建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「第Ⅳ章ー3ー1椎名家」 日本の木造建築工法の展開

2019-09-17 13:13:03 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A1,2」A4版8頁

 

 「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ  近世ー3」

・・・・数学的な自然研究は、正確な計算がおこなわれるから精密なのではなく、その対象領域への結びつきが精密さの性格をもっているので、そのように計算されねばならないのです。  これに反して、すべての精神科学さらに生活体についての諸科学も、まさに厳密であろうとすれば、必然的に精密さを欠くことになるのです。 つまり生物を或る時間-空間的な運動量として把えることはできても、そのときはもはや生物として把えられてはいないのです。

 歴史記述的な精神科学の不精密は、なんらの欠陥ではなくて、この種の研究の仕方にとって本質的な要求を充たすことにすぎないのです。むろん歴史記述的な学問の対象区域の企画と確保とは、仕事の面からいっても、精密科学(自然科学)の厳密さの実行よりも、遥かに困難なのです。・・・・               ハイデッガー「世界像の時代」(理想社)より

 

・・・・我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を「取り巻いて」いる。この事実は常識的にきわめて確実である。 そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、引いてはそれの「我々」に及ぼす影響をも問題とする。有る場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に・・・・それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。

しかし我々にとって問題となるのは、日常直接の事実としての風土が果たしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。・・・・

・・・・風土の現象において最もしばしば行なわれている誤解は、自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。・・・・                和辻哲郎「風土」(岩波書店)より

 

 一体世界のいろいろな民族は皆それぞれ独自の形式の生活を営みそしてそれに相当する独自の様式の家に住んでおります。これを発生的に考えて見まして、どこの民族の家も一室主義に出発してそれに多少の潤色を附加せられたものになっております。蒙古の包(パオ)やアイヌの小屋を初めとして我々の先祖の住宅だったと考えられる伊勢の神宮や出雲の大社なども「妻入り」「平入り」の差だけで一室主義を原則としたものだったのでしょう。そしてその原始型からやがて、寝る所だけを別にした形式が生まれます。世界中の住宅には実にいろいろの種類があり、それに大小の変化もありますが、この根本の要領だけはそのまま維持されているというて決して間違いありません。この意味で、我々日本人の従来の百姓家も町の「しもた家」も立派に民族の家たる資格を持っておるのです。

・・・かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。そして日本人は今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。  しかし、私は深くそして堅く信じます。タウトは桂離宮に驚く前にまず所在の日本の百姓家に驚けばよかったのです。そしたら日本に滔々として百姓家を見直すということが風靡したかもしれませぬ。

 従来とても我々の間に「民家」の研究という種類のことはありました。しかしこの研究には何か「取り残されたもの」に対する態度、「亡び去らんとするもの」に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきているのが実情です。 しかし私の考えによれば、私どもが軽々にこれを「民家」と呼ぶことがすでにいけないのです。私どもはこれを「民族の家」といい直さなければなりません。そのとき我々のうかつにも軽蔑してきた百姓家が、実に厳然としてさんらんたる白日光を浴びながら私どもの前に立ち現れてまいります。私どもはじかにこの民族の「たましい」に面接しようではありませんか。・・・         遠藤 新「一建築家のする―日本インテリへの反省」(雑誌「国民」)より

 

Ⅳ-3 近世の典型-3:住宅建築

 先に、室町時代末に建てられたと考えられる農家住宅、古井家箱木家を観ましたが、それ以降、近世:江戸時代になるまでの間の一般庶民のかかわる建物:住宅の遺構は存在しません。

 しかし、近世につくられた建物を見ると、その間に、農家住宅はもちろん、一般庶民の建物づくり:住まいづくりの技術は、格段の展開を見せたことが分かります。

 ただ、その場合、農家、商家と武家では、つくりかたに大きな違いが見られます。すなわち、農家商家では、中世の古井家箱木家と同じように、日常の暮しに応じ、架構=居住空間という竪穴住居以来のつくりを継承しているのに対して、武家の住居では、寺院建築において発展した客殿建築、その流れを汲むいわゆる書院造にならい、日常の暮しより接客を重視したつくりが好まれ、建物の見えがかりの形に意をそそぐ傾向が強く見られます。 

 註 武家のつくりは、幕藩体制解体後、都市に居を移した旧武士階級の住宅に、さらに形式化して継承されます。

 そこで、住宅建築を生業別、すなわち、農家、商家、武家に分けて、その代表的な事例を通じて、住まいづくりの技術を観てみたいと思います。

 

A 住宅建築-1:農家住宅

 農家住宅は、当初の寺院建築同様、上屋+下屋の方法でつくられるのが普通で、古井家箱木家もその方法を採っています。

 上屋のつくりかたには、梁行を先行する折置組桁行を先行する京呂組がありますが、古井家箱木家とも折置組にしているため、建屋内には上屋の柱が立ち並びます。

 この不便を解消するため、古井家では、江戸時代におもてちゃのま、そしてにわに立ち並んでいたを取り除く改造をした記録が残っていて、その後も間仕切と柱位置を一致させる改造が何度か行われています。箱木家においても、そのような改造が行われていたことが、当初材に残された痕跡から判明しています。

 

 上屋+下屋方式の建て方にともなう不便の解消のための工夫は、おそらくどの地域に於いても、どこの建物においても行なわれたと考えられますが、その過程を知ることのできる遺構はありません。しかし、いつ頃からかは分りませんが、上屋の柱を省いて建物をつくる技法があたりまえになります。今回紹介する椎名家北村家には、その成果を見ることができます。さらに、地域によって、種々な建て方も現われ、養蚕が盛んになると、二階建ての建屋も自由につくられるようになります。

 また、外形を見ても、農家住宅では、茅葺では寄棟あるいは入母屋が一般的ですが、地域によると切妻屋根もつくられ、高冷で風の強い地域では、板葺き屋根が発達します。

 つまり、人びとは、その地域の状況に応じて、その地に最も適したつくりかたを探し続けてきた、その結果:結実した姿が、各地に現存する住居遺構であると考えることができます。

 以下に、そのいくつかを基に、人びとが何を考えてつくってきたか、見てみたいと思います。

 註 いわゆる「民家」研究では、間取りの型の変遷、軸部のつくりかた、小屋のつくりかた・・・に分けてみる見方を採るのが一般的ですが、ここではその見方は採りません。また、「民家」という語も使わず、農家住宅商家住宅・・・という語を使うことにします。

 

A-1.椎名家住宅  1674年(延宝2年)  所在 茨城県 かすみがうら市 加茂(現地保存)

                      

1960年代の南面全景  滅びゆく民家 河島宙次著 より   

 

                    1960年代の間取り(復元修理前)   滅びゆく民家 より  

 

 椎名家は、東日本に現存する建設時を確定できる最古の住居遺構。 

  霞ヶ浦の北部に飛び出す半島:旧出島村:のほぼ中央部に、現地保存されている。出島は、標高25m程度の厚い関東ローム層に覆われた丘陵状の地形で、微小な谷地田が数多く刻まれている。 この地には、古代以来人々が住み着き海進期の縄文時代までさかのぼる住居址貝塚古墳が数多く残っている。

 古代の畿内からの官道東海道)も、東京湾を横断し、房総半島を経て、霞ヶ浦を渡り出島を通り、半島の東側の付け根付近に置かれた常陸国府へと至っていた。国府跡が現在の石岡市。

 また、一帯は、中世以降は馬の産地としても栄え、の付く字名も見られる。椎名家も、この丘陵上で馬の生産・放牧を含む農業を営んでいたようである。 椎名家は、村役を務めていたため、接客空間(ざしきげんかん)が用意されていた。

 

平面図                    日本の民家1農家Ⅰ(学研)より

桁行断面図                 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集 

で囲んだ材は内法位置では、は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固めで囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ろまざしき境の差鴨居付長押を一材でつくりだしている。

 

 

 西~南面 近撮

 

 南面 近撮

 

 

どまからひろまをみる                          日本の美術№287 より。

ひろまの三方には、内法付長押がまわる。奥のざしきには、小壁上の高さで天井が張られる。

 

   

