建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

失敗の修復で得たもの・・・・筑波第一小体育館の補修

2008-02-28 11:27:53 | 建物づくり一般
[字句修正:18.26]

昔撮った写真の整理中、筑波第一小体育館の補修工事中の写真が見つかった。

この体育館は1987年3月に竣工しているが、翌年の秋、上掲上段の写真のように、いささか無残な姿になっていた。軒先は波打ち、破風も狂っていた。それが、写真に拠ると1988年11月のこと。
これについては、2006年10月18日の記事(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/42a1da660760328cf34d5fc9f10adf2e)で、「雪止板」の取付けでなんとかなった旨、顛末を記しているが、そこで触れている「雪止板」取付け工事の工事中の写真が出てきたのだ。
その記事では、竣工1年後に「雪止板」を軒先に取付け狂いが収まった、と書いているが、それは私の思い違い、写真を見ると「雪止板」の施工は1992年、つまり竣工5年後だったようだ。
記録なしの記憶だけ、というのは怖いことだ!

そこで、その間の経緯を洗い直す作業をしてみた。

この工事は、思いもかけない大雪で、屋根の雪が滑り落ち、少し離れた隣地に飛び込み、畑の作物に被害を与えてしまったことを契機に行うことになったもの。
4寸5分勾配の鉄板屋根、おまけに登りが長いから、いわばジャンプ台、雪がたくさん積もれば滑り飛び出すことは予想できた。しかし、雪がそんなに降るとは考えもしなかったのである。

しかし、この雪がいつ降ったのか、記録をとってない。
そこで、水戸気象台のデータでその頃の大雪を調べたところ、1990年2月1日に、水戸で27cmの降雪・積雪があったことが分った。筑波山では、おそらく、それ以上降ったと思われる。間違いなく、そのときに起きた事故だ。
これを機に、雪止めの話が出て、2年後、つまり1992年の夏休みに工事が行われたのだ。設計は前年度の秋以降だったのではないか。

88年11月の写真はなぜ撮ったか。
実は、この「雪止」工事の前に、既に、桔木応用の合掌が開いてしまい、その修復のために両妻側の合掌6本にタイバーを設けて開きを止める工事を施したのだが、上段の写真は、その予備調査の写真。タイバー取付けは、学校が休みのときだったから、それは多分89年の春休みだったのではないか。

しかし、タイバーでは、完全に狂いを止めることができず、以前ほどではないが、92年の段階でも、軒先には不陸が生じていた。
その不陸の様子は、「雪止板」取付け中の写真①②④で、合掌(垂木)に取付く腕木の位置が合掌ごとに異なっていることで分る。
合掌の軒先端部を押上げたり、引張ったりして一定程度まで不陸を修正し、「雪止板(セキ板)」を腕木に取付けることで、結果として以後の変形を押さえることになった。
いわば怪我の功名である。
なお腕木、「雪止板」(250×90の溝型鋼)とも耐候性鋼を使用。

なぜ合掌に不陸が生じたか。
これは前にも触れたと思うが、@3尺1寸の合掌相互をつなぐのが、厚1.3寸の野地板だけだったからだ。これだけの太物を、野地だけでつなぐのは無理。やはり、合掌に見合う寸面の材で、合掌相互を結ぶのが正統な方法だろう(猿橋や愛本橋のような桔木を何段も重ねて跳ねだしてゆくとき、桔木と桔木の間には、必ずあるピッチで、桔木に直交する「枕木」が入っている⇒06年10月14日記事http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/14ffe0221c56be212cd87134442f1d4f参照)。

狂いを押さえるもう一つの方策は、合掌の先端:軒先に「鼻隠し」を取付けること。浄土寺浄土堂や東大寺南大門は垂木の先端に「鼻隠し」が設けられているが、一説によると、素性のあまりよくない太物の垂木の狂い防止のためという(平安末~鎌倉時代には、古代のような素性のよい材料をそろえることが難しかった⇒06年10月20日記事http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/f15d72b45441166116cf7be0b4a0169b参照)。
そしてもう一つの策。それは細身の垂木で構成すること。ただ、細かい分、手間がかかる。

後で考えれば至極あたりまえなことが、事前に分らないとは何たること!


なお、この「雪止板」方式は、信州の「本棟造」の軒先:「セキ板」を参考にした(ex 07年5月24日記事http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b1cceff176f783b66cf4e8c161bb7a55島崎家の軒先)。
屋根を下ってくる雨や雪は、「セキ板」にぶつかって、真下に落ちることになる。

   註 通常鉄板屋根の雪止は屋根面の軒先に雪止を植え付けるが、
      このような大屋根では、屋根葺き板を破損してしてしまう。 

実は、この「雪止板」を取付けた後では、94年の20cm、06年の17㎝というのが大雪の部類(水戸気象台)、そのときの実際の効能のほどは確認できていない。とりたてての便りがないから良い便り、と思っている。

結局、耐候性鋼の「雪止板」は、雪止めだけでなく、思ってもみなかった「鼻隠し」の働きをしてくれたのである。

   註 ある大工さんに、材寸の大きい垂木の場合は、
      「鼻隠し」を付けた方が無難、と教えられた。

また、写真では分りづらいかもしれないが、越屋根の開口部:嵌めころし窓部分は、ガラスを枠の芯に納めていたため、吹き降りのとき雨水が浸入、その対策として、雪止工事と同時に、開口全面にわたって、ポリカーボネート板を前面に吊り下げた。
こういうところでガラスの芯納めは禁物だということを認識していなかったのだ。

再び、設計図で何を示すか・・・・伏図の重視

2008-02-26 19:06:21 | 設計法

ある頃まで、設計図を、配置図、平面図、断面図、立面図、矩計図、展開図、天井伏図、建具関係図・・といわゆる「意匠」にかかわる部分をそろえ、次いで伏図や軸組図などの構造関係図、そして各設備図を並べる、といった形式でまとめていた。要するに、教育で教えられた形式である。

しかし、そういう形式でまとめた設計図は、いざ現場で「ある部分」について見ようとすると、大きな製本図面のあちらこちらをひっくり返さなければならない、という場面に遭遇する。ときには、食い違いまで見つかって、どれが正しいのか頭をひねる事態まで生じる。

そこで思い至ったのは、こういう形式の図面のまとめ方は、図面を見る立場で考え出されたものではない、という「事実」であった。
たしかに、こういうまとめ方は、あたかも辞書のごとく整然としていてきれいだ。
しかし、辞書ならばそれでもよい。設計図面はそうではない。三次元として出来上がる建物を、二次元で表現する以上、一定程度は対象を分解して示さざるを得ないのはたしかではあるが、問題はその分解の仕方にある。
先に触れた一般的な形式の図面の整理は、現場での仕事の進め方・手順:過程とは無関係だ。だから、施工の手順・過程に見合った整理をすれば、ずっと見やすくなるはずである。
ある大工さんに、図面の数はなるべく少なく、図面の大きさはなるべく小さい方がよい、A3判で二つ折りにするとA4になる、持ち運びも楽で、見るのも楽ではないか、と言われたことがある。もちろん、すべてがそうなるわけではない。これはあくまでも理想形。
この大工さんは、設計図とは別に、A3判の紙に設計図を記号化した図に置き換えて仕事をしていた。一種の施工図とも言えるが、通常の施工図とは意味が違う。


現場を見る機会が増えると、ますます設計図は現場を考えてまとめなければならない、施工手順を考えて描かなければならない、と思うようになった。
上掲の図は、先のTo邸設計図の伏図を抜粋したもの。用紙はA3判の上質紙、鉛筆描き。材寸や継手・仕口も描きこんである。ここでは、下から「一階床伏」「二階床伏」「小屋伏1・2」と高さ順に掲載。

なお、紙面に余裕があるときは、図の一画に、材料表を書き込むことがある。

こういった図を基に大工さんと話をして、よりよい方法があれば教示願う、というのがいつものやり方。言わばこれは、設計側からの一提案書、という位置づけ。

   註 図面に書き込む寸法等も、現在一般的な方法は、
      確認申請に必要な表示法を採っている例が多い。
      たとえば、GLからの床高を表示する。
      しかし、床位置が決まるのは、仕上げ段階。
      やむを得ず、施工者は、躯体:構造体の位置を
      床高から逆算しなければならなくなる。
      床高は構造体から〇〇上がりという指示が妥当なのだ。
      設計図は、確認申請のためにあるのではない、という
      認識が必要だろう。
      私は、それはそれ用につくることにしている。

設計図で何を示すか・補足続き

2008-02-24 12:53:12 | 設計法

「古図にみる日本の建築」から、かつての「設計図」をもう一例。

上の図は、明和7年(1770年)に描かれたと考えられる「後桜町院御所」の「建地割図」の部分。
これは、後桜町院御所の造営にあたって、各建物の矩計を、1枚の紙の表裏に現寸で描いたもの。したがって、紙の大きさは、幅1尺5寸(約45㎝)、長さ27尺(約8.1m)という途方もない大きさ。多くの建物の矩計を重ねて描き込んである。

   註 後桜町院御所:後桜町天皇(在位1762~1770)の退位後の居所

建物を数棟以上同時に建てるとなれば、相互の高さ関係等の調整が必要で、それへの対応策として、各建物の矩計を1枚の紙にまとめて描くという方策を採ったのではないだろうか。

そして、各建物の工事は、建物ごとに、この図に基づいて「尺杖(しゃくづえ)」をつくり、仕事がなされたようだ。おそらく、この図と「指図」:配置・平面図:があれば、建物は施工できたのである。

