建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

予告・・・・もうすぐ復旧

2009-09-30 15:58:41 | その他
当面の締切り仕事は、何とか終りに近づきました。

今年は、何となく、秋の花々が早いような気がします。

近所の畑が一面のコスモスの叢になっています。
耕作をやめてからしばらく経って、道との地境にあったコスモスが、全面に進出したようです。

ゴンズイ

2009-09-26 22:29:09 | 居住環境

締切り仕事も少しばかり目処がたってきたので、ご挨拶。

近くのヒノキ、スギの混交林の縁辺に、この季節、赤い実をつける常緑の低高木があります。
濃緑の林の中で、ひときわ目立ちます。

遠くからは赤い実に見えるのですが、近くに寄って見ると、はじけて割れて黒い実を見せています。
木の名前はゴンズイです。名の謂れは分りません。
学名はEuscaphis Japonica と言うそうですから、日本特有なのかもしれません。

ものの本に拠ると、「果実は袋果で、熟して烈開するころには鮮やかな赤色が目立つ」とあります。
黒く見えるのが種子ということになります。
梅雨時に咲く花は目立ちません。

締切り仕事、今、模型をつくっています。
何段にもなっている元ブドウ畑。高低差約6~7m。そのため1/200という小さな縮尺にしています。
ゆえに、建物は鉄道模型みたいに小さい。目が痛む手先仕事・・・。
あと少し・・。その間いましばらく休工にいたします。

遠藤 新の言葉・・・・日本インテリへの反省(そのニ)

2009-09-20 23:14:11 | 設計法
大分前になりますが、遠藤 新(えんどう・あらた)の論説を紹介しました(下註)。
本棚を整理していたところ、ちょうど今から20年前の1989年に開かれた「遠藤新 生誕100年記念」展のカタログが出てきました(INAX BOOKLET)。

そこには、彼が設計した建物の貴重な写真が多数載っています。
上の写真はその内の一。1938年に建てられた栃木県真岡(もおか)の「真岡尋常高等小学校 講堂」です。なお、平面図は「遠藤新 生誕100年記念作品集」から転載。これは実測図のようです。
写真の側廊上部の壁(桁行方向)は、内部が木造トラス、その上に梁行に小屋組のトラスが架かる架構ですが、断面図がないので詳細は不明です。

現在この建物は、校舎改築にともない別の敷地に移築され、公民館的な用途に使われています。国指定の「登録有形文化財」です。

   註 「日本インテリへの反省・・・・遠藤 新のことば」

彼の設計した学校は、いずれも従来の学校のイメージを覆すつくりですが、1949年に書いた「日本インテリへの反省」の「その二」で(「その一」が上記の論説で、住居について述べています)、学校の建物についての彼の見解、更には「建築」についての見解を述べていますので、今回その一部を紹介します。前回、いずれ紹介、と書いたものの、2年以上も約束を果していませんでした!

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哲学なき教育と校舎・・・・日本インテリへの反省(その二) 抜粋

・・・・・前略・・・・・ 

私は先に日本インテリの住まんとする家が、世界の民族の家の正当なる発達に見られない珍型でその重大欠陥が生活を哲学しない点にあることを指摘した。そして哲学しない家を欲しがるのは、哲学しない教育の結果だと言った。そしてさらに日本を滅ぼしたのは日本のインテリだとまで極言した。日本の教育はどうしてそうなったか。

   註 以上の詳細は、上掲註の記事に引用した論説参照

   註 哲学:philosophy の訳語として定着
         「賢哲の明智を希求する」意味で「希哲学」と訳され、
         後に略されて「哲学」となった。
         原義は「智を愛す」「知るを愛す」という意味。
         彼の言う「哲学しない家」「哲学しない教育」とは、
         「家」「教育」の本義は何か、深く考えない
         という意味と解してよいだろう。
         なお、phil-は、philharmony の phil-に同じ。

一体昔の寺子屋は一人の師を中心に読み書きそろばんを習いながら人たるの道を学ぶという意味で少なくとも教育は哲学していた。しかし明治になってからの学校は一見整備したかに見えつつ、実は時間割でいろいろの教師が知識の切売をして免状をくれるだけの工場になってしまった。

思えば明治維新日本が大きな転換期に際会したとき、一代の先覚福澤諭吉先生はいみじくも教育の本義を道破して「本当の学問は一つの物について世間のいわゆる物知りになることではない、物と物との間の関係を知ること」だというた。それはたしか明治9年のころ。福澤先生の卓見はひっきょう私のいう哲学する教育という意味にほかならない。

