工事輻輳中

2010-01-31 09:58:04 | 日本の建築技術
工事が錯綜して、滞っています。次回掲載まで、もうしばらく・・・・・・。

先回「神輿のような建屋」の補足で紹介させていただいた大森房吉氏の論文、当該箇所に係わる部分の全体を、下記の第十五編、第十六編で見ることができます。
片仮名の旧仮名遣い文語体ゆえ読みにくく、その上長文ですので、時間があるときにゆっくりお読みください。

「現場」の観察に基づく部分と、「机上」で考えた部分が交錯して、?と思うところもありますが、最近の研究論文、報告書よりも分りやすい印象を持ちました。
ただこれは、あくまでも私の感想ですから、そういう先入観なしでお読みください。

第十五編 構造物と地震との関係
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008567833
第十六編 耐震構造に関する注意・結尾
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008567834

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再検・・・・-6:の補足・「神輿のような建屋」の補足

2010-01-29 10:15:56 | 再検:日本の建物づくり
     
      今日は、このあたり一帯だけ、どういうわけか雨模様。雷もなっています。
      そんななか、いつものように来訪者。ツグミです。
      カキの枝にとまって、しきりに身づくろい。雨に濡れたからでしょう。
      以上は、本題とは無関係!

[表記を正確に修正 31日 9.55]

先般の「気になった言葉」へのコメントに、久保恭一氏から貴重な「資料」の紹介が寄せられました。
建物と地震の関係についての研究では大先達にあたる大森房吉氏の、「明治37年11月6日に起きた台湾地震」について1906年(明治39年)に出された「調査報告」の中の論文です。[表記を正確に修正 31日 9.55]

コメントの一画に置いておくのはもったいないので、先回の「神輿のような建屋」の補足として、別項設けさせていただきます。

簡単に言えば、「神輿のような建屋」、「礎石上に据え置いただけの建物の耐震性」についての論説です。

   註 大森房吉(おおもり・ふさきち)1868年(明治元年)~1923年(大正12年)
     福井県福井市生まれ。明治・大正時代の日本の地震学の指導的研究者の一人。
     関東大震災の報を知り、豪州から帰国の途次、倒れた。
     
以下、久保氏の前文を除き、そのままコピーします。読みやすいように、段落は変えてあります。


  ・・・(略)構造物を耐震的ナラシムルニハ、
  (甲)地震動ヲシテ成ルベク構造物ニ破壊的作用ヲ及ボサヾラシメ又、
  (乙)構造ヲ堅固ニスルヲ要ス
  ・・・・・・
  普通ノ日本造リ家屋ハ、弱小ナル地震動ノトキハ、
  土台石(註:礎石のこと)ヨリ辷リ動カサルヽコト無ケレバ、
  地面ニ固定セルガ如クニ振動スレドモ、
  大地震トナリテ震動激烈ナルトキハ、水平地震力強クシテ、
  木造家屋ノ下底ト土台石トノ間ニ存スル摩軋(註:ま・あつ:摩擦のこと)ニ
  超過スルコトアルベク、
  斯カル場合ニハ家屋ハ土台石ヨリ離レテ多少移動スベク、
  即チ実際ニ地震ノ激動ノ幾分ヲ遮断スルノ効果アルナリ、

  木造家屋ハ、ソノ柱ガ挫折スル事ナケレバ、決シテ全体トシテ転倒セザレバ、
  少シク注意シテ構造スルニ於テハ、
  如何ナル大地震ニ際スルモ倒ルヽコト無カルベキナリ、
  明治二十四年ノ濃尾地震、同二十七年ノ庄内地震ノ如キ、
  大地震ノ震央地ニテモ、存立セル農家アリキ・・・・

今からおよそ1世紀前の研究者は、現在の研究者のように自らの《理論》をもって現場を見てしまうのではなく、虚心坦懐に、先入観をもたずに現場を観察されていることが分ります。

   註 最近の研究者は、一般の人に向けて、平然と次のように語ります。
      《木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震のカを受け持って、
      土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります。》
      地震の力は、いったいどこから来るのでしょう?
      詳しくは、「現行法令の根底にある『思想』・・・・学界の木造建築観、耐震観」参照。
      
大森氏のなされたような「観察に基づく認識」が、なぜ後世に引継がれなかったのか、奇怪至極です。
おそらく、木造の建物の構造計算:数値化のために、「事実の観察」すなわち「リアリティ」を無視、歪曲したのでしょう。
「机上の空論」をもって「事実」を見る、その結果、「事実」は捻じ曲げられてしまう。本末転倒の《典型》です。そしてそれが現行「建築基準法」の《異常さ》をつくりだしてしまったのです。

 紹介いただいた久保氏に篤く御礼申し上げます。
コメント (1)
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再検・日本の建物づくり-6:の補足・続・・・・最新の遺跡地図

2010-01-25 17:38:46 | 再検:日本の建物づくり
「再検・・・・-6」で、霞ヶ浦に飛び出ている「出島」地区の遺跡地図を載せました。
昭和53年(1978年)版であまりにも古いので、茨城県教育委員会に問合わせたところ、最近は出版物ではなく、ネット上で最新データを公開しているとのこと。
  いばらきデジタルマップ: http://gis.asp-ibaraki.jp/jam_ibaraki/portal/index.html

そこから、先回とほぼ同じ地域をコピーしたのが次の地図(航空写真もあります)。
マークが鬱陶しいですが、薄いグリーンの色をかけた所は埋蔵地。マークは、出土した遺物などを示しています。

グリーンのところは、現在ほとんど畑と居住地(畑が大部分)。

実は、一帯がこんなに埋蔵地で埋め尽くされていたとは知りませんでした(他の地域と比べても埋蔵地が圧倒的に多いのです)。



おそらく、各県でもこのような地図があるはずです。
一般には、開発業者や建設業者が、この地図を利用しているようです(事前に遺構調査費がかかるかどうかのチェック)。私の問合せも、そのように受け取られたらしかった・・・。

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再検・日本の建物づくり-6:の補足・・・・神輿のような建屋

2010-01-25 12:30:06 | 再検:日本の建物づくり
先回末尾で紹介した青森県・七戸で見かけた牛飼いの農家の写真を追加します。
今回の写真は、上から順に、建屋の東側の牛舎から南へとまわり、西側の面までの写真です。
長押のような材は、外付け引戸(雨戸も含む)のための「一筋」鴨居かもしれませんが、それにしては丈が大きい・・・?

1980年代の写真ですから、この建物は、今はもうないかもしれません。

      
   
よく見ると、この建物は、元の場所で、土台下に飼いものをして、建物ごと「かさ上げ」したようにも思えます。

考えてみれば、祭の「神輿」は、いわば小さな建屋を担いでいるわけです(何トンというような大きいものもあるようですが・・・・・)。
建屋は「地面の上に置いてあるものだ」「持ち運びできるものだ」「そういうようにつくるものだ」・・・・という「認識」は、
(近・現代以前の)日本人にとってはごく普通だったのかもしれません。

   神輿はひっくり返って地面に落ちても全壊した、という話は聞いたことがないように思います。
   耐震性抜群なつくり!?
   神輿が現在推奨されるつくりだったら、どうなるでしょう?

