朝はまだ氷点下になりますが、陽射しは春です。あちらこちらで梅が咲きだしました。
昨日は当地でも、朝から雪。昼頃には3~5センチほど積りましたが、夕方にはすっかり消えてしまいました。
今日は、昨日の影響か、晴れてはいるのに、冷え込んでいます。
ブログ続編、編集中です。もう少しかかるでしょう。
沈丁花の蕾が膨らんできました。
一昨日は立春でした。
しかし、その日の当地は陽射しがなく、まさに春は名のみの・・・でした。
この時節になると、いつも、かつて接した学生諸氏の顔・姿が思い出されます。いまどうしてるかな・・・・。
ちょうどこの頃は卒業論文・卒業制作や修士論文の提出時期で、学生諸氏の個性が一段と印象深く際立つ時期だからではないかと思います。
おそらく今年も、この寒空の下で、学生諸氏は奮闘しているでしょう。
復刻・「筑波通信」―13 「善知鳥」によせて・・・土地・土地の名・・・ 「筑波通信」1982年5月 刊 の復刻
信州塩尻の近くに「善知鳥」という名の峠がある。松本平から伊那谷へ通じる街道:三州街道にある中央高地に別れを告げる峠である。古代の東山道もここを通っていたという(下掲地図参照)。
問題は、これを何と読むかである。全く読めずに、私は暫し戸惑った。「うとう」峠と呼ぶのだそうである。
あちらこちら歩いていて、およそ土地の名前ぐらい読むのに苦労するものはない。連取町と書いて何と読むか。「つなとりまち」というのだそうだ。これは、群馬県伊勢崎市内で見かけた名前である。たまたま入った喫茶店のマッチに書いてあったローマ字のおかげで判ったのである。この場合は、言われてみれば、」ああそうか、そう読めないこともないなと思うけれども、善知鳥はどうやったて「うとう」とは読めない。「うとう」という「音」があって、それに漢字の音を当てた当て字かとも思ったけれども、それは無理というもの。どうひっくりかえしたってそういう音はない。まして、平仮名で「うとう」と書いてみると、峠道を越えるのが「疎ましい」ので「うとう」なのかな、などとまったく勝手な想像が頭の中を駆け巡るのだが、それにしたってそれが「善知鳥」となるには合点がゆかない。要するに分らない。
ところが、もし私に能楽の素養でもあったならば、すらすらと読めたに違いない。手元の辞書によれば、世阿弥の作に「善知鳥」というのがあるのだという。実際「善知鳥」という名の鳥がいるのだそうである。海鳥の一種で、中部以北の海岸に棲む鳥だそうである。その鳥にからむ物語があって、それが「善知」という意味の字を与えるきっかけにでもなっているのではあるまいか。
そこまで分ったとしても、海鳥の名前が、およそ海とは縁もゆかりもない中央高地の地名になるというのは、さっぱり分らない。そのとき、その辞書の「うとう」の項に、アイヌ語で、嘴と眼の間に突起がある鳥、とあるのが目についた。嘴の付け根、鼻のあたりに瘤のような突起があり、それが識別の指標になっているらしい(下掲参照)。そうだとすると、「善知鳥:うとう」峠は、地形の形状かな、アイヌが中央高地にも居たという話も聞いたことがある・・・。
そこで思い付いて、百科事典の地図の地名索引で「うとう」を引いてみた。引いてみて一寸驚いた。
「善知鳥」という字が付く地名が、この峠を含めて、少なくとも三つ在るのである。「善知鳥崎」、これは青森湾に面する海岸、ここにはこの鳥が居てもおかしくない。「善知鳥」そのものずばり、これは秋田の山の方、海より離れていて平野が山にかかりだす尾根の突端のようなところらしいが詳しい地図でないと分らない、そしてこの「善知鳥峠」。
この索引には、「うとう〇〇」という読み方で別の漢字をあてる地名がまだかなりあった。別の書物によると、全国各地に「うとうざか」という場所があり、「謡坂」と書いたりして、そこを越えるときは「うたをうたってはならない」などという言い伝えがあったりするという。これは、「うとう」に「謡」の字を当てたことから逆に生まれた話かもしれない。また、もしやと思って、漢字の音のとおりに「ぜんちちょう」と辞書を引いてみたところ、「ぜんちちょう:うとうという鳥のこと」とあった!
