建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-37

2016-10-28 15:53:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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かなり間が空いてしまいましたが、Late medieval roof cobstruction の 最終項を載せます。前回とあわせお読みいただければ、と思います。

       Side-purlin roof

    Side-purlin roof とは、垂木の側面に、垂木相互の暴れ防止のために添える添木:補強の横材であると推察します。
    以下の図を参照ください。通常のpurlin:母屋とは異なり、屋根の荷重を承けるのが主たる役目ではないと考えられます。

ケント地域で Side-purlin が見られるようになるのは、かなり遅れる。地域によると、比較的大きな建物で、14世紀の第二四半期に crown post に代って使われるようになるが、ケントにはその事例はない。 1340年代の PENSHURST PLACE の屋根では、crown post と併用されているが、典型的なケントの事例とは言い難く、後継事例もない。
イギリス各地の初期の Side-purlin roof の多くは、高い繋梁に至る斜材:brace との併用が目立つ。しかしケントでは、このような斜材が用いられる場合でも IGHTHAM MOTECOBHAM COLLEGE の例のように、その上に crown post が設けられることがあり、また WOULDHAMSTARKLEY CASTLEWROTHAMYALDHAM MANOR のように、垂直方向の部材が見当たらない例もある。
これらの事例は石造であるが、中流以下の人びとの木造架構の建物に用いられるSide-purlin roofは、多くの建物に使われるようになる15世紀後期まで知られていなかった。この工法は、初めに北西部で現れるが、多分 WESSEX 地方から入ってきたものと考えられ、ケント東部で使われるようになるのは、16世紀も第二四半期になってからであろう。clasped purlin(下図参照)、queen-strutwind-brace 併用の小屋組は、世紀の変り目に北西部で見かけるようになる。fig87bNORTHFLECT GRAVESEND に在る1488~1489年建設の THE OLD RECTORY HOUSEや、SUNDRIDGEDRYHILL FARMHOUSENEOPHAMOWLS CASTLE などがその例である。
     clasped purlin
      fig87のように、合掌材:垂木を中途で承け、垂木の暴れを防ぐために設けられる部材:垂木を「留める:clasp」:日本の母屋桁に相当と解します。
      ただし、日本の場合に比べ、材寸が小さめですから、荷重を承けることよりも垂木の暴れ止め:位置の調整が主たる目的と思われます。    