   註 現在でも、自分で刻む大工さんは、
      建物ごとに「尺杖」をつくって仕事をする。


この図は、江戸幕府に京大工として抱えられていた中井家に所蔵されていた資料(通称「旧中井家文書」)の一。

なお、上の図の左列最上部と右列最下部とは重複しているが、これは、長大な対象を、書物の1頁に載せるため2列に分割せざるを得ず、それへの配慮と思われる。

また、上掲の図は、元図がA4判を超えているため、やむをえず2枚のスキャンを合成したので、左側最上部にズレが生じてしまっている。その部分は、右列最下部を見てください。

設計図で何を示すか・補足

2008-02-23 22:28:14 | 設計法

先回、「建地割図」では、半分を断面、半分を立面とする図があることを紹介した。その一例として、「善光寺如来堂」:長野市の善光寺の本堂:の建地割図と指図を、「古図にみる日本の建築」から転載させていただいた。

善光寺は、たびたび火災に遭っていて、この図は宝永4年(1707年)の再建時のもの。設計は幕府の作事方の甲良宗賀。図にはその署名が見える。

この図で分ることは、「立面」が、構造的な裏付けの下にできている、更に言えば、建物の形体、空間の形状は、構造・架構と切っても切れない関係にある、ということ。
構造的に意味があり、なおかつ結果が、つまりできあがったときの見栄えもよいこと、そうなるために工人は苦労を重ねる。
おそらくこれが「設計」という作業・営為の本来の姿なのではないだろうか。

前掲書には、どのようにつくるか考え抜いた「建物をつくる上で役に立つ図面」が、この他にも多数集められている。


設計図で何を示すか

2008-02-23 04:05:52 | 設計法

[振り仮名など字句追加:2月23日 9.03]

先日紹介した富沢家、高野家、あるいは、古井家、椎名家、高木家等々の民の建物はもちろん、社寺等の建物を観ていていつも思うのは、それをつくった工人たちの空間・立体の捉え方の凄さである。
というのは、そのつくりかたを見ると、建物全体、架構全体を、立体的・空間的に捉えていなければ、あのような架構を考えだし、つくりだすことはできない、と思うからだ。
あるいは逆に言うと、立体的・空間的にとらえて架構をつくれたからこそ、それらの建物は構造的にも長命なのだ、と言えるのかもしれない。

昔からよく語られる言葉に、工人たちは、「板図1枚でつくってしまう」、というのがある。たしかに今でも、工人たちの仕事ぶりを見ていると、そうである。
ということは、彼らは、頭の中に全体が見えていて、時折り確認のために「板図」を見る、つまり「板図」は、肝要な事項が書き込まれているメモ帳と言ってよいのだろう。
そこには、今かかわっている仕事を進める上で必要な事項が、それだけが、要領よく書き込まれているのだ。

では、彼らはどのようにして全体が見えるようになり得たのか。
「古図にみる日本の建築」(国立歴史民俗博物館 刊)に、浜島正士氏が「指図・建地割図について」という論説を書かれている。
「指図(さしづ)」とは、通常、配置図あるいは平面図を指し、「建地割図(たてぢわりづ)」とは一般に断面、立面図のこと。

それによると、古代、工人たちが堂塔を建てるにあたって、事前に「模型」をつくることがあたりまえに行われていたらしい。最初の本格的な仏教寺院とされる飛鳥寺は、朝鮮・百済からの工人により建てられているが、その際、「模型」が百済から献上された旨、日本書紀に記載されているという。
つまり、そのような「模型」で全体をつかみ、それに基づき施工をしたのである。模型の縮尺で多いのは十分の一で、単に外形だけではなく、ときには、内部の構造まで詳細につくられている:「元興寺(がんごうじ)五重小塔」:奈良時代、国宝。
このことはきわめて納得のゆく話である。現在でも模型を頼りにすると、設計図の作成はもとより施工もきわめて楽だからだ。
そして更にこのことは、「板図」が描かれるには、先ず全体が分ることが先決だということを雄弁に示している。そしてそうだからこそ、工人たちには「板図」で全てが分るのである。

上掲の図は、先の書に掲載されている東京都中央図書館蔵の万延元年(1860年)に行われた江戸城本丸大広間の普請の際に使われた「絵図」である。徳川幕府の作事方・棟梁、甲良家の蔵品であった。いずれも柱間1間を1寸として描いてある。
上から「小屋梁配(はりくばり)図=梁伏図」「足固伏図」そして「土台伏図」。
コピー機のなかった時代。これらの図が一式用意されていて、必要に応じて、必要事項を板図に描き写して仕事をしたのではなかろうか。


このような図は、現在ではいわゆる「施工図」の範疇に属する図とされるだろうが、しかし、まさしく、これこそが「設計図」なのである。これに建地割図:矩計があれば工事を進めることができるからだ。

しかし、現在の「設計図」で、設計者は何を示そうとしているのだろうか。

昨今、設計図は、「基本設計図」「実施設計図」とに大きく二分される。
そして更には、施工のために「施工図」が現場で描かれるのが普通になってきている。
しかし、そのとき「実施設計図」の「実施」の語は、どういう意味を持つのだろうか。
本来、「実施設計図」とは、「その図によって施工ができる図」という意味のはずである。だからこそ「実施」と言うのである。そして、一般に、設計図とは、この意味での「実施設計図」のことを指していた。上掲の図は、昨今の見かたでいえば「施工図」になるのかもしれないが、当時はそれが「設計図」だったのである。

また、最近の設計でも、古代の「模型」と同じくスタディモデルがつくられることが多いが、しかしその多くは「形」だけをつくり、「構造」について顧みられていないの普通だろう。
なぜなら、設計者の多くに、「形」と「構造」とは別物、そして「設計」と「施工」は別物、という意識が強いからだ。
そして、この「意識」が「実施設計図」とは別に「施工図」を描いてあたりまえ、という風潮を生んだと言ってよいだろう。
つまり、昨今の設計者には、施工にかかわることは、現場の人たちが考えること、彼らが考えればよいこと、と考える人が多くなった、ということにほかならない。
更に言えば、設計者は施工者より一段高い位置にいる、簡単に言えば、設計者は施工者よりも偉い、という意識が根強い、ということだ。

先の浜島氏の論説に、「建地割図」すなわち現在の立面図に相当する図のなかには、同じ図に立面図と断面図とを色分けして描かれたり、半分を断面、半分を立面とした図があることが紹介されている。
これは、言うならば、立面図は断面図すなわち構造が表われるものなのだ、という認識があたりまえにあった、ということだ。
ひるがえって現在の設計図の立面図を考えてみたとき、その背後に「構造」が浮かび上がってくるような立面図が、はたしてどのくらいあるだろうか。

上掲の図は、現在の設計図では「構造伏図」に分類される図である。
しかし、現在描かれる「構造伏図」は、必ずしもそのまま施工に役立つ情報がそこに示されている、描かれている、とは限らない。むしろ、ほとんど役に立たないと言ってよいだろう。
特に木造建築の構造伏図の場合、その傾向が強い。だから、大工さんたちは、描かれている図の上で、あらためて、材をどこで継ぐか、どういう仕口で納めるか考えなければならず、ときには納まらない場合さえ生じかねない。つまり、どのように組むかを考えないで図が描かれている、と言っても過言ではない図が多いのである。これでは設計図ではなく、もちろん設計をしたことにもなるまい。

なぜそうなるのか。
それは先にも触れたように、現在、「形」と「構造」、あるいは「設計」と「施工」とを別物としてあつかうことが、一般に《あたりまえ》になってしまったからだ。とりわけ、CADの普及は、その傾向を著しくしているように私には思える。

ある時期まで、私の描く伏図もまた、大工さんには役立たずであった。加工場で実際の刻みの現場に立ち会うまで、そのことに気付かなかった。
これは、大分前に触れたRCの柱と梁の納まりの形状:形枠の形状の無意味さに気付いたのが現場であったのと同じである。
設計者の多くは、木造の刻みの現場が《怖い》らしい。はじめは私もそうだった。
しかし、大工さんの仕事の段取り、進め方にとって必要な情報を示す図でなければ、ほとんど無意味な設計図であることを真底知ったのは、刻みの現場での経験だった。

以後、極力、現場で新たに施工図を描き起こす必要のない設計図になるように努めるようになった。
先回掲載したTo邸の設計図のうちの「伏図」はその一つ。設計図の描き方、設計図で何を示すか、を教わったのは、実は、この建物の施工をされた大工さんの加工場であった。遥か昔のことである。

棟持柱の試み・補足・・・・To邸の設計図抜粋

2008-02-20 18:52:36 | 建物づくり一般

[図版差替え:2月21日 2.45]

写真は、西側を見たところ。奥にあるのは、元の「離れ」。今回新築したところに「母屋(おもや)」があった。
図は住居部分の平面図、2階床伏図、矩計図。
図はA3判上質紙に、手描き(鉛筆)、コピー。

棟持柱の試み・・・・To邸の設計

2008-02-19 00:55:32 | 建物づくり一般
甲州の瓦葺・棟持柱切妻屋根の実例写真を捜索中に、それに触発された設計例の写真を見つけた。もう15・6年前の設計である。その一部をまとめたのが上掲の写真。場所は、茨城県石岡の郊外。

配置図のように、東西に長く、南北の短い敷地のため、一列にまとめるしかない、それでは棟持柱方式で考えてみよう、ということにしたような気がする。

敷地の南は、細い道を挟んで一段落ち込み、水田になっている。狭い谷地田である。このお宅は、元は農家であった。今のところ、敷地の前は水田のままだが、徐々に埋め立てられ、宅地化が進んでいる。
敷地の北側は、丘陵・山林(スギ、ヒノキの植林)に連なる。西面の土庇の写真に、北側が高くなっているところが見える。

