神社の参道の脇で、灌木が赤い実をつけていました
名前はマユミ 山野に自生し、幹が強くしなやかなため、かつては 弓をつくるのに使われた とのこと
先日のTVで、東北~関東の各地に、福島原発事故で飛散した放射性物質の「除染」で出た汚染した土、汚染した草木の類:ゴミが放置され、文字通り「山積」している、と報告されていました。
政府の方針で、汚染ゴミは、「最終処分」に至る間は、その地域内の「中間保管施設」で保管することになっているとのこと。つまり、茨城県内で除染で出たゴミは、茨城県内で保管せよ、ということ。しかし、各地で「中間保管施設」の場所が、候補地周辺の人びとの同意が得られないため決まらない、それゆえ、「仮置き」の状態で「山積」しているのです(最終処分の場所はまったく未定!ですから、当分このままなのでしょう。私の住まいの近くの「農業集落排水」の浄化センター:下水処理場の一画にも保管されているようです)。
このTV報道で、私は、二つの点で違和感を感じました。
一つは、汚染ゴミの処分法を、一般の「生活ゴミ」と同じに考えている点です。すなわち、「ゴミはゴミの発生地で管理する」、という「論理」。一見、理が通っているように見えますが、はたして理が通っているか?
たしか1960年~70年代、東京では、生活ゴミは東京湾内に埋め立て処分されていた。
そのゴミ運搬車が、都内各地から、埋立地に向かって江東区内を通過した。大変な交通量だった。
その「災難」の「補償」として都が江東区に「提供」したのが、実は「都立江東図書館」だった・・・(現在は江東区に移管)。
現在は、生活ゴミは生活地に近い清掃工場(環状8号線沿いに数か所設けられている)で処理されているようです。
言うまでもありませんが、「汚染ゴミ」の「発生者・生産者」は、その地で暮している人たちではありません。したがって、ゴミはゴミの発生地で管理する、という「論理」は適用できないはずなのです。
この膨大な量の「汚染ゴミ」の「発生者・生産者」は誰か・・・?言うまでもありません。
しかしながら、この「問題」について、当の「発生者・生産者」は、だんまりを決め込んでいるように見えます。
そして、現政府も、同様です。それを端的に現わしているのがこの「問題」の扱いが「環境省」に委ねられていること。
たしかに、地域の「汚染」は環境問題ではある。しかし、私には納得がゆかない。
これが私の感じた二つ目の違和感です。
何故、「経済産業省」が関係しないのか?
その管轄下にある「原発」の起こした事故が「汚染問題」の「起点」なのであり、更に言えば、それは、「経済産業省」の下で意図的につくられた「安全神話」に基づき造られた「安全な原発」が起こした事故だったのではないか。だんまりを決めこむのは、どう考えても理が通らない、と考えるのが当たり前です。しかも、それどころか、またぞろ原発の稼働に邁進している!!のです。
20日ほど前の東京新聞に、次のようなコラムが載っていました。
ドイツの人たちの「夢」は、「理念」と言い換えられると思います。しかし、日本の「要人たち」の「夢」は、「利」念としか思えません。「経済=金儲け」という「誤解」。
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The implications of partial survival
ここまで触れてきた事例のほとんどは、16世紀あるいはそれ以降になって初めて改造されている。高さの低い open hall あるいは高さの低い二階建ての建屋は中世以降の事例にはほとんど見られない、と論証することと、これらは15世紀早々に屋根裏部屋付の open hall から発展したことを確かめることとはまったく別の問題である。そしてそれは、wealden 特有の建物の起源に関わる論点である。と言うのも、wealden house は当初の頑丈に造られた家屋が改造によって替ったものだということが示されない限り、現存の架構は当初の建物のままであるという論を反駁することができないからである。
註 この部分は、遺構については、必ず、「建設時から現在に至る経緯」を実証することが必要である、との言及と思われます。
記録のある15世紀建設の open hall のいくつかは、当初の建屋端部:付属室( chamber )部分の反対側に建っている。それゆえ、その部分が独立していることはなく、当初の hall (必ず後に建て替えられる)とともに建っていたはずである。たとえば、EAST SUTTON の The BLUE HOUSE ( fig62:下図 )では、wealden hasll と1468年に建てられた上手側の付属室部分( chamber と思われる)が当初の(15世紀初期建設と思われる)直交配置の棟( cross wing )に付け加えられている。