   註 この福澤諭吉の論については、私は寡聞にして知らない。
      彼の「一科一学の奨め」だけが、世に広まった、と
      私は理解している。

しかし悲しいかな、日本の教育は福澤先生が意図したような哲学する方向に進まずまたあらぬ方向に迷い込んだ結果、やがて後藤新平という自力人から帝国大学は低能児養成所だという痛烈な非難を浴びるまでになった。かつて橋田という文相は「科学する心」と言ったが日本の教育は哲学するどころか科学さえしていなかったのだ。
・・・・・・・
一体教育の重大要素の一つは環境である。孟子の母が三度まで引越しをしたのもひっきょう自分の感化が到底周囲の環境に勝てないと悟った結果である。いかなるよい先生もよい環境なしによい教育が出来るはずがない。したがって学校建築の第一義は教育のよい環境たるにある。私はそのことを先生が教育する前に、まず環境が教育する・・・という。

しかし、残念なことに日本の学校は決してそんな見識から建てられてはいない。世間も教育家も建築家もことごとく学校建築を等閑に附した。「学校だから」と言うのは粗末な間に合わせと同義語にさえなった。かくして哲学しない教育場として哲学しない校舎が建った。時間割教育の時間割校舎。
・・・・・・・
およそ日本のあらゆる学校はいずれも千篇一律の御粗末な建物、しかもその御粗末な学校が例外なしに中央に玄関と車寄せがある。そしてこの正面に厳しく構えた玄関は東京駅の皇室専用と同じく、ただ一つまみの先生達の専用で生徒は決して出入りを許されないのです。何百人という生徒はどこかの隅の昇降口という汚い小便臭い所から出入りしなければいけない。これは決してよい教育をする環境ではない。

   註 ここにあるような学校校舎は、さすがに最近は見かけない。
      しかし、私の通った国民学校はこのような建物だった。
      なお、この論説の冒頭は、引用を省略したが、東京駅についての
      厳しい評が書かれている。
      当初、東京駅は、中央に「皇室専用口」、両端に一般客用口があり、
      しかも、一般用は向って右が「入口専用口」(今の丸の内南口か)、
      左側が「出口専用口」(北口)に分かれていたのだという。
      校舎もまた、それに倣っていたのである。
      この一例は、「登米高等尋常小学校」(「スナップ・・・・旧 登米高等尋常小学校」参照)に
      見ることができる。

      なお、「高等尋常小学校」「尋常高等小学校」とは、明治の学制では
      「尋常小学校」と「高等小学校」があり、両者を併設した学校の呼称。
      どちらを先に書くか、学校によって違っていたらしい。

西洋には気が利いた間抜けの例として猫くぐりを親猫と子猫の寸法に合わせて別々につくったという笑話がある。日本の学校はこの笑話をそのままに、別々に猫くぐりをつくるというむだをあえてして、坪数と工費を多くかけながら哲学しない校舎をつくって少しも怪しまない。
しかもここに見逃したい一大事はこの中央の玄関車寄せの形式が取りも直さず日本人が落ち込んだまま抜け切ることができない官僚思想の表現だということ。
・・・・・・

それにもかかわらず日本人の無関心は、学校とはこういうものと思い込んで少しも怪しむ様子がない。これは実に驚くべき事実といわんよりもさらに恐るべき事実である。そして私は今さらに日本インテリの落ち込んだ禍の深さを思う。

   註 この「官僚思想」「無関心」は未だに払拭されていないのではないか。

ここでひるがえって私は行者の本色に立ち帰って専門の建築の道を考える。
建築とは――。
建築とは福澤先生が道破したと同じく、しかもより精確にかつより具体的に二つまたは二つ以上の物の釣合の関係に出発する。この意味で枕木にレールをのせた姿が建築で、柱に腕木、腕木に碍子、碍子に針金の電信柱も建築で、物干竿に吊した干物の姿も建築である。そしてこの原則を押し進めて行けば、建物と建物との間が建築で、建物と植木の間が建築で、建物と門の間が建築で、建物と庭の関係が建築で、結局敷地全体が建築である。だから建築の本領は世間で考えるように壁に囲まれた建物だけではない。そして建築家にとっての敷地とは、世間の所有権と全然無関係に、目に身ゆる限りが敷地――山でも川でも空飛ぶ鳥でも流れる雲でも。

