九州の地震に思う-2・・・・前震・本震?

2016-04-26 13:39:08 | 近時雑感

柿の若葉が鮮やかです。例年より早いような気がします。

今回の九州の地震では、今までにない頻度で地震が起きているようです(先ほどのニュースでは、今日午前の段階で900回を超えたそうです。
つまり、平均して一日当たり約100回近いということ)。
そのうち、震度7は二回あったとのこと。一回目が、今回の最初の地震。その後は、それ以下の震度がいわゆる「余震」として続き終息に向うのがこれまでの大地震の形。ところが、今回はその数日後、震度7が発生した(最初の震度7の地震よりも大きかったようです)。
その際、私が「?」と思う「解説」が発表されたのです。すなわち、
「最初の震度7の地震は『前震』であり、今回の震度7の地震が(今回の地震:「平成28年熊本地震」)の『本震』である。・・・」
この発表にと思ったのは、私だけでしょうか。

」と「」とに分けるのに、何の意味があるのか?そう私は訝ったのです。
多分、専門家のなかに、大きな地震では、その予兆として小さな地震があり、大きな地震の後には、いわば揺れ残しのような地震:「震」が続くものだ、という「定説」が在るのだと思われます。ほぼ同じ強さの地震が、続けざまに起きる、などというのは、「定説」の「想定外」ということ。
最近になり公表された、同規模の大きな地震が数日の間に発生する、というのは、かつてないこと、稀有なことである、との「説明」が、そのことを証明しています。

私はそのとき、こういう「定説」は、実際に起きている「事象・現象の観察」の妨げになるかもしれない、と思いました。つまり、先入観・予断が、事態を見誤る・・・

もしかすると、私たちの日ごろの行動のなかにも、こういう「思い込み」による判断が多々あるかもしれません。気をつけよう、とあらためて思った次第です。

  

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-31

2016-04-25 09:48:06 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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Wealden construction
Development of the Wealden
   註 Wealdenweald 地方 :ケントの南部域:の意と解します。森林地帯のようです。本シリーズ-3を参照ください。

14世紀には、後の Wealden 形式の発明を導くことになる数多くの技法的進展が見られる。
その第一は、それまでの aisled construction の束縛から逃れ、(を承けるの載る)hall の壁を高くする試みが始まった。この実例は、hall 部分だけが遺っている14世紀後期の事例に多く見ることができる。
たとえば、1401年建設の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE や、SITTINGBOURNE 近くの NEWINGTONCHURCH FARMHOUSE などでは、quasi-aisled construction がまだ用いられているが( fig72 下に再掲参照)、他の事例では、1364年建設の SUTTON VALENCEHENIKERS (下図 fig80a )や、ALDIGTONPARSONAGE FARMHOUSE のように、aisle :側廊・下屋が全く存在しない。


第二の進展は、二階建ての居室部の必要性が増えたことである。hall の低い端部や天井の低い倉庫上の居室に代って、hall端部は特別の役割を担うようになり、それは、その部分を総二階建に変える契機となるのである。
この願望を実現する一つの方策が、主屋に直交する棟:cross wing を建てることであり、その一例の1380年建設の TEYNHAMLOWER NEWLANDS (下図 fig52 )に、その様態を正確に見ることができる。

このような進展は、ケント地域だけでなく全地域に影響を与えている。ただ、これには第三の、ケント的な方策を考える必要がある。このケント的な方策の存在こそ、The Wealden 形式の進化にとって決定的であった。
それは、建物を寄棟の一つ屋根の下に納めるケント地方特有の技法である。しかしこれは決して新しい発明ではない。最古の事例は1300年頃から見られ、最も有名なのが1309年建設のNURSTEAD COURT である。
   註 NURSTEAD COURTについては、はこの紹介シリーズの第14回に説明があります。また、図、写真を下に縮小して再掲します。

     
        
     

これらの事例は、13世紀後期~14世紀初頭にかけて、COPTON MANORMERSHAM MANOR のように石造家屋に多く在り、おそらく木造家屋でも至る所で見られた思われる。
またこれらは、AYLESHAMRATLING COURTSITTINGBOURNECHILTON MANOR のような大家屋の端部の階上のない部分に多く見られるが、おそらく、PETHAMDORMER COTTAGE のような小さな家屋でも在ったのだろうが、遺っている事例は少ない。寄棟屋根hipped roof を用いたいという人びとの希望は、ケント地域西端部以外では極めて強く、建物・棟が交叉するような場合( cross wing )にも使われている。その事例が TEYNHAMLOWER NEWLANDS や の PETHAMOLD HALLfig51 下に再掲)である。ただ、それらを THAMES (テームズ川)北部域に見られる cross wing :切妻屋根が多い:と同一と見なしてはならない。

