建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

なぜ「継手・仕口」を忌避するのか

2008-07-31 14:52:00 | 日本の建築技術
先日、30代の「建築士」が、「継手・仕口を加工できる大工さんはいない、だから、継手・仕口を用いる設計をしても意味がない」と真面目な顔で語るのを聞いた。
これと同じような発言は、「建築を専門とする方々」から、私は何度も聞いている。
試みに、身近にいる「建築士」に日本の建物(当然木造建築)の「継手・仕口」について、訊ねてみてほしい。
おそらく、「建築士」の多くが、「それは昔のやりかたで、今は継手・仕口をつくれる大工さんが少なくなった、今は、それに代って丈夫な金物がある・・・」と言うに違いない。
しかし、これらの「建築士」の言には、本当は、「ある言」が隠れ潜んでいる。
それはすなわち、「そういう時代だから、継手・仕口を知っていても意味がない、だから継手・仕口について知る必要はない、ゆえに私は知らないし知るつもりもない・・・」という言だ。

しかし、いくつかの設計を通して、現在でも「継手・仕口で建物をつくれる大工さん」は世の中にたくさん居られることを、私は身を持って知った。
その大工さんたちは言う、「継手・仕口を使ってつくる設計がない、少なくなった」と。多くの「設計士」の言うこととは、まるっきり反対なのだ。
いろいろな地域・場所で大工さんに会うたびに、そのあたりのことについて尋ねてみると、ほとんどの大工さんが、「継手・仕口でつくる仕事をさせてくれない。そういう機会がない」と語る。

そこで気がついた。
多くの「建築士」の「発言」は、《為にする発言》なのだと。
簡単に言えば、自分が継手・仕口を知らないことについての「言い訳」、更に言えば、「継手・仕口を使う設計はできない」ということの「白状」に他ならないのだ。
もしも、「私は継手・仕口について弱い:詳しくない」と言う人がいたら、むしろ、その人は類い稀な「正直な人」。


私は、「継手・仕口」は、、日本に於いて(日本という環境に於いて)醸成された建物づくりの「技術」であり「思想」であると考えている。そこには、日本という環境に於いて生き、暮してゆくための「知恵」が凝縮されている、と言っても過言ではない。単なる「思い付きではない」ということ。

ではいったい、なぜこんな状況、すなわち、自国で長い年月をかけて醸成された技術・思想をないがしろにするような状況が生じてしまったのだろうか。

これについては、すでにたびたび触れてきたが(下註)、最大の「原因」は、明治以来進められて来た「近代化」策にある。「近代化」策は、当初は専ら「入欧」策だったが、第二次大戦後はそれに「米国迎合」策が加わる。
この「国策」は、それまで日本の建物づくりを担ってきた「実業者」すなわち大工職をはじめとする「職人諸氏の存在」と「彼らの成し遂げてきた蓄積」を無視して進められて来たこともすでに再三触れてきた。

当然ながら、「近代化」策を実施する担い手の養成を目的とした「教育」においても、それまでの「蓄積」は無視された。と言うより、「積極的に放棄する」ことを目指した、と言ってもよいだろう。
この教育の《伝統》は、現在に於いてもなお《健在》で、長い歴史を有する工法については、まったくと言ってよいほど触れられない(「建築史」という教科はあるが、そこで「工法」「工法発展の経緯」はもちろん「継手・仕口」について触れられることは先ずない)。

そればかりか、建築にかかわる法令もまた、「近代化」策の延長上で「体系化」された。
現行建築法令では、日本の建築技術の蓄積は、まったく無視・放擲されている。「継手・仕口」に拠る工法を知る実業者たちは、法令によって、その腕を奮うことを禁止されてしまったのだ。
しかし、建築法令の差配してきた時間はやっと半世紀、これに対して、日本の建物づくりの歴史は、そんな半端な時間ではない。この事実に対して、なぜ、皆が平然としていられるのだろうか?

それは、この「事実」「経緯」が、世の中に対して「隠蔽されている」からだ。
あたかも、昔から、「建築法令」があった、かのように喧伝されているからであり、あたかも、「建築法令」が絶対的「正」であるかのごとくに喧伝されているからである。
その最もよい例が、「軸組工法」を「在来工法」の名で一くくりにする呼び方である。これは、「かつての工法」と「法令の規定する工法」では大きな差異があることを、一般の人の眼から隠蔽する上で「絶大な効果」があった。

だから、若い世代の「建築士」諸氏が、「継手・仕口」について知る機会もなく、ひいては、知らなくて当然、知る必要もない・・・と考えるのも、むしろ当然と言えるのかも知れない。
しかし、建築の仕事に関わりを持っていながら、自国の建築の歴史、自国の建築技術について、無知で済ます、無知で平然としていられる、という国は、おそらく日本だけと言ってよい。


以前、「日本の建築技術の展開」で、日本の建築工法の変遷を私なりに見てきた。その中では、特に「継手・仕口」に焦点をあてた書き方はしなかった。
そこで、次回からしばらく、一般の方々にも通じる書き方で、「継手・仕口」に焦点をあてながら日本の建築技術の変遷をあらためて見てみようと思う。と言うのも、この件に関する限り、「専門の方々」も「一般の方々」と何ら変りはないと考えてよさそうだからである。

   註 「『実業家』・・・・職人が『実業家』だった頃」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-1」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-2・・・・『在来』の意味」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-2 の補足・・・・『在来工法』の捉え方」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-3・・・・足元まわりの考え方・基礎」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-3の補足・・・・基準法以前の考え方」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-4・・・・なぜ基礎に緊結するのか」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-4の補足・・・・日本建築と筋かい」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-5・・・・耐力壁依存工法の誕生」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-5の補足・・・・筋かいと面材の挙動」
      「『在来工法』はなぜ生まれたか-5の補足・続・・・・ホールダウン金物」
      「日本の『建築』教育・・・・その始まりと現在」
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岩手県沿岸北部地震・雑感・・・・「震度」と「被害」

2008-07-26 19:29:51 | 地震への対し方:対震

[文言更改 7月27日 12.08]

7月24日深夜の地震:岩手県内陸沿岸北部を震源とする地震、私のところでは、舟が揺れるようなゆったりとした揺れが、結構長く感じられた(「震度3」と発表された)。
すぐにTVをつけると、岩手で「震度6強」を記録したという。

朝になって、どれほどの被害があったのか、とTVを見たところ、怪我をされた方はかなりあったようだが、建物では外壁や天井の剥落程度で倒壊などはないらしかった。
これは数日後の調査でも同様で、最終的にも建物倒壊の報告はない。

気象庁の「震度」と「震災被害」の相関についての「震度階級関連解説表」では、「震度6強では大規模な住宅被害:耐震性の低い木造住宅では倒壊するものが多い」と説明されているが、今回の地震では、「震度6強」であるにもかかわらず建物の倒壊被害がなく、実態と「解説」がかけ離れていたことになる。

このような「現象」が生じたことの「理由」については、二つ挙げられている。
一つは、先の「震災被害と震度の相関解説表の記述」自体の問題。
現在の「解説表」の記述内容は、「阪神・淡路地震」の被災状況をもとに改訂されたものだったらしいが、「中越地震」、「福岡県西部沖地震」等それ以後の各地の地震における家屋の被害情報や地震波を再検証し、建物が損壊する詳しい仕組みなどの研究成果も交え、ここで改めて見直しをはかるという。

