建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか-3・・・・杜撰な言葉遣い

2006-11-04 19:32:44 | 専門家のありよう
 「杜撰(ずさん)」=押えるべき大事な点に手抜かりが多く、ぞんざいなこと。いいかげん。(『新明解国語辞典』)

 昨今、建築の世界では、あたりまえのように、「耐震」「断熱」「防湿」・・・といった「杜撰な用語」が飛び交っている。

 たとえば「耐震」。「耐」とは「支えることができる、負担することができる・・」といった意味。
 昨年来話題になった《耐震偽装問題》のとき、「この建物は震度7程度の地震に耐える基準を充たしている」云々という文言がよく聞かれた。この言葉から、基準を充たしているとされた高層の集合住宅に住んでいる人たちが、文言通りに、「この建物は、震度7程度の地震に耐えられ、地震後も住み続けられる」と思っても何ら不思議はない。
 しかし、先の文言は、「震度7程度の地震で、人命に損傷を与えるような破壊は生じない(だろう)」という意味に過ぎず、「地震に遭っても住み続けられる」ということは一切、まったく保証していない。つまり、「耐震基準」の「耐」の字を字義通りに理解すると、とんでもないことになる。
 しかし、「耐震基準」をつくった人たちは、行政も含め、この意味するところを正確に伝える努力をせず、ただ念仏のごとく「耐震」を唱えている。
 最近増えた「耐震診断士」なる資格(?)を得た人たち(当然、建築にかかわる人たち)も、皆が皆、この「真実」を正確に認識していると思えない。そのとき、彼らの下す「耐震診断」とは一体何なのか?提示した「耐震補強」策は一体何なのか?自ら考えた、あるいは、考えようとしたことがあるのだろうか。
 先のような意味をもって、「耐震」と定義するのは間違い。こういう杜撰な言葉遣いは、誤解の元。また、そういう基準や規定に唯々諾々として従うのもいかがなものか。「耐」の字の使用はやめる必要がある。
 
 「断熱」という語も、大きな誤解を生んでいる。
 「断熱」とは、字義通りに解釈すると「熱の伝達を断ち切る」こと、そして「断熱材」とは「熱を伝達しない材料」ということ。しかし、世の中、そのようなことはあり得ず、そのような物質もない。「熱が伝わりにくい、伝わるのに時間がかかる」物質があるだけのこと。
 けれども、建築の世界では、この語も大手を振ってまかり通り、ときには、この語を使う本人(建築の設計者)も、その語に惑わされる。
 たとえば、RC造の屋上スラブ上に10~15cm程度の厚い《断熱材》を敷けば、スラブ下の屋内は、日射の影響を受けないと考える。実際そのような設計の建物で暮したことがある。たしかにすぐにはスラブは暖まらないが、時間が経てば(夏の日射ならば1時間程度で)必ずスラブも熱せられる。そして、暖められたスラブの熱は、《断熱材》のおかげでスラブ内に蓄熱され、夜遅くまで室内に向けて熱を放射・放出し続ける。設計者は、《断熱》の語に惑わされ、この事実に思い至らなかったのだ。
 
 「防湿コンクリート」を建物、特に木造建物の布基礎に囲まれた床下に打つことが、「防湿シート」の敷き込みとともに奨められ、実施例も数多く見かける。
 しかし、布基礎の建物の床下が湿気るのは、布基礎に囲まれた床下に、湿った空気が溜まり、淀んでしまうからであって、地面から滲み出したのではない。湿気は通常地面に吸収されるのだが、地面が飽和すれば、湿気は溜まる一方。空気が過湿になれば、コンクリートの表面に結露するのが目に見えている。防湿どころか迎湿だ。その結露防止のために、コンクリート下に《断熱材》の敷きこみが奨められたりもする。理詰めに考えれば、床下の湿気による木部の腐朽多発の因は、布基礎方式そのものにあることが分かるはずだが、多分、勝手に名付けた「防湿」の語に惑わされ、湿気が防げると思い込むのだ。

 これらの例には、いずれも、「理詰めで考えた」形跡がどこにも見当たらない。だから、「建築にかかわる人たちは、ほんとに《理科系》なのか」という疑問が沸き起こる。
 しかしながら、昨今、各地で、というより全国的に、高校の《必修科目の履修不足》が話題になっている。しかも、これは今に始まったことではないらしい。
 たとえば、外交官志望の大学生で、高校で世界史を履修していない、地理も知らない、などというのはざら・・。入試選択科目以外は履修しないのが受験生の《常識》だという。
 ということは、「理科系」という人も、単に入試で「理科系科目」を選んだにすぎず、もちろん、福沢諭吉の教えにしたがい「一科一学」で学問に励んできたわけでもない、ということなのだろう。
 だとするならば、「建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか」と問うのは、そして、「理科系ならば、もっと理詰めに考えてほしい」などと願うこと自体、無意味で馬鹿らしいことなのかもしれない。
 ただ、そうでありながら、彼らが「専門家」を名乗ることは、どうしても腑に落ちない。

 加藤周一氏のエッセイ、『山中人話:スタインバーグは言った・・・』に、次の一節がある。
 「・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・廊下を歩きながら呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも・・極めてむずかしいことだろう。
 『私はまだ何の専門家にもなっていない』と彼は言った。『幸いにして』と私が応じると、『幸いにして』と彼は繰り返した。」

 スタインバーグとは、長期にわたり『ニューヨーカー』誌の表紙を描いたアメリカのイラストレータ、漫画家を指すものと思われる。

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