PDF1983年度「筑波通信 №4」 A4版10頁
開園式のスケッチ・・・・はしがきに代えて・・・・ 1983年度「筑波通信 №4」
彼は昨夜慣れないところで寝たせいか、よく眠れず、きょうは朝からきげんが悪いのだという。それでもいまは、食堂わきのギャラリーのベンチにすわりこみ、お得意のひもあそびに興じている。 20cmぐらいのひもを持ち、ひらひらさせたり、まるめたり、またほぐしたり、一心不乱に自分の手元を見つめながらすごしている。それはなにかをつくるのに熱中している職人のようだ。このコーナーが気にいったらしく、どこかへ出かけても、自分の部屋へつれ戻されても、すぐにまたやってくる。ときおりその愛用のひもを私にさしだして、何かを語りかける。
もう一人の彼は、さきほどからずうっと、もう半ときになるだろうか、廊下の戸を開けはなち、庭に向って立ち、体を左右にリズミカルに、ちょうど起きあがり小法師をゆり動かすように、ゆっくりとゆすりながらそのリズムにあわせて、擬音を発している。というより、そのように私には見える。電車にでも乗っているつもりなのかな、とも思うがよくはわからない。彼はもう、この新しい所に慣れてしまったのか、ときおりそこをはなれて、あちこち見まわってきてはまた同じことをはじめる。
彼女はお母さんのそばをはなれられないらしい。お母さんのそばにべったりだ。そんなところは、はにかみやの普通の女の子。
彼のお母さんはつい先日亡くなられたのだという。お父さんの方が彼を一人ここにおいて帰ってしまうことが気になっていたたまれないのに、彼はまるで屈託がない。それがまた、かえって、お父さんを心配させるようでもある。お父さんは、いましばらく、帰るに帰れないだろう。
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きょうは、ここしばらく工事監理に通いつめた知恵おくれの人たちの家: S 園 という名である:の開園式、夕べから第一陣が住みだしている。これは、開園式の行事でごったがえしている一隅で目にした光景である。おそらくこれから、こういった場面が、毎日のように、いくつも展開するのだろう。普通の建物だと、人は初め、とまどいは見せつつも、部屋の名をたどり、知った風に歩きまわるのだが、この人たちの場合はそうではない。多分彼らの目の前にあるのは、部屋の名のないそれぞれの空間なのだろう。彼らは素直にそのありのままの空問に向っているのではないだろうか。部屋の名前にこだわらず、空間そのものに対されるというのは、設計者として一番こわいことだ。というのも、普通の場合は、説明のことばでごまかしがきくからである。この場合は、ことによるとごまかしがきかないかもしれないのである。
いずれにしろ、ともかくも開園式までこぎつけて、ここ二年ほどのいろいろのことどもも、いわばすっかり過去のなかに埋ってゆくのだろう。それでいいのである。建物というもの、いや全ての人の営為というものはこういうものなのだ。ただ、だれがやったかれがやったというのではない、ただそれが天から降ってわいたものだとだけは思ってもらいたくはない。営為は、人の営為だということである。
今号は、開園式のために用意した文章で通信に代えようと思う。因みに、この S 園 は、主として東京西部地区に住む親たちが費用を出しあい、また借金をしてつくりあげた、定員30名、せいいっぱいローコストで建てた小さな園である。なぜ親たちがその気になったか、という点にこそ、現在の状況が示されていると私は思っている。もしも多少なりとも関心がある方があれば、お問いあわせ願えれば、そしてなんらかのご協力をたまわれば、私としてもこの上なく幸いである。
1983・6・27 下山 眞司
「 S 園 」によせて 設計者の立場から
甲州塩山からほぼ北へ、秩父の山々を雁坂峠で越え武州へと通じる昔からの街道があります(車は峠を通り抜けられません)。笛吹川をさかのぼる道すじです。
中央線を塩山で降り、この街道を二十分ほど車で行きますと、牧丘町という町に入ります。町の本拠地は、笛吹川とその比較的大きい支流との落合いにありますが、町域はかなり広く、あたりの山あいや斜面に点在している多くの集落を合わせてできた町です。牧丘という名前は、古代以来、ここが牧(馬の牧場です)であったことに拠っています(~の牧、というのが元の呼び名のようです)。いまは斜面一帯、見渡すかぎり、ぶどうを主として、桃、李、杏などの果樹園です。四季折々にすばらしい所ですが、とりわけ春さきは、さしづめ桃源郷です。笛吹川の谷奥には雪をかぶった秩父の山なみを望み、そしてその反対、川下:南の方角に、これも雪に輝く富士山が浮いています。そして、その間の人里は、花の色に霞んでいるのです。
