建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか-2・・・・「専門」とは何?

2006-10-31 00:12:17 | 専門家のありよう
 先に(10月16日)、世界で最初にI型の鋼材を考案・使用したのは、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットと言われていることを、その設計した7階建ての工場の図面とともに紹介した。
 この工場の建設・設計を依頼されたころのワットは、肖像彫刻をつくる機械(a machine for making portrait statuary)の考案に熱中していたと言う(S・ギーディオン「空間・時間・建築」による)。あのマイヤールもまた、建築も土木も関係なく仕事をした。
 「いったい彼らは何が専門なのだ」と今の人なら思うかもしれない。しかし、あの時代、engineerとはこういうもの、それがあたりまえだった。むしろ、今の方がおかしいのだ。
 なにも、イギリス、ヨーロッパだけの話ではない。日本でも同じだった。
 江戸時代初期、小貝川流域の新田開発(旧谷和原村、旧伊奈町一帯)や、水戸の備前堀開削を差配した伊奈備前守は、測量、新田計画、土木工事、営農指導、経費の算段・・・およそ新田開発において必要なことを何でもやった。こういう人は各地にたくさんいて(甲州の信玄堤などもその成果)、「地方巧者(ぢかたこうじゃ)」と呼ばれていた。二宮尊徳もその一人。
 江戸中期の平賀源内は、国学、蘭学、本草学・・に精通し、摩擦起電機をつくり、戯作をつくるなど、今流に言えば、理科から文科まで何でもやっている。
 江戸後期の田中久重(からくり儀右衛門)。九州・久留米生まれの彼は、からくり、万年時計(万年自鳴鐘)、蒸気機関・蒸気船、銃砲・・・なんでもつくった。彼のつくった電信機製作の田中製作所が今の東京芝浦電気:東芝。

 決してこれは特殊な人物だけがやったことではない。
 かつては、「何かをする人」なら皆(農業であれ、商業であれ、工業:ものをつくること:であれ・・)、その「何か」にかかわることなら、多かれ少なかれ、何についてでも関心をもち、知り、学ぶのがあたりまえだった。
 たとえば、近世初頭までに、すでに、建築を含め各種の工作技術は多様な展開・進展を見せているが、これは決して指導者・学者がいて先導・指導したものではなく、また、時の政府が法律などで差配・誘導したものでもない。
 その成果は、すべて、「何かをする人」たち自身の日常的な営みの継続の結果であった、と言って過言ではない。

 人びとのこのようなあたりまえの営みを、「萬屋(よろずや)主義」として排斥につとめた人物がいる。福沢諭吉である。
 福沢は、一般に、日本の「近代」創生の重要人物として賞賛されるが、同時に「現代の停滞」の因をつくった人物でもある、と私は思う。
 彼は著書「学問のすすめ」で、西欧の文物に学ぶために、「一科一学」を説いた。江戸時代までのような「萬屋主義」では、西欧文物の会得には時間がかかる、手分けして学べ、というのである。「科」の字は、「分ける」「分類」の意。植物の○○科、学校の「教科」の「科」である。
 実は、この「一科一学」が「科学」なる語の語源というのが目下のところ有力な説。「科学」を字義どおりに解釈すると「分けて学ぶ」になる。そして、今一般に、「科学」とは、「専門に学ぶこと」として理解されている。
 しかし「科学」の語の当てられた“science”の語には、「分けて学ぶ」などという意味はまったくない。その原義は「ものごとのすじみち:理:を究めること」という意(「英英辞典」を参照されたい)。だから、scienceの訳語には「究理」が適切だ、と言った物理学者がいる。

 以来、近代日本は、行方を誤った、と言えるかもしれない。なぜなら、まわりの見えない、まわりを見ない、まわりを見たがらない《専門家》だらけになってしまっている。それでいて、その《専門》をもって、一般の人びとを指導したがり、時の政府もそれに従う。《専門家》も政府も、人びとそれぞれが、自らの意思で自由に考えることを嫌うようになった。

 本来、本当の専門家であればあるほど、その専門にかかわることについては、それがいわゆる《文科系》のことであれ《理科系》のことであれ、知ろうとし、学ぼうとするのがあたりまえ。残念ながら、そうでないのが今の《専門家》。むしろ、好んでそうすることを拒否しているように見える。
 《建築の専門家》もまったく同じ。あるいは一番ひどい内に入るかもしれない。何故か。

