建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

清新で溌剌としていた時代・・・・鉄を使った建物に見る-1

2010-02-27 17:45:23 | 鉄鋼造
暗い話を吹き飛ばすには・・・、と明るい話題を探していたとき、手に取った書物:“LOST MASTERPIECES”(1999年、Phaidon Press,London 刊)で、清真で溌剌とした建物を見つけました。

この本には、1851年ロンドンに建てられた Joseph Paxton 設計のクリスタル・パレス(水晶宮)、1905~10年にニューヨークにつくられた McKim,Mead and White 設計のペンシルバニア駅とともに、1889年に建ったFerdinand Dutert 設計の「パリ万国博・機械館」が紹介されています。エッフェル塔がつくられた万博です。
いずれも近代建築史の書物にはかならず載っている建物で、当時の技術で鉄とガラスを最大限使った建物です。
そしてまた、いずれも溌剌としていじけたところがない。きわめて健やかです。

イギリスのワット(蒸気機関の発明者)とブールトンが、世界最初の鉄鋼を使った建物、7階建ての木綿工場(紡績工場?平面は長さ140ft:約35m×幅42ft:約10.5m。高さは25m前後)をマンチェスターに建てたのが1801年(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4e20811a5310328a715054d0bdf9c0f6参照)。
クリスタル・パレスの頃は、まだ緒についたばかりだった「材料力学」「構造力学」も、それからほぼ50年、パリ万博やペンシルバニア駅の建てられる頃には、「微積分学」を駆使してほぼ体系化されています。

ただ、この時代、これらの「学」は、現代とは異なり、設計者の意図を裏打ちするために使われていることに注目したいと思います。
当時は、「理論が実作を追いこす」ことがなかったのです(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4f8f4651ffc6129b69ebb7e286bc8be9)。

これは、日本でも同じ。当初、日本でも、「学」は「謙虚」でした。
それは多分、建物づくりに係わる「学」の「根」は「現場」にあることを知っていたからです。
おかしくなったのは、「学」が「現場」を離れ、「机上」で遊びだしてからなのです。


クリスタル・パレスはよく紹介されていますので、今回は、パリ万博・機械館を紹介します(もっとも、この書物にはクリスタル・パレスの施工過程も詳しく載ってますので、紹介したいとは思っています)。

下の図版は、1889年パリ万博の会場全体を俯瞰した図と会場全図(配置図)。
配置図の右端の赤い線で囲った部分が機械館。
同じく左端の黄色にぬった箇所は、エッフェル等の脚部。



機械館の平面図と外観を当時の写真から(右側は絵葉書らしい)。
平面図は、配置図の機械館を左に90度回転してあります。





断面透視図で見る全容。アーチの幅は360フィート:111メートル。とてつもない大きさです。


下は立面図。



下の左上の写真は竣工後の機械館内部。人の大きさに比べていかに巨大かが分ります。
他は実際の展示の様子の写真。


今回は、この建物の概要の紹介まで。
この書物(“LOST MASTERPIECES”)には、設計図と施工工程の解説が載っていますので、次回、整理して紹介します。
現在のような重機がない時代ですから、施工はすべて人力による建て方です。

音なしの構え

2010-02-24 13:59:27 | 専門家のありよう
     
      話題は暗くても、写真は清々しく!

22日に触れた建築設計事務所代表らによる「入札妨害・談合事件」。
発端は「代表」はじめとする容疑者の逮捕。それが11日。そして明日で2週間。

既に触れましたが、その「代表」は、茨城県建築士会、茨城県建築士事務所協会の理事でもあり、また日本建築家協会の会員でもあります。

ある会社で一社員はもちろん役員に不祥事の疑いがかけられたとき、「〇〇が容疑をかけられているのは甚だ遺憾です。事態の推移を注意深く見守っています。」とかなんとかコメントが出されるのが常だろう、と思います。
しかし、少なくとも現在のところ、役員を務めている会からさえも、出てはいないようです。

これはいったいどのように考えたらよいのでしょうか。
企業、会社ではないから・・・なのでしょうか。
それとも、こんな風に思うのは、異様なのでしょうか。
しかし、会員に対して、それでは失礼至極です。会費を払っているのですから。

何か、昨日触れた、自分の言ったこと:「約束」の期日を過ぎても何のことわりもない「木の・・・協議会」と同じ「体質」を感じるのは、私だけなのでしょうか。

こういうのが、建築界の「常識」でないことを祈ります。

続・経過?報告:3階建て木造の倒壊実験:試験体資料開示要請のその後

2010-02-23 17:59:55 | 「学」「科学」「研究」のありかた
表記の件、昨年12月28日付「木を活かす建築推進協議会」の当方への回答文書では、本年1月末までに公表すべく準備している旨、書かれていましたが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7a7cb35d99ad8ea58a4d7d287e315d08参照)、
1月末になっても公表されなかったことは、2月5日に報告いたしました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0fcc1dc785f852b58fa13764fc18c269参照)。

そして2月に入ってそろそろ25日ほど経ちますが、未だに開示はされていません。同協議会のHPにも変化はありません。

だんだん回答文書受領の日から、75日目が近付いています。
ことによると、「人の噂も75日」説の壮大な「実証実験」「社会実験」を行っているのかも知れません。
もしそうだとすると、補助金を出している「国交省・木造住宅振興室」の責任も問われなければなりません。

それにしても、どうして皆さん黙っているのでしょうね?不思議です。日本人は飽きっぽい?


再検・日本の建物づくり-11(了):「専門家」を「専門家」として認めるのは誰だ

2010-02-22 01:18:44 | 再検:日本の建物づくり
[註記追加 8.36][文言改訂 12.45]「語句改訂 15.32][標題に追加 26日16.09] 

今、茨城県の建築士たちの間で「ひそかに」話題になっているのは、ある町とある設計事務所にかかわる「入札妨害」「談合」事件です。
建設工事がらみでは数多見られる話ですが、設計業務がらみで挙げられるのは、きわめて珍しいようです。

なぜ「ひそかに」なのか。
それは、その設計事務所代表が、茨城県建築士会土浦支部の支部長だからです。茨城県建築士会の理事をも務めています。
そしてまた、当然ながら、談合にかかわったのは他の設計事務所で、具体的に名前は公表されていませんが(ある町とは最近の合併で市になった茨城県神栖市。その入札状況・結果は公開されていますから、そこから特定できますが)、その代表たちもまた茨城県建築士会の会員で、なかには役員を務めている者もいるようです。

   [事件を伝える「茨城新聞」2月12日記事]の抜粋
    神栖市教委が発注した小学校改築工事の設計業務委託の入札で、予定価格に近い価格を業者に漏らし、
    特定業者が落札できるよう便宜を図ったとして、鹿嶋署と県警捜査2課は11日、競売入札妨害の疑いで、
    神栖市産業経済部長、笹本昭(59)と同市教委教育総務課副参事兼課長補佐、沼田清司(55)の両容疑者ら
    計4人を逮捕した。
    県警は笹本容疑者が業者に便宜を図った経緯などについて調べを進めている。
    ほかに逮捕されたのは、同業務を落札した由波設計(土浦市)社長、由波(よしば)久雄容疑者(61)と、
    同社の営業を担当している設計会社顧問、黒沢周三郎容疑者(67)の業者側の2人。
    4人の逮捕容疑は神栖市立波崎西小学校の校舎改築工事に絡み、2008年5月の同工事設計業務に関する
    指名競争入札で、黒沢容疑者の依頼を受けた笹本容疑者が沼田容疑者に口利きし、由波設計を含む計5社を
    指名業者に選定させた上で、沼田容疑者が由波容疑者に非公表の予定価格に近い価格を漏らして落札させ、
    公正な入札を妨げた疑い。
        中略
    同業務は由波設計が予定価格の92・55%に当たる2400万円で落札し、改築工事は継続している。
    笹本容疑者は入札の約1カ月前の08年4月中旬ごろ、業者選定にかかわり予定価格を知る立場にあった
    沼田容疑者に、黒沢容疑者の意向に沿った指名業者の選定案を作成するよう指示した。
    由波、黒沢両容疑者は「この5社を入れてくれ」と笹本容疑者に依頼したという
    沼田容疑者は神栖市内で由波容疑者に会い、予定価格に近い価格を教えたという。
    笹本容疑者は08年4月から神栖市産業経済部長。由波容疑者は県建築士会の理事で、08年度から
    同会土浦支部長を務めている。

一般に、建築士の加入する団体には、建築士会の他に建築士事務所協会、建築家協会などがありますが、今回の「事件」に関係した設計事務所は、茨城県建築士事務所協会の会員でもあり、なおかつ代表は同会の役員でもあります。

   註 私も、両会の一会員です。[註記追加 8.36]

つまり、この「事件」にかかわった者たちが、茨城県建築士会、同建築士事務所協会を動かしている人たちであるがゆえに当惑し、表だって話すには気がひけ、ひそひそ話となるわけなのです。

もっとも、茨城県内の建築士が全て茨城県建築士会に加入しているわけではなく、同様に建築士事務所が全て茨城県建築士事務所協会に加入しているわけではありません。
そして、加入していない人たちの中には(もちろん会員の中でも)、この「事件」を、冷やかな目で見ている方々が少なくないようです。