詳細な記録が為された SURREY には、clasped purlinの屋根を架けた事例が多数在り、西部よりも東部の方が進んでいる傾向がうかがえる。しかし、それを普及速度が遅かったからと見なすのは誤りで、比較的新しいclasped purlin roof を、ケント地域内の各地で見ることができる。東部地域には、WEALDEN 形式の2事例:1496~97年建設の CHARTHAMDEANERY FARMSANDWICH 近傍の ASHTHE CHEQUER INNfig87a) が在るが、この2例は似たような屋根をしている。他に、やや小さく、建設年代も遅いと思われる UPPER HARDRESCOTTAGE FARMHOUSE などが在る。CHRIST CHURCH 教区には、同様のclasped purlinの屋根がかなり遺っていると報告されており、また、CHARTHAMDEANERY FARM は修道院によって建設されているから、これら東部地区の事例の発祥の由来には、教会が大きく関係しているものと思われる。
ここまで紹介してきた事例には全て、queen strutwind brace があるが、建設年代が遅いと思われる他の事例は、必ずしもこの特徴を有さない。
16世紀の30~40年代の建設と見られる WALTHAMANVIL GREEN に在る DENNES HOUSE THE COTTAGE の2事例には、煙で黒くなった clasped purlin の屋根が遺っている。
ケント北部の BORDEN に在る SHARPS HOUSE にも crown^post の屋根を補強するために採用された clasped purlinの屋根 があるが、hall は昔の形のままだが、新しい部材は煙で黒ずんでいるから、改造は16世紀に入った頃に為されたのではないだろうか。
16世紀の中頃までには、Side-purlin roof は大半が crown^post roof に改造されたようである。ただ、世紀中期~後期の事例については、今回は、十分に調査・検討されてはいないが、数多くの clasped purlin roof の事例が見つかっている。これらは、特に cross^wing に見られる。いずれも、当初の建物を改造した事例に見られる:、CHILHAMHURST FARMSITTINGBOURNE 近傍の NEWINGTON に在る CHURCH FARMHOUSE などがその例である。Side-purlin roofには別の形式もある。それは butt purlin :太めの母屋桁:を用いる場合で、そこでは、縦方向の部材が、繋梁と垂木の間に単に置かれているのではなく、主要な垂木でしっかりと留められている。この工法は、東部では1600年代以前に現われるが、ケント地域にはやや遅れて伝わったと考えられてきた。しかし太めの母屋を使う事例は特殊であり少なく、その用法はよく分っていない。
イギリスの他地域では、butt purlin :太めの母屋桁 は既に14世紀後期までに現れているが、ケントで最も早い事例は、CANTERBURY の石造の MEISTER OMER'S の木造屋根である。これは、1440年に枢機卿 HENRY BEAUFORTによって建てられた建物である。それから少し遅れてCANTERBURY CATHEDRAL の北西の TRANSEPT :翼廊(本体に対して直角に建つ棟の呼称)に建てられている。MEISTER OMER'S の木造屋根の建設年確定しているとは言い難いが、 butt purlin :太めの母屋桁 が、なぜその頃まで使われなかったのか、その理由は不明である。ケント地域が crown-post 形式 へのこだわりが特に強かったとは思えないから、上流階級の建物の建設や CANTERBURY CATHEDRALでの建築でbutt purlin が用いられなかった理由か分らないのである。
butt purlin 屋根が現れるのは全般に遅い。ただ、普通よりも上層の建物に例外が2例ある。いずれも1500年ごろか16世紀初頭に建てられた造りのよい arch-braced 屋根の建物である。それは HORSMONDENRECTORY PARKcross wingGOUDHURSTTHE STAR AND EAGLE INNfig88) である。

同じような事例が WOULDHAM の STARKEY CASTLE の石造の建屋に遺っていたが、既に改造されてしまった( fi9 89)。

同じようにbutt purlin :太めの母屋桁crown-post 形式 とを併用している事例は、一般的ではないが、SHAKESPEARE HOUSE でも見られるが、そこでは crown post はなく、arch bracebutt purlin が中央の collar purlin と一体になっている。
   註 この部分、直訳しておきます。図がないので理解に苦しみます。
ほとんど同じ頃、単純な butt purlin は、数は少ないが、小さな建物で使われている。これらでは、普通の tie-beam の小屋組と太めの母屋桁と併用されている。FARRINGTONS では、wealden 形式EDENBRIDGE BOOKSHOP の建物は、butt purlin queen strutwind brace とともに用いられているが、。の建物は年輪時代判定法によると1476~77年よりも早い時期の建設とされている(fig 90a)。rocks 、east malling 、larkfield は総二階建の建物は1507~08年の建設と思われるが、この建物では小屋組二つはbutt purlin を使用し、もう一つは clasped purlin の小屋組としている(fig 90b)。垂直方向の安定性は crown strut が担い、wind brace が母屋桁から頂部を結んでいる。これらの屋根は、clasped purlin roof 工法の別種と見なしてよく、中世後に現われる butt purlin 屋根との類似点は少ない。これらの事例では、母屋桁は、梁間に主たる合掌材:垂木を承けるべく架けられ、他の垂木は母屋桁に単に架けるだけではなく、母屋に枘で留めている。ケント地域では、butt purlin がこれまでの想定よりも早くから用いられていたのは明らかではあるが、一般的な工法ではなく、中世後の形式として1600年頃に注目されるようになるまでは、影響は小さかった。

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  以上でLate medieval roof cobstructionの章は了となります。
  次回からは、Form and function:the internal organisation of houses in the laye Middle Agesの章の紹介になります。
  編集に時間がかかりそうです。ご了承ください。

編集遅れてます・・・

2016-10-21 09:41:52 | その他


大分寒くなってきました。

今日は、かつて、世界反戦デーだったように思います。盛大なデモもあった・・。

所用重なり、「シリーズもの」の編集作業、来週月曜日アップを目指していますが、大分遅れています。どうなることやら・・・。

秋深まる

2016-10-16 10:18:50 | 近時雑感


ここ数日、朝の外気温が10度に達しません。しかし、まだ、寒いなぁとは感じません。
霜が降りるようになると、外に出るとき、一瞬、身構えるのですが、今のところ、その必要はないようです。

