続・RE‐CONSTRUCTION か RE‐HABILITATION か・・・・・「復興」って何?

2016-02-28 10:42:53 | 近時雑感


26日~28日三日間、東京新聞の社説は「フクシマで考える」よいう表題で原発事故被災地福島の「問題」について明解・明快に論じています。
web 版から、全文を転載させていただきます。昨日の毎日新聞特集と併せお読みください。



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RE‐CONSTRUCTION か RE‐HABILITATIONか・・・・・「復興」って何?

2016-02-27 14:27:15 | 近時雑感

夜が白みかけるころ、藪でコジュケイがけたたましく啼きかわす時季になりました。
丘の縁の梅も満開に近くなってます。春は確実に近づいています。


「復興」という「ことば」を、最近よく目にし、耳にします。東北~関東の「震災(地震・津波・原発)」から五年が過ぎる日が近付いてきたからです。
そこで言われ、書かれていることは、多くは「鉄道・道路が復旧した」、「魚市場が復旧・再開した」などの「復興」の姿です。そこに私は違和感を感じています。

たしかに、「復興」について、辞書には「(一度衰えたり壊れたりしたものが)もう一度盛んになること」(「新明解国語辞典」)「ふたたびおこること、また、ふたたびおこすこと」(「広辞苑」)とあります。また、和英辞典で「復興」をひくと「reconstruction、revival」とあります。どちらも「再建」の意が強い。その意味では、「鉄道・道路が復旧した」、「魚市場が復旧・再開した」をもって「復興」と見なすのは間違いではありません。
ただ、これが「字の通りに通用する」のは、地震・津波による被災の場合です。
福島の「原発事故による被災」の場合、外見上はまったく破壊もない場合が多い。家も周りの環境も、外見上は何も変っていない。しかし、人びとを苦しめているのは「目に見えない代物」すなわち、「放射能」。
これは、地震、津波がもたらしたものではない。「何があっても安全だという信仰・盲信」の下につくられた人工物:「原発」が「想定外の事態」によって爆発したのが発生源、つまりまったくの「人為的産物」(しかも、事故が起きれば重大にして過酷な状況が生じるであろうことは重々「承知」されていた、つまり想定内・・・)。
ではいったい、この場合に「復興」とは何か?

この場合には、「復興」という語は意味を為さないのです。
この場合に必要なのは、reconstruction:復興・再建 ではなくrehabilitation ではないでしょうか。
   福島以外も同じですが、特に福島は厳しい。後掲の新聞の特集をご覧ください。
rehabilitationとは、「 habilitation を再び獲得すること」です。habilitation とは、「資格」「能力」というようなニュアンスがあり、英和辞典には、rehabilitation には、社会復帰、復権・・・の意とあり、次いで「復興」の意もある、とあります。
つまり、原発事故の被災者は、単なる外見上の「復興」ではなく、「その地で当たり前に暮す権利の復活」を望んでいるのです。それは、その地で暮す人びとが、その地で暮らすべく、営々として築き、培い、獲得した権利、その復権です。
そして、その意味の rehabilitationは、医療の場合のそれと同じく、本人の意志と、適切な支援が必要なのです。
身体に何か不都合が生じた。医療で外見上不都合は治った。たとえば、動かせなかった手足を動かせるようになった。それで本当に治ったわけではない。それだけで、自由自在に手足を駆使できるようになったわけではない。自由自在に駆使するための訓練が必要です。その「訓練」が、いわゆるリハビリ(テーション)なのだ、と言えばよいでしょう。
   いわゆるリハビリについては、「回帰の記」に私見を書きましたのでご覧ください。
そこでも触れましたが、リハビリには、本人の復権への強い意志と、適切な助言を提供してくれる支援(医療の場合は、療法士介護士などによる支援:サポート)が必要なのです。

ところが、被災地に於いて、reconstruction には熱心であっても、rehabilitation がおざなりになっているのが実情なのではないでしょうか。それでは、人びとの意志も消耗してしまうのです。

かと言って、私に今何ができるか?
せいぜい、実際の情況:実情を間違いのないように知ること・・・。そして知ったことを多くの知らない方がたにも知ってもらうこと。そのくらいのことからしかできない。
一週間ほど前の毎日新聞に、福島の情況を伝える特集が載っていましたので、web 版から転載させていただきます。





