉄道が通ってしまったために、考えもしなかったほどの繁栄をみた町もあった。鉄道はその通過する沿線を発展させてきた。いまでは、鉄道を通すことが新たな「開発」を促進させる、というのがあたりまえなこととして理解される。

 だが、一概に鉄道と言っても、その敷設にあたっては、どうも明らかに異なる二つの思想があったように、私には思えてならない。一つは、先に書いた「新たな沿線開発」の促進を目的とする思想である。最近の東京西部から神奈川へかけての田園都市線の新設などは、その思想に拠った典型だろう。けれども、全ての鉄道が当初から、このような未開の地の開発を目ざしていた、と思ってしまっては、どうもまちがいであるように私には思えるのである。

  江戸期の関東平野のありさまを示した地図を載せました。この図と、お手元の地図帳とを、あわせ参照しつつお読みください。 

 


東武鉄道・・・・もうからない鉄道

 東京の浅草を起点にする東武鉄道伊勢崎線という私鉄がある。日光に行くので知られている。ことによると、日光に行くことだけが知られていて、伊勢崎線などという名称は知られていないのかもしれない。浅草を出た電車は、途中で伊勢崎行と日光行の二線に分れる。伊勢崎行が本線の伊勢崎線で日光行は支線であり、この日光線は本線より大分おくれて開通したのだが、おそらくいまはこちらの方がよく知られているはずなのだ。いまは途中まで地下鉄日比谷線と相互乗入れをし、沿線も宅地化が進行しつつあるが、それも昭和三十年代の後半になって住宅公団の大団地が田んぼをつぶしてつくられるようになってからで、そのころまでは、東京の町を出るとすぐに、窓の外一面に田園風景がひろがったものであった。いまでも、沿線からひとかわはずれ、あるいは東京を少しはなれると、あいかわらずの風景が残っている。田園のなかを、いまはもうめったには見られない旧型の電車が、これも昔ながらの音をたてて走っていたりして、いまや一つの風物詩のおもむきさえただよわせている。

 東武鉄道というのは、その営業キロ数で関東一の規模を持つ私鉄である(約500kmに達し、キロ数では全国で一・二位を競う。因みにバス路線も長大で、近年減ってはいるが、それでも約3500kmあるという)。伊勢崎線、日光線の他にも多数の線があり、そのいずれもほとんど田園地帯のまんなかを走る、言いかたは悪いが、田舎電車である。沿線に、東京へ通う人たちの家がたてこんできたのも極く最近で、敷設以来半世紀以上もたってはいるのだが、その間ずっと田園のなかを走り続けてきたのである。ということは、この鉄道は敷設以来長期間、今日的な意昧での沿線開発という役割ははたしてはこなかったということになる。実際、その走っている地域は埼玉、栃木、群馬に重心があり、また沿線は田んぼで住宅むきな土地ではないから(いまでは田んぼでもなんでも平気で家を建てるけれども、そうなったのはつい最近のことだ)、開設当初のありさまは決して「開発」にむいているなどとは言いがたかった。

 実は、この鉄道のこういう特徴、そしてその一大起点が浅草という山の手線からはなれ、いささか不便な地にあること、について、まえまえから私は不審に思っていたのである。(この不審は、少し大げさに言うと、子どものころにまでさかのぼる。ご多分にもれず、私も電車が好きだった。いまでこそ東京近郊を走る電車はみなきれいだし差が見られないが、私の子どものころ、京王線、西武線、東武線のおそまつさは定評があった。東横線、小田急線、井の頭線に比べるとどれも田舎電車、おんぼろであった。従って、私たち電車キチには評判が悪かった。当時の私たちに分ったその理由は極めて単純にして明快、もうかっていないからさ、というものであって、なぜもうからないのか、その理由にまでは思いがいたらなかったように思う。この格好いい電車、おんぼろ電車の差は、その路線敷設の理由:動機の差一一これから書こうとしていることに連なるのだが一一によるのだと気がついたのは、ずっとあとのことである。)

 ではいったい、この鉄道は、なにを目的として敷設されたのだろうか。

 東武鉄道伊勢崎線は、浅草を出たあと、北千住、草加(そうか)、越ヶ谷(こしがや)、春日部(かすかべ)、杉戸(すぎと、現「東武動物公園」)、・・・・このあたりまで田園の宅地化が及びつつある・・・・久喜(くき)、・・・・久喜で東北本線と交わる・・・・加須(かぞ)、羽生(はにゅう) このルートは江戸期の「日光道中」に大体重なる。・・・・ここまで埼玉県そして利根川をわたり群馬県に入る・・・・館林(たてばやし)、足利(あしかが)、太田(おおた)、そして伊勢崎(いせざき)の順に走る。 途中春日部で野田線(のだせん。高崎線大宮から春日部を通り常盤線の柏、総武線の船橋へと走る)、杉戸で日光線、羽生で高崎線熊谷へ通じる羽生線、館林ではそれより北、渡良瀬川をわたり栃木の佐野へ通じる佐野線それとは逆にほほ利根川に平行し小泉(こいずみ)を経由し太田へ直行する小泉線、そして太田では桐生(きりゅう:群馬県)へ行く桐生線、といった具合に実に多くの支線を分けている。地図を見ると分るとおり、関東平野の中央低地部から利根川を越え、赤城山をはじめとする平野外縁・北辺の山々のすそ野へかけて、その大地の上に点在・散在する大小の町々を、この鉄道は実にこまめにこまやかに、一つ一つつないでいるのである。 

 この他に、東武鉄道には、東京・池袋から秩父へ向う東上線がある。大体昔の川越街道に沿っている。これも、旧くからの町々をつないでいる。

  一方、この地域を走る国鉄線は、東京・上野から、浦和、大宮、熊谷、本庄を経て高崎へ出る高崎線、その途中の大宮から分れ、久喜、古河、小山、宇都宮・・・・とぬける東北本線、そして高崎の先、前橋から伊勢崎、桐生、足利、佐野、そして東北本線小山へと至る関東北辺の赤城・足尾・日光連山のすそをまいて走る両毛線(りょうもうせん。上毛野:かみつけのと下毛野:しもつけのを結ぶゆえ両毛という。上毛野はいまの群馬県、下毛野は栃木県あたりをいう。)、この三本があるだけである。

 参考に載せた地図には「下野国」「上野国」と書きそれぞれ「しもつけのく」「こうづけのくに」と読みがなが付いている。「毛」をぬいて書く表記法が慣習化してしまう一方、読みかただけは元どおりに行われた結果だろう。子どものころ、なぜそう読むのか不思議に思ったことがある。なお、「こうづけ」は、もちろん「かみつけ」の音便である。

 

 地図を見るとすぐに分るのだが、この国鉄東北本線の東側にあたる部分には、太平洋岸沿いの常磐線までの聞、国鉄線は一本もない。わずかにあるのは、その地域の北辺を走る水戸線があるだけである。これはあとで詳しく書くつもりだが、この地域(それは関東平野の東半分を占める広大な地域である)は、ながい間鉄道というものに縁がなかった。同様に、この三本の国鉄がかたちづくる三角形のなかも、関東平野の西北部を占める利根川をはさんだ豊かな田園地帯なのだが、ここもしばらくの間鉄道に縁がなかった。そして、先に東武鉄道の通過地点として列挙した土地は、まずどこも、このいち早く敷設された鉄道:国鉄とは縁のない所であったことが分るだろう。東武鉄道がなかったとき、これらの土地へは国鉄だけを使って行くとなると大変であった。このことはいまでも同じであり、東武鉄道のやっかいにならない限り、これらの町へはなかなか行きにくい。この地域の交通は(明らかにもうかるわけはないのだが)東武鉄道が補っているわけなのだ。

 二・三分も待てば電車が自然と来てくれる都会に住みなれてしまうと、鉄道の偉大さ・ありがたさをつい忘れてしまう。私が住む筑波研究学園都市は、先の鉄道空白地帯:関東平野東半分の東端に位置している。学園都市などというとすぐ都会風な姿を想像するかもしれないがとんでもない。もともと、どの駅を最寄りの駅と呼んだらよいか、首をひねってしまうほど、どの駅からもはなれている。いまだってバスが通うようになっただけで基本的には少しも変っていない。自動車が普及しだす前・・・・それはほんの10年前なのだが・・・・大げさにきこえるかもしれないが、ここには江戸時代が残っていたのである。最寄りの駅がないわけではない。しかし、駅からあるいは駅まで、10kmなどはざら、ことによるとどの駅へ行こうにも3 ・40kmは歩かなければならない所がいっぱいあった。バスがほそぼそと通い、車が普及したからそれほど気にもならなくなったが、これも基本的にはなにも変っていない。鉄道がどこにも通っていない時代にはどの村もまあ均等にどれかの街道や舟運路に面していたが、鉄道が通じた結果、逆に[辺地]が生まれてしまった。辺地とは、言わば相対的な概念なのである。この土地に住むようになって、それこそはてしなく続く大地の上に、これもはてしなく散在する村々を見出して、この大地のふところの深さに驚嘆した。いくら車で走っても、えんえんと同じような風景が続くのである。その深いふところのどこにも人が住みついている。それがあたりまえなのだが、都会に染まってしまっていた私には、このあたりまえに住んでいるという極くあたりまえなことが、衝撃的でさえあった。そして私は、私の不明を思い知らされた。

 

 ところで、いまここで次々にでてきた地名の内、いま東京に住んでいる人たちのどれだけが、どのくらいまで知っているだろうか。ことによると草加はせんべいで、足利や伊勢崎や桐生はそこで産する織物:めいせんで、そして館林はぶんぷくちゃがまで・・・・といった具合に、その土地がらみの物や話で知っているだけで、そこへどうやって行くのかとなると一瞬とまどうのではなかろうか。まして加須などともなれば、読めもしないだろう(もっともいまは東北自動車道の入口があるので知られだした)。関東では関西とちがって国鉄への依存度が高いから、たとえ私鉄が発達していても、私鉄の駅名:私鉄の通る土地の名の知名度は低い。おまけに国鉄沿線の方が圧倒的と言ってよいほど発展してしまっているから、これらの町々の名は、ともすれば忘れられかかる。

 たしかにいまこれらの町々の名の知名度は低くなりつつあり、なかにはさびれかかっている町もある。けれども、これらの町々は、いまの姿とは比べものにならないと言ってよいほど、ほんのつい最近まで栄えていた、それなりに知名度の高い町々であっだ。これらの町々は、近世まで(鉄道という新しい交通手段が導入されるまで)交通路上の要所として、いま以上に繁栄していたのである。

 だが私自身がこのことに気づいたのは数年前のことだ。筑波から埼玉平野の中央部へ向って車を走らせていたとき、「加須」という場所に偶然さしかかった。見わたすかぎりの田んぼのなかに突然島のような家々のかたまりが見えてくる。そして、うらさびれた風情の(しかし少し手を入れればそれなりの格好となる)街なみが続く町なかにとびこんでしまった。明らかに街道すじの町だ。どうしてこんな所に、と私はとまどった。かなり広い構内を持つ駅まである(東武伊勢崎線の加須駅だというのはあとで知った)。そして、あとで調べてみてはじめて、そこが近世までの交通の一要所であったことを知らされたのである。「加須」と書いて「かぞ」と読むと知ったのもそのときである。そしてそのとき、加須だけではなく、先に書き連ねた東武線の諸駅がほとんど全て、鉄道以前から、というより鉄道に拠るのではなくして、栄えていた町々であったということも知ったのである。

 私がこのことを知らなかったのは、そして多分大かたの人が知らないというのも、私の(あるいは大かたの人々の)関東平野についての知識:それぞれの人々の頭のなかにある関東平野の地図:というのが、鉄道の網目、しかも国鉄のそれによって構成されているからに他ならない。それに加えて、鉄道:国鉄が通ってかれこれ一世紀に近くもなると、現状があたりまえに思われ、今栄えている所が昔からずっと栄えていた、国鉄沿いが昔から交通の要路でめった、そういう錯覚をも持ってしまいがちだからである。ある意味ではこういう誤解もいたしかたない。かといって、誤解を放っておいてよいわけではない。

 

なぜ浅草が起点になったのか‥‥関東平野の繁栄:その昔といま

 そこで、あらためて関東平野の地図を拡げて見てみよう。そしてこの地図の上から鉄道線路という線路を全てとりはずしてみる。ついでに今栄えている町々の地名だけ残して(たとえば〇印に地名を付すことにして)その市域・町域を示す図上の表示(市街化部分を示すしるし)をもとり去るともっとよい。そこにいったい何か見えてくるか。学校の教科書の地図帳でそれを試みてみる。そうすると、地図の上の平野を表わす一面の黄緑色のなかに、そこを貫流するいくつもの河川が見えてくるはずである。それらの河川は、水の流れという自然現象ゆえ、平野の外縁をかたちづくる山々から海:特に東京湾へ向って走っている。図式的に言えば、東京湾をかなめにした扇の骨のような具合に河川が平野を刻んでいる。利根川だけがその全体の大勢をはなれ東進している(もとはといえば、やはりこの川もこの大勢に従い東京湾にそそいでいた)。

 そしてこの東京湾にそそぐ諸河川のいわば集中点に東京:昔の江戸:の中心がある。よく見ると、東京から地方へ通う道もまた放射状に、めったなことでは河川を横切らずほぼ河川と河川との間を河川に並行して走っていることが見えてくる。今の国道も(所々でバイパスが通ったため変ってはいるが)そうなっている。そして、その国道のほとんどは、江戸期の諸街道を踏襲したものだ。そこで、先に書き連ねた一連の町々の所在を見なおしてみる。するとこの町々はこれらの街道の上に位置していることが分る。

 次に、(これはただ地図帳をながめているだけではだめで、ある種の発想の転換を要するのだが)、鉄道敷設以前の陸上交通以外のもう一つの交通手段:水運・舟運の経路をこれに重ねてみる。関東平野を貫流する諸河川は、単に農業用水としてだけではなく、同時に(ときには農業用水としてよりも)交通・通運の要路としての役割をもたされていたのである。利根川に、壮大な高瀬舟が通っていた(高瀬舟は京都・高瀬川だけのものではなかったのだ)。利根川を東京湾に流入させず東進させた江戸期の大事業も、単に江戸を洪水から防ぐという目的だけではなく、舟運路の一定水位化を目ざすものだったという解釈が最近では有力だという。かくして、地図上に陸路、水路という二種類の交通網が描かれることになる。 

 自然河川の他に、いくつもの人工河川をつくり使用した。加須の近くには17世紀中ごろにつくられた葛西(かつしか)用水やいくつかの「堀」がある。

 そこで更にあらためて先きほどの町々の所在をながめてみる。もう明らかなように、これらの町々:いまは忘れ去られようとしている町々:のほとんどが、この二種の通運路と深い関係にあったことが判明する。江戸の町の(あるいは鉄道敷設前の東京の)生活を保証する物資の集積地、商業の町としてそれらは栄えたのであり、江戸(幕府)はそのためその通商路の整備に腐心したのでもある。

 では、江戸に向った物資は、江戸のどこに向ったのか。当然のことだが輸送量では舟運にはかなわない。食糧をはじめとする生活物資も、建築資材の木材も・・・・そのほとんどは舟運によった。そして、それらの江戸での集積地、それが隅田川沿いの一画であった。いまの浅草かいわいである。「蔵前」という地名は端的にそれを示している。蔵が軒をならべていたのである。その少し下流に「木場」がある。関東平野を下ってきた木材、海運によって関東諸国以外から運ばれてきた木材がここに集められた。とにかくこの一帯は人通りもはげしく、にぎわっていたのである。遊興地も、そこに集まる人々を相手に生まれ、にぎわいをみせた。

 

 今年の通信第3号「水田の風景」のなかで、大ざっぱではあるけれども、関東平野の開拓の手順をながめてみた。けれどもそのときには、いまここでみたような交通網のはなしには全く触れなかった。それではほんとは片手おちなのだ。平野の開拓と交通網の整備は互いに関連し、並行していたのである。関東平野の全域に目を配りつつ計画的に開発が行われたのは、江戸期に入ってから、江戸に都をつくりだしてからである。江戸の町の自給自足体制の確立のためには関東平野(当代随一の穀倉地帯)の掌握が不可欠であり、その政策の一環として、新田開発(利水・治水計画をともなう)と輸送網の整備は並行したのである。しかし、こういう書きかたはほんとは正しくない。これらの政策は、江戸に町をつくりだしてから考えだされたのではなく、むしろ、こういう施策をほどこせば江戸に町がつくれる、という計算が先にあったと見るべきだからである。つまり、関東平野が開拓さえすれば豊かな穀倉地帯になし得る可能性を秘めた土地であることを見通し、それさえ掌握すれば絶対的と言っていいほどの自給自足体制が確立できるとの確かな見通しを持ち得たからこそ江戸に幕府を構える決断がなされたのであり、そしてそれが実際そのとおりであったからこそ、徳川は三百年という長期にわたって生きながらえたのだということができるだろう。その三百年間に、この関東平野の上に、当時としてでき得る限りの整備がほどこされた。江戸の町の成熟と相たずさえて、江戸の町と持ちつ持たれつの関係のなかで先にかかげた(いまは忘れ去られつつある)町々も、それらを網の目のようにつなぐ通運路もまた成熟していった。

 そして明治が来る。この平野の上にも「近代化」の波が押しよせる。

  

 明治に入り、この平野の上にも鉄道の敷設が計画され実施にうつされはじめた。いま、それらの鉄道をほほ敷設順に記してみよう。

 1881年(明治11年)民間の日本鉄道KKが設立され、その会社によりまずいまの高崎線が1884年に開通し、翌年1885年東北線が大宮と宇都宮の間で開業する。これらはいずれも東京と信越、東京と東北・奥羽を結ぶといういわば国家的なスケールの計画の一環であった。高崎線の路線はそのときまでの最重要陸路の一つ中山道をほぼ踏襲しているけれども、東北線は大宮から分れているため、既存の街道とは無関係なルートを通っている。先にも書いたが、陸路の多くが河川の横断を極力避け、ほぼ河川に並行しているのに対し、東北線はむしろそれらに直交するような形で平野を横切っているのが地図の上に認められる。そしてその結果、東北本線は既存の町をはなれて通ることになった。

 それよりほんの数年おくれて、1888~1889年にかけ、両毛鉄道:いまの両毛線が開通している。これは、もとから在った街道(旧くは古代の東山道にまでさかのぼる)に沿って既存の栄えた町をつないでいる。ただ、先の二本(高崎線、東北線)が東京と地方を結ぶことを意図しているのに対して、これは前橋・伊勢崎・桐生・足利・佐野・栃木・小山という具合に、江戸時代に成長した江戸とをつなぐ通運路の端末の拠点の町:平野外縁の山々のきわ、水路としての河川のそばにできあがった町々を横につなぐ役割だけを持っていた。いわば地方線なのである。

 1884年からわずか五年ほどの間に、はじめに書いた現国鉄の三角地帯が形成されたわけである(因みに、前橋から先のいまの上越線は大分開通がおそく1931年になってからである。信越線全通が1893年だから、実に38年後のことだ。上越線が開通するまでは、新潟は長野よりも遠かった。鉄道による経済的波及効果、いわゆる近代化という点で、新潟はその分だけおくれをとったということができるだろう。もしかしたら、その苦い経験が上越新幹線を我れ先に建設させようという政治的行動の動機になっているのかもしれない)。

 

 鉄道敷設の経済効果は極めて大きかった。物流の構造改革が成されはじめたのである。大量輸送機関であった舟運も鉄道の速さにはかなわない。集積地が変りはじめる。平野の西半分は、それでも、まだよかった。鉄道がほぼ従来の街道沿いだったからである。それまでの大動脈であった東部の河川すじは真向からその影響を受けだした。上流で舟運路に直交する鉄道に、荷がさらわれだしたのである。当然、町々の拠ってたつ基盤がゆるぎだす。鉄道の通った町がうらやましく思われる(生活が乱されると鉄道の敷設に当初反対した人々が多かったわけであるが、それが後悔にかわったという話もめずらしくない)。 

 両毛線のはたした、あるいは目ざした役割が何であったか、よく分るだろう。

 

 こういう状況の大変化にみまわれた関東平野の東半分、かつての繁栄の中心地帯、そして最初の鉄道計画の恩恵に浴さなかった地帯で、鉄道への願望が高まってくる。そしてそれに応えるべく計画されたのが東武鉄道伊勢崎線であった。

 伊勢崎線は、東北本線におくれること20数年後、1907年(明治40年)に全通している。支線日光線はずっとおそく1929年(昭和4年)、それより前の1913~14年(大正2~3年)にかけて桐生線、佐野線が開通した。

 平野の西部に重心をおいた鉄道敷設以来およそ四半世紀、国の近代化政策とともに産業構造も大きく変りはじめ、鉄道の沿線が繁栄の中心になりつつあった。かつての繁栄の中心であった舟運に拠った商業町、街道沿いの町々はさびれはじめていた。それらの町々のまわりで生産されるもの、その集積地としての役割で町々は栄えた。しかし、その役割はみな鉄道沿いの町々に奪われだしていた。東武鉄道は、まさにそういったさびれはじめていた町々の、夢よもう一度という期待、町々にある既存の生活の維持への願い、を背負って建設されたといってよい。鉄道の経営者の願いもまた、それらの町々の人々の既存の生活の繁栄とのいわば共存共栄にあったと見てよいだろう。

 そのように見るとき、その路線経路の決定理由が自ずと明らかになってくる。すなわちその路線は、かつての重要な通商路であった舟運路や街道すじ、しかも当初の鉄道敷設計画においては不幸にも見捨てられてしまった通商路、その代替機関として建設されたのである。背後には、それを支えてきた町々の生活があった。だからこそこの鉄道は、かつて繁栄の中心であった町々を一つ一つていねいにつなぎ、最終的にはこれもかつての終着駅、一大集積地にして繁華な場所すなわち浅草へ到着する。起点は浅草でなければならなかったのである。

 この鉄道の第一の目的が、かつての繁栄の復興をねらった、あるいは少なくとも、「近代」からとり残されかかった関東平野の東半分に点在する既存の町々の人々の生活の維持・救済にあったということは、日光線の開通時期を見てもわかる。いま東武鉄道のドル箱路線である日光線の開通は、先に見たように、本線開通より20年以上もあとのことだ。これが現在なら、もうけにすぐつながる日光線の方が先に着手されるだろう。観光で商売をしようなどという発想が、当初全くなかったと言ってよい。つまり、鉄道開設にあたって、沿線に新たな変化を生もうなどという発想はさらさらなく、あくまでも、かつてのあるいはそのときまでの人々の生活を維持持続させることに意義を見出していたと理解できる。言うならば「保守的」なのである。だが、そうであるが故に、決して既存の生活、既存の繁栄を越えて急激に発展することなどは期待できず(なぜなら、既存の繁栄がしがらみとなって、「近代化」しにくいのである)、その意味ではもうかることも期待できなかった。

 ここでもうからないと書いたのは、あくまでも相対的な意味、すなわち、あとで触れる、昭和になって大都市の近郊に建設されだしたより近代的「進歩的」な発想による鉄道と比べてのはなしである。

 

 この東武鉄道と前後して、各地にこういうもうからない(現代の経営者からするとあほみたいな、つまりもうけにならない)鉄道がいくつも建設されている。それらはほとんど、基幹線からとり残された地域のかつての街道すじや舟運すじの代替として設けられた鉄道で、後に国鉄に編入されていまに至っているものもある。いずれにしろその発想は「東武型」だと言ってよい。   

