復刻・「筑波通信」 -4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ

2016-05-28 09:58:42 | 復刻・筑波通信

けやきの若葉

筑波通信 -4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ     1981年7月1日 刊 の復刻

五月の末から六月の初めにかけ、季節外れの夕立が続いた。それも雷雨である。
   註 1981年のことである。
そんなある夜、研究室に、学生の某君が、本を抱えて興奮した面持ちで飛び込んできた。どうしてもこの本を見てもらいたい、というのである。
その本とは、帝国書院から出されている「世界の地理教科書」シリーズのスイスの地理教科書であった(中学生対象ではないかと思う)。もちろん日本語訳である。不勉強で、こういう本があるなどというこよを、ついぞ知らなかった(このシリーズに続いて、世界各国の「歴史教科書シリーズ」も刊行されつつあるとのこと)。
その本にざっと目を通してみて、何故彼が話をしたくなったか、合点がいった。私たちが学んだ(学ばされた)地理の教科書とは全く異なているからである。私が常日ごろ望んでいたことが、この中学生用の教科書に、大げさに言えばものの見事に書かれていたのである(今、同じようなことを、大学生に話さなければならない、というのがあほらしく思えたのである)。
一言で言ってしまえば、この教科書は、「国土」について、諸「知識」を単に並べたものではなく、「国土」を、「そこで、人びとが生活してゆく」という視点で、どのように「把握すればよいか」という見かたで貫かれている、ということに尽きるだろう。
詳しく示せば、スイスという国土を、子どもたちがどのように捉えるか、その捉えかたを述べるのである。たとえば、〇〇山脈が何処にどのように走っていて、高さがどうで、地質やそのできかたがどうであるかというようないわば「物知りおじさん」的「知識」ではなく、もちろん、それも書いてあるが、それだけで終るのではなく、(したがってそれを覚えればよいというのではなく)、そのような山脈のあるところでは、どのような「自然」が展開し、そのような「環境」にあって、人びとはどのようにして暮さなければならなかったか、暮してきたか、暮しているか・・・、つまり、人びとの生活がどのように変ってきたか、人びとはその「自然」にどのように対処してきたか・・、といった現在の学問分野でいうところの「歴史地理学」「人文地理学」「あるいは「集落地理学」に係わる話が、実に分りやすく淡々と述べられている。これが、それぞれの固有の特性をもった地域ごとに語られ、その結果、スイスという「国」と、そこでの人びとの生活が、実にはっきりと浮びあがってくるのだ。
   そのような「特性」が存在するからこそ、「地方」「地域」という「概念」が生まれた、在ったのではなかったか。
   いま日本で「地方」「地域」と言うとき、そういう「特性」の存在を認めた上で語られているだろうか
そこには、ある地域が何故そういう地域になったのか、それを観る見かた・捉えかたが懇切丁寧に書かれており、その一環としてたとえば、ある地域に暮す人びとの一日の、そして一年の生活が、その「地理」との関係で、あたかも日程表のごとくに語られ、そのような生活との関連で、その人びとの家づくりの在りかたについても触れられている。だから、読んでいると、行ったこともなく見たこともないスイスのある地域のありさまが、目の前にありありと浮かんでくる。
そしてこれが大事なことなのだが、それは決して単にその地域について知ったということで終らないということだ。そう見てゆくなかで、たとえば、わが国のあの地方のありさまは、いったいどうなのだろうか・・・、といった具合に、それとの対比でものを観る私の「視野」が自ずと拡がってくるのである。つまり、一つのことを観ることが、十のことを観る観かたをも示唆してくれるのである。
すなわち、このスイスの地理教科書は、現象あるいは事象の「結果」だけではなく、そのような「結果」に至った「過程」を語っているのである。
訪ねてきた学生は、日ごろ、世の中一般に「結果」だけ注目され「結果」だけつなげてものごとが語られ学問・研究がされ、つまるところ、そこに至る「過程」が無視されていることに、言いようのない怒りを抱いていて、たまたま私が、およそ人のやることは「結果」も大事ではあるがそこへ到達するまでの「過程」:「人間の営み:営為」について考えてみることこそ大事である、と日ごろ言い続けていたものだから、私なら怒りを聞いてくれるだろう、と思い訪ねてきたのである。
そのとき、「人はどうしたか」、「どうするか」こそ大事なのではないだろうか。
人の為した「結果」について、あれこれ言うことぐらい易しいことはない。しかしそこからは、決して「人がどうしたか」は見えてこない。
逆に、「人がどうしたか」「どうしてきたか」が見えたとき、私たちは、ある一つの地域、あるいはある一つの現象を見ることを通して、「やがて目にするべき一切の風景を理解すること」ができるようになるはずなのだ。
   註 この文言は、当時読んでいた、サン・テグジュペリの著作の一節からの引用です。
     そのあたりをサン・テグジュペリ「城砦」(山崎庸一郎 訳 みすず書房)より以下に抜粋転載させていただきます。

