暗い金曜日に思う

2015-01-30 17:08:29 | 近時雑感

今日は朝からずうっと冷たい雨。東京では雪とのこと。暗い一日でした。
ヂンチョウゲの開花が待ち遠しい・・・。


近ごろ、メディアを賑わす「言葉」を目にして、これでいいのか?と思うことがいっぱいあります。
たとえば、「イスラム《過激》派」「イスラム《原理》主義」「《積極的》平和主義」・・・・。
どの用法も、《  》で括った部分の意味が伝わりにくい、というより不鮮明。どのようにも「都合よく」解釈できるいわゆる「玉虫色」(玉虫に申し訳ない!)。
意味するところを正確に表すためには、何行にもわたる「解説」が要る。しかし、多くの場合、毎回解説することは省略され、「解説」なしで使われる。そうすると、「都合よく解釈される言葉」が世の中に飛び交うことになりかねない。
このあたりを「上手に」使う人たちもいます。「イスラム《国》」などというのは、その典型ではないでしょうか。いつの間にか、そういう《国》が在るかの「錯覚」が世の中に生まれてもおかしくないからです。多分それが「狙い」なのでしょう。
そういう事態を危惧して、「IS(IL)」という呼称で表記し続けているメディアもあるようです。「ISIL」の IS は islamic state の略だから同じだとも言えますが、ただそのように略されると、いわばそれは単なる記号のごとくになり、 state :国の意が薄れます。つまり、そういう「国」がある、と人は思わないはずです。

「過激」という語も、私には気にかかります。
英語では radical という語があてがわれているようです。確かに英和辞書にはそのような訳が載っています。ただ、それは二番目の意味の一つ。第一義は、抜本的、徹底的な、根本的な、基礎的な、ということ。第一義に根ざすならば、急進的過激な考えになる、ということから、急進的、過激な、との意が派生するようです。元は、ラテン語の「根」という語だそうです。したがって、当然そこには「暴力的な行動」を伴う、というような意は含まれていません。
「イスラム《過激》派」=「イスラム《原理》主義」とも言われます。しかし、その「行動」が、イスラム教の「根本的な」原理」に拠っているとも思えません。私はイスラム教について詳しくは知りませんが、少なくともその発祥から考えて、他に「力」で接する、あるいは他を認めないというような教義があるはずがない、と思っています(それは、ユダヤ教、キリスト教も同じはず。もちろん仏教も。「宗教」が何故生まれるのかを考えれば、当然ではありませんか?)。
それゆえ「イスラム《原理》主義」という表現・表記も羊頭狗肉の類にしか見えてこないのです。
「《過激》派」の英訳語には、radicals の他に extremist があるようです。extreme :「極端な、過激な」という意味が第一義。そして、最も適切な語は、terror から派生した terrorism 、terrorist という表記のようです。

しかし、テロには屈しないと大見得を切ったわが宰相 の、「人道支援」をして「《積極的》平和主義」の一行動 であるいう「《積極的》平和」も「怪しげな用語」です。その危うさについては、先に「山椒言」紹介の記事で、触れました。

しかし、いったい、何故イスラム世界でこのようなことが多発するのでしょうか?
この点について、最新の(1月30日付)「リベラル21」に「キリスト教圏とイスラム世界の関係はややこしい」という貴重な解説記事が載っていました。
いわゆる「中東地域」と西欧、欧米との関係の「歴史的背景」が要約・詳述されています。問題の本質が、それこそ radical に分ります。大変参考になりました。病は重いようです。

2月2日付信濃毎日コラム「斜面」へリンクします。[2月2日 9.20 追記]

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暗い一日、考えることも暗くなります。止まない雨はない・・・。明日は晴れるようです。

「中世ケントの家々」の紹介、難解な英語の読解に難儀しております。もう少し時間をいただきます。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-6

2015-01-24 11:56:57 | 「学」「科学」「研究」のありかた

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時間がかかりましたが、ようやく終わりました。

今回からは、2  Houses of the early and mid 13th century の章の紹介になります。分量の点で、数回に分けることになります。

長くなりますので、一気に通して読むとくたびれると思います。

文意・訳に間違いのないように留意してはいますが、なお不明な点があるかと思います。その際はコメントをお寄せください。

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[変換ミス、文言補訂 25日10.25][図版をスケール入りの図に更改 2月3日14.00]

13世紀初期~中期にかけての(ケントの)家々・・・・その1

13~14世紀に建てられた「domestic architecture :イギリス建築」で上級の部類に属する建築についての研究は、この間、ややもすれば無視されてきた。
これについての研究は、1851年に刊行された Turner and Parker 著“ Domestic Architecture in England ”第一巻に始まり、今世紀の Margaret Wood 他諸氏の研究に引き継がれてはいるが、未だに多くの課題が残されている。
なぜなら、この部類の建物は事例が少なく、また所在が広域に散在しているうえ、ほとんどが断片的にしか残存していないからであり、また、「各地域の建築」というよりも「イギリスの建築」として括られることが多く、それゆえ、「地域(性)に根ざした: vernacular な建築」の研究者たちからは無視される傾向が強かったからである。
  註 domestic architecture に対する適切な語が見当たらず、この場合は「イギリスの建築」としました。我が国の場合ならば「日本(の)建築」。
    vernacular architecture は、「地域(性)に根ざした建築」としました。「土着の」建築、「民俗」建築とでも言うか?
最新の厳密な調査・記録も少なく、おそらく、再検討を加えると、その様態は既往の研究の示すところよりも数等複雑であることが明らかになってくると思われる。最近の著作のいくつかが指摘しているように、そこには検討すべききわめて広範な問題が存在するのは明らかなのだ。しかしこれらについては、既往の文献では対応できず、問題を再考するにあたって、先ずその基盤づくり、すなわち基礎資料確保のための膨大な実地調査が必要となった。
今回の調査・研究では、研究期間が限られてはいたが、ケントに在るかなりの数の「domestic architecture :イギリス建築」が収集記録された。ただし今回は、城郭、大主教の宮殿、 Templar の大邸宅などの調査は除外した(必要に応じ、参考することになる)。
研究の関心は、農村地域の建築に集中し、現存する三つの石造建築遺構の調査とその当初の用途を解明することから始まった。
この三建造物、すなわちLuddesdown Court (在 Luddesdown 、1220年あるいは1230年代造)、Nettlestead Place (在 Nettlestead 、13世紀中期造)、Squerryes Lodge (在 Westerham 、13世紀中期造 )はすべて「 first-floor halls 」型の建物として解釈されてきている。
  註 TemplarKnight Templar という用語があるようです。 wikipedia の解説を一部転載します。
            The Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon (Latin: Pauperes commilitones Christi Templique Salomonici), commonly
            known as the Knights Templar, the Order of the Temple (French: Ordre du Temple or Templiers) or simply as Templars, were among
            the most wealthy and powerful of the Western Christian military orders[4] and were among the most prominent actors of
            the Christian finance. The organisation existed for nearly two centuries during the Middle Ages.
            教会がらみで一定の地位を有し、財力もあった者と思われます。ご存知の方ご教示ください。