 いくつか例を挙げよう。常磐線の取手(とりで)と水戸線(東北本線の小山と常磐線の水戸を結ぶ。1889年に開通)の下館(しもだて)とを結ぶ常総鉄道。鬼怒川と小貝(こかい)川・・・・ともに舟運路として重要だった・・・・の間に在った集積地の町々をつなぐ。 1914年の開通。(因みに、東北本線敷設の4年後:1889年には、前橋から小山を通り水戸へぬける、関東平野の北辺を横断する鉄道が既に在った(両毛線十水戸線)。 常磐線はそれよりもおそく1901年、それも水戸側から着手された。前橋~水戸は中山道より分れた江戸期の重要街道の一つ、いまも国道50号線が通っている。) 群馬県、前橋と桐生を結ぶ上毛鉄道。この二つの町は、先に示したように両毛線が結んでいる。けれども両毛線は、伊勢崎に寄るためにかなり南へ下りてくる。その結果、前橋から桐生へかけて、赤城山のふもとにほぼ等高線上に展開していた町々がとり残された(大胡、大間々などの町である)。それらの町を結んで1928年に開通した。 そして、長野の長野電鉄河東線。関東平野でなくてもどこも状況は同じ。ここ善光寺平でも、最初の鉄道信越線の経路からとり残された地域があった。鉄道は元来の主要道であった千曲川東側の北国街道沿いを通らず、西側の低地部をまっすぐ善光寺の門前町の長野へ向ってしまった。このかつての主要道沿いの復興を願った地元の運動の結果開設されたのがこの河東線なのだという。これは1922年(大正11年)の開通。信越線におくれること実に29年である。だが、ときすでにおそく、繁栄の中心はすでに長野市や国鉄線沿いに移っており、それが現在まで続いている。

 

 ここに例として挙げてきた鉄道の沿線は、東武鉄道も含め、正直言って、現在繁栄しているとは言い難い。中心はみな新興の地に移ってしまい、町々のほこりもまた過去の栄光にのみある、と言っても言いすぎではない。多少でも人通りが多くなったとすれば、それは、その町の過去の栄光すなわち「文化財」目あての観光客たちであり、その町の「生活」に縁あっての人たちではない。

 要するに、当初の鉄道敷設からは大分おくれてつくられた、こういう言わば過去の栄光の町々をつなぐ鉄道は、今日的な意味では、決してもうからないのである。

 しかし、近世までの「生活」の上に突然敷かれたたった一本の鉄道がかくもその地域を変容させるなどということには、当初はだれも気がつかなかっただろう。なにしろそれは、過去において一度も味わったことのない類の経験だったのである。 

 いま赤字線として切捨てられようとしている鉄道も、国鉄線ではあるが、いずれもかつて栄えた町々をつなぐもの、あるいはかつて人通りのあった街道すじを通るものである。

 

 ところが昭和に入ると、特に大都市の近郊に、それまでにない発想による鉄道が生まれてくる。鉄道が地域を変える、その影響力を初めから計算に入れた鉄道が経営されだすのである。ほほ同じころ、観光客の輸送に目標をしぼった観光線も増えてきた。

 それまでの鉄道が、これまで見てきたように既存の町々をつなぐことを主目標にしていたのに対し、新しく生まれたやりかたは、むしろ人のあまり住んでいない所をねらって敷設される。関西で阪急電車がはじめにやりだした方法で、未開の地に鉄道を使って新たに人を住まわせ、それによって商売をするのである。そのためには、沿線には既存の町などない方が好ましい。東京の東横線もその例で、人を寄せるために大学なども誘致している(慶応大学の日吉校舎など)。最近の田園都市線も同じ考えかただが、もっと巧妙になっている。観光線では先の日光線、関西の南海電車の高野山行、近鉄の奈良や伊勢行、関東の小田急箱根行などがあいついで昭和になってからつくられる。それらの観光対象地が、つまるところは江戸期以来の人々の参拝地だというのはおもしろい。もっとも阪急のように観光地まで新たにつくってしまうのも表われる。宝塚劇場・宝塚歌劇というのは、まさに人寄せのためのものだった。

 これらの鉄道の経営者たちは、それまでの鉄道のように既存の町々を相手にしていたのでは利潤の上らないことを、既存の鉄道群の状況のなかに見てとったのである。それまでの鉄道が本来の意味でのサービス業に徹し、それへの応分の報酬が支払われることによって成りたっていたのに対し、「サービス」が一つの商品となり、その売上げによる利潤確保が目的となってきたのである。人寄せが行われる由縁でもある。これらの新しい鉄道の特色の一つは、たとえば「自由ヶ丘」のごとく、既存の地名とは全く無関係に、ことばがただよわすムードによって駅名をつくりあげ、人々の気持をくすぐったことである。(それは、まんまと図にあたった。) だが、それ以前の鉄道、たとえば東武鉄道には、(最近までは)そういった類の駅名は全くなく、どこも昔からの土地の名がつけられている。

 

 (「筑波通信№9後半」 に続きます。)


1982年度 「筑波通信№9 今日のない明日・・・・近代化ということ」後半 1982年12月

2019-08-16 14:05:02 | 1982年度 「筑波通信」

(「筑波通信№9前半」より続きます。) 

 

「近代化」・‥・その背景をなす二つの発想

 この文のはじめに、鉄道敷設にあたって二つの思想があったように思えると書いたが、その二つとは、いまここで見てきた明らかに異なる二つのタイプの鉄道の背後にある考えかたに他ならない。

 けれどもその二つの考えかたは、これもいま見てきたように、そのはじめから併存していたのではない。昭和になってでてきた新規開発型とでも呼ぶべき発想は、先にも書いたが当初はだれも思い及ばなかったに違いないのだ。実際、この世にはじめて表われた鉄道の及ぼす影響力など、想像を絶することだったろう。もちろん鉄道以前にだって、進歩や改変ということは存在した。けれども、その進歩や改変は、常にその前代を承けた形での変化や進歩であったから、仮に一つの手段に変化があっても、それにともなう事態の変容のさまもまた、十分に感覚的に予測し得る範囲にあった。人々は、進歩や改変を、目の前の現実からスタートさせたのである。考えるまでもなく、今日のありさま(それはすなわち来しかたでもあるが)を基に明日(すなわち行く末)を考えるというのが、人間にとって一番素直な発想なのだ。だから、鉄道の敷設が、単なる交通手段の変革の域を越え(それまでの交通手段の代替としての役割を越え)これほどまでの状況の変化をもたらすなどということは、それこそ字のとおり予想外だったはずである。けれども、この単なる手段の近代化が進んで半世紀、意外な結果があらわになってきたとき、その結果自体を目的化した考えかたが現われる、それ自体を商売にすることができる、そういう発見である。阪急・東急型の考えかたの誕生である。

 現在普通に「近代化」と言うときは、多くの場合、この阪急や東急のやりかたを支えている考えかたを指すと言ってよいだろう。けれども、ここまで見てきたように、明治以降各方面で行われてきたいわゆる「近代化」を全て、この極めて今日的な意味での近代化として理解してしまうことには、私としては賛成できない。当初目ざした近代化では、多少ぎくしゃくした点はあったにしても、未だ「現在:来しかた」に基をすえるという姿勢がうかがえるのに対し、今日的な意味での近代化を目ざすとなると、「現在:来しかた」に基をおくことは、むしろ足手まどいとなってしまう。なぜなら、それに基づく限り、よほどのことでもなければ、「現在」を越えての発展・成長は期待できないからである。すなわちどう見ても「近代化」のなかみ、拠ってたつ思想が違うのである。

 

 そしていま、「今日的な意味での近代化」が目的とされだしてから、いったい何が行われるようになったか。

 そこでは、「現在:来しかた」の徹底した切り捨てがなされはじめたのである。つまり、それぞれの土地に密着して代々人々が成してきたところの「生活」、人々の営為の積み重ね(これを本来は「文化culture=cultivateされたもの、と呼んだはずなのだが)を一切見捨てることであった。そんなものにかかずりあっていては、より高い発展は期待できず、理想とする近代化社会を描く自由が束縛されるからである。そして人々の(旧き)営為の積み重ねには、いとも簡単に「非近代的」というレッテルが張られ、全ての白紙化(言いかたを変えれば、人間の「歴史」の断絶)へ向けて突進しだしたのである。いま私たちが身のまわりに見る「近代化」、「開発」は、全てこの白紙の上の作業である。

 そし、その作業の向う側に、かつての人々の営為の積み重ねが、「文化財」というていのいい名前を付けられて、一見大事そうに放置されている。せいいっぱい観光価値といういう付加価値を背負わされて!

 「近代化」「開発」ということばは、いまやこの今日的な思想で理解されるのが普通になってしまっているけれども、しかし、そういった思想をもって近世まで(あるいは明治初頭まで)の人々の営為を見てしまうことは絶対に正しくない。この今日的思想とは全く逆に、近世までの人々(あるいはもう少し時代が下るころまでの人々)の拠りどころは、常に、その生きている「現在」にあったのだからである。彼らは、「明日」のために、まず「今日」をcultivateすることからはじめたのだ。そして、あらためて言うまでもなく、「人間の歴史」とはそういうものであった。

 

 今日的「近代化」「開発」という作業を白紙の上で平然としている人たちは、いったい何をその作業の「拠りどころに」としているのであろうか。 現在を欠落した未来、過去のない現在、突発的現象としての人々の営為。「歴史」も「土着性」も切り捨て、その上(いつも書くことだが)「主体性」はもとより「感性」までも失ったとき、「近代」はいったい何を拠りどころにするのだろうか。唯一考えられるのは、もうかるという意味での(言いかえれば、投資に倍する以上の利が潤う、あるいは成長率が高い、という意味での)繁栄・発展のために、それだけである。私はここまでの文章のあちらこちらで、繁栄する栄える発展する・・・・ということばを使ってきた。だが、このことばにも明らかに二様の解駅のしかたがあるように思う。いまならば、もうかるという意味で理解さるのが普通だろうが、しかしその解釈を近世までの町々の繁栄発展にまであてがうのは、これも誤りではなかろうか。近世までのそれは、あえて言うならば、「その町で暮す限り、人々は(程度の差はあれ)可もなく不可もなく、大過なく、生活をおくることができる」という意味であったと理解した方がよさそうなのである。もちろんもうかることもあった。しかし、それは目的ではなく、あくまでも結果であった。先に、東武鉄道はもうからない鉄道だと書いた。しかし正確に言うならば、もうかることを目的としなかった鉄道だと言うべきだったろう。結果としてはもうかった。(その証拠に、これは余談だが、東武鉄道の創設者は甲州出身の根津嘉一郎という人物なのだが、彼は故郷に錦をかざるべく甲州じゅうの小学校にピアノを贈ったそうである。もうけがなかったわけではないのである。)ただ、もうけかたが、今日的なそれではなかったのである。

 

そして、いま‥‥

 関東平野を東西に横断すると、二箇所で新幹線を横切ることになる。田園のなかをえんえんと続く柱脚の列。さしづめ現代の万里の長城である。平野は長城により二分される。古代の長城は、少なくともその内側に人々の安住の地を確保しようとした。そのための大地の二分法であった。だが、この現代の長城は、人々の安住の地を、わけもなく二分した。何のために・・・・「近代化」という至上命令のために。多分そこには、たとえ何十年が過ぎ去っても、「風物詩」の一つも生れはしないだろう。柱脚の足もと、「途中のついで」の足もとなど、そこの土地の人々の生活とは何の係わりもないからである。鉄道が、その土地の生活とともにないからである。そしてもちろん、その柱脚の足もとが繁栄するわけもない。かつての鉄道がそうであったように繁栄が沿線に及ぶ、などということもない。繁栄は言うならば沿点に集約されるのだ。それが、それこそが「合理的近代化」の目ざしたことに他ならない。「近代化」とはつまるところ新たな「辺地」づくりである。

  最近の国鉄の特急・急行の増強と、それにともなう各駅停車の削減もまた、辺地づくり以外のなにものでもない。いったい「便利」とは何なのだろう、「便利」とはだれにとっての「便利」なのだろう。

 

 上越新幹線は動きだした。約二時間で雪国に着いてしまうそうである。 トンネルの向うとこちらの気象は、新幹線が通ろうが通るまいが変りはしないけれども、しかしこれによって、「トンネルをぬけると雪国だった」というような新鮮な感激は、人はもう味わう必要がなくなるのかもしれない。

  

あ と が き

先号は少しおくれ、問いあわせなどもいただき、大変恐縮いたしました。物理的な忙しさも峠を越えましたので、平常に戻れそうです。(ここ二年ほど係わってきた知恵おくれの人たちの家の設計がひとまず終り、ようやっと着工にこぎつけたのです。八・九・十月とそれに忙殺されていたのです。)

今号は、少し長くなってしまいました。別に先号、先々号の埋めあわせをしようなどと考えたわけではありません。書いていったらそうなったのです。

ここ数日、冬らしくなりました。関東北辺の山々がくっきりと見えます。この二週間ほどの間に、上州、甲州、安房、とまるっきり方角の違う所へ行ってきました。上州では赤城神社に寄り、目の前に広がる広大な関東平野のその大きさに感嘆し、甲州では、これも目の前に仰ぎ見る富士山の姿にあらためて驚嘆し、そして安房に行く途中の車中では、東京湾岸沿いでいま人々が夢中になって行っている「開発」に慨嘆にいたしました。(安房に行く内房線は、湾岸に沿い台地と低地との境い目あたりを走るのですが、十年ほど前には線路のまわりは大体田んぼでした。田んぼはいま、市松模様に埋立てがすすめられ、住宅が密集しはじめています。埋め立て残った田んぼ・・・・とは言ってももう田んぼとしては使ってないようです・・・・の中に、一羽微動だにせず立っていたしらさぎの姿は、なにか場違いのようでもあり、象徴的でまた印象的でした。それでも、一時間も過ぎたころから、昔どおりの照葉樹林がうっそうと茂った風光が見えてきてほっとします。)

落葉樹の並木の葉もすっかり落ちてしまいました。はじめはまともに北風を受ける側の列の、それも風を受ける側だけが落ち、順次裸になってゆきます。最後には一列片側にだけ葉がついている時期が数日続き、とある朝、すっかり全部が冬姿になり、ゆうべ木枯しが吹いたことが分ります。そんな夜を車で走っていますと、落葉がまるで動物がとびはねるかのようにヘッドライトのなかを横切り、はっとします。寒くなりました。

年が暮れます。毎年いまごろになると、ことしはいったい何かやれたのだろうかと、少しばかり落ちつかない気分になります。

よい年をおむかえください。

〇また、それぞれなりのご活躍を!

          1982・11・29             下山 眞司 


「第Ⅳ章ー2ー1,2 園城寺光浄院 勧学院 客殿」 日本の木造建築工法の展開

2019-08-07 13:10:11 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「第Ⅳ章-2-1,2 園城寺 光浄院, 勧学院」A4版8頁

 

Ⅳ-2 近世の典型-2:客殿(きゃくでん)建築そして書院造・・・・方丈建築の変形

 世情が安定すると、諸寺院に客殿建築をつくる例が増えてきます。寺院内に設けられる接客を旨とする建物で、中世以来の方丈建築同様、外壁部・間仕切は壁ではなく、ほとんどが開口装置です。

 建物は、外観・形および架構法は禅宗寺院の塔頭:方丈建築に類似しますが、玄関部を本体の屋根に一体に取込むようになります(中門廊と称す)。

 しかし、最奥に構える当主に客が伺候(しこう)するという動きに対応するため、空間の利用法が方丈建築とは大きく異なる点が注目されます。すなわち、方丈建築では、建物南面に配した玄関を上り広縁→上控の間→広縁→方丈(室中)という経路をたどる、つまり南側広縁から正面に向うのに対して、客殿では、玄関を建物側面に置き(多くは東面。玄関を示すのは階段と唐破風のみで唐突な感じがあります)、そこから控の間→次の間→上座の間上段の間へと建物内を横に貫通する動き採るようになります。 

 また、多くの場合、上座の間には押板(おしいた)(床の間の前身)、違い棚が設けられます。

 このような空間内に上・下を明確に区別するつくりは、身分関係:地位の上下関係を重視する武士階級の意に合うこととなり、武家の屋敷内あるいは住居には同様のつくりの接客空間がつくられ、場合によると上座の床面を次の間よりも一段上げることも行なわれます。

 このような、いわば堅苦しい空間で行なわれる接客・面会の気分をほぐすために、後にはそれ専用の場:茶室茶庭を別途に設けることも行なわれます。

 註 このような空間形式のつくりは、一般に書院造と呼ばれますが、武士の住居にも大きな影響を与え、明治以降は、都市に移住した旧武士階級の住居:都市住宅:にも影響が見られます。

 以下に、客殿建築書院造の代表事例を見てゆきます。

 

1.園城寺(おんじょうじ) 光浄院(こうじょういん) 客殿 1601年(慶長6年)建立  所在:滋賀県 大津市 園城寺町

 園城寺は、天台宗の寺院、通称三井寺(みいでら)(三井の晩鐘などで有名)。

 寺内にあるこの建物は、書院造の典型原型と言われている。

園城寺 光浄院 位置  図の印が光浄院  南西に伸びる水路は京都への琵琶湖疏水   国土地理院1/5万地形図より

 

配置図   西澤文隆実測図集 日本の建築と庭 より 

図の上方(北)の建物が庫裏(くり)、下方(南)が接客専用の建物 光浄院客殿。 

 

東南からの全景 手前が中門廊 右側の階段が玄関  原色日本の美術12城と書院より  

 

    

東面全景 唐破風・階段のところが玄関      日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

 上段の間 日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

上座の間 正面   日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより転載・編集

 

 光浄院客殿では、上座の間から広縁に飛び出した小室を上段の間と呼んでいる。この場所を書院書斎にあたる)と言う。

 一般には上座の間上段の間と呼び、広縁側への飛び出しは、出窓様のつくりで済ますことが多い。その場合を付書院(つけしょいん)と呼ぶ。

 

 

桁行断面図 印は  小屋貫は表示せず   ではなく化粧桁化粧肘木上)ただし同様の働き

 

 

平面図 基準柱間 芯~芯6尺5寸2分  平面図・断面図共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより転載・編集 

 訪問者は、玄関~玄関の間(六畳)~次の間~上座の間へと進む。西側以外に壁はなく、間仕切も含め、すべて開口装置。 六畳の間を、鞘の間(さやのま)と記してある図もある。

 

 

梁行断面図 印は  ではなく化粧桁化粧肘木上) ただし広縁部は化粧貫 いずれも同様の働き 

 

広縁の西端につくられた上段の間の突き出し 

 

 

 広縁東端の中門廊 板戸の左手が六畳玄関の間:鞘の間)  写真は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

矩計図は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

参考 匠明(しょうめい)の示す書院造の諸寸法の決め方      伊藤要太郎 著  匠明五巻考(鹿島出版会)より

 

 匠明は、現存する江戸時代の木割書の一つ、江戸幕府に仕えた棟梁平内(へいのうち)家に伝わる1608年に書かれた書。

上図は、そのなかの主殿:殿舎の諸寸法の決め方を図示したもの。基準を柱径aとして、他の材の寸法を含め、諸寸法を決める。

      

しかし、この指示どおりの事例はない。また、この指示寸法で設計すると、異様な姿になる。実在の事例では、後出の表のような数値になっている。

 

                       写真・図は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

  

室内床面との段差切り替えに設けられる材を切目長押(きりめなげし)と呼ぶ。 建具は、外側の切目長押~内法付長押間に蔀戸、内側は、敷居~内法付け長押間に明り障子を入れる。付樋端(つけひばた)。なお、この明り障子は、見込1寸強を二分し、一本の溝内で引き違いにしている。

 

参考 方丈、客殿、書院造 諸事例の柱間と柱および内法貫の寸法 

 

 

 

2.園城寺 勧学院 客殿 1600年(建長5年)建立  所在:滋賀県 大津市 園城寺町

 園城寺の学問所:教場として建てられた。三の間~天狗の間の列が客殿の役を担う。天狗の間付書院押板がある。

平面図 基準柱間 芯~芯6尺5寸1分   平面図・断面図・モノクロ写真は日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

梁行断面図 広縁~二の間の断面 

 

 

広縁を望む 右手の突き出した部分が中門廊 書院はない    

    

東南からの全景 右手階段部が玄関           カラー写真は原色日本の美術12 城と書院より

 

中門廊から見た広縁 入隅の柱を抜いている  小壁の中段の横材は化粧貫 

 

二の間より一の間 正面  押板だけ、違い棚付書院は設けていない  付長押の裏側に貫              

 

竜銀庵方丈など方丈建築と同じ架構法であることが分る。

 

桁行断面図 天狗間~東広縁の断面            日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 


1982年度 「筑波通信№8 『身』も『心』も 」 1982年11月

2019-08-01 13:28:25 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №8」1982年10月 A4版6頁 

       「筑波通信 №8」 1982年11月

       「身」も「心」も

 健康であることを言い表わす言いかたに「心身ともに健やか・・・・」という常とう句がある。まさに字のとおり、身体も精神もともに健やかであるということである。けれども、日ごろ私たちがこのことばを使うとき、私たちはなにもわざわざ己れを身と心とに分けてそのそれぞれの健やかさを確認し、あらためてその結果を総合し・・・・などという過程を経て言っているのではない。まったく単純に自分が(あるいは他人が)健康である様を言うのである。「お体を大切に・・・・」と言ったからといって、だれも、「心」の方はどうでもよい、などと思っているわけでないのと同じである。それが常とう句というものの性質でもある。

 しかし、先日のこと、大学時代の恩師からの葉書に「心身ともに健やかなご様子・・・・」の一節を認めたときの私の思いは少し違っていた。この「心身」ということばが、とりたてて私の目をひいたのである。

 それというのも、その葉書を読んだ前日の新聞で、ここに引用する文章を見たばかりであったからである。

 

 ご存知の方が多いと思うが、これは、大岡信氏による古今の詩歌の紹介のコラム「折々のうた」の一編である。わずか二百字たらずの文章による氏の評釈は、紹介される詩歌とともに、私にとって毎朝のたのしみである。はじめて知ったうたはもとより、なじみのあるものも、あらためて新鮮に見えてくる。

 閑吟集なるものの存在は知っていても、内容も知らず読んだこともなく、もちろんこのうたにははじめてお目にかかった。

 はじめこのうたにざっと目を通したとき、(無粋にも)なんのことなのかとっさには分らなかった。評釈を読んで納得。もう一度うたを読みなおして、あらためてものすごく納得。読み人の情景まで浮びあがり、思わずほほえみがわいてきた。読み人がなんともいとおしく、そしてこの想われ人がねたましくさえ思えるではないか。

 だが、無粋な私は、このうたにひどく納得すると同時に別のことをも思っていた。正直言って、己れ自身を「身」と「心」とに分けていることに、いささか奇異な感じを持ったのである。現代に近い時代ならまだしも、もうこの時代(閑吟集は室町時代:1500年代初頭の編だという)に己れを身と心とに分けてみる見かたがあったのかと、いささか驚いたのである。それどころか、評釈によれば、既に平安時代にも同趣のうたがうたわれているというではないか。少々認識不足だったようである。いまの私たちなら、というより現代では、だれでも人間を身と心とに分けることに慣れてしまっている。心身障害、心身症・・・・だれも疑わない。むしろ、そのようにものごと(人間を含めて)を分けて見る見かたこそ、まさに現代の現代たるところのものである。こういう一見現代風な見かたがそんな昔からある。これはいったいどういうことなのか。

 

