SURROUNDINGSについて・・・・3:ある学校の図書室を見て

2011-11-29 22:10:30 | surroundingsについて
[註追加 30日 8.08][註追加 30日8.55][註追加 30日 18.20][文言改訂 2日 11.55]




先般、ある小学校を見る機会がありました。
老朽化した建物の改築を施した学校です。改装部分と新築部分とが共存していました。

写真や図面を出すと特定できてしまいますので、言葉だけで説明させていただきます。
それゆえ、多少分りにくいかもしれません。

まず感じたこと。
それは新しく建てられた校舎よりも、改装した元の校舎の方が「馴染める」雰囲気であったことです。
それは単に、私が、昔ながらの学校を知っている、あるいは見慣れている、ゆえではありません。
なぜそう思えるのか。
それは、一言で言えば、「空間のつくりかたが奇妙」だからです。

その極めつけは、図書室でした。
南北に走る廊下の東側に沿って、長手が8間、短手が5間ほどの大きさの細長い部屋(特別教室や職員室にある形で、ここは多分、元職員室か)があり、そこが図書室に改装されていました。部屋の東面:長手が外庭に接していることになります。
部屋の南寄りに、廊下からの出入口(引き戸)が一箇所ありました。[文言改訂 2日 11.55]

入口の引戸を開けると、まず目に飛び込んできたのは、昇降口の下駄箱のように並んでいる書架群。
目線方向に、長さ2間ほどの低書架(高さ1.2mか)が1.5m間隔ぐらいに10列ほど並んでいました。
その櫛の歯をすり抜けた奥の窓際に閲覧席があるようでした。
「あるようでした」と書いたのは、私の目線でも、その席が確認できなかったからです。書架がそこまで続いていないから、多分机があるのだろう、と感じたのです。
つまり、子どもの目線だったら、見えない。

思わず、こういう書架の配置は誰が決めたのですか、と尋ねてしまいました。
最終的には、設計者が決めたとのこと。

たしかに、部屋の中央部より明るい窓際の方が本を見るには明るさがちょうどいい。
このような配置にしたのは、多分、この点で決まったのではないか、と私には思えました。
「この部屋のことだけ」考えればそれもいいでしょう。
しかし、子どもたちはこの部屋に「住み着いている」わけではありません。何処からか、この部屋へ来るのです。ドラえもんならいざ知らず、気がついたら突然部屋の中に居た、などということはあり得ず、かならず「何処からか歩いて来る」のです。

この「何処からか歩いて来る」という動作・行為は、本来、それぞれの人・子どもたち自身の「感覚」で為されることであるはずなのですが、最近はそれを無視することが普通になってきています。
これは、かなり昔、迷子になる病院の例でも書きました。
簡単に言えば、案内標識があれば(ありさえすれば)、目的地を訪れることができる、と考えるのがあたりまえのようになってしまっています。
これは、自分の感覚に拠る判断ではなく、カーナビの「指示」に拠り車を動かすのが当たりまえ、というのと同じです。

   註 [追加 30日 8.08]
   それが当たりまえになってしまった理由の一つは、
   私たちの暮す SURROUNDINGS の様態が、
   私たちの「感覚」に拠る「判断」を受け容れない姿になっているからです。
   そういう「様態」の造成に深く係わっているのが、
   実は建築や都市計画に係わっている人たちなのです。
   これは「悲劇」「喜劇」以外の何ものでもありません。

   註 [追加 30日 18.20]
   こうなってしまった原因の一つに、《設計ソフト》に拠る「設計」があるように思っています。[文言改訂 2日 11.55]
   設計という「営為」が、「ゲーム感覚」で処理される傾向にある、そのように私には思えるのです。
   「現実」に対して自らの「実感」を通じての「反応」に拠るのではなく、
   「設計ソフト」が表示する「モニター上の情報」への「反応」でことを決めてよしとする、
   どうもそういう傾向を感じるのです。
   そこでは、「人(の豊かな感性)」が疎んじられています。
   このことについては、現在設計中の事例の構造設計の面で、いたく感じていますので、
   いずれ、詳細に報告させていただきます。
   
さらに言えば、「図書室」という表示があれば、そこが「図書室になる」とさえ思うようになってしまっている。
これは、今の多くの建物では、「図書室」を他の用途の場所名に変えても「通用」するほど「当たりまえ」になっています。

このような「考えかた」は、この学校のいたるところで見受けられました。つまり、設計者が、それで当たりまえだと思っている、ということになります。

考えてみれば(考えて見なくたって)、これは怖ろしいことなのです。
感受性豊かな子どもたちの過ごす場所が、
子どもたち自身の「感覚」で行動できない場所になっている
そういう場所を、大人が、しかも専門家と称する人たちがつくってしまっているのです。

この小学校では、いたるところに、いわゆる《デザイン》がされていました。
たとえば、校門から校舎への通路には、舗装で「模様」が描かれています。
しかし、その「模様」の意味、そう描かれなければならない謂れが見当たらない。
第一、少なくとも、歩いていて、その「模様」が何かを訴えかけてくる、そういうことはまったくない。
もっと言えば、「模様」があるのさえ気づかないかもしれません。なぜ、ここだけ色が変っているのだろう、ぐらいにしか思わないかもしれない。

おそらく、空中から見たら「絵」が見えるのかもしれません。
設計者は、机の上の紙の上を見て、「デザイン」したのです。
しかし、子どもたちは、人は、空中を散歩しているのではないのです。歩いている人に、それは見えない。当然「意味」も分らない。
第一、はたして「意味」があるのかさえ、疑わしいのです。