このような見地に立つとき壁に囲まれた建物に執着していた建築と建築学は輝かしい「変貌」をもって生活と敷地の有機的統一に向かって焼点する。この境地を指して、私は「建築は哲学する」という。
この境地に立つとき建築家はもはや「間取り」をしない。そして建物をその敷地に対する「たたずまい」においてのみ考える。これを私は哲学する立場から考えるという。

しかるに世間で建築といえば建物にとりつき建物といえば間取りと思い、間取りといえば玄関から始める。そして時間割のように部屋を並べては廊下でつなぎ、棟を並べては渡り廊下でつなぐ。ここに哲学するかしないかの千里の岐路がある。
・・・・・・
以下略
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この休みの間に、締切り間近の仕事を片付けるつもり。次回は休み明け、あるいは来週になりそうです。

再び:とり急ぎ・ご案内・・・・喜多方・登り窯の火入れの日程

2009-09-16 17:22:27 | 煉瓦造建築
20日からの連休を使い、今年最初の「焼成」を行なう旨、
喜多方から連絡が入りました。三日がかりの作業です。

工程は以下の通りです。

上の写真は、昨年11月22日からの「焼成」作業のときの写真です。
昨年は、11月だったので、前日に雪が降った・・・。
薪割りから窯詰め、焼成・・・多数の工程写真をいただいていますが、
これはそのほんの一部(整理して報告を、と思いつつ未完)。

今年は、この後、11月にも焼成を行なう予定になっています。

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
・・・・・・・・・
窯の閉塞、周囲の点検作業は19日に行います。
製材端材、小割り材は、今回の分に関しては、ほぼ足りていますので、
焼成時に人が大勢居れば、次回の分の薪づくりを行いたいと思います。

焼成時のスケジュールは次の通りです。

20日(日) 
9:00~17:00 何らかの段取り作業を行います。
17:00~18:00 直前準備、お清めを行います。(簡素に)
18:00~    バーナーに点火。
       15時間くらいかけてゆっくりと700度位まで温度を上げます。

21日(月)
9:00~    1の窯に薪をくべ開始、1180度位まで(今年はあくまでも釉薬の
        溶け具合で判断します。)
12:00~   2の窯
15:30~   3の窯
19:00~   4の窯
22:30~   5の窯 

22日(火) 
2:00~    6の窯
5:30~    7の窯
9:00~    8の窯
12:30 順調にいけば終了

以下略

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

私も行きたいのですが、今回は諦めます。

関心のお在りの方は下記をご覧ください。
「とり急ぎ、ご案内」

追伸・・・・とり急ぎ・ご案内

2009-09-14 02:46:38 | 煉瓦造建築
一昨日(12日)深夜、喜多方・煉瓦焼成実行委から、
12日の「成果」について、以下のような報告が入りました。
来週は、いよいよ今年最初の「火入れ」です。

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

本日(12日)、無事に素地の搬入が終わりました。
朝から雨模様で心配しましたが、幸いに小降りで済みましたので、
順調に作業が進みました。

お蔭様で20名以上の方に参加していただき、素地搬入は早々と終え、
施釉、窯詰めと予想以上の仕事の捗りに、いささか驚きました。
懐かしい方々もお見えになり、熱気が久しぶりによみがえって参りました。

昨年の経験が身になっているせいか、一人一人の行動に
無駄がないといいますか、
余裕を持って、それぞれの役割を果たしている姿を見て、感動を覚えました。
どうやら、このプロジェクトは、確実に進歩している様です。

来週はいよいよ焼成に掛かりますが、
昨年よりも良い結果が得られそうな手応えがあります。
勿論、蓋を開けるまでは、何が起こるかわからないわけですが、
昨年と違うのは、
ある程度リスクがどこにあるか、見当を付けながら作業を進めていることです。
11月の焼成では、さらにグレードアップした取り組みができると思います。

このプロジェクトの面白いところは、
本来プロの職人にしか許されないであろう仕事の世界を、
経験の多寡に関わらず、誰でも体験できてしまうということです。
紆余曲折、試行錯誤しながらも、かなり本格的な事をやっています。
もはや単なる体験というレベルは、超えているかもしれません。

さらに、初参加の方も含め、年齢も職業も出身も様々な人々が、
一つの目標の為に力を合わせるという経験は、
何としても得難く、また心地良いものです。

来週の焼成で、クライマックスを迎えます。
自然を相手に、五感をフル動員して取り組む、一大総集編です。
是非とも多くの方々の参加で、
プロジェクトにさらなる熱を注ぎ込んで下さい。