 ある一人の人間のなかに、己れを身と心とに分けて考えるという見かたが生まれるなどということは、よほど自己を見つめるという作業をおしすすめない限り、そうすんなりとはでてはこまい。人々の多くは、己れが生きてゆくこと自体のなかで、己れ以外との対比を通じて辛うじて己れを知るのがせいいっぱいのはずで、ことによると、己れだけがあって他との対比さえしないかもしれない。おそらくそれが、古今に拘らず通常ではあたりまえだろう。だから、それを越えて、己れを身と心とに分け、その対比で見るというのは、言うならば相当次元の高い状況においてのみあることのように、私には思われる。そうだとするならば、そういう見かたがでてくる背景、時代の状況についての興味がわいてくる。

 身と心とに分ける見かたが、いつごろから現われてくるのか、詳しくは知らない。平安期には既にあったという。けれども、その時代、人々がみなそういうように思っていたとは、とても思えない。そういう時代のようには思えない。多くの人々にあったのは、せいぜい己れということの認識ぐらいではなかろうか。「身と心」という認識を持ち得たのは多分限られた少数のいわゆる「教養人」だけだったろう。その「教養」は、おそらく仏教の教えに触れることによって得たそれで、かならずしも自らが自らをつきつめて得た結果ではなかったのではないだろうか。その時代の「身と心」のうたも、言ってみれば、そういう「教養」として得た「身」と「心」という概念の論理的操作のおもしろさによったうたづくりであったように思えてならない。その論理が伝わってくるだけで、たしかに論理的に言いたいことは分っても、読み人の想いを直かに伝えるという点では、なにか弱いのではないかという印象を持つ。その点、万葉の恋歌の直裁的な、まさに己れの想いのたけをぶつけたようにうたいあげた歌の方が、論理を越えての強さがあるように思う。うたいあげたいことのなかみそのもの、それがそのままことばとなり、表現上の技術的な操作などは消しとんでしまっている。詳しくは知らないが、おそらく、万葉の時代、たとえ「身」ということば、「心」ということばが存在していても、己れを身と心とに分けて見る見かたとはおよそ無縁な時代であったのではないか。己れを代表せしめるのに「身」をもってしたり、あるいは「心」をもってすることはあっても、決してその二つの足し算とみなすようなことはなかったにちがいない。

 

 この閑吟集のうたの場合は、これもまた身と心という二つの概念:ことばの論理的操作であると言えば言えなくもないが、しかしこれは単なる論理的操作(のおもしろさ)を越えて、素朴に強く恋人への想いを伝えてくるように、私には思える。単なる歌の題材:対象の一つとしてたまたま「恋」が選ばれた、あるいは恋人への想いという「題材」を「身」と「心」ということばをもって言い表わすならこうなる、というようないわば表現技法演習的なものではなく、いかんともしがたい恋人への想いのリアリティそのものがことばになった、そういうように感じられるのである。

 既にこの時代、おそらく、己れを身と心とに分ける見かたは、単なる「教養人」の教養としての「知識」ではなくなり、より一般的に、いわば人々の身についた見かたになっていたのかもしれない。というのも、中世という時代が、どうもそういう世のなかであったようにも思えるからである。宗教の説く解説が、単に宗教の場面にのみ、従ってそれに触れ得る特定の人々にだけ通用するのではない時代、己れをそのように見つめてなんの不思議でもない時代、またそうしなければいられない時代。よく、ある時代にある宗教が普及し、また別のある時代には他の宗教が流布したというようなことが、いとも簡単に言われるのだが(学校で習った歴史ではだいたいそんな具合だったように思う)、しかし、ことはそんな簡単なはなしであるはずはなく、人々がそれを必要としないような状況では、宗教家がいくらがんばったところで、そんなに容易に普及するわけがない。

 実際、この閑吟集が編まれる前、十三世紀ごろから、世のなかは、拠るべき(古代的)秩序もくつがえり、たよるは己れしかない、生きるため、生きかたとして、己れを見つめ、自己を確立せざるを得ない時代になっていたのである。時代が、人々をして自己を見つめさせ、主体性の確立をせまった、そう言ってよいだろう。選ばれた人だけではなく、ほとんど全ての人がその必要にせまられていたと言ってもよいのではないか。そうだからこそ、そういう時代の状況に見合った宗教の解説が(単に一宗教としてではなく)自ずと広く広まったのだろう。そういう時代をうけて編まれた閑吟集(当時の俗謡の類を集めたのだという)のなかに、あの「身と心」の恋歌が現われるというのも、おそらく、極く自然ななりゆきだったのである。

 

 それでは、いま私たちが「身と心」という見かたをするのは、そしてそう見るのをあたりまえに思い、とりたてて不思議とも思わないというのは、私たちが(あの中世の人々のように)己れをとことんつきつめざるを得なかった結果としてなのか、それとも(あの平安人たちのように)それを「教養」として知っているからなのだろうか。

 そのいずれとも異なるように私には思える。

 

 私たちはいま、少し大げさに言えば生まれ落ちたそのとき以来、全てのものごとをそれを構成する要素に分けてみる見かたを教えこまれる。いわゆる「科学的」な見かたである。というよりもむしろ、そういういわゆる「科学的」なものの見かたの結果としての「諸要素」「諸知識」が、それこそ山のように群れをなして私たちの目の前に積まれている。そしてその量は増えるばかりである。「科学的な子どもたち」を育てようとして、いま学校では、これら「科学的諸知識」をいかに効率的に覚えさせるかという点に全精力がつぎこまれていると言ってもよいだろう。いまの子どもたちが覚えなければならないことがらの量は、私の子どものころのそれに比べると、まさに驚嘆に値する。そういう教育が行われる根底には、「科学的であるためには、科学的な知識の総量を増やさなければならない」という信仰があるとしか思えない。 学校を終えれば、あるいは(入学)試験が済めば御用済となる知識を教えたところで、「科学的」になるわけがない。であるにも拘らず、その信仰は衰えるどころかますます盛んになっている。そして、その結果として、その目標とする「科学的な見かたをする子ども」とは全く逆に、サン・テグジュペリがいみじくも言った(昨年7月の「通信」N0.4に引用)ように、単なる「えせ物識り」=辞書的人間、端的に言えば「非創造的」「非科学的」な子どもたち、自らものごとを認識しようとするのではなく与えられたことがら(知識)を「操作する」ことだけにたけた子どもたち(私はこれをマーク・シート人間という)が生まれてくる。

 言うまでもないことなのだが、「科学的である」ということは「科学的知識を身につける」ことではない。たとえて言えば、「単語」をいくら覚えても、「文法」にいくら精通しても、「言いたいこと」が確としてないと、ことばは使えない。外国人のかたことの日本語が私たちに通じることがあるのは、彼の「言いたいこと」が分るからで、その「ことばの形式:文章」が分ったからなのではない。そして、「言いたいこと」とはすなわち私たちのものごとへの「認識」の結果に他ならない。そして、まさにこの「認識」を深める、自らが自らのものごとへの「認識」を持つ、そうあるべく努めることこそ本来の意味の「科学的」ということの内容ではなかったろうか。因みに、科学の「科」の字の意味することは、ものごとを一定の基準によって分類・区分することだという。一定の基準が天から降って先験的にあるのではない。それは、ものごとを分けてみようとする主体が自ら設けるものだ。つまりその人の「認識」のしかたなのである。

 しかし、いま「科学的」ということばを使うとき、この本来の「科学」の意味は忘れ去られ、専ら「自然科学的」の意味が優先してしまう。(これはまことに「非科学的」な現象である。)だが、自然科学もまた、人間のものごとに対する(特にいわゆる「自然」に対する)「認識」の一形式にすぎず、人間の「認識」はそれで全てではないのはもちろんである。

 

 私たちが「身と心」を気楽に使うとき、「心身障害」などと簡単に言って済ますとき・・・・、はたして私たちはそれを言う前に「認識」を持っていたか。人間というもの、あるいは己れという存在についての「認識」を持っていたか。否である。万葉人も、平安人も、そして中世の人も、自らの想いを語るについてそれぞれの形式はとっているが、いずれにしろ、その根には「自らの」想いがあった。「主体」があった。そこが違うのである。

 いまは、自らの想いなどとは関係なく、「人間って身と心に分けられるんだってさ」とばかり、それになんの疑いもさしはさまずに、それに従ってしまうのである。そうなのだ、「科学的」であることの根本は「不思議に思う」ことなのではあるまいか。そして、「不思議に思う」には、他のだれが何を言おうと不思議に思う、「思う主体」が不可欠なのである。いまはこの「主体」がない。「主体」があって、すなわち、まずもって一人の人間が在ったうえでの「身と心」なのではなく、「身」と「心」との単純な足し算としての人間?が考案されている。

 

 ここ数年の間、いわゆる心身障害者を子どもに持つ父母たちの集まりとおつきあいする機会があった。その会合には、このいわゆる心障者の子どもたちも同伴されてくる。彼らは会場の一隅にいて、自らの世界にふけりながら、会合の終るのを待っている。数回の会合を重ねるうちに私はあることに気がついた。子どもたちのなかに、いつもことばにならないことばを発し続けている子がいた。その子の発することばの調子が会合のふんいきに応じて、どうも微妙に変化しているように、つまり、会合のなかみがなごやかで談笑しているようなときは明るく高らかに、とげとげしくなればきつく、白けてくれば沈静する・・・・といったように感じられたのである。彼はみごとに(なかみそのものはともかく)ふんいきを察知している、そのように思えるのである。私は(内緒のはなしだが)会合の方をそっちのけにして観察を続けた。やはり、どうみてもそうなのである。正常な人たちのなかには、場のふんいきなどこれっぽっちも分らない、分ろうともしない人たちがいるというのに、いったいどういうことだ。彼の方が高級な感覚を持っている!これは、通常の意味で言えば「心」がなければできないことだ。いったい「心身障害」ということばはなんなのだろうか。私は分らなくなった。相変らず分らない。ますます分らなくなってきた。

 ラベルを(勝手に)つくって、ものにはりつけることはたやすいことだ。しかし、ラべルをはったからといって、それは決して「分った」わけなのではない。まして、「私」の認識を経ないあてがいもののラベルで扱い済ますぐらいおかしなはなしはない。いまの世のなか、「私」を忘れたラベルが多すぎる。まずもって「私」があり、そして「わが身」と「わが心」があるのである。その逆はない。あり得ない。

 

 あ と が き

関東平野の夕日はすばらしい。そして、それがとりわけすばらしい季節になってきた。東の空から西の空へ、星がまたたきはじめたかすかに青色を秘めた黒い色からほんとに燃えるような火の色へと、その途中をありとあらゆる色に染めて、見事な天空がひろがり、見る見るうちに変ってゆき、やがて日は完全に平野の向うに没してしまう。あとには夕やみがせまり、なんの煙か、地表数メートルの高さに白い帯がただよっている。やがてそれもやみのなかに消え失せる。家々の燈りがここかしこに見えはじめる。まだ家々をかこむ林のかげも認められる。そしてそれも定かではなくなり、夜のやみにつつまれる。このほんの数十分の光景は、人の足をとどめるのに十分である。夕日がすばらしい日、近くの建物の屋上に、きまって一人、二人と人がよってきて、じっとこの光景に見入っている。というより、浸っている。私も好きだ。

日が沈み、日が昇る。その光景に日ごと浸って生きる人たちが天動説でその現象を考えたというのもよく分る。天動説より前に地動説は絶対に生まれなかったろう。しかしいま、子どもたちまでもが、それこそものごころついたころから、したり顔の地動説だ。それをして「科学的」と呼んで、はたしてよいのだろうか。日が沈みまた日が昇る、それにまず感激し、そして不思議に思う。そのことのない人たちに「科学」の心ははたしてあるのだろうか。日の出、日の人という現象に「非科学」的な説明をもってこたえようとした未開の人々の方が、てんから地動説の現代人よりも、ことによると、数等「科学的」なのかもしれないとも思う。

弱い、少数を尊重しないで、自由も平和もありません。一つの少数が抑圧されてしまったら、次は、新たな少数が抑圧されるだけですものね。・・・・・ダーヒンニエニ・ゲンダーヌ(北海道に住む少数民族、ウイルタ族)さんのことば。朝日新聞10月25日付夕刊。

決して絶望せず、しかも決して過度の希望も持たず、いかなる状況においても屈伏しないで日々の仕事を続ける。・・・・いろいろといささかくたびれかかった私の状況を察知して、こういうことばがありますよ、とわざわざ書き写して贈ってきてくれた人がいる。要するに、くたびれるとはなにごとか、というわけ。

それぞれなりのご活躍を!

        1982・11・2         下山 眞司   


「第Ⅳ章ー1-3 犬山城, 参考 彦根城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-25 15:47:16 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー1-3, 参考」


3.犬山城  二層までは1602年(慶長7年)、三・四層は1620年(元和6年)  所在 愛知県 犬山市

                           日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

 二層までは、丸岡城松本城とともに、戦国時代、実際に戦闘のために使われた城郭の遺構。 

 木曽川の南岸にあり、穀倉地帯を一望にする場所に構えられている。地図印。 この点は、丸岡城松本城などに共通する城郭建築の立地条件である。

 国土地理院1/20万地形図より転載・編集

 

1)各階 平面図   単位 m

日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより転載・編集

 2)断面図  単位 m 

  

日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより転載・編集

 

3)矩計図  矩計図は、前頁の黄色枠内を示す 単位 m

 

天守一階 南側部分 鴨居は差口で納まる:差鴨居 右奥は上段の間              上段の間内部 付長押がまわる

 

 1階・2階部分矩計

 

 ここでも外観は寺院建築にならっているが、内部は当時の民間のつくりかたに拠っているものと考えられる。

地下2階・地下1階部分矩計

 

 

参考 彦根城  1604年(慶長9年)~1606年(慶長11年) 所在 滋賀県彦根市

西からの遠景      日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 徳川が論功行賞として井伊氏に与えた城であるため、戦国期の城とは異なり、権威の象徴としての城郭建築

他の城郭同様、外観は上層の工法、内部は一般の工法を用いている。     

  平面図 上から 天守三階 二階 一階 

               

 

断面図 上:桁行(南北) 下:梁行(東西)  平面・断面図・写真共に建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

  

 

天守一階 階段まわり  梁行断面参照 付長押をまわす                  天守三階 付長押をまわしている


(「第Ⅳ章-1-参考 姫路城」に続きます。)


「第Ⅳ章-1-参考 姫路城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-25 15:46:45 | 「日本の木造建築工法の展開」

 (第Ⅳ章ー1-3」より続きます。)

 

参考 姫路城   所在 兵庫県 姫路市

 1346年(正平2年)赤松氏により築城。 1580年(天正8年)秀吉により改造。 1601年~1609年(慶長6~14年)池田輝政により現状天守群完成。

 

建築史基礎資料集成城郭十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 現在の天守群は、戦乱期の姿ではないが、城郭建築の原則:防御・篭城の場所を築く:は遵守している。

 断面図のRC部分は解体修理の際の後補。

 

 

 菱の門から天守へ向う経路は、屈折が激しく、まわりの状況から判断して歩を進めると行き止まりになり、しかも末広がりの広場状で行き止まる、などと言う場所もある。天守へ向う多勢の人間が、進んで来た方へ引き返す際には末広がりを逆にたどることになるため時間がかかる。そこを城から襲撃する・・という計画も防御のための一手法。もっとも、姫路城が戦闘の場になったことはない。

 城を計画した人物は、人は常にまわりの状況を判断して歩を進める、次の行動に移る、一人のとき、大勢のときでは行動が異なる・・などについて、熟知していたことになる。通常の行動の裏をかけば城の基本ができる。そういう観点で配置を観ると、興味深い。

 このような感覚・感性を、当時の人たちは、工人、一般の人を問わず、持ち合わせていた。戦国時代を中心に生まれる方丈書院茶室などのつくりかたにそれが表われている。方丈書院茶室などは、「人の行動に対する理解」を真っ当に具現化した例であり、その逆の発想でつくられたのが城郭建築である。 

 

 ろの門からはの門 へのアクセス  原色日本の美術 12 城と書院 より

 

姫路城の架構についての解説  

 日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ より抜粋 この解説は、土台、通し柱、差口による横架材:差物・飛貫、貫・・による架構の一般的な解説として通用する。)

 ・・・・構造面からみると大天守は南北の中心線上に、東西相対して並べた二本の大柱を基本として組立てられている。

 東大柱は礎石上で径がほぼ一メートルあり、地下から六階の床下にまで達する通し柱である。西大柱も同様な太さで、同じく六階の床にまで達しているが、東大柱と違い三階床の位置で継がれている。 両大柱は各階とも周囲の繋梁で繋がれ一体化されている。

 第二次大戦後の修理において、この途中で継がれた西大柱を新材にかえる予定で、その用材を木曾に求めたが、輸送の途中で事故のため折れてしまった。

 したがって、西大柱は再び途中で継がれることになったが、『修理工事報告書』によると、東西両大柱が周囲と繋梁で固められるので、六階床までの通し柱が二本立っている場合には、組み上げて行くとき、作業が困難になるとのことである。

 三階床で西大柱が継がれていたことと、全体の構造が三階で上下に別れていることとの間には構造上の関係があったのではないかと考えられる。  

 東西の大柱のほかには、架構全体を通すようなはないが、二階あるいは三階分を通して全体の構造を一体化する役割を果しているが数多くみられる。それらは大別して地階から二階(三階床下)までに入れられているものと、四階から六階に及ぶものとに分かれる

 地階から二階への通し柱は、母屋廻りおよび外廻りにあり、中庭に面する北側外廻りでは地階から二階まで、母屋廻りでは地階から一階、一階から二階の二種、また、地階のない石垣上にあたる外廻り部分では一階から二階にかけて、通し柱を用いている。 これらの通し柱は、地階から二階までを一体化するのに役立っている。

 一方、上方では四階から五階、五階から六階の、いずれも外廻りに、通し柱が用いられている。これらは、四・五・六階を一体化する役割を果している。

 しかし、三階の部分は上方下方いずれからも両大柱以外に通し柱はなく、すべて管柱である。三階をはさんで上下の構造は別々で、二本の大柱が繋ぎの役割を果している。・・・

註  城郭の部材は大寸であるが、近世の住居(二階建て商家)では、4.3寸角程度の柱で同様の工法が採用されている。

補足 同書所載の詳細図から判定すると、大柱以外は、通し柱管柱とも、1尺2寸角程度である。 は厚2~2.5寸、丈5~10寸。は大寸もので17寸×12寸。

  

 以上のように、当初の城郭建築は、領地の支配・防御という目的を持つ建物・拠点を、できる限り短時日でつくり上げることに力点が置かれています。

 丸岡城において見られた掘立柱の利用や、多くの城郭で使われている土台の利用も、その一つの表れとみることができます。

 また、天守を可能な限り高くするために設けられた天守台の築造では、石積みの技法を含め、人工による地盤の造成の技術にも大きな進展を促しました。 

 とりわけ、土台の利用は、礎石建ての最大の難題である寸法の決定を格段に容易にしました。

 各地の城郭を見ると、土台は必ずしも水平に設置されているわけではありませんが、土台が斜めに設置されている場合でも、土台天端からの梁・桁までの寸法の決定は、個々が礎石建ての採寸よりも簡単であることには変りありません。 土台は工事を急ぐ城郭建築で生まれたと考えられているのも無理がありません。

 土台の利用とともに、城郭建築では、通し柱差物飛貫差鴨居のように差口で取付けられる横材:の利用が目に付きます。いったん一組の通し柱差物などで梯子型に組み上がれば、それを定規にして、以後の組立の進行が容易になり、しかも架構が揺るぎないものになるからです。

 鹿苑寺 金閣のように、多くの場合、通し柱は建物の四周に使用しますが(隅柱だけではありません)、城郭建築では、四周に限らず要所を通し柱にする事例が増えてきます(たとえば丸岡城では隅柱だけが通し柱ですが、松本城では外周母屋との境の柱を通し柱としています)。

 これは、架構の自立性を強化することで工事中の支保工などの仮設工事を簡略化でき、結果として建て方時の工程が短縮できることを意図したものと考えられます。

 このような計画が可能であったということは、工人たちは、構想時点において、全体の姿はもちろん、その施工手順まで頭に描いていることを意味します。

 それは、工人たちが仕事を進めるにあたって描いた指図(さしず)建地割図(たてちわりず)板図などに示されています。

  

天守建地割 平図  古図に見る日本の建築 国立歴史民俗博物館編集 至文堂発行 より


 

宝永度後桜町院御所建地割図 (部分) 古図に見る日本の建築 国立歴史民俗博物館編集 至文堂発行 より

 

 上の図はその一つで、「天守建地割」は三重三階の天守建地割図です。図の右肩に書かれている中西元雅とは、17世紀末~18世紀初頭にかけて奈良・興福寺の堂塔の造営にかかわった興福寺大工とのことです。どこの天守であるかは不明ですが、奈良近在の城郭と思われます。図の右半分は立面、左半分は断面を表しています。断面には、普通、寺院建築では見えがかりには使われない枘差し鼻栓打ちが描かれています。これは一般では普通に使われる仕口ですから、城郭建築では、一般、上層を問わず、有用な技法が適宜に使われていたことを示していると言えます。

 下の図は、時代がさらに下った18世紀末の後桜町院御所の造営に使われた矩計図の部分。全長8m、幅45cm、礎石から軒桁まで詳細に描かれています。

 図の表側には礎石天端を基準に2丈4尺まで1尺ごとの目盛と、3間半まで半間ごとに目盛が打たれています(1間は6尺5寸)。 この図を基に尺杖をつくり施工に使用したようです。

 

 これらの図は、現在の設計図で言えば施工図にあたると言ってよく、その図で仕事を進めることができる、言い換えれば、仕事に必要な情報がすべて表記されている言ってよいでしょう。 

 


1982年度 「筑波通信№7 忙中閑話」 1982年10月

2019-07-21 10:36:45 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №7」1982年10月 A4版4頁 

      「筑波通信 №7」 1982年10月

       忙中閑話 三題

  「鉄の女」イギリスの首相が来日し、研究学園都市を訪れ、とある研究所で、そこで開発している機器による(コンピュータによる)肖像画を目の前でつくり贈られ「ワンダフル!」と言ったとかいう記事が、その画のコピーとともに新聞に出ていた。多くの人もまた、「ワンダフル」と言うかどうかは別としても、驚くにちがいない。

 だが、もしも一人の画家がいて、首相の前にすすみでて、すらすらと彼女の肖像画を描いて手渡したとしたらどうなるか?おそらく彼(あるいは彼女)は、たちまちにしてつまみだされてしまうだろう。少しおかしいんじゃない?多分多くの人はそう思う。仮にその手描きの肖像画がコンピュータによるそれに比べていかにすばらしいできであったとしてもそれには決して驚かず、つまみだすことの方に夢中になるだろう。

 そうしてみると、この「ワンダフル!」がいったいなにに対して発せられたのかが問題となる。言うまでもなくそれは、機械に(人間の目に極力近いように)図像を識別させ、更に描かせようとする試みが、ここまで到達したということに対するもので(本来は)あるはずである。その技術の発展はたしかにすごいことである。そしてそれはまた、絵の下手な人が描くスケッチよりも、正確であるという点では(なにが正確なのかは別の問題としても)たしかに正確のはずである。だから、多くの新聞で、なにかものすごいことが行なわれた、日本の技術の勝利、とでも言うかのような胸をはった紹介のされかたがなされていた。

 恐ろしいのは、この驚きの段階を越えたあとの、人々のこの「技術」に対する対しかたである。うっかりすると、機械が画を描くことができるようになった、その技術のもつ価値が、描かれた画の価値にすり代ってしまう。機械の描く画に価値があって、人間が描くものには価値がないなどということにもなりかねない。だれでもがと言ってもよいほどいま多くの人がコンピュータに気がいっている。全く同じことも、コンピュータを一度経由させて言わせると一段と価値が高まるかのごとき風潮さえ見うけられる。

 だがしかし、コンピュータにことを処理させているのは、他でもない、人間であるということは忘れてもらいたくない。機械は、人間によって教えこまれた有限の数のパターンの処理のしかただけを正確に覚えているだけなのだということを忘れてもらいたくない。仮に機械に臨機応変の処理をさせることができるようになったとしてもその場合もまた教えこまれた場合の数だけに対してのものであって、それは決して本来の意味での臨機応変ではない。教えられなかった場面に対しては、お手あげなのである。

 そして、こんなことは言うまでもないが、人間の目は、そして人間の思考は、有限ではなく無限の対応を示すことができる。しかも、ひとりひとりが、である。そしてまた、機械はいつでも(一度教えこまれたら最後)同じ結果を生みだすだろうが、人間は人により、そして場面により、どこを切っても同じ金太郎あめみたいなわけにはゆかないのだ。逆な言いかたをすれば、そうであることこそ(金太郎あめでないことこそが人間であることの証なのだ。

 しかし世のなかには、人々がみな金太郎あめであることを望む人たちがいる。コンピュータのように、いつでもどこでも寸分違わぬ画を描くような人々に人々を仕立てあげたがっている人たちがいる。

 そして、機械が画を描くということに対する単純な驚きが、それを越えて機械や技術に対しての(単純な)信奉になってしまったとき、もともとそれらの機械や技術を考えだす根幹に存在していたはずの、私たちそれぞれの感性が見失われ、信じなくなり、金太郎あめができあがる。

 私たちは、なにも自らすすんで金太郎あめになる必要はない。仮に下手だと人に言われようが、私たちひとりひとりが描く画に、コンピュータの描くそれよりも、比較にならない(し得ない)価値がある。

 


 教科書の「記述・表現」問題。「近隣諸国との友好を損なう」から改めるのだという。それで「決着する」のだという。

 問題はそんなことだったのだろうか?         

