建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

1982年度「筑波通信№9 今日のない明日・・・・近代化ということ」前半 1982年12月

2019-08-16 14:05:31 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №9」1982年12月 A4版15+2頁 

       「筑波通信 №9」 1982年12月

       今日のない明日・・・・「近代化」ということ・・・・

新幹線は沿線を発展させるか・・・・鉄道と地域の「開発」

 上越新幹線が開通した。

 開通を数週間後にひかえた新聞紙上では、開通にいたるまでのいろいろな裏ばなしが特集で組まれていた。例のごとく、政治がらみの生ぐさい話である。その記事のなかで私の目をひいたのは、ある駅が決定されるにいたった経緯:その解説であった。三国山系から越後平野にさしかかった最初の駅の位置についてのものである。それは在来の上越線の一小駅に設定されている。それゆえ、政治がらみの駅なのではないかという疑惑があるというのである。これに対して、それは全く技術的な検討の結果であって、政治的な圧力などによって決まったのではない、というのが国鉄側の説明であった。そして私の目をひいたのは、この「純粋に技術的な検討の結果」ということばであった。

 それによると、ある標高で三国山系をぬけでた列車の、そのスピードと安全を保つべく、こう配、カーブを地図上で検討してみたところ、妥当と思われる線が決ってきた。そしてその線上に上越線の交点を探したところ、それがその小駅の近くだった、というのである。技術的に合理性が追求されたのならば、やむを得ない結論なのかもしれない、大概の人はそう思って納得し、いささかふにおちない思いを抱いた人たちでも、なにやらむづかしそうな技術的な解説などもちだされると、それに対抗できる反論の用意もまたなかなかむづかしいと思うから、結局うやむやのままになってしまう。「技術」だとか「専門」だとかいうことばはまるでいまでは魔法のことば、そのひとことで大抵の人は恐れをなして口をつぐんでしまう。

 だが、この国鉄の説明に素直に従うと、上越新幹線はその路線の決定に際し、いわば山越えの技術的解決にのみ熱心で、どこの土地:町を通るか、駅はどこがよいか、といったことは特に考えてはいなかった、ということになる。通常の感覚で考えるならば、これではものごとの順序が逆ではなかろうか。つまり、鉄道を敷設するのであるから、まずその鉄道の通過地点をいろいろ考える、そしてそのためにはとこでどう山を越えるのがよいか、それにはどう技術的に対応しなければならないか・・・・ざっとこういう具合に話がすすむのがあたりまえではないか。先の国鉄の説明では、新幹線の目的は単に山を越えることにだけ意味がある、そんなことにもなりかねない。

 しかしふと考える。この国鉄の説明は少しもうそは言ってない、本音なのかもしれない、と。確かにはじめから通過経路が考えられなかったわけではなく、ちゃんと考えはした。ただそのとき考えのなかにあったのは、始点の東京、終点の新潟、そして途中の主だった分岐点の大宮、高崎などだけで、その他のところはあくまでも単なる通過点(主目的を達するためにやむなく通りすぎる途中)にすぎない、そう考えられていたと見ることもできるかもしれない。そもそも、新幹線網という思想がそういうものなのだからである。主目的は東京と新潟をいかに速くつなぐかにある。途中は、いわばついでなのだ。

 しかし、新幹線の思想がどうあれ、鉄道というものに対して、人々は近代以降鉄道というものがはたしてきた効果・役割についてのバラ色の夢を持ちたがる。鉄道が通り駅ができ・・・・そしてそこには繁栄がある。幾多の例でそうなった話を人々は知っているから、そうなることを夢みて誘致合戦が行われ政治家がからんでくる。世のなかもまた、鉄道というとすぐに政治色で見るようになる。だが、「途中はついで」の新幹線に、近代の鉄道がはたしてきたと同じような発展の期待を、その沿線の人々は持つことができるのだろうか。私にはそう思えない。

 

 近代になっての鉄道の敷設は、たしかに世のなかを変えてきた。鉄道があるかないかは、その町の繁栄の度合に大きく影響した。鉄道が通ってしまったために、考えもしなかったほどの繁栄をみた町もあった。鉄道はその通過する沿線を発展させてきた。いまでは、鉄道を通すことが新たな「開発」を促進させる、というのがあたりまえなこととして理解される。

 だが、一概に鉄道と言っても、その敷設にあたっては、どうも明らかに異なる二つの思想があったように、私には思えてならない。一つは、先に書いた「新たな沿線開発」の促進を目的とする思想である。最近の東京西部から神奈川へかけての田園都市線の新設などは、その思想に拠った典型だろう。けれども、全ての鉄道が当初から、このような未開の地の開発を目ざしていた、と思ってしまっては、どうもまちがいであるように私には思えるのである。

  江戸期の関東平野のありさまを示した地図を載せました。この図と、お手元の地図帳とを、あわせ参照しつつお読みください。 

 


東武鉄道・・・・もうからない鉄道

 東京の浅草を起点にする東武鉄道伊勢崎線という私鉄がある。日光に行くので知られている。ことによると、日光に行くことだけが知られていて、伊勢崎線などという名称は知られていないのかもしれない。浅草を出た電車は、途中で伊勢崎行と日光行の二線に分れる。伊勢崎行が本線の伊勢崎線で日光行は支線であり、この日光線は本線より大分おくれて開通したのだが、おそらくいまはこちらの方がよく知られているはずなのだ。いまは途中まで地下鉄日比谷線と相互乗入れをし、沿線も宅地化が進行しつつあるが、それも昭和三十年代の後半になって住宅公団の大団地が田んぼをつぶしてつくられるようになってからで、そのころまでは、東京の町を出るとすぐに、窓の外一面に田園風景がひろがったものであった。いまでも、沿線からひとかわはずれ、あるいは東京を少しはなれると、あいかわらずの風景が残っている。田園のなかを、いまはもうめったには見られない旧型の電車が、これも昔ながらの音をたてて走っていたりして、いまや一つの風物詩のおもむきさえただよわせている。

 東武鉄道というのは、その営業キロ数で関東一の規模を持つ私鉄である(約500kmに達し、キロ数では全国で一・二位を競う。因みにバス路線も長大で、近年減ってはいるが、それでも約3500kmあるという)。伊勢崎線、日光線の他にも多数の線があり、そのいずれもほとんど田園地帯のまんなかを走る、言いかたは悪いが、田舎電車である。沿線に、東京へ通う人たちの家がたてこんできたのも極く最近で、敷設以来半世紀以上もたってはいるのだが、その間ずっと田園のなかを走り続けてきたのである。ということは、この鉄道は敷設以来長期間、今日的な意昧での沿線開発という役割ははたしてはこなかったということになる。実際、その走っている地域は埼玉、栃木、群馬に重心があり、また沿線は田んぼで住宅むきな土地ではないから(いまでは田んぼでもなんでも平気で家を建てるけれども、そうなったのはつい最近のことだ)、開設当初のありさまは決して「開発」にむいているなどとは言いがたかった。

 実は、この鉄道のこういう特徴、そしてその一大起点が浅草という山の手線からはなれ、いささか不便な地にあること、について、まえまえから私は不審に思っていたのである。(この不審は、少し大げさに言うと、子どものころにまでさかのぼる。ご多分にもれず、私も電車が好きだった。いまでこそ東京近郊を走る電車はみなきれいだし差が見られないが、私の子どものころ、京王線、西武線、東武線のおそまつさは定評があった。東横線、小田急線、井の頭線に比べるとどれも田舎電車、おんぼろであった。従って、私たち電車キチには評判が悪かった。当時の私たちに分ったその理由は極めて単純にして明快、もうかっていないからさ、というものであって、なぜもうからないのか、その理由にまでは思いがいたらなかったように思う。この格好いい電車、おんぼろ電車の差は、その路線敷設の理由:動機の差一一これから書こうとしていることに連なるのだが一一によるのだと気がついたのは、ずっとあとのことである。)

 ではいったい、この鉄道は、なにを目的として敷設されたのだろうか。

 東武鉄道伊勢崎線は、浅草を出たあと、北千住、草加(そうか)、越ヶ谷(こしがや)、春日部(かすかべ)、杉戸(すぎと、現「東武動物公園」)、・・・・このあたりまで田園の宅地化が及びつつある・・・・久喜(くき)、・・・・久喜で東北本線と交わる・・・・加須(かぞ)、羽生(はにゅう) このルートは江戸期の「日光道中」に大体重なる。・・・・ここまで埼玉県そして利根川をわたり群馬県に入る・・・・館林(たてばやし)、足利(あしかが)、太田(おおた)、そして伊勢崎(いせざき)の順に走る。 途中春日部で野田線(のだせん。高崎線大宮から春日部を通り常盤線の柏、総武線の船橋へと走る)、杉戸で日光線、羽生で高崎線熊谷へ通じる羽生線、館林ではそれより北、渡良瀬川をわたり栃木の佐野へ通じる佐野線それとは逆にほほ利根川に平行し小泉(こいずみ)を経由し太田へ直行する小泉線、そして太田では桐生(きりゅう:群馬県)へ行く桐生線、といった具合に実に多くの支線を分けている。地図を見ると分るとおり、関東平野の中央低地部から利根川を越え、赤城山をはじめとする平野外縁・北辺の山々のすそ野へかけて、その大地の上に点在・散在する大小の町々を、この鉄道は実にこまめにこまやかに、一つ一つつないでいるのである。 

 この他に、東武鉄道には、東京・池袋から秩父へ向う東上線がある。大体昔の川越街道に沿っている。これも、旧くからの町々をつないでいる。

  一方、この地域を走る国鉄線は、東京・上野から、浦和、大宮、熊谷、本庄を経て高崎へ出る高崎線、その途中の大宮から分れ、久喜、古河、小山、宇都宮・・・・とぬける東北本線、そして高崎の先、前橋から伊勢崎、桐生、足利、佐野、そして東北本線小山へと至る関東北辺の赤城・足尾・日光連山のすそをまいて走る両毛線(りょうもうせん。上毛野:かみつけのと下毛野:しもつけのを結ぶゆえ両毛という。上毛野はいまの群馬県、下毛野は栃木県あたりをいう。)、この三本があるだけである。

 参考に載せた地図には「下野国」「上野国」と書きそれぞれ「しもつけのく」「こうづけのくに」と読みがなが付いている。「毛」をぬいて書く表記法が慣習化してしまう一方、読みかただけは元どおりに行われた結果だろう。子どものころ、なぜそう読むのか不思議に思ったことがある。なお、「こうづけ」は、もちろん「かみつけ」の音便である。

 

 地図を見るとすぐに分るのだが、この国鉄東北本線の東側にあたる部分には、太平洋岸沿いの常磐線までの聞、国鉄線は一本もない。わずかにあるのは、その地域の北辺を走る水戸線があるだけである。これはあとで詳しく書くつもりだが、この地域(それは関東平野の東半分を占める広大な地域である)は、ながい間鉄道というものに縁がなかった。同様に、この三本の国鉄がかたちづくる三角形のなかも、関東平野の西北部を占める利根川をはさんだ豊かな田園地帯なのだが、ここもしばらくの間鉄道に縁がなかった。そして、先に東武鉄道の通過地点として列挙した土地は、まずどこも、このいち早く敷設された鉄道:国鉄とは縁のない所であったことが分るだろう。東武鉄道がなかったとき、これらの土地へは国鉄だけを使って行くとなると大変であった。このことはいまでも同じであり、東武鉄道のやっかいにならない限り、これらの町へはなかなか行きにくい。この地域の交通は(明らかにもうかるわけはないのだが)東武鉄道が補っているわけなのだ。

 二・三分も待てば電車が自然と来てくれる都会に住みなれてしまうと、鉄道の偉大さ・ありがたさをつい忘れてしまう。私が住む筑波研究学園都市は、先の鉄道空白地帯:関東平野東半分の東端に位置している。学園都市などというとすぐ都会風な姿を想像するかもしれないがとんでもない。もともと、どの駅を最寄りの駅と呼んだらよいか、首をひねってしまうほど、どの駅からもはなれている。いまだってバスが通うようになっただけで基本的には少しも変っていない。自動車が普及しだす前・・・・それはほんの10年前なのだが・・・・大げさにきこえるかもしれないが、ここには江戸時代が残っていたのである。最寄りの駅がないわけではない。しかし、駅からあるいは駅まで、10kmなどはざら、ことによるとどの駅へ行こうにも3 ・40kmは歩かなければならない所がいっぱいあった。バスがほそぼそと通い、車が普及したからそれほど気にもならなくなったが、これも基本的にはなにも変っていない。鉄道がどこにも通っていない時代にはどの村もまあ均等にどれかの街道や舟運路に面していたが、鉄道が通じた結果、逆に[辺地]が生まれてしまった。辺地とは、言わば相対的な概念なのである。この土地に住むようになって、それこそはてしなく続く大地の上に、これもはてしなく散在する村々を見出して、この大地のふところの深さに驚嘆した。いくら車で走っても、えんえんと同じような風景が続くのである。その深いふところのどこにも人が住みついている。それがあたりまえなのだが、都会に染まってしまっていた私には、このあたりまえに住んでいるという極くあたりまえなことが、衝撃的でさえあった。そして私は、私の不明を思い知らされた。

 

 ところで、いまここで次々にでてきた地名の内、いま東京に住んでいる人たちのどれだけが、どのくらいまで知っているだろうか。ことによると草加はせんべいで、足利や伊勢崎や桐生はそこで産する織物:めいせんで、そして館林はぶんぷくちゃがまで・・・・といった具合に、その土地がらみの物や話で知っているだけで、そこへどうやって行くのかとなると一瞬とまどうのではなかろうか。まして加須などともなれば、読めもしないだろう(もっともいまは東北自動車道の入口があるので知られだした)。関東では関西とちがって国鉄への依存度が高いから、たとえ私鉄が発達していても、私鉄の駅名:私鉄の通る土地の名の知名度は低い。おまけに国鉄沿線の方が圧倒的と言ってよいほど発展してしまっているから、これらの町々の名は、ともすれば忘れられかかる。

 たしかにいまこれらの町々の名の知名度は低くなりつつあり、なかにはさびれかかっている町もある。けれども、これらの町々は、いまの姿とは比べものにならないと言ってよいほど、ほんのつい最近まで栄えていた、それなりに知名度の高い町々であっだ。これらの町々は、近世まで(鉄道という新しい交通手段が導入されるまで)交通路上の要所として、いま以上に繁栄していたのである。

 だが私自身がこのことに気づいたのは数年前のことだ。筑波から埼玉平野の中央部へ向って車を走らせていたとき、「加須」という場所に偶然さしかかった。見わたすかぎりの田んぼのなかに突然島のような家々のかたまりが見えてくる。そして、うらさびれた風情の(しかし少し手を入れればそれなりの格好となる)街なみが続く町なかにとびこんでしまった。明らかに街道すじの町だ。どうしてこんな所に、と私はとまどった。かなり広い構内を持つ駅まである(東武伊勢崎線の加須駅だというのはあとで知った)。そして、あとで調べてみてはじめて、そこが近世までの交通の一要所であったことを知らされたのである。「加須」と書いて「かぞ」と読むと知ったのもそのときである。そしてそのとき、加須だけではなく、先に書き連ねた東武線の諸駅がほとんど全て、鉄道以前から、というより鉄道に拠るのではなくして、栄えていた町々であったということも知ったのである。

 私がこのことを知らなかったのは、そして多分大かたの人が知らないというのも、私の(あるいは大かたの人々の)関東平野についての知識:それぞれの人々の頭のなかにある関東平野の地図:というのが、鉄道の網目、しかも国鉄のそれによって構成されているからに他ならない。それに加えて、鉄道:国鉄が通ってかれこれ一世紀に近くもなると、現状があたりまえに思われ、今栄えている所が昔からずっと栄えていた、国鉄沿いが昔から交通の要路でめった、そういう錯覚をも持ってしまいがちだからである。ある意味ではこういう誤解もいたしかたない。かといって、誤解を放っておいてよいわけではない。

 

なぜ浅草が起点になったのか‥‥関東平野の繁栄:その昔といま

 そこで、あらためて関東平野の地図を拡げて見てみよう。そしてこの地図の上から鉄道線路という線路を全てとりはずしてみる。ついでに今栄えている町々の地名だけ残して(たとえば〇印に地名を付すことにして)その市域・町域を示す図上の表示(市街化部分を示すしるし)をもとり去るともっとよい。そこにいったい何か見えてくるか。学校の教科書の地図帳でそれを試みてみる。そうすると、地図の上の平野を表わす一面の黄緑色のなかに、そこを貫流するいくつもの河川が見えてくるはずである。それらの河川は、水の流れという自然現象ゆえ、平野の外縁をかたちづくる山々から海:特に東京湾へ向って走っている。図式的に言えば、東京湾をかなめにした扇の骨のような具合に河川が平野を刻んでいる。利根川だけがその全体の大勢をはなれ東進している(もとはといえば、やはりこの川もこの大勢に従い東京湾にそそいでいた)。

 そしてこの東京湾にそそぐ諸河川のいわば集中点に東京:昔の江戸:の中心がある。よく見ると、東京から地方へ通う道もまた放射状に、めったなことでは河川を横切らずほぼ河川と河川との間を河川に並行して走っていることが見えてくる。今の国道も(所々でバイパスが通ったため変ってはいるが)そうなっている。そして、その国道のほとんどは、江戸期の諸街道を踏襲したものだ。そこで、先に書き連ねた一連の町々の所在を見なおしてみる。するとこの町々はこれらの街道の上に位置していることが分る。

 次に、(これはただ地図帳をながめているだけではだめで、ある種の発想の転換を要するのだが)、鉄道敷設以前の陸上交通以外のもう一つの交通手段:水運・舟運の経路をこれに重ねてみる。関東平野を貫流する諸河川は、単に農業用水としてだけではなく、同時に(ときには農業用水としてよりも)交通・通運の要路としての役割をもたされていたのである。利根川に、壮大な高瀬舟が通っていた(高瀬舟は京都・高瀬川だけのものではなかったのだ)。利根川を東京湾に流入させず東進させた江戸期の大事業も、単に江戸を洪水から防ぐという目的だけではなく、舟運路の一定水位化を目ざすものだったという解釈が最近では有力だという。かくして、地図上に陸路、水路という二種類の交通網が描かれることになる。 

 自然河川の他に、いくつもの人工河川をつくり使用した。加須の近くには17世紀中ごろにつくられた葛西(かつしか)用水やいくつかの「堀」がある。

 そこで更にあらためて先きほどの町々の所在をながめてみる。もう明らかなように、これらの町々:いまは忘れ去られようとしている町々:のほとんどが、この二種の通運路と深い関係にあったことが判明する。江戸の町の(あるいは鉄道敷設前の東京の)生活を保証する物資の集積地、商業の町としてそれらは栄えたのであり、江戸(幕府)はそのためその通商路の整備に腐心したのでもある。

 では、江戸に向った物資は、江戸のどこに向ったのか。当然のことだが輸送量では舟運にはかなわない。食糧をはじめとする生活物資も、建築資材の木材も・・・・そのほとんどは舟運によった。そして、それらの江戸での集積地、それが隅田川沿いの一画であった。いまの浅草かいわいである。「蔵前」という地名は端的にそれを示している。蔵が軒をならべていたのである。その少し下流に「木場」がある。関東平野を下ってきた木材、海運によって関東諸国以外から運ばれてきた木材がここに集められた。とにかくこの一帯は人通りもはげしく、にぎわっていたのである。遊興地も、そこに集まる人々を相手に生まれ、にぎわいをみせた。

 

 今年の通信第3号「水田の風景」のなかで、大ざっぱではあるけれども、関東平野の開拓の手順をながめてみた。けれどもそのときには、いまここでみたような交通網のはなしには全く触れなかった。それではほんとは片手おちなのだ。平野の開拓と交通網の整備は互いに関連し、並行していたのである。関東平野の全域に目を配りつつ計画的に開発が行われたのは、江戸期に入ってから、江戸に都をつくりだしてからである。江戸の町の自給自足体制の確立のためには関東平野(当代随一の穀倉地帯)の掌握が不可欠であり、その政策の一環として、新田開発(利水・治水計画をともなう)と輸送網の整備は並行したのである。しかし、こういう書きかたはほんとは正しくない。これらの政策は、江戸に町をつくりだしてから考えだされたのではなく、むしろ、こういう施策をほどこせば江戸に町がつくれる、という計算が先にあったと見るべきだからである。つまり、関東平野が開拓さえすれば豊かな穀倉地帯になし得る可能性を秘めた土地であることを見通し、それさえ掌握すれば絶対的と言っていいほどの自給自足体制が確立できるとの確かな見通しを持ち得たからこそ江戸に幕府を構える決断がなされたのであり、そしてそれが実際そのとおりであったからこそ、徳川は三百年という長期にわたって生きながらえたのだということができるだろう。その三百年間に、この関東平野の上に、当時としてでき得る限りの整備がほどこされた。江戸の町の成熟と相たずさえて、江戸の町と持ちつ持たれつの関係のなかで先にかかげた(いまは忘れ去られつつある)町々も、それらを網の目のようにつなぐ通運路もまた成熟していった。

 そして明治が来る。この平野の上にも「近代化」の波が押しよせる。

  

 明治に入り、この平野の上にも鉄道の敷設が計画され実施にうつされはじめた。いま、それらの鉄道をほほ敷設順に記してみよう。

 1881年(明治11年)民間の日本鉄道KKが設立され、その会社によりまずいまの高崎線が1884年に開通し、翌年1885年東北線が大宮と宇都宮の間で開業する。これらはいずれも東京と信越、東京と東北・奥羽を結ぶといういわば国家的なスケールの計画の一環であった。高崎線の路線はそのときまでの最重要陸路の一つ中山道をほぼ踏襲しているけれども、東北線は大宮から分れているため、既存の街道とは無関係なルートを通っている。先にも書いたが、陸路の多くが河川の横断を極力避け、ほぼ河川に並行しているのに対し、東北線はむしろそれらに直交するような形で平野を横切っているのが地図の上に認められる。そしてその結果、東北本線は既存の町をはなれて通ることになった。

 それよりほんの数年おくれて、1888~1889年にかけ、両毛鉄道:いまの両毛線が開通している。これは、もとから在った街道(旧くは古代の東山道にまでさかのぼる)に沿って既存の栄えた町をつないでいる。ただ、先の二本(高崎線、東北線)が東京と地方を結ぶことを意図しているのに対して、これは前橋・伊勢崎・桐生・足利・佐野・栃木・小山という具合に、江戸時代に成長した江戸とをつなぐ通運路の端末の拠点の町:平野外縁の山々のきわ、水路としての河川のそばにできあがった町々を横につなぐ役割だけを持っていた。いわば地方線なのである。

 1884年からわずか五年ほどの間に、はじめに書いた現国鉄の三角地帯が形成されたわけである(因みに、前橋から先のいまの上越線は大分開通がおそく1931年になってからである。信越線全通が1893年だから、実に38年後のことだ。上越線が開通するまでは、新潟は長野よりも遠かった。鉄道による経済的波及効果、いわゆる近代化という点で、新潟はその分だけおくれをとったということができるだろう。もしかしたら、その苦い経験が上越新幹線を我れ先に建設させようという政治的行動の動機になっているのかもしれない)。

 

 鉄道敷設の経済効果は極めて大きかった。物流の構造改革が成されはじめたのである。大量輸送機関であった舟運も鉄道の速さにはかなわない。集積地が変りはじめる。平野の西半分は、それでも、まだよかった。鉄道がほぼ従来の街道沿いだったからである。それまでの大動脈であった東部の河川すじは真向からその影響を受けだした。上流で舟運路に直交する鉄道に、荷がさらわれだしたのである。当然、町々の拠ってたつ基盤がゆるぎだす。鉄道の通った町がうらやましく思われる(生活が乱されると鉄道の敷設に当初反対した人々が多かったわけであるが、それが後悔にかわったという話もめずらしくない)。 

 両毛線のはたした、あるいは目ざした役割が何であったか、よく分るだろう。

 

 こういう状況の大変化にみまわれた関東平野の東半分、かつての繁栄の中心地帯、そして最初の鉄道計画の恩恵に浴さなかった地帯で、鉄道への願望が高まってくる。そしてそれに応えるべく計画されたのが東武鉄道伊勢崎線であった。

 伊勢崎線は、東北本線におくれること20数年後、1907年(明治40年)に全通している。支線日光線はずっとおそく1929年(昭和4年)、それより前の1913~14年(大正2~3年)にかけて桐生線、佐野線が開通した。

 平野の西部に重心をおいた鉄道敷設以来およそ四半世紀、国の近代化政策とともに産業構造も大きく変りはじめ、鉄道の沿線が繁栄の中心になりつつあった。かつての繁栄の中心であった舟運に拠った商業町、街道沿いの町々はさびれはじめていた。それらの町々のまわりで生産されるもの、その集積地としての役割で町々は栄えた。しかし、その役割はみな鉄道沿いの町々に奪われだしていた。東武鉄道は、まさにそういったさびれはじめていた町々の、夢よもう一度という期待、町々にある既存の生活の維持への願い、を背負って建設されたといってよい。鉄道の経営者の願いもまた、それらの町々の人々の既存の生活の繁栄とのいわば共存共栄にあったと見てよいだろう。

 そのように見るとき、その路線経路の決定理由が自ずと明らかになってくる。すなわちその路線は、かつての重要な通商路であった舟運路や街道すじ、しかも当初の鉄道敷設計画においては不幸にも見捨てられてしまった通商路、その代替機関として建設されたのである。背後には、それを支えてきた町々の生活があった。だからこそこの鉄道は、かつて繁栄の中心であった町々を一つ一つていねいにつなぎ、最終的にはこれもかつての終着駅、一大集積地にして繁華な場所すなわち浅草へ到着する。起点は浅草でなければならなかったのである。

 この鉄道の第一の目的が、かつての繁栄の復興をねらった、あるいは少なくとも、「近代」からとり残されかかった関東平野の東半分に点在する既存の町々の人々の生活の維持・救済にあったということは、日光線の開通時期を見てもわかる。いま東武鉄道のドル箱路線である日光線の開通は、先に見たように、本線開通より20年以上もあとのことだ。これが現在なら、もうけにすぐつながる日光線の方が先に着手されるだろう。観光で商売をしようなどという発想が、当初全くなかったと言ってよい。つまり、鉄道開設にあたって、沿線に新たな変化を生もうなどという発想はさらさらなく、あくまでも、かつてのあるいはそのときまでの人々の生活を維持持続させることに意義を見出していたと理解できる。言うならば「保守的」なのである。だが、そうであるが故に、決して既存の生活、既存の繁栄を越えて急激に発展することなどは期待できず(なぜなら、既存の繁栄がしがらみとなって、「近代化」しにくいのである)、その意味ではもうかることも期待できなかった。

 ここでもうからないと書いたのは、あくまでも相対的な意味、すなわち、あとで触れる、昭和になって大都市の近郊に建設されだしたより近代的「進歩的」な発想による鉄道と比べてのはなしである。

 

 この東武鉄道と前後して、各地にこういうもうからない(現代の経営者からするとあほみたいな、つまりもうけにならない)鉄道がいくつも建設されている。それらはほとんど、基幹線からとり残された地域のかつての街道すじや舟運すじの代替として設けられた鉄道で、後に国鉄に編入されていまに至っているものもある。いずれにしろその発想は「東武型」だと言ってよい。   

 いくつか例を挙げよう。常磐線の取手(とりで)と水戸線(東北本線の小山と常磐線の水戸を結ぶ。1889年に開通)の下館(しもだて)とを結ぶ常総鉄道。鬼怒川と小貝(こかい)川・・・・ともに舟運路として重要だった・・・・の間に在った集積地の町々をつなぐ。 1914年の開通。(因みに、東北本線敷設の4年後:1889年には、前橋から小山を通り水戸へぬける、関東平野の北辺を横断する鉄道が既に在った(両毛線十水戸線)。 常磐線はそれよりもおそく1901年、それも水戸側から着手された。前橋~水戸は中山道より分れた江戸期の重要街道の一つ、いまも国道50号線が通っている。) 群馬県、前橋と桐生を結ぶ上毛鉄道。この二つの町は、先に示したように両毛線が結んでいる。けれども両毛線は、伊勢崎に寄るためにかなり南へ下りてくる。その結果、前橋から桐生へかけて、赤城山のふもとにほぼ等高線上に展開していた町々がとり残された(大胡、大間々などの町である)。それらの町を結んで1928年に開通した。 そして、長野の長野電鉄河東線。関東平野でなくてもどこも状況は同じ。ここ善光寺平でも、最初の鉄道信越線の経路からとり残された地域があった。鉄道は元来の主要道であった千曲川東側の北国街道沿いを通らず、西側の低地部をまっすぐ善光寺の門前町の長野へ向ってしまった。このかつての主要道沿いの復興を願った地元の運動の結果開設されたのがこの河東線なのだという。これは1922年(大正11年)の開通。信越線におくれること実に29年である。だが、ときすでにおそく、繁栄の中心はすでに長野市や国鉄線沿いに移っており、それが現在まで続いている。

 

 ここに例として挙げてきた鉄道の沿線は、東武鉄道も含め、正直言って、現在繁栄しているとは言い難い。中心はみな新興の地に移ってしまい、町々のほこりもまた過去の栄光にのみある、と言っても言いすぎではない。多少でも人通りが多くなったとすれば、それは、その町の過去の栄光すなわち「文化財」目あての観光客たちであり、その町の「生活」に縁あっての人たちではない。