詳細は追ってお知らせいたしますので、
どうかご協力の程、宜しくお願いいたします。

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

連絡先などは、下記記事をご覧ください。
「とり急ぎ、ご案内」


続・とり急ぎ、ご案内

2009-09-10 09:39:18 | 煉瓦造建築
[写真追加]

今年の「喜多方・煉瓦焼成事業」、
実行委員会から、次のようなメールが入りましたので、全文をコピーしてお知らせします。

写真は、昨年、修理中の登り窯、断面が分ります。現在は完成しています。

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


皆様こんにちは。

9月に入り、いよいよ本年第一回目の焼成が近づいて参りました。
今年は安定した焼成を目指し、より元々の樋口窯業の技術に近づくべく、努力して来ました。

窯内部の修復、薪の段取り、釉薬のかけ方等も、事業化を図った場合のコストバランスを
ある程度念頭に置きながら作業を進めております。
昨年一通りの経験を積んだことが、非常に役に立って居り、樋口さんや中森さんが
語ってくれる一言一言の意味が、やっと本当の理解に結びついて来ています。

昨年、養成コース、体験コースで参加してくれたメンバーが、今年は中心になって活躍してくれています。
それぞれが個性を発揮できる分野で、部門責任者として、作業を仕切ってもらっています。
例えば、窯の修復に関わる事、バーナー及び焚口のコンディションに関わる事、
煉瓦に関する事(仕入れから施釉、窯詰め、梱包に至るまで)、薪づくり全般に関わる事、等々です。

本年も作業を開始するまでの、机上での話し合い段階では、喧々諤々でしたが、
現場での作業を通して、徐々に意思疎通がスムーズになり、チームワークが醸成されてきています。

ここに来て、煉瓦の注文も次々と入り、(現在6000個程のオーダーがあります)
新たに作業に参加したいという方も数名加わり、勢いが付いてきた感があります。

昨年は新しい事への挑戦といった、誰もがワクワクするようなエネルギーが充満していましたが、
今年は静かに腰を据えて、じっくりと取り組んで来ました。
9月の第一回焼成までは、このスタンスでしっかりと進めていきたいと思います。
今回の焼成が成功すれば、11月の第二回焼成では、新たな展開に向けてのチャレンジを開始できます。

天候の不順により、煉瓦素地の搬入が予定より1週間遅れの、9/12になった為、
施釉、窯詰の作業日程がタイトになってしまいましたが、それでも昨年の状況よりは、
楽観していられます。メンバー内には「何とかなるだろう」という空気があります。
(皆さん逞しくなりました。)

それにしても厳しいのは確実ですので、9/12、9/13 は応援がいくらでも欲しい状況です。

参加可能な方は、たとえ1、2時間でも構いませんので、応援の程宜しくお願いいたします。

今回の焼成時には、炊き出し方面を充実させるべく段取りを始めています。
市内のビストロさんや、農家の方の協力が得られそうです。

窯場では厳かに、外ではお祭りのように参りたいと思います。
(窯屋の外もきれいさっぱり広場の様になりました。)
是非是非、皆様のご協力と参加をお待ちいたして居ります。

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

連絡先などは、下記記事をご覧ください。

「とり急ぎ、ご案内」
コメント (4)

信州・松代「横田家」-4・・・・柱の刻み:知ることの意味

2009-09-08 09:51:31 | 日本の建築技術
[文言追加 15.19]

「横田家」の修理工事報告書に、「野帳(やちょう)」と思われる挿図が多数載っていることは、先にも触れました。

   註 野帳:何かの調査で、調査したことどもを書き留めておく
      現場での記録・メモ帳。
      「検地」の際の現地調査記録仮帳簿が語源のようです。

その一例として、「座敷」南西の柱:二階部分との接点の柱:の彫り込み:「刻み」の図を先回転載しました。

「木造軸組工法」では、建ち上げるときに組み込んでしまう部材と、建ち上がった後で追加する部材とがあります。
奈良・今井町の「高木家」など「差物」(「差鴨居」など)を多用する商家の建物では、開口部まわりの部材まで上棟時に組み込まれることが多いのですが(「建て込み」)、書院造やその系譜の武家の建物では、開口部まわりの敷居や鴨居などは、上棟後に取付けること(「後入れ」)がほとんどです。現在の木造の住宅でも、大半が「後入れ」としているでしょう。