 近隣諸国(だけではないが)の人々が問題にしたのは、教科書によって若い世代の人々に対して正しい事実であるかの如くに「知らされること」が(なにも近隣諸国の人々の視点にたたずとも)事実と異なっていたからに他ならず、しかもなににもまして、それらの事実は全てそれらの諸国において起きた彼らにとって「こちら側」のことだったからである。要するに「うそつき」だからなのである。「うそつき」だから「友好」のためにならないと言ったのである。ことの本質は、事実と「知らせることの内容」との関係のはなしなのであって、もちろん単なる文章表現の問題ではなくその内容のはなしだったはずなのだ。

 おかしなことが、おかしなままであまりにも多くまかり通るとき、そのおかしなことがいつのまにかあたりまえなことのように思われてしまうようになる。あやまりをあやまりと見ぬき、言う感性がまひしてしまうのだ。なぜなら、誤った情報、誤りではないにしても言わば一方的な解釈によった情報の洪水のなかで生きるとき(しかもそれが唯一絶対であるかの装いをこらしていると)、私たちは自らの感性によるその真・偽正・誤に対しての判断を省略し(他人のつくった判断に委ね)、それらをうのみにしてしまいがちだ。というのも、考えてみれば、日常的に身のまわりにあるものは(本来が)あたりまえなものだと思うのが人の性の善なるところだからだ。身のまわりに人々がつくりだし整えてきたものは全て、本来は人々がその性の善なるところに拠ってつくりだしてきたはずなのであって、そういう意味で人々は、まずその最初から、人々を「おとしいれ」たり、「だまし」たりすることを目標にかかげてきたことはなかったと私は思いたい。そのような場合なら、自らの判断を省いてうのみにしたとしてもまだ救われる。少なくともまだ人々を互いに信じているのだから。

 いまほど人の性の善なることを無視し、あるいは逆用し、「人為」的にものごとを処理しあるいはつくりだしている時代はないと思う。人々を信じるために、一見矛盾するようにも見えようが、身のまわりに充ちあふれる情報はそのまま信じない、一度自らの感性を通過させるという過程を(面倒でも)とる必要がありはしまいか。いま、情報(知らされること)は必らずしも「事実」とは限らないのだから。

 


 「ペルシャ秘宝」のほんもの・にせもの論議が新聞紙上をにぎわしている。にせもの・ほんもの論議。なにがほんものなのかという論議、にせものをほんものとして売った商売の当否について・・・・・いろいろ言われ書かれている。そして・・・・「秘宝展」で商売をしようとしたデパートの社長がその職を追われ、・・・・それで一件落着したのだろうか?まさか某社長をやめさせるのが目的の記事であったわけではあるまい?

 もしあの「秘宝」が全て正真正銘のほんものだったら、それにいくら高い値がつこうが(あるいは高い値がついていればいるほど)その「価値」が高くなることはあっても、決してけちはつかなかったにちがいない。ほんものなんだからそれでいっこうにかまわない?

 私には、にせものだろうがほんものだろうが(にせもの・ほんもの論議はそれはそれとして)、あれほどさわぐのならば、新聞はもっと重要な問題に触れるべきではなかったかと思えてならない。その問題とは、なぜペルシャの出土品:当事国にとっては文化財であるはずの物:がその国の外に持ち出され(売買の対象にされ)ているのか、ということである。いわゆる先進諸国(この場合には日本は含まない)の国宝扱の品物がその国の外で売買の対象になっているというはなしは、まずきいたことがない。必らずといってよいほど、それら「秘宝」は、いわゆる発展途上国というていのいい呼び名で呼ばれる諸国のものだ。もとはといえば、この先進諸国があの植民地「進出」時代に勝手に持ちだしたのである。日本の国宝級の品物が国外にあるのも大方はそれだ。ときには先進諸国の学者たちでさえ現地に行っては持って帰っている。その人たちが(学問のためといえばきこえはいいが、言ってみれば盗みに近いかたちで現地の「文化」を持ちだした人たちが)文化を語っているわけだ。これもまた「侵略」以外のなにものでもないと思うがどうだろう。

 なぜなら、その国で生まれたものはその国の必然で生まれたのであり。そのものの本来の価値はその国にそれが存在してはじめて意味あるのであって、決して骨とう品としての値だんによるわけではないからだ。その多くを骨とう品にしてしまった(そういう風習にしてしまった)のは、文化がすすんでいると称した先進諸国の人たちだったのである。早いはなし、中国の「文化財」を見るのに、なぜイギリスやドイツやアメリカ・・・・に行かなければならないのか。中国のものは、そしてペルシャのものも、いずれの国でつくられたものも、そのつくられた国の大地の上ではじめてその本来の意味を持つのである。考えてみれば、文化はその土地をはなれて生まれもせず、従って語るわけにもゆかないのである。文化にあたる英語cultureの原義もそうのはずである。

 ときあたかも「侵略」論議が教科書問題にからんで盛んであった。しかし「侵略」はなにも「武力侵略」だけではなかったのであり、言うならばそれと併行して「文化侵略」があったということを広く知らせる絶好の機会だったのに、新聞は某社長の「非行」論議で終ってしまうようである。

 

あとがき

〇もう稲刈がはじまった。夜気のなかに稲わらを燃やしたにおいがこもっていたりする。なつかしいにおいである。

今回は締め切り仕事に追われる破目になった結果、ついに雑感を三つならべるだけに終ってしまった。ほんとはこの三つの雑感を一つのはなしにまとめてみたかったのであるが、いかんせん時間がなかった。 残念。 ラフ・スケッチの段階をそのまま書くわけで、言わば私の舞合裏。

〇その代りというわけでもないけれども、この六月に別のところに書いたものが活字になったので、そのコピーを同封させていただく。これは実は、昨年十二月の通信「蔵のはなし」を全面的に改編書きなおしたものである。

〇それぞれなりのご活躍を! 

      1982・9・27                    下山 眞司


「筑波大学芸術年報1982年」より PDF「『環境』の見方・見えかた(その5)使いかたと使われかた―」B5版4頁 


「第Ⅳ章-1-1 丸岡城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-13 16:29:33 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー1-1,2」A4版13頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ  近世ー1」 

 ・・・・我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある「まとまり」として先ずとらえ、部分はそのある「まとまり」の一部としてのみとらえられるとする考え方すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する・・・。    ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)

 

・・・・私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。

言葉で示すことは把握することではない。・・・・・・・言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。

おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの 意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)

 

主な参考資料  原則として図版に引用資料名を記してあります。

日本建築史図集(彰国社) 日本住宅史図集(理工図書) 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版) 修理工事報告書  日本の美術 (至文堂) 原色 日本の美術(小学館)      

 

Ⅳ-1 近世の典型-1:城郭建築・・・上層階級と庶民の技術の融合

 室町時代:1392年(明徳3年)~1573年(天正1年)  安土桃山時代:1573年(天正1年)~1603年(慶長8年) 

 室町時代を前・中・後期に分け、後期(1528年~)を戦国時代と呼び、近世に含める分け方もありますが、ここでは、室町時代までを中世安土桃山時代以降を近世として扱うことにします。

 多層工法の例として、室町時代の後期:戦国時代になり各地に生れた城郭建築のうち、現存する2事例を簡単に紹介しました。 城郭建築は、各地域の武士が領地拡大を競って群雄割拠し、その拠点として築いた建物です。それゆえ、当初の城郭建築は、実用に徹しています。すなわち、自らの領地全域を見渡せ、万一の場合には籠って防戦できる、そういう建物を、極力早く築き上げることが求められました。その一例が、土台と通し柱、差物(飛貫)の活用です。

 また、その工事には、それまで武士と係わりがあった工人たちだけではなく、支配地域の一般の人びとの間で仕事をしてきた工人:民間の工人たちも重用されます。それゆえ、城郭建築には、一般の住居などの架構技術(粗い加工の木材で、柱、梁差物飛貫)、を一体に組み、そのまま仕上げとする)と、上層階級の架構技術(整えた木材で、二重屋根桔木を用い、張り天井付長押などで空間を整える)が適宜用いられた、と考えられる点が多く見られます

 そのような視点で、代表的な城郭建築を詳しく見てみます。

 

1.丸岡城 1576年(天正4年) 所在 福井県 坂井市 丸岡町 霞

  

 現存最古の城郭建築遺構。所在は地図上印箇所。九頭竜川北岸の平野一帯を望む標高17mほどの丘陵上に天守台を築き、建つ。 (地図は国土地理院発行20万分の1地形図より)

 信長の下で、柴田勝家による築城。明治維新に際し、天守以外ほとんど取り壊された。明治年間まで、数回の修理が行われている。安政地震で鯱が落下。福井地震では天守台が緩み、倒壊。

 

▽  北からの遠望                写真は日本基礎資料集成十四 城郭Ⅰより

 

1)各階平面図 単位 尺、 天守は三層。一層の上にニ、三層が載る形をとる。 二層、三層は同一形状。

 平面図は、下から一層、二層、三層。図中の各柱まわりの数字は、柱の大きさを示す。基準柱間:6尺3寸。

 

                    日本建築史基礎資料集成十四 城郭Ⅰより転載・編集

  

 一層は、黄色枠内の母屋と、それを囲むからなる。黄色枠内の母屋の柱はすべて、印以外、当初は掘立柱だった。

 掘立柱は、石垣で築かれた天守台天端面から下約3尺3寸の土中に礎石を据え、を立て、厚板で根巻をして漆喰を塗っていた。ある時期に、根元を切断し、地盤上の礎石建てに替えている。庇部は、石垣上に土台をまわし、柱を立てている。

 〇印を付したは、礎石建てに変更した後、二層・三層を受けるために追加された補強柱。この柱は、両脇の柱の礎石上に土台を渡してその上に立つ。二層三層は、四隅の通し柱

 天守台天端面が糸巻状の形(中央部が凹んでいる)ため、他の城郭とは異なり、土台は石垣上には設けられず、別個に礎石を据えている。そのため、石垣と土台の隙間を塞ぐために、土台水切小屋根を付けている。

 

 

2)断面図  単位 尺、   桁行(西~東)断面図、 梁行(南~北)断面図

建て方の手順  ① 一層の中央部の東西方向の掘立ての柱列に飛貫を通し、大桁を架ける。

  ② 大桁の上に、直交して、母屋部の南側および北側の掘立柱を結ぶを架ける。

  ③ ②で架けたに直交して二層、三層の南側および北側の柱列を受けるを架ける。四隅はし柱。

写真で分るように、内部は農家あるいは商家同様のつくりとし、外部は二重屋根桔木を用いている。

                                    日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

  

天守 二層内部 北~南面を見る(梁行断面図参照)        天守 三層内部 東~南面を見る(梁行断面図参照)

  

天守一階 北~東面を見る                      天守一階 東~南面を見る 

 天守一階 南~西面を見る                                 カラー写真は、高村幸絵氏 撮影提供による。

 床梁下に取付けられた横材が目をひく。両脇の差口で取付く。飛貫と言うべきか。 差口:一材が他材に差さる状態を総称

          

3)矩計図  単位 尺 

  

 東南側から見上げ   原色 日本の美術 城と書院 より      

 石垣の天端が糸巻状のため、一層部の土台と石垣の間にできた隙間を、土台から掛けた板葺きの小屋根で塞いでいる。 南面(写真の左側の面)では、板屋根が石垣の外側に飛び出している。

 矩計図礎石建てに変更後の図)  日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 諸種の技法が、混合して使われている。

 外観を形づくるために、寺院で多用された二重屋根:桔木が使われているが(図の部)、二重にしているのは外側の軒裏部分のみ。内部では、化粧垂木野屋根とも表し。

 全般に、屋内は部材すべて表しの一般の人びと:民間の建屋の工法で、図の部の付長押など、部分的に上層の建屋のつくりかたが唐突に付加されている(三層内部写真参照)。

 図の部の下段の横材は、飛貫、差物・差鴨居と同じ役を担っている(桁行断面図参照)。民間の工法の援用と考えられる。

 図の部は、数段通したを表しの小壁。柱径が7寸前後ゆえ、は5寸×2.3寸程度。このようにを表しで使うのは、一般ではあたりまえな使い方。

 礎石建ては後補。当初は掘立て。 大引足固を兼ねる。

 柱、梁・桁、貫(差物)で組んだ架構は自立し、壁の位置は任意。

 

(「第Ⅳ章-1-2 松本城」に続きます。) 


「第Ⅳ章ー1-2 松本城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-13 16:29:05 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「第Ⅳ章-1-1」より続きます。) 

 

 2.松本城  着工1594年(文禄3年)竣工1597年(慶長2年) 所在 松本市 丸の内

 

東側からの遠望 背後は松本平北アルプス          建物は、外観は五重、内部は6階

 東面 近景

日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 松本、塩尻周辺は、古来、肥沃な土地が広がるとともに、交通の要衝の地でもあった(東山道北国街道などが、この地を通過する)。

 松本は、北へ下る幅10km内外の平野:松本平、安曇野の東に位置し、したがって、松本城は平地に天守台を築く平城である。右図の〇印。

  国土地理院発行20万分の1地形図より 

 

 室町時代は小笠原氏、以後、武田、木曾、そして小笠原氏へとめまぐるしく領主が変り、1590年(天正18年)以降、石川和正が治めることになる。

 松本城は石川氏による築城で、その下で松本城下町の整備・拡張も並行して行なわれている。

 

1)土台の支持法 杭に代る支持柱の埋め込み

 

 図は、右手が北                   日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 松本城は、平城であるため、天守台天守を築く地盤:は、平地に石垣を築き、盛り土をしてつくっている。

 不安定な盛り土面上に天守を築くために、既存地盤上に建物の土台を支える支持柱を16本立てている(上図の印)。 その上に組まれる土台を受ける礎石が、上図のように、別途、築かれた天守台上に据えられている。

 既存地盤に建つ支持柱は、長さ4.95m(約16尺)内外、径38cm(約1尺2~3寸)程度のツガ(栂)の丸太。

 土台は、支持柱の柱頭の枘に取付く。支持柱相互は、柱のほぼ中央部で、径33cmの丸太の差物で結ばれていた(支持柱枘差し)。

 つまり、石垣内部に土台支持柱を組み、石垣を積みながら内部に土を充填しつつ、土台支持柱を埋め立てる方法が採られたきわめて珍しい工法である。

 

2)各階 平面図(含 基礎伏図、土台伏図)  図は左:南右:北  天守(いぬい)小天守では、階が異なる。   日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

3)矩計図-1 天守 一階・二階    平面図-3対応) 各図共通事項  単位 尺 

 天守は、二階建てを三層積む方法を採っている。 各矩計図は、断面図の橙色枠内を表示。 図中の羽子板ボルト等は、解体修理時になされた補強。

  

 一階、二階では、外周母屋庇部の境の柱が通し柱の厚さは柱径の30%程度。

  矩計図

                断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 矩計図 着色部分:土塗壁 外部:各部塗篭 内部:真壁 垂木~垂木間の軒天井部も塗篭。 軒天部の小舞垂木上全面に通して設けている(図参照)。

 各層(1・2階、3・4階、5・6階)共通床梁は、各階とも格子状に組む。各方向とも、通し柱頭部には、折置。中途階では、通し柱枘差とし、鼻(端)栓またはシャチ継。 交差部は相欠きまたは渡腮。 は2~3間ものを柱上で継ぐ。継手台持継

 

 4)矩計図―2 天守 三階・四階 平面図-5,6対応)

三階 南西を見る   柱列は、通し柱。 床梁(四階床)は各方向とも、柱に枘差。  写真のように鼻(端)栓で納めるほかに、シャチ継も併用されていると考えられる。

               写真・断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載、図は編集

 この図の柱2本は通し柱。 五階の断面は、飛び出している部分を描いている。  

 4階、5階、6階は、居住空間としているため、付長押を設けている。

 3階床を受けるは、柱上で台持継で継がれる。そのうち、上階柱位置にあたる箇所には、肘木を設ける。 

 床板の継目には、下から目板を打っている。

 

5)矩計図-3 天守 五階 平面図-7対応)

 矩計図は、突き出しのない部分。

 五階、六階は、南・北面の通し柱平面図ー7,8参照)

                         断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 

6)矩計図ー4 天守 六階 平面図ー8対応)

 

 

 六階では、野屋根も表し(矩計図に見える軒先ボルトは修理時の補強)。

 

                        断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 矩計図のように、建物は各所を分厚い土壁で塗り篭めているが、土壁部は目的・用に応じて任意に設けられている。 このことは、建物は基本的に架構そのもので自立していて、土壁部には依存していないことを示している。 これは、他の城郭にも共通している。

 


1982年度 「筑波通信№6 「地方」の重さ」 1982年9月

2019-07-07 10:02:12 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №6」1982年9月 A4版10頁 

     「筑波通信 №6」 1982年9月

      地方の重さ・・・・八月十五日によせて・・・・

地図の上のアメリカ

 アメリカ帰りの人から、おみやげに向うの道路地図をもらった。一ページがわら半紙よりひとまわり(縦横とも1~2㎝)大きく、見開き二ページに一州がおさまるようになっている。日本のそれを見慣れている目には驚くことばかりであった(もっとも、ヨーロッパのそれを見てもそれほど驚いた覚えはないから、アメリカが少しばかり独特なのかもしれない)。

 驚きの一つは、言うまでもないが、その国土の(私たちからすると)途方もない大きさについてである。その昔、カリフォルニアの半島に日本列島がすっぽり入ってしまうと教わって驚いたことがあるけれども、しかしその驚きはどちらかと言えば実感の裏づけを欠いた観念的なそれだったように思う。いまこうして道路や町々の所在がこまかく書きこまれた地図を見ていると、日常的な尺度・感覚でその巨大さがあらためて伝わってくる。

 はじめのうち私は、なんとなく日本のそれを見るようなつもりでながめていたのだが、ふと気になってその縮尺を調べてみた。なんと、そのほとんどが百万分の一から百五十万分の一といった縮尺なのである(見開きニページに一州をおさめるため、州ごとで縮尺が違っている)。日本の道路地図は大抵見開きニページでわら半紙の大きさ(いま私の見ているアメリカのそれの半分)で、縮尺は大体四十万分の一である。そして中学・高校の学生用地図帳も見開きニページでわら半紙大であり、試みに「関東・中部地方」を開いてみると、それが百五十万分の一で東は福島県、西は京都府あたりまで入っている。念のために言えば、一州の半分の大きさに、である。一州が実にけたたましいほど(私たちの目からすると)大きいのである。はじめ私は、ページごとに縮尺が違うなんて不親切な地図であるなどと思っていたのだけれども、そう思うのはやはり日本に慣れた目のせいで、日本でのように一日のうちに地図の数ページ分を動いてしまうなどということは彼の国ではまずないのである。州境近くを動く場合の他は一度開いた見開きのなかでことは足りるのである。ページごとの縮尺の違いなど、この地図の目的上、問題にならない。いずれにしろ、日本に慣れた目を大幅に修正しながら見ないと、とんだ錯覚を起こしかねない。

 もう一つの驚きは、その地図の上に網の目のようにひろがる道の形状の特異な形についてのものである。もちろん例外はあるが、まず八割がたは東西・南北に向きをそろえた方形の格子状をなしている。百万から百五十万分の一という縮尺の地図では町なみ家なみは当然書きあらわせず、道も他の地物もいわば記号化されて書かれることになる。そのためかえって道の格子がきわだって見えてくる。それはあたかも(スケールは全く違うのだが)条里制の水田(あるいはその跡をとどめる地図)を見ているかのようである。それが顕著なのはもちろん平原状の大地の場合で、山地ではさすがにそうではない。しかし。平原状だからといってたとえば関東平野をおおう道がほとんど全て格子状をなしているなどという姿を、私たちは想像できるだろうか。私たちの道は、川にぶつかれば素直に向きをかえるのをいとわない。彼の地に川や起伏がないのかというと、そんなことはない。よく見ると川もちゃんと流れているし、当然ながらその向きも東西・南北を向いているわけではなく勝手気ままに流れている。そして道は、よほどの大河でない限り、およそ川の向きなどおかまいなく、その初志をまさに字のとおりに貫徹している。道というのは、およそいかなる形をしていようが全て(ことばの本義で言えば)人工物なのだけれども、この地図の上の道を見ていると、これこそが人工であって私たちにとってあたりまえな道の方は自然物であるかのように見えてくるからおもしろい。

 しかし、全部が全部格子様なのではない。よく見てゆくと、この大平原のなかに、全体から見ると異質に見えるのだが、微妙に曲りくねり、東西・南北の向きには関係なく斜めに走る道も見えてくる。地図の上では異質だけれども、私はこれに出会って少なからずほっとした。それは私たちが普通目にしてきた道とそっくりだからである。しかし、この道はなぜ斜めなのか。理由は単純なはなしである。これは素直に川に沿った道なのである。明らかにこの道は例の格子様、の道とはその成因が違うとみてよいだろう。大きな町、その地方の中心と思われる町は、どうやらこの斜めに走る道に沿ってあるように見える。そういったことを考えてみると、この斜めの道は多分この地方の古道なのではあるまいか。そして格子様の道は開拓の結果として生じたもの、道としてよりもむしろもともとは地割線に違いあるまい。