日照が不足だったのか、今年は、柿がいい色になりません。木の葉も、あまり紅葉、黄葉になっていないように感じています。

復刻・「筑波通信」―9   「万が一の事態」と「判断」

2016-10-08 15:36:19 | 復刻・筑波通信


言い回しの改定など編集に時間がかかり、間が空いてしまいましたが、「筑波通信」復刻版の続編を載せます。

復刻・「筑波通信」―9   「万が一の事態」と「判断」             「筑波通信」1982年7月1日刊の復刻

五月の末、梅雨入り前だというのに真夏になってしまったような暑い日が続いた(1982年のことである)。そんなある日、中央東線で特急が脱線したというニュースが夕刊に載っていた。その日の昼過ぎ、甲府盆地のある駅のあたりで、暑さで伸びて歪んだレールに乗り上げ脱線したらしい。盆地はとりわけ暑くなる。真夏なら気を付けていたと思うが、まだ五月。今年の天候は少し異常なのかもしれない。それほどの事故ではなかったようだし、まして私の日常に関わるものでもなかったから、普通だったら、季節外れの暑い日を印象づけただけで、そのまま忘れ去られてゆくだけだったろう。
ところが、中一日おいた朝刊でもこの事故が話題になっていた。復旧に意外と手間取り、開通したのが丸一日以上経った昨日の夕方だったとのこと。意外と時間がかかったのは、その列車の車両の連結が、連結器ではなく、鉄の棒でいわば固定されていたためだという。その切り放しに時間を要したらしい。それを読んで、一度忘れかけていたこの事故のことが、私の中で、再び、ある「重さ」を持ちはじめた。

子どもの頃、乗り物好きだった人なら大抵知っているのではないかと思うが、車両の連結の仕方には、「ねじ式(下図左上)」(今でも西欧をはじめ諸外国で主流のやり方で、いわばフックの付いた鎖を引掛ける方法で、これと対を成してバネの入った丸型のバンパーが二個付く。日本では博物館にでも行かなければ見られない(なぜ「ねじ式」と呼ぶのかは知らない)。
日本で、現在でも貨物列車や旧型の旅客列車に主に使われているのが、通称「自動連結器(下図左下)」。日本では、1925年㋆1日を期して「国鉄」の全車両を自動連結器に切り替えたという。これはまさに画期的なことであったらしく、諸外国では今でも「ねじ式」が大半だという。現在は、国鉄・私鉄の大部分は「密着連結器」と呼ばれるタイプになっている(下図右)。
         
 「自動連結器」には20~30㎜の「あそび」があるので、発車や停車時にがたつくことになる。停車している貨物列車が動き出すとき、機関車の発車の汽笛が聞こえても目の前の貨車は直ぐには動き出さず、前の方からガチャンガチャンという重い鉄の塊がぶつかりあう音が移動してきて近付いたと思った瞬間、ガクンと動き出す。旅客列車でも同じで、駅に停まるごとに同じことが繰り返し、おちおち居眠りもできない。このがたつきを感じさせないように動かすのが運転士の腕の見せどころであったようだ(私がよく乗る常磐線は、1980年代初めまだ電車化していなかった・・・)。このような「あそび」をなくすために考案されたのが「密着」式なのである。