     ・・・・・・
     かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
     私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
     その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
     しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
     認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
     (なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
     けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
     事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
     また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。
     ・・・・・・
     それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
     思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
     彼らの登山の質を楽しむためである。
     舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
     なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、
     また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
     たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、
     やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、
     まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、
     よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。
     ・・・・・・
     私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
     そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
     言葉で示すことは把握することではない。
     ・・・・・・
     言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
     ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
     おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。


では、この教科書が、どういう形でその叙述を締め括っているかというと、地域ごとにその地域の特性:人びとの生活を通観したあと、素直に、その国土の将来の(あるべき)姿を、将来の「(国土の)景観」というかたちで示して、我われ(スイス人)は、将来へ向けていま何を為すべきかを述べて終っている。

一通り目を通して、学生に劣らず、私も少なからず興奮し、何故スイスではこうで、日本ではこうでないのか、大げさに言えば夜の白むまで話が弾んだのである。
話をしてゆくなかで、彼が頭にきたのには、もう一つ別の理由があったことも分ってきた。
実は、この学生は、この本を地理の先生にその講義で紹介されたのだという。そこで彼が、例の「過程」重視論を述べたところ、その先生曰く、では書き方の順序を逆にすればよいのですかね、と言われたのだそうである。かれはそこで先ず頭に来た。そんな書き方の形式を言っているのではない、もっと本質的なことなのに・・・、というわけだ。
そして更に、この先生はこうも言われたのだという。近ごろ、建築を学ぶあるいは研究をする人たちをはじめとして、地理学以外の人たちがどんどん地理学の分野に入り込んでくるものだから、地理学の独自性を保つために地理学はいったい何をしたらよいのか、いろいろと論議がある、と(実際にこういう表現で言われたのではなく、私がいわば「意訳」した文言である)。なるほど、これは私も頭にくる。この学生が頭にきて当然である。「ね、そうでしょう」と言って彼はほっとした面持ちになった。それが印象的であった。もちろん、この「先生」は、「大学の」先生である。