「横田家」でも、開口部まわりは上棟後の仕事になっています。
一般に、開口部の縦方向の枠は柱をそのまま使い(そうでないときは「方立(ほうだて)」を立てる)、「敷居」「鴨居」など横方向の部材だけ柱に取付けることになります。
「横田家」の座敷南西の柱には、そこに設けられる開口のための種々な「準備」:「刻み」が施されています。
その準備には、2種類あります。一つは、柱の表面に欠き込みなどを設けるもの。上の柱全体図でオレンジ色に塗った箇所です。
もう一つは、柱に別材を植え込むもの。上図では青色を付けています(小さいので見えないかもしれません)。
なお、灰色の部分は、建て方前に刻まれる「貫」の孔で、柱を貫通しています。
「貫」孔以外は、上棟後に現場で刻まれるのが普通です(「間渡穴:まわたし・あな)」:壁の下地材を差すための穴も同じです)。

柱全体図の1階床近くに、「敷居待枘」「敷居横目違穴」「雨戸一筋仕口」の名称が見られます。
「敷居待枘」は「しきい・まちほぞ」、「敷居横目違穴」は「しきい・よこめちがい・あな」、「雨戸一筋仕口」は「あまど・ひとすじ・しくち」。
「待枘」とは、上掲の解説図のうち「敷居の取付け-1」のように、柱の「敷居」位置に孔を穿ち、堅い木でつくった「枘」を植え込む方法です。「枘」を「雇い」でつくるのです。

「横目違」とは、「横枘(よこほぞ)」を納める孔のことです。
「目違(めちがい)」とは、いろいろな説明がありますが、「突起」した部分、あるいは、反対に少しばかり「入り込んだ」部分を呼ぶようです(「日本建築辞彙」の解説による)。
上掲の図にある「横目違」は、横方向にあけられた「入り込み」の意で、そこには解説図「鴨居の取付け:横枘」にあるような「横枘」が納まります。
上掲の図では、「鴨居」の説明で「横枘」を描いていますが、「敷居」でも使えます。

「待枘」の場合は、柱~柱の内法実長に合わせて敷居材を切り、両端に「待枘」の入る溝を刻んで、水平に保ちながら落し込みます。
さらに、敷居の「見え隠れ」になる側面(たとえば畳で隠れる面)から、柱に向って釘を打つことがあります(「忍び釘」)。

「横枘」納めの場合、「敷居」では両端に「枘」を刻むことはせず、片側は「待枘」にするはずです。なぜなら、両側に「突起」があると、柱の足元、礎石に近い部分では、「突起」が邪魔をして納められないからです。
「待枘」だけでは心許ないため、上掲の解説図「敷居の取付け-2」のように、「待枘」を1個にして、「込栓(こみせん)」を打つ方法もあります。

「鴨居」の場合は、柱間が長いときは、鴨居材の方を若干撓めれば入れることができますが、短いときには柱間を押し広げて入れています(押し広げるための道具もあります)。
なお、「鴨居の取付け:横枘」のように納めたあと、壁で隠れる上側から斜めに柱へ向って釘を打つ場合もあります(「忍び釘)。その際、丁寧な仕事では、釘の頭が納まる三角型の凹みを鑿で刻みます。

これらの方法は、従来はあたりまえの方法でしたが、最近では、手間がかからず早く仕事が終る「忍び釘打ち」や接着剤だけで済ませる仕事が多いのではないでしょうか。
   
   註 何もせずにコーススレッドを捻じ込んでお終い、
      という仕事が普通かもしれません。

余談ですが、このような「手間をかけない仕事」「早く終らせる仕事」を「げんぞう」「げんぞう仕事」と呼ぶようです。語源は分りません。


「敷居」の取付け法には、この他に、「敷居の取付け-3」のような「大入れ」にする方法もあります。
「楔」の分だけ大きめに穴を刻み、敷居端部全体を押し込み、楔を打つことで押上げるのです。
この場合、両端を「大入れ」にしておいて、「敷居材」は、柱間寸法に両方の「大入れ」分を足した寸法よりは多少短くしておき、「行って来い」方式で納めると思います。[文言追加 15.19]
この方法は、確実と言えば確実ではありますが、柱に「樋端(ひばた)」の形を精度よく彫り込まなければなりませんから、きわめて手間がかかります。

「一筋」とは、「引戸」(この場合は「雨戸」)を通す道が1本の「敷居」や「鴨居」のことで、それを取付けるために柱に施す「刻み」をこの「報告書」では「一筋仕口」と言っています。
「長押仕口」「廻縁仕口」なども、「長押(なげし)」「廻縁(まわりぶち)」の柱との取合い部に施す刻みのことです。