この段階では、門がないが、7・8年前に、四脚門もどきを建てた。

続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の農家:補足

2008-02-16 08:51:39 | 日本の建築技術の展開

先回、山梨県:甲府盆地の東部に、当初は屋根裏使用目的のなかった「茅葺切妻」農家、17世紀末建設の「広瀬家」があったことを紹介した。

現在この建物は、小田急線「向ヶ丘遊園」(新宿から急行で20分ほど)下車、南口を出て徒歩10数分のところにある「川崎市立 日本民家園」に移設・保存されている。
なお、この民家園では、各地から移設した建物を、周辺環境をできるだけ元の様子に近く展示している点に特徴がある。「日本民家園」のHPに保存リスト等が載っている。


南側の軒がきわめて低い(頭すれすれである)のは、古い住居の建物に共通する特徴。大分前に紹介した「古井家」も軒が低い(「古井家」については、06年12月13日、07年3月17日に紹介)。

「上屋」+「下屋」方式であるが、小屋組は、東西妻面、平面図の「いどこ」と「なかなんど」境の柱を「棟持柱」、「いどこ」「どま」部分は通常の小屋組方式:柱に梁を架け渡し棟束を立て棟を受ける:を採っている。
もっとも、東妻面では礎石から通しの柱だが、西妻面では、外観写真のように、差物で棟持柱を受けるかたちになっている。
この西側妻面の柱と横架材のつくりなす壁面構成は、巧まずして美しい。

外壁に開口が少なく、内部はきわめて暗い。甲府盆地は、冬季寒さが厳しいこと、そして、建具の加工技術がいまだ完全でなかった時代の建設であったことが、こういうつくりにしたのではないか、と言われている。

「いどこ(ろ)」は、当初、いわゆる「土座」:土間に直接「莚(むしろ)」や「茣蓙(ござ)」などを敷く:であったらしい。

民家園に移築時点では、養蚕農家として、規模は小さいが、写真のような「高野家」同様のつくりに改造されていた。

注意したいのは、17世紀の末の地域の大工さんたちが、理に適った、しっかりとした仕口でつくっていることだ。
これに比べ、現在あちらこちらで見かけ、法令も容認し奨めている架構や仕口は、いかにいいかげんなものか、分るように思う。
およそ300年経った今、《近代科学》が、技術の衰退を強いたのだ。

なお、写真および図版は、「日本建築史基礎資料集成 二十一 民家」(中央公論美術出版)から転載。写真中の文字は追記。

続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家

2008-02-15 11:06:00 | 日本の建築技術の展開

松本行の中央線は、笹子トンネルを抜け、眼下に甲府盆地が拡がり始める頃、「塩山(えんざん)」駅に着く。四月ごろの甲府盆地は、桃や李の花が咲き、全体がかすんで見える。

その塩山の駅のすぐ北側(歩いて数分)に「高野家」(重要文化財)がある。三層茅葺切妻屋根のきわめて大きな家。

高野家は古くから薬草の「甘草(かんぞう)」を栽培、販売していたため、「甘草屋敷」とも呼ばれている。現在の建物は、19世紀初期:1800年代初期の建築。
つくりは、先に紹介した養蚕農家同様、屋根裏のほとんどを使っている。ただ、用途は蚕室ではなく、甘草の乾燥用。

先に紹介の養蚕農家「富沢家」と大きく違うのは、「富沢家」が「茅葺寄棟」であるのに対し、「高野家」は「茅葺切妻」であること。
いわゆる「合掌造」も茅葺切妻だが、「高野家」のそれは、それとは大きく違う。言ってみれば、通常の切妻屋根の建屋が背伸びをした恰好。

茅葺屋根は寄棟、入母屋が普通で、茅葺切妻は、全国的に見てもきわめて少なく、関西・北陸では岐阜、大阪、奈良、富山、そして中部以東では山梨にしかないという。
大阪、奈良などの茅葺切妻は江戸時代も後期になってから現れるが、山梨は1700年代:18世紀前半にはすでに一般化していたようだ。

山梨の茅葺切妻屋根は、屋根裏を蚕室として使うために生まれたという説もある。
しかし、この形式は、この地方で養蚕が盛んになる以前の17世紀後半:1600年代後半に既に見られ、現存最古とされる17世紀後半建設の「広瀬家」が、現在、山梨県から川崎市立日本民家園に移設、保存されている(重要文化財)。
この建物では屋根裏は使われていないが、「棟持柱」による茅葺切妻屋根である。
なぜ甲州・山梨に茅葺切妻が生まれたのか、未だによく分っていないらしい(この項、「日本の美術:民家と町並 関東・中部編」の解説による)。

この「高野家」は、山梨の茅葺切妻に共通する特徴がある。
それは、棟木を「通し柱」の「棟持柱」で支える構造を採ること、棟の一部を一段高くしていわゆる「煙出し」を設け、また屋根裏へ明りを取り込むために屋根面の一部を突き上げていること。煙出しと突き上げの様子は、外観写真にみえる。
「富沢家」のように、平側の屋根を全面切り上げていないのは、切妻屋根のため、妻面からも明りを取り込むことができるからである。

   註 このような甲州の切妻の棟持柱方式の建屋を、
      甲州では「切破風(きりはふ)造」と呼び、
      また、「棟持柱」は「うだつ」、「破風」を
      「はっぽう」と呼ぶことから、妻側の棟持柱を
      「はっぽううだつ」と呼ぶという。
          この項川島宙次著「滅びゆく民家」より。


「高野家」は私が見に行ったころは、まだ建屋に家人が住まわれていて、写真を撮るのは遠慮させていただいた。
上掲の写真、図は、上から、「南面外観」(「日本の美術」より)、「平面図・立面図・断面図」(「日本建築史基礎資料集成 二十一 民家」より)、「二階内部」(「日本の美術」)、「三階内部」「妻面参考写真」(「滅びゆく民家: 間取り・構造・内部編」より)。

「棟」の位置は、平面図上で、桁行方向、座敷部を南北に二分する位置にある。
土間境の太い柱:通称大黒柱も同じ線上(これは、後述のように通し柱ではない)。
土間右手:東側の部屋は、八畳敷の部屋の真ん中に柱がある。これも「棟持柱」。じゃまな柱を取り除く工夫を普通ならするのだが、それをしていないのは、その柱が「棟持柱」だからだろう。

二階内部写真に見える異形の柱は、ほぼ二尺径のクリ材の大黒柱の頂部で二股に分れ、三階床の桁行方向の梁:「中引(なかびき)梁」(通し柱~通し柱の中間で床梁を乗せ掛ける桁行の梁、床梁をこの上で継ぐことが多い)を受けている。

この建屋の「棟持柱」は、梁間の中央を切った「桁行断面図」の、左から、「西妻面」、「部屋境の2本」、土間東の「八畳間の中央柱」、そして「東妻面」の5本で、いずれもきわめて長大。
三階内部写真に見える棟を支えている柱が、部屋境の2本の「棟持柱」である。

各階では、この「棟持柱」に差口で納めた「梁」が、南北に伸び、入側では、「管柱」の支える「桁」がそれを受ける(「管柱」が直接「梁」を受ける、つまり「折置」にする場合もあるようだ)。
つまり、「梁行断面」は、言ってみればヤジロベエ型になる(梁行断面図は「修理工事報告書」にあるはずだが、不勉強でまだ見ていないので紹介できない)。

この方法だと、入側に、ベランダ様の「跳ね出し」を自由に設けることができるなかなかすぐれものの工法なのだが、しかし、隅柱を通し柱、という現行法令の想定範囲にはない工法である。

「高野家」の妻面は、撮影が難しい場所にあり、同様のつくりの建屋の妻面の写真を「滅びゆく民家」から借りた。
少し太めの「棟持柱」に、桁行の「中引梁」が「ほぞ差し鼻栓」で納められていることが分る。
各層の「床梁」は、写真では見えないが、「棟持柱」に「差口」納め。各床梁間に数段見えるのは「貫」。これらがそのままこの建屋の「意匠」になっている。

この地域には、屋根が瓦葺きになった(したがって、屋根勾配は5寸~6寸程度)同様のつくりの建物(棟持柱、越屋根、突き上げ屋根)が、多数現存している(たとえば、塩山から雁坂峠へと向う街道筋)。かつて撮ったそういった建屋の写真を、現在捜索中。

怪談・・・・受講料350,000円也の講習会

2008-02-13 15:36:24 | その他
[文言追加:18.07][更に文言追加:2月14日、9.58]

昨年12月3日(月)から今月2日(土)まで、つまり約1ヶ月で受講料350,000円という講習会があったらしい。会場は、東京一箇所だけ、年末年始、その他休日を除くと実質およそ25日だろう(長くても30日)。

何の講習会かというと、「食品衛生管理者」の資格認定のための講習会。
食品衛生法の改変によって、今年の四月から、食品や食品添加物などを生産する事業者は、かならず「食品衛生管理者」を置かなければならなくなったのだそうだ。

ところが、この法律は、頭から、食品や食品添加物を生産するのは大きな会社だと思い込んでいる気配がある。食品や添加物の生産者には、家族経営あるいは一人、という場合があることを忘れている。

こういう講習会の存在と、その問題点について、先日のTBSの報道で知った。
たとえば、豆腐づくりに必須な「にがり」を、沖縄の離島で海水から製造しているのは、歳のころ50~60代に見える男性(年齢も紹介されていたと思うが、見損なった)。何から何まで一人でやっている。国内の豆腐の製造業者の中には、この人のつくる「にがり」でなければつくれない、と言う人がいるほどの良質の「にがり」をつくっている。
しかし彼は、この法律の変更にともない、生産をやめるという。
東京の講習会へ行くとなると、受講料、交通費、宿賃などいれれば軽く100万を越える費用が要る。そんな金はない。第一、受講したら、その間、仕事ができない。なにしろ、一人で仕事しているのだ。[文言追加:14日 9・58]

