忘れられちまった悲しみに・・・・続・歳の暮に思う

2014-12-29 11:26:33 | 近時雑感

林の縁のカラスウリ。この時期には、ほとんど失せています。鳥が食べてしまうらしい


今日は、未明から冷たい雨が降っています。所によると雪になっているようです。

各新聞の「社説・論評」を web 版で読んでいます。
私の思いにしっくりとくるのは、例によって、東京新聞(中日新聞)の社説です。論旨明快、単刀直入で、持って回ったところがない。

今日の社説は「年のおわりに考える 見ず、聞かずの原発被害」という標題。
現政権の「挙動」に対する真っ当な批判です。web 版からプリントアウトし下に転載させていただきます。

被災地は、多分、雪でしょう。
しかし、現政府のやっていること、やろうとしていることが、雪、氷よりも冷たく感じられていることは間違いありません。


また、信濃毎日新聞の社説「辺野古移設 圧力を強めるつもりか」も論旨明快でした。

中世ケントの家々」紹介の続き、現在進めています。さながら、冬休みの宿題:英語と西洋史の復習! 
次回は年明けになると思います。

今年は、今回でお終いにします。
一年間 お寄りいただき 有難うございました。

皆様 よいお年をお迎えください。


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忘れていいのか?・・・・歳の暮に思う

2014-12-26 11:13:55 | 近時雑感

先に載せたイチョウの樹の落葉です。
先日傍を通ったら、あのイチョウの樹は伐採されていました。何かの用材にするようでした。


[記事紹介追加 27日 9.25]
先日の新聞投稿に、年末になると流行る「イルミネーション」を疑問に思う、との投稿が載っていました。
これまでにも「疑問」が投かけられることはありましたが、多くのそれは、電気のムダ遣い、あるいは、樹木を傷める、という理由が大半だったと思います。
私も「イルミネーション」には好感が持てない人種です。
社寺の参道には、よく石灯籠が列をなしています。灯りがともされるとそれは見事です。しかし、これは、イルミネーションとは同一視できないはずです。今のイルミネーションは、それで人が何人集まった、などと言っていますから、人集め目的の event ですが、参道の灯篭は、参詣する人びとの足元を照らすのが目的。筋の通った理由がある。
ところで、投稿者の「疑問」は、震災被災者、とりわけ12万を超えるという故郷を追い出された福島の原発事故被災者に対して、思いやりを欠いた所作ではないか、 LED で電気消費量が少ないから・・などとというのは理由にならない、との主旨でした。
特に、自然災害とは別の不条理な理由で故郷を追われた方がたは、イルミネーションを見て楽しい気分になれるだろうか?「癒される」だろうか?
都会の人たちは、はしゃいでいていいのか?
原発事故のことを忘れてしまっているのではないか?
私は、投稿者の心の細やかさに感動しました。投稿者は、13歳の中学生でした。[追記27日9.00]
「年忘れ」と言いますが、月日が経っても決して忘れてはならないものがある、そのように私は思いました

12月初めのころのNHK・BSで面白いドキュメンタリーが放映されていました。
北米北部シカゴ(だったと思います)に暮す高齢の二人の女性が、車椅子でニューヨークに乗り込み、ウォール街や政府のお歴々を「どうして経済は右肩上がりに成長し続けなければいけないのか」と質問攻めにする、という話です。
これ本当にドキュメンタリーなの?と思ったものです。ノルウェイのTVの製作とのことでした。
もちろん、お歴々からは明瞭な応えは返ってこなかった

