建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

建物をつくるとはどういうことか-16・再び・・・・「求利」よりも「究理」を

2011-04-19 18:45:17 | 建物をつくるとは、どういうことか
「文言追加 20日 9.16][追補 20日 18.01][追補 20日 23.25]

今日(4月19日)の毎日新聞夕刊(東京本社版)に、次のような記事がありました。



新聞記事ですから、やむを得ないことなのかもしれませんが、単に「歴史的事実」を記憶していたか、否か、の点に焦点が絞られているのが、気になりました。

単なる「歴史的事実」の「記憶」の問題ではない、と私は思います。

往時の人びとは、単に「歴史的事実」を記憶していたからではなく、その「事実」の先に、「そこは暮らすべきでない場所だ」ということを、「理由(わけ)も踏まえて認識していた」からだ、と私は考えます。

考えてみてください。津波は日常茶飯事のことではありません。
もちろん、地震も同じ、日常茶飯事のことではありません。
単なる「記憶」なら、忘れてもいたしかたない。
「記憶」していたか、否か、そういうことではないのです。

往時の人びとは、「その場所の地形・地質が何を意味するか」まで認識していたのです。そして、「だから、そのような土地に暮してはならない」、ということを「認識」していたのです。
それが、「歴史的事実として、表れている」にすぎない
のです。


先回書いたことを一部再掲します。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・・・・
「新市街地」とは、その多くは、現代の「科学・技術」による「想定」(=基準・指針)の下に「計画」された地区にほかなりません。
たとえば、地盤の悪さは杭やベタ基礎で解決できる、津波は、大きくても数mだろう・・・という「想定」(=基準・指針)の下で開発された新興地区なのです。
それがダメになったのは、「想定外」の天災に拠るのだ、天災がワルイ・・・。

旧市街:往時に人びとがつくりあげた集落:町が津波被災をしなかった、ということは、
そこに暮す人びとが、「住まいの備えるべき必要条件、十分条件」を認識していた、ということです。
「わざわざ危ない場所に暮すことはしてこなかった」ということです。
「大地」の上で暮す以上、「大地の理」を「尊重する」こと、おそらく、往時の人びとは、この「道理」を、当然のものとして理解していたと思います。
日ごろの「経験」「観察」を通して、「大地の理」を認識していたのです。
そして、当たり前のこととして、人が「大地の理」を凌駕できる、とは考えませんでした(もちろん、それが「大地の理」に「負けることだ」などとは思うわけもない)。
どうしてそれが可能だったか。
人びと自らが、自らの感覚で、日常的に、「大地の理」を学んでいたからだ、と言えるでしょう。
《偉い人》のご託宣に頼るようなことはしなかった、ということです。
・・・・
  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先ほど、TVで、《専門家》の、実験をまじえた液状化現象についての「解説」を放映していました。
私は、
そういうことが分っていたのなら、なぜ、低湿地:海岸や沼沢地を埋め立てて宅地化することはやってはならない、と説かなかったのか、それを説いて初めて「専門家」ではないか
と思いながら聞いていました。

もっと言ってしまえば、そういう実験などは、単に、学会へ発表するのが目的の「研究」なのではないか、とさえ思いました。「研究」が「求利」の一手段になっている・・・。

「事件」が起きてから、「理詰めの説明」をしてもらったって、何の意味もないではないですか。

原発推進を諮ってきた原子力の《専門家》による「原発事故についての解説」に至っては、もっと憤りを感じています。
進んで現場に行かれたらいかがですか。
自ら唱えた「安全」論の「評価」のために。
そして、事態の収束の為に。
この際、あなた方は、評論家であってはならないのです。
それは、やむをえず避難を強いられる多くの人びとに対して為さねばならない、原発を推進してきたあなた方の責務です。
それができないのなら、所詮、あなたがたの「学」「研究」は、「求利」の為のものだった、
ということになります。

   以前に載せた宮澤賢治の「グスコンブドリの伝記」の一節を思い出しました。

   そこには、こうあります。

   「・・・私はもう火山の仕事は四十年もして居りまして
   まあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますが
   いつ爆発するかどっちへ爆発するかといふことになると
   そんなはきはきと云へないのです。
   そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、
   あなたは命をかけて、
   わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのために
   はたらくものなのです。」
                         「文言追加 20日 9.16] 
 
原子力の利用は、二酸化炭素を出さないから、地球環境を護るクリーンなエネルギーだなどと言うことをやめましょう。
原子力なるものは、下水道が整備されていないのに上水道だけつくってしまった、というに等しいのです。
廃棄物はどうするのか、不明のまま使っている・・・!
地中深く埋めれば問題がない?!
それはこの大地に対する冒涜です。

追補 [追補 20日 18.01]
4月20日毎日新聞朝刊に、見過すことのできない記事がありました。
以下はその一部、そして赤枠内を拡大すると右側になります。
もちろん全てではありませんが、現在の「学」「研究」の様態を如実に示しています。


再追補 [追補 20日 23.25]
毎日のネットニュース:毎日jpに「地震国日本になぜ原発が多いか:原発の戦後史」という、注目すべき特集が載っています。同日の夕刊の記事でもあります。
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建物をつくるとはどういうことか-16・・・・「求利」よりも「究理」を

2011-04-15 15:41:54 | 建物をつくるとは、どういうことか
[註記追加 16日 9.45][付録部分 訂正 21日 18.08][追記追加:飯館村紹介 21日 18.21]
間が空きましたが、今回を「建物をつくるとはどういうことか」の最終とします。

このシリーズでは、「私たちの『建物をつくる』という営為」は、本来、いかなる「作業」であったのか、根本・根源に戻って考えるようにつとめてきました。
それはすなわち、
「現代の建物づくりの考え方」、
そして、その考え方の基になる
「ものごと全般に対する対し方、考え方」に於いて、
決定的に忘れられている、と常日ごろ私が思ってきた諸点について、
あらためて「集成」してみようとする試みでした。

まとめは別のかたちになると思っていたのですが、今回の震災に遭遇して、この震災についての「感想」を書くことで、このシリーズのまとめにしようと決めました。
なぜなら、原発事故を含め、今回の被災の状況に、「現代の考え方」が、如実に露になっている、と思ったからです。

   註 「究理」とは、ある物理学者の造語です。 
      どのような意味か?
      「究理」の字義こそ、science の本義である、ということからの造語です。
      science は「科学」であってはならない、ということです。もちろん「求利」などであっては・・・。
      [註記追加 16日 9.45]

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[註記追加 16.47][文言追加 17.20][参照記事追加 16日 1.25][註記追加 16日 9.32][追記追加 5月27日 15.20]

先日、今回の地震・津波の被災からの「復興」へ向けて、海岸に津波を避けるためにコンクリート製の「人工地盤」をつくる、という「提案」がある、と新聞に図解入りで紹介されていました。「復興・・会議」の委員の一人の提案だそうです。
「この期に及んで、未だ・・・・」、というのが、私の率直な感想です。
「・・・・」のところには、いろいろな文言を入れることができます。たとえば、「懲りないのか」、あるいは「考えを改めないのか」・・・・。

地震や津波に対して「次に起る(であろう)地震に耐える強度の建物」や、「次に起る(であろう)津波の高さよりも高い防潮堤」をつくることで「対応できる」と考えるようになったのは(先回「想像を絶する『想定外』」で、こういうのを「工学的設計」と呼びました)、そんなに昔からではありません。
おそらく明治以降、つまり、「科学(技術)」を「信仰」するようになってからではないでしょうか。とりわけ第二次大戦敗戦後に著しい。
   註 (であろう)と書いたのは、私にとっては「・・・であろう」ことも、  
      そういう《基準》を定める方がたには、「・・・であろう」ではないらしいからです。
      彼らは「次に起きるのは、かくかくしかじかの事態である、と断定的に《評価》」します。
      もし、それとは異なる事象が起きれば、「想定外であった」として済ますための「用意」なのでしょう。


次の地図は、福島県北の明治20年代の地図です。いわゆる「迅速図」と呼ばれている図です。
「日本歴史地名大系」(平凡社)の「福島県」編の付録から転載しました(原版はモノクロですが、一部に色を付けました)。



図中の黄色にぬった線は「陸前浜街道」、現在の「国道6号」です。
   なお、赤い線で区画した西側(図の左側)が、
   「想定外の」原発事故:放射能汚染で、人びとが避難を余儀なくされ苦しんでいる「飯館村」です。
   清流に恵まれ水が美味しく、人情こまやかな穏やかな山村とのこと。
   追記:ダイアモンド オンラインの記事に飯館村の紹介があります。

現在の道路を見慣れてしまった目には、この地図上の曲がりくねった道は、不可思議に見えるかもしれません。
しかし、道は、無意味に、あるいはわざと、曲がりくねっているのではありません。
これが人がつくる道の本来の姿
なのです。
このように曲るには、それぞれ明確な理由があります。曲るべくして曲るのです。

人が道をつくるときの原則は、かなり前に書きました(たとえば「道・・・どのようにして生まれるのか」。このシリーズでも触れています)。
人にとって「分りやすい」「疲れにくい」「安全に歩ける」・・、それが道をつくるにあたっての「要点」なのです。もちろん、現代の人びとではなく、往時の人びとの採った考え方です。
   現代では、案内板やカーナビがあればよい、と思うかもしれません。
   
「浜街道」に並行して、山寄りの山裾を、細い道(単線の表記)が南北に走っていることに注目したいと思います。
地図では「里道」と記されていますが、おそらく、この道は、「浜街道」が整備される以前からあった道と思われます。多分、等高線に沿った道だと思われます。
   以前、奈良盆地を南北に走る道には、
   「上つ道」「中つ道」「下つ道」の3本があったことを紹介しました。
   このうち、「上つ道」:いわゆる「山の辺の道」が古く、以後、盆地の方に降りてゆくことも紹介しました。
   このシリーズの第3回で触れています(末尾の付参照)。

平地:平場が歩きやすいのはたしかですが、平場は目見当をつけにくく、最初には手が付かないのです。これが、道の成り立ちの「順序」と言えばよいでしょう。
と言うより、この「里道」と呼ばれる道沿いに、数多くの集落があり、「里道」は、それらの集落を結ぶために生まれた道だったと考えられます

明治期には人口500人以下ですが、おそらく、この地域で最初に生まれた集落の名残りではないかと思われます。往時は(多分江戸の初期ごろ)、もっと人が多かったでしょう。
そこを拠点に、目の前の平場を開拓し、江戸末には、集落の拠点が海寄りに移った、と考えられます。
しかし、平場といっても、
海からは一側内側の、今回、津波を被災しなかった区域に拠点集落:町場が構えられていることに注意したいと思います。
それを明らかにしてくれるのが次の地図です。明治20年代の地図の範囲と縮尺は、この図に合わせて編集してあります。



この地図は、国土地理院が公開している今回の津波による浸水区域の地図です。
図の海寄りの赤いところが浸水域です。

分りにくいかもしれませんが、「陸前浜街道」は、明治の頃の道筋を基本的に踏襲しています。
そして、「陸前浜街道」は、大半が津波の浸水を免れている、ということも分るはずです。
と言うことは、「陸前浜街道」が結んでいた町々の「旧市街地」もまた浸水を免れていることになります。
言い方を変えると、これらの町で浸水したのは、主に「新市街地」であった、ということです。

   先にも触れましたが、往時の国道:官道は、既存の町:集落を結んで設定されています。
   町:集落が生まれるのが先、それから集落・村、町相互を結ぶ道が生まれるのです。
   これを、現代の「開発」の見かた:道をつくって人を貼り付けるという見かた:で理解するのは間違いです。
   往時の人びとは、ものごとを「暮しの理」で考え、
   現在のように、ものごとをすべからく「利」で追求することはしなかったからです。

これは、この地図の範囲だけではありません。
次の図は、仙台空港のある仙台東部地区の浸水図です。出典は先と同じく国土地理院公開の地図。4地区ほど公開されています(前記からアクセスできます)。



この地図には、南から、亘理、岩沼、名取、そして仙台中心部(旧市街)と、それを結ぶ「陸前浜街道」が読み取れ、それらがいずれも津波浸水域をはずれていることが分ります(角田という町もありますが、この町は浜街道沿いではありません)。

   註 この地域の明治20年代の地図は、部分的ですが「此処より下に家を建てるな」のときに
      載せてあります。[註記追加 16.47]

このことは何を示しているか。

旧市街地は、津波被害を免れている、という事実。
これらの町が津波で被害を蒙ったことが知られていますが、先に触れたように、それは、これらの町の「新市街地」が大半なのです。

「新市街地」とは、その多くは、現代の「科学・技術」による「想定」(=基準・指針)の下に「計画」された地区にほかなりません。
たとえば、地盤の悪さは杭やベタ基礎で解決できる、津波は、大きくても数mだろう・・・という「想定」(=基準・指針)の下で開発された新興地区なのです。
それがダメになったのは、「想定外」の天災に拠るのだ、天災がワルイ・・・


旧市街:往時に人びとがつくりあげた集落:町が津波被災をしなかった、ということは、
そこに暮す人びとが、「住まいの備えるべき必要条件、十分条件」を認識していた、ということです。
「わざわざ危ない場所に暮すことはしてこなかった」ということです。
「大地」の上で暮す以上、「大地の理」を「尊重する」こと、おそらく、往時の人びとは、この「道理」を、当然のものとして理解していたと思います。
日ごろの「経験」「観察」を通して、「大地の理」を認識していたのです。
そして、当たり前のこととして、人が「大地の理」を凌駕できる、とは考えませんでした(もちろん、それが「大地の理」に「負けることだ」などとは思うわけもない)。
どうしてそれが可能だったか。
人びと自らが、自らの感覚で、日常的に、「大地の理」を学んでいたからだ、と言えるでしょう。
《偉い人》のご託宣に頼るようなことはしなかった、ということです。
もちろん、往時にも、「偉い人」は居ました。
しかし彼らは、人が自らの感性で事物に対することの必要を説き、自分の説:ご託宣を押し付けるようなことはしなかった!
   だからこそ、人びとから「偉い人」だと認められたのです。
   そこは、今の《偉い人》との決定的な違いです。

   註 現在の「工学」の「一般的な」発想法の「特徴」について、下記で書きました。
      「工か構か」 [註記追加 16日 9.32]

地図からでも、これだけのことは読み取れるのです。
冒頭に触れた「津波を避けるためにコンクリート製の人工地盤をつくるというような《工学的提案》」をする前に、先ず、往時の人びとの「知恵」をこそ学ぶべきだ、と私は思うのです。
彼らの方が、数等、scientific なのです。

このことを、今回、明治の地図と、今回の被災浸水域の地図を比較してみて、あらためて強く感じています。
   「此処より下に家を建てるな」、これもまた、往時の人びとの「知恵」なのです。
   この「知恵」を、笑ってはならないのです。

何度も、いたるところで書いてきたように、
scientific であるということは、「数値化すること、計算すること・・」では、ありません。
science =「数値化すること、計算すること・・」という「理解」こそ、現代のものの見かた、考えかたを生む、最大にして最悪の「根源」
なのです。

得てして、「数値化すること、計算すること・・」という「ものの考え方」は、「利」に直結します。
現に、原子力安全委員会の元委員は、「万が一のことなど考えていたら、コストがかかり過ぎる」「(あるところで)割切らないと設計できない」と公言していました。
これはすなわち、ものごとの判断の根拠を「求利」に置いていることの証以外の何ものでもありません。[文言追加 17.20]

私たちの目の前に広がって在る「歴史」事象は、単に、学校の歴史教科の教材ではありません。
それらの事象には、
この大地の上でしか生きることのできない人間の、大地の上での生きかたの経験と知恵がつまっているのです。
それを認識し理解できない、というのならば、いかに「科学的」であろうが、到底 scientific であるとは言い難い、と私は思います。

そうなのです。
「復興」を考えるのであるのならば、机上で勝手なことを妄想するのではなく、
「現地」「現場」に厳然として存在する「歴史的事実」「歴史的事象」から、
「長い年月」という「実験」を経て、「その地」で、往時の人びとが為してきた営為を知り、
そこから、人は何を為してきたか、そして今、何を為すべきか、そこに潜む「理」を学ぶべきなのです。
決して「現代的開発」の論理、阪神淡路震災の「震災復興計画」のような、
普通の人びとの日常の苦しみを生むような、生むことを願ったような、
一部の人たちの「利」にだけなったような、
そういう《復興》を夢見てはならないのです。

   註 「区画整理・・・心の地図」
      「災害復興と再開発」参照  [参照記事追加 16日 1.25]

私はそう思います。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
リンクしないとのご指摘がありましたので、改めました。失礼致しました。[訂正 21日 18.08]


付 「建物をつくるとはどういうことか」シリーズはこんな内容でした。

第1回「建『物』とは何か」
第2回「・・・うをとりいまだむかしより・・・」
第3回「途方に暮れないためには」
第4回 「『見えているもの』と『見ているもの』」
第4回の「余談」 
第5回「見えているものが自らのものになるまで」
第5回・追補「設計者が陥る落し穴」
第6回「勘、あるいは直観、想像力」
第7回「『原点』となるところ」
第8回「『世界』の広がりかた」
第9回「続・『世界』の広がりかた」
第10回「失われてしまった『作法』」
第11回「建物をつくる『作法』:その1」
第12回「建物をつくる『作法』:その2」
第13回「建物をつくる『作法』:その3」
第14回「何を『描く』のか」
第15回「続・何を『描く』のか」

   追記
   ここで書いてきたことを、同じ資料を使い、別の形にまとめ、下記雑誌に書かせていただいております。
                          [追記追加 5月27日 15.20]
   雑誌「コンフォルト」2011年4月:№119(建築資料研究社)
     「住まいにとっての開口部」

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建物をつくるとはどういうことか-15・・・・続・何を描くか

2011-02-25 18:55:14 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 26日 8.33][文言追加 26日 8.37] [註記追加 26日 11.20][説明追加 26日 11.33][関連参照記事 追加 26日 18.47][註記追加 26日 21.40][註記追加 27日 9.15][註記追加 27日 23.35]

だいぶ間が空いてしまいました。続けます。

先回の文中で、
  ・・・・
  建物をつくるというのは、単に、建屋をつくることではない。
  建屋とは、必要とされる「諸室」を嵌めこめばよい、というものではない。
  ・・・・
と書きました。

けれども、「この考え方」は、昔も今も、簡単に通用するわけではありません。
とりわけ、公共的な建物については、
諸種の「建築計画学的研究成果」の結果、いろいろと「指針」が出されています。
したがって、それに「抵抗する」ようなことは、なかなか難しい。


それを初めに痛感したのは、数十年前、ある病院の設計チームに参画したときのことでした。
   註 この病院は、「東京都職員共済組合青山病院」。
     設計主体は、(株)共同建築設計事務所。
     このチームに大学研究室の一員として参加。
     この病院は、4年ほど前に廃院になり、解体され、現在はありません。


「病院」は、通常、外来診療部、入院診療部、検査部、手術部、薬剤部、事務部、給食部・・・などの部局に分かれます。各「部」は、病院の規模によって、さらに「科」「課」に細分されます。

そこで病院の設計では、多くの場合、 これらの各部、各科・課を、如何に「合理的に」配列するか という点に意が注がれるのが普通です。

   これは、住居の設計に於いて、
   必要諸室を(数え上げ)如何に「合理的に」配列するか、というのと同じ方法と言えます。
   これがいわゆる 「建築計画学」的設計の「真髄」 にほかなりません。

   今は何と言うか分りませんが、昔はこれを「動線(導線)」計画などとも呼び、
   「合理的な配列にした相関図」を「機能図」などと呼んだものです。

極端に言えば、その「各部、各科・課」に必要面積が与えられ、それがそのまま平面図になる
そして、その立ち上がった「壁面の操作」、つまり見かけの姿:立面をどのようにするか、設計者の腕のみせどころ!

