「第Ⅳ章ー3ーB2 高木家」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-26 10:35:32 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B2」

 

 B-2 高木家  天保年間(1840年頃) 所在 奈良県 橿原市 今井町

 

みせのまの外部 柱脚部の横材は地覆   日本の民家6 町屋Ⅲより

平面図                  図は日本の民家6町屋Ⅲ高木家住宅修理工事報告書)より                

 

 

 桁行断面図

 

 

  日本の民家6 町屋Ⅲより

 みせは庇部まで畳敷梁行断面図参照)  豊田家は庇部は縁として板戸で仕切っている。 格子の内側に2枚折りの明り障子蔀戸(しとみど)を設けている。上は障子を開けたところ、下は閉めたとき。

 

  

どま東面  貫:4寸×8分 下から3段目は込栓、他は楔締め    どま 通り側・大戸口を見る  日本の民家6 町屋Ⅲより

 

 高木家は代々酒造業を営み、嘉永7年(1854年)頃の当主が、この建物で、醤油屋を始めた、と伝えられている。

 豊田家のおよそ180年後の建設で、土台を用い、いわゆる大黒柱はなく、通し柱管柱とも4.2寸角で統一している(北面庇部を除く)。

 飛鳥川に近く、地下水位約80cmの場所ながら、豊田家に比べると良好で、礎石の沈下は、東西両側の土台下で約2~4cm、礎石建て部分で約7cm程度と少なかった。 ただ、敷地四周の度重なるかさ上げにより、土台下や柱脚部の腐朽、虫害が激しい場所があった(豊田家ほどではない)。

 小屋組の損傷はきわめて少なく、雨漏りによる腐朽が見られる程度であった。(解説は高木家住宅修理工事報告書による)

 6尺3寸の畳を基準にした内法制どま部分の逃げで調整。

 

 1階 ざしき 床と違い棚

使用材料   礎石:自然石、切石   土台:ヒノキ 5寸角 継手:腰掛鎌継ぎ  柱:総数61本  内通し柱32本 ヒノキ  管柱ともすべて4.2寸角北側庇部3.6寸角) 根枘 平枘 頭枘 平枘または重枘  大引:足固め貫は使用せず、大引、根太で代用。ヒノキまたはスギ 4.5寸×4寸程度 転用材が多い  貫:ツガ 4寸×0.8寸程度  差鴨居:マツ 6.5寸~10寸×4寸 柱仕口 込み栓 差鴨居~差鴨居 シャチ継ぎ  二階根太受け(胴差・床梁)マツ 丈6.5寸×幅4寸程度

 

架構分解図            日本の民家6町屋Ⅲ (高木家住宅修理工事報告書)より

 

 豊田家の約180年後に建てられた建物。 いわゆる大黒柱、太い柱を用いず、通し柱管柱とも4寸2分角とし、東側、西側の壁面では土台建てとしている。

 今井町土台が使われるようになるのは、18世紀後半と考えられている。 土台は、礎石天端をある程度均した上、土台下端を削って据えている。  土台は、東西の側壁にだけ使われていることから水平の定規として扱われたのだろう

 高木家では、足固貫が使われず、大引根太がその役目を担っている。 これは、土台を据えた東西の軸部には足固めの必要がなく、その延長の考え方と思われる。

 

 豊田家では、貫は小屋貫以外では、軸部でどま東側面にわずかに使われているだけだが、高木家では開口の必要のない東西の面には徹底的に使っている。

 その場合、東西面では、を半間ごとに入れている。これは、大断面の材料(太い差鴨居など)を多用しないことへの対策と考えられる。

 2階床は、豊田家と同じく、差鴨居の上の束柱で支えた根太掛け床梁)に根太を架ける方法(後出の ほ通り分解図参照)。

 

六通りの差鴨居 取付け分解図               高木家住宅修理工事報告書より(着色は編集)

 

 

へ-六 柱 差鴨居 仕口詳細図

                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より 

 への差鴨居の仕口は、長い枘竿)をつくりだし、① 込み栓でとめる ② を貫通し、反対側の差鴨居に差し、シャチ栓で締める の方法がとられている。 これは、4.2寸のため、貫通する孔の加工が容易だったからだろう(道具の進歩もあった)。 込み栓は、仕口内にあるため仕上がると隠れる。

 

 

通りの根太掛け(床梁)の支持法と継手 ほ通りは、みせのま~だいどころ中央の南北の通り平面図参照)。

                   

                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より                                   

 根太掛けは、間仕切上の六通り十四通り腰掛鎌継ぎ継がれるが、その継手部を、各通りの差鴨居上の束柱が受ける。 それゆえ、束柱頭枘平枘を受ける枘孔は、継がれる2材に、半分ずつ彫られる。

 

  

                                     日本の民家6 町屋Ⅲより

2階は全面竿縁天井を張り、すべてザシキとして使われている。 左:上がり口 右:全室を南から見る

 

参考 高木家の地震履歴

 高木家は、天保年間(1830~1843年)に醸造業を営む本家から分家しているので、その頃に建屋が建てられたと推定されている(嘉永7年=安政元年:1854年に醤油屋を開業しているから、どんなに遅くとも、その時には既に建っていた)。

以下、発生年月日、被災地、マグニチュード、被災状況の順で記載。

1854年07月09日(安政01年) 伊賀・伊勢・大和一帯        M7.2 奈良で潰家700戸 

1854年12月23日(安政01年) 東海・東山・南海諸道        M8.4:安政東海地震

1854年12月24日(安政01年) 畿内・東海・東山・北陸・南海・山陽 M8.4:安政南海地震(前記地震の32時間後)

  註 上記安政期の三つの大地震に遭ったかどうかは建設時期によるが、おそらく遭ったと考えてよい。

1891年10月28日(明治24年) 岐阜県西部 仙台以南で有感   M8.0:濃尾地震 内陸地震で最大、全壊14万 

1899年03月07日(明治32年) 三重県南部           M7.0 大阪・奈良で煉瓦煙突被害多数

1936年02月21日(昭和11年) 奈良県北部           M6.4:河内大和地震

1944年12月07日(昭和19年) 紀伊半島南東沖   M7.9:東南海地震 静岡、愛知、三重などで全壊17599戸

1945年01月13日(昭和20年) 三河              M6.8:三河地震

1946年12月21日(昭和21年) 紀伊半島南方沖   M8.0:南海地震  中部以西各地で全壊11591戸

1948年06月15日(昭和23年) 紀伊水道南部          M6.7

1952年07月18日(昭和27年) 奈良県北部           M6.7:吉野地震

1955年01月17日(平成07年) 兵庫県南部     М7.3:平成7年兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災) 

 

 高木家は、建設後、何回も大きな地震に見舞われていることが分る。この地域の人たちは、昔から何度も大きな地震を経験しており、建物の「対地震策」についても十分検討がなされていた、と考えてよい。

 

 

参考 視覚と屋根の形

① 屋根勾配と見えがかり

 

② 視覚矯正の手法

 

③ 狭い道と屋根の形体  今井町の例

 

 

④ 広い道と屋根の形体  妻籠宿の例

 

 

 


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「開園式のスケッチ・・・・はしがきに変えて」 1983年7月

2019-11-19 10:09:10 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №4」 A4版10頁 