     石造建築遺構の固有名詞について wikipedia から、要点を転載します。いずれも、イギリスでは有名な「文化財」建造物のようです。
     Luddesdown court : This very rural parish, forming part of the North Downs Area of Outstanding Natural Beauty, is located in a dry valley to the
                  south of Gravesend and is named after a scattered group of houses and farms around Luddesdown Court and its church
                   next to it.
     Nettlestead Place : Nettlestead Place is a medieval manor house in the heart of Kent.
     Squerryes lodge : Squerryes Lodge is a grade II* listed building in Westerham, Kent, England.

Nettlestead Place は、 fig6(下図)で分るように、非常に美しいヴォールトの円天井を有する建物である。その二階部分は、細部は当初とは大きく変えられてはいるが、それでもなお、当初の姿を彷彿させるに十分である。

   註 first floor : イギリスの場合は、地上から数えて一番目の階→日本の二階の意。
      latrine : 辞書には「(掘り込み)便所」とあります。二階レベルで「掘り込み」とはこれ如何に?単に「便所」の意か。

これに対して Luddesdown CourtSquerryes lodge には、より多くの細部が残存している。

Luddesdown Court には、fig7のように、大きさの異なる三つの二階建て部分が残っていて、そこでは屋根の構造、「window seat :窓腰掛」、中世風装飾、当初の暖炉の様態などをうかがい知ることができる。


   註 window seat : 室内の窓下に造りつけにした横に長い腰掛(研究社「英和中辞典」による)

Squerryes lodgeには、fig5b のように、二階建て部分が二か所あり、一つにはplate traceried window が設けられていた。

   註 plate-traceried window
     tracery : はざま飾り、トレーサー。ゴシック式窓上方の装飾的骨組み(研究社「英和中辞典」による)参考図が下図
     
     plate-traceried の意不明。「平らに埋められた飾り窓」との意か?
     なお、 fig5 図中の b)の解説も理解できません。blocked とは、閉鎖された、という意味かと思われますが、この写真が、図上 A の窓であるとして、
     何処から撮った写真なのか分りません。また、図の窓の幅と写真の窓幅も同じに見えません・・・???

この二つの建物の出入口は、建物の「間取り」「動線」を探る一定の手掛かりになる。現存する構造の大きさ、その素晴らしさから、それが first-floor hall としてつくられた主室を有する一戸の家でと見なされるのも当然ではある。しかし、Nettlestead Placeについては、この解釈は受け容れられず、現在も中世後期の門番小屋から入る広大な敷地のなかに現存している建屋はfirst-floor hall ではなく、往時を知る痕跡をすべて失せてしまった単なる「大きな室」にすぎないのではないかと考えられ、一方、 Nettlestead Place は三つの遺構のなかで、主要部の地上階が最大規模であることから、 first-floor hall の形跡を確かめるための恰好の事例とされた。ケントの建築遺構をより適切に考察するには、 first-floor hall の実態を知ることが不可欠だったからである。
      なお、これらの建物については、次回以降の項目でより詳しく解説・説明されています。


First-floor hall についての再検討・・・その役割( function )は何か

M W THOMPSON 氏は、first-floor hall は、征服された時代に大陸から移入された上流階級の建築形式で、元来当地域の上層の階級の建物、とりわけ城郭や王宮に見られた ground-floor hall 形式に代ってつくられるようになった形式である、との説を述べている。
一方で、first-floor hall はむしろ稀で、二階建て家屋の多くがfirst-floor hall として誤解されてきたに過ぎない、という別の解釈も BLAIR 氏により説かれている。
問題は多岐にわたり、論点も多様に残っているが、城郭( keep )や楼閣( castle )では、first-floor hall が普通のつくりであったことは確かである。ケントの場合は、DOVER や ROCHESTER の楼閣( castle )、それよりは小さいが EYNSFORD 城や WALMER の古い領主の大邸宅( Manor House )などがその事例と言える。しかし、これ以外の様態ははっきりしない。イングランド全体で見れば、大きなfirst-floor hall が、「主教の官邸( bishops'palace )」として多数遺っている。WINCHESTER 、NORWICH 、WELLS 、LINCOLN の官邸( bishops'palace )などがその事例である。これらの事例は、first-floor hall が後の時代に ground-floor,aisled hall:側廊付hall に代ったものだと考えられていたが、最近は多くの疑念が出てきている。CANTERBURY の LANFRANK の hall(と考えられる室・空間) は、二階に設けられているけれども、この解釈では説明がつかない。
実際、これら初期の事例の機能・使われ方はまったく不確かであり、first-floor hall は、当初は「一時の流行」であったものが、後になって定着したのだ、という見かたは、もはや通用しなくなっている。OLD SARUM、WILTSHIRE、FAHNHAM、SURREY、HEREFORD の「主教の官邸( bishops'palace )」では、 ground-floor hall は、12世紀に既に建てられているのであり、一方、first-floor hall が WELLS、SOMERSET、ST DAVID'S、DYFED、SOUTHWARK、LONDONなどで続々と建てられるようになるのは、13世紀になってからである。英国王宮でも12・3世紀のfirst-floor hall と考えられる事例は少ない。ただ一つ確実に思えるfirst-floor hall の例は、 WESTMINSTER の LESSER HALL であり、諸種の資料の中から、他の事例にfirst-floor hall を探すことははなはだ難しい。なぜなら、「かつて存在した」という事実を確かめる痕跡がすべて失われしまっているからである。12世紀の後半、HENNRY Ⅱ世が、 SAUMUR に AISLED HALLを建てようとしたらしい。当時、フランスの王室や貴族の間では、大広間: hall を二階に設けるのが慣例になっていた。それゆえ、HENNRY Ⅱ世は、イギリスの慣行に従い AISLED HALL を建てようとしたと考えてよい。1190年代に、既に、 ALEXANDER NECHAM 氏は「論考」中で、当時イギリスでは、HALL という語は、地上階に建つ AISLED HALL のことを意味し、 AISLED HALL は建築形式:つくりかた:の一つであると述べている。
   註 HENNRY Ⅱ世:在位1154~1189年。
      AISLED HALL :「身廊( nave )+側廊( aisle )」形式:「上屋(身舎)+下屋(庇・廂)」形式の空間・大広間
      ALEXANDER NECHAM 氏の論考:1851年刊の「家屋の構成」についての著作中の「 AISLED HALL 生成の経緯」についての論考(原註より)。
   筆者の読解
   イギリスでは、hall は地上階に建てるのが普通であったが、ある時期から、hall を、一階に代り二階部分に設ける例が現れる、ということのようです。
   そして、地上階に設ける場合は、AISLED HALL 形式の建て方が多かった、ということでしょう。この事例は、後に紹介されます。


