建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

回帰: re‐habilitation :の記・・・・療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて-4

2013-07-21 11:00:00 | 回帰の記
先回の記事を書いたのは、世の中が「猛暑」と大騒ぎしていたときでした。
ところが、その後、当地域は北東風が流れこみ、まるで初秋のような気候が続いています。今朝の気温は18度でした。
例年ならとっくに盛りを迎える合歓の木(ネムノキ)の花も、やっと咲き始めたところで、しかも、このところの雨不足のせいか、きれいに咲いていません。


昨日の朝の合歓の木。まだ、ほとんどが蕾。
例年なら、このように咲いている頃です。


発症から一ヶ月経った 2月19日、「回復期病院」へ転院しました。
まだ車椅子でしたから、介護タクシーの厄介になりました。街ではよく見掛けていましたが、自分が乗るなどとは思ってもいませんでした。
転院先の病院では、「急性期病院」からの患者だからでしょう、ナースステーションの直ぐ前の病室に私のベッドが用意されていました。
トイレは、車椅子用のトイレを使うことになりましたが、自走できないので、その都度、看護師さんの援けを借らざるを得ませんでした。これは大変心苦しいものがありました。

翌日からリハビリが始まりました。
「回復期病院」のリハビリは、「理学療法:PT」「作業療法:OT」「言語療法:ST」各40分で、それぞれ主に担当する療法士さんが決まっています。
時間帯は日により異なり、午前は9時から11時半ごろまで、午後は1時半から5時半ごろまでのどこかに設定されます(前日の夕方、翌日の時間割が知らされます)。
その時間になると、担当の療法士さんが、わざわざ1階のリハビリ室から3階の病室まで迎えに来られます。転院当初は、リハビリ室まで、療法士さんに車椅子で搬送してもらいました。これも大変心苦しいものでした。
   リハビリ室担当の療法士さんは、「理学療法士」「作業療法士」「言語療法士」合せて30人以上居られたようです。

「理学療法:PT」の初回は、リハビリ室に着くと、「急性期病院」と同じ「四点杖」で、片道20mほどを往復歩行しました。
療法士さんは、その歩行の様子から、私の「問題点」を判定されるようです。
PTで、最初に指摘された「問題点」は「猫背」つまり、姿勢の悪さと、左脚への体重移動のぎこちなさ(左の膝が「挫屈」を起こすことが多い)、右手右脚への過剰に頼り過ぎ(転院時にあった右膝痛は、その結果)、そしてそれに起因すると思われる右半身の「硬さ」などでした。
姿勢の悪さの他は、本人ははっきり気がついてはいないのですが、療法士さんには、たちどころに分るようです。

「作業療法:OT」の初回では、左手の動作の様態が観察され、私の「問題点」が判定されました。
そのとき、私の上肢は、左手は「万歳」の恰好を維持できず(後にそのとき撮った写真を見せていただきましたが、我ながら情けない姿でした!)、手の掌は、握ることも完全に開くこともできず(つまりグーパーができず)、指折り数えることなどまったくできませんでした。各指を独立に動かすことができないのです。すでに触れた「左手の置き忘れ」や車椅子の「左ブレーキの掛け忘れ」なども伝えられていました。

このPT、OTの初回の「様態観察」と「急性期病院」からの伝達事項から、私の「実情」は、通常の生活を行なえるレベルを100として、35程度であると判定されました。要は、普通の人の35%の能力しかない、ということでしょう。

PTは、毎回、「験しの歩行」をしたあと(最初は「四点杖」でしたが、すぐに「T字杖」になりました)、マットの上で横になり、先ず、右半身の「硬さをほぐす」ことと「体の左右のアンバランスの是正」、そして「体幹の矯正・補強」のための諸種の「訓練」を行ないました。「意識せずに入ってしまっている力(結構、これが多いようです)」を「抜く」方策もあったようです。
これらは、右手右脚に頼りすぎた結果生じた「現象」だったと思われ、先に触れたように、転院時にあった右膝の痛みも、その一つの現れと考えられます。
ただ、この各種の「施療」を具体的かつ適確に記すことは、私には不可能です(メカニズムが分らないのです)。
しかし、施療後、体が「軽い感じ」になり、体の「動き」も楽になったのは確かです。

一つだけ分りやすい例を挙げると、クッション材でつくった直径15cmほど、長さ70cmほどの円柱の上に、背骨を載せて上向きに寝転ぶ「訓練」があります。これは、私自身、その「効果」をよく実感できた訓練でした。
脚は立て膝の恰好で手は体の上に置きます。円柱ですから、この姿勢:円柱の上に背骨が載る:を、立て膝をした脚だけを頼りに維持するのは難しく、上半身自体でバランスをとらなければなりません。
何度かやっているうちに、上半身の左右のバランスを適切に按配することができるようになります。同時に、その時、背筋も伸びていることも実感できる。これが、載っていて「結構気持ちがいい」のです!
この「適切な按配」は、体が「感覚」で「読み取っている」のだと考えられます(かつて、自転車に乗れるようになったとき、おそらく同じような「読み取り」があったものと思います)。この円柱は「ストレッチポール」と呼んでいたと思います。

数分以上この姿勢を維持したあと、円柱から降りてみると、体の硬さはほぐれ、軽く、姿勢もよくなっているように思えました。これは、立ってみると一層よく分りました。当然歩き方にも反映し、歩きが軽快になります。
   同様の円柱は、OTで、テーブル上に体の前に横一文字に置き、それを両手で前後に転がす訓練で使いました。
   円柱の転がりを両手で制御するわけです。「急性期病院」での「雑巾がけ」と同じような「効果」があるようです。
   ただこのとき、「右手のおせっかい」が出てしまう!。左手が転がす動きをとる前に右手が動いてしまうのです。

PTでは、スムーズな体重移動、つまりスムーズな歩行の基礎訓練として、平行棒での訓練がありました。平行棒の間に立ち、体を(腰を)左右に動かし、平行棒に当たるか当たらないかという位置で止める訓練です。右側は簡単ですが左側はなかなか望む位置で止められないのです。
療法士さんは、その様子から、どこに問題があるかを見抜くようで、それが次の訓練のメニューとなるようです。
メニューの最大の眼目は、「体幹の補強」:胸部、腹部、背部、腰部、大腿部・・の筋力の増強訓練だったと思います。
左大腿部の萎えた様子は自分でも目に見えて分りましたが他は分りません。筋肉には外から目に見えるものと、内部に隠れているもの(インナーと呼んでいるようでした。これに対して前者はアウターらしい)とがあるそうで、その内部の筋力も強化が必要で、そのための訓練もあったようです。メカニズムはよく分りませんが、こういった内外の筋が連携して作動しているようです。
   人の体の構造、機構の「凄さ」には本当に驚きます。
具体的な施療はいろいろとありましたが、これも適確に記述することも私にはできません。言えるのは、訓練後、疲れておなかが空くこと!