私は、何故日本にはこのような教科書が存在しないのか、考えた。そして、今からでもこんな具合の教科書をつくることができるだろうか、としばらく考えた。子どもの教科書もながめてみた。そして、悲しいかな、書けないだろうという結論に達したのである。何故か、何故在り得ないか。
一つは、日本の現状が、このような書きかたを受け容れないものとなっているからである。
たしかに、ある時代までは、スイス同様、国土と人びとの生活について、つまり、「地理」と「人間の営為」とについて雄弁に語ることができる。
しかし、ある時以降、〈突然〉のように(本当は〈突然〉ではなく、〈下準備〉は着々と為されていたのだが、時間を圧縮して見ると唐突、突然に見えるのである)、地域の特性と人びとの生活とは無関係となり、国土はそれぞれの特性をもった「土地」ではなく、単なる「地面」として扱われるようになり、特性などはかえりみもされず、何処でも全く軌を一にした生活を行い得るのだ、それがよいことなのだ、それでよいのだ、という世の中になってしまっていたのである。
ゆえに、今、現代に生活する上では、「地理(の諸知識など)は不要である、つまり「地理を学ぶこと」と「生活」とは直接的な関係はないように見える。そうなってしまっている。だから、スイスの教科書のようには、素直に淡々と書くことはできないのだ。
書こうとすればするほど、歴史的な意味での「断絶」と、「地理を学ぶこと」と「現実に行われている生活」との間に存在する「断絶」が、より一層、目に見えて明らかになってくるだけなのである。
従って、できることと言えば、これまで慣習的・因習的に行われてきたように、それまでの《蓄積》の上に《最新の》事項を盛り込むことだけで、地理学の《最新諸知識》を〈系統的にきれいに整理して記述する〉ことしかないのである。
ゆえに子どもたちは、それらの《諸知識》が、自分たちの「生活」と如何なる関係があつか分らずじまいのまま、つまり何故に「地理」を学ぶのか、学ばされるのか分らないままに、徒に《暗記を強いられる》こととなる。
それはすなわち、前々号で書いた言いかたで言えば、子どもたちに、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「ものの見かたを教え込んでいることに他ならない。
「地理」は、すなわち「地理学」「地理教科書」は、この「現実との不整合」に目をつぶってはいけないのだ。そこから逃げてはいけないのだ。「地理学は今何をしたらよいか、などといういうような「愚痴」をかこっていてはならないのだ。
むしろ、この不整合な事態の不条理についてこそが、「地理学」の言及しなければならないことではなかろうか。それこそが「地理学」の本務だったのではないか。「地理学とは、そもそも何であったのか」ということだ。それを忘れて、自ら進んで自分の「縄張り」を狭めてゆく。その先は見えている。「学際的」研究・・を唱えるだけだ。しかし、そうしたところで、不整合な事態の不条理については言及できないだろう。各分野の「言及できない」ものがいくつ集まったところで言及できるようになるわけがないではないか。地理学以外の(人びとの生活に係わる)学問・研究分野でも同様な不整合が存在している、と私には思えるからである。まさmにこの点こそが、何故スイスのような書きかたの教科書が日本で在り得ない、と私が思う、もう一つの理由である。このような書きかたのできる人が、「地理学」界に、はたして居るのか?ということである。もし居るならば、そういう教科書が一つや二つあってもよいではないか。しかし、在りそうにない(全部を調べたわけではないから、断言はできないが・・・。文部省の規制があるからか?そうだとしても、必ずしも、そういう「外圧」だけとは思えない)。もともと、長年にわたり、「地理を学ぶというこ」=「我が国土について知ること」=「我が国土についての地理学的諸知識を《習得》すること」=「諸知識を辞書的に収集すること」で何ら疑いもせず済ませてきてしまい、「地理を学ぶこと」の「意味」について、何ら考えられてこなかったのだ。それはすなわち、書く側に、何の「反省」もなかったということになる。教えられる側は、つまり子どもたちは、意味も分からないまま(現実と不整合のまま)やみくもに、字面のとおりに《勉強》させられてきたのである。そこには本来の「学習」は存在しない。
   「勉強」の元来の意味は、商人が「勉強しておきましょう」と言うようなときの「勉強」の意であるという。
   その語が、「自らへ問題を課す」というような自制的な意を込めた「学ぶということの在りかた」の意に転じたものと思われる。
   そしてそれは、いつの間にか、多動的にして受動的なすがたになってしまった。つまり「学習」ではなくなった。