 要するに、当初の鉄道敷設からは大分おくれてつくられた、こういう言わば過去の栄光の町々をつなぐ鉄道は、今日的な意味では、決してもうからないのである。

 しかし、近世までの「生活」の上に突然敷かれたたった一本の鉄道がかくもその地域を変容させるなどということには、当初はだれも気がつかなかっただろう。なにしろそれは、過去において一度も味わったことのない類の経験だったのである。 

 いま赤字線として切捨てられようとしている鉄道も、国鉄線ではあるが、いずれもかつて栄えた町々をつなぐもの、あるいはかつて人通りのあった街道すじを通るものである。

 

 ところが昭和に入ると、特に大都市の近郊に、それまでにない発想による鉄道が生まれてくる。鉄道が地域を変える、その影響力を初めから計算に入れた鉄道が経営されだすのである。ほほ同じころ、観光客の輸送に目標をしぼった観光線も増えてきた。

 それまでの鉄道が、これまで見てきたように既存の町々をつなぐことを主目標にしていたのに対し、新しく生まれたやりかたは、むしろ人のあまり住んでいない所をねらって敷設される。関西で阪急電車がはじめにやりだした方法で、未開の地に鉄道を使って新たに人を住まわせ、それによって商売をするのである。そのためには、沿線には既存の町などない方が好ましい。東京の東横線もその例で、人を寄せるために大学なども誘致している(慶応大学の日吉校舎など)。最近の田園都市線も同じ考えかただが、もっと巧妙になっている。観光線では先の日光線、関西の南海電車の高野山行、近鉄の奈良や伊勢行、関東の小田急箱根行などがあいついで昭和になってからつくられる。それらの観光対象地が、つまるところは江戸期以来の人々の参拝地だというのはおもしろい。もっとも阪急のように観光地まで新たにつくってしまうのも表われる。宝塚劇場・宝塚歌劇というのは、まさに人寄せのためのものだった。

 これらの鉄道の経営者たちは、それまでの鉄道のように既存の町々を相手にしていたのでは利潤の上らないことを、既存の鉄道群の状況のなかに見てとったのである。それまでの鉄道が本来の意味でのサービス業に徹し、それへの応分の報酬が支払われることによって成りたっていたのに対し、「サービス」が一つの商品となり、その売上げによる利潤確保が目的となってきたのである。人寄せが行われる由縁でもある。これらの新しい鉄道の特色の一つは、たとえば「自由ヶ丘」のごとく、既存の地名とは全く無関係に、ことばがただよわすムードによって駅名をつくりあげ、人々の気持をくすぐったことである。(それは、まんまと図にあたった。) だが、それ以前の鉄道、たとえば東武鉄道には、(最近までは)そういった類の駅名は全くなく、どこも昔からの土地の名がつけられている。

 

 (「筑波通信№9後半」 に続きます。)


1982年度 「筑波通信№9 今日のない明日・・・・近代化ということ」後半 1982年12月

2019-08-16 14:05:02 | 1982年度 「筑波通信」

(「筑波通信№9前半」より続きます。) 

 

「近代化」・‥・その背景をなす二つの発想

 この文のはじめに、鉄道敷設にあたって二つの思想があったように思えると書いたが、その二つとは、いまここで見てきた明らかに異なる二つのタイプの鉄道の背後にある考えかたに他ならない。

 けれどもその二つの考えかたは、これもいま見てきたように、そのはじめから併存していたのではない。昭和になってでてきた新規開発型とでも呼ぶべき発想は、先にも書いたが当初はだれも思い及ばなかったに違いないのだ。実際、この世にはじめて表われた鉄道の及ぼす影響力など、想像を絶することだったろう。もちろん鉄道以前にだって、進歩や改変ということは存在した。けれども、その進歩や改変は、常にその前代を承けた形での変化や進歩であったから、仮に一つの手段に変化があっても、それにともなう事態の変容のさまもまた、十分に感覚的に予測し得る範囲にあった。人々は、進歩や改変を、目の前の現実からスタートさせたのである。考えるまでもなく、今日のありさま(それはすなわち来しかたでもあるが)を基に明日(すなわち行く末)を考えるというのが、人間にとって一番素直な発想なのだ。だから、鉄道の敷設が、単なる交通手段の変革の域を越え(それまでの交通手段の代替としての役割を越え)これほどまでの状況の変化をもたらすなどということは、それこそ字のとおり予想外だったはずである。けれども、この単なる手段の近代化が進んで半世紀、意外な結果があらわになってきたとき、その結果自体を目的化した考えかたが現われる、それ自体を商売にすることができる、そういう発見である。阪急・東急型の考えかたの誕生である。

 現在普通に「近代化」と言うときは、多くの場合、この阪急や東急のやりかたを支えている考えかたを指すと言ってよいだろう。けれども、ここまで見てきたように、明治以降各方面で行われてきたいわゆる「近代化」を全て、この極めて今日的な意味での近代化として理解してしまうことには、私としては賛成できない。当初目ざした近代化では、多少ぎくしゃくした点はあったにしても、未だ「現在:来しかた」に基をすえるという姿勢がうかがえるのに対し、今日的な意味での近代化を目ざすとなると、「現在:来しかた」に基をおくことは、むしろ足手まどいとなってしまう。なぜなら、それに基づく限り、よほどのことでもなければ、「現在」を越えての発展・成長は期待できないからである。すなわちどう見ても「近代化」のなかみ、拠ってたつ思想が違うのである。

 

 そしていま、「今日的な意味での近代化」が目的とされだしてから、いったい何が行われるようになったか。

 そこでは、「現在:来しかた」の徹底した切り捨てがなされはじめたのである。つまり、それぞれの土地に密着して代々人々が成してきたところの「生活」、人々の営為の積み重ね(これを本来は「文化culture=cultivateされたもの、と呼んだはずなのだが)を一切見捨てることであった。そんなものにかかずりあっていては、より高い発展は期待できず、理想とする近代化社会を描く自由が束縛されるからである。そして人々の(旧き)営為の積み重ねには、いとも簡単に「非近代的」というレッテルが張られ、全ての白紙化(言いかたを変えれば、人間の「歴史」の断絶)へ向けて突進しだしたのである。いま私たちが身のまわりに見る「近代化」、「開発」は、全てこの白紙の上の作業である。

 そし、その作業の向う側に、かつての人々の営為の積み重ねが、「文化財」というていのいい名前を付けられて、一見大事そうに放置されている。せいいっぱい観光価値といういう付加価値を背負わされて!

 「近代化」「開発」ということばは、いまやこの今日的な思想で理解されるのが普通になってしまっているけれども、しかし、そういった思想をもって近世まで(あるいは明治初頭まで)の人々の営為を見てしまうことは絶対に正しくない。この今日的思想とは全く逆に、近世までの人々(あるいはもう少し時代が下るころまでの人々)の拠りどころは、常に、その生きている「現在」にあったのだからである。彼らは、「明日」のために、まず「今日」をcultivateすることからはじめたのだ。そして、あらためて言うまでもなく、「人間の歴史」とはそういうものであった。

 

 今日的「近代化」「開発」という作業を白紙の上で平然としている人たちは、いったい何をその作業の「拠りどころに」としているのであろうか。 現在を欠落した未来、過去のない現在、突発的現象としての人々の営為。「歴史」も「土着性」も切り捨て、その上(いつも書くことだが)「主体性」はもとより「感性」までも失ったとき、「近代」はいったい何を拠りどころにするのだろうか。唯一考えられるのは、もうかるという意味での(言いかえれば、投資に倍する以上の利が潤う、あるいは成長率が高い、という意味での)繁栄・発展のために、それだけである。私はここまでの文章のあちらこちらで、繁栄する栄える発展する・・・・ということばを使ってきた。だが、このことばにも明らかに二様の解駅のしかたがあるように思う。いまならば、もうかるという意味で理解さるのが普通だろうが、しかしその解釈を近世までの町々の繁栄発展にまであてがうのは、これも誤りではなかろうか。近世までのそれは、あえて言うならば、「その町で暮す限り、人々は(程度の差はあれ)可もなく不可もなく、大過なく、生活をおくることができる」という意味であったと理解した方がよさそうなのである。もちろんもうかることもあった。しかし、それは目的ではなく、あくまでも結果であった。先に、東武鉄道はもうからない鉄道だと書いた。しかし正確に言うならば、もうかることを目的としなかった鉄道だと言うべきだったろう。結果としてはもうかった。(その証拠に、これは余談だが、東武鉄道の創設者は甲州出身の根津嘉一郎という人物なのだが、彼は故郷に錦をかざるべく甲州じゅうの小学校にピアノを贈ったそうである。もうけがなかったわけではないのである。)ただ、もうけかたが、今日的なそれではなかったのである。

 

そして、いま‥‥

 関東平野を東西に横断すると、二箇所で新幹線を横切ることになる。田園のなかをえんえんと続く柱脚の列。さしづめ現代の万里の長城である。平野は長城により二分される。古代の長城は、少なくともその内側に人々の安住の地を確保しようとした。そのための大地の二分法であった。だが、この現代の長城は、人々の安住の地を、わけもなく二分した。何のために・・・・「近代化」という至上命令のために。多分そこには、たとえ何十年が過ぎ去っても、「風物詩」の一つも生れはしないだろう。柱脚の足もと、「途中のついで」の足もとなど、そこの土地の人々の生活とは何の係わりもないからである。鉄道が、その土地の生活とともにないからである。そしてもちろん、その柱脚の足もとが繁栄するわけもない。かつての鉄道がそうであったように繁栄が沿線に及ぶ、などということもない。繁栄は言うならば沿点に集約されるのだ。それが、それこそが「合理的近代化」の目ざしたことに他ならない。「近代化」とはつまるところ新たな「辺地」づくりである。

  最近の国鉄の特急・急行の増強と、それにともなう各駅停車の削減もまた、辺地づくり以外のなにものでもない。いったい「便利」とは何なのだろう、「便利」とはだれにとっての「便利」なのだろう。

 

 上越新幹線は動きだした。約二時間で雪国に着いてしまうそうである。 トンネルの向うとこちらの気象は、新幹線が通ろうが通るまいが変りはしないけれども、しかしこれによって、「トンネルをぬけると雪国だった」というような新鮮な感激は、人はもう味わう必要がなくなるのかもしれない。

  

あ と が き

先号は少しおくれ、問いあわせなどもいただき、大変恐縮いたしました。物理的な忙しさも峠を越えましたので、平常に戻れそうです。(ここ二年ほど係わってきた知恵おくれの人たちの家の設計がひとまず終り、ようやっと着工にこぎつけたのです。八・九・十月とそれに忙殺されていたのです。)

今号は、少し長くなってしまいました。別に先号、先々号の埋めあわせをしようなどと考えたわけではありません。書いていったらそうなったのです。

ここ数日、冬らしくなりました。関東北辺の山々がくっきりと見えます。この二週間ほどの間に、上州、甲州、安房、とまるっきり方角の違う所へ行ってきました。上州では赤城神社に寄り、目の前に広がる広大な関東平野のその大きさに感嘆し、甲州では、これも目の前に仰ぎ見る富士山の姿にあらためて驚嘆し、そして安房に行く途中の車中では、東京湾岸沿いでいま人々が夢中になって行っている「開発」に慨嘆にいたしました。(安房に行く内房線は、湾岸に沿い台地と低地との境い目あたりを走るのですが、十年ほど前には線路のまわりは大体田んぼでした。田んぼはいま、市松模様に埋立てがすすめられ、住宅が密集しはじめています。埋め立て残った田んぼ・・・・とは言ってももう田んぼとしては使ってないようです・・・・の中に、一羽微動だにせず立っていたしらさぎの姿は、なにか場違いのようでもあり、象徴的でまた印象的でした。それでも、一時間も過ぎたころから、昔どおりの照葉樹林がうっそうと茂った風光が見えてきてほっとします。)

落葉樹の並木の葉もすっかり落ちてしまいました。はじめはまともに北風を受ける側の列の、それも風を受ける側だけが落ち、順次裸になってゆきます。最後には一列片側にだけ葉がついている時期が数日続き、とある朝、すっかり全部が冬姿になり、ゆうべ木枯しが吹いたことが分ります。そんな夜を車で走っていますと、落葉がまるで動物がとびはねるかのようにヘッドライトのなかを横切り、はっとします。寒くなりました。

年が暮れます。毎年いまごろになると、ことしはいったい何かやれたのだろうかと、少しばかり落ちつかない気分になります。

よい年をおむかえください。

〇また、それぞれなりのご活躍を!

          1982・11・29             下山 眞司 


1982年度 「筑波通信№8 『身』も『心』も 」 1982年11月

2019-08-01 13:28:25 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №8」1982年10月 A4版6頁 

       「筑波通信 №8」 1982年11月

       「身」も「心」も

 健康であることを言い表わす言いかたに「心身ともに健やか・・・・」という常とう句がある。まさに字のとおり、身体も精神もともに健やかであるということである。けれども、日ごろ私たちがこのことばを使うとき、私たちはなにもわざわざ己れを身と心とに分けてそのそれぞれの健やかさを確認し、あらためてその結果を総合し・・・・などという過程を経て言っているのではない。まったく単純に自分が(あるいは他人が)健康である様を言うのである。「お体を大切に・・・・」と言ったからといって、だれも、「心」の方はどうでもよい、などと思っているわけでないのと同じである。それが常とう句というものの性質でもある。

 しかし、先日のこと、大学時代の恩師からの葉書に「心身ともに健やかなご様子・・・・」の一節を認めたときの私の思いは少し違っていた。この「心身」ということばが、とりたてて私の目をひいたのである。

 それというのも、その葉書を読んだ前日の新聞で、ここに引用する文章を見たばかりであったからである。

 

 ご存知の方が多いと思うが、これは、大岡信氏による古今の詩歌の紹介のコラム「折々のうた」の一編である。わずか二百字たらずの文章による氏の評釈は、紹介される詩歌とともに、私にとって毎朝のたのしみである。はじめて知ったうたはもとより、なじみのあるものも、あらためて新鮮に見えてくる。

 閑吟集なるものの存在は知っていても、内容も知らず読んだこともなく、もちろんこのうたにははじめてお目にかかった。

 はじめこのうたにざっと目を通したとき、(無粋にも)なんのことなのかとっさには分らなかった。評釈を読んで納得。もう一度うたを読みなおして、あらためてものすごく納得。読み人の情景まで浮びあがり、思わずほほえみがわいてきた。読み人がなんともいとおしく、そしてこの想われ人がねたましくさえ思えるではないか。

 だが、無粋な私は、このうたにひどく納得すると同時に別のことをも思っていた。正直言って、己れ自身を「身」と「心」とに分けていることに、いささか奇異な感じを持ったのである。現代に近い時代ならまだしも、もうこの時代(閑吟集は室町時代:1500年代初頭の編だという)に己れを身と心とに分けてみる見かたがあったのかと、いささか驚いたのである。それどころか、評釈によれば、既に平安時代にも同趣のうたがうたわれているというではないか。少々認識不足だったようである。いまの私たちなら、というより現代では、だれでも人間を身と心とに分けることに慣れてしまっている。心身障害、心身症・・・・だれも疑わない。むしろ、そのようにものごと(人間を含めて)を分けて見る見かたこそ、まさに現代の現代たるところのものである。こういう一見現代風な見かたがそんな昔からある。これはいったいどういうことなのか。

 

 ある一人の人間のなかに、己れを身と心とに分けて考えるという見かたが生まれるなどということは、よほど自己を見つめるという作業をおしすすめない限り、そうすんなりとはでてはこまい。人々の多くは、己れが生きてゆくこと自体のなかで、己れ以外との対比を通じて辛うじて己れを知るのがせいいっぱいのはずで、ことによると、己れだけがあって他との対比さえしないかもしれない。おそらくそれが、古今に拘らず通常ではあたりまえだろう。だから、それを越えて、己れを身と心とに分け、その対比で見るというのは、言うならば相当次元の高い状況においてのみあることのように、私には思われる。そうだとするならば、そういう見かたがでてくる背景、時代の状況についての興味がわいてくる。

 身と心とに分ける見かたが、いつごろから現われてくるのか、詳しくは知らない。平安期には既にあったという。けれども、その時代、人々がみなそういうように思っていたとは、とても思えない。そういう時代のようには思えない。多くの人々にあったのは、せいぜい己れということの認識ぐらいではなかろうか。「身と心」という認識を持ち得たのは多分限られた少数のいわゆる「教養人」だけだったろう。その「教養」は、おそらく仏教の教えに触れることによって得たそれで、かならずしも自らが自らをつきつめて得た結果ではなかったのではないだろうか。その時代の「身と心」のうたも、言ってみれば、そういう「教養」として得た「身」と「心」という概念の論理的操作のおもしろさによったうたづくりであったように思えてならない。その論理が伝わってくるだけで、たしかに論理的に言いたいことは分っても、読み人の想いを直かに伝えるという点では、なにか弱いのではないかという印象を持つ。その点、万葉の恋歌の直裁的な、まさに己れの想いのたけをぶつけたようにうたいあげた歌の方が、論理を越えての強さがあるように思う。うたいあげたいことのなかみそのもの、それがそのままことばとなり、表現上の技術的な操作などは消しとんでしまっている。詳しくは知らないが、おそらく、万葉の時代、たとえ「身」ということば、「心」ということばが存在していても、己れを身と心とに分けて見る見かたとはおよそ無縁な時代であったのではないか。己れを代表せしめるのに「身」をもってしたり、あるいは「心」をもってすることはあっても、決してその二つの足し算とみなすようなことはなかったにちがいない。

 

 この閑吟集のうたの場合は、これもまた身と心という二つの概念:ことばの論理的操作であると言えば言えなくもないが、しかしこれは単なる論理的操作(のおもしろさ)を越えて、素朴に強く恋人への想いを伝えてくるように、私には思える。単なる歌の題材:対象の一つとしてたまたま「恋」が選ばれた、あるいは恋人への想いという「題材」を「身」と「心」ということばをもって言い表わすならこうなる、というようないわば表現技法演習的なものではなく、いかんともしがたい恋人への想いのリアリティそのものがことばになった、そういうように感じられるのである。

 既にこの時代、おそらく、己れを身と心とに分ける見かたは、単なる「教養人」の教養としての「知識」ではなくなり、より一般的に、いわば人々の身についた見かたになっていたのかもしれない。というのも、中世という時代が、どうもそういう世のなかであったようにも思えるからである。宗教の説く解説が、単に宗教の場面にのみ、従ってそれに触れ得る特定の人々にだけ通用するのではない時代、己れをそのように見つめてなんの不思議でもない時代、またそうしなければいられない時代。よく、ある時代にある宗教が普及し、また別のある時代には他の宗教が流布したというようなことが、いとも簡単に言われるのだが(学校で習った歴史ではだいたいそんな具合だったように思う)、しかし、ことはそんな簡単なはなしであるはずはなく、人々がそれを必要としないような状況では、宗教家がいくらがんばったところで、そんなに容易に普及するわけがない。

 実際、この閑吟集が編まれる前、十三世紀ごろから、世のなかは、拠るべき(古代的)秩序もくつがえり、たよるは己れしかない、生きるため、生きかたとして、己れを見つめ、自己を確立せざるを得ない時代になっていたのである。時代が、人々をして自己を見つめさせ、主体性の確立をせまった、そう言ってよいだろう。選ばれた人だけではなく、ほとんど全ての人がその必要にせまられていたと言ってもよいのではないか。そうだからこそ、そういう時代の状況に見合った宗教の解説が(単に一宗教としてではなく)自ずと広く広まったのだろう。そういう時代をうけて編まれた閑吟集(当時の俗謡の類を集めたのだという)のなかに、あの「身と心」の恋歌が現われるというのも、おそらく、極く自然ななりゆきだったのである。

 

 それでは、いま私たちが「身と心」という見かたをするのは、そしてそう見るのをあたりまえに思い、とりたてて不思議とも思わないというのは、私たちが(あの中世の人々のように)己れをとことんつきつめざるを得なかった結果としてなのか、それとも(あの平安人たちのように)それを「教養」として知っているからなのだろうか。

 そのいずれとも異なるように私には思える。

 

 私たちはいま、少し大げさに言えば生まれ落ちたそのとき以来、全てのものごとをそれを構成する要素に分けてみる見かたを教えこまれる。いわゆる「科学的」な見かたである。というよりもむしろ、そういういわゆる「科学的」なものの見かたの結果としての「諸要素」「諸知識」が、それこそ山のように群れをなして私たちの目の前に積まれている。そしてその量は増えるばかりである。「科学的な子どもたち」を育てようとして、いま学校では、これら「科学的諸知識」をいかに効率的に覚えさせるかという点に全精力がつぎこまれていると言ってもよいだろう。いまの子どもたちが覚えなければならないことがらの量は、私の子どものころのそれに比べると、まさに驚嘆に値する。そういう教育が行われる根底には、「科学的であるためには、科学的な知識の総量を増やさなければならない」という信仰があるとしか思えない。 学校を終えれば、あるいは(入学)試験が済めば御用済となる知識を教えたところで、「科学的」になるわけがない。であるにも拘らず、その信仰は衰えるどころかますます盛んになっている。そして、その結果として、その目標とする「科学的な見かたをする子ども」とは全く逆に、サン・テグジュペリがいみじくも言った(昨年7月の「通信」N0.4に引用)ように、単なる「えせ物識り」=辞書的人間、端的に言えば「非創造的」「非科学的」な子どもたち、自らものごとを認識しようとするのではなく与えられたことがら(知識)を「操作する」ことだけにたけた子どもたち(私はこれをマーク・シート人間という)が生まれてくる。

 言うまでもないことなのだが、「科学的である」ということは「科学的知識を身につける」ことではない。たとえて言えば、「単語」をいくら覚えても、「文法」にいくら精通しても、「言いたいこと」が確としてないと、ことばは使えない。外国人のかたことの日本語が私たちに通じることがあるのは、彼の「言いたいこと」が分るからで、その「ことばの形式:文章」が分ったからなのではない。そして、「言いたいこと」とはすなわち私たちのものごとへの「認識」の結果に他ならない。そして、まさにこの「認識」を深める、自らが自らのものごとへの「認識」を持つ、そうあるべく努めることこそ本来の意味の「科学的」ということの内容ではなかったろうか。因みに、科学の「科」の字の意味することは、ものごとを一定の基準によって分類・区分することだという。一定の基準が天から降って先験的にあるのではない。それは、ものごとを分けてみようとする主体が自ら設けるものだ。つまりその人の「認識」のしかたなのである。

 しかし、いま「科学的」ということばを使うとき、この本来の「科学」の意味は忘れ去られ、専ら「自然科学的」の意味が優先してしまう。(これはまことに「非科学的」な現象である。)だが、自然科学もまた、人間のものごとに対する(特にいわゆる「自然」に対する)「認識」の一形式にすぎず、人間の「認識」はそれで全てではないのはもちろんである。

 

 私たちが「身と心」を気楽に使うとき、「心身障害」などと簡単に言って済ますとき・・・・、はたして私たちはそれを言う前に「認識」を持っていたか。人間というもの、あるいは己れという存在についての「認識」を持っていたか。否である。万葉人も、平安人も、そして中世の人も、自らの想いを語るについてそれぞれの形式はとっているが、いずれにしろ、その根には「自らの」想いがあった。「主体」があった。そこが違うのである。

 いまは、自らの想いなどとは関係なく、「人間って身と心に分けられるんだってさ」とばかり、それになんの疑いもさしはさまずに、それに従ってしまうのである。そうなのだ、「科学的」であることの根本は「不思議に思う」ことなのではあるまいか。そして、「不思議に思う」には、他のだれが何を言おうと不思議に思う、「思う主体」が不可欠なのである。いまはこの「主体」がない。「主体」があって、すなわち、まずもって一人の人間が在ったうえでの「身と心」なのではなく、「身」と「心」との単純な足し算としての人間?が考案されている。

 

 ここ数年の間、いわゆる心身障害者を子どもに持つ父母たちの集まりとおつきあいする機会があった。その会合には、このいわゆる心障者の子どもたちも同伴されてくる。彼らは会場の一隅にいて、自らの世界にふけりながら、会合の終るのを待っている。数回の会合を重ねるうちに私はあることに気がついた。子どもたちのなかに、いつもことばにならないことばを発し続けている子がいた。その子の発することばの調子が会合のふんいきに応じて、どうも微妙に変化しているように、つまり、会合のなかみがなごやかで談笑しているようなときは明るく高らかに、とげとげしくなればきつく、白けてくれば沈静する・・・・といったように感じられたのである。彼はみごとに(なかみそのものはともかく)ふんいきを察知している、そのように思えるのである。私は(内緒のはなしだが)会合の方をそっちのけにして観察を続けた。やはり、どうみてもそうなのである。正常な人たちのなかには、場のふんいきなどこれっぽっちも分らない、分ろうともしない人たちがいるというのに、いったいどういうことだ。彼の方が高級な感覚を持っている!これは、通常の意味で言えば「心」がなければできないことだ。いったい「心身障害」ということばはなんなのだろうか。私は分らなくなった。相変らず分らない。ますます分らなくなってきた。

 ラベルを(勝手に)つくって、ものにはりつけることはたやすいことだ。しかし、ラべルをはったからといって、それは決して「分った」わけなのではない。まして、「私」の認識を経ないあてがいもののラベルで扱い済ますぐらいおかしなはなしはない。いまの世のなか、「私」を忘れたラベルが多すぎる。まずもって「私」があり、そして「わが身」と「わが心」があるのである。その逆はない。あり得ない。

 

 あ と が き

関東平野の夕日はすばらしい。そして、それがとりわけすばらしい季節になってきた。東の空から西の空へ、星がまたたきはじめたかすかに青色を秘めた黒い色からほんとに燃えるような火の色へと、その途中をありとあらゆる色に染めて、見事な天空がひろがり、見る見るうちに変ってゆき、やがて日は完全に平野の向うに没してしまう。あとには夕やみがせまり、なんの煙か、地表数メートルの高さに白い帯がただよっている。やがてそれもやみのなかに消え失せる。家々の燈りがここかしこに見えはじめる。まだ家々をかこむ林のかげも認められる。そしてそれも定かではなくなり、夜のやみにつつまれる。このほんの数十分の光景は、人の足をとどめるのに十分である。夕日がすばらしい日、近くの建物の屋上に、きまって一人、二人と人がよってきて、じっとこの光景に見入っている。というより、浸っている。私も好きだ。

日が沈み、日が昇る。その光景に日ごと浸って生きる人たちが天動説でその現象を考えたというのもよく分る。天動説より前に地動説は絶対に生まれなかったろう。しかしいま、子どもたちまでもが、それこそものごころついたころから、したり顔の地動説だ。それをして「科学的」と呼んで、はたしてよいのだろうか。日が沈みまた日が昇る、それにまず感激し、そして不思議に思う。そのことのない人たちに「科学」の心ははたしてあるのだろうか。日の出、日の人という現象に「非科学」的な説明をもってこたえようとした未開の人々の方が、てんから地動説の現代人よりも、ことによると、数等「科学的」なのかもしれないとも思う。

弱い、少数を尊重しないで、自由も平和もありません。一つの少数が抑圧されてしまったら、次は、新たな少数が抑圧されるだけですものね。・・・・・ダーヒンニエニ・ゲンダーヌ(北海道に住む少数民族、ウイルタ族)さんのことば。朝日新聞10月25日付夕刊。

決して絶望せず、しかも決して過度の希望も持たず、いかなる状況においても屈伏しないで日々の仕事を続ける。・・・・いろいろといささかくたびれかかった私の状況を察知して、こういうことばがありますよ、とわざわざ書き写して贈ってきてくれた人がいる。要するに、くたびれるとはなにごとか、というわけ。

それぞれなりのご活躍を!