実は、私もかねがね、この高齢の女性たちと同じ疑問を抱いてきました。
「右肩上がり」というとき、そこでは「利益」「利潤」を「常に増やす」、という発想が裏にあるように思えます。そこで言う「利益」「利潤」とは、言うなればオマケ。必要不可欠なものをまかなった上に更にプラスするもの、ということでしょう。
現下の政府の経済政策なるものも、大企業の儲けた「利益」を、一般庶民に「滴らせる」ことで「活気」をつくりだす、ということらしい(そのように説く学者・有識者がいるのだそうです!)。だから、先ず大企業が更に「儲かる:利潤を上げる」ように努める、のだそうです。原発再稼働も、その一環のようです。「安い(?)電力」があれば、《儲け》も増える・・・。(下記新聞コラム参照)
    何をもって「安い」と言うのでしょう?
私は、「入:+」と「出:-」が等しければそれでいいではないか、と思う「単純な」タチです。つまりプラスマイナス0。
ものの生産でも、需要と供給が釣り合っていればいいではないか、と思う。(必要以上に)たくさんつくり、それを売りさばくことで「利潤・利益」を上げる、という発想は、腑に落ちない。私は、かつての「近江商人の思想」に共感を抱くのです。どうして、今は、近江商人のような思想はだめなのか、そこが私には分らない。
先のウォール街に乗り込んだ高齢の女性たちの考えることも同じようでした(多分ノルウェイのTV製作者の考えも同じなのでしょう)。
どなたか、このあたりについて分りやすく説明していただければ幸いです。

24日付東京新聞の社説及び25日付毎日新聞のコラムを、是非多くの方にお読みいただきたく、 web 版から転載させていただきます。


新たに紹介記事を追加します[ 27日9.25]


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-4

2014-12-22 15:08:55 | 「学」「科学」「研究」のありかた


蛇足ですが「まえがき」を [図版追加22日17.15]

だいぶ間遠くなりました。

「中世ケントの家々」という標題なのに、「家々」「建物」の紹介が少しも出てこないではないか、と思われる方が居られるのではないか、と思っています。
しかし、こここそが大事な点ではないか、と私は考えています。
たとえば、日本では、「飛騨高山の商家、あるいは町家」などというと、直ぐに「建物」に目を遣り、ああだこうだと言うクセがあります。そして、それでおしまい。
なぜ、それらの建物が、そういう形をとっているのか、つまり「形の謂れ」について考えることをしないで済ませてしまう。これは、わが国の「建築関係者」、そして「建築学」の悪しき習性と言ってよい、
と私は思っています。
ところが、今紹介中の本書では、「家々が立つ基盤」について、先ず、できうる限り学ぶことから始めよう、という趣旨に徹底しているのです。そうしなければ、家々の様態・ありようを知ることができないではないか、というわけです。
本来、家・住まいというのは、ある土地に暮す人が、その地に暮してゆくための拠点として、つくるものなのです。今どきの自分の《好み》でつくるのとは、まったくわけが違うのです。
そのような視点で、今紹介中の「ケントという地域」についてお読みいただき、もしもそこで暮らすとしたならば、どのような「住まい」をつくるだろうか、とお考えいただくと興味が尽きないはずだ、と私は思っています。
   なお、この書には示されていませんが、イングランドは、北緯50度よりも北に位置します。北海道よりも北です。この点も含み、お読みください。

下図は、14世紀初頭のイギリスの農村風景。 出典“SILENT SPACES―The Last of The Great Aisled Bahns ”[図版追加17.15]
 
  服装が異なるだけで、かつての日本の農村風景と大差ないようです。

     *************************************************************************************************************************

今回の紹介は、次の項目です。  [地図追加 23日10.00]

 2. The regional distribution of wealth
     a) Late 13th and 14th centuries

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
2. The regional distribution of wealth: 2. 地域の資産( wealth )の分布の様態

イギリス中世の資産( wealth )の分布状況の解析は、容易ではない。なぜなら、中世という時間の幅が広すぎ、資産( wealth )の査定の記録は、地域によって免税事項が異なっていたり、査定方式も異なり、地域間や異なる時期の状態を比較するためのデータとして適切とは言い難いからである。

a)13世紀後期及び14世紀

13世紀後期、14世紀初期のペスト流行直前に於ける各地域の資産( wealth )の状況は、「1291年の Pope Nicholas Ⅳ策定の税制」、「1334年の Lay Subsidy 」によって説明されるのが常であった。
   註  Lay Subsidy : Lay 聖職者に対し平信徒を指す、俗人・一般庶民の意と解します
                Subsidy は、辞書では「助成金」「補助金」とありますが、wikipedia (下記)では、 Lay Subsidy は「個人への課税」の意のようです。
                The medieval lay subsidies were taxes on personal wealth, levied on the laity from time to time to meet the increasingly urgent
                demands of the Crown for revenue over and above its regular income, particularly for military operations. The subsidy of 1334
                continued what had become established practice - levying a rate of a fifteenth from rural areas and a tenth from boroughs.  
             
