東大寺・鐘樓(しゅろう)・・・・進化した大仏様

2006-12-31 23:53:12 | 建物づくり一般

 除夜の鐘などでおなじみの東大寺の鐘樓である。「しゅろう」と読むようだ。

 梵鐘は天平勝宝4年(752年)の鋳造と推定され、焼損の痕跡がないので、戦火には遭わなかったらしい。そのことから、鐘楼は当初から現在位置に在ったと考えられている(伽藍からかなり離れた丘の上にある)。
 ただ、大風や地震でたびたび倒壊し、現在の建物は、1206~1210年頃、重源(ちょうげん)を継いだ大勧進の栄西(えいさい)によって再建されたとされる。
  註 栄西は最初叡山で天台・密教を学び、宋に留学後、臨済宗(禅宗)を開いた人物。

 柱は径3尺弱、地貫(ぢぬき)、内法貫(うちのりぬき)、頭貫(かしらぬき)の3本の貫で固められる。
 貫には上下に面が取られている(地貫は上だけ)。
 ただ、この貫は、南大門、大仏殿とは異なり、内法貫は柱に貫通する部分だけ幅を狭め、そのまま鼻を外に出し、繰り型を付け、地貫、頭貫は、面の分だけ幅を細くし、同じく鼻を外に出している。つまり、どの貫も、柱に対し、胴付き(胴突き)を設けた仕口になっている(楔で締める必要がない)。
 したがって、架構はきわめて堅固になるが、組み方(建て方)はかなり難しい。さらに、梵鐘を釣る虹梁は、四隅の柱とは別の柱に力がかかるように考えられており、その取付けも建込みになっているから、相当に巧妙な設計で、建て方を一段と難しくしている(断面参照)。
 大仏様の技術は、南大門建立後、およそ10年ほどの間に格段の進展を見せたのである。
 識者は、「本鐘楼・・は大仏様の特色を最大限に発揮した傑作であり、力強さ、巧妙さとも日本建築史上これに比肩する遺構は見当たらない。(香取忠彦)」と述べている。

 実際、鐘楼の前に立ち、その建て方の順番を考えていると、時間が経つのを忘れてしまう。

 写真、図は『奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一』(岩波書店)より。解説も同書に拠った。

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語彙に見る日本の建物の歴史・・・・「筋交い」の使われ方

2006-12-29 18:43:46 | 地震への対し方:対震

建築の世界で使われる用語:語彙の数は驚くほど多い。けれども、その語彙についての辞典・辞書の類は少なく、とりわけ、日本の建築で用いられてきた語彙・用語については無いに等しい。
その中で、今でも役に立つのは(もっとも、?と思う解説もあるけれども)、上に内表紙とはしがきの一部を載せた中村達太郎著「日本建築辞彙」(明治39年:1906年刊)ではないだろうか。

中村達太郎は工部大学校第四回の卒業生。《近代化・西欧化》を使命と心得た工部大学校の卒業生は、皆、日本の建物づくりに関心がなかったが、彼も同じであった。それを端的に示す一節が彼の書簡にある。
「・・私は当時石灰は英国の何処に生産するかを知っていましたが、日本のどこに石灰が産出するか皆無知っていませんでした。日本建築構造も皆無知りませんでした・・。」
彼は日本で育ったはずだから、周囲に白壁の家は見かけただろうし、各地の城郭も見たことがあるはずなのだが、その白壁の材料・原料が何であるかを知らなかったということだ(もっとも、これは、自国の建物に関心があるかどうか以前の日ごろの「観察」の問題ではあるが・・)。
かの辰野金吾(第一回卒業生)も、留学中、日本の建物について尋ねられ、まったく答えられなかったというから、当時のエリートたちの自国の建物への無知のほどがどのようなものであったか、よく分かる。

ひるがえって、今の建築の学校を出た「専門家」たちは、どの程度、自国の建物や材料について知っているのだろうか?どの程度、知ろうと思っているだろうか?
 
私が見るかぎり、明治のエリートたち同様、自国の「古い建物」は、捨てるべきものと見ているか、あるいは、単なる観賞の対象、あるいは、観光の対象としてしか見ていない人たちが圧倒的に多いように思える。
それは、過日紹介した遠藤新が1949年(昭和24年)に書いた文の一節、「・・(従来も『民家』の研究はあったけれども)何か『取り残されたもの』に対する態度、『亡び去らんとするもの』に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきている・・」とまったく変わらない。つまり、半世紀前と同じ、ということ。だからおそらく、明治以降、ずっと同じだったのではないだろうか。

遠藤新がタウトと桂離宮を例にして言っているように、明治以降の「教育ある」日本人の多くは、誰か外国人に推されでもしないかぎり、自国のものは劣るもの、ゆえに捨て去るべきものと見なしているのではないか、と思いたくなるほどだ。

ところで、中村達太郎は、自らの非を悟り、留学から帰国後、棟梁に就き、日本の建物を「いろは」から学んだのである。そして、そこで得たものを後輩への指針とすべく、日本の建物にかかわる語彙・用語の解説書として著したのが「日本建築辞彙」であった。

あるとき、いったい「筋交い(筋違い)」という語は、いつごろから日常語・日用語になったのかを調べようとして、明治以降の辞書・辞典の類をあたってみたことがある。辞書・辞典には、その編集時点で一般的な語彙が集められているはずだからである。

近代以降の国語辞典として定評のある二書、明治政府の肝いりで編纂された「言海」を増補した大槻文彦編「大言海」(昭和7年:1932年)、上田万年、松井簡治編「大日本国語事典」(大正4年:1915年)には、濃尾大地震後の出版にもかかわらず「筋交い(筋違い)」の語は見当たらない。つまり、一般には使われることのない語だったようだ。

建築専門書では、斉藤兵次郎著「日本家屋構造」(明治37年:1904年)には説明がない。
先に紹介の滝大吉著「建築学講義録」(明治23年:1890年)では、欧風建物を念頭にいれて、主に材料(柱同寸を奨めている)、取付け方(横架材に柱から2寸ほど離して傾木大入れとし横より打込む)など10行ほどの解説がされている。
 
中村の「日本建築辞彙」では「すぢかひ(筋違):木造ナドニ於テ斜ニ取付ケタル木ヲイフ。『もくぞー』ヲ見ヨ」とあり、「もくぞー(木造):木造家屋ノ造リ方種々アリ圖其一例ニシテ旧来ノ構造ニ比スレバ改良シタル点少ナカラズ。」として上掲の図が載っている。この図は、校舎のような建物らしく、図中の部材呼称には若干首をひねる点がある。
おそらく、「筋交い」は、建築の世界で流通し始めたばかりの語で、現在のようにはまだ一般化はしていなかったと思われる。

なお、「筋交い」については、「文化財建造物伝統技法集成」(財団法人・文化財建造物保存技術協会刊)には、各時代の建造物の調査の結果の結論として、次のような解説がある。

・・・鎌倉時代には、柱間に「筋かい」を設け、間渡し材(註:塗り壁の下地)を密に入れ壁を塗ることが行われたが、間もなく使われなくなり、主に小屋束まわりの補強に用いるだけになる。
中世以降、軒まわりに桔木を使い、桔木上に小屋束を立てる小屋組が増える。桔木には1本ごとに形状の異なる丸太が使われるため、桔木上の小屋束の寸法が決めにくく、屋根の反り・流れを決めて母屋を所定位置に仮置きし、束を1本ずつ現場合せで切断し、桔木、母屋に枘なしで釘打ちとする粗放な手法が増え、その転び止めとして「筋かい」が使われた。
近世になり、あらかじめ地上で梁、桔木ごとに墨付けを行う技術が確立、梁・桔木・母屋に枘差しで束を立て貫で固める小屋組が普通になり、「筋かい」の使用は減る。・・・


だから、明治のころの日本の建物には一般に「筋交い」はなかったと言ってよく、斉藤兵次郎著「日本家屋構造」に「筋交い」が載ってないのは当然なのだ。

長い日本の建物の歴史を振り返ると、現在の「筋交い」の《隆盛》は、むしろ「異常な現象」なのだろう。なぜなら、地震は太古から日本に起きているが、日本の建物は「筋交い」なしでつくられていたのだからである。
「筋交い隆盛の歴史」を調べると、日本の近代建築史の一面が垣間見えるはずだ。