左上 どまよこざ境の出隅の柱見付6.7寸×見込6.0寸)への繋梁の差口:枘差し鼻栓  右上 同上柱を南から見たところ(柱見付6.7寸 

 柱間の横材の仕口は、ほとんどが枘差し鼻栓。 

 基準柱間 1間:1909mm=6尺3寸 2371mm≒1.25間=7尺8寸 ひろま、ざしきの幅:桁行幅=2.5間

 材寸 側柱:スギ 3.7~3.9寸角、大戸口:4.7寸角、 内部柱:ケヤキ、シイ、土間境:6.7~6.9寸角、ざしきまわり:4.7~4.8寸角。  梁・桁、大引など:マツ。

梁行断面図                 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集 

で囲んだ材は内法位置では、は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固めで囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ろまざしき境の差鴨居付長押を一材でつくりだしている。

 

  

左手:よこざ その奥はねまへの板戸 繋梁鼻栓が見える。 ひろまからざしき 境の差鴨居長押一木、他は付長押。この差鴨居には延宝2年の墨書があった。

 

 (「第Ⅳ章ー3-A1椎名家」に続きます。)


「第Ⅳ章ー3-A1椎名家,2北村家住宅」

2019-09-17 13:12:33 | 「日本の木造建築工法の展開」

 (第Ⅳ章ー3-A1椎名家住宅」より続きます。)

 

 

 椎名家平面図

  

   

椎名家梁行断面図      日本の民家1農家Ⅰより        古井家梁行断面図            日本の民家3農家Ⅲより  

 

 椎名家では、上屋+下屋架構の上屋柱に相当する主要な柱列が、上図の色をかけた部分を挟んで置かれている。 従来の上屋+下屋架構では、上右図の古井家の例のように、上屋柱上にが架けられ、又首が組まれる。 

 

 これに対して、椎名家では、主要柱相互は中途を丸太の差物飛貫に相当)で繋ぎ、その上の位置より両側(南北)に伸び、側柱主要柱とを結ぶ繋梁上に設けた束柱で受け、全体は鳥居状の形をなしている(左上図参照)。 主要柱列上にはない。 また、この差物は、桁行方向のいわば背骨にあたる丸太梁を受けているが、丸太梁が大きく湾曲しているため、柱への取付き位置は柱ごとに異なる桁行断面図および写真参照)。

 註 このように主要柱上にを通さないつくりを四方下屋造と呼ぶという。 なお、差物のへの仕口は、枘差し鼻栓(写真参照)。繋梁は、側柱折置主柱へは、枘差し鼻栓(写真参照)。 

 この架構法の採用により、椎名家では、小屋組はもとより、空間構成も、上屋・下屋の束縛から解放されている。

  一般の人びとの間では、すでに17世紀半ばまでに、柱-梁-柱で構成される門型を並べ、容量不足の場合には各面に下屋を増築するという二次元的な発想から、当初に立体として三次元的に構想することが普通になっていたと考えられる。

  

  

 ひろま南側の 突きあたりはげんかんへの板戸         小屋組詳細   真束又首 棟木又首の上に据え

 

   

 どま 西北隅部見上げ           を受けている約5寸9分角

 

 どま以外では、主要柱列内法上に貫が3段入り、下2段分を小壁としているが、上部にははない。 

 

   

 ひろまからどまをみる  鴨居樋端は後補                 日本の民家1 農家Ⅰより

 

 

A-2.北村家住宅  1687年(貞享4年) 旧所在 神奈川県秦野(はだの)市 堀山下 現在 日本民家園(川崎市 生田緑地内)

 秦野は、丹沢山麓に位置する畑作地帯。煙草の栽培で有名。

 建設時は鍛冶谷村で、同村の大工、隣村平沢村の大工の名と貞享4年の墨書が小屋束の枘から発見された。

 

南正面          右端のだいどころどま)まわりの壁は割竹張り真壁     日本の美術№287より

平面図 柱間寸法 1間:6尺   柱はケヤキ、クルミ  平面図・断面図共に日本の民家1農家Ⅰより

 

桁行断面図

ひろま~だいどころどま)               床と天井は竹すのこ  どま境上の小壁割り竹張り  日本の美術287より

 

梁行断面図                                 日本の民家1 農家Ⅰより

 

 椎名家と同じように、主要柱列間より両側にが伸び、又首を受ける。繋梁上の束柱が受け、桁もその上に通っている(四方下屋造)。

 しかし、主要部の架構では、椎名家とは異なり、中途の差物飛貫)はなく、内法上に4段のを組む。最下段ののひろま側には付長押様の材が張られている桁行断面図、写真参照)。 この4段のの入った部分は、割り竹を張った小壁としている梁行断面図および写真参照)。

 


1982年度 「筑波通信№11 風景について」 前半

2019-09-10 16:36:16 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №11」1983年2月 A4版16頁 

        「筑波通信 №11」 1983年2

       風景について

 風景、景色、光景、景観・・・・といろいろ似たことばがあるが、ここでは、それほど厳密な定義づけをして風景なる語を使っているわけではない。普通に使っている風景の意として気楽に読んでほしい。

  暖冬だから雪はないだろう、そう思ったのはまったくの思いちがいであった。暖冬であるが故に例年になく雨が降る。そして、このような高地では、雨は雪になる。

 この正月三が日、南信州のとある山小屋で寝正月をきめこんだ。この時期、この地方は北信の裏日本型気候とちがって冷えこむことはあっても雪が降りつもるほど降るということは少なく、そうなるのはもう少しおそく少しばかり春めいて低気圧がしきりと南岸を通るようになってからだ。しかし今年は、もう二・三十センチも積っていた。どうやら筑波の暮の雨がここでは雪であったらしい。それも、風もなくしんしんと降り積ったらしく、吹きだまりもなく一様に積っている。春が来るまでとけないだろう。

 それでいて、いつもこの時期には真白のはずの八ヶ岳や蓼科山などはちょっとがっかりするぐらい冬らしくない。例年ならとっくの昔に積ってしまったはずの雪が、ようやっと最近になって積りだしたのだろう、まだところどころに山はだか見える。そうであってもやはり、その山なみの日に映える姿はすばらしい。三が日、天気は弱い冬型、南信は快晴。実に心地よく澄みきった空が拡がっている。ところどころに一見春を思わせるような柔らかい雲が泳いでいる。山のあなたの空遠く・・、そういう想いはこうでなければ生まれはしまい、そんな風に思わせるほど山の向うが輝いて見える。あの山の向うには、こちら側とはちがう何かがある、そういう想いをほんとに馳せらせる何かがある。そういう向う側まで予測させるほどにまで、山はくっきりとその姿を見せている。日が動くにつれ山容は刻々と変る。そして夕映え。私の一番好きなときが来る。あれほどにまで快活であった空が徐々に寂しげな色に変り、やがて暮れ残る空のなかに山は夕日を浴びて一段と輝きを増し、そして一瞬ののち山はあたかも切絵のようになり宙に浮く。日の入った方をふと見やれば、シルエットになった山の端が燃えている。見る見るうちに空はその深さを増し、星があそこにもここにも光りだす。そして、また山が輝きだした。月が上ったのである。そういえば、年の暮が満月であった。深いやや青味を帯びた闇のなかに、昼間のあの明るさとはちがい冷たく輝く山が浮びあがる。街の燈火が眼下の谷間の平地のあちこちに点滅しはじめた。手前の、葉がすっかり落ちてしまった林間では、積った雪が昼にもまして明るく、しかしやや青白く、新鮮に輝きだしている。木々の影は枝先の一本一本まで数えられるかのようにくっきりと雪の上に刻まれて動かない。風がないのである。静寂。外はもう氷点を大分割っただろう。

 

 私はいま、山小屋のなかから外をながめている。室内は、無粋な石油ストーブのおかげで、大分暖かい。けれども風景の見える窓ぎわによると、そこは北側だから、大きなガラスが直かに外の冷気のかたまりを伝えてきて、ひんやりとする。私のいる山小屋は、北斜面に、北を大きく開けて建っているのである。

 本州の中央部、甲府盆地の西で、一本の谷間を隔てて、北に八ヶ岳、南に南アルプス(赤石山脈)が相対している。谷間をぬって中央線が走っている。私のいる山小屋は、そのあたり、南アルプス山系の北端の山の一角、八ヶ岳の西面の全容を一望にできる北斜面に在る。八ヶ岳だけではない、そこから続く蓼科山・霧ヶ峰・・・・と一連の山々を一度に見ることができる。けれどもそんなところだから、冬至の前後の一時期、まともに陽の当らないときがある。後に背負った山の端すれすれに太陽が通ってしまうのだ。まわりに在るのも、ほとんどがこういう北に開いた山小屋ばかりで、土地の人の家はまず一軒もない。住んでいないのだ。と言うより、住むはずもない、住もうという気もおきない、そういうところである。