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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-28

2016-02-25 10:30:02 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   The construction of late medieval houses

   以下の説明には、同じ図が前後して何回も使われますので、ご留意ください。   

ケント地域の中世の建物を有名にしたのは15世紀に現れる新しい形式の家屋である。このタイプの家屋は、背丈の高い hall をつくったり 、2階部分を跳ね出させているが、このようなつくりは、当時の大工職の優れた技能がなければ誕生し得なかった。こうした彼らの卓越した技能を生み出したのは、その時代の社会・文化の変容にあったと言ってよいだろう。
すなわち、人びとが、hall内部で使われる木材が目障りにならないこと、そしてまた、生活の拠点を二階に置くことをを望んでいたことの結果なのである。彼らの望んだ暮しかたが、これは長年富裕層が石造の家屋で行ってきた暮しかたに他ならないのだが、その実現のために新しい架構法を必要としたと言えばよいだろう。
この章は、この時代の構築法の概要を検討し、社会・文化の変容の様態を詳しく知ることを通じて、家屋の形式と架構法との関係をより明らかにすることを目的とする。
各技法とその特性については、家屋(の形式・タイプ)ごとにその内部空間の様態を詳しく観ることで検証することにする。

Late aisled and base-cruck construction

   註 aisled construction とは、「身廊+側廊」形式(日本の「上屋(身舎・母屋)+下屋(庇・廂)」形式の構築法のこと。
     これについては、“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-20を参照ください。
     日本の「上屋+下屋」についての解説は、「日本の建築技術の展開-2」などをご覧ください。

     base-cruck construction は、広葉樹主体の中世イングランドの木造建築特有の構築法のこと。
     これについては、The Last of the Great Aisled Barns-7 を参照ください。

14世紀の後期までには、aisle側廊・下屋を設けない hall の構築法も、よく知られていたにも拘わらず、aisled buildingquasi-aisled building は依然として建てられ続けたようである。先にみたように、これらの事例は、大半が消失してしまったと思われ、遺っている事例の多くは、残念ながら建設時期が判然としない。実際、「年輪年代測定法」が適用できたのは僅か一例に過ぎない。それは、建物が oak :樫を用いていないか、若い木が使用されているからである(註参照)。
   駐 年数の経った樹木でないため、年輪年代測定に使われる「基準年輪」から外れた年輪である、つまり、測定尺度に合わない、という意と解します。
しかしながら、いくつかの事例は、細部の手法から時代が判定でき、そのような諸種の形跡を総合すると、aisled construction は、15世紀中、用いられた続けたようである。
1300年代に建てられた原初的・典型的な aisled hall は、両側に側廊:下屋を設け、桁行2間の例が一般的であるが、このような典型的な建て方は、1370年代には姿を消すようである。
実際、今回の研究調査でも、それ以降の事例は一つも確認できていない。ことによると、中央部に扱いにくい小屋組を持つこの種の建物は、改造・改修せざるを得なかったのであろう。
たしかに、かなり早い時代から遺ってる事例もあり、少し変形した形の aisled hall はある程度見つかってはいるが、全容の遺っている事例は存しない。これは、多くの建物が、世紀末までに改築されてしまったことを意味していると考えてよいのではなかろうか。桁行2間の hall は、その後も建てられてはいるが、遺っている事例は、すべて、身廊:上屋の小屋組が、独立柱ではなく、他の架構法に変えられている。この変更は、14世紀初期のいくつかの事例で早くから認められ、そこでは、 base cruck か( HADLOWBARNES PLACE など)、大きなarch-braceCHILHAMHURST FARM など)が使われている。この方法は、それ以降の事例は、この方法を引き継いでいるようであり、また、より小さな建物に於いても見付かっている。
arch-brace を大きくして用いている事例で確認されているのは、1401年建設の EAST SUTTON に在る WALNUT TREE COTTAGESITTINGBOURNE 近在 NEWINGTON に在る CHURCH FARMHOUSE の2例( fig72 下図)だけである。
   註 arch-braceアーチ状の斜材:方杖