     
実際、当時のイギリスの農村地域の住居で、いろいろな形式の中から選り好みをして建てるなどということは考えられない。NECHAM 氏が書いているように、12世紀後半までは、普通の hall は、地上階で AISLED 形式にするのが普通で、13世紀中には、この AISLED 形式ground-floor hall が農村意域での標準的なつくりかたになっていたと考えられる。
hall へは、長い壁面の一端に設けられた出入口(日本で言えば「玄関」にあたる主出入口を意味すると解す)から入り、それに接する切妻状の壁にある2~3個の出入口がサービス諸室に連なり、おそらく厨房への通路にも通じていたと思われる。
hall の暖房は、暖炉に拠っていた。主出入口から離れた hall の上手に当主の座があり、暖炉は hall 中央部に、当主の座の方へ向けて設けられていた。そして、通常、当主の座側の更に奥の壁の出入口が個室( private room )群へ通じていた。
このような構成は、多少の違いはあるものの、中世を通じて一般的に見られるが、これは、ground-floor hall形式の空間のありようについて、人びとが、きわめて明確に認識していたことを示していると考えてよい。
すなわち hall は、住居の中心:focal point であって、そこから数多くの出入口で、住居の各部に通じ、そのように構成することで「一家の暮し」が維持される。そして、これはすなわち、この住居に暮す人びとそれぞれのの「立場・地位: status )」に応じてそれぞれの居場所が定まっていることをも示している。
この空間構成の考え方は、12世紀以後、王宮から現存する小さな open hall 形式の住居に至るまで普通に見られるようになり、その空間の構成の仕方に潜む階層原理( hierarchical arrangement of spaces )は、当時の「一家構成員」の居場所と「一家の中での立場・地位: status )」との「関係」をも知る手掛かりにもなる。
   註 この建物の構成の説明は、具体的に図がないので分りにくいかもしれません。
      ここでの説明は、「日本の建築技術の展開-1・・・建物の原型は住居」で示した「住居の空間の構成原理」と同様のこと、すなわち、
     「住居の中で暮す人びとが時どきに為す諸々の所作は、その時どきに居る場所の、その住居内での位置の性質・様態に応じて為されること、
     つまり、諸々の所作は「時どきに居る場所」の、住居の主出入口(外界への唯一の接点)からの『心理的な距離』に応じて為されている、ということ
     ゆえに、その所要の場所がつくられる場合も、それに応じて『設けられる』こと、を説明している、と考えられます。
     なお、「日本の建築技術の展開-1」では、「出入口」から「奥」に向い、「三人称の世界」→「二人称・一人称の世界」へと展開すると説明しています。
     そこでは、特に「家族の中での status 」との関係は触れていませんが、主人の座、主婦の座などで、この書の説明と同じ見方ができるでしょう。
     武士階級の建物では上下・主従関係がより如実に空間の位置どりに表れてきます。、
     「日本の建築技術の展開-1」で触れた如く、日本の原初的住居には一般に、一つの空間が分節化して諸室が形成される場合が多く見られますが、
     この書が解説しいる「石造」事例のように、西欧には、主空間:hall に諸室を付加する場合が多いようです。構築法の違いによるのかもしれません。
        古代ローマの住居址などがその好例です。     
     この書は、その場合の空間を付加する判断の根拠が、主出入口からの「心理的距離感」である、と解説しているのだと考えられます。     
     すなわち、外界→主出入口→ hall=focal point →諸室:「三人称の世界」→「二人称・一人称の世界」。
     
     筆者の感想
     このような「住居観」あるいは「論じ方」は、従前の西欧の建築関係書では稀有ではないでしょうか。
     これまでの多くの「建築論」「住居論」は、西欧に倣った日本の場合も含め、「過程」を省いた「結果」だけで語る傾向が強いように思っています。
     それゆえ、私は今回、初めてこのように「解説」する書に接し、大いに新鮮に感じ、いささか驚いてもいます。
     そして、洋の東西を問わず、「人間の感覚=考えること」は同じなんだ、とあらためて思っています。
     考えてみれば(考えるまでもなく)「感覚」は人間の根幹なのだから当たり前なことなのですが!
 

一方で、first-floor hall であることが確実な事例、first-floor hall ではないかと見なされる事例を検討してみると、両者ともに、その構成が先述のfirst-floor hall と異なることが分る。
たとえば、上階につくった glound-floor hall の単なるレプリカだったりする事例もある。14世紀の大主教の SOUTHWARK の官邸がその一例である。そこでは、サービス諸室は別の所にあり、暖炉は脇の壁のなかに設けられ、個室・私室群の場所の設置場所も多様で無原則である。サービス諸室への直接のアクセスの欠如、あるいはまた hall 中央舞台dais :hallの正面・中心になる場所のことを指すと解します)の位置がはっきりしないなどは、そこにはまったく別の、より私的な(より privacy のある)場所を確保したいなど、別の役割・目的があったのではないかと思わせる。[文言補訂 25日10.25]
すなわち、一般に、家屋は、ground-floor hall形式とすることが、暮しを営む上で望ましいと考えられ、また、より大人数が生活する建物の場合には、更に多くの共用の室や個室を必要に応じて追加すればよい、と考えられていたのであろう。
つまり、単純な、ground-floor hall形式だけではなく、それを基本形として、いくつかの室を用途に応じ付加してゆくつくりかたが一般に行われていたのである。例えば、 ROCHESTER CASTLE では、領主は天守( keep )の hall の他に、城壁( bailey )の一郭にも第二の hall を有しているが、この方式は、他の城館( castle )城郭や司教の官邸( palace )の多くにも見られる。