要するに、これは、彼にとっては「やめろ」と言われているのに等しい。

考えてみるまでもなく、個人や家族経営の方々の方が、大きな会社などよりも、製造上の管理はしっかりしているはずだ。なぜなら、いい加減なものをつくれば、それでたちまち商売は終わりになるからだ。だからこそ、近江商人は、金儲けよりも「信用」に重きを置いた。
かつては、大きな会社でも、その「信用」が第一、しっかりしていたものなのだが、金儲けが優先になった最近では、「信用」ではなく「ブランド」だけ第一、その上、大きいゆえに責任の所在も不明確、言葉は悪いけれど、ごまかしがきく。あるいは、幹部が勢ぞろいして《お詫び行脚》やTVの《お詫びの時間》に出て済ます。
おそらくそんなところから生まれたのが、食品衛生管理者を置くことを義務付ける制度なのではないか。
しかし、管理者を置けば品質が良くなる、という保証があるわけではない。

その上、大きな会社だけが頭にあるから、沖縄の離島で一人こつこつと良い品をつくっている人がいる、など思いも及ばない。だから、平気で、ただ一箇所、東京で講習会を開いて済ます。

TBSは、この不条理について問うべく、管轄の厚生労働省に取材を申し込んだところ、拒否され、現在に至っているという。

建築基準法や建築士法の改変も、結局のところ、中小、弱小排斥・排除に連なるのだが、こうしてみると、いたるところ、構図は同じようだ。
ある派の経済学者たちは、大きなところが利益を挙げれば、それが、小さなところを潤すことになる、という至極《楽天的な》発想をお持ちのようだ。行政の方々もおそらく同じ発想なのだろう。
江戸時代の商人やお役人には、中には悪いヤツもいただろうが、現在に比べれば、こういう発想の人たちはきわめて少なかった。

現在のお役人たちの「質」をよくするため、「役人の品質管理者」でも置かなければならないのか?もっとも誰が決め、誰がなるのやら・・・。
つまり、そんなことでは「質」は良くはならないのだ。

ところで、先の講習会、定員約70名、主催は厚生労働省の委託を受けた同省の外郭団体「日本食品衛生協会」「日本食品添加物協会」。当然、厚労省の天下り機関なのだろう。

続・日本の建築技術の展開・・・・二階建の養蚕農家・補足

2008-02-11 09:13:23 | 日本の建築技術の展開

「日本の美術:民家と町並 関東・中部編」(至文堂)に、埼玉県・秩父地方にある「富沢家」同様のつくりが紹介されていたので、転載(「内田家」)。

「富沢家」「内田家」ともに、寄棟造の小屋部分に床を張り、二階:蚕室として使う。そこで、小屋裏:二階に明りを取り込むため、寄棟の「平側」:長手側の屋根を切り上げ、その結果、このような形状になる。

同じく、寄棟屋根の「妻側」を切り上げ、二階の明り取りとする屋根は、東京・奥多摩や富士山麓の養蚕農家に見かける(上掲の下の写真)。
その独特の形が兜に似ているというので「かぶと造」などと呼ばれる。
「富沢家」「内田家」は、これに対して、「平側」を切り上げているので「ひらかぶと」と呼ぶという。

地図を開くと分るが、上州:群馬、武州:埼玉、甲州:山梨そして信州:長野・諏訪・佐久は、秩父山塊をもって隔てられ、現在の鉄道、自動車道に頼ると、遠回りせざるを得ないから、相互の関係が薄いように思いがちだが、人馬に依った時代には、これら地域を結ぶ峠越えの道が発達していた。
たとえば、奥多摩は、大菩薩峠を越えれば甲州・塩山である。この街道は、甲州街道の裏街道だった。
そして、塩山を北へ向えば、雁坂峠を経て秩父に至る(最近漸くトンネルが開通)。甲府盆地を西へ進めば諏訪。
諏訪から和田峠で蓼科山系を越えれば佐久(諏訪~佐久のルートは、古代の東山道。中山道もそれを引継いでいる)・・・などなど。
つまり、人馬に拠る時代は、これら各地域は、人びとの交流も盛んであり、互いに影響しあっていたのである。

   註 よく、起源はどこそこにあり、それが伝播してゆく、という
      「文化、技術伝播論」で、発祥地を探したり「系図」をつくる
      などという「研究」があるが、そういう考え方は私は採らない。

      同じような状況下では、人びとは同じようなことを考え、
      機会があれば交流し、他地域のことでも意味があるものならば
      それを吸収して地域なりに消化し、地域独特の文化となる・・。
      これが本当のところだろう、と思う。

      これは、古代、中国や朝鮮から文化・技術・・が到来したとき
      古代日本の人びとがしたこととまったく同じ。
      たとえば、建物全面の基礎に、版築の基盤をつくったのは、
      ほんの一時期。都の四周に城壁:「羅城」を設けるのもやめ、
      「羅城(生)門」だけつくった・・・などなど。


甲府盆地の東、塩山、勝沼周辺には、「棟持柱」を使った独特の「茅葺・切妻屋根」の多層の養蚕農家があり、そこから発展して、茅葺を瓦葺に替えた同じく多層(多くは二階建)の「棟持柱」による養蚕農家を今でも多数見ることができる。

次回は、この地域特有の「棟持柱・切妻屋根」の事例を紹介。

続・日本の建築技術の展開・・・・二階建の養蚕農家

2008-02-09 11:34:56 | 日本の建築技術の展開

「驚きの《実物》実験」の話のとき、「伝統的木造住宅」の柱は太いものだ、という「予断」があるのではないか、と書いた。特に、いわゆる「民家」は骨太だ、と一般に「理解」されているようだ。

   註 最近、長寿命の建物は、太い柱に太い梁・・・などと奨める本が
      出ている。確かに太い材そのものは永もちかもしれない。
      しかし、組まれた架構の耐久性は、材寸ではなく、組み方にある
      という理解が必要なのではないか。
    
「民家は骨太」「骨太は永もち」・・という単純な理解は「誤解」だとして、奈良今井町の二階建町家・「高木家」と、信州・塩尻の「島崎家」を例にだした。
これらの建物の柱は、いずれも平均4寸2分~4寸3分角(約130㎜)。決して太くはない。

   註 島崎家⇒07年5月24,25日 参照
      「日本の建築技術の展開-27」
      「日本の建築技術の展開-27・補足・・・・島崎家について追記」
      高木家⇒07年5月30,31日 参照
      「日本の建築技術の展開-29・・・・二階建の町家 その2」
      「日本の建築技術の展開-29の補足」
      「日本の建築技術の展開-29の補足・再び・・・・高木家の架構分解図」

「島崎家」は平屋建、農家の二階建例はないかと考えていたとき、大分昔に見た「富沢家」のことを思い出した。
上掲の写真、図面がそれである。
昔撮った写真がどこかにあるはずなのだが、ここでは「日本の美術」の写真を転載させていただく。
また、図面は「日本の民家 1 農家Ⅰ」(学研)からの転載。

「富沢家」は、群馬県の渋川から長野原に通じるJR吾妻線の途中・中之条から山を越えて三国街道:国道17号線へ出る街道の峠(大道峠)の手前、「大道」という集落にある。
この集落は、新田開発で開かれたが、地図を開いてみていただければ分るが、標高が高い山深い寒村、古くから養蚕が盛んであったらしい。なお、「富沢家」に「うまや」が4室あるのは、「富沢家」が街道筋の運送をも業としていたから。

上州、甲州そして信州にかけての山地は、江戸期~明治にかけて養蚕が盛んな一帯。独特の養蚕農家が各地にある。いずれも山間の地。群馬・富岡に官営製糸場がつくられたのも、そういう地理的関係からの選定(選定にかかわったのは若きフランスの青年であることは以前書いた)。
今、甲府盆地は、葡萄をはじめ果物の産地として有名だが、ほとんどの葡萄園は、かつて桑畑だったということは、意外と知られていない。養蚕の衰退にともない果樹園に代ったのだ(茨城も養蚕が盛んであった頃があり、元桑畑は果樹やタバコの栽培に代った)。


さて、「富沢家」は、ほとんど総二階と言ってもよいつくりの茅葺農家。二階部分が「踏み天井(根太天井)」の蚕室になっている。
養蚕のしかたには時代によっていろいろと変遷があるようだが、「富沢家」では、通称「ざしき」と呼ばれていた現在の居間に相当する部屋の「いろり」の上の天井=蚕室の床が大きく開けられ、暖気が二階に抜けるようになっている。
また、蚕室の南面は、出桁・出梁でベランダ様の張り出しが設けられ、ほぼ全面が開口、紙障子が入っている。
これに似たつくりは、瓦葺きではあるが、上州・群馬では高崎~伊勢崎あたり、甲州・山梨では勝沼~塩山あたり、そして埼玉では秩父あたり、信州では諏訪周辺で、今でも見ることができる。

この建物では、土間と土間境の柱は礎石建てで太目の材、はねだし部の柱も礎石建てだが、実測矩計図によると127×130mm。
そのほかは土台が使われていて、土台は丈120×幅133mm。柱が土台からこぼれている箇所がないから、先の柱の他は最大でも133mm角。つまり4寸3分角程度である。ただし、必ずしも正角ではない。
「差鴨居」も各所に使われていて、237×125mm、227×120mmなどで、材の幅はほとんど柱幅と同じである。
「差鴨居」上の小壁には、外観写真で分るように欄間が設けられている箇所もある。

使用材は、土間、土間境の太目の柱はクリ、居室部分はスギ、土台はクリ、梁・桁にはクリ、マツ、スギなど。差鴨居は参照図書に記載がないが、マツと思われる。
ということは、材がスギであっても、「差鴨居」を納めるために、柱幅を差鴨居の幅より1寸近くも大きくする必要はない、ということ。

なお、土間には、広さの割には柱が少ない。これは、土間部分の断面図分るように、土間部分の二階床根太を受ける梁(南端部は「出梁」になる)の下に、もう一段、格子梁組を設けることで可能になっている。

何度も書いてきたが、永住の住まいをつくるからと言って、必要以上の材寸の材を使う、などということは普通にはあり得ない、ということ。
なぜなら、材料を収集することは、大変なことだからである(今だって、基本的には事情は変らないはずだ)。
そして、「人びととともにあることがあたりまえ」の工人たちも、基本的に、字の真の意味で「合理的な寸面の材」を使う、つまりムダなこと、「余計なこと」はしない。

   註 「余計」とは、新明解国語辞典によれば
      「それだけ有れば十分だとされる程度を越して、多く有る様子」

木造建築と地震・・・・構造計算用データベース?