実際、1950年代以降、つまり戦後に建てられた病院建築には、こうしてできあがった例が多いのです。
つまり、画一的になる。というより、ならざるを得ない。
それゆえ、電車で窓の外に流れる風景をボウッ眺めていても、あれは病院と、すぐに見分けがつきます。
これは学校建築でも同様です。

1980年代以後は少し変ってきますが、それは単に、その画一的な外観に「化粧」が加わったこと。
そのわけは、経済のいわゆる「高度成長」にともない、一時に比べ、工費面に「ゆとり」ができ、それが「化粧」にまわされるようになったからです。その「化粧」を剥せば、中味は相変わらず。

   最近の設計は、中味よりも、この「化粧」に凝っているように見えます。しかも、競って・・・。
   先回紹介の保育所の外壁の色彩も、この「化粧」の一つと言ってよいでしょう。
   簡単に言えば、病院なり学校なり、もちろん住宅なり・・・の「使い勝手」「暮しやすさ」よりも、
   その「造形」(の他との「差別化」)に設計者の関心があるようです。
   と言うことは、建物の「造形」の意味・意義も下落している、ということ。
   私は常々、戦後間もない頃の建物、1950~60年代につくられた建物の質は、
   最近のそれよりも高い
、と思っています。
   なぜそうなるかと言うと、少ない工費を如何に有効に使うか、真剣に取組んだからでしょう。

さて、私もチームの一人として加わった病院の設計でも、すでに、「病院の専門家」による「合理的な配列にした相関図:基本設計図」ができあがっていました。
   このときの「病院の専門家」は、参画した「建築計画学」の研究者。
   
当の病院の敷地は、ほぼ長方形。当時廃止されたばかりの都電の青山車庫北側に広がるかなり急な北西向きの斜面(下の地図の黄色で塗った箇所)。どういうわけかその東側の一角に小さな池がある。そこで水が湧き出しているらしかった。
南と北では、約5mほどの落差があったように思います。
敷地の南端に立つと、視界は自ずと斜面に沿って導かれる。当時、視界に入ってくるのは人家の家並(今は、多分ビルだらけ)。
   註 この地図は、国土地理院HPからの抜粋転載(2万5千分の1)。
      この病院の建物の姿が地図上に書かれていますから、4~5年前の版だと思います。
      [註記追加 26日 11.20]



「基本設計図」は、こういう敷地の状況とは一切関係なく、それこそまさに「机上」の「紙」上でつくられたもの。どうやって敷地に「置く」ことを考えているのか?

私は何をしたらよいか?

そこで、一晩考えて、きわめて簡単な模型をつくりました。
それは、観てきた敷地の概況を念頭に、その敷地に「納まる」のは、こういう構成ではないか、といういわば「敷地利用の概念」を示す模型

そのとき私の中にあったのは、「各部・科の合理的相関図」ではありませんでした。

すなわち、
病院には誰が来るか?⇒病を気にしている人たち、つまり患者。
何しをしに来るのか?⇒病についての「相談」、つまり「診察・診断」すなわち「医療」を受けに。

そうであるならば、
1)「各部・科」は、「患者」にとって「都合のよい」位置に在ればよいはずだ。つまり、「各部・科」は、「患者」のまわりに、「患者」の「必要度の順」に応じて在ればいい。   
必要度の順とは何か。それは「患者の側から見た診療にとっての必要度」の順。
   これは、自分が病院に行った場面を想定してみると、おおよそ見当がつくのではないでしょうか。
   外来診察で診断を受けた患者は、次に何が必要か。
   たとえば、X線検査は、直ちに全ての患者にとって必要ではない・・・。
   以前に、
   農民の暮す領域は、「係わり」の「濃度」に応じて自分の住まいのまわりに同心円状に広がることを紹介しました。
   この農民の位置に「患者」を置き、その「必要」の「濃度」に応じて「各部・科」がある、
   と考えればよいのではないか、ということです。 

   註 これは、つまるところ、
      「公共」「公共の建物」とは何を言うか、についての解釈・認識の問題だ、と思っています。
      「公共」とは、「その他大勢、不特定多数」のことを言うのではなく、
      あくまでも「個々人」の集まりのこと、でなければならない。
      ゆえに、「公共建築」とは、
      単に、「大勢の人、不特定多数」が使う建物ではない。
      あくまでも、使うのは「個々人」。
      使うのは、のっぺらぼうの大勢ではない、
      あくまでも、はっきりとした顔を持つ個人。
      [註記追加 26日 21.40]

もう一つ、
2)診療所程度の大きさならともかく、大きな規模になったときの最大の問題は、患者自身が、常に、自分がいったい病院の何処に居るか、自分の感覚で分ること。これは、案内板に頼らないで、という意味。
   これについては、「道:道に迷うのは何故・・・(迷子になる病院)」で書いています。

   註 この文中では、「公共」を、「不特定多数」としてではなく、
      「個々人(の集まり)」として扱うべき「理由」についても
      簡単に触れています。     
      また、「壁は自由な存在だった-7」の末尾の「蛇足」の項で、
      この考え方を支えてくれた「論」を紹介してあります。
      それはすなわち、「十人十色」とは何か、の「解釈」に連なります。
      [註記追加 27日 9.15]

      また、これはかなり前になりますが、
      『「冬」とは何か・・・言葉・概念・リアリティ』で、
      「概念」とは何か、触れています。[註記追加 27日 23.35]

以上の2点と、敷地の持つ特徴を勘案してつくったのが簡単な「概念模型」でした。
そして結局、この「概念」の下でまとまったのが最終案。
その「概念」は、下の「配置図」に示されている、と言えると思います。



   この図では、表入口が西側の狭い脇道から入ることになっていますが、
   当初は、南側つまり青山通から真っ直ぐ入ることになっていました。
   図にある「6階」・・などの書き込みは、その部分の建屋の階数を示しています。
   ただ、この建物の1階は、斜面北側地面に接する階。主入口は2階にあたります。
   [説明追加 26日 11.33]

図の「外来」と書いてある所には、大きなホールが設けられ、そこをいわば中心に「各部・科」が患者の必要濃度に応じて展開する、という構成。

また、そこに至る過程で、建物が威圧的に迫ることを避けるため、このホールの部分は低層にしています。
下は、そのあたりの分る「完成模型」写真と竣工後の姿。





左側の外階段を3階まで登ると、「管理外来」、つまり、健康診断などのための部門があります。つまり、健康な人のための「健康管理」のための場所は、「患者」とは別にする、ということです。
   実際は、この部分は管理事務諸室になってしまいました。

「ホール」の様子は次の写真。竣工後5年ほど経ってからの撮影で、画面も汚れています。



当時、天井を板張りにすることが認められていた時代。今は、難燃処理をしないと不可のはずです。
この「ホール」のまわりに外来診療室や検査諸室を必要度に応じて並べています。
下が「ホール」のまわりの諸室が分る平面図です。
黄色に塗った吹抜け空間のまわりに、必要度の高い諸室が並んでいます。何処に行っても、「此処」との関係で、どこに居るかが分るはずです。



   主入口階を2階としています。
   その1階下に(表から見ると地下にあたります)サービス部門や救急入口などがあります。

この病院では、病室の天井も板張りにしました。残念ながら、手元に写真がありませんが、割と評判のよかった病室だったように記憶しています。
   これについては、共同建築設計事務所のHP、Archive 欄で知ることができます。


前に、敷地に立って、そこに在るべき空間の姿を観る、と書きました。
そうすることによって、住居なら住居、病院なら病院、図書館なら図書館、学校なら学校・・・の建物が、そこにどのように展開すればよいか、ほとんど決まってしまうのではないか、と私は思っています。私の言う「一つ屋根の塊りを観る」こと。

そしてそのとき、病院・・・・の中身の理解として、決して、いわゆる機能図的な、つまり「必要諸室の合理的相関図」で理解しないことが最低の必要条件。

なぜなら、そういう理解は、あくまでも、「結果物」のいわば「鳥瞰図的理解」であって、そこに「在る」人の「理解」ではないからです。
簡単に言えば、前にも書きましたが、
外来者は(患者は)設計者とは違い、全体平面図を知らない、のが普通。
外来者は、そこでの自分の体験を通じてその建物の平面を、自分の係わりの範囲で、知るに過ぎない。
以前使った言葉(たとえば、「建物をつくるとは・・・-5」参照)で言えば、「自分の地図を描く」ということ。[関連参照記事 追加 26日 18.47]
この「事実」を設計者は気が付かない場合が多いのです。[文言追加 26日 8.33]

たとえば、病院の場合、調剤室は必ず必要です。
しかし、患者に必要なのは、調剤された薬を受け取ること。その「奥」の様子は詳しく知る必要がない。
つまり、「窓口」が患者と「病院」の接点:フロント・前線。
設計としては、そのフロントがどこにあるかが問題。それが妥当な位置に決まれば、調剤室は、その奥に繋がっていればよいことになります。

ところが、いわゆる「必要諸室の合理的相関図」式の理解では、得てして、患者の視点、すなわち、患者にとってのフロントが何か、その肝腎な点が見えなくなってしまうのです。
そのとき為されるのは、諸部門の「合理的」配備。「あれ」と「これ」の間の動きが激しい、だからそれを近接させると「ムダ」がない・・・。
この「思考」の操作の間、患者は念頭から消えてしまう
のです。

   前にも書いたように、多くの設計がそのようになってしまった結果
   急増したのが、「案内表示」、いわゆる「サイン(標識)」なのです。

これは、「必要諸室の合理的相関図」から入る設計法の陥る決定的な落し穴。

つまり、私たちは、病院計画の専門家になったつもりのスケッチではなく、もちろん、造形作家になったつもりのスケッチでもなく、「そこに在る」とき、人が思い描くであろう「感覚」を基に、そこに在ってほしい空間の姿を「描く」必要があるのです。[文言追加 26日 8.37]
建築が「造形」であることは間違いありませんが、しかし、単なる造形ではない。
絵画や彫刻なら、押入れ・倉庫にしまうことができる

ところが建築はそれができない。
だからこそ「注意」が必要なのです。
下手をすると、他人に「害」を与え続けるのです。

私が、多くの先達の残してくれている事例を観て感じるのは、彼らは、決して単なる「専門家」ではなく、もちろん「造形作家」でもない、という事実です。まずもって、普通の人だった、ということ。普通の感性を持っていた。
そこには、押入れに片づけてしまいたくなるような、そういう事例がありません。

今、私たちのまわりには、できることなら押入れにしまいたくなる、そういう建物で満ちあふれているのではないでしょうか。
世の中、「専門家」と「造形家」で満ちあふれてしまった・・・。
そのように感じるのは、私だけなのでしょうか。  
コメント (2)

建物をつくるとはどういうことか-14・・・・何を「描く」のか

2011-01-30 21:43:35 | 建物をつくるとは、どういうことか
[写真削除 8日 20.33]

重ね着はやっと0.5枚ほど薄くなりました!結構しんどい!
しかし、感じたことは直ぐ書かないと・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回のおしまいで、次のように書きました。

・・・・
私の暮す町の一角、当然あたりは畑地と混交樹林が広がっています、そこに最近保育園が建った。
壁は真っ黄色に塗られ、越屋根の壁面は真っ赤。壁には丸窓が配されている。「配されている」と書いたのは、その窓の配置に意味があると思えないから。
・・・・

それがどんな建物なのか、写真を載せます。
実を言えば、こんな事例を出すのは、恥かしい、という思いがあった。茨城県という地域の、ある意味で「素性」を広しめるようなものだから・・・。
でも、考え直し、やはり、どこのものであれ、おかしいと思ったものはおかしい、何がおかしいのか、考える必要がある、という結論に達しました。

[写真は削除しました]

この保育園は、町の幹線道路に沿って建っています。
幹線道路と言っても、まわりは畑作と牛の畜産の盛んな一帯で、そうでないところは混交林です。
第二次大戦後、外地からの引揚げてきた方がたが混交林を切り開いた開拓地、だから「新生」などという地名もあります。
集落は散村の様相を呈しています。もし、大都会に近かったら、とっくの昔に住宅地として《開発》されていたに違いありません。幸い、都会は遠かった!
そのため、ここは、主な集落からは数キロは離れています。

こういうところの林を切り開いて、高齢者向けの施設がよくつくられます。最大の理由は、地価が安く、広い敷地が確保できるからでしょう。
しかし、人びとの暮すところからは「隔離された」、と思われる高齢の方がたが居られてもおかしくない、そういう場所です。
そして、その経営をする方が、その高齢者施設の続きに、今度は保育園をつくった。
これにも訳があります。
この町では、それまで地域内の数箇所にあった保育園・保育所を、経費削減として廃止し、民間に任せるべく「方針」を転換したのです。どうやら、これは国を含めた上部行政団体の意向でもあるらしい。
本当は、先ず、この「方針」が問題なのですが、それは今回は脇に置くことにします。

その建物を、遠くから見たのが、次の写真です。

[写真は削除しました]

工事が終わってフェンスがはずされたとき、いささか驚いたのを覚えています。何だこれは!
それが保育園だと知ったのは、しばらく経ってからです。
反対側から近づくと、次のような景色が見えます。
奥に見えるのが高齢者の施設。そのさらに奥が、混交林。新緑と紅葉の季節、見事です。大きいのはケヤキ。

そして、さらに近づくと

[写真は削除しました]

出入口が見えますが、これは子どもたちの出入口ではありません。平面図を見ていませんから詳しくは分りませんが、これでは子どもたちの出入りには狭い。
多分、子どもたちは、この建屋の向う側に歩いてまわるのではないでしょうか。最初の写真に、この建屋の奥にも建屋が見えます。これが子どもたちの場所だと思われます。
書き忘れましたが、子どもたちは通園バスで連れてこられます。親が仕事に出る前に連れてくるにしても車ですが、それにはちょっと辺鄙な場所。
もっとも、このあたりでは、都会と違って、親は勤め人とは限りません。農業従事者だって、保育を頼む場合があるのです。
   今でも、この町の農業従事者には、二世代以上で暮すお宅が多い。
   だから、一定程度は幼い子どもを見護ることができます。
   しかし、高齢化が進むと、農業従事者の方がたも保育を必要になるときが来ます。
   そして、こういう集落が飛び飛びに在る地域では、保育園・保育所は近場にある方がよい。
   勤めの行きがけに保育園に預けてゆく、というのは都会の「イメージ」。
   都会の「イメージ」をこういう地域に当てはめるという考え方は、根底がおかしいのです。
   思わず「一票の格差」論を思い出してしまいます。
   一票の格差が憲法違反なら、生活権の不平等は、もっと憲法違反。
   なぜ、それを裁判で争わないのですか、弁護士さんたちは?
 
それにしても、どうしてこのような建物ができてしまうのでしょうか。
「このような」の言葉には、先回書いた色彩の話もありますが、その敷地へのつくりかたもあります。なぜ、手前に、大きく威容を誇る(異様かもしれない)が立ちはだかるのか?

おそらく、設計者の頭には、保育園に必要な「諸室」は「数え上げられていた」に違いありません。あるいは、経営者から要求されていた・・・。
その「諸室」を、どのように組み合わせればよいか、設計者が描いたのは、その「図」であったのではないでしょうか。

私は、若いころを思い出します。
私が最初に「責任」を持って設計に携わったのは、そのときいた大学の研究室が依頼された小学校の設計でした。今から45年ほど前のこと。そのころは、大学の研究室が設計をすることができた時代だった。
私のいた研究室は、主に、学校や図書館、病院など、いわゆる公共建築の「建築計画」についての研究をしていた。
そこで為される研究は、平たく言えば、それぞれの公共施設に必要とされる「諸室」は、いかに「合理的」に配列するのがよいか、というもの。
小学校についても、多くの「指針」が編み出され、「基準」のようにもなっていた。

多分、多くの建築を学ぶ学生は、設計演習では、その「指針」をいかに建物にするか、で悩むはず。なぜ悩むかと言えば、「配列」が決まったからといって、それでは「形」にはほど遠いからです。
私も学生のとき、悩んだ。形にならない。

そこで、建物の形とは何だ、だいたい、建物とは、そもそも何なのだ。それをつくるには何を考えればいいんだ・・・。しかし、それについての「ものの本」などない。今だってないはずです。
ゆえに、「独学」するしかない。しかし、表立ってそんなことを言うなど、もってのほか。
なにしろ、前にも触れたことがありますが、「その本質は何だ」、などという論議はご法度だった・・。

私が、その小学校を設計するに当たってまず考えたこと、それは、学校とは、子どもたちの日常が展開する場所、それぞれの家庭の代替場所だ、ということでした。
逆に考えたのです。もし学校がなかったら、子どもたちは日常をどう過すのか。
そのとき、子どもたちは、それぞれの住まいあるいはその近くで、親に見護られつつ、日々をすごしているはずだ、その日常と、学校での日常はまったく異なるものであってよいのか?
教師の役割とは何か?読み書き算盤を教えるだけなのか?・・・・。

   保育園、幼稚園も、本質は変りありません。
   年齢が低いだけ、もっと「代替」の意味が「重い」でしょう。

そう考えることで、小学校とは何か、そのイメージが見え出しました。
学校という場所は、子どもたちそれぞれの暮す住まいと、大きく変っていてはならないのだ・・・。
そして同時に、何もない土地の上に、新たに「もの」を置く、というのはどういうことなのか、についても学ばざるを得ませんでした。
そういうことについては、教育の場面では何ら触れられないのです。これは、今でも変らないでしょう。

建物をつくるというのは、単に、建屋をつくることではない。
建屋とは、必要とされる「諸室」を嵌めこめばよい、というものではない。
第一、昔から、人は、そんなふうには建物をつくってはこなかったはずだ・・・。
私のものの見方は、大きく変りました(それは、今も続いています)。文句言われてもいい、思ったとおりにやってしまえ・・・。

私が最初に係わった小学校は、現在、この世にありません。取り壊されています。
辛うじて、その姿は、いくつかの書籍に載ってはいますが、どれも古書の類になっています(雑誌「建築」1965年5月号、「日本建築学大系」「建築設計資料集成」の旧々版の学校建築の項など)。
その小学校の名は、青森県「七戸町立城南小学校」。七戸はこのたび全通した東北新幹線の「七戸・十和田」駅のある町。元々、国道はこの町を通っていて、東北本線が海岸線を通ってから、知られなくなっていた町。今の季節、雪に埋まっているでしょう。

しかし、この建物については、批判ごうごう。ときには非難ごうごう。これは学校ではない・・・。では何だ?
   この建物については、いずれ、いつか、紹介しようとは思っています。

しかし、私は、ここで考えたことを捨てることはしませんでした。
つまり、建物の「意味」を考えない設計は、設計ではない。「形」の意味を考えない設計は、それも設計ではない。・・・・

しかし、私が知る限り、そして見る限り、なぜその建物をつくるのか、つくらなけらばならないのか、なぜそういう形になるのか、・・・これについての真っ当な論議は、現在、以前よりもはるかに少なくなっているように思えます。少なくとも、私の学生時代には、少しではあっても、喫茶店でそんな話が飛び交ったものでした。
そんな青臭いことができるか、アホクサ、何の足しにもならない・・。そんなところかも知れませんね。

なぜこんな昔話を書くか。
それは、少しでも、「保育園とは何か」、「形とは何か」について考えることができていたならば、冒頭の写真のような建物はつくれないはずだ、と思うからです。

どうして、大したことではないのに、建物づくりの根底について考えないのだ、あなたたちのやっていることは、字の通り、環境破壊そのもの、どうしてそれに気付かないのだろう?
これも、先回まで3回にわたって書いた「作法」の欠落以外の何ものでもない、そのように私は思います。