車が街のにぎわいを抜け、五分ほど上り坂を走ると、左手に見るからにお寺さんとわかる建物と、それと少し間を置いて並んで、何用の建物なのか一瞬判断に迷う建物が見えてきます。地面にへばりついたような、黒っぽい寄棟の屋根、土色をした壁の建物です。町の人たちが「御殿のようだ」と言うそうですが、それはお金がかかっているという意味よりも、その屋根の寄棟の形がなんとなくそれを思わせるからでしょう。
この建物が正式名称「心身障害者更生施設・ S 園 」の建物なのです。そうわかると、大抵の人が、施設らしくないですね、だとか、ユニークな施設ですね、などと言うのだそうです。
しかし、この建物は、決して、「ユニークな建物」を目ざしたり、あるいは「新しい考えかた」に拠って、設計されたのではありません。ここで考えられ、為されたことは、極く「あたりまえなこと」だ、と私たちは思っています。
そしてまた、この種の施設を見慣れた人の目に、この建物は、ユニークで、風変りで、そしてことによると異常で非常識なものとして映るかもしれませんが、しかしそれは、そのいままで見慣れたこの種の施設・建物が、あまりにも「ユニーク」「風変り」そしてときには「異常」であったからなのだ、とさえ私たちは思ってもいるのです。
私たちは、旅に出ると、宿屋に泊ります。
旅に出る、ということは、その毎日が、日常の毎日とは違った毎日になるということです。
そして、宿屋というのは(いまでは旅館とか hotel といいます)、人が自分の家をはなれ、いわば異常な毎日を過ごすとき、自分の家の代りをしてくれる、言うならば仮のすまいです。ちゃんとした宿屋でなくてもよい、とにかく仮のすまいがないと、旅の毎日が成りたちません。
その昔、私たちが旅の途中で仮のすまいとして求めた宿屋は、まずほとんどが、いまの言いかたで言うと、和風でした。というよりもなによりも、それは、日常私たちがすまいとしている自分の家とさほど違わないつくりでした。hotel とか hostel などと呼ばれる西洋の宿屋もまた、その昔はそうであったでしょう。
宿屋というのは、旅人に仮のすまいを提供し、もてなすことが業でしたから、人々の家とさほど変りのない建物であったというのも当然なことだったと思います。
因みに、英語の hotel,hostel は、ともに、host という語と関係があります。host というのは、客人をもてなす主人のことです。病院を英語では hospital といいますが、これも hos tの親戚すじの語です、つまり、宿屋、ホテル、病院、・・・・これらは、客人をもてなすことに意義を認めた建物だったのです。(ついでに言えば、バーのホステスも host からきています。接客婦、多分アメリカ産です。もとはやはり hostess 旅人をもてなす女主人の意です。)
けれども、いまの宿屋、旅館、ホテルは違います。
仮に和風の昔ながらのつくりの宿屋があっても、そこで私たちが受けるものは、いまひとつよそよそしくなじめません。眠れさえすればよいのだと割りきっても、なかなかそうはゆきません。
一つには、そのつくりが、和風の形はしていても、私たちの日常の和風とは既に違ってしまったいわば和風様のつくりになってしまっているからでしょう。古い宿屋では、そんなことはありません。
もう一つは、宿屋商売から、「もてなす」という意識が消えてしまい、単に、仮のすまいの場所だけ提供するという意識が強くなったからでしょう。host する、という原義が薄れたということです。これは当然、建物のつくりかたにも影響します。宿代も、host することへの代償としてではなく、場所代・室代になっています。Host する、ということのなかには、当然のごとく、場所を供して、という意が含まれていたのだと思いますが、いまではそれが、場所代とサービス料に分れたわけです。これが徹底しますと、場所づくりとサービスすることとは、別々に考えられるようになります。合理的だと言えば合理的ですね。近代的なホテルはこの最たるものです。
それでは、この「 S 園 」のような建物は、どう考えたらよいのでしょうか。ここに居る人たちは、それぞれ自分の家を離れ、出てきた人たちです。自分の家・家族から離れている人たちが居るということだけから見ると、宿屋つまり仮のすまいとして考えられるようにも思えます。だが、そうでしょうか。違います。少なくともあの近代的な宿屋やホテルではありません。強いて言えば、あの原義の意味での宿屋です。つまり、それぞれの人の、それぞれの家の代りをしてくれるものです。
であるならば、この「 S 園 」のような建物は、家つまり人のすまいをつくるのと同じ考えかたでつくらなければならない、と私たちは思います。
しかしいま、このような「施設」や病院の建物も、そこに(仮に)住む人たちに接する人たちも、その多くは、あの近代的・合理的な旅館やホテルの建物、従業員、あるいは経営者、と同じようになってしまっているのではないでしょうか。
考えてみてください、このような「施設」に(仮に)住む人たちがそれぞれ自分の家にいたとき、親たちは、その子どもたちの面倒を看るのも、しつけを指導するのにも、あの近代的な旅館やホテルの従業員のサービスのようなやりかたでしていたでしょうか。