転院ほぼ一週間、当初の右膝痛は解消していましたが、今度は右臀部に痛みが生じました。右脚の過剰な使用の結果の筋肉痛らしい。しかしこれも、ウソのように2日で消えました。徐々に、右脚への過度な負担が減って来た、体の硬さが消えてきたからのようです。

そして転院から8日ぐらい経って(記録では2月27日)、杖なしでの歩行を試みました。記録によると、15mほど歩いたようです。
それ以後、体幹補強訓練、体重移動訓練とあわせ、毎回、「杖なし歩行」の訓練を行ないました。リハビリ室内を一周するのですが、おそらく一周80mはあったのではないかと思います。
「杖なし歩行」は、出だしは好調に歩き出すのですが、右あるいは左へ方向を変えるとき(特に右へ曲るとき)に、体がふらつき「左脚を摺る」場面が生じます。
また、ある程度歩くと「左脚を摺る」場面が多発します。左脚への体重移動の制御がうまくゆかなくなるのです。疲れてくるからのようです。もちろん、疲れていない段階でも、ときおりそうなります。

3月に入りすぐ、「見守り付き」で「病棟内のT字杖歩行」が認められました。
車椅子からの解放です!
ただし、トイレに行くときもその旨伝え、「監視」がつきます。万一の事態に備えるためです。

リハビリは、それまでのメニューが、更に充実・強化されたようです。
リハビリ室での「杖なし歩行」も距離が伸びました。記録では、「3月6日杖なし歩行60m」とあるそうです。
その後、ほぼ毎日、室内を1周、あるいは2周しました。
「歩けるというのは、こんなにいいものなんだ」と、あらためて思ったものでした。

その数日後、歩行の訓練にあわせ、「T字杖での階段昇降の練習」を行ないました。
最初は、目指す段へ杖を置き、まず右脚をその段に乗せます。次いで、おもむろに左脚を載せる。これを繰り返して登ります。
降りるときは、左足を先に目指す段に置き、次いで右脚を置く。

慣れてくると、杖を使いながら、段に交互に脚を載せる普通の登り方、降り方の練習になります。

この杖を使う昇降に際し、以前に触れたような、登るときの「蹴上げ」面への爪先の擦り、降りるときの踵の擦りが起きました。療法士さんが背後で介護の構えをしていてくださるのですが、怖いものでした。
後に、杖なしで手摺につかまっての昇降訓練もしました。爪先・踵の擦りは同様に起きました。
いずれの場合でも、降りるときの方が怖さがあります。

更に3月13日になると、昼間の「病棟内のT字杖自立歩行」、つまり「見守りなし」が認められ、その5日後、発症から2ヶ月目の18日からは、夜間の「病棟内のT字杖自立歩行」も認められました。
トイレに行くのも連絡不要になったのです。とても気が楽になったことを覚えています。
また、リハビリの終わった後、病室まで、EVを使わずに見守り付きでT字杖を使い階段で帰る練習も何度か行ないました。

ほぼ同じ頃から、「T字杖での屋外歩行の練習」が始まりました。アスファルト舗装、コンクリート舗装、タイル敷き、砂利、芝生、土などいろいろな面を歩きました。一番歩き難かったのは、壊れかかったアスファルト舗装面。杖の石突が結構、路面のひび割れや穴に落ちるのです。砂利や土、芝生の方が楽でした。

この屋外歩行では、スロープでよく膝が崩れたり脚を摺りました。
僅かな勾配ではあっても、斜面では、体勢の制御がうまくゆかないのです(斜面では、脚の裏も斜面と同じ勾配の面を動かなければならないわけですが、その制御が難しいのです)。
特に、平らなところからスロープに差し掛かったその始まりのあたりでよく起き、スロープに慣れてしまえば、比較的起きなかったように記憶しています。

つまり、スロープは、車椅子にとっては段差解消であることは確かですが、脚が自在でない人にとっては、スロープも段差なのです
前の記事で、段差をスロープに変えればバリアフリーになる、と考えるのは勘違いだと書きましたが、それはこの体験を通しての実感です。
   この病院の玄関先の、駐車場から歩道に上がる縁石に鉄板の斜路(長さは1mもない)が設けてありますが、
   この鉄板には、注意喚起のため、黄色のペンキで、ゼブラ模様が描かれていました。危ないのです。

「病棟内のT字杖自立歩行」が認められて直ぐに、「杖なし歩行」の訓練を始めました。そして、それを契機に、リハビリ室への往復を、自力で(見守りなしで)行なうことにしました(EVを使ってのT字杖自立歩行)。
 
歩行の形態は変っても、訓練のメニューはほぼ同じで、より高度になりました。
たとえば、直線上を、右脚左脚を交互に線上に載せて歩く練習(スムーズにはゆかず、かなりふらつきました)、同じことを横方向に行なう練習、この場合は、片方の脚を他の脚の前を通過させて線上に移す動作をともないますから、ふらつきが更に大きくなります。

「病棟内のT字杖自立歩行」が認められてからほぼ1週間後の3月26日からは、「病棟内の杖なし自立歩行」が認められました。
発症から約2ヶ月と1週間、「晴れて」普通に歩けるようになったのです!そして、数日後には、屋外の杖なし歩行の練習も始めました。
4月に入り、駅のホームでの電車に乗り降りを想定した訓練や、身をかがめて高さの低い所をくぐる訓練なども加わりました。生活をしてゆく上に起こるいろいろな場面を想定した訓練、基礎的な動作の応用・組立てと言えるかもしれません。
しかし、身をかがめるのは、筋力を鍛えないと容易ではありません(今でもふらつきます)。
   人間というのは、本当にいろんなことをやっているんだ、とあらためて感心したことを覚えています。

理学療法:PTでは、退院まで、体力づくり、基本的訓練と応用訓練を続けました。自分でも、時折り、リハビリ室から3階の病室まで、EVを使わず階段を使う「自主練習」をやっていました。
そのころ、私の病室は、病棟北端部の部屋に変りました(退院間近な人の場所だそうです)。同じ階の南端に食堂があるので、最も食堂から遠い病室です。その間約70m。食堂から遠い病室では病室での食事も可能なのですが、その往復も歩行訓練になると思い、お断りし、毎回(一日3回、都合約500mになります)往復しました。


路傍のヨイマチグサ(オオマツヨイグサ:通称月見草)の群落。午前中は咲いています。

次に「回復期病院」での手のリハビリ:「作業療法:OT」について、書くことにします。
脚の場合は、「歩行」という「分りやすい」「動作」が主役ですが、手の場合は、そのような「代表的な主役」がありません。先回、次のように記しました。   
・・・・
左手が自在に動かせないということは、思った以上に「不便」でした。
手先を目的とする位置にもってゆくことなどは、とてもできない。
たとえば、眼鏡の曇りをとりたくて、眼鏡ををはずすため、左側の「ツル」を掴もうとしても、手先はそこに届かず、頬をのあたりをさまよう。
健常なとき、手先は、右も左も、目で確認しなくても、目で確認できなくても、「思った」ところへもってゆくことができました
考えてみたら、これは大変な「習慣」です
おそらく、この「習慣」は、目で見て位置を知ったのではなく、手先で触ろうとする何度かの「試行」の結果、長年のうちに「体が覚えこんだ習慣」なのだと思います
人の「動作」には、こういうのがいっぱいありそうです
・・・・
そうなのです。(左)手の動作は、実に多様なのです。そして、欠かせない動作なのです。ところが、まったく気付いていなかった!!
そこで、左手が自在でないときの「作業」の「様態」を、思いつくまま、記してみます。

い)ボタン付きのシャツに着替える
先ず、右手の援けのもとで左腕を袖に通す。先に右腕を通してしまったら、後が続かない(つまり、左腕を通すのは至難のワザになる)。
   シャツを脱ぐときは、右腕が先。左腕を先にしてしまうと、右腕のときが、面倒になる・・・。
   ズボンを穿くのも自在でない左を先にした方が早い。

ろ)ボタンをかける
ボタンの裏側に右の親指をあて右の人差し指で表側を押さえ、そのまま左身頃の所定のボタン孔近くにもってゆく。孔の近くになったとき、人差し指を身頃の孔の方に移す。布越しに人差し指で孔をボタンに近づけ、その孔に親指でボタンを捻じ込む。これを繰り返す。結構時間がかかります。
   普通は、左身頃のボタンの孔のあたりを左手指先で持ち、右手指先が持つボタンの近くへ運んでいるはずです。
   私の左手は、この動作が出来なかった。
   だから、利き手のマヒだったら、大変です。私は右利きだったから右手だけでも出来たのです。