上掲の詳細図「敷居・鴨居と柱の取合い:柱の刻み」は、報告書の「野帳」を基に推定したものです。なお、記入してある寸法は概数です。どのような寸法にするかは任意です。
ただ、この「長押」の形は現在常用されるもので、すべてが手加工の「横田家」の時代の「付長押」は、図のような斜めに切った材ではなく、図で濃い色を付けた部分のような長方形の材をえぐってL型に加工した材を使ったのではないか、と思います。その底辺の部分が柱の欠き込みに納まるのです。
図では柱の外面に「長押」があたるように描いていますが、現在の丁寧な仕事では、柱を「長押」のあたる分、欠きとって納めています。

「一筋鴨居」は、鴨居側の「目違い」:「突起」部を「鴨居」の上端に滑り込ませる形をとり、柱ではその「突起」分を欠き込むことになり、それを「報告書」では「鴨居仕口」と呼んでいます。
一般に、このような「溝」を彫ることを「小穴を突く」と呼んでいます(人や地域により異なります)。

推定詳細図では、「一筋敷居」の「目違い」を、「敷居」の横腹の「小穴」に納めるように描いていますが、このように「敷居」の側面の全長にわたり「小穴」を彫り込むことは、手加工ではきわめて手間のかかる仕事であったと思われますから、「鴨居」同様に、「敷居」の下端に滑り込ませる方法を採ったかもしれません。
図のように描いたのは、「野帳」で、「一筋仕口」が「待枘」とほぼ同じ高さに描かれていることからの推量です。

詳細図には「廻縁(回縁とも書く)」や「垂木掛」などは描いてありませんが、これらの仕口も、「一筋」や「長押」と同じと考えてよいと思います。


昔は、普通の人たちも、身近かで大工さんの仕事をする姿を見る機会が多かったため、敷居や鴨居などを取付ける方法・作業も知っていました。第一、現在とは大きく違い、大工さんは依頼主の近在の人でした。
それゆえ、大工さんにとっても、「腕のみせどころ」だったのです。最近は、「技能コンテスト」などでしか「腕のみせどころ」がなくなってしまったようです。

   註 大工さんが大工さんとして「認められる」には、
      とりたてて「試験」などがあったわけではありません。
      「任せられる」と「近在の人びと」に言われることが
      大工さんの「資格認定」だったのです。

現在、設計にかかわる方々の多くは、設計図には仕上がった姿しか描かず、このような「柱」に施す刻みなどは考えないで図面を描くようです。一つは、そういうことは《偉い人》の関わることではないと考え、現場を見たこともなく、知らないからであり、そしてもう一つは、知ろうとしないからだ、と言えるように思います。

もののつくりかたを、自分が手を下すことはなくても、皆が知っているような時代、「技術」は真っ当な方向に成長し、継承されるのではないか、と私は思います。
その意味で、現在の「建築産業」「住宅産業」のありようは、いかがなものか、と私は思います。住宅展示場やショールームは、現場ではありません。

「素人」が、もっともっと「専門家」のやることに口出しすることが必要だ、と私は思います。
それが「専門家養成」にとって不可欠なのです。そうでないと、「専門家」は、どんどん高慢になってしまいます


なお、例の「読本」、MOにこだわらずCDでも構いませんので、どうぞ。

さて、締切り仕事が迫ってきたため、遅れてきた夏休みをとり、1週間ほど、ブログ本題は休業します。

雑感・・・・ヨク

2009-09-05 18:49:19 | その他
ただいま、図版の工作中です。少々、遅れ気味。

例の「読本」を送らせていただいた方から、次のようなメッセージがありました。
「・・・頂いたファイルが WORD 形式である点(つまり変更が可能になります)と、credit がない点(お名前が見当たりません)が少し気になりました。・・・」
私は、概略次のように答えました。
「・・・credit の件、私は気にしていないのです。むしろ、下山が言った事だから・・・とかいう具合に見られることの方を私は嫌います。要は、書かれている事自体の当否の問題。
私は別に、私の存在を示すためにこういうことをやっているのではありません。
古建築をご覧になって、これを誰が設計したか、気になさりますか?
『いいものはいい』、それでよいと私は思うのです。そして、それこそが関わった工人への賛辞にほかならないのだ、そう思います。昔の工人は、自分の存在を示すためにつくったのではないからです(もっとも、見えないところに、たとえば枘に名前を書いたりはしています)。
また、『読本』を悪用する人がいたらいたで、それも別に気にしません。・・・」

