「情 景 二 題」  1983年度「筑波通信№9」

2020-01-28 10:02:08 | 1983年度「筑波通信」

PDF「情 景 二 題」 1983年度「筑波通信№9」

  情 景 二 題

 土浦の駅も今年になって駅ビルが建ち、何の変哲もない普通の近代的な駅になってしまった。昨年までは、一説によれば船に見たてたというそれなりに風情のある木造の建物だった。地力の都市の玄関である国鉄の駅には、このようにその土地のイメージ、シンボルをそのまま形にしてしまった例が、かつては少なくなかったように思う。寺院をかたどった奈良の駅などは、未だそのままだろう。
 その駅の建物も、その都市が元来その門前町として発展してきた、ある寺院を模したものであった。大きな地方都市の駅前ならどこでもそうであるように、この地力中心都市の駅前にも、ロータリーと噴水のある駅前広場があり、バスやタクシー、そして人の群れであふれている。駅側から広場の対岸へは、横断地下道も通じていた。

 ある冬の朝、私はその駅前の、広場をはさんで駅の真向いにあるビルの最上階の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。広場を目の下に見ることができる私の席には、冬の朝日がたっぷりと差しこみ、それだけでも外とは比べものにならないほど暖まっていた。北国の町並みは朝もやのなかにかすみ、昨夜町にも散らついた雪で化粧した山々も、遠くまた近く、朝の光の中で鈍く輝いている。駅前では朝のラッシュが始まっていた。
 私は何ということもなく、ただ広場をぼんやりと見おろしていた。しばらくして私はあることに気がついた。たしかに駅前に車も人もあふれてはいるのだが、それは東京の大きな駅のようにのべつまくなく群れているのではなく波があるのだ。いっとき広場一帯が車や人であふれたかと思うと、次の瞬間にはそれが消えてしまう。どうやらそれは列車の到着・発車時刻と並行しているようだ。列車の時刻が近づくと、広場にバスが集まり始め、そして、最盛期にはあっという間に、それこそ身動きができないほどにバスで埋ってしまう。バスから降りた人たちが、寒そうに駅舎の中に吸いこまれる。そして広場は、空のバスだけとなり閑散となる。しかしそれも束の間、今度は駅舎からどっと人が吐きだされてくる。列車が着いたのである。人々はそれぞれ、歩き、そしてバスに乗り、人もそしてバスも広場から去ってゆく。静かになり始める。駅前には、タクシー待ちの人たちの列とタクシーの列が残っている。がそれも一人また一人、一台また一台と消え、そして、次の列車の到着時刻のころまで、広場にはほんとの閑散が訪れる。 10分もすると、早々と客を送り届けてきたタクシーがぽつりぽつりと戻ってきて、タクシーだまりが埋ってくる。客はいないから、運転手たちは三々五々立ちばなしなどしている。一時の広場の休息の時。歩く人もまばら。人の群れ、車の群れに隠れていた噴水が、多分薄く氷が張っているのだろう、鉛色の水面に落ち、時折吹く寒風にあおられた水が、池の外の路面をぬらしている。
 このような波が、さきほど来もう何度となく繰り返し、広場に押しよせ、そして引いていっていたのである。おそらく、この波動は、その間隔の長短こそあれ、朝から晩まで駅頭を洗い続けているのである。そして、東京あたりの大きな駅でもこれとほぼ同様なことが起きているはずなのだが、ただ、列車の間隔が短かく、そしてまたいくつもの線が乗り入れ、しかも相互の接続も考慮せずに次から次へといわば勝手な時刻に到着し発車するから、全体としては均されてしまい、このようなめりはりのある波動が感じられず、いつでもわさわさしているのである。そしてその場合、ラッシュ時には、ある時間幅で大きくふくらんだ波が津波のように押し寄せ、さきほど書いたこの地方の駅頭を洗うリズミカルないわば心地よくなじめる波動というものは全く感じられない。
 私は興味をそそられて、この駅頭を洗うリズミカルな波の動きを観察し続けた。私があんなにまじまじとバスの屋根を見たことは、そのときまでかつてなかったろう。色とりどりに塗られたバスの胴体はいやでも日常目に入るが、屋根など普段は気にもしていない。それはなかなか愛きょうがあった。ここのバスは全体にてんとう虫かなにかの虫の背中のようだった。ビルの中は厚いガラスで外の音があまり聴えてこないから広場をそういった虫がうごめいているように見えた。

 その押しては返す駅頭の波打ちぎわに、波に動ぜず立ち続ける人物がいた。人の波に埋もれても、波が引くと、相変らず前の所に立っている。駅舎の前ではなく、そこから少し離れた横断地下道の入口近く、人の流れ路からわずかにはずれた所にその人は立っている。若い女性のようである。初め私は気がつかなかったのだが、彼女はもう大分長いことそこに立ち続けていたようだった。彼女は駅の方に向き、列車が到着し、しばらくして人々が駅舎からあふれでてくると、二三歩前に出て身を乗りだすように人波に目をやっている。人を待っているのだ。待ち人は列車に乗ってやって来る。寒いのに、駅舎の中で待てばよいのに、などといらぬお節介めいた思いもわいてきたが、あそこで待つにはそれなりのわけがあるのだろう。人波がまばらになり、待ち人は今度の列車でも来なかったらしい。彼女は再び元の場所に戻る。かなり長いこと彼女はこれを繰り返していたのである。
 私が彼女の存在に気づいてからも、もう三四回は波が打ち寄せたように思うが、待ち人は一向に現われない。何回目かの波が引いていき、広場が閑散となりかけたとき、ついに彼女はあきらめたらしい。やおら彼女はその場を離れ歩きだした。その時、一瞬、腕の時計に目をやったようにも思う。彼女は、ゆっくりと二三歩駅の方へ向う素振りを見せたあと、ひるがえって今度は地下道に向い足早に歩きだした。時計に目をやったように思えたのは、あるいはその時だったかもしれない。彼女は駆け降りるようにとんとんと階段を降りだした。何も知らない人には、それは軽やかな足どりに見えただろう。だが、二三段降りたところで、私は彼女のリズミカルな足の運びが一瞬乱れたのを見た。それは一瞬にもならないほんとにわずかな時間であった。降りるのをやめようとしたかのように見えた。それはおそらく、もう少し待つべきではないか、今去ってしまうとすれちがいになってしまわないか、駅の伝言仮にでも書くか、しかしそれはまずい、・・・・といった彼女の心の内に交錯した思い、迷いの卒直な表われだったのだろう。そして再び一瞬後、彼女はそれを振り切るかのように、前よりも更に足早に地下道へ消えていった。
 