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日本インテリへの反省・・・・遠藤新のことば

2006-12-26 21:54:57 | 「学」「科学」「研究」のありかた

遠藤新(えんどう・あらた)といっても、もう知らない人の方が多いかもしれない。
1889年(明治22年)、福島県の生まれ。帝国ホテル(1923年:大正12年竣工)の建設にあたり、F・Lライトの右腕として働いた人物である。

自由学園の建物(目白と南沢)、甲子園ホテル(現武庫川学園学生会館)、栃木県真岡市の真岡小学校久保講堂などは、今でも訪れることができる。
それらの建物の空間の「暖かさ」「人懐っこさ」は実際にその空間に立たないと分からないだろう。建物は、写真、写真映りでは分からないのだ。


上掲の図と写真は、東京・目白にある自由学園の明日館(重要文化財)と講堂。明日館は、現在、集会などに使用可。

彼が1949年(昭和24年)「国民」という雑誌の三月号、五月号に、「一建築家のする―日本インテリへの反省」という一文を寄稿している。その一部を紹介したい(「遠藤新作品集」より引用)。

私は市井の一建築家です。学者先生でもなければ、新円商売に時めく「業者」でもありませぬ。むしろ建築界に行脚托鉢しつつこの道を修する「行者」のつもりです。一体豪華を極めた法城の威儀と荘厳の間に、そのかみの「紙子の祖師」が面接した「裸のたましい」が忘れられることがあるように、建築という煩雑な仕事にも、いろんな係累にかまけて「直指人心」してこの道の真実に面接することはなかなか容易でありませぬ。その点で本山も檀徒もない托鉢坊主の私の三十年来の立場はだれよりも自由にそして何の憚るところもなく真正面から建築に体当たりをさせてくれました。このようにして私はものを考え、考え続けた結果がこの一文の反省になるのです。戦争に負けて今さらにわかに思いついて申すことではありませぬ。

今こそ日本は大きな反省の時機に際会しております。そしてその反省は一切とらわれない立場からするのでなければ無意味です。・・・そしていうところの反省はいろいろな方面から考えられますが、ここでは住宅という一局面からだけ申します。

一体世界のいろいろな民族は皆それぞれ独自の形式の生活を営みそしてそれに相当する独自の様式の家に住んでおります。
これを発生的に考えて見まして、どこの民族の家も一室主義に出発してそれに多少の潤色を附加せられたものになっております。
蒙古の包(パオ)やアイヌの小屋を初めとして我々の先祖の住宅だったと考えられる伊勢の神宮や出雲の大社なども「妻入り」「平入り」の差だけで一室主義を原則としたものだったのでしょう。

そしてその原始型からやがて、寝る所だけを別にした形式が生まれます。世界中の住宅には実にいろいろの種類があり、それに大小の変化もありますが、この根本の要領だけはそのまま維持されているというて決して間違いありません。
この意味で、我々日本人の従来の百姓家も町の「しもた家」も立派に民族の家たる資格を持っておるのです。
 (中 略)
かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。そして日本人は今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。しかし、私は深くそして堅く信じます。タウトは桂離宮に驚く前にまず所在の日本の百姓家に驚けばよかったのです。そしたら日本に滔々として百姓家を見直すということが風靡したかもしれませぬ。

従来とても我々の間に「民家」の研究という種類のことはありました。しかしこの研究には何か「取り残されたもの」に対する態度、「亡び去らんとするもの」に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきているのが実情です。
しかし私の考えによれば、私どもが軽々にこれを「民家」と呼ぶことがすでにいけないのです。私どもはこれを「民族の家」といい直さなければなりません。そのとき我々のうかつにも軽蔑してきた百姓家が、実に厳然としてさんらんたる白日光を浴びながら私どもの前に立ち現れてまいります。私どもはじかにこの民族の「たましい」に面接しようではありませんか。

要は、我々日本人はいかなる「民族の家」を有つべきかという一点にかかります。
 (中 略)
・・真中に縦に廊下を通して、建物を南側と北側とに分け南側に応接兼書斎、さらにあるいは食堂それから八畳、六畳、子供室といった部屋。そして北側には便所、風呂、台所、女中部屋といった配置。
これが、日本人の住宅の通念であるらしく大小はとにかく、みな判で押したようにこの型を踏襲しております。そしてこれをだれも当たり前のことにして少しも怪しみません。この怪しまないというところに大きな問題があるのです。そして私のインテリへの反省もこの一点に帰するのです。
 (中 略)
我ら日本「民族の子」「百姓の子」「町家の子」は皆、玄関も廊下もない「民族の家」で育ちました(私自身百姓の二男坊です)。幸か不幸か、この「民族の家」の「民族の子」は明治の学校というところで教育をうけて、いわゆるインテリというものになりました。そしてこのインテリはその「民族の家」をさげすんで「文化住宅」というものをほしがりました。・・・一体家の真中に廊下を通して、小さな家をさらに小さくコマ切れにし、あまつさえ、客が五人来れば身動き出来ないようなケチな応接間を鼻の先にブラ下げて体裁ぶった住宅というものは世界のどこにもありません。世界中で一番珍妙な愚劣な代物です。

しかるに日本インテリはことごとくこの種の家に住まんとし、インテリ建築家はこの種の家を建てることを任と心得たのです。そしてだれもこれを怪しまないのです。これは実に驚くべき事実です。

ここで私は建築本来の面目に立ち帰って、「建築は哲学する」と申します。そして民族の家とは民族の生活を哲学した成果をいうのです。しかるにインテリの家は雑貨屋の店先のようにコマ切れの部屋を並べただけで少しも生活を哲学しておりません。それがちょうど明治の教育が知識の切売りだけで少しも人間に哲学しなかったことを最も明白に実証するのです。

しかし山に入って山を見ず、臭きにいて臭きを知らぬと申します。日本インテリが自らの臭みに目ざめることはけだし容易ではありませぬ。
そこでわかりやすい実例として農学校を例にとる。本来農学校は百姓の学校なのに日本全国の農学校の卒業生から一人の篤農家も生まれてきませんでした。その卒業生はみな朝寝をして洋服を着たがったのです。しかしこれは独り農学校に限りません。自余のあらゆる学校、官私の大学、ことごとくこの亜流です。これら日本のインテリ。軍人、政治家、役人、学者、先生、会社員その他。日本はこのインテリのゆえに滅びたというてよいのです。

その二で「教育と校舎」について論じているが、今回は省略。

なお、遠藤新は、木造建築への筋かいとボルトの導入に対しても痛烈な批判を書いているのでいずれ紹介する。

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閑話・・・・教育再生!?

2006-12-24 03:19:43 | 論評
 いま、教育再生とかの論議が真面目な装いの下で行われているらしい。実に不愉快至極!
 そこで、「近・現代の教育」、ひいては「近・現代そのものの風潮」を、ものの見事に断罪した(と私が思う)一文を紹介したい。

・・・それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。彼らの登山の質を楽しむためである。舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知っておらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。たとえ、ただひとつの山にすぎなくてもそのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力をそなえた生徒、まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。

・・・私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。言葉で示すことは把握することではない。

・・・言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみ捉える操作のしかたを教える方が重要なのだ。おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・

 これは、サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)の一節である。

 「城砦」は、砂漠の民の王、ベルベル族の王が、息子に語る話で構成されている。サン・テグジュペリの作品では「星の王子様」が有名だが、これは、その根源の思想を、王に託して語ったものと私は理解している。

 私がこの書に出会ったのは、今でもはっきり覚えているが、東京神田の東京堂書店である。もう40数年前のことだ。
 私の先輩諸氏をはじめ、まわりの人たちの考え方についてゆけず、そうかといって論駁する自信もなく、いわば悶々としていたころのこと(当時、都内にはまだ都電が走っていた。私は渋谷から須田町行に乗って神田の書店街に行くのが好きだった)。
 パラパラとこの本(3巻からなっている)を斜め読みして、私は衝撃を受けた。私は、絶大なる援護者を得た気分だった。以後、私は、自分の考えを、臆せずに語ることができるようになった。
コメント (1)
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学問の植民地主義