ウツギの花

おそらく、このように書くと、何も全てが現実の生活との係わりをもって語られる必要はないではないか、学問の成果は成果として、教えてよいではないか、何故ならそれこそが今人間の到達している最先端なのであって、教育の目的の一つは、その先端を将来更に先に延ばすことにあるのだから、と。そして、(自然)科学・技術(に係わる分野の教育)は、まさにこういう局面で実践されており、人文科学の分野もこれに追随しようとしているように、私には思えてならない。
しかし敢えて私は、これは誤っていると言おうと思う。
何故なら、今の最先端とは、いかにどれだけ「人間としての」立場から遠く離れるか、と言う意味での先端でしかない、ように見えるからである。学問というものが、進めば進むほど鋭角化し、知識自体もより細部にわたるようになることはそれはそれで当然である。
しかし、そうなるまでの過程が忘れ去られ、ただ目前の状況から前へのみ、そうすることの意味さえ忘れてただ突き進むということ、そしてそれを最先端と思い込み平気でいられるということ、に対して私は疑義・異議を申し立てたい。過程を忘れるということは、人間としての立場から、どんどん遠くなってゆくことに他ならないからである。
そしてまた、このような人間としての立場からほど遠くなった、あるいは人間としての立場を欠いた見かたが平然と教えられる一方で、必ず、他人へのいたわりの心、だとか、自然を愛する心、だとか、はたまた「道徳」だとかが、これまた平然と教えられるのが常だからである。考えてみるまでもなく、こんな論理的に矛盾するはなしはない。いったいどうやったら人間としての失ったものの見かたに、人間的なるものを継ぎ足すことができるのだろうか?
私たちは、まずもって人間なのだ。これは疑いようのない事実である。事実以前のはなしである。だから、「人間的な」とか「人間として」とかいうことを、形容詞のごとくに、後から追加しあるいは付加すればこと足りるとするような論法は、私には我慢がならないのである。それは「誤魔化し」であり、確実に誤っている。
言いかたを変えて言えば、いかなる最先端であろうとも、それは人間の為してきた営為の一環として在るのだ、との認識をもつ必要があるということだ。私たちは、常に、それを問う必要がある。私が、現実との、あるいは、今との係わりを問うのもその故だ。そしてそれは、私が現実との係わりを持たざるを得ない建築という職分に係わっているからではない。それが、本質的なことだからである。

「地理」の教育において、かなり昔から、指折り数えて知識を詰め込むのではなく、「『地理』を捉える」教育が行われていたならば、現在のわが国のような状況、すなわち「地理」が「生活:暮し」と無縁な状態、あるいは「それはそれ、昔は昔、今は今」というがごとき事象への対し方にはなっていなかったのではないか、そう思うのはいささか短絡的だろうか。
なぜなら、単に学校の成績のためとしてではなく、「生活してゆく:暮してゆく」上での「常識」となっていたならば、つまり、ごく自然にその「捉えかた」でものが捉えられるようになっていたならば、現在のような状況になる以前に、誰もが当然のように正当にして正常な批判力を行使したと思うからである。
然るに、バラバラの知識を教えることによって、「ものごとをバラバラにして捉える方法」を教えてしまったのである。この修復は大変である。
このような傾向は、今、全ての学問領域で見られる。ものごとを数え上げられるようなかたちに分解し、そうして得られる《知識》を数え上げることで、ものごとが分った気になってしまう。そこでは人間が喪失する。数え上げることができるような事項をいくつか取り出すという操作を施すとき、実は、その取り出し残されたところにこそ、人間の真実があるからだ。事項と事項の「間」にこそ、人間の本当の姿があるのではないか。
なるほど、一歩譲って、ものごとについて語るときには、いくつかの事項を軸に語るしかないのは認めるとしよう。
しかしそれは、あくまでも、「何かを語るために」見出した事項に過ぎないのであって、決して、ものごとがそれらの事項によって成り立っているということを意味しているのではない。それを多くの場合、取り違えるのだ。肝心なのは、「何を語ろうとしたか」「何を見たか」なのである
全く同様に、何故にそれらの事項(だけ)で見るような「癖」になったのかを省みずに、それらの事項がはじめから当然のように在るのだと思い込み、平気で居るのも誤りである。それはいわば、天空の星を見るに、星を見ずに星座を見る見かたに他ならない
こうしてみてくると、今の世のなか、ものの見かた、捉えかたが基幹である、という当たり前なことが、いかに忘れられているかが、空恐ろしいほど浮き上がってくる。言うなれば、「間」の抜けた、あるいは「間」の《抜かれた》、デジタル思考が横行しているのである。事項を指折り数え(digital の原義)、その総量でものごとが分る、というのならば、サン・テグジュペりではないが、辞書でたくさんである。
それ以上に、教育(小学校から大学まで)の現状の空恐ろしさもまた、目に見えるかたちで見えてくる。今、教区は、そのどのステージにおいても、その場限りでは「知識豊富な」、あるいは、ある限られた範囲についてのみ「知識豊富な」、そうであるがゆえに「『間』抜けな」見かたしかできない人間をせっせと養成していると言ってよいのではなかろうか。だから、「教科書」においても、そこに盛られる「知識」の質・量だけが論じられ、それが「間抜け人間」育成書になってしまっていることは全く省みられない。あるいは、論点にされることをきらい、意図的にそのように仕向けられ、仕掛けられているのかもしれない。

