補足・「日本家屋構造」-4・・・・小屋組(その1)

2012-09-26 18:22:43 | 「日本家屋構造」の紹介

出桁の例 垂木 3.5×3.5/2寸 出桁および母屋 4.5×4.0寸 
口脇を大きくして、垂木が出桁・母屋の全幅に載るようにしている。大工さんには邪道!と言われました。
垂木、破風板の先端を、直角ではなく、下端を少し手前に引いて切ってあります(直角の線に対して 7/10勾配)。垂木には鼻隠しを設けてあります。
直角だとブツンと切れて無愛想になりがちですが、こうすると見えがかりが安定した感じになるようです。
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「日本家屋構造」の小屋組の項を紹介してきましたが、右と思えばまた左・・という具合に話が融通無碍に飛ぶので、分りにくかったかもしれません。
そこで、茨城県事務所協会主催の設計講座で使ったテキストから、小屋組について私なりにまとめた部分を編集しなおして転載します。
長くなりますので、2回に分け、今回は束立組(和小屋組)、登り梁方式、次回にトラス組と合掌方式についての部分を載せることにします。
なお、テキスト中に註書きがありますので、特に補註は付けません。















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「ここに、《建築家》は、要らない」 

2012-09-17 15:25:32 | 専門家のありよう

       滝 大吉 著 「建築学講義録」第一章 建築学の主意
蔵書印で隠れている箇所を補うと、以下になります。
  建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
  成丈恰好能く丈夫にして無汰の生ぜぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問にして・・・

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[文言補足 18日 2.30][文言追加 18日 7.17][文言補足 18日 10.07]

先日、ある市役所に勤める方からメールをいただきました。
同意をいただきましたので、その一部を紹介させていただきます。場所や人物が特定されないように加工してあります。
   ・・・・・   
   今日、〇大学の若手の〇先生の話を聞きました。
   〇市役所(の建物)は〇さんの「作品」で、とてもすばらしい。
   あなたの市(私の勤め先)でも〇さんを呼んで設計してもらったら?
   と言われ「カチン」ときました。
   これまで、設計者は施主の要望を超えた設計をしないといけない、と思っていましたが、
   今日の話で変わりました。
   それは、施主(市民)は、今流行りの一「建築家」の思惑通りに動かされているだけ、
   つまり、施主を含めて「作品」の一部にされてしまっているだけ。
   それではだめなんではないだろうかと。 

   「建築家」がいなかった時代にも建物や街が美しかったように、  
   そのような時代の人びとが持っていた感覚をもって、
   「建築家」の思惑を超えないといけないんではないかと。
   「建築家」がいなくてもいい建物や街ができるんだ!ということを
   いつか○先生に言ってやりたいと思いました。

   こんなことを考えて、なかなか涼しくならない私でございます・・・
   ・・・・・

たとえば、F・L ライトが設計・計画に関わった建物について、あるいは構想段階の様子について、それらに係わる諸資料(設計図のコピー、スケッチのコピー、あるいはできあがった建物の写真など)を編んだ書物を、通常 F・L ライトの「作品集」と呼んでいます。
同じように、ある彫刻家の制作した彫刻の写真やデータなどを編纂した書物も「作品集」と呼ぶことがあります(美術館ではカタログ:目録などと呼ぶようです)。絵画の場合も同様です。

では、ここで常用される「作品集」の「作品」は、ライトの場合(つまり、建築に係わる場合)と彫刻、絵画などの場合と、同じ意で扱えるのでしょうか。扱ってよいのでしょうか。

紹介したメールの内容を理解するためには、この点について考えてみる必要があると思います。
すなわち「作品とは何か」。

「作品」を英語では work と言うようです。
   作品:製作物。主に、芸術活動によって作られたもの。文学作品。(広辞苑)
   作品:心をこめて制作したもの。狭義では、文芸・美術・工芸など芸術上の制作物をさす。(新明解国語辞典)
   work:④a 細工、製作 b(細工品・工芸品・彫刻などの)製作品
       ⑦(芸術などの)作品;著作、著述 特定の個々の作品をいう場合は
         a picture by Picasso のように言うことが多い。・・・・(新英和中辞典)
では、ここにでてくる「芸術」「芸術活動」とは、何を言うのでしょうか。
   芸術:①技と学[後漢書 孝安帝紀]
       ②(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、観賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。
        絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを       
        指す場合ももある。(広辞苑)
   芸術:一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人生の哀歓などを美的表現にまで高めて
       描き出す人間の活動と、その作品。文学・絵画・彫刻・音楽・演劇など。(新明解国語辞典)
   art :①芸術;美術・・・②専門の技術、技芸;技巧、わざ、腕・・・(新英和中辞典)