2006-12-23 22:35:01 | 「学」「科学」「研究」のありかた
 先に3回にわたり喜多方の煉瓦造建築を紹介した。

 通常、このような新しい工法などが導入されるとき、得てして、それまでの建物づくりにかかわる「実業家」:職人の職種の中には、消えざるを得ない職種が生じることが多い。たとえば、湿式工法から乾式工法への転換は、多くの左官職の仕事を奪っている。
 ところが、喜多方で煉瓦造建築が盛んになって、不要となった職種はなかった。それは、喜多方で主流となった工法が、木骨煉瓦造だったからである。
 喜多方の従来の工法は、土蔵造も含め、主体は木造軸組工法であり、関連する「実業家」は大工、鳶、瓦屋、左官、建具などであるが、木骨煉瓦造では、それに新たに煉瓦職が加わったに過ぎなかった。
 仕事を仕切ったのも従前どおり大工であった。樋口窯業の登り窯のわきの部屋には、こういった実業家たちが集まり、技術を磨いていたという。

 ところで、周知のように、煉瓦造建築は、石造とともに、明治政府が建築の近代化:西欧化にあたり推奨した工法である。
 建物の欧風化と並行して全国的に展開した鉄道敷設や軍事施設の建設も、煉瓦を必要としたため、その需要に応えるため、各地に多数の煉瓦焼成工場が設立された。1900年(明治33年)には、東京および周辺4県だけでもホフマン窯20基、登り窯50余基が稼動していたという(「明治工業史」による)。

 近代建築史の通説では、「明治24年(1891年)の濃尾大地震以降、煉瓦造は地震に弱いという評判が地下水のように地方の人々の耳に浸みこんでいた。・・」(村松貞次郎「日本の蔵」)と書かれるように、煉瓦造は濃尾大地震を契機に下火となり、大正12年(1923年)の関東大震災をもって終りを告げる、と説かれている。
 この通説が誤りであることは、喜多方では、明治30年代以降に盛んになったことで明らかだ。ちなみに、先の村松論文は、実は、喜多方の煉瓦蔵の解説として書かれたものなのだ!ということは、村松は、喜多方の煉瓦蔵について、何も知らなかったということ。だから《専門家》は恐ろしい。

 では、煉瓦造は本当に地震に弱いのか、弱かったのか?
 大正13年(1924年)、前年の大震災について、各面にわたる記録を集めた「大正大震火災誌」(改造社)が刊行されている。その中に、注目すべき一文が載っているので紹介する。
「・・明治中期以降には洋風建築も主として日本人の手で設計され(るようになる)。明治24年の濃尾の大震災は非常に当時の建築家を驚かし、その設計、構造、施工に非常な注意を払ふに至った。それ故にこの頃の建築は煉瓦造でも今度の地震(関東大震災)に比較的安全で、被害も左程激甚でもなく、火事で焼かれたものでも復興は困難ではない。その後の(註:明治末から大正にかけてのものを指す)建築の方が・・反って油断の為に不成績を暴露したものが多い。・・」(同書 岡田信一郎「失はれたる名建築」より)
  註 岡田信一郎
    1883年(明治16年)生まれ、帝大工科大学卒。東京美術学校、
    早稲田大学で教鞭をとる。
    主な設計
    大阪市中央公会堂(1917年、設計競技当選、岡田の原案を基に完成)
    歌舞伎座(1924年、戦災を受けたが教え子吉田五十八の手で復興)

 一方、明治の中頃から大正にかけて、一層の近代化を目指し、一部の建築学者の間に、西欧で始まっていた鉄骨造、鉄筋コンクリート造を導入し煉瓦造に代えようという動きがあり、さかんにその優秀性が説かれていた。震災は、それを説く《絶好の》機会であった。それは「大正大震火災誌」中の次の一文によく表れている。
「・・鉄筋コンクリートと称する詞が新聞や雑誌に可なり多く散見するやうになった、人の口からも度々聞くやうになった。吾々鉄筋コンクリートに関係があるものはそれ程通俗化したことを嬉しく思ふ。わずかに十年以前に比べても全く隔世の感を深くする程の変化を来し特に最近二・三年間に長足の進歩と実施を見た訳で斯界の為に慶賀すべき問題であり将来の発展を希望する。・・」(同上誌、土居松市「震災とコンクリート」)
 まるで震災を喜んでいるあたりは、現代の学者にも通じるところがある。

 ところが、岡田信一郎は、この点について、冷静な観察を行っている。
「・・最も強固であるべき鉄筋コンクリート建築は、設計者の疎漏や工事施工者の放漫によって最も危険なる建物になる。・・」

 岡田の言うように、震災の被害に遭った建物は、材料や工法とは関係なく「壊れるべくして壊れた」というのが本当であって、煉瓦造は地震に弱い、というのはいわゆる風評、さらに言えば意図的な宣伝で、世論操作であったとみてもおかしくないのである。
 これは木造建築についても同じで、「筋かい」はこの頃から宣伝され始める。「筋かい」が主要部材として日本の建築界に表れるのは、この頃からである(日本の建築史には、主要部材としては、一度も出てこない)。

 言ってみればこのような動きは、一定の文化と論理をもったわが国の建物づくりの世界へ、一握りの新興の建築家、建築学者が、《権威》をかさにきて、手前勝手な論理を専制的に押し付けようとした動きにほかならない。

 そしてこの動きは、第二次大戦後、是正されるどころか、ますます激しくなってきている。ある雑誌に、「これは、建築家・建築学者による植民地支配・帝国主義にほかならない」と私は書いた(「建築文化」1986年8月号、「1パーセントの建築家」)。
 この点については、さらに別途書かせてもらう。 

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「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺

2006-12-22 03:55:08 | 煉瓦造建築
 
前2回で載せられなかった写真を紹介。
喜多方は、歩くとまだたくさんの煉瓦を使った建物に逢うことができる。
喜多方の「実業家」たちの仕事に魅せられて、真似をしてみた設計例を、いつか紹介する予定。

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「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2

2006-12-19 04:47:33 | 煉瓦造建築

「煉瓦」は、日本にとって新しい材料だった。
「煉瓦」という語自体も、新しくつくられた和製漢語の一つである。
ただし、似たような材料としては、古代に中国から伝えられ使われた「磚(せん)」がある。これは、厚めの平瓦のようなもので、基壇などに使われていた。しかし、磚の使用はすぐに途絶える。

煉瓦は、当初輸入に頼っていたが、重量物ゆえに輸送費がかさみ、建設地の近くで焼成するようになる。
最初の煉瓦焼成は、安政年間(1850年代)に幕府が長崎製鉄所を建設する際に、建設地近くの瓦窯で外国人の指導の下で焼かれたという。
当時の呼称は「煉石(れんせき)」。その後「煉化石」、「煉瓦石」と転じて、最終的に「煉瓦」に落着く。

その後、明治初頭にかけて近代化のための製鉄所や工場などが外国人の指導下で建設され、その際にも、建設地周辺で焼成されている。
「富岡製糸工場」(群馬県富岡市)もその一つ。
原料の土は、一般に沖積土の砂質の土が向いているので、河川敷に近い所に窯は設けられることが多い。

1872年(明治5年)、東京銀座に煉瓦街建設が始まり、煉瓦の大量生産に適するホフマン窯が現在の葛飾区小菅に建設、供用を開始している。
ホフマン窯とは、いくつかの焼成窯が輪状に並び、端の窯から順に焼成してゆくように考案された通称「輪焼窯(りんしょうがま)」のこと。小菅の窯は現存しない。

明治政府の目指す建物の近代化は、当初「煉瓦造建築」が主であったため、煉瓦の安定大量供給が必要になり、1887年(明治20年)、埼玉県深谷・上敷免(じょうしきめん)に「日本煉瓦製造株式会社」が操業を開始する(この会社の創設には渋沢栄一が関係している)。ここの焼成窯もホフマン式で、現在重要文化財として保存されている。

なお、栃木県野木町(茨城県古河市に隣接)には、少し遅れて建設された「下野煉化(しもつけれんが)製造所」のホフマン窯があり、これも重要文化財として保存されている。いずれの窯も、月間20~40万本の煉瓦を製造したという。