 標高約1150メートル。土地の人たちは標高1000メートルぐらいから下の方の、谷沿いの比較的平らな部分:山々のすそ野に、いくつかのまとまりをなして住んでいる。その家々の燈火が、夜、私のいる小屋から、またたいて見えるのである。ここは高冷地農業の本場。高原野菜の産地。高冷地にもかかわらず米もつくっている。米の収量日本一の農民が出たこともある、という信じられないような話を聞いたことがある。厳しい環境ゆえに、逆に仕事に熱が入るのかもしれない。すそ野にある田畑は、比較的最近の開拓であるらしい。八ヶ岳の広大なすそ野を開いた整然とした田畑を、私のいる小屋から、あのすばらしい山々の風景の前景として望むことができる。

 こういう風景がとびこんでくるように、私のいる小屋の中心をなす室の北面いっぱいが大きく開け放たれているのである。普通言うところの「借景」である。この小屋は、実は私自身の設計なのだが、この風景を全部のみこんでやろうという試みは設計当初からのものであった。と言うより、この敷地の選定に係わりをもったときからその気があったと言った方がよい。そういう風景が目の前に拡がるような、そういう場所をわざわざ選んだのである。そして、実のことを言えば、そのすばらしい風景を見るとなると北向きになるなどということは観念的には分っていたのだけれども、それが実際にどんなことになるのかほとんど気にもせず、まったくその風景をたよりにしてつくってしまったのである。山へ向いている意識の方が強く、北を向いているなどという気はほとんどなかったから、あるとき磁石で方位を確かめてみて、あらためてびっくりしたことがある。それは、ある年の暮、陽が少しも当らないので不審に思って調べてみたときのことである。冬至のころ、太陽がずっと低く寝てしまうということに、これもあらためてびっくりした。もしも、このような陽のあたらない家を普通につくってしまったら、それこそ目もあてられない。なぜそんな場所を選んだのだと、一生たたるはずである。この小屋が、ときおりこの風景を味わうために来るためのような家だからこそ救われるのである。

 

 「(浅間温泉の)宿の上等の座敷というのは、むしろ山とは逆な方角に窓を開いていた。アルプスの見える窓などは、冬になると寒い風が吹きこんでくるものとしか考えられていなかった。・・・・」これは一昨年の通信№5(1981 ・ 8)で紹介した文章の一節である。そうである以上、この宿は、おそらく陽あたりのよい場所に南面でもして建っていたのにちがいあるまい。そして、私のいる山小屋の眼下に点在する家々もまた、まずそのほとんど全部、家のなかからすばらしい風景が見える、などということには一切関係ないつくりかたで建てられているとみてよいはずである。冬期、この地方は、谷に沿って風が吹きぬける。ただでさえ寒いのに風が吹くと一段と冷えてしまう。家々は、その広大な大地から頭を出さないように、大地のひそみに建てこんでいるのが実際である。まずどの家も、すばらしい景色の拡がる北側を閉じている。第一、大地のひそみに入りこんでしまえば、そんな景色など見えなくなってしまう。敷地の選びかたからして、風景などとは無縁なところできめられているのである。

 だとすると、こういう土地の人たちの家のつくりかたと、私がこの山小屋で試みたような「借景」というつくりかた、この二つについて考えてみたくなる。

 

 京都に行くと、あちこちに、「借景」の庭あるいは建物があるけれども、考えてみると、それらもまずほとんど全て、普通の人たちの家ではなく、寺院や宮家の別荘の庭や建物である。普通の人の家にあるとすれば、それは母屋ではなく離れにおいてである。寺院の場合も、方丈など寺院の本体部分にはなく、それより奥の、ややくだけだ書院の部分においてよく見られる。(と言って、それは日常の生活が行われているところではなく、日常生活は更にその裏手の部分、いわゆる庫裏を中心に営まれている。そして庫裏は普通の家と大差ない。)京都の北に、円通寺という「借景」で名の知れた寺があるが、そこでは比叡山をとりこむため書院の部分が東を向いて開いている。実際、そのあたりから見る山はなかなかのものだ。けれども、その寺のまわりの家々は、山容をとりこむことなどとは関係なく、大体南向きである。

 私が現在住んでいる所でも、筑波山がよく見える。筑波山という山は平原のへりに突出して立っている山だから、その山容もそれなりの景観となる。その昔、江戸の町からも、西の富士山、北の男体山(日光)とならんで際だって見える山の一つでもあったらしい。いまでも、よく晴れた日には、高層ビルからなら見えるそうである。この筑波山のふもとあたり、平原のとっつきには、昔から人が住みつき、いまでも大きな町はそのあたりにある。江戸中期以降に開かれたと思われる集落が、山から少しはなれた平原のなかに数多く点在しているが、そこから見る筑波山も、それは足もとからてっぺんまでの全容が見えるから、なかなかのものだ。だから、このあたりの小学校の校歌で、筑波山に触れないものは皆無であると言ってよいくらいである。しかし、そういった町や村を歩いても、筑波山の景色をそのままとりこんでしまおうなどと考えてつくられた家はこれも皆無であるといってよく、それは、いま私がいる山小屋のある町や村の、土地の人たちの家々とまったく同じである。

 私は先年、この八ヶ岳のふもとの町で、ある人と知りあいになった。とある食堂で、このあたりの風景を描いた素朴な木版画が壁にかかっているのを見かけ、これをつくったのが町の人だと聞いて尋ねて見る気になり、そして知るようになったのである。彼は元校長先生。この町の生まれ。在職中信州中を転勤で歩きまわり、そのとき印象に残ってしまった風景を、なんとか記録しておきたいという気になり、退職後はじめたらしい。写真より版画の力が感じをよく伝える、そう思ってはじめたことであるらしいが、もともと素人。それがかえって素朴な味をだしているようだ。この人の家は町なかにあり、普通の家とかわりなく南面していたのだけれども、ただ彼の仕事場の一角は、それは倉を改造したものらしかったが、そこだけ北東側に大きな窓が開けられ、あっと驚くほどすばらしい八ヶ岳を望むことができた。そうなるように直したのだそうである。私のいる小屋とちがって、南アルプス、富士山、そして八ヶ岳を一望できるところに建っているから、なおさらすごい。気のむくままに、母屋からここへ出てきて、独りこの景色に見入るのだそうである。版画を彫り、あるいは刷り、そして手を休めてお茶をのみつつ景色を見やり季節を想い、かつて訪ねた土地を想う。そしてときにはそこをはなれてスケッチ旅行に赴く。言うならば、自適の生活。そういう毎日。

 土地の人たちの家のつくりかたが、景色などとは無縁である、そう書きながら実はこの人の家のことを思いだしたのである。母屋の方も、その立地上、つくりようによっては景色をのみこむことができるのに、一切そういう手だては講じてない。だから、この人の仕事場も、普通の人たちの家からすれば異例なのである。        

 その気になって、この町のあちこちを歩きまわってみると、そういったすばらしい風景をとりこもうとしたつくりかたは、最近建ったらしい旅館、民宿、ドライブインといった類のいわゆる観光施設と山荘・別荘などに見られ、もしも普通の家でそれらしきものがあるとすれば、それはまったくたまたまその場所に普通のやりかたで建ててしまったら景色が見えてしまった、そういうような場合のようで、だからとりたてて景色がよく見えるように、などという策を弄したりはしていない。

 それでは、土地の人たち(普通の人たち)がそういった景色などに対してまったく無関心なのか、というとそうではない。立ち寄ったガソリンスタンドや店の人が、今日は山がよく見えるでしょう、だとか、今年は山の雪がおそい、とか、紅葉がだめだ、とか私に話しかけてくるのは、必ずしも私がよそもので一見観光客風に見えるためだけではないだろう。もしも彼らがそういったことを日ごろ気にしてなかったとしたら、それを話題にすることもないからである。寒い、とか、暑い、とか、天気がいい、とかいう時候のあいさつの一つとしてそれが語られると見た方が自然なのである。私がそれに適当に応じていると、ときには、どこそこに行ってみなさいよ、南アルプス、富士山、八ヶ岳どころか諏訪湖の向うに北アルプスはもとより中央アルプスまで見えるから、いい気分だよ、などと教えてくれる人もいる。行ってみると、なるほどすごい。まるで日本のまんなか、それも屋根の上にでも登って、大げさに言えば、四海を独り占めにでもしたようないい気分になる。土地の人たちも、いい景色をちゃんと知っているのである。ただ。その場所には家は建っていない。小高い、田畑のまんなかである。冬のいまが一番見通しがきくのだけれども、しかし立ちつづけていると、吹きさらしだから凍えてしまう。