 英語の疑問詞には、who,what,when,where,why,howそしてwhichがある。私が中学のころ、前者の「5w1h」で物事を考えよ、と教えられた。これは正しい。ある事象を考えるときに、とても大事なことであるし、そうすることで事象が分かるようになる。これはこれまでの経験で実感できる。
 ところが、今の《建築の専門家》は、whichの問についてのみ答が出る。ことによると、○×式の教育の《成果》なのかもしれない。何択かの問題が出されれば答えるが、自ら問題をつくらない、考えない。たとえば、法律でAと規定されれば、Aを選んでよしとする。それにあわせようと《努力》する。批判精神などどこにもない。過日「その1」で書いた「耐震スリット」について、疑問を呈した《建築の専門家》はいるのだろうか。
 これでいいのか、《建築の専門家》諸氏!
 ほんとに理科系ならば、理詰めで考えて欲しい。 

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丸山変電所・・・・近代初頭のレンガ造+鉄骨トラス小屋

2006-10-28 12:07:46 | 煉瓦造建築

信越線の碓氷峠越えが廃線になってすでに久しい。横川駅から少し峠寄りの右手にレンガ造の建物が二棟ある(かつては信越線からよく見えた)。旧「丸山変電所」である。
現在は重要文化財に指定され修復されているが、今から15・6年ほど前は、廃屋同然で、屋内まで草がはびこっていた。

明治政府の東京と関西を結ぶ鉄道敷設計画は、当初、江戸時代の主要街道であった「中山道(なかせんどう)」をなぞるものだった。
しかし、当時、鉄道で碓氷峠を越えることは技術的に至難の業。そのため、中山道線の計画はとりやめになり、東京と直江津を結ぶ現在の信越線に変更される。

1885年(明治18年)高崎・横川間、1888年(明治21年)に軽井沢・直江津間が先に完成。横川・軽井沢間がアプト式を採用して開通するのは少し遅れて1893年(明治26年)のこと。普通のレールの間に歯型のついた第三のレールを敷き、機関車側の歯車をそれに噛ませて登坂する方式がアプト式。

当初、機関車は蒸気機関車。上り坂でしかも多数のトンネルがある。そのため機関士が煙にまかれる事故が多発したという。
その解決として、当区間の電化が計画され、1911年(明治44年)、横川の町はずれに火力発電所が、峠の東西の線路沿いに直流に変換する変電所がつくられた。東側のそれが「丸山変電所」である。

上掲の写真は、1990年に訪れた時の「丸山変電所」の様子(重文指定前)。機械類は撤去されて何もない。
重厚で、使われている材料それぞれの役割がきわめて明快に読み取れ、《つくりもの》《張りもの》《見せかけ》が一切ない見事な建物。仕事も細部に至るまで手抜きがない。

石積みの基礎にレンガの壁を設け、壁の頭に鉄骨のトラス梁を架けた平屋建て。鉄骨梁の受け部分には石材の座が置かれている。外壁のトラス梁の架かる位置には、レンガ1枚分のバットレス:控壁として、柱型が設けられている。
鉄骨トラスの形状も軽快で緊張感があり、無駄がなく、仕事も丁寧。
窓は一棟はスティールサッシ、もう一棟は木製。

なお、この変電所ならびに横川・軽井沢間のトンネル(26箇所)、橋脚(18箇所)に使われたレンガは、1888年(明治21年)にレンガの大量生産が開始された埼玉・深谷の「日本煉瓦製造会社」のホフマン窯製。現在は使われていないが、この窯も重要文化財に指定されている(日本煉瓦製造会社は、最近、レンガ製造から撤退したらしい)。
日本のレンガ造についても、いずれ書きたい。

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梁型のない鉄筋コンクリート造・・・・竹園東小学校の二階床

2006-10-26 18:58:56 | RC造

 学校の建物は、教室が南面して横並びになるのが常。建物をRCにする場合、教室の南面をできるだけ広く、すっきりした開口にする方策で頭を悩ます。柱間を広くすると梁が天井面から下りてくる、柱を中間に立てると、普通は、太い柱の見付が邪魔になる・・・。

 旧桜村立(現つくば市立)竹園東小学校は、研究学園都市の開発に際し最初につくられた学校(1974年8月竣工)。

 つくば一帯は、一見地盤が良いように見えるが、実は極めて悪い。場所によると江東区並み、2~3m掘れば水が出る(しかし飲み水には不適、だから、この地には集落も栄えず、畑地も少なく、赤松林が広がっていた)。
 つくばのビルで地下室を設ける例が少ないのはそのため。

