建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

とり急ぎ・・・・「喜多方・登り窯」再稼動の案内

2008-08-29 00:07:58 | 煉瓦造建築

会津・喜多方の「登り窯」と、その「再稼動」を目指しての活動について、以前紹介させていただいた(下記参照)。

「うれしい話・・・・喜多方・登り窯の再稼動」
「続・喜多方の登り窯の再稼動」

昨日(27日)、「三津谷煉瓦窯再生プロジェクト実行委員会」から、今秋、窯の火入れを行なう旨の連絡がありました。

上に、その「活動案内」のポスターを載せさせていただきます。

そこに、スケジュールなどが載っています。
詳細は、下記ホームページをご覧ください。

グループホームページ

また、関心のおありの方は、ポスター内に記載の連絡先、または当ブログまで、連絡ください。

なお、喜多方の煉瓦造の建物については、下記で紹介しています。
「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1」
「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2」
「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺」

日本の建物づくりを支えてきた技術-4・5の補足・・・・渡り腮等の補足図版

2008-08-26 16:07:15 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先々回、先回の軸組、小屋組の説明のときに載せなかった図版を補足します。

一番上は、「渡り腮」の模型写真と分解図。写真は拡大しないと字が見えない!
「上木」「下木」を模型のように加工し、組み合わせます。模型は4寸角の材でつくってあります。
ただし、これは「折置組」の場合を示していて、「京呂組」の場合は、この上下を逆転すれば同じです。
分解図も「折置組」の例です。

このように二材を交叉させて組む一番簡単な方法は「合い欠き」(双方を同じ厚さ欠き取り組み合わせる)ですが、それに比べて、交叉部に力が加わったとき、欠け落ちる心配が少なくて済みます。「下木」の刻み方:残された断面:を見ると納得がゆくと思います。
なお、「上木」は、「下木」の刻みの両端の15mmほどのところで支えられている、と考えてよいでしょう。「下木」の中央の「山」の部分で「上木」を支えるようにしてしまうと、組み上がった段階で、「上木」の下部に隙があいてしまうことが考えられます。
実際、「渡り腮」で組まれている材をはずしてみると、「下木」の刻みの両端の15mmほどのところがあたっていた「圧痕」:重さを受けていた証:を、「上木」に見ることができます。

おそらく、こういう形体の「刻み」に落着くまでには、幾多の試行錯誤が(もちろん「現場」での)あったものと考えてよいでしょう。
なお、「渡り腮」は、仕事も簡単で(鋸と鑿でつくれる)、しかも有能な「仕口」で、当然現在でも使えます。

   註 この「仕口」については、補強が要求されないはずです。
      しかし、最近、使う人がすくなくなりました。
      外部を「真壁」(柱が見える仕上げ)を嫌い、壁面より外に
      「梁」が跳び出るのを嫌うからのようです。 

次は、角材を使った「垂木」の頂部:「拝み」の納め方:「仕口」と、「継手」の図面と写真で、「法隆寺 東院・伝法堂」の例です。
単純ですが理に適っています。
出典は「文化財建造物伝統技法集成」です(図版に書き込むのを忘れました!)。


次は、一般住居で見られる「小屋組」のいろいろです。
「又首組(合掌組)」と「真束組(おだち組)」は、一見似ていますが、まったく異なります。
「又首組」で「棟木」を支えていながら「真束」を立てる例が多い、と書きましたが、「椎名家」がその一例です。
この建物は、「上屋」+「下屋」方式から一段進んだ方式で建てられていますが、「小屋組」の中央部は「又首組」で、しかし、「真束」を立てています。おそらく補強として立てられているものと考えられます。
「法隆寺・妻室」の妻面も「又首」で「棟木」を支えながら「束」が立っていますが、この場合は、「又首」に使われている材料の大きさからみて、補強ではなく、いわば「飾り」なのではないでしょうか。

いわゆる「和小屋組」は、「又首組」をいわば卒業して到達する方法、「登り梁」は更にその先の応用編で生まれてきた方法と言えると思います。


最後は、丸太によるの「又首組」の、頂部:「拝み」の一般的な納め方と、「陸梁」への「又首」の一般的な取付け方(「又首尻」「合掌尻」と呼びます)の図解です。

続きは次回

日本の建物づくりを支えてきた技術-5・・・・礎石建て・2:原初的な小屋組

2008-08-23 21:15:00 | 日本の建物づくりを支えてきた技術
[今回は少し長くなります。][註記追加 8月24日 10.01]
[説明更改・追加 8月25日 9.09]

「軸組」ができあがると、次は「屋根」をつくることになります。
「屋根」の骨組を「小屋組(こやぐみ)」と呼んでいます。

   註 「屋  根」:建物の上部の覆。中国では「屋蓋」などという。
      「小屋組」:屋根を承けるために周壁の上に設ける構造。
                   「日本建築辞彙」の解説を意訳

「小屋組」について、「日本の建物づくりを支えてきた技術-2・・・・原初的な発想」では、詳しく触れませんでした。
「礎石建ての時代」になっても、その初期の段階では「掘立柱の時代」と大差ない方法が採られているからです。

そこで、今回まとめて、「原初的な小屋組」を見てみることにします。


◇ 建物の形にかかわる日本の気候の特徴

日本は雨が多いのが特徴です。また、日本は「高温・多湿」とも言われます。

各地域の「年間降雨量」と「年間平均相対湿度」を「理科年表 平成18年」(丸善)によって調べたのが以下の数字です(地域によって違いますが、最近約30年の平均値です)。

年間降雨量の平年値は、
ロンドン:750.6mm、パリ:647.6mm、ニューヨーク:1122.8mm、ロサンゼルス:326.9mm、西安(旧 長安):555.8㎜、北京:575.2mm、ソウル:1343.1mmなど、
これに対して日本は、
東京:1466.7mm、札幌:1127.6mm、大阪:1306.1mm、福岡:1632.3mm、鹿児島:2279.0mm、那覇:2036.9mmです。 
このように、日本の降雨量は、欧米や古代の日本に影響を与えた中国・北部に比べきわめて多く、比較的近いのは朝鮮半島南部だけです。

一方、相対湿度の年間平年値は、たとえば年間降雨量の少ないロサンゼルス:70.8%、札幌と同程度の降雨量のニューヨーク:63.4%、に対して、札幌:70%、東京:63%、鹿児島:71%のように、湿度の年間の平均値には大きな差はありません。
そうでありながら、私たちが日本は「蒸し暑い」「湿気がひどい」と感じるのは、日本の気温が高いからだと考えてよいでしょう。
「相対湿度」が同じであっても、空気中に実際に含まれている「水蒸気の量」は、気温が高いほど多いのです(空気中の水蒸気の量で計る湿度を「絶対湿度」と言うそうです)。
たとえば、ロンドンの年間平均気温:10.0度、パリ:10.9度、ニューヨーク:12.7度、ロサンゼルス:18.2度に対して、札幌:7~10度、東京:15~17度、鹿児島:17~19度です(日本については、月別平均気温のデータによる数字です)。
つまり北海道以外は、日本は「多雨で高温、ゆえに多湿」なのです。

また、日本の雨は、単に降雨量が多いだけではなく、その降り方が、静かに降るのではなく、風をともなう:「吹き降り」となるのが常で、また短時間に多量の雨が降ることも珍しくありません。

当然、これらの状況は、建物づくりで考えなければならない重要な点になります。

その第一は、屋根のつくりかたに関係します。このような降り方の雨に対して、建物は備えなければなりません。

これに対する最も簡単、単純な方法は、屋根仕上げ(「屋根葺き材」と言います)にどのような材料を使うかにかかわらず、屋根に傾斜:「勾配」をつけることです。
「水は高きから低きへ流れる」という「原理」に従った、屋根面に降った雨水を屋根の外にすばやく流しだす最も簡単な方法だからです。

さらに、「吹き降り」に対しては、壁からの屋根の出:「軒の出」を深くするのが、最も簡単な方法です。これについては、今回は書きませんが、いずれ書くことになります。

◇ 屋根の傾斜:「勾配(こうばい)」のつくりかた

では、どうやって「勾配」をつくるか。

人びとが最初に考えたのは、据えられた「梁」の上に、木材を「逆V字形」に組む方法です。
組まれた「逆V字形」を「又首(さす)」あるいは「合掌(がっしょう)と呼びます。
なお、「又首」は、古い書物では「扠首」という字を書いています。

   註 「扠首」:「日本建築辞彙」の解説
      丸太ナドヲ交叉シタル合掌形ノモノヲイヒタルナラン
      農家ノ茅葺屋根ノ丸太合掌ヲ扠首トイヒ居ルハ其名残ナラン。
      今ハ上方ノ交叉セザルモノヲモ斯ク称スルコトトナレリ。
      神社ナドノ妻二アル∧字形ハ今イフ扠首ナリ。又コレヲ
      「豕扠首(いのこさす)」トモイフ。ソノ一方ノ木ヲ
      「扠首竿(さすさお)」トイフ。

      「豕扠首」とは、上掲写真の「妻室」の妻面の形のことで、
      「一方の木」とは、∧字形を構成する片側の材のことです。

      「豕扠首」は、後に「神社」の「格式」を示す「形式」の
      一つとなり、「辞彙」の説明はそのことを指しています。
      なぜ「豕」と付くのか、その意味は分りません。
                      [註記追加 8月24日 10.01]


上に「法隆寺 妻室」の妻面外観と内部間仕切部の壁面の写真、および「法隆寺 東室」の「断面図」と「架構分解図」を載せてあります。「写真」と「架構分解図」は前回の再掲です。

「断面図」で分るように、「東室」の「上屋(母屋・身舎)」の「又首」は、45度に近い急な「勾配」で、「垂木」の「勾配」は、それよりもほんの少し緩くなっています。

一般に、屋根の「勾配」は、水平10に対して垂直にいくら上がるか、たとえば、水平10に対し5上がる勾配なら[5/10]で示し、これを「5寸勾配」と呼んでいます。
図上で計ると、「東室」の場合、「又首」の勾配は上屋部分で、おおよそ[7.5/10]、「垂木]は約[7/10]、「下屋」の「垂木」は約[3/10]です。
また、「妻室」は「又首」が約[5.4/10]、[垂木]が約「5.5/10」のようです。

   註 「修理工事報告書」には数字が出ているはずですが、
      今、手許にないので、上記の数字は、得られる資料の
      図・写真から判定した数字です。

「東室」では、「上屋」と「下屋:廂・庇」では勾配が異なり、屋根が「逆への字」形になっています。
これは、「下屋」を「上屋」の勾配と同じにすると、軒先が低くなりすぎ、それを避けるために「上屋」の高さを上げると、室内が異様に高くなってしまうので、室内高が適当で、軒先の高さも丁度よく、しかも「水捌け(みずはけ)」もよい、という要件を叶える策として採られた方法と考えてよいでしょう。
「東室」では、「垂木」の上に張った「下地板」(「野地板(のぢいた)」と言います)の上に「葺土(ふきつち)」敷き、「逆への字」を曲線に整形し、瓦を葺いています。これが「屋根の反り」にほかなりません。

「屋根の反り」は古代の人びとに好まれたようで、後には「屋根の反り」をつくりだすために、下地になる骨格をわざわざ「逆への字」につくるようになります。「社寺」などはその典型と言ってよく、「反り」がなければ「社寺」ではないかのように、言わば「形式化」「様式化」が始まります。