 つまりこういうことだ。人々は下流から川に沿って開拓を目的にさかのぼってくる。まず、適当と思われる場所に仮にとどまり、そこを拠点にまわりの土地を物色し定着地をきめる。つまり、仮の場所は言わば前進基地、開拓中の土地が前線である。まさに字のとおりフロンティアである。開拓がすすむにつれ、それを支える前進基地は町として発展してゆく。そして開拓した農地は整然と区画され、その塊界線がそれらを互いに結ぶ道とされる。おそらくそのとき、それら方形の線が全土をおおう道路網になるなどという発想はなかったに追いない。そうなったのはずっと後になってからだ。なぜなら。拠点の町へゆく道はともかく、開拓地を越えて更に先へすすむ道は、彼ら定住地を見つけてしまった開拓者たちには当面必要なかったはずだからである。それを全土をおおう道路網の一つとしてくみこんだのは、多分、後の時代の別の(目的をもった)人たちなのだ。

 実際に見たこともなく詳しく調べたわけでもないのにこういうように思うのは、およそどこの国であっても、全土をおおう道路網の建設が人々の定着・定住よりも先行するはずがないからである。先行するのは、まず人々が定着すること、そしてできた村々や町々がそこに住む人たちの必要に応じて道を介してつながってゆく。そのとき彼らが、はるか数百㎞も先の(自分たちの生活とは、自分たちの側から見て、何の関係もない)町や都とのつながりを第一義的に考えるわけがない。たしかにいまでこそ、まず基幹としての道路を整備し、それから開発をすすめる、というのがあたりまえになっているけれども、それはあくまでも近代の合理主義的考えのしからしめるところなのであって、唯一そういう見かただけで古今人々がその住む大地に拠って営んできたことを見てしまったら、何度も言ってきたことだけれども、そこにはとんでもない誤解が生まれてくるだろうと私は思う。そしてまた、そういう近代的開発の目でしかものを見ないならば、あの格子状の網の目の下に、ことによるとこの開拓をした人々以前に住みついていた人たちの道が隠されているかもしれないことに、全く思いもおよばなくなってしまうかもしれないのだ。

 

地図のなかの人々

 こういった驚きをともないながら地図を見ていると、それが全く見知らぬ土地の地図だからでもあろうが、その地図の上のすみずみで暮している人たちの生活というのはいったいどういうものなのか、いろいろな思い・想いがわいてくる。

 たしかにはじめのうちは地図をひろげその縮尺を確認し、その大きさにためいきをつき、名も知らぬ町々を順にたどってゆき、隣り町までちょうど土浦と東京ほどの距離があるのだ。などとどちらかといえばその物理的な側面での感嘆をくりかえしていたわけなのだが、そのうちに、こういうような状況のなかで暮している人たちの生活(感覚)というのはいったいどんなものなのだろうか、とても気になりだしてきた。

 たとえば、そこの町に住んでいる人たちにとってアメリカの政治の中枢ワシントン、あるいは文明の先端をゆくと思われているニューヨークなどなど私たちもよく知っているアメリカの代表的な都市やそこでの動向は、いったいいかばかりの意味をもつものなのだろうか。あくまでも私の感じにすぎないのではあるが、その町に住む覚悟をしている限り、おそらくそれらははるかかなたの言わばどうでもいいこととして受けとめられているのではなかろうか。すなわち、あそこはあそこ、ここはここ、というとらえかたが至極あたりまえになされているのではないかと思う。なにしろ、ワシントンなどははるかかなたの地の果てにあり、さきの地図なら何ページもめくらなければならないし、そこへ仮に行くとなれば、日付はともかく時計の針は何度か変更しなければならないのである。ことによると、ワシントンなどときくと、まず自分の州の(隣り町の一つとしての)ワシントンを頭に描くかもしれないのである(ワシントンなる地名は、私たちの知るあの有名なもののほかにも各地にたくさんあるのだそうである)。もちろんたずねてみたわけでもなく調べたわけではないのだが、多分まちがってはいないと思う。

 つまり、そこの町に住む人たちの日常的な暮らしの世界のなかには、そのはじめに抽象的なアメリカ全体:「全国」などという観念は決して入ってこないだろうということだ。「全国」的な世界は、その日常生活の何段階か上の次元のはなしなのであって、まずはその町でしかあり得ない(その町だから当然の)ものごとが考えられると見てよいだろう。そして、これだけ広い国土だと、一生自州はもとより自分の町のまわり数百㎞以上の外に出たこともなく終ってしまうというのも決して珍らしくはないだろう。そう考えてくると、成功をおさめたアメリカの(いなかの)おじいさん・おばあさんが世界一周の旅にくりだしてゆくというのも、なんとなく分るような気がしてくる(「農協さん」などと少しばかり皮肉った表現がされている日本の農家の人たちの海外旅行もまた、これに似た側面があるのではないかと思える。彼らもまた、土地にとりくめばとりくむほど、自分の「世界」だけで過ごし終ってしまうことが多いからである)。

 

 こう見てくると、少しばかり短絡的かもしれないが、アメリカが一つの「中央」による国内政治ではなく、各「地方」:各州の州政治を基とした連邦制をとっているのが、まことに理の当然であると思えてくる。

 「統一的」あるいは「画一的」なやりかたで「全国」一律に処するなどということは、物理的にもまず不可能だからである。この百五十万分の一という地図の上に辛うじて点となって書き示された町に、もはやその縮尺では目に見える点にもなり得ない人々が住んでいる。しかし、その人々の存在ゆえにその町や村が存在する。この人たちは、まさに「草の根」なのである。この広大な土地の地図は、それが広大であるがゆえにかえってこの「草の根」の存在をひしひしと感じさせてくれるのである。そして、そういう「草の根」が繁茂しているがゆえに町が在り、州が在る。州という「林」がなりたつ。そしてその集合体が合衆(州)国すなわちUnaitedstatesという「森」となっている。また、そうならざるを得ないのだ。現実に「草の根」たちがどう扱われているかは知らない。しかし、アメリカの(少なくとも建前としての)民主主義とはこういうものなのだろう。いや、なにもアメリカに限らなくたってよい。およそどこの国においても、「草の根」の存在しない村や町もそして国も在るわけがない。とりわけ「国」というような抽象的な存在が「草の根」より先に在るわけがない。

 だが、日本の様相はどこか違う。日本ではむしろ「中央」という名の大樹が、「草の根」を一本残らずむしりとり根こそぎにしてしまうことによって繁茂している。更にまた繁茂しようとしている。はたしてそれが「国力」を強くなることなのであろうか?そしてこの日本の様相は、国土が狭いという特性ゆえの日本なりの当然の様相なのであろうか?たしかに「統一的」「画一的」なことの処理は、狭いがゆえに数等やり易いだろう。しかし、やり易いということと、「草の根」の存在を認めるかどうかということとは、本来別の問題である。先に記したように、国土が広かろうが狭かろうが、そして「画一的」な処理がし易かろうがしにくかろうが、「草の根」すなわち個々の人々は、厳然として存在する。仮にその個々の人々の個々としての存在が(ある人たちにとって)都合が悪いからといって、現実に、そして諭理的に言っても、その存在を消し去ることは絶対にできない。

 私はいま、あのアメリカの地図を見ていて、そこに「草の根」の存在を見たと書いた。しかしほんとは、日本の地図の上にもそれを見なければいけないのである。もしその上に、そこで暮す人々の姿が見えてこないならば、それはそこに土地ではなく単なる地面の拡がりを見ているにすぎない。こういう見かたが横行するとき、頭のなかからは日々を暮らしている生身の人間が消えていってしまう。そして、そういう人々が存在しない前提のもとで、次から次へと人々に係わりをもつことがらが処理されてゆく。これを矛盾と言わずとして何と言うのだろうか。

 

「地方」のニュース‥‥事実とニュース

 八月の七・八日、所用で山梨県へ行った。泊ったのは一足信州に入った富士見町(八ヶ岳のふもとで、名前のとおり信州から東へ向うとここへ来てはじめて富士山が一望のもとに見わたせる)であったが、そのあたり(富士川の上流にあたるが)一帯、南アルプスへかけて、ちょうど一週間前の台風十号で相当ひどい被害を受けたようであった。ようであったと書いたのは、現地に着くまで被害について全く知らなかったからで、私は車ででかけたのであるが、私は運よく車が通れるようになって間もなくの道を通ったらしく、一日前だったら来れなかったのだそうである。そんな情報は、訪れる前何も知らなかった。

 実際こんな場合、知るといったって、私たちはどうやって知るのだろうか。だれか知りあいでもその町にいれば、いちはやく知り得たかもしれないが、そうでもない限りせいぜい新聞・ラジオ・テレビのニュースによるしかなく、そのころニュースは東海道線の富士川鉄橋の倒壊や東名・中央両高速道の土砂くずれによる不通など、どちらかといえば首都圏にとって何らかの係わりもちそうな障害について多く報じられていたように思う。道路情報というのがあり、電話一本で状況を知り得るのであるが、報道に拠る限り私の目的地は大したことはないと頭から思いこんでしまっているから、私は問いあわせをしようとは思わなかったのである。実際はかなりの被害であった。その時信州は、東京方面からの二通りの幹線:信越線・中山道と中央線・甲州街道:が両方だめになり、一時的に孤立の状態だったのだそうである。そういう具合だから、あちこちで浸水、洪水、鉄砲水、土砂くずれがあり大変だったらしい。よく考えてみれば、富士川下流の鉄橋が倒壊するほどの水が流れた以上は、その上流の雨がいかにひどかったか自明のはずなのだが、ニュースで報じられるとどうしても報じられた一件にのみ目がいってしまって、関心もそれだけで終ってしまい、その背景・全景:全体像にまでは目をやらないで済ましてしまうのである。

  私はその地の新聞、信濃毎日や山梨日日を読んで、やっとのことで現地の状況の大体についておぼろげなその姿を知ることができた。というより、筑波で読んだ向う側の「中央」紙の報道と、そこで読んだこちら側の「地方」紙の報道とをあわせてみて、今度の台風十号がどんな具合に列島を横切っていったかがはじめてよく分ったような気がしたのである。

 なにも今回のこの経験によってだけではないのだが、とかくこういう場面に出くわすと、いったい「中央」紙なる新聞の紙面をにぎわす記事というのは何なのか、あらためて考えざるを得なくなる。なぜなら、現場に居あわせでもしない限り、多くの人々は、その読む「中央」紙において報じられた個々の事例だけによって、たとえば今回の台風十号についてのイメージを、勝手に、描いてしまうだろう。それで全てだと、つい思いこんでしまうのだ。(もちろん、その勝手は必らずしも読み手の責任ではない。)そして多分、人々は分った気になってしまうはずである。

  言うまでもなく、全ての事件、あるいは全景をくまなく報ずることは不可能であるから、報じることの内容に対して必ずある種の選択が行われよう。だから、その選択のなされかたの当否はともかく、少なくとも、そこに記されていることはあくまでも全体の一部にすぎないということを私たちは知るべきであり、そしてまた、そのほんの一部分のことがらをもとに、私たちが個々に、その全体:全景あるいは背景について思いをはせるべきなのではないだろうか。おそらくそれが、知ろうとする私たちにとっての最低の努めのはずである。

 

「中央」からのニュース・・・・知らされることと知ること

 実際、「中央」の近くに住み時折「地方」に出向いて、その地の新聞やテレビを見ていると、日ごろ気づかずにすごしていた、同一のことがらも自分の立つ場所によって全く違う見えかたをするものだ、ということにあらためて気づく。言わば、向う側に押しやって見ていたものを、こちら側に近づけて見れるようになり、私の立場の所在の確認をせまられることになる。いつもいったい何を見ていたのか、ということだ。

 よく「地方」でテレビの(特にNHKの)ニュースをきいていると、「きょうの日曜日は久しぶりに夏らしい青空がひろがり・・・・」だとか「きょうは九月一日、夏休みも終りきょうから新学期、まっくろに日焼けした子どもたちが元気よく・・・・」などと言っているのに出会うことがあるけれども、たまたまその日一日その地が曇っていたり、あるいはその地が寒冷地であったりすると(寒冷地の二学期は八月二十日ごろにははじまっているから)実にもう白々しくきこえることがある。多分、これを東京で見ている人は別になんとも思わず、そういえばそうだったなどと思うだけだろう。あたかも「全国」的なはなしをしているようでいて、実はそれは東京のはなしをしているからなのだ。ことによると、東京のことは「全国」に通じるかの錯覚におちいっているからなのかもしれない。いや、ことによると、知らせる方も知る方も、錯覚どころか素直に(ほんとに)そう思ってしまい、更にそれどころか、その「全国」共通からはずれているようなことがまるで悲いことでもあるかのように思っているのかもしれない。それがたまたま自分の身のまわりで起きたことがらについてのニュースのときには、事実と違うではないかと白々しく思うだけで(もしかすると、そういうことに慣れてしまって、軽くまたかと思うだけで)、その他のことは、多分、そのままうのみにしてしまう。

 考えてみると、これはまことにこわい、恐ろしいことだ。なぜなら、事実を知るのではなくニュースを知ったことで、あたかも事実を知ったかの気になってしまう。それに慣れてしまうと、自らが(事実を)知るということが忘れ去られ、(事実を)知るということ自体も他人まかせになってしまう。自ら知り得ていないことまで、知っているかの錯覚におちいりかねない。そうなれば、自ら知らないがゆえに分らない、と言うことさえもなくなり、だれもが分っているかの気にさえもなってしまう。つまり、自らのものごとの判断が放棄されるということである。ものごとの判断までも他人まかせとなる。

 しかしほんとうは、自ら知り得ない、それゆえ分らない、そうはっきり言いきることが大事なのであり、そう言いきれるとき(つまり、知ったかぶりですごさないとしたとき)、実は逆にそこにおいてはじめて、自ら知ろう、分ろう、と努める気持がわいてくるのではないだろうか。「中央」から(だれかの手によって)整理された事実だけが知らされるのに慣れ、それが全てだと思いこんでしまったとき、私たちは、この自ら知ろう分ろうと努める気持さえ失なってしまうに違いない。そして、私たちがそれに慣れてしまったとき、そのとき私たちに知らされるものはいったい何か。そしてそのとき、私たちはどのようなふるまいかたをするようになるか。多分そうなったとき、私たちは、ひとりひとりの判断を忘れて、画一的な判断を(別に強制されているとも思わず、あたかも自らの判断であるかの如くに)するようになるのではなかろうか。

 

 実際、昭和二十年八月十五日以前において私たちがおかれていた状況はまさにこういうものであったと思うし、その後三十七年を経過したいま、民主主義を片方で(建前として)かかげつつ、ある種の人たちがつくろうとしているものもまたこういう状況に他なるまい。そうでなければ、あれほどしつこく教科書の画一化にこだわるわけがない。私たちがともすればおちいる知らされたことを事実そのものと思いこむ錯覚が巧みに利用され、私たちの(強制されているとも気づかない)画一的な判断を生む状況づくりが着々と行なわれている。そしてまた、情報量の増加、しかも一見したところ多種多様な情報は、人々をしてただ単純にいろんなことや考えがあるのだと思わしめるだけで、かえって自らが自らにより知ろうとする気を起こさせなくなってしまっている。そしてその多種多様な情報でさえ、それは決して多種多様な人たちによって発せられているのではなく、端的に言えば、「中央」にいる(「中央」こそ全てであると思いこんでいる)ある種の人たちによって発せられていると言ってよいだろう。それらもまたテレビのニュースと同じに、必らず一度「中央」を経由して「全国」に流されるのであり、このやりかたは、ことによると戦前戦後を通してなんら変らなかった極めて日本に特有な現象なのではなかろうか。

 しかしいったいなぜ全ての情報やニュースが「中央」からあるいは「中央」を経由して伝えられなければならないのだろうか、そしてそれが(日本では)あたりまえになっているのだろうか。

 たとえば、さきのアメリカの道路地図の上に見つけた名もきいたこともない小さな町でも、ニュースは「中央」から伝えられるのだろうか。そうではないだろう。新聞でいえば、彼の地には日本のような「中央」紙はない(系列はあるようだが)。「全国」紙はなく(系列はあっても)全ては「地方」紙である。というより「全国」紙、「地方」紙ということばがないはずだ。どれもがいわば「地方」紙なのだから。かのニューヨークタイムズにしたところで、基本的にはその名のとおり一「地方」の新聞にすぎない。なぜそれがあんなに有名なのかといえば、それは発行部数によるのではない、その内容によってだろう。当然あの小さな町のあたりにも「地方」紙があるに違いない。部数はとるに足らない小さな新聞。そしてそれは多分、その「地方」の目で編集されているに違いない。言わば、「世界」は彼らの目でもってとらえられる。もちろんニュースは通信社から配られるだろう。だが、そのあつかいかた:つまり編集は、あくまでも彼らの目によるはずである。つまり、その新聞はその「地方」のためにつくられるのだ。おそらく、諭説や主張や論評もまたその「地方」に根ざして説かれるだろう。ことによると、中立をよそおうなどということもなく旗じるしの鮮明な新聞がいくつもあるのかもしれない。そして、もしその論説や主張が、その「地方」を越えた共通性普遍性のあるものであれば、それはまたすすんで他の「地方」紙(有名無名を問わず)転載されることもあるというはなしもきいたことがある。

 すじの通った一「地方」の主張は、それが仮に数の上ではとるに足らない「地方」や「地方」紙であったとしても、それは無視・黙視できない価値を認められるということだ。もちろん実態を詳しくは私はしらない。しかし、建前は、その土壌は、基本的にはこういうものだろうと思われる。あの広大な広がりという物理的状況では、こうでなければ成り立つまい。すなわち、「中央」ではなく、「中央」だけではなく、そして「中央」におもねることもなく、一「地方」がそれぞれ「世界」を語ることができる。これが日本なら、正しい情報は「中央」だけが持ち得るのだと自他ともに思いこんでいるから、正しくない、あるいは情報量の少ない「地方」の見解なんてとばかり一笑に付されるのがおちだろう。そして実際各地の「地方」紙で、自負と見識をもって編集している例はほんとに少ないように思う。その少ない例では、一般紙面はもとよりその投稿欄などを見ると、一見して地元の人たちに支えられているというのが分かる。しかし、大かたの場合は、第一面から三面記事みたいで読む気がおきない。まるで、その「地方」のことも全て「中央」にまかせておけばよいかのようである。

 たとえば、私が住む茨城ではいわゆる科学万博が数年後に開かれることになっているけれども、地元の新聞はのっけからそれを行なうことがよいことであるかの前提で話をすすめている。万博を成功させよう、といういわばキャンペーンの先兵を卒先してつとめているといってよい。なぜなら、それを契機としての「中央」からの「公共投資」という名の「下付金」が欲しいからなのだ。おそらくこれはなにも万博がらみだけではなく他のことも同じだろう。およそ県政というものが、いかに「中央」に対していい子ぶりっ子をしておこづかいをたくさんもらうか、という点にのみ関心があるわけで、地元の新聞はそれを援護することに意味を見つけているようなのだ。「中央」のその「地方」に対する施策に唯々諾々として従うことをもってよしとする。万博がどういう意味をもつかなどという論議はそっちのけでそれによっておちる金勘定が先になる。第一、そのおりてくる下付金のでどころがそもそもどこであったかを忘れている。言ってみれば、もとはそれぞれの「草の根」から集められたものだ。ある地方行政の担当者が、やたらに使途をこまかく規定した補助金をいろいろくれるよりも、それらをまとめた金をくれた方がどれだけよいかわからない、それに、なにも一度国:「中央」に吸いあげてから再びもどってくるという過程もあほらしい、と言っていたけれども、これはある面で正当に思える。しかし現実はそうでないから、少しでも「中央」に近い方が「地方」のためになるという発想になり、それに大抵慣れきっているわけである。

 だから、国家的スケールのプロジェクトから、どうみても地域の限定されるものまで、およそ全てが「中央」の意図どおりに動くことになる。そして、「地方」も「地方」紙も多くの場合それに迎合する。「地方の時代」などときこえのよいことばがでまわったけれど、その発想元もまた「中央」なのであって、それの意味はあくまでも「中央」の体制化のもとの(「中央」のための)「地方」であり、それは決して「地方の自治」ではないのである。考えてみれば、「地方」からの発想が基本となるのがあたりまえにあたりまえになっていたならば、あえて「地方の時代」なる新語(珍語)が生がれるわけがない。

 

知ることと知らせること

 このように見てくると、いま私たちがおかれている、そしてあたりまえだとさえ思い、慣れきってしまっているこの状況、そしてそれに慣れきって、どこかえらい人たちから知らされることをもって事実の全てと思いがちな私たち自身の状況、これはまた大変に恐ろしい。


 「中央と地方の問題は、その地域がそれぞれにもつ固有性によって、いっそうむつかしいものになっている。地域の社会と文化、人間の暮らしかたの総体を真に深く理解し得るのは、まずそこに住むもの自身であり、そこに住むものが、自分たちの暮らしかたの実態と地域に深く横たわっている問題とを、広く他の地方や中央の人々に知らせる必要がある。だが、情報時代といわれる今日においても、それが実際にむつかしいこと、無限にむつかしいことは変りがない。

 近世末期に越後湯沢の一商人にすぎない鈴木牧之が、『北越雪譜』二編七巻を著して、雪に埋もれて暮らす自分たちの地域のことを、巨細、天下の人々に知らせ、その理解を深めようとしたのは、稀有の出来ごとであった。」(益田勝実<北越雪譜のこと>より)

  

 むつかしいことは分りきっている。しかし、私たちに残されているのは、そしてそれはつまるところはじめにして終りでもあるのだが、私たちが私たち自らを語ることだけだろう。なぜなら、さきにも書いたけれども、「中央」という大樹が「草の根」よりも先に存在するわけではないからである。別に「草の根」は、得体の知れぬ「中央」のために在るのではないからである。知るということは、知らされることを知ることではなく、私自身が自分の目で知ることだからである。そしてそれは、少なくとも、三十七年前の八月十五日以降、私(たちの世代)が身をもって身につけてしまった考えかたでもある。

 

あとがき

〇暑い。むし暑い。乾いた空気がほしい。

〇暑いのと、いろんな仕事が重なったことで、ついに今号はまとめるのがおそくなってしまった。

〇教科書問題。あの戦争で、なにも学ばなかったのだろうか。学んだのは、多数決だけだったのか。

〇空気が少し澄んできた。

〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

           1982・8・21                       下山 眞司

 


「第Ⅲ章-4-2 箱木家」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-01 16:42:00 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー4-2」A4版5頁

 

2.箱木家  室町時代後半     所在 神戸市 北区 山田町衝原(つくはら) 移築保存

  箱木家は、主屋と離れが近接して建てられている。

 修理時の調査で、離れ部を右90度回転して2棟を合体、増築して1棟としていたことが分った。ここでは、主屋部を採りあげる。 

 

 

 修理時点平面図        平面図・断面図は重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より転載、断面図は編集

 

 

 

 復元 平面図

 

 箱木家のある山田町衝原(つくはら)一帯は、六甲山系の北側に位置し、中世の摂津山田庄にあたり、ここには、ほかにも多くの千年家と呼ばれる住居があった。 その理由は不詳であるが、山陽道の脇街道が通り、交通の要衝として栄えていたことも、一つの因と考えられる。

 箱木家は、ダム工事により、近在別敷地への移築保存の形を採った。

 主屋は、古井家同様、上屋+下屋の構成で、下屋まわり土塗り大壁で囲われていたと推定された。 ただ、南面の下屋は縁になっている。

 

主屋 復元 平面図

 

 

 

主屋 復元 桁行断面図 なんど~だいどこ~にわ      色塗り部分は貫

 

 古井家では足固貫内法貫が主体で、土間部の桁行棟通りのみに飛貫を設けているが、箱木家では、内法貫は設けず、足固貫飛貫だけである。 特に、飛貫は、梁行桁行のほぼ各通りに入れているのが注目される。

 

  

 修理時 南面                        修理時 北面

   

 復元後 南面         日本の民家3 農家より    復元後 東~北面

 

 修理時点には、大きく改造されて、下屋まわり四周の土塗り大壁部はすべて消失し、を含め当初材はなかった。

 移築保存で建物の撤去後、発掘調査が行われた結果、下屋まわりの礎石土壁基底部の一部(縦小舞の痕跡)が発見され、その結果、壁の仕様が特定された。

壁の仕様(前出の古井家の壁仕様参照)

 古井家と同じく、縦小舞:径2.5cm内外の粗朶(そだ)に、横小舞:同じく粗朶小舞縦小舞に絡め、土を塗り篭める方法。したがって、下屋柱相互を縫うはなかったものと考えられる。

 

 △ 復元後 南面部分  

 

 梁行断面図 おもて~だいどこ 

 梁行断面図 にわ部分    断面図とモノクロ写真は重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より

 

復元後の内部写真  重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より転載・編集(文字は編集)

にわ上部の小屋架構 全般に、材寸は古井家よりも太めである。 

 

にわからだいどこを見る   飛貫側柱にも設けている。

 

材料および材寸  箱木家住宅修理工事報告書には、材寸については、下記材料以外、記述がない。

:マツ  上屋柱 14.7㎝~16.2㎝各角、面取り 目標寸法は5寸角か? 下屋柱 当初柱消失 復元では12.0㎝角

梁・桁:マツ  上屋梁 約15㎝×17.0㎝程度直材、および丸太  上屋桁 記述なし 渡腮  柱~梁~桁:折置組、柱頭重枘差し 

:マツ  足固貫 詳細記述なし 当初柱の貫孔:12.1㎝×6.0㎝、胴付枘差しとあるので、12.1㎝×7.0~7.5㎝程度か?   飛貫 詳細記述なし 当初柱の貫孔:12.1㎝×6.0㎝、梁行方向は柱に胴付枘差しとあり、12.1㎝×7.0~7.5㎝程度か?  他は貫孔と同寸とあり、12.1㎝×6.0㎝程度、継手は柱内略鎌相欠き)。  

付長押:マツ 見付 平均3.8寸  他の材の材寸は、写真上で、柱、小屋梁との比較により、推定するしかない。

 なお、報告書掲載の現状変更説明書では、飛貫内法貫と表記している(近世住居の用語によったため、との註釈がある)。

 

おもて南面

床~鴨居下端:約5尺  付長押は、飛貫鴨居とは独立して別個に取付けられている。

の位置が開口部上端:鴨居とは離れていることから、内法貫ではなく飛貫と呼ぶのが適切。 を隠さない点が、方丈建築との大きな違い。 住居建築でも、近世には、飛貫は用いられず、鴨居レベルに内法貫を入れるようになる。

おもて北面

付長押上の壁は割り竹張り内部に飛貫が通る。割り竹張りの理由は不明。


  南側 縁部分

 

 箱木家では、写真のように、下屋部上屋部とを繋ぐ材は、足固垂木だけである点に留意する必要がある。古井家では、内法貫上屋柱下屋柱を繋いでいる。

 下屋まわり四周の土塗り大壁部はすべて消失し、を含め当初材はなかったにもかかわらず、このように復元した理由は報告書に記述はない。

 おそらく、飛貫位置が下屋の桁位置より高いため、繋ぎはない、と判断したものと推測される。上屋柱に当初柱が少なく、繋ぎ材の確認ができなかったことも一因と思われる。 下屋まわりの復元にあたっては、近世住居の壁のつくりかたが援用されたため、違和感がある.