   開園式のスケッチ・・・・はしがきに代えて・・・・   1983年度「筑波通信 №4」

 彼は昨夜慣れないところで寝たせいか、よく眠れず、きょうは朝からきげんが悪いのだという。それでもいまは、食堂わきのギャラリーのベンチにすわりこみ、お得意のひもあそびに興じている。 20cmぐらいのひもを持ち、ひらひらさせたり、まるめたり、またほぐしたり、一心不乱に自分の手元を見つめながらすごしている。それはなにかをつくるのに熱中している職人のようだ。このコーナーが気にいったらしく、どこかへ出かけても、自分の部屋へつれ戻されても、すぐにまたやってくる。ときおりその愛用のひもを私にさしだして、何かを語りかける。

 もう一人の彼は、さきほどからずうっと、もう半ときになるだろうか、廊下の戸を開けはなち、庭に向って立ち、体を左右にリズミカルに、ちょうど起きあがり小法師をゆり動かすように、ゆっくりとゆすりながらそのリズムにあわせて、擬音を発している。というより、そのように私には見える。電車にでも乗っているつもりなのかな、とも思うがよくはわからない。彼はもう、この新しい所に慣れてしまったのか、ときおりそこをはなれて、あちこち見まわってきてはまた同じことをはじめる。

 彼女はお母さんのそばをはなれられないらしい。お母さんのそばにべったりだ。そんなところは、はにかみやの普通の女の子。

 彼のお母さんはつい先日亡くなられたのだという。お父さんの方が彼を一人ここにおいて帰ってしまうことが気になっていたたまれないのに、彼はまるで屈託がない。それがまた、かえって、お父さんを心配させるようでもある。お父さんは、いましばらく、帰るに帰れないだろう。

  ・・・・・・・・・・・

 きょうは、ここしばらく工事監理に通いつめた知恵おくれの人たちの家: S 園 という名である:の開園式、夕べから第一陣が住みだしている。これは、開園式の行事でごったがえしている一隅で目にした光景である。おそらくこれから、こういった場面が、毎日のように、いくつも展開するのだろう。普通の建物だと、人は初め、とまどいは見せつつも、部屋の名をたどり、知った風に歩きまわるのだが、この人たちの場合はそうではない。多分彼らの目の前にあるのは、部屋の名のないそれぞれの空間なのだろう。彼らは素直にそのありのままの空問に向っているのではないだろうか。部屋の名前にこだわらず、空間そのものに対されるというのは、設計者として一番こわいことだ。というのも、普通の場合は、説明のことばでごまかしがきくからである。この場合は、ことによるとごまかしがきかないかもしれないのである。

 いずれにしろ、ともかくも開園式までこぎつけて、ここ二年ほどのいろいろのことどもも、いわばすっかり過去のなかに埋ってゆくのだろう。それでいいのである。建物というもの、いや全ての人の営為というものはこういうものなのだ。ただ、だれがやったかれがやったというのではない、ただそれが天から降ってわいたものだとだけは思ってもらいたくはない。営為は、人の営為だということである。

 

 今号は、開園式のために用意した文章で通信に代えようと思う。因みに、この S 園 は、主として東京西部地区に住む親たちが費用を出しあい、また借金をしてつくりあげた、定員30名、せいいっぱいローコストで建てた小さな園である。なぜ親たちがその気になったか、という点にこそ、現在の状況が示されていると私は思っている。もしも多少なりとも関心がある方があれば、お問いあわせ願えれば、そしてなんらかのご協力をたまわれば、私としてもこの上なく幸いである。

        1983・6・27                 下山 眞司 

 

「 S  園 」によせて   設計者の立場から

 甲州塩山からほぼ北へ、秩父の山々を雁坂峠で越え武州へと通じる昔からの街道があります(車は峠を通り抜けられません)。笛吹川をさかのぼる道すじです。

 中央線を塩山で降り、この街道を二十分ほど車で行きますと、牧丘町という町に入ります。町の本拠地は、笛吹川とその比較的大きい支流との落合いにありますが、町域はかなり広く、あたりの山あいや斜面に点在している多くの集落を合わせてできた町です。牧丘という名前は、古代以来、ここが牧(馬の牧場です)であったことに拠っています(~の牧、というのが元の呼び名のようです)。いまは斜面一帯、見渡すかぎり、ぶどうを主として、桃、李、杏などの果樹園です。四季折々にすばらしい所ですが、とりわけ春さきは、さしづめ桃源郷です。笛吹川の谷奥には雪をかぶった秩父の山なみを望み、そしてその反対、川下:南の方角に、これも雪に輝く富士山が浮いています。そして、その間の人里は、花の色に霞んでいるのです。

 車が街のにぎわいを抜け、五分ほど上り坂を走ると、左手に見るからにお寺さんとわかる建物と、それと少し間を置いて並んで、何用の建物なのか一瞬判断に迷う建物が見えてきます。地面にへばりついたような、黒っぽい寄棟の屋根、土色をした壁の建物です。町の人たちが「御殿のようだ」と言うそうですが、それはお金がかかっているという意味よりも、その屋根の寄棟の形がなんとなくそれを思わせるからでしょう。

 この建物が正式名称「心身障害者更生施設・ S 園 」の建物なのです。そうわかると、大抵の人が、施設らしくないですね、だとか、ユニークな施設ですね、などと言うのだそうです。

 しかし、この建物は、決して、「ユニークな建物」を目ざしたり、あるいは「新しい考えかた」に拠って、設計されたのではありません。ここで考えられ、為されたことは、極く「あたりまえなこと」だ、と私たちは思っています。

  そしてまた、この種の施設を見慣れた人の目に、この建物は、ユニークで、風変りで、そしてことによると異常で非常識なものとして映るかもしれませんが、しかしそれは、そのいままで見慣れたこの種の施設・建物が、あまりにも「ユニーク」「風変り」そしてときには「異常」であったからなのだ、とさえ私たちは思ってもいるのです。

 

 私たちは、旅に出ると、宿屋に泊ります。 

 旅に出る、ということは、その毎日が、日常の毎日とは違った毎日になるということです。

 そして、宿屋というのは(いまでは旅館とか hotel といいます)、人が自分の家をはなれ、いわば異常な毎日を過ごすとき、自分の家の代りをしてくれる、言うならば仮のすまいです。ちゃんとした宿屋でなくてもよい、とにかく仮のすまいがないと、旅の毎日が成りたちません。

 その昔、私たちが旅の途中で仮のすまいとして求めた宿屋は、まずほとんどが、いまの言いかたで言うと、和風でした。というよりもなによりも、それは、日常私たちがすまいとしている自分の家とさほど違わないつくりでした。hotel とか hostel などと呼ばれる西洋の宿屋もまた、その昔はそうであったでしょう。

  宿屋というのは、旅人に仮のすまいを提供し、もてなすことが業でしたから、人々の家とさほど変りのない建物であったというのも当然なことだったと思います。

  因みに、英語の hotel,hostel は、ともに、host という語と関係があります。host というのは、客人をもてなす主人のことです。病院を英語では hospital といいますが、これも hos tの親戚すじの語です、つまり、宿屋、ホテル、病院、・・・・これらは、客人をもてなすことに意義を認めた建物だったのです。(ついでに言えば、バーのホステスも host からきています。接客婦、多分アメリカ産です。もとはやはり hostess 旅人をもてなす女主人の意です。)

  けれども、いまの宿屋、旅館、ホテルは違います。

  仮に和風の昔ながらのつくりの宿屋があっても、そこで私たちが受けるものは、いまひとつよそよそしくなじめません。眠れさえすればよいのだと割りきっても、なかなかそうはゆきません。

 一つには、そのつくりが、和風の形はしていても、私たちの日常の和風とは既に違ってしまったいわば和風様のつくりになってしまっているからでしょう。古い宿屋では、そんなことはありません。