   註 この点については、気象庁発表の
      「7月24日00時26分の岩手県沿岸北部の地震について(第4報)」参照 

もう一つ挙げられている「理由」は、今回の地震の震源が、地表から100km以上というとてつもなく深い所にあり、「その結果、建物に対して被害を与えることが少ない短周期振動が卓越していた:いわゆるキラーパルスではなかった」からだ、というもの。
この説明は、私にはよく分らなかった。
というのも、先日の「岩手・宮城内陸地震」の震源深さは僅か10kmでありながら、やはり「短周期振動が卓越していた」と言われているからだ。
震源の深さと地震の揺れの「周期」とは、相関しているのか、していないのか、よく分らないのである。

これらのことを含めての私の感想

◇感想-1
現在各地で行われている「耐震補強」は、建物の各方向に(間口方向、奥行方向それぞれに)、「阪神・淡路地震の際に建物にかかった力と同程度の大きさの外力に耐えることのできる『耐力壁』を設ける」という方策の筈。それがいわゆる「震度6強の地震に耐える補強」。
ところが、今回の地震の強さ:力の加速度は、阪神・淡路をかなり上回っていたという。それでいて建物倒壊例はない。
一方で、先の気象庁の報告だと、現地で「這って歩けない」「歩けないからベッドにしゃがみこんだ」などの証言が得られ、それは明らかに「震度6強」相当の揺れであるという。
そして、短周期震動が卓越していたから、建物倒壊はなかったのだ、と「解説」される。

ということは、これが、キラーパルスが卓越している地震だったならば、「阪神・淡路地震対応の耐震補強」では耐えられず、多大な建物被害が生じたことになる。
そうなると、今行なわれている「耐震補強」は、はたして信用できるものなのか、はなはだ疑問に感じざるを得ないのである。

要するに、現在なされている「耐震補強」策は、「建物が損壊する詳しい仕組み」についての「検証」が未だなされていない、わかっていないまま、立てられた策だということ。

もしも本当に地震に対するのであるのならば(「対震」)、「建物が損壊する詳しい仕組み」を先ず明らかにし、やみくもに「補強」をするのではなく、建物がキラーパルスに「共鳴しない策」を考える方が妥当ではないか、と考えたくなる。

◇感想-2
おそらく、日本のかつての工人たちは、度重なる大地震の様態が毎回異なることを体感していて(地震計などに拠ったのではなく、あくまでも「体感」し、自らの眼で「観察」したのである)、その「体感・体験・経験」に基づいて、「どんな地震にも一定程度対応でき、壊滅的な破損には至らない工法」(「耐える工法」ではない!)を考案するに至った、と考えることができるのではなかろうか。それが、いわゆる「伝統工法」、私の言葉で言えば「一体化・立体化工法」だったのだ。

私がそのように思うのは、阪神・淡路地震でも、先回および今回の東北地方の地震でも、しっかりとつくられた「一体化・立体化工法」による建物は、大きな被災を免れているからである。

   註 言うまでもなく、
     「近代科学」がなければものごとを理解することができない、
      などと考えるのは間違いだ。
      それは、「近代科学」の誕生の経緯を考えれば自明である。
      同様のことは下記その他でも触れている。
      「『冬』とは何か・・・・ことば・概念・リアリティ」
      「鋳鉄の柱と梁で建てた7階建ての建物・・・・世界最初のⅠ型梁」
      「東大寺南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握」 

◇感想-3
現在行われている「耐震診断」の根拠もまた、「耐震補強」の前提同様、「建物の各方向(間口方向、奥行方向それぞれ)に存在する耐力壁の量が、阪神・淡路地震で発生したと同じ大きさの力に耐えられるかどうか」で判断する、という考え方。
しかし「耐えるべき」外力の大きさはあくまでも「阪神・淡路地震」同等のもの。もしもそれ以上の大きさの外力だったら不可ということになる。
ところが今回の地震は、力の大きさは阪神・淡路のそれよりも強大であった。もしも今回の地震の震動周期が長いものだったら、「耐震診断」自体も役に立たなかったはず・・・・・。

さらに、「一体化・立体化工法」の建物に、現行の「耐震診断法」を適用すると「矛盾」が生じる:実態に合わないことは、各地で指摘されている。
たとえば、滋賀県建築士会では、この「診断法」を「一体化・立体化工法」すなわちいわゆる「伝統工法」でつくられた建物に適用することの「危険性」を、周知徹底するように心がけているという。
滋賀県には、都会化してしまった地域に比して、「一体化・立体化工法」すなわちいわゆる「伝統工法」でつくられた建物が多いからだろう。

今回の地震は、現行の「耐震診断」「耐震補強」に対して、そして何よりも現行の「耐震の考え方」に対して、「警告」を発してくれたように感じるのは私だけだろうか。

◇感想-4
先回と今回の東北地域で起きた地震で目立ったのは、天井の剥落。ボード類を打ち上げた天井が、各所で落ちている。
もっとも、最近、地震でなくても、こういう仕様の天井の落下事故が多いようだ。

私もこういう仕様の設計を、ある時期までは、あたりまえのようにやっていた。
しかし、あるとき、スギの無垢板の打上げ天井の現場に立会い、二度と打上げ天井はやめようと考えた。それは、打ち上げる作業の大変さを目の当たりにしたからである。
上向きで、材料を支えながら釘を打つという作業には「無理」がある。軽いボード類でもそれは同じ。そういう無理な姿勢を強いる必要はないはずだ。

   註 軽く脆いボード類の場合、少しの震動でも、取り付け孔は
      容易に破損する。多分それが天井落下の原因だろう。
      もしかすると、釘・ビスが劣化していたかもしれない。
      プールなどだったら、たとえステンレス製と言えども錆びる。

かつて、日本の工法では、原則として、作業は「下向きで行なう」、つまり、「普通の姿勢で行なう」のがあたりまえだった。
「竿縁天井」は、そのよい例だろう。先ず「竿縁」を渡し、その上に「天井板」を敷き並べる。上を向いての作業は先ず必要ない。
天井板に絵や彩色が施される場合も、下で作業をして、できたものを上へ持ち上げ、「支持材」:「竿縁」や「格子縁」上に載せる。むしろ、絵師には、上を見上げたときの姿を想像して下で作業するコツの方が問われた。

第一、「仕上げ材」を「支持材」に「載せる」方が、確実に安全である。「支持材」自体が外に表れ、それをいい加減に設置することはあり得ないからだ。

では、このような打上げ天井が流行ったのはなぜだろうか。
それは、「作業工程」を度外視し、専ら、出来上がりの「見えがかり」だけを重視する設計:「書割り」で恰好をつける設計:が「一般化」してしまったからだろう。[文言更改 7月27日 12.08]
「材料」と「作業工程」を考え、そして「出来上がり」も格好よく・・・・、これを考えるのが「設計」であり、「デザイン」の本義・原義ではないだろうか。
明治年間、「建築学講義録」を著した滝大吉の、「建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問」という言葉を思い出す。

   註 「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃」参照

旧 帝国ホテル 図面補足・・・・ポーチ~ロビー断面

2008-07-23 12:31:11 | 設計法

[文言更改 19.59]

「旧帝国ホテルの実証的研究」から、「ポルト・コシエ(ポーチ)」から「エントランス・ホワイエ」~「ロビー」へと至る断面図を転載する。
なお、分りやすくするために、加工を加えた。
先回の「ポーチ~ロビーまわりの平面」と照合のほどを。


先回、「・・・人はきわめてスムーズに、外界からメインロビーへと誘われ、それとともに、『外界の人』から『ホテル内の人』へと、『気分』が切り替わる。
私は、そのとき、その絶妙さに呆気にとられたことを覚えている。
そしてそのとき、各所の大谷石による装飾などは目に入っていなかったことも覚えている(より正確に言えば、目には入っているが、その個々に目を奪われることはなかった、と言う方がよいだろう)。
この絶妙な空間感の切り替えは、主に、階段と天井高の微妙な切り替えによって生まれていると言えるだろう。・・・」と書いた。