先の2事例では、hall の壁が低いゆえに、直ぐに分る。しかし aisle をなくし、hall の壁が高くなると、hall の明り取りの窓も高くすることができ、また、寄棟の屋根の下に一体になった hall wing :付属棟は、見分けがつかなくなる。
これらの事例を見れば、建屋全体を一つ屋根の下にまとめる策が何故生まれた理由がはっきりと見えてくる。
すなわち、それぞれの建屋に寄棟の屋根を架けるよりも、全体を一つ屋根の下に収める方が、工事が容易で工費も低廉だからなのである。る。
これらの事例の示すところが正しいとするならば、Wealden 形式のつくりは独自に発展した、と考えてもよさそうである。この仮説は、fig65 (下に再掲)の示すように、14世紀後期において、ケント地域では Wealden 形式のつくりが、群を抜いて多いことで分る。また、木造家屋では以前から一つ屋根に収めるという傾向が在ったことは、初期の事例に見られる断片的な痕跡の示すところでもある。

実際、hall から wing :付属棟への接続部や、hall から Wealden への接続部の架構、あるいは階上の jetty :跳ね出し部の架構には、ほとんど同じ技法が用いられている。更に、次章(第8章)で触れるが、Wealden形式のつくりの階上の居室の間取りは、ほとんど(主屋+付属棟形式の) wing :付属棟の間取りと同様がである。このような、ある形式から別の形式への変遷は左程驚くべきことではない。この変遷は、基本的に、架構上の問題を解決することに発しているのであり、その第一の課題は、を、独立の柱だけで(下屋:側廊の柱なしで) 如何にして承けるか、という点にあった。
   註 下屋:側廊があれば、梁を承ける上屋:身廊柱は、下屋:側廊の柱で支えられている。
Wealden 形式のつくりが、何時、何処で始まったのかについては、議論の余地がある。Wealden 形式のつくりは、ほぼ完成した形で現れたが、ただ、1370年頃より前には存在しないようだ。
最古の遺構は、1379~80年建設の のCHART SUTTONCHART HALL FARMHOUSE である。下の fig66fig79 が、その全景と断面図。


この建物は、fig 68a(下に再掲) および fig 80a(前掲) の SUTTON VALENCEHENIKERSfig68c(下に再掲) 、fig72b(前掲) の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE から僅か数マイルのところにあり、そこでは、同じ時期にaisle :下屋・側廊 なしで hall の梁間を拡げる異なる方策が採られている。

おそらく、 Wealden 形式 は、ケント地域のこの辺りで創案されたものと思われる。しかし、14世紀後期から15世紀初めの10年頃の建設と見なされる事例は、この地域全体から東部 SUSSEX まで、広く分布していることにも留意しなければならない。

                                                      この節 了
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筆者の読後の感想   14.50追記
   ずっと気になっているのが、屋根。「軒の出」がない、あっても短いこと。
   気候が関係しているのはもちろんですが、
   軒を出す習慣がない、少ない、ということが、「跳ね出し(持ち出し)の技法」にも影響しているのではなかろうか、と思うのです。
   jetty と呼ばれる部分、ほとんど「 brace :方杖」が設けられています。
   それは、材料の故なのでしょうか? それとも石造がモデルだからなのでしょうか? 
 

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九州の地震に思う-1・・・・「科学的根拠」?

2016-04-21 15:39:18 | 近時雑感

ブルーベリーの花が咲いてます。例年より少し早い。

相変らず一時間に数回、かなりの揺れが続いているようです。気が休まらないと思います。
TVで報じられる様子を見ていて、いろいろ思うことがあります。そのいくつかを書いてみようと思います。

いろいろな専門家が、いろいろと話されています。その中には、私には「?」と思わざるを得ない話が多々ありました。
その一つは「科学的根拠が、あるかないか」というある「専門家」の「発言」です。
それは、今回の地震の震源に近い「川内(せんだい)原発」の稼働を停止を求める各界からの「見解」に対し、「『科学的根拠のない』稼働停止の要請」には、全く応じられない」という原子力規制委員会、委員長の発言です。
この「発言」に違和感を抱いたのは、私だけでしょうか。
新聞等の解説によると、今回「川内原発」が受けた地震の揺れは、「川内原発」の「設計基準」としている地震の揺れの大きさの数分の一に過ぎないから問題はない、ということのようです。つまり、「想定内であったから、支障は生じていないはずだ」ということなのでしょう。
そこに、「稼働停止を求める見解」との決定的な相違点があるのです。