  もう一つは、宿屋商売から、「もてなす」という意識が消えてしまい、単に、仮のすまいの場所だけ提供するという意識が強くなったからでしょう。host する、という原義が薄れたということです。これは当然、建物のつくりかたにも影響します。宿代も、host することへの代償としてではなく、場所代・室代になっています。Host する、ということのなかには、当然のごとく、場所を供して、という意が含まれていたのだと思いますが、いまではそれが、場所代とサービス料に分れたわけです。これが徹底しますと、場所づくりとサービスすることとは、別々に考えられるようになります。合理的だと言えば合理的ですね。近代的なホテルはこの最たるものです。

 

 それでは、この「 S  園 」のような建物は、どう考えたらよいのでしょうか。ここに居る人たちは、それぞれ自分の家を離れ、出てきた人たちです。自分の家・家族から離れている人たちが居るということだけから見ると、宿屋つまり仮のすまいとして考えられるようにも思えます。だが、そうでしょうか。違います。少なくともあの近代的な宿屋やホテルではありません。強いて言えば、あの原義の意味での宿屋です。つまり、それぞれの人の、それぞれの家の代りをしてくれるものです。

 であるならば、この「 S  園 」のような建物は、家つまり人のすまいをつくるのと同じ考えかたでつくらなければならない、と私たちは思います。

 

 しかしいま、このような「施設」や病院の建物も、そこに(仮に)住む人たちに接する人たちも、その多くは、あの近代的・合理的な旅館やホテルの建物、従業員、あるいは経営者、と同じようになってしまっているのではないでしょうか。

  考えてみてください、このような「施設」に(仮に)住む人たちがそれぞれ自分の家にいたとき、親たちは、その子どもたちの面倒を看るのも、しつけを指導するのにも、あの近代的な旅館やホテルの従業員のサービスのようなやりかたでしていたでしょうか。

 host する、ということのそもそもの意味が見失われてしまったのです。あの host を語源とする hospital においてさえ。

 

 この「 S  園 」の建物は、その寸法も材料も、そしてつくりも、できるかぎり、ちょっと大きめの住宅をつくるようなつもりで設計しています。なぜそうしたかは、ここまで述べたことで、おおよそはおわかりいただけただろうと思っています。要は、ここに住まなければならない人たちにとって、ここはすまい:家以外のなにものでもない、ということです。

 

                                                                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より  

          

 たとえば、この「 S  園 」の床をとりあげてみます。ご覧になればすぐわかることですが、まわりの地面からの床の高さは、普通の木造の住宅の場合と同じです。玄関には、ちゃんと上り框があります。縁側のような廊下に腰かけて足をぶらぶらすることもできます。この高さは、昔の農家の土間と座敷の高低差と同じぐらいの寸法です。日本の住宅では、昔から、土の上では履き物、上り框から上では履き物なしでした。よくはわかりませんが、泥んこになる稲作主体の農業をするなかで生まれた知恵なのかもしれません。こうすれば、土間より上の間は自ずと汚れないでしょう。履き物で上るには相当気がひけます。家のなかに入るときは履き物をぬぐという習慣は、建物のこういうつくりが保ってきたのではないか、とさえ思います。

 しかし、近代的な建物では、床がどんどん地面に近づきました。上下足を厳格に分ける建物においてさえそうです。これでは、風が吹いたって泥は吹き上りますし、どうしたって上の間が汚れてしまいます。履き物のまま、ちょっと上ったっていいや、なんて気にもなります。そうなると、上の間をいつも清潔に保つため、掃除が楽な材料の床がよい、ということになります。泥が上りこんだ床の掃除は、どうしたって乱暴になりますから、材料もそれ向きとなります。合成樹脂製の床材がはやるわけです。

 そして、上下足を厳しく分ける建物では、上の間でも別の履き物を履くのがあたりまえのようになり、だれも不思議にも思わないようです。そして、合成樹脂製の床材だと、ますます履き物が欲しくなります。

 

  「 S  園 」の建物の床は木製です。便所の床まで、一部は木製の材料を使っています。ほんとは、縁側に普通使われる桧の縁甲板を使いたいところですが、残念ながら費用の点で無理でした。それでも、ここで使ったのは、住宅の室内用の床材です。ですから、掃除も住宅での掃除と同じやりかたになります。住宅の掃除と同じような気の配りかたが必要になるでしょう。

 この床の上なら。素足で歩いてもらってもよい、と私たちは思っています。便所だけを除いて。日本の住宅は昔からそうでした。土間より高い上の間では、床上を歩くとともに、そこに坐りもしました。これは、基本的に、いまでも変りありません。でもいまは、板の床の部分はスリッパを履くのがあたりまえのようになってしまいました。洋風が入りこんでから、なんとなくそうなってしまったのだと思います。けれども、スリッパを履くという慣習は、床の上に坐ることもあるようなすまいかたにとって、必らずしも適切だとは言えません。不潔だからです。素足は、汚れればすぐ洗えます。かつての室内履き・足袋も、そしていまの靴下もしょっちゅう洗います。しかし、スリッパはどうでしょう。一週間に一度洗った、などということは聞いたこともありません。スリッパ以外のいわゆる上履きも同じです。要するに、土間からわざわざ離した上の間を、土足で歩いているようなものなのです。旅館の浴場の脱衣場で、スリッパと裸足が同じ床面で混じりあい、不快感を覚えたことがありませんか。

 もとはと言えば、すまいのつくりかた、すまいかた、材料の選びかた、そしてその手入れのしかた、これは全て一体のものとして考えられていたのです。

 いくら生活が洋風化して椅子に腰かけるくらしかたが増えてきても、私たちの生活から、床に坐りこむくらしかたが消えてしまうことはまずないでしょう。以前の私たちのくらしかたは、土間から上では、極端に言えば、坐るか立つかでした。洋風化が時の流れであると単純に考えてしまうと、合理的な生活は、腰かけるか立つかだと、ふと思いたくもなりますが(スリッパ導入は多分そのせいです)、そうではないでしょう。いまの私たちの生活は、坐るか、腰かけるか、立つか、なのです。そうだとすると、昔ながらの和風のつくりでは間尺にあいません。もちろん、洋風でもそうです。

 毎日の生活のなかで、襖や障子の引手の位置が少し低いなと思ったことはありませんか。慣れてしまっているので気にならないとは思いますが、その気になって見なおしてみると、立って開けたてするには少し低めです。いまでこそその開けたては、大抵立つたまましますが、もとはといえば、坐った姿勢で開けたてすることが多かったのです。引手の高さは、それによって、自ずと決ってくるのです。立った姿勢向きでは必らずしもないわけですが、立っての開けたてが多くなったいまでも、その尻尾を引きずっているのです。面白いことに、洋風のドアのノブの位置も、本場のそれに比べると、身長の差を考えにいれても、少し低めです。長い生活慣習のなかで引手の高さはこんなものだという観念ができあがってしまっているからなのでしょう。こういうことはよくあることで、その正常化には時間がかかります。

  しかし、襖や障子をなぜ坐って開けたてしたのでしょうか。

  近ごろ、ある旅館の和室に泊って、こんな経験をしました。その和室は襖をへだて前室につながり、ほんのわずか、10cmほどの段差があります。和室でくつろいでいますと、声がかけられ襖が開きました。女中さんがそこにぬっくと立ちふさがるように立ち、私を見下しています。気押されるような感じです。昔の旅館の女中さんはこんな風には部屋に現われなかったでしょう。必らず坐ってこちらを見ていたように思います。そうしますと、目線がそろいますから気押されるような感じは受けません。