        1982・11・2         下山 眞司   


1982年度 「筑波通信№7 忙中閑話」 1982年10月

2019-07-21 10:36:45 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №7」1982年10月 A4版4頁 

      「筑波通信 №7」 1982年10月

       忙中閑話 三題

  「鉄の女」イギリスの首相が来日し、研究学園都市を訪れ、とある研究所で、そこで開発している機器による(コンピュータによる)肖像画を目の前でつくり贈られ「ワンダフル!」と言ったとかいう記事が、その画のコピーとともに新聞に出ていた。多くの人もまた、「ワンダフル」と言うかどうかは別としても、驚くにちがいない。

 だが、もしも一人の画家がいて、首相の前にすすみでて、すらすらと彼女の肖像画を描いて手渡したとしたらどうなるか?おそらく彼(あるいは彼女)は、たちまちにしてつまみだされてしまうだろう。少しおかしいんじゃない?多分多くの人はそう思う。仮にその手描きの肖像画がコンピュータによるそれに比べていかにすばらしいできであったとしてもそれには決して驚かず、つまみだすことの方に夢中になるだろう。

 そうしてみると、この「ワンダフル!」がいったいなにに対して発せられたのかが問題となる。言うまでもなくそれは、機械に(人間の目に極力近いように)図像を識別させ、更に描かせようとする試みが、ここまで到達したということに対するもので(本来は)あるはずである。その技術の発展はたしかにすごいことである。そしてそれはまた、絵の下手な人が描くスケッチよりも、正確であるという点では(なにが正確なのかは別の問題としても)たしかに正確のはずである。だから、多くの新聞で、なにかものすごいことが行なわれた、日本の技術の勝利、とでも言うかのような胸をはった紹介のされかたがなされていた。

 恐ろしいのは、この驚きの段階を越えたあとの、人々のこの「技術」に対する対しかたである。うっかりすると、機械が画を描くことができるようになった、その技術のもつ価値が、描かれた画の価値にすり代ってしまう。機械の描く画に価値があって、人間が描くものには価値がないなどということにもなりかねない。だれでもがと言ってもよいほどいま多くの人がコンピュータに気がいっている。全く同じことも、コンピュータを一度経由させて言わせると一段と価値が高まるかのごとき風潮さえ見うけられる。

 だがしかし、コンピュータにことを処理させているのは、他でもない、人間であるということは忘れてもらいたくない。機械は、人間によって教えこまれた有限の数のパターンの処理のしかただけを正確に覚えているだけなのだということを忘れてもらいたくない。仮に機械に臨機応変の処理をさせることができるようになったとしてもその場合もまた教えこまれた場合の数だけに対してのものであって、それは決して本来の意味での臨機応変ではない。教えられなかった場面に対しては、お手あげなのである。

 そして、こんなことは言うまでもないが、人間の目は、そして人間の思考は、有限ではなく無限の対応を示すことができる。しかも、ひとりひとりが、である。そしてまた、機械はいつでも(一度教えこまれたら最後)同じ結果を生みだすだろうが、人間は人により、そして場面により、どこを切っても同じ金太郎あめみたいなわけにはゆかないのだ。逆な言いかたをすれば、そうであることこそ(金太郎あめでないことこそが人間であることの証なのだ。

 しかし世のなかには、人々がみな金太郎あめであることを望む人たちがいる。コンピュータのように、いつでもどこでも寸分違わぬ画を描くような人々に人々を仕立てあげたがっている人たちがいる。

 そして、機械が画を描くということに対する単純な驚きが、それを越えて機械や技術に対しての(単純な)信奉になってしまったとき、もともとそれらの機械や技術を考えだす根幹に存在していたはずの、私たちそれぞれの感性が見失われ、信じなくなり、金太郎あめができあがる。

 私たちは、なにも自らすすんで金太郎あめになる必要はない。仮に下手だと人に言われようが、私たちひとりひとりが描く画に、コンピュータの描くそれよりも、比較にならない(し得ない)価値がある。

 


 教科書の「記述・表現」問題。「近隣諸国との友好を損なう」から改めるのだという。それで「決着する」のだという。

 問題はそんなことだったのだろうか?         

 近隣諸国(だけではないが)の人々が問題にしたのは、教科書によって若い世代の人々に対して正しい事実であるかの如くに「知らされること」が(なにも近隣諸国の人々の視点にたたずとも)事実と異なっていたからに他ならず、しかもなににもまして、それらの事実は全てそれらの諸国において起きた彼らにとって「こちら側」のことだったからである。要するに「うそつき」だからなのである。「うそつき」だから「友好」のためにならないと言ったのである。ことの本質は、事実と「知らせることの内容」との関係のはなしなのであって、もちろん単なる文章表現の問題ではなくその内容のはなしだったはずなのだ。

 おかしなことが、おかしなままであまりにも多くまかり通るとき、そのおかしなことがいつのまにかあたりまえなことのように思われてしまうようになる。あやまりをあやまりと見ぬき、言う感性がまひしてしまうのだ。なぜなら、誤った情報、誤りではないにしても言わば一方的な解釈によった情報の洪水のなかで生きるとき(しかもそれが唯一絶対であるかの装いをこらしていると)、私たちは自らの感性によるその真・偽正・誤に対しての判断を省略し(他人のつくった判断に委ね)、それらをうのみにしてしまいがちだ。というのも、考えてみれば、日常的に身のまわりにあるものは(本来が)あたりまえなものだと思うのが人の性の善なるところだからだ。身のまわりに人々がつくりだし整えてきたものは全て、本来は人々がその性の善なるところに拠ってつくりだしてきたはずなのであって、そういう意味で人々は、まずその最初から、人々を「おとしいれ」たり、「だまし」たりすることを目標にかかげてきたことはなかったと私は思いたい。そのような場合なら、自らの判断を省いてうのみにしたとしてもまだ救われる。少なくともまだ人々を互いに信じているのだから。

 いまほど人の性の善なることを無視し、あるいは逆用し、「人為」的にものごとを処理しあるいはつくりだしている時代はないと思う。人々を信じるために、一見矛盾するようにも見えようが、身のまわりに充ちあふれる情報はそのまま信じない、一度自らの感性を通過させるという過程を(面倒でも)とる必要がありはしまいか。いま、情報(知らされること)は必らずしも「事実」とは限らないのだから。

 


 「ペルシャ秘宝」のほんもの・にせもの論議が新聞紙上をにぎわしている。にせもの・ほんもの論議。なにがほんものなのかという論議、にせものをほんものとして売った商売の当否について・・・・・いろいろ言われ書かれている。そして・・・・「秘宝展」で商売をしようとしたデパートの社長がその職を追われ、・・・・それで一件落着したのだろうか?まさか某社長をやめさせるのが目的の記事であったわけではあるまい?

 もしあの「秘宝」が全て正真正銘のほんものだったら、それにいくら高い値がつこうが(あるいは高い値がついていればいるほど)その「価値」が高くなることはあっても、決してけちはつかなかったにちがいない。ほんものなんだからそれでいっこうにかまわない?

 私には、にせものだろうがほんものだろうが(にせもの・ほんもの論議はそれはそれとして)、あれほどさわぐのならば、新聞はもっと重要な問題に触れるべきではなかったかと思えてならない。その問題とは、なぜペルシャの出土品:当事国にとっては文化財であるはずの物:がその国の外に持ち出され(売買の対象にされ)ているのか、ということである。いわゆる先進諸国(この場合には日本は含まない)の国宝扱の品物がその国の外で売買の対象になっているというはなしは、まずきいたことがない。必らずといってよいほど、それら「秘宝」は、いわゆる発展途上国というていのいい呼び名で呼ばれる諸国のものだ。もとはといえば、この先進諸国があの植民地「進出」時代に勝手に持ちだしたのである。日本の国宝級の品物が国外にあるのも大方はそれだ。ときには先進諸国の学者たちでさえ現地に行っては持って帰っている。その人たちが(学問のためといえばきこえはいいが、言ってみれば盗みに近いかたちで現地の「文化」を持ちだした人たちが)文化を語っているわけだ。これもまた「侵略」以外のなにものでもないと思うがどうだろう。

 なぜなら、その国で生まれたものはその国の必然で生まれたのであり。そのものの本来の価値はその国にそれが存在してはじめて意味あるのであって、決して骨とう品としての値だんによるわけではないからだ。その多くを骨とう品にしてしまった(そういう風習にしてしまった)のは、文化がすすんでいると称した先進諸国の人たちだったのである。早いはなし、中国の「文化財」を見るのに、なぜイギリスやドイツやアメリカ・・・・に行かなければならないのか。中国のものは、そしてペルシャのものも、いずれの国でつくられたものも、そのつくられた国の大地の上ではじめてその本来の意味を持つのである。考えてみれば、文化はその土地をはなれて生まれもせず、従って語るわけにもゆかないのである。文化にあたる英語cultureの原義もそうのはずである。

 ときあたかも「侵略」論議が教科書問題にからんで盛んであった。しかし「侵略」はなにも「武力侵略」だけではなかったのであり、言うならばそれと併行して「文化侵略」があったということを広く知らせる絶好の機会だったのに、新聞は某社長の「非行」論議で終ってしまうようである。

 

あとがき

〇もう稲刈がはじまった。夜気のなかに稲わらを燃やしたにおいがこもっていたりする。なつかしいにおいである。

今回は締め切り仕事に追われる破目になった結果、ついに雑感を三つならべるだけに終ってしまった。ほんとはこの三つの雑感を一つのはなしにまとめてみたかったのであるが、いかんせん時間がなかった。 残念。 ラフ・スケッチの段階をそのまま書くわけで、言わば私の舞合裏。

〇その代りというわけでもないけれども、この六月に別のところに書いたものが活字になったので、そのコピーを同封させていただく。これは実は、昨年十二月の通信「蔵のはなし」を全面的に改編書きなおしたものである。

〇それぞれなりのご活躍を! 

      1982・9・27                    下山 眞司


「筑波大学芸術年報1982年」より PDF「『環境』の見方・見えかた(その5)使いかたと使われかた―」B5版4頁 


1982年度 「筑波通信№6 「地方」の重さ」 1982年9月

2019-07-07 10:02:12 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №6」1982年9月 A4版10頁 

     「筑波通信 №6」 1982年9月

      地方の重さ・・・・八月十五日によせて・・・・

地図の上のアメリカ

 アメリカ帰りの人から、おみやげに向うの道路地図をもらった。一ページがわら半紙よりひとまわり(縦横とも1~2㎝)大きく、見開き二ページに一州がおさまるようになっている。日本のそれを見慣れている目には驚くことばかりであった(もっとも、ヨーロッパのそれを見てもそれほど驚いた覚えはないから、アメリカが少しばかり独特なのかもしれない)。

 驚きの一つは、言うまでもないが、その国土の(私たちからすると)途方もない大きさについてである。その昔、カリフォルニアの半島に日本列島がすっぽり入ってしまうと教わって驚いたことがあるけれども、しかしその驚きはどちらかと言えば実感の裏づけを欠いた観念的なそれだったように思う。いまこうして道路や町々の所在がこまかく書きこまれた地図を見ていると、日常的な尺度・感覚でその巨大さがあらためて伝わってくる。

 はじめのうち私は、なんとなく日本のそれを見るようなつもりでながめていたのだが、ふと気になってその縮尺を調べてみた。なんと、そのほとんどが百万分の一から百五十万分の一といった縮尺なのである(見開きニページに一州をおさめるため、州ごとで縮尺が違っている)。日本の道路地図は大抵見開きニページでわら半紙の大きさ(いま私の見ているアメリカのそれの半分)で、縮尺は大体四十万分の一である。そして中学・高校の学生用地図帳も見開きニページでわら半紙大であり、試みに「関東・中部地方」を開いてみると、それが百五十万分の一で東は福島県、西は京都府あたりまで入っている。念のために言えば、一州の半分の大きさに、である。一州が実にけたたましいほど(私たちの目からすると)大きいのである。はじめ私は、ページごとに縮尺が違うなんて不親切な地図であるなどと思っていたのだけれども、そう思うのはやはり日本に慣れた目のせいで、日本でのように一日のうちに地図の数ページ分を動いてしまうなどということは彼の国ではまずないのである。州境近くを動く場合の他は一度開いた見開きのなかでことは足りるのである。ページごとの縮尺の違いなど、この地図の目的上、問題にならない。いずれにしろ、日本に慣れた目を大幅に修正しながら見ないと、とんだ錯覚を起こしかねない。

 もう一つの驚きは、その地図の上に網の目のようにひろがる道の形状の特異な形についてのものである。もちろん例外はあるが、まず八割がたは東西・南北に向きをそろえた方形の格子状をなしている。百万から百五十万分の一という縮尺の地図では町なみ家なみは当然書きあらわせず、道も他の地物もいわば記号化されて書かれることになる。そのためかえって道の格子がきわだって見えてくる。それはあたかも(スケールは全く違うのだが)条里制の水田(あるいはその跡をとどめる地図)を見ているかのようである。それが顕著なのはもちろん平原状の大地の場合で、山地ではさすがにそうではない。しかし。平原状だからといってたとえば関東平野をおおう道がほとんど全て格子状をなしているなどという姿を、私たちは想像できるだろうか。私たちの道は、川にぶつかれば素直に向きをかえるのをいとわない。彼の地に川や起伏がないのかというと、そんなことはない。よく見ると川もちゃんと流れているし、当然ながらその向きも東西・南北を向いているわけではなく勝手気ままに流れている。そして道は、よほどの大河でない限り、およそ川の向きなどおかまいなく、その初志をまさに字のとおりに貫徹している。道というのは、およそいかなる形をしていようが全て(ことばの本義で言えば)人工物なのだけれども、この地図の上の道を見ていると、これこそが人工であって私たちにとってあたりまえな道の方は自然物であるかのように見えてくるからおもしろい。

 しかし、全部が全部格子様なのではない。よく見てゆくと、この大平原のなかに、全体から見ると異質に見えるのだが、微妙に曲りくねり、東西・南北の向きには関係なく斜めに走る道も見えてくる。地図の上では異質だけれども、私はこれに出会って少なからずほっとした。それは私たちが普通目にしてきた道とそっくりだからである。しかし、この道はなぜ斜めなのか。理由は単純なはなしである。これは素直に川に沿った道なのである。明らかにこの道は例の格子様、の道とはその成因が違うとみてよいだろう。大きな町、その地方の中心と思われる町は、どうやらこの斜めに走る道に沿ってあるように見える。そういったことを考えてみると、この斜めの道は多分この地方の古道なのではあるまいか。そして格子様の道は開拓の結果として生じたもの、道としてよりもむしろもともとは地割線に違いあるまい。

 つまりこういうことだ。人々は下流から川に沿って開拓を目的にさかのぼってくる。まず、適当と思われる場所に仮にとどまり、そこを拠点にまわりの土地を物色し定着地をきめる。つまり、仮の場所は言わば前進基地、開拓中の土地が前線である。まさに字のとおりフロンティアである。開拓がすすむにつれ、それを支える前進基地は町として発展してゆく。そして開拓した農地は整然と区画され、その塊界線がそれらを互いに結ぶ道とされる。おそらくそのとき、それら方形の線が全土をおおう道路網になるなどという発想はなかったに追いない。そうなったのはずっと後になってからだ。なぜなら。拠点の町へゆく道はともかく、開拓地を越えて更に先へすすむ道は、彼ら定住地を見つけてしまった開拓者たちには当面必要なかったはずだからである。それを全土をおおう道路網の一つとしてくみこんだのは、多分、後の時代の別の(目的をもった)人たちなのだ。

 実際に見たこともなく詳しく調べたわけでもないのにこういうように思うのは、およそどこの国であっても、全土をおおう道路網の建設が人々の定着・定住よりも先行するはずがないからである。先行するのは、まず人々が定着すること、そしてできた村々や町々がそこに住む人たちの必要に応じて道を介してつながってゆく。そのとき彼らが、はるか数百㎞も先の(自分たちの生活とは、自分たちの側から見て、何の関係もない)町や都とのつながりを第一義的に考えるわけがない。たしかにいまでこそ、まず基幹としての道路を整備し、それから開発をすすめる、というのがあたりまえになっているけれども、それはあくまでも近代の合理主義的考えのしからしめるところなのであって、唯一そういう見かただけで古今人々がその住む大地に拠って営んできたことを見てしまったら、何度も言ってきたことだけれども、そこにはとんでもない誤解が生まれてくるだろうと私は思う。そしてまた、そういう近代的開発の目でしかものを見ないならば、あの格子状の網の目の下に、ことによるとこの開拓をした人々以前に住みついていた人たちの道が隠されているかもしれないことに、全く思いもおよばなくなってしまうかもしれないのだ。

 

地図のなかの人々

 こういった驚きをともないながら地図を見ていると、それが全く見知らぬ土地の地図だからでもあろうが、その地図の上のすみずみで暮している人たちの生活というのはいったいどういうものなのか、いろいろな思い・想いがわいてくる。

 たしかにはじめのうちは地図をひろげその縮尺を確認し、その大きさにためいきをつき、名も知らぬ町々を順にたどってゆき、隣り町までちょうど土浦と東京ほどの距離があるのだ。などとどちらかといえばその物理的な側面での感嘆をくりかえしていたわけなのだが、そのうちに、こういうような状況のなかで暮している人たちの生活(感覚)というのはいったいどんなものなのだろうか、とても気になりだしてきた。

 たとえば、そこの町に住んでいる人たちにとってアメリカの政治の中枢ワシントン、あるいは文明の先端をゆくと思われているニューヨークなどなど私たちもよく知っているアメリカの代表的な都市やそこでの動向は、いったいいかばかりの意味をもつものなのだろうか。あくまでも私の感じにすぎないのではあるが、その町に住む覚悟をしている限り、おそらくそれらははるかかなたの言わばどうでもいいこととして受けとめられているのではなかろうか。すなわち、あそこはあそこ、ここはここ、というとらえかたが至極あたりまえになされているのではないかと思う。なにしろ、ワシントンなどははるかかなたの地の果てにあり、さきの地図なら何ページもめくらなければならないし、そこへ仮に行くとなれば、日付はともかく時計の針は何度か変更しなければならないのである。ことによると、ワシントンなどときくと、まず自分の州の(隣り町の一つとしての)ワシントンを頭に描くかもしれないのである(ワシントンなる地名は、私たちの知るあの有名なもののほかにも各地にたくさんあるのだそうである)。もちろんたずねてみたわけでもなく調べたわけではないのだが、多分まちがってはいないと思う。

 つまり、そこの町に住む人たちの日常的な暮らしの世界のなかには、そのはじめに抽象的なアメリカ全体:「全国」などという観念は決して入ってこないだろうということだ。「全国」的な世界は、その日常生活の何段階か上の次元のはなしなのであって、まずはその町でしかあり得ない(その町だから当然の)ものごとが考えられると見てよいだろう。そして、これだけ広い国土だと、一生自州はもとより自分の町のまわり数百㎞以上の外に出たこともなく終ってしまうというのも決して珍らしくはないだろう。そう考えてくると、成功をおさめたアメリカの(いなかの)おじいさん・おばあさんが世界一周の旅にくりだしてゆくというのも、なんとなく分るような気がしてくる(「農協さん」などと少しばかり皮肉った表現がされている日本の農家の人たちの海外旅行もまた、これに似た側面があるのではないかと思える。彼らもまた、土地にとりくめばとりくむほど、自分の「世界」だけで過ごし終ってしまうことが多いからである)。

 

 こう見てくると、少しばかり短絡的かもしれないが、アメリカが一つの「中央」による国内政治ではなく、各「地方」:各州の州政治を基とした連邦制をとっているのが、まことに理の当然であると思えてくる。

 「統一的」あるいは「画一的」なやりかたで「全国」一律に処するなどということは、物理的にもまず不可能だからである。この百五十万分の一という地図の上に辛うじて点となって書き示された町に、もはやその縮尺では目に見える点にもなり得ない人々が住んでいる。しかし、その人々の存在ゆえにその町や村が存在する。この人たちは、まさに「草の根」なのである。この広大な土地の地図は、それが広大であるがゆえにかえってこの「草の根」の存在をひしひしと感じさせてくれるのである。そして、そういう「草の根」が繁茂しているがゆえに町が在り、州が在る。州という「林」がなりたつ。そしてその集合体が合衆(州)国すなわちUnaitedstatesという「森」となっている。また、そうならざるを得ないのだ。現実に「草の根」たちがどう扱われているかは知らない。しかし、アメリカの(少なくとも建前としての)民主主義とはこういうものなのだろう。いや、なにもアメリカに限らなくたってよい。およそどこの国においても、「草の根」の存在しない村や町もそして国も在るわけがない。とりわけ「国」というような抽象的な存在が「草の根」より先に在るわけがない。

 だが、日本の様相はどこか違う。日本ではむしろ「中央」という名の大樹が、「草の根」を一本残らずむしりとり根こそぎにしてしまうことによって繁茂している。更にまた繁茂しようとしている。はたしてそれが「国力」を強くなることなのであろうか?そしてこの日本の様相は、国土が狭いという特性ゆえの日本なりの当然の様相なのであろうか?たしかに「統一的」「画一的」なことの処理は、狭いがゆえに数等やり易いだろう。しかし、やり易いということと、「草の根」の存在を認めるかどうかということとは、本来別の問題である。先に記したように、国土が広かろうが狭かろうが、そして「画一的」な処理がし易かろうがしにくかろうが、「草の根」すなわち個々の人々は、厳然として存在する。仮にその個々の人々の個々としての存在が(ある人たちにとって)都合が悪いからといって、現実に、そして諭理的に言っても、その存在を消し去ることは絶対にできない。

 私はいま、あのアメリカの地図を見ていて、そこに「草の根」の存在を見たと書いた。しかしほんとは、日本の地図の上にもそれを見なければいけないのである。もしその上に、そこで暮す人々の姿が見えてこないならば、それはそこに土地ではなく単なる地面の拡がりを見ているにすぎない。こういう見かたが横行するとき、頭のなかからは日々を暮らしている生身の人間が消えていってしまう。そして、そういう人々が存在しない前提のもとで、次から次へと人々に係わりをもつことがらが処理されてゆく。これを矛盾と言わずとして何と言うのだろうか。

 

「地方」のニュース‥‥事実とニュース

 八月の七・八日、所用で山梨県へ行った。泊ったのは一足信州に入った富士見町(八ヶ岳のふもとで、名前のとおり信州から東へ向うとここへ来てはじめて富士山が一望のもとに見わたせる)であったが、そのあたり(富士川の上流にあたるが)一帯、南アルプスへかけて、ちょうど一週間前の台風十号で相当ひどい被害を受けたようであった。ようであったと書いたのは、現地に着くまで被害について全く知らなかったからで、私は車ででかけたのであるが、私は運よく車が通れるようになって間もなくの道を通ったらしく、一日前だったら来れなかったのだそうである。そんな情報は、訪れる前何も知らなかった。

 実際こんな場合、知るといったって、私たちはどうやって知るのだろうか。だれか知りあいでもその町にいれば、いちはやく知り得たかもしれないが、そうでもない限りせいぜい新聞・ラジオ・テレビのニュースによるしかなく、そのころニュースは東海道線の富士川鉄橋の倒壊や東名・中央両高速道の土砂くずれによる不通など、どちらかといえば首都圏にとって何らかの係わりもちそうな障害について多く報じられていたように思う。道路情報というのがあり、電話一本で状況を知り得るのであるが、報道に拠る限り私の目的地は大したことはないと頭から思いこんでしまっているから、私は問いあわせをしようとは思わなかったのである。実際はかなりの被害であった。その時信州は、東京方面からの二通りの幹線:信越線・中山道と中央線・甲州街道:が両方だめになり、一時的に孤立の状態だったのだそうである。そういう具合だから、あちこちで浸水、洪水、鉄砲水、土砂くずれがあり大変だったらしい。よく考えてみれば、富士川下流の鉄橋が倒壊するほどの水が流れた以上は、その上流の雨がいかにひどかったか自明のはずなのだが、ニュースで報じられるとどうしても報じられた一件にのみ目がいってしまって、関心もそれだけで終ってしまい、その背景・全景:全体像にまでは目をやらないで済ましてしまうのである。

  私はその地の新聞、信濃毎日や山梨日日を読んで、やっとのことで現地の状況の大体についておぼろげなその姿を知ることができた。というより、筑波で読んだ向う側の「中央」紙の報道と、そこで読んだこちら側の「地方」紙の報道とをあわせてみて、今度の台風十号がどんな具合に列島を横切っていったかがはじめてよく分ったような気がしたのである。

 なにも今回のこの経験によってだけではないのだが、とかくこういう場面に出くわすと、いったい「中央」紙なる新聞の紙面をにぎわす記事というのは何なのか、あらためて考えざるを得なくなる。なぜなら、現場に居あわせでもしない限り、多くの人々は、その読む「中央」紙において報じられた個々の事例だけによって、たとえば今回の台風十号についてのイメージを、勝手に、描いてしまうだろう。それで全てだと、つい思いこんでしまうのだ。(もちろん、その勝手は必らずしも読み手の責任ではない。)そして多分、人々は分った気になってしまうはずである。

  言うまでもなく、全ての事件、あるいは全景をくまなく報ずることは不可能であるから、報じることの内容に対して必ずある種の選択が行われよう。だから、その選択のなされかたの当否はともかく、少なくとも、そこに記されていることはあくまでも全体の一部にすぎないということを私たちは知るべきであり、そしてまた、そのほんの一部分のことがらをもとに、私たちが個々に、その全体:全景あるいは背景について思いをはせるべきなのではないだろうか。おそらくそれが、知ろうとする私たちにとっての最低の努めのはずである。

 

「中央」からのニュース・・・・知らされることと知ること

 実際、「中央」の近くに住み時折「地方」に出向いて、その地の新聞やテレビを見ていると、日ごろ気づかずにすごしていた、同一のことがらも自分の立つ場所によって全く違う見えかたをするものだ、ということにあらためて気づく。言わば、向う側に押しやって見ていたものを、こちら側に近づけて見れるようになり、私の立場の所在の確認をせまられることになる。いつもいったい何を見ていたのか、ということだ。

 よく「地方」でテレビの(特にNHKの)ニュースをきいていると、「きょうの日曜日は久しぶりに夏らしい青空がひろがり・・・・」だとか「きょうは九月一日、夏休みも終りきょうから新学期、まっくろに日焼けした子どもたちが元気よく・・・・」などと言っているのに出会うことがあるけれども、たまたまその日一日その地が曇っていたり、あるいはその地が寒冷地であったりすると(寒冷地の二学期は八月二十日ごろにははじまっているから)実にもう白々しくきこえることがある。多分、これを東京で見ている人は別になんとも思わず、そういえばそうだったなどと思うだけだろう。あたかも「全国」的なはなしをしているようでいて、実はそれは東京のはなしをしているからなのだ。ことによると、東京のことは「全国」に通じるかの錯覚におちいっているからなのかもしれない。いや、ことによると、知らせる方も知る方も、錯覚どころか素直に(ほんとに)そう思ってしまい、更にそれどころか、その「全国」共通からはずれているようなことがまるで悲いことでもあるかのように思っているのかもしれない。それがたまたま自分の身のまわりで起きたことがらについてのニュースのときには、事実と違うではないかと白々しく思うだけで(もしかすると、そういうことに慣れてしまって、軽くまたかと思うだけで)、その他のことは、多分、そのままうのみにしてしまう。

 考えてみると、これはまことにこわい、恐ろしいことだ。なぜなら、事実を知るのではなくニュースを知ったことで、あたかも事実を知ったかの気になってしまう。それに慣れてしまうと、自らが(事実を)知るということが忘れ去られ、(事実を)知るということ自体も他人まかせになってしまう。自ら知り得ていないことまで、知っているかの錯覚におちいりかねない。そうなれば、自ら知らないがゆえに分らない、と言うことさえもなくなり、だれもが分っているかの気にさえもなってしまう。つまり、自らのものごとの判断が放棄されるということである。ものごとの判断までも他人まかせとなる。

 しかしほんとうは、自ら知り得ない、それゆえ分らない、そうはっきり言いきることが大事なのであり、そう言いきれるとき(つまり、知ったかぶりですごさないとしたとき)、実は逆にそこにおいてはじめて、自ら知ろう、分ろう、と努める気持がわいてくるのではないだろうか。「中央」から(だれかの手によって)整理された事実だけが知らされるのに慣れ、それが全てだと思いこんでしまったとき、私たちは、この自ら知ろう分ろうと努める気持さえ失なってしまうに違いない。そして、私たちがそれに慣れてしまったとき、そのとき私たちに知らされるものはいったい何か。そしてそのとき、私たちはどのようなふるまいかたをするようになるか。多分そうなったとき、私たちは、ひとりひとりの判断を忘れて、画一的な判断を(別に強制されているとも思わず、あたかも自らの判断であるかの如くに)するようになるのではなかろうか。

 

 実際、昭和二十年八月十五日以前において私たちがおかれていた状況はまさにこういうものであったと思うし、その後三十七年を経過したいま、民主主義を片方で(建前として)かかげつつ、ある種の人たちがつくろうとしているものもまたこういう状況に他なるまい。そうでなければ、あれほどしつこく教科書の画一化にこだわるわけがない。私たちがともすればおちいる知らされたことを事実そのものと思いこむ錯覚が巧みに利用され、私たちの(強制されているとも気づかない)画一的な判断を生む状況づくりが着々と行なわれている。そしてまた、情報量の増加、しかも一見したところ多種多様な情報は、人々をしてただ単純にいろんなことや考えがあるのだと思わしめるだけで、かえって自らが自らにより知ろうとする気を起こさせなくなってしまっている。そしてその多種多様な情報でさえ、それは決して多種多様な人たちによって発せられているのではなく、端的に言えば、「中央」にいる(「中央」こそ全てであると思いこんでいる)ある種の人たちによって発せられていると言ってよいだろう。それらもまたテレビのニュースと同じに、必らず一度「中央」を経由して「全国」に流されるのであり、このやりかたは、ことによると戦前戦後を通してなんら変らなかった極めて日本に特有な現象なのではなかろうか。

 しかしいったいなぜ全ての情報やニュースが「中央」からあるいは「中央」を経由して伝えられなければならないのだろうか、そしてそれが(日本では)あたりまえになっているのだろうか。

 たとえば、さきのアメリカの道路地図の上に見つけた名もきいたこともない小さな町でも、ニュースは「中央」から伝えられるのだろうか。そうではないだろう。新聞でいえば、彼の地には日本のような「中央」紙はない(系列はあるようだが)。「全国」紙はなく(系列はあっても)全ては「地方」紙である。というより「全国」紙、「地方」紙ということばがないはずだ。どれもがいわば「地方」紙なのだから。かのニューヨークタイムズにしたところで、基本的にはその名のとおり一「地方」の新聞にすぎない。なぜそれがあんなに有名なのかといえば、それは発行部数によるのではない、その内容によってだろう。当然あの小さな町のあたりにも「地方」紙があるに違いない。部数はとるに足らない小さな新聞。そしてそれは多分、その「地方」の目で編集されているに違いない。言わば、「世界」は彼らの目でもってとらえられる。もちろんニュースは通信社から配られるだろう。だが、そのあつかいかた:つまり編集は、あくまでも彼らの目によるはずである。つまり、その新聞はその「地方」のためにつくられるのだ。おそらく、諭説や主張や論評もまたその「地方」に根ざして説かれるだろう。ことによると、中立をよそおうなどということもなく旗じるしの鮮明な新聞がいくつもあるのかもしれない。そして、もしその論説や主張が、その「地方」を越えた共通性普遍性のあるものであれば、それはまたすすんで他の「地方」紙(有名無名を問わず)転載されることもあるというはなしもきいたことがある。