こういう《知識》を拾い集めていると、その量に応じて段々と何かが分ってきたかのような気分になってくるのだけれども、実は、何かが分ってきたわけでは少しもない。むしろ考えなければならない《材料》が増えただけで、「うとう」はさっぱり分らないままなのだ。強いて「足しになる」ことと言えば、各地の山中、それも坂や峠のような所の名前としてあるらしい、ということだけである。それだって、あくまでも、《あるらしい》である。
私がこの「うとう」峠に興味を抱いたのは、塩尻近くの宿場町や民家を見て歩いたとき、そのとき持っていた地図がまったく役に立たず(バイパスや新しい道が造られてしまっていて役に立たなかったのだ)、筑波に戻ってから別の地図を見直していたときのことである。初めはまったく読めなかった。というより、いろんな読みかたをしてみたけれども、そのどれにも自信が持てなかった。そこで「地名大系」を引っ張り出してみて、初めて「うとう」と読むのだと知り半ば驚嘆したのである。漢字だけでさえいささか驚いていたのに、そのような「読み」が当てられていること、そしてその「うとう」という読みの「響き」にも心を惹かれたのである。心地よい響きの言葉だが、いったいどんな意味なのか?そう思ったのが始まりで、いろいろと拾い読みすることになったのである。
つまるところ、「うとう」という心地よい響きをもつ言葉は、その意味がよく分らないまま残ってしまい、相変らず気になっているのだが、そうこうしているうちに、ふとおかしなことに気が付いた。
「うすい峠」などといった場合、そういう名の付いた峠で済ませてしまい、それが何を意味しているのだろうなどと少しも思わない。
すなわち、その意味を知りたく思う場合と、単にそういうものだ、で済ます場合があるということに気が付いたのである。
こういう二つの場合があるということ、それは明らかに《私の側の問題》である。私が、その意味を気にするか、気にしないかによるのだと言ってよい。
その名前がすっかり私の身についてしまっているような場合、それにもいろいろな場合があって、具体的には知らなくても、そういうものなのだという《知識》が身についてしまっている場合には、あまりその語の意味など気にはしないようだ。「うすい」峠などが、私の場合、その一例である。こどもの頃から「うすい」峠という名の難所が在ることは《知識》として身についてしまっていて、実際にどのような様相の場所かは全く知らないまま、「うすい峠」は私のものになっていた。もちろん「分って」いたわけではない。しかし、「うすい」峠って知っているかなどと言われたり、関東から信越に向う中山道あるいは信越線の難関は何処かなどと訊ねられたりしたら、したり顔で「知ってるよ」とか「うすいとうげ」などと答えただろう。それは、単にそういう名前として知っているわけで、別の名称でもよかったはずである。そして、この場合、その名前よりも、難関であるという《教えられた知識》が印象に残っていて、どのような所か実際に知りたく思っていたに違いない。中学校の頃、遠足で信越線でそこを通り、「これがあの碓氷峠か」と思ったことを今でも覚えている。実際に道で峠越をしたのは自動車に乗るようになってからであり、未だに歩いてはいない。
こういう程度の「碓氷峠」との「付き合い」のなかでは、「何でうすいなのか、碓氷なのか」「碓氷とはどういう意味か」などと、それほど深く思いをめぐらしたことはないように思う。
ところが、小学校の遠足で相模湖へ行ったとき、甲州街道を歩いた。結構な上り坂で歩みが遅くなったころ、もうすぐオオダルミだ、峠だ、そこからは下りだと元気づけられた。峠には大垂水峠という石碑がたっていた。おおだるみと読むらしい。そばの山の岩肌から少しばかり水がしたたり落ちていた。これで大垂水?と訝った記憶がある。子どもなりに大垂水という語の意味を考えたのだ。このときは、まったく突然、何の予備知識もなく「おおだるみ」に出くわした。それゆえに、語の意味に思いが至ったのだろう。もしも事前に、こういう名の峠があることを知っていたならば、その名の由縁に思いをはせることはなかったに違いない。
こうして考えてみると、日常慣れてしまっている名前に対しては、その由縁・由来など、まず気にすることなどない、と言ってよさそうだ。