 

 なお、下屋まわり大壁は、古井家同様、構造的な役割は持たないと考えられる。構造的に必要であるならば、撤去することは不可能のはずであるが、後に撤去改造され、修理時には消失していた。

 

 古井家箱木家とも、建設当初、外壁四周は大半が土塗り大壁でくるまれています。しかし、各建物の解説で触れましたが、下屋上屋はほとんど分離・独立していて、大壁部分は一見建物を維持・自立させる役割を担うように見えても、その働きはしていないと考えられます。

 また、上屋礎石建て下屋礎石建てですが壁部は土塀の如く地面から立ち上がるため、上屋下屋では挙動が異なるはずですが、それにより起きたと思われる損壊などはなかったようです古井家の北面土壁は修理時著しく破損していましたが、その主因は地盤沈下によるものです。)

 古井家箱木家とも、四周の壁を取り去ると、壁のない架構だけが残ります(間仕切の壁は薄い板壁か土塗の真壁壁です。そのような架構が、なぜ400年を越えて健在であったのか、考えて見ます。 

 

 古井家箱木家のつくりかたは、以下のとおりです。

① 先ず、地形(地業)の後、据えた礎石上に5寸~6寸角あるいは末口5寸程度の丸太でからなる逆コの字型をつくり何列か横並べし(列数は規模による)、次いでの両端にを架け居住空間の外形をなす直方体:上屋部分の軸組をつくる。 

② 直方体位置に大引を兼ねた足固貫を柱間に通し、柱頭近くで内法貫飛貫を柱間に通す。

③ 上に屋根の外形をなす小屋組をつくる。又首組にするか束立組にするかは任意。

④ 必要に応じて下屋部分をつくる。繋梁は設けず、で繋ぐ箱木家ではもない)。 

⑤ 垂木を架け、屋根を葺き、を張り、柱間に開口装置任意に充填して仕上がる。

 

古井家住宅 梁行断面図・桁行断面図  日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集

 

 古井家箱木家は、小屋貫は近世の住居と同程度の材 (丈3.5寸~4寸×厚:柱径の1/3程度ですが、足固貫、内法貫、飛貫は、丈が4寸程度、厚は柱径の40~50%近く(約2寸5分程度)の材が使われ、端部は胴付を設けて厚2寸ほどの枘につくりだし柱に差して楔で締めているのが特徴です。

 また、足固貫以外はすべて表しとなり、この点は、付長押で隠す方丈建築と大きく異なります方丈建築は、丈:2.8~3.5寸、厚:柱径の30%程度。表すことはせず、付長押で隠している。 

 古井家箱木家の架構法は、部材は全般に細身ですが、原理的には浄土寺 浄土堂の架構法と同じで、胴付を設けてに差して楔締めにしている点は、近世の差鴨居の原型と見ることもできます。

 すなわち、細身の材による軸組部は、その上に載る小屋組と下部の床組により平面形状が保たれ、上屋上部の柱間を縫うと、上屋四周の下屋上に垂木によってできる三角柱古井家の場合)の働きで軸組部の垂直が保たれ(これは、方丈建築の桔木のつくる軒下の三角柱と同じ働きです。)、これらが綜合して、木造部だけで自立が可能であった、と考えられます(上図参照)。

 しかも、下屋部と上屋部の繋ぎが緩いため、下屋外周の土壁部礎石建て上屋部の挙動の差も吸収減殺されます。実際、修理時の破損状況を見ると、地盤沈降、補修不全による雨漏り、粗漏な改造・改修に起因する破損が主で、架構自体に起因する破損は見当たりません。 

 箱木家の近在には、同じく中世に建設され、良好な状態で住み続けられてきた阪田家がありましたが、昭和37年(1962年)焼失してしまいます。この事件は、その後の住居遺構調査を進める契機になりました。

 昭和25年(1950年)の文化財保護法制定時、文化財として指定されていた建造物は270件余のうち住居は2件、文化財保護法制定後の1960年(昭和35年)頃においても僅か31件にすぎません。これは、日本の建築史学において、住居は研究対象として扱われてこなかったことを示しています。

 


1982年度 「筑波通信№5 『善意』の人々」 1982年8月

2019-06-25 10:09:38 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №5」1982年8月 A4版10頁 

     「筑波通信 №5」 1982年8月

      「善意」の人々・・・・経験すること、分ること・・・・

 経験者の目と、未経験者の目

 六月の末は、大学では期末試験の季節である。学生にとってはもちろん、教師にとってもいやな季節である。知識の量を計るというやりかたはそれなりにランクづけも楽だけれども、試験のときにたくさんの知識をまちがえずに覚えていたからといって、ずっと先までそれを覚えているはずもなく、第一仮に覚えていたとしてもそれが有効に本人のなかで働かなければおよそ無意味だし、覚えこむという努力自体徒労にすぎない、それよりもものごとを自分がどうとらえ、どう考えるか、その方がずっと重要なことのように思え、そしてそうした自分の考えかたによって必要に迫られて身につけた知識は生き生きとしているものだ、そう考えるが故に、試験問題もなんとかして各人の考えかたの展開のさまが分るようなやりかたはないかといろいろ考える。自分が感じ思っていることをどれだけ論理的に展開できる人なのか、せいぜいそのくらいでしか評定できないと思うからである。ここに掲げたのは今年の問題である。引用した文章は、先号のあとがきに紹介したもの。いったい、どんな答案がだされたか。(対象は二年生25人。建築志望の学生とは限らない。)

 

  

自分の考えかたでなく、教師に迎合したことを書けばいい点がもらえる、などと思われても困るので、そうならないように対策を講じることになる。 A,B,C,D, 四人の会話を付したのはそのためだ。A,~D,のどれかを選べというのじゃないよ、と口頭で言ったのだが、それはまったく杞憂だった。

 

 私なら、幼稚園は明るい方がいい。自分の家と幼稚園とは、子どもにとってはまったく別の世界だと思う。少なくとも私はそうだった。家でいやなこと悲しいことがあっても、幼稚園にくればみんなの明るさのなかで、いつのまにか自分も悲しいことを忘れていた。幼稚園に来てまで、(悲しむ場所を用意までされて)悲しい気分を忘れさせてくれないのでは、私なら困ってしまう。幼稚園は自分たち子どもだけの世界なのだ。しかった大人も白い目で見る人も‥‥ここには立ち入れない。そういう人たちから逃げ隠れすることもない。確かに幼稚園に来てもまだ悲しくて泣きたいこともあるだろうし、幼稚園のなかの生活でもそういう気分になることもあるだろう。そんなとき、一人で泣きたいと思う子どもは、幼稚園が明るい設計であろうがなかろうが(つくりがどうであろうが)、思う存分一人になれ、泣ける場所を自分から見つけるものだろう。私は子どものころとてもおとなしい子で、幼稚園では他の子とうちとけて遊ぶことをせず、みんなが遊んでいるのを一人で見て楽しんでいるといったタイプの子であった。もしも一人になれる暗い場所がいくつもあったら(別に悲しいことがなくたって)私はいつもそのどれかに閉じこもりきりで、友だちもできない暗い子になってしまっていたかもしれない。孤独という感覚は、大ぜいの人のなかで(かえって)十分に知ることができたのだ。私の場合、家に帰れば明るくおてんばな子であった。まわりにはその逆の子もいた。みなそれなりに、家と幼稚園とを区別していた。家のまわりでも幼稚園ででも、私たちは大人が用意してくれた遊び場などに関係なく、自分たちで、その場その場でいろんな所を遊び場にしたり、泣き隠れる場所にしていた。だから、大人がどんなに小さなところまで心配りをしても、結局子どもたちはそれとは関係なく(大人の思いをはずれて)自由に生活してゆくのだと思う。だから私なら、幼稚園には普通家では考えられないような場所(大きな部屋や大きな庭や・・・・)があればいい。あとは子どもたちが自由に使いだし、つくりだすだろうと思う。・・・・

 

 これがその答案の一つ(抄録)である。別にこれが一番よかったわけではない。

 私が意を強くしたのは、この人も含めて三分の一以上の学生諸君がこの園長さんの思考の展開にある短絡を適切に指摘してくれたことである。この園長さんよりも学生諸君の方がずっとよく、さびしさということ、孤独ということ、そして(子どもはもちろん)人の行動ということ・・・・について分っている、それで私は大いに安心したのである。専門教育をこれから受ける段階にある二年生の彼らが、極く極くあたりまえにこういう見かたを持っている。しかもそれは、いずれも自らの体験に拠って語られている。更に加えて、この答案もそうであるように、その体験があくまでも自分の体験にすぎず、他人はまた別の体験をしているということを(実際に目にもし)明確に認めた上、だからといって人はそれぞれやることが違うんだとは放っておかず、個々人の違う体験を通り越した向うに、言わば普遍的な子どもの姿を見透している。

 そして更に、多くの諸君が(これもこの答案にあるが)極めて大事なことを指摘している。それは、彼らがよく自分を見つめている故に分っているのだと思うが、大人がいかに細かく心配りをして「ここはこういう具合に使う所」として場所を用意しても、子どもがその気にならなければ子どもは大人の心配りどおりには使わない、子どもは子どもなりに(人は人なりに)自分の意志、自分の判断で自分の場面をつくりだす(あるいは探しだす)ものなのだ、という指摘である。ここまで来れば、この学生諸君は、それから先の(それが難関なのだが)「では、いったいどういう場所を用意したらよいのか」という本質的な問題:私たちの生活してゆく場所をつくってゆくにあたっての本質的な問題:に、この園長さんよりもずっとずっと近くまで近づいているのだと見てよいだろう。

 ところでこの答案は問題の2)に対してのものであった。そこで、今号は、私自身この問題の1)に答えるようなつもりで話を展開させてみようかと思う。

 

 子どものタイプ・生活のパターン

 引用された文章から想像して、この園長さんはきっと極めて子どもの教育に熱心なのだと思われる。子どもの成長、それに係わりをもつことに対し、情熟で満ちあふれている。その道に関しては人後に落ちない。その点では、なみの専門家ではない(なみの専門家は自称専門家で、その道に熱心であるまえに、専門家であるということの方に熱心だ)。 彼は、普通とかくおちいりがちな「子どもたちってのはガキ大将ばっかりで、明るく元気なものだ」などという「観念的な見かた」をしない。彼はむしろ、そういう見かたからははみだしてしまう言わば少数派の子どもたち、おねしょをしてしょげている子、しかられて泣きたいほど悲しい子、・・・・そういった子に目をやろうとする。私もまた、そういう子に目をやることには同意する。切り捨てられるものなのではないから全く当然だ。けれども、園長さんと私では、どこか一つ違うところがある。

 いま私は「少数派」という書きかたをした。そして、この園長さんは、どうもこの子どもたちを普通一般に忘れ去られてしまっている「少数派」として見ているようなふしが見うけられる。そこがどうやら私と違うところだ。それを単に子どものタイプだとして、あるいは子どもをいくつかのタイプにわけて、見てしまうだけでよいのだろうか。その点では、私は先の答案にある子ども観の方をとる。

 つまり、一人の子どもにあっても(場面に応じて)こういったタイプが出現する。それは、子どもの生活の諸相の一つにすぎないのだ。ガキ大将やおてんばの子だって一人悲しむことはあるし、内気の子だってやたらにはしゃぎたくなるときもある。いつも一つに定まっているわけがない。まして、先の答案にもあるように、家ではおてんば、外では一転しておしとやか、という具合にさえふるまうことができる。だから、場面(それは子ども自らがつくりだすのだが)に応じて、いかなる諸相をも示すことが子どもにはできるのだ(もちろん大人もそうなのだが)。

 そういった諸相のとりかた・現われかた・表わしかたに人により差がある、タイプが見られる、という意昧でのタイプ分けなら私にもまだ分る。けれどもそうではなく、その諸相の一つを子どものタイプとしてとりあげ、それに対応して建物まで用意するというのは、たとえそれが通常は切り捨てられているタイプの子どもたちを大事にするのだという「善意」で裏打ちされていようが、これも随分「観念的」だなあ、と私には思えてくる。これでは、「子どもは元気で明るいものだ」「だから、明るい建物にすればよい」というのと何も変るところがない。子どもの諸相の一つだけとりあげる点も同じだし、だからそれに対応した建物をと続けてゆく短絡的な考えかたも全く同じである。つまり思考の構造は全く同じなのである。違うのは唯一、園長さんが子どもの諸相のどこに・どれに目をつけたか、その違いだけである。そうだとすると、極端な言いかたをすれば、子どもの諸相の数だけ、あるいはその諸相のどれを園長さんがとりあげるかによって園長さんの数だけのたくさんのタイプの幼稚園が生まれることになる。はたしてそうだろうか。

 人間というもの、人間のやったこと、人間の営むこと、そして人間が考えること、それらをいくつかのタイプやパターンに分けてみることができたからといって、それで「分った」気になってしまうということ、これほどおかしな話はない。先号でも書いたように、人間だって、言ってみればプラスからマイナスの間にいろいろなタイプをとって連統的に存在しているのだと言えるし、一人の人に限ってみても、その一人のなかでまた(先の答案にもあったように)プラスからマイナスの間でいかようにもあり得るわけで、まして、ものを考えるという局面が、初めからいくつかのタイプ、パターンに分類されて設定されているなどということがあるわけがない。

 たしかに私たちはものを考えるときに、考える対象をいくつかに括って見ていることは事実である。ものに名前をつける、あるいは私たちがことばを持っているということは、私たちがものごとをいくつかの概念に括りこんで扱おうとすることの表われに他ならない。パターンに分け扱っているわけである。しかし、だからといって、名前、ことば、概念、パターン・・・・が私たちとは独立に別個に、しかもあらかじめ(私たちより以前に)存在しているなどと思われてしまってはとんでもない誤まりだ。名前や概念というものは、私たち(なにもいまの私たちだけではない)が私たちの都合で営々として築いてきた:もう少し正確に言えば、先代の為したことのうち、引き継げるものは引き継ぎ、捨てるべきものは捨て、つくり変えるものはつくり変え直し、そして新につくらなければならないときはつくり、そういった意味で常に創造してきた:そういうものなのだ。そのなかで少しも変らなかったことはなにかといえば、それは、私たちをとりかこむ(あるいは私たちが在る)世界との関係けだと言ってよい。といって、私たちをとりかこむ世界が一定不変のものとして在り続けたわけではなく、世界はその都度私たちによってとらえ直されてきたのである。ということは、私たちが何をとらえているか、それによるということだ。だからこそ時代によりものの括りかた、概念、名前・・・・つまり世界のとらえかたが違ってきたのである。そして私たちがその世界をとらえるにあたっての拠りどころは、つまるところ、私たちの私たち自身の感性:私たちのものを見る目:私たちのものの見かた:でしかない。

 

 なにを見るのか

 おそらくこの園長さんは、長年の幼稚園の経験:こどもたちのとのつきあい:のなかで、普通見られる幼稚園、そこでやられているやりかたに対して一定の批判を持ったのだろう。たとえば、子どもにとっての「暗い」部分が切り捨てられているではないか、と。子どもに対して、ある観念的な子ども像や生活像が、しかも定型化したパターンで押しつけられているではないか、と。ところが、あにはからんや(引用した文から判断する限り)この園長さんのやったことといえば、いままでとは違う別種のパターンを押しつけることだった。なぜなのか。

 彼の批判の対象になったもの、それは現象としての現代的なやりかただった。私たちの目に直かに見えてくるのは、賛意を表するものであれ批判の対象であれ「現象」でしかない。この場合は、やりかたである。賛成しがたいやりかたがある。やりかたを変えたらどうだろうか。もちろんそれで済む場合がないわけではない。しかし、全てそれで快方に向うと考えてしまうと、それはまちがいだ。そういったやりかたのような言わば人為的な「現象」の場合には、言わゆる自然現象を扱うのとは違うのであって、その現象をあらしめた「人為」すなわちそれをあらしめた考えかたそのものが問題となるはずであり、批判もまた単に現象としてのやりかたの面にとどまらず、当然それをあらしめた考えかたの局面にまで到ることが要求されるだろう。

 いったいこの園長さんをして「子どもにとっての暗い」部分に関心を寄せさせたもの、普通のやりかたとの対比で彼の目をそこに向けさせたものは何であったか。それはおそらく、彼が学んだ(既存の)教育理論や心理学や・・・・ではなく、それらを越えた「彼のものを見る目」だったはずである。彼の目は、「明るく元気な」子ども像を押しつけるやりかたのなかで生きるうちに、明らかに、そのやりかたにひそむ「現代のやりかたの虚偽」を見つけたのだ。そして彼は、その「虚偽」をただそうと試みた。そしてしかし、その瞬間彼の目は、あの「明るい」部分で押し通すのでよしとするのと全く同じ目に戻ってしまったのだ。彼もまた同じように「現代の虚偽」の道連れになってしまったのである。そのときから、彼のあのすばらしい「ものを見る目」が死んでしまったのだ。これは少し酷な言いかたなのかもしれないとは私も思う。「明るい」部分だけでなく「暗い」部分があることを見ているだけ、全く見ないよりもいいじゃないか、そう思われるかもしれない。しかし、それでほんとによいか。

  

 初めに彼の目が見たこと、それは本来、本質的に「あたりまえな」ことであった。ただ、現代では通常それが見捨てられ切り捨てられていた。だからたしかに、彼がそれに目をやったことは、目をやらない、見捨てしまうことよりはよいことである。一般的に、日ごろ忘れ去られてしまっていること、その重要さ、について目をつけることは、たしかに目を付けないことよりもよいことだ。たとえば「福祉」をクローズアップする、「自然保護」を叫ぶ、「街なみ保存」を訴える・・・・、それらに目がゆくことは、ゆかないよりもいいことだ。だが、それは単純にそれらが抜けおちていたそのときまでの状況に、足し算する:追加すれば済むものなのか。そんなものなのか。違うだろう。そういったことが忘れられ切り捨てられていたのは、なにも、ほんとは入れておくべきだったのだがついうっかりして入れ忘れてしまったというような、単なる忘れものだったからではなく、そもそも「人為」において:つまりその考えかたにおいて、それらを全く必要としない(言いかえれば、忘れてしまって当然の)構造があったからに他ならない。考えかたの構造の改変を伴なわずしてことがすすむ限り、あたりまえのことも決してあたりまえにはなってこないはずである。

 

 「善意」の介在

 私が常に奇妙に思ってきたことは、この現代の世のなかで、本来あたりまえなのにあたりまえに扱われて来なかったこと:たとえば「福祉」「自然保護」・・・・について発言することが、人々の「善意」であると見られている点である。なるほどたしかに、先にも書いたように、忘れられてきたことを指摘する人々の「善意」は、私も貴重だと思う。しかしそれは、そう指摘するのが世のなかの大勢から見て希少だから貴重なのではないことは言うまでもあるまい。数の多少で言っているのではない、言うまでもなく、その指摘のなかみが大事だからである。もしそうでないと、本来あたりまえなのにあたりまえにやられていなかったこと、それに係わることが大事であり善意であって、あたりまえがあたりまえにやられている、そういうことに係わるのは大事でもなければ善意でもない、そう扱われ済まされてしまう状況さえ生じてくるだろう。そして、あたりまえをあたりまえにしようという「運動」を、自他ともに「善意」で括って済ましている限り、その目ざすべき「あたりまえ」は、常に、これから先も、「善意」によってのみ保証され続け、それは決してあたりまえなことにはならないだろう。

 しかし現実は、残念ながら「善意」が前面に押しだされている。人のやらない、気づかない「よいこと」をやること、いまの世での希少さゆえの「善意」を持つこと、それが、なにか普通の人とは違うほこりででもあるかのように見なされる。「善意」や「ボランティア」が「生きがい」となる、「目的」にされてしまう。それが、場合によると、かっこいい一つの生活の「スタイル」にさえなってしまう。異常である。私には承服できない。むしろ「虚偽」に見える。「障害児や障害児の親のため、援助して下さる方がたくさんいます。その人たちは逃げられるけれど逃げない状態でいるときは、・・・・楽しそうに気分よく手伝ってくれます。けれど・・・・逃げることのできない状態になると、とてもつらそうになり、疲れるようなのです。‥‥」これは昨年の七月の通信(№4)のあとがきで紹介した手紙の一節だが、そこに現代の「善意」の様態が象徴的に示されてはいないだろうか。