 
当時、ケント地域は、1平方マイルあたりのキリスト教会関係の保有する資産( wealth )では、イギリス内の六大富裕地域の一つであった。これは、Canterbury 大司教や Rochester 司教の所有地、あるいは地域内に多くの有名な修道院が存在することをを考えれば、驚くにあたらない。
しかし、ケント地域は広大で、しかも教会関係の所有地が均一に分布しているわけではない。
DOMESDAY の時代(中世イギリスの「土地台帳」: Domesday Book に記録されている時代の意と解す)には、教会関係の領地:荘園は地域の北東部に集中しており、この様相は、中世を通して変ってはいない。また、個々の教会関係所有地を調べていくと、その資産( wealth )については、より詳細な検討が必要であることが分ってきた。
最も裕福な聖職者は大司教で、最大の歳入は、領地・荘園に組み込んだ THANET の肥沃な土地や牧場や、地域最北東部の WINGHAM 管轄地(管理を農地管理人に委ねる土地)から得ていた。ROMNEY MARSH の大部分を含む ALDINGTON 管轄地も同様に大きな歳入源であった。
しかし、同じ大司教の荘園・領地でも、西方、南方は、ケント地域内も外も、それほど豊かではなかった。
また、14世紀後期以降になると、農耕に拠る収入よりも、土地の貸地料の収益が増えるようになる。
   註 THANET、ALDINGTON : いずれも地名と思われますが、手元の地図には見当たりません。

CANTERBURY の Christ Church Priory は、当時、ケント第一の裕福な修道院であったばかりでなく、イギリス第二の(少なくとも第三の)資産保有者であった。14世紀のこの修道院の荘園・領地内の耕地の分布は A SMITH により図解されているが、その図によれば、最大の領地・所有地は、vale of holmesdale に加えて北部、東部にも拡がっているし、より小さな領地は、他のほとんどの地域にも存在している。
ケント地域の北部および東部は、全面的に教会関係者が支配する土地であったわけではない。教会関係の所有地がかなりの量を占める一方、この地域には、非教会関係者・一般庶民の所有地も多かったのである。たとえば、Norman Conquest( 1066年のノルマン人によるイングランド征服)後、 BAYEUX の主教( Bishop )であった ODO 伯爵の下には、およそ200の荘園や、多くの小地主の所有地が、集約されている。
   註 ODO : 人名。一時期、ケントを支配した人物。wikipedia には、下記のようにあります。
          Odo, Earl of Kent (early 1030s – 1097) and Bishop of Bayeux, was the half-brother of William the Conqueror, and was, for a time,
          second in power after the King of England.
これらの土地は、地域全体に散在し、借地権が他に移されたりするなど、様々な所有形態をとっていた。そして、1087年 ODO が地位を追われるとともに、その資産は一部の(非聖職者・平民の)有力者に再配分されたが、それは地域内の広い範囲にわたり、中には修道院の土地も少なからず含まれていた。
これら多くの非聖職者・平民の所有地が、後に、中世のこの地域の有力者・上流階級の人びとが保有する土地の重要な部分を占めることになる。
これらの上流階級の人びとの保有地の成り立ち方は多様である。王から直接与えられた資産の場合や、knight の報酬として与えられる場合などがあった。しかし、これらの土地は、農村部の地主たちが保有しただけではなく、中世後期には CANTERBURY の金持やケント東部、北部の港町の商人たちも農村部に土地を持つようになった。14世紀初期のこの地域の非聖職者・平民がどの程度繁栄していたかは、1334年の Lay Subsidy からその概要がつかむことができる。
1334年の Lay Subsidy は、土地などの不動産ではなくいわゆる動産に課せられているが、その様態は、ペスト流行前の非聖職者・平民の資産の様態についておおよその傾向を示していることは疑いない。ただし、無批判には扱うには問題がある。なぜなら、当時のイングランド全体の課税対象最低額以下の収入の人びとの総数も分らず、更に加えて、ケント地域では、追加の免税措置もとられていたようだからである。また、Cinque Ports の土地は除外され、また 「Cinque Ports の人」と呼ばれる人びとの土地、CANTERBURY の金持の土地も、それが何処にあろうが、除外されていた。
   註 Cinque Ports : フランス語、 five ports の意。ドーバー海峡沿岸五つの港町で構成された経済特権を持つ組合・連盟のようです。ギルドの一か。
          下に wikipedia にあった地図を載せます。参照ください。
これらの町場の外の土地は、課税外ではあっても記録はされており、それを手掛かりに、「Cinque Ports の人」や資産家の農村部に於ける資産の展開の様子を知ることができる。
これらの名目上の記録を含んだ1334年の Lay Subsidy の諸記録では、ケント地域の平方マイルあたりの資産は、イギリスの中で八位を占めている。
これらの記録の観点は多様であるが、SITTINGBOURNE から東の北部沿岸域が最も資産の分布が多いという点では一致している。 SANDWICHDOVERCinque Ports の一)の背後に拡がる東部低地の記録及び MAIDSTONE とその近在の記録も同様である。
   註 SITTINGBOURNE : 地名。下の地図(再掲)のノースダウンズ丘陵北側にギリンガムという町がありますが、その東10数キロのところにあります。
     新たに追加した下の地図には、字が小さいですが、載っています。
     DOVER、SANDWICH 、MAIDSTONE: 地名。DOVER、MAIDSTONE は下図にあります。SANDWICH は載っていませんがdover の近くのようです。
     新たに追加した下の地図には SANDWICH も載っています。参照ください。