そして、見渡す限り、建築家は、建築《芸術》家も含めて、口では環境問題を唱えながら、率先して環境破壊を為している、そして、世の「識者たち」は、そのことを知らずにそれを「評価」する・・・。

「経済」も冷えているようです。
かつて、経済が冷えているときほど、いい建物が生まれています。1950年代がそうです。
工費が限られているほど、いい建物ができる。これはまことに皮肉な現象です。
お金の使い方が真剣だからなのでしょう。「遊ぶ」金などなかったのです。
そして今は、「遊ぶ」ことに使って、肝腎なことを忘れた・・、それが今の建築界。冒頭の写真は、まさに、その悪しき典型。

設計とは、自分の「遊び」のためにすることではない、自分の「遊び」を「頭に描く」ことではない、私はそう思っています。

建物をつくるとはどういうことか-13・・・・建物をつくる「作法」:その3

2011-01-21 18:54:43 | 建物をつくるとは、どういうことか
未だ、いろいろと重なっていますが、何とか、まとめました・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回、次のように書きました。

・・・・
こういう所に居を定めようとするときも、往時の人びとなら、その為すことは、基本的に変りはないはずです。
すなわち、「そこにある全て(地物、人為、人びと・・)とともに「一人称の世界」にいる、という「認識」には変りはない。

たしかに、自然界だけの場合にはなかった「自分以外の人びとの暮し」がそこにはあります。
けれども、その場合でも、彼らの為すことは、本質的に、対自然・地物と同じなのです。
何かをする以上、対自然・地物と同じく、「許し」を請う必要があるのは当然だからです。
・・・・

何を寝ぼけたことを言ってるんだ、・・・。おそらく、そう思われた方が居られたのではないでしょうか。
そんなことを言っていたら、設計などできないではないか。
たとえば150平方メートルほどの分譲地。借金までしてやっと手に入れた土地に家をつくってくれ、と頼まれた。要求は山ほどある。
敷地に係る「建築法令」を護り、「建築協定」を護り、「建て主の要求と好み」を斟酌してつくっている。それでいけないのか、何がいけないのか、と。

おそらくこれが今「普通の」「設計の論理」だと思います。
   「建築《芸術》家」の「設計の論理」は、この際、とりあえず脇に寄せておきます。
しかし、私には、この「論理」に違和感を感じるのです。
「判断」が、「どこに於いて為されているか」、という点が「あいまい」だからです。

私が日ごろ思っていることの一つに、
最近、建築に係わる方がたで、5W1Hで問う方が少なくなっているのではないか、という「疑問」があります。
何で問うているか?
残りのもう一つのW、Which だけ問うているのではないか?
与えられている選択肢の中から《正しい》と思うものを選べ・・・。
法令の規定に適合していること・ものを《正しい》と見なす。なぜか。そうすれば文句を言われないから・・・。
法令の規定そのものの内容は、盲目的に《信じる》。なぜか。そのように教えられたから・・・。
それが「合法的な判断」というわけです。

判断とは、自ら「もの・こと」について考えて為すものではなく、誰かのつくった「判断」の中から「選ぶ判断」、あるいは「従う判断」をすることだ・・・
法治国家なのだから、それでいいのだ・・・。第一、国家もまた、それを望んでいるフシが窺える。第一、「学識経験者」も、率先してその「御用」を務めているではないか・・・。
一般のタダの人が、判断をするのはマチガイなのだ!?

   
前にも紹介しましたが、原初的な段階では、建屋の中に部屋をいくつも用意する、という発想はありません。第一の目標は、「暮せる空間」をつくること。それがつくるときの基本の発想。そして、この「基本」は、どんな場合でも普遍であり不変のはずです。
狭い敷地なら、そこに多くの部屋を持つ建屋をつくることは無理。まして建蔽率、容積率目いっぱいに建てれば、所詮、周辺の環境:隣家との「隙間」は悪化するのは目に見えている。少なくとも、それを見きわめることこそ、最たる「判断」の中味なのではないか、と私は考えます。

たしかにこれはおいそれとはゆかない。仮にそうしたところで、隣地がそうするとは限らない。だからバカバカしい、そう思ってしまっても不思議ではありません。
だからと言って、最初から「判断停止」「思考停止」でよい、ということにはならないのではないでしょうか。そういうことには目を瞑る。それでよい、ということなのでしょうか。


前に書きましたが、
建物をつくるということは、「既存の環境の改変であり、破壊にほかならない」のです。必然的に、そうなります。これは「事実」です。
   ここで「破壊」と言うとき、その語に、否定的な意味合いを含ませてはいません。
   単なる「事実」を示しているだけ。
たとえ、自分は敷地の中を十全に考えてつくった、まわりのことは知らない、と言ったところで、本人がどう思おうと、結果としては周辺の環境を改変しているという事実は否定できないのです。
そしてまた、自身はそんなことの責任はとれない、と言ったところで、事実として改変しているのは間違いない。したがって、結果責任は免れない。
これも「事実」を示しているにすぎません。

たとえば、1970年代以降多発するようになった日照権や景観権などの裁判は、司法の性格上、法令への適合性だけで判断されます。だから、簡単に言えば、「常識」には勝ち目はない。
なぜなら、法令は、「常識」つまり、当たり前の「作法」に依拠しているわけではないからです。なぜ依拠できないか?「作法」は明確に規定できない、端的に言えば、「数値化」できない。
だからこそ、近世まで(今から半世紀ほど前までも)、「作法」は、「不文律」として、「人となり」に委ねられていたのです。
近世の人びとは、ものごとが「分っていた」のです。
   「作法」を教育で叩き込もうとしたのが戦前の「修身」、戦後の「道徳」という科目。
   しかし、その場合の「作法」は、とかく「期待される人間像」になる。これもまた一種の「数値化」の変形:「鋳型化」。 
   「合法」精神遵守のための「鋳型化」がちらちら窺える。
   そして、今の日本では、法令もまた「鋳型化」が目的であるかのようになっている。

半世紀ほど前から、日本では、急速に《 Which 思考》が跋扈(ばっこ)するようになり、それとともに、私たちの暮す環境、つまり私たちが日々を過す空間では、その「破壊」が進みました。この場合の「破壊」は、字義通りの意味。
その結果、私たちは常にまわりを「三人称」の世界に囲まれ、常に「不快感」を抱き、常に「道に迷い」・・・、ついには「それで当たり前」と思うようになってしまいました。
そして、しばらくして、
いわゆる「サイン」計画:案内表示計画が「脚光」を浴びるようになります。そしてついには「ナビ」の「全盛」。
その一方での「伝統的建造物群保存」の「動き」。これも、時期が符合しています。


しかし、残念なのは、なぜ「サイン」が問題になるのか、なぜ「伝統的建造物群」が話題になるのか、その点について語られることなく、「サイン・デザイン」の有無、良し悪し、あるいは「伝統的建造物群」の《観光資源》としての「経済効果」が語られるだけ・・・。
挙句の果ては、先回も触れた「伝統的建造物群」の形体模写をもって「保存」と見なす「誤解」までもが蔓延する・・・。ここでも5W1Hでの問いがない。
これもまた、《 Which 思考》にどっぷり浸かったまま、動きがとれない。
   そうでありながら、前にも書いたように、
   無縁社会だ、絆だ、という話には、建築に係わる方がたも、やすやすとのっかってくる。
   それはバリアフリーというと無思慮にのっかってくるのと変りはない。無思慮という点で・・・。
   今年の大学入試センター試験の国語の第一問は、この誤解にまみれたバリアフリーについての問題だった!


先回載せた建築法令と建築協定を遵守した街並みと、江戸時代にできた街並みの「通り」の写真を並べます。
左は長野県の「伝統的建造物群保存地区」海野宿(うんの・じゅく)の通りの姿。今から20年前、保存地区に指定された数年後の、まだそれほど《観光資源》としての《保存修景》がなされていない頃の様子です。



一言で言えば、「通り」への「愛想がいい」のが海野宿。もちろんそれは、宿場町だから当然なのですが、しかし、かつての(少なくとも50年ほど前までの)街並みは、宿場町でなくても「通り」への「愛想がいい」のが当たり前。

右の現在の住宅地の「通り」。せめて歩道に対してぐらい愛想がよくてもよいのではないか、と思えるほど「無愛想」。生垣つくれば何とかなるさ、というのが「建築協定」のようです。

航空写真で両者を見てみます。ただし、それぞれの縮尺は異なります。いずれも google earth から。
先ず、最近の海野宿。



次は、最近の分譲地。



この写真からでも、違いが分ります。
この違いは、決して、宿場町であるか否かによるものではないはずです。宿場町も町家の街並みの一つに過ぎません。
町家の街並みの成因は、かつての、建物づくりにあたる人びとの「当たり前の作法」にあったことは既に触れたと思います。

ところが、この「作法」について、建築界では、これまで話題になったことがないのです。もちろん、教育の場面でも・・・。

くどいようですが、前回に引き続き、ふたたび、かつては、建築にかかわる人は、そして建築を依頼する人にも、「当たり前の常識」としての「作法」があった、そして、ここ半世紀、それが失われてしまった、ということを書きました。

そうではない、現在は、「現代の作法」があるのだ、と言われるかもしれません。
そうであるなら、その「作法」を示して欲しい、と私は思います。
いまだかつて、「現代の作法」を、私は聞いたことも見たこともないのです。
それとも、知らないのは私だけなのでしょうか?
   「建築協定」は、「作法」ではありません。法令の変種にすぎません。
   なぜ変種か?5W1Hで問うことができない点が、法令と同じだからです。


先回、次のようにも書きました。
・・・・
ここまでお読みの方の中には、なぜ、想定するのが「一つ屋根」の「ワンルーム」なのか、という疑念を抱かれる方が大勢居られると思います。
・・・・

そして、それに対して、現在は、のっけから「住まいを室の集合体で考える」、だから、室数を確保するために室の大きさを小さくして員数合せをする、・・・と書きました。

私が、初めに「一つ屋根」の「ワンルーム」を想定する、と言うのは、そうすれば、当面の敷地に想定する「ワンルーム」のいわば適切と思える「容量」の設定にミスが生まれないはず、と考えるからなのです。
もちろん、「一つ屋根」というとき、その「屋根」は「抜けていて」もいい。
つまり、「そこに在るべき全体の姿」「そこに在るべき全貌」のことを、端的に「一つ屋根」という語で表わしたのです。
なぜなら、そう言わないと、身に付いてしまっている「全体=部分の足し算」として考えるクセ、「部分」を先ず初めに考えてしまうクセから脱却できない、と思うからなのです。
さらに言えば、「部分」は「常に」「全体の部分」である、という認識に立てないからです。

先に、これから建物を建てる土地に赴いたとき、自ずと足が止まる場所がある、ということは書きました(下記)。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/489cd84b322257f0853945e315c922b0

実はそのとき、そこでの「暮し」に応じた、そこに「在るべき建物の姿」をも観ているはずです。たとえば、「ある人の住まい」、あるいは「ある病院」あるいは「ある学校」・・・。その「その場所にあるべき姿」をも観ているはずです。
それはあくまでも、「もの」の形態・形体ではなく、そこに「在るべき空間」の姿。

   この姿は、直ちに見える場合もありますが、そうでない場合もあります。
   たとえば、山の急斜面に建つような場合。この場合は、比較的簡単に想定ができます。
   あるいは、何もメリハリのない土地、というのがあります。
   現在造成中の宅地、などの場合です。まわりではブルドーザが土をかき回している・・。
   こんなときは、足の止まるところさえない。拠りどころがない・・・。
   こういうときは現地での想定不能です。分るのは、その土地への近づき方、その方向だけ。
   そういうとき、援けになるのが模型。敷地模型です。
   模型は敷地周辺もある程度含めてつくる場合もあるし、敷地だけの場合もある。
   いずれにしても大事なのは、上から見ないこと。敷地だけ見ないこと。
   模型を見るのではなく、模型を通して「現地」を見る。模型はそのための「手段」。

そこで「観るもの」は、かつて、農業者たちが、定着する土地を見つけ、そこに初めての住まいを設けるときに「観たもの」と同じです。
逆に言えば、
彼らは、その姿を頭に描くことができるからこそ、定着地を見つけることもできたのです。それがなくて、探せるわけがない。「判断」する根拠がない。何かを探すときに、あてずっぽうで探すことはあり得ない。
どういう場所・土地なら暮せるか、どういう空間なら夜を過せるか、そのイメージがなくて適地を探すことはできず、適所をつくることもできない、ということです。
つまりそれは、いつか書いた(「住まい」の)「必要条件と十分条件」についての「確としたイメージ」。

はたして、現在、私たちは、彼らと同等の「感覚」「感性」を持ち合わせているでしょうか?
ことによると、現代の人たちの多くは、(「住まい」の)「必要条件と十分条件」についての「確としたイメージ」抜きで、いきなり「形体」そのものをイメージしているのではないか、と思いたくなります。
なぜなら、つくられる「形体」は、なるほど「写真映り」はいいかもしれませんが、その「形体」によって生まれている「空間」は、正直言って、馴染めない、そういう例が多いように思えるからです。

私の暮す町の一角、当然あたりは畑地と混交樹林が広がっています、そこに最近保育園が建った。
壁は真っ黄色に塗られ、越屋根の壁面は真っ赤。壁には丸窓が配されている。「配されている」と書いたのは、その窓の配置に意味があると思えないから。
どうも、こども向きの建物だから、派手な色彩がいい、面白い形がいい、そう思っているように窺える。それが多分、設計者の「保育園」観。こどもが面白がるだろう・・・。それは勝手な想像、というより思い込み。
「保育園」に通う、とはどういうことか、それが失念されている。
なぜこどもを預けるか、こどもはそこでどう一日暮すのか、・・・保育園とはいったい何か、そういった「問い」は、多分、設計者の念頭にない。ことによると、保育園の創設者にもないに違いない。もし、あるのならば、こんな建物ができるはずがない・・・。

最近、大方の建物が、一時に比べれば比べものにならない経費を費やして、根本に於いて、同じような《思考》でつくられている、私にはそのように思えます。
そしてそれは、かつて当たり前であった建物づくりの「作法」が失せたのと、軌を一にしている、そのようにも思えます。

つまり、「建物をつくるとはどういうことか」という「問い」がないのです。

次は、「作法」から離れて、その先へ。

建物をつくるとはどういうことか-12・・・・建物をつくる「作法」:その2

2011-01-10 21:25:45 | 建物をつくるとは、どういうことか
年を越して、先回の続きです。長くなりそうですが、よろしく・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[語句追加 12日 19.00][註記追加 12日 19.06]

先回、原地形図を推定してみた土地を、定住地にしようと決断した人たちは、どこに最初の拠点を設けたでしょうか。
もちろん、この人たちの場合、現在のように、ここからここまでが敷地、という「縛り」はありません。
あったのは、多分、「この辺り」という感覚。これは、まったく純粋に、そこに既存の地物のつくりだしている空間そのものに接しての判断のはずです。

彼らは突然通りすがりにこの地を見て即座にとどまることを決めた、とは考えられません。何度か下見をしているはずです。
とりわけ、農閑期:冬は、樹林も透けて見通しがいい。そのころに見定め、準備をしてこの地にやってきた、そう考えられます。

彼らが見たとき、一体はどんなであったか、勝手に地表の様子を想定して見ました。
丘陵上は広葉樹、針葉樹が入り混じり、裾には潅木、蔦のたぐいが生い茂り、そして前面の低地は葦原。
林の中には、いく筋ものけものみち、葦原には水鳥たちが群れ、空には鳶が輪を描いている・・・。



彼らは、どこに建屋をつくろうと考えたでしょうか。
もちろん、その建屋も、現代風に部屋がいくつ・・・、などというものではありません。それまでも暮していたであろう、草葺き(茅葺き)の「一つ屋根」の建屋。大体大きさも形も決まっている。当座暮せて簡単につくれる大きさであたりまえの形(多分、寄棟型)。
その意味では「とりあえず」の建屋。

彼らには、その建屋を建てたとき、まわりにどのような空間が生まれるか、多分見えていた。隅々まで、想像できたに違いありません。
そのあたりは、現代人よりも感性が研ぎ澄まされていたはず。なにしろ、毎日、「自然」の(空間の)中で暮してきたのだから。
   
   これは、言ってみれば、テントをかついで山に入り、その日の宿営地を決める、その感覚と言えるでしょう。
   ここが宿営地、と決められているわけではなく、自ら場所を探して決めなければならない場合です。
   最近、決める「感覚」が衰えている、つまり、まわりを観ることがヘタになっている、
   という話を聞いたことがあります。

たとえば、建屋の北側。どうしても、建屋の影になる。建屋と既存の山肌でつくられる「狭間」、その醸しだす「雰囲気」も、十分に知っている。だから、山肌と「ころあい」の「空き(あき)」をとったに違いありません。
適切な「空き」がなければ、そこは陰湿で、何ものかが潜んでいる、と思いたくなる場所になってしまう・・・。そういう経験があるから、「ころあい」が分っているのです。

つまり、建屋のまわりに、新たな建屋と既存の地物との「共同」により生まれる新たな空間を「見定める」のです。
そういう「心積もり」を咄嗟に行い、おそらく、地形上の「潜み」の最奥ではなく、その「潜み」の感覚的に見て「重心」になる位置に場所を定めたはずです。
彼らには、建てる位置の選択は、比較的容易な「作業」だったと思われます。

   私は、建物づくりの「素養」として、
   いわゆる「造形」の「センス」よりも、先ず、
   このような、「場」が人に抱かせる「気分」を嗅ぎとる「感性」「習性」を、
   身に付けること、身に付ける学習をすること、が肝要ではないか、と考えています。
   「造形」を生み出す「根幹」としての感性です。
   これは、幼い子どもなら大抵持っている感性。
   大人になればなるほど、どこかに捨ててきてしまう感性・・・。
   捨てるまではしなくても、気付かなくなる、忘れてしまっている感性・・・。
   もっとも、もしかすると、最近は子供たちは、いっぱしの《大人》化しているのかも・・・。

   ここまで書いて、私は学生時代を思い出しました。
   その頃、「気分」だとか、空間の「雰囲気」などということは、口に出すことさえできなかった。
   偏狭な《唯物論》が蔓延していたからです。実は、数値至上主義はその延長上にあるのです。
   そのとき私を勇気付けてくれた書の一つが、S・K ランガー著「シンボルの哲学」(岩波現代叢書)。
   「思い描く」:conceive ( concept :「概念」の母語)とはどういうことか、
   「ことば」とは何か、・・・私の「悩み」を取去ってくれたのです。
   
   今も出版されているかどうかは不詳です。[語句追加 12日 19.00]


前にも書きましたが(下記)、原初的な住まいの空間は、「一つ屋根」で出入口が一つ。つまり「ワンルーム」。

  http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3

そして、出入口は、多くの場合、と言うよりほとんどが、南側に向いている。晴れた昼間なら、僅かにそこから陽が差し込む。

   あくまでも日本での話です。
   乾燥地域なら、立派な屋根を被っていなければならないわけではない。
   それは、以前、中国西域の住居の紹介で触れました(下記)。
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b [追加 12日 19.06]

これは、大方の建屋が草葺の時代の話。
もし現代だったら、彼らはどうしたでしょうか。

やはりそのとき、彼らは、この地に建てる建屋の姿、こうあった方がよい、と思われる建屋の姿恰好を、即座に思い浮かべたに違いありません。
なぜなら、彼らなら、この地に建てるには、材料は何がよいか・・・、判断できたはずだからです。
彼らの感性なら、材料の特性を見分けることなど、朝飯前。
何せ、机の上ではなく、地べたの上で考え、蓄えてきた知見は並大抵のものではないはずだからです。
なぜなら、そうしなければ、暮す、と言うより、生きてゆくことができないからです。
そしてそれこそ、「今の」現代人に欠けている「能力」。