 すじの通った一「地方」の主張は、それが仮に数の上ではとるに足らない「地方」や「地方」紙であったとしても、それは無視・黙視できない価値を認められるということだ。もちろん実態を詳しくは私はしらない。しかし、建前は、その土壌は、基本的にはこういうものだろうと思われる。あの広大な広がりという物理的状況では、こうでなければ成り立つまい。すなわち、「中央」ではなく、「中央」だけではなく、そして「中央」におもねることもなく、一「地方」がそれぞれ「世界」を語ることができる。これが日本なら、正しい情報は「中央」だけが持ち得るのだと自他ともに思いこんでいるから、正しくない、あるいは情報量の少ない「地方」の見解なんてとばかり一笑に付されるのがおちだろう。そして実際各地の「地方」紙で、自負と見識をもって編集している例はほんとに少ないように思う。その少ない例では、一般紙面はもとよりその投稿欄などを見ると、一見して地元の人たちに支えられているというのが分かる。しかし、大かたの場合は、第一面から三面記事みたいで読む気がおきない。まるで、その「地方」のことも全て「中央」にまかせておけばよいかのようである。

 たとえば、私が住む茨城ではいわゆる科学万博が数年後に開かれることになっているけれども、地元の新聞はのっけからそれを行なうことがよいことであるかの前提で話をすすめている。万博を成功させよう、といういわばキャンペーンの先兵を卒先してつとめているといってよい。なぜなら、それを契機としての「中央」からの「公共投資」という名の「下付金」が欲しいからなのだ。おそらくこれはなにも万博がらみだけではなく他のことも同じだろう。およそ県政というものが、いかに「中央」に対していい子ぶりっ子をしておこづかいをたくさんもらうか、という点にのみ関心があるわけで、地元の新聞はそれを援護することに意味を見つけているようなのだ。「中央」のその「地方」に対する施策に唯々諾々として従うことをもってよしとする。万博がどういう意味をもつかなどという論議はそっちのけでそれによっておちる金勘定が先になる。第一、そのおりてくる下付金のでどころがそもそもどこであったかを忘れている。言ってみれば、もとはそれぞれの「草の根」から集められたものだ。ある地方行政の担当者が、やたらに使途をこまかく規定した補助金をいろいろくれるよりも、それらをまとめた金をくれた方がどれだけよいかわからない、それに、なにも一度国:「中央」に吸いあげてから再びもどってくるという過程もあほらしい、と言っていたけれども、これはある面で正当に思える。しかし現実はそうでないから、少しでも「中央」に近い方が「地方」のためになるという発想になり、それに大抵慣れきっているわけである。

 だから、国家的スケールのプロジェクトから、どうみても地域の限定されるものまで、およそ全てが「中央」の意図どおりに動くことになる。そして、「地方」も「地方」紙も多くの場合それに迎合する。「地方の時代」などときこえのよいことばがでまわったけれど、その発想元もまた「中央」なのであって、それの意味はあくまでも「中央」の体制化のもとの(「中央」のための)「地方」であり、それは決して「地方の自治」ではないのである。考えてみれば、「地方」からの発想が基本となるのがあたりまえにあたりまえになっていたならば、あえて「地方の時代」なる新語(珍語)が生がれるわけがない。

 

知ることと知らせること

 このように見てくると、いま私たちがおかれている、そしてあたりまえだとさえ思い、慣れきってしまっているこの状況、そしてそれに慣れきって、どこかえらい人たちから知らされることをもって事実の全てと思いがちな私たち自身の状況、これはまた大変に恐ろしい。


 「中央と地方の問題は、その地域がそれぞれにもつ固有性によって、いっそうむつかしいものになっている。地域の社会と文化、人間の暮らしかたの総体を真に深く理解し得るのは、まずそこに住むもの自身であり、そこに住むものが、自分たちの暮らしかたの実態と地域に深く横たわっている問題とを、広く他の地方や中央の人々に知らせる必要がある。だが、情報時代といわれる今日においても、それが実際にむつかしいこと、無限にむつかしいことは変りがない。

 近世末期に越後湯沢の一商人にすぎない鈴木牧之が、『北越雪譜』二編七巻を著して、雪に埋もれて暮らす自分たちの地域のことを、巨細、天下の人々に知らせ、その理解を深めようとしたのは、稀有の出来ごとであった。」(益田勝実<北越雪譜のこと>より)

  

 むつかしいことは分りきっている。しかし、私たちに残されているのは、そしてそれはつまるところはじめにして終りでもあるのだが、私たちが私たち自らを語ることだけだろう。なぜなら、さきにも書いたけれども、「中央」という大樹が「草の根」よりも先に存在するわけではないからである。別に「草の根」は、得体の知れぬ「中央」のために在るのではないからである。知るということは、知らされることを知ることではなく、私自身が自分の目で知ることだからである。そしてそれは、少なくとも、三十七年前の八月十五日以降、私(たちの世代)が身をもって身につけてしまった考えかたでもある。

 

あとがき

〇暑い。むし暑い。乾いた空気がほしい。

〇暑いのと、いろんな仕事が重なったことで、ついに今号はまとめるのがおそくなってしまった。

〇教科書問題。あの戦争で、なにも学ばなかったのだろうか。学んだのは、多数決だけだったのか。

〇空気が少し澄んできた。

〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

           1982・8・21                       下山 眞司

 


1982年度 「筑波通信№5 『善意』の人々」 1982年8月

2019-06-25 10:09:38 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №5」1982年8月 A4版10頁 

     「筑波通信 №5」 1982年8月

      「善意」の人々・・・・経験すること、分ること・・・・

 経験者の目と、未経験者の目

 六月の末は、大学では期末試験の季節である。学生にとってはもちろん、教師にとってもいやな季節である。知識の量を計るというやりかたはそれなりにランクづけも楽だけれども、試験のときにたくさんの知識をまちがえずに覚えていたからといって、ずっと先までそれを覚えているはずもなく、第一仮に覚えていたとしてもそれが有効に本人のなかで働かなければおよそ無意味だし、覚えこむという努力自体徒労にすぎない、それよりもものごとを自分がどうとらえ、どう考えるか、その方がずっと重要なことのように思え、そしてそうした自分の考えかたによって必要に迫られて身につけた知識は生き生きとしているものだ、そう考えるが故に、試験問題もなんとかして各人の考えかたの展開のさまが分るようなやりかたはないかといろいろ考える。自分が感じ思っていることをどれだけ論理的に展開できる人なのか、せいぜいそのくらいでしか評定できないと思うからである。ここに掲げたのは今年の問題である。引用した文章は、先号のあとがきに紹介したもの。いったい、どんな答案がだされたか。(対象は二年生25人。建築志望の学生とは限らない。)

 

  

自分の考えかたでなく、教師に迎合したことを書けばいい点がもらえる、などと思われても困るので、そうならないように対策を講じることになる。 A,B,C,D, 四人の会話を付したのはそのためだ。A,~D,のどれかを選べというのじゃないよ、と口頭で言ったのだが、それはまったく杞憂だった。

 

 私なら、幼稚園は明るい方がいい。自分の家と幼稚園とは、子どもにとってはまったく別の世界だと思う。少なくとも私はそうだった。家でいやなこと悲しいことがあっても、幼稚園にくればみんなの明るさのなかで、いつのまにか自分も悲しいことを忘れていた。幼稚園に来てまで、(悲しむ場所を用意までされて)悲しい気分を忘れさせてくれないのでは、私なら困ってしまう。幼稚園は自分たち子どもだけの世界なのだ。しかった大人も白い目で見る人も‥‥ここには立ち入れない。そういう人たちから逃げ隠れすることもない。確かに幼稚園に来てもまだ悲しくて泣きたいこともあるだろうし、幼稚園のなかの生活でもそういう気分になることもあるだろう。そんなとき、一人で泣きたいと思う子どもは、幼稚園が明るい設計であろうがなかろうが(つくりがどうであろうが)、思う存分一人になれ、泣ける場所を自分から見つけるものだろう。私は子どものころとてもおとなしい子で、幼稚園では他の子とうちとけて遊ぶことをせず、みんなが遊んでいるのを一人で見て楽しんでいるといったタイプの子であった。もしも一人になれる暗い場所がいくつもあったら(別に悲しいことがなくたって)私はいつもそのどれかに閉じこもりきりで、友だちもできない暗い子になってしまっていたかもしれない。孤独という感覚は、大ぜいの人のなかで(かえって)十分に知ることができたのだ。私の場合、家に帰れば明るくおてんばな子であった。まわりにはその逆の子もいた。みなそれなりに、家と幼稚園とを区別していた。家のまわりでも幼稚園ででも、私たちは大人が用意してくれた遊び場などに関係なく、自分たちで、その場その場でいろんな所を遊び場にしたり、泣き隠れる場所にしていた。だから、大人がどんなに小さなところまで心配りをしても、結局子どもたちはそれとは関係なく(大人の思いをはずれて)自由に生活してゆくのだと思う。だから私なら、幼稚園には普通家では考えられないような場所(大きな部屋や大きな庭や・・・・)があればいい。あとは子どもたちが自由に使いだし、つくりだすだろうと思う。・・・・

 

 これがその答案の一つ(抄録)である。別にこれが一番よかったわけではない。

 私が意を強くしたのは、この人も含めて三分の一以上の学生諸君がこの園長さんの思考の展開にある短絡を適切に指摘してくれたことである。この園長さんよりも学生諸君の方がずっとよく、さびしさということ、孤独ということ、そして(子どもはもちろん)人の行動ということ・・・・について分っている、それで私は大いに安心したのである。専門教育をこれから受ける段階にある二年生の彼らが、極く極くあたりまえにこういう見かたを持っている。しかもそれは、いずれも自らの体験に拠って語られている。更に加えて、この答案もそうであるように、その体験があくまでも自分の体験にすぎず、他人はまた別の体験をしているということを(実際に目にもし)明確に認めた上、だからといって人はそれぞれやることが違うんだとは放っておかず、個々人の違う体験を通り越した向うに、言わば普遍的な子どもの姿を見透している。

 そして更に、多くの諸君が(これもこの答案にあるが)極めて大事なことを指摘している。それは、彼らがよく自分を見つめている故に分っているのだと思うが、大人がいかに細かく心配りをして「ここはこういう具合に使う所」として場所を用意しても、子どもがその気にならなければ子どもは大人の心配りどおりには使わない、子どもは子どもなりに(人は人なりに)自分の意志、自分の判断で自分の場面をつくりだす(あるいは探しだす)ものなのだ、という指摘である。ここまで来れば、この学生諸君は、それから先の(それが難関なのだが)「では、いったいどういう場所を用意したらよいのか」という本質的な問題:私たちの生活してゆく場所をつくってゆくにあたっての本質的な問題:に、この園長さんよりもずっとずっと近くまで近づいているのだと見てよいだろう。

 ところでこの答案は問題の2)に対してのものであった。そこで、今号は、私自身この問題の1)に答えるようなつもりで話を展開させてみようかと思う。

 

 子どものタイプ・生活のパターン

 引用された文章から想像して、この園長さんはきっと極めて子どもの教育に熱心なのだと思われる。子どもの成長、それに係わりをもつことに対し、情熟で満ちあふれている。その道に関しては人後に落ちない。その点では、なみの専門家ではない(なみの専門家は自称専門家で、その道に熱心であるまえに、専門家であるということの方に熱心だ)。 彼は、普通とかくおちいりがちな「子どもたちってのはガキ大将ばっかりで、明るく元気なものだ」などという「観念的な見かた」をしない。彼はむしろ、そういう見かたからははみだしてしまう言わば少数派の子どもたち、おねしょをしてしょげている子、しかられて泣きたいほど悲しい子、・・・・そういった子に目をやろうとする。私もまた、そういう子に目をやることには同意する。切り捨てられるものなのではないから全く当然だ。けれども、園長さんと私では、どこか一つ違うところがある。

 いま私は「少数派」という書きかたをした。そして、この園長さんは、どうもこの子どもたちを普通一般に忘れ去られてしまっている「少数派」として見ているようなふしが見うけられる。そこがどうやら私と違うところだ。それを単に子どものタイプだとして、あるいは子どもをいくつかのタイプにわけて、見てしまうだけでよいのだろうか。その点では、私は先の答案にある子ども観の方をとる。

 つまり、一人の子どもにあっても(場面に応じて)こういったタイプが出現する。それは、子どもの生活の諸相の一つにすぎないのだ。ガキ大将やおてんばの子だって一人悲しむことはあるし、内気の子だってやたらにはしゃぎたくなるときもある。いつも一つに定まっているわけがない。まして、先の答案にもあるように、家ではおてんば、外では一転しておしとやか、という具合にさえふるまうことができる。だから、場面(それは子ども自らがつくりだすのだが)に応じて、いかなる諸相をも示すことが子どもにはできるのだ(もちろん大人もそうなのだが)。

 そういった諸相のとりかた・現われかた・表わしかたに人により差がある、タイプが見られる、という意昧でのタイプ分けなら私にもまだ分る。けれどもそうではなく、その諸相の一つを子どものタイプとしてとりあげ、それに対応して建物まで用意するというのは、たとえそれが通常は切り捨てられているタイプの子どもたちを大事にするのだという「善意」で裏打ちされていようが、これも随分「観念的」だなあ、と私には思えてくる。これでは、「子どもは元気で明るいものだ」「だから、明るい建物にすればよい」というのと何も変るところがない。子どもの諸相の一つだけとりあげる点も同じだし、だからそれに対応した建物をと続けてゆく短絡的な考えかたも全く同じである。つまり思考の構造は全く同じなのである。違うのは唯一、園長さんが子どもの諸相のどこに・どれに目をつけたか、その違いだけである。そうだとすると、極端な言いかたをすれば、子どもの諸相の数だけ、あるいはその諸相のどれを園長さんがとりあげるかによって園長さんの数だけのたくさんのタイプの幼稚園が生まれることになる。はたしてそうだろうか。

 人間というもの、人間のやったこと、人間の営むこと、そして人間が考えること、それらをいくつかのタイプやパターンに分けてみることができたからといって、それで「分った」気になってしまうということ、これほどおかしな話はない。先号でも書いたように、人間だって、言ってみればプラスからマイナスの間にいろいろなタイプをとって連統的に存在しているのだと言えるし、一人の人に限ってみても、その一人のなかでまた(先の答案にもあったように)プラスからマイナスの間でいかようにもあり得るわけで、まして、ものを考えるという局面が、初めからいくつかのタイプ、パターンに分類されて設定されているなどということがあるわけがない。

 たしかに私たちはものを考えるときに、考える対象をいくつかに括って見ていることは事実である。ものに名前をつける、あるいは私たちがことばを持っているということは、私たちがものごとをいくつかの概念に括りこんで扱おうとすることの表われに他ならない。パターンに分け扱っているわけである。しかし、だからといって、名前、ことば、概念、パターン・・・・が私たちとは独立に別個に、しかもあらかじめ(私たちより以前に)存在しているなどと思われてしまってはとんでもない誤まりだ。名前や概念というものは、私たち(なにもいまの私たちだけではない)が私たちの都合で営々として築いてきた:もう少し正確に言えば、先代の為したことのうち、引き継げるものは引き継ぎ、捨てるべきものは捨て、つくり変えるものはつくり変え直し、そして新につくらなければならないときはつくり、そういった意味で常に創造してきた:そういうものなのだ。そのなかで少しも変らなかったことはなにかといえば、それは、私たちをとりかこむ(あるいは私たちが在る)世界との関係けだと言ってよい。といって、私たちをとりかこむ世界が一定不変のものとして在り続けたわけではなく、世界はその都度私たちによってとらえ直されてきたのである。ということは、私たちが何をとらえているか、それによるということだ。だからこそ時代によりものの括りかた、概念、名前・・・・つまり世界のとらえかたが違ってきたのである。そして私たちがその世界をとらえるにあたっての拠りどころは、つまるところ、私たちの私たち自身の感性:私たちのものを見る目:私たちのものの見かた:でしかない。

 

 なにを見るのか

 おそらくこの園長さんは、長年の幼稚園の経験:こどもたちのとのつきあい:のなかで、普通見られる幼稚園、そこでやられているやりかたに対して一定の批判を持ったのだろう。たとえば、子どもにとっての「暗い」部分が切り捨てられているではないか、と。子どもに対して、ある観念的な子ども像や生活像が、しかも定型化したパターンで押しつけられているではないか、と。ところが、あにはからんや(引用した文から判断する限り)この園長さんのやったことといえば、いままでとは違う別種のパターンを押しつけることだった。なぜなのか。

 彼の批判の対象になったもの、それは現象としての現代的なやりかただった。私たちの目に直かに見えてくるのは、賛意を表するものであれ批判の対象であれ「現象」でしかない。この場合は、やりかたである。賛成しがたいやりかたがある。やりかたを変えたらどうだろうか。もちろんそれで済む場合がないわけではない。しかし、全てそれで快方に向うと考えてしまうと、それはまちがいだ。そういったやりかたのような言わば人為的な「現象」の場合には、言わゆる自然現象を扱うのとは違うのであって、その現象をあらしめた「人為」すなわちそれをあらしめた考えかたそのものが問題となるはずであり、批判もまた単に現象としてのやりかたの面にとどまらず、当然それをあらしめた考えかたの局面にまで到ることが要求されるだろう。

 いったいこの園長さんをして「子どもにとっての暗い」部分に関心を寄せさせたもの、普通のやりかたとの対比で彼の目をそこに向けさせたものは何であったか。それはおそらく、彼が学んだ(既存の)教育理論や心理学や・・・・ではなく、それらを越えた「彼のものを見る目」だったはずである。彼の目は、「明るく元気な」子ども像を押しつけるやりかたのなかで生きるうちに、明らかに、そのやりかたにひそむ「現代のやりかたの虚偽」を見つけたのだ。そして彼は、その「虚偽」をただそうと試みた。そしてしかし、その瞬間彼の目は、あの「明るい」部分で押し通すのでよしとするのと全く同じ目に戻ってしまったのだ。彼もまた同じように「現代の虚偽」の道連れになってしまったのである。そのときから、彼のあのすばらしい「ものを見る目」が死んでしまったのだ。これは少し酷な言いかたなのかもしれないとは私も思う。「明るい」部分だけでなく「暗い」部分があることを見ているだけ、全く見ないよりもいいじゃないか、そう思われるかもしれない。しかし、それでほんとによいか。

  

 初めに彼の目が見たこと、それは本来、本質的に「あたりまえな」ことであった。ただ、現代では通常それが見捨てられ切り捨てられていた。だからたしかに、彼がそれに目をやったことは、目をやらない、見捨てしまうことよりはよいことである。一般的に、日ごろ忘れ去られてしまっていること、その重要さ、について目をつけることは、たしかに目を付けないことよりもよいことだ。たとえば「福祉」をクローズアップする、「自然保護」を叫ぶ、「街なみ保存」を訴える・・・・、それらに目がゆくことは、ゆかないよりもいいことだ。だが、それは単純にそれらが抜けおちていたそのときまでの状況に、足し算する:追加すれば済むものなのか。そんなものなのか。違うだろう。そういったことが忘れられ切り捨てられていたのは、なにも、ほんとは入れておくべきだったのだがついうっかりして入れ忘れてしまったというような、単なる忘れものだったからではなく、そもそも「人為」において:つまりその考えかたにおいて、それらを全く必要としない(言いかえれば、忘れてしまって当然の)構造があったからに他ならない。考えかたの構造の改変を伴なわずしてことがすすむ限り、あたりまえのことも決してあたりまえにはなってこないはずである。

 

 「善意」の介在

 私が常に奇妙に思ってきたことは、この現代の世のなかで、本来あたりまえなのにあたりまえに扱われて来なかったこと:たとえば「福祉」「自然保護」・・・・について発言することが、人々の「善意」であると見られている点である。なるほどたしかに、先にも書いたように、忘れられてきたことを指摘する人々の「善意」は、私も貴重だと思う。しかしそれは、そう指摘するのが世のなかの大勢から見て希少だから貴重なのではないことは言うまでもあるまい。数の多少で言っているのではない、言うまでもなく、その指摘のなかみが大事だからである。もしそうでないと、本来あたりまえなのにあたりまえにやられていなかったこと、それに係わることが大事であり善意であって、あたりまえがあたりまえにやられている、そういうことに係わるのは大事でもなければ善意でもない、そう扱われ済まされてしまう状況さえ生じてくるだろう。そして、あたりまえをあたりまえにしようという「運動」を、自他ともに「善意」で括って済ましている限り、その目ざすべき「あたりまえ」は、常に、これから先も、「善意」によってのみ保証され続け、それは決してあたりまえなことにはならないだろう。

 しかし現実は、残念ながら「善意」が前面に押しだされている。人のやらない、気づかない「よいこと」をやること、いまの世での希少さゆえの「善意」を持つこと、それが、なにか普通の人とは違うほこりででもあるかのように見なされる。「善意」や「ボランティア」が「生きがい」となる、「目的」にされてしまう。それが、場合によると、かっこいい一つの生活の「スタイル」にさえなってしまう。異常である。私には承服できない。むしろ「虚偽」に見える。「障害児や障害児の親のため、援助して下さる方がたくさんいます。その人たちは逃げられるけれど逃げない状態でいるときは、・・・・楽しそうに気分よく手伝ってくれます。けれど・・・・逃げることのできない状態になると、とてもつらそうになり、疲れるようなのです。‥‥」これは昨年の七月の通信(№4)のあとがきで紹介した手紙の一節だが、そこに現代の「善意」の様態が象徴的に示されてはいないだろうか。

 そして、別にこの園長さんもそうだというわけではないが、ある種の専門家のなかには、その専門を「善意」によって裏付けているのではないかと思われる人が、ときおり見うけられる。

 

 善意の人々

 もう大分昔のことになるが。ある教育の専門家を囲んで話を聞く会にたまたま居あわせたことがあった。この人も、この園長さん同様熱心な人で、世のなかで忘れられてしまっている問題に光をあて、自らも実践してきたことで、世のなかでも有名であった。その人の話を聞こうと企画された会合で、集まったのは、教育に関心がある言わゆる素人ばかりである。席上、その素人とこの人との間で見解のくいちがう場面があった。そのとき彼は、自分の見解の正当性を言うのに、その考えのなかみの説明ぬきでこう言ったのである:「私は二十年以上もこの道でやってきたのです」。翻訳すれば、「私はこの道で二十年もいろいろ考えてきたのです。そういう経験を積んだ私の考えは、説明するまでもなく、あなたがた(素人)のそれよりも正しいのです」ということである。話の継ぎ穂がなくなり、たちまちにして座は白けてしまった。私もいささか彼の発言に驚いた。そして、この人もやはりそうか、とも思った。専門家にはよくあることだからだ。しかし、二十年の昔から、彼はこうだったのだろうか。おそらくそうではあるまい。彼の若い目は、先に書いたような「善意」とはおよそ無縁に、現代において切り捨てられていること、そしてそのおかしさに鋭くつきささったはずである。彼は以後、そのおかしなやりかたをただそうと、ちょうどあの園長さんと同じように、努めてきた。多分その目は初め、いまこの会合で出された素人の見解、その素人の目とさほど変るものではなかっただろう。彼はまだ未経験だったのだから。それから彼がやったこと、それは並大抵のことではなかった。それは、忘れ去られていたことを浮かびあがらせることであったから、大変なことだった。その結果、彼の仕事はそれなりに認められるようになってきた。忘れ去られ、切り捨てられていたものが、徐々に日の目を浴びるようになってきた。これは非常に(真の意味で)貴重なことであった。

 しかし世のなかは、それを本質的な高みでそれを理解せず、先に書いた意味での「善意」でしかとらえなかった。彼が明らかにしてきたことは、本来あたりまえなことなのだが、世のなかがその体質上忘れていたこと、希少なことだった。しかし世のなかは、その体質を変えることなく、彼(ら)の「善意」に頼って、それを補うことで済まそうとする。ないよりもある、それだけでも言ってみれば画期的なことであった。現代の欠落部分が「善意」で補われる、なかったものがあるようになった、それであたりまえとなる。そうなってくると、世のなかは、彼の言ったりやったりすることの「なかみ」ではなく、その現代での希少さゆえの貴重さだけで見るようになる。世のなかではあたりまえでないことをやっているえらさ。そう見られるようになったとき、多分彼の目は、若き日の目を失ないはじめたのである。もし彼が明らかにしてきたことが、世のなかにその体質を変える形で組みこまれたのであるならば:つまりあたりまえのことが「善意」に頼らずあたりまえになったのならば、当然その「なかみ」の真意が問われただろう。しかし、世のなかは言わば免罪符として「善意」に期待したのである。だから、彼の見解のなかみではなく、彼の「その道の専門家」としての存在にのみ、世のなかは価値を認めることになってしまったのである。そういう見られかたは、当然彼に反映する。彼は、なかみと関係なく、「善意」のシンボルとなってしまった。彼のやることは、そのなかみとは無縁に、彼がやることだからえらいこと、になってしまった。そして、だから、素人に、素人の素朴にして原初的な「なかみ」に係わる見解を示されたとき、彼はその貫重ですごしてきた(希少ですごしてきた)経験年数の多さでしか対応できなくなっていたのである。若き日に、彼の若い目でぶつかっていた「現代」に、彼は括りこまれてしまったのである。ミイラとりがまたミイラになる。

 

 経験だけで分るか

 考えてみれば、この人の場合は「その道」に熱心であって、「専門家であること」に熱心だったのでないだけ、数等(いまの世のなかでは)秀れていると言わなければなるまい。なにもこの人ばかりでなく、いま専門家と呼ばれる人の多くが、その「その道の経験年数」をもってしてことにあたろうとしがちである。私自身もまた、ふと気がつくと、そうなりかかっていて、ときおりひやっとする。私自身、建築に係わりをもつようになってから二十年以上になる。もう大分やってきたという感じを持つ一方で、たかだか二十年じゃないかという気にもなる。多分この後者の思いの方が正当なのであって、たった二十年間の経験だけて、ものごとが分ってしまった風なことが言えるわけがない。第一、専門家としての二十年のことを基にするというなら、いったい私の四十五年のこれまでの歳月の残りの二十五年というものは何なのだ。まして、専門外の素人の人たちが生きてきた歳月は、専門的には無用な歳月だとでもいうのだろうか、そしてまた、未経験の若い目にはなにも見えないとでもいうのだろうか。考えるまでもなく、それは誤まりだ。ただ、とかく横着なものだから、たった二十年の経験でものを言う誘惑についのってしまうのである。専門外の素人のなかでは、専門になにかをやっている、ただそれだけで貴重だから、なかみとは無縁に、その貴重さだけでちやほやされて、いい気分になってしまう。これはほんとに、実感として、おそろしいほどの誘惑であり、一度それを味ってしまうと、それはもう麻薬みたいなもので、あとはその専門のなかで惰性で動くのがせいいっぱいになる。たった二十年の、しかも専門だけの経験、もしそれだけでものを言うのならば、それはすなわちそれしか見えない、つまり偏狭だということに他なるまい。

 

 昨年の十二月の号で、私は次のように書いた。「いったいだれが彼ら(専門家と通称される人たちのこと)に専門家の称号を与えたのであったろうか。生身の私たちがその称号を与えた覚えはないはずで、いつの間にか彼ら自ら名乗りでたにすぎなかったのではなかったか。彼らから専門家の称号をとり去ったとき、そこにはなにも残らない、ことによると生身の彼自身さえもないかもしれない、そうだからこそ専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。・‥・」

 このときも私は、いささか自分の反省の意をこめてこれを書いた。しかしそのとき、私はまだはじめから自分を専門家として位置づけ、よき専門家たるにはどうであればよいか、そういう発想をしていたように思う。それは随分と思いあがった話である。「善意」の裏づけでいい気になっているのと、何ら変るところがない。


 批評ということ

 私はながながと、例の園長さんをまないたにのせ批評をしてきた。しかしそれは、彼を批難するためではなかった。私には彼を批難はできない。むしろ、いかに観念的でまた短絡した考えや行動を示そうとも、その前段での彼のものの見かたと、それを実行に移した行動には、一定の評価を与えざるを得ないと思うからである。考えようによれば、人間の歴史というのは常に、こういうことのくりかえしだったのかもしれないからである。完成した、あるいは完ぺきな理想のものが形をなして私たちの外側に存在し、それを私たちが探している。人がものを考える、なにかをする、というのは決してそんなことではない。全ては私たちがつくりあげことなのだ。私たちが私たち自らの感性を唯一の頼りにして、私たちの目で見ることによって、創るのだ。創り続けることなのだ。それはしかし、一度つくってしまったものを死守し、その上に積みあけ続けることではない。そんなことをしたら。私たちの目は死んでしまう。そして私は、私の目が(いま以上に)死んでしまわないために、批難ではなく、批評をし続けようと思う。それは必らず自分にはねかえってきてしまうから。

 

 あとがき

〇先月のなかみについては、正反二つの反応が返ってきた。一つは、話の種切れになったのではないか、そういう心配をしてくれたものであった。本人は別に種切れになったつもりはなかったので、どうしてそのように見えたのか、しばし考えてみた。おそらくそれは、言わんとすることが毎回同じことのくり返し、言ってみれば二番せんじに見えたからではないかと思う。私が言おうとしていることは、その心棒だけだと、それは必ず、それこそ骨ぬきにされて理解されてしまうだろう。そういう経験は、いやというほど味わってきた。今回書いたように、考えかたの構造を変えず、新しい概念あるいはやりかたとして、付加・追加されることで済まされてしまう。だから、心棒だけを言うのはやめて、具体的な現象・事実の解釈を加え続ける方法に転換した。これなら、別の考え方によるその事実・現象の解釈を誘発する可能性があり、そこに真の議論が生まれるのではないかという期待が持てるからである。そういう意味では、先回は心棒をもろに心棒としてあらわに出しすぎたのかもしれないと思う。

 もう一つの便りには次のようにあった。「・・・・本質だけを書いたとしても、それだけでは十分ではないのですね。本質を本質として十分に語らせるには、まず最初に、現実のさまざまな事例をひろいあげてその一つ一つを・・・・一本ずつ糸をほぐしてゆくようにして解き明かさなければならないのでしょう。そしてその後はじめて、本質はそのままの姿で舞台の上に立つことできるのだろうと思います。・・・・」これはもう、私の趣旨を代弁してくれているようなもので、無性にうれしかった。

〇先日、手帳をなくしてしまった。公衆電話に置き忘れたらしい。以来住所録の復原に手間どっている。そして、なくしてみてあのよれよれの手帳の重さが、身にしみて分ってきた。「空気みたいなもの」というのは、みなこういうものなのだろう。その重さは、なくしてから分るのだが、しかしそのとき気がついてももうおそい。これを読んで下さっている方の住所は幸い残っているけれども、電話番号はみな手帳とともに去ってしまった。ついでのときにお知らせ下さると幸い。

 〇筑波研究学園都市といわれる開発地区がかぶさっている六ヶ町村の合併問曜が騒がれている。促進を説くある大学教師が次のような促進理由を述べたという「一つには、現在の町村役場の職員には大学卒が5%にみたない。これでは有効な企画をたてる能力に欠ける。合併で職員の質がよくなり、行政の効率があがる。 二つに、(土地の)資産価値が高まる(地価が上がるということ:農民が土地を手放す:農業をやめるということ)、 三つに、雇用の場面が増える(といっても、学歴がないから草とりだとかガードマンだけど)。・・・・」 きいていた村の人たちが、怒るよりも先ずあきれたというけれど、やはり怒らねば。この人、東大を出て、自治省の役人をやってきた。村の人いわく、まるで私らの村は植民地。彼らは占領軍。私たちもやはり怒らねば、ああなんと怒らねばならぬことが、こうもたくさんあるだろう!