 文章にすると長くなるが、彼女が待つのをあきらめて歩きだし、そして地下道に吸いこまれるまでのできごとは、ほんの数秒の内に起きたことで、普段なら私だって気がつかなかっただろう。
 駅前では朝のラッシュも終りに近づき、列車を降りる人も、そして待つ人たちも少なくなり、駅前特有の昼間のけだるさが訪れかかっていた。

 

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 そのとき建築学科の学生であった彼は、夏季休暇で家に帰っていた。彼の家は地方の小都市にあった。その町は歴史の古い町で、そういう町によくあるように、明治のころに建てられた洋風の建物がまだあちこちに残っていた。
 夏休みの宿題に、彼には建物のある風景のスケッチを描くことが課せられていた。そして、彼はこの洋風の建物の一つを描くことにした。彼が描く気になったのは、病院の建物であった。白っぽいペンキの塗られた木造洋風の二階建の建物で、囲りにはこれも古風な柵がめぐり、そこに開いた門のわきには、そういう建物にはよくあるように守衛所があって、そこには守衛が一人、所在なさげに座っていた。その門へ通じる道の両わきには、これも建物と同じぐらい年月を経ているのだろうか、大きな街路樹がならび、道の上におおいかぶさっていた。さながら緑のトンネルとなったその道は人通りはさほど多くはなく、ただ真夏の太陽が木もれ日となり路面にさしているのが印象的であった。
 彼は、その道のやや病院よりの場所に画架をすえ、そこから木の間ごしに見える建物を描くことにした。よく晴れあがった暑い日の昼下り、その町は盆地にあるから暑い日は滅法暑くなるのだが、この緑の通りだけは時折涼風が吹きぬけ別天地のようだった。通りには涼をとりがてら散歩する人をちらほら見かけるだけだし、病院の構内もときどき白衣の人が通るだけ。あたりには夏の日の午後の静けさがあった。
 彼のスケッチは順調に進んでいたわけではなかった。こった造りのあの洋風の建物は、絵にするとなると結構難しい。はかばかしくなかった。散歩のついでの道草に、彼のスケッチをのぞきこんでゆく人もいた。彼にとってそれは、仕事がうまくいっていないことも手伝って、いらだたしく、うっとうしかった。時間はいたずらに過ぎていった。彼は、今日はもうやめにして明日また来ようかと思いだしていた。
 そのとき、彼はまったく気づいていなかったのだが、彼のそばに和服姿の老人と若い女性が立っていた。彼の後から彼のスケッチを見ている。彼はちらっと彼らを見た。こざっぱりとした身なりの品のいい老人と、大きな麦わら帽子をかぶり清々しいワンピース姿の、年のころ二十四・五の女性であった。二人は連れらしく、どうやら女性の方が絵に関心があるようだった。彼はなんとなく気恥しく、思わず顔が紅くなるのをとめようがなかった。彼女はなお熱心に彼の手先を見つめている。彼の手はますます重くなった。やがて彼らが立ち去る気配を見せ、彼は内心ほっとした。と、そのとき、彼女が後から声をかけた。「明日もいらっしゃるんでしょう?」彼は突然のことにどぎまぎし、あいまいに「ええ、まあ」とだけ応えた。彼らは病院の方に向って、老人の歩調にあわせ、ゆっくりと歩み去った。あたりには、また元どおり、木もれ日が鮮やかに地面に落ちていた。彼はそれっきり、その女性のことなど忘れてしまっていた。
 翌日はあいにく天気はよくなく、ときどき雨がぱらついた。彼は絵を描きにゆくのをやめにした。

 次の日は、再びよく晴れあがり、また暑くなった。あの通りの風景は地面が少し湿っぽい他は一昨日と何も変らず、路面にはあいかわらず夏の陽ざしが木もれ日となり落ち、涼風が通りすぎていた。
 彼が画架をひろげてしばらくたったとき、病院の守衛が彼の方に向って歩いてきた。一昨日ここで絵を描いていた人と同じ人かどうか確認したあと、守衛は彼に白い紙袋をさしだした。けげんそうな顔をした彼に守衛は説明しだした。昨日の午後、若い女の人が尋ねてきて、あそこで絵を描いていた学生さんがもし来たら渡してくれと頼まれたのだという。彼がその日も来ると言っていたので来てみたけれどもいない、少しは待ったのだが列車の時刻がせまり、もう時間がない、とのこと。聞けば、数日の予定で、その病院に入院している祖父を見舞にはるばる京都から来ていて、その日の夜行で帰るのだという。
 彼は、もうすっかり忘れていた一昨日のことを思いだした。大きな麦わら帽子をかぶりワンピースを着た女性が、老人と連れだって、病院の方へ通りを去ってゆく光景が、ありありと目の前に浮んできた。あの女性だ、と彼は思った。彼の心は騒いだ。守衛はことの一部始終を話し終わると、門の方に帰っていった。