けれども、「ボタンの掛け違い」をすると「悲劇」です!
「悲劇」を避けるには、一番下のボタンから始めるのがいいようでした。右手だけで、一番上のボタンを探り当てるのは容易ではありませんが、一番下のボタンの位置なら目視できるのです。

は)歯を磨くために歯ブラシに歯磨きをつける
右手で持つ歯ブラシに歯磨きのチューブを押す。これも左手ではできない。押す力が出ないのです。かと言って、左手は歯ブラシを持てない。ゆえに、歯ブラシを台に横たえ、右手でチューブを押す羽目になる。

に)コップを持つ
取っ手付きのコップでも取っ手を持てない。取っ手がない場合は、コップをうまく握れない。つまり、左手ではコップが持てない。
それゆえ、すべての作業を右手でするため、作業が連続的に、スムーズには進まないのです。
ご飯茶碗を持つ、味噌汁の碗を持つのも「恐怖」でした。持てても、「ご飯やミソ汁の重心」にうまく対応できなかった・・・。特に、重心の移動しやすい「液体」は難しかった。

ほ)髭を剃る
普通は右手に剃刀を持ち、左手の指先で剃ったあとを確認しつつ剃る。しかしそれができず、剃っては剃刀を置き、右指で確認する・・・という手間の掛かる作業になります(やむなく途中から電動剃刀に変えました)。

へ)手で水を掬う。タオルを絞る
顔を洗おうとして、両手で水を掬うという動作、これも、左の手の掌を、碗型にすることができない、右手だけでは水量が少ない。ゆえにタオルを濡らして顔を拭うことになりますが、肝心の濡らしたタオルを絞ることができない!絞るという動作にも、左手が大きな役割を担っているのです。それゆえ、タオルを少しだけ濡らして拭うことになる・・・・。

と)眼鏡をはずす。再掲です。
左側の「ツル」を掴もうとしても、手先はそこに届かず、頬をのあたりをさまよう。
右手ではずし、左手に持ち替えようとする。親指と人差し指で「ツル」を挟むも、滑ってしまう。
親指の押す力のベクトルと、人差し指のそれとが、「ツル」の芯をはずれて、相手を回転させるような状態なり、「ツル」は極端な場合、手から落ちてしまう。
右手でやってみるとそうはならない。実に「微妙」。
これは、先回触れたコーン状カップの移動訓練と同じく、
この動作は一見指先の問題のように見えるが、そうではないのだ、という「事実」を示していたのです。

ち)爪を切る
右手に「爪切り」を持ち、左手の爪を切る。
このとき、左の指は、切りやすいように、「爪切り」に対して都合のよい位置に動いています。はじめは、そうしていることにまったく気付きませんでした。
左が自在に動かないので、この調整ができず、苦労しました。
左手で「爪切り」を使う段になると、眼鏡の「ツル」を掴むときと同じ現象が起きました。ベクトルの向きが「爪切り」に向わず、「爪切り」が手から離れてしまう、つまり落ちてしまうのです。
   これは、「洗濯挟み」を扱うときも同じでした。
   しかし、後に、「洗濯挟み」は、この「加える力のベクトルの向きの適正化の訓練の道具」として有効でした。

り)PETボトルの蓋を開け締めする
普通は左手でボトルを握り、右手で蓋を開けますが、左手の押さえが効かないと、難儀します。
・・・・・

結局、「作業療法:OT」の「リハビリ訓練」とは、私なりの「理解」で記せば、
基本は「理学療法:PT」と同じですが、いろいろな「具体的な作業」を通じて、たとえば、指先の動きは、「肩(の関節)」~「肩から肘までの腕」~「肘(の関節)」~「肘から手首までの腕」~「手首(の関節)」~「手首から各指までの掌」~「各指(の各関節)」~「指先」、これがスムーズに連携・連動して初めて可能になるという事実を体で実感・認識すること、
つまり、いかなる「動作」にも、それを行なうための「適切な『体勢・姿勢』」があるということを、あらためて体に覚えこませる訓練であると言えるかもしれません。

握力や指先に力を加えることは、必要ではあっても、それだけではダメだということです。
たとえば、眼鏡の「ツル」を持てるようになったとき、あるいは、「爪切り」をうまく操作できるようになったとき、指先の力はきわめて小さなものでよいことを知るのです

OTの施療も、PTと同じく、まず左手を中心に上体・上肢の「硬さ」をほぐすことから始まりました。
先に触れた机の上で円柱を両手で転がすのもその一つ、大きなボールを転がすこともありました。
これらはいずれも、動いてしまう物体に体が付いて行かざるを得ないことを利用した、いわば「他動的、受動的な方法」と言えばよいでしょう。

一方で、「自分自身が能動的に動かなければならない方法」もいくつかありました。

たとえば、直径30cmぐらいのボールを両手で頭より高く持ち上げたり、
高さ2mほどの細いパイプの幹に何本もの枝が45度に突き出ている樹木状、コート掛け状の「装置」で、この突き出た「枝」に、左手で、直径20cmぐらいの「輪」を掛ける練習。
「枝」は、高さも位置も多様に用意されている。高い位置に掛けるには、体を伸ばさなければならない。位置によって、体の向きも自分で調整しなければならない。
また、直径6cmぐらいの表面が網目状の材料でできた長さ2m程度のパイプを左手で握り、座っている場所から程遠い位置に立て、そのパイプを前後に倒す練習もありました。
そのとき、腕を、肘も含めて極力伸ばす。これも、自分で体を伸ばさなければならない。パイプを立てる位置を少し変えることで、体を伸ばす向きも変ってくる。

この練習で使うパイプが、普通の塩ビ管ではなく、表面がざらざらした網目状の材料の管である理由は、その手触りに拠るようです。
人によると、手の触覚もマヒする方が居られるようです。そこで、触感の異なる品々を用意し、その差を認識する訓練にも使うのだそうです。
   私の場合は、触感の違いについては認識できますが、
   少しばかり、温度に対する感覚に違和感があり、また、左手の指先では脈拍を感じることが出来ませんでした。

   ところで、前者のコート掛け型・樹木状の「装置」は、療法士さんが製作されたものなのです。
   材料は給水管に使う塩ビ管(通称20VP)。各種分岐部品を使って器用に組立てられています。
   近くののホームセンターで材料を買い求めて作ったのだそうです。
   そして、枝に掛ける「輪」は、ホースで輪をつくりビニルテープをぐるぐる巻きにしてつくったもの。
   いずれも制作者は女性とのこと。ともに、出来は非常に見事。

   また、後者の表面が網目状のパイプ。
   実はこれは、農地の土壌改良などで使われる「透水管」です。土の中の余分な水だけを抜くために使います。 
   
   その他にも、お手製の「用具」が数多く見られました。
   療法士さんたちは、日夜、よりよい施療の方法を考え続けていて、
   街を歩いていても、店先に並んでいる商品を見ては、これはあの訓練に使える・・などと思い付くようです。
   これは、建物づくりの「職人さん」たちが、常に、当面の「問題」を考え続け、
   また、仕事を上手にこなすために、いろいろと工夫をこらした「道具」を手づくりするのに似ています。

   私は、療法士さんたちの仕事ぶりに接して、この方たちは生粋の「職人さん」だ、と思ったものでした

   今回、「回帰の記」なる一文を書く契機になったのは、前にも触れましたが、
   療法士さんたちの、「専門」:自分の「仕事」:に対する「真摯な態度」を目の当たりにしたからなのです。
   しかも、この方たちは皆「謙虚」です。
   他の「専門家」にえてして見られる、「専門」をひけらかす、などということは微塵もない!