断面図の床の切換え箇所にA~Dの符号を付した。段数の少ない箇所は、階段上に、段数の多い箇所では、階段下と上に付している。
また、天井の切換え箇所には、a~cの符号を付けた。

ポーチからロビーに至るいわばダイナミックな空間の連続性をつくりだしているのは、床の切換え箇所に対しての天井切換え場所の位置の設定にあると言える。
すなわち、A~B間のaの位置を試みに右左に移して「効果」がどうなるか験してみると、図のaの位置が妥当であることが分る。
右に寄りすぎる、つまりBに近くなると、歩いている人の目線は下向きになり、エントランス・ホワイエより先:ロビーの方へは向かなくなる。
重要な「判断材料」は、空間内を歩いている人の目線を、「どの方向に向けるか」、なのだ。

bの位置がこの図の位置よりも左:歩く人にとって手前:にあるとどうなるか。
ロビーが階段はもとよりエントランス・ホワイエまで飲み込んでしまい、ロビーへの「期待感」も湧かず、したがってロビーに至ったときの「感激」も多分生まれないだろう。

このように、A~D、a~cの位置をいろいろと変えて「効果」を検討してみると、やはり、多分、この図の位置に落ち着くと思われる。
おそらくライトは、スケッチの段階で、この作業を繰返し行っていたに違いない。そして、それがまた「平面図」に反映されているのだ。

この作業は、平面図だけ、断面図だけでは行えないのは言うまでもない。
要は、「平面図」も「断面図」も、「空間」を二次元的に表示するための「手段」に過ぎない、ということの認識。
つまり、「自分を囲んでいる空間」を認識すること、「その空間はどうあるのがよいか」「どのような空間体験をするのが妥当か」・・・・を想像すること、それを積み重ね、より reality:「実際・現実」に近づける、これが多分ライトのスケッチの方法だったに違いない。

では、ライトは、どのようにしてそういう「方法」に至ったのだろうか。
これはあくまでも私の勝手な想像に過ぎないが、多分、「日常の中で見聞きし感じていること」を、常に「意識化」していたからではないだろうか。
その積み重ねから、「人」と「その人の在る空間」との関係に対して、そして「空間に於いての人の動き」に対して、ライトなりの見方・観方・考え方すなわち「思想」が醸成されていったのだと思われる。

書物などでは、建築の図面は、柱や壁などが黒く描かれるのが普通である。ある人が、設計には、「黒い部分」で考えるか、「白い部分」で考えるか、二つの方法がある、と語っているのを聞いたことがある。
現実をみると、たしかにそういう二分法もないわけではないが、ライトの場合は(アアルトも多分)、そのどれでもなく、「白い部分のありようのために黒い部分を考える」という方法である、と言うべきだろう。

しかし、考えてみれば、人が建物をつくるようになって最初に行なったのは、この方法のはずである。「原初的な思考法」はまさにこれなのだ。
だから、白い部分からか、黒い部分からか、という見方・発想は、「近代科学主義的思考」:「ものごとを分解しなくてはいられない思考」が《普及》してからのものと言ってよさそうだ。[文言更改 19.59]

ライトの考えは、よく「有機的建築」という評語で語られる。これがまた話をややこしくしている。
もっと単純に、ライトは「人の原初的な思考法・発想にならっているに過ぎない」、と言った方が、分りやすいのではないか。
つまり、建築人間の目ではなく、普通の人の目でものを見る方法の実践。ところがこれが難しい!

再び、設計の「思想」・・・・旧・帝国ホテルのロビーに見る

2008-07-21 03:34:58 | 設計法

[説明追加 7.50][文言補足 8.00][文言修正 8.11]
[註記追加 7月22日10.53]

言うまでもなく旧・帝国ホテルはF・Lライトの設計。RCの躯体をスクラッチタイル、大谷石等で被覆している。
設計は大分前からすすめられていたようで、1914年には設計案があったことがわかっている。
工事は1917年から行われ、1923年の9月1日に竣工、同日から営業開始。その竣工・披露式当日、関東大震災に遭った話は有名。そして、周辺の多くの建物が大きく被災したにもかかわらず、地震での被害はきわめて微小であった話も有名である(当時の耐震学者は、この事実について、触れていない)。なお、第二次大戦の末期1940年、隣地の空襲により延焼被災、同年末には修復。


建設地の「日比谷」は、「谷」の字の示す通り、地盤のきわめて悪い所。そのため建物全体は松杭で支えられていた。
今なら重要文化財に指定されて当然の建物だと考えられるが、戦後、地下水位の低下に伴い松杭の腐朽がすすみ、建物が波打つようになり、維持管理費を理由に、1970年の大阪万博を前にした1968年に解体されてしまった(エントランス~ロビー部分だけ「明治村」に移築されている)。
解体後今年で40年。したがって、いま40代以下の方は、実物をまったく観る機会がなかったことになる。

幸い、昭和47年(1972年)、明石信道氏による『旧帝国ホテルの実証的研究』(東光堂書店刊)が公刊された(340mm×265mm、総420頁の大型本)。
同書には、解体前に明石氏らにより実測作成された各部詳細図を含む実測図をはじめ、村井修氏撮影の各所各部の貴重な写真が掲載されており、往年の姿を一定程度知ることができる。

上掲の図と写真②~⑤は同書から転載。写真①は、同様の写真が同書にあるが見開きのためスキャンできず、二川幸夫氏の撮影写真を「フランク・ロイド・ライト全集 第四巻」から転載した。
なお、ロビー周辺の平面図の拡大にあたってはネガ・ポジ反転して作成した。こうすると、昔の「青図」のように、躯体ではなく、躯体により造成される「空間」が分りやすくなるからである。


当時、「帝国ホテル」と言えば、いわば敷居の高い場所。そう滅多に訪れることはない。まして若造には・・・。解体話が出始めていた頃、勇気を出して?友人と見学に訪れた。
敷地は日比谷通りを挟んで日比谷公園に面し、建物の正面入口は、公園側にとられている。
平面図で分るように、左右から張り出す「迎賓室」入口(平面図の26)の前を池に沿って歩き、ポルト・コシエ:porte-cochere 屋根つきの車寄せ:に到達する。車でのアクセスを考えているのかも知れない。

ライトのこの時代につくる建物には、「建築を業とする」という立場をはなれ、そしてまた「建築を観賞する」立場もはなれ、「普通の人:普通にホテルを使う人」の立場で接する必要がある。
何故かというと、とかく建築を業としたり、鑑賞する立場に立つと、どうしても、目の前にある個々の「もの」に目が行きがちだからである。
たとえば、帝国ホテルの場合では、各所の大谷石の装飾などに目が行ってしまう。

しかし、普通の一人の客としてホテルを訪ねるならば、それらそれぞれ個々にではなく、そういった「もの」たちによって生まれている空間そのもの:「自分を取り囲んでいる空間」を感じている筈だ。
これは写真を見る場合も同様で、どうしても目は写真画面の各所の「もの」に目が行ってしまうが、肝腎なのは、そういった「もの」で囲まれた空間を、写真から読み取ることだ。
これは、いかなる建物に接する場合にも共通の注意点だと思うが、とりわけライトの建物の場合は注意が必要ではないだろうか。

   註 先の書の写真を撮影した村井修氏は、先に紹介した
      前川國男設計の建物の撮影者でもある。
      村井氏については渡辺義雄氏の写真とともに以前に触れている
      (「建築写真・・・・何を撮るのか」参照)。
      このお二人は、「目の前に広がる空間」を撮ることにおいて
      きわめてすぐれた写真家である、と私は思う。
      残念ながら、最近の建築写真には「空間」を撮る例が少ない。
      設計者自身も、「もの」をつくることに《専念》する時代だから
      やむを得ないのかも知れないが・・・。
                             [文言修正 8.11]