   いろいろな場面で、この頃、小中学校で、工作の授業があるのかどうか尋ねると、
   どうやらないらしい。
   私は子どものころ、木材でいろいろなものをつくった記憶がある。そして、ちゃんと塗装もかけた。
   そういう工作を通じて、木の特性、鋸の曳き方、釘の打ち方・・・などはもちろん、
   材料の組み方:どうすると強くなり、どうすると壊れやすいか・・・なども「実感」として身に備わった。
   これはそれこそ「地べたの上」の学習。
   机上で得る知識、人に口頭で教えられる知識・・・とは雲泥の差。

   だから、「実物大実験」で揺さぶらないと「分らない」、と言う方がたも、
   下手でもいいから自ら加工して(大工さんに頼まないで)組み立てるならば、
   どうすると弱くなり、どうすれば強くなるか、材料にどういう具合に力が伝わるか・・・体感でき、
   実験台で揺さぶらなくても「理解できる」はずなのに、と私は思っています。
   そうしてから「理論化」しても遅くはない。

ところで、これがきわめて大事なことなのですが、
こうして建屋の位置を定めるとき、彼らは、好き勝手に目の前の地物を扱ったわけではありません。
当然のことですが、そこに住み着くには、伐採しなければならない樹木もあったはずです。けれども、その伐採は、決して現代のような皆伐ではなかった。

もちろんそれは、現代のような機械・道具がなかったためにできなかった、そういうわけではありません。
そういう道具があったとしても、そういうことは彼らはしなかった。
なぜか。
それら地物は、彼らとともに在る親しい「友だち」、「心を許しあえるものたち」、言うならば、そこに暮す人びとと地物は、「一人称の世界」にいたからなのです。
これが、現代との大きな大きな違い。
木を伐ったり、建屋を建てるにあたっては、かならず「許し」を請うていたのです。
その形式的名残りの一が、今では単なる安全祈願と見なされることの多い「地鎮祭」。

この「一人称の世界」にいる、という認識こそ、人びとの当たり前の所作だったのです。
つまり「作法」。 

   先日、秩父の山深い村で、かつて自ら営々として築きあげた、しかし今は耕作をやめざるを得なくなった段々畑に
   いろいろな花木を永年植え続けている高齢の農業者のご夫婦の話をTVで観ました。
   「道を行き交う人たちだって、その方が楽しいでしょ」、それが花木を植え続ける理由。
   それを観ながら、私は「多摩ニュータウン」の建設時の光景を思い出していました。
   あの一帯は、多摩丘陵として永年親しまれてきたハイキングコースがいっぱい。
   小学校の頃、よく行ったものです。野猿峠、なんていうところもあった・・・。
   そこで為されたのは、樹木を伐採しつくし、丘を削り、谷を埋める・・・、まさに現代的「開発」でした。
   そういう場合にも、地鎮祭は行なわれる・・・。虫がいい。

以上は、地物だけの空間の場合。

まわりに、地物のほかに、すでに「人為の空間」があるならば、どうするか。
つまり、現在のように、「敷地」という「縛り」がある場合の話です。
「敷地」には、ここからここまで、という範囲があり、周辺には地物もあれば人家もある。

こういう所に居を定めようとするときも、往時の人びとなら、その為すことは、基本的に変りはないはずです。
すなわち、「そこにある全て(地物、人為、人びと・・)とともに「一人称の世界」にいる、という「認識」には変りはない。

たしかに、自然界だけの場合にはなかった「自分以外の人びとの暮し」がそこにはあります。
けれども、その場合でも、彼らの為すことは、本質的に、対自然・地物と同じなのです。
何かをする以上、対自然・地物と同じく、「許し」を請う必要があるのは当然だからです。

ただ、現代、というよりも現在:最近、それをしなくなっただけ。
往時の人びとは、自らの所有の土地の上であっても、私権よりも先ず「一人称の世界に在ること」を第一に考えたのです。
そうしなかったら、その地で暮せないではないですか。

「現在の慣習」で、ものごとを見てしまうのは誤りです。
というより、その「慣習」では、往時の人びとの所作は理解できないでしょう。
彼らは非合理的だ、などと思うのはもってのほか。彼らの方が真の意味で「合理的」である、そう私は思っています。

   最近の流行言葉に「孤独死」「無縁社会」「絆」・・というのがあります。
   なぜ、こういう言葉が流行るのか。

   私は、その根に、建物や都市に係わる方がたの「無思慮」がある、と思っています。
   彼らが「そういう街」にしてしまったからなのです。
   かなり前に、阪神・淡路地震後の「復興」によって、路地が巨大な道路に拡幅され、
   路地で為されていたご近所付合いをなくさせた「都市計画」の話を書きました。
   また、目の見えない方が、
   「復興」でなされた「区画整理」で、街がさっぱり分らなくなってしまった、という話も紹介しました(下記)。
   あれもこれも、そういうことを推し進める人たちに、
   私たちと私たちのまわりの空間との関係についての「認識」が欠如しているからだ、と私は思います。

    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d47097a3494ceec540ed351a5af923c7
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5b5b07639df7d272f95aa662563b80f1
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/f8ef77f2085412cf444490064b27f8f2


このように考えるのならば、
今、人びとが為すべき「所作の在り方」、「作法」は、
往時の人びとが為してきたそれと、何ら変りはないのです。変るわけはないのです。
きわめて、簡単なこと、容易なことではありませんか!

それとも、変らなければならない、変えなければならない、「何か」があったでしょうか?


ここまでお読みの方の中には、なぜ、想定するのが「一つ屋根」の「ワンルーム」なのか、という疑念を抱かれる方が大勢居られると思います。
「住まい」とは「室:部屋」の集合体、それに「形」を与えるのが設計である、とお考えの方が多いのではないか、と思われます。そう教えられてきたからです。

たとえば、住宅にかかわる広告の《指標》自体、〇LDKなどというのが当たり前です。あたかも、「室:部屋」の数が「住居の価値」を決めるかのようです。

   下は、最近のタウン紙にあった広告。
   

   敷地が狭いのに(170㎡:50坪強!)、部屋数を「追求」するため、部屋の大きさは小さくなります。
   これは、まだいい方です。
   なお、「住まいの原型」で示したA~Cゾーンで、この住まいを仕分けてみてくださると、
   最近の「設計思想」「住まい観」が見えてきます。

これは、戦後の公営住宅の「計画」の「指針」のなせる結果なのです。
もう知っている方は数少なくなっていると思いますが、公営住宅の計画にあたっての「目標」に「食寝分離論」というのがあった。
要は、食事をした場所で寝る、などという暮し方はもってのほか、という論。
狭い室で、流し台を目の前にしながら食事をするというなんとも惨めなDKというのは、「食寝分離」を「促進させる」ための発案だった・・・。
隣りの、寝るべき室:六畳間で座卓で食事をする、などというのは「遅れた生活」だ・・・と非難された。本当の話です。
ここで、六畳という大きさが提言されていることにも注目。
かつては、六畳というのは、次の間、控の間の大きさだった!
これについて語ると、それだけで長くなってしまいますから、それはこれでお終いにします。

ただ、その結果、住居は「室:部屋の数」こそすべて、と考える「悪習」が、世の中に広まってしまったのです。
住居とはそもそも何か、などというのは、無意味な「そもそも」論だ、として、まったく無視されました。「本質」なんてものはない、という《思想》の時代。
この《考え方》から脱するのは並大抵のことではありません。まさに柵(しがらみ)。

しかし、洋の東西を問わず、人びとがつくってきた「住まい」は、「一つ屋根」が基本、そして根源は「ワンルーム」、というのは厳然たる事実なのです。


今回は、ここまでにします。次回、その次の展開を考えてみたいと思います。

建物をつくるとはどういうことか-11・・・・建物をつくる「作法」:その1

2010-12-23 21:41:54 | 建物をつくるとは、どういうことか
[図版更改 24日 7.53][解説追加 24日 7.53][註追加 24日 10.14][誤字訂正 25日 14.50]



上の航空写真、
左は、長野県の旧城下町松代。ほぼ中央にある空地の北側が、いつか紹介した「横田家」。
ここは武家の屋敷があった一帯。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/dac1f08f6f94048c9a901238889f7d9e参照
右は、最近の比較的敷地が大きい分譲住宅地。1戸当たり平均約250㎡。
ほぼ同じ高さからの撮影(若干、右が低い高度から)。

そして下は、左が松代の通りの風景(航空写真とは別の場所)、右は上の住宅地の東側の通りの風景。

明らかに、この両者は、上から見ても地上で見ても、違いがあります。
この違いに(違いが生じることに)、重要な意味がある、と私は思っています。



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先回の記事は、10000字制限を越えてしまい、お終いのあたりで、かなり端折らざるを得なくなり、紹介するはずだった、ある方のブログの「失われた『作法』」を問う記事を載せることができませんでした(「伝統的建造物群保存地区」に指定された町で建築設計事務所を自営されている方のブログ。紹介の了承は得ています)。

そこで、今回あらためて要約、抜粋して紹介させていただくとともに、その話題をきっかけに、このシリーズの「本題」に近づきたいと思います。
   なお、地名や建物名などの固有名詞は、変えたり消したりしてあります。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

・・・・・
私の住む「伝統的建造物群保存地区」の裏手に建設中のある公共施設の建物を見つめながら想うこと。
それは、この地域に、何故このような造形の建物なのかな?ということ。
・・・・・
遠くから見ると、結構目立つのです。
まだ建設途中ですので、どんな感じの建物になるかはよくわかりませんが、素朴にその「形」の意味を問いたくなります。
・・・・・ 
私は決して「伝統的建造物群保存地区」だからといって「伝統的な造形」を期待しているのではありません。
公共施設は住宅に比べ規模も大きく目立ちます。
だからこそ、地域においてはシンボリックな建物になります。
「伝統的建造物群保存地区」周辺には「景観形成協定」に従う区域が定められています。
この公共施設の建設地は協定区域外ですから、協定は関係がないということなのかもしれませんが、
そこは、設計者の良心といいますか、造形に関しては・・・設計者に委ねられている領域であるが故に、
もう少しだけ配慮があっても良いのでは?と思ったのです。
・・・・・

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

これは、この方が住む町内に建つ新築中の建物への感想です。
現在の《建築の世界》では、同業者は、他の方が係わる仕事に、だんまりを決め込むもの、まして同じ町内ならなおさらです。
それを、堂々と発言されたことに、私は敬意を表したいと思うのです。
そうであって初めて世の中はよくなる筈、そう私は思うからです。
しかし、今は、「意見を言うこと」「批評すること」を「非難すること」と勘違いして、誰も意見を言おうとしないし、人の意見を聞こうともしない・・・。

そしてまた、「伝統的建造物群保存地区」に暮しながら設計を業とされているこの方が、「伝統的な造形」を期待しているのではない旨語っていることも、私は共感を感じます。
「伝統的建造物」と「同じような形の建物をつくる」ことが「よいこと」であって、「同じ形をつくらないと保存地区がダメになる」というのが普通の考えだからです。
何度もいろいろなところで書いてきましたが(下記など)、問題は「形」ではない、そのような「形」に至った「考え方」が大事なのだ、そのように私は思っています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5dbdeed98070cf36ba0536d48231dc94 
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/448089f04f15d7c77597d27b15d7625b [註追加 24日 10.14]

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記事には、工事中の遠景と、模型を俯瞰した写真も載っていました。
模型は敷地全体がつくられ、樹木等も配されています。
遠景の写真を見ると、たしかに周辺の風景に馴染まず、「浮いて」見える。

私は次のようなことを推測で読み取りました。
多分、この建物の設計は、「敷地図の上」でのみ、考えられたのだろう、
その「形」もまた、その平面の上で、平面を上から見ながら考えたのだろう、と(模型も使ったかもしれませんが、それも上から見ていたに違いない)。

現在、役所に提出する設計図書(「づ・しょ」と読む)には、敷地の範囲を示す「敷地図」とともに、その敷地がどこにあるかを示すための「案内図」を付すことが要求されます。
だから、設計者は、敷地周辺の地図を求める。多くの場合は、市町村が発行する「都市計画図」。この地図は、基本的には「地形図」です。つまり地形・地勢と地物が書き込まれている。
しかし、昨今、この地図はもっぱら「案内図」のために使われるのが普通のようです。地形・地勢などは余計なもの。


ここで、紙上で一つの「実験」をしてみたいと思います。

ある計画のための「敷地」があるとします。
その敷地には、一辺に接して道があるとしましょう。敷地には、その接線上のどこからでも取り付くことができるわけです。

初めて敷地を見に行くとき、その道を歩いて、あるいは車で近づきます。
車の場合でも、どこかに道を置いて、歩いて敷地に近づくでしょう。
場合によると、車を敷地の中に置くことがあるかもしれませんが、たいてい敷地の外に出て、道を歩いてみる。
多分、道を右から歩いたり左から歩いてみる筈です。そして、特に、普段その敷地に近づく方を重点的に歩いてみる筈です(そうするのが当たり前だと私は思いますが、そうしない人もいるかもしれませんし、あるいは敷地も見ない《達人》もいるかも知れません・・・)。

そのとき人は、敷地に接する道の「ある所」で立ち止まって敷地の方を見るものです。
ところが、この「立ち止まる『ある所』」は、人によらず、ほぼ同じ辺りなのです。
ただ、この「事実」に気付いている人は意外と少ないかもしれません。
ほんとかな?と思われる方は、どこか初めての場所で験してみてください。

これは何を意味しているか。

敷地内はもとより、敷地の四周には、かならず、いろいろな地物、あるいは、いろいろな建物が「既に」あります(当然、道を挟んだ向い側にある地物・建物も含みます)。

そのような敷地の前に立ったとき、人は誰もが、「敷地(測量)図」に示されている「単なる平面的広がり」を見ているのではなく、これらの地物・建物などによって「その敷地に生まれている空間」を「見ている」のです。
とりわけ、四周の既存の地物・建物がそれに大きな影響を与えていることに、特に注意したいと思います。
そしてそれは、「見ている」と言うより、「感じている」と言った方が適切でしょう。
なぜなら、そのとき人は、物理的な意味での三次元の「空間」の形を見ているのではないからです。
人は、敷地のそこここに、ここはイヤだな、暗いな、とか、気持ちがいいな、気分が高まるな・・・という「場所」を感じている、見て取っている筈なのです。
しかもそれは、人が「無意識のうちに」、しかも「咄嗟に」やってしまっている「作業」なのです。

これも、ほんとかな?と思われる方は、どこかで験してみてください。

   この「咄嗟の」判断は、子供たちにもあります。と言うより、子供たちの方が敏感かもしれません。
   かなり昔のことですが、ある方の設計した住宅団地内に建つ幼稚園を、その方の案内で見に行きました。
   幼稚園には、保育室に接してベランダがつくられていました。
   それは北向きで、その前方には北に向って緩い傾斜地が広がっています。
   なんでこの位置にベランダ?と私は思いました。誰も出ていません。物置きになっている様子。
   そのとき、設計者の方は、折角つくったのに使ってない!もったいない、と呟いたのです。
   えっ?と私は思ったことを覚えています。
   もう半世紀前、学生だった頃のことです。

   その頃のもう一つの先輩に連れられての「印象的」な「見学」。
   対象は、当時盛んにつくられていた公団住宅。
   そこで2つのバルコニーを見ました。
   1つは、バルコニー全体が建物から外に飛び出しているタイプ。
   もう1つは、建物に引っ込んでつくられ、側壁が1面ないしは2面、壁になっているタイプ。
   私が引っ込んでいる方( reccessed balcony と言う)が気分がよさそう、と言ったところ、
   バルコニーはバルコニーで、役目は同じだ、との先輩の言・・・。 

   こういういくつもの「些細な経験」が、私の「学習意欲」を高めてくれたことは否定はしません。
   建物づくりで、新たな「モノ」をつくるって、どういうことなのか?


「敷地に接する道のある所で立ち止まって敷地の方を見る」、その「ある所」は、この「無意識で咄嗟の作業」の「然らしめる結果」に他ならないのです。
ただ、これは一度の「体験」ではなく、日をあらためて行なうと、滅多にはありませんが、「ある所」が変る場合もあります。しかし、普通は同じ所に立ち止まるものです。

もちろん、このとき、「道を歩いてきた、そして敷地の辺りにきた」という過程も大事です。
私たちの日常的に体験している空間は、「常に連続していて途切れることはない」のが普通です(車や鉄道に乗る場合は、「途中」がなくなります。それを「途中の喪失」と唐木順三氏は呼んだ)。

   《都市デザイン》の用語に sequence というのがあります。本来はこのことを指しています。[誤字訂正 25日 14.50]
   これは「重層的に醸成された町・街」の少ないアメリカの研究者が、
   西欧のいわゆる『伝統的』町並の「素晴らしさ」を「研究した」結果見出した「概念」なのですが、
   残念ながら日本では、単なる「視覚の変化の演出」と見なされてしまっています。
   これについては、以前、清水寺の参詣道の話で書きました。
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/262176cccda7b41acd735a3d8f2732ac

この「ある所」、これは、「その敷地に取り付くには一番適した位置」といってよい筈です。なぜなら、そこで、自然に、無理なく、足が止まるのだからです。

この「感覚」は、かつて、ある土地に定住する人びとが働かせた「感覚」と同じものといってよいでしょう。住まう場所を選ぶときの「十分条件」を嗅ぎとる「感覚」、いわば「動物的」な「感覚・感性」。昔使われた言葉で言えば、「本能」。

もちろん、現代人は、かつての農耕者たちのように、農耕に適した土地を探すという切迫した状況にはないのですが、しかし、「住むによい」場所を選ぶという「感覚」は、未だにある筈なのです。

これも、ほんとかな?と思われる方は、日常の行動を振り返ってみてください。

たとえば、親しい人と昼食をとるために食堂・レストランに入る。運よく、空いていた。
そのとき、空いてりゃどこにでも座ってしまいますか?
どこにでも座ってしまうのは、急いでいるとき(あるいは、連れの人数が多すぎて、どうしようもないようなとき)。
普通は、咄嗟に見渡して、空いている席の中で、ここだ、という席を選ぶ筈です(もう少し詳しく言えば、そのときの「気分」:「楽しい話」をするのか、「深刻な話」をするのか:が強く影響しますが・・・)。
この「選ぶ」時の「感覚」、これが「十分条件を嗅ぎとる感覚」なのです。


ある敷地に建てる建物の設計は、「その敷地に取り付くには一番適した位置」を「見つけること」から始まる、と私は考えています。

たとえば、先々回の農業者の集落、その場所の地形図から、そこに定住を決めた人たちが見たであろう当初の地形を推定復元してみました。下図です。



この図の網を掛けた一帯は、多分湿地帯。川がどこを流れていたか、まだ明治の地図を見ていないので不明です。
現在はかなり地形に人工の手が加わっているようですので、じっと眺めて、こうだっただろう、と推定したのがこの図の等高線です。5mおきに簡略化してあります。
定住地を探し歩いていた人たちは、この場所を見つけて、いったい、どのあたりで立ち止まったでしょうか。

そして、何百年後かの現在の一帯の地図が下図。これは以前に載せたものと同じ(下記)。[図版更改 24日 7.53]
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bf4d7fd4ed032ca0d9e5135552610c60



本当は現地で考えてみるのがよいのですが、この場所のように、耕地整理や新設道路が設けられていると、当初の様子は分らなくなっています。
そこで、推定復元地形図上で、当初の姿を想像してみるのです。
図のオレンジの線で囲ったところは、地形を加工した場所。ここでは、切り土して前面に盛り土しています。ただ、盛り土部には母屋は建てない。
左から三つ目の囲いのところは、道路新設にともなう切り通しの箇所。
黄色に塗った箇所は、往時の田んぼの縁が残存しているところ。[解説追加 24日 7.53]

   私の「楽しみ」に、いろいろな所を訪れたとき、特に山村・農村では、
   最初にこの地のどこに住み着いたか、どこから人が住み着きだしたか、想像する「楽しみ」があります。
   その集落で一番いいな、と思える場所に屋敷を構えているのが、その集落の村役である場合が多い。
   そして、その辺りから住み着きだした、と考えると、大体の場合、納得がゆく。


建築の設計とは、建「物」をつくることではなく、「空間をつくることだ」、ということは以前に書いたと思います。それは、もちろん、建物に内包される空間のことではありません。
すなわち、「その敷地に存在していた空間とは異なる空間をつくってしまう」ことです。
別の言い方をすれば、「既に存在していた空間を『改変する』こと」です。
さらに言い方を変えれば、「既存の空間を『破壊する』こと」でもあります。

それゆえ、その敷地に新たに建物をつくるときには、「そのような改変・破壊をしても構わないかどうか」「問題は生じないかどうか」ということについて考えなければならない、と私は考えるのです。

なぜなら、「改変・破壊を気まま勝手にしていい」という「権限・保証」を、私は誰からももらっているわけではない筈だからです。
それとも、敷地の持ち主、すなわち建物の建て主は、私に、その「権限」を与えてくれているのでしょうか。
仮にそうだとして、敷地の持ち主、すなわち建物の建て主は、そこを気まま勝手にしていい、という「権限・保証」を、持っているのでしょうか。誰からもらったのでしょうか?
その土地:敷地は、自分が自分の金で購入したのだ、だから私の「自由である」ということなのでしょうか。土地代で、「気ままに振舞う権限」を手に入れたのでしょうか?
もしそうだとするならば、ローンで買った場合、完済しない限り自分のものではない、その間は「自由にはならない」ことになりますが、そのときは、貸主に権限があるのか?