先日、某国立大学付属高校の先生たちと話す機会があった。いわゆる有名大学合格率の高さで有名な高校である。かねてから疑問であったことを訊ねてみた。彼らは、その有名大学で何を学ぼうとしているのか、何をしようと選ぶのか?ところが、彼らはほとんど、特に何かをしてみたい、というような「関心のあること」を特に持っていないのが特徴なのだ、という答えが返ってきた。彼らの「選択」は、全く、単に自分の(成績の)「点」に拠るのだという。これには、ある程度は予想はしていたが、驚くというよりあきれて返す言葉もなかった。このデジタル思考に秀でた「間」抜け人間たちは、いずれの日にか、その多くが「役人」として要職にゆき、絶大な権力をもつべく予定されているのである。とんでもない悪循環・再生産が行われている、ということだ。
そして私たちは、その「抜かされた『間』」やむを得ず放り出され、不特定多数として十把一絡げに《まとめて》数え上げる対象にされてしまうのである。というのも、私たちがあまりにも多種多様、十人十色であるため、かれらのデジタル能力の外にはみ出してしまい、そのままでは数え上げることができないからである。もちろん、彼らにとってそれはムダなことだから、数え上げようとする「努力」もしない。
今私は、私たちはやむを得ず放り出され、と書いた。しかしそれは、彼らの視点から見てのはなしであって、私たちにとっては、それはあたりまえだ。やむを得ずどころか、十把一絡げにされることの方こそが、私たちの「望まざる」すがたなのだ。
私たちは、やむを得ず、そうされて黙ってきた。なぜなら、指折り数えることのできない世界に居る私たちにとって、指折り数える、指折り数えられることのみを良しとするやりかたに対し、さしあたって、打つ手が見つからないからである。
指折り数えられるものしか分らない、分ろうとしない、そういう人たちに、指折り数えることのできないものごとを、ものごとが厳然として在ることを、どうしたら、分らせたらよいのだろうか。「『間』の存在」を分らせたらよいのだろうか。はたして、「『間』抜け」の人に「間」を分らせることができるのだろうか。
しかし、私たちは、ついうっかりと、彼らに抵抗しようとして、数え上げることのできないものを、数え上げてみようなどという気を起こして、彼らの土俵に引き込まれて失敗を繰り返す。
私たちのどこかに、未だに「数」に対しての「絶大なる信仰」が巣食っている
からではなかろうか。
そして、よく考えてみると、そのような「信仰」は、はじめから私たちの中に在ったのではなく、後から私たちの中に植え付けられたものであることに気が付くはずだ。
何が、誰が植え付けたのか。その一つが、そしてその最たるものが「教育」、特に「初等教育」であることは、紛れもない事実である。
余談だが、このごろの小学生は、高学年になると大概腕時計を持っている。その大半以上がデジタル表示である。小学生だけではなく、<大人でもそうらしい。心配性の私は、また心配したくなる。「時」に対する見かたが変ってしまうのではないか、と。
永遠に続く「時の流れ」:「時間」という捉えかたがなくなって、「時間とは時刻の集積であるという捉えかた」が先に来るようになるのではないか(既にそのような気配が感じられる)。
そもそも、私たちには、「時の流れ」という感覚があったはずだ。「今」と「一瞬前」と、「一瞬後」と、そして「その前」、「その後」へと、延々と、決して絶えることなく連続的に続く「流れの感覚」があった。それをなぞらえるものとして、針の回転運動による時計が考案された。砂や水の流れにそれをなぞらえた。
それは、私たちの感じている「時の流れ」そのものではないが、それをなぞらえたものであった。
そういう意味で、このような表示のしかたをデジタルに対してアナログ:なぞらえる表示と言うのである。なぞらえる表示のとき、「時刻」というのは、あくまでも「便宜的」なものなのである。「時刻」が先に存在するのではない。「時の流れ」が先ず存在する。「時刻」は、あくまでも「便宜」のために設定されたのである。
このことが忘れられ、私たちの時間が、この便宜的な「時刻」によって左右されてしまうような、いわば「逆転現象」が当たり前になってしまうのではないか、というのが、私の「心配」なのだ。なぜなら、そうなると、それはますます「それはそれ、今は今、昔は昔」的な思考の隆盛に拍車をかけることになる、と思うからである。ますます「『間』抜け」になってしまうと思うからである。