「車寄せ」から三段階段を上がり建物内に入り、半円形の二段の登り階段を上がると、そこはエントランス・ホワイエ。両側にフロントがある(平面図の位置:6と標記:と異なる配置)。そして幅広の階段を数段、落差で1mほど上がるとロビー。
「車寄せ」から入口扉を開けたとき、たしか、ロビーの床面が見えたと思う。
エントランス・ホワイエからは、ロビーの床が確実に見える。そして天井は、ロビーの高みへと徐々に切り上がり、最後の階段を上がっている途中で、ロビーの大空間に飲み込まれる。
写真①は、ロビー床面の見え方から、エントランス・ホワイエに立ったときの目線の撮影と見てよいだろう(拡大平面図の①の矢印位置の貼り付けは誤り、エントランス・ホワイエ:階段の手前に置くのが正)。

つまり、人はきわめてスムーズに、外界からメインロビーへと誘われ、それとともに、「外界の人」から「ホテル内の人」へと、「気分」が切り替わる。
私は、そのとき、その絶妙さに呆気にとられたことを覚えている。
そしてそのとき、各所の大谷石による装飾などは目に入っていなかったことも覚えている(より正確に言えば、目には入っているが、その個々に目を奪われることはなかった、と言う方がよいだろう)。
この絶妙な空間感の切り替えは、主に、階段と天井高の微妙な切り替えによって生まれていると言えるだろう。天井の高さは、低い場合はおよそ8尺程度、この種の建物としてはかなり低い。
今回は断面図を紹介できないが、断面を見ると、階段と天井高の切り替え位置の微妙な設定が分る。

   註 この「微妙さ」「絶妙さ」は、
      ライトの「人の動き」に対する洞察の深さによるものと思われる。
      この「感性・感覚」は、A・アアルトに共通するものだ。
      なお、この「感性・感覚」は、日本の建物づくりにも見ることが
      できるように思う。それについては下記で触れた。
      「日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成・1」
      「日本の建築技術の展開-17・・・・心象風景の造成・その2」
      「日本の建築技術の展開-18・・・・心象風景の造成・その3」
      「日本の建築技術の展開-19・・・・心象風景の造成・その4」
      「日本の建築技術の展開-20・・・・心象風景の造成・その5」
      「日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6」 

   註 帝国ホテル風に、あるいは大谷石をライト風の装飾に用いる
      設計がその後多々見られるが、空間に同化した例は少ない
      のではなかろうか。
  
   註 出入口を入って直ぐの半円形の階段は、それが登り階段だから
      上がりやすく、スムーズに足が動く。
      同じ半円形に「降りる階段」を設けた建物があった。
      これは実に怖かった。
      登るときも降りるときも、目線の行き場がなく(焦点が定まらず)、
      足の位置を定めにくいからのようだ。この設計者は、多分、
      平面図上の《面白さ》だけで階段を設計したに違いない。
      この階段には、「危険」を示す黄色のテープが段端に貼られていた。     

歩みを続けてロビーに出たとき、背後に別な空間の存在を意識させられる。
一つは、今歩んできたエントランス・ホワイエの上にかぶさっているティー・バルコニー、そして脇へと登る階段。
「階段があった」という言い方は正しくないだろう。「その空間へ行ってみたいな」という気分に誘われた、と言う方がいい。気分は前方に、しかし、後方へ行ってみてもいいかな、という感じである。そこで振り返ってみたら上る階段があった、ということ。それはラウンジへの誘いである。写真②がそれである。

そういう気分の創出に効いているのは、ロビーに背後から射しかかる明るさの微妙な状態と言えるだろう。
その誘いに誘われてラウンジに歩むと、そこはロビーとはまったく異なり、気分がゆったりと落ち着く静かな空間。この変容にも驚く。下のロビーの様子を感じながらも、ゆったりと落ち着いていられる。まさにラウンジという言葉の有する本来の意味通りの空間がそこにある。
これは、下のロビーの様子が感じられるからこそ生まれる気分。もしも下の様子がうかがえないとしたら、何でこんな場所に来てしまったのか、と思うに違いない。
つまり、ライトは、このすべてを「お見通し」で設計をしているのだ。

なお、写真②で、下へ降りる階段が見えるが、これは階下のトイレへゆく階段である。[説明追加 7.50]

そして、各部に施される「装飾」は、この「気分の変容」、「空間の変容」を感じさせるための「所作」と考えると理解できる。「装飾」そのものに意味があるわけではない、逆に言えば、「変容」を強調・促すために「装飾」の様態が考えられている、と言えるだろう。
写真③がラウンジの様子。ロビーをはじめ、ここに連なる空間を、すべて感じとることができる。

ラウンジから更に少し上がると、ティー・バルコニーとギャラリーへ至る。その様子が写真④、写真⑤。写真④はティー・バルコニー、写真⑤は、ギャラリーとのつながり。平面図と照合しつつ見ると、納得がゆく。
ここも、下に見えるロビーとは別の世界。しかし、下の世界と隔絶しているわけではない。
おそらく、こういうところが「有機的建築」という評語を生み出した所以であろう。


とにかく、この帝国ホテルの建物は、実際にそこへ行かないと、その実態・様態を理解することができない例の典型と言えるだろう(もっとも、建物というのは、本来、そういうものなのだ)。
ライトの建物は、図面や写真だけでは、想像力を駆使しないと、誤解をかならず生む、と言っても過言ではない。
同じことはA・アアルトの建物でも同じ。ただ、アアルトはライトのような「装飾」を施さないから、《写真映りだけを大事にする》人たちには、「目の行き場がなく」、その空間造成の妙が、さっぱり分らないのではなかろうか。


今、明治村に、帝国ホテルのほんの一部が移築されている。そこへ赴き、前後の空間の存在を想像で補いつつ、空間体験を試みれば、ライトの「設計思想」を、僅かではあるが、垣間見ることができるのではないだろうか。

なお、日本には、ライトの設計思想を知るすぐれた建物が現存している。その一つが遠藤新氏が設計した「甲子園ホテル」、現在の「武庫川女子大学 甲子園会館」である。遠藤新氏は、帝国ホテル建設にあたり、ライトの意志をうけ、現場を差配し、ライトの「設計思想」を熟知し、また受け継いだ人である。
この「甲子園ホテル」のロビー、ラウンジもすばらしい(公開されている)。
遠藤新氏の設計した建物には、このほかに、自由学園、栃木県真岡市の小学校講堂などが現存していて、それらからもライトの設計思想をうかがい知ることができる(「日本インテリへの反省・・・・遠藤新のことば」参照)。[文言補足 8.00]

   註 「自由学園明日館」の内部は、
      「F・Lライトの付け縁:trim-補足・・・・trimは何のため?」
      写真を紹介している。
      この建物でも、ライトの「装飾(付け縁を含む)」の「意味」、
      ライトの建物に対する考え方、設計の思想を見ることができる。
                        [註記追加 7月22日 10.53]

設計の「思想」:補足・・・・コンコース、ロビー...いろんな用語

2008-07-18 10:25:23 | 論評
京都駅の話で「コンコース」について触れた。その話を書きながら、ある建物のことを思い出していた。
それは、新宿・淀橋浄水場跡を市街化する計画に際して、最初に建てられた高層ホテルである。1970年頃のことだ。
建物を見がてら、そのホテルの「ロビー」で人と会うことにした。