 白い紙袋の中には、とりどりの菓子が入っていた。
 彼は、なにか非常にとりかえしのつかないことをしてしまったのではないか、との思いにとらわれてしまっていた。
 あのときはさほど気にもとめず、ちらっとしか見なかったあの女の人の姿を、探るようにして思いだそうとしても、彼の内に見えてくるのは、あの大きな麦わら帽子と清々しいワンピースの姿だけであった。彼はもどかしさを覚えた。どうしてもっとちゃんと見なかったのだろう。どうして昨日描きに来なかったのだ。どうしてどうでもいいような返事をしてしまったのだろう。彼は自分をのろいたかった。

 今でも、夏のふとした一瞬などに、あの大きな麦わら帽子、ワンピース姿、木もれ日・・・・など、あの時の光景が突然彼の目の前に浮んできて、そのたびに、あのある種のもどかしさと、とりかえしがつかないとの思いがないまぜになって、彼の心の一角を横切っては消えるのである。
 重要文化財に指定されてしまったあの病院も、今は他所に移設されてしまって、もうない。そして、あの風景も、今はもう、わずかに彼の心の内に残っているだけである。

 


あとがき

いつもなら、駅頭で目にした情景をもとに、たとえば「駅」についての考えかたの移り変りなどについて、ながながと書くはずである。最初はそのつもりであった。ところが、途中で、後段の話をたまたま耳にして、その話も紹介したくなった。というのも、こういう類の体験は、おそらくだれもが、程度の差こそあれ味わっているのではないか、しかし、普段はすっかり忘れてしまっているのではないか、たまにはこんなこともあるのだ、と思いだし、思い起してみるのもわるくはない、そんな風に思ったからである。そして、今回は何も言わずに、情景だけを書くことにしたのである。

とは言うものの、感想を一つだけ書く。
〇後段の彼の話を聞いたとき、私にも、おぼろげながらその光景・情景を描いてみることができた。そして多分、私もまた淡い悔恨の情を抱くにちがいない、とも思った。ただ、私には「とりかえしのつかない」ということばが今一つ心のどこかにひっかかってならなかった。私はあえて、とりたてて「とりかえしのつかない」と言うようなことはない、と言い切ってみた。当然のことながら、そんな不遜なことが言えるのか、というような反論が返ってきた。はっきりと論理だった理由の用意があって言ったわけでもないから、そう反論されると口をつぐむだけだった。しかし私は、そうかといって前言を撤回したわけでもなかった。
 もし彼が、翌日も絵を描きにきて、あの女性と話を交わし、そしてその日が過ぎていったとしたならば、彼の内にそのときのイメージが強く残っただろうか。まして、昨日のうちに今日のことが全く予想できていて、そのとおりになったとしたならば、やはり何事も残らなかっただろう。残念ながら、私たちには明日の予測はできない。今日になって、昨日までのことをあとづけることだけができる。そしてそのとき、あそこでああしたらこうなっただろう、と思うことはできる。しかしそれは、つまるところ結果論でしかない。悔んだとて戻れるわけがない。そういうように考えるなら、生きてゆくということには、とりかえしのきくことなどなく、全てがとりかえしのつかないことなのだ、と私は思う。おそらく私が「とりかえしのつかないことなどない」などと言ったのは、だったら「とりかえしのきくことを見せてくれ」と言ってみたかったからではないだろうかと思う。えらく強気のように聞えるかもしれないがそうではない。私の内にだって、無数に近い悔恨の情がうず高く積っている。時折精確な人生の設計図を描いておけばよいではないか、などという思いがわかなかったこともないけれども、つまるところ、それは建物の設計以上に難しい。というより不可能に近いだろう。そういえば私が子どものころきらいな質問は、大人が好きでよくやる「将来何になりたい?」という問いかけだった。私はいつも困惑した覚えがある。今の私だったら、なるようになる、などと小生意気なことを言ったかもしれないと思う。もちろん心のどこかに願望めいたものがないわけではなかったろう。しかし、それがどう具体化されるか分りもしていないのに、結果だけを言うのにはためらいがあったのだ。今の私も、基本的には何も変ってないようである。今私は大学の教師をやっているけれども、私の過去のどこを探しても、大学の先生になるなどという願望など見つからないだろう。あるいはそれは、とりかえしのつかない道に入ってしまったのかもしれないけれども、先行どのようになろうとも、それを帳消しにするわけにはゆかないのである。その意味では、あの駅頭の彼女のように、一見軽やかな足どりで、これからも更にうず高く積るであろう悔恨の情を背負いつつ歩くしかないらしい。建物の設計もまた然り。うまくいった、と思うのはそのときの、しかも単なる自己満足にすぎぬかもしれず、何らかの悔恨の情は必らずついてまわる。それでも設計をやるというのはいったいなぜなのか、設計などやれる器か、などと自問自答しはじめ、自分は偽善者ではないか、と思いたくなるときもある。

年が暮れる。新年もまた、それぞれなりのご活躍を!
          