 こうして見てくると、土地の人たちは、すばらしい景色、風景というものをちゃんと気にはとめてはいても、少なくとも見えがかりの上ではそれを直かに建物のつくりかたに反映させるというような、そういうつくりかたは、普通にはしないのだということが分る。

 

 それでは、いま私のいる山小屋と、先の元校長先生の仕事場とは、それがともに外の風景を内にとりこもうとしている点で似ており、それゆえ同じつくりかたなのだ、と見てしまってもよいのだろうか。つまり、京都の円通寺も、この町の元校長さんの仕事場も、そして私のいる山小屋も、あちこちにあるドライブインも、それはどれも(金のかけかたの多少、つくりかたの巧拙、は別にして)「借景」という手法を使った同じつくりかたなのだ、と見なしてよいのだろうか。

 いったい、私をして、いま私が居るこのようなつくりの山小屋をつくろうと思わしめたもの(それ以前に、このようないわば人も住めないような場所を敷地として選ばしめたもの)は何であったのか。

 それは、そこからながめる景色が、構図として、あるいは図柄・絵柄として、きれいなすばらしい、あるいは美しい・・・・景色であった、ただそれだけのことだったのだろうか。あるいはそのような言いかたでもよいのかもしれない。それがきれいであり、すばらしい、あるいは美しい・・・・ということは、どうやらまちがいのない(私だけではなく他の人たちもそう思う)ことのようであるから。だが、ふと、このきれいだとかすばらしいとか美しい・・・・とかいうことが何であるのかと考える。すると、これらの形容詞が、実は、ある景色に面と向ったとき、それを見ている人の口から思わずとびだした、言うならば感嘆詞のごときものである、ということに気づく。だから、きれいな景色だとかすばらしい景色だとかあるいは美しい景色・・・・だとかいうのは、より正確な言いかたをするならば、そのような言わば感嘆詞を人をして発せしめるような景色のことだ、ということができる。その景色が、それに対した人に、そのような言わば感嘆のことばを発せしめるようなある思いを抱かせた、そういう言いかたが許してもらえるだろう。それゆえ、つまるところ、そういう感嘆のことばの根底にある思い、それがいったいいかなるものであるかが、なににもまして問題にされなければならないのではないだろうか。

 けれども、いま通常では、この思い、すなわち見ている人の側のことは(それが個々の人の間題であるからだろうか)むしろ問われず、景色そのものの側、すなわちその景色の図柄・絵柄としての構成・構図などが問題とされる。きれいだとかすばらしい・・・・という形容詞にて示されるものが、景色そのものにてんから備わっている属性であるかのように扱われている。きれい、すばらしい、あるいは美しい・・・・こういった人の側にわき起った状況を形容するための詞が、固いとか重いとかいう物そのものの性状を形容する詞と同列に扱い済まされているということである。

 およそことばというものは全て、かならず人の感性を通過して生まれるのであるけれども、しかし生まれたことばには、言わば感性に密着したレベルにとどまるもの、感性を通過しきって言わば対象の側に付与されたと言ってよいレベルのものまで、その間に多様なレベルで存在しているにも拘らず、いまや、それを一様に、しかも対象の側に付与された、対象と一対一の関係を保つものとしてのみ                 扱う傾向にある。そうならないものは、むしろ、厳密さを欠くものと見なされる。そこでは、ことばというものを、あの多様なレベルに言わば分散配置せしめた、人間の巧まざる知恵・思慮深さ、真の意味での厳密さ、についての認識がまったく失われてしまっている。

 

 省みてみると、私がこの山小屋をつくったときのその言わば動機となった私の思いは、いま私が小屋のなかから外の景色を見つつ思っている思いと、ほとんど差がないように思われる。もし違っているとすれば。初めてこの地の風景を見たときよりかれこれ十年近く経過し、見える風景に係わる多少の知見が増えたことだけだろう。初めのころは、夜景の街の燈りを見ても、それはあくまでも闇に点滅する光の群れ、一言で言えば「きれいな夜景」としてしか見えなかったけれども、いまでは、あたりを歩きまわった結果の多少の知見ゆえに、あのまたたいているのはあの集落のあの曲りかどのあたりだとか、あそこに一つだけきわだって見える燈は八ヶ岳農場のはずだ・・・・とか比定できるようになっているし、昼間ならばもっといろいろな所を比定できる。しかし、私が景色を見て感じいっているのはその初めのころとほとんど変りなく、あの町この町がどんなであろうともそんなこととは関係なく、言わば「自然」そのものに私は感じいっているのである。私の向う側に在る、私を越えた。そして私を圧倒して在る言わば抽象的な概念としての「自然」に対している、そういう気分である。それはちょうど、海岸で打ち寄せる波に見入っているとき、あるいはまた流れる川面をあきずながめているとき、そういうときおちいるあの気分、ひきずりこまれてしまうのではないかとおそれつつたたずんでいなくてはいられないあの気分に似ている。見入るうちに、自分自身がなんとなく所在ないもののように見えてくる。

 そして、考えてみると、私はこの気分を求めてときおりこの小屋に来るのだし、そもそもがそのためにこういう小屋をつくったのだと言ってよいように思われる。いかなる町が在り人がいようとも、少なくとも当面それはどうでもよい。はなはだきざな言いかたをすれば、そういう景色を見ているうちに、見ている自分がそれとの対比のなかで見えてくる、それにより自身を見つめることができる、そのために、求めてここへ来るのである。そういう小屋にしたかったのである。

 

 こう書いてくると、このような思いに私をおちいらせるためには、ある自然の風景、しかもきわだって目に入るすばらしい風景がありさえすればよいかのように思われるかもしれない。もしもそうならば、観光地で見かける展望台やながめのよいドライブインなどでも、言わゆる景観のすばらしい所ならどこでも、そういう気分にならなくてはならないのだが、どうもそうではない。たしかに、その場をはなれがたく思う、そのまま見入り続けたいと思う場合もないわけではない。行きつけの店のきまった席というのがあり、ひまさえあればそこに座って外の景色をじっとながめている、などという映画のシーンや歌謡曲の一節のような場面も実際にないわけではないだろう。しかし、展望台などからのながめは、言うならば一過性のきれい・すばらしい・・・・で終ってしまう。あるいはきれいな図柄・絵柄・・・・で終ってしまう場合の方が、どう考えても多いようである。つまり「絵葉書」的すばらしさへの感動である。私がこの山小屋で思っている思いは、そういった「絵葉書」的感動とは別のむしろそれを越えたもののようであり、対面している景色が、他よりもきわだった、すばらしいものであればどんなものでもよい、というわけでないのはたしかである。では、どういう場合に私はそう思うのか、そういう思いを抱くのか。どうも、見ている景色が一つの画面として私の前に、私をはなれて、ついたてのごとくに在る場合(そう感じられる場合)はだめで、私自身がその景色の一部に言わば組みこまれてしまっている、そんなように感じられる場合にそういう思いにかられるらしいのであるが、しかしそこのところは私にも未だによく分りきっていない。いずれにしろたしかなのは、すばらしい・・・・とかいう形容の意味することには、「絵葉書」的感動レベルのそれとは違う、それを越えたレベルのものもある、ということである。

 けれども、すばらしい、きれい・・・・ということばを対象が備えている属性のごとく扱うだけでなく、更に、この「絵葉書」的レベルの話としてのみ扱い済ますのが世の大勢でもあるらしい。風景・景色・景観・・・・いろいろなことばが飛びかっているけれども、その意味することは、多くは、言わば「銭湯の富士の絵」なのだ。

 

 先に私は、私がこの山小屋を訪れるのは(従ってこういう思いに浸るのは)ときおりであると書いた。

 しかし、もしも(そこが住める所か否かは別として)私が仮に住みついたとしたら、私の思いはどうなるだろうか。あいかわらず私はそこに私を越えた言わば抽象的概念としての「自然」を見続けるのだろうか。