どういうわけか、日本では(「近代化」を目指してからですが)、ある頃から、「事の当否」ではなく、「誰が言ったか」とか、「発表論文があるか」などが「ことの判断の物指し」になってしまいました。若い頃から、そういう「処し方」は、私の性に合いませんでした。

数日前に、客人がありました。元学生さんです。その方にも、「読本」と収録したCDをお渡ししました。そのとき、彼女が言ったことばは、「タダで配っていいんですか、欲がないですね・・」でした。これも私にとっては意外なことばでした。
私にだって欲や色気はあります。ただ、欲や色気のために何かをする、という気にはなりません。欲や色気は、何か行動を起こすときの動機付けになることもあるとは思います。しかし、それが目的になってしまったら、変な話ではないですか?
以前にもいろいろな情報を「惜しげもなく出してしまうなんて・・・」と言われたことがあります(前に書いたように思います)。「情報」を、いろんな人が知って、何か悪いことがあるのでしょうか?それで、私が何か「損」でもするのでしょうか?

こんな風になってしまったのは、どうやら明治の「近代化」以来のようです。
昨日(9月4日)の毎日新聞のコラム「余録」には、次のようにありました。
「薩長の官軍に反感を抱く江戸の市民は慶応が明治になった時、こんな狂歌を詠んだという。《上からは明治だなどといふけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む》。上からの近代化を成功させた明治維新だが、下々の庶民は反発することも多かった。・・・新政権は旧慣廃止のため庶民生活のすみずみに指導の目を光らせ、違反があれば・・摘発した。・・・官の民への教化、指導は日本の近代化の特質となる。・・・公益をたてに、官が民を指導する官治主義は、戦後民主化の後も自民党長期政権の支柱をなしてきたように見えるからだ。・・・攻守所を変えて新政権が『官』への圧倒的な指導力を示さなければならない。でないとほどなく《上からは民主だなどというけれど、主民(あるじ見えん)と下からは読む》の歌が聞かれそうだ。」

自らの欲と色気の実現を第一と考える人が多くなったのは、言い換えれば、「情報を独り占めにしたい」と思う人が増えたのは、自らを「官が民を指導する官治主義」になぞらえたい、あわよくば「指導する側」にわが身を置きたい、と思う人が多くなったからなのではないか、と私は思います。
現に、「官」は、「情報」を独り占めにし、ときには「事実」を隠すではないですか。
そして、「指導する側」に立つ人たちもまた、「情報」を独り占めにし、ときには「事実」を黙殺しているではないですか。


写真は、そろそろお終いのキバナコスモス。
このあたりでは、自分の敷地と舗装道路との間の僅かな隙間に、それぞれがいろいろな草花を植えています。これもその一つ、毎年増えてきて、今年あたりは、道路の上にまではみ出して咲いています。
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信州・松代「横田家」-3・・・・その架構の考え方

2009-09-01 11:30:36 | 日本の建築技術
[文言追加15.18][図版改編 16.49]

「横田家」の「修理工事報告書」は、本文部分だけでも170頁余あり、他に写真・図版が80頁ほどもある「報告書」としてはきわめて大部です。もちろん本文中にも多くの「挿図」が載っています。
「挿図」のなかには、調査時の「野帳」とおぼしき図も多数あります。
今回は、そのなかから架構に係わる図を転載させていただきます。

上段3枚は、復元「断面図」です。それぞれに室名を追加してあります。
中段の3枚は、上から順に、軸部と横架材の取り合いを示した「架構模式図」、各柱の材種・材寸を記した「柱仕様図」、そして、土台の材種・材寸、継手・仕口を示した「土台伏図」です。
次は「柱の刻み」の詳細図(一例)、最下段は「貫」の伏図です。

「断面図」はどの「修理工事報告書」にもありますが、他の図は、普通は載っていません。

今回は図版が大量になるので「平面図」を省略しました。恐縮ですが先回の図版をプリントしてあわせてご覧ください。

この建物は、東西に長い平屋の茅葺寄棟の建屋に、南に「二階建て」を、北に「式台」になる部分を、それぞれ寄棟で付加した形になっています。
主軸になる寄棟平屋部には、束立ての小屋を載せる「上屋」に、「縁」や「押入れ」になる「下屋」がまわっています(「架構模式図」は、小屋組を載せる部分までの図です)。