 つまり、坐るか立つかの和風の生活が、襖や障子を坐って開けたてするという所作を生みだしたに違いありません。そうすることによって、坐っている人が脅やかされることがふせげるのです。

  

 いまは、坐る、立つ、の他に、腰かける、もつけ加わりました。そして、坐る姿勢が主となる和室に入るのに、わざわざ坐って戸を開けるというような面倒くさい所作も省略するようになりました。ですから、いままでの和風のつくりのように、和室とその他の部分たとえば廊下がほほ同じ面で続いているようなやりかただと、場合によっては、さきほどの近ごろの旅館での体験のように、和室にいる人がくつろげなくなることが十分あり得るのです。いまの建物で和室を設けるときには、この点を考えに入れてみる必要があるように思います。もしもあの旅館の和室と前室の関係が、ちょうどあの昔の農家の土間と上の聞のような高さ関係であったなら、女中さんが立っていても、別に気押されるような感じを受けることもなかったのではないでしょうか。

 この「 S  國 」の建物の畳敷の室:和室の床面は、ラウンジと呼んでいる板の間(カーペットが敷いてあります)より、ちょうど椅子の高さ分高くなっています。もしそれが、ラウンジの面とほほ同じだったならばどうなるか、想像してみてください。多分、うらびれた、うそ寒い感じの室になってしまうのではないかと思います。

 ただ、この段差は、少し危いのではないか、という声も聞かれます。今後の様子を見ながら考えてみようと思っています。

 床の話にことよせて、「 S  園 」の建物の設計にあたって考えたこと、というよりも、日ごろ考えていること、の一端を述べてきました。要は、一軒の家をつくるのと同じに考えたということです。 そのことは、屋根をはじめ、いわゆる外観を見ていただいても、おわかりいただけるのではないか、と思っています。

 

 けれども、建物づくりは、所詮、いわば舞台をつくったにすぎません。ここに住みつく人たちが、みごとにその毎日を演じることによってはじめて、この建物はほんとの意味での家、ほんとの意味での「施設」になるのだと思います。そして多分、みごとな毎日を演じてゆく上で、舞台に、おもわしくない点が見つかることでしょう。そのようなとき、私たちは、よりよい舞台にしつらえなおすように考え努めるつもりです。私たちは、ここで、みごとな毎日、新鮮で生き生きとした毎日が演じられることを望んでいるのです。

 

 

 そして最後に

 「 S  園 」の建物は、形をなして残りました。しかし、それが形をなすまでの過程は、もう見えません。この「 S  園 」という「施設」設立の想いに燃えた人たちの、まさに血を吐く思いの毎日は、形をなして残るものではありません。そして、建物の工事に着手して以来六ヶ月、その間に実際にこの建物をこしらえるのに手をかしてくれた職人さんは延べ数千人にもなりますが、しかし、この人たち流してくれた汗もまた形をなして残ってはいないのです。

  「 S  園 」の建物は、いま、何ごともなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降って湧いたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです。

 

 そして、この建物が「 S  園 」なのでもありません。くりかえしになりますが、建物は「 S  園 」の舞台でしかないのです。ここに住みつく人たちによって、みごとな毎日、生き生きとした毎日が演じられたとき、それが「 S  園 」なのです。

  末尾になりましたが、あの延べ数千人に及ぶ職人さんたちを操り仕事をしていただいた株式会社 H  組 の方々に篤く感謝の意を呈します。

                   1983年6月1日

                      設計者一同( S  園 建設構想研究会)

 

 

 

  

 

 

                 「建築設計資料14 心身障害者福祉施設」建築資料研究所 1986年より 

 


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「第Ⅳ章ー3ーB1豊田家」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-12 12:15:11 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B1」 

 

B 住宅建築-2:商家住宅

 町なかに暮す人びとの住居は、町なかの地割:狭い間口で奥の深い敷地:に建てるという制約を受けます(間口で租税を納めたからだと言われています)。そのような町なかにつくられた住居は、一般に町家と呼ばれます。

 どの時代にも町家はありましたが、現在遺っている町家は、徳川幕府が成立して世情が落ち着き、町が安定してから建てられた建屋がほとんどです。

 町には、周辺の地域の人びとの暮しに必要な機具などの製造にかかわる職人や、物資の流通にかかわる商人、その人たちの下で働く人たちなどが住み着きます。

 たとえば、大阪の、近江の近江八幡、江戸の蔵前日本橋界隈などは、町として大いに発展して多くの町家が建てられています。

そのなかでも商家の住宅は、町家の代表的なつくりとなります。

 

 しかし、現在遺っている町家の事例は、文化財として移築保存されているもの、あるいは、当該の町が「近現代の開発」の荒波を受けることが少なかった地域に限られます。

 1970年代頃から、町家とも従来のまま遺っている地区が脚光を帯びるようになります。「近現代に生まれた町・町並み」に比べて、その佇まいが、人びとの目に、好ましいものに写ったからです。その結果生まれたのが伝統的建造物群保存地区制度です。木曽路の妻籠宿がそのはじめです。以来、多くの地区が保存地区の指定を受けています。 

 ただ、この制度には、すでに23ページで触れていますが、大きな問題点がありました。

 それは、「何を保存するか」という点についての「合意」があいまい点です。

 多くの場合、保存地区に遺っている建物の形体を保存し維持することに目標が置かれています。

 たとえば、当該の地区内で新築や改築を行なう場合、その外観を、その地区の代表的な建物(重要文化財に指定された建物など)の見えがかりの形体に倣うことが求められます。それゆえ、その地区で現在の暮しを続けるには障害になり、できあがった町は、あたかも時代劇のセットのごとき様相になってしまうのです。

 町は、一時にできあがるものではなく、それぞれの時代の蓄積がその表情をつくりだすのです。したがって、それぞれの時代の材料やつくりかた、形が変っていてあたりまえです。木造の建物に並んでコンクリートの建物が建っても構わないのです。それらが「同じ考え方」の下でつくられたとき、町並みの佇まいも壊されることなく継承されます。それが無視されたとき、町並みも壊されます。

 この論理は、農家住宅など比較的散在して建てられる場合でも同じなのですが、とりわけ、建屋が肩を並べて建つ町なかでは、その影響が目に見えるかたちで現われてしまうのです。

 

 以下にいくつかの典型的な町家の事例を紹介しますが、それを建物単体としてではなく、通りへの対し方、隣家への対し方・・・など、町を形づくる一要素として見る必要があります。

 ここでは、地区全体が保存地区に指定された奈良県橿原市の今井町、近江商人の町として成長した近江八幡の商家住宅を中心に見ることにします。

  

B-1 豊田家  寛文2年(1662年) 所在 奈良県 橿原市 今井町

 今井町は、室町時代末頃、一向宗の門徒が集まってつくった寺内町(じないまち)を基に発展した町。その中心になったのが称念寺(下図参照)。

 

 今井町位置図

 奈良盆地を南から北、そして西へ流れる大和川の上流:飛鳥川の西岸に位置する。

 

 今井町地割図                             日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 東西約600m×南北約300mの一帯は濠で囲まれていた。 寺内町の頃から、町人の自治の下に商業が発達し繁栄を誇っている。 中世には、寺内町から普通の町になるが、町人自治は継承された。 今から30年ほど前まで、町内には交通標識がなかった。警察が町に介入するのを嫌ったからだという。

 享保年間(1700年代初頭)、戸数900(内持家220余、借家700余)、人口4000人、江戸時代通じて、ほぼ一定。 現在は、自治意識は以前に比べ希薄になった感がある。