cinique ports の載っている地図が wikipedia にありましたので、下に載せます。[地図追加 23日10.00]

   〇で囲んだところが cinique ports の町・港です。

そして記録では、残りの東部地域、西部地域、中央部特に weald の一帯、そして downs 丘陵部はイギリスの中でも最も資産の少ない地域とされている。
また別の「Cinque Ports の人」や資産家の資財リストによれば、域内の資産のかなりの部分が彼らの所有になっている。特にケント東部に於いて著しい。それゆえ、彼らの資産額を除外すると、東部のほとんど、特に DOVERSANDWICH の周辺は、地域中央部に比べ豊かであるとは言えなくなる。彼らの資産は、在る部分は商取引が生み出したものだが、教会関係の蓄財と同じく、土地からの収益:借地料収入も多くを占めているはずである。

14世紀初頭以降、悪天候による飢饉、羊の病気の流行、人びとの大量死などによる社会・経済的問題が繰り返し起った。なかでも Black Deathペストの流行によるそれは最悪であった。その結果、人口が減少し、畜産関係の賃金、畜産物の価格は高騰し、地主・領主、小作農たちの多くは、農耕耕作に見切りをつけ、農地の多くを牧草地に変えるようになってゆく。そしてそれは、地主たちが所有地を借地化するきっかけにもなったのである。
                                                                                [この項了]

     *************************************************************************************************************************

 次回は
 2. The regional distribution of wealthのうちの b) 15th and 16th centuries の項の紹介になります。
 あと数回、地域の状況についての解説が続きます。

筆者読後感想
  あらためて「世界史」「西洋史」を学ぶことになりました。「時代背景」を知らずして、ある時代の建物について云々するなんて、もってのほかなのだと、つくづく
  思っています。彼我の「学問」に対する「心構え」のギャップを感じました。

  先回、ケントの中央部あたりの横断不能な地の話がありました。そのとき、私は、シャーロックホームズの「バスカービル家の犬」の舞台になった地を想起
  していました。調べてみると、それは、イングランド南西部、ケントのはるか西にあたる場所のようですが、察するに、似たような荒涼とした土地のようでした。

  また、今回の「Cinque Ports の人」からは、堺の商人たちを思い描きました。
  このように時代背景を詳細に知って、たとえば奈良・今井町を見直すと、個々の事例について、もう少し深く知ることができるのかもしれません。


  
  
     誤訳・誤読のないように十分留意したつもりではありますが、至らない点があるかと思います。ご容赦ください。
     不明、不可解な点がありましたら、コメントをお寄せください。  
    

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この道は・・・・?