ところが、この脱線した特急列車の場合には、車両間に連結器がないのだ。一列車は十数両の車両から成っているのではあるが、それらは、連結器ではなく鉄の棒で、「連結」ではなく「緊結」されていたのである。各車両は切り離すことは最初から考えていない、つまり、車両を任意に寄せ集め編成することを考えていないのである。竹の筒を十個ほど並べ、相互を針金の軸でつなぎ合わせた玩具がある。末端を持つとちょっとした持ち方の違いで微妙に形を変えるが、この列車は、この玩具のようなつくりになっているのである。
脱線した列車の航空写真は、まさにこの玩具同然であった。連結されていたのならば、連結器のところで外れてしまうと思われるが、「緊結」されていたゆえに、この玩具のような様態になってしまったのではないだろうか。
復旧にあたって「意外と手間取った」のは、まったくの推測であるが、元へ戻すために車両を切り離さねばならず、ただうっかり切り放すと、互いに鉄の棒で緊結されているため横転を辛うじて免れていたのが、支えを失って共倒れになる怖れがあり、それへの配慮に手間取ったのだと思われる。逆に言えば、緊結してあったために、全車両の半分以上が共倒れ的に引きずられ脱線してしまったと解釈することもできる。これが連結されている列車だったならば、連結器部分で切れ、別の様態になっていたのではないだろうか。当然復旧も早くなる。「意外と手間取った」という表現が為されているのは、通常の連結した列車の脱線事故の例をもとに復旧予測がたてられた、つまり、「緊結」した列車であることを失念していたからではなかろうか。

では、この列車はなぜ連結ではなく緊結されていたのだろうか。今まで大抵連結で編成していた列車を「緊結」にする、その「発想の転換」はいったい何だったのだろうか?
これには、おそらく次のような経緯があったものと思われる。先ず、従来のいくつかのハコを機関車が引っ張る、すなわち動力を一か所に集中させるやりかたから、動力を分散させる「電車化」が一般化してきた。従来は必要に応じて編成していたのを、固定化するようになった。旅客列車もほとんど電車化した。最近の特急のように二地点間を何本も往復するようになると、一編成自体が一定である方が互換性もあり都合がよい。同じ編成の列車を数組用意して置けばよいわけだ。多分、乗車券予約のシステムもプログラムが楽だろう。そうなってくると、更に進んで、一編成を一単位と見なす発想が出てくるのが自然である。車両の切り離し無用の発想である。「連結」ではなく「緊結」への転換である。当然「がた」も少なくなる。この発想の転換は、一見、いいことだらけである。
しかし、この一単位・一編成を構成しているハコ:車両のどこかで支障が生じたらどうなるか。これがそれまでの列車と大きく異なる点なのである。従来ならば、故障した部分:車両だけ切り離して運転することができたが、この方式では、故障部分だけではなく、一編成全部がダメになるのである。故障部分だけ切り離そうにも、緊結してあるから容易ではない。これが例の脱線した特急列車の様態であり、故に復旧に「意外と」時間がかかったのである。

このような事態になるのは、今では緊結した列車だけではなく普通の連結した列車でも同じようである。普通の列車に問題が生じたときも、昔のように不具合の車両だけ切り離して運転することはせず、乗客を全部おろしてきれいさっぱり運休させてしまうようだ。特に特急のように座席指定のある場合にそうなることが多い。その一本だけではなくその折り返しも運休し、一本の事故が数本にひびいてくる。運休にしないで故障部分を抜いて異常編成で運転すると、予約客に大きく影響する。その処理のことを考えるなら、一本丸ごと取り消してしまう方が「事務的に」楽になる。特にコンピュータ処理の上では・・・。また、その方が運行ダイヤの「正常化」にとっても、当然ながら楽である。一旦白紙に戻し、始発時の様態で始めれば済むからである。
私がよく使う常磐線は、(1980年代当時)よく停まってしまう。予定した列車の20分ほど前にホームに着いてみると、水戸のあたりの事故で不通。何本も動かなかったため、当の列車は既に超満員。後続の予定が立たないから、これに乗ってくれとの放送が繰り返される。後続列車すべてが故障で動けないわけではないのだから、どうして「適宜に」発車させないのか訝っていたところ、やがて、この列車は〇時〇分発の〇行きの列車として発車するとの放送。まだ 10分以上もある。本来のダイヤの数本後の列車に「読み替える」ということらしい。そこで合点がいった。運行ダイヤというのは、運行している常磐線なら常磐線の列車全部で一つのシステムを成しているわけで、その一部で起きた障害がシステム全体をダメにしてしまったのである。それを「正常に」戻す手っ取り早い方法が、このような「読み替え」を行う方法であり、その方策のために、なかなか発車させずに「時間待ち」をしていたのだ。(乗客に「負担」が生じても)「効率的」で「合理的」な方法だ、ということなのだろう。
たしかに、乱れてしまったダイヤは「正常に」復さなければならない。これは、いわば至上命令である。けれども、目の前にホームにあふれている乗客を目の当たりにしながら、それをさばくことには手を付けず、専らダイヤの修復に腐心する。ダイヤが正常なら異常は起きない、だから正常に戻すことが先決である。これはたしかに合理的に見える。しかし、そもそも運行ダイヤは客を運ぶために意味があるのであって、ダイヤのシステム自体・その「維持」に意味があるわけではない。目の前に客が満ち溢れている。ならば、交通機関の本義に戻って、満員の客をさばきつつダイヤの正常化に努めようとする、そういう発想があってもよいのではないか。多分、そういうやりかたでは、ダイヤの正常化完了をもって事後処理の完了と見なす視点からすれば手間も時間もかかり効率的・「合理的」なやりかたとは言えないかもしれない。しかし客の視点に立てば、そうしてもらう方がずっと合理的なのである。多分、かつてはその方策が採られていたと思う。だから、客が所在なくホームで過ごす時間は短くて済み、その代わり、鉄道関係者の苦労は並大抵ではなかったであろう。今は客が苦労する。
特急列車の脱線事故の処理の話から、事故一般の後処理にまで話が及んでしまったが、これらの話に通底している「ある種のものの考え方」に、私は「ひっかかる」のである。
つまりこれは、私には、今では当たり前になっているいわゆる「近代的・合理的な」考え方の典型的な様態、に見えるのである。