稼働停止を求める見解は、「想定外の事態」が起きることを危惧しているのに対し、
委員長は、現在の「科学・技術」に想定外はない、現在の「科学・技術」においては、森羅万象全て想定範囲内である、と言っているに等しいからです。
言わば、現代の科学・技術に不可能はないということに等しい。
ゆえに、彼らは、「絶対に安全」を「技術」が保証できる」という、とんでもない《信念》を持ってしまっているのです。
いったい、そのような《信念》を抱ける、森羅万象全てが想定内であると言い切れる、その「科学的根拠」は何なのでしょうか
私には、これは、近・現代の「理工系」の「専門家」にありがちな奢りにしか見えません。

先に紹介した「復刻・筑波通信-3」の中で、私は、「絶対的安全を技術は保証できない」と書いています。おそらく、その当時の(理工系の)「風潮」を危ぶんでいたからなのでしょう。
あれから40年近く過ぎます。「理工系」の方がたの「発想」は、今も変らないのです。むしろ更に凝固し、硬化著しい、そのように私には思えます。
私は、この世は、人智の及ばない事象に満ち溢れている、今でもそう思っています。それが「森羅万象」の実相ではないでしょうか。

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被災お見舞い申し上げます

2016-04-16 09:48:59 | 近時雑感
熊本をはじめ、今回の地震被災地の皆様へお見舞い申し上げます。

まだ余震が続いているようです。

震源が、熊本から阿蘇を越えて大分へと移っているとのこと。
日本地図を開いてみたところ、その延長線上には、四国の構造線があることに気付きました。まさか・・・。

かつて設計に係った大津町の「護川(もりかわ)小学校」の様子が気になっています。震度6だったようです。
おそらく現地は慌ただしい事でしょう、問合せするのを躊躇っています。
被害のない(少ない)ことを祈るのみです。

今しがたも、依然として強い地震が頻発していることをTVが伝えていました。心配は尽きません。


   註 護川小学校については、2006年11月15日の「RCの意味を考える-1」以下のシリーズで触れています。
     続きはバックナンバーで検索願います。
コメント (2)
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復刻・「筑波通信」 -3 : 『逃・避』考・・・・・《絶対に安全》を、「技術」は保証できるのか?

2016-04-13 10:00:00 | 復刻・筑波通信


筑波通信-3  「逃・避」考・・・・《絶対に安全》を、「技術」は保証できるのか?    1981年6月1日 刊 の復刻

昨年(1980年)、折あって、中国の河西回廊いわゆるシルクロードを訪れることができた。それは非常に貴重な体験であった。これには二つの意味がある。
その一つは、そこで、「人びとの住む(暮す)すがた」を見ることができたこと。
もう一つは、たまたま同行の方がたが建築関係の方ではなくその「関心」が私とは違うところにある研究者であったため、学問とは何か、今学問や研究というものが、一般に、どうなってしまっているのか、それがものの見事に見えてきたからだ。
彼らは、研究者として、「人びとからの金」で暮しているのにも係わらず、「人間として」の視点を欠いて、ものを見ている、それでは、その学問は「人間の(ための)学問」でなく、「学問・研究のための学問」になってしまうではないか、そう思えたのである。

さて、シャンハイからセイアン(古の長安)を経てトンコウまで、およそ3000km)、これほど目に見えて姿が変ってゆく「大地」、あるいは「自然」「風土」は、日本のそれに慣れた目には、まったく想像を絶するものであった。 
そして、その大地の変容にともなって、その「大地」への人の対処のしかたも、ものの見事に変ってゆく。
   註 ここで書いている「変容」は、鉄道、バスでの移動中、車窓から見た「景色」に拠っている。

一般に、中国の建物というと、大概、瓦屋根のそっくり返った《いわゆる中国風》の建物を思い浮かべるだろう。
しかし、あの姿は中国の建物のなかの全く極く一部のものに過ぎず、中國だからといって直ぐその姿を思い浮かべるのは、西欧の建物を全て石造りだと思い込んでしまうのと同様に誤りである。単なる「事実の見誤り」ならともかく、そういう《事実》を基に、西欧の思想は《石の思想》で、日本は《木の思想》などと言われてしまうと、全く困ってしまう。