 おそらくそうではないだろう。

 ときおりとは言え、十年近くもここを訪れることを重ねると、そこで目にする風景に係わる多少の知見が増えるということを先に書いたけれども、これがそこに住みつくとなると、この知見はいやおうなしに増えてくる、というより増えざるを得ないだろう。初めのうちの知見は、これも先に記した通り、地物についてのそれが多い。歩きまわること(これには、ある目的をもって歩く場合もあるし、気の向くままにそぞろ歩くこともあれば、そして不本意ながら道に迷って歩くこともある)によって得た地図的な知識と、現に目の前にしている景色とを重ねてみて、目に見えているそれぞれの地物が比定されてゆくのである。比定されてゆくのには自ずと順序があり、具体的に自分が何らかの理由でその地物と深い係わりを持たざるを得なかった所(それには当然、道に迷ってえらい目にあった、などというのも合まれる)から順に定まってくる。

 面白いことに、見えている地物を、たとえば五万分の一の地図と、照しあわせながら比定していった場合には、そこで得た知識は、その時その場かぎりとなってしまうことが多い。次に見るときにはすっかり忘れている。私のいる小屋からは、はじめに書いたように八ヶ岳の西面が一望にでき、ご承知かと思うが八ヶ岳はその名の通りいくつかの峰より成っている。私はその峰々の名を覚えようとした。ところが、そのうちのいくつかは覚えたのだがたしか赤岳と権現岳だったと思うが、なかなか覚えられない。そのときは覚えたつもりが、次に訪れたときには、どっちがどっちだか忘れているのである。というのも、私のいる所からは、その二つがなんとなく似て見えるのである。おまけに視角の関係で、地図の上の配列通りにあるいはその物理的高さの順に、見えはしないから、地図の上のならび方を覚えてもだめである。いつも、地図の上に私のいる地点を見つけだし、そこから直線をそれぞれの峰の頂へ向けて引き、つまり地図上の作図で、なるほどなるほどと思うわけである。この作業自体は、それはそれなりに面白いけれども、しかし、そういうことで覚えたことと、実際に言わば足でかせいで覚えたこととは、そのなかみが違うようである。

 

 そしてもちろん、住みつくようになれば、ときおり訪れる場合とはまた少しばかり違って、暮してゆくために必然的に係わりをもつものの比重が大きくなる。そして時間が経てば経つほど、その量も増え、目の前の風景は知った色で塗りつぶされてゆく。しかもその知見の内容は、はじめのうちは単なる地物そのもの(あの曲りかど、あの道、〇〇小学校、〇〇の工場・・・・いう類)であったのが、だんだんそうではなくなってくる。たとえば、あのあたりの田畑はどこそこのだれそれのものだ、とかいう具合に、それまではあくまでも私自身に係わりをもつことがらだったのに比べ、言うならば風景とともに他人の顔が浮んできたりするようになってくる。小学校といったって、ただ小学校ではなく、自分の子どもが通っている、あるいはあの家の子が通っている学校、〇〇さんの奥さんが先生をしている学校・・・・というように、私のそこでの暮しが必然的に係わりを持たなければならない言わば人の世が、目に見える風景ともども私に見えてくる。

 「自然」にしてもそうである。きれいな山だとか林だ・・・・などというものではなくなる。あのあたりはたらの芽がよく採れるんだ、昨年はあいつが先きまわりしていいとこ全部持っていっちまったから、ことしは・・・・だとか思いながら見るようになる。いや、これは単に目に見える風景についてだけではない。朝起きて今日は一段と冷えこんだな、などと思った瞬間、あのガソリンスタンドのおばさん(多分〇さんといった具合に名前で思うだろうが)「きょうは寒いねえ」などと方言まるだしで、もこもこ着こんでストーブにかじりついてぼやいているぞ、なんて光景が浮んでくる。土地っ子に似あわず、おかしいくらいに寒がりだからである。こんな具合に、そこに住めば住むほど、見るにつけ(そして聞くにつけ)私の頭のなかは、私がここで暮してゆくにあたって係わりを持たなければならない人の世のイメージでいっぱいになる。おそらくそうなってくると、たとえば町で人とすれちがい、寒いねえ、とか、冷えるねえ、とか一言二言交しても、それは単なる儀礼的時侯のあいさつなのではなく、ほんとのあいさつ、つまりきょう二人がともに味わったことのお互いの確認の意昧をもったことばになってくるのではなかろうか。

 おそらくこの町の一角に住みつき、なじんてしまうと、私の目の前に拡がる一帯は、それを見ることによって直ちに人の世が浮びあがってくる所とそうでない所という具合に、人の世の浮びあがる強さ、濃さに応じて塗り分けられるようになるだろう。それはまた裏返して言えば、すなわち私自身が思うがままに歩きまわれる言わば私の世界の地図が具体的に描かれる、そう言ってもよいのである。それは当然、私の生活のしかた、つまり町のなかにこもりきってすごすか、それとも隣り村はおろか遠くまでその行動範面にするか、によって変ってくる。

 こうなってきたとき、あの「自然」はどこへいってしまったのだろうか。私の念頭から、まったく去ってしまったのか。そうではない。ちゃんと存在している。ただ、その存在のしかたが変っているのである。うまい表現のしかたがないのだが、あえて言えば、私の暮しが係わる風景のなかで(つまり私の世界のなかで)「自然」はもはや対象化し得ない形で、その私の世界のなかにくみこまれてしまっているのである。なくてもよいものではない、それがあってはじめて私の生活がある、切っても切れないもの、「空気」みたいなものとして、それは存在しているのである。そうであるからこそ、それについてのちょっとした話題も、時候のあいさつ同様、そこに住む人たちの共通の話題、すなわち共通の認識となることができるのだ。だからこそ、ときおり訪れるとはいえ、顔なじみになったガソリンスタンドや店の人が、あそこからだったら山がきれいでしょう、などと話しかけてくるのである。

 かといって、町に住み続ける人たちの家は、そのつくりにおいて、わざわざ「自然」と面と向うようなやりかたをまったくと言ってよいほどとりはしない。しかし、それは無視しているのでもない。おそらく私もここに住みつくようになったら、そうなるだろう。もはや「自然」などと、とりたてて口に出して言わなくさえなるかもしれない。私の吸っている「空気」のなかにそれはある。とりだしてみろ、と言われれば、即座にとりだせる、しかし普段は強いてとりだすこともない、言いかたをかえれば、実物を目の前にしなくても直ちにそれを思い浮べることができる、そんな具合になっているのだ。しかしそういう暮しは、はた目から見ると、そういったすばらしい風景とは、せっかくそういう風景があるのにも拘らず、一切それを無視しているように見えるかもしれないがそう思ったらそれはまちがいなのだ。その証拠に、こういう町に住みなれた人が、何かの理由で町を出て、どこか遠くで暮すようになったときふと以前の自分の家のことを思った瞬間目に浮べる姿は、実は、あの昔吸っていた「空気」のなかにひそみこんでいた「風景」なのである。そういう「風景」のなかに在る自分のかつての家であり生活なのである。そういう「空気」として在ったものが、その土地をはなれたとき、はじめて対象化されて見えてくるのである。

 だから、もし私が一念発起してこの町に住みつきはじめたなら、はじめ対象化して見えていた風景は、どんどん日常的な「空気」と化していってしまうのである。おそらくそれが、住み慣れる、ということなのだろう。日常的な生活では、はた目から見ればきわだって見える風景も、とりたててとりあげるまでもないあたりまえなものとして扱い済まされるのである。私が正月をすごした小屋がある町は、その名を富士見という。諏訪から甲州へ向ってここまで来ると、ここではじめて富士山をまのあたりにすることができる。そこから町の名が生まれたのである。ところが調べてみると、この名は、明治7年の町村合併に際してはじめて生みだされた名前で(そのときは富士見村であった)、合併した旧村名にはそのどれにもそれらしき名はない。もちろん八ヶ岳のふもとにあることを言い表すような名もない。原の茶屋、木の間、大平新田、若宮新田・・・・といった名である。当然富士も見えたし、八ヶ岳は目の前にあった。しかし彼らは、それをもって村の名にはしなかったのである。明治になってはじめて景色をはた目で見る見かたが入ってきた、そう考えてよいだろう。それまでは、そこで富士が見え、八ヶ岳を仰ぐことは、そこに住みついている人たちにとっては、とりたてて騒ぐこともないあたりまえのことだったと言ってもよいのではなかろうか。よそから来た人には目新しいことも、その土地の人にはあたりまえなのだ(そして、よそから来た人たちにとってもそれは、その人が住みついてしまえば、あたりまえなものに変ってゆく)。