   註 当初、降雨量の少ない中国から移入された方法では、
      屋根勾配は緩くつくるのが普通でした。
      そのため、奈良時代につくられた建物の多くは、中国式の
      緩い勾配の屋根でした。
      しかし、多くは、日本の気候へ適応させるため、後に、
      「唐招提寺 金堂」のように、急な勾配に変えています。
      当初の緩い勾配を残している例には、
      「新薬師寺 本堂」(奈良市内)があります。
      (「新薬師寺・・・・山の辺を歩く」で紹介しています)

   註 中国の建物の屋根も「反り」がついています。
      以下はまったくの私の推量ですが、中国の屋根の「反り」は、
      ことによると、架構法と材料により自然と生まれてしまった
      屋根形体の「形式化」かもしれません。
      中国で、間隔を広く開けた「棟木」から「軒桁」の間に
      「丸太」の「垂木」を狭い間隔で並べる架構法を見かけました。
      「丸太」によく使われているのは「楊樹」と言うのでしょうか
      ポプラのような木です。中国には多いようです。
      「丸太」の径は10~15cm程度だったと思います。
      この木は、日本の杉とは違い、よく反ります。
      反った「垂木」の上に小枝を横並べにして土を塗り瓦を葺くと、
      自然の曲線(「懸垂曲線」)の反りのある瓦屋根になるのです。
                   [説明更改・追加 8月25日 9.09]

      奈良時代の初めの建物には、円形の「垂木」が使われていますが、
      これは中国建築の「垂木」の影響で、四角につくった「垂木」を、
      軒先だけわざわざ円く加工したりさえもしています。
      「形式」「様式」の言わば「恐ろしさ」と言えるかもしれません。
       
◇ 「梁」~「又首」~「棟木」まわりの「仕口」

1)全体の構成

「東室」は、「京呂組」で軸組をつくり、間仕切り部の「梁」は角形の木材を扁平に使って「桁」に「渡り腮」で据え、その上に角材で「合掌」をつくり、「合掌」の頂点に「棟木」を据えています。
ただ、「東室」では、間仕切壁~間仕切壁の中間の位置では、「虹梁(こうりょう)」の上に「束柱(つかばしら)」を立て、「棟木」を受ける形を採っています(上図の「断面図」「棟木の分解図」参照)。
つまり、「東室」では、「又首」形式と「束柱」形式が交互に並んでいることになります。

   註 「束柱」は、ただ「束(つか)」と呼ぶことがあります。
      また、「小屋組」に使う「束(柱)」を「小屋束(こやづか)」
      「床組」に使う場合には「床束(ゆかづか)」と呼びます。

      「束」とは握りこぶしをつくったときの「四本の指の幅」を意味し、
      そこから「短い」という意味で使われます。
      ゆえに、「束の間」=「わずかの間」、「束柱」=「短い柱」。
     
      現在は、一般に「束柱」で「棟木」「桁」を受ける方法を採り、
      「又首」で受けることは滅多にありません。

「妻室」では、間仕切り部、中間を問わず、すべて「又首」で「棟木」を受けています。

「棟木」が据えられると、「棟木」から「桁」へ、「垂木」が渡されます。

2)「又首」と「梁」の「仕口」

「又首」は、平面上に置いて上から押さえると(力をかけると)、逆V型は開こうとしますから、それを防がなければなりません。
そこで、「又首」の下端に「枘(ほぞ)」をつくりだし、「梁」に彫られた「枘穴」に差します。そうすると、力がかかっても、開きを止めることができます。

同様なことを、上掲の農家住宅「小松家」でも行なっています。
ただ、その場合は、「枘(ほぞ)」をつくりだすことはせず、もっと簡単です。
多くの茅葺屋根の農家住宅で行なわれていますが、「又首」を丸太でつくり、丸太の下端を鉛筆を削るように削って尖らせ、それを「梁」に彫った孔に差すのです。
孔に差したあと、さらに「又首」の外側に小さな「杭」を打ったり、あるいは「桁」を「又首」の足元のすぐ外側に流したりすることもあります。

いずれにしろ、「又首」が開くことをいかにして止めるか、を考えているのです。

こういうやり方を知ったら、おそらく、机上で考え、現場を見ようとしない現在の構造の《専門家》の多くは、「ただ置いてあるだけなんて、危険極まりない」、「梁に緊結しなさい」と言うに違いありません。

ところが、このような「仕口」が壊れた、例えば茅葺屋根が風で浮き上がったり吹き飛んだ、などという話は聞いたことがありません。

それは、屋根全体の重さが、浮き上がりに対して十分抵抗しているからだ、と考えてよいでしょう。だから、ただ「又首」先端を「梁」に差して置くだけで、「梁」に縛り付ける、などの策は採ってこなかったのです。

現在の《専門家》は、得てして、組まれた全体を見ようとせず、部分だけを見て、いわば「余計な」《補強》の心配をすることが多いのです。

3)「又首」と「棟木」の仕口(上掲の図参照)

「又首」と「棟木」の「仕口」は、「又首」頂部の三角形に尖った箇所に、「棟木」の下端に孔を彫っておき、それをかぶせる方法で納めています。
孔の大きさは、「又首の斜材の幅」×「棟木の上端から逆算した所定の深さ」で、「棟木」が安定して据わるために、三角形状に彫ったのではないでしょうか。いずれにしろ、「又首」頂部がすっぽり全部孔に入っています。このように、片方の材の全断面が入る孔を彫るような細工の仕方を「大入れ(おおいれ)」と言います。

「又首(竿)」頂部の二材の接点の「仕口」は「突き付け」で、「棟木」が「大入れ」でかぶさることで固定されたのだと思われます。

なお、「妻室」では、上掲の写真のように、妻面や間仕切り部では、「又首」下に、「梁」から「束柱」が設けられています。ただ、この「柱」が力を受けているとは考えられません。
なお、こういう形をした妻面が、冒頭の註で触れた「豕扠首」と呼ばれる形体なのです。

   註 「束柱」は、「梁」に「ダボ」で据えていると思われますが、
     「又首」頂部下端の納め方は、図や写真からは分りません。

また、妻面では、室内側に、「束柱」~「棟木」に斜めの材:「方杖(ほうづえ)」が設けられています。これは、「棟木」の桁行方向の転倒防止のためで、
間仕切り部でも、必要に応じて設けられていたようです。

4)「棟木」の「継手」

長手に架かる「桁(母屋桁を含む)」「棟木」は、1本で通すことはできませんから、「継手」で継ぐことになります。
これについては、先回の「原初的な軸組」で触れましたが、補足すると、「東室」では、「虹梁」~「虹梁」(「房」の中間~「房」の中間)を1本として、「虹梁」上で(「中間柱」上で)「鎌継ぎ」で継ぎ、「妻室」では、「間仕切壁」~「間仕切壁」を1本として、「梁」上で継いでいたようです。
「妻室」の場合の「継手」は、説明にありませんが、先回も書いたように、「東室」より簡単な「合い欠き・栓打ち」だったかもしれません。

5)「垂木」

「垂木」は、「棟木」上で合掌型に組まれます。
単なる「突き付け」から、「合い欠き」で「込栓打ち」、先端を縦に3等分し、片方はその両側を残し、他は真ん中を残して両者を組み合わせ「込栓」を打つ「三枚組込栓打ち」など、いろいろな組み方があるようです。
「桁」には釘で止められています。

「東室」も「妻室」も「垂木」だけで深い軒先をつくりだしています。特に「妻室」では、梁行の「柱間」1間とほぼ同じ長さの軒を出しています。

深い「軒」を出すのは、単に恰好:見えがかり:のためではなく、日本特有の「吹き降り」の際、雨が壁にあたらないようにするための方策です。
それゆえ、切妻屋根の妻面の「軒」(「側軒」と言います)でも、極力出を深くするようにするのです。

   註 深い「軒の出」は、日本では、現在でも「吹き降り」に対して
      また、陽射しの調節においても、きわめて有効な方策です。
      しかし、最近はあまり見かけなくなりました。
      一つには、西欧風の外観が好まれるから、そしてもう一つは、
      「最新の科学技術(塗装、シーリング材、エアコン・・・等」で
      対応できると考えるからでしょう。
     
◇ 「下屋(庇・廂)」を「上屋(母屋・身舎)」に取付ける

「下屋」は、断面図のように、「上屋」の柱(「入側柱(いりがわはしら)」と「下屋」の外側の柱(「側柱」)とを、水平の角材の「梁」(「繋梁(つなぎばり)」で結び、「上屋」の「桁」(現在の用語では「母屋」に相当します。「母屋桁」と言うこともあります)から「下屋」の「桁」へ、「垂木」を渡します。

この場所の仕事の要点は、「繋梁」の「入側柱」へ取付く「仕口」にあります。
「繋梁」が簡単に「入り側柱」からはずれてしまえば、「下屋」の「軸組」は倒れてしまう可能性があります。

「東室」で採られている方法は、きわめて簡単な仕事でつくれ、しかし容易にははずれないような「仕口」です。
「繋梁」の「入側柱」に取付く端部に、図のような「枘」をつくりだします。「枘」の幅は「梁」幅の1/3程度、高さ:丈は「梁」の高さと同じですが、ただ、その上端を先端:柱側に向けて斜めに削り、下端では同じ傾きで、先端から手前に削ってあります。「柱」側には、上端は「梁」の上端位置で水平に、下端は「枘」の下端と同じ形で斜めになった「枘穴」を彫ります。

「繋梁」を据えるには、「梁」の外側を持ち上げ加減にして、「枘」を「枘穴」に差込みます。「枘」は、「枘穴」の下端の斜面に沿ってすべって行き、納まります。次いで、「梁」が水平になるように降ろしてゆき、「渡腮」で「桁」に落とし込みます。それで完成です。その結果、「枘」の下端が「枘穴」の下端に引っかかり、簡単には抜けなくなります。

この「仕口」は「下げ鎌(さげかま)」の一種と言ってよいと思います。
さらに引抜を防止を完全にするために、「枘穴」の上端に「楔(くさび)」を打ち込む場合もありますが、「東室」では打ってありません。

実に簡単で、しかも目的を叶える見事な工夫と言わざるを得ません。
この「仕口」も、現場で考え出されたもので、机上では決して生まれない、想像もできないと思います。

◇ なぜ最初に「又首(合掌)」方式が採られたのか

「東室」も「妻室」も、「小屋組」の基本は「又首」方式です。
そして、古代の一般住居は遺構がありませんが、農家住宅の古いものを見ても、小屋組には「又首・合掌」が使われています。上掲の「小松家」もその一例です。

すでに先々項の註記で書きましたが、現在「又首」を用いる「小屋組」は、滅多に使われません。「束柱」を用いる「小屋組」の方が、簡単だからです。

では、なぜ、「束立組」よりも「又首組」が先行したのでしょうか。

これは私の推量ですが、「柱を用いるつくり方以前の木造の建物づくりの方法」を踏襲したのではないか、と思われます。

すなわち、簡単に言えば、「竪穴住居」の方法の踏襲です。
そこでは、最初、地面に直接「逆V型」、つまり「又首」を何組か設け、それに適当な葺き材で屋根を架ける方法が一般的でした。つまり、「屋根で覆われた空間」=「建物」であったのです。
しかし、大きな空間になると、つまり「又首」が大きなものになると、どうしても「又首」に「撓み」が生じます。おそらく、その「撓み」の補強のために、「柱」は出現した、と考えられます。