広辞苑の解説では、「観賞的価値の創出・・・」の活動・所産とし、絵画、彫刻、工芸、詩、音楽、舞踊と並んで「建築」が出てきます。
つまり、「建築」も「観賞の対象」として見なされています。
おそらく、これが、現在の世の中の理解・解釈の大勢なのかもしれません。

しかし、「建築」は、他の絵画・彫刻・工芸・詩・音楽・舞踊などとは、決定的な違いがある、と私は考えています。
それは、他がすべて、それに関わる「個人」の、いわば「思い通りになる」ものであるのに対し、「建築」はそうではないからです。
「建築」の場合、自らが自らの思いを実現すべく身銭を切って作品の制作に関わる場合を除き、制作物は制作者個人の思い通りになるものものではない のです。
言い方を変えれば、建築は、必ず他者に関わる、あるいは、他者が関わる、ということです。
単なる観賞の対象として、一個人によって、その個人の「表現」の為に、制作されるものではない、のです。[文言補足 18日 2.30]
   「建築」という語は、古くから存在する語彙です。
   しかし、明治以後(正確に言うと明治30年:1897年以降)、この語は、ARCHITECTURE に対応する日本語として
   使われるようになります。
       現在では、漢字を用いる諸地域で、同様の意に使われています。
    本来の「建築」は、字の通り、建て築くこと、すなわち build を意味します。
    ARCHITECTURE の当初の訳語は「造家」でした。それを「建築」に変えよう、というのが伊東忠太の提言。
    その提言からの字が取去られて現在の「建築」が生まれてしまったのです。
    研究社の「新英和中辞典」では、ARCHITECTURE :建築術、建築学 とあります。
    これは多分、英語の原義に忠実な訳だと思います。
    そういう理解・認識が日本では欠けているように思います。
    なお、このあたりについては「日本の『建築』教育」「実業家:職人が実業家だった頃」で触れています。

現在、多くの建築に関わる方、特に「建築家」を任ずる方がたの多くは、「建築の設計」とは(私の常用語で言えば「建物の設計」とは)、絵画・彫刻などのいわゆる「造形芸術」と同じく、「自ら(の独自性・個性・考え・・・)を表出する、表現すること」だ、と考えておられるのではないでしょうか。つまり、広辞苑の解説そのまま。
それはすなわち、「実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って(よって)真美を発揮するに在る」という「理解」にほかなりません。   
この文言は、伊東忠太の「造家」を「建築術」に改めよ、との提言趣意書にある一節です。
彼は、なぜ「造家」の語を変えたいと考えたのか。
この文言は、次の一節に続きます。
「・・アーキテクチュールの本義は啻に(ただに)家屋の築造するの術にあらず・・・」。
そして更に次のように続けるのです。
「彼の墳墓、記念碑、凱旋門の如きは決して家屋の中に列すべきものに非ざるなり。・・・」
つまり、「家屋の築造」などはいわばマイナーなもの、というわけです。
これは推測・憶測ですが、彼が「家屋」「造家」を嫌ったのは、家屋、造家には、必ずそこに住まう人が、非常に具体的な人が、居るからではないか、と思います。
具体的な顔を持つ人びとにかかずらうことは、「創作」すなわち「我が表現」の邪魔にしかならない・・・。だからこそ「実体を建造物に藉り・・・」という文言が挟まれることになるのではないでしょうか。
建造物には必ず他人が居る。まともにそれに係わっていたら、思うようにならない。それゆえ実体を建造物に藉りることになったのです。
   伊東忠太が教育に携わった時代の建築教育では、「どのような意匠の」建物にするか、に集中しています。
   「意匠」とは、簡単に言えば、形体のこと。当時では西欧の「様式」に拠る形体が中心。
   東京大学建築学科図書室には、当時の学生の図面がいくつか保存されていますが、その中には、
   立面図に、この立面の建物をいかなる用途の建物に供すべきか、を書き記したものが多数あります。
   これは裁判所向き、・・・などという詞書(ことばがき)です。
   しかし、そのいずれにも平面図はありません。
   では、何をもって立面が決められたのか?
   おそらく、彼の地の建物の写真、図、図面などがモデルだったのでしょう。
   伊東は「意匠至上主義の時代でより多くヨーロッパ趣味をあらわしたものが、よりよい建築である」、と
   述べているそうです。(岸田日出刀著「伊東忠太」)
では、こういう時代の教育を受けた方がたの設計した建物は、出来が悪かったでしょうか?
必ずしもそうではありません。むしろ、使える建物が多い。今話題になっている大阪の中之島にある図書館(下図)などもその一つではないでしょうか。