「建物」を担ぐ、などという形の祭は、日本以外にもあるのでしょうか?
少なくとも、石造の地域では、建物を担ぐなどという発想は生まれないように思えますが・・・・。
どなたかご存知でしたらご教示ください。
コメント (4)
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再検・日本の建物づくり-6:「掘立ての時代」がなかったならば・・・・

2010-01-23 21:00:15 | 再検:日本の建物づくり
[図版更改 24日 8.14][説明追加 24日 8.22][文言追加 24日10.16][註記追加 24日10.30]

建物を掘立てでつくる時代は、縄文期から古墳時代、ときには奈良・平安まで*、それ以降の現在に至るまでの期間よりも遥かに長い、気の遠くなるような長さなのですが、実は、この長い時間こそ、その後の日本の建物づくりに大きな影響を与えたいわば「建物づくりの技術の揺籃期」と言えるのではないでしょうか。
   * 江戸時代、あるいは明治になっても、場所によっては掘立ての建屋はありました。

先回、現代の開発により、縄文期をはじめとする多くの遺構が発見されたことに触れました。そして、現在のように開発や工事の際に、「遺構調査」の「義務」がなかった頃には、おそらく、多くの遺構が消失してしまったのではないかと思います。

私が非常に興味を覚えるのは、「開発」で破壊されたにせよ、「健在のまま眠っていた」遺構が、かなりの数発見される、という「事実」です。

きわめて長い間には、各種の天変地異に遭遇したはずなのに、「健在のまま眠っていた」ということは、天変地異に遭遇しても健在であり得る場所にあった、ということにほかならないからです。

つまり、最近よく耳にしまた目にする「地震による土砂崩落や地盤破壊」などは、それこそ太古以来数限りなく起きていたはずなのに、そういう事変で、被害を大きく被った痕跡のある遺構の事例がないらしいからです(浅間山噴火で埋まった江戸時代の鬼押出しのような例も多々あり、私が寡聞にして知らないだけかもしれません。ご存知の方がありましたらご教示ください)。

もちろん、はるか太古には、天変地異で消え失せた集落もあったであろうことは想像に難くありません。しかし、少なくとも、時代が経てば、そういう例が少なくなり、ついにはなくなったのではないか、と私は思います。
長い時間の間に、居を構えるに相応しい場所を見きわめる「知」が備わり、今とは違い、その「知」は時代を超えて引継がれていたはずだからです。

下の地図は、1978年(昭和53年)に刊行された「茨城県遺跡地図」(茨城県教育委員会 編)からの転載です。
場所は、霞ヶ浦に飛び出している半島状の「出島」と呼ばれる一帯です*。赤丸印は貝塚です。
   * 私はこの半島で暮しています。


貝塚がある場所には、近接して住居があります。
多くの場合、住居址は開拓などによって消えてはいますが、土器片などを今でも容易に見つけることができます。
私の暮すところの隣りの畑では、耕されるたびに、また、雨が降った後などに、かならず土器片が見つかります。貝殻も尽きることなく出てきます。その量から、時間の長さが分ります。

すべてを見て歩いたわけではありませんが、この出島で住居が構えられていたと考えられる場所は、まず全てが、安定した地盤で水捌けもよく、良好な井戸水が得られ日当たりもよく、今でも住居を構えるに適した安心して暮せる場所です。そのように感じられない場所には、住居の痕跡もない。これは筑波山麓の集落散在の理由と同じです(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5参照)。

つまり、現代のような「どこでも構わない」「どこでも住んでしまう」ということはない。現代の居住地は、「現代の技術」がそれを可能にしたのであり、縄文・弥生期にはそういう技術がなかったからだ、とも考えられるかもしれません。
けれども、「現代の技術」でつくられた居住地は、多くの場合、天変地異には敵いません。神戸の惨状がそれを物語っています。被害の大きかった地区が限られていることに注意する必要があります。

日本だけではなく、世界各地域での地震による被災状況を見ても、「かつては建てることのなかった場所」に建てた建物の被災が相対的に大きいことが分っています。
煉瓦造や日干し煉瓦造の建物でも*、古い建物、つまり「建てるとき場所を選んだ時代の建物」には被災例が少ないことは、周知の事実です。
   * 煉瓦造、日干し煉瓦造を、頭から、地震に弱いつくり、と考えるのは間違いです。
     地震多発の地域で、煉瓦、日干し煉瓦でしか建物をつくれない地域があるのです。
     そういう場所では、当然ですが、つくりかたを工夫します。
     木造の日本だって同じこと。工夫しなくなったのは「現代」になってから。

これは、遥か昔の人びとには「場所を選ぶ目」があったということ、そして、「知識量」の増えた現代人は、それに反比例して、「場所を選ぶ目」が失せてしまった、あるいは、「場所を選ぶ目」を働かせなくなった、いうことにほかならないのです。
現代人は「現代の技術」を過信しているのかもしれません。しかし、あたりまえですが、「古の技術」の方が、根本・基本を押さえているだけ(「現実」に根ざしているだけ)、現代のそれよりも「現実」に即している、と言ってよいでしょう。

もう一つ、むしろこちらの方が重大なのかもしれません。
すなわち、「場所を選ぶ目」を持っていても、それを自由に行使できない人びとが増えた、という事実です。
簡単に言えば、貧困による格差です。先に高地の斜面に暮すボリビアの例を出しました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/129999f445a867ee7ca2254e041fc62c参照)。
何も好んで人びとはそこに暮すわけではないのです。
「格差」は、人びとから、「場所を選ぶ目」の行使を奪ってしまうのです。

最近のハイチの地震、ドミニカとの境界にあたる山地の写真をナショナルジェオグラフィックで見ました。



写真の左半分がハイチです。森林を伐採し燃料にする、伐採した木を売って生活の資にする・・・・。その結果、山地は丸裸になり、余震で土砂崩れが予想されるとのこと。そして、ハイチでも、かつては人が住まなかった急な斜面に多くの住まいがあったようです。



木材で建物をつくる地域では、日本もそうですが、とてつもなく長い間、「掘立て」で建物をつくってきました。
そして日本の場合は、地震は最近になって急に増えたわけではありませんから、とてつもなく遠い昔から、頻繁に地震に遭ってきたでしょう。

「掘立て」の場合、建物が、地面の動きとともに動きます。
しかも、地震による動きは突然、急激に襲いますから、いわゆる「慣性」の力も働きます。
簡単に言えば、建屋の足元は地面とともに動き、建屋の上の方は、それまでの位置を保とうとしますから、その二つが重なって、激しい動きに見舞われます。

おそらく、はじめのころは、地震で壊れてしまう建屋が多くあったでしょう。
いつまでもそれで満足する筈はありませんから、工夫が重ねられます。
おそらく、ある時期以降は、地震に遭っても簡単には壊れない掘立ての建物がつくられるようになった、と考えるのが普通ではないでしょうか。
  それとも、壊れたらすぐにつくり直す・・・・を繰り返していたのでしょうか。
  それはあり得ないように思います。

特に、掘立て柱に横材(梁・桁)を取付け床を張り屋根を架ける「高床式」の建物の場合は、地震の影響をまともに受けたと思われます。
高床式の建屋は、多くの場合、貯蔵庫に使われたようですから、その被災の影響は計り知れません。
そこでなされた工夫は、二つあったように思えます。

一つは、掘立て柱への横材の取付け方を丈夫にする工夫。
地面より上になる部分が強固な立体に組まれれば(立体形状が維持されれば)、地面に埋められている柱脚部は、相手がコンクリートのような固体ではなく土という一定程度弾力のある可塑性に富む物質であるため、地震で生じた動きに応じて移動することができるのではないでしょうか。言うなれば、土という海の中で動くわけです。ただし、その前提は、地盤がよい土地であること。
吉野ヶ里遺構での貫を使った高床建物の復元は、この方式のように思われます。

もう一つは、掘立て柱部と、上部架構とを分離する「正倉院」や「綱封蔵」のような方法(下図)。
すなわち、上部架構は掘立て柱部の動きにそのまま追随して動かない。上部架構の柱の根枘の部分で、下部の動きは、中継の際に減殺されるのです(梁行の台輪、桁行の台輪、そして柱と、接合部が三段あります)。[説明追加 24日 8.22]

高床式の復元にあたっては、「正倉院」や「綱封蔵」を参考にしたようですが、むしろ、「正倉院」や「綱封蔵」は、礎石上に建てるようになっただけで、掘立て柱時代の方法を継承したのではないか、と考えられます。



一方、竪穴住居の方は、意外と地震の被害は少なかったかもしれません。なぜなら重心が低く、慣性の影響が少ないからです。竪穴住居の場合は、むしろ、差し掛けられた垂木の地面際での腐朽の方の影響が大きかったように思われます。垂木は細い丸太だからです。以下に復元竪穴住居の例を再掲します。