註 当初の「 hall +直交配置の別棟」→当初の別棟を残し「1468年に、当初の hall 部分を wealden 型式のhall と chamber部 に建替えた」と解します。
fig62 の EAST SUTTON に在る THE BLUE HOUSE では、wealdenn 型式の hall と1468年建設の上手側端部:付属室部分が当初の(おそらく15世紀初頭の) cross wing :付属室棟:に増築されていた。
同様のつくりは、CHISLET の TUDOR HOUSE でも見られる(平面図:fig69a:下図の一段目左 )。
他の例では、当初の建屋は必ずしも cross wing ではないが、新しい hall と同じ並びになっている。SMARDEN の HADLEY HOUSE では、後ろ側に aisle 型式の hall があり、PLAXTOL の SPOUTE HOUSE ( fig63 、平面図 fig68j )では、1424年建設の下手側の跳ね出しのある部分に hall と、その上手側に付属室が1445年に足されているが、これに似た事例は各地で見ることができる。時には、SMARDEN の BIDDENDEN GREEN FARMHOUSE のように、一世代あるいは二世代前に建てられたと思われる二つの付属室部分の間にあたらしい open hall が建てられているような例もある。
これらの事例には、当初の open hall の何らかの痕跡を遺している事例は一つもなく、おそらく、当初の open hall は、現存している建屋と構造的には別物であったか、あるいはそれよりも建設時期が早かったと見なしてよいだろう。
当初の hall がどのような姿であったかを知るためには、多種にわたる断片的な痕跡を通観して想定してみる必要がある。
SITTINGBOURNE の CHILTON MANOR や、AYLESHAM の RATLING COURT などでは、14世紀末あるいは15世紀建設と思われるcross wing :付属室棟:が、より初期の建設と思われる現存の aisled 型式の hall に増築されている。これらの建屋は、跡形もなく失せてしまった他の中世の hall の cross wing とはいささか趣を異にする。
LITTLE CHART の ROOTING MANOR や STAPLEHURST の EXHURST などの14世紀後期の cross wing :付属室棟:とは大きく異なる。これらの wing は、CHILTON MANOR や RATLING COURT よりも数等小さな hall に付け足されている。しかし、これらの wing は、現存する中では最も大きく、建物の呼称や諸記録は、これらが当時の平均的な農家よりも上層に属する人びとの建物であることを思わせる。しかしながら、ケント地域には、 CHART SUTTON 教区のように、自由民や小作農により建てられた同様のつくりの建物が現存する地区がいくつか在る。
CHART SUTTON 教区 には、桁行2間の wing:付属棟: が3事例現存している。すなわち、1377年に建てられた OLD MOAT FARMHOUSE 、1400年建設の DUNBURY FARMHOUSE 、そして15世紀初頭:1430年代までに建てられたと推定される WHITE HOUSE FARMHOUSE である。
WHITE HOUSE FARMHOUSE では、hall は16世紀に改築されていて、当初の姿を知る唯一の手掛かりは、wing:付属棟:の隅の柱に遺されていた 枘穴: だけである。それは、以前在った高さの低い hall の上屋桁の位置を示していると考えられる。OLD MOAT FARMHOUSE では、現存の wing と同時代かそれよりも早く建てられた open hall が16世紀に改築されているが、その建物の垂木や繋梁は新しい hall に再利用されているが、それを見ると、前代の hall の中央の小屋組の繋梁には crown post と king strut が併用されていることが分る。ただ、 NURSTEAD COURT のような堂々とした姿ではない。これらのことから、新しい hall は、いずれも aisled 型式の当初の hall が改築されたと考えてよいだろう。