                      鈴木 博之・初田 亨 編「図面に見る都市建築の明治」(柏書房)より転載編集

しかし、現在の「建築家」の設計した建物は、その多くもまた「実体を建造物に藉り」我が意の発露に心したものではないかと思いますが、大半が使える建物ではない、と言ってよいと私には思えます。そして、寿命も短い。
この違いは何なのでしょう。
それは多分、明治初頭に生きた方がたには、人の世についての「素養」があったからだと思います。それは、江戸時代の人びとならあたりまえに持っていた「素養」(明治初頭の事業に携わった渋沢栄一や久原房之助といった方がたも同じだったように思えます)。
つまり、その建物は人びとにどのように使われるか、について、あたりまえのこととして一定程度分っていた。その「程度」は、現在の「建築家」のそれとは比較にならないほど高かった、と言ってよいのではないでしょうか。
多くの職人の方がたに読まれた「建築学講義録」では、「いかにつくるか」が述べられ、「何をつくるか」については触れていません。
これも、当時の職人の方がたにとって、「何をつくるか」は自明のことだったからだ、と考えられます。
なぜなら、職人:専門家は、常に人びとと共に在ったからです。

現在の「建築家」を任じる方がたの多くは、自らを表現すること、それをより高めることに「熱中」し、人の世は、「彼らが意匠の運用で真美を発揮するために藉りる『実体』」を提供してくれるものに過ぎない、と思っているのかもしれません。人びとと共にいる必要はない、のです。むしろ鬱陶しい・・・。

いったい、彼らがつくる建物:作品は、何なのでしょう。
     

9月11日付の毎日新聞夕刊に、「第13回 ベネチア・ビエンナーレ国際建築展 報告」という特集ページが組まれていました(全文は、毎日 jp でアクセスできると思います)。
タイトルは「注目された『人間性』」。日本からの出展のテーマは「ここに、建築は、可能か」であったとのこと。そして、展示責任者は某「建築家」。
記事の中に、ある「建築評論家」の言が紹介されていました。
「(彼は)世界的に評価の高い日本の建築家の中で、最先端を歩む表現者の一人。その彼が大震災を機に建築を根本から見直すというのは『事件』だった。」
この発言の紹介のあと、記事は次のように続きます。
「・・・今回、社会との関係が問い直されたことも大きい。(今回の)総合ディレクターが掲げた全体テーマは“ common ground ”。歴史や文化など、建築と人々の『共通基盤』を再発見する狙いが込められている。アート色が強かった前回に比べ、全体に堅実な内容に仕上がった。・・・」
   「事件」については、「理解不能」で触れています。

この「報告」は、建築に係わる多くの方がたに特有の、言わんとすることがよく分らない文章でした。
  たとえば、アート色とは何だ、art とは違うのか同じなのか、一体何なのか?
  「注目された人間性」って何?
  「建築と人々の『共通基盤』を再発見する・・」って何?
  今まで、建築と人びとはどんな関係にあると思っていたの?・・・などなど