         1983・12・1           下山眞司 


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「第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷,Ⅴ 明治期以降の住宅の様態」

2020-01-21 10:21:10 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C参考,Ⅴ」A4版3頁

 

第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷

武家屋敷の諸例  黄色に塗った部分は接客用空間。

は、藩主の江戸中屋敷であり、敷地が広大。 いくつかの建屋を渡り廊下でつなぐ分棟式の構成。

① 宇和島藩 伊達家 江戸中屋敷 平面図                       日本建築史図集 より

       (投稿者より  2020.01.27  図版掲載ミス:②図版が重複:があり、①図版を差し替えました。訂正致します。)

 

は中級の旗本屋敷。 敷地は約300坪。

18世紀前半、旗本の屋敷は、禄高により70坪から2300坪まで13階級に分れていたという。この例は、江戸麹町にあった禄高300石の武州代官の屋敷。

中級旗本屋敷 平面図                            日本建築史図集 より

 

は、岡山にあった下級武士・樋口竜右衛門の屋敷。 敷地は約100坪。

③ 下級武士の屋敷              平井聖 日本建築の鑑賞基礎知識 より

 

 

Ⅳ-4 近・現代:明治期以降の住宅の様態  

 江戸幕府の解体により、それまで各藩に属して暮しを維持してきた武士階級、とりわけ中級以下の武家は、帰農できる者には限りがあることから、多くが職を求めて都会へ集まります。

 しかし、都会には、その人たちを受け容れる職が用意されていたわけではなく、ましてや住まいが用意されていたわけではありません。そこで、この人たちは仮の拠点・仮の住まいをつくるべく奔走し、また、その人たち向けの貸家をつくる人たちも現われます。

 当時の都会、たとえば江戸あらため東京の中心部:ほぼ現在の山手線の内側に相当する一帯:の居住地に適した場所の大半は、下記の(14頁の)図3、図4に見るようにすでに住宅地になっており、新来の人びとの住み着く場所はないに等しい状態でした。当時の都会に残されていた土地は、居住地に適さない土地、谷筋などの低湿地だけだったのです。

図3 寛文年間(1660年代)の江戸     図集 日本都市史(東京大学出版会)より 

 

図4 江戸の藩邸の立地                                                  同書より

 

 低湿地でも、下記の(14頁の)図5のように、蔵前周辺の低湿地には、商工業の性格上、多くの商工に携わる人びとがすでに住み着き下町を形成していましたから、ここに新たに住み着くのも難しいことでした。そのため、新興の都市居住者たちは、既存の居住地のいわば隙間に住み着くしかなかったのです。

 

図5 明治30年頃の東京中心部   陸地測量部 1/20000地形図より 文字・スケールは編集

 

 この新興の人たちが構える住宅は、すべてがこれまで見てきた諸例のように長年住み続けることのできる建屋ではなく、いわばとりあえずつくりの建物が大半であったと言ってよいでしょう。

 下図は明治期の都市居住者:勤労者の住宅です。敷地の大きさは分りません。 なお、方位は、①②は上方が南、③は上方が北です。縮尺は各図ほぼ同一です。

 

① 明治初期の勤労者住宅    日本建築の鑑賞基礎知識より

 

 明治初期の勤労者住宅            日本住宅史図集より

 

③ 明治30年代の借家 (夏目漱石、森鴎外が住んだ) 日本建築の鑑賞基礎知識(至文堂)より 

 

 おそらく、①程度の建屋や、長屋が多く、つくりも仮設に近いものだったのではないかと思われます。           しかし、これらには、規模の大小にかかわらず、明らかに武家住宅の影響が認められます。

  明治末から大正期になると、目加田家のように、南側の諸室と北側の諸室の間に廊下をとるいわゆる中廊下式住宅が現われますが(218頁参照)、これも基本は武家住宅を踏襲しています。

 

 

Ⅴ 幕藩体制の崩壊:近代化と建築界の概観

  明治に入り、建築界にも大きな変化が訪れます。近代化のために、各職方の下で養成するというこれまでの工人の養成法に代り、大学や専門学校による建築教育が始まります(当初は建築ではなく、造家と呼ぶ。工部省工学寮造家学科:1873年、工部大学校造家学科:1877年開設)。

 しかし、近代化の基本は、脱亜入欧つまり文物・生活一般の西欧化を目指すものであったため、建築教育で為されたのも西欧建築の様式・技術の吸収が主な内容でした。

 教育の内容に日本の建築・建物が登場するのは、西欧に留学した人たちが留学先で、自国の建物について問われても何も答えられなかったこと、彼の国では自国の建築についての知見の蓄積があること、を知ってからのこと、明治も中頃になってからのことです。 

 建築の高等教育は高踏的に過ぎるとして職方諸氏(当時は実業者と呼ばれた)向けに西欧建築技術の具体的な教科書「建築学講義録(滝大吉著、実業者対象の工業夜間学校での滝の講義録)が刊行されたのは明治23年(1890年)ですが、日本の建物についての書物の刊行はそれからさらに十数年遅れます。ここに、近代化の下での「日本の建物の扱われ方」の様態がよく表われています。

 日本の建築についての解説書「日本家屋構造(工業専門学校用の教科書、齋藤兵次郎著)の刊行は明治37年(1904年)、日本の建築用語辞典「日本建築辞彙(中村達太郎編)は明治39年(1906年)の刊行です。

 しかも、これらの書物で触れられている日本の建物・建築についての知識・知見は、すでに現代同様、技術・技法の部分的な知識、あるいは用語の解説が大半を占め、日本の建物づくりの基本的な考え方の解説はなされていません

 たとえば、「日本家屋構造」には、下のような矩形図が載っています。

 

 

 