 「観光」というのは、よそものの目に目新しく映るものによってなりたつのである。だからときおり、どこそこの山はいい山ですね、などと土地の人に話しかけたりすると、そうかねえ、なんて、いささか拍子ぬけの返事が返ってきたりすることがある。なにがそんなにいいのかね、というわけである。実際、その土地の人にとってはなんでもないようなことが「観光」の対象になってしまうのである。それをして「観光資源」というらしい。

 

 それでは、もうこの町にすっかり住みついてしまった私が(もっともほんとに地に足が生えたように住みつくには相当時間がかかると思うけれども)、その吸う「空気」のなかから、意識的に「風景」をとりだして見る気になったならば、どうなるのか。

 実は、この状態が、先に紹介した(いまは風景版画に熱中し自適の生活を送っている)元校長先生の毎日なのであり、そしてその仕事場のつくりも、それに心したものであったのである。

 いま、その町に住みついているのではない私と、もうなが年住みついている元校長先生は、同じ部屋の同じ窓から、同じ景色をながめている。目に入ってくる光景はたしかに同じである。すばらしいですねえ、いいなあ、と私がいう。彼も、ね、いいでしょう、と応ずる。なんとなく話が合ったように私は思いこむ。だが、その思いこみは、既に書いてきたことで明らかなように、必ずしも彼の「いい」と合っているわけではない。いや、少しは合っていないこともないけれど、むしろ、大きく見れば、合っていない、と言った方がよりよいかもしれないのである。なぜなら、彼は、まず「空気」の存在を自覚し、そのなかからその風景を抽出して見ているのに対し、私は(この町に住みついていない段階での私は)、その「空気」を知らない。私が吸っているのは、ここの「空気」ではなく、別の所:現に私が住みついている所の「空気」なのである。(あるいはことによると、私自身が既にその吸っている「空気」が何であるのか分らなくなってしまった私になってしまっているかもしれないのである。)そうであるとき、同じ景色を見ているのだから、彼も私と同じようにそれを見ている、などと思いこむなどは、はなはだおこがましいことなのだということに気づく。唯一の救いは、彼と私が、その見ていることはどうやら違うにも拘らず、同じ風景を目の前において話ができている、ということだ。

 おそらく彼とのつきあいを深めていけば、私は彼の見ているものにほど近いものを見ることができるようになるだろう。同じものを目の前に置いているからである。そしてまたおそらく、そうなり得るということこそが、すばらしい風景、きわだった風景、気になる風景・・というものの効用というものだろう。(ただし、このような場合、私と彼の見ているものが同じに近くなるためには、そこに住みついていない私の方から、極力彼の立場に近づくべく努めなければだめだろう。)

 このように考えてくると、明らかに、住みつくようになってからの私と、ときおり訪れる私とでは、同一の風景に対していても、その見えかたが違ってくる、ということができそうだ。

 

 先に私は、ときおりそこを訪れる私が、その目に入る風景に、私を越えた、言わば抽象的な概念としての「自然」を見ているのだ、というような趣旨のことを書いた。そして、いま書いてきたように、そこに住みついた私も、その「空気」のなかから意識してとりだして「風景」を見ることができ、そしてそこに同じように抽象的な「自然」を見るだろう。そして、ことによると、その「自然」を言おうとして、少なくともことばの上では同じ表現をとるかもしれない。だが、ことばの同一、表現上の同一は、必ずしもそのことば・表現に託されたなかみの同一であることは保証せず、この場合は、むしろそのなかみは違うと言った方がよいだろう。同じように抽象的な「自然」であっても、その「抽象」のなかみが違うのである。

 だが私には、まだ、この違いについて、うまい説明ができない。それを承知であえて言えば、そこに住みついた私が見る風景に見出している「自然」は、その場所:町での私を含めた人の世のなかから(つまり私のその場所での生々しい具体的な生活のなかから)真の意味で抽象した「自然」であり、従ってそれによって得たなかみ(概念)は、それを更により高度に抽象化した概念へと昇化させることができる一方、それとは逆に、それをもとにして、生々しい具体的なそこでの生活を想起することもできる、という性格を備えている。(それゆえ、その風景はその町の「生活」を象徴するものになり得、だからこそ、その町を遠くはなれて町を思うとき、その風景が目の前に浮びあがるのである。)当然そこでも「私」というものが見えてくるはずだが、その「私」もまた、そこに生活している生々しい具体的な私から抽象された、ふくよかなふくらみをもった「私」の姿であって、決して観念的な(理屈の上での)それではないだろう。

 それに反し、先に私がはなはだきざっぽく、自分を見つめたいがためにその風景を見にくるのだと、鼻もちならない書きかたをしたとき(それは決してうそではないけれども)、その風景はなにもその風景でなくてもよかったのである。私の生々しい日常の具体的な生活はそことは別の所にある。その日常の本拠地をはなれ、なおかつ「私」をきわだたせてくれるような、そういう風景ならば、強いてこの町でなくたってよかったのである。そしてまた、そうやって「私」を見つめるやりかたは、日常の生活のなかで「私」をみつめるやりかたよりも、数等容易なことであり、ややもすると単に対比という観察レベルとどまり、あるいは観念的な、理屈の上の認識にとどまってしまうのではなかろうか。

 ときおり訪れる私がある町のある風景に見るもの、そしてその町に住みついた私がその同じ風景にみるもの、その見るものの違い(あるいは見えかたの違い)というのは、おそらくこういうものではないかといま私は考えている。しかし私自身がまだすっきりしていないから、あいかわらずこれは私にとって宿題である。

 

 ところで、ある町に住みついた私が、その吸う「空気」と化してしまった事物に対し、意識的に目をやったなら、などといとも簡単に言ったのであるが、これはそんなに容易なことではない。日常の生活(それはあくまでもその「空気」の存在ゆえになりたっているのだが)に没頭している人にとって、一々その「空気」を気にしなければならない必然性は何もないし、第一その人たちが係わる事物がその人たちにとってしっくりとおさまって、とりたてて目だたない状態であるからこそ「日常」と言うのであり、もしその「空気」をかき乱したりしたならば、それはすなわち「日常」ではなくなってしまうと言ってもよく、だから、日常の生活を営みながら且つその「空気」をもとりだして見つめてみるなどということは至難の技なのである。だからこそ通常に日常の生活を送っている人たちは「空気」をあげつらいはしないのである。そして実際に私自身の日常を省みても、自分の日常が何であるか分ろうとすることがいかに難しいことか、それだけはよく分る。見つめなければならない対象がすなわち見つめている本人なのだから。

 

(「筑波通信№11後半」に続きます。)


1982年度 「筑波通信№11 風景について」 後半

2019-09-10 16:35:55 | 1982年度 「筑波通信」

(「筑波通信№11前半」 より続きます。)

 

 こうして考えてくると、ある町に住みつき、なお且つその「空気」を見つめることのできる人というのは限られてくる。それは、ことばは悪いが、ひまのある人、ひまをつくれる人、である。(一瞬でもいいから)。その日常の生活から身をひき高みにたってながめる時間(それをいまひまと称したのであるが)をもてる人である。あの、いま風景版画に熱をいれている人、自分の仕事場(版画制作のための)を持ち、仕事場の壁に「借景」の窓を開けた人、はどういう人であったか。彼は、校長であった。現役をあがった人、ひとまず生活の糧は保証され、日常の生活、かつては自分もそのまっただなかにあったその日常の生活とつかずはなれずの位置にいられる人である。言ってみれば、彼は他動的にその時間をあてがわれ、あるいは逆に、そういう立場・状況におかれてしまったからこそ、風景に目がいったのである。もちろん、だれでもがそういう状況になれば同じようにふるまうわけではない。おそらく彼の場合には現役のときから、その日常において、ふと風景に見入るときがあったに違いない。日常においても、一瞬そういうひまをつくることができた人であっだろう。それは歩きながらのことであったかもしれず、仕事のちょっとした合間のことであったかもしれない。とにかく彼には、そういうがあった。しかしそれは、直ちに版画に描き、あるいは仕事場をつくりその壁に窓をあけるということには連ならなかった。現役から身をひいたとき、風景は彼に迫って見えてきた。多分こういうことだろう。