そして、「根本から、0から見直した」結果が今回の展示なのだとすれば、何ら「見直し」がなされていないのではないか、単にこれまでと「目先」が変っただけなのではないか、と私には思えました。
なぜなら、根本から見直したのならば、それを展示するなどということに至るはずがないからです。
まして、「ここに、建築は、可能か」などとは言わないはずです。言えないはずです。
メールにある「・・・施主(市民)は、今流行りの一『建築家』の思惑通りに動かされているだけ、つまり、施主を含めて『作品』の一部にされてしまっているだけ・・・」という「指摘」は実に的を射ているのです。[文言追加 18日 7.17]
私には、黙々として、外からの「評判」など一切気にせず、今なお支援活動を続けておられる多くの無名の(名が広まることなどは無用と考える)方がたに対して極めて失礼な行動に見えてしかたがありませんでした。[文言補足 18日 10.07]
「ここに、《建築家》は、要らない」のです。

かつて、私が、学生の方がたに必ず最初に言ったのは、建物の設計は、設計者の(個性)表現のための造型制作ではない、ということでした。
建物の設計で、設計者が名前を表わす必要はない、と私は思っているからです。ただ、責任をとるだけ。

冒頭のメールにあるように、私たちが、「素晴らしい」と思う古の建物や街並みを、誰が設計した、などと問いますか?まして、誰それの設計だからいいんだ、などと思いますか?

私が「設計したのは誰だ」と知りたくなるのは、ここをどうして、何を考えてこうしたのだろう、と気になったようなとき。
それは大工さんかも知れず、建て主さんかも知れません。そしてその誰もが、生前に、俺がやった・・・などとは語ってくれてはいません。だから、通常、それが誰だか分りません。
これはかつての「専門家」の間では、あたりまえだったように思います。
その極めつけは、「地方巧者」ではなかったか、と私は思っています。

むかしむかし、芸術系の大学の建築教育は、工学系の大学のそれとは異なり、もっと art 的、design 的な側面が全面に出るべきではないか、と問う学生がいました。
私は、art や design の語を説明するのではなく(それをやっていたら時間がかかり面倒なので)、次のように問い直しました。
「あなたは建物をつくる専門家になりたいのでしょう?」
学生「そうです」
私「建物をつくる、ってどういうことかなぁ」
それで終り。

私は、「建築家」や「建築評論家」・・・を任ずる方がたに、同じように訊ねたいのです。
建物をつくる、ということを、どのように考えておいでなのですか、と。

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「日本家屋構造」の紹介-13・・・・小屋組(こやぐみ):屋根をかたちづくる(その4)

2012-09-13 10:58:22 | 「日本家屋構造」の紹介


「日本家屋構造」の紹介、小屋組の項を続けます。今回が小屋組の紹介の最後になります。

はじめは第四十一図。

標題が「八 與次郎組、渡腮及ワナギ枘」とあり、そのはじめが「第一 與次郎組仝ワナギ枘」となっています。
という字はの古語で「同じ」という意です。
しかし、與次郎組仝ワナギ枘が何を言っているのか、よく分りません。と言うのも、上の図、すなわちと、下の図乙・丙・丁とは関係がないからです。つまり、與次郎組が必ず乙~丁の仕口をともなうわけではありません。
そこで、以下では、それぞれを分けて紹介、説明することにします。
「第四十一図甲は、與次郎組と呼ばれる小屋組のつくり方を示した図。
この小屋組は、梁間:梁行の長さが大きいとき、中柱あるいは土蔵のように梁上に束柱を建て、その束柱に、左右から小屋梁登り木として枘差しとする方法。は、図のように束柱に対して段違いに差し、図の左側の登り木のように込み栓か、右側のように鼻栓を打つ。
その際、登り木の下端を束柱に5分、上端を束面にそろうように斜めに胴付を設ける。」
   註 與(与)次郎  弥次郎兵衛(やじろべえ)の別称
      弥次郎兵衛 (「広辞苑」による)
      玩具の一。短い立棒に湾曲した細長い横棒を付け、その両端に重しを取付けたもの。
      指先などで立棒を支えると、釣合いをとって倒れない。與(与)次郎人形。釣合人形。正直正兵衛。
      與次郎組  説明のために下図をつくりました。
      