ジャガイモの花

私が今回「地理」の教科書の話から始めたのは、もちろん、別段「地理」「地理学」に他意があったからではない。建築:人が建物をつくる、という営みにあたって、人は、その生きる:暮す「地」の「理」を弁えることが必須と思うがゆえに、話が進めやすかったからに過ぎない。
私が言いたかったのは、私たちの「ものの見かた」が、私たちを「取り囲むものごと:surroundings 」が、あるいは「そのつくられかた」「語られかた」が・・・その全てが「『間』抜け」な状況になっていること、それに気付いていないこと、気が付かなくて当たり前と思われていること、更にそれを推し進めようとしていること、「この空恐ろしさ」について言いたかったのである。
ものごとを指折り数えるその指の隙間から、誰かがつくった枠組でものごとを見るその枠組から、私たちの本当の姿がこぼれ落ち、捨てられる。この「空恐ろしさ」を言いたかったのである。
では、どうしたらよいのだ。いったいどうしたら「『間』抜け」を「『間』抜け」でなくすることができるのだろうか。

それとも、こんなことを思うのは「馬鹿げている」のであって、《現実》に逆らわずに《素直に》世の大勢に従うのが《利口》というものなのかもしれない。
しかし、たとえ《現実》に逆らうことになったとしても、「私自身」には逆らいたくない。《現実》に心を逆なでしてほしくない、ということに、結局は行き着いてしまう。

どうしたら、私たちは「『間』抜け」でなく在り得るのか。『間』を抜かされて扱われることに抵抗できるのか。


あとがき
原文の饒舌な個所を直しましたが、それでも長くなりました。
最後までお読みいただき有難うございます。


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-32

2016-05-13 09:56:37 | 「学」「科学」「研究」のありかた


先回から大分時間が経ちました、「続き」を載せます。      *************************************************************************************************************************