なぜか?
理由は二つあるように思います。

一つは、茨城県建築士会、茨城県建築士事務所協会の運営を仕切るのが、県域のいわゆる大手事務所の代表たちであり、市町村をはじめとする公共団体の大きな仕事は、余程のことでもないかぎり、それらの事務所が請け、それを覆すのは容易ではありません。
「大きいことがいいこと」だと考え、そうなりたく思う人たちは、いろいろと既存の「権力・権威」(「語句改訂 15.32])に擦り寄ったりするようです。
先の「事件」で「談合仲間」になる、などというのも上方志向の強い人たち特有の、日ごろから「仲良し・仲間」をつくっておこうという「傾向・性向」の一つの現れ、結果であると見ることもできます。
こういう「上層部」およびその周辺の「動き」に、すべての会員が同感の意を表すはずはないのです。

「冷やかな目で見る」理由のもう一つは、「建築士会とは、会員の協力によっての品位の保持、向上を図り、建築文化の進展に資することを目的に、建築士法第22条の2に基づいて都道府県ごとに設立された社団法人です。茨城県建築士会土浦支部は、建築士資格(一級・二級・木造建築士)を持つ個人(正会員)及び将来建築士をめざす個人(準会員)、また会活動をサポートする賛助会員(法人)で構成された公益法人です。」(茨城県建築士会土浦支部HPから)という「建前」とは裏腹な「行動」を日ごろ目にしているからです。

どういう「行動」か?
視線が個々の会員建築士に向うのではなく、「上」に向いているからです。
その端的な一つの例として、建築士法の改変にあたって、明確な意思表示を示さなかったことが挙げられるでしょう。
いま建築士は、3年に一度講習を受けなければならず、事務所を営む場合には、別途の講習を同様に受けなければなりません。建築士として適正であるか「審査」を受けるということ。
一見すると、建築士としての「資質」のチェックをするのだから妥当な方策だ、と思えるかもしれませんが、そうではない。

一番の問題点は、審査をする側の「資質」は、常にノーチェックである、ということ。
審査する職として適切であるか否かは問われないのです。
具体的には、行政にかかわる建築士、大学など教育にかかわる建築士は、定期講習をまったく免除されているのです。そういう方々が「審査」にかかわり「講習会の講師」となる・・・。
つまり、建築士という資格は同じでも、その資質が「常に適切である」とされるグループと、「常に資質が疑われる」グループとの「階層」に分類されていることになります。

当然ながら、建築士会としては、このような二分法についてノーと言うべきなのですが、押し切られています。辛うじて、せめて5年ごとにしてくれ、という「見解」がボソボソと出てくる程度。

なぜそうなるか?
「会員の協力によって、品位の保持、向上を図り、建築文化の進展に資する」は建前にすぎず、会の運営費は大半が会員の会費ありながら、実際は、行政の代行機関の役割の方が大きいのです(ちなみに、茨城県建築士会土浦支部の事務局は、土浦市役所 建築指導課内にあります。水戸支部も同じ。他府県でもそういう例が多いのではないでしょうか)。
言うなれば、行政と持ちつ持たれつ。ゆえに、大きな声を出せない。ややもすると「御用機関」になってしまいがち。
そこは「医師会」とはまったく違うのです。

そして、こういう会の運営にあたる「上層部」のからむ今回の「事件」。どうやら氷山の一角に過ぎないようです。
この「氷山」の全容が陽の目を浴びないかぎり、そして建築士会や建築士事務所協会の「自浄能力」が発揮されないかぎり、そしてまた、建築士会や事務所協会が、建築士の人権にかかわる「不条理な侵害」に対して異議を唱えることもできないのならば、会員数は、さらに減少の一途をたどることは間違いないでしょう(もともと、建築士会、協会への加入は、建築士の「義務」ではなく、最近は入会者が減っています)。

したがって、真面目な建築士たちは、自らの「権利」を、自らで護らなければならない状況にあることになります。
私はそれでよい、そう思っています。
そのような「自覚」が持って人びとが集まり、新たな「自立した建築士会」をつくればよいのです(建築士会という名称である必要はありません)。

       

ところで、現在のような資格試験の存在しなかった時代でも、「専門家」「専門職」は存在しました。明治の頃の用語で言えば「実業家」です(下記参照)。
私も、各地の「実業家」:大工さんにいろいろと学ばせていただきましたが、上の写真は茨城の大工さんたちのチームです。[グループの語をチームに変えました。その方が適切だからです。12.45]

   「『実業家』・・・・『職人』が『実業家』だった頃」

「実業家」の多くは「世襲制」であったようですが、全てが一家の子弟に世襲されたのではありません。「弟子」が代を継ぐことがあったようです。
そこでは、次代を継ぐに相応しいかどうかの「選定」がなされていました。
しかしそれは、現在のような「試験」に拠るものではありません。
そもそも、「世襲制」の「祖」自体も当然「実業家」です。
では「祖」は、どのようにして「実業家」として認められたのでしょうか。もちろん、そこでも認定試験などがあったわけではありません。

先に、現在「伝統建築文化を継承・発展させるための法整備を求める」署名運動が行なわれていることを紹介しました(下記)。
そのなかで私は、「技術」が自由に羽ばたける環境をつくるならばともかく、法が「技術」にかかわること、「技術のありよう」を法に依存することは間違い・誤りだ、したがってそれを「要望する」こと自体を訝る旨、書きました。

   「再検・日本の建物づくり-9:技術の進展を担ったのは誰だ」
   「再検・日本の建物づくり-10:名もなき人たちの挑みの足跡」

その署名運動では、同時に、「大工職人の資格認定制度」「育成・教育制度」の「法整備」も求めています。
私はこれにも首をひねります。
なぜなら、その挙句は、さらに悪い状態になることが目に見えるようだからです。

こういう「認定制度」「認定試験」は、「漢字検定」や流行の「ご当地検定」などと同一視されてはなりません。
「資格認定」の「認定」は誰が行なうのでしょう。
そこに、認定者と被認定者の差別が必ず発生します。
しかもその選定差別は、かつての「実業家」たちの世襲の際の選定法式ではなく、法の名の下のそれですから、「法の名の下で認定者が被認定者を統制する状況」が必ず生じます。
それでいいのでしょうか?
第一、大工職人の「資格」について、「固定したイメージ」を持ってはいませんか?
「育成・教育制度」について言うとき、現行の「建築教育」の状況・実体について、真っ向からの「分析」は済んでいるのですか?そして、どんな「制度」をイメージしているのですか?

なぜこうまでして法に依存したいのか分りません。
法治国家とは、生き方や暮し方、日々の行動を、法に依存することではありません。私はそう思います。
法に依存しないと、何をしでかすか分らない、とでも言うのでしょうか。
法に定められた「方法」が、最善、最適な方法である、とでも言うのでしょうか。
それでは現在の建築法令の世界と何ら変りはありません。新たな「法という土俵」を求めているに過ぎないような気がしてなりません。それとも、これと違う「法」をイメージしているのでしょうか。

かつて、各町村に各種の「実業家」:「職人」がおられました。現代風に言えば「専門家」です。
では、彼らは、どうして「実業者」:「専門家」であり得たのでしょうか?
誰か「偉い人」がそのように認定したのでしょうか?
そうではありません。その町村に暮す人たちが、彼らを「実業者」:「専門家」と認めたからなのです。
では、「認める」とはどういうことか。

もともと、町村に、その最初から「実業者」がいたわけではありません。
当初は、たとえば住まいをつくるにあたっては、近在の人びとが集まって協働で作業をしたはずです。
その過程で、例えば木材を加工するのが他より上手な人、組立てる作業にすぐれた人・・・など、作業ごとの「達人」が分ってきます。これが「実業家」の発生紀元なのです。
つまり、その地域に暮す人びと全てから認められて「実業家」が生まれたのです。

そして、一旦「実業家」として人びとから認められたものの、いい気になって振る舞い、手を抜いた仕事でもしようものなら、二度と仕事を頼まれなくなる・・、それが人びとの行なう「厳格な」「認定・選定」なのです。

では、人びとは、なぜ、仕事の達人を見抜けたのでしょうか?
それは、人びとが皆、仕事に(仕事の仕方に)通じていたからです。通じていたからこそ、上手、下手が見抜けたのです。
前提は、「人びと皆が建物づくりを知っている」ということなのです。したがって、建物づくりに通じていて、なおかつ仕事が上手い人が建物づくりの「達人」、すなわち「実業家」だったのです。


ひるがえって現在を考えてみましょう。
建築士は、たとえば「専門の学校」を出て「資格試験・認定試験」を通ればなれます。「専門の学校」次第で受験資格が一級か二級かに分けられます。そうして生まれる「建築士」は、「専門家」でしょうか?
きつい言い方をすれば、「試験」だけ通れた「専門家」も生まれているのです。そして、3年ごとの講習を受ければ「専門家」を持続できます。
それで本当にかつての「専門家」と同じ、あるいはかつての「専門家」以上の「専門家」になっていると言えるのでしょうか。
そんなはずがありません。
かつての「実業家」たちは、日々学ぶことを厭いませんでした。だからこそ、歳をとるほど円熟したのです。
ところが、今の「専門家」は、必ずしもそうではありません。


何故こんな事態になってしまうのでしょう?
その根本は、現在のあらゆる「専門家」に存在する「特権意識」にある、と言えるでしょう。そして、その「特権意識」は、現行の「資格検定」に拠って生まれているのです。あるいは「実業家」養成制度:「教育」に拠って生まれてしまっているのです。
冒頭に触れた「事件」もまた、その「特権意識」の為せる一つの結末なのです。