 しかし、これはあくまでも矩計図の一例にすぎず、この図がいかなる形体の建物の矩計であるか、の説明・解説はありません。

 この書には、継手・仕口の図や解説が載っていますが、その場合も、いかなるときに、いかなる部位で、なぜ何のために用いるかなどについての説明はありません。その点は現在の建築の教材とまったく同じです。これは、明治政府の一科一学の奨めの結果であった、とも言えるでしょう。すでにこの頃から、現在と同じように、部分の知見を足せば全体になる、との考え方が主流になっていたのです。

 どのような全体を、いかにして構想するか、材料:木材をいかに扱うか・・等々、日本の建物づくりの全工程について知ることなく、様式・形式に言及する傾向はこの頃から始まっているのです。

 その一方、従来の職方は、新興の技術者たちより下位に位置づけられ、この人たちに蓄積されてきた莫大な知見を無視・黙殺する傾向が生まれ、残念ながら、この風潮は、以後現在に至るまで、衰えることなく続いています。 近代化というしがらみから、いまだに抜け出せていないのです。 

 


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「 点 と 線 」  1983年度「筑波通信№8」

2020-01-14 10:41:00 | 1983年度「筑波通信」

PDF「 点 と 線 」(1983年「筑波通信№8」A4版8頁)

     「 点 と 線 」

 朝八時半、やや薄くもやがかかり、地物は全て露を帯びている。甲州の十月半ばの朝は、霜の朝ももうそう遠いことではないことを思わせる。
 折しも、黄ばみ始めたぶどう園に囲まれた急坂を、一人のおばあさんが気ぜわしそうに登ってきた。かなりの歳のようだ。家のだれかに送ってもらったのなら、坂の上まで車で来れたはずだから、きっと先ほど国道を上っていったバスを降り、ここまで歩いてきたのにちがいない。坂の途中で一息つきかけ、その時問も惜しむかのように、ほんの一瞬天を仰ぐかの素振りを示しただけで歩みを続け、建物の中に消えていった。
 私は今でもそのときの情景を鮮明に思いだすことができる。丁度そのとき私はカメうを手にしていたのであったが、その印象深い情景に対してカメラを構えることはしなかった。というより、カメラを持っていることを忘れ、おばあさんの心の内に思いをはせ、半ばぼうぜんと、その情景を見つめていたのである。       
 昨日から私は再び「 S 園 」に来ている。冬に向って、暖房の試験のために訪れたのである。そして今日は園の運動会。昨夜は園生たちもはしゃぎ、そして指導員たちは(それを見るのはほんとに久しぶりのことだったのだが)てるてる坊主をつくって、所々にぶらさげ、好天を祈っていた。
 あのおばあさんは、孫の運動会を観に、開始は十時だというのに、心せいてもう訪れたのである。聞けば、孫に会いに、今までも足繁く通ってきているのだそうである。
 
 私も半日つきあうことにした。園には広い庭がないから、運動会は園から2kmほど下った町の中心にある昔の高校分校跡を借りて開かれる。いつもは駐車場になっている元校庭は、今日ばかりは晴々しく飾られていた。昨日のうちに、指導員たちの手で整えられたのである。父母たちも集まり、町の人たちもちらほら様子を見にきている。おばあさんは最前列に陣どり、始まるのを待っていた。
 たどたどしいことばの園生の開会の辞があり、運動会は始まった。全部あわせても百人足らずの、ほんとに小さな小さな運動会だから騒がしくなるほどのにぎわいにはならないけれども、それなりの熱気・活気のある競技がくり拡げられている。会場整備も含め、さきごろ開かれた保育園の運動会よりも立派だ、というのが観にきていた町の人のことばだった。私もその熱気にのまれ、一日カメラマンになる気になった。私は園生たちの素顔を撮りたかった。格好の場所があった。校庭に面した元校舎の二階である。そこからは、全景も、そしてカメラを意識しない一人一人の表情も、手にとるように見ることができる。
 そんな活気のなかで、一度だけ、白けたな、と思えるような瞬聞があった。園生たちにとって、大きな楽しみの一つである昼食のときのことである。昼食は幕の内弁当と園の調理員たちが前日から仕込んだおでんに豚汁。父母たちもそれぞれなにがしかを用意してきているようだった。家族が観に来ている園生たちに家族と一緒の食事が許され、それまで一かたまりになっていた園生の群れから彼らが抜け出たあと、その一瞬は起きた。約半数の、家族がだれも来ていない園生がそこに残された。私は彼らの表情に、寂しそうなかげりを見たような気がしたのだが、それは私の思いこみのせいだけだっただろうか。なにかその一角から空気が抜けてしまったような、そんな気がした。まずいな、と私が思ったとき、その気配を察したかのように、指導員のいく人かが、おでんを載せた盆を持って、努めて快活に、さあ食べよう、と分け入りその場の空気をかえたので、瞬時にしてまた前のように和んだように見えた。だが、彼らは確実に、家族がそこにいるかいないか、その差を感じとったのではあるまいか。ことによるとそれは、彼らにとっては日常茶飯事だったのかもしれないが。
 