 

 いわゆる「借景」の庭や建物というのが、まずほとんど寺の書院や宮家の別荘そして普通の人の家の離れにおいて見られるというのも、こう考えれば納得がゆくのではないだろうか。それらのである人たち(つまりそういうつくりをつくった人たち)の生活は、普通の日常の生活の一段高みにいられる生活であった。別な言いかたをすれば、世の人々、まさに日常に没頭している人々の生活をはすっかいに見て暮す、あるいは暮さなければならない、あるいはまた暮さなければいられない、そういう生活を日常とする人たちであった。(そしてもちろん、その生活の糧はひとまず保証されていた。)普通の人たちの生活と、つかずはなれずの生活が彼らの生活なのであった。それなしに彼らの生活もないのである。

 そして彼らは、その「借景」の風景に、いったい何を見たのだろうか。単に美しい風景、すばらしい景観、かすみたなびく春の山、紅葉に燃えそして雪をかぶった山を見てよろこんだのだろうか。そうではない。そうではないと私は思う。彼らがそこに見たものは、人の世であったはずなのだ。その風景には、その風景を「空気」のごとくに吸って生きている人々のその土地での生活、彼らがつかずはなれず、はすっかいに見て暮しているその人の世が、象徴されているからである。その象徴された人の世を、どのように彼らが見たか、それは知らない。ある場合には、そこに未練を思ったのかもしれないし、あるいはまたそこに来しかた行すえを観じたのかもしれない。いずれにしろ彼らは、そのすばらしい景色と、借景により一体となることを通じ、そういうしかたで人の世と交ったのではなかろうか。

 なぜ私かそう思うか。それはまったく単純な事実による。もし彼らが、単に、美しい、すばらしい、きれいな風景をながめるだけを目的としたのならば、なにも町なかとつかずはなれずの所などに居を構えなくてもよかったのである。そういう風景は、その地をはなれても、いくらでも見つけられた。しかし。そうしてしまったならば、それは「遁世」になってしまう。彼らはそうはしなかった。彼らはその地とつかずはなれずの場所に、その地で生きる人たちにとっては切っても切れない風景を借景にし、思いを人の世に馳せながら、そこですごしたのである。世俗からは、はなれることはできなかったのである。

 あるいはこの推測は、少しばかり強引であるかもしれない。しかし、上記の件や、主な借景建築・庭園の建主の素性を二三調べてみると、私にはどうもそのように見えるのである。そして、いずれにしろ。彼らが借景によりとりこんだ風景、すなわち「借景」という技法が、単なる映像としての景色、「絵葉書」的景観、が目あてではなかったことは、それは絶対に確実である。それを、単に「絵葉書」的美しさで見て済ますのだけは、明らかにまちがいである。

 それではいったい、いま私がいる山小屋の「借景」は、何なのだろうか。どうやらまた一つ宿題ができてしまったようだ。

 

あとがき

〇一昨年九月の号のあとがきで、いつも山にとりかこまれている人の山の見かた(従って見えかた)は、ときおりその山を見る人のそれと、どう違うのか、一度尋ねてみたいと書いた。それ以来別段そのことばかり考えてきたわけではもちろんないが、たまたまこの正月、久しぶりにすばらしい山のすがたをながめているうちに、それという確信もないままに、風景について書いて見る気になった。

〇一昨年から昨年にかけて、上州・妙義山のふもとに住宅を設計した。妙義山からながれるゆるい東斜面の敷地で、そこに立つと妙義山が目の前にたちはだかり、なかなか追力がある。あの特異なスカイラインが切れる右手のはざまには、浅間山の頂も見える。このすばらしい景観は、敷地から見ると、ちょうど真西に拡がっていることになる。このあたりに建つ家は、昔のものも今のものも、まずほとんど南面している。つまり、山の方へは向いていない。ところが私は、この家を、平然と、西向きに設計したのである。山から敷地までの聞には、仮に将来家が建ったにしてもどうということもない拡がりが維持されそうなので、敷地から山までの前景と山自体、全部ひっくるめて家にとりこんでやろうと思ったのである、つまり「借景」である。少し大げさに言わせてもらうと、妙義山から流れでた大地の流れを、家がせきとめている。そんな感じになっている。それはそれなりになんとか格好はついたと思うのだが、ふと、これでよかったのかという気がしてくるのである。ときおり訪れるにはいいかもしれないが、毎日山をうけとめているというのがいいものなのか、それはそれで構わないのか、どうもそのあたりが、自分でも分らなくなってきた。これが今回の話を書くもう一つの動機でもあった。

〇書いてみて分ったかというと、どうもすっきりとはなっていない。

〇いま建設中の知恵おくれの人たちの家では、設計のときとりたてて強く意識したわけではないが(しなかったわけでもないが)目の前に、それはちょうど真南にあたるのだが、富士山が浮いて見える。これはまた見事である。特にいまは空気が澄み雪をかぶっているから圧巻である。ここに住む人たちは、これをどう見るのだろうか。

〇いずれにしろ、書いたら宿題が残ってしまった。収穫といえば収穫ではある。

〇風景にどのように対しているか、そんなところに注意を向けては本を読んだことはそんなにないが、今後は少しその気になって読んでみようかと思う。

〇きょうの夕刊に、いくつかの詩・句が紹介されていた。私の知らない詩であった。

    あの山は誰の山だ どっしりしたあの山は ・・・・

    枯れ山の月今昔を照らしゐる

    一月の川一月の谷の中

〇そして、私が風景を気にしているのは。私がいずれにしろ見えてしまうものをつくる仕事に係わりを持っているからである。それもまた風景の一部になってしまうからである。

〇先号のなかみは少し舌たらずなので、いずれ書き改めるつもり。

〇それぞれなりのご活躍を!風邪をひかれぬように!

       1983・12・8             下山 眞司        

                           


「第Ⅳ章ー2 参考 喜多院客殿, 修学院離宮客殿, 本願寺対面所」 日本の木造建築工法の展開

2019-09-04 18:01:21 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「第Ⅳ章ー2-参考、付録」A4版9頁

 

参考 喜多院 客殿 1640年(寛永17年)ごろ造営  所在 埼玉県 川越市     

 天台宗無量寿寺の一院、当初北院と言い、徳川家の帰依を受けた。江戸城からの移築か。全般に、材寸が大きいが、匠明の示す数値よりは小さい。架構法、室内形式は、基本的に他例に同じ。

 

 

平面図                         日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 

 

 

南側外観                          日本建築史基礎資料集成十七 書院Ⅱ より

 

上段の間(天井と下がり壁の見切りは付長押)   原色日本の美術12城と書院 より

 

 

 

桁行断面図   小屋筋かいは修理時の追加             

 

梁行断面図                   断面図:日本建築史基礎資料集成十七 書院Ⅱ より転載・編集

柱間基準寸法 6尺5寸(実測によると6尺4寸4分~5分)柱径 5寸3分    

 

 

参考 修学院離宮 中御茶屋 客殿 1682年(天和2年)造営

 旧東福門院後水尾ごみずのお天皇*の中宮)の御所の客殿 奥御対面所を移築した建物。ほぼ当初建物のまま。修学院離宮後水尾院の離宮。

 

平面図                         日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 平面図                         日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 

 

桁行断面図                      日本建築史基礎資料集成 十七 書院Ⅱ より

 基準柱間 6尺5寸  柱は4寸2分角(面取り)、縁まわりのみ4寸8分角。 架構は、他の例と同様、下がり壁の付長押裏に貫を通す手法。

 

 

南側外観 

 

一の間北面の床、違い棚      

 

一の間南面から庭を望む            写真:日本建築史基礎資料集成十七書院Ⅱより  

 

 

考 本願寺 対面所および白書院  1630年(寛永7年)ごろ  所在 京都市内 

 浄土真宗本願寺派本山(親鸞が宗祖)の接客空間。対面所(上段以南)と紫明の間・二の間・三の間白書院)は別の建物を移築接合(納戸が接合部)、対面所西側の雀の間~菊の間は増築と考えられている 。

 

  

平面図                    日本建築史基礎資料集平成 十七 書院Ⅱ より転載・編集

 

 

 南面外観

 

 対面所 正面を見る

写真:日本建築史基礎資料集成十七書院Ⅱより

 