〇いまになって、梅雨空。 今日、ひぐらしの鳴くのをきいた。

〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

        1982・ 7・21                       下山 眞司

 


1982年度 「筑波通信№4 万が一の事態」 1982年7月

2019-06-13 14:24:15 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №4」1982年7月 A4版10頁 

     「筑波通信 №4」 1982年7月

      「万が一」の事態・・・・「正常」または「合理的」ということについて

脱線した特急

 五月の末、まだ梅雨入り前だというのに、まるでもう梅雨が明け真夏なってしまったかのように暑い日が続いた。そんなある日、中央東線で特急が脱線したというニュースが夕刊に載っていた。その日の昼すぎ甲府盆地のある駅のあたりで、暑さで延びてゆがんだレールにのりあげ脱線したのだという。明朝までには復旧する様子であった。盆地はとりわけ暑くなる。これが真夏なら、当然見まわって気をつけていたのだろうが、まだ五月。ことしの天候は少し異常なのかもしれない。事故はそれほどの事ではないらしいし、まして私の日常に影響がある事故でもなかったから、このニュースも私にとっては季節はずれの暑い日を印象づけただけで、普通なら、そのまま忘れ去られてゆくだけだったろう。

 中一日おいた朝刊で、再びこの事故がニュースになっていた。復旧に意外と手間どり、開通したのは丸一日以上もたった昨日の夕方であったという。復旧に意外と手間がかかったのは、その特急列車の車両と車両の連結が、連結器によってではなく鉄の棒でいわば固定されていたためその切り離しに時間がかかってしまったからのようだ。

 この記事を読んで。一度は忘れかけていたこの事故のことが、私のなかで、再びある重さをもちはじめた。

〇列車の編成、連結器の変遷

 その昔子どものころ乗物好きだった人なら大抵は知っていることだと思うが、車両の連結のしかたには「ねじ」式。(いまでもヨーロッパをはじめ諸外国では主流をなしているやりかた。言うならばフックのついた鎖を引っかけるようなやり方だから、これと対をなしてバネの入った丸型のバンパーが二個つくことになる。(日本では博物館にでも行かなければ見られない。)「自動連結器」(日本でいま貨車や旧型の客車の連結でお目にかかるやりかた。なんとなく人間の手を思わせるひょうきんな形をしている。因みに、日本では1925年の7月1日を期して、国鉄:当時は国鉄とは言わなかった:の全車両の連結器を、それまでの「ねじ」式からこのやりかたに取り替えてしまったのだという。これは画期的なことだったらしく、その証拠に諸外国では50年以上もたったいまでも「ねじ」式がある。)

    

 「密着連結器」という種類がある(国鉄や私鉄の大部分がこの型である。角っぽいいかにも器機という形をしている。自動連結器には20~30ミリのあそびがあるから発車や停車のときどうしてもがたつく。昔はこのがたつきをいかにして少なくして動かすかが運転士の腕の見せどころであったのか衝撃をあまり感じなかった:もっとも実にしずしずと走りだしそして停まったものだった。いまはスピードの時代、私がよく乗る常磐線の客車列車では、発車と停車のとき、むちうち症になりかねないほどのいきおいでどつかれる。貨物列車が動きだすとき、機関車の汽笛の聞こえたあと、すぐに目の前の貨車が動きだすかというとそうではなく、それが実際に動きだすまでほんの少し時間があり、前の方からがちゃんがちゃんという重い鉄のかたまりがぶつかりあう機械的な音が移動してきて、近づいたなと思った瞬間、がくんと動きだす、あれと同じことが駅に停まるごとにくり返され、おちおち居眠りもできない。この原因である連結器のあそびをなくすために、まさに字の如くこの密着式が考案されたのである。) ついでに言えば、この密着式と自動式の両性をそなえた型もあるようだ。そうしておけば、違う型をそなえた車両であってもつなぐことができる。

 ところが、この脱線した特急列車の場合には、車両と車両の間には連結器がないのである。たしかに一列車は十数個の車両から成っているのだが、それらは連結器ではなく鉄の棒で、だから連結ではなく言わば緊結されているのである。それぞれの車両は初めから切り離すことを考えにいれず(逆に言えば、車両を任意によせ集め列車を編成するという考えでなく)一列車で完成した形を成しているのである。竹の棒を数センチの長さに切ったものを大きい順に十個ほどならべ、その筒をそれぞれ互いに針金の軸でつなぎ合わせた、その末端を持つとそのちょっとした持ちかたの違いで微妙に愛きょうのある動きかたをするヘビのおもちゃが昔からあるが、この列車はあたかもこのヘビのおもちゃのようなつくりになっていると言えばよいだろう。

 脱線した列車を空から撮った写真を見ると、その曲りくねって横たわっている様子は、まさにこのヘビ同然であった。連結器でつないでいるならば、連結器のところが一番弱くてはずれてしまうものが、緊結してるものだから、まさにこのヘビ同様の格好になってしまったのではなかろうか。復旧にあたって意外と手間どったというのは、これは全くの推測なのだが、元へ戻すためには車両と車両を切り離さなければならず、そうかといって、うっかり切り離すと互いに鉄の棒で緊結されているため辛うじて横転をまぬがれていたのが支えを失なって倒れてしまうおそれがある、それへの配慮に手間どったのだと思われる。そして、互いに緊結されていたために転覆しないで済んだという見かたができる一方で、ことによると、これも推測なのだが、緊結してあるために全車両の半分以上が共倒れ的に引きずられて脱線してしまったと見ることもできるのではなかろうか。これが連結された列車だったら、脱線の様相も別の形(多分共倒れになる前に連結器が切れるのではないか)となり、復旧も早かっただろう。復旧に意外と手聞どったという表現がされたというのも、当初普通の連結列車の脱線事故の復旧の例をもとに復旧予測がたてられ、緊結列車であるという状況をつい勘定にいれるのを忘れたからではないだろうか。

 しかし、なぜこの列車は連結ではなく緊結であったのか。いままで大抵連結であった列車が緊結になる、そうするようになった発想はいったい何だったのだろうか。


〇連結と緊結、その発想の違い

 緊結方式が生まれてきた経緯を私なりに推測すれば、それは大略次のようなことになるのではあるまいか。先ず、いくつかのハコを機関車が引っぱる:つまり動力が一簡所に集中している:やりかたから、動力その他を分散させるいわゆる電車化が一般化してきた。これはもう大分前から国電などではあたりまえのやりかたである。電車の横っぱらに書かれているハだとかハだとかいう記号は、その車両のいわば機能を表わしているのである。ただ、その場合はそれら役罰の違うハコを適宜組み合わせて一編成をつくっていた。しかし、一列車の長編成があたりまえになってくると、そうしょっちゅう離したりつないだりすることがなくなり、編成が固定化してくる。いわば単語を適宜集めて必要な文章をつくっていたのが、文意自体で固定化してきたのである。つまり、成句になってしまう。そこで、単語つまり一つ一つのハコを単位とするのではなく、いくつかのハコを成句にまとめて一単位とする考えが生まれてくる。いまの国電は多分そうのはずで、四両一単位だったように思う。だから一編成は八両、十二両というように四の倍数のはずである。そして、特急もほとんど電車化してきた。特急の場合、特に最近のように二地点間を何本も往復するようになると、一編成自体が一定である方が互換性があって都合がよい。「あずさ一号」も「あずさ五号」も同じ編成になる。「あずさ」用の同じ編成を数組用意しておけばよいわけだ(多分、乗車券予約のコンピュータプログラムもその方が楽だろう)。そうなってくると更に一歩すすんで、一編成で一単位とする発想がでてくる。切り離したりつないだりすること自体無用と見なされる。そこで、連結器によるのではなく緊結するという考えがでてくるわけだ。その方ががたもより少なくなる。というのも、たとえ密着式の連結器でも、連結時の衝撃止めの緩衝装置がついているわけで、その分のがたはやはり残ってしまうのだ。これは国電の停発車時のゆれと特急のそれ(新幹線でもよい)とを思い浮かべていただければよいだろう。緊結することにより全体が一体になるわけである。一見したところ十いくつかのハコには分かれてはいるけれども、それは言ってみれば単に一個の長いハコにすることが(直線路だけならばともかく、そんなことはあり得ないから)不可能だからで、いくつかのハコに言わば関節によって機能ともども分節されているにすぎず、これはそれまでの列車とは似て非なるものだと言ってもよいだろう。この発想の転換・展開は一点の非のうちどころもないほど合理的である。そしてこれが新幹線を可能にした技術の裏づけの一つでもあったわけである。

 しかし、もしこのハコに機能分化させた一編成の中のどこか一箇所に障害が生じたらどうなるか。これが、それまでの列車とは似て非なる点の最もたることなのであって、昔ならその故障車両を切り離しても運転することができたのだが、この最新の方式ではそうはゆかず、一編成全部が言ってみればおじゃんになる。一個の有機体が死んでしまうのである。第一、切り離そうとしたって、はじめから切り離すことは考えてない:緊結してあるのだから容易にはできないのだ。だからそんな場合には一本まるごと運休することになる。そして、あのおもちゃのヘビみたいに横たわってしまった車体の姿勢のたて直しも、意外と時間がかかってしまうことになる。

 

〇事故後のダイヤの「正常」化ということ

 いま、故障になると一本まるごと運休になる、と書いたけれども、これは昨今では緊結した列車に限らず、連結した普通の列車でも同じらしい。その場合も、昔のように不具合のハコだけ切り離すということはなく、客を全部おろして、きれいさっぱり運休させてしまうようだ。特にそれが特急のように予約席のある場合はそうなることが多い。その一本だけでなく、その折り返しも当然ながら連休するから、一本の事故が数本にひびいてくる。運休にしないで異常編成で運行したらどうなるか。

 予約客には部分的なあぶれがでる。その処理をこまめに考えるなら、いっそのこと全部とり消してしまった方が事務的には楽だ。コンピュータには楽だ。また、そうした方が運行ダイヤの正常化にとっても楽である。なぜなら、一度全てをご破算にして、ちょうど始発時のように空白を埋めてゆく方が、いろいろやりくりをしつつ(臨時の列車:ダイヤにない列車を動かしつつ)復元するよりも、よっぱど楽だし、復元を急ぐという点では合理的だからである。

  私が東京へ出るため必らずごやっかいにならなければならない常磐線は、これはもう、やれちょっと雨が多く降りすぎたとか、風が吹いた、とかいって少し大げさに言えば日常茶飯事的に停まってしまう。先日も夕方、予定した列車の二十分ほど前に上野沢について、きょうは座って帰れるぞ、とにんまりしたところが、水戸(みと)のあたりで事故。不通だという。土浦まではゆけます、ときいて一安心。ところがホ-ムにはもう人の詰まる余地がないほどいっぱいの列車が、いつ出るのか分からないまま、後続の予定がたたないからこれに乗ってくれという放送がくりかえされるだけ。この列車本来のダイヤからいえば、もう小一時間発車がおくれている。上野と水戸の間は約百km、その間の電車は事故に関係なく動けるのだから、後続だってすぐ来るはずなのに、それにもうこの列車には人は詰められはしない、どうして出ないのだろう、いささか不思議に思えてくる。やがて、この列車は〇時〇分発の◎行の列車として発車します、という放送があった。まだ十分以上も間がある。本来のダイヤの数本あとの列車に読みかえるというわけだ。そこではじめて私には合点がいった。運行ダイヤというのは連行しているその線の列車全部で一つのシステムを成しているわけで、その一部でおきた障害は全システムをだめにしてしまったのであり、ダイヤを正常に戻すためにはこういった読みかえを行なって元のシステムにのせなおすのが、最も効率的だし合理的なやりかたなのだ。そのための腐心の一環として、なかなか発車せずに時間待ちをしていたに違いない。

 なるほどたしかに、乱れてしまって異常なダイヤを正常ダイヤに戻さなければならない、それは至上命令ではある。けれども現実に客が列車にはもちろんのことプラットホームにも満ちあふれているのを目のあたりにしていながら、それをさばくことには手をつけず、専らダイヤの修復に執心する。ダイヤさえ正常なら異常は起きない。だからそれを正常にもどすことが先決である、これはたしかに合理的に見える考えではある。

 しかし運行ダイヤはあくまでも客を運ぶために意味があるのであって、ダイヤのシステム自体に意味があるわけではない。当たり前である。まして、目の前には運びきれなくなってしまった客が満ちあふれている。ならば、交通機関の本義に戻って、この満員の客をさばきつつ、しかもダイヤを正常な状態へ戻してゆこうとする発想がもたれてもよいのではなかろうか。多分そういうやりかたでは、ダイヤの正常化完了をもって事後処理完了とする視点からすれば、手間も時間もやたらとかかり効率的合理的なやりかたとは言えないのかもしれないが、客の立場に視点を移してみれば、そうしてもらう方がずっと合理的なのだ。昔はそうしていたのではなかったか。客がホームで所在なくすごす時間はずっと短かくて済み、その代り鉄道関係者の苦労は並大抵のものではなかったと思う。いまは、どちらかといえば、客が苦労する。

 脱線した特急列車の話からはじまり、その連想で事故の後処理についてまで話が及んでしまったが、これらの話の底を共通して流れているように見える、言いかえれば、これらの事態のなりたちに根本的に係わっているはずの、ある種のものの考えかたに、私はひっかかるのである。それは、いまいたるところであたりまえになっている、いわゆる近代的合理的な考えかたの典型的な姿だと見てよいのではなかろうか。

 

〇「近代的・合理的」な考えかたの正体

 この考えかたというのは、いったいどういう性格のものか。

 一口で言えば、この考えかたは、「万が一」ということ、あるいは、「マイナスの(と評価される)局面」はあってはならないことだから考慮の外におき、専ら「正常」あるいは「プラスの局面」にのみ考慮をはらう考えかただ、そう言ってよいだろう。理想状態、完成完結した状態へのゆるぎない(信仰に近いほどの)信頼と願望、そう言ってもよいかもしれない。だから、更に別な言いかたをすれば、ある全体なるシステムが「絶対」としてあり、その全体なるシステムを構成する部分部分は、なかば絶対的にその『絶対』に服するしかなく、その構成の編成替えなどということも存在しないのである。つまり一つのパターンが(望ましき完全形として)在るとするわけである。そして、そのパターンが乱れることを異常という。

 これに対し、こういう近代的合理的な考えかたからすれば非近代的、非合理的、そして場あたり的に見えるであろう従前からの考えかた:やりかたというのはどうであったか。

 これも一口で言えば、たしかにそれもある全体やシステムをつくりだしはするが、それが唯一つしかないのではなく(定型があるのではなく)言うならば、「万が一」の状態「理想」の状態の両極の間で:別の言いかたをすれば「マイナスの局面」から「プラスの局面」にわたって:場面場面において適切と思われる全体・システムを任意に組みたてることができる、そういう考えかただと言えるだろう。そうであるからこそ、仮に事故が起きても、その事故の状況に応じて、まさに字の如く臨機応変の対策:その局面における全体のたてなおし:をたてることができるわけだし、その対策も、ただ単に元の(完成形であった)パターンへ戻すことにのみ執心することなく、その判断決定の拠りどころをその当面の(交通機関としての)本来の課題(たまってしまった客をさばくこと)においてたてられる。つまり、客をさばきつつ、徐々に元へ復してゆくわけで、その過程では何度かシステムが組み直されなければならない。

 その作業の点にのみ視点をしぼれば、たしかにそれは効率的ではない、それは先に書いたとおりである。それ故、近代的なやりかたでは、その点で効率的な「正常」形へ戻すこと自体が目的化し、つまり本末転倒して、ものごと:事態:への対応のしかたにはいくつものパターンが任意に用意できるということが忘れられてしまう。

 いまここで、ものごとへの対応のしかたは任意にいくつものパターンが考えられるのだと書いた。ほんとにそれはいくつもあるのであって、場面場面に対応して、場面の数だけある、つまり言ってみれば無数存在するのだと言ってよいだろう。こういう書きかたをすると、そういう場面場面やそれへの対応のしかたが、私たちをとりかこんで無数に存在しそのなかから一つを選びだすかのようにきこえるかもしれず、そしてまた、そんな無数なんかは相手にできないではないかと思えるかもしれない。もちろんそうではない。場面やそれへの対応が無数に、あたかも百貨店のショーウィンドウの中の品物のように、私たちのまわりにならんでいるわけではない。そうではなく、それはあくまでも、私たちの、私たち自身による「判断」に拠るから無数なのである。場面の設定も、対応のしかたも、それは私たちの「判断」。いまおかれている状況・場面はかくかくしかじかであると(私が)「判断」し、いまなすべきことを(私が)「判断」し、そして、適切な(そう私が「判断」する)方策をたてるのである。だから、そのものごとのとらえかただけパターンがある:原理的に言えば無数ある、わけなのである。それ故、同じ事態に対してもその対応のパターンは、判断する人により違うだろう。しかし、違っているからといってまちがいなのではなく、また、違っているからといって「方向」もなにもなくめちゃくちゃに違うというのではなく、「方向」は同一であっての違いなのだ。つまり、多種多様でなく、同種多様。

 こういう従前のやりかたに対して、近代的・合理的なやりかたでは、同様に必らず「判断」を伴うけれども、その場所が違う。そこでは、ある最も合理的だと思われるパターンが設定され、それに合うか合わないかが「判断」のポイントとなる。その意味では、人によって違うなどということはあり得ない。正解があらかじめ唯一ある。それ以外があるなどということは、はなはだしく秩序を乱しけしからぬことなのだ。つまり、all or nothing、〇かーか、一か八か、なのである。コンピュータ用プログラムにはたしかに適している。こういう極論めいたことを言うと、パターンを一つではなく、場面に応じたパターンをいくつか用意しておけば、従前と変らないではないか、そうすれば、それなりに臨機応変の、しかも人によらない対応ができるではないか、という反論がでてくるかもしれない。そして実際、いくつかのプログラムが用意されるようになってきているし、そういったプログラム、パターン探しがその面での学問分野での関心事でもあるようだ(人々を不特定多数として括る発想もそこからでてきているはずである)。

 しかし、このいくつかの場面とそれへの対応をセットとして用意しておくやりかたでは、根本的にそのパターンの数は、たとえありとあらゆる場合を考慮したといっても、有限であることに変りはなく、万が一用意されたパターンに合わない事熊にでもなったら最後、それはもう手の下しようもないほどめちゃくちゃになってしまう。

 従前のやりかたでは、パターンはあらかじめ設定されているわけでなく、むしろその都度、「万が一」と「正常」の状態、その両極の間に、場面の設定がなされるわけで、その意味でパターンはその間に連続的に無限に在ると言ってよく、だからこそ、いかなる場合にも臨機応変に対することができるのだ。だから、近代的なやりかたは完ぺきのようでいて極めてもろく、逆に従前からのやりかたは不確かなようでいて、極めてしたたかなのである。いったい、ほんとの意味で、このどちらのやりかたが合理的か。私なら、当然のことだが、この非近代的・非合理的に見える従前からの考えかたの方をとるだろう。なにもそれは単に私の好みでそうするのではない。ものごとというのが、あらかじめ考えておいたいくつかのパターンとしてのみ出現するなどという、そんな考えかたはあまりにも非合理だと思うからである。まして、それへの「対応」:「判断」までもが既製品として存在し、ただそのなかから選べばよいというのも、非合理のいや不合理だと思うからである。それではまるで、人間もロボットも変りないではないか。

 こうやって見てくると、いわゆる近代的、合理的な考えというのがいかに人間個々人の判断:それは人によりそして場面に・状況のとらえかたにより微妙に異なる:というものをきらい、あるいはそれに信をおかず、規範を他に求めたがるものであるかがよく分かる。それでいてまた、近代ほど個人の尊厳を強くうたいあげる時代もなかったのではないか。個人の主張をとりたててあげつらう時代はなかったのではないか。いまこうして見てきて、この近代という時代の姿がまことにくっきり見えてきたように私には思える。すなわち、個々人を越えたところに、規範とすべき近代的・合理的なあるべきパターンがあり、個々人はそのパタ-ンのなかのどれかを選択する判断権のみを有し、その選んだパターンをいかに個性的に修飾するかが個人の個性であるとする、これが近代というものの姿なのだ。では、あらかじめそのパターンを用意して人々に提示するのはだれなのか?デザイナー?設計者?その道の専門家?もしそうだとするならば、その根底には、表向きの個人・個性の尊重、人間性の尊重の主張とは裏はらに、徹底した人間性無視:人間不信そしてその裏返しとしての選民意識が流れていると言わざるを得ないだろう。

 なるほどたしかに近代以前にも、ある問題に対応してあるパターンが存在するということはいっぱい例がある。しかしそれらは、決してそのパターンをあらかじめ設定し、目ざして生み創りだしたのではなく、個々人の判断の積み重ねがそう結果したのであって、その拠り所は、個々人にあったのである。個々人の判断、それはある「方向」をもちつつも多様であったろう。しかし、その共通の「方向」ゆえに、ある時点でふりかえってみたとき、ある一つのパターンに収束しているように:つまりある定型のように:見えるだけなのである。ともすると近代の私たちはそれをそのパターンだけ:つまり結果だけ:をつかまえてとやかくあげつらい、背後に厳然としてあった人々の判断:人間の営為を見忘れてしまい、更にすすんで個々の判断を越えた地点に目ざすべき期待される像を設定し、それへの近づきかたの遠近でことのよしあしを決めよう、などとさえしだしてしまう。私には、それはどうしても愚行に見える。

 私は、いかにそれが多様であろうとも、私たちの私たち自身のものごとの判断を信じたい。そうでないなら、私たちの問に真のコミュニケーションは存在しなくなるだろう。コミュニケーション、それは単にことばをサグ操ることではない。できあいのいくつかの応答パターンのどれかを、あたかもマークシート方式の試験間題にこたえるが如くに、選択していればよい、などというものではない。ことばにいったい何を託すかこそが問題なのだ。ことばに託すもの、それは、私たちの私たち自らの感性に拠る私たち自らの「思考」である。「思考」が、用意された有限なパターンに限定されるような状況、私はそれを認めるわけにはゆかない。

 けれども、こういう文章自体もまた、先進先端技術を背景としたワードプロセッサーにより、いくつかの推奨される文体・言いまわしに限定されるような時代に入ろうとしている(いったいだれがその言いまわしを推奨するのか、できるのか?)。先進・先端、あるいは近代化、それは諸作業の合理化:省力化へ向ってきたと言ってよいだろう。しかし、それが「思考」作業の合理化・省力化をも意味するのならば、そこでは、真に新しいものが生みだされるはずがない。「思考」、それはたしかにあるパターンをもつ。かといって、そのパターンは決して有限でなく、言わば臨機応変に無限である。「思考」をも合理化と称していくつかにパターン整理してすすむのが近代であるとするならば、そしてそれを合理と言うならば、私はそれを「合理」とは認めない。合理とは、そもそも、あるシステムにとっての整合性のことなのではなく、私たちにとっての合理のはずだからである。システム、それも、私たちが私たちの思考作業により生みだすのである。システムのために生みだすのではない、まさに私たちのために。

 

 北海道でもまた特急が脱線したそうである。これも異常な暑さ:30度を越えたという:でレールが曲り、直すのに時間待ちをしてダイヤが狂ってしまった。一方、それとは関係なく保線作業:まくら木交換:が行なわれていた。ダイヤは正常に保たれていると頭から信じていた保線作業者たちは、通るはずのない時間帯だと思いこんで、まくら木をはずしてしまった。そこへ、通るはずのない列車が来て、なるべくして脱線した、ざっとこういうわけらしい。いま、合理化のために、保線は保線として独自に外注されているのだそうである。運行のシステムが正常であったなら、保線のシステムの方は平常に行なわれていたのだから、別に何の問題もなかったのだ。システムとシステムが、ある正常な状態で成りたつべく設定されていた。だから正常なら、システム相互の連絡は強いて不要だ。完ぺきだ。しかし、それに慣れきってしまったとき、異常に対して対応できない。万が一の事態が容易に発生する。考えてみれば、近代社会というのは、こういう薄氷を踏むような保証の上で成りたったシステムで囲いこまれているのかもしれない。

 

あとがき

〇私の勤める筑波大学では、図書館の図書目録カードを全廃してしまった。カードに載せられた情報、そんなものはみなコンピューターに組み込むことができる。必要に応じて端末機から、カードをめくるなどという面倒なことをしなくても、情報を呼び出すことができるし、カードづくりという面倒な事務作業もなくなる、そういう発想であったらしい。図書目録カードの使用法がプログラムとして覚えこまされているわけである。その代り、プログラムに載せられなかった使用法は切り捨てられてしまったから、カードを見ながらあれこれと自分の関心事に係わる書物の世界を自分で組みたててみる:つまり自分だけのプログラムをつくる自由は失せてしまった。図書の利用法が「理想化」されたパターンに限定されてしまったのである。そしていま、カードとの共存のコンピューター化がなぜ考えられなかったのかという不満がわきだしている。

〇今回、「万が一」あるいはめったに起きないことが切って捨てられる話を書いたのだけれど、それと全く逆に、「万が一」の事態を終局のものとしてものごとを考えるやりかたが、近代的な考えかたのなかに存在していることも知っておいてもらったほうがよいだろう。

 建物の耐震に対する考えかたがそれである。「万が一」の地震によっても全く壊れない建物をつくろうとする。いまや建物の第一義の目的が、地震で壊れないことに置き換わってしまったと言って過言でない。地震で壊れない、そうすれば人命に損傷もない、建物も建てなおすこともない。なるほど合理的に見える。しかし、そのおかけで、残りの「万のうちの九千九百九十九」では、不便を強いられる。人間、地震のために生活することになる。はたして合理的か?「万が一」の事態では壊れても止むを得ない、しかし人命に直接的に響かないような壊れかたをするべく考えよう、どうしてそう考えられないのだろうか。これもまた、一つの対応パターンしか考えることのできない近代的合理的思考法の一結果である。これは、今回書いた話と、その思考の構造が全く同じなのだ。

気になることが語られていた、そう書き添えて、書物のコピーが送られてくることが多い。大変ありがたいことである。次の文もその一つ。

つか・こうへい「あえてブス殺しの汚名をきて」の一節だそうである。

 〇月〇日 雨

 今日久しぶりでTさんと会った。Tさんは甲府の幼稚園の園長さんだ。Tさんは今度新しく幼稚園を建てなおすため設計図を持ってきた。会うなり「どうだ」。とてもうれしそうだった。 私も少し図面は読めるのでおかしなところに気がついた。

「おい、おかしいじゃないか、幼稚園は子供たちが明るく楽しく生活しなきゃいけないんだろ。このへんに暗くなるところは何だ」「そうかい」Tさんはとてもうれしそうに白い歯を見せて笑った。「いまにわかるさ」そんなふくみ笑いだった。

 〇月〇日 晴れ後曇り

 咋日甲府にいった。Tさんの幼稚園の落成式。まったくおかしな幼稚園だ。運動場にはドラムカンだの何だのがやたらにおいてあって子供たちが遊びまわる所がない。

 「何りつもりだい」

 Tさんはとてもうれしそうに、そして恥ずかしそうに話しはじめた。子供たちってのはガキ大将ばっかりで、明るく元気なものだと思うのは観念的なのであって、なかにはメカケの子、おねしょした子、おとうさんに叱られた子、そういう子たちがたくさんいて、あの暗い屋根裏部屋やドラムカンはそういう子たちの泣き場所なのだと、さみしいということから孤独という感覚を知る所だと・・・・Tさんは教えてくれた。

 甲府からの夜汽車の中で妙な気持だった。さわやかな哀しい想いを私はかみしめていた。そんな芝居をやりたいものだ。

 ただ私は、子ども(あるいは一般的に人間)をこのように見ることはまったく賛成するけれども、それがもろにそういう設計として具現すればよいとするのは、それも少しばかり観念的なのではないかと思った。

〇梅雨に入ったと言われてから、かえってすがすがしい日が続いている。ままならぬものである。

〇それぞれなりのご活躍を!そして、その共有されんことを!