 私は、昨夜園の役員の一人から聞いた話を思いだした。いま入居している園生の半数以上のいわゆる家庭環境には、何らかの問題があるのだという。身寄りがない、身寄りはあっても、たとえば兄弟姉妹は、それぞれの生活で手いっぱいである、あるいは経済的に厳しい状況にある、・・・・という環境。昼食のとき園生席にとり残された人たちは、もちろんなかには単なる都合でだれも観に来なかったという人もあるだろうが、大半はそういう事情を背負った人たちだと見てよいだろう。
 そうであるとき、そういう彼らには単なる運動会の昼食時の白けなどとは比較にならない大きな問題がのしかかってくることは自明だろう。
 彼らが更生施設での生活を送るなかで、社会復帰できるまでになった:更生した、としよう。だが、それが、彼らが自立した生活を送ることができるようになった、ということを意味しているかというと、決してそうではない。これはあたりまえだ。彼らの生涯は、依然として、一定程度の「支え」を必要とするのである。だれが支えるか。身寄りはそういう状況にある。彼らが歳をとれば、身寄りも歳をとる。(それは、家庭環境に問題がない場合でも同じである。)つまるところ、園を出たら彼らは一人になる。たとえ就労先が見つかったとしても、拠るべがない。それゆえ、園を出るに出れない。園は更生施設ではなく定住施設化してしまう。その結果、更生施設への(とりわけ信頼がおけると思われる施設への)入園希望者は、列をなして待つことになる。
 これは、つまるところ、制度としてはたしかに養護学校・更生施設・通勤寮・授産施設・・・・といった具合に外見上は整えられてはいても、障害者の生涯という視点から見ると、それはあくまでも単に「点」としての対応しか示していない、ということだ。しかも、それらの「点」の相互のスムーズな連携は決して十全であるとは言いがたい。「点」はあっても「線」がない。健常者ならばそれでもよいだろう。自力で「線」を構築できないわけではないからである。心障者の場合はそうはゆかない。
 いま各地で心障者を抱える親たちの自分たちの施設づくりが盛んになっているが(この「 S 園 」もその一例だし、この園の見学者のなかにもそういう意向を持った親たちが多い)、それらはどれも「点」としての施設ではなく「線」としての施設:自分たちがいなくなったあとでもその代行をしてくれる施設を望んでいる、と見た方がよいだろう。明らかに、制度と要望がくいちがっているのである。

 いわゆる公共施設・社会施設というものは、言うまでもなく、人々の生活を補完するためのものだ。そして、その整備にあたっては、半ば常識的に、人々の生活をいわば縦割りの機能別断面でとらえる対応(たとえば、教育・医療・福祉・・・・)が考えられ、制度化されてきている。先に記した心障者の施設群も、心障者の状態を年令別・成長別、あるいは障害度別に、すなわち機能別に考えられたものだ。それは、少なくとも外見上、心障者の状態に対して、合理的な因数分解で対応しているから、あとは個々の因数:個々の施設を充実すればよいかのように思われる。実際、心障者の施設はもちろん、いわゆる公共施設は全て、この機能分担、縦割り分業でその整備がすすめられているのは事実である。
 だが、こと心障者に対するかぎり、重要な視点が欠落していた。つまり、年令・成長も、障害度の軽減:更生も、それは一個人の上に継続して起きる、という認識:視座の欠落である。だから、現状では、心障者は、その成長とともに、機能別に段階別に用意された施設を次々と渡り歩くことになる。まして、身寄りがない場合には、その人の生涯は、それは本来連続したものであるにも拘らず、いくつかの「点」に分断され、たらいまわしとなる。心障者を抱えた親たちの心配は、まさにこの点にある。親たちは、外見上の合理的機能分担・分業によって、あたかも荷分け作業でもするように、一人の人間を分類して片づける発想ではなくあくまでも一個人の連続した生活に視座をおいた発想を求めているのである。
 しかし、考えてみると、この発想の転換、つまり、人々の個々の生活の視点にたっての公共施設の役割のとらえなおしは、全ての公共施設についてもなされる必要があるだろう。なぜなら、人々の生活を補完することを考える、ということは、人々の生活をその外観上で因数分解・機能分解することではなく、あくまでも、人びとの個々の生活を補完すべく考えるということのはずだからである。言いかたを変えれば、ある公共施設の価値は、単にその施設自体が整備充実しているか否かによってきまるのではなく、それが、人々の個々の生活遂行にあたりどのように取りこまれ有効に働いているか、によってきまるということだ。現状の多くの公共施設には、この個々の人が個々の生活に応じて使う、という発想はなく、あるのは全て、合理的機能分担・分業自体の強化だけだといってよい。それは必ずしも、人々の個々の生活遂行にとって都合がよいわけではない。むしろ、多くの場合は不都合のことの方が多いはずだ。にも拘わらず、不満が顕在化しないのは、人々が(止むを得ず)、先に記したように、それら「点」と「点」の間を自力でつなぎ、とりあえず済ましてしまっているからだ。そして、たまたま心障者の場合はそれがなし得ないがゆえに、顕在化して表われている。多分、いやきっと、こうであるにちがいない。機能別断面で見る分業化・専門化が、そもそもの本義:生活の総体を見えなくしているのである。
 
 先号のあとがきで、最近多発している甲信地方の洪水についての感想を記したが、その後、あいついで、それに係わる話を知る機会があった。一つは、10月10付の朝日新聞「論壇」に載った論文によってである。全文をそのままコピーして載せることにする。 

      