Structural details of Wealdens  

Wealden 形式を特徴づける二階部分の前面への跳ね出し一体屋根は、当初から存在するが、初期の事例のいくつかには、細部の架構法や、木材の継手・仕口の点で、Wealden 形式と見なすことに躊躇う例がある。Wealden の中央部の小屋組には、通常とは逆に、wall plate :桁が、の間ではなくの上に置かれる事例が普通に見られる。
   註 wall plate を桁と訳しています。下掲の fig83 を参照ください。
     梁の上に桁を置くというのは日本の折置組、つまり、先ずで承け、その上にを架ける方式、
     wall plate :桁の間に置くとは、京呂組:先ずに架け、その上にを架ける工法を指している、と解しました。
そこでは、hall の表側の壁を越えて伸び、はそこに載せ掛けられるので、hall の前面を横切る形となっている。
   註 この部分の文意は、日本の「出桁(だしげた、でがた)づくり」に相当する技法のことと推察します。fig80bfig81 参照。
当然、この技法は背面でも使われる。そして、このいわば初期の技法は、Wealden 形式の架構で使われ続けている。しかし、14世紀後期から15世紀ごく初期の Wealden では、この技法が建物の他の部分でも、適宜に用いられている。fig79CHART HALL FARMHOUSESANDWICH 近郊の ASH にある UPHOUSDEN FARM では、柱が横向きに据えられている。これは、桁と梁の享け台になる部分を広くするためと考えられる。
   註 これは、fig79 桁行断面図の左から2本目の柱のような例を指しているものと解します。
しかし、この2例に見られる方法は、一般的ではなく、後期の Wealden 形式の建物で、架構上の問題を解決するために採られたいろいろな方策の一つに過ぎない。この方策は、通常は hall 中央部の軸組・小屋組に用いられるが、 fig80b の1399年建設の WEST COURT(在 COLDREDSHEPHERDSWELL )では hall 端部の仕切壁部分の軸組・小屋組でも使われている。 これらは架構上では些細な部分に過ぎないが、世紀の変わり目の頃になっても、Wealden形式の工法は、まだ形成期にあったことを示している。この工法が未完成であったことは、1400年近辺建設のWealden 工法の事例に、片側に aisle:側廊=下屋 のある建物が見つかっていることでも明らかである。
Wealden形式の後期の事例には、更にいろいろな技法が見られる。しかし、fig81 に見られるような一つの「典型」で建てられることは決してなかった。fig81 は、Wealden 形式の中でも最も洗練されている二つの遺構の中央部の軸組・小屋組の断面図である。fig81aTHE MANOR HOUSE は、前面と背面に(屋根:小屋が)跳ね出していて、必然的に、は延ばされたの上に設けられ出桁になっている。fig81bTHE OLD PALACE では、高く反り返った brace :方杖が使われている。これは、最も後期の open hall によくある架構を強調するための colonettes と同趣旨の装飾の一と考えられる。  
   註 colonettes :A small, relatively thin column, often used for decoration or to support an arcade.
この例では、の下に設けられた腕木上に置かれ、屋根勾配は前後で異なっている。これは、小屋の眞束が、小屋組:屋根の中央ではなく、hall の中央にくるように設置されているからである。
   註 腕木で承ける方策が、なぜ片側だけ採られているのか、分りません。
hall と二階建部分との接続法には、各種の方策が採られている。hall二階建て部分とを、一つ屋根の下で前面に跳ね出すWealden 形式のつくりは、建屋をすべて二階建で造るようになるまで続いている。Wealden 形式のつくりで総二階建の一つの事例が、STAPLEHURSTLITTLE HARTS HEATH の調査で確認された1507年の建設の建物である。これは、総二階建建物の最も初期の事例の一つで、おそらく総二階建住居の「効能」がまだ十分に理解されていなかった頃の建設と考えられる。







                                                この節 了      ************************************************************************************************************************* 

 

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九州の地震に思う-3・・・・・被災建物の様態

2016-05-01 11:11:21 | 近時雑感

桐の花が咲いています。

新聞やTVの写真・映像を見て感じたことを記してみようと思います。
現場の実際を見ていませんので、誤解があると思います。その点ご了承ください。

私の印象に残ったことを順不同に書きます。[文言補訂 15.25]

1.古いと思われる建物で、を使い、木舞土塗壁で仕上げた建物、が意外と少ない。
      差物・差鴨居も見かけなかったように思います。
  縦胴縁を設け、筋交い貫板:厚12㎜程度か)を張り、木摺・メタルラス張り・塗り壁仕上げが多いように見受けられた。
  おそらく、1950年代以降:戦後に改築あるいは新築された家屋が多いのではないだろうか。
  旧いと思われる瓦葺き建物に、いぶし瓦が少なく陶器瓦が多いように見受けられた。これも、戦後の改造・新造が多いことを示唆している。
  つまり、建築基準法制定後の建築が大部分である、ということになる。
      かつて(20年ほど前)、熊本大津町の辺りを訪ねたとき、旧いな、訪れてみたいな、と思う集落や建物が少ない印象を受けたことを覚えている。
      これは、瓦屋根の普及が著しいことから見ても、一帯が、「先進地」であるからなのだろうか?