2008-02-08 11:36:17 | 構造の考え方
ここしばらくの話のついでに、一昨年(2006年)あった話を書いておこう。
同年7月、国交省住宅局木造住宅振興室なる部局が、各県の住宅担当部局にあて、上掲のような依頼をしている(担当者名等の部分は省略)。
そして、まわりにまわって、それについての「意見」を述べてくれないか、との依頼が茨城県建築設計事務所協会からあった。

そこで、国交省の「依頼」の趣旨を読んで、不明や疑義のある点をまとめ、当方の「意見・提案」を書き、提出したのが以下の文(表紙は省略)。
中味はかねて書いてきたことと重複し、少し長いが、お読みいただければ幸い。

もちろん、先回触れたごとく(例のごとく)、受け取った旨の連絡はなく、したがって、もちろん、当方の疑義や意見への応答はない。その後、どういう結果になったのかも不明。

   註 昨年には、今度は県の農林部局から、木材のスパン表なるものの
      作成依頼があった。スパンいくらのときの標準材寸はこれこれ、
      という表を、各県ごとにつくるのだ、とのこと。
      それはまったく意味がない、といってお断りした。
      いったい、行政のエライ人たちは何を考えているのやら・・・。



はじめに

「伝統的木造軸組住宅」(以下、「伝統的工法」と表記)への関心が高まってきた今、データベースを構築することは、時宜にあった試みであるとは考えます。
ただ、趣旨に若干の疑義と不明な点がありますので、意見を述べさせていただきます。

Ⅰ:「伝統的」の概念と「伝統的工法」の理解のされ方、その現状

「伝統的木造軸組住宅のための構造計算用データベース構築」にあたっては、先ず、以下の点について確認しておく必要があるのではないでしょうか。
 
1.日本各地で長年にわたり培われ、用いられてきた木造工法が、なぜ「伝統的」と呼ばれるようになったか、その経緯について。
2.現在、木造の「伝統的工法」、およびその工法による建物を具体的に知る人が少なくなっている(知る必要を感じない人が多くなっている)が、なぜこのような状況が生じたのか、その経緯について。

この点についての見解を以下に述べます。 

1.「伝統的」「伝統的工法」の概念について

建物をつくる技術・工法は、世界各地域で、地域なりの歴史があります。
そして、その技術・工法の歴史は、連続的で断絶がないのが普通です。
また、技術・工法は、世界各地域間での交流が行われますが、その際、他地域の技術や工法を鵜呑みにして採用することはなく、自国・自地域に適合するものだけを採用する、あるいは適合するように改変して採用するのが普通です(日本の場合、奈良時代の大陸伝来の技術への対応に、すでに見られます)。

このことは、国内に限っても同様で、地域に応じて、地域なりの特徴ある工法・技術として結果しています。
したがって、「伝統的」traditionalというとき、その概念は、元来、そのような歴史を顧みての概念、すなわち「その地域特有の」という意味であって、単に「古いもの」という時間的概念でないことは言うまでもありません。

けれども、日本では、「伝統的工法」とは「現行法令が規定する工法」と技術的に無縁な過去のもの:文化財的なもの(現在では無用なもの)であり、法令の規定する工法より劣るものとされてきたため、一般の間に、「古いものは知る必要がない」という考え方が根付いてしまいました(建築教育でも「伝統的工法」からの脱却が説かれてきました)。
実際、「伝統的木造軸組工法」と「現在法令が規定している木造軸組工法」とは、技術史的に見ると連続性を欠き、その間には大きな「断絶」があると言ってよいでしょう。
しかも、この「断絶」は、必然的に生じたのではなく、1950年制定の建築基準法および関連法令の規定策定によって生じた、いわば「人為的な断絶」である、との認識が必要なのではないでしょうか(Ⅱ-2、3項において、詳述します)。

2.「伝統的工法」を知る人が少なく、誤解も多い
 
「建築士のための指定講習会」などの受講者で、「伝統的工法」でつくられている建物を知っている、「刻み」(部材の加工作業)の現場を見たことがある、「継手・仕口」について知っている、という受講者は、全体の10%にも満たないのが実情です。
これは、現在建築実務にかかわる建築士の多くが、すでにほとんど1950年以後に生まれた世代であり、教育の場面で「法令が規定している木造軸組工法」のみを学び、「伝統的工法」については建築史上の過去の単なる一事例として知るだけで(それさえ知らない人もいます)、疎遠な存在になっているからです。

さらに、枠組工法の導入後、木造軸組工法を《在来工法》と通称するようになってからは、「伝統的工法」と「法令が規定している木造軸組工法」との区別さえ、分らなくなっているように見受けられます。

このことは当然、建築関係者以外の一般の人びとの木造建物についての見方にも影響を与えています。
たとえば、「筋かい」がない建物は危険、あるいは「筋かい」さえ入っていれば安全、という見方は、一般の人びとの間にも広く流布し、昔の建物は、どれも地震に弱いとさえ思われています。
この原因は、一に、建築関係者の発言によるところが大きいのです。最近の「耐震補強」の推進にあたり一般向けに出されている広報や「簡易耐震診断法」も、大きな誤解を生みだしているように思えます。
たとえば、茨城県下では、どう見ても強固な、差鴨居を使用して丁寧につくられている農家住宅が、耐震診断法に従うと壁量不足で危険な建物に該当してしまい、説明に苦慮している事例が多数あります。
   
以上のことから、データベース構築にあたっては、「伝統的工法」とは何か、「伝統的工法」と「現在の法令の規定する工法」とはどのような関係にあるのか、そして、今、なぜ見直しの機運が生じているのか、その経緯等について、客観的に整理し、広く世に開示することが先ず必要と考えます。


Ⅱ:「データベース化の必要性」の論拠について

「依頼文」中に述べられている「データベース化の必要性」についての論拠には、下記の点で、疑義があります。

1.「地域特性に即した多様性こそが特徴である」との認識から「全国一律の仕様が必要である」との結論を導く論理は、はたして妥当か。
2.「全国一律の仕様が定められていない」ことが「伝統的木造軸組住宅」の普及を阻害している、との理解・解釈は、はたして妥当か。
3.「伝統的木造軸組住宅」の工法を「現行法令の軸組木造についての考え方、規定」で解釈することは、はたして妥当か

この点ついての見解を以下に述べます。

1.「全国一律の仕様が必要」とする認識の問題点

「依頼文」中にある「伝統的木造軸組住宅は、地域特性に即した多様性こそが特徴であり長所である」との認識については、まったく異論の余地がありません。
これまで、なぜこの点についての認識を欠如していたのでしょうか。

しかしながら、この「認識」から、「個別に構造耐力上の安全性を確認するための構造計算を容易にするために、全国一律の仕様策定のための構造計算用のデータベースを整備する」という考え方に、なぜ至り得るのでしょうか。論理的に無理があります。
「全国一律の仕様」が設定されたならば、「伝統的木造軸組住宅がもつ地域特性に即した多様性という特徴・長所」は、「一律」の中に埋没し、それぞれの地域の「特徴・長所」が消失してしまうことは明らかで、「本計画」の趣旨にも反することになります。

実際、現行の法令は、風や断熱(保温)、地盤などについては地域別の規定を設けてはいますが、構造にかかわる基本的な条項は全国一律で、かならずしも地域の特性に適しているとは言いがたいのが実情ではないでしょうか。
たとえば、台風に遭遇することの多い沖縄地域では、軸組の基礎への緊結が規定されてから、台風による建物倒壊の事例が増えた、というのが、地元の建築技術者の間では常識だと言います。
その他にも「全国一律の規定」により生じる問題は、多々あるのではないでしょうか。

大事なことは、「伝統的木造軸組住宅は、地域特性に即した多様性こそが特徴であり長所である」ことを、歪めずに、ありのままに理解することなのではないでしょうか。

2.「伝統的木造軸組住宅」の普及を阻害している真の要因

「依頼文」では「伝統的木造軸組住宅」普及の阻害要因として、「全国一律の仕様が定められておらず、構造計算のための必要なデータ収集に多額の費用を要する」ことが挙げられています。
この「構造計算」とは、現行法令の規定している「構造計算」のことと思われます。
しかし、木造建築についての現行の構造計算の考え方は、はたして、「伝統的工法」の特徴に即したものなのでしょうか(3項でも触れます)。

周知のように、「伝統的工法」は、「仕口・継手によって部材相互を一体の立体に組上げ、外力に対しては、その立体全体で抵抗する」点が特徴です。

この方法は、長年にわたる現場での経験から得た「木材は同種同寸の材でも性質が異なるが、一体の立体に組み上げると異なる性質は相殺され、また相乗作用によって外力に対して一層強固になる」という事実についての知見を前提に生まれたものと考えられます。
このことは、日本の建築の歴史を振り返ると明らかで、掘立て方式から礎石上に軸組を据える方法に転換して以来、足固め、長押、貫、土台、通し柱、そして差鴨居の活用へと、段階を踏んで「架構の一体化・立体化へ向けての技術」が発展し、それとともに「継手・仕口」も各種の工夫・考案が積み重ねられてきたのです。
特に、貫や差物が、全国各地の建物にくまなく、しかも早く普及している事実は、「架構を一体の立体に固めることの利点」を、人々が強く認識していたからに他なりません。