      図の赤色部分を天秤梁と呼び、濃い黄色部分を與次郎束、黄色部分が登り木
      黄色の部分が弥次郎兵衛に似ていることから弥次郎兵衛組、與次郎組と呼ばれるようになったようです。
      與次郎束を受ける天秤梁上の桁行の横材を、
      中引梁(なかびきばり)地棟(ぢむね)牛曳(うしびき)牛梁(うしばり)などと呼びます。
      「日本家屋構造」では中引梁と呼んでいるようです。
      ただし、この横材を、かならずこのような形、天秤梁で受けなければならないわけではありません。
      両側の妻面の棟通りにを建て、その間に太い横材を架け、その上に與次郎組を組む方法あります。
      妻面の梁上の束柱に架ける場合もあります。
      つまり、上図の黄色部分の「原理」が重要で、その「応用」は任意で、定型があるわけではありません。

      また、この横材に対する呼称が日本語では多数存在します(そういう例は、他にもあります)。
      おそらく、西欧語では、一つのものに対して、このように多様な名は示されず、
      普通は、そのものを示すのに相応しい代表的名称を紹介し、その他をいわば「方言」として紹介するでしょう。
      「方言」とは、同一物に対しての、地域や人による呼び方の「違い」。
      日本でも、この多様な名称は、「方言」のはずです。
      その方言が「中央」に集められ「均質に」紹介されると、そのすべてを「知る」ことが意義あることだ、
      と思う方が生まれます。
      なかには、それならば、一つの呼称に「統一」しよう、と思われる方も居られるでしょう。
      私は、それは、どちらも無意味なことだ、と考えます。
      私は、そのすべてを知る必要はない、と思っています。私たちは辞書である必要はない、と思うからです。
      知らなければならないのは、そういう策を採る理由:謂れです。
      それが分ればそれでいい、と私は思います。
      いろんな呼び方を知っていることは、博識ではない、のです。
      ましてや、一つの呼称に統一しよう、などというのはもってのほか。
      「標準語」という言い方は、今は死語になりつつあり、あらためて「方言」の意味が見直されています。
      かつての「標準語」は、「共通語」という呼び方になっています。

      このように、いろいろな呼び方がある場合、当方の「意図」を示すために私が採る手段は、
      その部分を「絵に描いて示す」ことです。
     
      天秤 (「広辞苑」による)  
      ①質量を測定する器械。     
       (棒の)両端に皿をつるし、一方に測ろうとする物を、他方に分銅をのせて、水平にし、質量を知る。
      ②天秤棒(両端に荷をかけ中央を肩に当ててになう棒)の略。

第四十一図の説明の続き。
「図のは、腕木を取付ける渡腮(わたりあご)の仕口と、柱径より小さい棟木に取付ける仕口:ワナギ枘を示した図。
ワナギ枘は、柱枘の左右を棟木の大きさに彫り取り棟木を嵌め込み、枘に割楔を打つ。
図のは、棟木木口の図で、点線は、中の2本がを示し、外側の線はの左右を棟木に嵌め込む部分を示している。嵌め込む深さは2分程度。」
   註 説明文だけでは分り難いので、絵にしてみました。
       
      原文の示しているのは、左側の図のような納め方と思われます。
      中の図のように、柱頭を低い位置で止めるのが普通かもしれません。
      その方が、「柱が上の材を受けている」感じが強いからです。その事例が右の写真。
「・・・腕木は、渡り欠きをつくり差し通す。
渡り欠きは、腕木を図のの点線のように欠き取り、同じくには点線のように孔を穿つ。
に穿つ孔は、腕木外寸より高さを5分程度大きく、孔の下端は、の面より5分ほど入った位置から中を5分上がった位置で刻む。
腕木の欠き取り寸法は、長さは柱径より1寸程度小さく、深さは5分程度。
腕木の孔の上端にそって差し込み、所定の位置で渡り欠きを噛ませる。孔の上端にできる空隙に、両端からを打ち締めると腕木は固定される。
腕木の先端上端に小根枘をつくり、を差し、割楔を打って締める。」
   註 ここに示されている図は、普通、簡素な門などで使われる方法で、與次郎組とは無関係です。
      参考として、「日本建築辞彙」から、腕木を用いた門、腕木門:木戸門の図を転載します。
       
      第四十一図では、腕木の先端にそろえていますが、この図のようにするのが一般的です。

続いて節をあらため、「に差す仕口
普通、とは、下註で触れるように、板戸のことを言います。それゆえ、その理解の下では、この標題が何を言っているのかよく分りません。
そこで、そのあたりについて、下註で、前もって説明しておくことにします。
   註  蔀(しとみ) 「日本建築辞彙」(新訂版)の解説
      ・・・蔀は日除(ひよけ)の戸なり。また風雨を除ける物なり。
      その上方に蝶番(ちょうつがい)などを設け、開きて水平となし、多端を吊るようになしあるものを、
      吊蔀(つりしとみ)または揚蔀(あげしとみ)という。・・・