 そして、別にこの園長さんもそうだというわけではないが、ある種の専門家のなかには、その専門を「善意」によって裏付けているのではないかと思われる人が、ときおり見うけられる。

 

 善意の人々

 もう大分昔のことになるが。ある教育の専門家を囲んで話を聞く会にたまたま居あわせたことがあった。この人も、この園長さん同様熱心な人で、世のなかで忘れられてしまっている問題に光をあて、自らも実践してきたことで、世のなかでも有名であった。その人の話を聞こうと企画された会合で、集まったのは、教育に関心がある言わゆる素人ばかりである。席上、その素人とこの人との間で見解のくいちがう場面があった。そのとき彼は、自分の見解の正当性を言うのに、その考えのなかみの説明ぬきでこう言ったのである:「私は二十年以上もこの道でやってきたのです」。翻訳すれば、「私はこの道で二十年もいろいろ考えてきたのです。そういう経験を積んだ私の考えは、説明するまでもなく、あなたがた(素人)のそれよりも正しいのです」ということである。話の継ぎ穂がなくなり、たちまちにして座は白けてしまった。私もいささか彼の発言に驚いた。そして、この人もやはりそうか、とも思った。専門家にはよくあることだからだ。しかし、二十年の昔から、彼はこうだったのだろうか。おそらくそうではあるまい。彼の若い目は、先に書いたような「善意」とはおよそ無縁に、現代において切り捨てられていること、そしてそのおかしさに鋭くつきささったはずである。彼は以後、そのおかしなやりかたをただそうと、ちょうどあの園長さんと同じように、努めてきた。多分その目は初め、いまこの会合で出された素人の見解、その素人の目とさほど変るものではなかっただろう。彼はまだ未経験だったのだから。それから彼がやったこと、それは並大抵のことではなかった。それは、忘れ去られていたことを浮かびあがらせることであったから、大変なことだった。その結果、彼の仕事はそれなりに認められるようになってきた。忘れ去られ、切り捨てられていたものが、徐々に日の目を浴びるようになってきた。これは非常に(真の意味で)貴重なことであった。

 しかし世のなかは、それを本質的な高みでそれを理解せず、先に書いた意味での「善意」でしかとらえなかった。彼が明らかにしてきたことは、本来あたりまえなことなのだが、世のなかがその体質上忘れていたこと、希少なことだった。しかし世のなかは、その体質を変えることなく、彼(ら)の「善意」に頼って、それを補うことで済まそうとする。ないよりもある、それだけでも言ってみれば画期的なことであった。現代の欠落部分が「善意」で補われる、なかったものがあるようになった、それであたりまえとなる。そうなってくると、世のなかは、彼の言ったりやったりすることの「なかみ」ではなく、その現代での希少さゆえの貴重さだけで見るようになる。世のなかではあたりまえでないことをやっているえらさ。そう見られるようになったとき、多分彼の目は、若き日の目を失ないはじめたのである。もし彼が明らかにしてきたことが、世のなかにその体質を変える形で組みこまれたのであるならば:つまりあたりまえのことが「善意」に頼らずあたりまえになったのならば、当然その「なかみ」の真意が問われただろう。しかし、世のなかは言わば免罪符として「善意」に期待したのである。だから、彼の見解のなかみではなく、彼の「その道の専門家」としての存在にのみ、世のなかは価値を認めることになってしまったのである。そういう見られかたは、当然彼に反映する。彼は、なかみと関係なく、「善意」のシンボルとなってしまった。彼のやることは、そのなかみとは無縁に、彼がやることだからえらいこと、になってしまった。そして、だから、素人に、素人の素朴にして原初的な「なかみ」に係わる見解を示されたとき、彼はその貫重ですごしてきた(希少ですごしてきた)経験年数の多さでしか対応できなくなっていたのである。若き日に、彼の若い目でぶつかっていた「現代」に、彼は括りこまれてしまったのである。ミイラとりがまたミイラになる。

 

 経験だけで分るか

 考えてみれば、この人の場合は「その道」に熱心であって、「専門家であること」に熱心だったのでないだけ、数等(いまの世のなかでは)秀れていると言わなければなるまい。なにもこの人ばかりでなく、いま専門家と呼ばれる人の多くが、その「その道の経験年数」をもってしてことにあたろうとしがちである。私自身もまた、ふと気がつくと、そうなりかかっていて、ときおりひやっとする。私自身、建築に係わりをもつようになってから二十年以上になる。もう大分やってきたという感じを持つ一方で、たかだか二十年じゃないかという気にもなる。多分この後者の思いの方が正当なのであって、たった二十年間の経験だけて、ものごとが分ってしまった風なことが言えるわけがない。第一、専門家としての二十年のことを基にするというなら、いったい私の四十五年のこれまでの歳月の残りの二十五年というものは何なのだ。まして、専門外の素人の人たちが生きてきた歳月は、専門的には無用な歳月だとでもいうのだろうか、そしてまた、未経験の若い目にはなにも見えないとでもいうのだろうか。考えるまでもなく、それは誤まりだ。ただ、とかく横着なものだから、たった二十年の経験でものを言う誘惑についのってしまうのである。専門外の素人のなかでは、専門になにかをやっている、ただそれだけで貴重だから、なかみとは無縁に、その貴重さだけでちやほやされて、いい気分になってしまう。これはほんとに、実感として、おそろしいほどの誘惑であり、一度それを味ってしまうと、それはもう麻薬みたいなもので、あとはその専門のなかで惰性で動くのがせいいっぱいになる。たった二十年の、しかも専門だけの経験、もしそれだけでものを言うのならば、それはすなわちそれしか見えない、つまり偏狭だということに他なるまい。

 

 昨年の十二月の号で、私は次のように書いた。「いったいだれが彼ら(専門家と通称される人たちのこと)に専門家の称号を与えたのであったろうか。生身の私たちがその称号を与えた覚えはないはずで、いつの間にか彼ら自ら名乗りでたにすぎなかったのではなかったか。彼らから専門家の称号をとり去ったとき、そこにはなにも残らない、ことによると生身の彼自身さえもないかもしれない、そうだからこそ専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。・‥・」

 このときも私は、いささか自分の反省の意をこめてこれを書いた。しかしそのとき、私はまだはじめから自分を専門家として位置づけ、よき専門家たるにはどうであればよいか、そういう発想をしていたように思う。それは随分と思いあがった話である。「善意」の裏づけでいい気になっているのと、何ら変るところがない。


 批評ということ

 私はながながと、例の園長さんをまないたにのせ批評をしてきた。しかしそれは、彼を批難するためではなかった。私には彼を批難はできない。むしろ、いかに観念的でまた短絡した考えや行動を示そうとも、その前段での彼のものの見かたと、それを実行に移した行動には、一定の評価を与えざるを得ないと思うからである。考えようによれば、人間の歴史というのは常に、こういうことのくりかえしだったのかもしれないからである。完成した、あるいは完ぺきな理想のものが形をなして私たちの外側に存在し、それを私たちが探している。人がものを考える、なにかをする、というのは決してそんなことではない。全ては私たちがつくりあげことなのだ。私たちが私たち自らの感性を唯一の頼りにして、私たちの目で見ることによって、創るのだ。創り続けることなのだ。それはしかし、一度つくってしまったものを死守し、その上に積みあけ続けることではない。そんなことをしたら。私たちの目は死んでしまう。そして私は、私の目が(いま以上に)死んでしまわないために、批難ではなく、批評をし続けようと思う。それは必らず自分にはねかえってきてしまうから。

 

 あとがき

〇先月のなかみについては、正反二つの反応が返ってきた。一つは、話の種切れになったのではないか、そういう心配をしてくれたものであった。本人は別に種切れになったつもりはなかったので、どうしてそのように見えたのか、しばし考えてみた。おそらくそれは、言わんとすることが毎回同じことのくり返し、言ってみれば二番せんじに見えたからではないかと思う。私が言おうとしていることは、その心棒だけだと、それは必ず、それこそ骨ぬきにされて理解されてしまうだろう。そういう経験は、いやというほど味わってきた。今回書いたように、考えかたの構造を変えず、新しい概念あるいはやりかたとして、付加・追加されることで済まされてしまう。だから、心棒だけを言うのはやめて、具体的な現象・事実の解釈を加え続ける方法に転換した。これなら、別の考え方によるその事実・現象の解釈を誘発する可能性があり、そこに真の議論が生まれるのではないかという期待が持てるからである。そういう意味では、先回は心棒をもろに心棒としてあらわに出しすぎたのかもしれないと思う。

 もう一つの便りには次のようにあった。「・・・・本質だけを書いたとしても、それだけでは十分ではないのですね。本質を本質として十分に語らせるには、まず最初に、現実のさまざまな事例をひろいあげてその一つ一つを・・・・一本ずつ糸をほぐしてゆくようにして解き明かさなければならないのでしょう。そしてその後はじめて、本質はそのままの姿で舞台の上に立つことできるのだろうと思います。・・・・」これはもう、私の趣旨を代弁してくれているようなもので、無性にうれしかった。

〇先日、手帳をなくしてしまった。公衆電話に置き忘れたらしい。以来住所録の復原に手間どっている。そして、なくしてみてあのよれよれの手帳の重さが、身にしみて分ってきた。「空気みたいなもの」というのは、みなこういうものなのだろう。その重さは、なくしてから分るのだが、しかしそのとき気がついてももうおそい。これを読んで下さっている方の住所は幸い残っているけれども、電話番号はみな手帳とともに去ってしまった。ついでのときにお知らせ下さると幸い。

 〇筑波研究学園都市といわれる開発地区がかぶさっている六ヶ町村の合併問曜が騒がれている。促進を説くある大学教師が次のような促進理由を述べたという「一つには、現在の町村役場の職員には大学卒が5%にみたない。これでは有効な企画をたてる能力に欠ける。合併で職員の質がよくなり、行政の効率があがる。 二つに、(土地の)資産価値が高まる(地価が上がるということ:農民が土地を手放す:農業をやめるということ)、 三つに、雇用の場面が増える(といっても、学歴がないから草とりだとかガードマンだけど)。・・・・」 きいていた村の人たちが、怒るよりも先ずあきれたというけれど、やはり怒らねば。この人、東大を出て、自治省の役人をやってきた。村の人いわく、まるで私らの村は植民地。彼らは占領軍。私たちもやはり怒らねば、ああなんと怒らねばならぬことが、こうもたくさんあるだろう!

〇いまになって、梅雨空。 今日、ひぐらしの鳴くのをきいた。

〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

        1982・ 7・21                       下山 眞司

 


「第Ⅲ章-4-1 古井家」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-19 13:17:40 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー4-1」A4版12頁

 

Ⅲ-4 中世の典型-4:千年家・・・一般の建物も、壁に依存していなかった 

 古代~鎌倉時代には、一般の住居の遺構が存在しないため、ここまでは遺構のある寺院建築など上層階級の建物を観てきました。

 一般の住居の現存最古の遺構は、中世末、室町後期の千年家と呼ばれている住居です。現在、兵庫県下に古井家箱木家の2戸の千年家が保存されています。

 この2戸の建物のつくりかたには、後の住居のつくりかたの原型と考えられる点があります。それは、飛貫(ひぬき)の活用です。詳しく観てみたいと思います。

 

1.古井家 室町時代後半     所在 兵庫県宍粟市安富  古井家は現地にて保存

 兵庫県下には、千年家と呼ばれる建設年代が中世まで遡る住居が多数存在していた。その理由として、中世、兵庫県下の農村部は財政的に豊かであったため、一時しのぎではない家屋をつくることができたからではないか、と考えられている。

 古井家は、姫路から20数㎞北に入った山間の地にあるが、一帯は古代~中世の瀬戸内鳥取をつなぐ重要な街道筋で豊かな地であったという。

復元 平面図

平面・断面共に日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集

 

復元 桁行断面図  着色部は 足固貫(断面)、内飛貫小屋貫

 

 古井家は、上屋+下屋の典型的な架構。平面図の網掛け部が下屋。下屋の壁は大部分を土塗り大壁で囲う

 折置を架けた軸組を7列並べ、四周に下屋をまわす。柱間は均一の数字ではないが、桁行は約6尺5寸、行は約7尺を目途にしていたと推定されている。 礎石を据える地盤面が東へと傾斜。

 

モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 立地状況(南側から)           

 敷地周辺 右奥の茅葺は離れ座敷

▽ 修理時 南面  1970年(昭和45年)解体修理工事着手時の状況と復元後の写真。 ▽ 修理時 北面 

  

   

 復元後 南面 

 

 復元後 北面

写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 敷地は東側半分を盛土で造成。修理時には礎石の不動沈下が著しく、周辺地盤のかさ上げにより四周の礎石は地中に埋もれ、の多くは根腐れを起こし、座屈や折損、仕口の変形などが見られた。                                  

  建設後、江戸時代に2回大きな改造が行なわれ、その後も改修、改造がなされている。

 

復元 梁行断面図 着色部材は、貫  日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集    

 

壁の仕様

    

修理前 大戸口まわり                  復元竣工 大戸口

 ▽ 復元竣工 南面および開口部近影 板戸、明り障子片引き     日本の民家3 農家Ⅲより

  

 修理前  おもて南面

 

 復元竣工 おもて南面

モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 

の仕様  重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 壁は大壁真壁があり、何れも江戸中期頃の改造以降のものであるが、下屋廻りにはにわ土間北側となんどの北及び西側に粗朶(そだ)小舞とした外大壁(江戸中期と推定)、にわ土間東側にやや新しい(江戸末期と推定竹小舞外大壁がある。

 

 粗朶(そだ)小舞の材料は長さ2~3cm・元径2~3cmのソヨゴリョウブ等延びのある雑木で、これを横間渡縦小舞に用いている。 註 粗朶:切取った木の枝のこと  ソヨゴ:モチノキ科の常緑樹  リョウブ:リョウブ科の落葉樹

  間渡縛りは柱の見込み両面へ竹箆(へら)様の釣子つりこ(幅1.5cm内外、長さ7~8cmの肉厚竹を方刃尖かたばとがりに削ったものを間隔45~60㎝に打込み、その柱外面へ付けた間渡を、釣子と縄掛け二巻きで縛りつける。

 小舞は縦を間渡の内側へ構目(かきめ)5cm内外に連れ巻きに縛りつけ、横小舞は径2~3cmの丸竹を縦と同様の構目で柱間3箇所程度構きつけ、隅では横小舞を柱角に沿って折り曲げ見廻しに通している。  註 構きつけ掻きつけの意と思われる。したがって、掻目は掻く間隔

 また小舞を柱に緊結する手法として、柱内側で柱頭部より約20cm下ほどの高さに丸竹を横に通し、その竹と柱外側の小舞を縄搦み(がらみ)した箇所もある。

 壁土は藁苆(わらすさ)がかなり多く切り込まれ、石粒も大分混入したものが塗られており、にわ土間には所々に方30cmぐらいの下地窓を明けている。

 

 地盤面との立上りには、見切りがなく、いわば地面がそのまま立ち上がる形になっている。復元では足固貫胴貫があるが、当初はなかったらしい。

 

(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 復元後の内部写真」に続きます。)


「第Ⅲ章-4-1古井家 復元後の内部写真, 参考」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-19 13:16:50 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 壁の仕様」より続きます。)

 

復元後の内部写真         重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

にわ~居室部境  にわの棟通りには、内法貫飛貫の2段のが入れられている。内法貫は、梁行桁行段違い。

 

 

にわ~ちゃのま  にわちゃのまの間には、建具はない。

 

  にわ~ちゃのま北西隅 水まわり

 

材料および材寸  :クリ 上屋柱 約14.8~16.5cm角 下屋柱 平均約12.7cm角  

梁・桁:スギ、一部ツガ、ヒノキ 上屋梁 平均約16cm×11.5cm 平使い 上屋桁 平均約14cm×11.5cm 平使い 束受地棟or丑梁約19cm×12cm  

:スギ、クリ  内法貫 約丈11.0~11.6cm×厚5,3~7.4cm にわ~ちゃのま境の例 上屋部で丈11cm×厚7.4cmある材を上屋柱の手前で片胴付に加工して厚5.0cmに狭め、下屋柱枘差し楔締め   飛貫 内法とほぼ同寸 にわ棟通りだけに入る。枘差し楔締め

継手・仕口 柱~小屋梁~桁 折置組柱 頭重枘   小屋貫継手 略鎌継ぎ(柱内)楔締め 柱~貫 楔締め

 

 

おもて 南面  南面の壁は外側大壁。下屋通りの壁には、足固貫、頭貫2段(後補)。

 

 

おもて 北面なんどちゃのま境   鴨居は、内法貫とは独立して取付けられている。このことから、を優先する古くからの架構法と考えられる。 方丈建築では、付長押で隠していることに留意。   

 

 

  復元組立中の床組

足固大引は丸太材。 足固は柱に枘差し

上屋柱下屋柱間は、足固材を上屋柱手前で幅につくりだし、足固貫として下屋柱に差し楔締めとしていた。

一般の大引は、なしで玉石上に直接載せている。この方法は、室生寺・金堂の当初部分(身舎・庇部)でも採られている。

 

ちゃのま 北面  が貴重品であった時代であるため、ちゃのまなんどの床は竹スノコとし、(むしろ)を敷いていた。 板張りの床はおもてだけ。

 

 

なんど~ちゃのま 境  内法貫下に鴨居を取付け、片引き板戸を設けている。

 壁のつくりかたからみて、当初の建物では胴貫はなかったものと推測される。修理時点では、後補のがあり、復元ではそれにならっている。 また、復元に際して、大壁部には帯鉄製の筋かいを入れたという。

  ちゃのま~おもて 境を見る  手前はにわ

 板壁は、柱間に横桟をやり返しで取付け、縦張り。 写真は重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

 

古井家住宅 間取りの変遷  外周の赤く塗った部分は土塗り大壁(壁の仕様は、前出)

 

 

古井家住宅 第一次改造の方法

 

日本の民家 3 農家Ⅲ(学研)より

 

 古井家では、建設以来400年を越える期間、上図のような梁・桁・差鴨居の新設による柱の撤去は行われているが、基本的な架構の骨格は当初のままで、内壁、外壁とも、用の変化に応じ、柱間は随時随意に開口の変更が行なわれている。

 このことは、古井家の架構では、壁部分は架構を維持するための役割を担っていないこと、すなわち、木造架構そのものによって維持されてきたこと示している。その点は、浄土寺浄土堂龍吟庵方丈などと、考え方は同じである。

 

  復元 架構組立中

重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 架構模型 全景

模型では地盤面をつくらず、礎石で地盤高を調整した。 下屋柱には、貫を入れていない。

 

 架構模型 部分 

 

上屋柱下屋柱は、足固貫内法貫で縫うが、内法貫は、梁行柱通りすべてには入っていない。

 

 

参考 復元に至る考察      

 古井家住宅修理工事報告書には、復元決定に至る間の考察過程が、綿密に記されています(結果だけが述べられるのが普通)。 そのいくつかを以下に抜粋紹介します。記述中に出てくる番付は、下図の通りです。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

古井家住宅の修理工事および修理工事報告書の担当者

監修:工事監督 鈴木嘉吉  本文・写真・図面:工事主任 持田武夫  竣工写真:姫路市 八幡扶桑  大工棟梁:上月町 和田通夫 

 


1982年度 「筑波通信№4 万が一の事態」 1982年7月

2019-06-13 14:24:15 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №4」1982年7月 A4版10頁 

     「筑波通信 №4」 1982年7月

      「万が一」の事態・・・・「正常」または「合理的」ということについて

脱線した特急

 五月の末、まだ梅雨入り前だというのに、まるでもう梅雨が明け真夏なってしまったかのように暑い日が続いた。そんなある日、中央東線で特急が脱線したというニュースが夕刊に載っていた。その日の昼すぎ甲府盆地のある駅のあたりで、暑さで延びてゆがんだレールにのりあげ脱線したのだという。明朝までには復旧する様子であった。盆地はとりわけ暑くなる。これが真夏なら、当然見まわって気をつけていたのだろうが、まだ五月。ことしの天候は少し異常なのかもしれない。事故はそれほどの事ではないらしいし、まして私の日常に影響がある事故でもなかったから、このニュースも私にとっては季節はずれの暑い日を印象づけただけで、普通なら、そのまま忘れ去られてゆくだけだったろう。

 中一日おいた朝刊で、再びこの事故がニュースになっていた。復旧に意外と手間どり、開通したのは丸一日以上もたった昨日の夕方であったという。復旧に意外と手間がかかったのは、その特急列車の車両と車両の連結が、連結器によってではなく鉄の棒でいわば固定されていたためその切り離しに時間がかかってしまったからのようだ。

 この記事を読んで。一度は忘れかけていたこの事故のことが、私のなかで、再びある重さをもちはじめた。

〇列車の編成、連結器の変遷

 その昔子どものころ乗物好きだった人なら大抵は知っていることだと思うが、車両の連結のしかたには「ねじ」式。(いまでもヨーロッパをはじめ諸外国では主流をなしているやりかた。言うならばフックのついた鎖を引っかけるようなやり方だから、これと対をなしてバネの入った丸型のバンパーが二個つくことになる。(日本では博物館にでも行かなければ見られない。)「自動連結器」(日本でいま貨車や旧型の客車の連結でお目にかかるやりかた。なんとなく人間の手を思わせるひょうきんな形をしている。因みに、日本では1925年の7月1日を期して、国鉄:当時は国鉄とは言わなかった:の全車両の連結器を、それまでの「ねじ」式からこのやりかたに取り替えてしまったのだという。これは画期的なことだったらしく、その証拠に諸外国では50年以上もたったいまでも「ねじ」式がある。)

    

 「密着連結器」という種類がある(国鉄や私鉄の大部分がこの型である。角っぽいいかにも器機という形をしている。自動連結器には20~30ミリのあそびがあるから発車や停車のときどうしてもがたつく。昔はこのがたつきをいかにして少なくして動かすかが運転士の腕の見せどころであったのか衝撃をあまり感じなかった:もっとも実にしずしずと走りだしそして停まったものだった。いまはスピードの時代、私がよく乗る常磐線の客車列車では、発車と停車のとき、むちうち症になりかねないほどのいきおいでどつかれる。貨物列車が動きだすとき、機関車の汽笛の聞こえたあと、すぐに目の前の貨車が動きだすかというとそうではなく、それが実際に動きだすまでほんの少し時間があり、前の方からがちゃんがちゃんという重い鉄のかたまりがぶつかりあう機械的な音が移動してきて、近づいたなと思った瞬間、がくんと動きだす、あれと同じことが駅に停まるごとにくり返され、おちおち居眠りもできない。この原因である連結器のあそびをなくすために、まさに字の如くこの密着式が考案されたのである。) ついでに言えば、この密着式と自動式の両性をそなえた型もあるようだ。そうしておけば、違う型をそなえた車両であってもつなぐことができる。

 ところが、この脱線した特急列車の場合には、車両と車両の間には連結器がないのである。たしかに一列車は十数個の車両から成っているのだが、それらは連結器ではなく鉄の棒で、だから連結ではなく言わば緊結されているのである。それぞれの車両は初めから切り離すことを考えにいれず(逆に言えば、車両を任意によせ集め列車を編成するという考えでなく)一列車で完成した形を成しているのである。竹の棒を数センチの長さに切ったものを大きい順に十個ほどならべ、その筒をそれぞれ互いに針金の軸でつなぎ合わせた、その末端を持つとそのちょっとした持ちかたの違いで微妙に愛きょうのある動きかたをするヘビのおもちゃが昔からあるが、この列車はあたかもこのヘビのおもちゃのようなつくりになっていると言えばよいだろう。