なお、「伝統的工法」は、部材相互が、いわゆる「相保ち(あいもち)」であるため、一部材が損傷しても直ちに全体の破損に至ることはなく、しかも当該部材を修復できるという特徴がありました。これが「伝統的工法」を長持ちさせてきた大きな理由でもあるのです。
これに対して、現行の法令の規定する工法では、一部の損傷(特に耐力部の損傷)が、直ちに架構全体の破損へと至る可能性が高く、また修復も容易ではありません(むしろ不能と言ってもよいでしょう)。

ところで、「伝統的工法」の体系化へ向けての技術的な革新は、現場における数々の経験で培われた技術者の「直観」に拠っています。その蓄積の結果、近世初頭には、この技術・工法は、体系的にほぼ完成の域に達していた、と見てよいでしょう。
これは、当然、構造力学や構造計算が確立する遙か以前のことです。
鉄材を使う建築工法において、I型断面の梁が考案されたのは(J・ワットが最初の考案者とされています)、「断面二次モーメントの概念」が確立する半世紀も前であることと通じます。
近代建築学は、この「直観」に支えられて体系化した「伝統的工法」を、「構造計算により構造耐力上の安全性を確認する」ために「定式化」して理解しようと試みました。
そのためには、軸組架構内の力の伝わり方を数値化して解析しなくてはなりません。

ところが、木材は力学的性質が使用木材ごとに異なり、さらに「くせ」の違いもありますから、個別架構ごとに、使われている各材料の性質や「くせ」などを調べ上げなければならず、それゆえ、得られる結果も「一般解」ではなく「個別・特殊解」です。
「依頼文」中にも「・・・(全国一律の仕様がないため)個別に限界耐力計算等の構造計算を行う必要があり・・」とあります。
そこで、「一般解を得ること」を目的に、「一体に組まれている木造架構」を各面に分解し、「耐力を有する部分」と「耐力を有しない部分」とに分け、「耐力を有する部分の量:壁量」で架構の強さを定量的に測定する方法が考案されます。
たしかに、こうすれば、木材の性質いかんにかかわらず、数値化:定量化が可能になります。これが現在の「法令の規定する軸組工法の考え方」の基本に他なりません。
しかし、このときすでに、「一体の立体に組むこと」に意味があった「伝統的木造軸組工法」は、「似て非なる」姿に置き換えられてしまったことになります。
さらに、この考え方が推進された結果、「耐力部分さえ一定の量さえあれば架構の強度は確保できる」と考えられるようになり、「架構全体を一体の立体に組む」ことは重視されなくなりました。
現在進められている「耐震補強」も、「耐力壁」部分にかかわる軸組の補強が主で、架構全体の一体化・立体化について考慮されているとは言えません。 

以上のことから明らかなように、「伝統的木造軸組住宅」「伝統的工法」が普及しない原因は、「構造計算を容易に行うことができない」からではありません。
むしろ、「定量化できないものを、定量化・数値化し計算するように求める」という「無理」に原因がある、との認識が必要でしょう。

現在、書院造を範とした武家住居、農家住宅に多くみられるL型に縁をまわすなどの開放的なつくりの建物をつくることは、「法令の耐力壁量の規定」の下では不可能です。
しかし、このような「伝統的工法による建物」で、地震、台風などに遭遇しながらも、100年以上、架構に致命的な損傷を受けず、現存している例が数多くあります。

そこで、この事実を踏まえ、これらの建物では、技術者たちは、どのようにして「架構の安全性の確保、その確認」を行っていたのか、その事例を広く収集・研究し、そこから「伝統的工法の考え方」を抽象する、いわゆる「疫学的」研究・検討を行う方法があるのではないか、と考えます(後述、Ⅲ章参照)。

3.「伝統的工法」を「現行法令の規定」で律することには無理がある

2003年12月の告示第1100号改訂で、「小舞土塗り壁」等の壁倍率が見直されました。
この改訂についての解説書に、「差鴨居も改訂の対象として検討したが、耐力壁として扱うには無理があり、結論は持ち越された」旨の注目すべき文言があります。
これは、「伝統的工法」を見直すにあたり、「現行法令の木造軸組工法の考え方」、つまり「耐力壁の確保」を援用した、ということです(「小舞土塗り壁」などの実物実験も、当該「壁」部分だけを切取った部分模型で行われています)。

すでに2項でも触れたように、「伝統的工法」は、「部材を継手・仕口で一体に組上げ、一体に組まれた架構全体で外力に抵抗する」点に特徴があります。
したがって、部分だけ切り取って考察すること自体が、すでに、「一体に組まれた立体架構」という「伝統的工法の特徴」に反することになります。

「伝統的工法」では、軸組架構の強度を「耐力を有する壁」にのみ期待する考え方は採っていません。もちろん壁に耐力がないわけではありませんが、それだけに依存する考え方はまったく採らないのです。それゆえ、壁がほとんどなくても、地震などの外力に耐えられる建物をつくることができたのです。
東大寺南大門はその典型で、現行法令の規定によれば現在では建設が認められない建物ですが(高さ約25m、耐力壁に相当するものはなく、しかも軒の出約5mの瓦屋根で重心位置が高い・・・)、800余年も無事に建っています(ほとんどすべての部材が当初材です)。
この南大門をはじめ、東大寺の鎌倉復興の建物で初めて使われたとされる「貫の技法」は、その効能が認められ、以後広く全国に普及し、社寺はもちろん住宅建築でも用いられるようになります。
また、最近の大地震でも、壁のない四脚門が多数、被災を免れています。
それは決して偶然ではありません。
これらの明らかに現行法令の規定に反する建物が、なぜ地震に耐えることができるのか、その事実を認識するとともに、その理由を考えてみる必要があるのではないでしょうか。

以上のことから、「伝統的工法の見直し」にあたり、「法令の木造軸組工法の考え方」を援用することは妥当ではなく、これ以上の「矛盾」の拡大を避けるためにも、この考え方からの転換が、早急に必要なのではないでしょうか。 


Ⅲ:「伝統的工法」再考のためにデータベース化が望まれる資料

「依頼文」には、「データベース化にあたっては、国土交通省が実験等を通じて収集できるデータには限りがあるので、各地域の研究機関や木造住宅関連団体などが保有している『伝統的木造軸組住宅の新築』や『民家の移築・再生』のデータの提供により、データベースの充実を図る」旨、述べられています。

たしかに、これはデータ収集上の一方法ではありますが、「現在の具体的実施例」についてのデータに関して言えば、事例としては数量的に自ずと限界があり、さらにそこで得られるデータは、「伝統的工法:伝統的木造軸組住宅」のデータではなく、いわば「偏ったデータ」にならざるを得ないのではないでしょうか。

なぜなら、現在各地で行われている「伝統的木造軸組住宅の新築」や「民家の移築・再生」は、いずれも現行法令に適合するように設計施工せざるを得ないために、いかにして耐力壁量を確保するかなど、「法令に合わせるための策」が施されています。
すなわち、「伝統的工法で建物をつくっている」のではなく、「伝統的工法風の建物をつくっている」のです。したがって、それらから得られるデータも、「伝統的工法:伝統的木造軸組住宅のためのデータ」ではなく、「現行法令の下で、《伝統的工法風の建物》をつくるためのデータ」になってしまうのではないでしょうか。

こうして得られた「現行法令の下で、《伝統的工法風の建物》をつくるためのデータ」が、万一、「伝統的工法:伝統的木造軸組住宅のためのデータ」であるかのごとくに扱われ、流布してしまうと、「伝統的木造軸組住宅」:「伝統的工法」は、さらに歪められて理解されるようになり、取り返しのつかない重大な結果を生じてしまうのではないでしょうか。

すでに触れたように、「伝統的木造軸組住宅」:「伝統的工法」による建築の実例は各地に多数存在し、その多くは国指定、都道府県指定、あるいは市町村指定の「文化財建造物」として保存されています。それは、住宅に限っても、農家、商家、武家住宅・・と幅が広く、多くの事例があります(なお、近年の「登録文化財」制度によっても、多くの「伝統的工法」による建物が登録・保存されるようになっています)。
指定され保存・修理が行われた文化財建造物については、「保存修理工事報告書」が調査主体(国あるいは都道府県、市町村、建物所有者など)から刊行され、刊行総数(すなわち建造物数)は、すでにかなりのものになっています(ほぼ半世紀にわたる成果です)。

これらの「保存修理工事報告書」には、その建物の建設年代、使用材料や工法・技法、他の類似事例との関係などの解説が、詳細に調査され報告されています。
「保存修理工事報告書」から得られる「伝統的工法」についての知見は、具体的かつ実証的で、技術的な面に限ってもきわめて大きなものがあり、その考え方の多様さ、事例ごとの様々な問題に対する工夫などは、現在の設計・施工実務にも十分通用する、多くの示唆に富んでいます。

しかし、この「保存修理工事報告書」は一般に市販されていないため、大学の研究室や限られた大図書館以外では、直接手にとって見ることはできません(古書店で購入できる場合もありますが、すべてではなく、しかも高価です)。
その結果、この貴重な資料は、活用の機会を限定され埋もれてしまっていると言っても過言ではありません。「報告書」を閲覧する方は建築史学関係の方々が主で、現在設計・施工の実務に関わっている方は、ほとんど利用していないようです(むしろ、利用できない状況と言った方がよいでしょう)。
それゆえ、この貴重な資料が、より広く、共通の知見として活用される方策が考えられてよいのではないでしょうか。