 竹園東小の設計では、基礎工事の比率を少なくするため、なるべく重量を軽くすること、そして、教室南面をすっきりさせたい、という観点から、二階建て部分では、図のような工法を採用した。屋根は、平屋部分、体育館も軽量化のために鋼管トラス、鉄板瓦棒葺き。
 16.2m間隔で厚300㎜の壁を立て、二階の床は、壁~壁に厚380㎜のスラブを架け渡す。途中5.4mごとに見付け300mm×見込み640㎜の柱を立て支える。スラブは応力に応じて不要な分をえぐりとる。したがって、いわゆる「梁型」はなく、型枠工事が格段に簡単になる。スラブ見上げ図(部分)、配筋図参照。
 コンクリートは天井以外は打放し。
 2階の梁は、柱幅と同じで、主体は扁平断面で、集雨溝を設けたU字型全体を梁と見なす。
 
 折しもオイルショックで工費は高騰。仕上げはかなり落とさざるを得なかった。その後の改造で、竣工当初とは大分変っている。

 体育館の屋根には、教室と同じ鋼管トラスを並べ、それを補強して、全体を立体トラス化し屋根を支えた(写真参照)。後、天井高が低いということで、集成材の山型梁に架け替えられてしまい、今はない。

 おそらく、通常の感覚では、このつくりは、壁は薄く、梁もなく・・、長手方向に壁がまったくないため、耐震補強が必要と見られるかもしれない。しかし、私の勘では不要だろう。
 ただ、実際にどんな《耐震診断》が下されているかは、寡聞にして知らない。

 今の「耐震補強の奨め」は、ことによると、かえって建物を危険にしてしまうような例が多いように思える。
 「耐震」ということについては、別の機会で書く予定。

 写真、平面図は、「建築文化」1976年6月号
 スラブ詳細は、「ディテール」105号 からの転載です。

  
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建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか-1・・・・耐震スリット

2006-10-23 20:30:31 | 専門家のありよう
 構造計算偽装問題[はなやか]なりし頃、私の世代では聞きなれない「耐震スリット」なる言葉がTVで語られていた(あるいは私の勉強不足?)。いわく「耐震スリットを設けていないから設計ミスだ・・・」云々。
 どうやら鉄筋コンクリート造(以下RCと書く)の建物で、「構造耐力を持たせるRCの部分」と「耐力を持たないRCの部分」とが接する場合、両者の間にスリットを設ける、ということで、多くの建築関係者が、[律儀に]これを守っているらしい。

 建築の仕事は、昔から(少なくとも第二次大戦後このかた)、「理科系」と言われ、そのためには、数学と理科ができることが必要、とされてきた。そして、ある頃からは、度が過ぎて、理数系だけを必死に勉強し、他の分野について学ぶことをおろそかにする傾向が生じている。特に、今30代から40代の方々に、その傾向が顕著のように私には思える。

 さて、理科系が得意なはずの人たちが、なぜ先の《耐震スリットの必要性の理屈》を[律儀に]守ってしまうのか。
 ほんとに理科系が得意なら、《耐震スリットの理屈》に疑問を呈して当然ではないだろうか。

 《耐震スリットの理屈》には、大きく二つの疑問がある。
 その一。構造物を、「外力に応じる部分」と「外力に応じない部分(言い方を変えれば《お荷物》になる部分)」とに分けるのは、ご都合主義も度が過ぎる。それとも、外力は、人が[勝手に決めた]通りに働いてくれるのか?
 これは、木造建物の《耐力壁》:筋かいなど:を設けるという[考え方]に共通する。

 その二。構造物をつくるときに、なぜ、わざわざ《お荷物》にしかならない箇所:dead lordにしかならない部分:をつくるのか。
 構造物をつくるとき、特にRCのような重い材料を使うとき、つくられるすべての部分:形が、できるだけ外力に対して有効に働くように考えるのが『常識』ではないか。
 昨日「マイヤールの仕事」を紹介したのは、彼が、本当の意味で「理科系」の人物であったこと、ものごとを理詰めで考える人だったこと、を知って欲しかったからでもある。彼のRC造には、無駄がない。すべての部分が意味がある。しかも美しい。

 『理』とは「すじみち」のこと、「ものごとをすじみちを通して考えること」が「理科」であり「科学」のはずだ。それは決して、数学や物理の問題が解ける、計算がうまくできる、ということではない。単に計算ができても、それは「理科」「科学」を習得できていることではない。
 残念ながら、最近のいわゆる「理科系の人」は、計算はできても「理詰めで考える」のが不得手のようだ。
 「木造住宅耐震診断士」という「資格」がある。先日、その資格を得た幾人かと話をする機会があった。当然「木造」を理解しているものと思った。しかし違った。理解しているのは、木造建築にかかわる法律だった。「木造に関する法律の理解≠木造の理解」なのは自明ではないか。《法律の規定を充たせば耐震建物になる》と、ほんとに思っているのだろうか。恐ろしい話だ。
 私には、「理科系の人」ほど、理科系ではないように見える。