 水田が、洪水の際の遊水池としてもさることながら、洪水になる以前の水量調節弁として重要な役割をもっていた、という指摘は、既に紹介した「土は訴える」という本にも述べられている。長野県下の全水田に10cmの水をためると、その総量は6000万t、諏訪湖に匹敵する水量となるそうである。ということは、降雨時には、なににもまして水量調節のクッション役をしてくれるということに他ならず、見かたを変えると、水田がダムの代りをしていてくれるのである。(ついでに言えば、水田は重要な地下水供給源でもあるという。水田には、代かきから収穫までなんと1500mmの水が注ぎこまれるのだそうである。その水は、元をただせば天水なのであるが、水田はその天水を直接河川へ流下させず、一時滞留させているわけである。)そしてそのある部分は地下へ浸透するのである。)
 昭和の初め、日本の「たな田」(極端な例では「田毎の月」と呼ばれるような例、「千枚田」などとも言われる)を見たアメリカの地理学者が、「日本のピラミッド」つまり、これをつくりあげた農民のエネルギーは、ピラミッド建設のエネルギーにもまさる、と言ったそうである(いずれも同書による)。そして、長野県下では、昭和55年に、全水田面積の20%にあたる水田が、米の生産調整のために消えていったという。それは、先はどの計算でゆくと、中規模ダム一個分、1500万tの機能に相当するのである。そしてまたその減反は、機械化農業に不適な「たな田」状の田(つまり、山ぎわの田)がねらわれるから、その点から考えると、水田のダム機能は、上流に近い所ほど減ったことになる。
 それに加えて、この論文にあるように、全ての小河川はコンクリートで固められ、水があふれないように改修された。結果は、これも論文にあるように、本流が一挙に増水する。タイムラグなく小河川(支流)から水が流れこむからである。そして、本流の断面はそれに耐えきれずに決壊してしまう。多分このような事態は、論者の指摘をまつまでもなくこれから各地で起きるのではなかろうか。
 そして、この事態への対応は、今度は本流そのものの断面拡幅だろう。しかしこれがとてつもないことになるのは自明である。もしそれを完全にやるとしたら、本流流域の耕地は大幅に削限せざるを得ないだろう。

 先般、かねてより構想をたてていた青森のT氏の集中講義がようやく実現を見たが、彼が実際に現地でやりあっている一事例も、まさにこの点であった。土木の専門家たちは、治水というと直ぐに河川をコンクリートで固めたがるのだそうである。タイムラグをもって流れていた時代の水量に基づいて断面を計算して固めてしまい、そこへその結果タイムラグのなくなった水が流れるわけだから、結末は見えている。彼いわく何年かに一度の少々の洪水は大したものではない。それよりも、無用の長物に近い河川改修による被害の方がこわい、と。しかし、専門家が彼の意見をとりいれるのは、常に、何かことが起きてからなのだそうである。
 
 ここにおいても、合理的機能別分担化・分業化・専門化が、ものごとを総体としてとらえる見かた:視座を見失い、ただいたずらに、分担・分業した各「点」のなかだけでことを処理しようとする傾向が見られるのである。風が吹けばおけ屋がもうかる、という話は、単なる笑い話として見るべきではない。そこには、ものごとの生起に係わる真理が語られていると見た方がよさそうだ。もちろん私は専門化・分業化を否定するつもりはない。ただ、ものごとの生起の論理を見失った専門化・分業化は(つまり、その専門のなかだけでことを処理して済まそうとするような専門化・分業化、すなわち「点」的発想は)、それは決して専門・分業とは言い得ない、と思うだけのことである。

 その意味で、T氏がここ四半世紀にわたり青森上北地方ですすめてきた施設創りの紹介は、その発想が単なる縦割りの「点」の集合でない点で(つまり柔軟な点で)まさに傾聴に値するものであった。かといってそれをリアリティをもって語ることは、到底私にはできがたい。その一部のことについては、先年、ほんのその上っ面だけを「七戸物語」のなかで紹介したが、あれではまったく不十分である。なんとかして本にまとめてもらおうと、いま考えているところである。
 彼は、集中講義の最後にこう学生たちに語った:「どこの地域にも通用するようなやりかた、というものはない。それぞれの地域に、それぞれのやりかたがあるはずで、人々はそれを目ざし、専門家はそれを考えなければならないのではないか」と。
 このなかの「地域」ということばは、そのまま「場合」ということばに置き換えてもよいだろう。要は一律の分断法でものを見ては困る、ものの見かたの根本になければならないのは、あくまでも総体を見ることでなければならないということなのだ。

 あの「 S     園 」の役員が語ったことを続けると、いま、この園の設立に係わった親たちのなかで、もう一つ別の夢物語がかわされているのだという。それは、老人ホームの夢である。ゆくゆくは老人ホームをつくりたい、というのである。私がちょっと不審そうな顔をしたのを見て、彼は説明した。老人ホームと言っでも、いま園にいる人たちだけが入るのではない。自分たち、つまり親も一緒に入るのだ、と。老後、自分たちもまた、だれかに支えてもらわなければならないときが来るだろう。そのとき、これも一定の支えを必要とする成年した我が子とともに、そこで暮す。少しのことなら老人の自分たちにもできるだろう。そういう老人ホームをつくれないだろうか。
 聞きようによると、これはこの人たちのエゴイズムだ、と言われかねない。けれども私は、そうは思わなかった。本来、公共施設・社会施設が補完しなければならない人々の生活というものの実相は、(別の言いかたをすれば、人々が公共施設・社会施設に望んでいるものは、)まさにこういうものだと私は思うからだ。いまの制度は、このことをまったく忘れてしまっている。その合理的因数分解の発想のなかで、個々人の姿が見えなくなってしまったからだ。

 