それにしても、あの「浄水場跡地開発地区」へ、新宿駅から地上を歩いてゆくのはきわめて難儀。目標が目の前に見えていても、そこへ向かって歩いてゆけばよい、というわけにゆかないのだ。
地上を歩いてゆくと、行く手は遮られる。まっすぐ向かうには、一階分下へ降りなければならない。そこから先、東西方向の道は地階レベル、南北方向は地上レベルという二段織りになっているからだ。
新宿駅を乗降する人の存在を考えたならば、駅からこの地へ向う東西の道を地上レベルに置くのがあたりまえの感覚のように私には思える。

それはさておき、そのホテルの「ロビー」は、私の「ロビー」観をくつがえすものだった。私には、それは、どう見ても「通路」、よく言って「コンコース」以外の何ものでもなかったのだ。

「コンコース」というのは、一般には駅で使われることが多いが、もちろん駅と限らなくてもよい。
辞書的な解説を加えれば、「コンコース」:con-course とは、人や川などが合流することを指すことから、道路などが集中する箇所、広場、駅や空港などの中央広場・ホールのことを言う。建築的には、いろいろな方向へ向う人の流れをさばくための空間、と言えばよいだろう。

   註 「ホール」:hall は、単に「大きな空間」という形体を示す語で、
      「〇〇〇用のホール」(たとえば「コンサートホール」)のように
      使用目的を示す語を付して使う必要があるようだ。

では、「ロビー」とは?
辞書的に言えば、「ロビー」:lob-by とは、建物の玄関:出入口近くにあって、誰でも自由に出入りできる休憩・談話用の広間:玄関広間(foyer)、休憩室・応接間など。
なお、foyer とは、休憩室、入口の間などの意でlobbyに近い意味。語源はフランス語の「暖炉」にあるらしい。普通、日本語では「ホワイエ」と書くことが多い。もっともこのカタカナ語は辞書にはない。

   註 「玄関」:仏教の用語。
      玄妙な(道理や技芸が幽玄で微妙なこと)道に入る関門。
      ⇒禅寺の方丈に入る門。寺院の表向き。武家の居宅で
      正面の式台のある所。⇒一般に、建物の正面に設けた出入口。
                               [広辞苑]
     
しかし、私が見たそのホテルの「ロビー」は、単なる「幅広の通路」で「コンコース」とも言い難かった。なぜなら、人の流れをさばいているわけではなく、さながら駅の「地下通路」のようだったのだ。
私同様に待ち合わせに使っている人が多くいたが、その人たちは、「人の流れ」を避けるため、所在なさげに壁際に立っている。そのあたりにはソファ・テーブルが置かれているが、そこに座ると、それはまさに駅のホームのベンチに座っているようなもの。目の前を人の流れが渦巻くから、落ち着かないのである。

通常、このようなソファ・テーブルの置かれる場所は「ラウンジ」:loungeと呼ばれることが多いのだが、lounge という動詞は「ぶらぶらする、・・・にもたれかかる、ゆったり横になる」というような意味。それが名詞に転じると、休憩室、休憩コーナー、待合室・・・といったような場所を指す語になる。
したがって、ぶらぶらできなかったり、ゆったりとした気分になれなければ、たとえソファやテーブルが置いてあっても、「ラウンジ」ではない。私がそのホテルのそれを駅のホームのベンチと思ったのも、そのせいだ。


「コンコース」「ロビー」・・・・といった場所・空間を示す名詞は、それぞれの語の本来の意味で明らかなように、「そこでの人の動き方:様態に相応した空間」を指していたはずなのだが、いまや、「内容を伴わない名前」だけが勝手に幅をきかしていることの方が多い。「ロビー」だとか「ラウンジ」だとか名をつければ、「ロビー」や「ラウンジ」ができたかのように錯覚してしまうらしい。
つまり、これらの語の使い方は、かなりいい加減、名が体を表していない場合が多いということ。おまけに最近は「アトリウム」などという語も使われる。

   註 「アトリウム」:atrium は、ローマの時代の建物様式。
      中央部に設けられる中庭様の空間。吹抜けとなることが多い。
      これをいわば核として全体の空間が構成されていた。

今は、いつの間にか、吹抜け空間なら何でもアトリウムと呼ぶらしい。建築家には新しがり屋が多いからだろう。


私に、「ホワイエ」「ロビー」「ラウンジ」・・・といった語の意味する空間のイメージを、的確に伝えてくれた建物がある。それぞれの「空間の名」の意味を的確に教えてくれた建物と言ってもよい。
それは、かつて日比谷にあった「帝国ホテル」の建物、そのつくりである。次回、紹介したいと思う。

とり急ぎ・・・・怒れ!全国の「普通の」建築士

2008-07-16 16:08:21 | 論評

[註記追加 18.06][註記再追加 18.24]  

建築士に対して、今秋から、「定期講習」が実施されることになるが、それに関して、この「定期講習」を管轄する「(財)建築技術教育普及センター」から、平成20年7月10日付で「建築士定期講習の受講資格等のよくある質問」が公表された。

   註 「(財)建築技術教育普及センター」は、国土交通省の
      外郭団体。当然、天下り官僚が中枢部にいるはず・・・。

上掲の文言は、その冒頭の一節である。ただし、赤線の囲いは筆者追加。

驚いた、というよりも呆れたのは、「建築士」であっても「行政職員、大学教授、・・・」「地方公共団体の営繕部局の方・・・」は、「定期講習の受講が義務付けられていない」、という点(上記文言の赤い囲いの中)。

何故なのか。
それは、赤い囲いの下の部分、「建築士事務所に所属しない建築士は、設計・工事監理等の業務を『業』として行っておらず、こうした建築士についてまで、定期講習の受講を義務付けることは、過度な規制となると考えられるためです」の項で言われていることが理由なのだろう。

   註 建築士事務所に所属しない建築士:行政職員、大学教授など:は、
      数の上で圧倒的に少ないはずだ。
      逆に言えば、大多数は「普通の建築士」。
      きわめて少ない数の人たちに受講を義務付けすることが
      なぜ「過度な規制となる」のか、理解不能である。
      これは、理由にならないお為ごかしの理由。
       お為ごかし=相手のためにするように見せかけて、
                実は自分自身の利益をはかること。
      [註記追加 18.06]

もし彼らが受講不要であるとするならば(定期講習を受けないのならば)、論理的に言って、「行政職員」や「大学教授」は、今後、「設計・工事監理を『業』として行っている建築士」諸氏の仕事に関すること、たとえば確認申請書類のチェック、あるいは建築士の業務や建築設計にかかわる指導等に、一切口出しをしてはならない、関与してはならないことになる。
なぜなら、「法改正の状況や技術革新の状況」を「把握していない」かもしれない、「把握しているかどうか」のチェックがなされないままその「職」に就いているかもしれないではないか(実際、例の構造計算書のソフトいじりの一件において、建築士は厳しく扱われたが、行政は、遂に、不問のままである)。

しかし、おそらく、「無鑑査のエライ人たち」は、平然と口出しをすることだろう。第一、今回の「定期講習」や「修了考査」の内容に、彼らは口を出すに違いないし、この「想定問答集」自体、彼らの作成だろう。
こういうのを、世の中では、通常、『お手盛り』という。
そういう「定期講習」の3年毎の実施の手数料:受講料収入で、財団は、そしてそこへ天下る官僚の給料は、そしてまたそれをとりまく「無鑑査のセンセイたち」の地位と報酬は、まず永遠に保証されることになる・・・・。

   註 お手盛り:
      [人民の上に在るという意識を持つ者が]
      自分たちに都合のいいように取り決めること。
        [註記再追加 18.24]