 なぜこんな事態になってしまったのか?
 それは、次の機会に。 
 
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コンクリートは流体である・・・・無梁版構造の意味

2006-10-22 19:52:45 | RC造

上段右の写真は「無梁版(むりょうばん)、別名マッシュルーム」構造。
これは、スイスの技師ロベルト・マイヤールが1910年に設計したチューリッヒの倉庫。
「無梁版構造」では、1938~39年のF・L ライトのジョンソンワックスビルが有名だが、この倉庫はヨーロッパで最初の「無梁版構造」だという。

学生のとき、この構造については、近代建築史の講義できいたが、そのときは「コンクリート構造の一工法」という程度の理解にすぎなかった。
実際に鉄筋コンクリートの建物を設計し、現場に出て、理解が一変する。

鉄筋コンクリートの柱・梁の納まりは、上段左の図のようにするものだ、と思っていた。またそうも教わった。現に、建築教育用教科書「構造用教材」(日本建築学会編)の最近の版でも、こういう納まりで図解されている。そして、そのような納まりの設計をした。

現場では、この納まり部分の製作で型枠大工が難儀をしていた。なぜこんな面倒なことをするのだ?
また、この納まりが、構造上重要なこの部分に、「ジャンカ」を発生させやすいことも、打設に立ち会って、よく分かった。なのに、なぜこうするのだ?

マイヤールの鉄筋コンクリート工法の師匠は、フランス人アンネビックだが、彼のコンクリートの建物は、木造に似て梁を柱で支える方法だったという。
最初の鋳鉄製のアーチ橋Severn橋をつくるとき、石のアーチが手本になったように、技術の進展においては常に起こる現象である(もっとも、コンクリートでわざわざ木造の形体をつくることに専念した「香川県庁舎」のような例もあるが・・)。
 
マイヤールはそういう過程を経て、打設時には流体であるコンクリートに適切な工法に思い至る。
それは、鋳鉄の鋳型が鋳鉄が隅々まで流れ込みやすいようになっているのと同様、コンクリートが流れやすい形体とすることであった。
そう理解すると「無梁版構造」の意味がよく分かる。コンクリートならではの工法であり、形体なのだ。

彼は、その後、多くの橋梁設計でめざましい活躍をする。
下段の写真は、1936~37年にスイス、ジュネーヴ近郊につくられたアルヴ橋とその橋脚の配筋図。おそらく、細く絞ったところで動きを吸収しようという考えではないかと思うが、構造の専門家のご意見をおききしたい。

この時代には、すでに構造力学は体系化している。彼は構造力学を、「自らの感性で想定した形体の確認のため」に活用したのである。マイヤールは、見事な橋をこのほかにも多数設計している。

以後、私は、鉄筋コンクリートの建物の設計では、たとえば、柱と梁の幅は同じにし、上段左のような納まりは一切使わなくなった。機会を見て、紹介したい。

今回の写真は、S.Giedion“Space Time and Architecture”Fifth Editionより
 

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浄土寺・浄土堂・・・・架構と空間の見事な一致

2006-10-20 12:09:56 | 建物づくり一般

筑波一小体育館の説明で、「浄土寺・浄土堂や東大寺・南大門で、垂木の先端に『鼻隠し』を取付けた理由に思い至った・・」と書いた。東大寺・南大門はよく知られているが、浄土寺・浄土堂は、場所がら訪れる人が少ない。

浄土寺・浄土堂(極楽山浄土寺)は、兵庫県小野市の郊外、平安時代、東大寺領の荘園があった場所に、東大寺の鎌倉復興を指図した重源により、念仏道場として1192年に建てられた(南大門は1199年)。山陽本線加古川から、加古川線に乗って約30分「小野市」駅下車。そこからタクシーで15分ほど(バスもあるが、本数が少ない)。行くとなると一日仕事。

建物の外観は、写真のように、軒に反りもなく、実に素っ気ない。
しかし、内部はちがう。一歩中に入ると、快慶作の阿弥陀三尊像を、見事と言うしかない荘厳な空間が包んでいる。
それは、何の化粧材も使わず、架構そのもの、部材そのものだけがつくりだす過不足のない空間。一言で言えば、所要の空間と架構の一致。
そのすごさ、見事さは、写真では伝わらない。写真にならない。いろいろ探したが、上の写真は、それを比較的よく伝えていると思われる1枚。

なお、三尊像の制作は同時。像を据えつつ建物を建てたようだ。像と空間に、まったく違和感がない(東大寺三月堂は、仏像が借り物、美術館の展示みたい。像と空間に違和感がある。本来の像がなくなったためらしい)。