   副題に「敬意」の一語を入れたのも、この点に「感動」を覚えたからなのです。                               
さて、上半身の硬さ、特に肩、肘まわりはほぐれてきましたが、私の場合、硬さが消えなかったのが、手首から指先にかけてでした(現在もなお不全です)。
具体的に言うと、指の関節が痛み、完全な「グー」の形をつくれない、したがって、ものを握りづらい、掴みづらいのです。
そのために、いろいろな訓練が為されました。
先のコーン型のカップの練習もその一つですが、その他、たとえば、机の上の「お手玉」(療法士さんの手づくりです)1個ずつ左手で掴み、移動する、あるいは、鷲掴みにして出来るだけ多く掴む、それを別の場所に移動する・・・、ガラス玉を指先でつまんで別の場所に移す、金属の玉で同じことをする・・・などなど。

なかでも、一番「効果」があると思えたのは、容器に入っている、しかも容器にへばりついているプラスティック製の粘土(セラプラストと呼ぶようです)を、左手の指先を使って「掻き出す」作業。結構、力がいります。数分はかかります。
容器から出した粘土を、陶芸のように、両手でこねる。団子にする、指先だけでで紙のように薄くする・・・。

この練習をした後、しばらくの間は、指はかなり曲げられるようになります。つまり、一定程度「グー」ができる。
また、手首を柔軟にするために、3分の1ぐらい水の入ったPETボトルを握り、中の水を移動させる練習もありました。水の代りにガラス玉の入ったボトルでの練習もありました。いわば、「他動的」に手首を動かさざるを得ない状況にする練習です。
この場合も、練習後、手首の動きが柔らかくなります。
また、中にゴルフボールを入れたお碗を左手で持ち、それを動かして重心の移動に応じて手を動かす練習もありました。バランスを感じとる訓練と言えばよいでしょう。

問題は、こういう練習で「改善した状態」を、持続できないことでした。翌日には少し後戻りしているのです。3歩前進2歩後退・・・。

それでも、退院間際には、先に例に出した左手を使う「動作」のうち、ほとんどは7~8割は「復活」出来ていたように思います。
たとえば、眼鏡の「ツル」は、リハビリを開始して1週間後には自在に掴めるようになり、左手指先を思った場所に(目視できなくても)もってゆくことも出来るようになっていました。
もっとも、そういう状態になっていたゆえに退院が認められたのですが・・・。

ただ一つ、「復活」が遅れていたのが、に)コップを持つ動作。茶碗を持つのも相変わらず不安でした。

そのため、退院後も、週1回の外来・通院リハビリでOT:手のリハビリを継続しています。
しかし、3歩前進2歩後退の状態は今も同じです。
今は、覚悟を決めて、3歩前進2歩後退で良しとしよう、焦らずに気長に直してゆこう、と考えています。


ヨイマチグサの花。昼過ぎにはしぼんでしまいます。

言語療法:STは、PT、OTとは別の小部屋で行なわれました。
その内容は急性期病院と同様、発声、発音の確認(それに関係する部位についてのPTと言えるでしょう)、脳機能の様態を確認するための各種のテストなどでした。

その中で、私の印象に強く残っているのは、療法士さんが、私に積極的に「話をさせる」「喋る」機会を設けられたことでした。

療法士さんご自身がいろいろなことに多様な関心をお持ちの方で、たとえば、リハビリ室に今日活けた花について語ったり、最近行ってきた旅先の話題をだしたりして、いろいろと「話のきっかけ」をつくり、それについて、私に「話をさせる」「喋らせる」のです。一言で言えば、話を「させ上手」そして「聞き上手」なのです。

おそらく、「話をする」「喋る」ことで、言うならば「脳の活性化」、あるいは「脳が休眠・退化することを押し止めよう」という意図があったのではないか、と後になって気が付きました。
   実際、回復したように思えた方で、退院後しばらくして、脳の機能が衰え始める方が居られるのだそうです。
入院していると、「普通」の会話(仕事がらみの会話はもちろん、考えながら話すような会話)の機会が極端に減ります。脳が休眠化するのは目に見えています。
その意味で、STの時間は、今から考えると、貴重な時間でした
  PT、OTの療法士さんたちも、施療中、積極的に患者さんに話しかけています。
  それも、同じような療法士さんの「気遣い」「心遣い」なのかもしれません。


庭先のヤマユリ。野山で見る方がきれいに思えます。

退院し、回復期病院での3ヶ月を振り返ってみて思ったのは、
PTもOTもSTも、つまり、re-habilitation では、根本的に、本人の「感覚」「能動性」が重視されているのだ、ということでした。
「これでよし」という判断は、結局のところ、本人が本人の「感覚」で「納得するかどうか」にかかっている
、ということです。
これは、何でも「科学的物指し」で測るのがよしとされ、そうでないのは「非科学的」とされる当今、きわめて新鮮に感じられました。

そして、自らの「感覚」「五感」を研ぎ澄ますには、本人の「能動性」が不可欠なのだ、ということも、改めて認識させられました。
「能力」は、外から付加されるものではない、ということです。
ここでは、「生身の人間の存在」が、当然のこととして、認められていたのです!!



長くなりました、今回はここまでにします。
次回は、「回帰後」の今、これまで断片的に書いてきた「リハビリに於いて思ったこと」をまとめてみようかと考えています。

人びとは、暑さにどう対処してきたか・・・・日本家屋構造の特徴(再掲)

2013-07-12 09:00:03 | 「日本家屋構造」の紹介
暑中お見舞い申し上げます。

猛暑が続いています。
「回帰の記」の続き、現在書きつつありますが、暑さを避けつつ、ゆっくり書くことにいたしました。時間がかかりそうです。

その間の「つなぎ」として、昔の人が暑さに対してどのように対処してきたかについて触れた、かつての記事を再掲します。

ある気象予報士の方が、ここ数年の暑さは、そんなに珍しいことではなく、古代日本も、同じように暑く、大体100年ごとにこういう気象になっている、と語っていました。そういえば、地震は、古代日本でも、現在同様頻発していた・・・・。

家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪へ難き事なり。・・・」
これは、徒然草の有名な一節です。

実際、この風土に暮す人びとは、これを実践してきたのです。そしてそれが、「日本家屋の構造」に反映しているのです
その点について書いたのが以下に再掲する記事(「日本の建物づくりでは、『壁』は自由な存在だった-6」)です。
  註 このシリーズの第一回は、2010年6月4日に載せました。
    順番にお読みいただけると幸いです(下記でお読みいただけます)。
   1)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0e5f84e9e6a05960941c6bf7addf0784
   2)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ba65df2182d48e8c06cddb11d35cac23
   3)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/79463d3e28a18d29713ccade385bbec1
   4)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/53341d0e4ef1e1ead5a20475be1bd6e7
   5)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ff5c01cb975024f20a6c378226019f10
   6)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/69179419bccd3d1ef2663bee5dc88f1c
   7)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/643e57cf3fa000d41843c853830dc1d3
   8)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/af0e7b3f276b1782f4697e8dc2eea94a

  註 ここで、「構造」とは、下記の意です(「新明解国語辞典」に拠る)。
    機械や組織などの構成のしかた。
    [具体的には、全体を作っている部分部分の関係や、個々の部分の作られ方を指す]
    たとえば「分子の構造」「人体の構造」などが、その用例になるでしょう。
    「日本家屋構造」の「構造」もその意と考えてよいでしょう。