今回は、この屋根の話から始めようと思う。
列車が、シルクロードを東から西へと進むにつれ、初めかなりの勾配(6寸勾配以上はある)の瓦屋根が、だんだんと緩くなり、次いで、瓦がなくなって土泥だけの勾配屋根になり、遂にはほとんど水平に近い土泥だけの屋根になってくる。いずれの場合も、屋根の骨組みは木造の梁・垂木の上に葦の類を敷き並べ、その上に土をこねた泥を塗り付けるのが基本となる。土は、建物を建てる屋敷まわりを掘ったもの。瓦は、塗り付けた土泥の上に敷き並べることになる(日本のいわゆる土居葺きである)。
当り前と言ってしまえばそれまでだが、この屋根形状の変容のしかたは、実に見事にその地の雨の降り方次第のようだ。
日本でも、地域・地方によってそれぞれ独特な形の屋根が見られるが、ただ見た限りでは、これほど単純に「雨次第」などと言い切れるようには見えてこない。
中國の車窓の風景の中に、日本ではそれこそ絶対にお目にかかれない瓦屋根に出会った。
日本では、現在は、いわゆる引掛け桟瓦葺きが普通だが、かつては平瓦を敷き並べその継ぎ目に丸瓦を被せる本瓦葺きが普通であった。現在でも寺院の屋根が大方本瓦葺きである。
中國で見たのは、本瓦葺きの丸瓦を取り去った葺き方。つまり、平瓦が並んでいて、継ぎ目に被せる丸瓦がない、つまり、隙間が空いている。雨が降れば、そこから確実に水が入ること請け合い。多分、そのやりかたを採る地域では、隙間からの水漏れは問題にならない程度の雨しか降らない、ということなのだろう。葺いている現場を間近で見ると、接触面を砥石で研いで摺り合わせてはいたが・・・、絶対に日本ではあり得まい。
しかし、日本の場合、丸瓦を被せることで、完全に雨は侵入を防げているのだろうか。そうではあるまい。そんな他愛ない降り方ではない。中国の乾燥地帯に比べると、その百倍以上の雨が降るのが日本である。いかに雨が少ないからと言って、中國でも、雨は隙間から入っているはずである。いずれにしろ、雨は瓦の下まで入り込んでいるはずなのだ。瓦だけで、雨は防げていないはずだ。
それでいて、なぜ、「問題ない」としているのだろうか。
雨は確かに瓦の下へ侵入している。ただ、濡れては困るところに顔を出さずに、その前にどこかに消えてしまっているのだ。雨水は、なくなったのではなく、室内と関係のないところで処理されている、ということ。だから「問題ない」と思うのである。

昔から日本の建物は、四周に軒の出をもつ勾配屋根であった。私が建築を学びだした当時、一般に、何となくそういう見慣れた屋根の形が古くさく感じられたものだった。平らな屋根の方が、新鮮で《現代的な》形であるように思えてしまい、平らでないとすれば、せいぜい片流れの屋根が《好まれた》のである。おまけに、軒の出も(特に片流れでは)嫌われた。ところが今は、卒業生に聞いた話では、逆に平らな屋根に見飽きてしまい、勾配屋根の方が好まれるのだという・・・。
その当時のことを振り返ってみると、屋根の形が、単に「建物の形」としてしか見えず、「屋根の形」としては見えて(捉えて)いなかったのではないか、と思う
これは、妙な言いかたに聞こえるかもしれないが、要は、「建物という『立体』の形」が、それだけが考えられていた、ということである。屋根は、ただその「立体」の一部としてのみ考えられ、立体の形に対する《美的感覚》だけが、その形状の決定権を持っていたのだと思う。《美的感覚》をくすぐるには目新しいものの方が手っ取り早く、それゆえ、見慣れた形が見捨てられ、ただやみくもに《新しい》形が追い求められた、ということだ。おそらく「新しい」ということの(本当の)意味さえ分らなかったのだ
そして、このような風潮をたしなめるでもなく、むしろすすんで保証していたのが、当時の(そして今も変りはないが)一般的な建築に対する考えかたであり、その最も大きい影響源であると言ってよい大学をはじめとする「専門教育」であった、と私は思う。屋根で言えば、屋根は雨水を防ぐもの⇒その要件を充たせばいかなる形状でもいい、極端に言えば、そのように「教えられた」のである。

しかし、建物に降る雨は、どこでも同じわけではない。此処と彼処では、同じ雨でも違うのだ、と先ず初めに思わなければならない。
場所・場所なりの雨が降る。雨に限らず、場所・場所なりに、その場所特有の「自然」「環境」がある。そういう「場所」で「どのように生きるか(暮すか)」:どのように対処すれば生きてゆけるか、それこそがその「場所」に「住んだ人たち」が考えたことなのだ。机上でこねくり回したようなそれではない。そうであるからこそ、それぞれの地方に、その地方独特の「同じようなつくりの建物」ができあがったのだ、と考えなければならない。その地で「どう生きるか、暮すか」人びとが考えた結果が、そういう「形」に結実したのである。そうでなくて、どうして、ああも同じようにならなければならない理由があろう。
ただしそれは、あくまでも「同じような」建物なのであって、どれ一つとして「同じ」建物のないことに留意する必要がある。