2014-12-16 15:10:00 | 近時雑感

10日ほど前の谷津田の風景。
手前は、これから収穫に入る蓮田です。
今、当地では、稲田を蓮田に変える農家が増えていいます。米価が下ったからのようです。


「うしぇーてーならんどー」の声は、どこに行ってしまったのでしょうか?
一方で、時の政権者は、《思ったこと》を何でもやっていい、と「信任された」と思い込んでいるようです。
とんでもないことです。
この「結果」は、単に、現行選挙制度の然らしめた結果に過ぎない、つまり、人びとの本当の思いをリアルに反映したものではない、と私には思えます。
もしも「比例代表制」であったならば、別の結果になるはずだからです。

今回の選挙についても「一票の格差」をめぐる訴訟が起こされるようですが、人びとの本当の思いをリアルに反映する「制度」のありようについても問われて然るべきではないでしょうか。
そして、「結果」に悲観して、「うしぇーてーならんどー」の声を挙げることを諦めてしまってもならないのです。
今日の東京新聞 Tokyo web に、投票結果を独自の視点で分析した記事がありました。下にコピーして転載させていただきます。


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     「中世ケントの家々」の「続き」、編集中です。もう少し時間をいただきます・・・・。  

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-3

2014-12-11 11:39:29 | 「学」「科学」「研究」のありかた


今回は、1.historical background の章を紹介します。全体は次の節・項目からなっています。
 1. Geology and Topography
 2. The regional distribution of wealth
     a) Late 13th and 14th centuries
     b) 15th and 16th centuries
     c) Population trends
     d) Landholding and tenure
       (1)Tenure
       (2)Landholding
 3. The gentry of kent
     a) Emergence of the gentry
     b) Distribution of the gentry

前回:Introduction 序章は、分割すると分りにくいと考え、全部を通して紹介ましたが、今回からは、節・項目ごとに分けて紹介することにいたします。

先ず、「地域の地勢・地形的な状況」についての章 Geology and Topography から
  ケント地域の概要については、第一回に百科事典の引用を載せましたが、ここでは、地理・地形、地質の視点から、詳しく解説されます。
なお、ケント州の大きさ:転載の地図の範囲は、日本で言うと、四国の徳島県域にほぼ相当する大きさです。

     *************************************************************************************************************************


1.HISTORICAL BACKGROUND (ケント地域:州:の)歴史的背景・・・・その1
A.地質(geology)と地形(topography)
ケント地域は、figure3(下図、再掲)の示すように、域内を東西に延びる何本もの幅の狭い「地質・土質帯」で構成され、地帯間の変移が著しいので、その違いが明白である。

  凡例邦訳:再掲
  Marshland : 沼沢地
  Northern uplands :直訳すれば「北部高地」となりますが、次の「地勢図」で判るように、標高は数十メートルに過ぎません。
            それゆえ、marshland と比べての相対的呼称で、「台地」と呼ぶ方がふさわしいのかもしれません。
  Downs(chalk):白亜質の草原地帯(樹木が少ない)。
  Clay-with-flints :礫混じりの粘土。
  Vale of Holmesdale :Holmesdale谷、Holmesdaleは、同名の大学などがあるので一帯の総称地名と思われます。日本の「等々力渓谷」などにあたるか?  
  Chart hills :Chart hills という名のゴルフクラブがあるようですから、これも一帯の総称地名と思われます。日本で言えば「多摩丘陵」などにあたるか?
    Vale of HolmesdaleChart hills ともに、図から想定して、台地状の地形ではないかと推察します。多分、河岸段丘か?
  river valleys :河川筋
  weald :粘土、砂岩、石灰岩、鉄鉱石などからなる粘土質の地層。Low weald、High weald は、標高の差か。
      英和中辞典には、Weald地方=「Kent,Surrey,East Sussex,Hampshire の諸州を含むイングランド南東部;もと森林地帯」とあります。