ちなみに、先に紹介した(10月28日)信越線・横川の「丸山変電所」をはじめ、碓氷峠越えのトンネルや橋梁に使われたのは、「日本煉瓦製造株式会社」の煉瓦である。なお、つい最近、日本煉瓦は煉瓦生産を終結したとのこと。

前置きが長くなったが、では、なぜ喜多方に煉瓦造建築が生まれたか。
それには、鉄道の敷設工事と、そして会津の風土とが大きく関係する。

1872年(明治5年)の新橋・横浜間の開通以後、約50年間にわたり、従来の街道に代る鉄道が全国各地に敷設されるが、そのトンネル、橋脚などの土木工事の主材料は、煉瓦あるいは石であった(まだコンクリートはなかった)。

会津盆地にも、いわき(以前の平)~郡山~新潟を結ぶ「岩越(がんえつ)鉄道」が計画される(「岩」は岩代、「越」は越後。この鉄道は、現在の磐越東線と西線にあたる)。
会津若松~喜多方間が着工されるのは1902年(明治35年)完成はその2年後。さらに喜多方~新津は大工事で5年の工期を要している。そして、コンクリートのなかった時代、この敷設工事は大量の煉瓦を必要とした(現在でも、沿線にはトンネルや橋脚に往時の煉瓦を見ることができる)。
この煉瓦を焼いたのが、地元の「瓦窯」であった。

阿賀野川が越後平野に出るあたりに五泉(ごせん)、安田という町があるが、ここはすでに江戸末期以来、瓦の産地として栄え、いわば瓦の先進地である。

瓦は古代より上流階級のものであったが、一般の人びとの建物でも茅葺き、板葺き屋根から瓦への移行は、その耐久性の点でも当然の流れであった。
会津は、古来、阿賀野川水運によって、越後との結びつきが強い地域であったが、明治20年代初め、越後出身の樋口市郎氏が、喜多方で瓦焼成の事業:「樋口窯業」を開設する。27歳のときとのこと。会津も瓦葺きへ変ると見込したものと思われる。

この樋口窯業へ、「岩越鉄道」の敷設工事は、必要な煉瓦の生産を依頼することとなり、樋口窯業は、瓦とともに煉瓦の生産を行うことになる。明治30年代のことである。

鉄道工事は、それにともなう煉瓦積工事に、煉瓦積に習熟した職人・技能者を必要とするが、それに応えた人物が、喜多方出身の田中又一氏であった。
彼は、東京で清水組で修業し帰郷、樋口窯業に出入りし、樋口市郎氏に煉瓦にかかわるノウハウを伝授したようである。

福島県は、常磐線沿いの「浜通り」、東北線沿いの「中通り」そして「会津」に大きく区分されるが、前二地域が太平洋側気候に属するのに対し、会津は日本海側気候、豪雪地帯に属する寒冷の地である。
それゆえ、会津地域の建物には、寒冷に対処するために木造建物の外周を土壁で塗り篭めるいわゆる「土蔵造」が多くあった。
「土蔵造」は一般に、軸組が仕上がってから完成まで3年かかると言われ、その分費用のかさむ造りである。 

樋口市郎氏と田中又一氏のチームは、多分田中氏の示唆があったことだと思われるが、煉瓦の建物への利用を考える。
そしてその最初の試みとして、地元の小学校(二階建て)を煉瓦利用の建物とすることを提案、実施に移す。1902年(明治35年)、「岩月小学校・西校舎」が竣工する。これが喜多方式木骨煉瓦造の最初の事例となる。

その際、普通煉瓦の凍害に弱い点を補うため、乾燥させた煉瓦素地に釉薬を塗る方法が採られ、それが独特の色彩をつくりだす。釉薬は瓦にも施され、渋い色彩をはなっている(釉薬には「益子焼」と同じ灰釉が使われている)。
この前例のない試みを支えたのが、当時の同校校長大西茂吉氏で、大西氏は、「訓盲学会」を設立するなど進取の気風を持った人物であった。

この学校は、工期が早い、しかも性能が「土蔵造」と変らない、という「煉瓦造建築」の特徴:有効性を広める大きな役割を担うことになる。
以後、「木骨煉瓦造の建物は、土蔵と変らない恒温恒湿性能を持ち、しかも、3ヶ月でできる(木造本体完成後)」という特徴が評判をよび、「土蔵造」に代る工法として、樋口窯業の近在を中心に、字のごとく波状に広まっていった。

東京では、洋風建築と見られた煉瓦造建築も、喜多方ではまったくそれとは無関係、煉瓦を単なる新しい一材料として建物づくりに使ったにすぎなかった。
小屋組へのトラスの利用も、豪雪地帯の架構法として向いている、いわば「適材適所」という考えから採用されたと言ってよいだろう。

そして、このように、洋風、様式などにこだわらないところこそが、「実業家」の実業家たる所以、実業家の真骨頂と言ってよい。それは、19世紀の西欧のengineerたちの鉄やガラスへの対処の仕方に共通するところがあるのではないだろうか。

しかし、1970年(昭和45年)、そのころ盛んになった自動車運送によって、価格が廉い地域外の大量生産の瓦が会津に入るようになり、樋口窯業は廃業に追い込まれる。
以後、補修等の需要にこたえるべく年に数回の焼成を行ってきたが、現在はほとんど行われていない。しかし、今もって、喜多方煉瓦の潜在的な需要は、相当に多いという。

以上の、写真、図版、解説とも、以下の書によっている。ここでは省いた煉瓦生産の詳細等も同書に書かれている。
①北村悦子「会津喜多方の煉瓦蔵発掘」普請帳研究会刊
②北村悦子「いまに生きる明治の浪漫・喜多方の煉瓦蔵」喜多方煉瓦蔵保存会刊
③「住宅建築」1989年11月号 特集・煉瓦造建築再考  
   ①は市販されていない。②は喜多方市内で購入可。
   
   註 ②も、今は購入できないようだ(08年8月追記)

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「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1

2006-12-16 18:37:58 | 煉瓦造建築

すでに書いたが、「実業家」とは、実務家、今の言葉で言えば職人・職方たちのこと。
明治新政府の主導による「近代化」推進の流れのなかでも、当初は、ものづくりの中心的存在として、各地の「実業家」は、あいかわらず(江戸期と変らず)信頼を置かれ、また自らも率先して充実した仕事ぶりを発揮していた。
官主導の「近代化」ではあったが、官・政府の側には、ものづくりを差配しようにも、当初は力がなく、「実業家」たちに頼らざるを得なかったのである。

もちろん、官の側が、絶対的な差配をあきらめていたわけではなく、官の「統治」の圧力を強める機会を常に狙っていた。
建物づくりの場面では、濃尾大地震や関東大震災は一つの契機であり、そして、官による民の「完全制覇」は、第二次大戦後、「民主主義」の名の下に、実現してしまう。他の場面でもおそらくそうだろう(それが「民主」ではないこと、ことによると、江戸期よりも上意下達が徹底してしまったことについては、別の機会に書こうと思う)。
 
さて、「実業家」たちが存分に活躍していた頃(活躍することができた頃)、各地にすぐれた建物や構築物が続々とつくられた。会津・喜多方(福島県)の煉瓦造建物群もその一例である。

喜多方には、街中はもとより、農村部にも煉瓦造建物があり、ことによると農村部の方が多いくらいだ。
「煉瓦」といえば、大方の人は、明治初期に導入された洋風建築を思い浮かべるはずである。その先入観で見れば、喜多方の風景は奇異に見えるだろう。なぜ、会津の農村に洋風建築があるのだ?
 