垂木の足元が腐朽すると、少しの風でも屋根は崩れ始めるでしょう。そうならないためには、垂木の頂部、つまり棟のあたりの取付けが決め手になります。たとえば、上の図のような場合なら、垂木の頂部がしっかりと結わえられていたり、あるいは棟木に留められていれば、垂木の根元が腐っても、屋根は原型を保つはずです。
下の写真は、長野県塩尻郊外にある縄文~古墳期の遺跡:平出(ひらいで)遺跡のなかの古墳時代の大型竪穴住居の復元です。



垂木は地面を離れています。おそらく、そのように推定される形跡があったものと思われます。
垂木を地面から浮かすことができる、という判断が、幾多の経験からできるようになった、と考えてよいでしょう。

しかし、屋根が地面から離れると、新たな問題が生じたはずです。竪穴の中に立てられていた掘立て柱の腐朽が早まるからです(屋根が全面を覆っていたときは、雨水の影響は、一定程度避けられました)。
もしも、基幹部を形づくる掘立ての柱脚が腐るとどうなるか。
おそらく、直ぐに全体が壊れることはありません。
しかし、風が吹いたり地震に遭うと、基幹部は形を保てずに変形しはじめます。そのとき、その変形の進行をとめる工夫が編み出されるはずです。
柱脚部相互を、柱間を保てるように、新たな木材で繋げばよいのです*。言うなれば、「足固め」の原型です。
  * 明治の学者なら、斜材:筋かいを入れたでしょう。
    しかし、古代の人びとは、柱の足元が掘立てのときと同じ位置にあればよい、と考えたのです。
                                        [文言追加 24日10.16]
 
そして、その方策があたりまえになれば、「土座」から「床座」への移行はもう目の前です。
おそらくそのような経緯のなかから、地上に出ている部分を立体的に固めると、簡単には壊れないことを学んだはずです。それは、高床式の建物がたどった道筋と変りはありません。

こうなれば、つまり、地上の部分の組立が肝心だということが分れば、掘立てをやめて、地上の石の上に建てるまでにはもう直ぐのはずです。
しかし、それまでに目を見張るような長い時間を要したのです。
けれどもそれは、決して無駄な時間ではなかったのです。
なぜなら、石の上に建物を建てるのがあたりまえになったとき、きわめてスムーズにことが運んでいるのは、それまでの「蓄積」があったからにほかならないからです。
その「蓄積」は、人びとの間で、継承されてきた「知恵」なのです。

たまたま昔撮った写真をひっくり返していたとき、地上に載る部分が固まっていれば問題がない、ということを如実に示している写真を見つけました。
四半世紀ほど前に、青森県七戸(しちのへ)町から八甲田へ向う途中で見かけた牛飼いの農家です。[図版更改]



写真のように、この家屋は、実に簡単に石の上に載っています。心なしか、弓なりに反っているようにも見えます。もしかしたら、家の中を歩くと、ぐらぐら揺れるかもしれません。
そして、もしも引張れば、あるいは押せば、おそらく石の上を滑ってゆくのではないでしょうか。
この建物は、端無くも、掘立ての時代を経て行き着いた「日本という環境下での建物づくりの極意」を示している、私にはそのように思えました。

   註 [註記追加 24日10.30]
      青森・七戸は旧「南部」藩に属します(太平洋側になります)が雪は降ります。
      また、三陸沖、あるいは十勝沖震源の地震もたびたびあります。
      この建物は、「土台」を使っています。また、内法上の「貫」も繁く入っています。
      大戸位置の土台は、後から切ったように見えます。
      なお、雪は、多くて1mくらい積もります。

      興味深いのは、建物外側の内法位置に「長押」様の材が一周していることです。
      しかも、通常の「付長押」のような寸法ではありません。
      「差鴨居」があるようには見えませんので、この材は、立派な構造材なのかもしれません。
      「うまや」(今は牛舎)の大戸は、この「長押」を使った引戸のようです。

      これを見ていると、別の所から曳家してきたのかも、などとも思いたくなります。
      しかし、所在地は、たしか上り坂の街道筋だった・・・・。


ところで、今、私たちは、なにがしかの「知恵」を先代から継承しているでしょうか、そして後世に継承するなにものかを持っているでしょうか。
むしろ、継承することを、わざわざ拒否しているのではないでしょうか。しかも、「科学」の名の下で・・・・。


以上は、まったくの私の想像です。
けれども、この想像は、実証する術がありません。ただ、そういう場面・状況に置かれたとき、人はどうするだろうか、と想像するだけなのです。

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気になった言葉・・・・「奴顔」

2010-01-20 18:13:29 | 論評

       上の写真は、本題とは無関係。お喋り中のスズメたち。

「リベラル21」というブログhttp://lib21.blog96.fc2.com/にときどき寄る。

1月19日に、坂井定雄氏(龍谷大学名誉教授)によって、雑誌「世界」09年11月号に寺島実郎氏が寄稿した論文が紹介されていた。
これからの日米関係についての論文であるが、その冒頭の次の一節が私には強烈であった。

『中国の作家魯迅は、20世紀の中国について、植民地状況に慣れ切った中国人の顔が「奴顔」になっていると嘆いた。
「奴顔」とは虐げられることに慣れて強いものに媚びて生きようとする人間の表情のことである。
自分の置かれた状況を自分の頭で考える力を失い、運命を自分で決めることをしないうつろな表情、それが奴顔である。』

論文は、以下のように続く。

『普天間問題をめぐる2009年秋からの報道に関し、実感したのはメディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」であった。日米の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰には驚くしかない』
『この間まで「インド洋への給油活動こそ日米同盟の証であり、これがなくなれが日米同盟は破綻する」と言っていた人たちは、今度は「普天間問題で日米合意をそのまま実行しなければ、日米同盟は亀裂する」と主張しはじめた。また在ワシントンの日本のメディアにも「良好な日米関係破綻の危機迫る」との発信しかできない特派員が少なくない。』・・・・

論文の表題は『常識に還る意思と構想―日米同盟の再構築に向けて』

「常識」で考えれば、寺島氏の説かれることが「あたりまえ」、まったく同感である。某新聞の、「駐日米大使が顔を真っ赤にして怒った」という《想像・創造記事》は有名だ。


しかし、「奴顔」は何も日米関係の問題だけではなく、昨今の日本の各界に共通する現象ではないだろうか。

世に蔓延するのは
◇「長い物には巻かれろ」という「処し方」
◇「前例」に唯々諾々として従う「処し方」
◇当面、コトを難なく処理するのがカチという「知的怠惰」
◇すべからく外からの「指示」「指導」「指針」の提示を待ち
 「自分の置かれた状況を自分の頭で考える力を失い、自分で決めたがらない」思考(?)
◇「数字」へ縋ればよいとする「数字こそすべて信仰」。
・・・・・・・・・・・・ 

コメント (3)
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再検・日本の建物づくり-5:遺構、遺跡、遺物

2010-01-18 18:17:00 | 再検:日本の建物づくり
[註記追加 19日18.57]

  またまた長くなります。恐縮です。

日本建築史の教科書:「日本建築史図集」は、縄文~古墳時代の住居跡と復元家屋の図から始まります。
そして、そこでは、この図集の中では唯一と言ってよいのですが、集落遺構の全体図が載っています。

日本の建築紹介の図書では、建築物単体だけを紹介するのが普通で、どういうところに建っているのか、まわりはどうなっているのか・・・・などは、別途調べないと分らないのが普通です。
おそらくこれは、建築関係者の「意識」「思想」の「程度」を端無くも示していると言えるでしょう。