かつてのように、(普通の)人びとが「専門家」を進んで認定できるようになるには、「知見」を一握りの人たちに堆積・滞積させてはならないのです。
今の状況を変える策は、私に思い浮かべることのできる最上の策は、先回までに書いたこととまったく変りありません。


すなわち、再掲すれば、
・・・・建物づくりの「技術」は、実際に建物をつくらなければならない人びと、「現場」で実際に建物をつくることにいそしんだ人びと:職方、その双方の手と頭脳によって、太古以来、進展を続けてきたのです。
これは、歴史上の厳然たる事実です。
それにブレーキがかかったのが明治の「近代化」、そして現在、完全に「進展」の歩みは止められてしまいました。
誰により止められたか。「官・学」によってです。
「官」も「学」も、近世よりも衰えたのです。
この事態の打開は、「官」「学」が、人びとの暮し、生活に「ちょっかい」を出すことをやめること、そして人びとも、「ちょっかい」を「官」「学」に求めることをやめること以外にありません。
・・・私たちは、私たちの「知見」を広く共有し(一部の人たちの占有物にしないで)、それを基に、臆せず語ること、皆で語り合うことが必要なのです。
そうして来なかったばっかりに、「偉い人」たちを生んでしまったのではないでしょうか。


ボタンの掛け違いを直すのは、今からでも決して遅くはない。
私はそう思っています。

水戸の講習会:「日本の建物づくりに学ぶ」最終回

2010-02-18 20:39:11 | その他
20日土曜日の表記のための資料づくり。これまでの資料の再編に過ぎないのですが、結構手間取っています。
今回の資料は、「日本の木造軸組工法の典型-3、-4、-5」
「3」は、いわゆる「書院造」の基になった建物「東福寺・龍吟庵(りょうぎんあん)方丈」「大徳寺・大仙院方丈」そして「園城寺(おんじょうじ)光浄院(こうじょういん)客殿」がらみ、「4」では、書院造を好んだ武士たちの住居として山口県岩国の「目加田(目加田)家」、長野市の「横田家」をとりあげ、「5」では、商人の住居として「今井町・豊田家、高木家」をあつめています。
どれも、ブログで紹介してますが、編集整理で結構時間を費やしています。おまけに連日の雪。寒い寒い・・・。
そんなわけで、本題は、明日以降になる予定です。

一休み:雪の朝

2010-02-15 19:26:13 | 居住環境


一日遅れの写真です。

14日の朝は、天気予報にはなかった予想外の雪景色。
上から、神社の杜、畑の風景、雪の竹林、そして雪の消えた畑からは一面の水蒸気。

今年は、雪が多そうです。

再検・日本の建物づくり-10:「名もなき人たちの挑みの足跡」

2010-02-13 21:41:59 | 再検:日本の建物づくり
     
       先回の架構模型を正面から見たもの。正面だと製作のアラがよく見える!
     
       「古井家」の建設時からの間取りの変遷。「上屋」部分には、時代を通じて不変の「壁」はない。
       この架構が、「壁」に依存していなかった証拠。
       四周の「壁」(「下屋」の四周)は、「上屋」部分とはいわば独立している。[変遷図追加 14日 11.03]

[文言追加 14日 11.19][文言改訂 15日 16.19][文言追加 15日16.33][文言追加 15日 18.23]
先回書いた内容については、あまりにも極論だ、と思われる方々が多いのではないでしょうか。
しかし、私は、事実に基づかないこと、非論理的なことは書いていないつもりです。
こと「技術」に関して、こまごまとした「指針」を決め、それ以外を認めない、それ以外の方法を採りたければ、データを持って来い、という現行の行政のありかたの「おかしさ」「不条理」を指摘しただけにすぎません。

この「おかしさ」「不条理」は、大方が認めていて、だからこそ「法律」の見直しを、という「運動」が起きるのだと思います。
けれども、仮に「法規」が見直されたとしても、もしそれが相変わらず「技術」の中味を一律に決めてしまう形式を採るのであれば、それは、単にこれまでとは異なる「基準・規制」をつくることに過ぎず、新たな悪弊を生み出すことは必至です。

これは「なしくずし」で、言い換えれば「小手先の改良」で、更に別の言い方をすれば「姑息な手直し」で、ことが済むような問題ではない、というのが私の認識です。

現在私たちが置かれている状況に慣れてしまわず、「姑息な手直し」で済ませてしまわないためには、問題がどこにあるか、問題が何であるか、問題が何故生じているのか、皆で根本に立ち帰って考えることが必要のはずです。
私は、現在の状況のいわば対極に位置する考え方を目の前に示してみることで、皆で問題を考える一つの契機になることを願っています。


先回の一文を書いた後、文化財建造物の保存修理に携わっておられる方から、その方がまとめられた修理事例の報告書をお送りいただきました。
ざっと目を通したとき、本題の修理建造物についての本編に至る前に私が引っ掛かったのは、「耐震補強」の項目でした。耐震補強は、耐震専門(構造設計)の方の担当です。

耐震診断、耐震補強は、当然の如く、法令の「指針・基準」に拠っています。
先ず、当該建物の地震履歴が語られ、M6~M8の地震に10回遭遇していることが調べられています。M8は、濃尾地震です。
その内のM8の濃尾地震のとき、当該建物の建つ場所では、震度5の揺れだったと推定されています。それはそれでよいでしょう。
問題は、次の展開です。この履歴から、当該建物は、震度6以上の地震に遭遇したことがない。ゆえに、震度6に相当する地震では不安である。ゆえに診断、補強を・・・という論理?展開になっているのです。
このとき、万一震度6で壊れて人命に被害が出たらどうするのだ、という「究めつけの論拠」「反論しにくい論拠」が語られます。

私は、当該地の地震歴を調べてみました。また、内閣府の「地震のゆれやすさ全国マップ」で当該地の「ゆれやすさ」も見て見ました。地震歴で先の10件とは別の地震を見てみると、先の10回と大差ない大きさです。したがって、当該地の震度も同程度と考えてよいはずです。「ゆれやすさマップ」でも、揺れやすい地域をはずれているようです。
そこで私は、以前に書いたことを思い出しました(「耐震診断・耐震補強の怪-1」)。
この記事で紹介している「理科年表」所載の地震頻発地を示した地図上でも、当該地ははずれているように見えます。
にもかかわらず、震度6強の地震に遭う、という前提?で診断が始まるのです(そのあたりについてのコメントは前掲記事にあります)。

診断は、既存の「土壁」を耐力壁と見なしての「解析」で行なわれます。算定用の荷重を設定し、それに規定の水平力がかかったらどうなるか、を解析ソフト(SAP2000というソフトだそうです。私はそのあたりの知識は皆無です)を使って解析し、柱の歪みなどを図化してあります。
   地震の頻発する日本で建てられた木造建築は、
   「耐力」を「壁」だけに期待する考え方ではなかったことは、
   すでに何度も書いてきました。
   先回架構模型を紹介した室町時代に建てられた「古井家」なども、その一例です。
   「古井家」の場合、「解析」しようにも、「上屋」部には「壁」がありませんから、
   「解析」以前に「補強」が要る、と言われてしまうでしょう。
   ところが、400年以上、健在だったのです。

   もしも建物が喋ることができたなら、
   現在の「耐震診断」なるものを知ったとき、
   そんな風な変な目、変な見方では見ないでくれ、と怒るに違いありません。

ところで、診断「解析」の前提になる荷重の設定・算定は、きわめて「大雑把」なものです(法令の数値がそもそも「大雑把」です)。
しかし、その後の図化までの過程は、ソフトに拠るものだ思われますが、「おそろしく精密」です。前提を疑わずに、ただ演算するだけですから、それはあたりまえ。計算だけは間違いがない、というヤツです。
そして描かれた「図」は、視覚的表現であるだけに、これまた「おそろしく《説得力》」があります。普通の人は、地震でこんなに柱が歪んでしまうんだ、と思ってしまうでしょう。

しかし、この「解析」には重大な盲点があります。
先の荷重算定の「大雑把」さもさることながら、建物にかかる地震の水平力の大きさ:数値には、この建物が「礎石建て」であることが反映されていません。
つまり、地震によって建物にかかってくる(水平)力の発生過程についての考察なしに、直ちに「教科書どおり」に「地震時には建物に水平力がかかる」として、「解析」が「精密に」進められてしまうのです。
この「発想法」は、以前紹介した日本建築学界のパンフレット(「現行法令の根底にある『思想』参照)にある文言、「木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震のカを受け持って、土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります。」と同じです。
そのとき私は、建物にかかってくる「地震の力」は、いったいどこから来るの?と問うたはずです。建物と地震の関係が如何なるものかを、まったく考えていないのです。
したがって、「解析」が精密」であっても、いかに「結果」が数値で語られようが、「前提が大雑把」である以上、「結果もまた大雑把」なものだ、私ならそう思います。

更に、水平力によって架構が歪むという解析・図化にあたっては、「壁」ばかりを考え、柱相互を縫っている「貫」の働き、つまり「立体としての架構」の働きは、まったく考えられていません。
なぜなら、壁材を張らない「貫」だけの働きについては、法令の「指針・基準」では(つまり、「学界」では)認められていないからです。
それゆえ、実際の架構は、ソフトが解析・図化したように歪まないはずなのです。