 今井町には、地区のまとめ役であった今西家をはじめ、8戸の重要文化財建造物に指定された持家層の建屋があるが(上図参照)、ここでは中間層と考えられる豊田家高木家を紹介する。

 豊田家は1662年、高木家は1840年頃の建設で、約180年ほど建設時期に差があり、その間の技術的な変容を見ることができる。

 

 

 通り側の外観                                                                           日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 当初は材木商牧村家の所有。2階壁面の紋がそのことを示している。

 明治初年に豊田家が住み始める。ここに住むようになった豊田家は醸造業の本家からの分家。したがって、現在は豊田家ではあるが、材木商牧村家の本店としてつくられた建物である。

 牧村家は、西の木屋と称し繁栄、幕末には大名貸もしているほどである。

   

 

平面図   ぶつま上には2階を設けない (番付は、豊田家住宅修理工事報告書の番付による。)

 

桁行断面図             平面図・断面図は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集     

 

 今井町飛鳥川大和川上流畔の沼沢地につくられたため、地下水位が高く、地盤は軟弱である。 解体修理時、礎石にはかなりの沈下が見られ(最大は平面図のり-六柱の168mm)で、床組材はほとんど腐朽、軸組部の柱などにも腐朽が目立ち、多くの虫害(シロアリ)も発生、建物は全体に西南方向に傾いていた。 軸組に比べ、小屋組には腐朽や虫害は見られない。

 はすべて礎石立て。 り-六柱の場合、礎石は約70cm径、厚50cm弱の自然石を用いているが、地業は穴を掘り握り拳程度の川石を敷き詰め突き固めて礎石を据え、周囲を突き固めた程度で比較的簡易であった。                                          

 軸部の組立は、東なかのまの2本の太いケヤキ柱の建てを行い、この柱間の差鴨居足固貫を入れ、次いで西側の差鴨居足固貫をいれ2階梁を架けて6室を固め、次にしもみせまわりを組み、どま側の柱建てを行い、を入れ周囲の敷桁をまわし、どま上の牛梁を架け、桁行の2列のを架けて各梁行を架ける、という手順を踏んでいる。

 2階床梁は、差鴨居上の束柱で受けている(現在の胴差方式ではない:架構分解図参照)。

 平面は、室側を6.3尺×3.15尺の畳、4.8寸角の柱を基準にした内法制で計画し、どま側で逃げをとり調整したものと考えられる。 解説は、豊田家住宅修理工事報告書による。

 

 

どまからみせ(左手)東なかのま見る 柱ほ-六   写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集  

 

どま通り側・大戸口を見る 太い柱ほ-六           

 

          

みせ 通り側開口   

  

どま見上げ 牛梁十二通り                  どま東面  貫:3.7寸×1.1寸 モミ材

 

梁行断面図                      日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集

 

 

東なかのま見る 差鴨居14.7×3.9寸   ほ-六、 ほ-十二柱  写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載

 

 (「第Ⅳ章ー3ーB 1 豊田家 後半」に続きます。) 


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「第Ⅳ章ー3ーB1 豊田家住宅 後半」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-12 12:14:32 | 日本の木造建築工法の展開

(「第Ⅳ章ー3ーB1 豊田家」より続きます。)

 

使用材料:礎石 切石転用石造り出し自然石     柱:総数75本内 通し柱21本 ほ-六柱 11.1寸角ほ-十二 9.5寸角ともにケヤキ い-十二 6寸×4.4寸  他はヒノキが主、平均4.8寸角  根枘 平枘頭枘 平枘または重枘

足固貫:約丈3.7寸×幅1.1寸 継手 略鎌楔締め    差鴨居 東なかのま 14.7寸尺×3.9寸、他は丈9.6寸程度×3.9寸    貫:土間東壁面 モミ 3.7寸×1.1寸 柱芯納め   小屋貫:モミ 2.1寸×0.7寸 継手 略鎌中途継ぎ

 

架構分解図 番付は、豊田家住宅修理工事報告書の番付による。 日本の民家6 町屋Ⅱ(豊田家住宅修理工事報告書)より転載・編集

                      

 

 

                   豊田家住宅修理工事報告書より転載(着色・〇は編集)

十二通り 差鴨居分解図 

差鴨居~柱の仕口 ① 枘差込み栓 ② 雇い枘を、送り蟻に植え込み、差鴨居を差し、シャチ栓を打ち締める 

 

      

ほー十二柱~差鴨居 仕口 送り蟻 詳細        この方法は、柱を貫通する孔をあける必要がない 

 

 

2階床組 桁行詳細    差鴨居上束立て根太掛け(床梁:1階大引に相当)架け、根太を受ける。

 

 

2階床組 梁行詳細           2階には部分的に竿縁天井を張る。

        

 

 矩計図                             日本の民家6 町屋Ⅱ(豊田家住宅修理工事報告書)より

 


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「続・水田の風景・・・・風景の成り立ち」 1983年5月

2019-11-05 16:26:46 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №3」 A4版10頁 

 

   ・水田の風景・・・・風景の成り立ち    1983年度「筑波通信№2」

水びたしの風景

 久しぶりに筑波山に登ってみた。あいにく雨上りだったから、遠望はきかなかったけれども、足もとに拡がった景色は一見に値するものであった。私はその景色を見て、いままでこの季節には筑波山に登ったことがなかったことに、あらためて気がついた。それは、いわば初めて見る景色だったのである。

 足もとは、一面の水びたしであった。水が低地を浸し、悠々とした大河のごとくに延々と続いている。その一面の水の拡がりのなかに、緑あざやかな木々のかたまりが、小島のように浮き、家々の屋根が緑の間に見え隠れしている。集落なのである。

 もしこの景色を写真にとり、〇〇川氾濫!などという見出しでも付ければ、なかには信じてしまう人がいるかもしれない。それほど水びたしという感じを受けるのである。ただ洪水と違うのは、水が濁って見えずそして鎮まっていることである。

 この水は、なにも前日からのかなりの雨のせいではない。水びたしに見えているのは、一面の水田なのである。ちょうど田植えどきで、田んぼに水が張られているからなのである。昨年も私は「水田の風景」という一文を書いた(1982 ・ 6 第3号)。それは地上で見た水田の風景であった。そこで私は、ほんのわずかな落差を無数の水平面で構成し、自然流下のまま延々と続く水田、そしてそれを成し遂げた人々は驚異的な存在である、と書いた。そしていま私は、その偉業を上空からながめているわけである。そして、その驚異的な存在を、あらためて印象づけられているのである。数年前、中国の上海から西へ飛行機で飛んだとき、眼下に拡がる広大無辺の大平野の一面が水びたしに見えた。どこに人が住んでいるのかと不審に思ったほどである。だが、このちょうど田植えどきの日本の水田地帯の上空を飛べば、やはり一面水びたしに見えるのではなかろうか。

 

 五万分の一あるいは二万五千分の一の地図を拡げ、それをやや遠くからながめると、河川とその河川がつくりだした氾濫原(かつて河川が流れ、そしてことによると洪水のときにはまた流路になるかもしれないところ)と、その河川が削り残した、あるいは削り得なかった台地・丘陵・山地部分とが、画然として読みとることができる。そして、その平らかなる部分いっぱいに水があふれ流れている場面を想像してみると、それはまさに悠然とした大河の様相になるはずだ。いま私がながめている風景は、それを実際に(流れこそしないが)実現してみせてくれているようなものなのだ。つまり、洪水にあえばひとたまりもないであろうと思われるこの平らかなる部分は、水稲栽培に向いた土地で、そして人々は長い年月のあいだにこの可耕地をすべからく水田と化してしまったということに他ならない。これは大変な事業であると言わねばなるまい。