今、本当に「資格の審査、監査」が必要なのは、「建築指導」にかかわる人たちのはずである。彼らには、本来、建物づくりにかかわる「素養」が必要のはずだ。
たとえば、木造建物の「建築指導」にかかわる人たちは、その仕事に携わる前に、最低3年は、正真正銘の大工職の下で働くことを義務付ける。こうすれば、木造建物の質はかならず上質のものになるだろう。
これは、RC、鉄骨造であっても同様だ。
何の素養もないのに、その地位を利用して《指導》などしてはならない。

かつて、第二次大戦直後、各地方行政団体の建築指導に係わる人たちは、自らの知識を総動員して、建物の質の向上を心がけた。4月13日に紹介した木造トラス組の体育館などは、まさにその例だ(「みごとなトラス組・・・・尾花沢・宮沢中学校の旧・体育館」)。それを「建築指導」と言うことに私は異を唱えない。それこそが「建築指導」だからである。

しかし、残念ながら、今のは、所属する部署名が「建築指導」であるにすぎず、担当者たちのやっていることは「指導」とは程遠く、単に「『普通の建築士』いじめ」にすぎないことは皆が知っている(おそらく、その《優越感》で、仕事をしている気分になっているのでは?)。

全国の「『普通の』建築士」諸氏よ、そろそろ怒り狂ってよいのではなかろうか。
それとも、長いものには巻かれよ、で行くのか・・・・。

続・設計の「思想」・・・・「京都駅」ビルは駅か?

2008-07-12 10:50:42 | 設計法
駅の話、駅の設計について書いたので、その続き。

新しい「京都駅」ができた翌年であったか、京都・奈良を訪ねる機会があった。
そのとき通過した新「京都駅ビル」には、真底驚いたことを覚えている。
この設計者は、「駅」という場所を何と心得ているのか、と思わざるを得なかったのである。

   註 新京都駅ビルについては、その高さや外観とかについて
      いろいろな「評論」がなされていたと思うが、その際、
      「駅」としての当否はまったく語られなかった、と記憶している。

上掲の図は、「JR時刻表」に掲載されている「京都駅構内図」である。説明のた
めに手を加えてある。

私はいつも、京都駅では地上レベルを使ってきた。バスを使うことが多いからだ(その昔は市電・・・・、市電の方が分りやすかった!)。
京都に着くと、大阪側にある跨線橋を渡って0番線ホームに降り、中央口の改札を出る。乗るときはこの逆。跨線橋が「近鉄京都線(奈良行)」へ直結しているからでもある。これがいつものパターン。

そこで、そのときもこのパターンをとった。
しかし、中央改札口を出て驚いた。乗降客の通る空間の幅がきわめて狭く、おまけに乗降客の流れをわざと妨げるかのように、人の流れに直交するエスカレータがある(上掲の図の赤い点線の円で囲んだ場所。改札を出た正面にあたる)。
つまり、駅など多数の人が利用するいわゆる公共の建物では必須のコンコースがないに等しい。
乗降客の流れに対して直交するということは、明らかに乗降客の流れとは無関係。このエスカレータは何のためにあるのだ?

先代の駅の場合では、中央改札の外側には大きな空間:コンコースが広がっていた。
先代の駅ビルは二階建て、二階に観光デパートが入っていた。観光デパートへの上がり口:階段は、広いコンコースの脇、乗降客の流れを乱さない位置にあった。これで十分役に立っていたのである。
先代の駅ビル設計者は、「駅」が分っていた、「建物の備えるべき根本的な要件」を知っていたのである。


端的に言えば、新駅ビルの設計者は、「駅の設計の基本要件」すなわち「乗降客のスムーズな流れの創出」とはまったく無縁な設計をしてしまったのだ。むしろ、わざわざスムーズな流れを乱すことに精を出している・・・・。

この建物は、競技設計であった。
ということは、この設計案・設計者を選んだ「審査委員会」自体、「駅の設計の基本要件」を「無視していた」、あるいは「考えなかった」、あるいは「知らなかった」と理解してよいだろう。


ところで、京都に暮す人に訊ねてみたところ、「近鉄京都線」を使わないかぎり、いつも、東京側にある「東地下通路」を使うのだそうである(図の青線の楕円で囲んだところ)。地下鉄にも便利だし、第一流れがスムーズだから、とのこと。納得!。

ちなみに、東京駅八重洲口も、かつてはきわめて分りやすかった。南、中央、北の3本のホーム下を通る通路を束ねる南北に広がる分りやすいコンコースがあったのである。今は、いろんなモノがコンコース内に設けられ、見通しも悪く分りにくくなった。つまりコンコースがなくなった。案内標識にたよるしかなくなった。それとて分りにくい。JR東日本と東海がいわば分捕り合戦をしているせいもあるかもしれない。
いずれにしろ、乗降客の流れや利便は、どこか遠くへ忘れ去られてしまっている。

   註 以前にも「建物の備えるべき根本的な要件」を忘れた設計について
      書いた。
      こういう「兆候」「症候」は、「現代病」の一種なのかもしれない。
      「道・・・・道に迷うのは何故?:人と空間の関係」参照。


なお、先代の京都駅ビル、かつての東京駅八重洲口は、先々代の旧版「建築設計資料集成」に平面図が載っているはずである。

設計の「思想」・・・・「御茶ノ水」駅と「小竹向原」駅

2008-07-09 19:36:27 | 設計法
[文言更改 7月10日0.25][文言追加 7月10日0.43]

はなばなしく開業した地下鉄「副都心線」の「小竹向原」駅での「混乱」は相変わらず続いているらしい。
要は、その駅で、東武線、西武線そして地下鉄線が地下鉄「有楽町線」と「副都心線」とに分岐する、その分岐の仕方にあるらしい。言ってみれば、同一面上でポイントの切り替えでその分岐を差配しようという計画。

この期に及んでまだ地下鉄をつくること自体が私には不可解なのだが、それはさておき、こういう同一平面上で、ポイントの操作だけで列車の動きを操作する、という「設計」に、現代の設計「思想」を垣間見た気がした。

JR中央線には、快速線と緩行線(各駅停車)が並列で走っている。御茶ノ水で快速線:東京行と緩行線:千葉行とは分れる。

新宿駅のホームには、東京方に向って左側から番号がふられている。東京方面行の快速は一つのホームの両サイド7、8番線、高尾方面行は、これも一つのホームの両側11、12番線(間の9、10番は中央線の特急用)。
緩行線の千葉方面行は13番、同じホームの対面14番は山手線の内回り:渋谷・品川方面行、中野・三鷹方面行は16番で、その同じホームの対面15番線は山手線外回り:池袋方面行。

つまり、緩行千葉行で来て池袋方面に行く人は地下道または陸橋を渡って隣のホームに行かねばならないが、渋谷・品川へ行く人は同じホームの向かい側に歩くだけでよい。
また、緩行三鷹行で来た人が渋谷に行くには地下道または陸橋で隣りのホームへ行かなければならないが、池袋に行く人は同じホームの向かい側へ歩くだけ(もっとも、三鷹行で来て渋谷に行きたい人は、一駅前の代々木で乗り換えれば、同じホームの対面で済む)。
このようなことが行えるようにするためには、緩行線、山手線を、新宿駅の手前で立体交差させることが必要になる。東京方から新宿駅に近づくとき、その立体交差を見ることができる(注意して見ていないと、立体交差していることに気づかない)。