しかしながら、大きな斜材やむくりをつけた梁の使用する点で、これらは初期のHURST FARMに似ているが、これら後期の2例は、図・写真のように、大きな方杖を承ける柱が先端を断ち切ったような不自然な形をしている。
   註 頂部が唐突な終わり方でおさめている、よく考えられた仕事とは言い難い、という意と解します。
      たしかに、The Last of the Great Aisled Barns-7 の写真と比べると、不自然さを感じられる。
base-cruck constructionは、おそらく、身廊柱:上屋柱を省く方策としてごく普通に用いられていた工法と考えられる。ただ、年輪年代測定法の適用できた事例はなく、base cruck だけが遺されている事例では、正確な年代確定は不可能である。しかし、fig73HASTINGLEIGH に在る COOMBE MANOR は、当初の構造的痕跡は皆無ではあるが、小屋組に使われている crown post が後期形式の形状であることなどから、15世紀にかなり入ってからの建設と考えられる。また、YALDING 教区には、きわめてよく似た、比較的小さな NIGHTINGALE FARMHOUSE ( fig56 下に再掲)や BURNT OAKfig74 下図)など、1350年前後に建設の yeoman :独立自営農民あるいは peasant :小作農の住居と思われる事例が在る。


両側に側廊:下屋をもつ桁行2間の hall は、建てられなくなったが、両側ではなく裏側にだけ側廊を設ける事例は、15世紀を通じて建てられている。その初期の一例が、fig75a(下図) の14世紀後期建設と推定されるCHILHAMTUDOR GIFT SHOP and PEACOCK ANTIQUES である。

この fig75a の事例は、普通の WEALDEN 形式の建物で、当初前面には建物全高の窓があり、階上に日当たりのよい諸室があった(図には二階が描かれていない)。そして、後側には側廊:下屋があり、身廊:上屋の小屋組を承ける独立柱が立っている。
他の片側側廊の事例( SETLINGWELL HOUSECHIDDINGSTONESKINNERS HOUSE COTTAGE など)の細部の技法は、それらの建設時期が、(先のTUDOR GIFT SHOP and PEACOCK ANTIQUES よりも)遅いことを示している。
また fig75bBORDENBANNISTER HALL のように、側廊:下屋部分を base cruck に改造し独立柱を取り去った事例も二例ある。この建物の hall の端部(妻側)の壁には、増設された cross wing(主屋 に直交配置の別棟)へ通じる four-centred head (下註参照)の出入口が設けられている。また、EAST PECKHAMOLD WELL HOUSE では、base cruck が1セット用いられていたと考えられるが、確認はされていない( fig86b :下図)。後者は、end-jetty 形式の建物で、fig77c(下図) のように、妻壁部分では、小屋を承ける柱が(下屋:側廊の外部側柱~側柱間を繋ぐ)大梁の上に立てられている。
   註 four-centred headfour-head arch :下図のように、4個の中心の円弧を集成して得られるアーチ形状をいう。
     fig75b の出入口の頂部に使われている。
     イスラム建築に多く、中世イギリスの建物にもよく用いられたモティーフ。以上 wikipedia より。