一言で言えば、「大雑把」な前提で、「現実にはあり得ない仮説」を基に、「精密な図」を描き、こんなに怖いのだ、というのが診断結果。
だから、霊感商法と同じ、と言うのです。

そしてその診断の結果為されたのは、土壁を構造用合板下地にしたり、鉄骨製のバットレスを設けたり、耐力を与えられた壁の浮き上がり防止をアンカーボルトで止めたり・・・・という「補強」です。
   註 アンカーボルトで耐力壁を止めれば、水平力による浮き上がりは止まるかもしれません。
      しかし、その「水平力」は、地震が惹き起こすもの。
      地面に固定するということは、建物が地面とともに動け、ということ。
      このあたりについて、如何に考えているのでしょう?[文言追加 14日 11.19]
そうして軸組のなかに生まれてしまった甚だしい強弱は、実際に地震に遭ったら(震度6に達しない場合でも)、とんでもない現象を軸組に生じさせるのではないか、と私には思えました。

修理を担当された方は、このような「文化財ツーバイフォー化補強」が広く行なわれるようになり、この先どうなるのか、見通しが立たないこと、こういう耐震補強を見て多くの「途惑い」を覚える人たちも、「地震で倒壊したら中にいる人の人命はどうするのだ?」という「論」に物言えなくなっているようだ、との旨、語られていました。
このような「文化財の補強」は、阪神の震災以後、もっぱら目先(10年先くらい)のことだけを見て実施され、事例数も増えてきているので、あらためて耐震補強の問題点を見直し、そのありようについて考える時期に来ているのではないか、と指摘されています。[文言改訂 15日 16.19]
   文化財までもツーバイフォー化されるようになったのは、平成11年(1999年)4月の
   文化庁から出された「文化財建造物耐震診断指針」以来のようです。
   先回架構模型の写真を載せた「古井家」のような場合は、どのように補強するのでしょうか。

私は、しばし逡巡しました。
現場では、仕事の進行のために、「これでいいのか」と疑問を抱きつつも、「指針」に従わざるを得ない方々がたくさんおられる。一方の私はといえば、いわば傍目八目的に言いたいことを言っている。そこに齟齬を感じたからです。

しかし、結局、今のまま言い続けることにしました。
私も実際の設計では、「指針・基準」と「格闘」してきました。本意でない計算をして、しかしそれで、本意に大きく反しないで「指針・基準」に従っている?形をとってきました。
それはあくまでも「形式」です。
そうする一方で、やはり、おかしなことはおかしいと言ってきたし、やはり、言い続けないと、ますます悪くなるだけだ、そう思い直したのです。[文言改訂 15日 16.19]

このような「おかしさ」「不条理」を感じておられる方々の多くは、この状態から脱け出すためには、現行の法令の根拠になっている「木造建築の構造解析法」を改めればよいのだ、と考えるはずです。
先に触れた現在進行中の「伝統木構法にかかわる法整備」「大工職人の育成制度の整備」を国会に求める署名運動では、同時に「伝統木構法の科学的検証の推進」をも求めています。これも「構造解析法」を改めればよいのだ、という考え方によると見てよいでしょう。

しかし、あわてないで、冷静になってください。
なぜ、現行の「構造解析法」が生まれたか、その理由を冷静に考えてみてください。
それには、「材料力学」「構造力学」という「学問」の発生・発展過程と、それの「(日本の)木造建築」への適用において、何が生じたか、についての冷静な考察を必要とするはずです。
その要点は、「樹木」「木材」を、如何なるものとして捉えるかにかかっています。

「木造建築」を奨める方の多くは、「木は生きもの」という文言を使います。間違いではありません。樹木は生きものですから、それから製造される「木材」もまた、生きものの様態を維持しているのは当然だからです。
しかし、多くの場合、そこでオシマイ。
「生きもの」とは何を意味するかが問われないのです。
「生きもの」であるということの一つの特徴に、「千差万別」である、ということがあります。それは「人間」と同じ。同じ樹種でも、一本ずつ、その特徴、性質は異なります。

木造の建物は、そのような「千差万別」の性質をもった木材を集めてつくられます。
このことは、「材料力学」「構造力学」の概念を「木造」建築に適用するにあたっての最大の「ネック:妨げ」であったはずです。
なぜなら、「材料力学」「構造力学」発展の契機となった「鉄」や「コンクリート」とは大きく異なり、「一律の数値、一律の定式で考えることができない」からです。
たとえば、木材の強度一つとっても、きわめて「悩ましい」ことなのです。ましてや「ヤング係数」などの諸定数・係数を一律に設定することは、一層「悩ましい」。
だから、現在の法令の中では、これらの数値は、きわめて「大雑把」なのです(強度にしても、これ以下にはなり得ないだろう、という数値にしています。これを安全率と称しているようですが、それは言い訳にすぎません)。
しかし、一律の定式化を行なえないと、「材料力学」「構造力学」の適用ができない。
そこで強引につくられたのが現在の「在来工法」の考え方だったのです。

この過程については、すでに「在来工法はなぜ生まれたか」で概要を書きました(下記)。

   「在来工法は、なぜ生まれたか-5・・・・耐力壁依存工法の誕生」

要は、「材料力学」「構造力学」の一般的概念・方法にのっかるようにするための「便法」が、現行の法令の根拠になっている《もの》なのです。
なぜ《もの》と書いて「学」と書かないかは、自明でしょう。ご都合主義の便法に過ぎない代物だからです。それは「学」ではなく、単に「材料力学・構造力学風」に見せるための「装い」に過ぎないからなのです。
建築構造学者・研究者:専門家たちは、それが「事実」に合っているか、ではなく、「材料力学」「構造力学」風になっているかどうか、の方を重視してしまったのです。


つまり、日本の木造に関する建築構造学者・研究者:専門家たちのやってきたことは、science ではない、「現象・事象・対象の存在の理を究める営為ではない」ということです。

「近代主義」「合理主義」を旨とする明治政府は、「千差万別」の人びとを差配することに苦慮しました。 
そこで為されたのが、「千差万別」の人びとを「一律化」する「試み」でした。「一律」なら、簡単だからです。
そこで使われたのが「教育」です。
人びとを、「一定の範型」に鋳直すことができれば、事が簡単に進む、と考えたのです。確かに《合理的》です(これは日本だけではなく、ある時期、西欧の国々でも行われたことです)。   

   註 「標準語教育」も、その一環と言ってよいでしょう。
      最近になって、「共通語」に言い直されました。[文言追加 15日 18.23]

戦後でさえ、「期待される人間像」などということが説かれています。
ひるがえって、近世の「教育」を見ると、そこでは、そういうことが行なわれた、という形跡がありません。
「近代化」の名の下で国家により人びとに対して行なわれたと同様なことが、木造建築の世界でも為されたのです。


冷静に考えてみれば分ることですが、
木造の建物の架構・構造を「材料力学」「構造力学」的に理解するためには、個々の建物ごとに、そこで使われている木材の「性質」を1本ごとに調べ、また各接合部の力の伝わり方を箇所ごとに調べ上げ、それぞれを数値化しなければならないことになります。
スーパーコンピュータを使えばできるかもしれません。しかし、仮に解析ができたとしても、それは、常に「特殊解」であって「一般解」ではないのです。
だから、と言って、面倒なことには目をつぶった、そのために「事実」とは異なってしまった、それが現在の「木造の構造学」
なのです。

では、この「問題」に立ち向うには、何が残されているでしょうか。
それには、
はるか昔からの「技術」は、どのように進展してきたか、を考えればよいはずです。
この「再検・・・・」シリーズで触れてきたように、現在のような「学問」の存在しない時代から、「技術」は進展を遂げているからです。
そして、数百年も、この日本の環境のなかで壊れることなく存在し続けてきた建物・構築物をつくってきたのです。この「事実」を直視すればよい
のです。

私はそれを「疫学的研究・観察」と言いました。数々の先達たちの残してくれた財産を観察することを通じて、そこに流れる「考え方」を思い遣ればよいのです。
ただしそのとき、「材料力学」「構造力学」、まして「現在の木造構造学」の援用は無用・不用です。もちろん、数値化にこだわる必要はありません。数値化しないと科学ではない、などという時代遅れのことを考えるのをやめましょう。


多分、このような観察のなかから、私たちの目の前にある先達たちの育てた「技術」は、偉い人たちがつくりだしたのではなく、もちろん「学問」がつくりだしたのでもなく、建物をつくるにあたって「名もなき人たち」が挑み続けた、その「足跡」なのだ、ということが分ってくるはずです。
「名もなき人たち」こそ、私たちの先達なのです。
そして、「名もなき人たち」の営為の素晴らしさが見えてきたとき、私たちには、もう一度私たち自らの力を取り戻す、再確認する「自信」がよみがえってくるはずです。偉い人任せから脱却できるはずです。私は、そう思っています。私たちの生き方を、偉い人任せにする必要はない、私はそう思います。
そして、私たちに、私たち自らの手による営為が可能になったとき、そのとき初めて「自己責任」という言葉が、真に生きてくるのです。「自己責任」を、偉い人たちや行政にに説かれる謂われはありません。


私たちは、「偉い人」たちの「よらしむべし、知らしむべからず」という考えに毒され、「偉い人」たちに媚を売ってこなかったでしょうか?
私たちは、私たちの「知見」を広く共有し(一部の人たちの占有物にしないで)、それを基に、臆せず語ること、皆で語り合うことが必要なのです。
そうして来なかったばっかりに、「偉い人」たちを生んでしまったのではないでしょうか。
[文言追加 15日16.33]