上掲の「小松家」はそう古いものではありませんが、断面図で分るように、その「小屋組」はきわめて明快・壮快です。
農家の建築には「合掌」を用いた例は多数ありますが、その多くは「棟」の位置に「束柱」:「真束(しんづか)」が立てられています。
しかし「小松家」の合掌には「真束」はなく、「合掌」頂部がすっきりしているのです。
そして、「束」がない代りに「陸梁」から斜めに「支え」が入っています。「撓み」を防ぐ「支え」としては理にかなった適切な位置に設けられています。

この「支え」は、斜めに設けなければならないわけではなく、「梁」に垂直に立てても、効率は悪いですが、役には立ちます(「又首」が撓むと、垂直に立てた「支え」は内側に傾こうとしますから、そうならないようにする必要が生じます)。垂直に立てたならば、それはすなわち「束柱」と呼んでよいでしょう。

「竪穴住居」でも、「又首」に「撓み」が生じる場合が起こり、その場合にもその補強がいろいろと考えられたに違いありません。そして、もしもその「支え」を、地面から垂直に立てることに考え至ったならば、それがすなわち「柱」です。そして、「柱」が「又首」の撓みで内倒れを起こすのを防ぐために、支え柱相互の頭を横材で繋ぐアイディアは直ぐに浮かんだものと思います。
それに気づいたとき、「柱の効用」が理解され、建て方の順番を変更して、先ず「柱」を立て、「横材」を上に載せかけ、それを受け材として「又首」を架ける方式へと変化したのではないかと考えられます(竪穴住居址には、柱穴がないものと柱穴があるものとがあります)。
そして、地面に着くのがあたりまえだった屋根は、地面から離れてもよいことにも気が付きます。

「柱の効用」が理解されれば、その先、「掘立柱」方式へと変るのは、もう目の前だったはずです。

けれども、「掘立柱」方式になっても、屋根の骨組のつくりかたについては、「又首・合掌」方式が、どうしても頭から離れず、それをずっと踏襲してきたのではないでしょうか。


大変長くなりました。次回は、この先の展開について。

次回へ続く

日本の建物づくりを支えてきた技術-4・・・・礎石建て・1:原初的な軸組

2008-08-20 02:10:11 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[タイトル 副題変更 8月21日 0.21]
[図版 出典名誤記取消し 8月22日 8.57]

少し間があいてしまいましたが、続きを書きます。

◇ 「水平」の確認・設定の方法

軸組工法では、柱を垂直に立て、横材:梁や桁が水平になるように架けることが重要になります。

掘立柱の時代は、「水平の基準」さえあれば、水平確保の仕事は比較的容易だったでしょう。基準となる水平線が定かであれば、それに合うように、埋める深さを微調整すればよいからです。これは、今でも杭を打ち込み柵をこしらえるようなとき行なう方法です。

ところが、「礎石」の上に「柱」を立てることは簡単ではありません。
上端を平らに加工した「礎石」の場合、上端を同一水平面に、しかも、「柱」間隔に合うように据えることができれば、横材を水平に保つことは容易です。「柱」の長さを同じに揃えるだけで済むからです。
しかし、このように礎石を据えること自体、容易なではありません。
実際、大体水平になるように据えた後、現場で上端を削ったりすることがあったようです。
しかし、石を削ることは簡単ではありませんから、「礎石」をおおよそ水平に据えた後、柱の長さで調節する方が多かったのではないでしょうか。

「礎石」が自然石の場合は、より難しいのは言うまでもありません。おそらく、間隔も高さも、おおよそで据え、「柱の立つ位置」を決め、その位置での「柱の長さ」を決めたものと思われます。

いずれにしても、「基準となる水平線」が必要で、それに基づき、「梁」あるいは「桁」の「上端(うわば)」あるいは「下端(したば)」の線を決め、そこから礎石上端:天端(てんば)までの寸法を採ることになります。

「水平を確認、確定すること」を「水盛(みずもり)」と呼んでいます(英語ではlevelling )。

   註 「水平線」は英語では“horizon”ですが、これは
      ギリシア語の「境界(線)」の意に発するそうです。
      「空と陸・海の境の線」という意味なのでしょうか。
      「水面が平ら」という日本語の感覚とは微妙に違うようです。

「水平」の字の通り、水平を確認するには、「静かな水面」を利用しています。
それゆえ、建設地のまわりに溝を掘り、そこに水を溜めてその水面で「水平」を定めたこともあるという話を聞いたことがあります。しかし、これは大ごとです。
同じ原理を利用した「水盛台(みずもりだい)」と呼ばれる「水準器」が、かなり早い時代からあったようです。
私は実物を見たことはありませんが、4寸角(120mm角)ほどの角材の上面に、両端を残して溝を彫り、そこに水を溜め、その水面をもって水平を知る道具です。角材の長さは長い方がよいわけで、長さが2間:3.6mぐらいのものもあったようです。
この「水盛台」を建設地で「柱通り」に置いて、水を入れ、その水面からの高さを計るのです。
「柱通り」上の建物外郭の外がわの両端にに杭を打ち、杭から杭へ、「水盛台」によって得た「水平」位置に糸を張ります。
これを「水糸(みずいと)」と言い、今でも通用する言葉です。
「水糸」は、必要な位置に適宜に張られます。

現在では、建物の外郭外側に打った杭に、基準になる高さで薄い板を打ち付け、板の上に釘を打って「柱通り」のマーキングをしますが(「遣り方:やりかた」と呼んでいます)、薄い板を得るのが難しい時代は、杭だけだったのです。

また、現在では、正確な測定は測量器具を用いて行ないますが、狭い範囲だけの場合は、木や金属の台に仕込んだガラスの筒に液体をいれ、その中の「泡」の位置で水平を知る「水準器」も使われています。

広い所の測定には、水を充たした容器に細いチューブの片端を入れ、チューブにも水を充たし、チューブの先端を上下させ、先端から水が溢れ出すとき、その位置は容器内の水面と同じ、という理屈で水平を定める道具もありました。字の通りの「水盛器」です。
まだ測量機器が普及していない時代、「地形・基礎」の仕事を請負う「鳶職(とびしょく)」の方がよく使っていました。


◇ 「柱」を「礎石」に立てる方策

「礎石」の上に「柱」を立てることは、「礎石」が平らであっても容易なことではありません。「柱」が細いときには特に難しい仕事です。「礎石」が自然石であればなおさらです。

「土台」に立てる現在の方法でも、最初の1本は、「土台」に納めた後、支えのための薄い板を土台から柱に斜めに渡して釘で仮止めします。斜め材を「筋かい(筋交い、筋違い、などと書きます)」と呼びますが、この場合は仮設なので「仮筋かい」です。

しかし、①「土台」もなく釘も貴重品の時代は、おそらく地面から「柱」に斜めに丸太を渡し、縄で縛りつけるか(足もとは地面に差してもよいし、打った杭に結わえてもよい。いわば「稲掛け」のような恰好になります)、②あるいは建てる場所の周囲にあらかじめ丸太で「足場」をつくっておき、「柱」と「足場」に丸太を渡して仮止めする方法を採ったと思われます。
ただ、「足場」の場合は、大小さまざまな部材を「足場」内に持ち込まなければなりませんから、中への通り道は確保する必要があります。ですから、「足場」は、相当に手順を検討して組まなければなりません。

   註 最近の現場では、最初に四周に「足場」を組み、
      クレーンで「足場」越しに部材を運び入れています。

「折置組」「京呂組」いずれの組み方をでも、2本目の「柱」を立て、両者の上に横材:「梁」「桁」が架けられ「門型」ができると、少なくとも一方向は比較的安定し、そして柱が4本立ち、各「柱間」に「梁」「桁」が架けられて直方体の稜線が組まれれば、多少傾くことはあっても、倒れる心配は少なくなります。
こうして所定の大きさまで「柱」「梁」「桁」を組んでゆき、水平・垂直を確認して、何箇所かに「仮筋かい」を設ければ、とりあえず整形が保てることになります。

◇ 組まれるごとに全体が強くなる:「立体」の効能

こうしてできた直方体の両線:軸組の上に、屋根の骨組:「小屋組」をつくり、「柱」と「柱」の間に「壁の下地」を用意します。

このように組みあがってゆくと、骨組全体は、普通の状態では、「仮筋かい」がなくても整形を維持できるようになります。
特に、「小屋組」が仕上がると、柱・梁・桁の「仕口」が簡単なものであっても、格段に骨組は安定してきます。軸組の上に載った「小屋組」:「横倒しの三角柱」が重要な役割を果していると考えてよいでしょう。

このことは、「立体」物は丈夫だ、ということを示しているわけですが、これは日曜大工で簡単な工作をしてみれば実際に体験できます。大げさに言えば、部材が1本追加されるたびに、工作物は丈夫になってゆくのです。

実際に建物をつくる人たちは、昔から、当然のことながら、この事実:立体の効能を知っていて、建物づくりに利用していました。工人たちは、日ごろの体験に基づいて、建物づくりに必要な「勘」を養っていた、と言ってよいでしょう。

   註 残念ながら、現在の建築法規や行政指導では、
      そしてその背後におられる「学者」さんたちからは、
      「立体」の効能は重視されていません。
      立体は三次元ですが、三次元では考えず、
      二次元の足し算で考えるのです。
      「耐力壁」を平面上の縦横各方向に均等に入れる、
      という考え方は、そこから生まれたのです。
      その一つの理由は、二次元なら計算が簡単ですが、
      三次元だと計算がしにくいからにすぎません。


◇ 原初的な礎石建ての建物の架構法-1

こういう日曜大工でもできるような「素朴な工作」でつくられている例が、上掲の建物です。
もちろん、複雑・面倒な加工を必要としない、という意味で、日曜大工でつくれる、という意味ではありません。

これは、「法隆寺」の伽藍の東側にある「東室(ひがしむろ)」「妻室(つまむろ)」と呼ばれる建物で、学僧の宿舎、つまり学生寮です(法隆寺は「学舎」でした)。
ともに、何度か改築されていましたが、当初(奈良時代)の姿が判明し、部分的に当初の状態へ復元されています。法隆寺内の位置と平面図は上掲の図を参照ください。
なお、この建物は、中には入れませんが、外からは見ることができます。

   註 上掲の図の出典は記入のとおりです。
      写真の出典は「奈良六大寺大観 法隆寺一」です。
      ここに掲げるにあたり、説明のために写真はトリミングし、
      図には文字を書き込むなど、手を加えてありますので、
      原本の通りではありません。
                     [誤記訂正 8月22日 8.57]

「東室」は僧の、「妻室」は僧の従者の寮で、同数の寮室(「房」と言います。中国式の呼び名でしょう)が相対して並列して建てられるのが普通でした(「東室」を「大子房」、「妻室」は「小子房」とも呼ぶようです)。