この架構の卓越さは、登ってゆく梁、それに掛かる母屋、そして垂木の取合いにある。登ってゆく梁は、中途が途切れている。「遊離尾垂木(ゆうりおだるき)」と呼ばれる。
二つの「遊離尾垂木」は、断面図、そして左側のモノクロ写真で分かるように、母屋を介して載る垂木でつながるだけ。垂木が載るまでは、不安定。
しかし、これがかえって大断面の材の狂いを相殺・吸収する効果があると思われる(平安も末になると、古代のように素性のよい材は得にくくなっていた)。

さらに、垂木の先端は「鼻隠し」が取付く。その取付けは、左から2枚目の写真のように、数本おきに、垂木を鼻隠し板に「ほぞ差し」で納め、ほぞのない箇所でも鼻隠しに垂木型を彫り、はめ込んでいる。先端は、完全に動きが止まる。

これは、木材の特性にさからわない優れた技術。それは、内部の柱の底面に彫られた十文字の溝にもうかがえる(右側の写真)。この溝は、底面の湿気を予防するための通気口・溝なのだ。
柱は、平均直径約2尺、上へ行くほど細く仕上げている。

柱は礎石(自然石を上面だけ平らに斫ってある)にダボもなく据えてあるだけ。もちろん、緊結などしていない。架構が差口などで一体に組まれているため、礎石に据え置くだけで、何ら問題がないのである。

19世紀末、西欧では、いわゆる近代建築運動が盛んになっていたが、その主張は、たとえば、「建物は、求められる目的に十分合致し、適切な材料を使った合理的な構造で、自然に成立する形体でなければならない」というものだった。
そうであるならば、浄土寺・浄土堂は、そして東大寺・南大門も、《近代建築》の理想そのものを、すでに12世紀末に実現していた、と言えるのかもしれない。

図      :『国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書』(極楽山浄土寺 刊)
カラー写真 :『日本の美術№189 鎌倉建築』(至文堂 刊)
モノクロ写真:『国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書』(極楽山浄土寺 刊)
から転載・編集させていただきました。 
 
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桔橋(はねばし)にならった木造小屋組・・・・・筑波一小の体育館

2006-10-18 13:06:11 | 設計法

 筑波第一小学校の体育館建設用地は、急斜面で転石だらけだった。そこで、基礎工事が簡便で済む木造とすることになった。通常ならトラスを使って容易に屋根を架けることができる。しかし、用地が傾斜地のため高さ制限(13m以下)により、室内の高さが足りなくなる。
 そこで採用したのが、先日紹介した「猿橋」や「愛本橋」で使われていた工法だった。これなら、高さを十分確保できる。

 図の左側は当初案。一段目の「桔木」は10.0×5.0寸の材を@93.0寸で据え、5.0角の「枕」を@60.0寸で掛け、その上に二段目の「桔木」8.0×5.0寸@93.0寸を架ける。同様に5.0寸角の「枕」を掛け三段目に5.0寸角を架ける。三段目の「桔木」~「桔木」間に、5.0×2.5寸の垂木を三段目の「桔木」と天端そろいで@15.5寸で掛ける。
 この組み方でつくった模型が左側の写真。
 
 これに対して、施工を担当した棟梁の提案で実施したのが右側の図。
 それは、直交する「枕」を設けず、合成した「梁:桔木」を@31.0寸で掛け並べる方法。梁相互は、厚1.3寸の斜め張りの野地板で固めるだけ。
 出来上がった室内の姿が右の写真。1987年の竣工。

 1年後、軒先に「雪止め」を付けることになった。「雪止め」は、保全のことを考え、対候性鋼で設計(丈250のC型鋼を平板で垂木に取付け)。
 
 取付けのために現地を訪れると、軒先が予想以上の激しい不陸。
 不陸は「桔木」ごとに違い、規則性はなく、荷重ではなく、大断面の「桔木」それぞれの狂いにより生じたものと思われた。
 可能なかぎり強制的に正し、ようやっとのことで取付け。
 今はC型鋼の「雪止め」で隠れているが、目線を軒先にもってゆくと、まだ相当の狂いがあることが分かる。
 しかし、剛性の強いC型鋼で軒先が固定されたため、その後、18年経った今も、それ以上の変形は免れている。怪我の功名とでも言うべきか。

 そして、この経験ではじめて、かつての工人たちが、「登り梁:桔木」を「枕」を介して重ねていった理由、また、浄土寺・浄土堂や東大寺・南大門で、垂木の先端に「鼻隠し」を取付けた理由、に思い至った次第である。
 おそらく、「桔木」一本ごとに異なる捩れや狂いは「枕」との接点で相殺・吸収され、そして「鼻隠し」が「桔木」の先端の動きを止めるからだと考えられる。