私は、かねてから、1960年代の建物の「質」は、今のそれに比べ、数等高い、と思っています。そう書いてもきました。
その理由は簡単です。
お金がなかったからです。工費が廉い。
したがって、少ない工費をどう「有効に」使うか、が設計者の腕のみせどころだったからです。
今は違います(もちろん、すべてではありませんが)。
「有効」の意味を考えなくなり、お金が「別のところ」に使われてしまっているのです。
たとえば、この小学校の昇降口の庇には、手の込んだ金属製の庇がつくられていました。
そういうお金の使い方をする一方で、各部屋のつくりは決して「豊か」にはなっていません。むしろ、「ささくれだって」いる。もう少し、神経使ってよ、と言いたくなるほどでした。
子どもたちの接する場所が、子どもたちに、もちろん私にも、馴染めるものではないのです。
私が、旧校舎の部分に行ってほっとしたのは、そこが馴染める空間だったからなのです。空間の形状からして、馴染める形なのです。
旧校舎は、戦前からの校舎建築を継承したものと思われます。
戦前の校舎建築、それは、それぞれの地域の「宝物」でした。人びとの「住まい」の延長上に、自分たちの「逸品の場所」としてつくられていたのです。
それが、人びとに馴染めないものになるわけがないではありませんか!

建物づくりに係わる人たちは、もう一度、私たちにとって建物は何なのか、あらためて考え直してみなければならない、私はそう思っています。
そうしないと、先に「理解不能」として指弾した「建築家」たちと同じレベルになってしまうと思うからです。
あの「理解不能な建築家」たちを、「目標」にしてはならないのです。特に、若い人に向けて、そう言いたいのです。

  註 なお、この点について、別の書き方で10数回、昨年の今頃書いています(下記)。お読みいただければ幸いです。
    [追加 30日8.55]
    「建物をつくるとはどういうことか」シリーズ
    シリーズ各回の内容は、「建物をつくるとはどういうことか-16」末尾にまとめてあります。
    

冒頭に掲げた図は、アアルトが、ある図書館を設計するときに描いたスケッチです。
最初の1枚は設計にとりかかった頃のもの。
2枚目は、もう少し思考・設計が進んだときのものです。

ここから、「その場所」にどのような場所・空間が、つまり、どのような SURROUNDINGS が用意されなければならないか、人は、どのようにその場所を訪れるのがよいか、それに続く内部は、どのように人の前に展開するのがよいか、・・・そういったさまざまな「思考(の過程)」が読み取れる、と私は思います。
これは、先回例に挙げたカレー邸のスケッチと、まったく変りはありません。常に、目の前に現れる(はずの) SURROUNDINGS を「設計」しているのです。考えているのです。

   註 [追加 30日8.55]
   アアルトの設計した建物は、独特の形をとる場合がありますが、
   その「形の謂れ」をも、これらのスケッチは示しています。
     アアルトの建物の形は、フィンランドのフィヨルドを模したものだ、
     などという珍奇な説があります!

彼の設計した図書館には、玄関入ったら直ぐに書架、などというのはありません。
長いこと居たくなる、いろいろと本を手にとって見たくなる、そういう図書館です。それこそが図書館ではないか、と私は思います。
ひるがえって、私の見た小学校の図書室は、子どもたちに本に接することがイヤになることを奨めているような場所。人の過ごす SURROUNDINGS になっていないのです。

アアルトはいろいろな建物をつくっていますが、その残されたスケッチは、いつもこういう調子で描かれています。
次回も、その例を挙げたいと思います。


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取り急ぎ:喜多方・登り窯の火入れのご案内

2011-11-25 16:41:35 | 煉瓦造建築
喜多方から、下記のように、写真付きで「登り窯の火入れ」開始の連絡がありました。
今日の7時に重油バーナーによる火入れ開始とのことですから、今日は間に合いませんが、
土・日には、薪による焼成が行われます。これは一見の価値ある光景です。
お近くの方は、ご覧になってはいかがでしょうか。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

・・・・・
本日(25日)より「再生プロジェクト第5回目」の窯焚きを開始いたします。

一昨日の23日には勤労に感謝しつつ、
最後の窯(今回は六の窯)に子供たち(南相馬と喜多方の子どもたち)が作った神さまの顔の土面を詰めました(下の写真)。

   

実際に放映で使用されるかは未定ですが、NHKの取材もありました。
火入れの様子と窯出しの様子も取材されるとのこと。

火入れの予定工程は次の通りです。

本日(25日) 18:00~ 直前作業
      19:00~ 火入れ開始 12時間バーナー
26日(土)  7:00~ 薪投入開始 種火つくり
      10:00~ 1の窯 薪投入 5時間
      15:00~ 2の窯 予定10時間
27日(日)  1:00~ 3の窯 予定 5時間
6:00~ 4の窯 予定 4時間
10:00~ 5の窯 予定 4時間
14:00~ 6の窯 予定 4時間
18:00~ 火止め作業
      22:00  全工程終了

今回は温度計測を行わずに、
窯の状態を目と耳で確認する昔ながらの焼き方の習得をめざします。
煉瓦以外のやきものも行いますので、得る物の多い窯焚きになるでしょう。

   窯に詰められた素地(成形して乾した煉瓦と土面)
   