では「『近代的・合理的な』考え方」いうのは、どのような性質・性格のものか。
一言で言えば、この考え方は、「万が一」ということ、「マイナスと評価される局面・状況」は、あってはならないことゆえ、考慮の外に置き、専ら「正常」「プラスの局面・状況」のみに考慮を払う考え方である、と言ってもよい。理想状態・完成完結した状態への揺るぎない(信仰に近いほどの)信頼・願望と言ってもよいかもしれない。
別の言いかたをすれば、ある全体なりシステムが「絶対」として在り、その全体・システムを構成する部分部分は、なかば絶対的にその「絶対」に服するしかなく、構成の編成替えなどということは存在しないのである。
つまり、「一つのパターンが(望ましき完全形として)在る」というのである。そして、そのパターンが乱れることを「異常」と称するのである

これに対して、前近代的・非合理的、場当たり的に見える従来のやりかた・考えかたというのは、如何なるものであったか。
これも一口で言えば、確かにそれもある全体やシステムをつくりだしてはいるが、それが唯一つしかないのではなく(定型があるのではなく)、言わば、「万が一の状態」と「理想の状態」の両極の間で(マイナスからプラスの局面にわたって)場面場面に応じて適切と思われる全体・システムを任意に組み立てる、そのような考え方であった、と言えるだろう。
それゆえに、仮に事故が起きても、その事故の様態に応じて、まさに字の如く「臨機応変の」対応、すなわち当面の状況に於ける全体の建て直しを、考えることができる。しかも、ただ「元の完成形であったパターン」へ戻すことにのみ執心することなく、当面の「交通機関としての本来の課題(客をさばく)」に意を注ぐことができる。つまり、客をさばきつつ、徐々に「元」へ復してゆくわけである。したがって、その過程では、何度かシステムの組み直しが必要となるから手間がかかる。その点では、近代的なやりかたははたしかに効率がよい。ただ、一方で、システムの「正常な状態への復元」だけが「目的化」してしまう
つまり、本末が転倒して「状態の復元」の本来の意味:何のために復元するのか:が見失われてしまう。それはすなわち、事態への対処のしかたは、本来、場面に応じて、いくつものパターンが「任意に」用意できなければならない、という大事な視点が忘れられてしまうことに他ならない。パターンは、場面場面に対応して、場面の数だけある、無数存在するのだ、と言ってもよいだろう。
しかしそれは、場面やそれへの対応パターンが、あたかもショーウィンドウの中の品物のように並んでいて、そこから私たちが選び取っている、というわけではない。それはあくまでも、私たちの、私たち自身による「判断」に拠り創案されたパターンなのであって、それが無数存在するということである
つまり、「私たちの「判断」が無数である、ということである。場面の設定、それへの対応のしかた、いずれも「私たちの判断」なのである。今置かれている場面はかくかくしかじかであると私が「判断」し、今為すべきことを私が「判断」し、そして適切であると私が「判断した」方策をたてるのである。
言い換えれば、ものごとのとらえかたの数だけパターンがある、原理的に言えば無数あることになる。それゆえ、同じ事態・状況に対しても、それへの対応パターンは判断する人により違うだろう。しかし、違っているからといって間違い・誤りなのではなく、また違っているからと言って「方向」もまったく異なりめちゃくちゃに違っているのではなく、「方向」は同一であっての「違い」なのだ。すなわち、「多種多様」ではなく、「同種多様」である、ということ。