 写真・図は「建築文化」1987年5月号、「住宅建築」1987年7月号からの転載です。

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鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・・世界最初のⅠ型梁

2006-10-16 23:49:23 | 鉄鋼造

S・ギーディオン著、大田実訳「空間・時間・建築」上下2巻(丸善刊)は、1950~60年代の学生には、近代建築、現代建築の誕生を知るための必携・必読の書であった。そうではあったが、学生の頃は、少なくとも私には、まだその内容の意味がよく理解できなかった。分かりだしたのは、実際の仕事をしだしてかなり経ってからである。
そして、最近の建物を見るにつけ、あらためて新しい材料が使われだした近代以降の建築の歴史・過程を見直す必要があるのではないか、と思い、ときどきひもといている。このままでは、建物をつくること、あるいは技術、その本質がどこかへ消えてしまいそうに思えるからだ。

上の図面は、イギリスのワット(蒸気機関の発明者)とブールトンが、1801年にマンチェスターに建てた7階建ての木綿工場(紡績工場?)の設計図である。
平面は長さ140ft(約35m)×幅42ft(約10.5m)。高さははっきり分からないが、25m前後はあると思われる。

四周は7階まで石積み、中に鋳鉄製の柱(右側の図がその詳細)を2列並べ(間隔はおよそ14ft:約3.5m)、柱の頂部に鋳鉄製のⅠ型の梁を架けている。ギーディオンはそれを「時計の機械がケースに包まれているように、(鋳鉄の骨組が)外郭の石造壁に包み込まれている」と表現している。
各階の床は、梁と梁の間はレンガのアーチをつくり、その上にコンクリートを流しているが、これも画期的。

Ⅰ型、H型の鉄骨は今ではあたりまえ、その寸面は断面二次モーメントで決める。しかし、断面二次モーメントの概念が生まれるのは、ワットの時代から半世紀あとの話。
では、彼らは寸面をどうやって決めたのか。
それは、彼らがすでに木造の建物などを多数つくってきて、その経験の中から得た部材や架構のなかの力の流れ、伝わり方、部材の応じ方・・・の実感を基に、「直観」で決めたのである。

およそ50年後、構造力学の創生にかかわったフェアバーンも、この設計に舌をまいている。
建物はすでにないが、設計図面が保存されている(上の図はその一部)。
 
19世紀末から20世紀の初め、すなわち、技師たちが構造力学だけに依存せず、自らの感性を信じていた時代、鉄筋コンクリートの構築物にも、目を見張るような事例が多数ある。いくつか紹介したいと思っている。
 
図は、S.GIEDION“SPACE,TIME and ARCHITECTURE”Fifth Edition(Harvard)より転載させていただきました。 
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居住の条件・・・・人はどこに住みだしたか

2006-10-15 18:09:02 | 居住環境
 
筑波山の麓には、古代から人が住み着いている。

上の地図は国土地理院発行5万分の1地形図「真壁」(1990年発行版の部分)の標高60mより上に網掛けをしたもの。航空写真(国土地理院撮影)もほぼ同じ範囲。

山麓には等高線に沿い、東から「六所」「立野」「中坪」「沼田」・・と、今でも集落が並ぶ。もちろん、今ある住居は、古くても明治初年の建設だが、居住地としての歴史は、はるか昔にさかのぼる。

図上、「つくば市」の「市」の字の右手、東側で、60mラインはU字型にカーブを描き、西に開いた狭間をつくっているが(北、東、南を山・丘陵で囲まれる)、その一帯は水田で、古代は条里制水田。
今は、銘柄米「北条米」の産地。水田を流れるのは、筑波山系から湧き出したばかりの水、それがうまい米をつくる。

地図を見ると、山麓の大半の住居は、60mラインから下の標高30~50メートルに並んでいる。そこから上にはほとんどない。
筑波山麓では、この高さあたりで、山に降った雨水:地下水が湧き出る、つまり良質な水が得られる。

人が暮らすには、「水と食べ物が不可欠」。山麓のこのあたりは東から西へ、湧き水があり、容易に井戸も掘れ、目の前は絶好の田んぼ。おまけに南向き。風もあたらない。人が住み着いて当然の場所。古代以来人が住み着いた形跡がうかがえる。
  
60mラインを越え、筑波山神社に向かい等高線に直交している住居の群れは、江戸時代に幕府が人工的につくった筑波詣の参詣路。今は普通の住居だが、もとは旅館街(なお、水田を南北に過ぎる道も参詣路で、南は筑波の中心北条の市街に至る)。
この斜面の参詣路沿いの宿屋街の人たちは、飲み水をどうしていたのか?
地図をよく見ると、この参詣路の東西に、中腹で湧く数少ない水が流れている。「男女川(みなのがわ)」。この水が飲み水に使われたのである。今でも水は清んでいる。この川も先の田んぼに流れ落ちる。