あとがき
〇10月の初め、文中にも書いたけれども、青森のT氏が来られ、集中講義が開かれた。「共存互恵」。これが、彼のこの四半世紀にわたってやってきた地域計画の根本であると言ってよい。普通なら直ぐに町村合併をしてしまうのに、そしてそれこそが合理的だと思われるのに、この青森上北地方の四町村は、あくまでの四町村のまま、しかし合同で、地域の諸々の計画を行ってきた。その計画の卓抜さ、柔軟な発想は、まさに驚くべきものであった。録音して多くの人々に聴いてもらいたいと思うほどだ。その話を聞いてしまうと、一時中央で盛んに言われた「地方の時代」などというせりふがいかに安っぽいものであるか、よく分る。中央はそんなせりふを言う前に、地方が地方であるための最高の策、地方分権の強化こそやるべきなのだ。そのとき多分、地方は中央を上まわった形の動きを示すにちがいない。だが、T氏たちは、中央にほとんどの権限をにぎられたなかでなお、これだけのことをしてきたのである。(T氏が「自治あおもり」誌に書いた論文「共存互恵」が私の手元にある。もしご希望の方があれば、コピーしてお送りします。それにより、四半世紀のほほ概略が分ると思う。)

〇「 S    園 」に泊ったとき、園生のO君のお母さんも来ておられた。私はてっきりO君に面会に来られているのだと思っていたら、実はそうではなかった。指導員の方々と一緒になっていろいろと園生の世話をしていたのである。家にいるよりもここにいる方が安まる、とのことであった。

〇ことしは寒くなるのが早いようだ。紅葉はあまりきれいではないが、毎朝、落葉が道を埋めるようになってきた。そして夜は、とめておいた車の窓に露が一面に下りている。もう少したつと、これが氷になる。そうなるとやっかいだ。うっかりしてウォッシヤーでもかけようものなら、それもたちまち氷と化す。もうじきそういう冬が来る。

〇それぞれなりのご活躍を!風邪をひかれぬように!

        1983・10・31              下山 眞司 


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「第Ⅳ章ー3-C2横田家」 日本の木造建築工法の展開

2020-01-06 21:13:45 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C2横田家」A4版7頁

C-2 横田家住宅  1794年(寛政6年)建設  所在 長野県 長野市 松代町 

松代 位置図 印  方眼1目盛:4km       関東圏道路地図 東京地図出版より

 佐久から流れてきた千曲川が、松本平からの犀川(さいがわ)と合流する手前一帯が上杉氏武田氏の合戦の場であった川中島。 その南側山際の平地に武田氏の居城:海津城が設けられた場所で、その後17世紀初めに真田氏の居城となり城下町が形成され、その概形は現在も見ることができる。

 横田家は眞田家の家臣。奥会津・横田の出ゆえに横田を姓としたという。 横田家住宅は、七代当主が1794年(寛政6年)に建てたことが墨書で判明。 敷地も当時の大きさを維持(約3600㎡:約1200坪)、表門隠居屋土蔵なども残っている稀有な事例。

 図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

黄色部分:接客空間・隠居屋に対応 (着色・文字は編集)

 

表門から主屋 式台を見る 左奥:隠居屋  

 式台 正面

 

        

復元 平面図 図の方位は上方が南    (着色・文字は編集)

 

復元 桁行断面図

 

  南面 全景 (竣工時)

                   

の間~座敷 南面 右手は隠居屋 南面(竣工時)

 

  勝手~茶の間~南の間 南側(近影)

 

 勝手~茶の間~南の間 正面(近影)

 

 

                      

復元 梁行断面図 上:客待の間~南の間  下:式台~玄関~茶の間   文字は編集

使用材料  土台:ツガまたはクリ  幅3.4寸~5.3寸 高さ3.5寸 追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎ各1箇所、他は腰掛け鎌継ぎ  柱:式台まわり ツガ4.5寸角  座敷、客待、玄関、南の間 スギ3.7寸角  土間、勝手、茶の間 スギ3.5寸角  便所 スギ3.0寸角 根枘 深さ3寸×幅1寸

 

下の架構模式図と断面図で架構の全体がつかめる。  梁・桁の類を柱位置から持ち出して継いでいないことが分る。

 

 

 

について材寸が詳細に記入されている。材種は、式台まわりがツガ、他はスギ(前頁参照)。材寸の詳細は、通常は野帳どまりで、このような詳細が示されている報告書は稀有である。

 

 横田家では、間仕切のある通りには、すべて土台が据えられている。 この図は、土台材種材寸ならびに継手・仕口を明示した図。 これも報告書としてはきわめて珍しい。

足固貫内法貫、そして飛貫の入れられている位置を示した図。 これも、通常の報告書では見られない。上下の別、継手箇所などが記入されている。

図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

写真説明用キープラン                 (着色・文字は編集) 

黄色に塗った部分が接客用空間  横田家目加田家と異なり、北側に玄関があるため、接客空間の裏手にあたる居住空間が南面している。

 

玄関の間 西~北西面板戸どま境 北面障子式台

 

式台からの玄関間 正面襖:茶の間 左手襖:客待の間

 客待の間 東~南面 左手襖:座敷境              

  客待の間 西~北面 左側襖:茶の間へ 右側襖:玄関の間へ 

座敷 正面(東面) 右手障子:南面濡縁へ  

 座敷 西~北面 欄間付き襖:客待の間へ

 茶の間 西北どま 

 

 茶の間~南の間 茶の間には天井がない

南の間 北面 二階への階段 

南の間 東~南面 

 

座敷 南西隅柱の刻み 詳細           左の図を基に作成 敷居・鴨居・付長押 詳細

    

 

 

参考 一般的な鴨居の取付け法

 

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 1     柱に待枘(まちほぞ)を植え、敷居を上から落す。

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 2   待枘(まちほぞ)と込栓の併用

 

参考 一般的な敷居の取付け法 3    柱に樋端を刻み、敷居大入れにし、下部にを 打ち樋端部を密着させる。

 

 


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