 なぜなら、(昨年も書いたことだが)いまのいわゆる圃場整備なら、いよいよになれば給排水を機械にたよればよいし、まず第一に広範囲にわたっての地図・測量図がある。その意味ではきわめて合理的にことを処理することができ、いわば容易な土木工事のうちに入るだろう。だが、いま私が見ている風景は、かならずしも全てがそういう近代的な土木工事によってできあがったのではない。それ以前に既にその下地はつくられていたのである。

 

 

  

水田の諸相

 私の足元に拡がっている山すその、少し山側に入りこんだ部分(上の地図参照)は条里制の名残りのある水田である。先述の水びたしの地域の中央を流れる主要河川桜川の一支流域に聞かれたものである。支流が本流に合するあたりの標高が15mほど、そしてこの条里制の遺構のあたりのそれは25~35 mである。そして、合流点から遺構の最奥部までは約3000mであるから平均勾配は150分の1ぐらい、一方合流点から本流の河口までは約15km、従って平均勾配は1000分の1である。1000分の1というのは1000cmつま10m行って1cm上る(あるいは下る)という勾配であるから、いかにゆるやかなものであるかわかるだろう。水はけは悪いと言ってよい。つまり、一帯は湿地帯なのだ。勾配150分の1という傾きは、これはもう目に見えて傾いていることがわかる。 1m50cmで1cmの傾きというのを目の前に描いてみればすぐわかる。水を導くのも、また水はけをよくするのも容易である。因みに、現在の排水管の設計でも、150分の1あればまあ問題はない。

 

 水稲の裁培は、その土地の勾配そのものとは関係なく、言ってみれば水が得られればよい。湿地があれば(得られれば)よいのである。だから、水稲裁培の極く初期段階でも、先に例示した二様の地も選ばれ得たと思われる。だが、1000分の1勾配程度の土地:湿地帯は、いわば常設の湿地帯であり、そもそもその成因からして肥えた土地でもあるから、耕作向きの土地なのだが、同時にそこはまた不安定でもある。増水により、またいつ流れが変るかわからないからである。つまり、常設の可耕地ではあっても、安定した耕地ではなかったのである。

 もとより水稲に拠り定住生活をおくる以上、人々が安定した耕地を求めるのも当然なことだろう。人々が、まず初めに好んで選んだのは、昨年5月の「善知鳥(うとう)によせて」(1982・5第2号)のあとがきで紹介した、「やち」「ぬた」「うだ」など場所によりいろいろな名で呼ばれる「川の源流のような幅も狭く深さもそんなにはない湧水や小河川のまわりの湿地帯」つまり、猫の額ほどの狭い谷状の土地であった。こういうところならまず変動はないから、労せずして安定した耕作が可能であった。あちこち歩いてみると、いまでも、このような土地はまずほとんど水田になっているし、現在荒れはてている所でも、かつてそこが水田であったことを十分にうかがい知ることができる。(休耕田として見捨てさせられたのは、こういうところが多い。)

 もとより、より広い湿地を田とした場合もないわけではあるまい。しかし、安定度の面で、変動の少ない場所は滅多になく、せいぜい河川とは縁の薄い沼沢地ぐらいしか考えられず、そういうところは限られるはずである。

 

 

 だが、こういう「やち」・・・・状の土地は、その生産量を限定してしまうから、それに拠る生活をも限定してしまう。絶対面積が足りないのである。そこで選ばれてくるのが、さきの条里制の遺構の残されているような状況の土地である。水はけよく、河川の増水の影響の少ない土地である。たとえば、ちょうどいま私の眼下に見える河川の一支流がつくりなしたちょっとした平地部分である。上図を参照していただきたい。

 この図の白ぬきの部分が水びたしの部分、つまり水田である。そして図中「筑波町」という標示の「町」の字のあたりから左手に拡がる白ぬきの場所が条里制遺構の地と言われ、つい最近までは実際に条里を目で見ることができたという。古くは水田を「たい」と呼んだらしいが、図中の神郡(かんごおり)、館、臼井、立野、六所(ろくしょ)、・・・・の集落(元はそれぞれが村であった)が筑波町として合する前の一時期は、「田井村」としてまとめられていたようだ。小学校の名は、いまでも「田井」小学校である。

 

 古代、人々はかなり早くからこういうところに目をつけたと思われる。各地に残る遺構も、大体これに似たような場所に多いようである。もちろん、その水田化は、条里制施行以前からのはずである、ここは水稲栽培は容易で、生産性も高く安定し、それに拠る生活もまた安定し得たであろう。そしてそれは、また当然の結果として、為政者の側から見れば、格好の収奪の対象となる。条里制という土地区画制が、単に直接的に収奪を目的として生まれたかどうかは知らないが、いずれにしろ、目をつけられたことはたしかである。それというのも、当時にしてみれば、圧倒的に生産性の高い、しかも安定した収量が見こまれた土地だからである。こういう場所をその拠るべとしての耕地とし得た人々は、当然のこととして、財力と地位を築いてゆく。いわゆる古代の各地の豪族の拠点となった土地もまたこのような場所であった。

 おそらく、かなり時代が下るまで、水田の主役はこのような古代以来の土地と、せいぜいそれの隣接の地であったのではなかろうか。時代とともに、人口増とともに、新田の開発は必然のことではあったろうが、広大な低湿地全域への進出は、まさに夢のようなものであって、辛うじて河川の変動から逃れ得られそうな湿地のなかの微かな高所(せいぜい数m高いだけだ)にへばりつき、不安を抱きながら、耕していたにちがいない。不安定な、しかし広大な、可耕地を目の前にして、その安定化は彼らの常の焦眉の急であっだろう。だが、単純に時間軸で見る限り、安定化の作業は遅々として進まなかった。かといって、もちろん彼らが努力を怠っていたわけではない。第一努力などいうことばで済まされるような生易しいものではなかったろう。なにしろ生活がかかっているのだからである。だから、いわば生活に追われるようにして、低地へ低地へと、攻められるところから順次入殖をしていったのである。その速度は、現代の目からすれば遅々としたものに見えるかもしれないが、それが彼らの速度であった。そして、その長い長い間に、数代いや数十代にわたる間に、低地開拓の技術は、それぞれの地において、着々と醸成されていたのである。もしも、この平野開拓へ向けての技術の醸成・蓄積がなかったならば、徳川は決して関東平野に(江戸に)拠点を置く決断をしなかったろう。それより百年前であったなら、だれが、関東平野をいわば思いのままに扱おうなどと考えただろうか。仮に徳川が政権をとったとしても、百年前なら、江戸は拠点にし得なかった。

 

人が風景をつくる

 実際、江戸期に入ってからの平野低地部の開発は目ざましいものであった。さきほどの地図の白ぬきの部分のなかに見られる集落は、これが山上からながめたとき水びたしのなかの浮島に見えたわけだが、おそらくその根は近世以降に人々が住みついたときの拠点にまでさかのぼることができると思われる。特に江戸期以降、低地の安定化に意がそそがれてこういう集落の根が、低地のあちこちに生えていったのだ。

 当然、平野全体としての生産量は増加したのであるが、各部で見ればこの新開の地の生産性は、既存の地(つまり古代以来の地)のそれに比べると、数等劣っていただろう。たとえば、聞くところによれば、茨城県南から埼玉の中東部へかけては、いまでこそ生産性の高い豊かな米どころであるけれども、生産性が高まりだした(つまり安定しだした)のは大正期からで、それが決定的に安定したのは、なんと第二次大戦後、しかもかなりたってから、いわばつい最近のことなのだそうである。大正ごろより、機械力の導入による排水、乾田化が飛躍的に進み、そして戦後、数度にわたる台風被害(洪水)を契機としての整備が、これも近代的な機械力にたよって進んだからである。それにより、それまで人々の意のままの介入を拒んでいた低湿地が、見事な田んぼと化していったのである。