   「名もなき人たちの挑みの足跡」は、小椋佳の曲にある言葉です。
   曲名を忘れました。                                                                      

   なお、来週は、週末の講習会資料作成準備のため、間遠になると思います。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               
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再検・日本の建物づくり-9:「技術」の「進展」を担ったのは誰だ

2010-02-09 22:25:25 | 再検:日本の建物づくり


   15世紀末ごろの建設と考えられる「古井家」の架構モデルと桁行断面図、そして
   解体修理後、架構組立て中の様子(写真は「修理工事報告書」より転載)。
   おそらく、「古井家」としては二代目以降の建物と思われます。

   この簡潔な工法は、誰かに指導や指示をされたものではなく、
   大工さんをはじめ地域の人びとの永年の知見による工夫の結果。

   模型は1/30。部材等も、極力原寸に近い寸法に調整してあります。
   敷地地盤自体は、北西方向に緩く登っています。
   それに即して礎石を据えてありますから、柱の寸法は、すべて異なります。
   模型ではそこまでできないので、西側にだけ登っているように変更しました。
     註 地盤自体は、原寸通りではありません。
        模型の台は水平です。礎石を、桁行手前の通りの礎石高さに合わせました。
                                [註記追加 10日 15.21]
   それでさえ、大変でしたから、当初、どのようにして材料を加工をしたのか、
   考えてしまいました。   

   このきわめてスレンダーな架構でも、組んでゆくにつれ、ビクともしなくなります。
   なお、模型では、柱は礎石に糊付けしてあります。
   実際は礎石に載っているだけです。

   糊付けを除去すると、模型全体を、形を保ったまま、持ち上げることができます。
   つまり、立体になると、架構は強くなる。
   耐力壁など不要なのです。
   このことを人びとは身をもって知っていたのです。
   現代の「学問」は、数値化できないゆえに、それを理解できない・・・・。

[文言追加 10日 12.20]
今の世に生きる人びとは、建築の「専門家」をも含めて、その国の建築にかかわる法律に従えば、あるいは法律の定める「技術指針」に従っていれば、「優れて適切な」建物ができあがる、と考えているようです(更に言えば、そのような「技術指針」がなければ、「優れて適切な」建物は生まれない、と考える人たちもいるかもしれません)。
と言うより、そうしないと、建物づくりができない、というのが現実
なのです。
もちろん、そんなことはない、法律がネックだという「専門家」がいるかもしれません。

しかし、もしも、その法律を突如取り去ったとき、今の人びとは、建築の「専門家」をも含めて、「優れて適切な」建物をつくることができるのでしょうか。
はなはだ疑わしいと私は思っています。
建築の「専門家」をも含めて、もちろん法律がネックになっていると言う「専門家」も含めて、多くの人びとが、途方に暮れるのではないか、
と思うからです。

今の人びとは、あたかも三蔵法師の掌の上で踊る孫悟空のように、法律という土俵の中でのみ振舞わざるを得ない、そういう日常にあまりにも慣れ過ぎてしまっていますから、土俵がなくなることは、「恐怖」に近いはずです。法律がネックだという「専門家」も同じでしょう。
なぜなら、法律がネックだという「専門家」たちの多くが、法律の中の、自分たちのネックになっている(と思っている)箇所を直してくれればよい、と考えている気配が感じられるからです。

たとえば、最近、「伝統木構法による建築が建て易くなるように、建築士法、建築基準法の抜本的見直しをはじめとする法整備」、「大工職人の資格認定や育成・教育制度、森林の整備等、伝統建築文化を継承するための社会制度の整備」を国会に要望する署名運動が行なわれつつあります。

たしかに、「伝統的木造建築の実物大実験」などに見られる現行の法律の下で為されている建物づくりへの「ちょっかい」は尋常ではありません。

   ちょっかい:ネコなどが用心しながら前足を使って、ちょっと物をかき寄せること
   転じて、おせっかい  ・・・・・・「新明解国語辞典」より

だからと言って、この「要望」は、「ちょっかい」の中味を、今のものから別のものに変えてくれ、という要望にほかなりません。
別の言い方をすれば、「『法律』が技術に係わってくること、『ちょっかい』をだすこと」を相変わらず望んでいる、言い方がきつければ、容認している、ことにほかならないのです。

有史以前からの長い長い歴史の中で、建物をつくる「技術」は「発展」を遂げてきました。近世には、当時の道具の下で、一定の体系にまで完成していたと言ってよい、と私は思っています。

今、私たちの目の前には、主としてその頃にできあがったいわゆる「伝統的」と称される「技術」、建物づくりの方法:「工法」があります。  
しかしそれを、「形」「形式」としてとらえ、それを引継いでゆかねばならぬ、引継がないのはけしからん、と思うことは自由ではありますが、それは本末転倒だ、と私は考えます。
なぜなら、一定程度完成の域に達している体系であるからといって、それ以上の「進展」があり得ないと考えるのは早計で、状況に応じてなお変容を遂げるべきものだ、と思うからです。
これは、有史以来、何時でもそうだったのです。常に、具体的には目に見えませんが、「変容」「進展」のベクトルは、実際に暮している人びとの中に存在しているはずだからです。


では、そのとき、更なる「進展」は、どのようにして為されてきたのでしょうか。
「技術」の「進展」を促し、庇護する策が、国家の手により、あるいは地域の支配者の手によって講じられてでもいたのでしょうか。
そのような事実を私は知りません。


あるいは、「技術」の「進展」は、日本の場合、常に、他国からの「技術」の移入によって、それを機会に為されたのでしょうか。
こういう見方は、学界の中に隠然としてあることは承知しています。
たとえば、東大寺再建の際の「大仏様(だいぶつよう)」。「宋」の技術者による技術移入である、というのが一般的な説。

しかし、冷静に考えれば、そんなことはあり得ません。
僅か数人の「宋」の技術者だけで、ものがつくれるわけはなく、かと言って、彼らの差配の下で、多くの此の地の職方が、初めて見る工法を手際よくこなす、などということもあり得ないからです。
職方自体が、同じような工法を知っていたからこそ可能だった、と考えるのがきわめて自然なのです(これについては、すでに「浄土寺・浄土堂」や「古井家」「箱木家」を紹介したときに触れました。

これらの記事は、何回も書いていますので、「最新記事」の「もっと見る」から適宜アクセスしてください)。


すなわち、「技術」の「進展」は、常に、「上」や「他」の「指導」「指示」の下で為されるのではなく、「現場」で建物づくりにかかわる「職方」たち自らの手と頭脳によって為されたのです。
残念ながら、近代以降、この「事実」は、人びとの目から隠されてしまいました。
そして、まったく逆に考えるようになってしまいました。


近世の政権の下には、多数の「地方巧(功)者(ぢかたこうじゃ)」が重用されています。しかし彼らの行なったことは、ときの政権がこと細かく指示・差配したのではなく、彼ら自らの判断、進言が基になっています。
たとえば、政権は、「開拓、干拓」を、と言うより「農地の増大:可住地の増大」策を彼らに指示しただけ。具体的な選地、方法などは、彼らに委ねたのです。
もっとも、政権にある者自身も、諸事には精通していました。精通していたからこそ、「上」に立てた、と言えるかもしれません。単に地位が「偉い」だけではなかったのです。そこが現代との大きな違い。
これは「普請奉行」などでも同様です。

大分前に、「孤篷庵」を計画した小堀遠州に触れました。江戸から職方に指示は出していたようですが、それはあくまでも大筋についてのみ、「技術」について指示はしていません。

つまり、「技術」の「進展」に係わったのは、「現場」の人びと:職方たち(および地域の人びと)であって、「上」の人びとではなかったのです。
そして「現場」の人びとは、実際にそこで「暮す」人びとのことがよく分っていたのです。これも現代との大きな違い。
そしてだからこそ、地域の特性に応じた多種多様な「技術」が生まれ育ったのです。

この大きな歴史の流れを変えてしまったのが、明治の「近代化」です。
「人の上に人をつくらず」という文言とは裏腹に、各界で、「上」から「下」への「一方通行の方程式」がつくられてしまったのです。
その「一方通行の方程式」の確立のために利用されたのが「科学」です。

   science の訳語として「科学」は適切ではない、むしろ誤りであることは以前に触れました。

「科学」の名の下に、「科学」の範疇に入らないものは、非科学的のレッテルを貼られて棄てられました。
「科学」の進んだと言われる現在、その傾向はますます激しさを増しています。
「技術」も然りです。「技術」が、「現場」のものでなくなって来たのです。「人びと」のものでなくなってきたのです。
「現場」から「科学」へという歴史上の厳然たる事実を無視して、それとはまったく逆に、「科学」が「現場」を差配することが主流になってきました。
法律が「技術指針」をこと細かに規定する、というのは、まさにその具現化にほかなりません。


これでは「技術」にこれ以上の「進展」は望めない、と私は思います。
しかし、世の中はそうではないらしい。
法律がネックになっていると言う「専門家」たちまでが、法律での「庇護」を望んでいるからです。
それどころか、木造工法の科学的検証の推進を国に求めています。なぜ、国がやらなければならないのでしょう?