参加してくれる人が多ければ、窯屋の補修等、他に行いたいこともあります。

人手はいくらあっても足りない状態なので、是非とも応援にいらしてください。
特に深夜の時間帯は手薄なので来ていただけるとありがたいです。

飲み物・食料の差し入れも大歓迎です。

ご不明な点は下記へご連絡ください。
  喜多方まちづくりセンター内
  三津谷煉瓦窯再生プロジェクト事務局
  担当 金親丈史
  電話 0241-22-5546

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この国を・・・・8:半減期

2011-11-18 19:34:07 | この国を・・・
[追加 24日 14.52]
私も同感の意見、東京新聞の社説「畦道に座って考える」を紹介します

[追加 22日7.30]
明るい話題を追加します。「山形ガールズ農場の挑戦」時事通信社の配信記事です。 

[追加20日 10.59]
「面白い」記事がありました。
20日の東京webから。
残念ながら、期間が過ぎ、この記事は削除されたようです。「過去記事」から検索できます。


今年の風景ではありません。今年はこういう夜景を見ていません。


例の放射性セシウムのエネルギーの半減期は30年だそうです。つまり1/2になるのに30年。
1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚、8枚が16枚・・・・、このガマの油売りの逆です。30年経って1/2、さらに30年経って1/4、さらに30年経って1/8、・・・つまり、0に限りなく近くなっても0になることはない。
そして、その生命への影響が、どのくらいになったら無くなるのか、「専門家」も誰も知らない・・・・。
こういうモノをばら撒くこともあり得るのだ、ということを「予測」できない「科学者」たち。何かあったら「想定外」で済むと考えている「科学者」たち。scientist でないことは確かです。

「興味」が湧いたのは、この事故による被災者への「慰謝料」の額の件。

「原子力損害賠償紛争審査会」のガイドラインによると、「被災者の精神的苦痛に対する慰謝料」の額は、次のようになっているようです。
  1)事故発生からの6ヶ月間
    ①年齢や世帯に関係なく1人あたり月額10万円
    ②最も過酷な環境と認められる体育館や公民館などの避難所に避難した人は、
     2万円を加算して1人あたり月額12万円
  2)事故発生後6ヶ月~1年
    年齢や世帯に関係なく1人あたり月額5万円(避難所に避難した人も同じ)
  3)事故発生から1年後以降(第3期)
    今後の事故の収束状況を踏まえて改めて算定

また、「自主避難」の方は対象にならないとのこと。
自主的な避難をした人たちには精神的苦痛は存在しない、ということらしい!
そんなわけ無いではありませんか。理が通らない。

一体、何を「根拠」にこうなったのかは知りません。


簡単に言えば、「精神的苦痛は、6ヶ月で半減する」、と考えている、と見なされます。
つまり「慰謝料の半減期」は6ヶ月!ということ。
一方で、精神的苦痛をもたらしている元凶の一つは、半減期30年・・・。

だいたい、原発事故に拠る精神的苦痛が、半年で半減するわけがない。
安全だと言われて信じてきた結果の事故。本人が好き好んで起こした事故でもないのです。
だから、むしろ、月日が経てば経つほど、苦痛は増えるのです。当たりまえでしょう!
暮していた場所から逃げ出すしかないのです。


折しも、環境庁に、汚染した土壌を宅配便で送りつけた方がいるとの報道。
そして、処理に困った環境庁職員が土を路傍に捨てた・・・。
この職員は、現場:地域住民の「苦労」を身を持って知った筈です。
給与返納などで済まして済むわけがない。訓告で済むわけもない。

私がその事実を知って「感激した」のは、「そういうことを実行した方が福島に居た」、ということ。
これは、中・近世の「一揆」に相当する、と考えてよいかもしれません。

ただ、送り先は、第一:原発を推進してきた政党、原子力安全委員会、原発建造関連企業、および国会、第二:東電、第三:原発再稼動を「切望」している経団連、そして第四:管轄の環境庁・・・が妥当だったかも・・・。


「人のうわさも75日」、という文言があります。「世の中」の上の方に居られる方がたは、どうも、それを「願っている」ような気が感じられます。
それはおかしい。
私たちにとって、原発事故には、半減期は存在しないのです。

ときどき思うのです。一度、国会を、避難区域になっている街で開いたらどうか、と。


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SURROUNDINGS について・・・・2:先回の補遺

2011-11-15 20:52:15 | surroundingsについて
[文言追加 16日1.45]

先回のおしまいに、アアルトのカレー邸のスケッチを紹介させていただきました。

しかし、アアルトのカレー邸と言っても、知らない方が多いのではないでしょうか。
ライトの落水荘と言えば、大方の方が知っていますし、その外形もすぐに頭に浮かんでくる方が多いと思います。
ところが、カレー邸と言われても、頭に浮かぶ人は少ないと思われます。外形も片流れ屋根で、ライトの建物に比べると、どちらかと言えば「平凡」に見え、印象が弱いからです。

しかし、「surroundings の造成」という点では、これは凄い、と私は思っています。
surroundings へのこだわりの点では、ライトよりも徹底しているかもしれません。

落水荘は、ライトにしては「珍しい」事例なのかもしれません。
ライトは、時折り、「形」に走る、そんな気がしています。ライトの「形」には、surroundings とは関係ない場合があるように見受けられます。その分、ある意味「分りやすい」。「形」の恰好にだけ目を遣っていればいいからです。