そこで、今回の「伝統的木造軸組住宅のための構造計算用データベース整備」計画の一環として、関係各機関(国交省、文化庁、都道府県教委、市町村教委等)の連携による「文化財建造物保存修理工事報告書のデータベース化」の推進の提案をさせていただきます。
このような作業は民間では行いがたく、貴職をはじめとする行政に於いてこそできることではないかと推察いたします。このデータベース化が進み、広く一般に公開されることになれば、「伝統的木造軸組住宅」:「伝統的工法」の理解と普及促進にとって、計りしれない効果が期待できるのではないでしょうか。

現在、(財)文化財建造物保存技術協会から、協会が調査・研究にかかわった建造物についての「文化遺産オンライン・建造物修復アーカイブ」が、試験的にインターネット上に公開され、現在160事例が紹介されています。
広く一般に公開される点で、これまでなかった非常に注目すべき、そして歓迎すべき試みですが、ただ、現在のところ、当該建物の一般図、竣工外観写真、解体工事中の写真などに限られているため、技術・工法などの詳細について知るには、それぞれの報告書に接する必要があります。

「伝統的工法」について認識を深めるために、「文化財建造物保存修理工事報告書のデータベース化」の提案をさせていただき、「意見書」を終らせていただきます。

なお、内容に疑義、不明点等がありましたら、何なりとご連絡ください。[以上]
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木造建築と地震:補足・・・・パブリックコメントという「形式」

2008-02-07 06:07:39 | 構造の考え方
先回の「木造建築と地震・・・・驚きの《実物》実験」の末尾の註で、「研究者」との間の質疑応答が一方的に打ち切られた話について簡単に触れた。
それを書きながら、この頃よく行政機関が行う「パブリックコメント」が頭をよぎった。
多分、「一方的」な点が共通しているからだろう。ただ、長くなるのでそこでは書くのをやめた。

「土塗壁・・・・の壁倍率に係る技術解説書」には、この壁倍率改訂にあたってなされたパブコメで寄せられた「意見・質問」とそれに対する国交省の「考え方」が2頁にわたる表で示されている。
ただし、どれだけの数の「意見・質問」が寄せられたかについては記載がない。
それゆえ、「意見・質問」が、表に記載された項目に全て要約されているかのように理解されるだろう。
しかし、そんなことがあるわけがない。無視された「意見・質問」がかならずあるはず。

私も一度、バカを見るのを承知で「意見」を述べたことがある。
しかし、その「意見」が受け取られたのかどうかさえも知らされず、後に公表されたパブコメの「結果」には、私の「意見」に該当する項目はなかった。

パブコメではなくても、意見を求むという依頼に応じて意見を送っても同様で、受け取ったという通知はもとより、それに対してどのように考えるか、つまり応答は何もない。つまり、なしのつぶて。

こういうのを見ていると、一見「民主的」な装いをとってはいるが、実態はそうではないことがよく分る。
要は、これもよく行われる「公聴会」と同じ、単なる「民主的様相をとるための形式的行事」になってしまっているのだ。例の「タウンミーティング」に至っては、サクラが用意されていたではないか!

   註 「民主的」の字義  新明解国語辞典 第五版 による

      「どんな事でも一人ひとりの意見を平等に尊重しながら
      みんなで相談して決め、だれでも納得の行くようにする
      様子。⇔独裁的」

しかし、どうしてこのように「民主的」を装うのか。これは興味深い現象と言ってよい。
「そんなやり方は民主的でない、独断的だ」と言われることを恐れているからだ。もう少し端的に言えば、民主的云々なのではなく、単に、「文句を言われない」ための「予防線」。民の目がこわいのだ。
ただ、そこで彼らは居直る。民の目はごまかせばいいのだ、と。
そして、「形式」さえ整えておけば、なんとかごまかせると思う。

しかし、民衆をそんなに甘く見てはなるまい。そのしっぺ返しは必ず当の本人にかえってくる。

君たちは少しも偉くはない。ただそう思い込んでいるだけだ。単に、国という機関に属し、国は個々人よりエライのだと思っているに過ぎない。
しかし、国は、個々人がいなければ存立し得ない。このところを、この肝腎なところを、忘れてはいないか。

そして、ある種の研究者、国の施策の策定にかかわる研究者たちは、国の施策にかかわる、というただそれだけのことで、自らがどえらい地位にいるかの錯覚を抱き、振舞うようになる。
先回紹介した「実験」もその一例と言ってよい。まるで、自分たちがすべてを差配できる、かの錯覚を抱いている。

「御用学者」という語がある。
新明解国語辞典による語意は次のようになる。

「政府や有力な企業の言いなりになって真実をゆがめ、時勢の動向を見て物を言う無節操な学者」

まことに見事な解説。ただ、現今の建築技術に関する場面では、「国の言いなり」の策定そのものにかかわり、さらにそれを「保持すべく挺身する者」、という一項も加えなければなるまい。
何故挺身するのか。
その内容から判断して、「学」のためではない、ことだけは確かである。

   註 ここへ来て、TVでは、また連日の如く「お詫びの時間」。
      いつも思うのだが、
      民間の、つまり企業の人たちが頭を下げるのはいつものこと。
      しかし、お役人や学者が、謝るのを見たことがない。
      過ちを素直に認めるのを見たことがない。
      多分、思考の構造がそうなっているのだろう。自分たちは
      世の中で一番エライのだと思っているのだろう。
 
もう少し明るい話を書きたいのだが・・・・。

木造建築と地震・・・・ 驚きの《実物》実験

2008-02-05 00:03:46 | 構造の考え方

[註記追加:2月5日 14.40][訂正:2月5日 17.51][文言追加:2月6日 1.54]

先日(1月6日)、昨年末に行われた「中近東に多い煉瓦造建物の耐震法研究のための実験」の内容について論評をさせていただいた。

このところ実験が多いようで、先月末の1月29日には、「伝統的木造住宅の構面振動台実験」が行われている。
こういう実験があったことを最初に知ったのは、1月29日のNHK・TVの夕方のニュース。その「きょうの主なニュースの項目」で見かけたのだが、肝腎の内容は見そこなった。
そこで、NHK・オンラインで調べたところ、実験主体が建築研究所であることが分り、建築研究所のHPには、この実験に関するプレスリリースが載っていた。

上の二段組箇所の左側がNHKのニュースの内容。
一段組の箇所の文(研究趣旨)、図(試験体の図)および二段組部分の右側の写真(試験体外観)は、プレスリリースからの転載。なお、図中の色付き文字は、筆者の追加。

「オンライン・ニュース」には映像は紹介されていないから、文中の「居間に見立てた、高さおよそ5メートルの箱型の建物」を読むと、大きい試験体なのだ、と思ってしまうが、そうでなかったことは「プレスリリース」を見ると明らか。他にも誤解を生むだろうと思われる表現があるが、まあ、これはご愛嬌、としておこう。

   註 ニュース冒頭にある「本来、地震に弱いとされる
      伝統的な木造住宅・・・・」という文言は、実験主催者が
      そういう説明をしたのではないだろうか。
      もしそうだとしたら、その知見が疑われてよい。
                           [註記追加] 

しかし、「プレスリリース」で「伝統的木造住宅の・・・」と謳った今回の実験の「趣旨」と「試験体」を見て、「ちょっと待ってくれ・・」と私は思わず言葉を発した。
いったい、何を考えているのだ・・・!?

それは、先年「復権した」「小舞土塗壁」などの「基礎データ?」収集のために為された「実験」を知ったときと同じであった(「土塗壁・面格子壁・落とし込み板壁の壁倍率に係る技術解説書」平成16年2月 日本住宅・木材技術センター刊 参照。実験者は同一研究者グループのようだ)。


以下、私の率直な感想・所見を記してみる。

1)「伝統的木造住宅」とは、どのようなものを指しているのか。

図や写真で分るように、試験体は、1.5間(5.46m)間隔で立つ3本の柱に「桁」を載せ架け、柱脚近くに「足固め」、鴨居レベルに「差鴨居」(プレスリリースは「指鴨居」と表記)を設けたものを「構面」と呼び、その「構面」を1間(1.82m)幅で2枚並べ、その両端:小口を厚12mmの構造用合板でふさぎ、天井面に厚24mmの構造用合板を張ったもの(床:足固め位置にも厚12mmが張ってある?)。図にはないが、写真で見ると、桁には両端に梁?とおぼしき材が乗っている。[天井の構造用合板の厚さ訂正、床については写真には見えるが不明 以上訂正]

さて、この試験体のどこを「伝統的木造住宅」と言うのだろうか。

先ず、組立てられた試験体全体は、明らかに、「伝統的な工法」では考えられない、あり得ない架構(1間幅の渡り廊下ならばないわけではないが、そのときは、両端はふさがない)。
NHKニュースが「伝統的な木造住宅の居間に見立てた・・」という言い方をしているのは、1間幅の居間などあるわけがないから、実験主催者からそのような説明でもあったのか(実験を見た記者がそう思うわけはないだろう)。

この試験体に、あえて「伝統的な」ものを探すとすれば、「差鴨居」と「足固め」という名称。ただ、柱との仕口を明示されていないので、本当に「差鴨居」「足固め」であるかどうかの判断はできない。
なぜ、詳細を明示しないのだろう。そんな《専門的なこと》は世に知らせる必要がない、と思っているのなら、世の中をバカにしている証。

   註 「伝統的」とは何か、を正しく説明する、説明できるのが
      「専門家」の責務。ごまかしてはならない。

「伝統的な工法」の「差鴨居」「足固め」は、通常、直交する方向にも入るもの。
この試験体のような場合には、両端部にも正統な仕口で「差鴨居」「足固め」が入り(普通は中間の柱相互にも「足固め」が入り、時には同位置に「差鴨居」も入る)、桁には梁が正統な仕口(「渡りあご」など)で取付くのが普通。そのとき、端部:小口面はふさがない。