このような「従来のやりかた」に対して、近代的・合理的なやりかたでも、同様に「判断」を必ず伴うけれども、「判断の場所」が違う。そこでは、ある最も合理的と見なされるパターンがあらかじめ設定されていて、それに合うか合わないかが「判断のポイント」になる。その意味では、人によって違うなどということはあり得ない。正解があらかじめ唯一在り、それ以外に「解」があるなどということは、甚だしく秩序を乱すけしからぬこと。つまり、all or nothing 、〇か一か、一か八か、・・・なのである。コンピュータ用プログラムにはたしかに適しているだろう・・・。
こんなことを言うと、場面に応じたいくつかのパターンを用意しておけばいいではないか、という反論があるかもしれない。実際、複数のプログラムが用意されるようになってきているようで、そういったプログラム、パターン探しが、その面での学問分野での関心事でもあるようだ。「多様な人びと」をして、「不特定多数の人びと」として括って済ます「発想」も、そこから生まれたのではないか。「多様性」についても考えているぞ・・・、という言わば自己満足・・・。
しかし、このような、いくつかの場面とそれへの対応をあらかじめセットとして用意しておくやりかたでは、そのパターンの数は原理的には有限であり、万一用意されたパターンに合わない事態に遭遇したら最後、手の下しようもない滅茶苦茶な状態に陥るだろう。

従来のやりかたでは、パターンはあらかじめ設定はされておらず、むしろ、その都度、「万が一」と「正常」の状態、その両極の間に場面が設定されるわけで、パターンは両極の間に連続的に無数・無限に在ると言ってよく、だからこそ、いかなる場合にも臨機応変に対することができるのである。
すなわち、近代的なやりかたは、完璧のようで極めて脆く、逆に従来のやりかたは、不確かなように見えて極めて強か(したたか)なのである。
いったい、どちらのやりかた・考えかたが本当の意味で合理的と言えるのだろうか。
当然ながら、私は従来のやりかた・考え方を採る。それは、単なる私の《好み》でそうするのではない。ものごとが、あらかじめ考えておいたいくつかのパターン(としてのみ)で出現するなどとする考えかたこそ、非合理だと思うからである。まして、それへの「対応」:「判断」までもがレディメードで存在し、その中から選べばよい、というのも、極めて安易、非合理・不合理である、と思うからである。それでは、ロボットではないか。

こうやって見てくると、いわゆる近代的・合理的な考えかたというのは、いかに人びと・個々人のの判断を嫌い、あるいは信をおかず、「規範」を他に求めたがるものであるか、がよくわかる。それでいて、また、近代ほど、個人の尊厳を強くうたいあげ、個性の主張をとりたててあげつらう時代もなかったのではないだろうか。
今こうして見てきて、近代という時代の姿がまことにくっきりと見えてきたように私には思える。
すなわち、個々人を超えたところに「規範とすべきパターン」があり、個々人は、そのパターンの中のどれを選択するかの裁量権・判断権のみを有し、選択したパターンをいかに個性的に修飾するかが個人の個性であるとする、これが近代というものの姿なのではあるまいか。
では、そのパターンをあらかじめ用意して人びとに提示するのは誰なのか。その道の専門家?設計者?デザイナー?