その点、この図集の縄文~古墳時代の住居の項は、少なくとも、個々の住居跡を載せるだけではなく集落図を載せている点、稀有の例なのです。

  いつか紹介させていただくつもりなのですが、
  フランス各地に残る歴史的農家住居を、地域ごとに収集した全20巻を越える全集があります。
  さすが百科全書のお国柄、その編集は実に見事です。
  図版でいうと、各地域ごとに、地域全図があり、日本で言えば「郡」レベルの地図があり、
  次いで「町村」レベルの図があり、その中の掲載する住居周辺図があり、屋敷図があり、
  そしてやっと、その住居の図面が出てくるのです。
  それゆえ、その住居を観ることを通じて、その地域、地区についてはもちろん、
  ある程度は暮しぶりまで分ってくるのです。
  日本のいわゆる「民家」関係の図書で、このような編集をした例は見たことがありません。
  「修理工事報告書」の類でも滅多にありません。

「日本建築史図集」で紹介されている縄文時代の住居址は、千葉県船橋市の「高根木戸(たかねきど)」遺跡です(常磐線松戸から総武線津田沼を結ぶ新京成線に「高根木戸」という駅があります)。
集落図とそのなかの一住居・51号住居跡(集落図で色塗りした住居跡)が次の写真と図。



しかし、解説には、「船橋市習志野台(ならしのだい)の舌状台地にあり、・・・・」とだけ書かれていて、どのような場所なのかは判然としません。
たしか、1960年代の初め、当時の日本住宅公団によって一帯の開発が行なわれ、それにともない発見された遺跡ではないでしょうか(近くに、1961年:昭和36年にできた高根台団地があります)。

そこで、船橋市の資料館などのHPで調べたところ、標高が25m程度の台地の縁で、現在は小学校が建てられているらしい。
つまり、調査の後、遺跡自体は埋められてしまったようです。記録と発掘物だけが残っているだけ。

地図を見ても、一帯は開発住宅地で埋め尽くされ、遺跡の存在も地形もまったく想像できません。
下は、高根木戸遺跡のあった場所の現在の様子を示す航空写真です。
  なお、今回使っているのは、goo の地図検索で得られる航空写真です。



これでは舌状台地もなにも、まったく分りません。
ただ、図上、曲がりくねっている線は、この住居・集落の成り立ちとも関係あるはずの、小河川です。これだけは、遥か昔から変っていない、というより、変えられなかったのです(もっとも、小河川とは名のみ、単なる排水路になっているのではないでしょうか)。

この地域を、さらに上空から眺めると、ようやくその一帯の様子を知ることのできるようになります。大きな地形が見えてくるからです。それが下の写真。赤のマークが遺跡のあたり。



つまり、高根木戸住居址は、東京湾に向って下る小河川の残した台地にあったらしいことがわかります。
縄文期は海進の時代。察するに、私の今居る霞ヶ浦に飛び出した出島に似た状況、海がもっと近かったと思われます。そこで水辺のものの採集で暮していた。
近くには貝塚も多くあり、その一つにつくられた「飛の台史跡公園博物館」に発掘物は移管、保存されているようです。

住居址の背後の高台に小学校が建てられ、他の場所も整地され住宅地になってしまいましたから、遺構・遺跡のあったことなど、皆目分らないでしょう。
皆そんなことも知らずに暮しているのでは・・・・。
だから、普通はたいてい復元される竪穴住居なども、現地にはないようです。

次に「日本建築史図集」で紹介されているのは、下の図。
第二次大戦の敗戦も近い昭和18年(1943年)頃見つかり、戦後の世の中を賑わした弥生期の農耕を営んだ人たちの住居・集落址「静岡・登呂(とろ)遺跡」です。水田跡が見つかっています。



これは安倍川に近い微高地そばを流れる小河川の縁にあります。
下は、その一帯の航空写真です。
ここはかなりの部分が保存され、近くの「記念館」に遺物などが保管されています。



「日本建築史図集」には、もう一つ、住居址が紹介されています。東京・八王子にある「中田遺跡」で、縄文期から奈良・平安頃までの住居跡があり、特に古墳時代の遺構が多いとのことです。



この遺跡は、都営団地を建てるにあたって発見され、ここでは、遺跡の一部が公園としてあるようです。
航空写真で見ると、おおよそどんなところだったか分ります。
画面を左上から斜めに流れる川は、多摩川の支流「淺川」、赤マークの上を横切っている線は「中央道」です。



戦後の「開発」によって、各地で遺跡が見つかっています。
青森の「三内丸山」や佐賀の「吉野ヶ里」などもそうだったと思います。
信州では、「中央道」の工事にともなって多数の縄文期の住居址が見つかっています。

縄文期は、今よりも暖かでした。
「中央道」の工事以前から有名な「水煙渦巻文土器」の見つかった「井戸尻遺跡」は標高約1000mの富士見町にあります(井戸尻とは、湧き水のある場所のことを言います)*。
「井戸尻遺跡」は、縄文期にすでに農耕が行なわれていた、とする「縄文農耕説」発祥の遺跡。農耕用と思われる「器具」が見つかっているからです。
   * 井戸尻遺跡、水煙渦巻文土器は、下記井戸尻考古館のHP参照
     http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html

以上、縄文、弥生、古墳期の住居址の立地を見ても、これまでの「再検」で触れてきた「住まいの立地の必要条件、十分条件」を見て取れる、つまり再確認できるのではないか、と思います。
日本という環境で暮してゆく条件は、時代によって変ることはないのです。


これらの遺跡のうち、「登呂」では、遺構を基に、家屋の復元(復原とも書きます)が行なわれています。
おそらく、ここで行なわれた復元が、以後各地で見られるようになった「復元」のモデルになったのではないかと思います。
  なお、登呂遺跡では、昭和18年(1943年)の第1次調査の際、多数の木の株も発見され、
  周辺に森林のあったことが確認されていて、スギ16本、シラカシ4本、イヌガヤ3本、ナツグミ2本、
  エノキ、クスノキ、タラノキ、マユミ、イヌマキ、ネムノキ、各1本の立ち株が残っていたといいます。
  (この項、登呂記念館の資料から)
  現在の農村と変らない、森林を背負った集落の姿を髣髴とさせます。


建物の「復元」にあたっては、遺構の様子と、類似例を参考に「想像」され、「創造」されるのが普通です。
しかし、掘立てのころの建物は、残っていても建物の柱の地面に埋まっていた部分だけ、上の部分はまったく分りません。

下は、登呂遺跡で復元されて「竪穴住居」の外観とその架構、および参考とされた山陰地方に伝わる「砂鉄精錬小屋」の架構図です。
「砂鉄精錬小屋」は「高殿(たたら)」と呼ばれ、山陰地方の製鉄業で代々引継がれていた建屋で、何の部材などの遺物のない竪穴住居の復元は、この「高殿」を模したものになったのです。



登呂遺跡では、倉庫に使われたと考えられる高床の建物も復元されています。



この復元にあたって参考になったのは、古代の寺院でつくられた高床の蔵・倉:東大寺の正倉院や法隆寺・綱封蔵など:だったと思われます。
下は法隆寺・綱封蔵ですが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7ecf40c1b2f5bb15a592dd5cfa3c3279参照)、ここでは先ず床面までを礎石建てでつくり、その上に本体を設けています。正倉院も、そこまでは同じです。
復元建物は、壁を正倉院の方式:校倉のようなつくりですが(私には、校倉までやったとは思えませんが)、床面までは綱封蔵と同じでしょう。
大きく違うのは、柱が掘立てか、礎石建てか、だけで、つくりかたの基本は同じです。
  もっとも、吉野ヶ里の復元は、これとは異なるようで、むしろ、後の中世のつくりに似ています。
  その方があたっているかも知れません。

                       


さて、このような遺跡・遺構を見てみると、それらの「処遇」が大きく二つに分れていることが分ります。
一つは、発掘調査を行って記録をつくり、遺物は資料館などで保管し、現地は埋めてしまう、多くの場合は、新たな「開発」が加えられ、遺構そのものは消失してしまう場合。「高根木戸遺跡」はこれにあたります。
一つは、遺跡を一部だけ残し、そこを「公園」や「観光」施設とする場合。
公園にした例が「中田遺跡」、観光的施設を兼ねた(歴史)公園の例が「登呂遺跡」です。後に各地に生まれる「風土記の丘」公園などの源流と言えるでしょう。