DUNBURY FARMHOUSE には、wing:付属棟: よりも旧く理解しがたい single aisled hall :片側だけ aisle 型式の hall が遺っている。その建設時期や正確な形状は明らかではないが、重要なのは、それがwing:付属棟:よりも旧いのに、木材が次世代の建物: wing と同様にしっかりと組まれていることである。
これらの建物の他に、この教区(CHART SUTTON 教区)には、、1379~80年頃建設の初期の有名な WEALDEN HOUSE である CHART HALL (旧 CHART BOTTOM )FARMHOUSEが在る。そして、その近在の STAPLEHURST 、SUTTON VALENCE 、EAST SUTTON 教区にも旧い家屋が数多く遺っている。その中には、SUTTON VALENCE の BARDIGLEY FARMHOUSE の古風の aisled hall も含まれる。それは、14世紀後期または15世紀初期の建物と同じく、hall と 端部の付属諸室がともに遺っているが、それぞれ別の架構である。その多くは地域の平均的農家よりも大きいが、STAPLEHURST の EXHURST を除けば、普通の地主層の建物に似た事例は一つもない。
この地域の14世紀後期~15世紀初期の遺構の例外的な特徴や BARDIGLEY FARMHOUSE、DUNBURY FARMHOUSE、OLD MOAT FARMHOUSEなどに在るかなり初期の hall の様態からすると、これらの家屋の建て主が、建て替えにあたり一時的なつくりで済ました、とは考えられない。EAST SUTTON の The BLUE HOUSE (前掲 fig62写真参照 )もその一例だが、そこでは15世紀初期の cross wing に接する hall が1468年頃には WEALDEN 形式で再建されている。
後に触れるが、ケントのこの地区で見られる遺構は、地域内の各所に多く遺っている中世の家屋とは、いささか様相が異なり、この点は詳しく考察されなければなるまい。
SELLINDGE の SOUTHENAY COTTAGE 、WESTBERE の ASHBY COTTAGE のような中世の最貧層の人びとの家屋は、痕跡がすべて失われてしまっているが、一時的・仮設的なつくりで建てられていたと思われるが、その形成の過程の詳細は分からない。しかしながら、ここまで触れてきた新たに建てられた高さの低い hall や二階建て部分:付属諸室部分:の(中世的には見えない)様態を見ると、きわめて注目すべきことなのであるが、WEALDEN 型式 のような大きな建物が、一時的・仮設的建物から変ってきたように思われる。なぜなら、遺されている多様な形跡・痕跡は、かつては、現存する遺構よりもかなり多くの高さの低い hall (高さの低い hall や二階建て部分:付属諸室部分:あるいは高さの低い別棟など)が、存在していたことを思わせるからである。
このことは、これらの多くの建物の架構が、現存する家屋のそれと同じくらい頑丈に造られていることを示している。
それゆえ、それらが遺ることができなかったのは、必ずしも構造的な理由ではないと考えてよく、小地主や小作農たちの間で、そういう頑丈な造りの家屋が永く維持されなかったのには、何らかの別の理由があったものと思われる。すなわち、彼らが自らの家屋が住まいとして十全であると見なして過ごし続けることは滅多になく、大抵何らかの部分的な改造・改修が繰り返し為され、結果として簡易な造りが頑丈で長持ちのする架構に変っていったと考えられるのである。つまり、度重なる改良・改修が長持ちする家屋を産んだということである。
これが、何時頃から始まったのかは、今のところ推測することができない。しかし、この変化が直接14世紀後期の新しい架構の誕生につながるものではないことだけは確かである。
おそらく、14世紀後期までには、旧い架構型式の弱点・限界は広く知られるようになっており、新たに二つの形式の架構が試みられていた。一つは、最新の高佐の低い hall に儲けた、より使いやすい地上階のある高さのある cross wing であった。この方策は、時代の要求に最も簡単に応えられる技法であり、おそらく最初の「解決法」であったのだが、16~17世紀になって、改造・改修がしにくいことが分ってくると、取り壊されることが多かった。