host する、ということのそもそもの意味が見失われてしまったのです。あの host を語源とする hospital においてさえ。
この「 S 園 」の建物は、その寸法も材料も、そしてつくりも、できるかぎり、ちょっと大きめの住宅をつくるようなつもりで設計しています。なぜそうしたかは、ここまで述べたことで、おおよそはおわかりいただけただろうと思っています。要は、ここに住まなければならない人たちにとって、ここはすまい:家以外のなにものでもない、ということです。
「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より
たとえば、この「 S 園 」の床をとりあげてみます。ご覧になればすぐわかることですが、まわりの地面からの床の高さは、普通の木造の住宅の場合と同じです。玄関には、ちゃんと上り框があります。縁側のような廊下に腰かけて足をぶらぶらすることもできます。この高さは、昔の農家の土間と座敷の高低差と同じぐらいの寸法です。日本の住宅では、昔から、土の上では履き物、上り框から上では履き物なしでした。よくはわかりませんが、泥んこになる稲作主体の農業をするなかで生まれた知恵なのかもしれません。こうすれば、土間より上の間は自ずと汚れないでしょう。履き物で上るには相当気がひけます。家のなかに入るときは履き物をぬぐという習慣は、建物のこういうつくりが保ってきたのではないか、とさえ思います。
しかし、近代的な建物では、床がどんどん地面に近づきました。上下足を厳格に分ける建物においてさえそうです。これでは、風が吹いたって泥は吹き上りますし、どうしたって上の間が汚れてしまいます。履き物のまま、ちょっと上ったっていいや、なんて気にもなります。そうなると、上の間をいつも清潔に保つため、掃除が楽な材料の床がよい、ということになります。泥が上りこんだ床の掃除は、どうしたって乱暴になりますから、材料もそれ向きとなります。合成樹脂製の床材がはやるわけです。
そして、上下足を厳しく分ける建物では、上の間でも別の履き物を履くのがあたりまえのようになり、だれも不思議にも思わないようです。そして、合成樹脂製の床材だと、ますます履き物が欲しくなります。
「 S 園 」の建物の床は木製です。便所の床まで、一部は木製の材料を使っています。ほんとは、縁側に普通使われる桧の縁甲板を使いたいところですが、残念ながら費用の点で無理でした。それでも、ここで使ったのは、住宅の室内用の床材です。ですから、掃除も住宅での掃除と同じやりかたになります。住宅の掃除と同じような気の配りかたが必要になるでしょう。
この床の上なら。素足で歩いてもらってもよい、と私たちは思っています。便所だけを除いて。日本の住宅は昔からそうでした。土間より高い上の間では、床上を歩くとともに、そこに坐りもしました。これは、基本的に、いまでも変りありません。でもいまは、板の床の部分はスリッパを履くのがあたりまえのようになってしまいました。洋風が入りこんでから、なんとなくそうなってしまったのだと思います。けれども、スリッパを履くという慣習は、床の上に坐ることもあるようなすまいかたにとって、必らずしも適切だとは言えません。不潔だからです。素足は、汚れればすぐ洗えます。かつての室内履き・足袋も、そしていまの靴下もしょっちゅう洗います。しかし、スリッパはどうでしょう。一週間に一度洗った、などということは聞いたこともありません。スリッパ以外のいわゆる上履きも同じです。要するに、土間からわざわざ離した上の間を、土足で歩いているようなものなのです。旅館の浴場の脱衣場で、スリッパと裸足が同じ床面で混じりあい、不快感を覚えたことがありませんか。
もとはと言えば、すまいのつくりかた、すまいかた、材料の選びかた、そしてその手入れのしかた、これは全て一体のものとして考えられていたのです。
いくら生活が洋風化して椅子に腰かけるくらしかたが増えてきても、私たちの生活から、床に坐りこむくらしかたが消えてしまうことはまずないでしょう。以前の私たちのくらしかたは、土間から上では、極端に言えば、坐るか立つかでした。洋風化が時の流れであると単純に考えてしまうと、合理的な生活は、腰かけるか立つかだと、ふと思いたくもなりますが(スリッパ導入は多分そのせいです)、そうではないでしょう。いまの私たちの生活は、坐るか、腰かけるか、立つか、なのです。そうだとすると、昔ながらの和風のつくりでは間尺にあいません。もちろん、洋風でもそうです。