 このような、土地土地によってその生産性が安定した(つまり生活が安定した)時期が違うということは、その土地に拠ったそれぞれの村の構えに敏感に反映しているように思われる。あの条里制の敷かれたような土地は、いまでもあいかわらず豊かな土地なのだが、いわば古代よりいまに至るまで常に、それに拠った村々の生活を安定したものにしてきただろう。これに対し、低地の新開の地は、決して人々の生活を安定して保証するものとは言い難く、ほんとについ最近まで、極く貧しい状態を強いられていた。因みに、いわゆる民俗学者と呼ばれている柳田国男は13~16歳の少年時代を茨城県南の利根川べりで過しているが、後に、その明治二十年ごろを回顧して次のように記している:「・・・・の町に行ってもう一つ驚いたことは、どの家もいわゆる二児制で(あると)いうことであった。私が兄弟八人だというと、どうするつもりだと町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情は、子供心ながら私にも理解できたのである。あの地方は四五十年前に、ひどい飢饉に襲われた所である。・・・・」。このあたりは、いまでは穀倉と呼んでもおかしくない風景を呈している。

 

 だから、それぞれの土地が過去たどってきた道すじによって、それに拠った村々の構えが違ってくるのもまったく理の当然なのであり、実際に歩いてみても、その差はその風景に歴然として表われていることを感じることができる。いわば、風景が(人々の営為の)歴史を語っているのである。

 あの古くから開かれ、古くから豊かであったと思われるあたりの村々を歩いてみよう。多分その村々の人たちの田であろう、もう田植えの終った水田のまんなかに降いたち、そこからその村(集落)へ向うことにする。それらの村は、新開の村々とは違い、浮島ではない。四周を水田の海に囲まれてはいない。いわば、水田を海にたとえるならば、その浜辺、特に入江状のちょっとしたひそみだとか、あるいはその海にとびだした半島状の地にへばりついている。さきほどの地図を見ていただければ、このことはお分りいただけるだろう。前者の例が立野や六所の集落で、ここは南に開けた気分のよい所である。後者は神郡や館の集落で、ちょっと見ると島のようにも見えるがそうではなく、裏手の山と地続きである。この後者の場合、神郡と館の間の入江状の部分があるのに、前者の例のように人が住みつかなかったのは、多分、北向きで日陰げのようであるからだろう。

 いずれにしろ、水田と村との間は、坂道があり、そのあたりから樹木がうっそうと茂りだし、木の間隠れに家々が見えてくる。もちろん、古くから豊かな土地だといっても、家々は変っているはずである。だが、家々をとり囲んでいる樹木は、ことによると家々よりも古いのではないかとさえ思えるほどだ。樹木の一本一本は若くても、全体のつくりなす姿:林相は、いわば年季が入っているように見えるのである。道も、そして屋敷への入り口も、どこもみなしっとりとした、人の心をなごませる形を、私の目の前に見せてくれる。道の両側には、屋敷境をなす素朴に刈りこまれに垣根がならび、そこに口を開けた入口からは(ときには立派な門があるときもあるのだが)そこだけ陽をよく浴びた庭が見え、屋敷内が思った以上に奥があり広いのに、ちょっとびっくりする。その庭に面して、母屋が建っている。それはまことに人なつっこい空間である。あの、遠くから見るとうっそうと茂っているように見える林のなかに、どうしたらこんなすきまができるのかと不思議に思えるほど、その陽あたりの庭はゆったりとしているのである。おそらく、こういう集落を真上からながめると、樹林のなかに、ぽかりぽかりとある大きさのすきまがならんでいるのを確認できるのではなかろうか。そして、私たちはとかく、人のすまいというと家という建物そのものを思ってしまいがちなのだが、こういう例を見るにつけ、すまいはこのすきま:樹林のなかにあいた穴全体なのだという意を、あらためて強くする。つまり、樹林や垣根に囲まれた屋敷全体ですまいが成りたっているのである。

 そして、樹林がすまい:屋敷を形づくるのに重要だからこそ、代々手が入れられ世話をされ大事にされ、その結果、あのようにうっそうとした年季の入った姿を呈しているのである。これは一朝一夕にしてできあがったものではないのである。そしてそれはもちろん、いわゆる天然自然の林ではなくまったくの人工林なのである。あの国木田独歩描くとこの武蔵野の雑木林も、なんとなくそれこそが武蔵野の自然などと思われていたようであるが、あれもまた毎年手を入れられた人工の姿で、もし手が入れられなければ、あんな具合の林相にはならないのだそうである。だいたい、いつのころからか、私たちが私たちの身のまわりで見かけるいわゆる自然の景観というものが皆、実はまずほとんど人が手を入れることによって成りたっていたのだという厳然たる事実が忘れ去られ、字のごとく自然のままに放っておかれたものが自然だと思われるようになったのが、決定的な誤りなのである。私たちの身のまわり、日常のまわりには原生の自然などないのである。そして、手を入れるという作業の結果それらが成りたっていたという重大な事実が人々から忘れ去られたとき、原生の自然はもとより、あの人工の自然をも、人々は平気で軽く扱うようになってしまったのだ。生活の必然として手塩にかけるという過程を失ったとき、それらのもののもつ重み、大事さ、ほんとの価値をも、同時に失ったのである。

 

 かくして、その根をはるか昔にまでさかのぼれる村々は、一見してそれと分る実に見事な樹林でつつまれることになり、慣れてくると、遠望するだけで、村の所在が判別できるようになる。

 これに対して、新開の地は、いま一つ、こういう言いかたを許してもらえるならば、すさんだ感じがある。それはもちろん、あの堂々としたいわば完熟の期に入ってしまったような村々に比べてのはなしであり、都会の新興住宅地などに比べれば数等ましである。それはちょうど、成長の過程で現代をむかえてしまったという感じで、続々入りこむ現代風なやりかたが、その順調な成長をとめてしまったかのような気配が見受けられる。考えてみれば、こういう所の方が、あの完熟した村々よりも現代が入りこむすきが多いのである。しかも、生活にゆとりができた、つまり生活が安定したのはつい最近のことだからなおさらである。その上、その安定は、生産性の向上と安定である以上に、現金収入の安定であったから、それまでの変化とは違う様相を呈してしまったのだ。

 あちこち歩いていて気がつくことなのだが、この新開と思われる村々では、いらかをそびえさせ、屋根を神社か寺のように反らせ、やたらと軒が高く、材も太々しい、新築のそれなりに豪華版の家を目にすることが多い。まわりの古い家がつつましいから余計目だつ。実際それは、目だつことに意義を認めているらしい。おそらくそれは、それまでの数代というもの叶えようにも叶えられなかったことを、最近に至っての急激な財力(換金された現金)がそれを可能にし、勢い余ってこういう形に走ってしまったに違いない。ことによると、ほんのつい最近まで飢えにあえいでいた新開の村の方が、金力の点では旧村よりまさってしまったのではあるまいか。逆転したのである。あの新しい家は、そのことのいわばシンボルなのだ。それはまことに奇妙な家である。どう考えたって農業向きには思えず、第一、風景にそぐわない。というより、そういう風景のなかから自ずと生れたのではない。だが私には、一概にそれを否定する気にはなれない。彼らがそうつくりたかった心情は、仮にその吐露のしかたがおかしなものであったとしても、ある意味では当然のことであったのだし、はたがとやかく言うことでもないからである。第一、時間はかかるかもしれないが、もしそれが彼らの生活に適さないことが身にしみて分れば、彼らは(彼らの次の代は)それを修正するに決っているからである。あの古き村においても、もちろんこれほどの突然変異的なことはなかったろうが、これに似たことは過去何度もあったに違いないと私は思う。あの古き村において目にする完熟の姿も、一度にして成ったのではなく、いわば時のフイルターでこされた姿なのではなかろうか。