四ツ谷駅では、東京方に向って左に快速の往復が、右側に緩行線の往復が、それぞれ一つのホームを使って走っている。

ところが御茶ノ水駅では、快速東京行と緩行千葉行が同じホームの両側(左が快速)、快速高尾行と緩行三鷹行が同じホームを使う。
つまり、東京行で来た人が千葉方面に行くには、陸橋を渡らず同じホームの対面へ歩けばよく、同様に緩行三鷹行で来た人は、同じホームで快速高尾行に乗り換えることができる。
しかし、御茶ノ水駅でこのような形に分けられるためには、新宿駅同様、立体交差が必要となる。実際、御茶ノ水の手前と神田側で、そういう立体交差がある(これも注意して見ていないと気づかない)。

このような立体交差は、今でも難工事になるはず。しかし、乗降客にとっては、同じホームを歩くだけで済むならそれに越したことはない。本当の意味でのバリアフリー。

また、秋葉原駅の階段が、総武線と山手線、京浜東北線の乗り換えパターンに即したものになっているのも注目に値する。
当初(昭和初期)、秋葉原駅は、言ってみれば「乗り換えのための駅」。現在のように、地上が電気街になるなどは想定されていなかった。だから、乗り換えには便利だが、地上に降りる階段、経路がややこしい。

昭和初期の設計者・計画者は、乗降客の乗り換えのパターンを想定し、あえて面倒な立体交差まで計画して乗降客の利便第一に考えたのである。当時の設計者には、乗降客の存在が見えていたのだ。

これに対して副都心線「小竹向原」駅は、立体交差を使わず同一平面上の交差で、列車の行先をポイントの切り替えで行う設計のようだ。コンピュータ制御で十分こなせる、とでも考えたのだろう。しかし、下手をすれば、衝突も起きかねない。


御茶ノ水駅が現在の形になったのは、1932年(昭和7年)、両国停まりであった総武線が乗り入れたときの設計。
新宿方から中央線に乗って注意深くあたりを見てみると、神田川と崖に挟まれた狭い用地のなかで、この乗降客のスムーズな乗換えを意図した立体交差工事をものの見事にこなしていることが分る。

おそらく、今なら、乗り換えのためには乗降客に歩いてもらうことにして、このような計画は工費がかかるとして絶対にやらないだろう。
たとえば快速と緩行とが並走する常磐線の上野~取手間の場合、緩行と快速の乗り換えは、かならず地下道または陸橋を上り下りしなければならない。
常磐線の緩行、快速ができたのは比較的新しく、そこでは乗降客の利便よりも工事の「合理化」が優先されたのである。


もしも「副都心線」が昭和の初めに計画されたなら、「小竹向原」駅も、乗降パターンを想定し、立体交差も行って、運行が安全にスムーズに行え、しかも乗降客にとって分りやすく、乗り降りしやすい駅になるように計画したに違いない。
具体的には、「有楽町線」「副都心線」それぞれ専用の発着ホームを設け、それぞれへ「東武線」「西武線」が乗り入れる。当然、立体交差が必要。工費もかなり増えるだろう。
しかし、昭和初期の設計者なら、工費がかかったところで全体の工費からすれば微々たるもの、第一それは当然必要な工費・経費である、と考えたはずだからである。[文言更改 7月10日0.25]

どう考えても、現代の設計の「思想」には肝腎な点が抜け落ちている。
「小竹向原」駅で起きている混乱は、現代の「思想」の欠落を露にする「象徴的な事件」のように私には思えてならない。
そしてそれは、以前に紹介したように、鉄道敷設、鉄道経営が、当初の「周辺住民の利便のため」から、「儲ける手段」に変質したことと無関係ではない(「鉄道敷設の意味・その変遷-3・・・・《儲ける》ために鉄道を敷設する時代」参照)。
もしも利用者がいなければ、あるいは少なければ、新線敷設など考えるわけがないではないか。「利用者」は、「儲けるためのモノ」にすぎない。だからこそ、利用者の利便など、念頭におかれないのである。[文言追加 7月10日0.43]

「経済」とは何だ?・・・・“modern times” の到来・2

2008-07-05 09:54:52 | 論評

[文言追加 14.43][註記追加 7月6日 9.32][文言変更・註記追加 6日10.55]
[註記:真島健三郎氏論説全文のダウンロードの方法について 8日6.00]

上のコピーは、7月2日付毎日新聞のコラムである。

かねてから私にとって不可解だったのは、小泉首相の下で盛んに叫ばれた「自己責任主義」「自助努力主義」(追加)「実力主義」「成果主義」「市場原理主義」「『経済』成長依存主義」・・・・・の脳天気(能天気、能転機)さである。そして、その「思想」を底支えしたのは、上のコラムにも出てくる竹中現慶大教授である(当時いわゆる《骨太》の経済指針などを提言した。社会保障費2200億/年削減策などの《骨格》をつくったと言ってもよい)。[文言変更 6日10.55]

   註 脳天気:常識はずれで、軽薄な様子(人)
      〈関東・中部方言〉 「新明解国語辞典」による
      [追加 6日10.55]

彼が、例の“good will”なる名で、good will などまったくうかがい知れない「経営」(こういうのを経営と言うのだろうか?)をしてきた張本人を絶賛していた、ということを初めて知った。そういうとき、絶賛した彼には、「責任」はないのだろうか?どう考えたって「教唆」以外の何ものでもない。

本人は、また、いつのまにか大学で教鞭?をとっているらしい。それが、彼の「実力」なのかもしれない。
しかし、いったい若者たちに何を教えるのだ。本当の good will を教えるのか?それとも、羊頭狗肉の商売をしてでも儲けるビジネスチャンスのつくりかた、そういう「経営」の仕方でも教えるのか?
彼がTV東京でコメンテーターをしていたときの、ただ頭の回転が速いだけの、「考察」「洞察」とは程遠い「浮世離れ」した話には、いつもついてゆけなく、途中でスイッチオフしたものだ。なぜこうももてはやされたのか、私には今もって不可解である。
アメリカ流も結構。しかし、日本には「近江商人」がいたことを忘れてほしくない。足もとに「経済」のすばらしい「手本」があるではないか。

   註 「近江商人」については07年6月26日に簡単に紹介した
      「近江商人の理念・・・・時代遅れなのだろうか」

   註 日本語の「経済」の原義については07年6月9日に触れている
      「『地方功者(ぢかた こうじゃ)』・・・・『経済』の原義」

      [以上註記追加 7月6日 9.32]

少し前の産経新聞には(6月26日)「遠のく事件」に違和感、という記事(記者の感懐を述べる[Re:社会部]というコラムのようだ)があった。私が読んだのは紙上ではなく、ネット版。
それは、例の秋葉原事件の際、彼の派遣先であった「関東自動車工業」の記者会見についての記事。
幹部は「退社の経緯は重要ではないと思っています」と弁明し、会見前には、「広報担当者が笑顔を振りまきながら対応し、報道陣から、笑い事じゃない、と怒声が上がる一幕もありました」と記者は書いている。
記者は「工場から怒って帰った人間が(起こした事件なのですから)、もう少し『我が事』という感じがあってもいいのでは、と違和感を覚えた」と続け、そして、「好き嫌いとか関係なく、車の生産台数が減れば、まず派遣社員から切られる、と同社社員は言います。同社が事件や被害者から意識が遠いように感じたのは、そもそも事件を起こした派遣社員に対し、身内意識を持ちにくいからなのかも知れません」とまとめている。
別の新聞では、「関東自動車工業」の幹部は、最初は「派遣社員を『切る』」予定があった、と発言し、あわてて「契約解除」と言い直した、ともあった。要するに、単なるモノ扱い、いやそれ以下、“modern times” が現実になっていた、ということ。

いまや、製造業では、半数以上が「派遣」らしい。そういう世の中になってしまったのは、つい先ほどの小泉時代から。その実態について書かれたのが、上のコラム。

   註 なお、真島健三郎氏の耐震についての論説全文は、
      下記リスト中からダウンロードできます。全16ページです。
      「土木学会震災関連デジタルアーカイブ学術誌別リスト」