もう一つのより新しく、建物すべてを建て直す必要がない場合に最も採りやすい方策である。それは、、一つ屋根の下に高さのある open hall と総二階建ての付属諸室部分を収めるために、梁を承ける桁となる wall plate の高さを高くする策であった。その結果、 hall の高さは以前よりも高くなり、中世の住居の標準形: wealden 型式と上階跳ね出し型式:の先駆けとなったのである。そして、今はこれがケント地域特有の形式と考えられ見なされている。そして、これらを建てた人びとには思いもよらないことであったろうが、その建物のつくりは、後世の生活に適応すべく改造すること:二階や、時には屋根裏部屋を設け部屋数を増やす:が容易であり、それゆえ、全面的に建て替える理由も少なかったのである。
この新しい形式の家屋は、ごく普通の工法になっていくが、しかしその流れは遅く、大多数の家屋がその工法で造られるようになるのは15世紀の後半になってからのことであった。現存の open hall の半数以上がwealden 型式と上階跳ね出し型式になってくるのは1370年代以降であるが、そのようなつくりの建物が、中世に造られた家屋の大きな部分を占めるなどというのは信じがたい。実際は、こういうつくりの建物の他に、目立たないが多数の高さの低い建物が在ったのである。それらの多くは寿命が短かったかもしれないが、つくりのしっかりした建物も在ったはずで、それらの中には、時代の要求に合わせるべく、部分的ではあるが、高い cross wing :直交配置の別棟:を増補する事例も多数在っただろう。現存する中世遺構の量、型式、建設時期が分析される中で、次の課題わは、何が生き永らえたのか、という点についての考察であろう。数多くの建物が喪失している、という事実を念頭に置いておくのはかなり難しいことではあるが、それら喪失してしまった事例を除いてしまっては、ケント地域の住居の中世後期の全体像を正しく描けくことはできないのである。
この節 了
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次回は次の節を紹介の予定です。
The pattern of late medieval development
The chronology of surviving houses
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読後の筆者の感想
興味深かったのは、架構・工法の変遷、その契機が、日本と全く異なる点です。
あえて言えば、日本の場合、時代が変っても、工法・技法に「継続性」がある。
しかし、これまで読んだ限りでは、どうも、彼の地では、それが窺えないように思えます。彼の地では「型式」が先行する・・・。そのように思えるのです。
そのあたりは、後の節で明らかになるのかもしれません。
前にも書いたように思いますが、この書の、考察・論議の過程を詳細に開示する著述形式は、日本の「専門書」では見かけたことがなく、きわめて新鮮です。
それゆえ、専門外の読者にも、あたかも「推理小説」を読むかのように、「当面する問題」が何か、考える「機会」が生まれるのです。
「専門」「専門家」の「意義」「存在理由」を再考する必要を、改めて感じています。
パリの「事件」に関しての西欧の「首脳」たちの発言:「私たちの『価値観』への挑戦である」という発言に、大きな違和感を感じています。日本の現総理も、それに同調するような文言を発しています。
一方、「事件」を起こした人びとの「発言」には「十字軍」という語が使われています。「十字軍」って何だったっけ?
何か突然「中世」に引き戻されたような「感覚」を抱き、そのあたりの「世界史」を再び紐解いて見たくなりました。
高校で、「世界史」の教師が、「中世」について、「西欧」世界と「サラセン(帝国)」世界との「拮抗」として熱弁をふるってくれました。なかでも、「サラセン」の時代があってこそ、近・現代があるのだ、と語られたのを印象深く覚えています。
これを「復習する」のは大変だ、と思っていたところ、そのあたりを明解・明快に解説している一文を「ブログ・リベラル21」上に見つけました。大変よく分ります。全文を転載させていただきます。
つい忘れてしまいますが、「今」は突然「今」になるわけではない・・・。
一方、「事件」を起こした人びとの「発言」には「十字軍」という語が使われています。「十字軍」って何だったっけ?