その場所を私なりに具体的に知っているような場所に対しては、その名前に接した瞬間、その場所の具体的な姿が頭の中に浮んでくる。上野、新宿、渋谷・・・、それらは皆、私なりのその名をもつ町の具体的な姿をすぐ目の前に浮びあがらす。その名の由来・由縁が気になったりするのは、他の場所で同じ名を見つけたような時だ。例えば同じ都内で別の新宿を見つけたり、伊賀上野などという場所のあることを知ったりしたとき、あらためて、新宿は新・宿だったかなどと気づいたりするのである。また、私のなかに(どういうわけか)教え込まれた《知識の体系》を形成するためのいわば一要素として土地の名前が表われてくる場合にも、それは単にその《知識体系》を標示する記号のようなものに過ぎない場合も多い(地理の授業で教えられることなどは多分この類だ)。利根川という名前をきけば、具体的に利根川を知らなくても、関東平野を潤す重要な河川という「知識」が浮かび上がる。
つまり、具体的に知らなくても、「知識」を集積できるのである(こういう「知識」をたくさん忘れずに覚え込んだ者がいわゆる優等生なのだ)。
更には、《「知識」として教え込まれたこと》をその土地の姿であるかのように思い込んでしまう場合さえある。
津和野などは、私にとって、まさにそれであった。訪ねてみて、聞くと見るでは大違い、私が《「知識」によって描いていたイメージ》は、もろくも潰え去った。
具体的には知らず単なる「知識」の場合、その名前の文字がつくりだすイメージが取付いてしまう。
私の場合、萩や津和野がそれで、字の意味や読み・音の響きが、一つのイメージを生起させ、その土地のイメージに、理由もなくかぶさっていたのである。萩の場合は、その字で、ある風情を勝手に思い浮かべていたのである。
また、名前を構成する文字が、ある特定のものを示すような場合にもその名前の由来・由縁が気になりはじめる。先の塩尻などがその例で、塩の尻って何だろうと問いただしくなってくる。もしもその土地に住んでいたり実際によく知っていたリしたならば、直ちにその具体的な町の姿を思い浮かべてしまい、名前の由来を知りたいなどという気は、まず湧いてはこないだろう。ただ、そういう場合でも、塩尻という名のようなときには、例えば中野などという名前のときとは違って、ふとさめて考えてみたりしたとき、その由縁を知りたい気持ちが起きてくるのは確かである。多分それは、塩と尻という字が、あまりにも特定のものを指し示しているからであろう。塩と言えば普通は海のもの、ここは海岸ではないから岩塩でもあるのだろうか、尻というのは《果て》《終り》の意か・・・などといろいろ思いたくなるのである。だからであろう、塩尻とは、太平洋で採れる塩:南塩と日本海産の塩:北塩の輸送路の終点:尻にあたる所だから、という《もっともらしい》説明がなされたりしている(《もっともらしい》と書いたのは、そうではないという説が最近言われているようだからである)。
古今の「地誌」や「地名考」で、地名の由来について語られている事例の多くも、その名前が何らかのイメージを生起させる特定のものを指し示しているような場合ではないだろうか。いわば《平凡な名前》の場合には、気にもかけず済ましてしまうのである。もっとも「風土記」のような、その土地で暮している人ではない「よそ者」が編んだような場合には、その名前が自分とは関わりなく存在していたからであろうか、やたらにその名の由来・謂れが書かれる場合もある。それは、今私たちが、初めての、知らない土地の名前(とり分け興をそそる名前)にぶつかって、その意味を問いたくなる心境と似ているのだろう。初めての所だから、手掛かりになるものとしては、目の前に拡がる土地の他には、その呼び名:名前しかないのである。風土記の場合は、嘉き字二字をもって土地の名を報告せよとの中央政府の命令があった(下記参照)がゆえの結果だろう。
畿内七道諸国。 郡郷名著嘉字。 其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具 録色目。及土地沃堉。
山川原野名号所由。 又古老相伝 旧聞意事。 載于史籍言上。
おそらく、それまで文字のあてがわれていなかった名前・地名に漢字を与えるために、その漢字をあてがう《理屈》を考えざるを得なくなったと思われる。
同様のことは明治期にアイヌの地名に漢字をあてがうときにも行われている。もっともそのときは、アイヌ語の音に漢字の音や訓が適宜あてられたから、文字の意味を考えるとわけの分らなくなる場合が多い。アイヌ語の意味やその土地の様態に合っているように私に思える漢字名は神居古潭(カムイコタン)ぐらいである。要は、地名を漢字二字で表せ、というのが問題なのだ。