北日本、東北地方を縦断する奥羽山脈は、新潟と福島のあたりでは、複雑な山塊となり、その山塊の南側の奥深くから大川(阿賀野川の上流)と只見川の二本の大河が北上する。
このうちの大川が福島北部で磐梯山の山系にぶつかり滞り、氾濫原をつくる。そこが会津盆地。そこに猪苗代湖からの日橋川(にっぱしがわ)が東から流れ下り合流、さらにその下流で只見川を合せ、西へ向きを変え、阿賀野川となり日本海へ下る。
喜多方は、会津盆地の内の日橋川の北部一帯の地域の中心地で醸造や漆器で栄えていた。山を北に越えれば山形県米沢。
この町のあちらこちらに煉瓦を使った建物を数多く見かけるのである。

喜多方の煉瓦造の建物は、「煉瓦蔵」と一般に呼ばれているが、上掲の写真は、喜多方の煉瓦蔵の典型として挙げた。
上の樋口家の煉瓦蔵は、当地の煉瓦蔵の材料の煉瓦を主に製造していた樋口窯業を営んでいた樋口家の蔵で、躯体を煉瓦だけでつくる「組積造」:通常の煉瓦造である。喜多方では、「組積造」の煉瓦蔵は数は少ない。

   註 上掲樋口家の煉瓦蔵の説明中、壁:煉瓦1枚積は誤記。
      正しくは1枚半積。

喜多方の煉瓦蔵で圧倒的に多いのは、下の若菜(徳)家の煉瓦蔵に代表される「木骨煉瓦造」である。
これは、普通に木造軸組をつくり、軸組間に外側から煉瓦壁を積んでゆく工法で、柱のほぼ中心まで煉瓦壁を喰い込ませる。
したがって、内部は真壁となり、煉瓦のままではなく漆喰を塗る例が多い(漆喰を塗ると、内部は普通の木造家屋と変らない)。

明治の初めには、東京や横浜でも木骨煉瓦造があり、その多くは、喜多方と違い、木造軸組の外側に煉瓦を積む方式だったという。この方式は、大きな地震時に木造軸組と煉瓦壁とが別個に動き、破損しやすかった。
一方、喜多方方式では、新潟地震に際しても、破損の例はなかった。木骨に噛ませてあるためと思われる。

上掲のアキソメ図は、「組積造」と「木骨煉瓦造」の工法の説明図。
注目すべきことは、このどちらも、小屋組にトラスが使われていることである。この地域では、かなり早くからトラス組が使われていたようだが、その起源は今のところ不詳である(煉瓦蔵でなくてもトラスは使われている)。

なお、セメントモルタルが普及する以前は、目地材には、砂漆喰が使われていた。
砂漆喰の方が、亀裂が入りにくく、新潟地震でもセメントモルタルに比べ圧倒的に亀裂が少なかったという。
砂漆喰には調湿性があり、セメントモルタルのように固化せず、常に弾力性を維持しているからのようだ。

喜多方では、第二次大戦後も、昭和45年(1970年)ごろまで、木骨煉瓦蔵は建設され、その数は20棟をくだらないと言い、潜在的需要はそれ以上であったらしい。
 
なぜ、喜多方に煉瓦蔵が多いのか、については次回。
 
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実体を建造物に藉り...・・・・何をつくるのか

2006-12-14 11:09:53 | 専門家のありよう

先に、明治の建物づくりにかかわる「実業家」にとっては、「何をつくるか」は自明であった、と書いた。
しかし、明治になって新たに誕生した「建築家」にとっては、「何をつくるか」が最大の問題であった(あるいは、今でもそうなのかもしれない)。

「アーキテクチュールの本義は・・実体を建造物に藉り意匠の運用に由って真美を発揮するに在る。・・」と説いた伊東忠太の主導する教育の場面では(12月5日紹介)、立面図を先ず作成、その立面の建物はいかなる用途に供すべきか、という《設計》演習が行われていた(平面図は存在しない!)。実際にその《演習成果物:図面》を見たときは、さすがに絶句した記憶がある。図面自体は実に見事ではあったが・・・。

けれども、最近都会に建つ建物を見ていると、それが真美であるかどうかはさておき、《実体を建造物に藉り、巨大造形あそびをしている》ようで、「建築家」の世界には、この間、何ら進展がなかったのでは・・とさえ思う(ただし、成果物は、かつての学生の方が上出来!)。

第二次大戦後、困窮下の日本で、建築界は二つの大きな派に分かれ、論争が華やかに行われていた頃があった。1950年代のことである。その論争各派のいわば代表が、西山卯三氏と丹下健三氏である。

西山卯三氏の論は、「国民住居論攷」の延長上で論じられたもので、その趣旨は上掲の図式でまとめられよう。それは、先ず「生活(の型)を決める」「用を考える」ことから始まる、という論と言ってよい。同書は1944年:昭和19年という戦争末期の刊行ではあるが、その後の「建築計画学」研究のバイブルとなり、そして51C型(1951年:昭和26年:公営住宅標準設計)に始まるいわゆる〇DKという呼称で知られる戦後の公営住宅標準設計の基礎となった書である(住宅を〇DK、〇LDKなどとして表す方式は、今もって健在である!)。

一方、丹下健三氏は数々の建物をつくるかたわら、「建築計画学」の研究、そしてそれに基づく建物づくり(上掲の図式の過程を追う設計法)を「調査主義・・」として批判し、「・・機能と表現の統一の過程が建築の創造そのものである。その統一を可能にする為には、現実の認識に於いて、その土台と上部を、その展開しつつある全体像に於いて捉えることを必要としている。現実の認識とは、現実の現象のありのままの反映ではなく、獲得しつつある現実の反映である。・・」と書いている(「新建築」誌 1956年6月号。なお、「新建築」誌をはじめ当時の建築系雑誌では、この前後、いろいろな論が毎号を賑わしていた。今の建築ジャーナリズムからは考えられない)。

この丹下氏の一文は、はたして書いている本人も理解しているのかどうか疑わしい文意不明な言い回しの連続だが、要するに「かたちをイメージすること」の内に、すでに「(獲得しつつある)現実の認識」がある、つまり、先ず「かたちのイメージ」「形の考察」から始める、ということだろう。

ただ、はっきり言えることは、両者の見解には大きな隔たりはあるものの、その底に共通して、建物づくりにかかわる人としての「倫理観」があった、ということである。それは、困窮下の社会状況に在る者として、当然のことだったのだろう。
その点では、最近の「建築家」の「かたち論」は、もはや、両氏と通底するところはまったくない(もはや、戦後ではない!?)。「実体を建造物に藉り、自らの造形センス(?)を発揮する」のが建物づくりと思い込み、ベルラーヘの言い方で言えば(12月8日紹介)、「まがいもの、借り物(模倣)、無意味な(虚偽の)」建物ばかりになっているように私には思える(反対の極に、これと呼応しつつ「実体を建造物に藉り、金儲けに徹する」人たちがいる)。

西山・丹下論争、つまり「用か美」か、「用か形」かという論争は、私には、「卵が先か、鶏が先か」という不毛な論争に思えた。かと言って、その論争の上を行く、その両論を論破するだけの力は、当時の私にはなかった。

論破する論の構築のきっかけになったのは、いくつかの書物。そして得たのは、簡単に言えば、根本は「ものの見かた」にあるということ。世にはびこっていた「いわゆる科学的方法」を見直す必要があるということだった。
先に紹介したハイゼンベルクや、ハイデッガー、サンテグジュペリの書も、見直しのためのきっかけになった書の一つ。

今日は、もう一つ、別の書物から、わが意を得た一文を、少し長いが紹介させていただく。
  ・・・・
  我々はすべていずれかの土地に住んでいる。
  従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を『取り巻いて』いる。
  この事実は常識的にきわめて確実である。
  そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、
  ひいてはそれの『我々』に及ぼす影響をも問題とする。
  ある場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に、・・・・
  それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。
  しかし我々にとって問題となるのは、
  日常直接の事実としての風土が、はたしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。
  自然科学がそれらをそのまま自然現象として取り扱うことは、それぞれの立場において当然のことであるが、
  しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。
  ・・・・
  風土の現象において最もしばしば行われている誤解は、
  自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、
  それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、
  単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。
  ・・・・                      (和辻哲郎『風土』:岩波書店刊 「風土の現象」より)

対象を分解し分析することをもって「科学的方法論」と見なす考え方をくつがえすにはこれで十分。
生活と空間、生活と環境、自然と人間・・こういった二項対立的発想法・考察法は、こと人のかかわる問題には本質的に不向きなのである。

しかし、大方は、依然として「用」か「形」のどちらかだけで建物づくりを考える。「用」なるものを重視すれば11月23日の「道」で紹介した「迷子を誘発する病院」になり、「形」なるものを重視すれば、最近の都会のビル群となる。

いったい、建物づくりとは、何をつくることなのだ?

