「我が村 ・ 桜村」 1983年度 「筑波通信 №10」

2020-02-11 10:13:02 | 1983年度「筑波通信」

 

PDF「わが村・桜村」(含「枯れ木に花は咲かない」「住宅建築」1983年掲載)A4版9頁

「わが村・桜村」        1984年1月    

 衆議院議員の選挙も終り、諸人こぞっての政治評論の季節も、また元どおりに何事もなかったように、折からの師走のあわただしさのなかに消えていってしまうにちがいない。それにしても、今年の冬は寒い。

 この選挙の一週間前に、わが村でも村長選挙があった。

 わが村桜村は、いわゆる研究学園都市の大部分が属している村である。人口も、昔からの村人たちと、開発とともに新しく流入してきた人たちとから成っている。大学生の大部分が桜村民である。そして、ここでは通常、昔からの村人を旧住民、流入組を新住民と呼んでいるが、もう少し詳しく語りたい人たちは、昔からの村人たちを原住民、流入組の内でも開発当初の何もないころからいる人たちを先住民、いろいろできあがってから入ってきた人たちを新住民と呼ぶことが多い。流入組をこのように分けるにはそれなりの理由がある。同じようによそ者でありながらも、この二者ではものの感じかたがまるっきりちがうからである。この後者の分けかたでの先住民(つまり、何もないときに流入してきた人)たちは、この村が不便であるとか文化がない、などとは決して軽々しくは言わないのだが、新住民(つまり、ある程度までできあがってから移ってきた人たち)は、概して、そういうことを平気でいう。一例で言えば、旧住民はバスの便がよくなった、と言い、新住民はバスの便が悪いという。なぜこうちがうのかと言えば、それは極めて単純な理由によってである。よいか悪いか、その評価基準がちがうからなのである。何もないところに、いわば開拓者のごとくに移り住んだ人たちにとって、一日に数えるほどしかなかったバスの便に比べたら、今はまさに雲泥の差である。こんなにも便利になったのである。そして彼らは、生活の利便を向上させるために、いろいろとやってきた。そういう所で生活するにはどうしたらよいか、身をもって考えてきた。というより、考えざるを得なかった。郷に入ったら郷に従ったのである。

 だが、まるっきりの新住民たちはちがう。彼らの基準は、たとえば東京にある。なにごとも東京なみでなければならないと思う。それでいて緑が多く、空気のきれいなのがよい、などという。言ってみれば勝手なものだ。そういったよさは、あたりが東京なみでないからこそ得られているのにも拘らず、それを(なにもしないで)両方ともいただこうというのである。そして、ここには文化がないと言う。そのときの文化とは、いわゆる東京の文化である。東京の文化というのがいったいあるのかどうかは知らないけれども、とにかく最新の東京の文化、(あるいは情報と言った方がよいのかもしれない)のことなのだ。あるいはそれは、西欧の文化のことなのかもしれない。桜村などでは、東京とちがって西欧からあまりにも遠すぎるというのだろう。それはそうだ。開発区域をちょっとはずれて、同じ村のなかの昔ながらの場所へ行けば、そこにあるのは日本の(あくまでも日本の)農村であり、田舎の香水はときおりただようことはあっても、いうところの西欧の香りなど、これっぽっちもないからである。文化とは西欧の文化を言うのだと(未だに)信じている人が多く、とりわけ学園都市に移り住んだ人たちには学者・文化人と世で呼ばれる人たちが多く、彼らのあこがれはあくまでも西欧であるらしいから、学園都市には文化がない、文化をつくりだすためには教会がなければならない、などと真面目に言いだす文化人さえいるのである。(もちろん新住民の全部がそうだというわけではない。)これは少し度はずれた例ではあるが、しかし、移住者の多くは東京をはじめとした都会での生活に慣れ、いろいろの情報のなかから(つまり選択肢のなかから)選ぶのをあたりまえとしてきているから、そして、選べるものがたくさんあることが文化だと感ちがいしているから、自ら創出しなければなにもない村の状況は、文化がないように見えるのであるにちがいない。