「妻室」は、「上屋(母屋、身舎)」だけ、「東室」は、「上屋」の長手二面に「下屋(廂、庇)」を付けた建物です。
両者とも、横材を「京呂組」で架けています。長手方向の横材「桁」を先に架け、それに「梁」を渡す方式です。


図で分るように、「棟木」と「桁」との間に、「屋根」材(屋根の葺き下地、葺き材)を受ける材である「垂木(たるき)」が架けられます。
「東室」では、「上屋」「下屋」とも断面が円い「垂木」(「丸垂木」)、「妻室」では断面が角型の「角垂木」が使われています。
「梁」のある場所では「垂木」を架けると「梁」にぶつかるため、「梁」の先端部を「垂木」分彫り取っています。

しかし、妻面でもこの形式をとると、「梁」と「垂木」が重なっているため、妻面の壁の「見えがかり」(「見た目」のことを言います)は格好よくありません。
そこで、南北の妻面、両端の壁面位置では、「梁」を先に据え、それに「桁」が載る「折置組」としています。つまり、「桁」の位置は変りありませんが、妻面では「梁」を「桁」下に据えています。

妻面だけ変えてあるのは、両端部の屋根を壁からできるだけ遠くまで出すための工夫だ、という解説もありますが、「京呂」「折置」のどちらであっても「桁」の出は同じですから、私は「見えがかり」を重視したのだと考えます。
実際、上掲の妻面の写真を見れば、各部材の関係が明快で、すっきりした壁面になっていることが分ります(試みに、写真上で、「京呂組」にしたときの姿を想像すると、その違いが分ります)。

「妻室」は、長手:桁行方向の柱間隔は房によって異なりますが1.75~2.13m、短手:梁行は2m弱、間仕切り箇所は円柱(径約9寸)、他は矩形の角柱(約8.5寸×約6.5寸)、棟通り:部屋の中央の柱は、妻面では円柱ですが、他は方形の柱(約6.5寸角)になっています。
なお、この数字は、図面がなく、解説にも触れられていないので、写真からの判定です。
「東室」の柱は、上図のように、約9寸径の円柱が使われています。

「桁」「梁」は、「東室」では詳細図があり、そこからの判読(詳細図の字が小さく読めない)と写真から、「梁」「桁」の寸法は、おおよそ、図に赤の字で書き込んだ寸法と考えられます。
「妻室」は参考資料に詳細図面がなく、解説にも触れられていないので、上記の「柱」寸法をたよりに写真判定するしかありません。

なお、「東室」の場合、「角材」の「梁」は、間仕切り部だけで、中途は「虹梁(こうりょう)」が使われています(上掲の「東室」の室内写真参照)。
「虹梁」は、上側に反った、虹のような形の梁を言います。多分、丸太をそのまま使ったのではないでしょうか。

また、「東室」では、図のように、「桁」と間仕切り部の「梁」は、矩形断面の材料を扁平に使っています。今だったら、構造の専門家に怒られるかも知れません。

   註 「梁」「桁」は、木造に限らず、矩形断面を縦長に据える
      というのが「常識」になっていますが、扁平に据えても
      「効率」が多少落ちるだけで、構わないのです。
      鉄筋コンクリートの梁でも、工事をしやすくするため、
      柱幅=梁幅とし、梁の断面を扁平にしても、特に問題は
      ありません(下記で触れています)。     
      「RCの意味を考える」
      「梁型のない鉄筋コンクリート造」

「桁」「梁」を扁平に使ったのは、「柱」に「桁」を載せるのにも、また「梁」を「桁」に載せ架けるにも、仕事が容易になるから、と考えてよいでしょう。
たとえば、「桁」の幅と「柱」の径が、ほぼ同じ寸法になっているため、安定度が増し、「梁」と「桁」の「仕口」の加工(「刻み(きざみ)」と呼んでいます)も、両者の噛み合う面積が広い分、仕事がしやすいのです。

「柱」「桁」「梁」の取付け方:「仕口」は、「東室」「妻室」とも、「日本の建物づくりを支えてきた技術-2・・・・原初的な発想」で触れた原初的な方法「ダボ(太枘)」「渡り腮(わたりあご)」が使われています(「妻室」については図、解説がないので、「東室」の架構法からの推測です)。


長手に据える「桁」は、当然材料を継がなければなりませんが、その「継手」は、「柱」の真上にあります。これも「原初的発想」で触れた方法と変りありません。

「継手」には、「東室」では、図のような「鎌継ぎ(かまつぎ)」が使われていて、さらに、その位置に「梁」が「渡り腮」で載るため、一見複雑な形になっています。これができるのも、材を扁平に使っているからで、材の幅が狭かったら、こうはできません。

「鎌継ぎ」は現在でも使われるいわば「継手」の一代表ですが、「鎌継ぎ」の発想・発案が、古代にすでにあったわけです。
今の「鎌継ぎ」と大きく異なるのは、「鎌」の部分の形で、現在は鎌の先端に傾斜をつけていわば「矢形」につくりますが、ここでは四角です。なぜ、このように変化するかについては、いずれ書くつもりです。

「妻室」における桁の「継手」は、図・解説がないので詳しくは分りませんが、ことによると、「原初的な発想」で触れた「合い欠き・栓打ち」の「原初的な方法」が使われていたかもしれません。


「梁」が据えられると、屋根の骨組:「小屋組」をつくることになります。
長くなってしまいましたので、これについては、次回にまわします。

次回へ続く
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雑感・8月15日

2008-08-15 10:44:20 | その他
8月15日になると、疎開先でのその日を思い出す。とにかく暑く、地面はからからに乾いていた。疎開前後の話は、昨年の今日、書いている(「過渡期の体験」)。

記憶と言うのはなかなか面白い。どうでもよいような一瞬が、強烈に残っている。疎開先の8月15日の場合は、からからに乾いた地面。どういうわけかそこに落ちた水滴がつくりだした小さな窪みと土煙。

大分前に日本美術史を専門とする方々に同行させてもらって敦煌を訪ねた。8月だったと思う。まだ観光地化してない頃だったから、宿泊所も完備してなかった。
私は、かんかん照りの中、美術史の方々と別行動をとらせてもらって、近在の農村、と言っても新興の農村だが、を訪ね歩いた。ものすごく暑かったけれども、なかなか面白かった。「住まい」に対する彼我の違い、と言うより、日本で「常識」になっている「住まい」や「建物・建築」に対する考え方の「盲点」を知る機会となった(それについて書いたのが「分解すれば、ものごとが分かるのか・・・・中国西域の住居から」である)。

延々と歩いて宿泊所に戻ったのは、たしか昼下がり。そのとき、突然のにわか雨。にわか雨と言っても、ポツポツと雨滴が落ちてきただけ。それでおしまい。それでもこの季節、珍しいことだという。なにせ年間総降雨量100mm前後という砂漠に近い場所。

雨滴が、からからに乾いた地面に落ちて、小さな窪みと土煙をあげた。そして、突然、疎開先での昭和20年8月15日の昼下がりを思い出したのである。
おそらく、日常というのは、こういうちょっとした一瞬の連続なのかもしれない。

余談だが、その日、私は、今の言葉で言えば「熱中症」にかかった。そして、中国の人たちが、常に水筒にお茶を入れて持ち歩く理由がよく分った。彼らは、水分の補給を怠らないのだ。市場に行けば、目に付くところに、かならず花模様の描かれた水筒や保温ジャーが並んでいた。

日本の建物づくりを支えてきた技術-3・補足・・・・建設地の選定

2008-08-13 19:54:24 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 8.15 7.02]

地形(ぢぎょう)や基礎の方法は、建設地の地面・地盤の様子で当然変ります。
そこで、古代の寺院が、どのような場所を建設地として選んでいるか見てみます。

そして、どういうわけでその地が選ばれたのか、かなり、私の想像、推量をまじえて触れてみたいと思います。
「真夏の夜の夢」として、読み飛ばしてくださって結構です。

上に、「法隆寺」寺域の地図と周辺の航空写真、同じく「東大寺」寺域の地図と航空写真を載せました。
地図は、「奈良六大寺大観」から、航空写真はgoogle earth からの転載です。なお、航空写真は、ほぼ同縮尺です。


法隆寺は、587年(用明2年)の用明天皇の造寺造仏の発願を、推古天皇と聖徳太子が引継ぎ造立を進め、本尊の薬師如来は推古15年(607年)に完成したと伝えられています。その頃に、建物も完成していたと考えられますが、この建物は670年(天智9年)に大火で消失してしまいます。
現存する法隆寺は、それ以降の建立と考えられますが、はっきりした時期は現在も不明です(再建、非再建論争がありましたが、現在はこのように考えられています)。

奈良盆地には周辺の山々から多くの河川が流れ込んでいますが、それらは一つにまとまり「大和川」となって西へ向かい、大阪堺のあたりで大阪湾にそそいでいます。この川に沿って、難波と奈良をつなぐ重要な古道が通っています。

「大和川」の主流は、奈良盆地の東南、奈良と三重の県境を越えたあたりが源で、大和・紀伊の山々の水を集めて、盆地の東南「桜井」のあたりから盆地平野を北(平城京の条理に合わせ、流路が変えられているようです)に向かって流れ、盆地のほぼ中央で、東北から流れ下る「佐保川」合わせ西に向きを変え、盆地西端で生駒山系東側に沿って流れくる「富雄川」を合わせます。

   註 「大和川」上流に沿い「近鉄大阪線(大阪~伊勢・名古屋)」が
      通っています。
      元々、「伊勢」への重要な街道筋で、沿線に「室生」があります。
                       [註記追加 8.15 7.02]

「法隆寺」があるのは、航空写真が示すように、「富雄川」「大和川」が削り残した生駒山系南端の丘陵状の場所です。
周辺には、灌漑用の溜池がたくさんありますが、ここに載せた航空写真では判別がつかないかもしれません(奈良盆地は、香川県とともに、灌漑用溜池が多いところです)。
蛇足ですが、40年ほど前までは、法隆寺から法輪寺・法起寺を経て大和小泉の慈光院までは、溜池の脇を通ったりしながら盆地の西の山の辺に沿って歩く、気持ちのよい散策路でした(「法隆寺 東院 伝法堂・・・・奈良盆地の西の縁を歩く」の末尾でも触れています)。


「法隆寺」が建てられたのは、まだ平城京が営まれない頃ですから、その建立場所は、「条里制」などというルールに従うのではなく、奈良盆地に住み着いた人びとの備えていた「自然の感性・感覚」で選ばれた、と考えてよいと思われます。あるいは、その感性・感覚は、日本の環境で暮す中で培われたもの、しかも、その原初的なものであった、と言えるのではないでしょうか。

大和政権の最初の中心であった「飛鳥」を訪れてみると分りますが、その一帯は、言わば「日本の農村の原風景」と言ってもよいような場所です。
各地にも、その地域で最初に人が住み着いた場所がありますが、見てみますと、飛鳥同様の地形の場所です。
具体的には、背後に山を背負い(そこでは清冽な水が湧いています)、居住地はは、そのなかの更に小さなひそみ、そして目の前に農耕地、それも大平野ではなく、小ぶりの田園が広がる、そういった場所です。
茨城で言えば、筑波山南麓にそういう場所があり、栄えてくると、一帯は地域の中心として「官衙」がつくられ、水田は条里制に改められます(「居住の条件・・・・人はどこに住みだしたか」で触れています)。「飛鳥」もそういった場所であった、と言えるでしょう。