もしそうだとするならば、その根底には、表向きの個人・個性の尊重、人間性の尊重という主張とは裏腹の、徹底した人間性無視:人間不信、その裏返しとしての選民意識が流れていると言わざるを得ないだろう。
なるほどたしかに、近代以前にも在る問題に対応したあるパターンが存在するという事例は多々ある。
しかしそれらは、そのパターンをあらかじめ設定し目指して生み出されたのではなく、個々の判断の積み重ねがそのように結果したのであって、その「拠りどころ」は個々人にあったのである。個々人の判断は、ある方向を持ちつつも、多様であったろう。しかし、その「共通の方向」ゆえに、ある時点で振り返ってみたとき、ある一つのパターンに収束しているように:つまりある「定型」のように:見えただけなのである。
ともすると、近代の人びとはそのパターンだけ:つまり「結果」だけをつかまえてとやかく云々し、背後に厳然として在った人びとの判断:「人びとの営為」を見忘れ、更には、個々の判断を越えた地点に、目指すべき、期待される像を設定し、それへの近づきかたの遠近で、ことの良し悪しを決めよう、などとさえしだしてしまう。それは、どう見ても愚行にしか私には見えない。
私は、いかにそれが多様であろうとこ、私たちの私たち自身の「ものごとの判断」を信じたい。そうでないならば、私たちの間に真のコミュニケーションは存在しないだろう。コミュニケーションとは単に「ことばを繰る」ことではない。できあいのいくつかの応答パターンのなかから、どれかを選択すればよい、などというものではあるまい。「ことば」にいったい何を託すかこそが問題なのだ。
「ことば」に託すもの、それは、私たちの私たち自らの感性に拠る私たち自らの「思考」のはずだ。その「思考」が、用意された有限のパターンのみに限定されるような状況は、私は認めるわけにはゆかない。
いわゆる「近代化」は、先進・先端の名の下に、諸作業の合理化:省力化を目指してきたと言えるだろう。しかしそれが、「思考」という作業:営為の合理化・省力化をも意味するのであるならば、そこでは真に新しいものが生み出されるはずもない。
「思考」もたしかにあるパターンをもつ。ただ、そのパターンは決して有限ではなく、臨機応変に無限であるはずだ。「思考」をも《合理化》と称していくつかのパターンに整理しようとするのが近代である、とするならば、ましてそれを《合理》というのならば、私はそれを「合理」とは認めない。そもそも、合理とは、システムにとっての整合性のことなのではなく、「私たちにとって『合理』であるかどうか」の問題のはずだからである。システムは、私たちが私たちの思考作業によって生み出すもの。しかも、システムのためにではなく、私たちのために・・・。

北海道でもまた特急が脱線したという。季節外れの異常な暑さでレールが曲がり、その復旧まで時間待ちをしたためにダイヤが狂ってしまった。一方それとは関係なく、別の保線作業:枕木交換:が行われていた。保線作業者たちは、ダイヤは正常であると頭から信じているから、列車は来ない時間帯と思い込み、枕木を外してしまった。ところがそこに、予想外の列車が来て、なるべくして脱線してしまった、ということのようであった。
今、合理化のために、保線は保線として独自に外注されているのだそうである。
運行のシステムが正常であったならば、保線は平常に行われていたのだから、別に問題がなかったのである。つまり、システムとシステムが、ある正常な状態で成り立つべく設定されていた。ゆえに、平常であったならば、システム相互の連絡は強いて必要ない。それが平常、正常ということ。しかし、それに慣れきってしまったとき、異常に対して対応できないのである。万が一の事態は容易に発生するのだ

近代というのは、こういう「薄氷を踏むような保証」の上に成り立ったシステムの群れに囲いこまれているのかもしれない。 
    

秋の薫り

2016-10-03 15:35:12 | 近時雑感


外を歩いていると、至る所にモクセイの薫りが漂っています。まさに秋の気配を感じさせてくれる薫りです。残念なのは、秋晴れにならないこと!
モクセイは樹形自体は目立ちませんから、普段はそれと意識していませんが、薫ってくると、こんなところにも在ったんだ、とあらためて気づくのです。
私の住まいの西側には、北西風を避けるため数本植えてありますが、植えてから十数年、今はこんもりと、かなりの大きさになっています。上の写真は、その根元で咲きだしたシュウメイギク。