蛇足ですが「まえがき」を [図版追加22日17.15]
だいぶ間遠くなりました。
「中世ケントの家々」という標題なのに、「家々」「建物」の紹介が少しも出てこないではないか、と思われる方が居られるのではないか、と思っています。
しかし、こここそが
大事な点ではないか、と私は考えています。
たとえば、日本では、「飛騨高山の商家、あるいは町家」などというと、直ぐに「建物」に目を遣り、ああだこうだと言うクセがあります。そして、それでおしまい。
なぜ、それらの建物が、そういう形をとっているのか、つまり「形の謂れ」について考えることをしないで済ませてしまう。これは、わが国の「建築関係者」、そして「建築学」の悪しき習性と言ってよい、と私は思っています。
ところが、
今紹介中の本書では、「家々が立つ基盤」について、先ず、できうる限り学ぶことから始めよう、という趣旨に徹底しているのです。そうしなければ、家々の様態・ありようを知ることができないではないか、というわけです。
本来、
家・住まいというのは、ある土地に暮す人が、その地に暮してゆくための拠点として、つくるものなのです。今どきの
自分の《好み》でつくるのとは、まったくわけが違うのです。
そのような視点で、今紹介中の「ケントという地域」についてお読みいただき、
もしもそこで暮らすとしたならば、どのような「住まい」をつくるだろうか、とお考えいただくと興味が尽きないはずだ、と私は思っています。
なお、この書には示されていませんが、イングランドは、
北緯50度よりも北に位置します。北海道よりも北です。この点も含み、お読みください。
下図は、14世紀初頭のイギリスの農村風景。 出典“SILENT SPACES―The Last of The Great Aisled Bahns ”[図版追加17.15]
服装が異なるだけで、かつての日本の農村風景と大差ないようです。
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今回の紹介は、次の項目です。 [地図追加 23日10.00]
2. The regional distribution of wealth
a) Late 13th and 14th centuries
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2. The regional distribution of wealth:
2. 地域の資産( wealth )の分布の様態
イギリス中世の資産( wealth )の分布状況の解析は、容易ではない。なぜなら、中世という時間の幅が広すぎ、資産( wealth )の査定の記録は、地域によって免税事項が異なっていたり、査定方式も異なり、地域間や異なる時期の状態を比較するためのデータとして適切とは言い難いからである。
a)13世紀後期及び14世紀
13世紀後期、14世紀初期のペスト流行直前に於ける各地域の資産( wealth )の状況は、「1291年の Pope Nicholas Ⅳ策定の税制」、「1334年の Lay Subsidy 」によって説明されるのが常であった。
註 Lay Subsidy : Lay 聖職者に対し平信徒を指す、俗人・一般庶民の意と解します
Subsidy は、辞書では「助成金」「補助金」とありますが、wikipedia (下記)では、 Lay Subsidy は「個人への課税」の意のようです。
The medieval lay subsidies were taxes on personal wealth, levied on the laity from time to time to meet the increasingly urgent
demands of the Crown for revenue over and above its regular income, particularly for military operations. The subsidy of 1334
continued what had become established practice - levying a rate of a fifteenth from rural areas and a tenth from boroughs.
当時、ケント地域は、1平方マイルあたりのキリスト教会関係の保有する資産( wealth )では、イギリス内の六大富裕地域の一つであった。これは、
Canterbury 大司教や
Rochester 司教の所有地、あるいは地域内に多くの有名な修道院が存在することをを考えれば、驚くにあたらない。
しかし、ケント地域は広大で、しかも教会関係の所有地が均一に分布しているわけではない。
DOMESDAY の時代(中世イギリスの「土地台帳」:
Domesday Book に記録されている時代の意と解す)には、教会関係の領地:荘園は地域の北東部に集中しており、この様相は、中世を通して変ってはいない。また、個々の教会関係所有地を調べていくと、その資産( wealth )については、より詳細な検討が必要であることが分ってきた。
最も裕福な聖職者は大司教で、最大の歳入は、領地・荘園に組み込んだ
THANET の肥沃な土地や牧場や、地域最北東部の WINGHAM 管轄地(管理を農地管理人に委ねる土地)から得ていた。
ROMNEY MARSH の大部分を含む
ALDINGTON 管轄地も同様に大きな歳入源であった。
しかし、同じ大司教の荘園・領地でも、西方、南方は、ケント地域内も外も、それほど豊かではなかった。
また、14世紀後期以降になると、農耕に拠る収入よりも、土地の貸地料の収益が増えるようになる。
註
THANET、ALDINGTON : いずれも地名と思われますが、手元の地図には見当たりません。
CANTERBURY の
Christ Church Priory は、当時、ケント第一の裕福な修道院であったばかりでなく、イギリス第二の(少なくとも第三の)資産保有者であった。14世紀のこの修道院の荘園・領地内の耕地の分布は A SMITH により図解されているが、その図によれば、最大の領地・所有地は、
vale of holmesdale に加えて北部、東部にも拡がっているし、より小さな領地は、他のほとんどの地域にも存在している。
ケント地域の北部および東部は、全面的に教会関係者が支配する土地であったわけではない。教会関係の所有地がかなりの量を占める一方、この地域には、非教会関係者・一般庶民の所有地も多かったのである。たとえば、
Norman Conquest( 1066年のノルマン人によるイングランド征服)後、
BAYEUX の主教( Bishop )であった
ODO 伯爵の下には、およそ200の荘園や、多くの小地主の所有地が、集約されている。
註
ODO : 人名。一時期、ケントを支配した人物。wikipedia には、下記のようにあります。
Odo, Earl of Kent (early 1030s – 1097) and Bishop of Bayeux, was the half-brother of William the Conqueror, and was, for a time,
second in power after the King of England.