それゆえ私は冒頭で、「もしも、法律を突如取り去ったとき、今の人びとは、建築の『専門家』をも含めて、『優れて適切な』建物をつくることができるのでしょうか。はなはだ疑わしいと私は思っています。」と書いたのです。

建物づくりの「技術」は、実際に建物をつくらなければならない人びと、「現場」で実際に建物をつくることにいそしんだ人びと:職方、その双方の手と頭脳によって、太古以来、進展を続けてきたのです。
これは、歴史上の厳然たる事実です。


それにブレーキがかかったのが明治の「近代化」、そして現在、完全に「進展」の歩みは止められてしまいました。
誰により止められたか。
「官・学」によってです。
「官」も「学」も、近世よりも衰えたのです。
この事態の打開は、「官」「学」が、人びとの暮し、生活に「ちょっかい」を出すことをやめること、そして人びとも、「ちょっかい」を「官」「学」に求めることをやめること以外にありません。

建築にかかわる法律は、もし必要だというならば、「安全で安心できる建物をつくることに専念する」、この一言だけあればよいのです。
なぜなら、そういう法律がなくても、建築の技術は見事な進展を重ねてきているではありませんか。
そして、その進展が止まったのは、近代以降ではありませんか。個々の人びとの頭脳を信用しなくなったのは、近代以降なのです。少なくとも日本では。


実は、最近、私の所にも、「伝統を未来につなげる会」から、入会案内と先の国会への「要望」への署名を求める書類が届きました。
受け取ったとき、ある種の「違和感」を感じました。直観です。
一番の違和感は、「伝統を未来につなげる」という文言でした。これはいったい何だ?

そもそも、前にも書きましたが、
「伝統」とは、「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐ所のもの」(「新明解国語辞典」)。
私は、この解釈に賛成です。きわめて「明快」で「明解」だからです。
   「広辞苑」の解説は次のようになっています。
   「伝統」:伝承に同じ。また、特にそのうちの精神的核心または脈絡。
   「伝承」:①伝え聞くこと。人づてに聞くこと。
         ②つたえうけつぐこと。古くからあった「しきたり」(制度・信仰・習俗・口碑・伝説などの総体)を
         受け伝えてゆくこと。また、その伝えられた事柄。
   
したがって、「伝統」という語は、それ自身のうちに、伝える、受け継ぐ・・・と言う意味を含んでいるのです。
ですから、「伝統を未来につなげる」という言葉遣いからは、「伝統」なるものに、ある「形」を設定し、その「形」を未来につなげるのだ、送るのだ、そういう「認識」が垣間見えるような気がしたのです。

私の考える「自覚と誇りをもって受け継ぐ所のもの」は、「形」「形式」ではなく「ものごとに対する考え方、認識のしかた」以外の何ものでもありません。

もしもそうではなく、「『形』『形式』を受け継ぐことだ」とするならば、その「形」「形式」が固定されてしまうことになります。
しかし、「制度」や「技術」・・というものは、本質的に「固定化」とは相容れない類のものです。下手をすれば、直接的に人の生き方をも固定化するからです。

つまり、「制度」や「技術」・・は、人の生き方・暮し方に応じて変容する、それがあたりまえの姿です。
人びとは何を考えて「変容」をもたらすのか。それこそが最大な要点である、と私は思います。
それを、「官」「学」任せにどうしてできるのでしょう?
はるか彼方の昔から、この日本という環境の中で生きてゆくことを通じて培われ、何代もの人びとに継承されてきた「環境への対し方・考え方」、私は、それこそが、「自覚と誇りをもって受け継がなければならないもの」なのだと思います。
そしてそれは、人に言われてすることではないのです。
私たちは、私たちの多数の先達たちとともに、私たち自身の「能力」を、もっともっと信じてよいはずなのです。

再検・日本の建物づくり-8:しかし、すべての建屋が天変地異に耐えたわけではない

2010-02-07 12:30:55 | 再検:日本の建物づくり
[補訂追加 17.33]

先回、「礎石建て」で建物をつくる「技術」は、長い「掘立て」の時代に培われた知見を基にしているだろう、という勝手な推量を書きました。

そのように書くと、「掘立て」の時代も「礎石建て」になってからも、すべからく建屋は日本という環境に応えることのできるものであった、かのように聞こえるかもしれません。
もちろん、そんなことはなく、天変地異に対応できる建屋は、むしろ極めて少なかった、と言ってよいでしょう。

なぜなら、いかなる時代にも共通することですが、日本の場合、建屋を建てるとき、つまり「住まい」を構えるとき、「とりあえずの建屋」「当面の用に間に合う建屋」で済ませてしまうことの方が多いはずだからです。
と言うより、時代によって比率は異なるでしょうが、こういう建屋で済ます事例の方が、圧倒的に多いのではないでしょうか。
   「とりあえず」とは、「取るべきものも取らずに」ということ。
   「新明解国語辞典」の解説に拠れば、「最終的にどうするかは別問題として行なう臨時・応急の措置」。
   「当面の」とは、「さしあたりの--」ということ。
つまり、いつ起こるか分らない地震や台風などの天変地異に備える、などということを念頭に置かないでつくる建屋、ということです。

「とりあえずの建屋」「当面の用に間に合う建屋」にも二通りあるように思います。

下は万葉集・巻五にある有名な「歌」のコピーです(岩波書店刊「日本古典文学大系 万葉集二」より)。

     

時代は、天平。仏教が(上層階級に)広まり、多くの寺院が建立され、そして仏像が造立された一見華やかな時代。
多くの農民は、きわめて貧しかったようです(農民が人口の大半を占めていたのではないでしょうか)。
東大寺大仏殿の工事には、全国から人が呼び寄せられましたが、そのすべてが生きて生国に戻れたわけではない、そういう時代。

   この歌の作者は山上憶良。今で言えば、いわゆるキャリア官僚。今の官僚がこんなことを書けば、
   内部告発・・・・などと言われるかもしれません。
   しかし、そういう歌が、これもいわば国定の詩歌集に載っている。
   時の政府が、「事態」を認識していた、ということなのでしょう。
   今の官僚の人たちなら、ほとんどが見て見ぬふりをするのでは・・・・。

この農民たちが、はじめから「天変地異に応えることができるつくりを求める」はずはありません。そんなゆとりはないのです。
彼らの多くは、竪穴からは脱しても、それとほとんど変りのないつくりの建屋で暮していたと思われます。歌のなかにもあります。「つぶれたような、傾いだ家の中に、土に直かに藁をばらばらにして敷いて・・・」。
「天変地異に応えることができる」ことなど、考える余裕はないのです。
   
もちろん、すべての農民の住まいが「とりあえず」であったとは限りませんが(もちろん、すべての上層階級の住まいが「本格的」であったとも限りませんが)、いずれにしろ、
それぞれが、その置かれた状況に応じたつくりの「住まい・建屋」で過ごしていたことは間違いありません。そして、基本的には、現代に於いても同じと考えられます。

もう一つは、余裕はあっても「当面の用」を第一に考え、いつ起きるか分らないような事態に備えることには、「余裕」を使わない場合です。
これは、「考えない」というよりも、「考えたがらない」と言った方がよいかもしれません。
つまり、はるか昔からの経験・体験の積み重ねを見ないで、あるいは、見ても見ぬふりをして、知ろうとしないで、ただつくればよい、という「とりあえず」です。
これは、今の世ではきわめてあたりまえな話ですが、実は、どの時代にもあったことと考えてよいでしょう。ただ、その程度は、現代ほどではなかったでしょう。
「危険」が差し迫っていないときは、得てしてこうなります。
そして、こういう場合が圧倒的多数だったのではないか、と思います。

このことは、上代(奈良・平安時代)の地震の記録を見るとよく分ります。
「理科年表」にはM6以上の地震の年表が載っていますが、そこから上代の記録を抜粋すると、次のようになります。
一部は「東大寺大仏殿の地震履歴」のときに載せた記録と重複します。
   原本の文字が小さく、判読できるようにしたため、長い表になっていますがご了承ください。

     

ここには、東大寺の鎌倉再建までぐらいの約770年間を転載してありますが(数頁にわたる原本の拡大コピーを、一表にまとめています)、その間に記録に残されているM6以上の地震は37回あります(当時の記録に書かれない地震が、他にもあったかもしれません)。建物にかかわる事項にアンダーラインを付しました。

ほぼ20年に一度はどこかで地震がある、これが日本列島の姿なのです。
年表から分るように、各地域で(当時の「情報網」の下では、「全地域」の地震情報が、畿内へ伝えられたとは限りません)、官も民もなく、多くの建物が被災しています。各地の「正倉」というのは、地域の政庁の正式倉庫。結構被災しています。
   畿内:畿とは王城のこと。ゆえに「畿内」とは、国を統治している政府所在地、または直轄地域。
   近畿とは、王城に近い一帯のこと。

一方で興味深いのは、畿内の有名な寺社、たとえば、法隆寺、東大寺、唐招提寺等々・・、の被災の記録がないこと。

各地の「正倉」が倒壊している記録はあるが、東大寺「正倉院」については、そのような記録はない。
東大寺側の記録にも、鐘楼の鐘が地震で落ちた、大風で戸が倒れた、塀が壊れた・・・などの記録はあっても、大仏殿をはじめとして建屋が地震で被害を受けたという類の記録がないことは、以前にも触れました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/792cba3b7d2c718ef5671822c66625dd)。
そして、実際、地震の影は建物には刻まれていません。