 開発の当初に移り住んだ人たちもまた、当然のことではあるけれどもその移住地のありさまに対して、りつ然とした思いを抱いたはずである。なぜなら、そこには研究学園「都市」の歌い文句とはうらはらに、何もそれらしきものはなかったからである。あるのは、これも場ちがいに見えたはずだが、突然そそりたつ公団住宅風のアパート(つまり彼らの住み家)と建設中の研究施設、そしてはてしなく続く山林田畑と、一雨降れば泥沼になる道・・・・だけ。夜になれば漆黒の闇。住む所があるだけ、まだよしとしなければならない。私白身、1970年ごろであったか、その一角に建てる学校の敷地の下見に来て、いささかどころか大分、その状況に驚いた覚えがある。ここに都市ができるのだろうか、という思いもなくはなかったけれども、それ以上に、関東の東京からわずかしか離れていない所にこんな場所があったのか、という驚きの方が強かったように思う。延々とうねるように続く大地。その上にところどころに散在する村落。そのときの私にとっては、まさに「こんな所に人が住んでいる」という驚きが先にたったのである。バスの便は極端に悪く、かと言って車で歩くにも道をよく知らないと迷うだけ。遠くに筑波山が見えるときだけが唯一のたより。よもや数年後にここに移り住むとは夢にも思わなかったのだが、しかしそのとき既に、あの先住民たちが居ついていたのである。学校用地の下見をそのころやっていたくらいだから、当然新設の学校などあるはずはなく、子どもたちは昔からの村の学校に通い、従って村人たちのつきあいも結構あったらしい。村人たちによる野菜などの青空市場もよく開かれていたようである(このごろはあまり聞かないが、それでも週に一度ぐらい、泥だらけのとったばかりの野菜などをもって、村のおばあさんが尋ねてくる)。

 この先住民たちは、状況が状況だから、かなり早い時点で、ここで都会なみの生活慣行を求めることが無意味であることを悟り、そこでの生活のありかたを考えだすのである。商店が近くにあるわけではなく、あっても雑貨屋さん程度だから、そこで、たとえば週に一度の買だめがあたりまえとなり、そしてそのショッピングのためには、、バスに期待をもてないから、車が必需品となり免許をまず取得することとなる。考えてみると、これはこのあたりの昔からの村人たちのやっているのと同じパターンなのだ。ただ、村人たちは、ある程度まで食糧は自給しているけれども、この先住民たちにはそれがないだけのちがいである(もっともそれは重大なちがいなのだが)。妙な話だが、こういう所に住むと、大型冷蔵庫の意義、そのあるべき姿がよく見えてきて、デザイナーはいったい何を考えてデザインしているのか、文句の一つや二つが言いたくなる。簡単に言えば、そういう状況の下で生活すると、もののありかた、ものへの対しかたはもとより、生活のすすめかたに至るまで、少しばかり大仰に言うと、根源的に考えざるを得なくなるわけなのだ。裏返して言えば、都会的生活での慣行がいったい何であったのかが問われるのである。

 しかしいまや、この先住民たちの数は相対的に少なくなってしまい、新住民が圧倒的多数になっている。彼らの多くは、郷に入って郷に従うこと(つまり状況にあわせて生活を適応させること)をせずに、ただいたずらにないものねだりをしたがるのである。

 

 その一方で、この新住民のふるまいに似た考えかたが行政当局、とりわけ国や県のレベルにあるようだ。町村合併をして「都市」にしようというのである。ここは20万都市にするのが当初の計画だったのだが、いまでも開発地域はもとより周辺まで数えても、その半分にもなっていない。 20万都市の絵にあわせて道路その他を造ってあるから、その維持だけでもけたたましい額になる。村や町だけでは完全に持ちだし、赤字である。「市」にして国から金をせしめよう、というのが合併論の論理であって、そうすれば自ずと文化的にも向上する(その意味は都会なみになる、ということだ)というのである。その人たちは、これまた恐るべき発想をする。たとえば、いま村役場には大学卒がほとんどいない。だから運営が下手だ。市にして職員を精選すれば、ずっとよくなる。こう言うのである。これを合併促進の研修会で、町村職員を集めた席上で広言したというのであるから立派も立派、何をか言わんやである。市にして雇用が増えるというけれども、その職種がいかなるものか、推して知るべしだろう。

 