これらの土地は、地域全体に散在し、借地権が他に移されたりするなど、様々な所有形態をとっていた。そして、1087年 ODO が地位を追われるとともに、その資産は一部の(非聖職者・平民の)有力者に再配分されたが、それは地域内の広い範囲にわたり、中には修道院の土地も少なからず含まれていた。
これら多くの非聖職者・平民の所有地が、後に、中世のこの地域の有力者・上流階級の人びとが保有する土地の重要な部分を占めることになる。
これらの上流階級の人びとの保有地の成り立ち方は多様である。王から直接与えられた資産の場合や、knight の報酬として与えられる場合などがあった。しかし、これらの土地は、農村部の地主たちが保有しただけではなく、中世後期には CANTERBURY の金持やケント東部、北部の港町の商人たちも農村部に土地を持つようになった。14世紀初期のこの地域の非聖職者・平民がどの程度繁栄していたかは、1334年の
Lay Subsidy からその概要がつかむことができる。
1334年の
Lay Subsidy は、土地などの不動産ではなくいわゆる動産に課せられているが、その様態は、ペスト流行前の非聖職者・平民の資産の様態についておおよその傾向を示していることは疑いない。ただし、無批判には扱うには問題がある。なぜなら、当時のイングランド全体の課税対象最低額以下の収入の人びとの総数も分らず、更に加えて、ケント地域では、追加の免税措置もとられていたようだからである。また、
Cinque Ports の土地は除外され、また 「
Cinque Ports の人」と呼ばれる人びとの土地、
CANTERBURY の金持の土地も、それが何処にあろうが、除外されていた。
註
Cinque Ports : フランス語、
five ports の意。ドーバー海峡沿岸五つの港町で構成された経済特権を持つ組合・連盟のようです。
ギルドの一か。
下に wikipedia にあった地図を載せます。参照ください。
これらの町場の外の土地は、課税外ではあっても記録はされており、それを手掛かりに、「
Cinque Ports の人」や資産家の農村部に於ける資産の展開の様子を知ることができる。
これらの名目上の記録を含んだ1334年の Lay Subsidy の諸記録では、ケント地域の平方マイルあたりの資産は、イギリスの中で八位を占めている。
これらの記録の観点は多様であるが、SITTINGBOURNE から東の北部沿岸域が最も資産の分布が多いという点では一致している。
SANDWICH と
DOVER (
Cinque Ports の一)の背後に拡がる東部低地の記録及び MAIDSTONE とその近在の記録も同様である。
註
SITTINGBOURNE : 地名。下の地図(再掲)のノースダウンズ丘陵北側に
ギリンガムという町がありますが、その東10数キロのところにあります。
新たに追加した下の地図には、字が小さいですが、載っています。
DOVER、SANDWICH 、MAIDSTONE: 地名。
DOVER、MAIDSTONE は下図にあります。
SANDWICH は載っていませんが
dover の近くのようです。
新たに追加した下の地図には SANDWICH も載っています。参照ください。
cinique ports の載っている地図が wikipedia にありましたので、下に載せます。[地図追加 23日10.00]
〇で囲んだところが cinique ports の町・港です。
そして記録では、残りの東部地域、西部地域、中央部特に
weald の一帯、そして
downs 丘陵部はイギリスの中でも最も資産の少ない地域とされている。
また別の「
Cinque Ports の人」や
資産家の資財リストによれば、域内の資産のかなりの部分が彼らの所有になっている。特にケント東部に於いて著しい。それゆえ、彼らの資産額を除外すると、東部のほとんど、特に
DOVER、
SANDWICH の周辺は、地域中央部に比べ豊かであるとは言えなくなる。彼らの資産は、在る部分は商取引が生み出したものだが、教会関係の蓄財と同じく、土地からの収益:借地料収入も多くを占めているはずである。
14世紀初頭以降、悪天候による飢饉、羊の病気の流行、人びとの大量死などによる社会・経済的問題が繰り返し起った。なかでも
Black Death :
ペストの流行によるそれは最悪であった。その結果、人口が減少し、畜産関係の賃金、畜産物の価格は高騰し、地主・領主、小作農たちの多くは、農耕耕作に見切りをつけ、農地の多くを牧草地に変えるようになってゆく。そしてそれは、地主たちが所有地を借地化するきっかけにもなったのである。
[この項了]
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次回は
2. The regional distribution of wealthのうちの b) 15th and 16th centuries の項の紹介になります。
あと数回、地域の状況についての解説が続きます。
筆者読後感想
あらためて「世界史」「西洋史」を学ぶことになりました。「時代背景」を知らずして、ある時代の建物について云々するなんて、もってのほかなのだと、つくづく
思っています。彼我の「学問」に対する「心構え」のギャップを感じました。
先回、ケントの中央部あたりの横断不能な地の話がありました。そのとき、私は、シャーロックホームズの「バスカービル家の犬」の舞台になった地を想起
していました。調べてみると、それは、イングランド南西部、ケントのはるか西にあたる場所のようですが、察するに、似たような荒涼とした土地のようでした。
また、今回の「Cinque Ports の人」からは、堺の商人たちを思い描きました。
このように時代背景を詳細に知って、たとえば奈良・今井町を見直すと、個々の事例について、もう少し深く知ることができるのかもしれません。
誤訳・誤読のないように十分留意したつもりではありますが、至らない点があるかと思います。ご容赦ください。
不明、不可解な点がありましたら、コメントをお寄せください。