   註 「集落(聚落)」の「落」の字義は、
      「(動き、定まらないものが)ある所・状態に定着する」
      というような意味です(「落着く」の「落」です)。
      そこから、「ある所に定住する」という意になり、転じて
      「人の暮す場所:村や町(=集落)」となります。
      「落」一字でも、村、町の意があるそうです。
      英語では「集落」は“settlement”ですが、
      “settle”にも「落」と同じような意味があります。
      ものごとが解決することを「落着」と言いますが、
      “settle”“settlement”にも同様な意があります。

「法隆寺」という大きな伽藍を建てる建設地としては、先に触れた「当時の人びとの感性・感覚」からして、盆地の平野部はまったく対象にはならなかったと考えてよいでしょう。
人びとは、飛鳥近在はもちろん、盆地の東側の山なみ(現在「山の辺」と呼ばれる一帯)、西側の山なみ(生駒山系、二上山のある金剛山系:この二つの山系の間を割って「大和川」が流れています))の山麓を、あちらこちらを探したものと思われます。
ところが、建立を目指した人びとの対象とされた場所には、かならず、すでに他の人びとが住み着いています。奈良盆地に暮す人びとの「感性・感覚」は、同じ筈ですから、当然と言えば当然です。
そして選ばれたのが、現在の地であったのではないでしょうか。

そこは、言わば「舌状の台地」で(と言っても、周辺との比高はさほどありません)、おそらく人は住んでおらず、森と耕地だったのではないかと思います(水田は、さらに下った所に散在)。
北側に山:丘陵を背負い、南には、広大な田園がひろがり、「大和の母なる川:大和川」が東から西へと流れている。土地は花崗岩の風化した白さの目立つ土(「マサ:真砂」と言うようです)に被われ、明るい。
そこにいると、落着いた、安泰な気分が味わえる、そういう場所。今でも、そういう気分を味わえるのだから、人家の少なかった(ほとんどないに等しい)当時は、なおさらだったでしょう。もちろん、台地ゆえ、地盤は良好です。

そこに伽藍を建てる。「伽藍」は門から入って金堂、講堂へと気分が高揚しなければなりません。つまり、強い方向性:「軸線」を持つのが常です。
建設地は北へ向かう緩い傾斜面。それに手を加えず、その北上がりの地形を活用して伽藍を配置する。自ずと気分は高揚します。
しかし、当時の人びとの「感性・感覚」からすれば、どうしても、視線は山で止めなければ入られなかったと思います。

私は、当初の「法隆寺」ではないか、とされる「若草伽藍」の配置、その方向・軸線に強い興味があります。
調査報告によると、「若草伽藍」の軸線は、磁北から西へ約20度傾いているそうです。現在の伽藍の軸線もやや傾いていますが、その角度は4度ほど。

「伽藍」の配置が、周辺の環境:地形に対して適切でないと(「伽藍」のような幾何学的に整形の構築物は特に)、周辺への納まり:「据わり」が悪くなります。
試みに、上の航空写真で、伽藍の中心位置をそのままに、軸線、つまり参道の線を磁北に変えた場合を想像してみると、背後の山の形:地形に対して、不自然な「据わり」になると思います。

そして、最も「据わり」のよい方向を図上で探すと、もう少し軸線を傾けたほうが適切ではないか、という気がしてきます。

一般に、斜面では、構築物は、等高線に平行に置くか、直交させると安定した「据わり」になるものですが、この場合も、軸線を傾ければ、軸線は山なみの等高線(の接線)に直交し、山なみの「重心」を目指している感じとなり、「据わり」がよくなり、安定感が増すのです。
つまり、「若草伽藍」の軸線は、私には、きわめて納得がゆくのです。

今は、「法隆寺」伽藍の周辺にも建物が立て込み、地形そのものを直に見ることができなくなっています。
しかし、建立当時は、「地形という自然環境:大地のすがた」は、直截的に人びとの気持ち:感性に迫っていたのではないでしょうか。
「大地のすがたに違和感なく据える」こと、これこそが古代の人びとが構築物をつくるときの「願望」であり、そして、「人としての『勘』」なのではないか、と思います。

   註 残念ながら、この「勘」を現代人は忘れてしまっていますから、
      大地に構築物を建てるとき、無思慮になっています。

では、現在の伽藍は、なぜ約4度傾いているのでしょうか。
これは私の勝手な推測ですが、建設時に、条里制で計画される平城京の話が耳に入っていて、極力それに合わせようとした、しかし、磁北では据わりが悪い、その言わば妥協策として、4度振ることに落ち着いたのではないでしょうか。


さて、「東大寺」は、平城京遷都(和銅4年:711年)後の天平17年(745年)聖武天皇により創建、当初の伽藍は天平勝宝年間:750年前後の建設と考えられています(大仏殿は天平勝宝3年:751年の完成、唐の僧「鑑真(がんじん)」を招いての「戒壇院」は754年の設立)。
しかし、その寺域は、平城京の条理の整形の中ではなく、そこからはずれた東北部にあります。ただ、その東北部一体にも条理は敷かれていて、「外京」と呼ばれ、現在の奈良の市街中心もここに位置します。

平城京への遷都とともに、「薬師寺」は旧都から平城京の条理の一画に移設新営され、「東塔」は天平2年(730年)の建立とされています。
また「鑑真」が戒壇道場として創建した「唐招提寺」は、天平宝宇3年(759年)に創立、金堂は宝亀年間(770年代)以降の建設と考えられていますが、その寺域は、「薬師寺」の北方の、やはり平城京の条理の一画を占めています。

それでは、なぜ「東大寺」は、平城京の「正規の条理」の一画に建設されなかったのでしょうか。

いろいろ調べてみても、その点について触れた資料等はないようです(あるいは、調べが足りないのかも知れません)。

ただ、「東大寺」が現在の地に創建される前に、その地には、すでに多くの寺院があったようです。そして、その寺院の一つ「金鐘寺(「きんしゅじ」、「きんしょうじ」二つの読みがあるという)」が、大和の「国分寺」となり、そこに「大仏」を造立するにあたって「東大寺」になったのだ、と「東大寺」の資料では解説されているとのことです。

「東大寺・法華堂」は、天平の仏たちが終結している建物としても有名ですが、この建物も、すでに「伽藍」が新営される以前に存在していたと言います。
東大寺の「伽藍」は軸線が磁北にそろっていますが(平城京の条理に合っていますが)、「法華堂」をはじめとした平城京以前から存在した寺院等の建物は、条理とは無関係で、むしろ、その場所の等高線との関係を基に建てられている、と言えるように思います。
つまり、これらは、「人びとの自然な感性・感覚」に拠って建てられていた、前代の考え方の延長上でつくられていた、と考えられるのではないでしょうか。

大仏の造立とともに計画された「東大寺伽藍」は、航空写真で分るように、「若草山」の西斜面に、軸線をほぼ磁北に合わせ(つまり平城京の条理に合わせ)建設されています。
ということは、かなり無理をすることになります。「伽藍」を設ける場所を平坦に造成したのです。それは、上の図で、等高線が不自然になっていることが分ります。
おそらくこれは、現在でも大変な、人力しかない当時としてはなおさら並外れて大変な大土木工事だったと思います。

ただ、ここで注目したいのは、「若草山」の斜面を削り取った「切土(きりど)」部分に「伽藍」は計画され、「盛土(もりど、もりつち)」部分には建物は一切建てられていないことです。「切土」部分は、当然、地盤は良好です。

現在なら「切土」と「盛土」で平坦地をつくるのが「宅地造成」の「常識」となっていますが、当時は「盛土」部分は建設用地として使わない、それを見越して工事を行なっていた、と考えてよいと思います。
「盛土」は、長い年月の間に、必ず沈下・沈降する、ということが、古代の人びとには分っていたのです。

   註 現代人は、沈下は「技術的に対処できる」と考えます。
      しかしそれは、言わば「信仰に近い技術」であって、
      古代の人びとの「健全な技術」とは大きく違います。

このようにして、「東大寺伽藍」は、条里制にあわせてつくられたのですが、しかし、条里制は、かならずしも人びとに素直に受け入れられたわけではなさそうです。
それは、条里制の都が営まれるようになっても、多くの建物は、それを避けて、昔ながらに、周辺の「山の辺」を探して建てられていることで明らかです。
これは「平安京」でも同じであって、人びとは、時代が下っても、同様に、東山、北山、そして西山へと場所を求めてます。
つまり、人びとは、時代が下っても、古代の人びとと同じ「自然な感性・感覚」を、失うことなく持っていたのです。、
条里制の都の条理内にあるのは、どちらかと言えば、ほとんど「国策」の息のかかった建物であることにも、それが表れています。

   註 現代人は、はたして、この「自然な感性・感覚」を、
      持っているでしょうか?

このあたりについては、あらためて触れてみたいと考えています。

次回へ続く

日本の建物づくりを支えてきた技術-3・・・・基礎と地形(ぢぎょう)

2008-08-09 11:18:29 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

掘立柱から礎石建て・石場建てへ


掘立柱方式は、柱が自立するため、仕事が容易だったことは十分想像できます。

しかし、掘立てた柱の地面に接するあたりは、かならず腐ります。
これは、地面近くは、水分と酸素がともに供給されやすく、木材を好む微生物:腐朽菌にとって最高の居住環境となるからです。
一般には、自然の状態では、寺院等の掘立柱(小さくても1尺:30cm:径以上あります)は20年ほど経てば朽ちると言われています(10cm程度の小径の杭では、数年で腐ります)。

それゆえ、人工的に腐朽菌の好む環境をつくれば(壁で木部をくるんだり、壁内に結露を起こす《断熱材》を使用したり、あるいはコンクリートの基礎で床下を閉じてしまったりすると、腐朽菌好みの環境がつくれます)、もっと短い時間で腐らせることができます。
ですから、現在の木造住宅にかかわるいろいろな規定は、木材の腐朽を奨励している、と言ってもよいでしょう。

   註 地中深くは、水分はありますが酸素が不足し、腐朽菌向きの
      環境ではありません。
      「平城宮」跡や、縄文時代の「三内丸山(青森県)」遺跡で
      掘立柱の根元が地中から見つかったのはそのためです。
      また、水中でも木は腐りません。
      それゆえ、地下水の水位の高い場所では、建物の基礎杭に
      松杭が使われます。
      旧帝国ホテルでも松杭が使われていましたが、周辺の地下水の
      汲み上げで地下水位が下がり、腐朽してしまい、その結果、
      建物が波打ってしまいました。
      (「再び、設計の『思想』・・・・旧帝国ホテルのロビーに見る」参照)
       
また、つくられた架構・建物は、地面が揺れれば、つまり地震に遭うと、足もとは地面とともに動きます。一方、架構の上部は、地面が動いたとき、元の位置を保とうとしますから(普通「慣性」と言われる現象です)、地面の揺れと慣性による力とが重なった場合には、架構・建物は激しく揺れることになります。
おそらく、掘立柱の建物は、地震で被災する例が多かったのではないでしょうか。
ただ、このことについては、掘立柱の時代の工人たちは、気がついてはいなかったと思います。比較する方式が他になかったからです。