 この人たちのもう一つ面白い発想は、市になることによって、地価が上り、それはすなわちストック(財産の価値)が増えることであるから歓迎すべきだ、という考えかたである。実際に、いま学園都市開発域のまんなかあたりの地価は、住宅地で、坪あたり25万以上などというのがあたりまえになりつつある。たしかに土地持ちの資産は増えたかもしれないが、なにかそこで商売でもしないかぎり、普通のサラリーマンでその土地を買える人はそうざらにいない。だから、土地持ちの人たちは、やむを得ず草ぼうぼうにして、まさに土地を遊ばせるか、学生相手の下宿屋さんを営んで生活をしているのが多い。元通り畑を作ろうにも、もう作れるような状態では(人も土地も)ないのである。たまたま最近の朝日新聞の地元版に紹介された短歌が、そのあたりの状況を端的に語っているので、ここに転載してみる。

  学園におおかた耕地はつぶされて農婦人夫となり今日も出てゆく

                          (佐藤春介)

 

 開発が言われだしてからそろそろ二十年、実際にいろいろな研究施設が動きだし人が流入しはじめて十年(今年、開設十周年を祝った施設が多い)、開発当初のあの甘い話が決して甘い話ではなかったことを、地元の人たち(原住民たち)は、さめた目でながめはじめているようである。

 あの多くの開発がそうであったように、ここでも開発は地元の人たちすなわち先住民たちの存在を忘れ、あるいは無視した、一方的なものであったのである。

 

 さて、村長選挙はこういう複雑な状況をかかえた村で行われた。有権者数は、昔からの村人(すなわち原住民)約8,000、新たに移住してきた人たち(すなわち先住民と新住民)約17,000(このなかには学生がおよそ2,000はいるだろう)である。流入人口が完全に地元を圧倒しているのである。主たる候補者は、地元人たる元助役と、都市開発を推進したい人たちが強く推す新住民の弁護士。前回のときも同様に地元の元教育長とこの弁護士の対戦であったがわずかな差で地元人の勝利。従って今回の場合は、大方の予想では確実に新住民サイドの勝利になるだろうと思われていた。数の上の単純計算では、どう見ても元助役の側が不利に思えるのである。

 ところが、結果はちがっていた。元助役7,500、弁護士5,000、それにもう一人の共産党候補2,500という結果がでたのである(投票率60%)。

 これは、思いもかけない大差である。

 新聞記者の分析によれば、地元候補7,500の内、少なくとも2,000は移住した人たちからの票ではないか、とのことであった。たしかに、そう考えると勘定が合うのである。そうしてみると、移住民候補者ならびにその支持者たちは、同じ移住民の選択によって破れたのである。ものごとそう単純にはいかない見本のような話である。

 

あ と が き

〇暮になってなにかと忙しく、なにがなんだか分らないうちに歳だけはとってしまいそうである。

〇暮の一日、所用で甲州、信州へ行ってきた。主要国道をほぼ一日車で走る破目になって、例のスパイクタイヤ公害の実態を十分に賞味させてもらった。ほんとにこれはすごい。立寄った家で出してもらったタオルで顔をぬぐうと、たちまちねずみ色である。それにしても、なんとトラックが多いことか。並行して走る国鉄の貨物列車は、機関車がもったいないような短い編成でさっさと行ってしまうのに、国道は荷を満載したトラックの列、おまけにのろのろの渋滞。鉄道線路がもったいない。 トラックは戸口から戸口へとどいて運賃も安いから荷はみんなトラック便に移ってしまったのだというけれども、それではなぜ運賃が安いのか。それは、道路の維持管理費を負担してないからである。国鉄はそれを一式自前でやっている。その費用は自動車諸税とは比べものにならないほどの高額なのである。もし自動車に、鉄道なみの維持管理費を自己負担させたならば、またたく間に自動車利用が減り、鉄道荷物・貨物が増えるはずだそうである。それによる連鎖反応(好ましい方向への)は大変なものだろう。

〇最近、「住宅建築」なる雑誌に寄稿した一文を付します。「通信」に書いてきたことを再編したようなもので、いつぞや紹介した「土は訴える」という本の評に名を借り、言いたいことを言ったという妙な文ですが、ついでにご笑覧ください。

〇新年もそれぞれなりのご活躍を!

       1983・12・29             下山 眞司

 

投稿者より    「筑波通信」の掲載は、今まで通り隔週とさせていただきます。 隔週の間の週は、しばらくお休みを頂きます。

       よろしくお願い致します。                                下山 悦子

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