冒頭でその言を紹介した THOMPSON 氏は、LINCOLN のように、二つの hall を有する場合、上階の hallCAMERA と呼ばれることが多く、おそらく、領主のより私的な用務(いわゆる書斎か)に供せられたものと思われる、と述べている。
これらの事実は、確かにground-floor hallに代って設けられたのが上階の hall である、との説を強く印象づけるのではあるが、しかし、WINCHESTER 、HAMPSHIRE その他の事例に見るように、一般に、上階を持つ建物は、初期のground-floor hallを併設しているのが普通であって、現存する多くのground-floor hallは、それを引き継いだ hall であると考えられるから、必ずしも first-floor hall ground-floor hallの代役として設けられた、とは言い切れないのである。[文言補訂 25日10.25]
   註 CAMERA : 辞書では「判事の私室」とあり。原義は、「アーチ形天井(の部屋)」とあります。

                       13世紀初期~中期にかけての(ケントの)家々・・・・その1  了

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次回は、次の二項を紹介の予定です。
Chamber blocks 
Detached Chamber Blocks    
   註 Chamber blocks :私室にもなる数室の小室からなる建屋の意のようですので、あえて「個室群棟」と訳します。
     Detached Chamber Blocks : 「本屋」から離れて建つ「数室の小室からなる建屋」の意のようですので、「分棟型個室群棟」と訳します。 
次回までも、また、少々時間をいただきます。

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筆者の読後の感想
   ケント地域を問わず、イギリスの農村では、住まいを木造の ground-floor hall形式で建てるのが一般的で、それが domestic なつくりであったと、
   いくつもの局面で例証しながら、著者らが、言わば「執拗に」説くのを読み、最初は何故?と訝りました。
   しかし、読み続けてゆくうちに、どうやら、ある時代から、イギリスでは、大陸から伝わった first-floor hall が「高級なつくり」として主流になり、
   それが現存の農家住居のつくりとなったとの解釈がイギリス建築界の定説であったらしく、その根強く世の中にも根を張った「定説」に対し、
   「現存の農家の建屋の構成は、農村の人びとがその生活・暮しの変容に応じて、つくり方を変えてきた結果に過ぎない」ということを説明するために、
   どうしても必須な「作業」である、と著者らが考えたからだ、ということが分ってきました。それほど「定説」が根強かった!?
      著者らの考え方に、当然ながら、私は同意します。エライ人だけが世の中をつくるのではないのだから・・・・。
   あらためて、現代イギリスでも、いわゆる「文化伝播論」:「文化」は「高い」ところから「低い」ところへ伝わるとの「論」:が、根強かったのだと知りました。
   「文化伝播論」の根にあるのは「優越・格差意識」、それは即、一般庶民には「創意」は存在しない、という見かたに連なります。
   しかし、究極では、一般庶民は強い、私はそのように考えています。だが、日本の現在は、如何? 

     

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忘れない!

2015-01-20 11:35:07 | 近時雑感

寒い日が続いていますが、春は確実に近づいています。
ヂンチョウゲの蕾がかなり膨らんできました。


[参考記事リンク先追加 25日 9.40追記]

一昨日、18日は、私にとって、忘れられない日です。
一昨年、2013年のその日、私が脳出血で入院を余儀なくされた日だからです。今は、多少の「異変」を持ちながらも、何とか普通に暮らすことができています。
   現状に至るまでの経緯については以前「回帰の記」で書かせていただきました。
その日は、当時施工中であった山梨の「心身障碍者の居住施設」の現場に向う予定でした。が、動けなくなり、やむを得ずとりやめました。

この施設は、30年前に、主に東京の西部域に暮す心身障碍者(発達遅滞者)の保護者が集まり、自分たちで基金を出しあい、自分たちで土地を探して創設した施設です。東京西部に近く、なおかつ自分たちの費用でまかなえる土地、それは東京にはない。そこで、隣接の山梨が選ばれたのです。その山梨で土地を選定するにあたって、敷地周辺の方がたに施設の目的、役割を理解いただく過程が一番大変であったと言ってよいでしょう。「心身障碍者(発達遅滞者)」の実相が一般には理解されていないからです。

18日→現場→「心身障碍者施設」→創設時のことども・・・という具合に創設時の頃のいろいろを思いだしていたとき、ある新聞記事に目がゆきました。
東京近在の都市で、「精神障碍者のグループホーム建設」に対する反対運度がある、との内容。
こういう反対運動は、保育所建設でも最近はあるらしい。
私は、そこで目にした精神障碍者ホーム建設反対の「理由」に違和感というより「衝撃」を覚えたのです。
反対の理由は、「社会的地位の高い住民が多い地域につくるな・・・」。
いったいこれは何だ?!
普通は、心身障碍者(発達遅滞者)施設の場合は、心身障碍者(発達遅滞者)の行動が「常態でない(ように思える)」ので不安だ、保育施設などの場合は、騒音がうるさい、などが主な反対理由。
ところが、この反対《運動》の場合の理由は、これとはまったく「異質」で、それこそ「常態でない」と私には思えました。
そこに見えるのは、「優越意識」「選民:エリート意識」以外の何ものでもない。
これは、「心身障碍者(発達遅滞者)の生活・行動」や「施設の目的、役割」を「理解いただくべく努める」ことで分ってもらえる類のものではない。その人たちの「価値観」「人生観」「世界観」に関わることだからです。
この「反対理由」は、端的に言えば、「勝ち組、負け組」的仕分け法の一つの到着点、と言えるでしょう。「格差」の存在を「積極的に是認する」考え方。世の中、ここまでになってしまっているのか、暗澹とした気分になりました。

しかしこれは、どうやら、日本だけではないようです。世界のあちらこちらで、格差の是認、差別の横行・・・が当たり前になっているようです。しかも、それが、得てして「民主主義」「自由主義」の名の下で《堂々と》進められる。
最近世をにぎわしているイスラム教の祖を、「表現の自由」の名の下で揶揄する・・・、私にはそれは「風刺」ではなく単なる「中傷」に過ぎず、自称《表現者》の「優越意識・選民意識の表出」にしか見えませんでした。彼らは、某国の宰相たちが第二次大戦前の時代に戻りたがっているように、「十字軍の時代」に戻りたいのだろうか?
   十字軍:中世、各地のキリスト教徒がエルサレムの聖地をイスラム教徒から奪還するために起こした義勇軍。
         エルサレムは、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、共通の聖地。

先の「グループホーム反対運動」は、「世の中が『不寛容な時代』になっているのではないか」、という特集で、不寛容な事例の一つとして挙げられていました。

参考記事として、信濃毎日25日付社説へリンクします。[25日 9.40追記]
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コメント (2)
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後期高齢者

2015-01-17 17:27:12 | 近時雑感
末尾に介護報酬改定についての解説参考論評追加 18日 9.30]