実は、ここが大きな「分かれ道」。

かつて、人は、自分の土地だからと言って、私有権の優先、主張を唱えなかった。「かつて」とは、つい最近、今からほぼ半世紀前、1950年代までのこと。
その後、人びとの感覚が変ってしまい、現在に至っている・・・。これについては、先回触れました。

今では、建築の設計に係わる人の中で、「ある土地に建物をつくる」ことは、「そこに既に存在していた空間を改変・破壊することだ」と考える人はきわめて少なくなってしまったようです。
それでいて、「建築家」も「建築評論家」も、環境、調和・・・を語る。これは、まさに「矛盾」の論理以外の何ものでもない。

皆、「まわりを見ずに、敷地の中だけで」ものごとを考えている。
「敷地という板」の上で粘土細工でもするように、好みの造形をする。それはたしかに「楽だ」。見えているのは板だけなのだから。
しかし、「粘土細工の載った板」なら、「押入れに仕舞う」ことはできる。
しかし、敷地というのは、それはできない。そのことを忘れている。

今回の初めに引用させていただいたブログの記事は、このことを問うているのだ、と私は思います。

   最近の「建築家」の中に、自分の「思い入れ」を建物という形にする方が居られます。
   なかには「環境造形」などと言う方がたもいます。
   その場合、「環境」とは、彼らがその「思い入れ」を描くキャンバスに過ぎないのです。
   それが、その方のものであるならば(つまり、自分が全費用をまかなっているならば)、
   まだいいでしょう(もちろん、傍にとっては迷惑ですが、そんなことは気付かない)。
   しかし、誰かが、特に公共的団体などがまかなうのでしたら、それは論外だ、と私は思います。
   けれども、そう思うのは「異端」らしい。「建築評論家」は、皆そういうのを称賛しています。
   そして「悪いことに」、偉い人がそう言うのだからとして、一般の人もそれを追いかけ、もてはやす・・・。


またまた大分長くなってしまいました。
敷地にやっとたどり着いたところで、この続きについては、次回に考えることにします。

建物をつくるとはどういうことか-10・・・・失われてしまった「作法」

2010-12-17 18:38:12 | 建物をつくるとは、どういうことか
[註記追加 18日 8.00][文言追加 18日 8.19][文言改訂・追加 18日 10.32][文言改訂 18日 19.07、20日 7.16][誤字訂正 1月5日 14.48]

先回、農業者集落、商業者集落・・など、その原初的な「集落」の諸相について見てきました。
人びとが、それぞれの暮らしに応じて「適地」を選んで「定住」し、それぞれの仕事・業種を越えて交流する、その拠点が「集落」であった、と言えるでしょう。[文言改訂 18日 19.07]
そして、この場合の「人びと」は、「任意に集まった人びと」ではなく、「その場所で暮すことに意義を認めている人びと」の筈だ、とも書きました。「意義」は「必要」と置き換えた方が分りやすいかも知れません。

通常、「村」「町」・・も、「聚落」「集落」の概念に含まれる、とされてきましたが、現在の都会の「町」をもこの概念に位置付けるのには躊躇いがある、とも書きました。
「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」と思っている人びとが暮している一帯を、「聚落」「集落」概念に含めることができるのか、含めていいのか、ということです。

なぜなら、「今風な町の姿」を見慣れてしまうと、それが「本来の町の姿」だという「思い込み」が生じてもおかしくないからです。
さらに、一番気になるのは、建築の設計や都市の計画に係わる方がたが、そのあたりを十分に認識・理解しているように「思えない」からなのです。それでいて「町」の話をしている・・・。

   世の中に「筋かい」を入れる木造建物が増えた結果、
   それが、木造建築の唯一・絶対の姿であるかの「思い込み」が《常識》になった。
   「町」についても、同じ現象が起きているのではないでしょうか。
   
下の航空写真は google earth の筑波研究学園都市の開発地区と非開発地の接点部分を撮ったもの。
撮影は比較的最近、2007年4月。筑波新線(通称TX)開通の2年後。写真に付いている経度・緯度は消しました。   



写真のAと記した場所は、この一帯に点在していたかつての農村集落の姿をとどめている既存の集落の一部。

   学園都市の開発地域で、消失した集落はありません。
   学園都市の開発地域内は、飲み水:井戸に恵まれず、集落は生まれなかった。
   第二次大戦後、入植が試みられましたが、撤退しています。
   開発地域は主に山林や畑地。水田も変りはありません。ただ、田の水質は悪くなった・・。

Bは、開発によってつくられた公務員宿舎群。緑色の屋根は(緑色は、陸屋根のシート防水の色)、大半が二階建ての連続住戸。
Cは、元は樹林や畑地だったところで、かなり初期に、開発地の隣接地につくられた新興住宅。と言ってもほとんどが二階建ての小世帯向けの共同住宅。
そしてD。ここは、元はBの続きの公務員宿舎があった場所。[誤字訂正 1月5日 14.48]
筑波新線開業にともない、居住者が減ったため取り壊され、跡地を民間に転売。そこに新たに建った二階建ての分譲戸建て住宅。一戸あたりの敷地はおよそ150㎡。
《筑波新線効果》で地価が上がったので、このくらいにしないと採算が合わなかったからだそうです。

   筑波新線の開業以来、筑波研究学園都市の当初の「ベッドタウンにはしない」という「理念」は破綻しました。
   沿線は、日本の「常識的、現代的」開発がされ、駅前には東京と間違いそうな高層集合住宅の群れ。
   研究学園都市の研究機関に勤める方がたにも、この「都市」に住まない人が増えた。
   そこで、多くの宿舎群が民間に売却されたのです。 


そこで、A、B、そしてDについて、その地への「定着のしかた」を比較してみたいと思います。

Aは、先回触れた一般的な農村集落と構え方は同じです。そのクローズアップが下の写真。



全景の写真で分るように、ここは、西北から東南に流れる霞ヶ浦にそそぐ小河川のつくった低地へ下る緩やかな東~南向き斜面。低地は水田(この写真は圃場整備後の姿。かつては、小川が蛇行していた)。
樹林のあるあたりが台地の最高所。
緩斜面のやや高い位置にある「屋敷」は高所の樹林を背に、東~南に向いて、
川に近い場所では北~東に樹林を残し、やはり東~南に向いて構えているのが分ります。
これは、台地上を吹き抜ける北西風や、川沿いに吹いて来る風を避けるためと考えられます。
樹林はいずれも現在は人工林ですが、当初は台地一面が原生の樹林:混交林だったでしょう。
そういったところに屋敷を構え、そのまわりの台地の樹林を切り開き畑地とし、河川沿いの田んぼで耕作を営んだのです(この地域では、近くても耕作向きではないところが多くあった)。そして、江戸時代初期には、村の形が定まっていたようです。

   先回紹介した集落の墓地には、元禄の年号の入った墓誌がありました。
   ここは、それよりも新しいようです。

   ここまで集落の紹介はしましたが、農耕の内容を触れていませんでしたので、あらためて紹介します。

   細谷益見という方が著された「茨城県町村沿革史」という書が出版されています。
   自身の資料として編纂したものが明治30年に篤志家の手で刊行されていて、
   昭和51年(1976年)に地元の出版社:崙(ろん)書房が復刻(影印版:写真による復刻でしょう)。

   それによると、この地域の物産は、米・麦を主、その他大豆、茶、藍、綿、繭(養蚕)、煙草などとあり、
   各集落で産品は異なり、自家の用を越えた分は、外へ出荷していました。
   それを扱ったのが、先回触れた交通の要衝に定着した近在の商業者たち。

    註 この地域の鉄道について
       水戸線 小山~水戸 1889年(明治22年)全通
       常磐線 田端~友部 1896年(明治29年)全通
       したがって、明治30年には、地域の南北に鉄道があった。
       しかし、一般の利用は当時は少なかったと思われる。
       この書の記述内容は、江戸末~明治初期の状況だろう。[註記追加 18日 8.00]

   現在でも、ところどころに茶畑も残り(もっぱら自家用のようです、今が花時)、
   放置された桑畑(これが桑?と目を疑うような大きさにまで成長しています)、
   煙草の乾燥小屋も残存しています。
   どの集落の近在にも、自家用の薪炭のための山林がありました。その姿が「雑木林」。
   薪炭を特産としていた地区もあります(水運で江戸へ送っていた)。
   薪炭が不要な時代になり、薪炭林は元の混交林に戻りつつあります。
   今「里山」という新語で呼ばれているのが、主にこの薪炭林。
   地域の暮しがつくりだした人工風景で、「自然」の風景ではありません。
   薪炭の需要が減り樹林は「元の姿」に戻りつつあります。「荒れた」のではない。

屋敷の大きさは、小さくても一戸当たり1500㎡はあると思われます。Dの戸建て住戸の10倍以上はあります。

先回の農家の屋敷の解説では触れませんでしたが、
「屋敷」には、「母屋(おもや)」、「離れ(隠居)」、「までや」(この地の呼び方で納屋:までる=片づける)、そして各種の小屋(木小屋、農具小屋、資材小屋・・・)が構えられます。
「母屋(おもや)」と「離れ(隠居)」は平屋建て。
一般に「隠居」は「母屋」の半分より小さく、八畳二間程度に便所が付く。
「母屋」に当主一家、「隠居」に先代の当主夫妻が暮す。
このパターンを代々繰り返す。「屋敷」は「二世代住居」になっているわけです。

「までや」は二階建てが普通で、前面に吹き放しの1間~1間幅の「下屋」が付くつくり。
「下屋」は一方~二方に付く典型的な「上屋・下屋」形式。「上屋」部分が土蔵造になっている場合もあります。
「までや」には、比較的「重要な」ものを納めていたようです。
しかし最近では、その2階部分を、母屋の子どもが自分たちの部屋にしたり、子ども夫婦の住居にする例も増えています(そうなると三世代居住です)。
1階は、たいてい農作業をしたり、農機具が置かれていたりします。

どの「母屋」でも、その正面に玄関があります。南向きの家なら南に、東向きの家なら東に付きます。
これは、かつての大半の武家の住宅と同じ。道が北側にある場合でも、わざわざ南に回り込んで玄関があるのが普通のようです(以前に紹介した裏側:北面に玄関のある長野・松代の武家住宅「横田家」は、異例かもしれません)。
   私の住まいは、そういう集落の中で、北側が玄関。珍しがられたようです。

では、Bでは住戸はどのように構えられているのでしょうか。下がそのクローズアップ。



部分の写真では分りにくいですが、全景の写真で、緑色の屋根の一帯の中央を、左下(南西)から右上(北西)に走る樹林の帯があります。これは、歩行者専用の道です。
この左下にさらにしばらく行くと、バス停とショッピングセンター。そこから伸びてきて、その全長は約1kmほど。
   
各住戸の玄関へは、この歩道から通じます。
先の斜めの歩道に直交して櫛の歯型にやや細めの樹林の帯が見えますが、それが各戸の玄関に至る歩行者用の道です。

この地域では車は不可欠。公共交通機関:バスを使うと、時間がかかる。
車ではどうやって各戸に近づくか。
この緑色の屋根の住宅地を囲んで舗装道路があります。それに直交して、先の細めの樹林の帯と交互に平行している樹林の少ない細い道が見えます。これが各戸への車の専用道。

つまり、歩く場合と車を使う場合では、住まいの出入りが原則別ルートなのです。

これは、筑波研究学園都市の開発計画の《理念》の一つ、《歩車分離原則》に則ったもの。

   この《歩車分離原則》は、大半の公共的施設にも「適用」されているため、多くの混乱を来しました。
   多分、今も後遺症があるのではないでしょうか。
   建物には、必ず歩・車それぞれ専用の出入口が必要。
   「計画主導者」から「歩」を優先することが求められ、歩道側が表口になる。
   ところが、多くの人は、来客も含め、この町では車を使う。
   そこで、人は常に、裏口、非常口のような玄関から入るハメになる。

だから、この住居から外へ出るには、車か歩きかで、出向く方向が違うのです。
車で出かけるとき、すべてがそうではありませんが、極端な場合は玄関を出て目の前に歩道を見ながら住戸の裏側へ向うことになります。
歩いて出かけるときは、違和感はありませんが、この歩行者専用道を歩くのは、人さまの庭先を過ぎることになるため、気分はよくありません。
専用歩道は、幅は樹林帯を含めると結構幅があるのですが、そこから各住戸までの距離がない。
この構想の源は、欧米の都市郊外住宅地の道から各戸までの間に芝生が広がるイメージだと思われますが、欧米のそれに比べると、圧倒的に「幅」「距離」が足りない。それゆえ、人さまの目と鼻の先を過ぎる恰好になってしまうのです。
ここを歩くのを嫌って、わざわざ街区のまわりの車道に出て、そこの歩道を歩く人が結構います。たしかに気分はいい。第一、見通しがきいて分りやすい(学園都市の歩行者専用道は、いろいろと《デザイン》されているため、分りにくい)。

何十台、何百台という車が往き来する道ならともかく、この程度の車の往来に対して歩車分離をする、という「発想」は、どう考えても腑に落ちません。
この地域では、今や車は生活の必需品。車で動くことは「悪」ではない。
農家の屋敷に行けば、屋敷内には車が3台から5台は並んでいて、いずれも、堂々と「正面」から屋敷に入ります。何の不都合もない(屋敷は、これらがとまっても問題のない広さがある)。Bの住戸に暮す人たちも、車は必需品。車2台が多い。しかし駐車場がない・・・。

この住宅地の「構想」者には、「住まいとは何か」、という根本的な問いが欠けていたのではないか、と私には思えます。  
写真を見ると、各建物が、道路(車道、歩道とも)に対して、微妙に角度が触れています。
これはなぜなのか。
一つは、なるべく南向きにすること、もう一つは、道に平行では「単調だ」、ということではないか。それ以外の理由は、私には見つからない。

新聞や折込広告の、建売り住宅あるいは分譲宅地の広告で、「物件」の説明として記されるのは、所在地、面積、部屋数、価格、最寄り駅までの距離(時間で示す場合もある)、法的規制、上下水道の有無、周辺公共施設、商業施設等の状況・・・。時には、日当たりのよしあし、平坦・・・などが特記されています。
実は、先の「構想者」の考えている「要件」は、これと大差ないのです。
「住まい」は、このような「条件」を充たせばよいのだ、これが人びとが「住まい」に求める要件だ、と考えられている、ということに他なりません。

けれども、この要件は、人びとが考えていたことではなく、戦後に専門家がつくりだしてしまった「住居像」に基づくものなのです。
その典型が、部屋数が多いほど高品質かの誤解を生んでしまった「住居」の中味をL・D・Kと部屋数で表わす表示法。


ところで、この宿舎に住戸暮す人たちは、車で10分~20分ほどの勤め先へ向います。買い物などをする場所は、大体その途中のどこかにある。
したがって、ここに暮す人の「世界」は、自分の居所と勤め先を「点」と「線」で結んだ鉄道路線図のような形で描かれ、その「線」の途中に、行きつけの商店・食べ物屋・飲み屋、あるいは郵便局・銀行や役所・・などが、これも「点」として描かれていることになります。「線」の両側には、「未知」の世界が広がっています。
しかも、「線」は、ほとんどの人が「車」で描く「線」。当然ですが、この鉄道路線図は、人により異なります。

こういうタイプの生活の場合、農村居住者の描くような同心円状の世界は、描けるとすれば職場の中だけ。しかし、どうやらそれも怪しげなようです。
農村集落に暮す人びとは、互いに互いの同心円を想像することができる。しかし、ここではできない。
つまり、人が、それぞれ勝手に、町や勤め先という器の中で、ブラウン運動まがいの動きをしている。

そして、この新開地の最も大きな特徴は、そこに暮す人びとが、「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」と思っていることではないでしょうか。
これは、まさに、現代の大都会の生活の縮小版。
むしろ、多くの「計画」で、建築や都市計画の専門家たちが、そうなるべく積極的に推し進めてきた、と言えるように思います。
その根底に、専門家たちの描く「住居」、「町」の「像」があると考えてよいでしょう。

都市「計画」という概念が生まれたのは、産業革命が契機と言われています。そして、最初に考えられたのが「田園都市」。
都市に多くの人びとが集中し、高密で劣悪な環境の地区が生じてきた。それを「回復」しようとして生まれたのが、田園:農村への回帰の「思想」。「形」「姿」を整えれば解決する、と考えられたのです。それが「田園都市」構想。
問題は町の「形」「姿」の話ではなく、「社会の構図・構造」の問題であったにもかかわらず、建築や都市計画の専門家たちには、それは念頭に浮かばなかった。今でもその点は同じようです。皆「形」「姿」に走る。その方が「手っ取り早い」。

   田園:農村に「好ましい環境」の「秘密」がある、という「着眼」は正しかったと思います。
   ただ、それを「形」「姿」にのみ求めたために袋小路に陥った、と私は思います。

おそらく、近世までには(近世以前にもあったことだと思いますが)、日本でも、始原的な「町」とは性格を異にする「その土地との関係に必然性のない人が集まる」町ができ、「賑わい」をもつくりだしていたものと思われます。
そのとき、人びとは互いに「無縁」、「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」、だから、それぞれ「自由勝手に」振舞っていいのだ、と考えていたでしょうか。
たとえば、ある街に「新人」が来て、商売を始めるために、土地を求め居を定める。今だってある話。そのとき彼はどうしたか。
決して、自由勝手には振舞わなかった筈なのです。

その明らかな「証」は、かつての「町並」に示されます。

現代生まれている「町並」で、100年、200年後、「伝統的町並」として保存しよう、と思いたくなるような「町並」は、おそらく皆無でしょう。

いわゆる「伝統的町並」は、なぜ選定されたのでしょうか。
それは、そこに、今の町並には見られない、私たちの「感性」を「揺さぶる何か」があるからです。
簡単に言えば、その町並・家並が、そこを訪れ通る人びとに「敵意」を抱かせない、あるいは、あたかもそこで暮しているかの「錯覚」をも起こさせる、そういう感覚を抱かせるからだと言えるでしょう。それが「馴染める」ということ。