       1982・6.22                下山 眞司 


1982年度 「筑波通信№3 水田の風景」 

2019-05-31 10:30:02 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №3」1982年6月 A4版12頁 

     「筑波通信 №3」 1982年6月

       水田の風景・・・・ものの見えかた・・・・ 

〇水田風景、それは驚異的である

 筑波の近在では、ちょうど四月末から五月初めへかけての連休の前後が田植えの季節である。(茨城に隣りあう利根川の向う側の埼玉県では五月九日でもやっと田をおこしているだけだった。) いま、水の張られた田んぼが、少し大げさに言えば、はてしなく延々と続いている。その昔、私の小さかったころ、田植えどきには、これも大げさに言えば、田んぼという田んぼは人で埋まっていた。しかしいまは、田植え機という機械がそのおかしげな手を振りまわして、あっという間に植えてしまう。それはそれなりに見ていて面白い。(人の手によっていたとき、苗は実にみごとな直線をなして植えられていたものだが、機械によるようになってからというものは、ぎくしゃくした平行線が描かれるようになってきた。ぎくしゃくというのは、すなわち機械の走った軌跡なのである。こんなに不ぞろいの線でも構わないのなら、人手にたよっていたときの、糸を張ってまで一直線に植えようとした、あの努力はいったい何であったのかと思わずにいられない。)こういう田植えのやりかたのせいで、見まわしても、人はあちらに二人、こちらに三人といった具合にほんとにまばらにしか見あたらない。昔の活気あふれる田植えどきを見知っているものの目には、まるでうそのような、なにか気のぬけた、妙な言いかたかもしれないけれども「これで大丈夫なのかね」という不安感さえわいてくる、そんな光景である。中国の畑作地帯で見かけた、これも大げさに言えば、地面が見えなくなるほど人が群がりながら土地を耕していた姿、これで農業の機械化をしたときこの人たちはどこにゆきつくのかと考えた、そんな光景が対比的に私の頭をよぎっては消えた。とにかくそういうわけで、この人のいない水平面の連続は、なお一層広々と見える。

 いつもこの水の張られたときの水田を見て思うことなのだが(というのも、他の季節、たとえば刈入れどきにはそのように見えないからなのだが)およそ人間のやってきたことのなかでなにが一番驚異的といってこの水田開発ぐらいすごいことはないのではないかと思う。

 この水平面これは天然自然の海原や湖水ではない、全くの人工の水平面なのだ。それもただの水平面ではない。ただの水平面なら、大きな穴でも掘って水をためればすぐできる。しかし、水田のそれはそんななま易しいものではない。水平面の連続と先に書いたけれども、それは決して一つの水平面なのではなく、言わば無数に近い異なった水平面で構成されているのである。それぞれの水平面が一定の水深を保ちつつ、水上から水下へと微妙な段差で隣りあう。水は、幅広い水面を成しながら、わずかな落差のひな段形の滝を落ちつつ時間をかけて流れてゆく。その落差なのだが千分のー、つまり千メートル行って1メートル落ちるという程度の場合などざらにある。建物などの排水の場合のそれは、どんなにゆるくても百五十分の一程度なのだから、水田のそれがいかにゆるいものなのか分るだろう。しかも、水田をゆっくりと流れ下ってきた水の末端は、いまでこそ排水ポンプがあるからどうにでもなるけれども、そういう便利なもののない時代では、自然の流下で河川に戻らなければならないのだ。

 つまり、末端は河川より少しでも(しかも河川の増水で逆流しない程度に)高くなければならない。大規模住宅団地の土地造成で排水計画をたてたところどうやっても末端で排水ポンプで吸み上げることになってしまうのに、ふと隣りあう水田はと見てみれば、そこでは平然と自然流下にまかせてあり、あらためてその水田造成技術の卓越さに舌をまいたという話をきいたことがあるが、ことほどさようにこれはそんなに簡単なことではないのである。自然の流下にまかせたまま延々と続く水田風景は、だから、ただ単にのどかな水田風景として見て済ましてしまうにはまことにおそれ多い、人間が成した一大偉業なのである。驚異的なのである。

 もっとも、いま私が目にしているのは、もともと自然流下にたよって開かれたものを、農業の近代化によりした、機械による給排水に切りかえた水田である。田んぼの水の源になる河川は深く掘り下げられ排水を容易にし(それによりずぶずぶの深田も適度になる)その代り給水はポンプで吸み上げることになる。そして、河川は掘り下げられたのだから全長の高低差はつじつまが合わなくなり、ところどころで排水ポンプの厄介にならざるを得なくなる。こういった近代化にたよれば、いままでは到底考え及びもしなかったようなところにも水田をつくることが可能になり、だから丘のてっぺんに田んぼがあっても別にそう珍らしくもないし、山林の一部が伐採されて田んぼが突如できていたりする。昔からの田んぼを知っているものの目には、こういう風景は異和感を伴って映ってくる。しかしその異和感は、単に私自身のなかにできあがってしまっていた田んぼというものについてのイメージと比べてのそれだけではなく、よくまあそこまで割りきって機械にたよれるものだ、機械が動かなくなったら(たとえば台風などで停電でもしたら)どうするのだろう、そういうような思いを抱かせるような、機械に対する絶大な信頼に対しての異和感でもある。

 

〇水田風景、その成りたちの背景

 このような機械力にたよる近代農法が水田の拡大・整備をそれなりにすすめたことは確かではあるけれども、しかし、その基になっていた、普通私たちが「田んぼ」ということばでイメージする広々とした水田地帯の風景自体もまた、その成立の時期はそんなに旧いものなのではないのである。たとえば、関東平野の中央部、利根川の南(埼玉県の北部にあたるが)その一帯に見ごとに拡がる一面の水田風景:夏の午後ともなればむんむんとした草いきれに充ちじとっと汗ばんでくる、そして収穫期ともなればその夏の姿がまるでうそのように軽快な一面の黄金色の大地になる、その背後の遠景に、それぞれの季節それぞれの風情をかもしだしながら村々の森がここそこにぽっかりと浮いている、こういった典型的とも言える農村風景:これは高々三百年、徳川の世になってから徐々に開かれその基ができあがってきたのである。水を引き、その自然流下にまかせた幡広くそして延々と続く水田の開発という一大農業土木工事が営々として行なわれてきたのである。しかも、かくも見ごとになったのは:全面的に埋めつくされるようになったのは、むしろ最近ということばの範囲に入る時期の話だと見てよく、明治期にはまだあちこちに手のつけられない湿地帯:池沼が残っていたようである。初期の機械化はそういった湿地の解消すなわち排水に向けられたのである。各地の排水機場のそばに行くと、いかにその地の農事が水とのたたかいであったかなどということを綿々と書き記した石碑がよく建てられているけれども、それはある施設が完成したことを単に記し残しておくという以上の思いがこめられているはずなのだ。(これは、明治以来数度にわたり編集しなおされてきた国土地理院の地図を、その年代順に見比べてみると極めてよく知ることができる。

(こういった見かたでは、日本図誌体系など種々の地理学の成果があるが、残念ながら、地理学の範囲外では問題にされないようだ。地理は地理学のためにのみあるのだろうか。)

 

 つまり、いま私たちが目にする水田風景が成りたつ少し前に、あちこちに池沼を残したままの状態、何度もしつこくその水田化をはかりつつも一進一退を余儀なくさせられていた時期が、しばらくの間続いたのである。それを、単に技術がなかったからだと見るのは簡単な話である。技術というのはそうやたらに天から降ってくるものではない。本来的に技術というものは、間題の解決のためにあみだされる。問題意識の高まりが新らしい技術を生みだす下地となる。だから、むしろこの時期は、それなりの問題はかかえていても、解決のための技術が思いつかない時期だったと見るのが素直なのだ。彼らには、排水をすればよいのだということは分っていても、水は高きから低きへ流れるといういかんともしがたい原理を大々的にくつがえすやりかたが見つけられなかっただけなのだ。だからこそ、排水ポンプという機械の導入とともに、問題意識の高まりをおさえていたせきが切れ、あっという間に低地水田化が進んだのである。

 いま私たちは、とかく、技術というものがあって、それをいかに利用するかという発想をとりがちなのだが、そのやりかたで全てを律してしまうのは、当然のことながらまちがいである。技術の意味をほんとに知ろうとするならば、そのときどきの問題とその意識がどう高まり、それがどう解決されてきたか、その過程を見なければならないだろう。技術の利用というのも、本来、それを利用する側にある解決すべき問題が確として存在していて初めて可能なのだ。(そうであるにも拘らず、現在では、多くの場合それが逆転している。)

 もしも、いまの私たちが更地(手のつけられていない土地)の関東平野を目の前にして、そこに水田を開こうとしたらどうするだろうか。おそらく、私たちはもう実に色々な水田つくりについての知識を持っているから、私たちはそれらの知識を総動員して、低湿地の解消:乾地化から手をつける、あるいは手はつけなくてもそのことを念頭において事をすすめるだろう。(というのは、更地としての関東平野には、もともと自然現象としての湿地・低地が各所に散在しているのである。) つまり、平野全体を総体的に見まわした上で、低・高のつじつまを考慮に入れ、低地から高地へと攻め上ってゆく発想法を採るだろう。なぜなら、最低部は東京湾の海面に他ならず、そこを基準面にして上へ上へと考えてゆくのが合理的というものだ。

 

 しかし、現実にこの平野で行なわれてきたことは、全くこれとは逆であった。高地から低地へと攻めてきたのである。しかも、高地から低地、そして更に次の低地へと、順次そのつどその局面での高低のつじつまだけを考えて攻めてきたから、低地がより低地になればなるほどつじつま合わせが苦しくなるのは明らかで、最終的には既存の自然現象として在った湿地帯に行きつき、そこで足踏みしてしまうか、あるいは、その自然の湿地帯を、更に輪をかけた形で拡げ、一層始末におえない湿地帯にしてしまったのである。江戸期末、明冶の初め、多分平野はこういう状態であったと思って、まずまちがいない。当時までの考えつくされた技術(それは、高地から低地へと攻め下るに際し順次獲得されてきたのだが)では、そこまでだったのである。しかし、そこで手をこまねいていたわけではないことは先にも書いたとおりであり、一進一退の状況つまり、それまでの比較的順調な水田面積の増加がしばらく足踏み状態となる状況が、初期的な機械の導入がはかられるまでのしばらくの間続くのである。

 

〇なにが合理的か

 先に述べたいまの私たちならするであろうやりかたと比べたら、この現実にやられてきたことは、極めて非合理的である。しかし、それをして合理的でないと見なすのは容易なことだ。だが、そう思うことは、むしろ根本的に誤まりだろう。それは結果論にすぎない。結果を見てどうこう言うことぐらい楽なことはない。

 現実にこの平野の開拓に係わってきた人々は合理的ではなかったのだろうか。「合理的」なることを、いまの私たちならするであろうことで全てであると見るならば、確かに彼らはそうではない。しかし、私たちにとって「合理」であると見なされているやりくちというものは、あくまでもいまの私たちにとってしか意味がないということは忘れるべきではないだろう。彼らもまた、彼らにとって合理的なやりくちをしてきたという意味でも合理的であったのだし、ことによると、ことの本質的な意味では、いまの私たちよりもずっと合理的であったのかかもしれないのだ。彼らは、いま私たちが機械にたよって水の流れのあの単純な原理:高きから低きに流れる:にさからってまでして(しかも自然の良田を一方で休耕田と称して荒地に変えながら)開田をしている様を見たら、なんという無茶な、非合理な、と言うにちがいない。


・・・・研究者は近代合理主義と経済合理主義を強く押し出して、解釈しがちになる。しかし河川開発は、時に思わぬ猛威をふるう自然現象に対する人間の挑戦である。とくに江戸時代初期の自然河川に相対したとき、いわゆる近代科学を足場とする近代合理主義で理解できない部分が非常に多い。・・・・(小出博「利根川と淀川」より)

 

 では、関東平野の開田で、何故低地から高地へと上るのではなく、実際には高地から低地へと下りてくるやりかたがとられたのか。おそらくその理由は簡単な話なのだ。人は、そのとき抱いている所期の目的を達成するために、そのときの状況において最もよき結果を生むだろうと予測され、しかもそのときの状況で最も彼らにとって容易なやりかたをとろうとするものだからである。

 この原理は、いまの私たちだって変りあるまい。稲を栽培することに拠って生きることを見つけた人たちがいたとする(実際、縄文時代の後期にそういう人たちがいたわけだ)。彼らは初めに稲作に適する土地とはかくかくしかじかなりという研究をしつくし、それによりしかるべく土地を造成し、しかる後いよいよ稲の栽培にうつる、などということをやるだろうか。いまの私たちなら、おそらくそうするかもしれないが、彼らはそんな気長なことはしなかった。もっと手っとり早く、既存の自然現象としての地形のなかで適当な所を探しだした。深すぎもせず浅すぎもせず、洪水ですぐ洗われることもない、ほんのたまり水程度の湿地帯、つまり先号のあとがきで記した「ぬた」「のた」「やち」「うだ」などと呼ばれるようなちょっとしたわき水や小川のそば、そういうほんのちょっとした山あいのねこの額ほどの谷状の所をそのまま(手も加えずに)利用することから始まったのである。そういう所を探しまわっては、住める所に人は定住しだしたのだ。何故なら、彼らにとっての所期の目的は、そういう土地で十分に達せられるからである。そしてそこから、実にそういう場所から、人々の開田という壮大なドラマは始まったのである。人々が定着し、人口も増え、従って拠るべき水田も増やさなければならなくなる。所期の目的のなかみが変ってくる。人々はそこで初めて、彼らがかつて自然地形のなかに探し求めたと同じような状況の土地を「造りだす」ことを覚え(そのための技術を覚え)かつての自然田に続く下流へと、徐々に平野へ向けて下りだすのである。自然利水の段階から、次々に利水の技術が、人々の目的の変化に応じて生みだされる段階へと変っていったわけである。(これは何も関東平野についてだけ言えるのではなく、およそどこの平野・盆地においても同様の経過を見ることができる。)

 つまり、人々が最初に定着したのは、平野をとりかこむ山々のへりの部分からだったということだ。それが、人々にとって極めて合理的な営為だったのである。だから、古代から中世にかけての関東平野では、いまでこそ全体万遍なく手がつけられ人々は最低地部に集中しているけれども、いまの県名で言うと埼玉西部、群馬、栃木にかけてが中心になり栄えたのである。これらいま書いてきたようなことは、(遺跡)地図上に、初期の稲作依存に拠った人々の住居・村跡、水田の条里制遺構、古墳、国府の所在地、東山道の道すじ(道とは先ずもって人が住む所をつなぐ。まして支配を企てたものがつくる道:官道は、そのとき最も栄えている所を通ることに意味がある)、有力荘園の所在、古代豪族の拠点とした地、あるいは中・近世の村の位置、等々の分布性向を、時代をおって確かめることによって、自ずと明らかになることだろう。

 (関東北辺の古代文化などは、普通、学校の歴史ではあまり教わらないだろう。飛鳥・大和がクローズアップされる。ところでこの飛鳥の地もまた、この関東の辺地の古代の中心と同じような、言わば山あいのねこの額のような所なのである。大和平野のまんなかではない。)

 

 

 遺構・遺跡、それは人間がなにかを考え、なにかをやった、その名残りだからである。けれども私は、そういったことについては門外漢である。そこで、こうした平野開発の常道について述べた専門家の解説を掲げておく。この人の著書は大変勉強になった。

 

・・・・(鎌倉時代、埼玉平野の)古利根川筋、中川筋の湖沼・沼沢地帯に大規模な開発工事を行なうことは、たとえ鎌倉幕府の強い権力を背景とし、関東武士団が・・・・多くの農民層の労役を駆使したとしても、技術的に不可能であったと思われる。技術的にという意味は、当時この低地を乱流する利根川、渡良瀬川、荒川を治めることがむずかしいため、開発ができなかったということではない。この考えはいかにももっともらしく、良識的である。しかしわが国水田の開発経過をみると、治水が利水に先行して行なわれた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発ができない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を巣すというのが普通であって、これが沖積地低地開発の常道であった。この意味で、利水は常に治水に先行する。従ってこの場合、問題は利水(水田化)のむずかしさにあったといわなくてはならない。湖沼・沼沢の開発は、技術的に非常にむずかしい多くの間題をもっている。まず湖沼・沼沢の排水をどうするか、排水に必然的に伴う用水の確保は可能か、ということは開発に当って直面する重要な課題である。その解決は、当時まだ経験的に知られていなかっただろうし、ことに水田農業ですすんだ技術をもつ西南日本で(も、そういう場面はほとんどないから)、ほとんど経験のないことである。従って広大な湖沼・沼沢に(対し、その水田化へ向けて)深い関心をもったとしてもただちに大開発をすすめることはできなかったにちがいない。湖沼・沼沢を取り囲む自然堤防に居を構え、地先を部分的に排水して低湿田とし、可能な場合にかき上げの囲堤を設け、不安定な水田を開くことがせいいっぱいで、まず農民の発想でこれが行なわれたのではないだろうか。・・  太字著者 (小出博「利根川と淀川」より)

 

〇風景の見えかた

 都会の雑踏をのがれ、あるいは日々の生活をはなれ、言わゆる田舎に出向いたとき(いま都会型の生活をしている私たちを想定しているわけだが)私たちの目の前に拡がる山々や川や湖沼や森や林、そして田園風景。考えてみると、最近私たちは、そういった風景を単に映像としての風景:景観としてしか見ないようになっているのではないか。いまここで書いてきたような見かた、つまりそののどかな風景、すばらしい風景の背景とその奥行の深さについて思いをめぐらすような見かたを、私たちの大部分はしなくなってしまったのだ。

 人と大地の係わりだとか風土と人間の関係などについては確かにあちこちで語られてはいるけれどもその多くは観念的でリアリティを欠いている。水田と言った瞬間から既に稲を植えるために仕立てた土地のことというが如き辞書的説明が頭に描かれ、それは実は人間がつくったのだという事実についての思いはついぞ頭にひらめかない。そこで見えていることは、まさに映像としての風景にすぎず、それと人間一般とをただつきあわせたところで、人と大地、風土と人間の係わりが分る道理もないのにも拘らず、相変らずそういう見かたが横行している。

 稲を植えるために「仕立てた」のは、その稲で、稲に拠ってその土地で生きなければならなかった(一般的な意味のではなく特定の)人々であったという理解が見失なわれてしまったのである。私にとってもこのことが身にしみて分ってきたのは、というより分るいとぐちが見えてきたのは筑波に移り住んで実際にそういう風景の一画に身をおくようになってからのことだった。おそすぎたなあと何度思ったかしれない。いままで何度も私は、いまの小・中・高の学校教育で教えられている地理や歴史の教えかたに対して文句を連ねてきたけれども、その文句のなかには、そこにおいて単に「知識」を並べたてるのではなくそれらの「見かた」について触れられていさえすれば、もつと早く気づいたのに、という私の愚痴が半分以上含まれている。

 

 もしも私たち全般に、一つの風景を単に映像としての風景としてのみ見て終らすのではなく(まして、それを一つの思いいれの見かただけで見て済ますのではなく)その背景にまで思いを至らしめて見ようとする習慣があたりまえになっていたならば、たとえば畑や山林一つをとってみても、単にそれを〇〇が栽培されている畑、〇〇の植わっている林、として扱い済ますのではなく、これはあの村の、そしてこれはこの村の人たちが営んでいる畑でありまた山林である、あるいは、それがいまのような形になるまでにはかくかくしかじかの過程があったにちがいない、といったまさに人と風土との係わりが目に見えてくるはずなのだ。そして、そうであれば、仮にそこを貫いて新しい道を一本通さなければならない場面にぶつかったときでも、いい加減なことはできないという正当な「ためらい」が心にわき上ってくるはずなのである。

  町村合併の促進がまた言われだしている。しかし、村の拡がり、村塊、あるいは村という単位:まとまりは、決していま言う行政区画:行政単位としてあったのではなく、むしろ、もともとは村が先にあった。村をなして入々はこの太地の上に住んでいた。その単位を行政の巣位として利用したのである。いったいだれが行政のために(支配されて)生きることを、はじめから望むだろう。村と村の間の合議というのはしばしばあったろうが、自らすすんで合併しようとすることは、おそらくなかったろう。合併の発想は、支配し易さ、つまり行政の発想なのである。行政にとって掌握し易くなる合併は、逆に人々にとっては村を掌握し難くする。

 

 この連休、憲法記念日、それほどよい天気ではなかったが、久しぶりに自転車で散歩に出た。かねてから土浦市の自然保護団体がその保存を叫んでいる宍塚(ししづか)大池を見に行ってみようと思いたったのである。いま私が住んでいるあたり一帯は、全般的に霞ヶ浦に続く低地なのであるけれども、そのなかにもあちこちに小高い丘陵が谷地(やち)を刻みこみながら点在している。そういう丘陵地のなかに、谷地に水のたまった池が数多くある。宍塚大池というのはその一つなのだ。

 その池は私の住んでいる所から東に四・五km行ったあたり、わが桜村と土浦市との境にある。舗装された道で近道をするのも面白くないからわざわざ集落の点在する丘陵地をぬって自転車を走らせた。微妙にひだが入りくんでいるから、道は激しく上ったり下ったりする。それとともに林があり、田んぼがあり、池がある、また林があり畑が拡がる、といった風景が次々に展開する。そんな山林のなか、草でおおわれて辛うじて道らしいとしか思えない言わばあぜ道風な道が交又していて、はてどちらに行こうか、まあいい、いずれにしろ大したまちがいはないだろう、などと思って自転車を草を分けてこぎだそうとする。と、その草のかげに、なんと道しるべ、石の道しるべが立っている。宍塚へ〇丁、古来〇丁、古瀬へ〇丁、上の室へ〇丁。因みに古来は「ふるく」、吉瀬は「きせ」、上の室は「うえのむろ」と読む(古来吉瀬は土浦から学園都市へ通ずるバスの停留所名にあるのだが、初めてそのバスに乗って「ふるく」「きせ」と告げられても、どういう字か分らなかった覚えがある)。これはどれも集落の名前である。明治の町村合併以前は村の名前であった。

 いま私が目の前にしている道が草ぼうぼうで右も左も分らないからこんな道しるべが建てられたわけではない。そうではなく、いま私の目の前にある道は、ほんのついさっきまで、これらの集落をつないでいた主要な道だったのだ。ここを村の人たちは歩いたのだ。その人たちのための道案内。私にはあらためて、この丘陵地のこの地方でもつ意味、集落の立地、道の意味‥‥こういったことが実感をもって見えてきた。自動車の都合で低地のまん中を走るようになってしまった現代の道の上を走るバスの中からこの丘陵をながめていて、いったいどれだけの人が、あの丘の上をつないでかつて主要道が走っていたなどと思うだろうか。大抵の場合、いまも昔も変りなく、道はここを走っていたと思うだろうし、またそう思ってあたりまえなのだ。

 道しるべに従ってかなり無理して(というのも道はもう道の態をなしてないから)走らせると、右手下にほんとに静まりかえった水面が見えてきた。かなり大きい。まちがいなく目ざす池はこれだ。まわりをかなり濃く繁った森にとり囲まれ、木々の枝が水面にかぶさっている。季節には渡り鳥が安心して群れているというのももっともだ。つり人が数人糸をたれている。岸辺のあちらこちらによしが群生して枯れた幹をつきだしている。私は東京の井の頭(いのかしら)公園、しかも子どものころのそれを思いだした。井の頭の池もこんな感じだった。その池から小さな川:神田(かんだ)川が台地の間の低地を蛇行しながらゆっくりと流れ、低地一面が(いまは川もコンクリートのかたまりとなってまっすぐになり見るかげもないが)水田であった。この池も同じ、谷地がより低地へと続き、その頭の部分にあるのがこの池だ。わき水でもあるのだろう。これはそのまま「公園」になる。

 しかし、そう思った次の瞬間、そう思った私自身のなかに、ある種の異和感とでも言うべき思いがわいてきた。「公園」?「公園」って何だ。私に「そのまま公園になる」と思わせたわせたのは、いったい何か。いったいこの近在にながく住んでいた人たちも「これは公園になる」と思うだろうか。彼らはそうは思うまい。「しょうもない」沼地、むしろそんな風に見るのではないか、見てきたのではないか。私が「これは公園になる」と思ったのは、こういう景観:映像としての風景は「公園」のものだという見かたが、既にてんからあたりまえのものとして私のなかに在ったからなのではないか。一つの映像は、一つの見えかたでしか見えない、そう勝手に私は思いこんでいたのだ。これはまちがいだ。

 

 一つの映像としての風景が、見る人の見かたにより別の見えかたになる、こんなあたりまえなことはないではないか。この池を「しょうもない」沼地と見る(だろう)近在のいまの農民の見かたも、それはいまの見かたなのであって、古代の農民なら逆に、この沼地をもってこいの田だと(まわりが田になる所だと)見たかもしれないのである。それを、一つの見かたで一律に処理することがどんなに危険なことか。私たち、都会に育った私たちは、これまでどんなにまちがった見えかたを押しつけてきたことか。

 この池を見ていて私の頭のなかに去来したこと、思い至ったこと、それは久しぶりに私にとって衝撃的なできごとであった。

 帰りはバス道路を行こうと思い、往路と逆に谷地沿いに走りだした。谷地沿いに、これはもういまの通常の水田では目にすることも少なくった昔ながらの不整形の田が、見るからにほそぼそと(そう見るのも通常の田を見慣れているからだが)耕されていた。傍に苗代があり、田植えはこれからである。ふと見ると、苗代の端に向いあわせに二本の太めの竹がつきさしてあり、その先から何か黒い物がぶら下っている。遠くから見ると鳥のような形にも見える。何だろうか。近くに寄ってみた。鳥であった。カラスの死骸である。合点がいった。これは鳥よけなのである。これも衝撃的であった。といって、なんと残酷なことを、などという意味ではない。大げさに言えば、ここには近代以前がある。まわりの水田の形といいこのカラスといい、これは近代以前の姿ではないか。ゴンベが種まきゃカラスがほじくる、いまでこそそれは歌のなかでおかしげにうたわれるだけだけれども、考えてみれば、近代以前、田畑はずっと森に近く在り、従ってカラスも沢山いて、こんな状景も単なる戯歌のなかの話ではなく、日常的なことだったのだろう。自分の身うちの死体があればカラスも寄ってこないのではないか、そう考えたのかどうかは知らないが、言わばまじないに近い鳥よけが、近代農法とともに在る。この鳥よけは、おそらく先代から営々として引きついできたやりかたなのにちがいない。あるいはそうではなく、期せずして先代と同じような状況におかれて、その状況に対する解法としていまあらためて思いだしたやりかたなのかもしれない。いずれにしろ、近代が近代以前と同居しているのである。近代は突如として近代という形をなして私たちの目の前に現われたのではない。近代はそれ以前を、そしてまたそれはそれ以前の、常にその前代の人間の営為をひきずっている、そしてそれはことによると同じいまに共存することだってあり得るのだ、そのことをこのカラスは、まさに身をもって見せてくれているではないか。それが私にとって衝撃的だったのである。

 

 実は、この大池めぐりの自転車散歩においての私にとって衝撃的な体験、それが今回の一文を書く動機になったのである。

 

知ること、分ること、「ためらう」こと

 ほんの数ページ前で私は、現代の道の上をバスで走っていて、どれだけの人が昔はあの丘の上を道が走っていたと思うだろうか、大抵は、いま走っているこの場所を昔もいまも変らずに道は通っていたと思うだろうし、それであたりまえだ、と書いた。そうなのだ。それであたりまえなのだ。いまの日常の生活は、いまの現実との対応であけくれるのだから、それであたりまえなのであり、それは都会から新にここへ移り住んできた人にとっても、代々ここに住んできた人にとっても、現象としては同じだろう。第一昔はどうだったかなどとも思いはしまい。しかし、同じだというのは、あくまでも現象としてなのだ。都会からきた人たちは単純に知らないからそう思うのであり、代々住んできた人たちは知ってはいたけれども現実の生活のなかで忘れてしまったからなのだ。地つきの人たちは、言わば意識下にそういったことをしまいこんでしまっているのである。だから、やろうと思えばカラスの死体をぶら下げるやりかたを、この近代農法の世のなかで、持ちだすことがいつでもできるのだ。思いだす、つまり、しまいこんでいたものをほこりをはらって持ちだすことができるのだ。それを非合理だとか残酷だとか言って笑うのは、意識下になにもしまっていない人、近代・現代が突如として近代・現代という形をなして目の前に現われたと思いこんでいる人だ。

 考えてみれば、それぞれの土地で人々は、そのときのいまを、そのときの昔を意識下にしまいながら、生き、そしてそのいまを、そのいまでの生活を基におき、変えてきたのである。いや、それが人々の「生活」というものなのだ。そのときのいまに生きているそのさなかにある人々にとって、そのときの昔はさしづめ空気のようなものでしかない。だからそれらは日常的には眼中にないし、またよほどのことでもない限り頭に浮かんでこないだろう。それが先に言ったあたりまえだということだ。

 

 そしてまたおそらく、近代以前にあっては、その土地に新らしく移り住んできた人たちが先ずやったことといえば、その土地の空気のようなものを知ろうとすることだったろう。なぜなら、そうすることがいまその土地で生きることだということを、そこへ移り住む前の生活で身をもって知っていたはずだからである。そして多分、そこでなにごとかを行なうにあたっては、必らず、これでいいのだろうかという「ためらい」を抱いただろう。それはしかし単なる新入りの遠慮のそれではなく、正当な「ためらい」だったはずである。

(「昔」のことを知るのは歴史家だけに必要なのだろうか。歴史は歴史家のために、郷土史は郷土史家のためにのみ存在するのだろうか。彼らはそれでしあわせかもしれないが、私たちにとっては、環境破壊以上に恐ろしいことなのだ。)

 いま私たちは、ともすると、そのわずかな期間現代に暮した経験だけを基に(多くの場合、しかも都会で経験することこそが絶対だと思い)、一つの映像としての風景に一つの見えかただけをあてがい、一律に処理して済ましてしまっている。そしてまた、ともすると、いま現在の私たちがとる見かた、そしてその見かたを醸成した私たち自らの(現代における)経験に対して、私たちの意識下ある昔空気のような昔、が大きな比重を占めていることに気づかず、なにごともみな自らがあみだしたかのように思ってしまっている。とりわけ、近代合理主義的な思考方法に徹すれば、むしろ卒先してこんな「空気のようなもの」は切り捨てようとするだろう。というより、そんなものの存在を認めてないのである。吸ってきた「空気」の存在を知らず認めず、現代が現代という形をして突然現れたと思っている、いかんともしがたくしあわせな人。考えてみると、いまや、多くの建築や地域の計画の専門家という人たちはこういうタイプの人たちだ。こういう人たちは、いまに生きているそのさなかにある人(彼らは「空気」を吸っている、しかしいまに夢中でそれに気づかないだけ)にはなり得ないし、まして、その人たちを知ることさえ、分ることさえ、できないのである。できるわけがないのである。彼らはそれでしあわせかもしれないが、私たちにとっては、環境破壊以上に恐ろしいことなのだ。

  いまに生きるそのさなかにいる人がその吸っている「空気」に気づかない、それは先にも書いたように、あたりまえだ。しかし、専門家は、専門家こそ、専門家である以上、このいまに夢中の人たちが気づかない「空気のようなもの」を積極的に、意識的に見ようとすべきなのではなかろうか。そして、そうであれば、専門家はなにごとかを成すにあたって、しばし、正当に「ためらう」はずなのだ。一つの風景を映像としてのみ扱い済ますはずもなく、一つの見えかただけで律しようと思うはずもないのである。

 

 あとがき

〇「風土:大地と人間の歴史」(平凡社選書30)の著者玉城哲氏の随筆「水紀行」のなかの一文を、ある人からわざわざコピーして送っていただいた。著者が奥入瀬(おいらせ)川のそばをバスで通ったとき、その川の管理上の名(建設省の呼ぶ名前)が相坂川であることを見つけ、いったい地元ではどちらの名で呼ぶのかと思って、乗りあわせていたおばあさんに尋ねたところ、そのおばあさん、知らない、よその人はオイラ・・とか言うらしいけど、と言う。いささか驚いて、川の名前知らないの?と重ねてきくと、知らない、そこに松の木があれば「松の木川」さ、というこたえがかえってきて二度びっくりした、そういう話である。要するに、一つの川には一つだけ名がある、そうでなければならない、いくつもあれば不都合だからーつに統一する、などと思っているのは、思いあがりもはなはだしいのではないか、そうやって当然と済ましているものの見かたは、実は根本的に誤まりなのではないか、というのである。私たちの足元をゆすぶる、非常にいい話である。おばあさん万歳!