経済が常に右肩上がりでなければならないという理由に、将来の高齢化社会へのため、という説明があります。たとえば、医療費や介護費をまかなうのだ、という理由。

私はいわゆる「後期高齢者」です。
「後期高齢者」とは、現行の「医療保険制度」の対象者の区分名と言えばよいでしょう。平成20年(2008年)4月からスタートした、新しい医療保険制度で、「75歳以上の健常者」が加入する保険制度を言います。
   この制度案が担当機関から国会に上程されたとき、時の首相が(たしか宮沢氏だった)「では『末期』は何歳からですか」、と担当者に訊ねた、
   という逸話があるそうです。因みに、「前期」とは65歳以上75歳未満を言います。
   「後期・・」とは、たしかに「無神経な」呼称です。イヤな気分になる人がいて当然です。後に「長寿」に言い換えようという話もあったようです。
   それだって、「お為ごかし(相手のためにしているように見せかける)」であることに変りはない。

「後期高齢者」は「後期高齢者医療保険」に加入し、保険料をいわゆる「公的年金」から徴収されます。「介護保険」も同じく、保険料は年金から徴収です。両方で、私の場合は、年約72万の公的年金から27万ほど徴収されています。
「(公的)保険」というのは、元はと言えば、かつてのいわゆる「頼母子講」「無尽講」だ、と私は思っています。つまり、一定の掛金を集め、集めた額を、加入者が順番に使用する権利がある。全員が利用し終えたら、「講」を解散する、それがかつての「講」であったようです。その基本は、「権利」が平等であること。そこが現在の「保険」と違います。現在のそれには、どうしても不平等感が付きまとう。高齢者のために若い世代の負担が大きすぎる・・・、などです。
現在「後期医療保険」加入者が実際に窓口で払う医療費は、実費の10%(いわゆる「国保:健康保険」は30%)です。私は、現在、脳出血発症後の検査のために、2~3か月に一度、「検診」に通っています。そのたびに思うのは、少なくとも私の場合、医療費の実費負担が少なすぎる、ということです。実費が少ないのは確かに助かりますが、あまりにも申し訳ない、せめて国保並に支払ってもよいのでは、といつも思うのです。
もちろん、そんなに払うことはムリだという方がたくさん居られます。週に何度も検診を受けることが必要な方にとって、それはムリです。そのあたりのことを考えた(多様性のある)「実費の負担法」があってもいいのではないか、といつも思うのです。[(多様性のある)追加]

私は、今年の賀状に「『健康であること』の『重さ』を感じています」との言を記しました。
これは、単に、「健康でありたい」、との私の「願望」である以上に、『健康であること』は病人の側の「責任」でもあり、「義務」でもある、との思いが含まれています。
私は、初めての「病院内」での「日常」の経験で、病人・患者に接する方がた:看護師・療法士・介護士・・・の方がたの「日常」を目の当たりにし、その方がたの仕事ぶりを詳しく見聞きし、「感動」と「敬意」を覚えました。
彼らは皆(もちろん全員ではありませんが、9割がたは)、病人・患者に思いを寄せた行動を採っている、そのように私には思えました。一方、病人・患者を「観察」していると、どういうわけか、自らの「意志」を失せてしまっている方が結構いるように思えました。その失ってしまった「意志」を気付かせ、「復活」させようと努める看護師・療法士・介護士・・・の方がた、その方がたが私には「輝いて」見えたものです。
ところが、病人・患者の側では、その折角の「努力」に応じない方が結構居られるのです。私は、傍で見ていて「歯がゆい」思いを何度もしたことを思い出します。やればできるリハビリをやろうとしない、「やりたくないという意志」だけは「明確に表現する」方がたに、療法士さんたちが苦労して接しているのを何度も見かけました。多分、介護施設などの介護士の方がたは、もっと大変なのではないでしょうか。
病人・患者の側は、もしも自らできることであるならば、そのできる範囲内ででも、自らで健常な時の様態に戻るべく努める必要があるはずだ。これが、「『健康であること』の『重さ』を感じています」に込めたかった意味
なのです。
   「精神論」と思われるかもしれませんが、そうではありません。もちろん、いわゆる偏狭な「自己責任論」でもありません。[追記19.00]

本来高齢者の「医療保険制度」というのは、高齢者の健康を維持するための施策のはずです。現行制度の前に、国民健康保険制度の中で、「高齢者の医療費の無料化」が行なわれたはずで、それが立ち行かなくなって、この制度が策定されたと記憶しています。
「高齢者医療費無料化」は、実は、その先進地域があり、国はその後追いをしただけだった。
先進地とは、岩手県の沢内村です。詳しくは「沢内村」を検索すると、いくつかの「資料」があります。実施するにあたり、多くの障害があったようです。
国民健康保険法(1959年施行)では治療に必要な費用の半分を一部負担金として患者が支払うことを義務づけられているから、無料化は法律違反になるとして岩手県が認めなかったのです。それに対して、無料化を立案した当時の深沢村長は、次のように述べ、実施に踏み切ったとのこと。
   ・・・国民健康保険法に違反するかもしれないが、憲法違反にはなりません。憲法が保障している健康で文化的な生活すらできない国民がたくさんいる。
   訴えるならそれも結構、最高裁まで争います。
   本来国民の生命を守るのは国の責任です。しかし国がやらないのなら私がやります。国は後からついてきますよ。・・・・

その言の通り、国は後追いした。しかも、沢内村のような周到な「用意」なしに。それゆえに苦慮した結果生まれたのが現行の「高齢者医療保険制度」と言ってよいと思われます。
   沢内では、周到な「用意」を行なわれた。「医療」だけではなく、「保健」にも意を尽くしたのです。「保健」:「健康を保つ」。
   このあたりは、いくつもの「資料」に詳しい。
つまり、高齢者医療保険制度」が十分に機能するには、、先ずもって、高齢者の「生活」の維持が保障される世の中である、ということが「前提」にならねばならないのです。そして初めて「健康」も維持できるのです。このことを沢内村は真摯に考えたのです。
現行の「介護」の考え方も、実は既に沢内では存在し、その意味で、現行の国の「制度」も後追いなのです。   
   こういう「地域の保健」に対する真摯な「施策」は、長野県など、各地の小さな町村で先駆的に行われています。
   国はいつも後手後手にまわり、しかも常に、肝心なところが抜け落ちるのです。