◇ 礎石建て:寺院の場合

一般の人びとの古代の建物がどうなっていたか、それを詳しく知る資料はなく、現在残されている資料は、主に寺院関係の建物がらみで、特に「法隆寺」は資料の宝庫のようです。

上掲の図1は、「法隆寺・食堂(じきどう)」の礎石です。
礎石は、写真のように、石材に手の込んだ加工がされています。
上端は、柱の大きさに合わせて円形の平面(「円座」と呼びます)に仕上げてあります。しかも一段のものと二段のものとがあります。

段状にするのは、地面と縁を切り、水が柱に上がっていかないようにし、なおかつ柱にかかった水が柱脚近くに溜まらないようにするためです(「水切:みずきり」と言います)。
これは、「水は高きから低きへ流れる」、という理屈に従った方策です。

「円座」の中央にあけられた孔は、柱の底面につくりだされた「枘(ほぞ)」用の孔です。柱が礎石上からずれないようにするための工夫です。
そして、この孔から「円座」の外に向け刻まれた溝は、「枘(ほぞ)孔」に水が溜まらないようにするための「水抜き溝」です。これは、中国伝来の技法と考えられています。
礎石の配置をみると、「水抜き溝」が建物外部に向くように礎石を据えています。工人たちが、吹き降りを相当に気にしていたことが分ります。

ところが、実際には「水抜き溝」の効果はなく、柱側につくりだされた「枘(ほぞ)」はほとんど腐朽していたことが、解体修理時に判明しています。

中国の技法は、日本の環境には適合しなかった、と考えてよいでしょう。

図3の礎石形状図の下段は、「夢殿」の礎石です。
ここでは、「枘」を礎石側につくりだし、柱の底面に「枘孔」を穿っています。
礎石側の細工は「食堂」のそれよりも手間がかかる仕事ですが、柱側の細工は簡単で、柱のずれを防ぎ、しかも腐朽の恐れも少ない方法です。

当時の工人たちは、失敗と分ると、二度と同じことをせず、別の、適切な方策を講じるのが常であった、と考えてよいでしょう。
なお、鈴木嘉吉氏の「古代建築の構造と技法」によると、礎石側に「枘」をつくりだす例は、白鳳~天平期に多いそうです。

また、礎石の上に載る木造架構がしっかりとつくられるようになれば、個々の礎石の上の柱それぞれが礎石からずれることを気にする必要がなくなります。木造の架構全体がずれなければよいからです。
平安~鎌倉の境につくられた「浄土寺・浄土堂」では、礎石の上面は平らで、柱の底面も平らのままでした。ただ、柱の底面には、通気のためと思われる溝が十文字に彫られています(「浄土寺・浄土寺・・・・架構と空間の見事な一致」参照)。


図3で注目したいのは、礎石の地中に埋まる部分の形状です。底に向かっていわば先細り:尻つぼみの形に加工してあります。

現在だと、礎石は、裾拡がり:台形状にして、底面を平らに加工するのが普通でしょう。
礎石は、柱を介して架構の重さを受けています。底面が広ければ広い方が、重さが分散し、礎石が地面にめり込みにくくなるからです(ハイヒールのかかとで踏まれると重さがいわば一点に集中するため痛みを感じますが、スニーカーで踏まれた場合は重さが分散するため痛くない、この理屈です)。

しかし、この「法隆寺」の礎石は、「食堂」「夢殿」とも、いわば先細り:尻つぼみに加工されています。
おそらくこれは、据付けの際の「仕事のし易さ」を考えてのことだと思われます。

市販の小さな台形状のコンクリート礎石を据えつける場合、底面がぴったりと掘った地面の底に接し、なおかつ礎石上面が水平になるように据えることは、簡単のようで結構難しい作業です。
作業は、上面の高さ位置から逆算して掘った孔の底を固め、そこに小砂利や砂を敷き、礎石を載せ、所定の高さで水平になるように、上面をハンマーで叩いて据え付けるという工程をとります。
しかし、上面が所定の高さで水平になったとしても、はたして底面全体が孔の底面に密着しているかどうかは確認できません。底面の中央部に空洞ができたりしているかもしれないのです(だから、不安なときは、敷く小砂利や砂にセメントを混ぜておきます。そうすれば、地面の湿気でしばらくすれば固化するからです)。

それに対して、この「食堂」「夢殿」の礎石は、こういう形状をしているため、その重さに似合わず、比較的容易に据えることができると思われます。
当然、据えつける孔底を叩き締め、小砂利などが敷かれ、そこへ数人がかりで据えつけると考えられますが、こういう形状なら、いわば、ボールを砂に埋めるのと同じで、石の下に空洞ができにくいはずだからです。最後に、小砂利を叩き締めれば、それで据付完了です。

今の「専門家」がこの礎石の形を見たら、底面を狭くするなど、非合理的、非科学的だ、と言うでしょう。
しかし、このような形状でも、先の砂の中のボールの理屈で、礎石下部の斜めに削った部分が叩き締めた小砂利を介して地面に密着しているわけですから、礎石の上に載っている建物の重さは確実に地面へと伝わり、何ら問題はないと考えてよいでしょう。

つまり、この形状は、実際の作業で、礎石が地面へ馴染みよく据え付けられることを考慮して考えられた、まさに「現場で生まれた合理的な知恵」であって、机上では決して生まれないアイディアと言えるのではないでしょうか。

一般に、机上でだけものを考える人は、できあがった姿:礎石が据えられた場面だけ考え、「実際に据える作業」のことなど考えないのです。
と言うより、今の大方の「専門家」は、現場を知ろうとしませんから、作業の状況を想像することもできないのだ、と言った方がよいのかも知れません。
蛇足ですが、現在の建築にかかわる法令が規定している事項は、そういう「現場を忘れた、あるいは知らない」規定だらけだ、と言っても過言ではありません。


◇ 石場建て:一般の住宅の場合

一般の住宅の例は、時代が下らないと事例がありません。上の図4は、川島宙次著「滅びゆく民家」に掲載されていた近世の住宅の柱脚です。

ここで使われているのは、自然石そのもので、上面を平らには加工していません。一般の人びとにとって、石の上面を平らにする、などということは大変なことだったのでしょう。
そのため、柱の底部は、自然石の形状:凸凹に合わせて加工しなければなりません。
「石場建て」とは、「石の合い場を合わせる」という意味と言われ、このように石の形状に合わせて加工することを「石口をとる」「合い口を合わせる」、関西では「ひかる」と呼ばれます(「滅びゆく民家」による)。今は、一般に、「ひかりつけ」と呼ぶのではないでしょうか。ただ、その語源はわかりません。
一般の住宅では、江戸中期から見られる方法のようです。

全部の柱の礎石が自然石ですので、礎石の上端は同じ水平面上にはありません。また、柱間:柱と柱の間隔を精度よく据えなければなりません。このように据えることはまさに至難の業です。どこが基準になる水平線か、自然石のどこが柱芯なのか、定かではないからです。
それゆえ、柱の長さは一本ごとに異なり、柱の長さの設定・測定に、大変時間がかり、柱間隔の調整にも時間がかかります。
そこで、柱の長さの基準として、ある柱だけ掘立柱として、それを基準にする場合もあったようです。

また、自然石の上に、樫(かし)や欅(けやき)製の「礎盤(そばん)」と呼ばれる板を置く方法を採る地域があります。
各自然石礎石上の「礎盤」の厚みを調整することで、「礎盤」上面を同じ水平面上に設定することができますので、柱の長さを一定にすることができます。
また、腐朽は「礎盤」から始まりますから、腐ったときは、「礎盤」だけ取り替えれば済みます。

後に、礎石の上に先ず「土台」を据え、その上に柱を立てる方法が採られるようになりますが、これも、柱の長さ設定を容易にし、更に柱間:柱の間隔の精度を上げるための工夫と考えられます(工期短縮が求められた城郭の建設にあたって生まれた技術と言われています)。


◇ 「根伐り(ねぎり)」と「地形(ぢぎょう)」

礎石を据えるには、柱を立てる場所の地面を、「安定した固い地盤」になるまで掘って、礎石を据える準備をします。
地面を掘り、表の土を取去る作業を「根伐り」と呼んでいます。
そして、礎石を据える準備作業~礎石の据付けの工事を「地形」と呼びます(「地形」は「地業」と表記する場合があります)。

この作業は、寺院も一般の住宅の場合も同じです。

この作業は、建物ができあがると見えなくなる部分にかかわる作業ですが、その「良し悪し」は、仕上がった後の「建物の行く末」に大きな影響を与えますから、丁寧な仕事が要求されます。

かつての「地形」は、掘った孔の底に「割栗石(わりぐりいし):玉石を割ったもの」を、尖った先を孔の底の地面に並べて突き差し(「小端立て:こばだて」)、
叩いて搗き固めます。
「割栗石」を搗き固めると、そこへ「目潰し砂利(めつぶしじゃり)」を敷きこみ、礎石を据え、同じく叩き締めます。「目潰し砂利」は、先に触れた寺院の礎石を据えるときと同じで、礎石を馴染みやすくするためです。

叩いて搗き固める作業は、「胴搗き(どうづき)」「地搗き」と呼ばれ、図5のような道具が使われました。

「胴搗き」は、建物の大きさ:重さによってその程度が異なり、それに応じて大小の道具があったのです。
「大蛸(おおだこ)」「小蛸(こだこ)」というのは、堅い木の角材や丸太に取手を取付け、数人で持ち上げては落す、という作業のための道具で、蛸(たこ)に似た形からこの呼び名があります。木の代りに石を使ったのが左上の図です。
これらは、「ランマー」が普及するまで使われていました。

図の左下の「真棒胴搗き」は、大型の「地形」用で、曳き綱を引いて「真棒」を持ち上げ、曳く力を弱めて「真棒」を重力に任せて落す、という作業を繰り返します。曳き手は、女性が多かったように思います。

丸山明宏(現在、美輪明宏)作詞作曲の唄に「よいとまけの唄」というのがありますが、その「よいとまけ」とはこの作業のことで、道具自体をも「よいとまけ」と呼ぶことがありました。

   註 この唄は昭和41年(1966年)に発表され、丸山明宏の
      幼少期の体験が基になっているとのことです。

      私の記憶では、「大蛸」「小蛸」も含め、これらの道具を、
      昭和30年代まで、あちこちで見かけたような気がします。

      また、初めてランマーによる作業を見たとき、作業が早く、
      人手もかからないのですが、搗き上り:仕上りに不安を
      感じたことを覚えています。
      人力作業のときは「搗いたあと」を確認しながら作業を
      進めていたのが、機械任せになり、確認作業を怠るように
      なってしまったのです。

最近の「地形」を見ていると、基礎のコンクリートを信じるあまり、「地形」自体がおろそかにされているように思えてなりません。
あらためて「古法」を学び直し、「地形」の意味・原理を考え直してみてもよいのではないでしょうか。

さて、礎石が据えられると、その上に軸組が建てられることになります。
しかし、掘立柱とは違い、柱は自立できません。それゆえの新たな工夫が必要になります。
そのあたりについて、次回以降触れたいと思います。

次回へ続く
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日本の建物づくりを支えてきた技術-2・補足・・・・丁寧な掘立柱