この2事例は、この架構法が、(他の時期に見られず)15世紀中期乃至は後半だけに用いられたことを示唆している。同じく、SUSSSEX片側側廊+ base cruck工法の建物も、同じ時期の建設と考えられている。
aisled construction身廊:上屋の梁を承ける柱すなわち上屋柱を取り除くもう一つの方策は、中途にある小屋梁: open truss を隔壁位置に移動させる策である(つまり、桁行の間隔を広げる→fig76 はその一例?)。しかし、この方策を用いた事例は、ケント地域ではあまり見かけない。この方策の事例は、14世紀かあるいはそれ以前に稀に存在する。たとえば、SUTTON VALENCEBARDINGLEY FARMHOUSE や後期の quasi-aisled hall などに散見される。HASTINLEIGHCOOMBE MANOR では、隔壁部の小屋組は base cruckを併用しているし、EASTRYFAIRFIELD HOUSE では、fig46(fig47 と併せ下に再掲) の FAWKHAMCOURT LODGE と同じく、小屋梁は、柱なしで で承けている(つまり、日本の京呂組)。これらの事例では、隔壁部の小屋組は、上屋の小屋組・屋根を承ける距離の長い桁を承けるべく強化されている。それによって、 hall には邪魔な柱を省くことができている。
また、小規模の家屋の場合には、小屋組の梁自体を下屋の外側の側柱間に架けることにより邪魔な柱を省いている。つまり、隔壁部の小屋組が新しい役割を持つようになったわけで、その結果 open trussspere truss の役割が不鮮明になった、と言えるだろう。STAPLEHURSTCOPPWILLIAMfig60 下に再掲 )や WESTWELLLACTON MANORfig76 下図)などがその例で、上屋の小屋組を承ける桁を補強するために、桁材を承けるのではなく斜材を斜材で補強するという他に例のない方策が採られている( fig76 )。
aisled construction の建物の上屋柱を省く別の方法は、 hall を桁行1間の大きさに縮小する方策である。その場合、隔ての通路部のうえだけではなく、そこを通り越して、下手側の部屋がいわばかぶさることになる。地上階の平面は、これらの場合も前者(つまり、桁行2間以上の事例)と変らないが、通路部分は隔壁部により hall とは分離し、下手側の部屋の占める面積も多くなる。
   註 この部分の説明は、fig76 の左側の部分のような場所の説明と思われる。
全事例を見る限り、CLIFFE-at-HOOALLENS HILLWALTHAM、ANVIL GREENTHE COTTAGE のように( fig77a,b 参照)、これらもまた片側だけ aisledhall だが、それゆえ、建物前面の壁を高く見せることができている。




                                 
                                                  この節 了
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次回は、Dating of aisled structures の節の紹介になります。
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筆者の読後の感想 
  上屋の小屋組を承ける柱を省くことは、日本でも行われる。
  その場合、日本では、桁行の横材:の寸面を大きくする、差物:差鴨居等を用いるか、fig77c と同じように、梁行の横材:の寸面を大きくする方法を採る。
  つまり、当該柱の負担を 横材で代替する方法である。このあたりについては、「日本の建築技術の展開-25」などで解説。
  これに対して、イギリスでは、横材による方策ではなく縦材:base-cruck などで代替 する方策で対応している、と考えてよいと思われる。
  これにも、おそらく、石造の「伝統」と「広葉樹」による架構の「伝統」が影響しているのではなかろうか。
  つまり、「直材」主体の束立組:いわゆる和小屋組の技法に至らなかった・・・。それゆえ、fig77c などは、珍しいのだろう。
  なお、fig77c では、上屋柱の頂部の幅広部分に折置小屋梁を承け、一段段違いに加工した部分でを承けている(いずれも枘差だろう)。 


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三寒四温

2016-02-16 14:41:50 | 近時雑感

庭先の草叢でついばむツグミ。

ここ数日の寒暖の差は、かなり堪えます。昨日と今日は、10度近く差があるようです。
特に、今日の寒さ、と言うか冷えは並大抵ではなく、体の芯まで冷え込んでいます。

しかし、遊水地に氷は張らなかった。おそらく、昨日の温かさで水が暖められていたからでしょう。

朝の仕事場の室温は2~3度。足元に向けてヒーターの風を当てないと、何もできない。ゆえに、このところ、午前中は、ほとんど仕事にならない毎日です(「中世ケントの家々」の紹介の続き遅延の言い訳・・・)。

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昔むかし・・・・「筑波通信」があった

2016-02-10 15:01:07 | 近時雑感
十数年前の引越しのときから放置してあった物品の中に、「筑波通信」の原稿が埋まっていました。

「筑波通信」とは、1980年代、大学教員をしていた頃、ほぼ毎月、私の思っていること、考えていることを、主に卒業生諸兄姉や懇意にしていた知人諸氏に「勝手に」送って読んでいただいていた「通信」です。

体裁は、B5判・左綴じ見開き10ページ前後の小冊子。
まだパソコン、ワープロの普及していなかった時代なので、和文タイプライターで原稿を書いていました(このタイプライターの機械は、今も健在です)。
原稿は、ほぼ5年分ほどありますから、60篇はあります(その後、ハガキによる「筑波短信」をしばらく続けています)。
各回の内容・趣旨は、今このブログで書いていることと大差ありません。と言うより、このブログの前身、あるいは予行演習であった、と言ってよいかもしれません。
あらためて読んでみて、自分で言うのも何ですが、今の文章よりも分りやすい。多分、その話を書くことになったいきさつ・経緯なども端折らずに書いているからではないか、と思います。
  40年近く前なのに、今もほとんど同じこと言っている・・・!この間の進歩がない・・・?