ところで来年度の予算作成に当り、介護事業者に支払う「介護報酬」のマイナス改定(2・27%)を決め、介護報酬を減額することにしたそうです。

「介護報酬」とは、言ってみれば、「介護サービス」の「公定価格」。何故減額か?老齢化が進み、高齢者の介護費用がかさむから、ということらしい。
しかし、「理」で考えれば、これは、高齢化社会のいわば「必要経費」に他なりません。「社会福祉」のための「費用」。消費税は、その為だったのではなかったでしょうか。
もちろん、先にちょっと触れたように、サービスを受ける側の「自らの努力」が欠かせません。それでもなお「介護」が必要な場合がある。これを、おざなりにするわけにはゆかないのです。
介護報酬の減額がなされた場合、しわ寄せを受けるのは、先ず、「介護」にあたる看護師・療法士・介護士・・・の方がた、そしてそれは、介護を受ける高齢者の方がたにひびいてくる、これは目に見えています。
   追記 このマイナス改定の詳細について解説を加えた記事がありました。東京新聞16日付社説です。末尾に添付させていただきます。[18日9.30]
このあたりについての論評が、今日の毎日新聞の特集に載っていました。
その中に次のような一節があります。まったく同感です。全文を web 版からコピーし転載させていただきます。
・・・借金を返すために借金を繰り返しながら、派手な事業のあれこれに手を染めてゆく。腕力強化のためにむやみと買い物をする。その分、弱者救済を手抜きしたがる。逆らう者に対してリベンジに出る。このようなことがまかり通ってしまっていいのか。





コメント (2)
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心して いなければならない

2015-01-10 11:39:17 | 近時雑感
「通販生活」という名称は、多くの方が知っておられることと思います。字の通り、商品の通信販売、「通販生活」という出版物:カタログを定期刊行しています。
その冊子の編集「理念」は、極めて明快・明解。商品の紹介とともに、常に、護憲、反戦、脱原発のメッセージを発し続けている。
その巻頭に「山椒言(さんしょう げん)」という普通の雑誌の「巻頭言」にあたるコラムがある。「山椒は小粒でも・・・・」にあやかっての標題と思います。その通り、毎号、鋭い指摘。

今号の「山椒言」を下に転載させていただきます(元はカラー版ですが、版面の関係でモノクロにしています)。
永くアフガニスタンで生活・医療の支援を続けてこられているペシャワール会の代表、中村 哲 氏の発言です。
現場の声は、何ものにも勝る強い訴求力があります。

字が小さくて恐縮です。後半部を書き写します。原文のままですが段落は変えてあります。
  ・・・・だが、日本から届く報道は、情けないものだ。人の命に関る重大事も、取ってつけた様な政治論議で薄れてしまう。
  特に、集団的自衛権に絡む「駆け付け警護」(原注 現地で武装集団に襲われたNGOなどを武器を使って助けること)には唖然とした。
  二流西部劇に似ている。
  現地がまるで野蛮人の巣窟で、文明国の部隊が護ってやらねばならぬような驕りである。
  これは主権侵害というものであって、われわれの事業と安全を守るのは現地の住民と行政だ。
  そこには我々と同じく、血もあり文化もある人びとが暮していることが眼中になかった。
  日本はこれまで、アフガニスタン国内では民生支援に専念してきた。
  そのことが日本への信頼であり、我々の安全保障であった。それが覆されようとしている。
  戦争の実態を知らぬ指導者たちが勇ましく吠え、心ない者が排外的な憎悪を煽る。「経済成長」が信仰にまで高められ、そのためなら何でもする。
  武器を売り、原発を復活し、いつでも戦ができるよう準備するのだという。
  それが愛国的で積極的平和だとすれば、これを羊頭狗肉という。
  アフガンへの軍事介入そのものが、欧米諸国の集団的自衛権の行使そのものであり、その惨憺たる結末を我々は見てきた。
  危機が身近に、祖国が遠くになってきた。実のない世界である。
         
                                                                  2014年12月 アフガニスタンより 
 

毎日新聞の特集「この国はどこに行こうとしているのか」にもリンクします。いろいろな人へのインタビューの要録です。
なお、ここから、同シリーズの他の方へのインタビュー記事にも寄ることができます。[追記10日 16.50]

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-5

2015-01-09 14:55:53 | 「学」「科学」「研究」のありかた

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
正月休みの宿題がやっと終わりました。
今回も、建物の事例は出てきません。
だいぶ前に、人が「住まい」をつくるにあたっての「必要条件」、「十分条件」について触れたように思います。
この書物が、ここしばらく解説を加えているのは、この「必要条件」に関わることである、と言えばよいでしょう。
「必要条件」すなわちそれは、人が一生物として生きて行くために必須の条件。手っ取り早く言えば、水と食べ物が得られること。しかし、その方策は、人びとが暮そうとする場所が、どのような場所であるかが大きく関係してくる。当然、それは、そのような場所で「どのような暮し方をすればよいか」、つまり、「そこでの暮し方」にも関わってくる。端的に言えば、人びとの「生業(なりわい)」に関わってくる。そして、その「生業」もまた彼らの「住まい」の形態にも大きく変わる。それゆえに、先ず、その地が、いかなる様態であるかを知らなければならない
しかし、中世は遥か昔の話。その遠き時代にその地がどのような場所であったのか、今実際に目にすることはできない
そこで、中世に書き残された各種の記録を基に、可能な限り、その地の中世の姿を想像・復元してみようではないか・・・、
これが、今紹介している本書・本研究の立ち位置:スタンスと言えるのではないでしょうか。
わが国の「住まい」~「建築」の諸研究にも、このスタンスの研究が皆無というわけではないとは思います。しかし、この書のように「しつこく」究めよう、という研究は、滅多にお目にかかれないように思います。
くたびれるかもしれませんが、お目をお通しください。
誤訳・誤読のないように十分留意しておりますが、至らない点があると思います。不明、不可解な点がありましたら、コメントをお寄せください。


下図は、先回に続き、14世紀初頭のイギリスの農村風景。 出典“SILENT SPACES―The Last of The Great Aisled Bahns ”


     *************************************************************************************************************************