この点こそ、現代の建売住宅や「公共住宅」の「同じ」形とは、「同じ」の意味の違う点なのだ
端的に言えば、往古の住居の群れは、その「『考えかた』が同じ」なのであり、現代のそれは「『形』が同じ」なのである。
言いかたを変えれば、往古のそれは、「その場所での生活・暮し」が根にあるのに対し、現代は、その場所とは関係なく机上でひねり出された抽象的・観念的「生活像?」がその根にある、と言えばよいだろう。

そしてこの「現代的思考法」は、先に触れた「雨水が防げればどんな形の屋根でもいい、つくれる」という考えかたに連なっている。
私は、前回、「現代的思考法:ものごとへの対し方」は、「それはそれ、昔は昔、今は今」と考えるやりかたなのだ、と書いた。そして、そういうやりかたをとる「最も現代的・先進的な人たち」は、「現実」すなわち「本当のこと」に根ざさずに、すなわち「現実」・「本当のこと」が「見えていない」「見ない」「見ようとしない」のであって、まさに「観念的に」それを是としているに過ぎない。仮に見えていたとしても、そんなことに係わるのは面倒くさいから、そういう局面に直面することを逃げて済ますのである。それがつまるところ、「それはそれ、昔は昔、今は今」という形に、現象として、結果する。そうなると、ますます見えなくなり見ようともしなくなるのである。

ところで、今私たちが、極く当たり前に目にしている「平らな屋根」が、日本で流行りだしたのは極く極く近々の話である。もちろん、それは元をただせば「洋風」に行き着くかもしれないが、「洋風」自体が元から平らな屋根であったわけではなく、そこでも同様に極く近々、「近代」以降に起きた話なのだ。西欧でも、藁葺き、茅葺きはあり、木造も珍しくはない。屋根の形も全く「雨次第」だったのである。
「近代」が「平らな屋根」を「望み」、「それを是とした」ということは、まことによく「近代」を象徴している、と私には思えてならない。
では、この平らな屋根では、雨はどうなるのか。簡単に言えば、平らな屋根というのは、建物の上に「盆」が載っているのだ、と思えばよいだろう。
その「盆」に溜まった水を、「所定の場所」から排水する。これが平らな屋根の「原理」である。
万一「所定の場所」以外から水が流れ出すようなことがあれば、水は当然想定外のところ:濡れては困るところへも顔を出す、つまり「雨漏り」と言われることになる。しかし、「所定の場所」を所定たらしめることはなかなか難しく、万一どころか、もっと頻繁に、設計者は、所定以外からの雨漏りに悩まされているはずだ。
このような雨水処理のことを一般に「防水」の語で括っているが、平らな屋根の場合、コンクリートなどで形づくられた「盆」の上に設けられるアスファルトや合成樹脂の「層」や「膜」:「防水層」・「防水膜」:がその役を担う。
これらは、それが水を通さないということが前提だから、もしもそれが水を通したら、雨水は必ず屋内へ顔を出す。それゆえ、平らな屋根の多用・増加とともに、「防水層」・「防水膜」の技術は、それなりに格段の進歩があったのは確かである。
しかし、言うのは簡単だが、ことはそんなに簡単ではない。「絶対に」水を通さない、ということは至難の業なのである。
私自身の経験から言うのだが、水が漏るのは、必ずこの「絶対に」水が通ってはならないとして処理した箇所からなのだ。つまり、「絶対に」水が入らないはずのところ(正確に言えば、そのように「思い込んでいたところ」)が、雨漏り事故の最たる発生個所になっている、というのは疑いない事実なのだ。

ならば、平らな屋根を成り立たせる前提の、「絶対に水を通さぬ技術」の「絶対に」とは、いったいどういうことなのか。
実は、この、「絶対」をどう考えるか、という点こそが、平らな屋根に象徴的に示される「現代的考えかた」と、瓦屋根に表れる「古来の(伝統的な)考えかた」の、絶対的・本質的相違点に他ならない。すなわち、一般に「伝統(的)技術」と称せられる、長い年月にわたる人びとの体験を踏まえて培われてきた技術と、最新科学に拠って裏付けられたとする「現代(的)技術」との、根本的にして本質的な違いが、まさに象徴的に表れている、と考えることができる。