北の海岸沿いから第三紀の堆積物から成る沼沢地が拡がり、その london craybrick-earth砂や細かい砂利などのつくる土壌は、耕作、牧畜に適したケント北部の平野部を形成している。
   註  london cray : 地名が「土」の種類・質を示す固有名詞になっているようです。荒川下流域の産の「荒木田土」の如しか?
      wikipediaに次のようにあります。
      The chalk basin has been infilled with a sequence of clays and sands of the more recent Tertiary Period (1.6 to 66.4 million years old).
       Most significant is the stiff, grey-blue London Clay, a marine deposit which is well known for the fossils it contains and can be over 150 metres thick
      beneath the city.
      This supports most of the deep foundations and tunnels that exist under London.
      brick-earth :沖積土・粘土の中でも、特に煉瓦焼成に適した土質の土の意のようです。
               河川の中流~下流の堆積粘土が好適。例えば、利根川と荒川の中流域にあたる埼玉深谷は、瓦、煉瓦の一大生産地。

North downs の急斜面が北岸に向って広がっているが、低地部は Chalk :白亜層の上が粘土と砂からなる良好な土壌に被われ、 Downs を横切る三本の河川(西から DARENTH 川、MEDWAY 川、STOUR 川:上掲 figure4 参照)沿いも同様である。
   註  North downs :上掲の地域図にある「ノースダウンズ丘陵」  
大部分が砂利混じりの粘土に被われた Chalk Downs には、幾本もの涸谷(かれだに)が刻まれていて、そこは、現在の重機が登場するまでは開墾不能で、荒れた牧草地、放牧地、森林のままであった。 Chalk Downs の南面は HOLMESDALE の谷間に向って急峻な崖をなして落ちこんでいる。 HOLMESDALE は、chalk:白亜層から Greensand までの地層が現れる浅い谷状の地形で、多様な質の土壌(その多くは肥沃である)を生み出す Gault clay の層もところどころにある。
   註 Greensand :地学・地質学用語。Greenstone (玄武岩)の変質した砂のようです。ゆえに緑色を帯びているらしい。
     Gault clay :地学・地質学用語。粘土の種類のようです。
     いずれも、イギリス南東部に顕著な地質のようです。
    このあたりについて、詳しい方ご教示ください。 
南側には、 Greensand の層が、 Chalk Downs ほどではないが、丘陵をつくっている。Chart Hills あるいは「砂岩 ragstone の丘」ととして知られる一帯である。それは、MEDWAY 川の西側、東側どちらの谷にも広く拡がっていて、上流に向うに連れて狭くなる。
その北端部には、Heath :ヒースに被われた砂岩の風化した軽石混じりの土壌の地が拡がり、南にはケント砂岩と呼ばれる砂質の石灰岩からなる Hythe Beds と呼ばれる地層になるが、この地層は、西にゆくと、より軟質の砂岩に変ってくる。
Hythe Beds とその南側の Artherfield Clay と呼ばれてる肥沃な土壌の地帯も、狭いながらもこの地域の西から東へ横切っている。
   註 ヒース heath イギリスの荒地に多く見られるツツジ科の常緑低木。
     Hythe BedsArtherfield Clay :いずれも、日本の「関東ローム」などに相当するイギリスの地質に関する用語と思われます。
Chart Hills の砂岩の急峻な崖下には広く平らな Low Weald または Vale of Kent と呼ばれる谷間が展開する。ここは、大部分が厚く粘土で覆われている。そこは、冬は湿地に、夏は乾燥し、18世紀に有料道路が造られるまでは、横断不可能な場所であった。この厚い粘土の地域は、排水の悪さも重なって、一帯は、よい耕作地には程遠い。しかし、中央部には、MEDWAYとその支流がつくりだした沖積層とbrick-earthに被われた肥沃な場所がある。それより南は、急な High Weald 地帯となる。そこでは、粘土と砂からなる地質で、多くの小さな急流に刻まれ狭い谷が形成されているが、ここは、地形も土質も、農耕向きではなく、森林が広がり平地が少ない。この Weald 地帯の南東部には、広大な Romney Marsh が拡がっている。そこは、変化に富む海岸線と沖積土が素晴らしい牧草地をつくる一方、湿地:沼沢地にもなっている。
   註 Romney Marsh:この一帯の固有名詞のようです。
以上触れてきたように、この地域一帯の土壌の種類はきわめて多様であり、それがこの地域独特の地域色をつくりだしている。
ただ、「地質図」からは、この地域の南北の境界は、明確には分らない。
一方、「土地利用図」を調べると、西部地域、中央部、そして東部地域の違いが明らかである。
先ず第一に、MEDWAY川の西側には、東側に比べ、よい土地が少ない。
Weald地域は、三地区に区分できる。一つは、MEDWAY川に沿った一帯、HEADCORN を通り SMARDEN から東側を分ける区画線に沿う一帯、そして、この地区の中央部である。 MEDWAYから HEADCORN にかけての土地は、他に比べ土地の利用度が高い一帯である。
とりわけケント地域の東部、Romney Marshは、他のどこよりも良好な土地が拡がっている。
   註 HEADCORNSMARDEN はいずれも町の名前のようです。
     手元の地図には載っていないので、このあたりの文意に確信が持てません。ご了承ください。
     要は、MEDWAY川は、中流より上で東西に分かれますが、その東側の流れの流域に豊かな土地が拡がっている、ということでしょうか。
   註 また、marsh は、辞書では「沼地、湿地(帯)、沼沢地(帯)」とありますが、
     こういう地形・地勢は、日本では、河川中・下流域にに形成されるのが普通だと思います(山地の縁、あるいは河口近く:いわゆる扇状地)。
     しかし、figure4の地図を見ると、Romney Marshと呼ばれる一帯は、大きな河川のMEDWAY川、STOUR川の上流域にあり、
     この一帯にあるのは、小河川のようです。
     ゆえに、この一帯は河川による形成ではなく、海成・隆起して生まれた平地ではないでしょうか。海抜0m以下の地域もあるようです。
     この地域の地図上の小河川は、平地の溜まり水のはけ口:排水路として自然に生まれたもので、耕地化のための人工の排水路もあると思われます。
        ちなみに、ドーバー海峡の沿岸部を成す白亜層( chalk )の陸地は、隆起に拠るようです。
     また、MEDWAY川、STOUR川が、大地を刻むように流れていることから察して、figure3の右下のRomney MarshLow WealdChart Hills の間には、
     かなりの標高差があることになります(figure4では、その辺の詳細が分りません。等高線の入った地図が欲しい・・・)。
     このあたりについて、詳しい方居られましたらご教示下さい。