今回の紹介は、次の項目です。  

 2. The regional distribution of wealth
     b)  15th and 16th centuries

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

b) 15世紀及び16世紀のケント地域の wealth :資産形成の状況

15世紀初頭、羊に疫病が流行り、それに拠り牧場経営が危機に曝された。それは毛織物生産にも大きな影響を与え、主に羊毛製品の貿易に依存していた港湾都市の経済活動も大きく左右されている。
しかし15世紀の後半になると、状況は好転し、世紀第四四半期には、織物産業とその輸出は着実に増加傾向を見せる。
このような15世紀の経済的状況は、地主層や、より貧しい層にも著しい影響を与え、人口減少や借地人の減少という形となって現れている。
しかしながら、それはすべての面で悪い結果をもたらしたわけではなく、比較的裕福な小作農の中には、それを契機に、借地・農地を増やす者も現れる。
TUDOR LAY SUBSIDIES に示されている Lay: 平民・一般人の資産状況の記録資料を見るかぎり、16世紀初頭までは、ケントの北部および東部の人びとの資産状況が、過去200年よりも悪くなったという傾向は見られない。
TUDOR LAY SUBSIDIES は1512年に始まり16世紀中継続するが、1334年の SUBSIDIES とは異なり、税金は総収益に課せられ、商いなどによる収益:動産だけではなく、土地からの収入や労働賃金にも課税されている。
この課税記録の解析・分析は慎重に行う必要があることは1334年の SUBSIDIES の税制記録と同じではあるが、少なくとも1514年および11515年の記録は、15世紀と16世紀の人びとの資産状況を比較する上で信頼性が高い資料と言えそうである。
それによると、1515年のケント地域の総資産は、イングランド全体で第8位から第4位にまで上っている。この課税記録には、CINQUE PORTS の商人たちの記録は含まれていない。それゆえ、この点を考慮に入れると、この地域の Lay: 平民・一般人の資産は、かなりのものになっていたと言えるだろう。
   註 TUDOR LAY SUBSIDIES : チューダー王朝(1485~1603)において制定された Lay: 平民・一般人に対する税制、の意と解します。
TUDOR LAY SUBSIDIES に関する最も詳細な分析研究は、1524年、25年のケント地域の資料についての研究である。
ただ、この SUBSIDIES は、ある地域の資産状況や被課税者数についての信頼に足る資料ではあるが、ケント地域について分析するには、大きな問題があった。資料の内容が、全体は分っても部分が不明であったり、逆に、部分は分っても全体が不明である、など記録が一定していない。また、課税内容が多岐にわたることは分るが、徴税対象者の詳細、すなわち、少数の富裕層だけなのか、Lay: 平民・一般人も含まれるのか、が判然としない。その上、そこにはCINQUE PORTS の商人たちについての記録は、まったく含まれていない。ただ、この記録が全く役に立たないわけではなく、資料を扱うにあたり、とりわけ1334年の SUBSIDIESとの比較に際しては、注意深く扱えば何ら問題はない。
TUDOR LAY SUBSIDIES で詳しく明らかにされている記録は、大部分が、ケント地域の東部および HOO 半島の周辺に関する記録である。
すなわち、それによれば、DOVERSANDWICH の後背地一帯は、他の若干の地域とともに、平方マイルあたりの納税者数が、イングランドの他の地域よりも多かったということを示している。一方で、地域の最北東部は、 ROMNEY MARSH 一帯とともに、納税者が相対的に少ないということも示している。
つまり、全体的に見れば、ケント地域の大半について、地域ごとの税収記録が得られ、例外もあるが、平方マイルあたり50シリング以上の高税収があったことを示している。これは、ケント地域は、イングランドの中でも最も高額納税の地域の一であることを意味している。
平方マイルあたり72シリングの最高税額の地域は、北部沿岸の中央部(その地域の教会資産は決して大きくない)が該当する。そして、このLay: 平民・一般人wealth :資産が大きいという状況は中世を通して続く。

これに対し、ケント地域北東部の税額は平方マイルあたり58~65シリングに下る。しかし、この記録は、1334年の SUBSIDIESについての分析結果と同じくCINQUE PORTS の商人たちを除外しているので、この地域に関する数字は事実を正当に繁栄しているとは言い難く、むしろ、この地域の総資産も比較的大きかったと見なした方がよいかもしれない。しかしながら、この地域では、後に触れるように、14世紀後半から15世紀にかけて、土地所有が、徐々に少数の者の手に集約される傾向が明らかになってくる。

1524年の SUBSIDIES の示している最も興味深い点は、ケント中央部に新しい資産形態が現れることである。
この地域は、1334年の SUBSIDIESでは、税額最低の地域、つまり wealth :資産の少ない地域だったのであるが、1524年の SUBSIDIESでは、平方マイルあたり55~69シリングの税が WEALD 中央部、CHART HILLS そして VALE of HOLMESDALE 地域から集められている。
   註 HOO 半島、第2回および第3回に掲載の「地域地図」(下に再掲)上部の Thames 川 Medway 川を分けている半島。Thames 川の文字の下あたり。
     DOVERSANDWICHWEALDCHART HILLS VALE of HOLMESDALE などは、本紹介の第3回を参照ください(下の地図も参照ください)。
   

これらの記録から、ケント中央部及び南部域の繁栄・発展の状況は16世紀半ばまで続くことが分る。この状況には、小作農たちの中で、彼らの所有する土地を北部域の大地主に貸して、彼らから貸地料を得るという新しい土地経営形態が進み、その結果課税額が高くなった、という状況の変化が深く関わっていると見なしてよいだろう。[文言訂正 10日9.00]
中世後期まで、WEALD 地域の人びとの最も大きな収入源は、木材と薪材であり、それは東部域の各地に水運で運ばれ販売されていた。13世紀には、地主の大主教はじめ教会関係者と借地者との間では、常に、」森林の不法伐採による木材の売却問題で争いが起きているが、最終的に、借地者側が借地料の見返りに木材を商う権利を取得することで収まっている。
しかし、15世紀から16世紀初期にかけての借地者の収入源は、これだけにとどまらない。WEALD 西部では、皮革業が現れ、後には製鉄業も発達する。また広幅織物製造業CRANBROOK 中心に増加している。農業の複合経営もいたるところで見られ、ROMNEY MARSH では羊の飼育が、CRANBROOKBENENDEN 地方では牛の飼育が併営されるようになってきた。
つまり、多くの場合、人びとの資産は複数の収入源に拠るようになっていたのである。しかし、この状況の全体像は詳しくは分っていない。たとえば、布地製造業が1331年 cranbrook に初めて設立されているが、この産業の15世紀以前の様態も少ししか分っていない。
15世紀中ごろの essex への梳毛や毛織物の輸送の状況やケントの毛織物生産についての記録は見付かっていて、それによれば、世紀初めには羊の飼育は多くの問題に直面して、1440~50年にかけては羊毛の価格は最低にまで落ちていることが分る。1460年代に入ると価格は好転すが、本格的な復活は80年代を待たなければならなかったようである。
一方、1560年代より前の weald 地方の広幅織物産業についての記録はほとんどない。同様に、牛の飼育は、16世紀中ごろまで、明らかに大きな産業になっていたが、その牧場経営の実態についても全く分かっていない。こういった諸記録の欠如が、地域経済の全体像の説明・解釈を難しくしている。