   誤解のないように付け加えると、
   現在、とかく「人がたくさん通る、訪れる」ことをもって「活性化」とみなす風潮がありますが、
   それと、「馴染める」こととは、まったく別次元の話です。
   「人寄せ」(イベントという)で人を集め、人の多いことが「いい町だ」という思い込み。
   その根にあるのは、儲けた金の嵩で価値を決める「クセ」。[文言追加 18日 8.19]

では、どうして「馴染める」町並になったのか。

それは、人がある土地へ定住・定着するときの「作法」を、そこに住み着く人びと各々が、心得ていたからだ、
と見るのが最も「理(すじ)」の通った考え方ではないか、と私は思っています。

そしてその「作法」は、人びとの間で、代々蓄積・継承されてきた「作法」。
つまり、古に、農耕者たちが自らの足で探し求め、そして探し出した土地に定着するときに抱かずにはいられなかった「感覚」に基づく「作法」に源がある。
その「感覚」とは、
「土地は、天からの預かりものであって、人の勝手で扱ってはならないもの(自然の理に従うこと)」という感覚であり、
「新たにその地に定住する者は、既にその地にある『もの』(隣人の住まい、既存の地物など一切)の存在を無視できない、してはならない」という感覚です。
   地鎮祭とは、預かりものとしての土地を使わせてもらうことを願う儀式。
   今のような、単なる安全祈願ではなかった。


私の見たところ、少なくとも第二次大戦後間もなくの頃までは、この「感覚」は人びとの間に普通にあったように思えます。

私が高校生であった1950年代後半、通学途中で新しい住居がつくられるのをいくつも見ました。畑の中に100~200坪程度の敷地を求め、平屋建ての住居をつくる。
材料は決して豊かとは思えませんでしたが、高校生の私の目にも、まわりへの気配りの行き届いた、質の高い設計のように思えました(今見直すと、いい建物は、その頃のものに多い!)。
当時、土地は容易に手に入れられるが、建設費が高かったのです。住宅金融公庫はそのためにつくられた・・・。

しかし、これが一変します。
「私有の権利」を最高位に置き、法律の範囲内で、最高の利益を得ることに精を出す「現代的な開発」をもってよしとする風潮が、1962年(昭和37年)に始まった「全国総合計画」を契機として(これを「一全総」:第一次全国総合計画の略:と呼び、以後何度も改変)、一気に蔓延るようになるのです。
その結果人びとの感覚もおかしくなり始めます。
それは、端的に言えば、「地価の上昇」をもって「地域経済の活性化」を諮ろうという施策、「土地は天からの預かりもの」という感覚の「廃棄を勧める施策」に他なりません。
   この施策の立案の中心人物は、建築畑の人物です。時の国土庁長官。

「土地」は、投資・投機の対象となり、地価の上昇を待ち望むようになります。
地価の下落を「悪」と見なす傾向が普通にさえなっていきます。地価の下落を、誰も喜ばない。半世紀前の世情とは雲泥の差・・・。
そして、期を同じくして、「現代的な公害」や「環境汚染」「日照権、景観権争議」が多発しだします。

その約半世紀後の結果の「最新の」姿、いわば「成れの果て」の姿が、今回の写真のDの「住宅地」の姿ではないでしょうか。
なるほど、販売者は「十分に」利益を得たことでしょう。しかし、そこに生まれているのは、何か?
売り出しのポイントは「庭付き一戸建て」とありました。それは、隣家の壁との「隙間」のことでした。
こういう計画を平然としているのも、建築の「専門家」なのです!


しかし、こういう現代的開発が進んだ結果、皮肉なことに、質の高い町並は、「現代的な開発」の波及しなかった「遅れたと見なされる」地域に多く残されるようになったのです。
私は、その存在を、きわめて貴重な財産だと考えます。
もちろん、観光資源として貴重だ、という意味ではありません。
今や、そこにのみ、かつての私たちの先代たちが心得ていた「作法」、かつての人びとの多くの人びとと共に暮すための「知恵」を知ることができるからなのです。
そういう所で暮せるということの素晴らしさ、何と幸せなことか!現代的開発のされた地区には、探してもない!
[文言追加 18日 10.32]

私が、「伝統的町並」や「文化財」を、単なる観光資源としてのみ扱うことに異議をとなえるのは、そのためなのです。
かつての人びとのつくりだした「もの」で「経済効果」を上げようなんて、それではあまりにも失礼ではありませんか。
[文言改訂 20日 7.16]

建物をつくるとはどういうことか-9・・・・続・「世界」の広がり方

2010-12-06 22:55:53 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 7日8.27][文言追加 8日 9.10][文言追加・改訂 8日 10.18][註記追加 8日 10.35]

先回まで、集落誕生の始原の状態、すなわち、土地との密接なつながりゆえに生まれる「ある場所に定着する」姿について触れました。当然ですが、「農業者」たちの集落です。そして、そのとき、そこには、まず「非農業者」はいません。始原の状態では、集落は「第一次産業」従事者によってつくられるのです。

ところで、「ある場所に定着した」ということは、当たり前ですが、天から舞い降りてきたわけではなく、自らの足で、「どこ」からか「そこ」へ「たどり着いた」ことになります。では、どういう「ところ」をたどってたどり着いたのか。

定着が進行する以前に、すでに、人びとが行動する「ルート」はできていたものと考えられます。つまり、いろいろと歩き回っていた。しかし、そのつど、勝手気ままに歩き回ったわけではない。
たとえば森林・樹林あるいは山の中へ採集に向う場面でも、そのつど新たな「ルート」を開いたのではなく、自ずとでき上がっていた「ルート」を使ったに違いありません。いつの間にか「前進基地」がつくられていたのです。

   もちろん、彼らには、今のような「地図」はありません。
   あるのは、「頭の中に描かれた地図」だけ。

しかし、「ルート」や「前進基地」は、無差別に、どこでも構わず設定されたわけではありません。それらは、ある「原理・原則」の下で設定されていた。
この点については、第5回で、現在の事例で簡単に触れました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/419bda1f19b90b3fa13f19d175f38811)。

また、人びとが「道」をつくりだす「原理・原則」については、かなり前に、「清水寺の参詣道」を例に触れています(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/262176cccda7b41acd735a3d8f2732ac)。

   たとえば広大な欧亜大陸に生まれた通称シルクロード。
   交易等に使われた場面で取り上げられることが多いのですが、これも「交易者」たちがつくりだしたというより、
   それ以前から、一帯で暮していた人びとによって「開拓」されていた「道」が複合したものと考えられます。
   これは、日本の古代の「官道」に於いても同様で、古代日本の最も重要な「道」であった「東山道」は、
   各地域に暮す人びとによって、すでにつくられていた「道」を「つなげた」もの。

   だから、先回例に挙げた私の暮している集落の周辺にも、集落が生まれる以前に、いくつかの「ルート」があり、
   そういったところを歩き回っているうちに、例の「潜み」を知ったに違いありません。
   いわば、人のつくる「けものみち」。「けものみち」にも、一定の「原理・原則」があるようです。

   先に挙げた参考図書(?)「十五少年漂流記」にも、「定住地」の確保に至るまでの「過程」が描かれています。
   注目すべきは、漂流しなければ、彼らは、「非農業者」であり続け、
   農耕を視野に入れて「定住地」を探すような状況には、決してならなかった・・・。


では、「土地」との直接的な係りを必要としない「非農業者」たちの「世界」はどのようになっているのでしょうか。
「非農業者」ですから、農耕の視点で土地を選択、探す必要はない。

「非農業者」たちの土地の選定の要件は、当然ですが、「非農業」が、どのような内容であるかによって決まります。

「集落」が安定してくると、各「集落」間に「交流」の機会が訪れます。
それを積極的に進める、それに専念する人たちも出てきます。その人たちが、集落の人びとに代って「交流」の代役をつとめる。当初は、農耕のかたわら、歩き回ったものと思われます。
これが「交易」の原点。「商い」の原点。集落の主である農業者たち:「第一次産業」者にとって不可欠な存在。だからこそ「『第二次』産業」者と呼ばれる。

   現在、「商業」をして「第二次産業」と呼ぶことがなくなったようです。
   それは、現在の「商」「商い」が、始原的な意味での「商い」ではなくなったからでしょう。
   だから、始原的な「商い」「交易」をして、現在の《商売》《ビジネス》の目で見てしまうと誤解を生みます。
   以前に紹介した「近江商人」たちの「商い」は、
   ずっとずっと、この始原的な「商い」の姿に近いのです(参照記事:後掲)。
   同じ「商」の字があるからといって、現在の「商」と同一に見るわけにはゆかない。
   現在の「商」に係る人たちは、「商」の始原について、
   思いを馳せたことがあるのだろうか、ときどき、考えてしまいます。
   「商い」とは、ただ「金儲け」に「いそしむ」ことなのか?

この「第二次産業」者たちは、「第一次産業」者とは別な土地に住み着きます。

下の地図は、以前に載せた地図の再掲です。
今から30~40年前の筑波山麓の一帯。



この地図の左端に、Dと符合をつけたところがあります。「洞下(ほらげ)」と呼ぶ集落で、かつては、この地域の商業の中心の一つでした。

現在は(この地図でも)主要な道は、図の中央、水田の真ん中を南北に通っていますが、往時は、水田を挟む東西の微高地に2本ありました。
東側は山の麓を等高線に沿う道、したがって曲りが多い。西側は南北に長く続く低い丘陵の尾根筋の道、真っ直ぐに走っています。ともに「道の原理・原則」通りの道です。
この東西の山・丘陵の形は、中央を流れる川:「桜川」がつくりだしたもの。
この内の西側ルートは、この一帯の南北にある他地域:南は「谷田部」から「取手」、北は「真壁」:を結ぶには近くてきわめて至便。つまり、古くからの南北を結ぶ主な街道筋。

一方で、この地域を東西に結ぶ古くからの「道」もあった。西は「下妻」「下館」、東は「土浦」「石岡」へと至ります。
この南北と東西の道が交叉する場所、それが「洞下」なのです。それゆえ、往時はこの地域の「物流拠点」。
おそらく、人びとが定着する以前には、「市」が立ったものと考えられます。そして「専業者」は徐々にこの地に定着した。今はもう「商い」はしていませんが、道に面して商いをし、奥では小さな畑をつくって暮していたのです。畑は残っています。

もう一箇所、この地域の南部にあった「第二次産業」者の定着地を紹介。
筑波研究学園都市の「開発」によって、その地位が大きく損なわれた例。

下は、現在筑波研究学園都市の中心部になっている一帯の1970年(昭和45年)当時の国土地理院地形図を基に編集した図です。まだ、「開発」が初期の頃の姿。点線で示したのが、「筑波研究学園都市開発」の計画主要道路。左が北になるように編集してあります。
なお、この地図は、ほぼ今回と同じことを書いた
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/a23a9e9e6fc0cd0a949482ccca728a3aで掲載したものと同じです。[文言追加 7日8.27]



下は、この地域を含んだ航空写真。1945年(昭和20年)の米軍が撮影したもの。これは、下記の記事で一度載せたことがあります。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0fe1c2bafa47b7e3f4e9849d845e85f1
   なお、ここでは、今継続している長々しい話のいわば「結論」を、要約の形でまとめています。
   今回のシリーズは、なぜ私がそういう「結論」に至ったかを、要約ではなく「くどく」書いているわけ。



上の地図と写真で赤い線で囲んだのは「刈間(かりま)」という集落で、先の「洞下」と同じ程度の「第二次産業」者の定着集落。
ここは、先の「洞下」からも続く南北の道と、東は「土浦」、西は「谷田部」「石下」へと至る東西の道の交叉点。

1970~80年の頃、ここをよく通りましたが、なかなかいい雰囲気の場所でした。そのまま姿を維持していたら、つまり、開発から「取り残されていた」ならば、数十年後、伝統的街並として保存が叫ばれたかもしれない!しかし、その雰囲気は、開発により消し去られました。

   伝統的街並保存とは何か、考えるには恰好の事例です。
   つまり、新たな「開発」が、従前の「街並が持っていた雰囲気」をつくり出せないがゆえに、
   振り返ってみたら、開発から「取り残された街」の素晴らしさに気がついた、だから「大事に」しよう、ということ。
   けれども、残念ながら、それを「観光《資源》」として扱い、何がそういう結果を生んだのか、
   いったい何をしなければならないのか、考える人が少ない。

   このところ盛んに読まれている以前に書いた記事「遠野・千葉家の外観」で私が「遠野」について書いた感想も、
   同じく「大内宿」について書いたことも、(下記)
   つまるところ、それ。皆、目先の《商売》に気をとられている・・・、という思い。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5a75fa6c161af6de05771cbf2dbc088c
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ad84f2c5e8cd2729e059fd68ad355a6e
   「復刻:遠野:千葉家の外観」もご覧ください。[追加 10月4日]
   
これらの例を観ることから見えてくるのは、往時の「第二次産業」者の定住地の設定は、「第一次産業」者の存在なくしてあり得ない、という「当たり前の事実」です。
だから、別の言い方をすれば、彼らは「第一次産業者」の「世界」に通じていたのです。
これは、当たり前と言えば当たり前です。
なぜなら、彼らの暮しは、「第一次産業者」があってはじめて成り立っていた。そして、先ず第一、彼らも、元をただせば「第一次産業者」だったのです。
それゆえ、彼らの定着地での「住まい」のつくり方も「第一次産業者」のそれに倣ったものであり、その「世界」の「広がり方」の原理・原則も、「第一次産業者」のそれと変ることはなかったのです。[この段落 文言追加・改訂 8日 10.18]

しかし、その「世界」の広がり方は、「第一次産業者」のそれとは比べものにならないほど広く、大きかった。
そして、その「世界」で得た彼らの「知見」は、出し惜しみすることなく、「第一次産業者」にも伝えられたのです。それゆえ、想像の域ではあっても、「第一次産業者」の「世界」もまた広がった。
もちろん、「知見」は「他地域の人びと」へも伝えられました。それが、地域間の「交流」の原点です。
それを代表する好例が、各地域での「近江商人」の行動です。それについては下記で書いています。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/1797ceeaa88c6f3e3393dc4d6aa022d7

   なぜ「第二次」と呼ばれのか、その理由もそこにあります。
   「第一次」なくして「第二次」もない・・・。
   現在、こういう区分け方がされなくなったのは、
   互いに無関係、無縁の存在になってきたからではないでしょうか。
   

このように、往時の(始原的な状況下の)「第二次産業」者の土地選定にも、必然的な「要件」があった。

残るのは、それ以外の人びと、いわゆる「第三次産業」者の場合。
これを定義するのはきわめて難しいですが、あえて言えば、往時では、「第一次産業」者、「第二次産業」者たちを差配しようとした人たちがそれにあたると思います(そこには、いわゆる宗教者も含まれるでしょう。元はと言えば、集団を守る呪術者の一群)。それがどのように生まれてくるのか。

各集落で、集落を「統率する」者が必ず居たことは確かです。
しかし、彼もまた「集落定着者の一」にすぎない。いわゆる「豪族」と言えども、それには変りがない。「豪族」がなぜ豪族たり得たか、と言えば、それは、基盤である「集落」に通じていたから、信頼されていたからに他なりません。
つまり、往時の「第三次産業」者もまた、「第一次産業」者、「第二次産業」者の延長上にあった。
だから、彼らの定着地、その場合は居住地と言った方が適切なのでしょうが、その「選定・設定の原理・原則」は、「第一次産業」者、「第二次産業」者と変ることはなかったのです。
公家も武家も宗教者も、「第一次産業者の居住の原理・原則」からはずれることはなかったのです。
別の言い方をすれば、「人の感性は、皆同じであった」、ということです。
幾多の事例がそれを物語っています。


さて、厄介なのは、現代の「非農業者」。つまり、「土地」との係りに必然性がない(と思っている、そして、そう思われている)人たちの場合です。
別の言い方で言えば、「土地」を、あるいはすべてのものを、単に、その「呈する姿」の「付加価値」で「測ろう」とする時代に生きる人たちの場合。

その場合、往時の人たちの持っていた「感性」は、すでに通用しなくなってしまっているのでしょうか。
そうではないことは、すでに、このシリーズの初めの頃に、いくつかの事例で触れてきていることの中で示してはきました。

そこで、次回、あらためて考えてみることにします。

   最近、「里山を本来の姿に戻そう」という「運動」があるのを知りました。
   これなどは、「付加価値」で「土地」を判断する典型のように私には思えます。
   「本来の姿」とは何?
   それについての言及はない。
   「集落の人びとの暮しの必然」で生まれた樹林帯を、今の集落の人たちの暮しの様態を考えもせず、
   「求めよう」「再生しよう」・・・という。私には不遜に映る。[文言追加 8日 9.10]

   註 土浦の西郊で、この数十年にわたり、その地域にある丘陵の様態の維持に係っている方が居られます。
      この方の場合、その発端は、住宅公団が住宅用地として一帯を買上げようという動きを知ったことでした。
      以後、現在まで、営々としてそれに努めている。
      その間、何人もの方が賛同して現われ、そして消えていった。
      継続しているのは、この方とそのまわりの方がただけと言ってよいかもしれません。   
      この方は、この丘陵の近くに、そういう地を求めて移り住んだ方であったと思います。
      そして、「里山」ブーム?で、その地を見に来る人が増えている・・・。 これまた「観光」?
      この方は、それによって地域を《活性化》しよう、などとは考えてはいませんでした。
      たくさん人が訪れればよい、などとは考えてはいないのです。[註記追加 8日 10.35]

建物をつくるとはどういうことか-8・・・・「世界」の広がり方

2010-12-01 18:04:22 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 2日 9.55][括弧内解説追加 3日11.42]

先回、「ある山村の土地利用模式図」を転載しました。
そこでは、「屋敷」を中心に、自分の係わる範囲が、その「係わり方の濃度」に応じて同心円状に広がっていることが示されていました(下の図)。



けれども、この場合、「屋敷」が最初から整えられていたわけではありません。
この図は、その土地にある程度住み着いてから、つまり「定着の度合いが強くなってから」の状態、「結果」の姿なのです。最初からこういう形で定着したわけではありません。そういう姿もイメージしてはいなかったでしょう。

そこに住み着くことにした当初は、「屋敷」はなく、「建屋」だけがあったはずです。そこで、図に赤い丸を追加しました。それが「建屋」。
「建屋」とは、とりあえず夜を安心して過せる屋根のある場所。そのときの、最大にして最小の砦。
「安心して過せる」ために、「砦」への出入口は、できる限り少ない方がいい。ゆえに大抵一つ。出入口が一箇所のワンルーム(このことについては何度も書いてきました)。

これは乾燥地域の人びとも遊牧民も同じです。
違うのは、屋根のつくりの「程度」。日本では、「天幕」のような屋根の例はないようです(羊毛のような、水をはじく材料がなかった)。
当初は、その「建屋」のまわりのみで農耕につとめた。そして、周辺へ採集にも出かける、そんな暮しをしていたと思われます。
当然、そこを出て遠くに行けば行くほど「心細くなった」はずです。そして、いざとなれば「砦」に戻る。それを色分けで示してみました。