雑感・・・・“modern times” の到来・1  

2008-07-02 16:47:42 | 論評
[タイトル変更 7月5日10.04]
[註記追加 真島健三郎氏論説全文のダウンロードについて 7月8日 6.03」

このブログに、多くの方にお寄りいただき、ここで御礼申し上げます。
書く方としては、それを斟酌しながら記事を書いているわけではありませんが、いつも、皆さまが、どのような記事に関心がおありなのか、興味をもっております。


今もってよく閲覧されているのは、「ホールダウン金物の使用しなければならない箇所は極めて少ない」という記事かもしれません(「『在来工法』は、なぜ生まれたか-5 補足・続」)。これはおそらく、ホールダウン金物に「悩まされている」方が多いからだ、と思います。

そこで示した「表」は、ある講習会で、例の「告示第1460号:仕口の規定」を解説するために「改訂法令解説書」の内容を要約整理したものにすぎません。

とかく建築法令は、わざと分りにくくしているのではないか、と思いたくなるほど「難解」です(山口瞳という作家が、建築法令は、悪文の最もすぐれた見本、と書いています)。そこで「理解」するために表に要約してみたら、実に簡単な項目にまとまってしまったのです(もっとも、行政や確認審査をなさる方のなかには、「反発」を感じている方々がたくさんおられるようです)。

私は、木造軸組工法に対する法令の各種規定にともなう「面倒」は、すべて、「筋かいを設けろ」という「規定」に端を発している、と以前から考えていました。
日本の木造建築で「筋かい」が大々的に使われるようになった(使えと言われるようになった)のは、ごくごく最近のことです。そして、それにともない、いろいろと「面倒」が次から次へと生まれた、と私には思えるからです(このあたりについては、07年2月5日~19日にかけての「在来工法は、なぜ生まれたか」シリーズで私見を書いています。特に「『在来工法』は、なぜ生まれたか-5・・・・耐力壁に依存する工法の誕生」に経緯:いきさつ:を私なりにまとめました)。

つまり、ホールダウン金物が出現するまでの過程、言うならば木造建築に関わる法令の規定が「複雑」化してきた経緯を概観してみた結果、法令自体が「筋かいを設けろ」という規定によって「自縄自縛状態に陥った」のではないか、と私は考えていたのです。
そして、告示第1460号の内容を整理してみて、私の「想定」は「確信」に変るに至りました。ホールダウン金物を使わなければならないのは「筋かい」それも「たすきがけ」の場合に限られることを「発見」したからです。

私は、ホールダウン金物の使い方:“how to”を知ることも必要とは思いますが、同時に、かつては存在しなかったホールダウン金物が、なぜ出現したのか、その出現までの過程:いきさつ:を、皆が「理詰め」で考えてみれば、誰でも、自ずとその理由、そしてその無意味さが、つまり「自縄自縛状態」が、分ってくるはずだ、と思ってきました。

   註 ホールダウン金物の出現を、技術の進歩と考える人もいます。

たしかに、日々の仕事に追われているなかでは、そんなことを考える時間はない、そんな時間のかかることはしたくない、できない、と思いたくなるのは分ります。
しかし、皆が皆そうしたらどうなるでしょうか。
法令の規定を鵜呑みにして、あるいは理由も考えずに、何でもいいからホールダウン金物は付けておけばいいのさ・・・・・、という事態になってしまうのではないでしょうか。
今、町場の現場を見ると、実際そういう状況になっているように思えます。

要するに、こういう事態を続けていれば、とりあえず仕事が難なく進捗すること、そのための“how to”があればそれを知りたい、それが分ればそれで済む、ということに結果します。
某建築情報誌などは、たとえば昨今の「基準法、建築士法等の改変」へいかに対応したらよいか、という“how to”に徹した内容で編集されています。
言ってみれば、「世の大勢・体制にいかに素早く馴染むか、それにはどうしたらよいか、そのためのコツ・・・」、こういう“how to”に一般の人びとの関心がある、という認識が編集者にあるからだ、と見てよいでしょう(もしかしたら、実際に、世の中がそうなっているのかもしれません)。

もしも実際にそうなっているとしたら、どうなるか?
「ものごとを根底から考える」という「習慣」が消えてしまいます。《力のある人》の言いなりになっていればよい、そうすれば無難だ・・・・・ということになってしまうでしょう。現に、そういう傾向が生まれているような気がします。

大分前に、5W1Hのことを書きました(「建築に係る人は、本当に《理科系》なのか-2・・・・『専門』とは何か」)。英語の時間に、ものごとは常に、why when where who what そして how で考えなければならない、文章において必須な要件だ、と教えられました。「ものごとを理詰めに考える要件」と言ってもよいはずです。
理詰めで考えるのならば、建物をつくるという営為もまた、常に 5Wで、 つまり、「なぜ」、「いつ(今)」、「どこで(ここで)」、「誰が(誰のために)」、「何を(かくかくしかじかのもの)」をつくらなければならないのか、を考えた上で、ならばそれを「いかに」つくるのがよいか、という手順で考える必要があることになるわけです。


先回、最近《話題》の建物について触れました。
あの事例では、設計者に於いて、5W1H の問はなされたのでしょうか。
おそらく彼の設計者にとって、who は「自分自身」であり、what は「自分を差別化し表現できるもの」であり、when は「自分の都合」であり、where は「どこでもよい」のであり、why は「自分を目立たせたいから」であり、そして how は、そういう「自分の《夢想》をかなえるためなら『無理』をしてでも」、ということになるのでしょう。

こういういわば《特権的事例》以外ではどうでしょうか。
残念ながら、同様に、5Wの問いかけはなく、当然1Hも、あるとすれば、「法令への適合:順応の how to」だけになっているように思います。
たとえば、ホールダウン金物をどう使うか、どう使ったら確認通知がもらえるのか・・・・という点に関心がゆき、なぜそれが要るのか、なぜ昔の建物にはなかったのか・・・・などについては考えなくなっているように思います。

設計図自体、そして構造計算も、すべてがソフト任せになってきているようです。ソフトに拠っているから間違いはない、とでも考えているのではないか、と思いたくなります。
人の「指示」、ソフトの「指示」に唯々諾々として従う「自動人間」化。
チャップリンの「modern times」が、いよいよ現実化してきたのかもしれません。


上掲の文章は、真島健三郎氏の1924年に書かれた論説「耐震家屋構造の撰擇に就いて」中の、日本の木造建築について触れている箇所の原文です。
現代文に直せばこうなります。
「・・・頭の大きく高く、しかも重い荷を負っている大寺院でもほとんど四方明け放しで耐震壁もなければ筋かいもボルトも短冊金物もないのに百千年厳然と立っている。もしこれに太い筋かいを入れたり耐震壁を設けたりボルトで締め付けたりしたならば、あたかも鉄道客車から緩衝装置を取り外したと同じで、折角の柔性を損し、かえって危険を増すだろう・・・」。(「紹介・真島健三郎『耐震家屋構造の撰擇に就いて』」

   註 この論説の全文は、下記リスト中からダウンロードできます。
      「土木学会震災関連デジタルアーカイブ学術誌別リスト」

この方は、目の前の現実・実像を基に考えを進める方で、「机上の理論」でものを見ない人、といってよいでしょう。
よりきつく言えば、現実・実像の解釈ができない理論は理論とは認めない方です。
これに対して、現代の《学者・専門家》の多くは、現実・実像を「机上の理論」のメガネで見てしまうのです。
どちらが科学的か、自ずと明らかでしょう。
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