何か突然「中世」に引き戻されたような「感覚」を抱き、そのあたりの「世界史」を再び紐解いて見たくなりました。
高校で、「世界史」の教師が、「中世」について、「西欧」世界と「サラセン(帝国)」世界との「拮抗」として熱弁をふるってくれました。なかでも、「サラセン」の時代があってこそ、近・現代があるのだ、と語られたのを印象深く覚えています。
これを「復習する」のは大変だ、と思っていたところ、そのあたりを明解・明快に解説している一文を「ブログ・リベラル21」上に見つけました。大変よく分ります。全文を転載させていただきます。
つい忘れてしまいますが、「今」は突然「今」になるわけではない・・・。
少し下火になってきましたが、例の「杭打ちデータねつ造事件」。杭打ち施工会社あるいは現場担当者個人に責任を「集約」しておしまいにしようという「魂胆」が見え見えです。
この杭打ち担当者を「下請け」と呼ぶのが大方のメディアです。
では、「下請け」という語の語義は何か。
「親会社などが引き受けた仕事を他の者がさらに請け負ってやること」との解説は「新明解国語辞典」。
「請け負った人から、その仕事の全部または一部をさらに請け負うこと」という解説は「広辞苑」。
「ものづくり」の場面で、何から何まで、すべて一人でこなす(つまり、必要な材料や作業に必要な道具や諸品・・・などをすべて自前で用意し仕事する・・)、ということはあり得ません。
そのあたりについて触れたコラムを見つけました。数日前の信濃毎日新聞のコラム「斜面」です。web 版から転載します。
つまり、一つの仕事は、多くの人びとの「協力」の下で為されるのです。そのとき、その「協力」した人びとは、辞書の言う「下請け」でしょうか?
否です。あくまでもそれは「協働者」「協力者」なのです。かつての大工棟梁は、そのことがよく分かっていたのです。
現在の施工会社に、その「意識」があったならば、杭打ちミスの責任を一部の者に転嫁して済ます、などということはありえないのです。
なお、記事の中に、かつての工法(いわゆる「伝統的工法」でつくられた家屋には倒壊事例がなかった、とのことが書かれています。
確かに、当時報道された映像でも、そのような印象をもったことを覚えています。詳細な「報告」を知りたいと思ってます。
この杭打ち担当者を「下請け」と呼ぶのが大方のメディアです。
では、「下請け」という語の語義は何か。
「親会社などが引き受けた仕事を他の者がさらに請け負ってやること」との解説は「新明解国語辞典」。
「請け負った人から、その仕事の全部または一部をさらに請け負うこと」という解説は「広辞苑」。
「ものづくり」の場面で、何から何まで、すべて一人でこなす(つまり、必要な材料や作業に必要な道具や諸品・・・などをすべて自前で用意し仕事する・・)、ということはあり得ません。
そのあたりについて触れたコラムを見つけました。数日前の信濃毎日新聞のコラム「斜面」です。web 版から転載します。
つまり、一つの仕事は、多くの人びとの「協力」の下で為されるのです。そのとき、その「協力」した人びとは、辞書の言う「下請け」でしょうか?
否です。あくまでもそれは「協働者」「協力者」なのです。かつての大工棟梁は、そのことがよく分かっていたのです。
現在の施工会社に、その「意識」があったならば、杭打ちミスの責任を一部の者に転嫁して済ます、などということはありえないのです。
なお、記事の中に、かつての工法(いわゆる「伝統的工法」でつくられた家屋には倒壊事例がなかった、とのことが書かれています。
確かに、当時報道された映像でも、そのような印象をもったことを覚えています。詳細な「報告」を知りたいと思ってます。
今年はケヤキが、きれいな黄葉にならず一気に茶色になってしまいました。
追記 11月3日:憲法公布の日
昨晩、偶然、bs-tbs で、琉球新報をはじめとする沖縄の新聞社の基地問題の取材に密着したドキュメンタリーを見ました。彼らの行動こそ、まさに「沖縄の人びとの気持ちに寄り添う」ものでした。この新聞人たちの行動をして、「偏向」と呼ぶ一派がいる・・・。
そういう動きに対する沖縄タイムズの編集者の「力の弱い者の立場に立つことは当然・・・、それを《偏向》と称することは理にもとる」との趣旨の発言が印象に残りました。
3日付の琉球新報の社説は、辺野古の件で現政府が採っている策について、その「理」を糺す論です。まったく同感です。web 版から転載追加させていただきます。
『・・・人びとの気持ちに寄り添って・・・』
これは現政権の「首脳たち」が最近よく使う文言です。沖縄・辺野古の基地新設に絡んでも、この「文言」が繰り返され使われています。私は、そのたびに不快感を抱きます。「気色の悪い」というのは、まさにこういうのを言うのではないでしょうか。
当然ながら、沖縄の方がたにとっては、「不快感」などでは済む話ではない。
30日付の「琉球新報」の社説は、この沖縄の人びとの「思い・想い」を鮮烈に表した論説を展開しています。web 版から転載させていただきます。
追加転載