しかし、
なぜ遺跡・遺構あるいは遺物を保存するのでしょうか。
なぜ、古い時代に建てられた建物を保存するのでしょうか。
なぜ、昔のおもむきを残す街並みを保存するのでしょうか。

私の観るかぎり、これらの保存は、単に「歴史的に価値がある」あるいは「資料としてかけがえのない」・・・・という点が理由になっているように思えます。
では、何をもって「価値がある」「かけがえのない」と判断するのでしょうか。

私には、このような視点による保存は、それら遺構・遺跡・遺物を「今の世界の対岸に置いて眺めている」だけのように思えてなりません。
それらと私たちの間には、何の関係もない、そんな風に見えるからです。そしてだから、これらは「観光資源」としてしか扱われないのではないでしょうか。

それでは「もったいない」と思うのは、私だけなのでしょうか。
それらの遺跡・遺構・遺物を観ることを通じて、その背後にある人びとの考え方をこそ思い遣るべきなのではないか、と私は思います。つまり、これらは私たちの対岸にあるものではない、そう思うのです。それとも、現代人は、これらの時代の人びととはまったく違うのだ、とでも思っているのでしょうか。

遺跡・遺構・遺物は、歴史学、考古学という学門のためにだけあるのではなく、もちろん、歴史趣味、好古趣味のためのものでもありません。
「今」にとって意味のないものならば、人は「歴史」「HISTORY」なるものを生みださなかったでしょう。「歴史」は、「今」の「指標」になる、だからこそ存在したはずなのです。

前には触れませんでしたが、東京が野放図に広がってしまった理由の一つに、都市計画や建築に係わる人たちの「脱歴史」「歴史無視」思想が挙げられると私は思っています。今回見た「高根木戸」も同じです。
そうでなかったならば、もう少し節度ある「開発」になったはずです。
「脱歴史」「歴史無視」思想は、人の「節度」を亡くしてしまうのです。「必要条件」だけで、ものごとを考えてしまうようになるのです。
そして、今盛んな「耐震診断」「耐震補強」も、「必要条件」だけでものごとを考えてしまう一つの例と言えるでしょう。
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休憩:椎名家 再訪

2010-01-17 21:36:58 | 日本の建築技術
風もなく穏やかですが寒い一日。
図版づくりを休憩して、晴れ上がった空の下、「椎名家」へ行ってきました。
久しぶりです。

直線距離ではすぐそこなのですが、いつも道に迷います。同じような林と畑が続き、目印もなく、道は地物にしたがって曲がりくねり、頼りは陽射しだけ。
多分あっちの方向、とばかりに細い道に入ったら、進む以外ないほど狭くなり、こんなところで道を踏み外して畑に落ちてたまるかと思いながら、生垣をこすりつつ、やっと広い道に出て、予想をはるかに上回る時間を要して到着。

大変静かな佇まい。ほっとします。
部分的に茅の葺き代えを行なっている様子です。写真の右側(東側)。
管理は大変です。
屋根の右上の電柱のようなポールは、避雷針。建物の裏側に建物とは別に立っています。近くに防火用の地下水槽もあります。

重要文化財。部材に1674年の墨書が見付かり、東日本では、現存最古の住居遺構です。近くには、土壕や土塁が残っているそうです。

現在の椎名さんのお宅は、この建物の奥にあります。



記帳の様子では、最近、以前よりも訪れる方が増えたようです。
よく晴れていたため、室内も思った以上に明るい。



いつ見ても、この架構は素晴らしい。簡にして要を得たつくり。

所在:茨城県かすみがうら市加茂4148。土浦からは比較的分りやすい場所です。

本題の方は、もう少しの準備が要りそうです。

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休憩:図版の準備中

2010-01-14 10:42:55 | 日本の建築技術

雨がやみ、強風が吹いて、今日は快晴、穏やか。
冷え込みは強く、おそらく今冬一番。厚さ2cm位の氷。



餌台にいつものように喋りながら集まるスズメ。
近くの藪のなかが棲家のようだ。

昨日の強風の中でも、一昨日の雨の中でも、同じ時間に集まる。
いくつかの群れがあるらしく、入れ代り立ち代り、餌台は混雑。

今、二回目の集合時間か、お喋りがガラス越しに聞こえている。

ときおり、ヒヨドリも訪れる。
例年なら、スズメは追い払われるのだが、今年はスズメの方が強い。
スズメの群れが大きいかららしい。
************************************************************************************
ただいま図版の準備中。思ったものがない・・・・・・。

コメント (2)
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お知らせ:水戸の講習会「日本の建物づくりに学ぶ」の件

2010-01-10 23:14:04 | その他
標記の茨城県建築士事務所協会主催「建築設計講座」

  次 回 1月16日(土)1.30~4.30PM
  場 所 茨城県開発公社ビル3階
  受講料 一般4,000円、会員3,000円
  会場にはまだ余裕があります。
  事務所協会 029-305-7771までお問合せください。

先回は、県外の方がかなりお見えになりました。
聴いてくださる方のご意向が何となく分りましたので、
今回は、浄土寺浄土堂、古井家、箱木家の架構を観ることを通じて、
日本の木造軸組工法について考えることにしています。
A4判両面で30頁ほどの資料(図面等)の準備はほぼ終了。
古井家の架構模型(1/30)も製作中ですが、間に合うかナ?という段階です。

    
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再検・日本の建物づくり-4:四里四方

2010-01-08 17:04:33 | 再検:日本の建物づくり
[文言追加 9日 11.52 17.34]

毎日新聞の元日・茨城版に、調理士養成専門学校の方の興味ある談話が載っていました。
  ・・・・・・古くから4里の中で取れたものを食べて生活すると、おのずと体は丈夫になるという
  『四里四方』という言い伝えがあります。この中を走り回って材料を確保するから『ご馳走』と書く。
  まさに『地産地消』の原点です。
  全国各地においしい名産品がありますが、私は現地に行って食べればいいと思っています。
  その土地の気候風土で食べるからこそおいしい。

  日本の食料自給率の低さが問題視され、その観点から地産地消が推奨されています。
  しかし、どうもこの発想は逆のように思えてなりません。
  確かに自給率が高いにこしたことはありませんが、先ずは地元の旬の食材を良く知ること。
  それは結果的に生産者と我々の生活を守ることにもつながる。
  おのずと自給率は上がってくることでしょう。
                    (中川学園調理技術専門学校 真嶋伸二 実習部長 談)

私もまったく同感です。

建築の世界でも、林業の再生の為に、国産材を使って家を建てよう、国産材をたくさん使おう・・・・などと、「国」を挙げて叫ばれています。
「木を活かす・・・・協議会」などというのは、それに乗って一旗挙げようという「民間?」の動きにほかなりません。
これも順番が逆です。
木材を使わなくなった、国産材を使わなくなったのは何故なのか、それについて考える事が先ず先決だと私は思います。

  そして、これも「国」をあげて、日本の本来の木造の建物* をつくるにあたり、
  大きな制約・障害になっている建築関係の法規制を、
  「簡単に」 に適用できるようにする、との名目で諸種の実験等が行われているのも、そのためなのです。
    * いわゆる「伝統工法」です。
  けれども、これも順番が逆、本末転倒の論理。

  「日本の本来の木造の建物づくりを衰退させた」法規制そのものを検討し直すのが先なのです。
  既存の諸種の法規制の中味ををそのままにしておいて、それを「保存・温存するため」に、
  いろいろな「策」を講じる。
  いま行なわれている「振動台実験」の目的も、その「策」のためのもの。