 

風景の原点

 私はいま、数年前目にしたある光景を思いだしている。茨城県西の、ほんのつい最近まで近代的交通機関から見はなされていたいわゆる陸の孤島と呼ばれた地域を歩きまわったときのことである。そこは、水田主体ではなく畑作が主である(水田がないわけではない)。畑作といってももとは桑畑が主であったようで、それが煙草・茶に変りここ最近は東京向けの野菜の産地に変身し、全般に現金収入が急増した土地柄である。わざわざ全般にと断ったのは、もとは貧富の落差が激しいところのようであったからである。

 このあたりを遠望すると、水田地帯と違い、のどかにしてなだらかな丘が延々と続き、やはり集落はうっそうとした樹林に囲まれている。ここで目につくのは、家々が(つまり屋敷が)いわば角刈りにされた高さ7・8mの樹木に囲まれている姿である。ほぼ方形の屋敷の四周をその巨大な垣根に囲まれているわけだから、遠くからは、緑の立方体がならんでいるように見える。建物の屋根は、緑にくるまれてしまって、まずほとんど見えない。近くによってみると、この巨大な垣根は、常緑の樹木:たとえば椎:をいわば矯正してつくったものだ。垣根の厚みは1~1.5mぐらい。樹木は垣根の長手方向に5~6mおきに植えられ、枝をその長手方向に、ちょうどすきまを埋めさせるように強引に引っ張り、逆に短手つまり厚みの方向への自由な生長を押さえつけることによって、この角刈りはできあがっている。こうなるとそれは、いねば緑の城壁で、入口もこの城壁にアーチ状の口が切り開かれ、あたかも城門のようである。門から中をのぞくと、そこには先に述べたのと同じく人なつっこい落ち着いた空聞が、その外側とはまるで違った空気をともなって拡がっている。こうなるとこれは、明らかに、普通言われるような単なる防風林としての解釈では不足のようだ。これはむしろ、すまいを形づくるためにつくられた壁なのだ。先に述べたあの古き村々のすまいづくりが、樹林のなかに穴をうがつやりかたであったとすれば、ここで見るやりかたは、なにもないところに樹木を植えこむことによって穴をつくるやりかただと言えるだろう。

 この集落から大分はずれた利根川沿いの河川敷のようないわば荒地に(そこは川のそばではあるが水がないから水田にならない)一軒の家が建っていた。どうやらそのあたりをまったく新たに畑にせんとして住みついた人の家らしく、どこかでもらってきた材でつくりあげた、掘立て小屋のようなみすぼらしく見える家であった。私の興味をひいたのは、その家のまわりに、ほんの1~2mの高さの細い樹木が、多分それがその人の頭のなかにある屋敷境なのだろう、方形に、その貧しい家をとり囲む意志を示して植えられていることであった。それは、よく見かける生垣にさえなっていなかった。すきすきなのである。私は、あの堂々とした緑の立方体の屋敷構えの家の映像を、この目の前の屋敷の上に重ねていた。この屋敷は、いつ、あの緑の立方体になるのだろうか。

 私は、この一見みすぼらしい屋敷構えに、人間の強い、しかたかな意志と、日ごろ私たちの身のまわりで目にする風景の原点を見る思いがしたことを、強烈な印象として覚えている。   

 

風景が歴史を語る

 私たちが、自然保護だとか、景観保存だとかいうことばを聞くようになってからもうかなり時間が経ったような気がする。だがそれらは、いまもって、いずれも、既存の自然・既存の景観の保護・保存であって、その意味することは、極端に言えば、一切それらに手をつけるな、ということに等しいだろう。

 だが、私がこの筑波山からながめている水びたしの平野の景観はもとより、およそありとあらゆる私たちの身のまわりに拡がる自然も景観も、どれ一つとして原生の姿のままのものなどありはしない。どれもこれも人が手を入れ、そしてつくり成しかものなのだ。手を入れたからこそ既存の自然の景観も在ったのだ。しかし、人々が(特に大多数を占めるようになった都会の人々が)この人の手によって成りたったという厳然たる事実を忘れてしまったとき、自然も景観も、単なる絵・映像としてしか見られなくなってしまい、手の入れかたさえ分らなくなってしまったのだ。

 私たちの日常をとり囲む自然も景観も、それには絶対的・固定的な理想形があるのではなく、本来、人々の営為を通じて、時代とともに、いわば醸成されて生まれくるものなのだ。そして、だからこそ、風景が歴史を語ってくれるのである。

 だが、いま水びたしの水田の向うに煙っているあの研究学園都市の偉観は、はたして、このような意昧での歴史を語る風景になり得るのであろうか。

 

 

あとがき

〇3ページに載せた地図は、国土地理院の五万分の一地形図を基に、概略、水田として使われている土地だけを残して、網点をかぶせてみたものである。ここにでてくる集落は、まずほとんどが農業に拠る集落なのだが、図中の中央「つくば」とある駅の周辺のかたまりは違う。あたりに水田がないから網点をかけてしまってあるが、しかしここはその周辺と同じく低地であり、山のはりだしなどではない。元はここも水田であったと見てよいだろう。そこから網点を取り除き白ぬきの部分に組みこむと、山すそがつながり、白ぬきの部分も川すじなりの自然な形となる。(ここで言う自然なということばの意味は、もちろん、然るべくしてある、というそのことば本来の意である。)ここは駅ができてから生まれた農業集落とは違う成因の集落:町なのである。

〇こうして見てみると、この地図に示されている地域は、未だに、然るべくして在る地形と、その然るべくして在る性状に対して、人々が然るべく適応した(適応しようとした)様子を歴然として残している地域であると言うことができるだろう。そしてこれが、農業に拠って生きる人たちの必然的につくりだす風景なのである。農業とは、もともと、然るべくして在る土地に、然るべく適応することを業とするものだからである。

〇だが、農業のように然るべくして在る土地に直接的に適応する要がなくなったとき、人々はどう住むのだろうか。「つくば」の駅のまわりの町は、その土地そのものにではなく、駅に拠っている。だが、駅の設定はなにに拠ったのか。そもそも、町に住む人たちの住いの構えかたは、なにに拠ったのか。機会をあらためて考えてみようと思う。ただ一ついま言えることは、たとえば東京も、いまその上に展開している密集した住居を、時間を逆に追い、次々とはぎとってゆくと、ついには3ページに載せた地図同様の状態に戻ってしまうだろう、ということである。といって、私は別に、いわゆるルーツ探しをしようというのではない。ストーリーを、それぞれの時代のストーリー、それぞれの時代をつなぐストーリーを探り、知りたいのである。

かっこうが鳴いている。昨年の、というより、このまえの、こういう日ざし、こういう風、こういう具合の表情を木々が示した、そういう時、やはりこの鳥が鳴いた。人々は、太陽がめぐるということに気づく以前に、めぐる季節に気づいていたのではあるまいか。

〇それぞれのご活躍を祈る。

          1983・5・25            下山 眞司


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