この地域の現在の土地利用が、中世の土地利用状況を反映しているとは断言できないが、考察する上の一つの指標であることは間違いない。なぜなら、これは、
地域内の大部分が、早い時代に大農地・牧羊地化され( enclose ) 、中世の景観が広い範囲にわたり遺っているケント地域:州ならではの特徴だからである。

このように、中世の建物の状況を知る上で、「地形・地勢」と「現在の土地利用状況」を対照してみることはきわめて重要なのである。
   註 enclose :英国では中世~近世にかけて、小農地などを大農地・牧羊地にする「囲い込み:enclosure 」が行なわれた。(研究社「英和中辞典」による)
                                                                       [Geology and Topography の項、了]

     *************************************************************************************************************************


   筆者の読後所感
   思いがけず、英国の「地理」「地質」についてを学ぶことになりました。それも、日本の教科での単なる「地理」「地質」ではありません。
   ここでは、次の考え方が、一般に広く理解されるべく、丁寧に説かれています。
      文体も、いわゆる「研究報告」スタイルではなく、いわば口語体の成句も多く、読解に多々苦労しました・・・。
   すなわち、「人は、それぞれの 『土地のありよう』 に応じて暮すのであり、その 『暮しのありよう』 が 『住まいのありよう』 を形づくる」 という考え方です。
   だからこそ、先ずはじめに『土地のありよう』を知らなければならない、それを「地理・地勢学」「地質学」から学ぶ、ということになるのです。
     これは、(人にとって)「学問」とは何かということです。
   したがって、ある時代の、例えば 『中世の建物』 を学び知るためには、先ず 『中世の人びとの暮し』 を知らねばならず、そしてそのためには、
   『中世の人びとが暮した場所・土地について知らなければならない』
 ということになるのです。