2.新しい建物には、建築面積が小さい総二階建の家屋が多く(ゆえに縦長の立体が多い)、形体を維持したまま転倒している例が多いように見受けられた。
  それらは、基礎ごと転倒している場合、基礎から外れ、土台から上が転倒している場合、の二様があるようである。
  いずれも、一見、架構自体:柱・梁に損傷が生じたようには見えない。
  こういう転倒は、縦長立体ゆえの挙動 の影響が大きいと思われる。
  この挙動を誘発したのは、基礎に建物が緊結されていたからではなかろうか。緊結されていなければ、建物は基礎上を滑ったと思われる。
  かつて、阪神・淡路地震で、淡路島で実際に見た記憶がある布石の上を滑っていた)。
  基礎に緊結されていると、土台より上の立体が、緊結されている土台を基軸にして転倒するのである。どの位置の土台が基軸になるかは、地震次第。
  そのとき、おそらく多くの場合、アンカーボルト部で土台が割裂しているのではなかろうか。
  そして、地盤が軟弱のところでは、基礎ごと転倒に至ることになる。

  なぜ、建屋が形状を維持したまま転倒するのか。
  多くの転倒事例は外壁面に開口部が少なく、多分、一階、二階が同一面で立ち上がり、各面の壁部分が多いからではなかろうか。

3.古い建築面積が大きい二階建の場合(ゆえに、横長の立体になる)、一階部分が破砕し、二階部分がその上に落下している例が多いようである。
  同じく古い平屋建ての場合では、軸組部が破砕し、小屋組が瓦屋根ごとその上に落下している例が多いように見える。
  これは、破砕部分:下部に比べ、その上部の重さが大きく、上部に生じた挙動・変動下部に生じた挙動・変動の差が大きかったことに拠ると思われる。
  しかも、二階部分はおそらく多数の部屋が設けられているだろうから(つまり間仕切り壁が多い)、一階に比べ、立体としての固まり具合が強いはずで、
  ゆえに一階よりも変形しにくい。同じく小屋組は、切妻も寄棟も、下部の軸組部よりも立体としての固まり具合が大きい。 
  その結果、大きな揺れが生じると、変形しにくい上部変形しやすい下部を押し潰す格好になるのだと思われる。
  RCの建物で、いわゆるピロティ形式の一階が潰れている例が多々見られたが、それも同じだろう。
  これらの事例は、端的に言えば、上下が一体になっておらず、いわば積木を積んだような形になっていた、と言えるだろう。

4.建物の耐震とは、地震にともなう挙動を止める:抵抗することではなく、挙動に耐える:持ち堪えることである、とあらためて思った次第です。
  そして、そのための策としては、建物全体を一つの立体架構として考えることが必須ではなかろうか。
  それはすなわち、いわゆる「伝統工法の考えかた」に他ならない。

5.今回の報道でも、地震後も健在の事例の写真、映像が少なかったように思います。
  被災事例、健在事例を同等に(客観的に)扱う報道がほしい、といつも思う。そこから分ることは測り知れないからです。
    人が犬を噛んだならニュースになるが、イヌが人を噛んだのではニュースにならない、という例え話を聞いたことがあります

以上、きわめて大雑把な感想を書かせていただきました。

現地に実際に行かれた方がたの詳しいお話をうかがいたいと思います。

   追記 [5月3日 9.35追記] 
   以前の記事「とり急ぎ・・・『耐震』の実際」もご覧ください。    
コメント (2)
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