ムクゲの花が盛りを迎えました。8月まで咲き続けます。

日本の木造建築に於いて、中世の「再建・東大寺南大門」「浄土寺浄土堂」そして近世の大寺院などの「大規模建築」はもとより、中世の「古井家」や「龍吟庵・方丈」など数多くの「普通の大きさ」の建物群が、なぜ長きにわたり、倒壊せずに済んでいるのか、
頭を空にして、つまり、日ごろ頭に刻み込まれて《当たり前化》した《知識》を脇に置いて、考えてみたいと思います

   なぜ頭を空にする必要があるか?
   それは、今、たいていの人は、
   強い建物には、外からの力に耐える壁、耐力壁(ex:「すじかい」)がなければならない、
   という見かた、考え方を刻み付けられてしまっているからです。
   誰も疑わないし、疑おうともしない。そういうことを疑うのは非科学的だ、と言われるからです。
   何が非科学的なのか?
   耐力壁が必要という考え方は、科学的成果だ、ゆえに、それを認めないのは非科学的だ、というわけです。
   頭を空にする、ということは、根本から見直す、ということです。
   頭の「店卸し」は、常に必要、「店卸し」を常にすることこそ、 scientific なことだ、と私は考えています


ここでは、私たちの日常の建物に近い「古井家」や「龍吟庵・方丈」などについて特に考えます。


考えるに当たって最も重要なことは、
かつて、人びとにとって、日本という地域・環境で暮すかぎり、地位の上下を問わず、「開けっぴろげの空間、風通しのよいところで暮す」ことが、最高にして最大の「願望」であった、
ということを再認識することだと思います。「必要条件」であった、と言っても過言ではないでしょう


  註1 今は、「開けっぴろげ」のつくりは、地震に弱いから、
      いわば「先験的」に、「つくることができない」とされています。
      さらに言えば、
      「地震を目の前にして、そのような願望は、口にするべきではない」、
      との「考え」を採ることが「要求」されてもいます。
      万一、人命にかかわる大事に至ったらどうする気だ、との
      なかば「脅し」をともなった「要求」です。


  註2 今は、そのような「願望」はない、と思われる方も
      居られるかもしれません。
      そうであるならば、どうして夏になると
      電力使用量が極値に達するのでしょうか

     

すでに触れたことですが、「開けっぴろげの空間、風通しのよいところ」とは、現在の用語では「空調の効いた場所」と言えばよいでしょう。「空気調和: air-conditioning 」のためには、「開けっぴろげにして、風通しをよくすること」が第一だった。

しかし、「開けっぴろげの空間」は「住まいの基本原則」には抵触します。
「住まいの基本」とは、「自分たちが外界にさらされずに籠れる場所であること」です。
言うなれば「自分(たち)の城」。城郭が堀で囲い、塀で囲い、さらに壁で塗り篭める、それはすなわち「住まいの基本」の延長に過ぎません。

けれどもそれと「開けっぴろげにして、風通しをよくする」こととは相反する。
そこで、人びとは、徐々に、「住まい」を「建屋」の中だけに限定せず、拡張してゆく。
つまり、「屋敷」を「住まい」と見なし、その一画が建屋となるようなつくり。そうすれば、建屋は「願望」どおり、「開けっぴろげの空間」とすることができる。
上層階級では、早くからそういうつくりになっています。いわゆる「寝殿造」がそれです。下は寝殿造「東山三條殿」の俯瞰と「源氏物語絵巻」にでてくる縁先の図(「日本住宅史図集」より)




この日本という地震の多い地に住み着いて以来、人びとは、この「願望」の実現を、追い求めてきた、と言ってよいでしょう。
人びとは、幾たびも、それは多分数え切れないほどだと思いますが、折角つくった建屋を地震で壊されたに違いありません。

しかし人びとは、「願望」の実現を棄てることはしなかった。
当たり前です。
「暮す、住まう場所をつくる」ということは「ただ単に《地震で壊れない建屋がつくれればよい》のではない」からです。そんなのは簡単です。
「開けっぴろげの空間、風通しのよい建屋」で、なおかつ「地震で壊れない建屋」でなければならないのです。
すなわちそれが人びとの「願望」だったのです。
そしてそれを人びとは追求した。これも当然です。そうするのが、そういう地域に暮す以上、当たり前だからです


   それとも、いつも地震に備えるのが日常で、地震に怯えながら、風通しの悪い場所で暮す方が、
   当たり前だったのでしょうか?
   そんなことはあり得ません。
   人びとは、「愚か」ではありませんから、日常を気持ちよく過ごせる場所を、
   地震にも壊れないように工夫し続けたのです。

   人びとの思いは真っ当だったのです。

そして、そういった「願望」追及の試行錯誤の結果、おそらく中世の初め頃までには、一定の「方策」にまで思い至っていたのではないかと思われます。
その方策こそ、「木を組上げるだけで自立可能な架構法」「壁を自由な存在として扱う架構法」にほかなりません(そして、近世には、ほぼ完成の域に達します)


すでに12世紀末から13世紀初頭に、寺院建築といういわば特殊分野においてさえ、「浄土寺・浄土堂」や「再建・東大寺」などに、その策が具体的に現われます。
しかも、その現われ方は尋常ではない。どこにもスキが見当たらない「熟成した姿」で現われている。
このことは、一般の建物づくりにおいても、その頃までに、すでにその方策は知られていたことをも示していると言えるのではないでしょうか(残念ながら、それを示す遺構はありません)。突然、「熟成した姿」をもった技術が出現する、などということはあり得ないからです

   これまでの史学では、その「突然の出現の理由」を、自国内にではなく、他国に求めました。
   すなわち、それは中国から移入した技術であり、つくったのは彼の国の技術者だ、と。
   「大仏様」という呼称の前には、「天竺様」と呼ばれていたことにそれが示されています。
   そして、学術書の多くも、当然のごとく、そう書いています。

そして、15世紀以降には、目を見張るような事例が、住居建築スケールの建屋にも、数多く遺構として現われます。
すなわち「龍吟庵・方丈」であり、「古井家」「箱木家」など一般庶民の住居がその端緒と言えるでしょう。そこでは、もの見事に「壁」が「自由」に扱われていたことは、すでに観たとおりです。
遺構がある、ということは、その背後に、より多くの同様のつくりの建物が存在したことを示している、と私は思います。それらが、突発的に現れた、とは考えられないからです


「龍吟庵・方丈」の図面と外観を、要約して再掲します。



この建物では、「壁」は「室中」の北面の幅4間の板壁だけです。あとは外回りも間仕切もすべて開口部:建具が入っています。
これで建設以来、少なくとも、戦後の解体修理時点までの約550年間、健在だった。現在までだと、約600年。
どのような架構法であるかについては、下記ですでに触れました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ba65df2182d48e8c06cddb11d35cac23

この建物は、軸組部、つまり屋根が載る部分は、「礎石」の上に、縦材の「柱」と横材の「梁・桁」「貫」「足固め」(「足固め貫」も含む)を組立ててゆき、その上に「束立て」の「小屋」を載せるという、まったく普通の架構法でつくられています。柱は5寸弱角。6尺8寸が柱間の基準寸法です。つまり、1間が2m以上。

ここで、この建物で使われている「貫」は、厚さが現在「貫」と称している材:およそ14~15mm:の2倍以上はある、という事実に留意する必要があります。
   現在の建築法令が「貫」というときの「貫」は、100mm×15mm以上を指しています。
   つまり、厚さ15mmでも「貫」なのです。
   市場でも、14~15mm×90~100mm程度の厚の材を、ヌキと称して売っています。
   これは、1950年制定の「建築基準法」が、柱を100mm角以上と規定してからの話です。
   これを「愚行」として、桐敷真次郎氏が厳しく指摘しています(下記参照)。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/9c2d8fcfef42becbf55083d842d7ab8b