2008-08-06 14:46:52 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

鈴木嘉吉氏の著された「古代建築の構造と技法・・・・法隆寺建築を中心として」の「基礎と軸組」の項に、古代寺院建築の掘立柱についての詳しい説明がありましたので、抜粋し転載させていただきます。ただ、読みやすいように、段落を変え、ふりがなや註を追加しています。
上掲の写真は、文中で紹介されている「平城宮」跡で発掘された掘立柱の写真です。

   註 鈴木嘉吉氏は、現在最高の日本の建築・工法・技術の碩学です。
      数多くの文化財建造物の調査から得た該博な知見・知識に基づく
      論説は分りやすく説得力があります。
      残念ながら、現在の木造建築にかかわる「構造学者」たちには、
      その論説を理解している形跡が窺えません。と言うより、多分、
      接したこと、読んだことがないのでしょう。
     
   註 私は、この論説をコピーで手に入れました。
      それゆえ、残念ながら、出典が何か分っていません。
      上掲の写真は、このコピーからのスキャンのため不鮮明です。


『日本古来の柱を立てる方法は掘立で、いまも「伊勢神宮」では式年造替ごとに踏襲され、8世紀の「平城宮」でも、朝堂院、外郭の諸門、ごく一部の官衙(かんが:官庁の意)の中心建物などを除くと、内裏正殿(だいり せいでん)以下大半が掘立柱である。

中国建築の技法を輸入した仏教建築は、高い基壇を築き、礎石を据えてその上に柱を立てるのが正規の方式で、そう崇峻(すしゅん)元年(588年)建立の「飛鳥寺(あすかでら)」から現れる。
ただそうした仏教伽藍でも、門・回廊・僧房など付属的建物は掘立柱を用いたことが、近年各地の寺院跡で明らかにされつつあり、最初の発見例となった「法隆寺東院伽藍」では「夢殿」と「伝法堂」は礎石を用いていたが、南門・中門・回廊・七丈屋は掘立柱・桧皮葺であった。

掘立柱は地面に方1m、深さ1mほどの穴を掘り、柱を埋め込むもっとも簡単な構造で(註 先回の図参照)、東院では柱の下に盤木(ばんぎ:盤状の板)を入れて高さを調節したものもあり、柱底面には心墨が打たれて所定の位置に正確に立てられていた。
「藤原宮跡」の官衙建物をみると、柱筋は桁行方向はかなりよく通るものの、梁行の向かい合った柱位置は不整で、この点、東院の方が据付け技術は高い。

また「平城宮」跡では、門や楼などとくに力を受ける柱には穴底に短い地貫(ぢぬき)を横たえて柱をまたがせるものや(上写真・左)、十文字に貫穴を穿って貫を差し込み、これを土に埋め込んで柱の横倒れを防止する例があり(上写真・右)、掘立柱の安定法にも案外進んだ各種の技法があった。

掘立柱は礎石立ちの柱より一般にやや細いのが普通で、10尺間(3m間)の建物では径1.0~1.2尺(30~36cm)弱(東院建物)が多い。
これは、掘立の工法自体が柱の傾きを防ぎ、安定のための余分な底面積を必要としないことによる。
ただし最大の弱点は根元の腐朽で、耐用年限は二・三十年程度と推定され、東院でものちにすべて礎石付きに改められた。・・・・』

この写真をみると、工人たちが身に付けていた「知恵」は、現代人が「学問」で得る「知識」よりも数等優れているように思えます。それは、机上の発想ではなく、現場の発想だからなのだと思います。


次回へ続く

日本の建物づくりを支えてきた技術-2・・・・原初的な発想

2008-08-04 12:39:20 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 16.08][註記追加 21.54] 

掘立柱の時代

木造の建物づくりで最初に行なわれたのは、どの地域でも、「掘立(ほったて)柱」を立てる方法です。
「掘立柱」とは、木材を(多分最初は「丸太」でしょう)地面に打込んだり、あるいは穴を掘って木材の端を埋め、土を埋め戻す方法です。
掘立柱で建てる方法は、寺社はもちろん一般の人びとの建物でも採られたと考えられますが、その状況を確認できるのは、寺社に限られます。図2は、社寺などで採られていた掘立柱を立てる方法ですが、一般の建物では、もっと簡単だったと思われます。
以下は、寺社の建築についての資料を基にしています。

なお、柱が垂直かどうかを確認するための、「錘をつけた糸を垂らして垂直を確認する方法」は知っていたものと考えられます。

   註 錘をつけた糸を垂らして垂直を確認する方法は、
      今でも使われ、そういう道具も売っています。

◇ 軸組工法・梁・桁・折置・京呂・・・各種の用語

さて、「掘立柱」を2本立て、その上に横材:「梁(はり)」を渡すと、「門型」の架構ができます。
図1-Aのように、この「門型」を何個か横ならべし、「梁」の両端に直交して「横材」を載せ掛けると、「直方体の骨格」ができあがります。この横材を「桁(けた)」と呼んでいます。
これが、軸組工法の最も簡単な、「軸組工法の原初的な姿」です。この上に「屋根」の骨組を設け「屋根材」を葺き、「壁」や「出入口や窓:開口部」をはめこめば建物ができあがります。

このように、「梁」を先行し、次いでその上に「桁」を載せ掛ける組み方を、一般には「折置(おりおき)」と呼んでいます(図3-A参照、折置組と言う場合もあります)。

「梁」と「桁」の据える順番を逆にすることもできます。図3-Bのように、先に「桁」を柱の上に渡し、次いで、「桁」から「桁」に「梁」を載せ掛ける組み方です。これを一般には「京呂(きょうろ)」と呼んでいます(京呂組と言う場合もあります)。

   註 中村達太郎著「日本建築辞彙」には次のような説明があります。
      折置:「下梁置」と記していたのが「折置」に転じた。     
      京呂:「桁露」と記していたのがこの語に転じた。
          「折置」に比べ、「桁」が露出するためか?
      なお「日本建築辞彙」は、明治39年初版の建築用語辞典です。

   註 「中村達太郎」「日本建築辞彙」については下記を参照ください。
      「語彙に見る日本の建物の歴史・・・・『筋かい』の使われ方」
                           [註記追加 21.54]

   註 ここに載せた図は、「日本の建築技術の展開」で使用した図に
      今回、新に加工を加えました。
      図1 A~Cは、鈴木嘉吉著「古代建築の構造と技法」及び
      浜島正士著「寺社建築の鑑賞基礎知識(至文堂刊)」
      図2、図3 A~Bは、浅野清著「日本建築の構造」(日本の
      美術245 至文堂刊)を参考に作図したものです。      


◇ 二材の組合せ・取付け:「仕口(しくち)」

次に、「柱」の頭部で「梁」をどのようにして取付けるか、が問題となります。

「柱」は掘立ですから、自立できます。
しかし、「梁」を「柱」の上にただ置いただけでは、地震があったりすれば、地面とともに柱が揺れ、それによって「梁」が振り落されてしまいます。
また、強い風が吹けば、屋根ごと滑り落ちるかもしれません。
このようにならないためには、「柱」の上に載せる「梁」が、「柱」からずれ落ちないようにする工夫が必要になります。

図3-A、Bは、その最も簡単な方法を示していて、「柱」の頭部に「ダボ(太枘)」と呼ぶ「出っ張り部」を設け(別につくった材を植込むのが一般的)、「梁」の下面に「ダボ(太枘)」と同寸の孔を穿ち、はめ込む方法です。

こうすることで、「梁」が「柱」からずれ落ちることが防げるのです。

この「ダボ(太枘)」を使う方法は、加工が簡単で効果も十分なため、古代の建物では多く見られ、原初的な方法と言えます。もちろん、現在でも使えます。

なお、「ダボ(太枘)」は、直径1寸:3㎝位の円柱や、1寸:3㎝角の角材が使われますが(太さは任意、場合により異なりますが、植込む深さも、はめ込む深さも1寸:3cmほどです)。
古代には円柱型の「ダボ(太枘)」が多いようです。これは、円ならば多少二材の交わる角度が狂っても、狂いを吸収できるからだと思われます。
角型だと、製作・工事に精度を要し、「ダボ(太枘)」と「ダボ(太枘)孔」が合わないまま無理に取付けると、木材を捩ったり、割れを起こしてしまうからです。

このような、「柱」に「梁」を取付けるような場面の「取付け・取付け方法」のことを「仕口(しくち)」と呼びます。

   註 「仕口」:二材以上の材を、片方または相互に工作を施して
      組み合わせる工法、またはその部分をいう。
                 「文化財建造物伝統技法集成」の解説

   註 一般の住居で当初どのような「仕口」が採られたかは
      よく分りませんが、多分、「柱」の頭部を少し殺いで、
      「梁」には孔を穿ち、「柱」を差し込み縄で縛る、などの
      方法が採られたのではないでしょうか。

また、図3-Aのように「梁」の上に「桁」を載せ、取付ける、あるいは図3-Bのように「桁」に「梁」を載せ、取付けるのも「仕口」です。

図3-Aでは、「梁」の上端(普通は「じょうたん」と呼びますが、職人さんたちは「うわば」と呼びます)を「桁」の幅だけ欠きとって、そこへ「桁」を落としますが、これも「桁」が「梁」上からはずれないための簡単な「仕口」です。

図3-Bでは、「梁」を「桁」に載せるのに、少し手のこんだ「仕口」を使っています。
この場合、「梁」が「桁」からはずれるのを防ぐだけではなく、「梁」が「桁」の上で左右に動かないようにする必要があります。
この「仕口」は、それを考えたもので、「渡り腮(わたりあご)」と呼んでいます。
「桁」の上端の角部分を「梁」幅分一部欠きとってありますが、それが「梁」の左右の動きをとめる工夫です。また、「梁」の下端(職人さんたちは「したば」と呼んでいます)の欠き込みの幅は、その分狭くなります。
この「仕口」も原初的な方法で、その加工も難しくはありません。

   註 「日本建築辞彙」による説明 [註記追加 16.08]
      「渡り腮」
       「一の木を他木の上に載せるときの仕口にして、
       上木の下端を溝形に欠き、
       下木の上端の中程を残して左右を欠き
       それに上木を嵌めるなり。
       英語:cogged joint 独語:mittel verkammung・・」
        cogged=歯形の付いた、歯車の付いた
        つまり、この「仕口」は西欧諸国にもあるのです。 


◇ 梁行(梁間)・桁行、上屋(母屋・身舎)・下屋(廂)・・・・各種の用語

門型を形づくる2本の柱の間隔は、「梁の長さ」を越えることはできません。
通常、「梁」のかかる2本の柱の間隔を、「梁間(はりま)」あるいは「梁行(はりゆき)」と呼んでいます。

「梁の長さ」は、「人力だけで作業のできる長さ」で決まります。今なら機械を使うことができますから任意ですが、「梁」があまりに長いと、運んだり、持ち上げることができないからです。
古代では、その長さの限界は、大体5m前後のようです(人力だけに頼るならば、今でもその位でしょう)。

   註 「大仏殿」をつくる、などというときは別の話です。
      そのときは、莫大な数の人が各地から徴用されました。

「梁行(梁間)」寸法に限界があると、平面の大きさ:空間の大きさも限定されてしまいます。
そこで、より大きい空間をつくるときに採られたのが、先の直方体の外側に、柱を新たに立て、最初の柱から「梁」を架け、「増築」する方法です。
図1-Bはその例で、直方体の2面に「増築」を行なった例です。図中の「梁1」と付した「梁」が追加された「梁」で、通常「繋梁(つなぎばり)」と呼んでいます。