  そもそも「日本の本来の木造の建物づくり」には「存在しなかった《理屈》」を、
  「日本の本来の木造の建物づくり」に「適用」しようというのが、論理的に無理無体。
  だから、「本来の木造の建物に《似たような》試験体」をつくるなど、実験に苦労しているのです。
  これではますます辻褄のあわない「規制・制約」が増えるだけです。
  これを世間では、普通、「姑息」と言います。
  掛け違ったボタンは、早いうちに掛け直すのが普通の常識ある行動です。

もしも日本が、中近東や中国西域のような乾燥地帯* だったなら、人は建物を何を使ってつくったでしょうか。
   * 最初から乾燥地帯であったわけではないようです。
     あえて言えば、乾燥地帯に簡単になってしまう、そういう気候の地帯。
     ギリシャも、元は森林国だったと言います。だから、木造に倣った石造建築が生まれた・・・
     と言われています。たしかに、石を使うつくり方には思えません。

     
      柱を先ず立て、柱と柱の間に、横材:梁を載せる。
      横材を受けるため、柱よりひとまわり大きい「座」を設ける。
      「座」:「柱頭、キャピタル」は、
      木造の「斗」あるいは「肘木」と同じ理屈。

当然ですが、日本が乾燥地帯だったら、そのときは、先回紹介の中国西域や中近東あるいはアフリカ、南米などの乾燥地帯のように、「土」を使って建物をつくったでしょう。そして、まわりの土が、扱いにくい砂のような土だったならば、砂の元の「石」を使ったかもしれません。

だから、日本の建物づくりで「木」が使われたのは、「暖かな、人に優しい」材料だからではなく、「手近に木がたくさんあった」からに過ぎないのです。
もちろん、まわりには「土」も「石」もありました。
しかし、主材料としては、「木」の方が数等扱いやすかったからなのです。
  これはいつの時代も、いつの日も同じだった筈です。
  それがなぜ(近)現代になっておかしくなった、あたりまえにつくれなくなったのか。
  そこに問題の根源があります。

  いま木造振興を唱える人たちの《祖》が、ほんの少し前(1970年代)まで、木造からの脱却を
  叫んでいたことを、多くの人が知りません。下記の冒頭の引用文参照。
  これを説いて、20年も経つと宗旨替えをする節操のなさ。[文言追加 9日 11.52 17.34]
  「20年前に考えていたこと・・・・なにか変ったか」 

ところで、今でも、木材は木曽のヒノキ、吉野か秋田のスギ、何はどこそこの・・・・といった具合に、「有名な」材料を集めてつくるのがいい建物づくりだ、と思われているフシがあります。
しかし、これが普通の建物づくりだった、と考えるのは大きな間違いです。
こんな風なつくりが流行るようになったのは、幕末、明治初期からのようです。
武士の力が衰え、商家の力が増大すると、その中の一部の人たちに、そういう「流行」が生まれるのです*。
   * 不思議に思うのは、近江商人の町では、それを見かけないことです。

普通の建物づくり、住まいづくりは、食べ物と同じく「四里四方」の材料でつくるのがあたりまえだったのです。
それは別に「地産地消」を考えたからではありません。
もちろん、林業の振興のためでもありません。
それはまったく、中国西域の人びとが、足元の土で住まいをつくるのと同じ、足元の、手近なところにある木を使ってつくったからに過ぎないのです。

もう一つ大事なことは、その際、必要以上の量の材料、必要以上に大きな、太い材料は使わない、という点です。
必要とする大きさの空間を確保できるに足る木材であればよいからです。
  これは、土でつくる場合も同じです。
  土の場合、必要以上の土を使うのは、労力の点でも無駄だからです。

考えてみればあたりまえです。この「判断」こそ、きわめて「合理的」と言うべきではないでしょうか。
  その判断の「根拠」、今の言い方で言えば「基準」は、実際にものをつくる経験で培われたものです。
  現場でものをつくる人びとは、「経験」から「理屈」を会得するのです。
  実は、これこそが science の「原点・出発点」なのですが、現在の「科学」では、
  多くの場合、この「原点・出発点」を忘れた「机上の空論」が蔓延っているのです。
  建築という「ものづくり」にかかわる「科学」で特に著しいのは不可解です。

古代、多くの寺院は、奈良盆地近在の木材を使ってつくられました。以後、多くの寺院の材料も同様です。
その結果、平安時代末期(鎌倉時代初頭)、東大寺再建の際には、奈良近在ではすでに必要な木材はなくなっていて、遠く周防:山口まで材料を集めに行ったという記録が残っています(下記に載せた東大寺建立~再建の年表に、重源が木材を求め周防に赴いた記録があります)。
   「日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震」
   

ただしそれは、寺院に使う大径木の話、一般庶民の材料は、まだ十分近在で得られたはずです。

  奈良・今井町は難波に注ぐ大和川の近くにありますが、そこに材木商が店を構えています。
  今井町・豊田家の前の持ち主の牧村家は材木商でした。
  材木の取引がそこで行なわれたわけではなく、いわば本店業務、
  実際の木材はさかのぼった上流の山地にあったようです。
  そこで扱われたのは、おそらく、一般の建物用だったと考えられます。
  今でも、今井町より上流にあたる桜井のあたりには多数の木材市場があります。

大分前に紹介した長野県塩尻にある「島崎家」* の材料について、「島崎家住宅修理工事報告書」には詳しく調べて報告されています。
   *「日本の建築技術の展開-27」
    「日本の建築技術の展開-27の補足」
    

下の航空写真は、「島崎家」のある塩尻周辺の航空写真です。
写真で分るように、塩尻は、標高約750m、日本列島の分水嶺になっているところです。
塩尻地内を流れる河川は日本海へ注ぎますが、少し南で峠を越えると、太平洋へ注ぐ天竜川(諏訪湖から始まる)、木曽川があり、いずれも古代以来の街道が通っています。それゆえ、塩尻は、古代以来の交通の要衝でした。 



以前の記事内容と一部重複しますが、「島崎家住宅修理工事報告書」によりますと、柱には、居室部にはカラマツ、サワラ、一部にケヤキ、馬屋まわりにはクリが使われていて、この他6本のサワラの「転用材」が当初から使われています。いずれも130mm(4寸3分)角に整えられています。

「転用材」は、次のように他の部材にも使われていました。
  大  引:マツ丸太、マツ平角の小屋梁の古材
  根  太:サワラ心持材の棟木、母屋の古材を二つ割して使用
  小屋梁:マツ、サワラ、クリ、カシの小屋梁の古材
  小屋束:サワラの柱古材(正面の妻壁はカラマツの新材)の切断使用
  小屋貫:サワラの貫の古材(正面はカラマツの新材)、材寸4寸×1寸
  棟木・母屋:約3割がサワラの母屋・棟木古材

建替えにあたって、元の建物の材料を転用することはありますが、島崎家の場合は島崎家の前身建物の材ではなく、その形状、加工法、材種などから、これらの転用材は、島崎家と同規模の切妻板葺きの「本棟造」形式の1軒の建物に使われていた材料であろう、と推定されています。
  なお、この旧建物は、母屋を柱が直接支える「棟持柱形式」* のつくりで、
  妻梁はなく、横の繋ぎはすべて貫で、島崎家をはじめとする本棟造とは異なる姿をしていたようです。
   * 棟持形式については、下記で触れています。
    「続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家」」
    

当時、塩尻近在では「家売」「くね木売」がかなり行なわれていたという記録が残っており、古材の転用は、ごく普通に行なわれていたようです。

「家売」とは、農村の年貢収納などによる困窮で手放したもので、ほとんどは「くずし売」、つまり解体して「木材」として売却することを言うようです。
なかには8間×8間、6.5間×7間など、形から「本棟造」と思われる建屋の「家売」も見られます。
多分、島崎家に使われている古材は、こういう「家売」で手に入れたものでしょう。