〇しかし、あいかわらず、一つの風景を、―つの統一された、しかも期待される見えかたで見ることを教えたがる人がいる。内申書裁判判決。

〇ときどき私は、私が大学を出るまでに教えられてきたことを、ことごとくひっくり返してみようとしているのではないか、そんな気がしてならない。私は別に、そんなにへそまがりだとは思えない。ただ、教えられたことによると、つじつまのあわないことが多すぎる。それだけのことだ。教えられたこと、いったいそれは何だったのだろうか。

〇ひっくり返しついでにもう一つ。いま国鉄の経営改革が話題になっている。民営化への答申もでたようだ。しかしふと考える。いずれの議論も、国鉄は企業であるという前提を、当然のこととして設定している。くだいて言えば、商売だというのである。その前提をとっぱらったらどうなるか。つまり、企業でないとしたらどうなるか。自衛隊は企業である。そう悪う人がいるか?(もっとも自衛隊が企業だと空恐ろしいことになる。採算のために、戦争が商品になる。)国鉄職員の怠慢は、企業性の欠如のせいだ、というのと同様に、自衛隊員の士気はその企業性の有無による、などと言えるか?この前提を疑ったとき、初めて国鉄のほんとの意味が見えてくるのではないか。独立探算、どうしてそうでなければならないのか(と疑わないのか)。自衛隊への探算を無視した投資の何分のーかの投資で、国鉄は国鉄になる。その方がよほど国を守るからである。それに文句をつける国民が、どこかにいるか。

〇あと十日もすると、田んぼは一面の縁となって水面は見えなくなり、その代り、田んぼをわたるそよ風が目に見えるようになる。今夜、ほととぎすが鳴いた。

〇それぞれなりのご活躍を!そして、その共有されんことを!

    1982・5・19                                                         下山 眞司

 


1982年度 「筑波通信 №2 善知鳥によせて」 1982年5月

2019-05-19 09:23:52 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №2」1982年5月 A4版10頁 

     「筑波通信 №2」 1982年5月

      善知鳥によせて・・・・土地・土地の名・・・・ 

 信州塩尻の近くに善知鳥峠という名の峠がある。松本平から伊那谷へぬける道すじ:三州街道にある中央高地に別れをつげる峠である。上代の東山道もここを通っていたのだという。問題は、これを何と読むかである。全く読めずに、私はしばし途惑った。

中央本線に並行しているのが三州街道。両者はこの地図右側(南方)辰野町で分れ、鉄道は諏訪へ、街道は伊那へ向う。

 

 「うとう」峠と呼ぶのだそうである。あちこち歩いていて、およそ土地の名ぐらい読むのに苦労するものはない。連取町と書いて何と読むか。「つなとり」町というのだそうだ。これは伊勢崎市内で見かけた名前である。たまたま入った喫茶店のマッチに書いてあったローマ字のおかけで判ったのである。この場合には、言われてみれば、ああそうか、そう読めないこともないなと思うけれども、善知鳥はどうやったって「うとう」とは読めない。「うとう」という音があって、それに漢字の音をあてだ、そういうあて字かとも思ったけれども、それは無理というもの。どうひっくりかえしたってそういう音はない。まして、ひらがなで「うとう」などと書いてみると峠道を越えるのが疎ましいというので「うとう」なのかな、などと全く勝手な想像が頭のなかをかけめぐるのだけれども、それにしたってそれが善知鳥となるには合点がゆかない。要するに分らない。

 ところが、もし私に能楽の素養でもあったなら、すらすらと読めたに違いない。というのも、手元の辞書によれば世阿弥の作に善知鳥(うとう)というのがあるのだという。そして善知鳥(うとう)という名の鳥がいるのだそうである。海鳥の一種で、中部以北の海岸にすむ鳥だそうである。その鳥の生態か何かにからむ物語があって、それが善知という意味の字を与える何かのきっかけにでもなっているのではあるまいか。

大言海」昭和7年発行 合資会社冨山房

  

 そこまで判ってきたとしても、海鳥の名が、この海とはおよそ縁もゆかりもない中央高地の地名になるというのは、さっぱり分らない。そのとき、その辞書の「うとう」の書きだしに、アイヌ語で突起していることをいう、とあるのが目についた。「うとう」という鳥の口ばしのつけ根ちょうど鼻のあたりに、こぶのような突起がある。それが識別の示標になるらしい。(私は実物を全く知らない。百科事典の解説と図によっているのである。〉そうだとするとこれは、形状を形容するアイヌ語からきているのかもしれない。「うとう」峠は、地形の形状かな、アイヌが中央高地にまでいたという話もきいたことがあるし。そこで思いついて、百科事典の地図の地名索引で「うとう」と引いてみた。引いてみて一寸驚いた。善知鳥という字がつく地名が、この峠を含めて、少なくともこの地図による限りでも、三つあるのである。善知鳥崎、これは青森湾に面する海岸:ここにはこの鳥がいてもおかしくない。善知鳥そのものずばり、これは秋田の山の方:海より離れている、平野から山へかかりだす尾根のとっぱなにある場所のようにも見えるけれども詳しい地図ではないから分らない、そしてこの善知鳥峠。この他にもその索引には「うとう〇〇」という読みかたで別の漢字をあてる地名がまだかなりあった。

 別の本によれば、全国各地に「うとうざか(坂)」という所があり、謡坂と書いたりして、そこを越えるときにはうたをうたってはならないなどという言い伝えがあったりするという。これなどは、ことによると、謡の字を「うとう」にあてたことから逆にそうなったのかもしれない。また、もしやと思って、漢字の音どおりに「ぜんちちょう」と辞書を引いてみたところ、なんとちゃんとあるではないか。ぜんちちょう:うとうという鳥のこと、そうでている。    

 閑にあかせて、こういう「知識」を拾い集めていると、その量に応じて段々と何かが分ってきたかのような気分になってくるのだけれども、実は、別に何かが分ってきたわけでは少しもない。むしろ、考える材料が増えただけであって、「うとう」はさっぱり分らないままだ。強いて分る足しになることといえば、各地の山中、それも坂や峠のような所の名としてあるらしいということだけである。それだって、あくまでもらしいである。

 

  私がこの「うとう」峠に興味を持ったのは、先日塩尻近くの宿場町や民家を見て歩いたとき、そのとき持ち合わせた地図がすっかり役たたずで(というのも、やたらにバイパスやら新しい道がついてしまって、出だしからして勘が狂ってしまったのだ)筑波に帰ってから地図を見なおしていたときのことである。はじめ、全く読めなかった。というより、いろんな読みかたをしてみて、そのどれにも自信が持てなかった。そこで地名大系を引っぱりだしてみて、初めて「うとう」と読むのだと知りなかば驚嘆したのである。漢字だけでさえいささか驚いていたのに、その読みがその漢字にあてられていること、そして純粋にその「うとう」ということばのもつ響きにも心ひかれたのである。なかなか心地よい響きのことばでないか。いったいどういう意味なのか、そう思ったのが運のつき、いろんなものを次々に拾い読みする破目になったのである。

 そしてつまるところ、「うとう」という心地よい響きをもつことばは、その意味がよく分らないまま残ってしまい、相変らず気にはなっているわけなのだが、そうこうしているうちに、ふとおかしなことに気がついた。つまり、例えば「うすい」峠などといった場合、少なくともいま、そして少なくとも私は、それが何を意味しているのだろう、などとは少しも思わずにいるということに気がついたのだ。言ってみれば、そういう名のついた峠、それで済ましている。思いめぐらしてみると、明らかに、その意味を知りたく思う場合と、ただ単にそういうものとして済ましている場合とがあるのである。こういう二つの場合があるということ、これは明らかに私の側の問題である。私がその意味を気にするか、していないか、それによるのだといってよい。

 その名前がすっかり私の身についてしまっているような場合、それにも色々な場合があって、具体的に身についている場合、具体的には知らなくてもそういうものなのだということ:知識が身についてしまっている場合、そういうような場合には、あまりことばの意味など気にはしないようだ。「うすい峠」などは、私にとっては、この例である。子どものころから「うすい」峠という名の難所のあることは(知識として)身についてしまっていて、具体的にどんな様相なのか全く知らないままでも「うすい」峠は私のものになっていた。もちろんそうだからといって、分っていたわけではない。しかし、もし子どものころ、「うすい」峠って知ってるか、などと言われたり、関東から信州に向う中山道あるいは信越線の最初の難関は何、などと尋ねられたりしたら、それこそしたり顔で「知ってるよ」だとか「うすい峠!」などと競ってこたえたものだろう。単に、そういう難関につけられている名前として知っているわけで、極端に言えば、別の呼称でもよかったはずである。そして私の場合、その名前よりも、難関であるという(教えられた)知識が言わば印象に残っていて、どんな所なのか実際に知りたく(つまり実際に経験するという意味で知りたく)思っていたに違いない。中学生のころであったか、遠足で連れていかれて(もっとも汽車に乗ってなのだが)「これがあの碓氷峠か」と思ったことをいまでも覚えている。そして、実際に道で峠越えをしたのは、自動車に乗るようになってからであり、未だに歩いてはいない。こういった私の「うすい」峠とのつきあいのなかで、「なんでうすいなのか」「うすいってどういう意味なのか」とか、それほど深く思いをめぐらしたことはないように思う。

 ところが、同じ遠足で(これは小学校でのことだが)相模湖へ連れていかれたとき、昔の遠足はほんとに遠足で、最寄りの駅から目的地まで峠越えの道を歩かされた。多分甲州街道だったはずである。みんなあごをだしはじめると「もうすぐオオダルミだ、峠だ、そこからは下りだ」と元気づけられる。峠に石碑が建っていた。大垂水峠とあった。「おおだるみ」と読むと教えられたのか、自分でそう読めたのか、そこのところは覚えていない。そばの山の岩はだから水が少しばかりしたたりおちているのを見て、それで大垂水?もっと水がでているところあるんじゃないの?などと言いあったような覚えがあるから、そのときは子ども心にもそのことばの意味を考えたのだ。この場合は全く突然、何の予備知識もなくそのときはじめて「おおだるみ」に出くわしたのだ。このことばは、そのときまでの日常では全くききなれないことばであった。だからそのことばの意味に思いがいったのだと思う。もし日常のことばのなかにあったなら(例えばその近くに暮していたり)そしてあるいは予め知識として(そういう名の峠があるということを)知っていたならば、やはりその名の由縁に思いをはせるなどということはしなかっただろう。

 

 こうして考えてみると、私が日常慣れてしまっている名前に対しては先ずその名の由縁など気にしないと言ってよさそうだ。そこのところをもう少し詳しくみてみると、その場所を私なりに具体的に知っているような所に対しては、その名前を見たり聞いたりした瞬間、すぐにその場所の具体的な姿が頭のなかに浮かんでくる。言ってみればそれは交通信号の色みたいなもので、極端に言えば別の名前だったっていい。上野、新宿、渋谷‥それらはみな、私なりのその名をもつ町の具体的な姿をすぐ目の前に浮かび上らす。その名の由縁が気になったりするのは、他の場所で同じ名を見つけたりしたときだ。例えば同じ都内で別の新宿を見つけたり、伊賀上野などという名のあることを知ったりしたとき、あらためて新宿は新・宿だったか、などと気がついたりする。

 そしてまた、私のなかに(どういうわけでか)つめこまれ教えこまれた「知識」の体系を形成するための言わば一要素として土地の名が表われてくる場合にも、それはその「知識」体系を表示する記号のようなものでしかない場合が多い(学校の地理の時間に教えられたことなどは多分これだ)。利根川という名をきけば、「利根川」という川を具体的に知らなくても、関東平野をうるおす重要な河川という「知識」が浮かびあがる。それは、どちらかと言えばそういう河川についての抽象的なイメージを呼び起こすのだといってよい。それが「知識」なのだ。平野:関東平野とはこれこれ、利根川という川はこれこれ・・・・それについて具体的に知らなくても「知識」は集積できる。(少なくとも日本の場合、地理の教科での優等生とは、これらの「知識」をできるだけたくさん忘れずに覚えこんだ者をいう、というのは大分まえに書いた通りである。)そして、実際に、具体的にその土地を知らないのに、「知識」として教えられたことが、あたかもその土地の姿であるかのように思いこんでしまっている場合さえある。津和野などは、私にとって、まさにそれであった。二年ほど前に初めて尋ねてみて、聞くと見るでは大違い、私が「知識」として持っていたイメージは、もろくも潰え去った。ただ、どちらかと言えば、「知識」だけあって自分は具体的には知らない場合には、その「知識」の周辺に、その名前そのものが私のなかにつくりだすイメージがまつわりついている場合がある。萩、津和野・・・・こういった名前は、その「知識」に加えて、その名前の字そのものの持つイメージがとりついていたりするのである。字の意や読みの響きが一つのイメージを独自に生起させ、それがその土地のイメージへ(理由もなく)かぶさってしまうわけだ。萩などは明らかにそれで、その字そのものがある風情をどうしても思い起こさせてしまう。私が住む桜村の桜は、しかし、少なくとも私にとっては、そういう風情を抱かせない。それは、現実に私がそこに住んでいて頭に思い浮かべるなどという場面にいないせいもあるかもしれないけれども、やはり桜という字:ものの抱かせるものが(私にとっては)萩ほどではないからだろう。

 こういうような字や響きが一つの情景を何となく思わせてしまうというのではなく、その名前を構成する字が、一般的なもの(例えば野のような)ではなくてある特定のものを具体的に示すような場合にも(とりわけその名前しか知らず、具体的にその土地を知らない場合はもとより知識もない場合には)その名前の由来が気になりはじめる。先の塩尻などはその例で、塩尻、塩の尻ってなんだろう、と問いただしたくなってくる。もしそれがその土地に住んでいたりよく実際に知っていたりしたならば、先に書いたように、その名前で直ちにその具体的な町の姿を思い浮かべてしまい、名前の由来を問おうなどという気は、まずほとんどわいてこないだろう。ただ、そういうような場合でも、この塩尻などという字の名前のときには、例えば中野などという名前に対するときとは違って、ふとさめて考えてみたりしたような場面で、やはりその由縁を尋ねてみたい気が起きてくるのは確かである。塩と尻がそれぞれあまりにもある特定のものを指し示す字だからである。塩といえば海のもの、ここは海岸ではないのだから岩塩でもあるのだろうか、尻というのは終りか果ての意か・・などといろいろ思いたくなるのも人情というもの。だから一時、塩尻とは、太平洋でとれる塩:南塩と日本海産の塩:北塩の輸送路の終点:尻にあたる地点だからで、というもっともらしい説明がなされたりしている(もっともらしいと書いたのは、そうではないという説が最近言われているようだからである)。

 

 古今の地誌や地名考で、その名前の由来について語られたりしているのも、その多くは、こういった類のその名前そのものが何らかの特殊なイメージをわかせたり特定のものを指し示したりするような場合ではないだろうか。言わば平凡な、あるいは一般的な名前の場合は、そのまますんなり気にもかけずに済ましてしまう。もっとも、風土記のように、その地に住み慣れた人でなく、どこかよそからきた(中央から派遣されてきたような)人たちが編んだような場合には、名前が自分より先に、自分と係わりないかたちで存在していたせいだろうか、やたらに地名の由来が書かれている場合もある。

 それは、いま私たちが初めての、知らない土地の、初めて目や耳にする名前、とりわけ興をそそる名前にぶつかって、その意味を問いたくなる心境と似ているだろう。なにしろ初めての所なのだから、目の前に拡がる当の土地の他の手がかりといえば、その名前しかないのである。土地のことが分る手っとり速い方法としてその地につけられた名前の(ことばの)解釈にとりかかりたくなるというのも、これも人情というものだ。まして風土記の場合には、中央からの命令の、嘉き字二字をもって土地の名を整え報告することと関連していたはずであるから(ということは、それまでは漢字のあてがわれない土地の呼び名があったわけだ)名前に漢字を与えるために、なおさらその呼び名の由来(というよりそういう漢字をあてがう理屈)を考えざるを得なかったのである。

 「大言海」より


 ちょうど明治のころ北海道のアイヌ語の地名に漢字をあてたのと同様のことが行なわれたのである。もっともこの場合にはまずほとんどの場合、漢字の音や訓があてがわれたわけで、漢字の意味を考えだしたらわけがわからなくなる。(私の知っているので元のアイヌ名にも土地の状況にもあっているように思える漢字名はカムイコタン:神居古潭ぐらいである。)

 

 考えてみれば、このように、地名のほとんど全部を漢字の組み合わせで書き表すようになったというのがくせものなのだ。しかもそれが、もう千年以上の昔から、それぞれの土地にそれぞれの土地の呼び名があった。呼び名をつける側の立場について考えてみれば当然なのであるけれども、それらの呼び名がその土地につけられるには、それなりの理由:つまりその呼び名に意味があっただろう。そこへよそもの(つまり呼び名が何を意味するものであったか、なぜそういう呼び名で呼ぶようになったか知らない人たち)が来て、その呼び名に対して(苦労して)漢字の音や訓をあてがってしまった。ところが幸か不幸か、漢字は表意文字一字一字に独自に意味を持つ。漢字にした名前が、その字から出る意味を担ってしまうのである。それが元の呼び名の意味することと同じであるならばまだしも、まずそうなることの方が少ないと見てよいだろう。

 そして、一旦漢字に置きかえられたものは、それこそ随時同じように読める別の漢字にまた置きかえられるなどということが、極端に言えばひっきりなしに行われてきたのである。春日部という町が埼玉にあるが、ほんの少し前までは、粕壁と表記されていたはずである。信州の千曲川も筑摩の地を流れる川筑摩川がちくま河と書かれたり千熊河と言われたりしてきて、千曲川に落ちついたのは江戸期の初めごろらしいという。ちくまがわという呼び名だけは変らなかったわけだ。多分筑摩という地名が先行しただろうが、そういう変遷の過程に気がつかないと、千の曲りか、なるほどね、などと納得しかねない。これなどは、あて字にしては、川の様相にぴったりなのだ。そして、こういう具合に一且漢字で表記するようになると、元々の呼び名はさておいて、漢字の持つイメージが独り歩きをはじめてしまう。あたかも連想ゲームをやっているようなものだ。

 甲州の塩山という所を笛吹川という川が流れているが、そのあたりの地図を見ていたら、その小さな支流に琴川(ことがわ)というのがあった。琴川とはまた優雅な、と思っていたら、いえ鼓川(つづみがわ)もありますよ、と教えてくれた。要するに、笛・琴・鼓とそろえたというわけで、おそらくそう名づけてにやにやした人がきっといるに違いない。笛吹という漢字名が先行して、琴・鼓がそれにひきずられて生まれたのではないかと思う。(このあたりの学校や農協の名称では「笛川」と書かれている。もともとは「吹」の字がないのかもしれないが、不明。)

 私の住む桜村に、松見・竹園(これは私の現住所)・梅園という地名があるのだが、これも似たようなもので、原野が開拓されたときの拠点に松竹梅のめでたき字を配ったのにはじまるのだという。そう旧いはなしではなく、戦後の入植だったようだ。北から順に松竹梅で並んでいる。もうこうなると、単なる記号と同じで、要はその漢字の持つイメージだけが問題にされ、その土地に根ざした呼び名とは全く無縁になってくるのである。住居表示で改名された名前や、新しく開発された所の地名は、ほとんどこれである。

 

 冒頭に書いた「うとう」峠は、命名の過程が更にこみいっている。おそらく「うとう」という呼び名は相当旧くからあったのだろう。一方で「うとう」という鳥がいた。それにまつわる伝説がある。調べていないから詳しくは分らないが、その鳥の親子の情愛の深さについてのものらしく、それを基にした能楽が書かれているようだ。そういう解釈がおそらくあったのだろう。これには「善知識」という仏教語の意味がからんでいるかもしれない(これは全く私の勝手なあて推量である。善知ということばを調べていたら、善知鳥の一つ前の項目にでていたのでそう思ったにすぎない)。そこで、うとうという鳥は「善知」鳥だということになった。以後「うとう」は「善知鳥」、「善知鳥」と書いて「うとう」と読む、そのようになった。おそらく、細部はまちがっているかもしれないが、そういう漢字に置きかえた名づけの構造は、こういうものだったはずである。こうなったら、話を知らない限り、読めといったって読めるわけがないのである。いま一寸思いつかないけれども、こういった類の名前も沢山あるに違いない。

 

 要するに、ついそうしてみたくはなるのだけれども、漢字で書かれた地名の由来を、その漢字の意味にこだわって考えだしたりすると、多くの場命、それはとんでもない結果に陥ってしまうということだ。旧い呼び名を相続しているような名前の場合(それがそうであるかどうかの判別はなかなか難しいと思うが)その漢字をとっぱらって元の呼び名に戻してみてそのことばの意味を考えてみるというぐらいが、せいぜいできることなのだ。

 第一、確かにその呼び名:名前の意味を分ろうとすること、分ることに意味のある場合もあるかもしれないが、より大事なのは、この言わば無限に拡がる大地の上の特定の場所を、そこを区切りとってある呼び名で呼ぶようになった、人々のそういう営為のなかみに思いを至らしめてみることではなかろうか。なぜそこにある呼び名を人々共通のものとして(というのは、ある一人にだけ通用する呼び名では地名にならないから)つけなければならなかったか、そうさせたのは何であるかということだ。すなわち、物に名をつける、物に名がつけられる、物がある呼び名で呼ばれる、そのつけられた名前そのものに対してではなく、名を与える、名づけるということは(私たち:人々にとって)いったいどういうことだったのか、どういうことなのか、これに思いを至らしめる方がよっぽど大事だということだ。そうしなければ、物あるいは土地の、私たち(=人々)にとってのほんとの意味が分らなくなるはずだからである。私たちにとって土地や物は、あくまでも私たちにとっての土地や物なのであって、私たち土地や物なのではないからである。

 

 いままでにも何度か私は、私たちのものについて考えるのならば、そのものの辞書的解説からはじめるべきではないと書いてきた。それもこういうことなのである。辞書にあるものの解説は、それは決してまちがっているわけではない。しかしそれは、辞書というものの性質上、そのものについての言わば抽象的な説明に終始し、そのもの(の名)の名づけ親としての私たちの存在、私たちにとってのそのものの(存在すること)の意味を、(それはもう当然のこととして)その背後に隠してしまっている。そして私には、この背後に目を注ぐこと、注いでみること、これが、その辞書的な解釈の範囲にとじこもって右往左往するよりも、先ずなされなければならないことだと思えるのだ。

 

 善知鳥峠にはじまって、慢然と思うところを書いてきたのだが、ふと私たち漢字:表意文字表記の国でなく、表音文字表記の国では、書かれたものの名前に対して、どういう感じかたをするのだろうかと、少しばかり気になってきた。たまたま故あって手元に置いてあった本をぱらぱらめくっていたところ、土地の名について述べている箇所が目にとびこんできた。少し長いけれど、そのまま一部を書き写してみる。

  ・・・・こうした町なり旧跡なりはその名によって、それ自身だけのもつ名:人名と同様に固有な名によって指示されるがために、更に個性的な何ものかをいかにたくさん持ったことであろう。言葉というものは、それの指し示す事物の明瞭にして尋常な一一たとえば仕事台、鳥、とはいかなるものかという例を児童に示すために教室の壁にかけておく絵、あの同一種類のすべてのものの標準として選ばれたもののように、明瞭にして尋常なあるささやかな映像をわれわれに思いうかばせる。ところが、名というものは、人なり町なりのーーというのは、町もその名で呼ばれるために、われわれにはいつも人物同様個性的な独自のもののように思われがちなものだから一一その町のある漠とした映像を思いうかばせる。この映像は、その名とその名の音の明朗とか沈鬱とかの響きによって色彩を導きだす。映像はこの色彩によって、ちょうど全紙が青または赤の一色で描かれているビラのように一一それも材料の都合や手を省かねばならぬためとか、装飾画家の気まぐれのために、空や海のみならず小舟も教会堂も通行人も、みんな青か赤の一色になっているあのビラのように、一様に塗りつぶされているものなのだ。「パルムの僧院」を読んでからまず行きたい町の一つになったパルムの名は、私には緻密な、滑らかな、すみれ色の、そしてやわらかな感じとして思いうかべられていたから、私の宿になるかもしれぬパルムのどんな家の話がでても、私には、清らかな、緻密な、すみれ色の、そしてやわらかな感じのする住居に住むのだろうと思う喜びがひきおこされた。そして、そうした住居は、イタリアのどの町の住居とも似もつかぬものなのだ。というのは、なんの抑揚もないパルムという名のあの重いシラブルと、スタンダール風な甘美さやパルムすみれの花びらの光沢から、パルムという名に私の含ませたすべての心象との助けをかりて、初めてその住居を想像したからである。・・・・    プルースト:失なわれた時を求めて、土地の名・名 より

 