そして元々の部分を「上屋(じょうや)」「母屋(もや)」、増築された部分を「下屋(げや)」「廂(ひさし)」と呼びます。

図1-Cは、「増築」を、本体の4面全部に行なった場合です。
図1-A、Bの屋根の形は、逆V型:「切妻(きりづま)」ですが、図1-Cでは、「切妻」型の本体のまわりが「下屋」に囲まれた形になります。「母屋」が内側に入ってしまっていることから「入母屋(いりもや)」と呼ばれます。

   註 寺社や公家の建物では「母屋」「廂」が、
      一般の住宅では「上屋」「下屋」の語が用いられます。
      なお、「母屋」は「身舎」、「廂」は「庇」とも書きます。
      「日本の建築技術の展開-2・・・・軸組工法の出発」
      「日本の建築技術の展開-2の補足・・・・上屋・下屋の実例...」
      もあわせ参照ください。

   註 「入母屋」型の屋根は、現在でも農家住宅などで好まれますが、
      その多くは、形だけ倣ったもので、架構の面では「入母屋」に
      なってはいません。

   註 図1-B、図1-Cは、「上屋(もや)」の切妻屋根が
      そのまま「下屋(廂)」の屋根へと続いています。
      寺社の屋根の多くはこの形です。
      屋根を続けないで、段差を付ける場合もあります。
      農家の納屋などによくある形です。
     

◇ 材をつないで長くする・・・・「継手(つぎて)」

上記のように、空間を大きくするため、「梁行」については「梁」をつなぐことはせず、「下屋」「廂」を設けることで対応します。

しかし、「桁行」では、本体自体の長さを材の寸法の限界5m程度で済ますわけにゆかない場合がほとんどです。
したがって、その場合には、「桁」を「継ぐ」必要が生じます。最大5m程度の材を継いで「長い桁」をつくるのです。

では、どのようにして「継ぐ」か。
その最も簡単と考えられるのが、図3-A、Bのように、継ぐ2材の接続箇所を一定の長さについて、材の高さ(丈:「たけ」または「せい」と呼びます)の半分ずつ欠き取り、合わせる方法です。
両方の材を同じように欠き取ることから「合欠き(あいがき)」(「相欠き」とも書く場合があるようです)と呼びますが、その形から、「腰掛け」と言うこともあります。
これは、2材をつなぐときの、いわば最も原初的な方法と言えます。

そして、2材を重ね合わせたら、両者が離れないように、「栓」を打つのです。これを「大栓を打つ」「込み栓を打つ」などと言います。
なお、図3-Aの場合は、「栓」は「桁」の2材を貫通し、「梁」にも打込まれます。「栓」1本で「桁」2材と「梁」が縫われ、「梁」と「桁」が一体に強く結ばれることになります。

   註 「合欠き」「腰掛け」は日曜大工でも簡単に細工ができ、
      両者を合わせ「釘」を打てば2材が継がれます。
      「栓」は、現在の「釘」の役をしているわけです。
      日曜大工でできること=原初的な技術、と言えるでしょう。

このように2材を長さ方向に継ぐことを「『継手』を設ける」、と言います。

なお、図3-A、Bとも、「桁」に「継手」の設けられている箇所の図で、どの「柱」の上でも「桁」に「継手」が設けられるわけではありません。「桁」に使う材の長さに不足がなければ、「継手」を設ける必要はないのです。

   註 「継手」:一材の長さを増す(材軸方向に継ぐ)ための工法、
           またはその部分をいう。
                 「文化財建造物伝統技法集成」の解説

   註 一般に、平面が長方形の建物の場合、
      短い辺に「梁」を架け、長い辺に「桁」を架けます。
      そこで、例外もありますが、短辺:奥行を「梁間(梁行)」、
      長辺:間口を「桁行」と呼ぶのが普通です。
      「梁」「桁」の架け方として、「折置」「京呂」のどれを
      採るかは任意です。

ところで、図3-A、Bとも、「継手」は柱の真上に設けられています。
これは、古代の考え方と言ってよく、現在のような「柱」位置から飛びだした位置で継ぐことはしていません。
奈良などの古寺を観ると、横材の継目:「継手」が見えません。「柱」の真上で継いでいるため、気が付かないのです。

「柱」位置から飛び出した位置で継ぐ方法は、おそらく中世以降の発案ではないでしょうか。


建物を木材の掘立柱で建てる方法は、簡単ではありますが、柱の根元が容易に腐ってしまう、という欠点があります。

   註 腐るのは、地面との接触面のあたりで、地中部分は
      比較的腐りにくい、という特性があります。そのため、
      ときどき、縄文期の掘立柱が地中から発掘されます。

掘立柱方式は、柱の根元(「柱脚:ちゅうきゃく」と呼びます)の腐蝕からの保護のために、石の上に柱を立てる方法へと変ります。「礎石建て(そせきだて)」「石場建て(いしばだて)」などと呼びます。
そうなると、「仕口」や「継手」も考え直す必要がでてきます。「柱」が自立できないからです。

そして、日本の建物づくりは、「礎石建て」になってから、日本の環境にあわせ、大いに技術が進展します。いわゆる「伝統的な工法」の展開の開始です。
次回以降は、その話になります。

次回へ続く

日本の建物づくりを支えてきた技術-1・・・・はじめに

2008-08-02 16:29:45 | 日本の建物づくりを支えてきた技術
[文言追加 8月3日16.58]

はじめに

最近、「日本の木造住宅の寿命は、欧米に比べ著しく短い」とよく言われます。あるいはまた、「木造住宅は、きわめて地震に弱く、耐震補強が必要である」とも言われます。
この場合の木造住宅とは、昔ながらの「垂直の材:柱」の上に「横に渡す材:梁(はり)・桁(けた)」とで組立てるつくり方による建物を指すのが一般的で、このつくり方を「軸組(じくぐみ)工法」と呼んでいます。
「軸組工法」は、洋の東西を問わず、建物を木材でつくる地域では普通に行なわれるつくり方です。日本でも昔から「軸組工法」でつくるのが普通で、柱と梁・桁でつくられた枠組:これを「軸組」と言います:に屋根を架け、軸組の間に、壁や開口部をはめこんで空間をつくります。

   註 「東大寺・正倉院」のような「校倉造(あぜくらづくり)」も
      ありますが、数は限られています。
   註 「梁」と「桁」は架けられる方向による呼び方で、英語では
      両方とも beam です。

ところが、厄介なことに、今の日本には「軸組工法」が二種類あるのです。

一つは、長年にわたり培われてきた工法、一般に「伝統的な工法」と呼ばれています。もう一つは、「建築基準法が規定している工法」です。現在は、原則として、後者つまり「建築基準法の規定する工法」でなければつくることができません。

そしてさらに厄介なことに、今世の中では軸組工法のことを指して「在来工法」あるいは「在来軸組工法」という呼び方がされることです。
その場合、「建築基準法の規定する工法」と、いわゆる「伝統的な工法」の「差異」についての認識は極めてあいまいで、あるいは、「差異があることを認識しているかどうか」さえあいまいです。
これは、下記の記事で挙げた「軸組工法の捉え方」に如実に現われていますので、参照ください。

   註 「『在来工法』はなぜ生まれたか-2の補足・・・・『在来工法』の捉え方」

      なお、「在来」という語は誤解を招きますので、
      ここでは使いません。
      その理由については、先回(7月31日)の註をご覧ください。


さて、先の「日本の木造住宅の寿命は、欧米に比べ著しく短い」あるいは「木造住宅は、きわめて地震に弱く、耐震補強が必要である」という《発言》を聞くと、何となく、「軸組工法はすべてダメ」かのように聞こえてしまいますが、この《発言》自体も、その拠って来たる根拠自体が極めてあいまいです。

先ず、「寿命の短い木造住宅が増えたのは『最近』のことだ」ということを知る必要があります。
現在、各地域に、「軸組工法でつくられ、百年はおろか数百年も使い続けられた建物」が数多く現存しています(社寺もあれば住宅もあります)。
また、阪神・淡路地震の際、大正~昭和のはじめに建てられた(つまり、築後100年程度の)「軸組工法」の建物で、無事だった例が数多くあります。
しかし、この事実については、「震災調査報告書」等では、一切触れられていません(この点については、「地震への対し方-1・・・・『震災調査報告書』は事実を伝えたか」「地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと」参照)。[文言追加 8月3日16.58]

当然ながら、それらはすべて、現行法令の規定する工法ではなく、いわゆる「伝統的な工法」による建物で、たとえば、「筋かい」はなく、基礎に固く取り付ける:「緊結(きんけつ)」と呼びます:こともせず、補強金物の類も使っていません。
その意味では、これらの寿命の長い建物は、どれも、現行法令の規定から見れば、「違反建築」ということになります。
しかし、これらの建物は、おそらくその経過した年月の間に、一度か二度は大きな地震や台風などに遭っているはずですが、致命的な損傷を蒙ることはなかったのです。
つまり、「違反建築」でありながら、長い年月無事だった、ということになります。

この「事実」の意味することは重要です。
すなわち、「伝統的な軸組工法」によっても、数代にわたって使え、暮せる建物をつくることが可能である、ということを示しているからです。
そして、むしろ、「建築基準法の規定する工法」に拠るようになってから、寿命の短い建物が増えた、ということを示しているのです。

つまり、先の《発言》は、正確に言うと、「『最近』いいかげんなつくりが増えた」「『最近』、消耗品扱いされる建物が増えた」あるいは「ほんとは長く使いたいのだが、諸般の事情で使えなくなる例が多い」・・・・ということになるはずです。
「最近」とは、大部分の建物が「建築基準法の規定する工法」に拠るようになってから、のことを意味します。
このあたりのことについては、すでに触れています(「住宅の低寿命化はなぜ起きたか」参照)。


最近多い「いいかげんなつくり」についても、再三書いてきました。

そして、わが国で従来行なわれてきた建物づくりの方法、すなわちいわゆる「伝統的な工法」は、決していいかげんなものではなく、むしろ、「日本の環境、すなわち多雨多湿、地震頻発、台風多発・・・といった環境のなかで鍛えられた、その環境に適合した技術」であったことも再三触れてきました。

しかし、先日書いたように、この「厳然たる事実」「厳然たる歴史」の認識をまったく欠いたまま進められてきたのが現行の教育、建築法令であり、それを支えてきたのが一握りの学者先生方なのです。

その結果、世の中には、「昔から筋かいを使っていた」あるいは「昔ながらのつくりかたはダメだ」かの如き誤った《理解》が蔓延してしまったのです(先ほど註で記した「在来工法の捉え方の実態」がその例です)。

前置きが長くなりましたが、これ以上、日本で培われてきた建物づくりの技術に対する誤った理解が蔓延しないように努めなければならない、と私は考えます。

そこで、多少でも、「誤解」蔓延の防止になれば、と考え、ここしばらく、先の「日本の建築技術の展開」シリーズを、「つくる立場」により近く立って、説明しなおしてみようと思います。

なお、図版類の編集・作成のため、多少掲載間隔があくと思います。


次回へ続く