「ある山村」、これは「畑作」を想定しています。けれども、立地条件を変えれば「水田耕作」の場合も、この図と同じような模式図が描けると思われます。
「水田耕作」の場合は、イネの栽培ができる土地でなければならない(もちろん、畑作でも作物の栽培ができる土地でなければならないことは同じですが、イネの場合は条件がさらに厳しい)。
当初、水田耕作のできる場所、それは、何も手を加えることなくイネを植えつけられるところ。その一つが「谷地」。「谷津」とも言います。その上流で水が湧いているのです。その水の流れが低地をつくりだした。
ヤチとは元はアイヌ語だそうです(「新明解国語辞典」)。千葉県習志野には「谷津」という字・町名がありますが(他の地域にも見かけます)、多分、そういう地形だったはず。

現在は焼失して在りませんが、茨城県の筑波山東麓:現在の石岡市下青柳に重文の「羽生(はにゅう)家」がありました。
これは、「谷地」田の縁に建っていた江戸時代の農家住宅。
幅の狭い「谷地」の向うには鬱蒼と繁った樹林が迫っている。きわめて狭い田んぼ。
建物が健在であったころ訪れたとき、これこそ「水田耕作」の初期の姿に違いないと思ったものです。
そういうところから始まって徐々に下流へ、より広いところへと広げてゆく。そのころには、地形を人工で改変するようにもなる。このことも、以前、関東平野の開拓の歴史で触れました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7cda390abe72f02b14dae5d6ef7ddbc8
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3b5b92a6d936456b59ae67a34c1f9b88

けれども、この図は、あくまでも模式図。
実際に同心円状に世界が広がっているわけではありません。

「実際の姿」に応じて模式図を描き直せば、下の図のように、「自分の住まいから、片寄って」世界が広がっている、別の言い方で言えば、「広がり方に方向があった」と考えた方がよいと思います。



もちろん、実際の「世界」はこのような円形に広がるわけではありません。
実際の姿は、目の前に見えてくる「地形」が大きく係ります。
目の前に「畑作」向きの土地が広がっている、あるいは「水田耕作」向きの「谷地」があるからと言って、そのどこにでも住まいを構えるわけではありません。

   実は、「どこにでも住まいを構えるわけではない」という「事実」は、現在、とかく忘れがちです。
   「どこでも構えられる」と思ってしまう。とりわけ、「日本の都会」の生活に慣れてしまっている人たちは、そう思う。
   このことは前にも書きました(下記)。
   「必要」条件だけでことは決められない、そう思うのが「普通」の感覚だと私は思うのですが、それが失せている。
   特に、建築に係る人たちにその「感覚」が乏しいように思えます・・・。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5


これらのことについて、私の暮す集落で、「水田耕作」を主体に古くから住み着いたと思われる方の「屋敷」の例で見てみます。
多分、この方が、この集落で一番古く、定着者の「統括者」であったと考えられます(現在の当地の地番では「1番地」)。
このお宅は、この地に江戸の初期にはもう住み着いていたようですが、詳細にお話をうかがえるほどには未だ親しくなっていませんので、あくまでも推測です。

まず、その屋敷を含む集落の航空写真(以下の航空写真は google earth 2010年3月撮影からです)。
赤い円で囲ったあたりが、この集落のなかで最も歴史があると考えられる一帯、つまり「古い」一帯です。



そのあたりの現況を地図で見たのが下の地図(町の1/2500都市計画図から)。
地図中の赤い円内が、最古と考えられる方の現在の「屋敷」。



その部分を拡大した写真が下。「屋敷」を赤い線で囲ってあります。地図と照合してください。



この地域一帯は、一枚目の写真で分るように、狭い低地(「谷地」)と標高25m前後の低い丘陵(丘陵言うより「台地」と言った方がよいかもしれません)が交互に並んでいます。
比較的大きな河川は、写真、地図上に見えるものともう一本あるだけで、あとは「谷地」です。
「谷地」は、現在も水田として使われているところと(最近は「蓮田」が増えている)、かつては水田だったけれども耕作をやめてしまったところ(多くは葦原になっている)とがあります。

   ここは、これからの季節、多くの渡り鳥が集まってきます。困るのは、蓮田を覆う防鳥網。
   もう何度も引っ掛かった渡り鳥を援けていますが、援けられなかった鳥も・・・。
   地元のJAにも何とかするよう頼んではいるのですが・・・。

丘陵・台地上は、写真でも見えるように、現在はほとんど耕地化されていますが(赤茶色のところ)、江戸時代はもとより、古代・古代以前には、鬱蒼とした混交林に被われていたと考えてよいでしょう。今は、丘陵の縁:斜面にだけ、混交林は残っている。

ところで、この集落のある丘陵の縁で集落があるのは、写真で分るように、ここだけです。ポツポツと建物が見えますが、どれも新しい。[文言追加 2日 9.55]
この集落の主要部を、ここに来た当時に訪れたとき、そこが著しく西に向いていて、後背の丘陵の樹林の陰になり、朝陽があたるのはかなり遅くなる、しかも梅雨時にはきわめて湿気ることを知り、なぜここが定着地に選ばれたのか、不思議に思ったものです。

しかし、しばらく暮してみて合点がゆきました。
この地は春先(冬から梅雨時ぐらいまで、時には夏場でも)、かなりの「やませ」が吹きつけるのです。
「やませ」は、東方の冷たい海を吹き渡ってきた北東風。東北地域に冷害を及ぼす元凶。その風が、当地にも及ぶのです。
選ばれた一帯は、それを避けるには、絶好の「潜み」だったのです。

「潜み」の様子は地図によく表れています。
これは、多少は手が入っているとは思いますが、原型は自然の地形。ここでは水が湧いていたものと思われます。おそらく今も井戸があるはずですが、奥まで入っていないので不明です。
当初、「住まい」として、この南西に向いた「潜み」の最奥に「建屋」が建てられたと思われます。

私が今住んでいるのは、丘陵の尾根近く。まわりは耕地化されています。
最初は気付かなかったのですが、春先には「やませ」がまともに当たり、冬の北西風で土が舞い上がる・・・。
しかし、丘陵一帯には、縄文、弥生時代の住居址が多数残されています。
「やませ」「冬の北西風」はその頃からあったと思われるのに、なぜ、平気だったのか。
それは、その当時、一帯が鬱蒼とした混交林に被われていたからだ、と思われます。
そういった樹林を切り開いて、彼らは住んでいたのです。まさに raum の語源通りの「空間」がつくられていた。混交林は、言ってみれば、天然の「防風林」。

   その頃は海進の時代、霞ヶ浦はの水位は高く、淡水ではなく、海あるいは汽水であったと考えられます。
   貝塚で見つかる貝には淡水系でないものが多数あります。
     

「世界」の広がりの「方向」についての「本題」に戻ります。

このお宅の場合、南西に向いた方角が世界の広がりの主軸だった、と考えられます。
目の前に広がる川の脇の水田は、春から秋までの仕事。そこへは100mほど歩く。他の耕作は、田の縁までの潜みの一画で営んだのではないでしょうか。

写真では、このお宅の東側の丘陵・台地上に、赤茶けた地面の部分が広がっていますが、これは広大な耕作地です。主に、クリの栽培と樹木の苗木の圃場です。
この耕作管理もこのお宅がされている。言ってみれば、このお宅の「裏」のようなもの。

しかし、ここまで耕地化が進んだのは、当地への定着が安定してからのこと、それも比較的近年ではないかと思います。
なぜなら、これだけの広大な樹林を耕作地に変えるのは並大抵ではありません。すごい時間がかかるはず。もしかしたら、ここまでになったのは、機械化が進んでからのことかもしれません。

   丘陵上の道路は、幅6mほどの舗装道路ですが、これは1970年代に整備されたもの。
   なお、この地図にある水田は、1970年代に行なわれた捕縄整備事業の結果の姿です。
   それ以前、中央部を流れる川も蛇行し、水田も等高線なりの畦がうねっていたはずですが、
   その頃の姿は昔の地形図・測量図でも見ないと分りません。
   ただ、ところどころに、縁を走っていたかつての幅が1間もない道と、堰からの用水路の跡が残っています。
   もちろん堰による用水はずっと後につくられたもの。
   当初の水田は、近場の湿地をそのまま使ったものだったと思われます。
   このお宅の丘陵縁、長屋門を出たすぐの水田脇に、今なお水神様を祀った小さな溜池があります。
   これがかつての水田の名残なのではないかと思います(地図・航空写真の道の脇に見えます)。
                                   [括弧内解説追加 3日11.42]

このお宅では、「世界」は「建屋」から南西に向い開かれていて、集落から「外」へもそこが起点・基点になっていたのです。
しかし、「外」はそんなに近くにはなかった!「世界」は「狭かった」のです。

   この集落へ土浦から嫁いだ方から、ここへは歩いてではなく、霞ヶ浦を舟で来た、という話を聞きました。
   歩くより舟の方が早かったのだそうです(土浦まで直線で15km弱、今は車で25分)。
   今70歳前後の方ですから、50年ほど前の話です。
   別の方からは、つい最近まで、尾根の上の道はあったことはあっても軽トラがやっと、
   集落へ降りるのが急坂で難儀だった、という話も聞きました。
   実際、新設の舗装道路は、尾根から集落へはかなりの急な「切通し」になっています。
   「外」へ行くのは、大変だったのです。

下は、このお宅を水田の中を流れる川から見た写真です。正面の赤い屋根が「長屋門」。
   


赤い実線で囲んだあたりが「屋敷」。点線で囲んだのは、このお宅の農地が広がる部分。
「長屋」門から6.70m入ったあたりが母屋。当初の「建屋」もそのあたりにあったのでしょう。

現在の「屋敷」の広さは、軽く3000㎡を超えます。1000坪以上です。
しかし、住み着いた当初に、このお宅が、この「範囲」を「誰か」から取得した、というわけではありません。
このお宅の先祖が住み着いたこの「潜み」は、「誰か」の持分であったわけではなく、この「範囲」も、このお宅がその「持分を主張した」わけではないのです。現在の不動産取引の「感覚」は通用しません。

あえて言えば、この「潜み」の「当初の持ち主」は、「自然・天然」。
当時の人なら、そこは「天の持分」と思っていたでしょう。だからこそ「地鎮」の考えが生まれるのです。
そして、小さな砦:「建屋」を基点に、周囲を営々と耕作する。それに応じて耕地も広がる・・・・。
そうして何代ものうちに、いつのまにか、このお宅の係る耕地が広がり、「持分」が決まり、そして「屋敷」を構えるようにもなる。
おそらく、そういう過程を経て、現在の姿の原型が生まれたものと思われます。
そのお宅の営農努力が「持分・範囲」を決めた、と考えてよいのではないかと思います。
当初は、人の手が付かない「天の持分」のままの土地がいっぱいあったのです。
山林原野まで持ち主が決められたのは、明治になってからではなかったでしょうか?その点詳しく調べてありません。

   多くの場合、集落の統括者はその地の最古参で「篤農家」。それゆえ、営農地も広くなる。
   そして大概、後に「地主」になっているようです。

   「現在の姿の原型」と書いたのは、第二次大戦後の農地改革、そしてその後の圃場整理によって、
   「持分」に大きな変化が起きているからです。
   「ある集落」の人たちが営々として開いた農地に、「他の集落」の方の農地があったりします。
   かつては、屋敷の目の前がそのお宅の農地であるのが普通でしたが、必ずしもそうではなくなったのです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

さて、なぜこのような話を延々としてきているのか?
農耕生活者たちの集落のできかたや農家の営農の話は分った、しかしそれが「建物をつくる」ことと何の関係があるのか。そう思われる方がかなり居られるのではないでしょうか。

これまでの私の経験では、建築に係る方がたの多くは、都市計画などに係る方がたも含めて、こういう話をきらいます。

けれども、ここに書いてきたような、拠点:砦としての「建屋」(場合には「屋敷})を起点・基点に、つまり、「自分の住まい」を起点・基点に、「ある方向」へそれぞれの「世界」が広がる、というのは、土地への密着の度合いが全く異なる非農業者の生活(昔の言葉で言えば、第二次産業、第三次産業に係る人たちの生活)も、つまり、現在の多くの人びとの生活の場面でも同じだからなのです。
しかし、この「事実」も、ややもすると忘れられている、そのように私には思えます。

そこで、次回以降、この点について考えたいと思います。

   註 ここに書いてきたことを「味わう」ことができる小説があります。
      今では読む人も少なくなってしまった小説。
      「十五少年漂流記」(「二年間の休暇」)1888年 ジューヌ・ヴェルヌ著
      「ロビンソン・クルーソー」1719年 ダニエル・デフォー 著
      いずれも、無人の地にどうやって住み着いてゆくか、その過程が描かれます。
      18~19世紀の人は、現代人より数等想像力が豊かだった、と思います。
      そして「原点」と「過程」を大事にした。「結果」だけを見なかった・・・。
   

ちょっと一服します:「五服」とは

2010-11-20 11:23:08 | 建物をつくるとは、どういうことか


空気に冬の気配が感じられます。

この10日に近く、以前、「遠野」の「千葉家」の写真を載せた記事に寄られる方が、毎日多くおられます。何かわけがあるのだろうか?

少しばかり締め切り仕事に追われ始めました。というわけで「 BAHN 」の方も「建物・・・・」の方も、一休みさせていただきます。

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先回紹介の「五服」の図の載っていた「茶館(ちゃかん)」、あらためて読み直しました。
この書物は、雑誌「中国語」に著者 竹内 実氏が連載した文を総集したもの。
A、B二人の対話という形で一貫して書かれているので、「問」が明らかになり、分りやすい。

その中から、「五服」のあたりの部分を、抜粋コピーして、そのまま転載させていただきます。
途中からコピーして編集し直してあります。
これは、中国の「広さ」からはじめ、その「広さ」の中での「世界像」についての対話部分。
その節全部を載せたくなりますが、長くなるので抜粋にします。

この書物は、1974年の発行。
かれこれ40年近くになりますが、ことによると、「時節柄」ぴったりの話かもしれません(この書物、現在も刊行されているかどうかは調べてありません)。


建物をつくるとはどういうことか-7・・・・「原点」となるところ

2010-11-17 10:58:18 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 12.25]

先回まで、「私の世界」、すなわち「自分が思うがままに振舞える世界」が、どのように獲得されてゆくか、簡単な例で説明してきました。

このシリーズの第2回(下記)で「・・・うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・・」という道元の言葉を紹介しました。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/33a09f3a4a0c35a53734ccdb48a370c8   

人は常に「空間に在る」のであって、
「人」が一方に在り、他方に「空間」が在る、と考え、その二者の関係を云々するという見かた・考えかたを採ると(これが一般的な近・現代のものの見かた・考えかた)、
出るに出られない落し穴に陥る。
私たちそれぞれの「世界の広さ」は、
一に、「空間に在る私たち」それぞれの「用」「要」に拠って決まる「空間の大きさ・広さ」である、ということです。

私たちが、ある「地域」に詳しくなる、自由に歩き回れるようになるのは、その「地域」が、私たちの「用」「要」と係わりがあるからなのです。

もちろん、その「用」「要」は、暮し・生活にとって不可欠、「それがなければ生きてゆけない」、という局面の場合もありますし、単に「遊興」のための場合もあるでしょう(ただ、「遊興」の場面は、「それがなければ生きてゆけない」という状況が満たされていなければ存在し得ません(「遊興」が先行する、あるいはそれだけしかない《暮し》は、存在しないということです)。
それゆえ、第4回(下記)で紹介した諏訪の宿屋の番頭の「姿」、すなわち、
「見えているからといって知る必要はない、知る必要のあるもの・ことを知ればよいではないか」という生き方の姿が、元来の私たち人間の姿であった、と考えてよいのではないでしょうか。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bc31d7679162a2ee5a49f2d7e27fa02b

   ある頃から、「見えるもの・こと」を「知る」こと、そしてその「量」が、
   その人の「知性」であるかのように見なされるようになってしまったのです。
   サン・テグジュペリの言葉を借りれば
   「・・・おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
   それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同じである。」(「城砦」より)

そしてまた、第5回(下記)では、私たちが新たな世界を「獲得する」場面では、自分の「既知の世界」から「未知の世界」に向け、いくつかの「前進基地」を築きながら行動する、ということを、これも簡単な例で見てきました。
では、いかなる「もの・こと」が「前進基地」になるのか、
そして、もしも「前進基地」を築くことができない場合には、
私たちは常に「既知の世界」へと戻らなければならない、そこから出直さなければならない、ということについても簡単に触れました。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/419bda1f19b90b3fa13f19d175f38811

けれども、「既知の世界」もまた、かつては「未知の世界」であったはずです。
先験的に「既知の世界」が私たちに備わっているのではありません。それはあくまでも、私たちそれぞれが、自ら「獲得」したもの。

   しかし、時折り、この厳然たる事実を忘れがちになります。
   「自らで獲得する過程」を省き、「既存の《知識》」を鵜呑みにし、
   それでよし、としてしまうのです。
   もちろん、「その過程のすべて」を体験することなどできません。
   それは、人の歴史のすべてを辿る、経験することに他ならないからです。
   どの時代に生きた人も同じだったはずです。
   それを補ったのが、私たちそれぞれの「感性」による「想像」です。
   今は、「想像」さえ働かすことをしなくなっている、そのように私には思えるのです。
   むしろ、「そんな勝手な想像をするな」、
   「偉い人の言うことに従え」「偉い人に従っていればいいのだ」、そんな気配さえ感じます。


これまでは、「未知の世界」へ向う場面について考えてきましたが、この現在の「既知の世界」ができあがるまでの過程を逆にたどるとどうなるか。
そこには、これまでの拠りどころとなった多数の「前進基地」が現われ、終には、それ以上逆にたどれない地点に至りつくはずです。
いわば、自らの世界を獲得するための「始源的な拠点、原点」にたどりつく。そこから先には、もう戻るところがない。それゆえに、「始原的」なのです。[文言追加 12.25]

そして、この「始源的な拠点・原点」こそ、人にとっての「住まい」に他ならない、と私は考えています。

このことをきわめて明瞭に示しているのが下の図です。



これは、大分昔に読んだ福井勝義著「焼畑のむら」(朝日新聞社)に載っていた図で、ある山村の土地の呼び名、そのように呼ばれる土地がどのあたりに在るのかを示した「土地利用の模式図」です。
この図の「屋敷」とは、つまるところ「住まい」です。
かなり前に、「建屋」だけを「住まい」と見なすのは誤解を招く、建屋を含む「屋敷」が「住まい」なのだ、と書きました(下記)。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b

つまり、「屋敷」とは、そこで人は「まったく自由である」と「思える」一帯・場所のこと。それがすなわち「住まい」。

「屋敷」を中心にした同心円は、「屋敷」:「住まい」からの相対的な遠近:距離を表しているとみてよいでしょう。
この図で、色を着けたところはいわば「未知」の、この場合は「未開」の世界、やや薄い色をかけた場所は、既知ではあるが、あるいは既知になりかけているが、未利用の場所。
この模式図を説明する恰好な一文がありますので、引用します。

   ・・・・・
   農民と土地との関係は、具体的には「地片」の利用の仕方を通して表現される。
   土地のもつ形状・地勢・陽の当たり具合・土壌の厚さ・自然の植生といった
   土地そのものの自然条件にうまく適合しながら、
   住居との距離、家族の労働能力、素質、作目配分などを考えて決まってくるのが 「地片」の利用であり、
   土地利用とはそれらの「地片」利用の総括に他ならない。
   ・・・・・
                      (安達生恒著「むらの再生」より)

   註 ここで定義されている「土地利用」とは、
      人びとの、その「在る空間」の認識のしかたに他ならないでしょう。
      「自然」もまた「在る空間」の「一側面の状況」なのです。
      「自然」のない(欠いた)「在る空間」は存在しない、ということです。
   