1間幅でも、このような架構になっているのならば「伝統的な架構の試験体」と言えるだろうが、実験の試験体は、どう考えてもそうとは言えず、むしろ、《在来工法》の一部を《伝統的な工法風》にしてみただけ。
つまりこれは、「伝統的木造住宅」の実験には相当しない。

こういう試験体による実験を「伝統的木造住宅・・」の実験、などと言うのは、私だったら憚る。
まして、こういう実験で、「伝統的木造建築物の耐震設計法の検討に用いられ、今後の普及に役立てられる」などと言うのは、正常ならば、言うのもおこがましい、と思うべきなのではあるまいか。

2)材寸は何に拠って決めたのか。

この実験は、柱を150mm角とすることを前提に行われているのではないか。

NHKニュースの「・・通常より5センチほど太い材木が使われ・・」という文言は、おそらく実験者から、そのような解説があったからだと察せられる(記者がそのように判断するとは思えない)。
おそらく、実験者側に、「伝統的木造住宅」は、「通常」よりも「柱が太いものだ」との「予断」があるのではないか。

たしかに、古い農家や商家などには、柱の太い建物がある。それは、細かな細工ができなかった頃の話。時代が下れば構造的に必要な寸法、妥当な材寸になる。
今、民家というと、骨太のイメージでとらえられることが多い。
しかしそれは、江戸末~明治初めのある時期、建屋をステータスシンボルと考えた時代につくられた建物を「民家」の代表と誤解したからで、「差鴨居」を用いるようになる近世の普通の商家や農家の住宅では、柱は決して太くはない(不必要に大きな材を用いないのが常識)。
1800年代中ごろの差鴨居を多用している商家の建物をみると、いわゆる大黒柱もなく、仕上りで4寸3分(約130㎜)角程度が標準的な寸法であることを以前に紹介した(07年5月30日「日本の建築技術の展開-29」の高木家の架構参照)。
また、「差鴨居」を用いず「貫」に拠る建物でも「大黒柱」はなく、平均4寸3分角の柱(サワラ材が主)であることも紹介した(07年5月24日「日本の・・技術の展開-27」の島崎家)。

NHKニュースの「通常より5センチほど太い・・」の「通常」は、法令の「105㎜以上」を指しているものと考えられるが、それが「通常」になったのは、法令がそのように規定してしまった後の話で、「伝統的な住居」では、仕上り4寸以上が「通常」だったのである(これについては、07年6月13日に紹介した、桐敷真次郎氏の論説「耐久建築論:木造建築の耐久性」を参照)。

そうであるとすると、実験者には、「伝統的木造住宅の柱は5寸角(以上)」という歴史的な知見を欠いた「先験的判断」「予断」があったということになる。

あるいはまた、差口の納めの関係から、柱は「差鴨居」「足固め」の材幅よりも大きくなければならない、という「予断」があったのかも知れない。
ただ、この試験体で、どのような仕口を「伝統的な」ものとして採用しているのかは説明がない。
しかし、私のこれまでの経験では、「差鴨居」の通常の取付け方:仕口(竿シャチ継)は、スギ材でも柱径が曳き割り4寸以上(仕上り3寸8分)あれば、問題なく刻み施工することができる。

   註 スギ材だから5寸:150mm必要、というかも知れないが、
      よほど目の粗いスギでないかぎり、問題にはならない。
      むしろ、105㎜角以上という法令をこそ改めるべきだろう。

   註 「差鴨居」を使わない「書院造」の系譜の建物の場合でも、
      つまり「貫」に拠る工法でも、通常、柱径は5寸以下で、
      住宅に近い建物では、仕上り4寸3分角程度である。
      これについては、07年2月26日「建物づくりと寸法-2」で
      いろいろな建物の柱径を収集、紹介。

   註 105㎜角の柱は、主に仮設あるいは応急の建物で用いられた
      のではないか、と思われる。


3)なぜ「差鴨居」上の部分:「下がり壁」を「壁」にするのか。

試験体では、「桁」~「差鴨居」間の「下がり壁」部を全面「壁」とすることにしている(プレスリリースでは「垂れ壁」と表記)。
しかし、「差鴨居」を用いる場合、必ずしも「下がり壁」部分に全面「壁」を充填するのではなく、そこに「欄間」を設けることが多い。
むしろ、それこそが「差鴨居」の利点とさえ考えることができる。
逆に言えば、「下がり壁」部分の扱いを任意にできること(壁にすることも、開口にすることも任意)こそ、「差鴨居」工法のはずだ。

したがって、もしも実験をするならば、「下がり壁部分に壁がないことを前提にした実験」にしなければ意味がない。


以上、私が「ちょっと待ってくれ」と思ったのはなぜかについて、いくつか記してきた。

先に資料として出した「土塗壁・・・の壁倍率に係る技術解説書」に、「長寿命木造住宅推進方策検討委員会」は当初、「土塗壁」「面格子付き壁」「落とし込み板壁」とともに「差し鴨居」を、法令の掲げる規定と同等以上の耐力を有する仕様、として新たに提案したが、最終的に壁式構造として評価できる前三者が認定された旨の説明がある。
察するに、この実験は、「伝統的な工法:差鴨居工法」の復権を目指す研究者の「善意の」いわば復活戦なのだろう。
しかし、この「善意」は、決して善意にはならず、結果としては悪意に変ってしまう類のものだ。

なぜか。
「伝統的工法」を、いわゆる《在来工法》:「耐力壁依存工法」の《原理》:「壁式構造」として捉えるという考え方を採っているからだ。
すでに何度も触れてきたが、いわゆる「伝統工法」は、根本的に「壁式構造」の考えを採っていない。それとはまったく逆の考え方だ。

先回、「紙箱はなぜ丈夫なのか」という一文を書いた。
そこで、薄い紙でつくられた箱が丈夫なのは、それが立体になっているからだ、と書いた。各面が互いに関係しあって、薄い紙なのに強い構造をつくりだすのだ、と書いた。そして、いわゆる「伝統的な工法」の考え方は、まさにその考え方。

これに対して、法令の定める工法、いわゆる《在来工法》=「耐力壁依存工法」は、立体物の効能を捨て、部材の足し算に置き換えた結果生まれた《考え方》によるもので、それは「数値化信仰」の為せる結果である、と分析した。

つまり、いわゆる「伝統的工法」の真意を捻じ曲げて、それを《在来工法》の《理屈》に添わせよう、それがこの実験の本意と考えざるを得ないのである。

このような「似非・擬似伝統的試験体」での実験を基に、「伝統的な木造建築物の耐震設計法の検討」に用いたり、「今後の普及」に役立てられたりしては、はなはだ迷惑なのだ。
私はそれを恐れる。長い間培われてきた現場の工人たちの「知恵」を排斥し、萎縮させるものだからだ。
あなたたち一介の研究者に、なぜそんな権利があるのだ。

それゆえ、この実験は、端的に言ってしまえば、下記のようにまとめられよう。
① 「似非・伝統的木造住宅」を「伝統的木造住宅」と詐称している。
② 実験者の「思い込み」に基づいた「世を惑わす」実験である。

では、なぜこのようないわば「いい加減な実験」が大手を振ってまかり通るのか。
それはきわめて単純だ。
「国家、権力の支え:《権威》、法令制定の《権利》を与えられている」(と思っている)からだ。
これは江戸時代だったら、あり得ない話。今とは違って、工人たちが正統、正当に生きることができた時代だったからだ。《現場を知らない学者・研究者》などがいなかったからだ。そういう輩は必要のない時代だったからだ(似非技術者ではなく「地方巧者」が尊重・尊敬された時代であった)。

そして、こういう「国家の後ろ盾」がなくなったならば、これらの諸「研究成果」は、瞬く間に意味を失うだろう。そのことを、どれだけ自覚しているのだろうか。

では、なぜ彼らは、こういう実験を大手を振って行えるような《地位》に付けたのか。
これこそが、明治以来永遠に続いている「学閥」のなせること。これはすでに何度も触れてきたが、明治以来、何の進歩も進展もないらしい(たとえば06年12月23日「学問の植民地主義」参照)。

書いていて、だんだん寒気がしてきたからこのあたりでやめよう。

ただ、多くの方々に「真実」だけは、「見て」欲しい。「見抜いて」欲しい!
そう私は思っている。

   註 このような一文を読まれると、多分、なぜ直接抗議なり
      異議を実験者に向けて行わないのか、と不審に思われる方が
      おられるだろう。
      大分前、私は某大学の木造の権威:研究者に質問をした。
      ところが、残念ながら、数度の質疑応答の結果、最後には、
      当方の質問に対する応答は途絶えてしまった。
      つまり、無視された。無視が通用する世界なのだ!
      なぜ無視できるのか?
      それは彼らが《権威》に安住しているからだ。[文言追加]
     
      それ以来、不審、不思議と思う方々が世の中に増えること
      こそが大事だ、と思うようになった。

      私は建築学会の会員でもない。40年以上前は会員だった。
      しかし、ある大会で、発表者に質問をした。ところが、
      それは大会終了後、個々人でやってくれ、と遮られた。
      「学会」とは何だ?皆で論議をするところではないのか?
      そうではなかったのだ。
      「建築学会」というのはそんなものなんだ、そう私は理解し、
      以来、私は建築学会員であることをやめた。
      この判断は間違っていなかった、と今でも私は思っている。

   註 唯一、この実験で評価できるのは、
      架構を基礎に緊結しない場合の実験もあわせ行った点である。
      そして、これまでの「しがらみ」を捨てて、実験を
      本物の「伝統的工法」の架構で行えば、より良かったのだ。
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