しかし、それでも、「龍吟庵・方丈」の「貫」は、柱の太さとの比率で見ると、大仏様の寺院建築のそれや、「古井家」「箱木家」のそれに比べ、材寸は決して厚くはありません。むしろ薄い。
一般にいわゆる「書院造」と呼ばれる建物も同様です。
どうしてか?
いわゆる上層階級では、一般に、「大仏様」のように、従来の上層の建物を代表する寺院建築の形体:見えがかりの姿を脱する「覚悟」ができず、「貫」を見せたがらない、見えないように壁内に塗り篭めてしまうことを考えたからなのです。
それゆえ、すでに構造的な意味はなくなった「長押」を化粧で取付け(「付長押」と呼ぶ)、その裏側に「貫」を潜めるようにした。
効能については認めざるを得ないけれど、外から見えてしまっては、「しきたり」に反する、あるいは、隠せば「見えがかりは化粧でどうにでもなる」、というわけです。「二重天井」もそうだったではないか・・・。

「龍吟庵・方丈」が、今と唯一違うのは、「桔木(はねぎ)」を用いる軒のつくりかたです。
「桔木」を用いる軒のつくりかたは、寺院建築でそれまでの「斗栱」に代る工法で、早くは8世紀末~9世紀初頭から(例:「秋篠寺」)現れ、9~10世紀:平安時代にはごく普通のやりかたとして、上層階級の建物では普及します。
その契機は、屋内に天井を張るようになったことでした。天井裏を利用できるようになってからの発案です。
寺院の象徴的形体を存続させるために、見えがかりの化粧屋根を軒先に張り付け、その裏側に、本当の屋根:隠れてしまうので「野屋根」と呼ぶ:を設けるようになったのです。
「龍吟庵・方丈」も、軒回りはこの方法を採っています。
   二重屋根の発生過程については、以前、下記で紹介しました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0ba11cb0ddb87fe1c391e23117a74b56

「桔木」を用いる方法は、その簡便にして丈夫で、なおかつ寺院としての「古式」をも容易に装うことができることから、広く早く寺院建築に普及します。
一般的に、鎌倉時代に建てられた寺院を見ると、「桔木」は、屋根を伸ばし、外回りへ空間を拡幅する手法として使われている事例が大部分です。
次の図は、前面へ拡幅するために使われた例。京都の通称「千本釈迦堂」:「大報恩寺」。



ここでは、前面部分への拡幅に努めていることがよく分ります。このような事例は、この時代、各地域の寺院建築で見られるようです(もちろん、「秋篠寺」を継承した例も多数あります)。

しかし、「桔木」使用の先駆者である奈良時代末の「秋篠寺」の場合(下図)は、「大報恩寺」とは異なる事例と考えられます。
古代からの寺院建築は、「上屋(身舎・母屋)+下屋(庇・廂)」の形式・構造をとるのが普通です。
「下屋」は「上屋」の一面~四面に任意に取付けられますが、寺院では四面、つまり「上屋」の四周に取付けるのが一般的です。
その場合、「上屋」と「下屋」部は、「繋梁」と「垂木」で繋がれています。

これに対して、「秋篠寺」では、図で分るように、「繋梁」と「垂木」の他に、野屋根内に設けられた「桔木」も「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割をはたしています。
「桔木」は、単に軒を出すだけではなく、「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割をも担うことになったのです。しかもそれが「上屋」のまわり四面をとりかこんでいます。



「秋篠寺」は、屋根が「寄棟」ですが(図の橙色の線)、入母屋ならば、緑色の線が母屋の妻面になります(この「秋篠寺」的な「桔木」の使いかたを採った事例も多数あります:福島県の「白水阿弥陀堂」、山梨県の「大善寺」など。)

おそらく、「秋篠寺」の造営にかかわった工人たちは、ただ単に、四周の軒を「斗栱」から「桔木」に替えたに過ぎなかったのかもしれません。
しかし、上棟時、工人たちは、組み上がった小屋組の上を歩いてみて、「上屋」の四面に架けられた「桔木」で支えられた「屋根」が、「意外な効果」を持つこと、
すなわち、
それまでの「上屋+下屋」構造とは比べものにならないほど揺れが少ないこと、
単に軒先が頑丈になったのではなく、
架構全体が頑丈になったこと、に気が付いたのではないでしょうか


つまり、「桔木」が、「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割も担う、ということは、最初は考えていなかった、しかし、上棟して、その役割も担っていることに気付いた、そういう過程を踏んだ、と考えられます
   私は常に「結果論」ではなく、そのような「結果」に至った「過程」を考えるべきだ、
   と考えてきました

   「結果論」から始めると、とかく、「完成・熟成した姿」が突然出現する、と考えがちになるからです。
   「完成・熟成」「醸成」・・その過程にこそ、人びとの「思考」の実相があるのです。

なぜ、強固になったか?
もともと「寄棟」屋根は、非常に安定度の高い形の屋根です。いわば舟をひっくり返した形をしていて、その形自体が変形しにくい。
試みに、折り紙でこのような形をつくると、あの薄い紙からは想像もつかないほど安定度の高い形になることが分るはずです。これがいわゆる「立体効果」


建物の場合、最初から「立体」があるわけではない。骨組を組んで板を張ることで結果として「立体」型に仕上がるのです。単なる部材が、組み合わせることで「立体」になる。
そして「寄棟」の形の屋根は、仕上がると、頑強な立体になる。このことは、工人たちは皆知っていた。
そして、その骨組に新たに「桔木」が加わったところ、それまで若干脆弱だった軒先部分の形が補強されたことにも気が付いた(正確に言うと、日ごろの経験から、「斗栱」のような面倒なことをしないでも、1本の棒を梃子のように使えばより簡単に軒を支えられるではないか、という「発想」が生まれ、そうすると、軒先がしっかりする、という発見)。
言ってみれば、「寄棟型」の縁の部分の要所に「力骨」:「リブ」が付け加えられたことになります。
これが、それまでの「繋梁」「垂木」だけの構造よりも強くなる理由です


別の見かたをしてみます。そのために、下図のように、「秋篠寺」の梁行断面図を色分けしてみます。



屋根裏を薄い黄色、「桔木」と「繋梁」とに挟まれた空間を濃い黄色に塗ってあります。
この濃い黄色の部分は、「断面」です。
この「断面」は、「繋梁」を底辺、「上屋」柱の上の部分を短辺、そして「桔木」を斜辺にしたほぼ直角三角形の形を形成していると見ることができます。

重要なのは、「上屋」柱の上の部分が「短辺」を形成していることです。
この断面:直角三角形は、それ自体、変形しにくい形体ですから、一旦つくられた「直角」そのものも維持される。
この場合、「直角」は、「繋梁」と「上屋柱」(の上部)で形づくられていますから、「直角」が維持される、ということは、「上屋の柱の(上部の)垂直が維持される」ことをも意味します。

そして次に重要なのは、この直角三角形が、上屋の四周を均一にまわっていることです。
言うなれば、上屋のまわりに、「鍔(つば)」がまわった形です。
したがって、「上屋」の四周の各面の垂直が、この「鍔」によって補強されている、と見ることができるのです。

「秋篠寺」の場合は、直角三角形の底辺に、「繋梁」がありましたが、この「繋梁」をはずしても、「桔木」を斜辺、「上屋」の柱上部を短辺とする三角形が「鍔」を形成し、立体として働くことには変りありません。逆に言えば、「桔木」がしっかりできれば「繋梁」はなくてもよい、ということです。