「くね木」とは、垣根や屋敷内の樹木のことで、ケヤキやサワラが多く、元々、建築用材としてその家が育てていた樹木と考えられます。これらの樹木も、売りに出されていたのです。
「板屋、くずし売、6.5間×6.5間、くね木87本」などという記録もあります。
  私の子どものころの住まいの近在の農家は、皆屋敷内にケヤキやスギ、ヒノキを持っていました。
  現在暮している集落の農家でも、大きなケヤキやヒノキ、スギが屋敷内にあります。
  木小屋に各種の木材を保管しているお宅もあります。修理、改築、新築のための用意です。

これらのことは、かつては、まさに「四里四方」で手に入れられる材料によって建物をつくるのがあたりまえであった、ということを示していると言ってよいでしょう。
塩尻の「四里四方」は、写真のように、森林です。サワラやカラマツは、天然ものが、地場の木としてたくさんあったのでしょう。
  修理時には、カラマツの天然心持材は入手困難で、ネズコに代えたという。
   ネズコ:黒檜(クロベ)、木曽五木の一。堅牢、耐朽性大。
  すでに、天然カラマツは使い切っていた、ということだと思います。  

各地に、多くの住居の遺構があります。それらは、東大寺再建のように、遠くまで材料を集めにゆくなどということはあり得ず、その建物をつくった頃、手近で得られる材料でつくられたはずです。
そこから逆に、その使用材種を調べると、建設当時の建設地周辺の植生が分るのではないかと思います。
その点から考えると、住居遺構は、できるなら現地で保存するのが最良なのです。
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再検・日本の建物づくり-3:日本は独特な環境である

2010-01-05 21:05:52 | 再検:日本の建物づくり
   機械の故障で、掲載が遅れました。
   そのためとは無関係に、少し長い文になりますが、ご容赦のほど。

先の2回で書いたことをまとめると、日本の場合、当初山裾の湧水点近くに居を求めた人びとは、「必要条件」の獲得技術:井戸の掘削技術などの利水技術(ダムや水道も含まれます):の進展をともないながら、徐々に平地へと進出するようになります。

  実際、関東平野の場合、今でこそ東京が「中心」:最も発達・発展しているように見えますが、
  そうなったのは、歴史で言えば、つい最近、徳川の世になってからのこと。
  関東平野に人びとが住み着いたのは、平野を形づくり囲んでいる山なみの山麓、
  水に恵まれ、自然の可耕地も広がる一帯。
  とりわけ、平野北部の上州:群馬県の南部、利根川上流左岸のあたりです。

  上州の南部一帯は、何もしないでも使える水が豊富でしたから(「大泉」「小泉」などの地名があるとおりです)、
  人が早く住み着き、その人びとの中から、後の「東国の武士」の祖になる豪族が生まれます。
  一帯が古墳だらけであること、時の政府が、官道・東山道をこの一帯へ通したのも、この一帯の繁栄を
  物語っています。
  なお、徳川も、元をただせばこの地の出です。

  現代の感覚では、「利水」のためには先ず「治水」、と考えたくなりますが、最初人びとはまったく逆、
  「利水」:目の前にある使える水を利用すること:から始めたのです。
  高崎あたりの標高は80~90m、そのあたりから始まった開拓ですから、その後の開拓で、
  埼玉南部あたりで、すでに0mに達してしまい
  その水処理の対策として、各種の土木技術が発展する* という皮肉なことも起こります。
     * 川が川を越える、などという場所もあります。

   註 関東平野の開拓については、下記で触れています。 
       「関東平野開拓の歴史-1」
       「関東平野開拓の歴史-2」

普段気がつきませんが、日本は、「必要条件を整える「術」を用意することがきわめて容易な地域なのです。
その証拠が、「必要条件」を整え、隈なく家々で埋め尽くすことを実現してしまった東京にほかなりません。
「必要条件」が簡単に整えられるため、「都市計画」も簡単に変更可能、その上、「必要条件確保の容易さ」に寄りかかり、「十分条件」について思い遣ることを忘れてしまった結果が東京の姿なのです。
こういうことは、他の地域では、普通に見られることではなく、日本という特別な地理的環境ゆえの姿だと言ってよいと思います。


一度だけ、中国西域・敦煌を訪ねたことがあります(四半世紀以上前のことです)。
西安から蘭州そして敦煌への鉄道沿線で見た風景は、まことに強烈な印象でした。
山脈が延々と続くにもかかわらず、その山肌は赤茶色、日本なら人が住み着くはずの山麓にはまったく人家の影が見えないのです。




 敦煌周辺地図 「基本地図帳」帝国書院 刊より

この乾燥度の高い地域一帯では、人は、日本とはまったく逆に、一帯のなかで標高が最低の地に住み着いています。
天の授かりものとしての「人が暮すための必要条件」は、彼の地では、そこに於いてはじめて確保できる、そこでなければ、水が簡単には得られないのです。
山に雨季に降る雨雪は、地中に深く浸みこみ、やっと最低地点で地表近くに顔をだす、それがいわゆる「オアシス」です。
仏像群で有名な敦煌もその一つでしたが、今は砂漠が近くまで押し寄せています。
日本で言えば盆地の底にあたりますから、昼間は暑く、夜は冷えます。日本で人びとが最初に選ぶ土地ではありません。

このオアシス以外の場所の「必要条件」の整備は、並大抵のことではありません。
先に紹介した茨城・小貝川周辺を開拓した伊奈備前守忠次をもってしても、その何倍もの知恵と労力を必要とするはずです。
なぜなら、拠り所となる水源、河川は遥か彼方。
仮に水路を設けたとしても、大部分の水は、目的地にたどりつく前に大地に吸い込まれてしまう。西域には、海に注ぐ河川はありません。
水路を水を吸わない材料でつくるか、吸い込まれてもなお流れるだけの大量の水を流すか、蒸発しない地下水路をつくり汲み上げるか・・・・。

  最近のTVで、南米ボリビア、アンデス山脈の標高4150mにある人口89万の街エルアルトが紹介されていました。
  エルアルトだけで、そこから500~600mほど下にある(標高3650m)ボリビアの首都ラパスの人口を越えてしまった
  といいます。

   
    ボリビア・ラパス周辺 「基本地図帳」帝国書院 刊より

  当然、乾燥地帯。まわりは赤茶けた斜面。この地では農業はできません。
  昼夜の気温差は30度を越えるそうです。昼間20度、夜-10度。
  しかし、ますます人口が増える傾向にあるといいます。
  ここは緑の溢れる眼下の街ラパス周辺に土地を求め得ない庶民が集まって暮す「下町」なのです。
  農業を生業とする人びとは、農業可能なもう少し下で農業を営み、作物をエルアルトやラパスで商う。
  商いを生業とする人たちも、この街を拠点にして暮す。
  普通の都市では、「下町」は「山の手」より低地にできる。だから「下町」。
  これが逆になっているのです。

  なぜこのような高地に「下町」ができたのか。可能にしたものは何か。
  それは、その町のある斜面は、標高6000m近い万年雪をいただく山の中腹。その万年雪が水道の水源。
  近代的道具:重機と近代的材料:コンクリートがその水を使う水道の設置を可能にしたからなのです。
  つまり、最近になって可能になった・・・・。

  むしろ、このような高地に「下町」をつくらざるを得ない社会構造の方が問題になりそうです。
  人が暮しやすい標高の低く、緑溢れる地域は、かつて侵出した西欧の人びとによって占められているらしい。
  エルアルトに暮す人びとは、先住民(この言葉は嫌な言葉です。むしろ「本住民」と言うべきでしょう)、
  モンゴル系の顔立ちの方々でした。


中国西域では、このような様態にはなりません。というより、なれません。
近くに、商うにも大都市はないからです。
そこで、西域で行なわれているのは、荒蕪地の農地化です。
これも、遥か遠くの黄河から近代的技術:コンクリートによる水路建設が可能にしたのです。