一方、アアルトの「形」は、常に surroundings についての模索から生まれているように思えます。それゆえ、「分りにくい」。
なぜなら、アアルトの設計事例は、実際の「現場」に立てば自ずと分ることなのでしょうが、図や写真で「見る」ときは、建「物」だけではなく、「あたり一帯の場景を思い描きながら見る」必要が生じます(もっとも、最近は、アアルトの建物の写真や図を見ても、「物」だけ見て「まわり」に目を遣らない「建築家」が多くなっているように思います)。
「あたり一帯の場景を思い描く」作業は、いわば文章の「行間を読む」作業に似ています。
しかし、この作業は「面倒」です。だから、「一般受け」しないのではないか、と思います。
   これは、「桂離宮」は「分りやすい」が、「孤篷庵」が「分りにくい」のに似ているかもしれません。
   
   

先回の書物(THE LINE――ORIGINAL DRAWINGS from THE ALVAR AALTO ARCHIVE MUSEUM of FINISH ARCHITECTURE 1993年 刊)から、カレー邸の謂れについての説明文を、そのまま転載します。


同書には、先回紹介したスケッチの他にも、数点のスケッチが載っています。
以下に紹介することにします。
説明部分(英文だけ)を大きくして併載します。
 


説明文は、天窓からの光についてのみ語っていますが、このスケッチには、今度つくる建物が、既存の土地に、「どのように取り付くのがよいか」を、アアルトがいろいろと検討している様子が窺えます。
天窓の形を考えている一方で、遠くからどんな具合に見えるようになるか、などなど、考えているようです。





正面の見えがかりの検討のスケッチのように説明にはありますが、むしろ、正面の見えがかりは、土地へのセットのしかたによって決まってくる、それをどうするのがよいか、その検討のためのスケッチ、と見た方がよいように思います。
それは、建物の「外形」スケッチの中に、屋根の下に生まれる空間の概形を描いていることで分ります。
この片流れの屋根は、土地の上に新たにできる(アアルトが新たにつくろうとしている)空間の形の「反映」なのです。
 



terracing というのは、段状にする、という意味のようです。
terrace と言う語は動詞として「段状に整備する」という意があります。
簡単に言えば、地形に合わせるつくりかたの一。
ただ、アアルトのやったことは、わが国の住宅地造成で見られる雛壇をつくることとは違います。斜面を単に平坦地にするのが目的ではなく、建物、あるいは空間を土地に「馴染ませる」ための方法なのです。


これらのスケッチから、アアルトにとって、スケッチは、
既存の surroundings に手を加えるにあたり、従前の surroundings のつくりだしていた場景・情景を傷めることなく維持できる、あるいはさらによい場景・情景にする、そうするためには、どのような「手の加え方」が好ましいのか、それについての模索、その推敲の記録
と考えてよいでしょう。

何度も書いてきているように、建物をつくるということは、単に、一個の建物をつくる、ということではなく、
そこに従前から存在していた surroundings を「改変する」ことなのです。
設計とは、建「物」の設計ではなく、「 surroundings の改変」の「設計」である、ということです。
これをアアルトは、ごくあたりまえのこととして実行している、それが私のアアルトについての「理解」であり、傾倒した理由でもあるのです。簡単に言えば、アアルトの営為が「よく分る」、共感できる、ということ。

そして、これも何度も書いてきていますが、
日本の建物づくりは、階級の上下を問わず、「建物をつくることは surroundings の改変である」、という「事実」を、当たり前のこととして認識していた、と考えてよいでしょう。少なくとも近世までは・・・・。

それはすなわち、「住まいの原型についての認識」つまり、「人がこの大地の上で暮すとはどういうことか、についての認識」、が、往古より、ブレずに、継承されていた、ということに他ならないのです。

今あらためてこう書いているのは、今の世では、この「継承」がますます途絶えつつある、という感を最近とみに感じているからです。
私たちの surroundings は、こんなものでよいのだ、という事態に陥りかねない、と思うからです。もしかすると、そのうち、セシウムに囲まれているのがあたりまえだ、などとなるかもしれません。 

さて、カレー邸の様子を、アアルトの設計集:「ALVAR AALTO Ⅰ」(Les Editions d'Architecture Artemis Zurich 1963年刊)から転載します。
スケッチと対照してみてください。
なお、カラー写真は、「GA №10 」(A.D.A EDITA Tokyo 1971年刊)にあります。

まず、配置図と入口周りを見た写真。
配置図のどのあたりから見た写真か、判定してみたください。

道のカーブの付け方がダテではないことが分ります。
入口に近づく最後のあたりに、少し左にふくらんだところがありますが(写真はその手前で撮っています)、このふくらみは、まさにアアルトの「こだわり」の表れである、と私は思っています。
この「ふくらみ」がなかったら、どうなるか。
こう考えることができるのがアアルトの設計の「醍醐味」なのです。
ただ単に、カッコイイ絵を描いているのではない、のです。[文言追加 16日1.45]

次は1階平面図。


そして入って直ぐに広がるギャラリー。


ギャラリーの先に広がるリビング。


リビングの先に広がる広大な斜面の側から建物を見ると


そして最後に、ギャラリーの断面を描いた設計図。
こういう図面は、最近の設計ではお目にかかれません!惚れ惚れします。
天井のふくらみ、高さ、そして床の高さ・・・、その切替、それらの位置、それがなぜその位置なのか、これを考えるのが「楽しい」のです。
そして、やはり、ここでなければならない、と思い至って感激する・・・。凄いな・・・。