しかし、調査が進めば、この地域の繁栄は15世紀末までに始まる、ということが分ってくることは間違いないだろう。
CANTERBURY 大主教WROTHAM の荘園( CHART HILLS の端部、MEDWAY 川西側の LOW WEALD 一帯に広がる)の一部である PLAXTOL 牧畜業、食肉業、皮革業についての1480年以降の記録では、これらに専業で従事する農家が確実に増えていることが示されている。そして、1490年代には、WEALD 一帯では、借地料は家畜で支払われるのが当たり前でさえあった。
   註 ROMNEY MARSH :地勢図参照。ケント地域の南東部。 
     CRANBROOKBENENDENPLAXTOL: いずれも地名。地図上に見当たりません。
                               文意から WEALD 地帯(第3回掲載のfig 3:地質・地勢図と凡例解説を参照)に在ると推察します。
ROMNEY MARSH 地域は、16世紀のCINQUE PORTS の商人たちの活動実態が詳しくわからないため、その税収の状態も不明である。
1334年には、同地域平方マイルあたりのの課税額は、CINQUE PORTS の商人たちへの徴税も含んでいるので、相対的に高くなっている。しかし、彼らの記録を除くと、 FOLKESTONE が高い数字を示す一方、 MARSH の中央部では極端に低いという具合に、地域全体が一様ではない。この様態は、同地域には少数の極めて富裕な人々が偏在していたと考えると説明がつく。
1524年の記録では、MARSH はケント地域の中では、徴税額が最も低い。これは、おそらくCINQUE PORTS の商人たちの資産を除外しているからだが、そのほかに、15世紀に同地域で多発した洪水が、彼ら地主たちを農業から牧畜への転換を余儀なくさせたことも関係しているだろう。実際、1500年までには MARSH の大部分は農耕地から牧草地に変っており、転業により生計を失った資産家も少なくなかったらしい。

ケント西部域の様子を知ることは、更に容易ではない。記録が少なく、また、調査もされていないからである。
ケント西部域は、ロンドンに近いにもかかわらず、経済的な進展が最も見られない地域であった。一帯は土壌が悪く、大主教の領地・荘園も、ケント東部や SUSSEX に比べると少なく、ロンドンに隣接する地域から離れた一帯は、1334年~1524年の間の課税額、徴税額は、常にケント地域の中で最低であった。

一方、16世紀初期まで WEALD 中央部に生まれた新興の資産家の課税額は、平方マイルあたり38~42シリングの GOUDHAURST 西部よりもはるかに少ない。このことは、14世紀以降 WEALD 地域が新たに栄えてきたと言っても、それは WEALD 地域全域が一様に発展したのではないこと:場所により差があることを示している。
   註 GOUDHAURSTWEALD地帯にある町の名称のようです。地図上に見当たりません。
     SUSSEX:ケントの南西に隣接する地域・州。地域図参照。
                                                                      [b) 15世紀及び16世紀の状況 の項 了]

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
筆者の読後の感想
   たしかに、このように詳しく解説されると、全くケントを訪れたことのない人間にも、中世ケントの地域とその社会の様子が、おぼろげながら見えてきます。
   そして、それが、そこで暮す人びの暮し方、彼らがつくるであろう建物にも、大きく関わるだろうことが、想像できるようにも思えてきます。
   つまり、大げさに言えば、その時代のケントに居るような気にさせてくれるのです。
   私はこれまで、その建物の立地を、読者の目の前に彷彿とさせるが如き筆致で書かれた「修理工事報告書」の類に会ったことがありません。
   また、我が国の「民家研究」では、「間取り」を並べ、この「間取り」がこの「間取り」へと変ってゆくなどと説く「間取りの系譜」論が多いように思います。
   そこには、「住居」は、その地に暮す人びとが、その地に暮すためにつくるのだ、という視点、もっと言えば、「その地の人びと」を知る・見る視点、が
   根本的にが抜け落ちています。だから、「その地」についての認識も、そっち退け。それが《研究の常識》になっている気配さえ感じられる。
   今あらためて、我が国の《常識》的な思考法と、この書・研究者の思考法の違いを、強く感じています。

   いわゆる「箱木千年家」の在った地域には、同様の風格の住居・建物が多数まとまって存在していたと言います。
   それは、いったい何故なのか、以前から疑問に思っているのですが、未だに納得のゆく解説書の類には接していません
   おそらく、あの地域一帯の中世以降の社会様態を、いろいろな手段で解き明かせば、その背景が見えてくるのかもしれません。
   そして、そのとき、いわゆる「千年家」の姿も、おそらく別の目で見えてくるのでしょう。
   調べてみたいな、とは思いますが、並大抵のことではなさそうです。
   どなたか、あの地域の「社会史」に詳しい方がおられましたら、是非ご教示を!


     *************************************************************************************************************************

1.historical background の章には、まだ次の項目が残っています。
     c) Population trends
     d) Landholding and tenure
       (1)Tenure
       (2)Landholding
 3. The gentry of kent
     a) Emergence of the gentry
     b) Distribution of the gentry

Population trends はケント地域の中世の人口動態について、Landholding and tenure はケント地域の土地の所有形態の変遷についての解説です。
そして、The gentry of kent は、ケント地域におけるいわゆる gentry :「上層階級」の成立の経緯、および「上流階級」が主に地域内のどのあたりに生まれたか、言うなれば、大地主層の割拠状況についての解説と言ってよいでしょう。
しかし、「この地域の建物の実態・その謂れ」を理解するにあたっては、ここまで紹介してきた「解説」で得られた「ケント地域の概況」についての知見で十分ではないか、と(勝手に)考え、当面、これらの項目についての紹介は省き、必要が生じたときに、あらためて紹介することにし、先に進もうと考えています。
次回は、 2 Houses of the early and mid 13th century 即ち「13世紀初期~中期にかけての(ケントの)家々」の章の紹介の予定です。またしばらく時間をいただくことになるでしょう。

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今年もよろしく

2015-01-01 09:06:40 | その他
夫天地者万物之逆旅也 光陰者百代之過客也 ・・・

昼間でもほの暗い林の奥が、陽が斜めに差しこむ朝の一時、明るく輝きます。
先ほどまで溢れんばかりに餌台に集まり囀っていたホオジロたちは、人影に驚き、一斉に飛び立ってしまいました。
拙宅南側に拡がる雑木林。
キジ、コジュケイが暮し、時折 タヌキやウサギも顔を見せます。

今年もよろしくお願いします。
 
    2015年正月  下山 眞司

元日の各紙の社説を web 版で読みました。読みごたえがあったのは東京新聞でした。下にリンクします。[3日 10.30 追記]
元日付東京社説

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