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分解すれば、ものごとが分かるのか-補足・・・・日本の古い農家のつくり

2006-12-13 09:16:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた

 前回(12月12日)の記事で、住居の基本・原型は、中国も日本も同じ、自分たちが安心して居られる囲い:空間をつくること、屋根の有無で、屋内、屋外に分けてみる「『環境』に対する現代の見かた」は誤っている、と記した。

 ただ、日本の古い住居を例示しなかったので、現在日本で最も古い遺構と言われているその名も「古井家」の図と写真を、「日本の民家3 農家Ⅲ 近畿」(学研)から転載、簡単に紹介する。
 「古井家」は、もう一軒の「箱木家」(神戸市近郊に現存)とともに、地元で「千年家」と呼ばれている。

 なお、平面図、断面図の網掛け部分は、「下屋(げや)」の部分を示している。当時、「折置」の柱・梁からなる軸組を幾通りか並べ「上屋(じょうや)」をつくり、その周囲に「下屋」をまわすつくりが一般的だった(下屋は4面~1面任意につくる)。
 そのため、内観写真のように室内に上屋を支える柱が、ほぼ等間隔に林立する。この柱をどうやって除くかが長年の懸案、江戸期の改造で、邪魔になる柱が撤去された。

 この住居には、屋敷構え(塀、垣の類)はない。住居は外界に直接接して建つ。それゆえ、ほとんど開口のない壁に囲われた空間がつくられる。
 中国と違うのは、囲いにすべて屋根をかけることと、囲いの中の仕切りが、軸組に左右される点。中国なら、仕切りはいわば任意。
 古井家の「にわ」:土間は、中国では屋根のない土間部分に相当。また、日本では一段上った床は木製、中国では土壇。

 なお、古井家の壁が外部が塗り篭めになっているのは、一つには、寒冷な中国山地に建っているからだろう。

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分解すれば、ものごとが分かるのか・・・・中国西域の住居から

2006-12-12 01:49:16 | 「学」「科学」「研究」のありかた

今、建築にかかわる人たちの世界では、その対象を、屋内・屋外・村・町・都市・・のように、私たちをとりまく環境:surroundings:をスケールによって分解して語るのがあたりまえだ。
たとえば、わが国の場合、「住居」と言えば、「人が暮すための建物」を指すのが常識的な理解であり、それに対して、建物の外は、屋外、外部空間、庭、外構・・と呼ばれ、今では設計も、建物とは別個に考えられるのが普通になっている。

この《常識的な見かた》では、上掲の中国西域の住居は、いわば「コートハウス」、塀で囲まれたコート:中庭を持った住居:として理解されるだろう。つまり、住居+コートを塀が囲んでいるという理解である。そしておそらく、設計も、そして工事も、住居の建物をつくり、次いで塀をつくり、コートを整備する、という順序をたどるだろう。主役は住居の建物なのである。そして、上掲の例も、そのような過程を踏んでつくられる、と思うにちがいない。

ところが、中国の人たちが最初にやることは、屋根のかかった建物をつくることではない。建設中の例をいくつか見たが、彼らは先ず、囲い:塀(図の赤く塗った部分)をつくることから始めるのである。囲いの中の室(房と呼ぶようだ)を区画する壁は後回し。
大事なことは、すぐさま、塀の一画にあけられた門に門扉を取り付けること。これができれば、一段落、住まいの根幹ができあがったことになる、そう彼らは考えているようだ。極端なことを言えば、囲いの中でテント暮しをしてもよいのである。門を閉めた囲いの中なら、安心して暮せる、というわけだ。
つまり、彼らにとって「住居」とは、「囲い:塀で囲まれた空間」のことを言い、屋根がある建物のことを指すのではないのである。

この考え方は、実は、中国特有のものではなく、わが国の住居でも同じなのであって、むしろ、現代の私たちが、見かたを誤っていた、と言った方がよい。

わが国の住居遺構:古い住居:を見ると、多くの場合入口は1乃至2、開口が少なくきわめて閉鎖的である。閉鎖性を強くしているのは、屋根がかかって内部が暗いからである。
ここから屋根を取り去ったらどうなるか。何のことはない、上掲の中国の例と、さほど変らないのである。つまり、屋根が全体にかかるか否かは、気候のせい。人が求める空間としては、同じだと言えるのである。これは、世界の他地域の住居でも同じことが言える。

わが国の農家には、南面、あるいは南面から西面または東面に吹き通しの縁側を設ける例を数多く見かけるが、それらをよく観察すると、いずれも見事な「屋敷構え(土塀、板塀、生垣、屋敷林など手法は多様)」があることに気付く。
つまり、「屋敷構え」があるがゆえに、建屋を開放的にすることができたのである。屋敷構えがないのに、縁側を設ける例は、ないと言ってよい。
そのとき、屋根のかかった建物が住居なのではなく、「屋敷構えの中全部」が、「住居」なのである。
寝殿造の建物は、当初から開放的であるが、それは、寝殿造の建物は、塀で囲まれた屋敷の中にあったことを見忘れてはならない。

住居とは本来こういうものだった、と理解すると、現在の住居設計、ひいては建物の設計、そして根本的には建築に対する理解が、深くて暗い落とし穴に落ち込んでしまっていることに、あらためて気付くはずである。
実際、わが国でも、近世までの人びとは、建物と庭を別個に考える、などというばかげたことはしていない。すべてを一体のものとして考えるのが、あたりまえ:常識だった(その事例については、別途書くことにする)。
では、なぜ、現代は(現代人は)落とし穴にはまってしまったのか。
その理由を示唆する一文を以下に紹介する。
 
「・・・かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。認識するためには分解すればこと足りるとする誤った学問の与える幻想にたぶらかされるからである(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ)。・・・」サン・テグジュペリ『城砦』(みすず書房)より

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「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃

2006-12-10 00:10:25 | 専門家のありよう
 12月5日の『日本の「建築」教育の始まりと現在』で、「建築」の語は、本来はarchitectureの意ではなかった、と書いた。
 そして、「建築」が字の通り「建築」の意であったころの1890年(明治23年)、『建築学講義録』という著作が刊行されている。その「内表紙」と、その書の刊行の「主意」(目的)、第一章のはじめの部分が上掲のコピー。

 これは、大阪に設立された「工業夜学校」の建築学科の講義の内容で、当初は月刊だったが、1896年(明治29年)に全三巻からなる合本が出版され、以後1910年(明治43年)まで、16版を重ねるロングセラー本であった。

 著者の滝大吉は、1883年(明治16年)の工部大学校第6回卒業生だから、伊東忠太(1892年:明治25年卒業)の先輩にあたる。
 工部大学校の卒業生は、他の官立学校の卒業生同様、そのほとんどすべてが中央や各県の官庁のエリートとして権勢をふるうのが常だった。
 滝大吉も、当初は陸軍の嘱託として軍関係の建物づくりに関与していたが、1890年(明治23年)、大阪に「工業夜学校」を開設し、自ら建築学科で「建築学」を講義することになる。その講義内容をまとめたのが「建築学講義録」。

 この「夜学校」の受講生は、主として、建物づくりにかかわる各職の職方・職人の人たち、同書では、「職人」のことを「実業家」と言っている。この語はまことに言い得て妙。官製のエリートたちが権勢をふるう前、日本の建物づくりは「実業家」:職人・職方に大半が委ねられていた。江戸幕府の作事奉行も、彼ら職人の技術・技能をよく知り、彼らを信じて指図をしていたことがいろいろな事例から分かる(現代の役人と大きな違い!)。
 「実業者」:職人たちは、日本の「技術」とそれを適切に用いる「技能」を身につけていたが、新来の、しかも急速に導入される西欧式技術については知らなかった。

 一方で、西欧化を至上命令としたエリートたちは、西欧式技術の《知識》は持っていたが、日本の技術は知らず(知る必要も認めず、ゆえに知ろうともしなかった)、もちろん自ら手を下して建物をつくる「技能」を持っているわけもなく、有能な職人の協力をかならず必要とした。
 滝大吉は、この現実を身をもって知り、西欧式技術を、広く世に開示しなければならない、と考えたのである。
 もっとも、官の側も、少し遅れて、西欧式建物を実際につくれる職人の養成のための「工業学校」、「工手学校」の開設の後押しをしている。