次回は、 surroundings を無視した最近の設計事例を例に話を進める予定です。

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この国を・・・・7:足元

2011-11-07 17:46:33 | この国を・・・


吊るし柿にする渋柿。最後まで残って、鳥たちの初冬の食料になります。
今日、メジロに会いました。早咲きのサザンカに来ているようです。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[末尾に追記を追加12日 10.20]

私の住まいのまわりには、畑地と山林が広がっています。
ここに暮して10年、私によく判らなかったのが、農地の「持ち分」です。どこが誰の畑なのか、よく判らないのです。去年はあのお宅が耕していたのに、今年は別のお宅の方がやっている。こういう例が多いのです。
どうやら、町が仲介して、あるお宅が耕せない畑(後継者がなくできない場合や、いても人手が足りない・・・などいろいろな場合があるようです)を、他の方に斡旋する事業を行なっていて、その結果のようです(持ち分は変らない)。

2・3年ほど前から、2キロほど離れた集落の方が、近くの畑を耕すようになりました。この方は、それまで、自宅周囲の畑地が主たる農業の場であったようです。
しかもこの方は、私の住まいの近くだけではなく、あちらこちらの畑も耕しています。
その広さは、たとえば私の近くの場合は、どんなに狭く見積もっても2反歩、つまり600坪はあるでしょう。他の場所にも、どう見ても2反から3反以上の広さのところがありますから、おそらく全部ではかなりの広さになります。あちこちで彼を見かけますから、彼が耕す畑地は、明らかに年を追うごとに増えています。
彼は、いつも一人です。ときには手伝いの方もおられますが、まず一人が多い。年恰好は40代後半か。
最初は機械を使っていませんでしたが、最近は小型のトラクターを使っています。軽トラも新調しました。

では、広大な畑で、何をつくっているのか。
決して「儲かる」作物ではありません。
最近の農業の一つのやり方には、「儲け」が大きい作物を単品、広い土地でつくる場合があります。嬬恋村のキャベツやレタスが有名ですが、このあたりでは、落花生やサツマイモ、あるいは作物の種子を採るための「農業」などです(ミツバや大根そのものではなく、その種子を採るための栽培を種苗会社から委託を受けているようです)。

しかし、彼のはそうではない。ハウスものはやっていません。
彼は、いつも、「旬の作物」を露地でつくっている。今収穫期なのは、ハクサイ、ブロッコリー、ホウレンソウなどの葉もの。その収穫作業の一方で、収穫後の畑地の養生をして(有機肥料を鋤き込んでいるようです)春先収穫の葉物の苗を植えています。夏はジャガイモ、ナス、カボチャ、ウリ・・など。
つまり、多品種を少しずつ(と言っても1反歩程度ずつですが)並行してつくっているのです。しかも、たとえば同じジャガイモでも、ダンシャクだけ、というのではなく、キタアカリやメィクィーン・・・といろんな種類をつくっています。ハクサイなどもいろいろあるようです(名札を立てているので知りました)。
これを一人で順にやっている。毎日、黙々と。

採れた旬の作物は、農協に納入しているようです。農協の直販所に卸しているのを見かけたこともあります。
直販所では、たとえばハクサイは、今、立派なのが150円から200円です(ワンコイン:100円玉です:で、かなりのものが一束購入できます。もちろん採り立て)。
生産者名が付いているので、それで彼の名を知ることができました(近くの大型店舗でも、近在の方のつくった新鮮な野菜が、同じ程度か多少高い程度で売られています)。

今ではまだ一人ですが、おそらくこのようなやりかたが、意外と増えてくるのではないか、そんな予感がしています。これなら、若い方がたにもできるのではないか。

こういう「農業」を見ている矢先、11月1日の「リベラル21」に、あるジャーナリストが次のような論説を寄稿しているのを読みました。抜粋転載します(読みやすいように段落を変えてあります)。

   ・・・・・
   日本の農業は「TPPに参加すれば、崩壊する」のではない。
   「参加しなくても、近い将来、崩壊する」のである。農民の平均年令が年々高まり、66,1歳に達している。
   後継者がいない農業が継続できるわけがないではないか。
   第2次大戦後の農業は政府の補助金と、消費者に割高の農産物を押し付けることによって成り立ってきた。
   だが、そんなことがいつまでも続けられるはずがない。
   そして、儲からなくなった農業経営を息子も娘も継がなくなってしまったのである。

   国内農業は食糧安全保障のためにも必要である。
   しかし、存続のためには改革して「儲かる農業」を実現しなくてはならない。
   野田内閣の「食と農林漁業の再生推進本部」が25日、農業改革の基本方針と行動計画を決定したが、
   これを実行すれば、農業に明るい未来は訪れるのだろうか。答えは明暗の半ばである。
   再生計画の柱は、①今後5年間で水田の耕作規模を10倍に拡大②担い手を育成するために、青年の就農を支援し、
   法人雇用を促進する③農林業者が加工や販売も行う、いわゆる「6次産業化」の推進
   ④過去のマニフェストに掲げた農家個別所得補償制度を、営農規模拡大に適したように変更、などである。
   これらの方針はいずれも合理的で結構だ。問題は、どう実行するかである。