        「字通」の解説
      声符は部。日光や風雨をさえぎる戸板、しとみ、小さい蓆(むしろ)をいう。
      [名義抄]シトミ・カクフ(囲う)・オホフ(覆う)

      釣る蔀戸の詳細は、江戸時代初頭の光浄院客殿の開口部をご覧ください。

      江戸っ子は、ヒとシを混同し、をヒトミと発音する人が多く居ました。
     
      商家では、の通り側全面を、昼間は開け夜は閉じます。閉じる手段は開口部を板戸で塞ぐことでした。
      この板戸を、あるいは蔀戸と呼びました。古来の由緒ある語です。
      閉じ方にはいろいろあります。雨戸もその一です。しかし、雨戸には戸袋(とぶくろ)がいります。
      そして、戸袋を設けると、開口がその分狭くなる。
      そこで編み出されたのが、板戸を開口の上部に擦り揚げる方法です。
      普通、揚戸(あげど)あるいは摺り揚戸(すりあげど)などと呼びます。
      この板戸は普通の雨戸を横にした形(たとえば縦2尺8寸×横5尺7寸)をしています。
      開口高さが1間程度のときは、この板戸を2枚仕込みます。
      この揚戸(摺り揚戸)を、古来の呼び名を使い蔀戸と呼んだのです。
      ところが江戸っ子はシトミドをヒトミドと呼び、その音に字を与え人見戸(ひとみど)という表記まで生まれます。
      「日本家屋構造」の著者は、漢字は蔀戸と記し、音ではヒトミドと表記しているのです。
      以下に、一般的な商家の店先の正面図を「日本建築辞彙」から転載します。簡素な例です。
       
      図の人見梁とは蔀梁のこと。同じく人見柱蔀柱
      蔀梁は、このの上部の内側に蔀戸を仕舞いこむための呼称。
        古の蔀戸は、この横材に金物で吊ってありました。今なら蝶番。それゆえ蔀釣梁
      蔀柱は、蔀梁が取付く柱の意。
        人見には、人に見せる人に見られる、という意が込められていたようです。
      店の間口が広いときは1枚の戸では納まりません。たとえば、上図の柱間が2間のとき、
      戸締りの際には中間(図の黄色に塗った束柱の下になります)に取り外し可能な柱を1本立て、
      その左右にそれぞれ1枚の戸を仕込みます。
      この柱の呼称は閂(かんぬき)、黄色に塗った束柱の呼称は箱束(はこづか)でした。
        は、開き戸を閉じたとき、外から開けられないように、内側に通す横材を言います。
        そして、この横材を保持するコの字型の金物が閂金物閂持金物(かんぬきもちかなもの)
        と同じような役割を持つため、この取外し可能な柱と呼んだようです。
以上の下準備をした上で、本文の解説に入ります。     
「第一 蔀造りの仕方
第四十二図は、多くの商家の表入口上に設けられる蔀:蔀梁の構造を示す。蔀梁の上部の小壁部分は、蔀戸をしまうための戸袋となる。
蔀梁の取付けは差鴨居と同じだが、その裏面(店の内側)に板戸1枚を納められるほどの深さの决り欠き(しゃくり かき)をつくる。
夜間、店を閉じているとき、開口部を、上下2枚の板戸:蔀戸で閉じる。
開店時には、先の蔀梁の欠き込み部:戸袋に、上段の蔀戸を突き上げて納め、下段の蔀戸は、仕舞った上段の蔀戸の位置まで押上げ、ツマミを差し、止め置く(2枚の戸が並んで納まっている)。
この戸袋部を左右に仕切る束柱を箱束と呼び、蔀戸を滑らす溝が彫られている。
開口を閉じるとき、この箱束の下に、箱束と同じ断面の柱を立てる。この取外し自由な柱をと呼ぶ。
蔀梁は柱の外面から飛び出して取付くため、柱へのを2枚に分け(二枚枘)、の先端を少し薄くして柱に差し、込み栓を打つ。このような先を薄くしたこき枘と呼ぶ。」
   註 蔀梁の仕口を二枚枘とし、さらに先端を薄く斜めに殺ぐのは、枘孔の位置が柱の外面に近いため、
      通常の枘で差すと、柱に亀裂が生じるおそれがあり、それを避けるための工夫と考えられます。
      枘を上下2枚に分けるのも同じ理由だと思われます。