言うまでもなく、漢字に置き換える以前から、それぞれの土地にはそれぞれの呼び名があった。呼び名をつける側の立場を考えてみれば当然なのだが、その呼び名が付けられるのは、それなりの理由:意味があっただろう。そこへ「よそもの」が現れて《無理に》漢字の「音」や「訓」をあてがってしまった。
ところが、漢字は表意文字、一字一字が独自に意味を持つ。その結果、漢字に置き換えられた名前が、本来はその名前にはなかった漢字の意味を担ってしまうのである。その漢字の名が元の呼び名の意味することと同じであることは、まずないと言ってよいだろう。そして、一旦漢字に置き換えられた名前は、それこそ随時、安易に、別の漢字に置き換えることが、ひっきりなしに行われてきた。
埼玉県に春日部(かすかべ)という町があるが、従来の表記は粕壁であったはずである。
信州の千曲川も、筑摩の地域を流れる川⇒筑摩川が、ちくま河と書かれたり千熊河と書かれる時期があり、千曲川に落ち着いたのは江戸時代の初めという。「ちくまがわ」という音だけは変らなかったのである。多分、ちくまという呼称が先にあったのだと思われるが、そういう変遷の過程に気が付かないと千の曲りか、なるほど、などと納得しかねない。当て字にしては、川の様相にぴったりなのだ。
このように一旦漢字で表記するようになると、元の名前をさておいて、漢字の持つイメージが独り歩きを始めてしまうのである。
甲府盆地の東を笛吹川という川が流れているが、そのあたりの地図を見ていたら、その小さな支流に琴川(ことがわ)というのがあった。琴川とはまた優雅な・・と思っていたら、地元の人が、鼓川(つづみがわ)もある、と教えてくれた。調べたわけではないが、笛吹という名前が先にあって、それに引きずられて琴、鼓が派生したのではないかと思う。
このあたりの学校や農協の名前では「笛川・・・」と書かれているから、元は「吹」の字はなかったのかもしれない(未確認)。
つくば市に、松見、竹園、梅園という町名があるが、これは、戦後、荒野が開拓されたとき、拠点となる地域に松竹梅のめでたい字を配ったことに始まるのだという。こうなると単なる記号と同じで、その字の生むイメージだけが問題にされ、その土地に根ざした呼び名とは全く無縁になってくる。住居表示で改名された地名や、新開地の地名には、こういう例が多いようだ。
冒頭に書いた「善知鳥峠」は、命名の過程が更に込みいっていると思われる。多分、「うとう」という呼び名は古くからあったのだろう。
一方で「うとう」と呼ばれる鳥がいた。その鳥の親子の情愛の深さについての「伝説」がある。それを題材にした能楽があるようだ。その伝説・説話の内容はまさしく「善知」ということだ・・・、おそらくそのような「解釈」があったのだろう。これには、「善知識」という仏教語がからんでいるのかもしれない(辞書で「善知」を調べていたら、「善知鳥」の一つ前の項目に仏教用語の「善知識」の「解説」があったからである)。そこで「うとう」という鳥は「善知」鳥だ、ということになり、以後、「うとう」は「善知鳥だ、「善知鳥」と書いて「うとう」と読むようになった・・・。このような場合、話を知らない限り、「善知鳥」を読めと言われても読めるわけがない。
多分こういった類の名前がたくさんあるのではないだろうか。
こんな具合に、漢字で書かれた地名を、その漢字の意味について考えだしたりすると、とんでもない結果に陥りがちだ。
旧い名前を相続していると思われるような場合、せいぜい、漢字を取っ払って元の呼び名に戻してみてその意味を考えてみることぐらいが、できることではないだろうか。
確かに、その呼び名の意味を分かること、分ろうとすることに意味がある場合もあるかもしれない。
しかし、より大事なのは、大地の上の特定の場所を区切りとってある名前で呼ぶようになった、そういう人びとの営為のなかみに思いを至らせることではなかろうか。なぜ「そこ」に、ある呼び名を付けなければならなかったのか、そうさせたのは何だったのか、と。
そうしなければ、「もの」、あるいは「土地」の私たちにとっての、ほんとの意味が分らないはずだからである。私たちにとって、土地やものは、あくまでも私たちにとっての土地やものなのであって、単に「私たち&土地」「私たち&もの」なのではないからである。
「私たちのもの」について考えるのならば、辞書的解釈から始めるべきではないのである。辞書にある解説が間違っている、ということではない。辞書の解説は、辞書というものの性質上、いわば抽象的な解説に終始し、その名前の名付け親としての「私たち」の存在、「私たちにとって、そのものが存在することの意味」を背後に隠してしまうのである。