なぜ、こんなことを始めたのか?
その初回の「発行の辞」という一文に、動機の「解説」がありました。今回の末尾に載せます。


そこで、各回の内容を、「復刻・筑波通信」として、このブログで、随時、順番に紹介させていだこう、と考えるに至りました。それは、いわば、私の「軌跡」と言ってよいでしょう。

  これまでブログで書いてきたことと重複することもあると思いますがご容赦ください。

  PDF にして載せようか、とも思いましたが、誤字等の校正の意味も含め、あらためて全文打ち直すことにします。
  誤字の修正、および不要と思われる個所を省く等以外、原文には手を付けません(段落は読みやすいように変えることがあります)。

打ち直しに時間がかかりますので、開始は三月からになる、と思います。

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「筑波通信」発行の辞  (1981年4月6日 記)

大学の教師として、建築をはじめとする我々が具体的に住んでいる居住空間のありかたについて、たとえ信ずることを語ったからといって、それでほんとに十分なことをしているといえるのだろうか。

学生諸君は世のなかへでて、たとえ「ありかた」など説かれたところで現実はそうはいかない、それが現実だ、自らの生活を維持するために「つくる」のだ。おとぎばなしをいったって始まらない、と思っても、少しも不思議でない。
その一方で、そうやってつくられる環境のなかで、自分たちと何の関係もないところで有無を言わせずつくられる環境のなかで、まさに生活せざるを得ない人たちにも会ってきた。その人たちの、まさに「やり場のない」「やるせない」重い思いも見せられてきた。
そういうとき、教師の私が、それこそこの「現実」に対していわば目をつぶり、信ずるところを語ったところで、ほんとにそれでいいのだろうか。それだけでいいのだろうか。
「つくる」人と「つくられる」人の間の接点は、ほんとの意味の接点:共通の世界は、いまやそれをも求めること自体、おとぎばなしなのだろうか。

筑波にはや五年、都会の雑踏から離れていると、なおさらそう思うのかもしれない。
そしてたぶん、最近また中野・江原の人たちの、あの絶えまなく熱くそして冷静な活動に触れ(*1)、そしてあるいはまた、あの小金井の人たちの、子どもたちへのあの透明な熱意にくらべ(*2)、ぬるま湯につかったような大学教師のぶざまなすがたがまる見えになってきたからなのかもしれない。
そしてあるいはたぶん、卒業生A君の、「生きているか」と訊ねるような、そんな彼の息吹きの聞こえるような定期通信が刺激となっているのかもしれない。
そしてまた、ことし卒業していったB君の、「なにかしなければ、だめです」という分れぎわの一言が「とどめ」になったのかもしれない。
   *1 東京・中野区の江原にある小学校の改築にあたり、地域・校区住民の意向を重視することを区に要望した「運動」。
      この「運動」は、結果として中野区独自の「教育委員準公選制」の実現に至った。
   *2 東京・小金井など多摩地域の、いわゆる知的障碍のある子どもを抱える親たちが、子どもたちの「生涯を支える施設」設立を願って起こした運動。
      この運動は知的障碍者支援施設「そだち園」として結実した。

いずれにしろ、私のなかに、安易に流されてゆかないための支えとして、何かをしなければならない、という気が沸々とわいてきたのである。しかし何ができるか。
とりあえず、ばかげたことなのかもしれず、単に自己満足にすぎないのかもしれないが、毎月一度のつもりで、「つくる」人と「つくられる」人の接点であるはずの身辺のことどもをとりあげ、私見を述べさせてもらい、共通の話題となることを願いつつ、いままで私の会ってきた人たちに、まったく一方的にお送りすること、それならばできそうだ、もしそれで、はなれていても話ができるなら、そんなうれしいことはない。
そんなこんなで、これから息の続く限り、押しつけがましくもお送りさせていただきます。ご笑覧ください。そして、ご意見があれば、是非お聞かせください。
                                                                                      下山 眞司