 おそらく、未だ具体的に知らない土地のイメージが醸成されてくる構造は私たち日本人とさして変っているわけではなく、違う点は、その名前の音の響き:語感が前面にでてくることぐらいだろう。もしここに引いた例の場合、「パルムの僧院」が読まれていなかったとしたら、その名前のつづりと発音だけが頼りとなるわけである。考えてみれば、私たち日本人が表音文字圏の町の名に思うことは、ここに引いた例とそんなに違っていない。文学や人の話や、そういったことを通しての諸々の知識が、その町の名前にとりついて、イメージがどんどんふくらんで、それと町そのものとどちらがどちらだか分らなくなったりさえしてしまう。その辺のことについては、ある日本人の書いた次の文章が的をついている。      

  ・・・・一年前に、あるいは二年前に、芸術と思想との充ちた町パリは、私を歓喜の念でいっぱいにした。

 その時私のしたことは、私がこれらの美しいと思ったものに、私の知っている名前や言葉をやたらにつけたことである。ノートル・ダムは崇高だ、重厚だ。・・・・セーヌは静穏で、ほのかないぶし銀の照り返しのように輝いている。等々・・・・。そしてそれには必ず自分がそれが「好き」だという甘い感傷が伴っていた。しかしこれらの言葉は何か。それは全然別の内容をもって私の過去の生活経験を通して与えられ、あるいは教えられたものであった。言葉とその言葉に対する感激、もちろんそればかりではない。私は実物に接した以上、それから感動の幾分かはうけていたに相違ない。しかしそれは安易な言葉と感激によって、たちまちうすめられ、混乱させられてしまっていたのではなかったか。私は自分の貧しい過去の色ガラスを通して映るパリの姿をよろこんでいたのである。これは錯覚以外の何だろうか。しかしこの色ガラスそのものは、一つの感覚的経験の蓄積され形成されたものである以上、私が一つの生活圏を場所的にはなれた時、徐々に崩解しはじめていたはずである。それがある程度以上になったとき、私は、私の主観的な錯覚から次第に分離してくる、そこに在る、パリそのものの姿をみ、その複雑な裸形の姿の厳しさに茫然とするばかりである。それはまずその硬い物理的性質をもった石の町として、更に冷たい町として迫ってきた。・・・・      森 有正:砂漠に向って より

 

 私たちが、私たちそれぞれの色ガラスを通してものを見ているということは否定し得ないだろう。しかし、だからといって私たちにとっての問題は、どれだけの色ガラスがあるのかと数えあげることでもなく、ましてそれらのなかのどの色ガラスが好ましいかと論ずることでもない。言葉とその言葉に対する感激をとやかくあげつらえばよいということではないのである。

 

 あとがき

〇私が「うとう」を気にしているのを伝えきいて、その語源について触れている本を見つけて、わざわざコピーをとり寄せてくれた人がいた。それによれば、「善知鳥」と書き「うとう」と呼ぶ地名の場所が、同じ信州のなかに他に三・四ヶ所もあるのだそうである。それはいずれも、川の源泉のようなところで小川(水深三~五寸、偏二~五尺ほど)のまわりが湿地状になっている、そんな様相の所の地名だという。そういう所はどこも、かなり早い時期から稲作が行なわれていた形跡がある(つまり、稲作に拠って早くから人が住みついた所である)。そういうような初歩の技術でも稲作が可能のような(言いかえれば人が先ず住みつけた)土地は「ぬた」「のた」「やち」あるいは「うだ」など各地それぞれの呼びかたがあり、「うだ」は関西に多い言いかただという。そして、この人に言わせると、「うとう」はこの関西系の「うだ」のなまりではないか、というのである。そして、そういう地形は当然傾斜しているわけで、それゆえ後になって「うとう坂」というようになるのだと。

〇そして、わが「善知鳥峠」のあたりもまた、山間の地で早くから水田が開けていた所なのだそうである。

〇ことほどさように、語源考というのは尽きるところをしらない。唯一確かなことは、同じような呼ばれかたをする場所というのが、同じような様相を呈しているということだ。

〇しかし、その本には、「うとう」がなぜ「善知鳥」になるかについては触れられていなかった。(以上「信州地名新考」という本による。)

〇なお、この人の「うとう」考のなかで、「うだつがあがる」というのは、「うだ」が水田に仕上ること、それゆえ「うだつがあがらない」=水田に成し得なかったこと:一人前の生活が営めないこと、なのではないかという説が語られている。私がきいてきたのはそうではない。町家(つまり商家が多いわけだが)で、「うだつ」と称される隣家との境をなす壁が屋根を越えてたちあがるかどうか(権勢が一定程度を越えるとそうすることができた)からきているのだ、あるいは、「うだつ」と呼ばれる棟木を支える柱は、いつもおさえこまれていて思うようにはならないから、それに例えたのだ、とかいうものだった。もっともこの私がきかされてきた話では、なぜそれらを「うだつ」というのかについては明らかにされていなかったように思う。こんな新説をきくと、なんだかこの方がずっと生活に密着しているようにも思え、「うだつ」の意味もなんとなく分かったような気にもなり、ほんとらしくきこえてくるから面白い。これは言ってみれば、農民的発想の解釈である。

私の住んでいる公務員宿舎には小さな庭がついている。色々な花の盛りである。その名を知っているものもあれば、名を思いだせない花もある。そして、名も知らず従ってその名を忘れたわけでもない、しかし見たことのある花もあり、全く初めての花もある。そういう意味で色々だ。ふと、その昔の小学校の夏休みの宿題の一件を思い出した。ある女の子が植物採集をやってきた。一通りそれぞれの草花の名前が記してあるなかで、一つだけ「名もなき草」と書いたラベルが添えてあった。その時は皆笑いだしたのであったけれど、いま考えてみると、その子は(そして多分その子の母親も)大変に衝撃的なことをやってくれたのだと私には思えてくる。そのとき私たちは笑ってはいけなかったのだ。それは、「名がある」「名を知る」ということがどういうことか、子どもたちがそれを知る絶好の機会だったのである。しかし、私がいまだに尊敬してやまないそのときの担任の先生も、そのときそこまでは気が付かなかったようであった。その子はちょっと近より難くすてきな子であった。

〇それぞれなりのご活躍!そして、その共有されんことを!

    1982・4・23                     下山 眞司

 

投稿者追補

「カムイコタン 神居古潭 北海道旭川市西部、上川盆地を出た石狩川が夕張山地を横切る峡谷。函館本線の神居トンネル付近約10kmの間は、いわゆる神居古潭系の各種の岩石(ジャ紋岩、輝緑片岩等)が早瀬をつくり、鬼神の足跡といわれる深さ2~3mにも及ぶ甌穴(おうけつ)や夫婦岩などの奇岩怪石も多い。岩や川や産物にちなんだアイヌ伝説があり、神と悪魔の争いの地としてカムイ(神)コタン(住家、世界)とよび、神聖視している。下流は淵(ふち)をつくり、春の桜、秋の紅葉は美観で、地名の別儀〈美しい所〉の名にふさわしい。左岸の林中に竪穴(たてあな)住居あと(コロボックルの住家とも伝える)が50余り散在する。旭川や札幌の人々の行楽地で、怪石は庭石に利用される。なお同義の地名は小樽、日高支庁三石ものある。」  世界大百科事典 平凡社より 


1982年度 「筑波通信№1 十人十色」 1982年4月

2019-05-07 08:36:05 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №1」1982年4月 A4版10頁   

     「筑波通信 №1」 1982年4月

      十人十色・・・・人それぞれ、それぞれの人

 降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も生気を帯び本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりもかすんでいる。もう少し日ざしが強まれば陽炎の季節だ。山々の葉の落ちきった木々も、いつの聞にか、冷たい灰色から暖か味を増した灰色に変っている。しかし、ふと目を遠くにかすむ少しばかり高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪だったらしく、新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。

 こういうころ、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。ここ二年ほど、ある仕事のため、関東平野を東西に、もう数えきれないほど往復してきた。平野のそれぞれの季節の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見れるようになってきたように思えている。全く同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描きだしてくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。いま私は、後方:東の方に広くかすんだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端、言わゆる関東山地のふもとの町や村の中を車で走っている。

 昔ながらのつくりの店や現代風なそれがごちゃごちゃとならぶ街なみをはずれ、道は多分地形なりについているのだろう、微妙に曲りくねりあるいは小さな起伏をくりかえし、気がついてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。

 そういうとき、突然目の前に、実に見ごとな屋なみ:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。このあたりの家々は大概切妻づくりの総二階、屋根は瓦ぶき。と言ってもてらてらとは光っておらず、どちらかと言えばにぶい色を放っている。切妻づくりの単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が、やけに白く目に映る。家々のまわりに遠く近く、屋なみの背景をなすあの温か味を帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、あれは多分いまが盛りの梅の花だ。

  こういう見ごとな屋なみの光景は、別の季節にも、もう何度となく見てきているのだけれども、木々が葉をつけているときは、屋なみもまた木々の緑に埋もれてしまい、こうはくっきりと見えないのである。もちろん四季折り折りの光景もそれぞれがそれなりの風情をもってはいるのだが、例えば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもきらいではないけれど、ちょうどいまごろの、冬の静けさからさめ、これから先のにぎわいを予感させるような風光が、私は好きなのだ。

  

 おそらく、こういう屋なみを初めて見る人には、家々がどれもこれも同じ家のように見えるはずである。先にも触れたように、この辺の家は四寸か四寸五分勾配の総二階切妻づくり、大体東西に長い長方形の平面で棟も東西に走る。庇の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手には:つまり南面ということになるのだが:出し桁づくりと通称する手法による出窓様のつきだしが延々と全面にわたってついている。先ずどの家も同じだと言ってまちがいではない。屋根面も従ってかなり大きい長方形となる。そういった家々が、南へ向いたゆるい斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえてならんでいるので、山はだは同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったようにおおわれてしまうことになる。自然、同じ家が同じ向きにひしめきながらならんでいるように見える。だから、ときおり混じる寄せ棟や入母屋づくりの家は、何か異様のものに見えてしまうほどだ。

 けれども、このどれもこれも同じように見える家々も、二度三度と見てくると、あるいはじっくりとながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気がつく。同じようでいながら、一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて、目の前に次々と表われる家々は、一軒一軒違っていて、我が筑波研究学園都市の公務員住宅のなかの道(一般的な例で言えば、各所の公団住宅団地内の道)で体験するような、ここもあそこもみな同じに見える、などということはまずない。ここでは、一見同じようでいて、十軒十様の顔をしているのである。

 この山あいの村に入りこむ前、町の街なみをはずれたあたりで、向いの山の斜面に、最近関発されたらしい住宅地を見かけた。そこにも、建設中のも含め、住宅がひしめいていた。と言っても、都会周辺のそれとは違い、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混みかたは、この辺の村々のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の屋なみと全く違う点なのだが、この住宅地の屋なみは、まさに見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様のさまを呈している。

 ここで私は、同じ十軒十様ということばを用いているのだが、明らかにその内容はそれぞれ異なっている。この二つの風景は、質が違うのだ。いったい、この違いは何なのか。何故なのか。単に、社会が変り、生活が変り、技術が変り・・・・そして人が変った、そのせいなのか。そして、だから、昔といまで違いがあってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何なのか何故なのかなどと問うこと自体無意味なことなのか。私はそうは思わない。むしろ、この違い、この違いを生じさせているなにものか、そこに重要な問題があるはずなのだ。この違いは、一考に値するのだ。

 

 結論から先に言えば、このいまと昔の風景の違いは、その成りたちの違いであり、それは、唐突に聞こえるかもしれないが、「人それぞれ」ということ、つまり個人ということ、に対しての、いまと昔の理解のしかたの違いに拠るのだ、そのように私は思う。

 私はいままで度重ねて「人それぞれ」ということに対して、あらためて見直すべきだと書いてきた。なかには、何をいまさら、と奇異に感じた方もあったのではないかと思う。あの戦前、戦中の八紘一宇の時代ならいざしらず、この戦後の民主主義の時代では、そんなことは言うまでもないではないか。個人は個人、人はそれぞれ、それはあたりまえであって、いまさらことあらためて言うこともない、と。

 しかし、人それぞれということは、そんなに単純なことなのだろうか。人それぞれということ、それはいったいどういうことなのか、考えなおしてみる必要もないほど、それは分りきったことなのだろうか。

 

 いったいいま、私たちの極く一般的な設計や家づくりの場面では、この人それぞれということに対して、どのような態度がとられているか。

 あたりまえだと思われているのは、個人が建てる言わゆる個人住宅はその個人個人に応じてそれぞれなりに建てられる、しかし、現代の都市化社会の必然として生じた大量供給の住宅づくりの場面では、個人個人に対応するというわけにはゆかなくなる、つまり、対象の個人を特定するわけにゆかず、言わば不特定の多数を相手にすることになる、だから一人一人に対してそれぞれの住宅を用意することは現実間題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決まっていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決め、それをその多数に対応させざるを得なくなる、ざっとこういう考えかただと言ってよいだろう。要するに、その根底には、人はそれぞれそれぞれがまるで違うのだから、本来、その家も一軒一軒人それぞれに応じて全く違う形をとらなければならない。あるいは別々の形をとって然るべきなのだ、とする考えがあるのだ。そうであるから、個人が特定できない大量供給の住宅や、あるいはその利用者・使用者を特定の個人に限定することのできない言わゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用のさまをどう一つに括りこむかが大問題である、と考えられるようになる。

 実際ここ三・四十年、この不特定多数の人々:使用者・利用者のニーズをどうとらえるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するか、これこそが個人の建てる住宅のようにはその対象が限定できない言わゆる公共住宅、公共建築の設計の場面で(そして全く同様に大量生産品言わゆる工業製品の設計の場面で)設計者・デザイナーそして関係の研究者たちの頭を占領していた問題だったのだ。

 そしてこの間、この考えかたに対し、さしたる疑問をだれも抱かなかったと言っても、決して言いすぎではないだろう。使用者・利用者あるいは注文者としての普通の人たちもまた、こういう考えかたにいささかも疑いをもたず、それ故、個人で住宅を建てることができる場合には、せいいっぱいその個性:それぞれの違いという意味での個性:を具体化するものだ、そう思ってきたと言って、これもそれほどまちがっていない。これは、いま新聞その他ではなやかに宣伝されている〇〇ハウス、〇〇の家‥‥などの、その買い手に対するセールスポイントを見れば、そこに明らかだろう。これらは個人で家を建てるその個人を対象としているわけで、その底に流れているのは、いかに人それぞれであることを発揮せしめるか、言い換えれば、いかに他人との違いを(そうすることが人それぞれを示す近道であるとするが故に)形あらしめるか、という考えに他ならない。

 まるでそれは、人それぞれということは、人それぞれがその見えがかりに表われる違いを競いあうことにより表出するものなのだ、とでも言うかのようだ。(実際にいま、大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、その買い手である個人の、人と違うという意味での人それぞれ感を個々人にいかに抱かせるかにあるのだそうである。となりの〇〇が小さく見える!とか、これには〇〇がついてます、とかいう宣伝は、まさにこのことを示していると見てよいだろう。)

 大ざっぱに言って、これがいま普通にものづくりの場面で考えられている人それぞれだとみてよいと私は思う。

 

 そして、端的に言って、こういういまの普通のやりかた、すなわち、人はそれぞれまるで違うのだから、それに対応するものもまた本来それぞれ全く違って当然で、しかし対応相手が特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つにしぼりこむという考えかた、その結果が現代の街並み・屋なみをつくりだしたのである。一方で全く画一的で同一の文字どおり寸分違わぬ建物が建ちならぶかと思えば、その一方では全く逆に見るからに十軒十様の建物が建ちならぶ、こういう全く対極の風景が次々にこの同じ考えのはてに生みだされ、そしてこの二つの分極した風景のはざまに、まさに所在なさげに、昔ながらの村々の風景が残っている、これがいま私たちの目のあたりにする街なみ・屋なみの全景に他ならない。

 それでは、このはざまにはさまれて、もはやその存在さえも危うくなりつつあるあの昔ながらの村々の風景:よく見ればそれぞれの顔を持ってはいるが、一見する限り同じように見える風景:これはどう解釈したらよいのだろうか。それを成りたたしめた時代、人それぞれがそれぞれであるという考えがなかったからなのか。封建時代・制度のもと、人々はその個性の表出を制限されていたからか。しかしいずれにしろ、いまあたりまえの考えかたでは、その解釈はできないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、現にそうしつつある。価値を認めるとすれば、文化財として、そして観光資源としてのみだ(いま、文化財=観光資源となっているのはまことにいまをよく象徴する興味ある現象だと私は思う)。

 

 十人十色ということばがある。辞書によれば、人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと、とある。人はそれぞれだということである。しかし、それは単純な意味でさまざまだということなのだろうか。

 そこで、私たちがこの十人十色という言いかたをする場面をいろいろと考えてみると、それは決して単にさまざまだとかいろいろあるだとかいう場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われるということに気づく。さまざまな国のさまざまな人が集まっているからといって、あるいはスキー場でいろとりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを言うのに十人十色だとはまず言わないと思う。このことばが私たちの口をついてでるのは、ことあらためて人それぞれということを、私たちが意識させられたときなのだ。

 つまり、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、まずなにごともなく平然とすごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いに互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこのことばが使われるようなのだ。例えば、ある目的のための具体的な行動の方針を決めようとするような会合で、目的自体はなにごともなく了解されているのに、具体的なやりかたについていろいろな案がだされ、それぞれ一理あって決め手を欠き、どうにも一つに決めあぐね、まとまる見通しもたたないままお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えをもったもの同志、あらためて考えの多様さに気がつき、先を思い、なかば嘆くようにぼやく、そんなとき「十人十色だからなあ」などという具合にこのことばはとびだすのだ。辞書の説明の言う「思う所」の違いである。

 あるいはまた、これは辞書に言う「好む所」の違いにあたるのだろうが、ある場面で、そういう場合めったに見かけないような格好の服をきた人が現われ、それが意外とその人にも場面にも合ってさまになっていたりして、そんなときにも、これもなかば感嘆の気もちをこめて、このことばを口にする。つまり、このことばには、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスがこめられていると言えるだろう。

 ここで注目しなければならないのは、この十人十色ということばが意味する人それぞれのそれぞれの人というのは、決してその人それぞれが互いに無関係なのではなく、むしろ全く逆で、互いに関係しあう「お互い」の一員である、という点である。すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことは普段意識しておらず)、その上で、人それぞれのふるまいかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、そういうことをこの十人十色という成句は言っているということだ。

 こうしてみてくると、私たちはそれほど深く考えもせずにあっさりと「人それぞれだ」と思っているけれども、人それぞれである、ということばの意味には、そのそれぞれの解釈のしかたにより、明らかに二様あり得るのだということが分ってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集まっているが故のそれぞれ:多様という意味と、同種のものが集まった上でのそれぞれ:多様という意味、この二様である。簡単に言えば、根っから違うのか、それとも根は同じであるか、この二様である。そして、十人十色で意味するものは、先に見てきたとおり、明らかにこの後者の意味に他ならない。

 そして、あらためて考え直してみるまでもなく、いまの私たちにとってはなかばあたりまえになっている言わゆる現代的な考えかたでは、人それぞれということ、あるいは個人ということについて、明らかにこの前者の意味、すなわち、多種でありそれ故の多様であるという意味で考えられているのである。人は互いに、もう根っから違うものなのだ、これが当然のごとくに前提となっている。従って、人の集団とは、この根っから違う個人の群れであり、だから互いに無関係であり、互いに共通の場面というものは、そもそも存在しない、それぞれが独自の場面をもっている、そういうことになるはずだ。ただ、現代的な考えかたのなかみがこういうものであるということについて、そのなかに埋もれこんでしまっている私たちは、少しも気づいていないのである。

 

 私たちは、よく対話あるいはコミュニケーションが不足しているとか、だからそれを回復しなければならない、ということを言ったり聞いたりする。しかしいったい、互いに無関係な間がらの人と人の間のコミュニケーションというのはどうしたら可能と考えるのか。コミュニケーションを回復しなければならないということは、言うまでもなくそれが存在していないからこそ言われるのであって、そうであるならば、ただ単に回復させようと説いたり唱えたりさえすれば済むわけがなく、いったい何故それが存在しないのか、しなくなったのか、それをこそ先ず問われて然るべきだろう。そうすれば直ちに、互いに無関係な人の集まりなのだという前提を私たちが固持している限り、コミュニケーション:対話というものは、そもそも存在し得ないのだということに、私たちは気づくはずである。それは、ある局面を共有できるという前提があってはじめて成りたつものなのだからである。

 つまり、現代的な人それぞれ観を持つ限り、対話は存在しなくてあたりまえなのであり、コミュニケーション不足を嘆くこと自体が矛盾したはなしなのだ。であるにも拘らず、私たちはその不足を嘆き、回復を望み、そしてその必要を説く。

 ならば、私たちは、その前提を問いなおさなければなるまい。

  いったい、私たちにとって、「人それぞれ」ということの正当な意味は何なのか。


 和辻哲郎がその著書「風土」の冒頭で、私たち(日本人)がよく交わす時候のあいさつについて触れ、次のように書いている。

 ‥‥寒さを体験するのは我々であって単に我れのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い現わす言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。‥‥‥(太字は原文)

  人それぞれとは、言い換えれば個々のということだ。と他人の関係について述べたこの文章ほど、人それぞれということについての、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないと私は思う。人それぞれというのは、本当はこういうことなのだ。先に、十人十色ということばの使いかたを検討したときに見えてきたそのことばの意味、すなわち互いにある共通の基盤を認めあった上で、それに対する個々のふるまいかた:身の処しかた、つまり「思う所」「好む所」はそれぞれに違うのだということ、それこそが「人それぞれ」ということなのだ。そしていま、私たちは、そもそも人と人との関係はこうであったということ、いや人であるということはこういうことなのだということ、それをすっかり見失い、忘れてしまっているのではなかろうか。

 考えてみれば、もしこうではなく、私たちが何の共通の基盤もない、持たない、持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間にはもはや、ことば:言語など存在しないはずであるし、そもそも存在しなかったはずだろう。先号でも書いたように、私たちが〈冬〉ということばを持っているのは、私たちそれぞれがそれぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ違うイメージを抱きながらも、「冬」という概念を共有し得ているからなのだ。だからこそ、互いに冬を語ることができる。

 そして、このことを更に理解しようとするならば、「方言」というものの存在、あるいは「地名」のつけかた、などを思い浮かべていただければよいだろう。まさにそれは、ある土地に住む人たちの共通基盤の存在をもの語るものだからである。

 

 このように考えなおしてみると、あの昔ながらの村々の風景の成りたちが、よく理解できる。

 その土地に住む人たちは、その土地に対して共通の認識を持っている、ひらたく言えば、同じものを見ているし感じているのである。そして、その上で彼らは生活をしている。その土地との係わりかた、彼らにとってのその土地の意味、そういう所で生活を営むことの意味、それは共通なのだ。互いに違う点は、その共通に認識していることの、個々人の言わば運用のしかたの違い、あるいは、そのとりこみかたの違い、つまりその共通の基盤に対しての思う所・好む所の違いにすぎないのである。

 家の間取り、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そして敷地の選定についても、長い間のその土地での体験の蓄積のなかで、その土地で生活してゆく上での適切なやりかた:方針(それは思想と言ってもよく、必らずしも目に見える形をなしているわけでないから、一見の客には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人のそれぞれの家でのその方針の具体化の場面においてなのだ。だからこそ、同じようなものはあっても同一のものはなく、逆に同じような点が何一つないなどというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、方針を崩すわけではなく、あくまでも同じ方針のもと、個々それぞれの場合に応じて、言わば臨機応変にその具体化にあたっている、と言ってよい。

 そしていまは、ある土地に家を建てる人たちは、その土地に対しての共通の認識を持たず、また持とうともしないのだ。それぞれは、それぞれの地面としてのそれぞれの土地:敷地に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る、認識を持つだけなのだ。

 

 「突然目の前に、実に見ごとな屋なみ、屋根の重なりあいがつくりだす景色が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。」 私はこの号の初めで、こう書いた。私のこの感想は何か。私はそこに何を見たのか。私はそこに、単に美しい絵を見たのではない。言ってみれば、そこに私は、そこに住む人たちの共通基盤を見たのである。より正確に言えば、その土地に私が住むとしたら、私がその基盤とするであろう、同じものをそこに見たのである。私がその土地を見て得たものが、そこに住む人たちの得ているものと変らない、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり私がやるだろうと思われることと、彼らがやっていることが一致する、すなわち、分った(という気になれた)のである。だから素直にその世界になじんでゆけ、それがあの感想となるわけなのだ。

 しかし、現代の住宅地の風景には、残念ながら私は、私と共通になる基盤はもとより、そこに建っているそれぞれの家の間の共通基盤をも、全く見ることができない。けれどもそれは、私に見る力がないからなのではない。それらがもともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、互いに分るということが拒否されているからなのだ。人それぞれとは、根っから違うこと、そう思うことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界にはなじめない。

 大抵の場合。こういう風景は雑然としてめちゃくちゃな印象を与え、それを前にすると必らずと言ってよいほど、「環境との調和」ということが説かれるのであるが、私には、このことばをそのまま素直に受けいれる気には少しもなれない。なぜなら、調和があるとか、調和がないとかいうことは、単純にその見えがかり:表に現れた形の上だけでの話であるはずがなく、従って当然、よく言われる修景などという表面的な処理だけでことが済むようなことであるはずもなく、そもそもその因は、先に書いたように、その表面にあるのではなく、その成りたちの根底にひそんでいるのだからだ。

 

 おそらく、設計という作業において基本的になされなければならないことは、ある場面・局面における(人々あるいは私たちの)この共通の認識となるもの共通の基盤を探すことなのだ。それは先ず、いかなる局面におかれているかを見ることであり、そこにおける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面におかれている十人だとして見ることからはじまるだろう(昔はこれがあたりまえだったから、意識せずしてそうしていた。いま私たちは、意識してやらねばならない)。従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことが、この作業の主たるなかみとなるのである。(そして、ふと考えてみれば、この共通の認識となるものこそ、私たちがつくるものの言わゆる機能というものなのではなかろうか。)それから先の個々の違いは、それは全く臨機応変的に言うならば応用問題を解くことにより生ずることでしかない。そこにおいて、好む所・思う所の違いがでてくる、これが正当なことなのだ。

  しかし、ここで誤解されては困るのだが、この共通の認識、共通の基盤というのは、あの戦前・戦中の八紘一宇的に、私たちの外から一方的一元的に与えられるものではない。決してそうではなく、また決してそうあってはならず、そして決してそうなるものではない。それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、前号の言いかたで言えば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのだ。私たちが私たちの感性に自信をもって依拠することによって生まれるのだ。

 戦後、あの八紘一宇の崩解を目ざして、根っから違うという意味での人それぞれが強調されたのも、それは歴史のゆきがかり上、むしろ当然であっただろう。しかし、この対極へ走ったために生じた互いの共通基盤の無視は、それがためにまたいつ八紘一宇的共同意識の効用が説かれるきっかけとなるか、しれたものでない。反動がまた反動をよぶのだ。対極へ走ったものは、また容易に対極へ走るだろう。既にその徴候が各面で現れている。

 だからこそ、私たちは「私」たちであり「私たち」でなければならないと私は思うのである。それ以外に、どうしたら人がそれぞれであり得ようか。人間的であるということがあり得ようか。



あとがき ・・・・通信続行のことばに代えて

一年が過ぎ去るのは速い。私がこういうことをやってみようと心に決めたのが、ちょうど昨年の今日であった。その一週間ほどまえであったか、卒業する学生が私を訪ね言いおいていったことばが、その数日間というものずっと私の頭にこびりついていた。なにかしなければだめです、そう言われたって、いったい何ができるだろう。そしてその日、その学生が再び、筑波を離れるあいさつのため寄ってくれた。そうか、今後は何か疑問が生じても、こういう貝合に話しあうなどということができなくなるのだな、そう思ったとき、実はこの通信という方法が頭にわいてきたのである。そして、深くも考えずに、あとはご承知のとおり、無我夢中のぶっつけで一年が飛び去った。

それにしても、私の拙い文章、勝手な言い分を我慢してお読みいただいたことに対しては、お礼の言いようもない。

それに甘えてことしも、少しはましな文章、内容をと心がけつつ、続行しようと思う。昨年同様、ご批判いただければ幸いである。

 ・・・・学生時代は、物にはその物がそうあらねばならない形(機能?)というものがあり、そしてそれにより美しい形:スタイリングを与えると考えていました。・・・・(しかし)人間が自分の趣味・好みを超えて美しいと思うものというものはなく、その物がよいとかいう意識は、すべて個々の人間の好みによっているのではないでしょうか。・・・・

〇だとしたら、デザインとはどういうことか。これは、いまある家電メーカーのデザイン部に勤めているインダストリアルデザインを専攻した卒業生からの便りの一節である。

今号のテーマは、この便りを読んでいるうちに思いついたのである。しかし問題は多岐(の局面)にわたり、一回で済みそうもなく、今回はそのうちのほんの一部についてしか考えてみることができなかった。それが「人それぞれ」ということなのである。けれどもそれは、根本的な問題なのではないかと私は思っている。

昨年度最終号「冬の情景」に対しては、かなりの人から〈それぞれの冬〉が寄せられた。冒頭の冬の情景の描写が、それぞれの方の内にあった冬の情景を呼び起こしたもののようである。あるいは、日常の忙しさに紛れて見失っていたことを思い起こさせたもののようである。それは全くこの冬の情景の便りを寄せてくれた人の描写:感性のしからしむるところであって、残念ながら私の文章のせいではない。私はただ、それを使わせてもらっただけだ。先号のテーマは、実は、この便りに触発されたのである。

 それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

    1982年3月25日                   下山 眞司