語彙に見る日本の建物の歴史・・・・「筋交い」の使われ方

2006-12-29 18:43:46 | 地震への対し方:対震

建築の世界で使われる用語:語彙の数は驚くほど多い。けれども、その語彙についての辞典・辞書の類は少なく、とりわけ、日本の建築で用いられてきた語彙・用語については無いに等しい。
その中で、今でも役に立つのは(もっとも、?と思う解説もあるけれども)、上に内表紙とはしがきの一部を載せた中村達太郎著「日本建築辞彙」(明治39年:1906年刊)ではないだろうか。

中村達太郎は工部大学校第四回の卒業生。《近代化・西欧化》を使命と心得た工部大学校の卒業生は、皆、日本の建物づくりに関心がなかったが、彼も同じであった。それを端的に示す一節が彼の書簡にある。
「・・私は当時石灰は英国の何処に生産するかを知っていましたが、日本のどこに石灰が産出するか皆無知っていませんでした。日本建築構造も皆無知りませんでした・・。」
彼は日本で育ったはずだから、周囲に白壁の家は見かけただろうし、各地の城郭も見たことがあるはずなのだが、その白壁の材料・原料が何であるかを知らなかったということだ(もっとも、これは、自国の建物に関心があるかどうか以前の日ごろの「観察」の問題ではあるが・・)。
かの辰野金吾(第一回卒業生)も、留学中、日本の建物について尋ねられ、まったく答えられなかったというから、当時のエリートたちの自国の建物への無知のほどがどのようなものであったか、よく分かる。

ひるがえって、今の建築の学校を出た「専門家」たちは、どの程度、自国の建物や材料について知っているのだろうか?どの程度、知ろうと思っているだろうか?
 
私が見るかぎり、明治のエリートたち同様、自国の「古い建物」は、捨てるべきものと見ているか、あるいは、単なる観賞の対象、あるいは、観光の対象としてしか見ていない人たちが圧倒的に多いように思える。
それは、過日紹介した遠藤新が1949年(昭和24年)に書いた文の一節、「・・(従来も『民家』の研究はあったけれども)何か『取り残されたもの』に対する態度、『亡び去らんとするもの』に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきている・・」とまったく変わらない。つまり、半世紀前と同じ、ということ。だからおそらく、明治以降、ずっと同じだったのではないだろうか。

遠藤新がタウトと桂離宮を例にして言っているように、明治以降の「教育ある」日本人の多くは、誰か外国人に推されでもしないかぎり、自国のものは劣るもの、ゆえに捨て去るべきものと見なしているのではないか、と思いたくなるほどだ。

ところで、中村達太郎は、自らの非を悟り、留学から帰国後、棟梁に就き、日本の建物を「いろは」から学んだのである。そして、そこで得たものを後輩への指針とすべく、日本の建物にかかわる語彙・用語の解説書として著したのが「日本建築辞彙」であった。

あるとき、いったい「筋交い(筋違い)」という語は、いつごろから日常語・日用語になったのかを調べようとして、明治以降の辞書・辞典の類をあたってみたことがある。辞書・辞典には、その編集時点で一般的な語彙が集められているはずだからである。

近代以降の国語辞典として定評のある二書、明治政府の肝いりで編纂された「言海」を増補した大槻文彦編「大言海」(昭和7年:1932年)、上田万年、松井簡治編「大日本国語事典」(大正4年:1915年)には、濃尾大地震後の出版にもかかわらず「筋交い(筋違い)」の語は見当たらない。つまり、一般には使われることのない語だったようだ。

建築専門書では、斉藤兵次郎著「日本家屋構造」(明治37年:1904年)には説明がない。
先に紹介の滝大吉著「建築学講義録」(明治23年:1890年)では、欧風建物を念頭にいれて、主に材料(柱同寸を奨めている)、取付け方(横架材に柱から2寸ほど離して傾木大入れとし横より打込む)など10行ほどの解説がされている。
 
中村の「日本建築辞彙」では「すぢかひ(筋違):木造ナドニ於テ斜ニ取付ケタル木ヲイフ。『もくぞー』ヲ見ヨ」とあり、「もくぞー(木造):木造家屋ノ造リ方種々アリ圖其一例ニシテ旧来ノ構造ニ比スレバ改良シタル点少ナカラズ。」として上掲の図が載っている。この図は、校舎のような建物らしく、図中の部材呼称には若干首をひねる点がある。
おそらく、「筋交い」は、建築の世界で流通し始めたばかりの語で、現在のようにはまだ一般化はしていなかったと思われる。

なお、「筋交い」については、「文化財建造物伝統技法集成」(財団法人・文化財建造物保存技術協会刊)には、各時代の建造物の調査の結果の結論として、次のような解説がある。

・・・鎌倉時代には、柱間に「筋かい」を設け、間渡し材(註:塗り壁の下地)を密に入れ壁を塗ることが行われたが、間もなく使われなくなり、主に小屋束まわりの補強に用いるだけになる。
中世以降、軒まわりに桔木を使い、桔木上に小屋束を立てる小屋組が増える。桔木には1本ごとに形状の異なる丸太が使われるため、桔木上の小屋束の寸法が決めにくく、屋根の反り・流れを決めて母屋を所定位置に仮置きし、束を1本ずつ現場合せで切断し、桔木、母屋に枘なしで釘打ちとする粗放な手法が増え、その転び止めとして「筋かい」が使われた。
近世になり、あらかじめ地上で梁、桔木ごとに墨付けを行う技術が確立、梁・桔木・母屋に枘差しで束を立て貫で固める小屋組が普通になり、「筋かい」の使用は減る。・・・


だから、明治のころの日本の建物には一般に「筋交い」はなかったと言ってよく、斉藤兵次郎著「日本家屋構造」に「筋交い」が載ってないのは当然なのだ。

長い日本の建物の歴史を振り返ると、現在の「筋交い」の《隆盛》は、むしろ「異常な現象」なのだろう。なぜなら、地震は太古から日本に起きているが、日本の建物は「筋交い」なしでつくられていたのだからである。
「筋交い隆盛の歴史」を調べると、日本の近代建築史の一面が垣間見えるはずだ。

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