   基本方針を実行するためには、農地の譲渡や営農委託についての規制緩和とともに、
   現地での実行のカギを握る農地委員会のあり方を前向きに変える必要がある。
   それ以上に重要なのは企業の農業への参入を大胆に認めることだ。企業参入が増えれば、
   日本農業の国際競争力向上は間違いない。
   企業参入の弊害が心配なら、それが予想される部分について規制すればいいのである。

   改めていおう。農業再生とTPP交渉参加は直接関係がない。農民がその気にならない限り、農業は再生しない。
   もし、TPPが農業再生と関係あるとしたら、TTPが農業関係者に危機感をもたらしたという点であろう。
   農協も農民も危機感がない限り再生の努力をしないだろうから、TPP交渉参加は農業にとって、
   むしろチャンスをもたらしたといえる。
   それは農業にはびこる既得権を取り払うチャンスでもある。
   ・・・・・

私はこの「論説」を読んで、おそらく、この方は、今の農村に行ったことがない、もしかしたら土を触ったこともないのではないか、と思いました。
簡単に言えば、農業を知らない(私だって、そんなに知っているわけではありませんが・・・)。
農業は、単なる金儲けの一手段に過ぎないのか?
当然ながら、「農業の意味」を考える気もない・・・。当然「経済」の意味は本来何であったか、も・・・。
あまりにも乱暴なので、いささか驚きました。
一時はやった「新《自由》主義《経済》」「《市場原理》主義」の後追いをしているのではないか。
実は、この論説を読むまえに、ものごとを真っ当に、筋道立てて見つめての論説がありましたので、それを紹介するつもりでした。
いずれも、いま、巷で話題になっている論説のようです。

結果として、以下の論説は、先のリベラル21に載った論を、根底から、理を通して、論駁している、と言えるのではないでしょうか。

毎日新聞、10月27日朝刊の「記者の目」。記事そのもののコピーとweb版を併載します。

「記者の目」



そしてその4日後、同じく毎日新聞「風知草」は、さらに鋭く論じています。
これも、記事そのもののコピーとweb版とを併載します。
「風知草:消費文明の衣を脱ぐ」



タイの洪水で、日本の「企業」の実態が顕になりました。もちろん、そうでない企業家も居られます。自分の足元の根に気を配り続ける人たち、決して根無し草にはならない方がた。根がなければ、先がないことが分っている方がた。しかし、当面、「儲からない」人たち・・・。
どうしても儲けたいのなら、日本を捨てて結構です。当面はいいでしょう、しかしそれは、理を考えれば、永続きするはずがないからです、「流浪する」ことになるはずなのです。

「記者の目」の中の紹介論文にある「輸出企業は、国内を牽引するのではなく切り捨てた」という一節が「印象」に残っています。
   参考 2007年に書いた一文ですが、「近江商人の理念」もどうぞ。


  追記 [12日 10.20追記 文言追補 12日15.13]]

   エライ人たちは、どうしても「貿易」で暮したいようです。
   そして、彼の地の農業に対抗(?)するために
   小規模営農者には「奨励金」を払って、農地を他の「営農者」に集約させ、大規模化するのだそうです。
   簡単に言えば、金を払って、小規模営農をやめさせる、ということらしい。
   当然一時金でしょうから、その後、元小規模営農者は、どうやって日々を過ごせ、というのでしょう?
   
   日本の国土というのは、すべてが大平原ではない。
   それゆえ、山あいにも小さな農地をつくってきたのです。
   私の住まいの近くの小河川沿いの水田は、今から40年ほど前、区画整理で、従前の小割りの水田から、
   大きな区画に直されたようです。圃場の区画整理事業です。
   中央に、霞ヶ浦にそそぐ直線化された河川、と言うより水路が走っています。
   勾配が緩いので、元は蛇行していたはずです(東京の神田川や石神井川も同様でした)。
   見ていると、最近は、水路側の田に土が溜り、水路から遠い丘陵側の田の水はけが悪くなっているらしく、
   かなりの深い田になってしまい、トラクターなど農機が時折り立ち往生しています。
   一枚の田の面積を大きくする、ということは、従前は10段近くあった段差を数段に減らさないとできない。
   その結果、流れた土が下の段に溜まりやすくなり、上段が水はけの悪い深田化したのだと思います。
   これを直すのは、かなりの大仕事。

   大規模化を唱える《論者》は、多分、(今の)関東平野などしか見ていないのではないでしょうか。
   今、広大な耕地ですが、江戸時代の末には、埼玉あたりは水浸しだったといいます。湖沼だらけだった。
   広くなったのは、排水を機械に頼るようになった明治以降のはずです。
   一旦、機械が止まれば、元の木阿弥。危なっかしいのです。
   ハイテク必ずしもローテクよりすぐれているわけではない、私はそう思っています。
   ハイテク維持のために、別途のハイテクが要るからです。

   農地が平野だけではなく、平野面積が圧倒的に少ないのが日本です。
   往時の人たちの考え方の方が、数等、地の「理」に通じていたのでしょう。真の「地理」学です。
   日本の「農」学も、当然、そういう日本の「地」理に応じていた。
                           [文言追補 12日15.13]   

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SURROUNDINGS について・・・・1

2011-11-03 18:54:42 | surroundingsについて
 

「環境」という立派な日本語があるのに、surroundings という英語で表記するのは、「環境」という語が、本来の意味をはずれ「うす汚れて」しまっているからです。
environment という surroundings 同様の意味を持つ英語もありますが、この語も「うす汚れて」しまっている気配があります( environmental design などという「不埒な」使い方さえあります)。
そこで、専門家を含め、多くの人が使わない(多分、学術的ひびき がないからだと思いますが)「きわめて平凡で、字義どおりに意味が分る」 surroundings を使って書くことにします。
   