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-27

2016-02-06 09:26:03 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   Single-ended houses

この節の紹介にあたり、はじめに中世後期の家屋の諸形式・タイプの解説図 fig49 を再掲しておきます。


ここまで、片側だけに付属棟のある家屋については触れてこなかった。一つには、中世の普通の家屋は、open hall の両側に二つの付属棟を設けるのが当たり前と考えられてきたからである。
実際、計画的に片側だけに付属棟を設けた事例が少ない。多分、14世紀後期建設の SANDWICh 近在 ashUPHOUSDEN FARM および1410年建設と思われる EDENBRIDGECOUNTRY FAIR and LIGHT HOUSES94,96 High Street )などが、その稀な事例である。そこでは、増築した際の木材の遺構や外部の風化の様態から、当初は hall は、付属棟の一方の側に接して独立した建物として建っていたものと考えられる。
しかし、16世紀初期以前には、このような事例はきわめて少ない。 多くの事例は、一棟の付属棟だけを遺しているが、そこに接する hall 棟の壁面の骨組をを確認することができる。そしてそれは、既に移設してしまった別の建屋に以前は接していたと考えられる。なぜなら、この部分が風化している例が見つからないからである。しかし、4,5,6,7 BELLE VUE の例のように、hall から別室あるいは当初の付属部への内部へ至る出入口の用意がされている例があるから、実現の有無はともかく当初から別棟を造る意図はあった、と考えてよいだろう。
16世紀になると、片側だけに別棟を設ける小さな家屋が、数は少ないが見つかっている。たとえば、1533年建設の SPELDHURSTLITTLE LAVERALL がその例である。また、1565年以降のいくつかの「遺言書総覧」にも、この種の形式の家屋が記録されている。
しかし、全般的にみれば、この地域に遺っている open-hall の家屋で、2棟で構成されていたとみなされる事例は少ないのである。

   The height of house

この研究・調査を通じて、家屋の諸形式間に、規模だけではなく、高さにおいても多様な事例があることが分ってきた。その結果、その後は調査に際して、常に家屋の高さの測定が行われるようになった。
(ただ、このことに気付くのが遅く)調査家屋全てにおいて測定が行われてこなかったため、最も旧い時期の事例と最近の事例では、fig67 のような五つの建物形式別、五つの時代別に分類するには、収集事例数が少な過ぎる。そこで、建物を、規模については、ごく自然と思われる三つのグループ( cross-wing houses、 wealden houses、 end-jettied,unjettied and uncertain houses )に分けることにし、時期については、年代順に、70年間、50年間、50年間で区分することにした。建物の形式ごとに各期の建物の平均的高さをまとめたのが下の Table 1 である。

表で分るように、 cross-wing の二階建建屋の高さは、中世の間を通して、WEALDEN 形式の二階建建屋よりも高いのが一般的である。一方、WEALDEN 形式の二階建建屋は、end-jetty ,unjettied および形式不確定: uncertain の家屋のグループのそれよりも高さがある。その違いはかなり顕著で、0.3~0.6m 程の違いがある。ただ、いずれの場合も、時期で見るとおおむね一定である。その一方で、cross-wing形式の家屋の hall 部分には、表のように、著しい違いがある。世紀の変り目の時期の hall の高さが、他の形式の一つ屋根の家屋のそれに比べて著しく低い。15世紀後半までには、WEALDEN 形式hall の高さより0.7ⅿ近く高くなっていて、16世紀初期には0.25mは高くなっている。
   註 この部分、原文の通りに訳してありますが、表の、どの部分を指しているのか分りません。
すなわち、cross-wing形式の家屋の hall は、他のどの形式の家屋の hall よりも高さがある、ということが分る。このことを各時期の事例の断面図で示したのが fig71 である。
この表・図から、時代とともに、人びとが、より大きい付属諸室を必要とするようになり、hallcross-wing を同時に建てようとする場合が増加したこと、そして一つ屋根のタイプの家屋の場合には、 hall 部分の占める割合を変えるようになった、ということが読み取れるのではなかろうか。