 脱線した列車を空から撮った写真を見ると、その曲りくねって横たわっている様子は、まさにこのヘビ同然であった。連結器でつないでいるならば、連結器のところが一番弱くてはずれてしまうものが、緊結してるものだから、まさにこのヘビ同様の格好になってしまったのではなかろうか。復旧にあたって意外と手間どったというのは、これは全くの推測なのだが、元へ戻すためには車両と車両を切り離さなければならず、そうかといって、うっかり切り離すと互いに鉄の棒で緊結されているため辛うじて横転をまぬがれていたのが支えを失なって倒れてしまうおそれがある、それへの配慮に手間どったのだと思われる。そして、互いに緊結されていたために転覆しないで済んだという見かたができる一方で、ことによると、これも推測なのだが、緊結してあるために全車両の半分以上が共倒れ的に引きずられて脱線してしまったと見ることもできるのではなかろうか。これが連結された列車だったら、脱線の様相も別の形(多分共倒れになる前に連結器が切れるのではないか)となり、復旧も早かっただろう。復旧に意外と手聞どったという表現がされたというのも、当初普通の連結列車の脱線事故の復旧の例をもとに復旧予測がたてられ、緊結列車であるという状況をつい勘定にいれるのを忘れたからではないだろうか。

 しかし、なぜこの列車は連結ではなく緊結であったのか。いままで大抵連結であった列車が緊結になる、そうするようになった発想はいったい何だったのだろうか。


〇連結と緊結、その発想の違い

 緊結方式が生まれてきた経緯を私なりに推測すれば、それは大略次のようなことになるのではあるまいか。先ず、いくつかのハコを機関車が引っぱる:つまり動力が一簡所に集中している:やりかたから、動力その他を分散させるいわゆる電車化が一般化してきた。これはもう大分前から国電などではあたりまえのやりかたである。電車の横っぱらに書かれているハだとかハだとかいう記号は、その車両のいわば機能を表わしているのである。ただ、その場合はそれら役罰の違うハコを適宜組み合わせて一編成をつくっていた。しかし、一列車の長編成があたりまえになってくると、そうしょっちゅう離したりつないだりすることがなくなり、編成が固定化してくる。いわば単語を適宜集めて必要な文章をつくっていたのが、文意自体で固定化してきたのである。つまり、成句になってしまう。そこで、単語つまり一つ一つのハコを単位とするのではなく、いくつかのハコを成句にまとめて一単位とする考えが生まれてくる。いまの国電は多分そうのはずで、四両一単位だったように思う。だから一編成は八両、十二両というように四の倍数のはずである。そして、特急もほとんど電車化してきた。特急の場合、特に最近のように二地点間を何本も往復するようになると、一編成自体が一定である方が互換性があって都合がよい。「あずさ一号」も「あずさ五号」も同じ編成になる。「あずさ」用の同じ編成を数組用意しておけばよいわけだ(多分、乗車券予約のコンピュータプログラムもその方が楽だろう)。そうなってくると更に一歩すすんで、一編成で一単位とする発想がでてくる。切り離したりつないだりすること自体無用と見なされる。そこで、連結器によるのではなく緊結するという考えがでてくるわけだ。その方ががたもより少なくなる。というのも、たとえ密着式の連結器でも、連結時の衝撃止めの緩衝装置がついているわけで、その分のがたはやはり残ってしまうのだ。これは国電の停発車時のゆれと特急のそれ(新幹線でもよい)とを思い浮かべていただければよいだろう。緊結することにより全体が一体になるわけである。一見したところ十いくつかのハコには分かれてはいるけれども、それは言ってみれば単に一個の長いハコにすることが(直線路だけならばともかく、そんなことはあり得ないから)不可能だからで、いくつかのハコに言わば関節によって機能ともども分節されているにすぎず、これはそれまでの列車とは似て非なるものだと言ってもよいだろう。この発想の転換・展開は一点の非のうちどころもないほど合理的である。そしてこれが新幹線を可能にした技術の裏づけの一つでもあったわけである。

 しかし、もしこのハコに機能分化させた一編成の中のどこか一箇所に障害が生じたらどうなるか。これが、それまでの列車とは似て非なる点の最もたることなのであって、昔ならその故障車両を切り離しても運転することができたのだが、この最新の方式ではそうはゆかず、一編成全部が言ってみればおじゃんになる。一個の有機体が死んでしまうのである。第一、切り離そうとしたって、はじめから切り離すことは考えてない:緊結してあるのだから容易にはできないのだ。だからそんな場合には一本まるごと運休することになる。そして、あのおもちゃのヘビみたいに横たわってしまった車体の姿勢のたて直しも、意外と時間がかかってしまうことになる。

 

〇事故後のダイヤの「正常」化ということ

 いま、故障になると一本まるごと運休になる、と書いたけれども、これは昨今では緊結した列車に限らず、連結した普通の列車でも同じらしい。その場合も、昔のように不具合のハコだけ切り離すということはなく、客を全部おろして、きれいさっぱり運休させてしまうようだ。特にそれが特急のように予約席のある場合はそうなることが多い。その一本だけでなく、その折り返しも当然ながら連休するから、一本の事故が数本にひびいてくる。運休にしないで異常編成で運行したらどうなるか。

 予約客には部分的なあぶれがでる。その処理をこまめに考えるなら、いっそのこと全部とり消してしまった方が事務的には楽だ。コンピュータには楽だ。また、そうした方が運行ダイヤの正常化にとっても楽である。なぜなら、一度全てをご破算にして、ちょうど始発時のように空白を埋めてゆく方が、いろいろやりくりをしつつ(臨時の列車:ダイヤにない列車を動かしつつ)復元するよりも、よっぱど楽だし、復元を急ぐという点では合理的だからである。

  私が東京へ出るため必らずごやっかいにならなければならない常磐線は、これはもう、やれちょっと雨が多く降りすぎたとか、風が吹いた、とかいって少し大げさに言えば日常茶飯事的に停まってしまう。先日も夕方、予定した列車の二十分ほど前に上野沢について、きょうは座って帰れるぞ、とにんまりしたところが、水戸(みと)のあたりで事故。不通だという。土浦まではゆけます、ときいて一安心。ところがホ-ムにはもう人の詰まる余地がないほどいっぱいの列車が、いつ出るのか分からないまま、後続の予定がたたないからこれに乗ってくれという放送がくりかえされるだけ。この列車本来のダイヤからいえば、もう小一時間発車がおくれている。上野と水戸の間は約百km、その間の電車は事故に関係なく動けるのだから、後続だってすぐ来るはずなのに、それにもうこの列車には人は詰められはしない、どうして出ないのだろう、いささか不思議に思えてくる。やがて、この列車は〇時〇分発の◎行の列車として発車します、という放送があった。まだ十分以上も間がある。本来のダイヤの数本あとの列車に読みかえるというわけだ。そこではじめて私には合点がいった。運行ダイヤというのは連行しているその線の列車全部で一つのシステムを成しているわけで、その一部でおきた障害は全システムをだめにしてしまったのであり、ダイヤを正常に戻すためにはこういった読みかえを行なって元のシステムにのせなおすのが、最も効率的だし合理的なやりかたなのだ。そのための腐心の一環として、なかなか発車せずに時間待ちをしていたに違いない。

 なるほどたしかに、乱れてしまって異常なダイヤを正常ダイヤに戻さなければならない、それは至上命令ではある。けれども現実に客が列車にはもちろんのことプラットホームにも満ちあふれているのを目のあたりにしていながら、それをさばくことには手をつけず、専らダイヤの修復に執心する。ダイヤさえ正常なら異常は起きない。だからそれを正常にもどすことが先決である、これはたしかに合理的に見える考えではある。

 しかし運行ダイヤはあくまでも客を運ぶために意味があるのであって、ダイヤのシステム自体に意味があるわけではない。当たり前である。まして、目の前には運びきれなくなってしまった客が満ちあふれている。ならば、交通機関の本義に戻って、この満員の客をさばきつつ、しかもダイヤを正常な状態へ戻してゆこうとする発想がもたれてもよいのではなかろうか。多分そういうやりかたでは、ダイヤの正常化完了をもって事後処理完了とする視点からすれば、手間も時間もやたらとかかり効率的合理的なやりかたとは言えないのかもしれないが、客の立場に視点を移してみれば、そうしてもらう方がずっと合理的なのだ。昔はそうしていたのではなかったか。客がホームで所在なくすごす時間はずっと短かくて済み、その代り鉄道関係者の苦労は並大抵のものではなかったと思う。いまは、どちらかといえば、客が苦労する。

 脱線した特急列車の話からはじまり、その連想で事故の後処理についてまで話が及んでしまったが、これらの話の底を共通して流れているように見える、言いかえれば、これらの事態のなりたちに根本的に係わっているはずの、ある種のものの考えかたに、私はひっかかるのである。それは、いまいたるところであたりまえになっている、いわゆる近代的合理的な考えかたの典型的な姿だと見てよいのではなかろうか。

 

〇「近代的・合理的」な考えかたの正体

 この考えかたというのは、いったいどういう性格のものか。

 一口で言えば、この考えかたは、「万が一」ということ、あるいは、「マイナスの(と評価される)局面」はあってはならないことだから考慮の外におき、専ら「正常」あるいは「プラスの局面」にのみ考慮をはらう考えかただ、そう言ってよいだろう。理想状態、完成完結した状態へのゆるぎない(信仰に近いほどの)信頼と願望、そう言ってもよいかもしれない。だから、更に別な言いかたをすれば、ある全体なるシステムが「絶対」としてあり、その全体なるシステムを構成する部分部分は、なかば絶対的にその『絶対』に服するしかなく、その構成の編成替えなどということも存在しないのである。つまり一つのパターンが(望ましき完全形として)在るとするわけである。そして、そのパターンが乱れることを異常という。

 これに対し、こういう近代的合理的な考えかたからすれば非近代的、非合理的、そして場あたり的に見えるであろう従前からの考えかた:やりかたというのはどうであったか。

 これも一口で言えば、たしかにそれもある全体やシステムをつくりだしはするが、それが唯一つしかないのではなく(定型があるのではなく)言うならば、「万が一」の状態「理想」の状態の両極の間で:別の言いかたをすれば「マイナスの局面」から「プラスの局面」にわたって:場面場面において適切と思われる全体・システムを任意に組みたてることができる、そういう考えかただと言えるだろう。そうであるからこそ、仮に事故が起きても、その事故の状況に応じて、まさに字の如く臨機応変の対策:その局面における全体のたてなおし:をたてることができるわけだし、その対策も、ただ単に元の(完成形であった)パターンへ戻すことにのみ執心することなく、その判断決定の拠りどころをその当面の(交通機関としての)本来の課題(たまってしまった客をさばくこと)においてたてられる。つまり、客をさばきつつ、徐々に元へ復してゆくわけで、その過程では何度かシステムが組み直されなければならない。

 その作業の点にのみ視点をしぼれば、たしかにそれは効率的ではない、それは先に書いたとおりである。それ故、近代的なやりかたでは、その点で効率的な「正常」形へ戻すこと自体が目的化し、つまり本末転倒して、ものごと:事態:への対応のしかたにはいくつものパターンが任意に用意できるということが忘れられてしまう。

 いまここで、ものごとへの対応のしかたは任意にいくつものパターンが考えられるのだと書いた。ほんとにそれはいくつもあるのであって、場面場面に対応して、場面の数だけある、つまり言ってみれば無数存在するのだと言ってよいだろう。こういう書きかたをすると、そういう場面場面やそれへの対応のしかたが、私たちをとりかこんで無数に存在しそのなかから一つを選びだすかのようにきこえるかもしれず、そしてまた、そんな無数なんかは相手にできないではないかと思えるかもしれない。もちろんそうではない。場面やそれへの対応が無数に、あたかも百貨店のショーウィンドウの中の品物のように、私たちのまわりにならんでいるわけではない。そうではなく、それはあくまでも、私たちの、私たち自身による「判断」に拠るから無数なのである。場面の設定も、対応のしかたも、それは私たちの「判断」。いまおかれている状況・場面はかくかくしかじかであると(私が)「判断」し、いまなすべきことを(私が)「判断」し、そして、適切な(そう私が「判断」する)方策をたてるのである。だから、そのものごとのとらえかただけパターンがある:原理的に言えば無数ある、わけなのである。それ故、同じ事態に対してもその対応のパターンは、判断する人により違うだろう。しかし、違っているからといってまちがいなのではなく、また、違っているからといって「方向」もなにもなくめちゃくちゃに違うというのではなく、「方向」は同一であっての違いなのだ。つまり、多種多様でなく、同種多様。

 こういう従前のやりかたに対して、近代的・合理的なやりかたでは、同様に必らず「判断」を伴うけれども、その場所が違う。そこでは、ある最も合理的だと思われるパターンが設定され、それに合うか合わないかが「判断」のポイントとなる。その意味では、人によって違うなどということはあり得ない。正解があらかじめ唯一ある。それ以外があるなどということは、はなはだしく秩序を乱しけしからぬことなのだ。つまり、all or nothing、〇かーか、一か八か、なのである。コンピュータ用プログラムにはたしかに適している。こういう極論めいたことを言うと、パターンを一つではなく、場面に応じたパターンをいくつか用意しておけば、従前と変らないではないか、そうすれば、それなりに臨機応変の、しかも人によらない対応ができるではないか、という反論がでてくるかもしれない。そして実際、いくつかのプログラムが用意されるようになってきているし、そういったプログラム、パターン探しがその面での学問分野での関心事でもあるようだ(人々を不特定多数として括る発想もそこからでてきているはずである)。

 しかし、このいくつかの場面とそれへの対応をセットとして用意しておくやりかたでは、根本的にそのパターンの数は、たとえありとあらゆる場合を考慮したといっても、有限であることに変りはなく、万が一用意されたパターンに合わない事熊にでもなったら最後、それはもう手の下しようもないほどめちゃくちゃになってしまう。

 従前のやりかたでは、パターンはあらかじめ設定されているわけでなく、むしろその都度、「万が一」と「正常」の状態、その両極の間に、場面の設定がなされるわけで、その意味でパターンはその間に連続的に無限に在ると言ってよく、だからこそ、いかなる場合にも臨機応変に対することができるのだ。だから、近代的なやりかたは完ぺきのようでいて極めてもろく、逆に従前からのやりかたは不確かなようでいて、極めてしたたかなのである。いったい、ほんとの意味で、このどちらのやりかたが合理的か。私なら、当然のことだが、この非近代的・非合理的に見える従前からの考えかたの方をとるだろう。なにもそれは単に私の好みでそうするのではない。ものごとというのが、あらかじめ考えておいたいくつかのパターンとしてのみ出現するなどという、そんな考えかたはあまりにも非合理だと思うからである。まして、それへの「対応」:「判断」までもが既製品として存在し、ただそのなかから選べばよいというのも、非合理のいや不合理だと思うからである。それではまるで、人間もロボットも変りないではないか。

 こうやって見てくると、いわゆる近代的、合理的な考えというのがいかに人間個々人の判断:それは人によりそして場面に・状況のとらえかたにより微妙に異なる:というものをきらい、あるいはそれに信をおかず、規範を他に求めたがるものであるかがよく分かる。それでいてまた、近代ほど個人の尊厳を強くうたいあげる時代もなかったのではないか。個人の主張をとりたててあげつらう時代はなかったのではないか。いまこうして見てきて、この近代という時代の姿がまことにくっきり見えてきたように私には思える。すなわち、個々人を越えたところに、規範とすべき近代的・合理的なあるべきパターンがあり、個々人はそのパタ-ンのなかのどれかを選択する判断権のみを有し、その選んだパターンをいかに個性的に修飾するかが個人の個性であるとする、これが近代というものの姿なのだ。では、あらかじめそのパターンを用意して人々に提示するのはだれなのか?デザイナー?設計者?その道の専門家?もしそうだとするならば、その根底には、表向きの個人・個性の尊重、人間性の尊重の主張とは裏はらに、徹底した人間性無視:人間不信そしてその裏返しとしての選民意識が流れていると言わざるを得ないだろう。

 なるほどたしかに近代以前にも、ある問題に対応してあるパターンが存在するということはいっぱい例がある。しかしそれらは、決してそのパターンをあらかじめ設定し、目ざして生み創りだしたのではなく、個々人の判断の積み重ねがそう結果したのであって、その拠り所は、個々人にあったのである。個々人の判断、それはある「方向」をもちつつも多様であったろう。しかし、その共通の「方向」ゆえに、ある時点でふりかえってみたとき、ある一つのパターンに収束しているように:つまりある定型のように:見えるだけなのである。ともすると近代の私たちはそれをそのパターンだけ:つまり結果だけ:をつかまえてとやかくあげつらい、背後に厳然としてあった人々の判断:人間の営為を見忘れてしまい、更にすすんで個々の判断を越えた地点に目ざすべき期待される像を設定し、それへの近づきかたの遠近でことのよしあしを決めよう、などとさえしだしてしまう。私には、それはどうしても愚行に見える。

 私は、いかにそれが多様であろうとも、私たちの私たち自身のものごとの判断を信じたい。そうでないなら、私たちの問に真のコミュニケーションは存在しなくなるだろう。コミュニケーション、それは単にことばをサグ操ることではない。できあいのいくつかの応答パターンのどれかを、あたかもマークシート方式の試験間題にこたえるが如くに、選択していればよい、などというものではない。ことばにいったい何を託すかこそが問題なのだ。ことばに託すもの、それは、私たちの私たち自らの感性に拠る私たち自らの「思考」である。「思考」が、用意された有限なパターンに限定されるような状況、私はそれを認めるわけにはゆかない。

 けれども、こういう文章自体もまた、先進先端技術を背景としたワードプロセッサーにより、いくつかの推奨される文体・言いまわしに限定されるような時代に入ろうとしている(いったいだれがその言いまわしを推奨するのか、できるのか?)。先進・先端、あるいは近代化、それは諸作業の合理化:省力化へ向ってきたと言ってよいだろう。しかし、それが「思考」作業の合理化・省力化をも意味するのならば、そこでは、真に新しいものが生みだされるはずがない。「思考」、それはたしかにあるパターンをもつ。かといって、そのパターンは決して有限でなく、言わば臨機応変に無限である。「思考」をも合理化と称していくつかにパターン整理してすすむのが近代であるとするならば、そしてそれを合理と言うならば、私はそれを「合理」とは認めない。合理とは、そもそも、あるシステムにとっての整合性のことなのではなく、私たちにとっての合理のはずだからである。システム、それも、私たちが私たちの思考作業により生みだすのである。システムのために生みだすのではない、まさに私たちのために。

 

 北海道でもまた特急が脱線したそうである。これも異常な暑さ:30度を越えたという:でレールが曲り、直すのに時間待ちをしてダイヤが狂ってしまった。一方、それとは関係なく保線作業:まくら木交換:が行なわれていた。ダイヤは正常に保たれていると頭から信じていた保線作業者たちは、通るはずのない時間帯だと思いこんで、まくら木をはずしてしまった。そこへ、通るはずのない列車が来て、なるべくして脱線した、ざっとこういうわけらしい。いま、合理化のために、保線は保線として独自に外注されているのだそうである。運行のシステムが正常であったなら、保線のシステムの方は平常に行なわれていたのだから、別に何の問題もなかったのだ。システムとシステムが、ある正常な状態で成りたつべく設定されていた。だから正常なら、システム相互の連絡は強いて不要だ。完ぺきだ。しかし、それに慣れきってしまったとき、異常に対して対応できない。万が一の事態が容易に発生する。考えてみれば、近代社会というのは、こういう薄氷を踏むような保証の上で成りたったシステムで囲いこまれているのかもしれない。

 

あとがき

〇私の勤める筑波大学では、図書館の図書目録カードを全廃してしまった。カードに載せられた情報、そんなものはみなコンピューターに組み込むことができる。必要に応じて端末機から、カードをめくるなどという面倒なことをしなくても、情報を呼び出すことができるし、カードづくりという面倒な事務作業もなくなる、そういう発想であったらしい。図書目録カードの使用法がプログラムとして覚えこまされているわけである。その代り、プログラムに載せられなかった使用法は切り捨てられてしまったから、カードを見ながらあれこれと自分の関心事に係わる書物の世界を自分で組みたててみる:つまり自分だけのプログラムをつくる自由は失せてしまった。図書の利用法が「理想化」されたパターンに限定されてしまったのである。そしていま、カードとの共存のコンピューター化がなぜ考えられなかったのかという不満がわきだしている。

〇今回、「万が一」あるいはめったに起きないことが切って捨てられる話を書いたのだけれど、それと全く逆に、「万が一」の事態を終局のものとしてものごとを考えるやりかたが、近代的な考えかたのなかに存在していることも知っておいてもらったほうがよいだろう。

 建物の耐震に対する考えかたがそれである。「万が一」の地震によっても全く壊れない建物をつくろうとする。いまや建物の第一義の目的が、地震で壊れないことに置き換わってしまったと言って過言でない。地震で壊れない、そうすれば人命に損傷もない、建物も建てなおすこともない。なるほど合理的に見える。しかし、そのおかけで、残りの「万のうちの九千九百九十九」では、不便を強いられる。人間、地震のために生活することになる。はたして合理的か?「万が一」の事態では壊れても止むを得ない、しかし人命に直接的に響かないような壊れかたをするべく考えよう、どうしてそう考えられないのだろうか。これもまた、一つの対応パターンしか考えることのできない近代的合理的思考法の一結果である。これは、今回書いた話と、その思考の構造が全く同じなのだ。

気になることが語られていた、そう書き添えて、書物のコピーが送られてくることが多い。大変ありがたいことである。次の文もその一つ。

つか・こうへい「あえてブス殺しの汚名をきて」の一節だそうである。

 〇月〇日 雨

 今日久しぶりでTさんと会った。Tさんは甲府の幼稚園の園長さんだ。Tさんは今度新しく幼稚園を建てなおすため設計図を持ってきた。会うなり「どうだ」。とてもうれしそうだった。 私も少し図面は読めるのでおかしなところに気がついた。

「おい、おかしいじゃないか、幼稚園は子供たちが明るく楽しく生活しなきゃいけないんだろ。このへんに暗くなるところは何だ」「そうかい」Tさんはとてもうれしそうに白い歯を見せて笑った。「いまにわかるさ」そんなふくみ笑いだった。

 〇月〇日 晴れ後曇り

 咋日甲府にいった。Tさんの幼稚園の落成式。まったくおかしな幼稚園だ。運動場にはドラムカンだの何だのがやたらにおいてあって子供たちが遊びまわる所がない。

 「何りつもりだい」

 Tさんはとてもうれしそうに、そして恥ずかしそうに話しはじめた。子供たちってのはガキ大将ばっかりで、明るく元気なものだと思うのは観念的なのであって、なかにはメカケの子、おねしょした子、おとうさんに叱られた子、そういう子たちがたくさんいて、あの暗い屋根裏部屋やドラムカンはそういう子たちの泣き場所なのだと、さみしいということから孤独という感覚を知る所だと・・・・Tさんは教えてくれた。

 甲府からの夜汽車の中で妙な気持だった。さわやかな哀しい想いを私はかみしめていた。そんな芝居をやりたいものだ。

 ただ私は、子ども(あるいは一般的に人間)をこのように見ることはまったく賛成するけれども、それがもろにそういう設計として具現すればよいとするのは、それも少しばかり観念的なのではないかと思った。

〇梅雨に入ったと言われてから、かえってすがすがしい日が続いている。ままならぬものである。

〇それぞれなりのご活躍を!そして、その共有されんことを!

       1982・6.22                下山 眞司