   註 環  たま、たまき、環形の玉。めぐる、めぐらす、わ。
      境  さかい、領地、領内。特定のところ、場所。特定の状態、またその場合。
            [白川 静 著「字通」]
      環境 めぐりかこむ区域。あるものの周囲にあるもの、また、その行動する場所・状況。
          あるものとの関係・影響をもつと考えられるもの。
           [諸橋 轍次 他著「新漢和辞典」]   

一週間ほど前、毎日新聞のコラムに「有名な」建築家へのインタビュー記事が載っていました。先に私が「理解不能」で挙げた人たちの一人です。
自ら自らを《前衛》と呼んで憚らない当人の発言もさりながら、私はインタビューを担当している記者の方の「感性」に「違和感」を感じ続けていました。 

なぜなら、記者が日常身を置いている「自らの surroundings 」と「建築」とを、別扱いにしているように感じられたからです。
この記者にとっては、「建築(物)と surroundings は別の世界のもの」である、ということです。

そして、この「前衛家」も同じく「建築(物)と surroundings は別の世界のもの」である、と考えているとみてよいでしょう。
だからこそ、「理解不能」な発言が為されるのです(発言の内容は、「理解不能」で載せたコラムのコピーをお読みください)。

   これは、記事を読んでの私の推測です。
   「別扱いにしていない」のであれば、記事は別の内容になるはずです。
   第一、この《前衛家》をインタビューの対象者とすることもないでしょう。

   私は、これまでも書いてきたように、
   建築(物)と surroundings は、別扱いはできない別扱いにするのは間違いだ
   と考えています。
   建築は、否応もなく、できあがると surroundings の一部になるのです。
   と言うより、往時から、人びとは、人にとっての surroundings となるべく建築をつくってきた
   私の理解では、それが建築の歴史です。

しかし「建築(物)と surroundings は別の世界のもの」という「認識・理解」は、この記者や「前衛家」だけではなく、今、大方の方がたの「常識」になっているのかもしれません。だから、事物・事象に対して、本来なら最も鋭敏な神経を持つべき(私はそのように考えています)「記者」という職業の方でさえ、surroundings の存在、その意味について「無神経」になってしまっているのではないでしょうか。

   もっとも、そういう記事を見かけたのが、この題材で書くことにしたきっかけではありますが・・・。

surroundings とは何か。
それについて、これまで、最も明解に日本語で語った のは道元である、と私は考えています。彼は、「近代」をはるかに超えていた、私はそう思います。
その言とは、何度も紹介している次の文言です。

   ・・・・
   うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
   鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
   しかあれども、
   うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
   ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・・
   鳥もし空をいづればたちまちに死す。
   魚もし水をいづればたちまちに死す。
   ・・・・
つまり、surroundings とは、うをにとっての水、鳥にとっての空にほかなりません。
「人」も同じです。
私たち「人」は、surroundings の内で生きているのです。
すなわち、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」 ということです。
   これまでの文章では、「空間」「居住空間」などと記してきました。

この「厳然たる事実」を、そこに浸っている、浸っているのが当たりまえである私たちは、それゆえに、気付かない、忘れてしまっている、のではないでしょうか。

慣れてしまうと感じなくなる、それは、怖ろしいことです。神経を逆なでする「建築物」や「街並み」「家並み」・・に日ごろ「囲まれ続けている」と、「逆なでされていること にさえも気付かなく」なります。
とりわけ、暮しも surroundings も都市化した場所で暮していると、それが当たりまえになります。
しかし、人であるかぎり、人びとの意識の内には、知らぬ間に「逆なでの結果」が鬱積するはずです。
その鬱積の塊りは、いったいどうなるのでしょう?

そして、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」という認識があったならば、一旦ことが起きたら取り返しのつかない surroundings となってしまうことを知りながら、「平和」利用で「安全だ」などと誤魔化して、原発をつくるようなこともしなかったはずです。できなかったはずです。

   註 もっとも、道元は、 surroundings について特に言いたかったわけではありません。
      道元は、より広く、「ものごとを表す文言を、字面どおりに理解してはならない」、
      さらに言えば、言葉・文言の「限界」を認識せよ、
      ということを言いたかったのだと思います(後掲記事参照)。
      たとえば、
      拍手とは、右の手と左の手を叩き合わせて音を出すこと、
      そのとき、音を発したのは右手か左手か、というがごとき発問はやめよう、
      と言えばよいかもしれません。
      近代的学問の「方法」には、こういう手合いが多いように思いませんか?