 けれども、職人は、いつの時代でも、その性分:職人気質として、新しい技術の修得に目を輝かす。彼らが「工業夜学校」にすすんで通ったのは、かならずしも建物の西欧化に賛同したからではなく、むしろ、新しい技術の修得が目的であった。「建築学講義録」が16版を重ねるロングセラーになったのも、日本各地の職人:実業家たちが、競って西欧式技術を知ろうとしたからであり、今でも各地の代々職人のお宅を訪ねると、蔵の奥に、古びた同書が積まれていたりする。
 各地に、いわゆる「擬洋風」と呼ばれる建物があるが、それは、西欧式技術を身につけた職人たちが、自ら蓄えていた日本の技術にそれを融合してつくりあげた例が大半なのである。

 さて、上掲の講義録の「主意」を要約すると、次のようになる。
 「世の中では、かつての萬屋主義は不可という意見が強く、あえて反論はしないが、そうかといって造家の分野について言えば、高踏な話はいくらもあるが、実業者に役に立つ書物さえないではないか。これでは話にならないゆえ、この書を世に出すのだ。・・・」
 また、「建築学の主意」では、
建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問
とのまことに明快な解説が施されている。
これは、言うならば、「デザイン」ということばの本義に等しい解説だ。

 ここで注目する必要があるのは、エリートたちが「どのような(様式の)建物をつくるか」という議論をしているにもかかわらず、「実業家」:職人たちは、それには興味も関心も示していないことである。
 それは、彼らが「建物づくりの専門家」だったからである。彼らにとって「何をつくるか」は自明のこと、「いかにつくるか」が問題と言えば問題だったのだ。だからこそ新技術書が広く読まれ、そして、それゆえに「擬洋風」の建物をつくり得たのである。
 では、彼ら「実業家」にとって、なぜ「何をつくるか」が自明であったのか。
 それは、当時の「実業家」:職人は、常に人びとの生活と共にあり、そこにおいて、「何をつくるか」=「何をつくるべく人びとから委ねられているか」自ら検証を積み重ねていたからにほかならない。
 実は、それが専門職の専門職たる由縁、そして「技術」「技能」はその裏づけのもとに、はじめて進展し得たのだ。


 だが、新たな職種「建築家」:エリートたちの誕生とともに、かつての真の専門職は、単なる作業者に貶められ、そして彼らに蓄積されていたノウハウは、近代化の名の下に、切り捨てられ継承さえままならなくなってしまった。とりわけ、木造建築が受けた「被害」は、甚大である。
 そして、それは、現在まで、尾をひいている。


 追記 滝大吉は、わが国で最初に建築事務所を構えた人物である。
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まがいもの・模倣・虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事

2006-12-08 01:57:54 | 設計法

 日本で建築の西欧化(近代化):西欧のいわゆる「様式建築」の習得:を目指した教育が始まり、伊東忠太が主導権をにぎり、西欧のどの様式を採り入れるか、などの論議に熱中していた1890年代(12月5日の「日本の『建築』教育」)、すでにヨーロッパでは一歩先へ進む動きが胎動していた。

 19世紀末のヨーロッパの建物は、言ってみればめちゃくちゃな様相で、過去の様式の適当な寄せ集めで表層を装う類が横行していたという。そして、今のヨーロッパの街並をつくっている建物の大半は、この種の建物だそうだ。

 同じ時代、このような風潮の建物づくりを、「倫理性の欠如」として、嘆き、批判し、弾劾する動きがなかったわけではない。もちろん少数派だ。しかし、発言し、行動した。
 その一人がオランダの建築家、ヘンドリック・ペートルス・ベルラーヘ(Hendrik Petrus Berlage,1856~1934)である。彼は、当時一般に流行していた建物を「まがいものの建築、すなわち模倣、すなわち虚偽(Sham Architecture;i.e.,imitation;i.e.,lying)」として弾劾し、「われわれも両親も祖父母も、かつてなかったような忌むべき環境(surroundings)に生活してきた。・・虚偽が法則(rule)となり、真実(truth)は例外となっている」と述べた。
  註 i.e.=that is:すなわち

 そのH・Pベルラーヘが設計したのが、上掲写真の「アムステルダム証券取引所(1898~1903)」。
 この建物からは、一見したところ、何ら新しい点は見出せない。材料は各種の石にレンガ、19世紀らしい材料は鉄とガラス、それとても他のそれらを使った同時代の建物に比べれば控えめだ。先のラブルーストの建物のように目を見張るようなところはない。

 ベルラーヘは、ロマネスクの建物に興味があり、中世の建物を地道に調べていたようだ。
 ロマネスク:通常区画される時代区分では数百年におよぶ。もちろんロマネスクという呼称は、後の時代の人が、いわば「勝手に付けた分類名」にすぎない。
 要は、中世、十字軍の派遣で荒廃、疲弊したヨーロッパ各地で、かつてローマ帝国が遺していった建物遺構に範をとり、ときにはそこに材料を求め、各地の名も無き人びとが、信仰の場を自らつくり上げていった、それら一群の建物、素朴にして、率直な、必要なもの以外、余計なもののないつくり、・・それらが通称ロマネスク建築。後のゴシックなどよりも数等心をゆるがす凄さ、人懐っこさがあり、私も好きだ。それは、日本を含め、各地の農山村に遺る住居や農作業小屋などの建物に感じる「何か」と同じである。  

 ベルラーヘは、「・・裸のままの(飾り物のない)壁をすべて、その滑らかな美しさの中に表すべきだ。・・角柱も円柱も、壁からとびだす柱頭など付けるべきではない。平坦な壁面に融合されるべきなのだ・・」と述べているという。
 柱頭:キャピタルは、本来、日本の斗や肘木に相当する役割を持っていた部分。その役割が必要なくなってからも、西洋では、飾りとして、形式として、柱の上に設ける《慣わし》が長年にわたってあったのである。これは、日本で、平安以降、桔木を使うようになってもはや不要になった斗や肘木を、形式的に付け続けたのと同じようなもの。
 ロマネスクの建物の多くには、そのような「飾りもの」はない。柱型は素直に壁に移る。おそらく、彼は、ロマネスクの建物に「本物」を観たのだろう。

 この考え方を実行に移したのが「アムステルダム証券取引所」である。たしかに、その表情には嘘偽りがない。力の流れが素直に見える。鍛鉄製のアーチ梁を受ける柱型、それの壁への取り付き方。すべて納得が行く。材料の使い方も素直にそれに応じる。だから、見ていて疲れない。心地よい。決して19世紀の先端を行くつくりではないが、それでいて「新しい」。
 
 かつて、横川の変電所の遺構に接したとき、そのつくりかたから受ける感じは、どこかで感じたのと同じだ、と思った覚えがある。その「どこか」が、「空間・時間・建築」で見た「アムステルダム証券取引所」だった。

 今、東京をはじめ都会に続々と建つ建物。都会に暮す人たちは皆、あの姿に共感を感じているのだろうか。
 倫理性の欠如、などと大それたことは言わない。節操がない。倫理性以前の話。

 写真は“Space,Time and Architecture"よりの転載。
 解説は、同書および近代建築史諸資料による。 
 

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閑話・・・・月に思う

2006-12-06 18:56:02 | 「学」「科学」「研究」のありかた

 昨夜(12月5日の夜)は満月だったようである。
 深夜、何気なく外を見やると、樹々の陰が、うす青くくっきりと地面に映し出されている。風はない。地面が白く光っているのは霜が降りているからだろう。澄んだ藍色の空の真上深くに月は輝いていた。
 宮沢賢治の詩を思い出した。「月天子」という上掲の詩である。

 宮沢賢治が、天文や地質や気象、生物・・など自然科学に堪能(かんのう・たんのう)だったことはつとに有名である。けれども、そこで得られる「科学的知識」だけでものごとを割り切ってみる観方を、彼は心底から嫌っていた。
 「春と修羅」にも次の一節がある。
  ・・・
  けだしわれわれがわれわれの感官を感じ
  やがては風景や人物を信じるやうに
  そしてただ共通に信じるだけであるやうに
  記録や歴史あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といっしょに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれが信じているのにすぎません
  ・・・
    註 論料には データ とルビがふってある。