「伝統(的)技術」も「現代(的)技術」も、いずれも、屋内に雨水が漏れないこと、を考えている。しかし、それを実現するにあたり、この二つの技術は、全く異なる方策・考えかたを採っているのである。
「伝統(的)技術」においては、雨を防ぐために、雨水を拒否する、といういわば短絡的な手段は採られていない。むしろその技術を考え出した人びとは、雨水を「絶対に」拒否する・止めるということは、それこそ絶対にあり得ない、不可能である、ということを知っていたのではないかと思う。
それは、単に、彼らの技術のレベルにおいてあり得なかったという意味ではなく、雨水を絶対に拒否する・止めるということは存在し得ない、という意味においてである。しかし、雨が漏ってはならないということは、彼らにとって重要な課題である。
彼らは、彼らが雨漏りを防ぎたいと思うのは、屋内で雨に濡れるのが困るからだ、と認識していた。それゆえ、彼らは、彼らにとって濡れては困るところに雨水が「絶対に」顔を出さなければよい、としたのである。どのような対策を講じたか。
雨水が屋根材・防水材を通して入ってきても止むを得ない。ただし、それをそのまま屋内に落下させずに、無難な所へ「逃がして」しまえばよい、としたのである。これなら、「絶対に」可能である。方策が存在し得る
なぜなら、「水は高きから低きへ流れる」「土に浸み込んだ水はいずれは蒸発してなくなる」という「原理・真理」をわきまえてさえいればよいからだ。
このことに気付いたのは、だいぶ前の話である。
書名は忘れたが、旧い茶室の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に開けられた天窓の断面詳細図が載っていた。
具体的には覚えていないが、とにかくその見事な雨水の「逃げっぷり」「逃がしっぷり」に感嘆したことを覚えている。
確か、三段か四段構えで、内側に入り込んでくる雨水を、最終的には、外へ「逃がして(流して)」しまう工夫が施されていたと思う。そこには、雨水を「止める」という発想が微塵もない。あるのは、ただ、「流れよう」とする水を(自由に)「流す」(流し去らせる)ことだけであり、もちろん、「溜める」などということは全く視野にない。そこにあるのは、言ってみれば、「水の本性に対するゆるぎない『信頼』」とでも言い得ようか。
今私は日本を例にして見てきたのであるが、乏しい資料ではあるが、それで見る限り、西欧にあっても、「伝統(的)技術」において為されてきたことは、原理的には何らの差も見出せない。つまり、変らない。そう思えた。

一方、「現代(的)技術」の雨を防ぐ考えかた・やりかたは、既に触れたように、雨水を「絶対に」拒否する、あるいは断つ、止める、という発想が先に来る。元で止めれば、屋内に入ってくるわけがない、という点では何ら意義を差し挟めないくらい「合理的」な考えだ。そして、その「合理的」指向で(いわばドンキホーテ的に)突っ走ったのである。そのこと自体は論理的には全くその通りだから、文句は極めてつけにくい。しかし、論理的な整合性と、それが可能であるか、存在し得るか、ということは全然別である。防水の例で言えば、確かに「元で止めれば、屋内には入らない。しかし、これが成り立ち得るためには、「『絶対に』元で止めることができた」場合に限られる。一滴でも水が入ったならば、この論理は合理的に消滅する
直ちに分ることだが、このような「絶対に」は、それこそ絶対にあり得ない。努力目標としての「絶対指向」はあり得ても「絶対」はあり得ないのである。だから、通常言われる「絶対に」は、「確率的に絶対に近い」ということに過ぎないのだ。
つまり、「現代(的)技術」の追っている「絶対に」と、「伝統(的)技術」の追ってきたそれとは、全く(根本的に)意味が異なるのだ。
「伝統(的)技術」においては、目指すものが何であるか十分に知った上で、それが絶対的に可能な局面において、それを解決しようとする。雨水の侵入を「絶対に止める」ことは絶対にできないという「事実」を見ぬき、その局面に立ち入ることを避けている。言いかたをかえれば、その局面から「逃げている」。
これに対し、「現代(的)技術」は、聞こえよく言えば、この「不可能な局面」に《果敢にも》挑戦する。しかしそれは、つまるところは、「《絶対的絶対》指向」「《確率的に近絶対》指向」でしかあり得ない
この「伝統(的)技術」の、不可能な局面にに立ち入らず、そういう局面から逃げる・逃避する、そして可能な局面で勝負するやりかたは、その一見消極的なイメージとは逆に、極めて思慮深く、かつ積極的なやりかた・考えかたなのではないか、と私は思う。
しかし今、現代的科学技術への無節操・無思慮な信奉は、この不可能な局面での《挑戦》:「現代的技術」のやりかた・考えかた:を正当な方策、正攻法と考えてしまう。それはまさにドン・キホーテ的行動以外の何ものでもない。私にはそう見える。
しかし、私は現代の「雨を絶対に拒否する」ことを目指す技術開発を全面的に否定しているのではない。また、単なる懐古趣味、文化財保護論で言っているのでもない。
そうではなく、そういう技術開発が存在してもよいが、如何にしようが、その目標の「絶対に」は、あくまでも「努力目標」に過ぎないのであり、そこで生まれる技術が、そういう「性格」であることを忘れ、その技術に拠っていれば、《絶対に雨は漏らない》と思い込みがちになるのは危ないことだ、と言いたいのだ。
第一、雨を防ごうという同一の目標に対して、「雨を止めればよい」と考えるのと、「(生活・暮しが)雨に濡れなければよい」と考えるのでは、どちらが当初の目的の理解として妥当と言えるだろうか。
暫し考えてみるならば、軍配は明らかに「(生活・暮しが)雨に濡れなければよい」と考える側に挙げざるを得ない、と私は思う。
なぜなら、そもそも「雨を防ごう」と人びとが考えたのは、人びとが、雨の日にも雨に濡れないで生活を営める場所を確保したいがためであったはずだからである。「技術」の根に、先ず第一に「生活」があった、ということである。これ以上の「正攻法」が何処にあろうか。