最後は出桁造り(だしげた づくり)の解説ですが、この紹介のために、揚戸を設けた商家の店先の断面図を載せます。
左側は「日本家屋構造」製図編にある出桁造りの商家の矩計図、右は近江八幡にある旧・西川家の矩計図(「重要文化財 旧西川家住宅修理工事報告書」より)。

先の第四十二図は、左側の商家についての解説と見なしてよいと思われます(ただ、この図では、箱束が壁で隠れています)。
右の西川家の例は、柱間が1間、ゆえに板戸は1列、2枚の例で、箱束はありません。なお、西川家では、蔀戸ではなく摺り揚戸(すりあげ ど)と呼んでいます。蔀戸は、江戸の呼び方だったのかもしれません。     

最後は、出桁造について。
この解説は上の矩計図を参照しつつお読みください。
「第二 出桁造り
第四十三図は、出桁造りの説明図。出桁造り蔀造りの階上の造りに多く見られる。
図のは、肘木を取付けるための肘木受。肘木受は、肘木よりも高さは1寸5分以上大きく、厚さは2寸くらいとする。
   註 肘木=腕木
図のは、柱間の中間で肘木受に取付く肘木仕口。大きさは幅は柱と同寸、高さは柱径より3分ほど大きくする。仕口大入れ蟻掛け。大入れは3~4分。
に取付く肘木は、長枘を設け、に差し、先端は間柱まで伸ばし釘打ちとする。
図のは、出桁の姿図。出桁の大きさは、幅:柱の8/10×高さ:幅+3分。肘木に渡り欠きで架ける。
出桁の内側には、肘木の上端位置に小穴(こあな)を突き、図のように天井板を納める。
   註 小穴  細い幅の。この場合は、板の厚さ分の幅、深さは板厚以上。溝を彫ることを突くという。
出格子(で ごうし)の出は、普通6寸以上8寸以下。は3寸角内外、上は肘木枘差し・込み栓打ち、下端は頚切りをして瓦を嵌め込む。格子台の下端は瓦上端に置く。」

小屋組については、これで終りです。
次は縁側のつくりかたになります。

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「日本家屋構造」の紹介-12・・・・小屋組(こやぐみ):屋根をかたちづくる(その3)

2012-09-07 14:38:13 | 「日本家屋構造」の紹介

いろいろと時間がとられ、またまた間遠くなってしまいましたが、「日本家屋構造」の小屋組の項の続きを紹介します。

小屋組は、梁間:梁行の長さに応じて、いろいろな架け方があります。
今回の解説を紹介するために、先ず、「日本家屋構造」製図編から、梁間に応じた代表的「小屋組図」:梁の架け方の説明図を転載します(今紹介している「構造編」には載っていません)。


今回の最初は投掛梁(なげかけ ばり)の解説です。
投掛梁とは、上の図の左下の梁間4間半、および右上の梁間5間の図のように、梁間:梁行の長さが長いとき、単にを継ぐのではなく、中途に桁行通りに受けとなる横材を据えて、それをとして、その上でを継ぐ場合、そののことを呼んでいます。この投掛梁を受ける横材を、一般には敷梁(しき ばり)と呼んでいます(上の図では「ヒ」という符号がつけられています。江戸っ子の訛りでしょう)。
なお、桁行の横材だから敷桁だ、と言う方も居られます。
では、原文の紹介。

「第五 投掛梁
第三十九図のは、投掛梁の仕口:接続法の図。敷梁の同じく仕口:接続法。
両者とも、追掛大持継(おっかけ だいもちつぎ)で継ぐ。
   註 追掛 台 持継と書くのが普通です。
      「日本建築辞彙」でも台持継です。