   ここでは、読者がその地での人びとの暮しのありようを想像できるように、ケントという地域の「地理」「地勢・地質」が「活き活きと」語られています。
   「地理学」「地質学」(を学び知ること)の意味が、伝わってきます。
   その「熱気」に圧倒されました。

   これは、日本のいわゆる 「民家研究」「住居学」 ひいては 「建築史学」 に最も欠けていた視点だったように私には思えます。
   第一、わが国の一般向けの書には、こういう視点をも盛り込んだ解説書の類は皆無と言ってよいでしょう。
   彼我の「学問」「研究」することの意義についての理解、そして「学者・研究者のありよう」についての理解に、大きな違いがあるのかもしれません。  
 

    
     誤訳・誤読のないように十分留意したつもりではありますが、至らない点があるかと思います。ご容赦ください。
     不明、不可解な点がありましたら、コメントをお寄せください。   

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12月8日

2014-12-07 16:53:43 | 近時雑感

近在の畑の縁や林のあちらこちらに銀杏の大木があります。
多分、どれも実生でしょう。
普段は気付かないのですが、今の季節と新緑の頃、際立ちます。
この寒さで一気に散り始めましたが、これは、そのうちの一本の数日前、快晴の日の姿です。



[8日 8.45 追記追加]

12月8日です。
12月8日が何の日か「具体的に」知っているのは、多分、現在70代後半より上の年代の人、つまりいわゆる「後期高齢者」の人たちだけでしょう。
昭和16年12月8日、いわゆる「大東亜戦争」の始まりとなった真珠湾攻撃の行なわれた日です。

私は、当時「国民学校」入学前でした(ナチス・ドイツの Volks Schule に倣って、小学校が国民学校に改称されていたのです。)
昭和18年の入学後、毎年(疎開先でも)、この日には「記念日」として式典が開かれ、講堂に集められ、「教育勅語」を読み聞かされるのを、しんしんと伝わってくる床からの冷えこみに堪えながら立っていたことを覚えています。
二年生の頃には、もう空襲が始まっていて、学校に行ったかと思うと直ぐに空襲警報が鳴りひびき、走って帰宅する毎日。そして、やむなく山梨県竜王町に疎開。
だから、小学校の「楽しい思い出」は、昭和20年8月15日に敗戦、終戦となり、その冬になって、疎開から帰り落ち着いてきた四年生の頃からしかありません。
それゆえ、私たちの世代:「後期高齢者」にとっては、12月8日と、8月15日は、「思い出したくない、しかし忘れることのできない、そして忘れてはならない、特別な日」なのです。

新聞の投稿欄で、最近の政府の動きに、「開戦前に在った暗い時代の予兆」を感じて危惧を訴えるのは、多くはこの世代の方がたのように見受けられます。「日本を取り戻す」と称して時計の針を逆回ししようとする人たちの動きに、自らの「体験」から、言い知れぬ「怖さ」「怖ろしさ」を感じているからです(もちろん、この世代にも、あの頃を「よき時代」と思い、復活させたいとう人たちも居ないわけではありませんが・・・)。

昨日だったか、エボラ出血熱対策として、2万着の「防護服」を航空自衛隊の輸送機で西アフリカへ送ったとの報道がありました。
送るのは、全部で70万着で、残りの68万着は民間航空機で発送するとのことでした。そうであるならば、何故、全部を民間機で送ることができないのか?そこに、「何か」が垣間見える、と思うのは私だけでしょうか。

折しも「選挙」。7日付の信濃毎日新聞に、こういう怪しげな「動き」について危惧を感じて論じた社説が載っていました。web 版から転載させていただきます。私はまったく同感です。




この前日の同紙の社説は、「原発・エネルギー問題」について、論じています
政府に「地方創成」などと言われるまでもなく、各地域の人びとは新聞をはじめジャーナリズムを含め、ずっとしっかりしているのです。沖縄の人びとの素晴らしい行動については、前々回に紹介しました。

追記 8日付東京新聞社説も是非お読みください。[8日 8.45 追記] 

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