これは何故なのでしょうか。単なる記録漏れでしょうか。被災したことを明示することを嫌ったからでしょうか。

多分、使い物にならなくなるような被災は、実際なかったのでしょう。


各地に残る旧家の「履歴」を見ると、たとえば記録が残っている例で言えば、約300年近く住み続けられてきた長野県塩尻の「島崎家」の建屋は、その建屋が建てられる前に、同じ土地に先代の建屋がありました(「島崎家住宅」については、http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b1cceff176f783b66cf4e8c161bb7a55で紹介してあります)。

つまり、「島崎家」は、代々その土地に根付いて暮し、約300年近く住み続けられてきた現在の「建屋」は、少なくとも二回目の建築ということです。
同じ土地に同じ一家が暮し続け、建屋が二代、三代と建替えられた事例は、他にもかなりあると考えてよいでしょう。
かならずしもそれは、人間の方の世代交代と一致はしません。
ある代は先代から引継いだ建屋に暮し、ある代は建替えにかかわる・・・。
これは今でも農村地域ではあたりまえです。

何故建替えるのか?
簡単に建替えられることは、(日本の)木造家屋の特徴の一つです。それができるからこそ、「とりあえず」で済ますこともできるのです。

おそらく、初代の建屋は、先に触れた「とりあえずの建屋」「当面の用に間に合う建屋」であったと考えられます。
当然、材料も選んだわけでもなく、つくりも念を入れたつくりではありません。
それゆえ、暮しているうちに、不便な箇所、不都合な箇所、傷みやすい箇所・・・などが明らかになってきます。もしもそんなときに地震などに遭えば致命的です。
そして、地震などに遭わなくても、終に、建替えようという「気運」が持ち上がります。

そして、その「気運」が高まってゆく過程で、建物づくりの「要点」を学び、身に付けると言ってよいと思います。
まわりのものを観て、古いものを観て、他地域のものも観る・・・。何がよいか、どうすればよいのか、身に付けるのです。
その結果つくられる二代目(あるいは三代目・・・)の建屋は、念には念を入れた天変地異にも応えられる「本格の建屋」になるのです。
   実は、街並みも、こういう繰返しが、街中で継続して行なわれることを通じてできあがるのです。
   多くの場合、似たようなつくりの建屋が連続します。
   詳しく観ると、それは単なる「形状」の模写ではなく、
   たがいに「つくりかた」のなかみを切磋琢磨していった結果である、と考えるとよく理解できます。

   補訂 二代目(あるいは三代目・・)の建屋を、別の土地を求めてつくる場合もあります。[追加 17.33]

では、初代の建屋づくりから、「本格の建屋」をつくる場合はあるでしょうか。
その例が、畿内の主たる寺社建築、とりわけ寺院建築であったと考えられます。
仏教に帰依することを基幹にした国家運営にあたって、「とりあえず」の建屋はつくれません。
その建築にあたって、それまで蓄えられていた、そして表には顔を見せていなかった「知見」が、形をもって現われ、そこに大陸から伝来の「技術」が加わった、と考えてよいと思います。

   通常、当時の建築の技術は、もっぱら、大陸から渡来の技術者がもたらしたもので、と説かれます。
   しかし、いかなる地域でも、「技術」やより広く「文化」の交流はありますが、
   そのとき、一方から他方へのみ「流れる」というようなことはあり得ません。
   最近になって、朝鮮半島に、日本風の墳墓が見つかったと言います。
   朝鮮半島に渡った日本の人たちがいたからなのです。それが「交流」の姿なのです。
   したがって、古代においても日本にも「技術」は存在し、それと大陸伝来の「技術」との「交流」がなされた、
   それが古代の建築群と言ってよい、と私は考えます。
   そのとき、日本側では、伝来技術の取捨選択がなされます。しかし、それはいきなりではありません。
   その特徴の「理解」には時間が要るからです。

そしてつくられた古代の建築群は、言葉の真の意味で「好い加減」、そこではそれまで蓄えられていた「知見」は役に立っていたのです。
そしてそれゆえに、軒先は垂れ歪み副柱をしながらも、ほぼ400年、東大寺大仏殿は天変地異に耐えてきたのです。そして消失したのは、人為的な焼き討ちが因だった・・・・(先の「巨大建築と地震」参照)。

以上のように、日本の場合、一般の人びとの間では、住まいを構えるにあたって、その初めから「完璧」を目指すことはなく、先ず「当面の用」を充たす「とりあえず」の建屋で済ませ、そこでの暮しを続けるなかから、「建替え」の気運が生まれ、そしてようやく「本格的な」建屋を構えるに至る、というのが大筋であった、と考えられます。
別の言い方をすれば、蓄えられた「知見」は、即刻反映されるのではなく、ある醸成期間を経た後にようやく姿を現す、それが日本の建屋づくり、と言えるのです。

そして、これがきわめて重要なことだと思うのですが、建屋は「とりあえず」であっても、建てる場所の選択は真剣であった、つまり「本格的」で「とりあえず」ではなかったということです。
それゆえ、余程のことがないかぎり、「とりあえず」の建屋でも、一定程度永らえることができた、つまり「とりあえず」であっても、「必要条件」については考慮されていた、ということです。

ひるがえって現代に目をやると、「科学」への盲目的信仰の隆盛の結果、「必要条件」の内容の斟酌もなく、まして「十分条件」への目配りもなく(そもそも、「必要条件」「十分条件」の認識もなく)、「とりあえず」の段階から天変地異への対応の必要が説かれ、その結果、「とりあえず」の段階の建屋が動きもとれないまま固定化してしまう、という状況が隆盛を極めています。
そこでは、「ものごとの推移」の「過程」「経過」が無意味なものとして、見捨てられ、黙殺されています。「日本のつくりかた」の無視です。


日本とは自然環境の異なる西欧では、建屋が、日本とは比べ物にならないほど大きいのが特徴です。
それは、日本のように、「建替えや改造があたりまえではないつくり」だからです。
日本の場合、たとえば、手狭な建屋は増築・改築で対応が可能でした。
彼の地では、そういうことは滅多にないし、つくりの点でもまず不可能ですから、そのため、初めに容量・容積の大きいものがつくられます(全体も室自体も)。
そのためには、用地も広く必要になります。それは、彼の地では住まいを構えるにあたっての大きな「必要条件」なのです。

ところが昨今の日本では、きわめて狭隘な用地で、西欧的なつくりかたをするようになってきました。また、官・学(?)ともにその方向を推進しています。長期優良住宅・・・などはその一つにほかなりません。
しかし、狭隘な用地ゆえに、それでは早晩二進も三進も行かなくなるのは目に見えるではありませんか。
まして、耐震と称してがちがちに固めるために、長年の内には、使用に堪えなくなり、廃墟にならざるを得ないのは自明です。

日本の場合、今の用地の面積、その狭隘さが改められないかぎり、長期優良住宅などということは存在し得ず、至るところ、廃墟の山になる、私はそう思っています。
そしてそれは、「必要条件」の「整備」のみをもってよし、とする風潮の結果なのです。

少なくとも、近世まで、「ある土地」には(あるいは「地域」には)、人が住める「容量」がある、という認識がありました。
たとえば、各地で開拓を行なった近世の「地方巧(功)者」たちには、あたりまえのように、その「認識」がありました。
近世以前、度を越した「容量」を想定する、設定することは、まず皆無だった、と言えると思います。
けれども、近代になってから、その「認識」は消えてしまいました。というより、初めからそのような「認識」が欠如しています。現代にいたっては、まったく影も形もありません。


この「再検」は、そのあたりのことまで考えないといけないのではないか、そう思って書きだした次第です。
ところが、これが結構難しい。どういう「資料」で語るのがよいか、思案にくれるからです。それゆえ、投稿も間遠くなりますが、ご了解、ご容赦ください。
コメント (1)

経過?報告:3階建て木造の倒壊実験:試験体資料開示要請のその後

2010-02-05 17:33:24 | 「学」「科学」「研究」のありかた
例の壊れてしまった「3階建て長期優良住宅」倒壊実験の試験体の資料は、「約束予定」の1月が終り、立春を過ぎても、音沙汰がありません。
「・・・協議会」のHPにも何の変化も見られません。あいかわらず官・学(?)の仲のよいところだけを報じています。

まさか、人の噂も75日、静かになってきたじゃないの、と言うわけではないとは思いますが・・・・。
こういうのは、何も進展がないので、経過報告とは言えませんが、先ずはお知らせまで。

本題の方は、現在準備中です。

再検・日本の建物づくり-7:掘立ての時代から引継いだもの

2010-02-01 18:27:02 | 再検:日本の建物づくり
[文言追加 22.51]


きわめて長い時間をおくった「掘立て」の時代、人びとは多くの天変地異に遭遇したはずです。
そして、そのような天変地異にも負けずに生きてゆく方策も見出したでしょう。
もちろん建物づくりでも同じです。
日本という環境で、天変地異にも応えられる建物づくりの「根幹」「基本」は、その頃に見出されていたと考えてよいと思います。

寺院などの建物については、古代から遺構が現存していますが、一般の人びとの住まいについては、残念ながら、「掘立て」の時代から千年家:「古井家」「箱木家」までの間の遺構が存在しません。
したがって、その間の経緯については、「住まいをつくるという視点で想像してみる」しかありません。

「掘立て」の時代が途方もなく長いと言っても、人びとがいつまでも「竪穴住居」に安住していたとは考えられません。
地面よりも一段高い所の方が、「竪穴」よりも暮しやすいとの認識があって当然と思われるからです。