辞書的解説の範囲に閉じ籠って右往左往するよりも、この背後に注力することこそが先ず為されなければならないことなのだ。
では、表音文字表記の地域の人びとは、書かれたものの名前に対してどのような感じかたをするのだろうか。
たまたま手元にあった書物のなかに、土地の名前について述べている個所があったので下に書き写す。
・・・・・言葉というものは、それの指し示す事物の明瞭にして尋常な(たとえば仕事台、鳥、とはいかなるものかという例を児童に示すために教室の壁にかけておく絵、あの同一種類のすべてのものの標準として選ばれたもののように)あるささやかな映像をわれわれに思いうかばせる。ところが、名というものは、人なり町なりの(というのは、町もその名で呼ばれるために、われわれにはいつも人物同様思われがちなものだから)その町のある漠とした映像を思いうかばせる。この映像は、その名とその名の音の明朗とか沈鬱とかの響きによって色彩を導きだす。映像はこの色彩によって、ちょうど全紙が青または赤の一色で描かれているあのビラのように、一様に塗りつぶされているものなのだ。「パルムの僧院」を読んでからまず行きたい町の一つになったパルムの名は、私には、密な、滑らかな、すみれ色の、そしてやわらかな感じとして思いうかべられていたから、私の宿になるかもしれぬパルムのどんな家の話がでても、私には、滑らかな、緻密な、すみれ色の、そしてやわらかな感じのする住居に住むのだろうと思う喜びがひきおこされた。そして、そうした住居は、イタリアのどの町の住居とも似もつかぬものなのだ。というのは、なんの抑揚もないパルムというシラブルと、スタンダール風な甘美さやパルムのすみれの花びらの光沢から、パルムという名に私の含ませたすべての心象との助けをかりて、初めてその住居を想像したからである。・・・・・ プルースト 失われた時を求めて 土地の名・名 より
おそらく、未だ具体的に知らない土地のイメージが醸成されてくる構造は私たちとさほど変っているわけではなく、違う点は、その名前の音の響き:語感が前面にでてくることぐらいだろう。ここに引用した例の場合、「パルムの僧院」を読んでいなければ、その名前の綴りと発音だけが頼りとなるわけである。私たち日本人が表音文字圏の町の名に思うことは、この例とそんなに変りはないだろう。文学や人の話やなどを通しての諸々の《知識》が、その街の名前に取付いてイメージがどんどん膨らみ、それとその町そのものと、どちらがどちらだか分らなくなったりさえしてしまう。そのあたりのことについては、次の一文が的をついている。
・・・・・一年前に、あるいは二年前に、芸術と思想との充ちた町パリは、私を歓喜の念でいっぱいにした。
その時私のしたことは、私がこれらの美しいと思ったものに、私の知っている名前や言葉をやたらにつけたことである。ノートルダムは崇高だ、重厚」だ。・・・・セーヌは静穏で、ほのかないぶし銀の照り返しのように輝いている。等々・・・・。そしてそれには必ず自分がそれが「好き」だという甘い感傷が伴っていた。しかしこれらの言葉は何か。それは全然別の内容をもって私の過去の生活経験を通して与えられ、あるいは教えられたものであった。言葉とその言葉に対する感激、もちろんそればかりではない。
私は実物に接した以上、それから感動の幾分かはうけていたに相違ない。しかしそれは安易な言葉と感激によって、たちまちうすめられ、混乱させられてしまっていたのではなかったか。私は自分の貧しい過去の色ガラスを通して映るパリの姿をよろこんでいたのである。これは錯覚以外の何だろうか。しかしこの色ガラスそのものは、一つの感覚的経験の蓄積されたものである以上、私が一つの生活圏を場所的にはなれた時、徐々に崩壊しはじめていたはずである。それがある程度以上になったとき、私は、私の主観的な錯覚から次第に分離してくる、そこに在る、パリそのものの姿を見、その複雑な裸形の姿の厳しさに茫然とするばかりである。それはまずその硬い物理的性質をもった石の町として、更に冷たい町として迫ってきた。・・・・ 森 有正 砂漠に向って より
私たちが、私たちそれぞれの色ガラスを通して物事をみているという《事実》は、何人も否定し得ないだろう。
だからと言って、私たちにとっての問題は、どれだけの色ガラスがあるのか、と数え上げることではなく、ましてや、どの色ガラスが好ましいか、などと論じることではない。言葉とその言葉に対する感激を、とやかくあげつらえばよい、ということではないのである。
了