現代的技術の方法の「絶対指向」も、それが雨水に対する方策ならば、まだ救いがある。「絶対」が絶対でなく雨漏りがあったところで、それは確かに困ったことではあるが、漏れたのはあくまでも「ただの水」に過ぎない。しかしそれが、原子炉の放射能漏れ、放射性物質のそれであったらどうか。
残念ながら、この場合の漏れに対しては「伝統的」方策は通用しない。放射能の特性に従いそれを「逃がしてしまう」というわけにはゆかないからである。水に濡れるのは嫌なことではあるが、ただそれだけでは無害である。しかし放射能はそうはゆかない。あるのは唯一「止める」「拒否する」ことだけである。ただその方策は、先に水を例にして書いたように、「絶対指向」はあり得ても、「絶対」はあり得ない。「ある確率で《絶対に近く》防ぐこと」はできても、「絶対に防ぐこと」はできないということだ。
これは、技術がそこまで到達していないからできない、ということではない。「絶対」ということ自体が、それこそ絶対に存在し得ないという意味だ。漏れることは必ずある、生じる。

そこで登場するのが「許容量」という《概念》である。漏れは〇〇程度までなら問題ない、という《考えかた》である。
これは一見正当・妥当なことのように見えはするが、「絶対に近い《絶対》」を、「絶対」であるかのように装うために、いわば「巧妙に仕掛けられた」《概念》なのである。絶対を標榜しながら、早々にその局面から「逃げ出している」「逃げようとしている」に等しい。
第一、「許容量」そのものさえ、一たびそれを決めてしまってから後は、あたかもそれが「絶対」であるかのように扱い、その数値を「目指す絶対」と思い込んで追及するわけだが、その許容数値自体、相対的にして任意の数値ではなかったか。
つまり、「許容量」概念を持ち出すということは、「放射能の漏れは、絶対に防ぐことはできない」と言う事実・真実を示す証左以外の何ものでもないのである。然るに、「原子力発電所は絶対に安全だ」と説かれるのは、いったいどういうことだ。
最近(1980年ごろを指している)「原発を東京に!」という本のあることを知って、私は非常に《嬉しかった》。「絶対に安全」なのだから、需要の最も多い東京に原発を置くことぐらい合理的な話はない!
どうしても原発が必要である、というならば、「原発は、決して、絶対に安全、ではない」という当たり前の認識から出発すべきなのだ。それを、論理操作を巧みに行うことであたかも絶対に安全である、と「思わせる」のが「現代の科学」であり「技術」であるというのであるならば、それはそれこそ「絶対に」「伝統的技術」に比べ、あるいは比べるに値しないほど、質が悪いと言わざるを得まい
「伝統的技術」を培った人びとは、雨に濡れないことを欲しはしたが、それが、「雨を止める」ことで求められる、などという短絡的発想はしなかった。
彼らは「雨に濡れない」とはどういうことか、彼らの生活にとってどういうことか、「知っていた」「分っていた」のである。彼らは、自らの生活に、真っ向から立ち向い、「逃げなかった」。