これを簡単な模型で考えてみます。下の写真です。



0.5mm厚のボール紙でつくった5寸勾配の庇部です。
稜線を伸ばせば、あるいは斜面を上まで延ばせば「寄棟型」になり、当然、この模型よりも一層変形しにくい立体形になるわけですが、この「庇部」だけの「鍔」でも、十分に「立体効果」が生まれます。写真のように、折り紙細工同様、この形は安定しています。
つまり、「鍔」は、「繋梁」を不要にもできる、ということです。
赤線は、「下屋」=「庇」を支持する柱列の位置です。

すなわち、「上屋」のまわりに一周して「鍔」をつければ、「鍔」自体、平面的にも変形しにくく、それが取付いている「上屋」自体も平面的に変形しにくい、その上、「鍔」が垂直をも維持するのに役立つ。
この「事実」を、工人たちの多くは、「現場の経験で」会得した
ものと思われます。

そして、この「理屈」を徹底的に(しかし、そんなに肩肘張ったわけではなく、ごく自然の成り行きとして)「応用」したのが「龍吟庵・方丈」であり「大仙院・本堂」と言うことができる、と私は思います。

しかも、この建物には、「秋篠寺」の時代にはなかった「貫」が軸組部の上部と足元に入っています。「貫」を入れることで、鳥かご、虫かごのようスケスケの「立体」ができあがっている。
つまり、軸組部は、骨組の外形が、先ず「貫」によって「立体化」された上、さらに「桔木」と「繋梁」で構成された「鍔」によって、立体形体の維持を補強されている、ということになります。
その結果、どうなるか。
柱間を全部スケスケにしても、建屋は安泰を保つことができた
のです。

「龍吟庵・方丈」の断面図の「桔木」下部分に色を塗ってみてください。「鍔」の形が見えてきます。

そして、あらためて「小屋組」も見てください。
「小屋」は、中央の「上屋」に相当する部分の「大梁」と、四周の「桔木」の上に「束立て」で組まれ、「束」相互は「小屋貫」を通して固められています。
つまり、「上屋」「下屋」の上部は、小屋組で一体になるように固められているのです。

以上をまとめると、「龍吟庵・方丈」は、きわめて簡単な方法で、部材を「立体化」し、全体を「一体化」することに成功していることになります。

これは、工人たちが、経験で得て継承されてきた「知見」を基に、「立体効果」を最大限活用した、そのように考えることができるのではないでしょうか。


長々しい文章を、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は、「古井家」の場合をもう一度みるつもりです。ただ、一週間ほど他用に専念させていただくため、しばらく間が空くと思います。

回帰: re‐habilitation :の記・・・・療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて-3

2013-07-06 18:16:25 | 回帰の記
関東・甲信地域は梅雨が明けたらしい、とのこと。例年になく早い!少しばかりおかしな気候です。


ムラサキシキブの花が咲き出しています。小さな小さな花です。
これが、秋になると、下の写真のように赤紫の実になります。見事です。



「回復」へ向けての急性期病院での「動作」の「訓練」の最初は、車椅子の「乗り降りの練習」でした。
車椅子に乗らない限り検査にもリハビリ室にも行けないからです。

私は右手右脚が幸い自在でしたから、まず足を右にまわして足をベッドの右外に出します(私のベッドは左側が壁に接し、右側が昇降口になっていました)。当然足は下がって、床に着きます(ベッドの高さが、私の足の長さよりも低かった!からです)。そのとき、動かない左脚もベッドの外に出ます。動かない脚でも、右脚を外に出すと、腰の動きにつられて一緒に動いてくれるからです。ほとんど同時に上体も起きています。無意識に、右肘をベッドについて、その反動を利用していたようです。それでだめなときは(だめな人は)、多分ベッドの手摺を右手で掴むと思います。余程の不安定な状態でない限り、私は手摺を使わなかったようです。
そして、ベッドの端に腰掛ける姿勢になります。

ところが、そのときに、問題が起きるのです。
回復期病院に転院した当初も、よく注意されたことなのですが、
左手を置き忘れてしまう」のです。
脚と違って、肩が動いても、左手の肘から先は、脚のようには付いてこない、かなり意識しないと動いてくれないのです。掛け布団がからまって抜けないこともありました。しかし、左手の存在は感触で分っている・・・。なのに、動かない、付いてこない・・妙な感じでした。
それゆえ、ときには右手で左手を引っ張り出したりもしました。
この現象が、単に左手が動かないせいなのか、それとも、脳の機能障碍で左側の認知能力が失せてしまったからだったのか、今でも分りません
車椅子のブレーキ(停車時の動き出しを停めるためのいわばパーキングブレーキです)は、右の車輪用は右に、左は左側にあり、共に手前に引くとブレーキがかかります。私は、左側のブレーキをよく忘れて注意されました。ブレーキをかけるように極力意識しましたが、左側を引く力が左手にない。そのため、右手を伸ばして引いていました。

乗り移りは、右手を車椅子の右側の手摺に置き、それを頼りに腰を浮かせ体を移動させるコツを、比較的容易に覚えました。右手が勝負!
しかし、左手が利かないので、自走はムリ。押してもらってリハビリ室まで、1階エレベーターで降りて、約150mほど廊下を進みます(増築を繰り返した病院にありがちな屈折の多い迷路のような廊下・・)。


サンショウの実です。キアゲハが卵を産みにきてます。
もうじき幼虫が孵り、葉を食べつくすでしょう。サンショウの葉が好物なのです。


急性期病院でのリハビリは、「理学療法:PT」、「作業療法:OT」、「言語療法:ST」の順に大体各20分行ないました。

理学療法:PTでは、まず、2本の水平の手摺のある通称「平行棒」で、歩行以前の「立つ」練習を行ないました(手摺の高さは、その人の身長:手の位置により調節可能です)。
頼りになるのは、私の場合は、右手と右脚。両脚で立っているように見えますが、実際は右脚で体重を保ち、体が倒れないように右手で手摺を掴んでいる。
次いで「歩行」してみる。脚を前に出す。これも、右手の支えがないとだめ。要するに、右脚と右手を使って「歩いている」ことになるわけです。
左脚に体重がかかると、かなりの頻度で、膝がガクッと崩れ折れました。膝のあたりの筋力が萎えているからのようでした。そして多分、筋肉を作動させる神経系統も休止していたものと思われます。
当然普通の「歩く」状態には程遠い。それでもとにかく、平行棒の中を5mほど「歩く」ことができました。

次いで、「4点杖」を使っての「歩行」となりました。
「4点杖」というのは、石突の部分が4本に分かれている杖です。そのため、杖を床に置くと、杖はそのまま倒れずに立っています(普通の杖は、どこかに寄り掛けなければなりません)。
   普通の杖は、取っ手の形からだと思いますが「T字杖」と呼ぶようです。
   この杖(普通の杖)は、使わないときの置き場、置き方に苦労します。壁に立てかけても滑って倒れてしまい、
   床に倒れた杖を拾うという「動作」は、手足が自在でない人には一苦労だからです。
最初に4点杖を使うのは、杖の安定度が高く、保持が楽で、手の負担が少なくて済むからだと思われます。
4点杖で10mくらいの距離を往復できました。
もちろん、右脚と右手(の杖)が主体の「歩き」です。体重を左脚に移動させると、しばしば、膝が崩れます。
しかし、左脚に体重を移動させることができないと本当の「歩き」にならない。
そこで、急性期病院のリハビリでは、左脚の膝が崩れないように支える「装具」(関節部をいわば「固定する」ためです)を付けての練習になりました。
しかし、それでも右脚と右手(の杖)が頼りであることは同じ。
そういう練習を転院直前まで続け、「かなり軽快に(?)歩けるように」なりました。