毎日の生活のなかで、襖や障子の引手の位置が少し低いなと思ったことはありませんか。慣れてしまっているので気にならないとは思いますが、その気になって見なおしてみると、立って開けたてするには少し低めです。いまでこそその開けたては、大抵立つたまましますが、もとはといえば、坐った姿勢で開けたてすることが多かったのです。引手の高さは、それによって、自ずと決ってくるのです。立った姿勢向きでは必らずしもないわけですが、立っての開けたてが多くなったいまでも、その尻尾を引きずっているのです。面白いことに、洋風のドアのノブの位置も、本場のそれに比べると、身長の差を考えにいれても、少し低めです。長い生活慣習のなかで引手の高さはこんなものだという観念ができあがってしまっているからなのでしょう。こういうことはよくあることで、その正常化には時間がかかります。
しかし、襖や障子をなぜ坐って開けたてしたのでしょうか。
近ごろ、ある旅館の和室に泊って、こんな経験をしました。その和室は襖をへだて前室につながり、ほんのわずか、10cmほどの段差があります。和室でくつろいでいますと、声がかけられ襖が開きました。女中さんがそこにぬっくと立ちふさがるように立ち、私を見下しています。気押されるような感じです。昔の旅館の女中さんはこんな風には部屋に現われなかったでしょう。必らず坐ってこちらを見ていたように思います。そうしますと、目線がそろいますから気押されるような感じは受けません。
つまり、坐るか立つかの和風の生活が、襖や障子を坐って開けたてするという所作を生みだしたに違いありません。そうすることによって、坐っている人が脅やかされることがふせげるのです。
いまは、坐る、立つ、の他に、腰かける、もつけ加わりました。そして、坐る姿勢が主となる和室に入るのに、わざわざ坐って戸を開けるというような面倒くさい所作も省略するようになりました。ですから、いままでの和風のつくりのように、和室とその他の部分たとえば廊下がほほ同じ面で続いているようなやりかただと、場合によっては、さきほどの近ごろの旅館での体験のように、和室にいる人がくつろげなくなることが十分あり得るのです。いまの建物で和室を設けるときには、この点を考えに入れてみる必要があるように思います。もしもあの旅館の和室と前室の関係が、ちょうどあの昔の農家の土間と上の聞のような高さ関係であったなら、女中さんが立っていても、別に気押されるような感じを受けることもなかったのではないでしょうか。
この「 S 國 」の建物の畳敷の室:和室の床面は、ラウンジと呼んでいる板の間(カーペットが敷いてあります)より、ちょうど椅子の高さ分高くなっています。もしそれが、ラウンジの面とほほ同じだったならばどうなるか、想像してみてください。多分、うらびれた、うそ寒い感じの室になってしまうのではないかと思います。
ただ、この段差は、少し危いのではないか、という声も聞かれます。今後の様子を見ながら考えてみようと思っています。
床の話にことよせて、「 S 園 」の建物の設計にあたって考えたこと、というよりも、日ごろ考えていること、の一端を述べてきました。要は、一軒の家をつくるのと同じに考えたということです。 そのことは、屋根をはじめ、いわゆる外観を見ていただいても、おわかりいただけるのではないか、と思っています。
けれども、建物づくりは、所詮、いわば舞台をつくったにすぎません。ここに住みつく人たちが、みごとにその毎日を演じることによってはじめて、この建物はほんとの意味での家、ほんとの意味での「施設」になるのだと思います。そして多分、みごとな毎日を演じてゆく上で、舞台に、おもわしくない点が見つかることでしょう。そのようなとき、私たちは、よりよい舞台にしつらえなおすように考え努めるつもりです。私たちは、ここで、みごとな毎日、新鮮で生き生きとした毎日が演じられることを望んでいるのです。
そして最後に
「 S 園 」の建物は、形をなして残りました。しかし、それが形をなすまでの過程は、もう見えません。この「 S 園 」という「施設」設立の想いに燃えた人たちの、まさに血を吐く思いの毎日は、形をなして残るものではありません。そして、建物の工事に着手して以来六ヶ月、その間に実際にこの建物をこしらえるのに手をかしてくれた職人さんは延べ数千人にもなりますが、しかし、この人たち流してくれた汗もまた形をなして残ってはいないのです。
「 S 園 」の建物は、いま、何ごともなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降って湧いたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです。
そして、この建物が「 S 園 」なのでもありません。くりかえしになりますが、建物は「 S 園 」の舞台でしかないのです。ここに住みつく人たちによって、みごとな毎日、生き生きとした毎日が演じられたとき、それが「 S 園 」なのです。
末尾になりましたが、あの延べ数千人に及ぶ職人さんたちを操り仕事をしていただいた株式会社 H 組 の方々に篤く感謝の意を呈します。
1983年6月1日
設計者一同( S 園 建設構想研究会)
「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より