この建屋の一つの特徴は、外周や間仕切位置を含め全体に「土台」を設置してあることです。
「柱」の立つ位置には「礎石」(径45cm×厚30cm程度)を据え、外周にはそれより小ぶりの「地覆石」の上に「土台」を据えています。
室内にあたる部分は大き目の礎石:束石を等間隔に並べ、その上に据えてあります。
「土台」は当初材が残っていて、材種・材寸は上の図に記されているように、クリが主で、幅が4~5寸、成・高さが平均して3.5寸の扁平な断面をしています。

「土台」の継手は、大部分が「腰掛鎌継ぎ」、「座敷」東の列に「追掛け大栓継ぎ」、「茶の間」と「勝手」の境に「金輪継ぎ」が使われています(「土台伏図」で相欠きの表記になっているところ)。
「土台」の直交箇所は、「平枘差し・割楔打ち」(「小根枘」の場合もあります)が主で、隅部では「角柄(つのがら)」を出して納めています。

「柱」も、ほぼ当初材が完全な形で残っていたとのことです。
「柱」の材種・材寸は、「柱仕様図」に記されていますが、大半がスギの「芯持材」、ほとんどが台鉋仕上げの3寸8分角以下という細身の材です。
「柱」の「土台」への仕口は「短枘」(3寸×1寸)が主で、「式台」正面両端などに「礎石建ち」の箇所があります。

軸部は「土台」と「横架材」の間に3段の「貫」を通して固めています。すなわち、「足固貫」「内法貫」そして「飛貫」です。
ただし、二階部分にはもう1段加わります。
ただ、足元では、柱間の長い箇所では「足固貫」に代り、3.5~4寸角のクリまたはマツの「足固」を差し渡しています。

「貫」の材種・材寸は、「足固貫」ではクリが主で、2.8寸×0.7寸程度の材を、梁行、桁行とも同じ高さでまわし、梁行では下楔、桁行では上楔とし、柱内で「略鎌:鉤型付き相欠き」、端部は「小根枘」で納めています。
「内法貫」は、材種はスギ、マツが主で、材寸、納まりは「足固貫」と同じです。

「飛貫」は、材種・材寸、納まりとも、基本的には「内法貫」と同じですが、ただ、端部は柱に「包枘差し」とのこと。
ところが、この「包枘差し」の様子が分らない。いろいろ調べましたが「日本建築辞彙」にもないのです。
私の推量では、柱を貫かないで納める単純な「枘差し」のことか?
と言うのは、この建物では腰の位置にも「貫」がありますが、その場合は、柱相互を固めるためではなく、壁の下地材として、すべて柱間に「包枘差し」納めとしている、という記述があるからです。つまり、柱を貫いていないのです。
どなたか、ご存知の方、ご教示ください。

以上をまとめれば、この建物は、土台建てで軸部を3段(~4段)の「貫」で縫い、それに小屋を載せた架構、と考えられます。
「土台」や「柱」など、ほとんどが当初材であることで分るように、この架構で、200年以上健在であったことになります。
しかも、その間、壁であった箇所が開口になるなどの改造が何度も行なわれています。そしてまた、地震にも遭遇しています。

このことは、この建物もまた、「古井家」や「箱木家」と同じく、しかも、それらに比べて細身の材にもかかわらず、「貫」で固めた架構で建ち続けてきたこと、
すなわち「立体に組まれた架構は頑強である」、という「事実」を如実に示している、一つの証である、と言えるのです。
要は、「壁に依存した工法ではない」ということです。[文言追加15.18]


もう一度、現在《主流》の「在来工法」の考え方、その根底の「理屈」を考え直す必要がある、と私は思います。

TVのコマーシャルでは、盛んに広い縁や開放的なつくりの建物が放映されます。それらは、多くは長い年月を経た建物です。そして、現在の「理屈」では「耐震補強」が必要とされる建物です。しかし、事実は、現在の建物よりもはるかに「寿命」が長いのです。地震でも持ちこたえてきています。

いま、「長寿命化」というと、すぐに材寸を太くすればよい、という風に考えがちです。
しかし、それは、誤り、誤解なのです。
4~5寸の柱で、細身の横架材でも、使い方次第で、丈夫で長持ちし、しかも使いやすい、改造も任意な建物がつくれるのです。
これが、「立体に組むことを信条としてきた日本の木造軸組工法」の特徴である、ということを、私たちは今こそ知る必要がある、そう私は思うのです。

なお、柱の刻みの図にある「待枘」や「横目違い」については、別途「補足」で説明します。
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