      この解説を読んで、これは仕口ではなく継手ではないか、と思われる方も居られるでしょう。
      私は、用語に拘ることはない、と考えています。
      英語では、継手も仕口も joint です。joint がいわば継手・仕口の「本質」なのです。
      つまり、長手に継ごうが、直交させようが、joint であることに変りはない、という認識。
投掛梁は、梁間が大きいときに、を十字に架け渡すときの方法で、先ず敷梁下木を柱の上部に嵌め込み、上木を載せる。そこで使われる継手台持継で、その方法は次の通り。
継手の長さは、の丈(せい:高さ)の2倍半程度。全体は鉤型の付いた相欠きで、図のように、接触面を斜めに殺ぐ。
長さの中ほどに深さ0.8~1寸ほどの段差:すべり段を設け、下木上木それぞれの先端に梁材の幅の1/4四方ぐらいの目違いをつくりだす。
   註 中央の段差部の斜めの形は、上木を据えるとき、滑って容易に下木に噛み合うようにする工夫と考えられます。
      すべり段という呼称は、このことから付けられたのでしょう。
下木の先端部は、丈を2寸5分程度として、上木の下端の形に合せて刻む。この部分を誂子口(ちょうし ぐち)と呼ぶ。
   註 「日本建築辞彙」では銚子口と表記。
      の字は「あつらえる」という意。上木の形なりに「あつらえる」ということなのかもしれません。
      あるいは、銚子は酒を入れる「とくり」。その口の形に似ている、ということからの命名か。
下木上木の接触面:割肌には、1寸2分角ぐらいで長さ1寸5分程度の太枘(だぼ)を設ける。
投掛梁下木を、渡欠き(わたり がき)敷梁に載せ、上木敷梁と同じく台持継下木上に据える。
台持継の上部には必ず小屋束を建てなければならない(そうしないと、台持継の効用が無になる)。
また、上等の仕口の場合は、小屋束根枘(ね ほぞ)寄蟻(よせ あり)とする。」
   註 寄蟻 
      図のように小屋束の下端に蟻枘を設け、一方、の上端のの所定の位置に蟻穴を彫り
      その穴に隣接して逃穴(にげ あな)を彫る。
      小屋束根枘を一旦逃穴に落とし、次いで、蟻穴側に寄せる。
      その結果、小屋束は抜け難くなる。
      逃穴埋木をする場合もあります。
      寄蟻は、鴨居などを吊る場合にも使われる確実な方法です。

「日本家屋構造」小屋組の次の項は削り小屋仕口の解説。
削り小屋とは、使う材を鉋削りしてつくる小屋という意味です。
簡単に言えば、使用する材が仕上りとして見えるつくり。
この項の解説も、最初に載せた各種小屋組の図を参考にしつつお読みください。

「第六 削り小屋仕口
第四十図のは、棟木(むなぎ)垂木を彫り込んで取付けるときの方法を示す。
   註 この方法は、削り小屋でなくても用いられます。
母屋桁または間に繋梁(つなぎ ばり)を架けて、そこに棟木を受ける束:棟束を建てる方法を示した図。この方法は、廊下などに用いられることが多い。
   註 これは、前掲「小屋組図」の上段中の梁間3間の場合の棟木の取付け方を示しています。
      この図は、繋梁京呂母屋に取付けています。
      この方法は、削り小屋の場合、あるいは廊下に限定されるわけではなく、一般の小屋にも使われます。

      なお、原文で母屋に「おもや」のルビがふってあります。
      「おもや」とは、普通は「身舎」「上屋」のこと。
      意が通じないので、ここでは母屋桁としての母屋:もやと解釈しました。
は、梁間が長いときに使われる二重梁折置で取付ける場合の図。
   註 前掲「小屋組図」の右上、梁間5間の図の記号「ニ」が二重梁です。
図のは、[に一]の箇所では通常の小屋束を建て繋梁を掛け、[ほ一]の箇所ではの横腹に繋梁を差す納め方を示す。その仕口が図の
   註 前掲「小屋組図」の右上、梁間5間の図の記号「ツ」。
二重梁三重梁・・は、一母屋置きに架け渡すのが普通である。」


今回の紹介は、ここまで。
次回は、前掲の小屋組図右下にある「與次郎組(よじろう ぐみ)」などの説明。
その紹介のあとで、補足として、小屋組全般についてまとめたテキストを転載する予定です。

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