このことを理解するのは、「近代的知」を「摺り込まれてしまった」現代の私たちにとって容易なことでない、のはよく分ります。
しかし、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」というのは、紛れもない事実、真実なのです。
   
   何故この事実を認識できなくなってしまうのか、「 形の謂れ・補遺:form follows function 」 で書きました。


「認知症」という言葉があります。かつては「痴呆」と言っていました。
しかし「認知症」というのは日本語ではない。日本語になっていない。あえて言うならば「認知障碍」と言うべきだと思っています。
たしかに「痴呆」というのは人の心を逆なでします。「認知障」でもそうでしょう。「害」の字がいけないのです。
しかし、「障碍」ならば、人を傷つけないはずです。
   「碍」は「さまたげる」「さえぎる」「じゃまする」という意味。
   電線の「碍子」は、電気が電線から他に流れないようにするための部品。
   当用漢字に「碍」がない、そこで「害」の字が当てられてしまったのです。
   「知的障害」と「知的障碍」では、意味がまったく違います。
   現在も漢字を元通りに使っている台湾では、「残障者」が使われているそうです。

つまり、「認知障碍」とは、それまでの「普通の」「認知ができなくなった」状態。
   何が「普通」なのか、別の問題が生じますが・・・。

「認知障碍」の方たちは、よく「徘徊する」と言われます。
そのイメージは、行方も定かでなく滅茶苦茶にほっつき歩く、というように聞こえます。しかし、そんなことはない。

もう大分前のことですが(確か以前に書いたような気もしますが)、初冬の冷たい雨がそぼ降る夕暮れどき、60代のはじめとおぼしき女性が突然訪ねてきました。当然雨に濡れています。
昔なじみを探している、どこだか分らなくなった、知らないか、というのです。その人に会うために、かつて歩いた(とおぼしき)道を、数キロも歩いてきたのです。
当然、私たちには分りません。電気ストーブを出して暖まってもらいながら、派出所に援けを求めました。
彼女は素足でした。靴下を履いていたのですが、靴下が濡れてしまうのを避けるためか、脱いで、かばんにしまってありました。昔気質なのです。足が凍えても、靴下が大事。衣料品が貴重品だった時代を過ごした方だと思います。
無事に住所を探してもらい、パトカーでおくり届けていただきました。

彼女は、いたずらに、いいかげんに歩いていたのではありません。ほっつき歩いていたのではないのです。
何がきっかけかは分りませんが、「ある情景」を思い出し、その昔通いなれた友だちの家を訪れることを思い立ったのです。
そのきっかけは、もしかしたら、初冬の夕暮れ時のある光景だったのかもしれません。
思いたったら、矢も盾もたまらず訪ねたくなったのではないでしょうか。心は完全に友だちとの世界に居るのです。冷たい雨に濡れながら、必死に歩いてきました。しかし、風景は変っている・・・。そして、たまたま明りの点いている当方を訪ねたのです。誰もそれを徘徊などといって批判することなどできません。

おそらく彼女の脳裏には、つまり目の前には、ある surroundings が見えていたのです。
それは、私たちが夢の中で見る情景・場景・状景・光景と同じです。
私たちの見る夢は、かならず surroundings をともなっているはずです。そしてそれは、「人もし surroundings をいづればたちまちに死す」ということが「事実」であることの紛れもない証でもあるのです。
そうなのです。彼女は、そのとき、「夢」の中にいたに違いありません。私たちの夢だって、変幻自在ではありませんか。あのとき、彼女の世界も変幻自在だったのです、きっと。
私たちがくたびれたとき、私たちの「本性」が表れます。認知障碍の方がたの「徘徊」が、それを顕にしてくれています。
私たちは、人は、生まれたときからずっと、surroundings の「中」にいます。このように、常に surroundings に囲まれているのです。出ることはできないのです。

私たちは、この「事実」を、そしてこの「事実」を認めたがらない、という事実をも、認めるべきではないでしょうか。


冒頭の図は、アルバー・アアルトのカレー邸のスケッチです。
彼が surroundings を設計していることが、このスケッチから分ります。これは、スケッチの一部です。もっと広い範囲の surroundings のスケッチもあります。
そして、このスケッチが図になったのが下の平面図です。



   出典
    THE LINE――ORIGINAL DRAWINGS from THE ALVAR AALTO ARCHIVE
                  MUSEUM of FINISH ARCHITECTURE 1993年 刊

現代建築の旗手とされるコルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエたちも、その初めのころの設計事例は、皆、 surroundings を設計しています。しかも、実に見事に・・・。
それが、いつごろから、どうして、中期・晩期の設計事例のようになったのか、その謂れについては詳しくは知りません。
しかしアアルトは、私の知る限り、 終生、surroundings の設計に徹しています。日本でも前川國男氏、村野藤吾氏、吉村順三氏などはそうではないか、と思います。

そして、これは大変重要なことだと私は思うのですが、
日本の近世までの建物づくりは、すべからく、階級を問わず、この日本という土地柄のなかで、 surroundings を整えることに徹してきた、と見ることができる、という事実です。
私は、それを、建物づくりとはモノをつくることではない、という意味で「心象風景をつくる」という言い方をしてきました。
それをものの見事に実現した、その数々の事例が私たちのまわりには、幸いなことに、まだたくさん在ります。
別の言い方をすれば、それらの事例に、この日本という風土・場所に暮す人たちの「暮しかた」、すなわち surroundings についての「見かた、考えかた」つまり「思想」が示されているはずなのです。
なぜ、それらに、それらに潜む surroundings についての「見かた、考えかた」つまり「思想」に、目を遣ることをしなくなったのでしょうか。
それらを、鑑賞の対象、モノとしてしか見ないなどというのは、私には、大変もったいない、と思えるのです。

これまでも、この点について、いろいろと書いてきましたが、あらためて視点を変えて、具体的に書いてみたいと思っています。
なぜなら、残念ながら、最近の多くの建築は、かつての人びとが、この風土の中で培ってきた「 surroundings についての思想」を忘れた設計になっているのではないか、私は、そのように、特に最近あらためて、痛切に、思っているからです。    

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