 

梁行断面図

 

桁行断面図                      断面図:日本建築史基礎資料集平成 十七 書院Ⅱ より転載・編集                      

 


 通常の方丈建築・書院造と同様、頂部と脚部をで固めた軸組上に、格子状の大梁桔木によるを組み、7段ので束を固めた小屋組を載せ立体を一体化している。増築に際しても同じ工法を採用。 

 壁に耐力を期待してはおらず、それゆえ、壁、開口の位置の設定はまったく任意である。

 安土桃山時代以降、多くの大規模建築が建てられているが、そのいずれも、方丈建築・書院造で培われた工法の延長上でつくられていると見なしてよい。

 

 

 以上概略見てきたように、古代末に始まった二重屋根構造:桔木構造は、中世の方丈建築、近世の客殿建築を経て、いわゆる書院造と呼ばれる建物群に広く使われています。

 下図に、それらを要約してまとめてみました。

 橙色に塗った箇所が、架構の立体化・一体化を担っている二重屋根:桔木構造+小屋組の部分です。

 

      

 これらの建物を通観すると、建屋の外形が、簡潔で左右・前後がおおむね相称であること気付きます。

 これは、この間の各種の造営を通じて、桔木構造がもたらす効能、すなわち、脚部と上部を貫で固めた建屋主要部の自立性を、さらに建屋の四周にまわした桔木構造の庇・軒先部で補うという効能が工人たちの間に知られていたからであり、桔木構造による鍔つば状部分(つば:刀の柄と刀との間にある環)は、四周に取付いてはじめて立体効果が生まれること、一面でも欠けると立体効果は減殺することを認識していたのです。 

 

 土桃山~江戸初期に多く造営された木造の巨大建築:二条城書院本願寺系の諸建物、妙法院・庫裏など:においても、同様の工法がいわば拡大して用いられていますが、それは単に書院造の形体を好み、それを模写したからではなく、その工法の効能が広く認識され、援用されたものと考えられます。

 現在、巨大、かつ重量のある屋根は、重心が高く、地震に対しては不利である、との見かた、考えかたが「常識」として一般に広まっています。

 しかし、外壁、間仕切とも大半を開口装置とした安土桃山期に建てられたこれらの巨大建造物は、幾多の地震に遭いながらも、すでに400年近く、倒壊・損壊することなく現在に至っています。つまり、いわば、自然という大実験室での実物大の実験に堪えてきているのです。この事実は、事実として受け止めなければなりません。ではなぜ、堪えてきたのでしょうか。

 それは、先の「常識」:重量のある屋根は、重心が高く地震に対しては不利であるという常識は、掘立柱方式の場合には言い得ても、礎石建ての建物の場合には符合しないからです。

   註 ここで言う礎石建て方式とは、古来の工法のそれを指し、礎石上に据え置く方式

 地震とは、地面・地盤の震動のことです。

 掘立柱方式の建物の場合、建物は地面・地盤の動きに追随して動きます。一方で、地面・地盤が動いたとき、建物には慣性による力も働きます。建物が、地盤が動く直前の位置を保とうとすることによって建物に生じる力です。

 たとえば、地盤・地面が右へ動いたとき、建物は、足元では地盤・地面とともに右へ動き、上方は元の位置を保ち続けようとします。それは、地盤・地面から見れば、左へ動くことになり、その大きさは、建物の重量に比例します。したがって、掘立柱方式の場合は、見かけの上では、足元は右へ、上部では左へと動かされることになります。その結果、地震の際、重量が大きい建物は、たとえば屋根の重い屋根の建物は、軽い屋根の建物よりも、大きな挙動を生じることになります。すなわち、先の「常識」は、掘立柱方式:建物が地盤・地面に固定されている場合の「常識」にほかなりません。

 これに対して、礎石建て方式の場合、建物は、地盤・地面の動きには追随せずに、元の位置を保とうとします礎石との間に摩擦がありますから、摩擦の程度に応じた追随はします)。

 重量が大きいほど元の位置を保とうとする働きも大きく、したがって、屋根の大きく重い建物は、礎石建ての場合、地震にともなう挙動が少ないことになります。極端な言い方をすれば、建物の下で地盤・地面が勝手に動くということになります。原理的に、建物の下で地盤・地面が勝手に動く、という現象は、礎石建ての場合、建物重量に関係なく、すべての建物に共通する現象です布石上に置かれた土台建ての建物が、地震の際、布石上を滑ることがありますが、これもこの現象の一例です)。

 以上見てきたように、中世の普通の建物から戦国期の城郭はもとより、安土桃山期~江戸初頭の巨大建物群に至るまで、壁が少なくあるいは偏在している多くの建物が、今日まで存在し続けてきた理由は、中世以来、一般、上層を問わず、工人たちの間で培われてきた建屋を簡潔で左右・前後相称の形にまとめ、部材を徹底して一体の立体になるべく組上げる技術・工法にあると言えるでしょう。 

 それは、単に桔木などを使用さえすればよいのではありません。部分の足し算からは全体は生まれないことを熟知していた工人たちは、そのような使いかたはしません。

 彼らは、常に先ず全体を見通し、次いで部分を考えているのです。

 それは、彼らの使った図面にも現われています。彼らの描いた図面は、次の例のように、単なる絵ではなく、施工に使うことのできる絵、工程を踏まえて描いた絵なのです。 

 

 

参考 江戸城 本丸 大広間 絵図 万延元年御普請絵図(1860年)  古図にみる日本の建築 より

 設計図=施工図の実例 柱間1間を1寸で表記 材の種類、寸法などを色と記号で区別 凡例は読めるところだけ転記

足固伏図   凡例 右から 側足堅め 足堅め 大引 床束 1寸:1間荷持柱

 

土台伏図   凡例 右から  槻 槻 檜 荷持柱

 

 

屋根水取図   凡例 赤線 実線:柱筋  破線:間仕切 赤丸数字:柱間寸法  文字読めず!

 

小屋梁配図   凡例は 色で材料名 数字で材寸  文字読めず!

 

(「第Ⅳ章-2-付録」に続きます。) 


「第Ⅳ章-2-付録 妙喜庵 待庵」 日本の木造建築工法の展開

2019-09-04 18:01:00 | 1982年度 「筑波通信」

(「第Ⅳ章ー2-参考」より続きます。

 

付録 妙喜庵(みょうきあん) 待庵(たいあん)  1582年(天正10年)頃 利休の作? 所在 京都府 乙訓郡 大山崎町

                            国土地理院 1/25000 地形図より

 保津川(桂川、鴨川下流)、宇治川木津川が合流して淀川となる地点の北岸、天王山の山腹にある。川と山に挟まれた狭い場所に、西国への街道が通っていた。現在も、旧国道1号、東海道線、阪急、新幹線が密集しているのが眼下に見える。対岸には岩清水八幡宮

 現在は東海道線・山崎駅の駅前広場に面している。印。

 

 宇治川と木津川に挟まれたV字型の一帯の東側には、明治初頭まで、巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれた広大な自然の遊水池:沼沢地があった(地図の街道筋の東一帯)。干拓されて現在は宅地化が進んでいる。

 現在は、山麓一帯の家混みや遠景の乱開発を隠すため、茶室南側は生垣が密になっているが、当初は、眼下に淀川~岩清水八幡が 木の間隠れに望めたと思われる。

 大徳寺・孤篷庵も、現在は南側を鬱蒼とした樹林に囲まれているが、元は船岡山を木の間越しに望めたという。

 その他にも、借景を意図した建物では(洛北・円通寺、大和小泉・慈光院など)対策に苦慮している。これらは、現代の設計・計画が、作法を持たないことを如実に示す例である。

 

 

妙喜庵書院の広縁と待庵の部分平面図  日本の美術 №83茶室より

 

妙喜庵の広縁、待庵への路地  日本の美術 №83 茶室 より     

 

待庵への路地、および待庵西面  原色日本の美術15 桂離宮と茶室 より

 

 

平面図                日本建築史資料集成二十 茶室 より

下記の茶室内の写真は、空間を極力全面収めようとするために、いずれも実際の目線よりも高い位置で撮られている。

 

 

にじり口からを見る            原色日本の美術15桂離宮と茶室 より     

 

にじり口を見返す               日本建築史資料集成二十 茶室 より

 

南面                           東面      日本建築史資料集成二十 茶室 より