                                                                了


  あとがき
  原文の標題の副題は「原子力発電所は『絶対に』安全なのか?」でしたが、このように改めました。
  また、原文の冗長な部分も改めています。ただし、論旨は全く不変です。
  



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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-30

2016-04-07 10:57:21 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   Jettied construction
   Jettied construction とは、下図(fig49 再掲)の a b c d e のように、上階を突き出す迫り出す)つくりで、次項の Wealden construction もその一つと言えるようです。
   註 jetty は突き出す、という意味の語のようです。日本語の「迫り出す」「跳ね出す」という意と解しました。
   

14世紀後期に進化を見せた新しい家屋形式は、ほとんどが jetty:突き出し:形式を採る。二階建ての建屋の階上部分を一~三方向を、宙に飛び出させる方法である。その理由について、 jetty:突き出し:形式の歴史とケントで用いられるようになった契機と時期について調べる必要があろう。
最近までは、英国の jetty:突き出し:工法が14世紀以前に発生したとの確証は得られていなかった。しかし、文献記録や遺構から明らかになった最新の諸証拠は、 jetty:突き出し:工法が既に13世紀に知られていたことを示している。
この技法が大陸から伝わったことも確かなようであるが、その時期については、地域によって異なり確かなことは分らない。ただ、この技法は、農村部に伝わる以前に、先ず町場で用いられたようである。ロンドンでは、1244年頃には既に見られ、その頃は、(突き出しが)通行人に目障りだ、と言われていたようだ。13世紀の遺構の中の jetty:突き出し:形式の実例が SUFFOLKBURY ST EDMUNDS で発見された。農村部の建物では、OXFORDSHIRETHE VALE OF WHITE HOUSE , WEST HAGBOURNEYORK FARM jetty:突き出し:形式が年輪時代測定で1285年建設と判定された。その他の OXFORDSHIRE の事例も14世紀前期の建設と見なされている。ESSEX では、WIMBISHTIPTOFTSと、MAGDALENWYNTER'S ARMOURIEcross wing :主屋に直交する増補棟:が13世紀後期~14世紀前期の間の建設と比定されている。

ケントでは、このような早い時期の事例は今のところ明らかではない。先に第4章(“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-12参照)で触れたように、13世紀後期~14世紀前期の木造家屋で、居室部分が当初のままの形状を遺す事例は少ししかない。当時の家屋が、端部に居室のための部分を用意していたのか、それともcross wing :主屋に直交する増補棟を有していたのかも詳らかでないし、また、それらが二階建であったのかどうか、 jetty:突き出し:形式を採っていたのかさえも詳しく知り得ない場合が多い。
明らかに jetty:突き出し:形式の痕跡を遺している最古の事例は、IGHTHAM MOTE の東~西の棟で、1330年建設の石造・木造併用の建物だろう(下図 fig22参照:左端部が jetty になっている)。

jetty形式は、1322年建設の EAST FARLEIGHGALLANTS MANOR の石造・木造併用の建屋、14世紀中ごろの建設のSMARDEN HAMDEN の木造建屋でも用いられていた可能性が高い。しかし、ケント農村部で、かなりのjetty形式の事例が、14世紀の後期:1375~1400年頃に見られ、その頃までには、この形式のつくりは、完成の域に達していた、と考えてよいだろう。
最も早い事例は、cross wing :主屋に直交する増補棟Wealden constructionの双方にほとんど同時に出現している。 CHART SUTTONOLD MOAT FARMHOUSE の1377年建設と記録されている cross wing と1379~80年建築の Wealden constructionCHART HALL FARMHOUSE などがそれである。また、STAPLEHURSTCOPPWILLIAM も、1370~71年頃の建築とみなして間違いないだろう。実際、 unjetty:突き出しなしの建物が現れるのは時期がやや遅くなってからであるから、ケント地域では、この時期、木造総二階の建物は、すべてが jetty:突き出し:形式であったと考えられる。
つまり、この地域で、 jetty:突き出し:形式の工法は、長い歴史がある、ということに他ならない。しかしながら、現在のところ、その起源や発展について、理の通った分析に堪える事例は、少ししか見付かっていない。
                                                                               この節 了 
     
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  先回予告のWealden construction の項は、複数節に分かれていますので、次回以降にまとめることにいたしました。

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筆者の読後の感想

   西欧の街並みで、両側の建物の上層階が道路上に突き出し迫り出し)、あたかも道路がトンネルのようになっているのを見かけます。
   地上階を所有地の境界いっぱいに建て、上階を境界の外に突き出して迫り出して)いるのでしょうか?

   そのあたりの実際について、ご存知の方が居られましたら、ぜひご教示ください。


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