以下は、敦煌鎮、つまり敦煌村で行なわれていた開拓地の写真。
開拓は、道路に沿って運河を築き、そこから網の目のように、灌漑用の水路を敷設することから始まります。


  これは開拓中の場所 一旦土を掘り起こして放置すると、土中の塩分が滲出してきて、
  先ずそれを取り除くようです。白く見えるのが塩分(いわゆる「にがり」)。
  この塩分の濃い土を固めたのが、このあたりの「舗装」道路。日本の土間の「たたき」の理屈。

開拓が進んだところは下の写真のようになります。


  開拓が進んでかなり時間の経ったところ。左の写真はキビの畑。
  右の写真の樹木が生えているのは、水が近くまできているから。
  左の写真の遠くに見える並木のあたりにも灌漑水路がある。
  
中国西域とボリビア・エルアルトに共通するのは、建物が「日乾し煉瓦:アドベ」でつくられることです(中国の場合には版築もありますが、エルアルトでは見かけないようです)。

   * 「日乾し煉瓦:アドベ」は、足元の土を掘って材料にします。
     そのため、住まいが増えてくると、あたりは穴だらけになります。
     そこで、西域では、焼成煉瓦用の窯があちらこちらに築かれていました。
     燃料となる石炭を鉄道で運んで来れるようになったからです。
     それ以前には、焼成するにも燃料がなかったのです。
     一説によると、例の「兵馬俑」を焼成するために、周辺の樹林が丸裸になった、
     と言われています。多分、間違いないでしょう。


このような環境の建物づくりを観ると、建物づくりとその材料の関係が、実に明快に分ります。
近ごろ日本で言われる「木は暖かく人に優しいから木でつくる」などというのは、まさに戯言に聞こえてきます。

下は、開拓地につくられたお宅です。私の「住居観」をいわば決定的にした住居です(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b)。
このお宅の概略の平面は、上記の記事で紹介しましたが、再び載せます。

基幹の水路から、細い灌漑用水路が引かれ、その際に構えています。


  幹線道路からわき道に入り近付くと、木が茂り、畑が耕され、そして家の門が見える。
  門は頑丈な板戸で閉ざされていた。


  扉を開けてもらって入ると、塀で囲まれた光輝く空間が広がる。
  左は、門から見たところ。右は、振り返って門を見る。
  「房」(居室)前には枝や草を積んだパーゴラがある。枝や草は、乾かして燃料にする。

「房」に入れていただいた。


  主たる「房」。 寝室にもなるようだ。一段高いところ(45cmほど)も土でつくってある。電気は細々と来ている。
  屋根は木造。四周の壁の上に架ける。樹種は楊樹。
  上は粗朶(小枝)などを敷詰め、土塗り。
  
通訳の方に頼んで、「飛び込み」で見せていただいたのだけれども、よいつくりのお宅でした。

楊樹は非常に撓みやすい木のため、写真でも分るように、アーチ状に曲げることができます。
楊樹の特徴をよく示している例を、西安* の近くの工事中の建物の小屋組で見ました。


  左は建屋の基幹になる日干し煉瓦による壁の構築中。
  右2枚は小屋組の様子。

この施工中の建物の小屋を見たとき、咄嗟に、奈良時代の寺院で、当初、垂木を円形断面に加工した理由が分った気がしたことを覚えています。
彼の地では、垂木に丸太を使っていたのです。

ことによると、日本に来た大陸の工人には、垂木とは円形のもの、あるいは丸太を使うもの、という「観念」が深く染み付いていたのかもしれません。
そして、それに対して、日本の工人は、わざわざ角材から先端だけ円形に加工した垂木をつくっています。
そのとき、日本の工人は、寺院の垂木は、円形断面でなければならないのだ、と思ってしまったのかもしれません。

この小屋に粗朶(そだ)などの小舞を掻き、土を塗り、瓦を敷き並べると、当然ながら、壁から壁に渡した棟木は撓んできます。そして垂木も撓みます。
すでに人の住んでいるまわりの家屋の棟や屋根面が反っているのは(左端の写真)、言うなれば「自然現象」なのであり、ことによると、中国の建物の屋根の反りの曲線の「原理」は、意外とこんなところにあるのかもしれない、とも思ったことを覚えています。

   * 西安は、敦煌より数百km東に位置しますから、乾燥度はかなり落ちます。
     それでも、日本とは比べものにならないほど雨量は少ない。
     だから、日乾し煉瓦で建てることができるのです。
     しかし、敦煌よりは雨が降りますから、屋根を土塗りで仕上げるわけにはゆかず、
     勾配をつけた瓦葺きになります。
     壁も日乾し煉瓦の上に漆喰を塗る例も少しありました。雨による剥落防止です。
     更に東に、つまり大陸を海側に近付くと、日乾し煉瓦を漆喰仕上げたり、瓦を張る例も増え、
     終には、日干し煉瓦ではなく、焼成煉瓦の使用が増えてきます。

     中国大陸の東から西へ、材料とつくり方の違いが、きわめて図式的に観られたのは、驚異的でした。
     日本では、はっきりと見えないのです。


さて、このような西域の例を少しばかり紹介したのは、
日本独特の「暮しやすい環境」にどっぷりとつかっているためか、
日本では、住まうことの「必要条件」「十分条件」についての「認識」なしに「事」が運ばれている、
しかもますますその傾向が強くなっている、と思ったからなのです。

これについても、折に触れて書いてきたつもりではありますが、この際、正面から書いてみようという気になったのです。
その一つの契機は、日本の建築を貶める昨今の動きにあります。
どういうわけか、最近になって、支離滅裂に、しゃにむに、貶める作業が行なわれています。

日本というのは、そんなに無思想の人間ばかりだったのでしょうか?

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

以下に、正月特別付録?!として、もしかしたら、日本に暮す人たちの自らの足元を見直す刺激剤になるかもしれないと思い、西域の建物づくりのいくつかの写真を紹介します。


  左は、乾燥中の日乾し煉瓦。数日も経たず、できあがります。
  右は、建物づくりの現場。足元の土を練り、この場合は版築による「囲い」づくり。
  水を入れてある「フネ」は、もしかしたら古墳の「石棺」かも・・・・。

日本ではとかく忘れられがちな、「住まい」とは、先ず外界に対して「囲い」をつくること、という「事実」をよく物語っています。
同様な例をもう一つ。


  2枚とも、一族が大勢集まって「住まい」をつくっている現場です。
  すでに、「住まい」の大枠:「囲い」の「塀」が仕上がり、「門扉」が入っています。これが彼らの「上棟」なのです。
  大部分は、手仕事です。

最後は、かつて日本の政治家が、《まだ地面に掘った穴で暮している》と言ったので有名な、大地を穿って「住まい」をつくる例です。


  左は、崖状の場所で横穴:「房」を掘る例。
  右の2枚は、大地そのものを掘り込んでできる「崖」に「房」を掘る例。
  穴の大きさは15m四方程度が多い。
  いずれも、仕事は大半が手作業です!
  「房」の上を畑にしている例もありました。
  温度が一定で、とても暮しやすいそうです。土蔵造と同じ。
  いずれも西安の近く、秦の始皇帝の陵墓の近くの山腹にあります。
  残念ながら、中には入れませんでした。

  とにかくまわりは土また土。どこが元の地面なのか分りません。
  それほど激しく大地は「加工」されているのです。

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

大変長くなってしまいましたが、ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
コメント (1)
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工事中のお知らせ

2010-01-04 23:17:14 | その他
ただいま工事中です。
新年早々、5年目のスキャナーが故障し、準備が遅れています。
明日いっぱいで編集工事が終りそうですので、
6日頃に復旧する予定です。

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謹賀新年

2010-01-01 08:28:43 | 居住環境
今年もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

この写真は、畑の中のお稲荷さん。鳥居の高さは人の背丈ほど。
自由奔放に枝を張った大きな木。シイの木か。
脇の葉を落とした木は、葉が大きな独特な形。名前が分らない。

ここは、ことによると、中~近世の古い墳墓かもしれない。だから、開拓されずに残されている。
このあたりには、このような風景があちらこちらで見られる。

この杜のすぐ裏手は、国道354号の旧道。


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