表に示した三つの家屋のタイプ間の高さの違い、および1370年~1540年の間に起きた変容は、各家屋の形式の存在する地域・地区の変容と深く係っているものと思われる。諸種の事実は、それぞれの家屋の計画には人々の資力と要望が深く係っていること、つまり、彼らの社会的、経済的な地位が深く係っているであろうことを示している。家屋の規模が資産や地位により異なっていることは、さして驚くことではないが、ただ、それだけが建物の計画に影響を及ぼしたと結論付けるのは問題があり、その前に、別の視点:それぞれのタイプの地理学的な分布:の観点からの検討が必要と考えられる。この点については後に10章で触れることにする。
                                                   6章の紹介は、これで 了     
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次回は、 7 The construction of late medieval houses の章の紹介になります。
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筆者の読後の感想
   既存の建屋に直交し増築をする場合、既存の建物よりも高い建物の方が屋根の処理が容易です。fig49 a , b がその例。
   直交部を既存部よりも低くすると、手を加える部位が増え複雑になり、片流れ屋根にするのが簡単ではあるが、できる空間の容積が限定される。
   それゆえに、結局は、既存部よりも高くすることになるのでしょう。これは、ここで紹介されているいくつかの事例写真で明らかです。
   日本には、このような形態の建屋は、古来、少ないように思います。
   日本で既存建屋を大きくするときの方法は、梁行方向では、下屋を設ける:屋根()を伸ばすのが普通です。
   既存部の高さがあれば、を何段も設けることもあります(孫庇などと呼ぶ)。社寺に多く見られます。
   桁行方向の場合には、既存部と同型の小屋組を延長するのが普通でしょう(端部が寄棟なら、寄棟の位置を移動させる・・・など)。
   別棟を設ける場合は、日本の場合、建屋をいくつか渡廊下でつなぐのが普通で、この書にあるような方法はあまり見かけません。
   離れをつくり、渡廊下でつなぐ方法です。
   この方法は寝殿造以来の「伝統」言えるかもしれません。近世でも、大仙院のような計画が普通です。これに対し渡廊下をなくし一体にしたのが孤篷庵です。

   彼の地と日本の違いは、やはり、その地の「環境」の様態が大きく係っているように思えます。
   工法の違いも、所詮は、「環境」に拠る、と言えそうです。

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限界集落?

2016-02-04 15:18:23 | 近時雑感

今日は立春。しかし、春は名のみの風の寒さよ・・・。まさに、「早春賦」の詩の通り。
朝夕の散歩、陽光は春の気配ですが、風の冷たさが応えます。
しかし、その寒風のなか、沈丁花は、葉は少し霜で焼けていますが、咲く準備が整っているようです。


もうすぐ大震災から五年になります。被災地の復興はままならないようです。
先日の新聞に、現地で行われている高台移転事業の実態についての記事が載っていました。
それを読んで、私は二点ほど違和感を感じました。

一つは、この高台移転は、「限界集落」を造っているようなものだ、というもの。
移住するのは高齢者が主。若い世代が欠けている・・・。直ぐに、廃屋の街になるのではないか・・・。
「限界集落」というのは、人口構成が、高齢者が主で、いずれ人が居なくなる:消えゆく運命にある集落、ということらしい。
誰が名付けたか知りませんが、ずいぶんと冷たい言いようです。これでは救いがない。
第一、それを言うなら、少子・高齢化の進んでいる日本という国自体が「限界」ではありませんか。「限界国家」・・・。

もう一つの違和感は、津波対策は、高台移転だけなのか、ということ。
これは、津波の高さ以上の堤防を造るというのと同じ発想。高台のないところはどうする?
確か、南海地震の津波に襲われることが想定される四国のある町は、高台が近くにないので、被災想定地域の各所に、人工の高台:津波に耐えられる(櫓のような)構築物:避難所を用意しておくことを考えているとのこと(既存の中高層の建物も利用するらしい)。
この方策の方が優れているように思えます。なぜなら、人々の現在の暮しの様態を損なう恐れが少ないからです。

要は、こういう計画は、計画立案者が、人々の「暮しのリアリティ」にどれだけ思いがいたるか、ということに尽きるのだと思います。

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