 彼は、一編の作品を完成させるまで、何度も推敲を重ね、ときには作品名も変ることがしばしばある。
 「グスコーブドリの伝記」(昭和7年:1932年発表)という名で知られる童話にも、「グスコンブドリの伝記」という母型がある。
 ある一節を、両者で比較してみよう。それはブドリが火山局の技師に初めて会う場面で、技師(博士)が彼に語ったことば。

「グスコーブドリの伝記」
 ・・・
 ここの仕事は、去年からはじまったばかりですが、じつに責任のあるもので、それに半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖といふものは、なかなか学問でわかることではないのです。われわれはこれからよほどしっかりやらなければならんのです。・・・

「グスコンブドリの伝記」
 ・・・
 ここの仕事といふものはそれはじつに責任のあるもので半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖といふものはなかなかわかることではないのです。むしろさういふことになると鋭いそして濁らない感覚をもった人がわかるだけなのです。たださういふ感覚をもった人がわかるだけなのです。私はもう火山の仕事は四十年もして居りましてまあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますがいつ爆発するかどっちへ爆発するかいふことになるとそんなにはきはき云へないのです。そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、あなたは命をかけて、わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのためにはたらくものなのです。・・・

 どういう理由で変えたのかはよく分からないが、「グスコンブドリ・・」で彼が書いた内容の方が、きっと彼の率直な思いだったのではないだろうか。


 おそらく、今、小学校の高学年生に、太陽と地球の関係を問うと、多分全員が、地球が太陽のまわりを回っていると答えるだろう(大人はどうだ?)。彼らは「科学的」なのだろうか。私の答は否。太陽が地球のまわりを回っていると答える子どもの方の感性を私は信じる。第一、大人だって、今でも「日の出」「日の入」ということばを使っているではないか。
 「科学的事実を知っている」ことと、「分かっていること」とは、まったく違うことなのだ。 
コメント (1)
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道・・・・つくばの道は....

2006-12-06 01:43:30 | 居住環境

 今から10年前の1996年、次のような一文をある刊行物に書いた。

 「1970年ごろ、・・私は造成中の(筑波研究)学園都市をしばしば訪れていた。東京から車で国道6号を走り、昔からの細い街道にのって北上する(注:筑波山を目指す)のが目的地へのルートであった。街道は近世以来受け継がれてきた道で、わずかに高い丘陵の尾根を走り、水田の広がる谷を渡ってはまた別の丘陵へと、うねうねと曲がりながら北へ進み、谷に沿う丘陵の斜面には、まだ茅葺の屋根を残す家々が樹林に囲まれひっそりとかたまり、そのたたずまいには心和むものがあった。しかし、街道は造成工事のために寸断され迂回を重ね、私の「頭の中の地図」は混乱するばかりであった。あらためて一帯を地図で眺めてみて、いかに《開発》が昔の街道をはじめ既存の居住環境を荒っぽく蹂躙しようとしているかがよく分かった。いまでも開発区域を一歩出れば、心和む既存の居住環境が残り、《開発計画》による居住環境との違いを如実に知ることができるのだが、この残されていた心和む既存の居住環境も、新たな《人と自然の調和した開発》によって、まもなく消えようとしている。・・・」

 それから10年経った今日、心和む居住環境は、もはや開発地域には見出せないほど様変わりした。人と自然の調和した開発、旧住民と新住民との調和ある開発・・、これらのうたい文句はすでに死語に近い。というより、もともとそれは単なる聞こえのよいうたい文句にすぎなかったのだ。
 第一、計画当初言われた、これまでのベッドタウン計画とは違い、新都市を中心とした圏域をつくるのだ、という意気ごみは、とっくの昔に消え去った。
 これは、成田に空港をつくる理由として言われた「羽田はこれ以上の拡幅が無理だから」、というのが方便にすぎなかったのとまったく同じ。今、羽田は新たな滑走路をつくり、国際線を発着させようとしている。そしてつくばは、常磐新線:TXの開通によって、今、ベッドタウンへの道を歩みだした。おそらく、東京からつくばまでの一帯は、いずれは、東京の西部と同じように、住宅で埋め尽くされるに違いない。それは、学園都市の計画に際しモデルとされたケンブリッヂのような街とはまったくかけ離れた姿である(ロンドンからちょうど同じような距離のケンブリッヂとロンドンとの間には、今でも広大な田園が広がっている)。

 東京の環状8号線、通称カンパチが、本来どういう意味を持っていたか、それを知る人は、今ではほとんどいないだろう。当初、環8の外側20キロ(数字は違うかも知れない)は、新たな住宅などは建てられないグリーンベルトとして、そこには公園や清掃工場などが計画されていた。現在の砧公園緑地はその名残りの一つ、そして、環8沿いにいくつかの清掃工場があるのもその名残り。しかし、東京への人口集中対策として、あっさりとこの計画は反故にされ、そして東京のはずれまでべったりと住宅で埋め尽くされたのである。
 日本の都市計画というのは、計画の名に値しない、まさにご都合主義そのものと言ってよい。

 さて、上に掲げたのは、1970年(昭和45年)当時の学園都市開発区域の地図と空中写真である。両者はほぼ同じ縮尺。また、地図上の点線は、学園都市の基幹道路である。そして、赤い線は、この地域に暮す人びとの生活道路であった。「あった」と書いたのは、先の文に書いたように、開発された新しい道に蹂躙され、今では地域と無関係な車が抜け道として疾走する道に変ってしまったからである。
 注 地図は国土地理院発行5万分の1地形図(1970年版)をもとに筆者作成
   空中写真は、1947年米軍撮影(国土地理院保管)

 この一帯は、わずかな「谷地」以外は地質の関係で(地下1~2mに粘土層があり、水はけが悪く、また飲用の井戸水も得にくい)耕作地に不向きで、壮大な赤松林が広がり、近在の集落の薪炭林、近世には江戸の薪炭の供給地、戦時中は松根油の採取用地として使われていた。
 開発当時、これらの林は、薪炭の需要がなくなったことにより、荒廃してはいたが、しかし、それを不要、無用な土地と見なしてしまったのは、計画者・都会人のひとりよがりであった。
 なぜなら、この地域も、他の地域と同じく、この地域の集落に暮す人たち、その先達たちが、農民として、この地に耕地となる土地を探し、居を構え、山林原野を切り開き使うことによって生きてきた、その営みの姿が、いかに荒れていようとも、刻まれているからである。
 一見雑然として見える集落・水田・道などすべては、生活を営む上であみだした彼らの環境とのとりくみの結果の姿なのだ。地図をよく見ると、道や集落は谷地に沿って並んでいることが分かる。実際、人びとは谷地を通してのまとまりがあったのである。

 ところが、開発道路は、こういった人びとの暮しの様、歴史をまったくかえりみることなく、ものの見事に分断していった。
 地図上、刈間集落から玉取集落へ向う道がある。これは取手から谷田部を抜け、筑波・北条へ向う地域の人たちにとっての重要な生活道路・街道である。しかし、今、刈間から玉取の間は、存在しない。開発で消えたのである。
 この点について、計画者に、なぜ元々の道を活かした計画ができないのか、と尋ねたことがある。答は、十分に、お釣りがくるほど交通量のある道路をつくった、だから問題ない、であった。この地域の人びとの間に厳然として存在していたはずの「空間感覚」は、完全に無視黙殺されたのである。これを「調和ある計画」などと言ってごまかしてはならない。

 つくばから西側、TXの沿線は、実はこの地域でも有数の農村地帯であった(徳川幕府が、伊奈備前守に命じて懸命に開拓したのが、谷和原、伊奈一帯、今のつくばみらい市である)。けれども、農村が農村として生きてゆけるかどうか、はなはだおぼつかない。農村は、一番食糧を必要とする都会によって、どんどん追い詰められる。これを「計画」「開発」と言って素直に喜んでいてよいのだろうか。

 つくばの道は、新たな環境破壊への道なのかもしれない。

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