数値の軽重・・・・数の大小でものごとは決まるか?

2007-06-08 00:48:45 | 居住環境
 かつて私が勤めていた教育機関で、毎年図書館が購入する逐次刊行物:雑誌の選書が論議されたことがあった。予算に限りがあるから、選別したいという訳。
 担当委員会で出された委員長提案は、構成員に利用状況アンケート:購入希望の刊行物の調査を行い、その上位から順に、予算の範囲内までを購入しよう、というものだった。

 委員からは異論がなく、その案どおりに決まりそうになった。私にとっては予想外の進展だった。反対がない、どういうことだ?
 私は、反対の意見を述べた。それでは、構成員の母数の多い分野関係の刊行物が必要、数の少ない分野対応の刊行物は、無用と判断されてしまう。
 たとえば、専門とする方が一人しかいない分野からの要望は、常に1のはずだ。だからと言って不要、無用、と言えるのか?物理学専門の方々と数学専門の方々の購読希望の刊行物には、同一のものが多数あるのではないか?そうだとすると、母数がきわめて多くなるから、当然数の上では多くなる。それでいいのか?
 これを契機に多くの文系の方々から、委員長提案に反対の意見が出始めた。

 なぜ最初に反対意見が出なかったか、それは、委員長は数学が専門だったからである。
 文系の方々は、「おかしい?」と思っても、端から、「数字には抵抗できない」と思い込みがちだからなのだ。まして、委員長の専門は数学・・。つまり、数値=科学的という信仰がはびこる世の中の単純な反映だったのである。

 なぜこのような話を今もちだすかというと、間もなく選挙。選挙のたびに必ず「一票の格差」論が出てくるからだ。一票あたりの人口に格差がある、公平ではない、という論理の論である。よく例に出されるのは、山陰地域の県と東京周辺の県の比較論。
 私は、この論理には疑問を持つ。その論をそのまま反映して議員が決まるのだとしたら、そして、ものごとを単純に数字の大小で決められるのだと言うのなら(なおかつ、それが民主主義だと言うならば)、人口の少ない地域からの発言は、それがいかに正統で真の意味で合理的な意見であっても、最初から勝ち目はないからだ。
 それとも、人口の多い地域の方々は、人口の少ない地域の状況を十二分に斟酌できる、という自信でもお持ちなのだろうか?多分、そういう自信はないはずだし、第一、知ろうとする気もないだろう。仮に知る気があったとしても、その認識は現場にいる人たちの認識には程遠いのは目に見えている。

 それでもなお、数値の大小に比例することを求めるのであるのならば、それは、少数者は多数者に従って当然、という論理的帰結に至るはずだ。それでいいのか?そうすることが、本当に「民主主義」なのだろうか?
 私は、むしろ、一票の価値に、積極的にハンディをつけてよいのではないか、とさえ思っている。そうしなければ、人口の少ない地域は、人口の多い地域の論理に圧倒され、浮かばれないからだ(人口の多い地域と少ない地域の「便・不便」についていずれ触れたい)。

 さて、先の逐次刊行物の選定の件は、私の次のような提案で納まった。「それぞれの専門分野の方々が、それぞれの分野で絶対不可欠と考える刊行物を責任をもって選定し提出する。その内容を見て、次の段階を考えよう」。
 結果はどうだったか。各分野の希望する刊行物は、選別することもなく、購入することができた。
 なぜか?バカな選定をするとバカにされると思ったのかどうか、各分野の選定がきわめて妥当であったからである。
 考えてみれば、それがあたりまえ。どんなに多くの刊行物があろうとも、図書館蔵書として本当に必要と考えられるものは、限られているのだ。

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