暮しの場を地面から一段高くする方法としては、土を段状に積み固める方法と、木材で床を組む場合があったと考えてよいでしょう。
土を段状に積む方法とは、先に紹介した中国西域で現在も行なわれている方法と同じです(写真をhttp://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/129999f445a867ee7ca2254e041fc62cに載せてあります)。
日本でも寒冷の地域では、土の保温性を活かせることと、隙間風が生じないなどの点で、近世まで普通に行なわれていたといいます。

  参考 日本の土座 第二次大戦前までは、普通に見られたといいます。


一方、地面は湿気を帯びやすいため、湿気が問題になりやすい地域では、かなり早くから木材で床を組む方法が行なわれていたと考えられます。

つまり、生活面を土で高くしたり、木材を組んで高くする方策は「掘立て」の時代からあった、と考えてよいと思います。

「掘立て」の建物で床を木で組む一番簡単なのは、おそらく、地面の上に木材を転がして並べ、その上に小舞や板を並べる方法です。
板は簡単には手に入れにくいため、15世紀末ごろの建設と考えられる「古井家」の「ちゃのま」と同じように竹を並べて竹簀子(たけすのこ)をつくったり、あるいは小枝を並べ、莚のような敷物を敷くのが普通だったかもしれません。

当然、柱と柱の間にも小舞や板を受ける木材:横材を据えることになります。
そのようなとき、単に転がして置くだけではなく、柱に固定することも考えたでしょう。
なぜなら、幾度か経験すれば、木材を転がすにあたって、はじめに高さの基準を決める必要があることを知り、基準は柱の通りに決めるのがよいことも知るはずだからです。

横材の固定の方法としては、はじめは木材を土や石で固める策を採ったかもしれませんが、すぐに、柱に横材より少し大きめの孔を穿ち、木材を嵌めこみ、隙間に埋木をする方策を考え出してもおかしくありません。その方がしっかり固定でき、基準としても確実だからです。

ここに想定した床をつくる方法は、「礎石建て」になってからの建物に多数の例があり、その諸例を基にした推量です。
以下に「礎石建て」の場合の例をいくつか挙げます。

奈良時代の建設とされる「法隆寺」の西院伽藍わきにある「妻室(つまむろ)」には、床に板が張ってあります(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3846ea9d088099fb0c6d534e19df8bb7参照)。

この建物の場合、床がどのようにつくられているかは、図面が見つからず分りませんが、写真で判定するかぎり、地面に据えた石の上に横材:「大引(おおびき)」を転がし、その上に板を張っているものと思われます。床を張る一番簡単な方法です。   
     

外観の写真の柱間の足元に入っている横材は、後から柱間に置いた材:「地覆(ぢふく)」で、壁の足元を納めるとともに、床板を受ける役割をも持っていると考えられます。
したがって、転がした横材「大引」と、上面が同じ高さのはずです(と言うより、転がした横材の高さを、この「地覆」の上面にあわせた、と言う方が適切です)。
なお、室内側では、壁の見切り:幅木様の材:を別途設けているものと思われます。
   この材を「地覆」の内側だとすると、床のレベルは「地覆」の下端ほどになりますが、
   外観で見ると「地覆」と地面との距離がなく、別材と考えられます。

奈良時代の建物である「室生寺・金堂」の床も板張りですが、その床は、下の断面図のようになっています。
     
オレンジ色に塗った材が「根太」を受ける材:「大引」ですが、柱通りでは、「大引」の両端は柱の礎石上に載せられ(右側の「庇」部と「孫庇」部との境の柱では柱に納めてあるようです)、中途は石で支えています(「庇」部の中途は角材かもしれませんが不明です)。
多分、柱通りの「大引」は、単に柱の礎石に載っているだけではなく、何らかの形で、柱に噛ませてある(たとえば「大引」大の孔を浅く彫ってある、など)のではないかと思います。

さらに、法隆寺・伝法堂の床は、地面に転がすのではなく、一段高くする床の形式を採っています。下の図は、その分解図です。
   ただし、右側の囲んだ図の手前の柱の「床束」とあるあたりの図解は正しくないと思われます。
   多分、作図者が、描図の際、「地長押」と「床桁」との区分を間違えたものと思います。
   その部分については、左側の図を参照してください。その図にある板を受けている材が「床桁」です。
   この「床桁」を受ける「床束」が、柱の内側にあります。

この建物では、柱と柱の間に設けられた「床桁」に、以降のような「足固め」の意識はないものと思われます。
しかし、結果として、このような簡単な納め方でも、柱脚部の柱間に入れられた材が、思った以上に架構を固めることを知ったのではないでしょうか。


以上見てきた礎石建て建物で行なわれている床組の方法は、何も寺院建築特有の方法ではなく、当時の一般の人びとの間でもあたりまえの方法であったように思えます。

たとえば、15世紀末の「古井家」では、「大引」を石で受ける方法が採られています。これは、おそらく、ごく普通に行なわれていた方法だと思います。
下は、「古井家」の梁行断面図と解体修理の際、「おもて」の床板を剥いだ時の写真です。いずれも「修理工事報告書」からの転載、ただし、図面には手を加えてあります。

図でオレンジ色に塗った部材は、丸太の「大引」で、地面に自然石を積んで支えています。1/2間ごとに入っていて、梁行の柱通りは「足固め」を兼ねています。
なお、断面図には描かれていませんが、中央の柱列(桁行方向)には、床レベルに「足固め」の「貫」が入っていることが写真で分ります。「大引」は丸太、「根太」との取合いでは欠き込みで床面を調整しています。

[以下 文言追加 22.51]
「大引」を支えるには、おそらく、「室生寺」のような方法、あるいは「束」で支える方法なども一般の人びとの住まいでも用いられていたと思われます(その古い例がないだけなのではないでしょうか)。

   註 「日本建築辞彙」によると
      大引:尾引とも云ふ。地層床の根太を承ける横木にして束上にあり。
          英語:sleeper
          大帯木なりといへる説あり、又大負木なりともいふ。
      根太:床板を承くる横木。
          英語:bridging joist, floor joist, joist   [文言追加 了]


以上は、「礎石建て」の場合の例。
この「礎石」の上端を「地面」と考えれば、同じようなことが「掘立て」の建物の場合でも行なえたと考えられます。
と言うより、そのような体験が「掘立て」の時代にあったからこそ、「礎石建て」になっても行なえた、と考えた方がよさそうです。
いつでも「一から始める」ということはないはずだからです。
   註 現代人(のある部分)は、すべて新たに「一から始められる」、と考えているようです。

そして「掘立て」から「礎石建て」への移行も、おそらくスムーズに行なえたと思われます。
なぜなら、「掘立て」の時代に床を木を組むことを通じて、柱の足元が床組などで固められれば(柱の上部だけではなく下部も横材で繋がると)、仮に柱の脚部が腐朽で地面を離れても、風に吹かれてもそのまま移動する、地震に遭っても形を維持している・・・・、つまり、「地上部の立体に組まれた架構」は安定している、ということを体験で知っていたはずだからです。


以前に、法隆寺の建物の礎石を例に出しました。
そこでは、柱を礎石の上に立てるために、礎石に孔を穿ち、柱の側の「太枘(だぼ)」を落し込むようにしたり、逆に、礎石の側に枘をつくりだし、柱側の孔を納める、などの工夫がなされていました。
    
ところが、1190年(平安時代~鎌倉時代の過渡期)に建てられた浄土寺・浄土堂では、そのような用意はまったくされていません。
下は、すでに浄土堂の解説の際にも載せた、柱の底部の写真ですが、平らです。礎石の上部が平らに均されていて、柱はその上に置いてあるだけ、ということになります。
        

なぜ、12世紀末には柱を礎石に置くだけになったのでしょうか。
その理由は、床を張るか否かの違いに拠ると考えられます。
浄土堂の建て方手順の解説ですでに触れましたが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/46152cfa4f8c9450e6fbdfe2c9d99745)、浄土堂では、柱間20尺の3間四方の平面に対して、縦横に「足固貫」が入れられていて、しかもその組込みは建て方の最終段階でした。最終段階で、「足固貫」を組込むことで、柱間を設定どおりの位置に調整可能だったのです。
一方、床を張らない法隆寺の時代には、柱位置の建て方終了後の調整は難しく、はじめに柱位置を設定箇所に据える必要があったのだ、と考えられます。「太枘(だぼ)」は、定位置確保のための用意と考えることもできるのではないでしょうか。
もしかすると、「長押」は(特に「地長押」は)、「大引」や「足固め」の役割を担う材として発案されたのかもしれません。

   なお、法隆寺も浄土寺・浄土堂も、礎石建てにしてもなお柱脚の湿気・腐朽を気にしています。
   これは、日本の工人たちが、時代を越えて木材の腐朽防止に如何に腐心してきたか、を如実に示しています。
   一方でこれは、現代、最もないがしろにされていることの一つです。


以上、想像に想像を重ねてみました。

要は、建物の架構を「立体に組上げる」という発想・構想(これこそが、日本という環境で育てられた「日本の木造建築の真髄」だと思うのですが)は、「掘立て」の時代からの長い長い体験の積み重ねの中で会得されたものだ、と考えてよいのではないか、ということなのです。

そして、そうやって見てくると、架構を各面に分解し、各面に耐力部を用意することで架構の安定化を図る、などという現代の理論が、浅ましく見えてきてならないのです。
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