しかし、これは、右膝へのかなりの負担となったようです。回復期病院へ転院当初、二日ほどの間、右膝痛に悩まされました

作業療法:OTでは、左手の「固まり」を「ほぐす」ことから始まりました。
万歳をしても、左手は上によく挙がらず、しかも位置を保持できない。高さも右手よりも低い。これは、左手の動作に関わる神経~筋・腱~関節の連携が停止してしまったからのようです。
そこで、はじめは、机の上に置いた折りたたんだタオルに両手の掌を載せ、タオルを、雑巾がけの要領で、最初は前後に、次に左右に机の上を移動させる「練習」。
もちろん左手だけではできないので、左手の上に右手を載せ、右手主導で行ないます。左手は多少の痛みはあるのですが、「やむを得ず」動きに付いてきます。
なるべく遠くまで押しやれば、背筋も延び、手も伸びます。
この練習の後、手の挙げ下ろしも「軽く」感じられるようになりました。「固さ」がいくぶん「ほぐれた」のだと思います。

   このような両手を使っての「作業・動作」訓練はいろいろありましたが、
   左手が自在でないと、得てして、右手のみで遂行してしまいます。それでは左手の訓練にならない
   この「クセ」は、転院した回復期病院でも当初よく現れ、「右手のおせっかい」と評されました
   用が足せればいいではないか、という「楽をしようという気分」が働いてしまうからのようです。

次いで、ソフトクリームのカップ様の円錐形のプラスチック製のカップが底を上に十個ほど重ねてあり、そこから一個ずつ左手で掴んで別の場所に運び積み重ねる「練習」。
上方が先細りになっていますから、最初のうちは、手から滑り落ちてしまい、なかなか掴めません。
何回もやっているうちに、指先にいくら力を加えても滑るだけだ、ということが分り、掴むという動作のコツが少し見えてきます。
その際、同じことを右手でやってみて、その「まね」を左手でやってみる、というのが、結構ヒントになりました右手は「長年の間に覚えて身につけた動作」を忘れていないからです。

急性期病院でのOTのリハビリでは、同じことを繰り返して行なうことで、自分でコツを見付け、体で覚えることを目指しているように思えました。
回復期の病院では、同じことを繰り返すことに加え、「手首の動かし方に注意する」というアドバイスがありました。そのアドバイスから、指先の動きは、手首の動きと連動している、指先だけを考えてはダメ、という「事実」を学ぶのです。「適切に」手首を動かせば、指はそれについてくる・・・。
この「違い」は、療法士さんの「指導法」についての考え方の違いかもしれません。
ただ、私は、こういうアドバイスを頂けるのは、大変有難かったと思っています。なぜなら、「何とかしようという意欲」がわき、コツの修得が早まるように思えたからです。同じことを繰り返す中からコツを自分で見付ける、というのは結構大変です。そのとき、「手首・・・」というヒントは、「見付けるきっかけ」を与えてくれるのです。
   ヒントは一定程度動作を繰り返して、どうしたらよいか悩んでいるころを見計らって与えられたようでした。
   
左手が自在に動かせないということは、思った以上に「不便」でした。
手先を目的とする位置にもってゆくことなどは、とてもできない。
たとえば、眼鏡の曇りをとりたくて、眼鏡ををはずすため、左側の「ツル」を掴もうとしても、手先はそこに届かず、頬をのあたりをさまよう。
健常なとき、手先は、右も左も、目で確認しなくても、目で確認できなくても、「思った」ところへもってゆくことができました
考えてみたら、これは大変な「習慣」です
おそらく、この「習慣」は、目で見て位置を知ったのではなく、手先で触ろうとする何度かの「試行」の結果、長年のうちに「体が覚えこんだ習慣」なのだと思います
人の「動作」には、こういうのがいっぱいありそうです

眼鏡をはずせないことに気が付いた当初、私はそれを、指先がよく動かないからだ、と思っていました
しかし、後に回復期病院のOTのリハビリで、それが大きな勘違いであることを教わります。そして、本当の理由は、先のコーンカップの「練習」にヒントが潜んでいたことを知ることになります。

急性期病院でのOTでは、左手の挙げ下ろしがよくなった以上には「改善」はなく、転院時の左手の握力は!でした(数値は覚えていませんが、右は一定程度あった)。

急性期病院の言語療法:STでは、会話や文章を読むことによって、話しかたの状態・様子が確認されたようです。そのほか、発声するなどのチェックも行なわれました。
認知力、注意力、記憶力については、いろいろなな方法でチェックされました。
たとえば、互いに無関係な単語を三つ示され、他のことをした後、数分経って、それを覚えているかどうか、チェックするなどです。絵に描いてあったモノ見て、しばらく経ってからいくつ覚えているか、などのテストや、すでに触れた時計の文字盤を描いてみるなどのチェックも行なわれました(ペーパーでやる場合、会話でやる場合、両者併用の場合など多様でした)。
   同種のテストは、高齢者(75歳以上:いわゆる後期高齢者)の運転免許更新時にもありました。

特に、私の場合、右脳の損傷ゆえに、左側の状況把握力に危惧がもたれ、視界の左側に注意することを、毎日のように言われました。
この「注意」は、私にとっては「呪術」のような働きがあり、左側のモノを異常なほど気にするようになりました。

   回復期病院に転院、自立歩行ができるようになった後、病室の出入口の左側の枠を気にするあまり、
   かえってそこにぶつかりかける、ということがままありました。
   気にするため、逆にそこに接近していってしまったり、
   そこを避けようとしてかえって歩行がぎこちなくなり、左膝が折れ、ぶつかりそうになるのです。
   それに気付いた後は、そういう場合は左側のモノから必要以上に離れて歩いたり、
   左手で触ることにしました(廊下は、できるだけ真ん中を歩いていました)。
   それを習慣化することで、どうにかこの「呪術」から脱することができました


   こういうことは、健常な場合でもよくあるように思います。
   「心理的な脅迫感」に襲われ、日ごろやっているなんでもないスムーズな動きがぎこちなくなる現象
です。
   たとえば、「そこは危ない」と注意されている場所で
   「危ない目に遭う」「遭いかける」という現象が結構起きやすいように思いますが、
   これには、多分にこの「心理的な脅迫感」が働いているように思います



ブルーベリー。管理しやすいように鉢植えです。もうじき食べられそうです。 

ところで、これまで記してきたリハビリについてのもろもろの感想・考えたことの大半は、急性期病院でのリハビリでのものではなく、転院した回復期病院でのリハビリによるものです。

急性期病院に居るときは、どうにか早く元のようになれないものか、といういわば「功利的な思い」の方が強く、リハビリが何たるものか、正直のところ、深く考えてはいなかった、と言うより、「単なる回復訓練」と言う程度の認識だった、要は、「平均的リハビリ観」の持ち主だった、と言えばよいでしょう。

CTの検査の結果、血腫・浮腫が治まったと判定され、2月19日に回復期病院に転院しました。
この回復期病院には、「リハビリ専門病棟」があります。
「リハビリ専門病棟」には、病室が2階と3階(各階30~40床ほど)、1階に500㎡ほどの広さの小体育室様の「療法室」があり、同じ階に、リハビリも考えたつくりの浴室がありました。

次回は、この専門病棟でのリハビリの体験を通し考えたことで、これまで書き残したことを、覚えている限り、書いてみようと思います。