しかし、60mラインに並ぶ住居も、隙間なく並んでいるわけではない。とぎれとぎれに並ぶ。
付近を歩いてみると分かるのだが、住居のあるところは気持ちのよい場所。ないところは、無理しないと住めないような感じの場所。
つまり、水もあり食糧もあるが、しかし・・・というような場所には住居はない。もちろん、人口が増えてくれば、そこにも人が住むようになるのだが・・・(そういうところにある住居は、大体新しい)。
 
かつて、人はどこにでも住んだのではない。居住の条件、居住地の条件として、「必要条件(水と食べ物)」と「十分条件(暮す気になる雰囲気がある)」を兼ね備えていなければ、人は暮さなかったのだ。
 
また、他の場所でも検討してみようと思う。

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木材だけでつくった長さ30mの橋・・・・・桔木(はねぎ)の利用   

2006-10-14 13:58:31 | 設計法

 山梨県大月市に、橋脚なしで、しかも木だけでつくった橋が形体保存(注)されている。
 中央東線の駅名にもなっている「猿橋(さるはし)」で、往古の甲州街道の橋である。中央線の車窓からも一瞬見える。

(注)現在保存されているのは、1984年、形だけ従前(嘉永年間)の復元図に
   ならって、鉄、鉄筋コンクリートの骨を木で被覆したいわば「擬木」に
   よってつくり直されたものである。

 橋脚がないのは、川面(相模川の上流、桂川)から30mの高さに架かるからだ。平面、側面、断面は図の通り。橋長は102尺、およそ30m強。
 太い木材を両岸から少しずつはね出してゆき(各段の間には、直交して「枕梁」を組み、相互を固める)、最後にはね出しの先端に水平に「桁:行桁」を渡し、「継行桁」で両岸とつなぎ、「平均材(ならし)」で路面をつくる。
 はね出す材は「桔木(はねぎ)」と呼ばれ、建物の場合は屋根の重さで尻を押さえ込むが、ここでは「控」(図では「扣」の字が使われている)が深く両岸の土中に埋められ、土の重さで支えられている。
 この工法は、建物の軒を深く出すために、「肘木」と「斗」で少しずつ迫り出してゆく考え方と同じ。長年にわたる経験の積み重ねと直観が、このような素晴らしい工法を生み出したのはまちがいない。

 この橋が最初につくられた時期については諸説があるが、近世以前からつくられていたことは確かである。
 なにせ材料が木で、風雨にさらされているため、架け替えが頻繁になされ、延宝4年(1676年)以降の架け替えの記録が残されている。それによると、10年から25年に一度、架け替えられている。
 末口1尺8寸~2尺、長さ30尺~54尺などというとてつもなく大きい寸面の材料の確保は大変で、1984年の復元の際に「擬木」にしたのも、今後の架け替えの際、材の確保が難しい、との判断があったからだという。

 これと同じ工法の橋は、かつては(鉄やコンクリートが現れない時代には)各地の「橋脚のつくれない川」に多数あり、富山県の黒部川には、橋長約60m幅約3mの愛本(あいもと)橋が大正年間まで架かっていたという。黒部川は雪解け時、激流となり橋脚がつくれないため、この工法が採られたのである。

 今、木材で大きなスパンの架構(屋根など)をつくるにはトラスが普通だが、この工法を用いてもつくることができる。その一つの試み(と失敗)を紹介の予定。

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鉄の橋-2

2006-10-12 00:28:22 | 鉄鋼造

 日本で現存最古の鋳鉄橋が二橋、中国山地のほぼ中央、兵庫県朝来(あさご)市に保存されている。
 朝来は江戸期に生野(いくの)銀山が栄えた地で、姫路から北へおよそ50キロの地点、播但線が通っている(地図参照、見にくくて恐縮!)。
  地図は『日本大地図帳 三訂版』から転載。

 日本の鉄の橋は、1878年(明治11年)につくられた鋳鉄橋「弾正橋」が最初と言われているが、兵庫に遺されているのは1885年(明治18年)完工の「神子畑(みこはた)」鋳鉄橋と「羽淵」鋳鉄橋である。いずれも重要文化財。
 この二つの橋は、明治になって発見された神子畑銀山から、鉱石を生野の精錬所に運ぶ輸送路としてつくられ、全部で五橋あり(先の二橋だけが現存)、一時はレールが敷かれ、トロッコや鉄道馬車も走ったという。

 写真は「神子畑橋」。
 橋の長さ16m、幅は約3.6m、設計製作は当時の工部省、建設は地元の人たち。
 一説によると、部材(鋳造品)は横須賀でつくられ、海路運ばれた後、陸運で現地に運ばれたという。陸路は今なら車で2時間ほど、当時は人力だけだから、大変な作業だったろう。

 1992年の夏、当時、たまたま鉄骨の大屋根の設計をしていたこともあり、鋳鉄による構築法を見ておこうと思い現地を訪れた。写真はそのときのもの(「羽淵橋」は、時間の都合で見ることができなかった)。

 その設計の神経の細やかさには、隅田川にかかる鉄の橋に通じるものがあった。
おそらく、《近代化》の世になっても、工人たちには、近世まで培われてきた「ものをつくることの真髄、その裏づけとなる繊細な感性」が引継がれていたのである。

 なお、全景写真の奥に見えるロープは、左手にある林業地からのもので、橋とは無関係。
 関心のある方は、詳しい写真が「技術のわくわく探検記:生野鋳鉄橋群」に載っていますのでご覧ください。

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鉄の橋-1

2006-10-11 11:42:34 | 鉄鋼造

 日本橋をまたぐ首都高速の橋が話題になっている。いまさら何を?という気がするが、しかし首都高の橋のひどさは、日本橋だけではない。

 日本橋のすぐ近く、隅田川に出ると、吾妻橋、両国橋など関東大震災後につくられた鉄の橋をいくつも見ることができる。
 そのどれも、どこから見ても(橋の下からでも)よく考えられ、デザインされている。
 もちろん、力の流れに対しても素直で、単に見えがかりだけ考える最近の《デザイン》とは違う。

 鉄の橋は、言うまでもなく、材料の主役として鉄がデビューした産業革命以後つくられるようになる。
 その世界最初の例が、産業革命の揺籃の地、イギリスCoalbrookdaleに1779年につくられた鋳鉄のアーチ橋、The Severn Bridge(図・写真)で、現在文化財として保存。長さは31m、川面からの高さ14m。

 石のアーチを手本に設計、五つの部分に分け鋳造(最大21mの部材を砂型で鋳造:当時では画期的な大きさの鋳造)、木造の「蟻継ぎ」「殺ぎ継ぎ」あるいは「楔締め」などを応用して組立て、リベット、ボルトは使っていないとのこと。
 鉄の総量は約480トン、今ではこんなには要らない。

 一番長いアーチ橋の中央が「ヘの字」に盛り上がっているのは、図の手前の左側(写真では手前)の橋台が土圧で川側に押されたからだという(石の場合は、石の重さで土圧に耐えている)。
 技術の進展の一過程を示していて興味深い。

 今だったら「計算しないと分からない・・・」と思って、やらないにちがいない。「計算できる、計算できた・・・」というのは、はたして「分かること、分かったこと」なのだろうか、技術にとって進歩なのだろうか?

図は『つくりながら学ぶやさしい工学②:橋』(草思社)
写真は“Greate Engineer"(ACADEMY EDITIONS,LONDON)からの転載です。

 日本では、1885年につくられた鋳鉄橋が文化財として保存されている。
 「鉄の橋-2」で紹介します。

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「食う寝るところに棲むところ」

2006-10-09 23:40:17 | 居住環境
 
 TVの天気予報画面の日本列島の地図上には、琵琶湖、霞ヶ浦、猪苗代湖の三つが示される。
 そのうちの霞ヶ浦は、ザリガニのような形。その二本のハサミに挟まれたところが出島。
 そして、そのまんなかあたりが私どもの「食う寝るところに棲むところ」。

 上の写真はランドサットの映像。
 赤味を帯びたところが森林:樹林帯。霞ヶ浦のほぼ真北の塊が八溝山系で、そこから南西の筑波山、そして出島へと、赤い部分:樹林=山地が連なっていることが分かる。
 多分地質的に、海進の時代にも侵食を免れたのだろう。

 出島は標高10~25m前後のローム層の高台。いくら掘ってもローム層。
 縄文時代の遺跡があちらこちらにあり、我が棲むところの隣は貝塚、いまでも多数の土器片や貝がらが散在、そこには神社が祀られている。
 我が家の敷地には住居址が埋まっていた。

 縄文人の棲みかは、海進時代のためか、高台に多いが、近世以降ここに暮すようになった人びとは、概して、ちょっとした「ひそみ」に居を構えている。
 風当たりを気にしたのだろう。
 一帯は、冬から春先、鹿島灘からの北東風:やませ:がよく吹く。

 ランドサットの映像写真は、
『日本大地図帳』三訂版(平凡社)からの転載です。
 不都合がありましたらご指摘ください。
コメント (3)
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