      また、ここでいう「土地利用」は、
      現在の建築や都市計画の「専門」の方がたが唱える《土地利用》とは、まったく意味が違います。
      安達氏は、ここでは、「農民と土地との関係」に限定して述べています。  
      しかし私は、この「関係」は、
      農民に限らず、「人と土地との関係」の「原理」として、一般化してよいのではないか、と考えます。
      現在の建築や都市計画の方がたの《土地利用計画》には、
      このような意味、
      すなわち「土地そのものの自然条件との適合」は視野にありません。   
      現代の《科学・技術》をもってするならば、そんなことは視野に入れる必要はない、と《信じている》からです。
      そして、そのような「土地そのものの自然条件との適合」が視野にない《計画》こそが、
      多くの大きな災害の因となっている、と私には思えるからです。


当然、このような「土地利用」に当たっては、最初に、どこに「屋敷」を構えるべきか、考えられているはずです。

もちろん、人は突然、ある場所に天から降ってくるわけではありません。
その「ある場所」に辿りつくまでの過程は深遠です。それゆえ、ここで人類発祥まで遡る気はありません。せいぜい、あるところに人びとが住み着いた、そのあたりから後の話にします。実際、そのあたりからでなければ、私には分りません。

そのあたりについて、昔読んだ書物を挙げます。いずれも、いわば入門書。それぞれには、原本になった学術書があります。なかには絶版もあり、そして今は、さらに深化した書物が出ていると思います。 
  和辻哲郎著「風土」(岩波書店):これはある意味で古典
  玉城哲、旗手勲著「風土・大地と人間の歴史」(平凡社選書):これはすでに紹介
  上山春平著「照葉樹林文化」(中公新書)
  中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)
  谷泰著「牧夫フランチェスコの一日・イタリア山村生活誌」(NHKブックス)
  などなど

「聚落」という語があります。今は「集落」と書くのが普通です。
「聚」「集」は、ともに「集まる」という意味です。

「新漢和辞典」(大修館)によれば

「聚」は、①あつまる(寄りあう、むらがる、ひとつになる、つみかなる )②あつめる(あわせる、そろえる、たくわえる) ③あつまり(つみかさなり、集まった多くの人、なかま) ④たくわえ ⑤むら、さと、多人数集まって住むところ、村落

「集」は、①あつまる、つどう ②あつまり、つどい ③詩文などをあつめたもの ④市場 ⑤とりで ⑥まじる ⑦ととのう ⑧なる(就)、なしとげる ⑨いたる(至) ⑩とまる、とどこおる ⑪やすらか ⑫やわらぐ・・・・

「落」は、①おちる(枯れおちる、高所から低所に急にさがる、おちいる、ぬけおちる、おちぶれる、おとろえる、へる、しずまる、手にはいる、おちつく) ②おとす ③死ぬ ④おちているもの ⑤はじめ ⑥建造物が完成したときこれを祭ること ⑦まがき ⑧さと、むらざと・・・

  白川静著「字統」によれば、
  「聚」は、元は「(人が)会する意」、この字一字でも「村落」の意となる。
  「集」は、元をたどると「鳥が木に群れている形」、そこから「集まる」という意
  「落」は、「元の姿を失うこと」「建造物や器物ができ上がったとき、血で清める儀礼」
       あるいは「落成」、あるいはまた「旧を捨て新たにする」という意。

これらの語彙の解釈から、「聚落」「集落」とは、
「居所を定めず暮していた人びとが、一定の場所に定着した、落ち着いた、そういう所」
という意味がある、と考えてよいと思います。簡単に言えば「定住」です。

   その結果として「聚」「落」の語が、一字だけでも「むら」「さと」の意になった、のではないでしょうか。

英語の「聚落」「集落」に相当する語は settlement です。
この語は、settle の派生語ですが、settle の語の意味を「研究社 新英和中辞典」で調べてみると、どちらかというと「落」の意に近いようです。
そして settlement の語義は、①解決、決定 ②清算、決算 ③植民、移民、開拓 ④定住・・・とあります。この③と④が「聚落」「集落」に対応していることになります。

つまり、人びとの暮しかたの様相は、洋の東西を問わず、同じように捉えられていた、と言ってよいでしょう。

この場合、集まった「人びと」が、どういう人びとか。
「任意に」集まった人びとではありません。「暮しを共にすることに意義を認めている人びと」のはずです。
ですから、通常、「聚落」「集落」という語ではなく、「村」「町」・・という語が用いられますが、本来の意味で言うと、現在の都会の「町」をも「聚落」「集落」という概念に位置付けるのには躊躇いがあります。

では、なぜ人びとは「定住」するようになったか。
言うまでもなく、食物を「栽培」することと関係しています。農耕を発明することで、暮しの安定を図った、と言えばよいのでしょう。

   「遊牧」民は「放浪」「浮遊」しているように思われますが、実際は、年間の「行程」は決まっているのだそうです。
   この人たちは、家畜たちと行動を共にしますから、一に家畜たちの食料の確保が生活を左右します。
   家畜たちの食料、それは草原の草木が主体。
   たとえばある場所で春先を過し、その場所の草を食べつくした頃には、次の「放牧地」を目指す・・・、
   これを繰り返して春になると最初の場所へ戻ってくる。その頃には、その場所の草は繁っている・・・。
   このように、一年を通しての「行程」は一定していると言います。
   日本のような、すぐに草が生えてくる、そういう地域ではないところで暮すがゆえの生活スタイル。
   言い方を変えれば、その「行程」そのものが彼らの「定住」地なのかもしれません。
   しかし、不安定であることはたしか。オアシスへの「定住」が彼らの「願望」なのだそうです。
   
では、どういう場所が「定住地」:「聚落」「集落」の適地として選ばれるのか。

その「選定」の「原理」は、先に紹介した安達氏の一文と同じと言ってよいでしょう。
ただ、そこに示されているのは、いわば「必要条件」。
私は、そのとき、人びとは、自らの「感性」に基づいた判断も加えているはずだ、と考えます(このことについては、下記で書きました)。
つまり、「必要条件」を充たしたところなら、どこでも「定住地」にした、ということはない、ということです。
毎日気分よく過したいはずだから、気分の悪くなる場所は、できることなら選ばないはずなのです。「毎日気分よく過したい」条件、それを「十分条件」と言いました。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5

けれども、ある場所に長く暮している人びとが、なぜここに住んでいるのか、不可思議に思うときがあってもおかしくはありません。その場所に何代も暮していれば、当然、始原のことは分らなくなる、忘れられます。
そして、それを知りたくなるときが来る。「歴史」への関心です。そうなるときが必ずある。そして、考えてみればみるほど、まさに不思議。だからこそ、天孫降臨説が生まれてもおかしくはないのです。
このような「歴史への関心」は、これも人の「定位」の作業の一と言えるのではないでしょうか。


さて、そうして選定された「定住地」で、人びとは個々の「住まい」を設けることになります。
それは、その定住地を拠点に暮す個々の人びとの「拠点」です。
その一例が、先の「ある山村の土地利用模式図」の中心に構えられた「屋敷」なのです。

しかし、「屋敷」が現われるまでには、特に日本の場合は、時間がかかります。
なぜなら日本は雨が多い。乾燥地域なら、とりあえずは「囲い」さえあればよく、強いて「屋根」はなくてもよい。そしてその「囲い」が「住まい」であり、日本で言えば「屋敷」。日本では、先ず、「囲い」には屋根が必要。「屋根を持った囲い」、それが「家屋」=「住まい」と理解された。
このことについて触れたのが、先の中国西域の住まいを例にして書いたこと(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b)。

このことは、「屋敷」という語に端的に示されているのではないでしょうか。
「屋」とは古では「屋根」のこと。「屋」を並べることのできる一帯=「屋敷」。当然、自分の「屋」を並べられるのは、自分に任されていると認められる、あるいは、思える、一帯。つまり、自分の「住まい」のこと。
そして、その「住まい」の始原的状態の姿、それが一つ屋根のワンルームだった、ということ、そして、人びとが自分の住まい以外につくる「空間」の姿も、それが原型であった、ということは下記で触れました。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3

またまた大分長くなってしまいました。

では、「定住地」の、どういうところに「住まい」を設けたのか、なぜワンルームなのか(そして今、なぜ基本がワンルーム、ということが忘れられたのか・・・)、どのように「つくった」のか・・・。これらの点について、次回以降、あらためて考えてみることにします。

今回の最後に、さきほど掲げた「山村の土地利用模式図」に似た図を紹介します。
これは、古代中国の「書経(しょきょう)」に載っているという「天下」の図です。
天下:世界を、自分を中心に、このように描いていた、あるいは、そのように描くのが「理想」であった、ということのようです。
もちろん、私は「書経」に触れたことはありません。
竹内実氏のエッセイ「茶館―中国の風土と世界像―」(大修館書店)に載っていた「五服九服対照図」を簡略化して描きあらためた図です。



この「方五千里」四方が「天下」。
色を着けた部分が「未知」「未開」の地域、薄い色の一帯は、少し「既知」になりかけている、あるいは取り込もうとしている一帯、と考えられます。
「畿」とは「城」のことですから、「王畿」とは「王城、直轄地」ということになります。
つまり、「住まい」とは、住まいの主の「畿」なのです。

   註 「書経」は儒学が規範とする「五経:易経、詩経、書経、礼記、春秋」の一。
      「経」とは、いわば「教本」。

建物をつくるとはどういうことか-6・・・・勘、あるいは直観、想像力

2010-11-09 11:49:35 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言訂正 15.20][文言追加 15.33]

◇「勘違い」・・・・「勘」による判断は誤まりか?

たとえば「東海道線」。知らない人はまずいない太平洋沿岸沿いに関東:東京(駅)と関西:神戸(駅)を結ぶ鉄道幹線。

では、西、つまり神戸方を向いて、東京駅の右手側、左手側は、方位で言うとどちらを向いているか?
同じく名古屋駅の右手側、左手側は?

多分、東京駅、名古屋駅を日常的に使っている人は、正しく方位を言い当てることができるでしょう。

私の場合、東京駅はある程度使うことが多いので、右手すなわち丸の内側が西、八重洲側は東にあたることは分る(ただ、八重洲側が大きく変った今は、多分駅構内では迷子になる)。

しかし、私は名古屋駅は日常的には使いません。名古屋市内も知りません。

一度、所用で名古屋を訪れたときのこと、用事まで時間があったので、街中を歩いて見る気になり、右手側の改札を出た。右手側に出たのは、街の中心はその方向であるらしいことが案内板で分ったから(案内板には、方位は示されていなかった)。

私はてっきり右手側の改札口は「北を向いている」と「理解」し(つまり、北側に出たと「理解」し)、それを「手がかり」に「適当に」歩いた。
多分、そっちに行けば名古屋城があるはずだ・・という程度。そう判断したのは、名古屋の北部に城があることは「何となく知っていた」からです。

けれども、しばらく歩いても、城は見えない。しかも、電柱に貼り付けてある地名表示も何となくおかしい。「〇〇東」などと地名に書かれている方位が、私の「理解」と喰い違うのです。
そうこうしているうちに、しばらくして、私は北に向って歩いているのではなく、東に向いていることに気付きました。

そうなると出直し。
そのときの出直し地点は、駅。途中に、先回触れた「前進基地」を築けていなかったからです。そのときの名古屋の街筋は、私にとって「のっぺらぼう」な街だったわけ。

駅に戻り、そこであらためて案内地図を見やり、東海道線は、名古屋では南から入ってきて北に抜け、岐阜に至ることに気付いたのです。

では、なぜ、私は「右手は北だ」と思い込んでしまったのでしょうか。

もちろん、日本列島の姿・形は、あらかた頭に入ってはいます。
ただ、鉄道の位置まで、その路線の曲折まで、頭に入っているわけではなく、大雑把に、東海道線は、その日本列島の「東西を結ぶ」鉄道、という程度の「理解」が頭にあるだけだったのです。
それは、たとえば、東北線は、東京と列島北端を「南北に結ぶ」鉄道、という「理解」と同じです。
そして、この「理解」が、私が方位・方向を取り違えてしまった原因なのです。東西に走る鉄道で、西に向って右側は北である、という「論理」による「理解」。

では、この私の「理解」は、間違っているのでしょうか。

その当否は一概には言うことはできないのです。
簡単に言えば、正しくもあり、正しくもない、のです。

つまり、非常に大きな捉えかたをするならば「右手は北」と見なすことは「正しい」、「間違っていない」。
けれども、詳細に見れば「正しくない」、「間違っている」。[文言訂正 15.20]

逆に言えば、ものごとの「理解」は、局面に応じて異なって当然、ということになります。

そして、これがきわめて大事なことだ、と私は思うのですが、
このように、私たちは、「新たなもの・こと」に当面したとき、常に、その「新たなもの・こと」について、「勝手な」「想像」を描きつつ「行動する」のです。
そして、その「想像」は、「事前に得ている各種の情報:データ」が基になっているのです。
ただし、その「事前に得ている各種の情報:データ」は、「当該の『新たなもの・こと』についてのものではない」ことに、留意しなければなりません。

では、それは何だ?
それは、私が、その「新たなもの・こと」に当面するまでの「多様な経験」からの「類推」にほかなりません。
「事前に得ている・・」とは、そういう意味であって、「新たなもの・こと」についての案内書などで知った、あるいは人から聞いた、という類の情報・データのことではありません。

   ときには、「案内書」を見て、それに従い行動することもありますが、
   そのときでさえ、
   「案内書」から得ているものが、私の中に「姿」をもって捉えられているわけではありません。
   私が私の中に描く「姿」は、それさえも「想像」の成せるものなのです。
   「案内書」の中には、ときには「写真」もあるかもしれません。
   しかし「写真」と「実際」を比定するためには、そこでも「想像」が必要になります。
   第一、そのように「案内書」と首っ引きで街を歩くとき、それは自分の目で街を観ているのではなく、
   「案内書を懸命になって比定している」に過ぎないのです。つまり、
   「案内書」が、事実に合っているか、を確かめているようなもの。
   それにいかほどの意味があるでしょうか?
   それでは、(自分の目で)「街を観ていない」、ということ。
   私は、かねてから、何かを見に行くときは、最初は案内書を持っていてもいいが、
   二度目以降は見ない方がよい、と言ってきました。

   カメラも持たない方がよい、カメラを持っていっても、
   カメラを構えるのは、最後にすべきだ、とも言ってきました。
   これも同じようなこと。
   「自分の目でものを観る」ための必須条件。  

つまり、「多様な経験」すなわち「経験の積み重ね」により、私たちは、自らの中に、「ものの見方」を「養っている」「培っている」のです。そしてそれが、一つの「想像」として結果するのです。私はそのように考えています。

それをして、「事実」と喰いちがっているがゆえに間違った「想像」だ、と言ってその「想像」を否定、批判するのは、それこそ『間違い』です。「想像するということ」を否定してはならないのです。

別の言い方をします。
「想像して描いたもの」、それは「仮説」と言ってもよい。
「仮説」を「もの・こと」:実際の事象、現象と付き合わす。事実・現象と食い違う。
「仮説」が妥当でなかった。だからと言って「仮説を立てること」を否定してはならない、ということです。

別の例を出します。
人にもよるとは思いますが、次のような経験はありませんか?
ある土地に出向いて、宿泊先に到着したのは、夜になっていた。疲れていたので、部屋に着いて早々に寝付いた。
翌朝、朝日が差し込んでいたので、カーテンを開けて外を見た。そしてそこに、「想像外の風景」を見た。
なにが「想像外」か。
前夜、部屋の窓の外には、「かくかくしかじかの風景」が広がっている、たとえば山が見える、あるいは海が見える・・・はずだ、と「思い込んでいた」からです。
私の場合、窓の外に、建物の裏手の雑然とした場所が目の前にあって驚いたり、あるいは海だと思っていたのに山側でびっくりした・・など、かなりの数の「想像外」を経験しています。

このときの私の「事実と符合しない」「勝手な」「想像」は、それはすなわち、すでに触れてきた「そのときの私の『定位』作業」にほかなりません。

もしも、翌日、カーテンを開けることなく部屋を出て、帰途についたならば、私の中には、「部屋の位置」についての「間違った理解」がそのまま残っているはずです。しかし、それは、翌日の行動に何らの差し障りにもならない。その日はその日で、「新たな想像」で一日を過ごすのです。

そして、もしもその地に長く居ついて仕事をするような場合には、私は、その「間違い」を徐々に修正し「事実」に近づくことになるはずです。
これが先回触れた「私の世界」が「点から線、そして面」へと広がってゆく過程にほかなりません。

この場合もまた、私の「間違った理解」「間違った想像」を理由に、「想像すること」自体を否定してはならないのです。
これは、「『思う』こと」と「思う『こと』」とを混同してはならない、ということです。『こと』が事実に合わなくても、それを『思う』ことを否定してはならないのです。

   ところが、ものの見事に、「方位」まで「正しく」指摘できる「特技」のあるかたもいます。
   以前このブログで紹介した「小坂鉱山」について調べた和泉恭子氏は、その特技の持ち主でした。
   どこに行っても、ちゃんと、こっちが北、と言えるのです。
   彼女は日本有数の世界に通用するパラグライダー選手だった。
   それを可能にしたのも、この「特技」だったのかもしれません。
   残念ながら、1998年、32歳で不慮のパラグライダー事故で急逝。

以上書いてきたことは、私たちが日常的に行なっている「定位作業」の実相の一つです。
そして、私たちの「定位作業」は、私たちの目にする、あるいは遭遇する「もの・こと」を基にしての私たちの「想像」に依拠しているのです。

この「想像」は、別の言葉で言えば、「勘」というものだ、と私は考えています。あるいは「直観」と言ってもよい。
つまり、私たちは、日常的に、意識はしていませんが、「勘」あるいは「直観」を働かせて行動している、別の言い方をすれば、「仮説」を立てつつ行動している、ということができるのです。
   
   「勘」や「直観」は、多くの現代の《科学的であろうとする》人びとが、《非科学的》として「忌み嫌う」語・概念です。
   「仮説」と言うと、《科学的であろうとする》人びとでも、さすがに文句をつける人はいないでしょう。
   ただし、「仮説」でなく、「事実」に基づいて行動せよ、と言うかもしれませんが・・・!
   では、「事実」は、どのようにして認識されるのか?「分る」のか?


下の図は、1990年代、駅や車内でよく見かけた東京の地下鉄路線図です(今は別の表記の図になっているようです)。
この図は「日本地図センター」発行の1991年の手帳に載っていたもの。
駅や車内で見たのと少し違うようにも思えるのですが、類似のもので手許にあったのはこれだけだった・・(当時のJTBの「時刻表」にもあったと思いますが、手許にはない)。 



これは、元はロンドン地下鉄かイギリス国鉄の路線図を模倣したものであったように記憶しています。
要は、複雑な路線網を、横線、縦線、そして45度(135度)に振れた線で構成されるグリッド上に整理して表記しようとした「グラフィックデザイン」の「成果」。それはそれで見事な成果です。
記憶では、ここに掲載の図よりも、もっと図柄は綺麗で格好よかったように思います。

しかし、「図柄が綺麗である、格好よい」ことと「分りやすさ」は、必ずしも一致しないのです。
さらに言えば、綺麗に「整理する」ことは、必ずしも「分りやすくなる」ことにはならないのです。

そもそも、「路線図」は何のためにあるのでしょうか。
言うまでもなく、それは「案内」のためです。

では、「案内」は、誰への「案内」か?
それは、「知らない人」への「案内」。「知っている」人は「案内」不要。
それでは「案内」とは何か?

それは、「ある人」が「ある所」に行こうとしている、それを「支援する」ことです。
当然、その「ある人」は、「ある所」に「初めて行こうとしている人」です。
「ある所」へ一度でも行ったことのある人には、「案内は必要ではない」からです。多少迷うことはあるかもしれませんが、何とかなるはずだからです。

では、「初めて行こうとしている人」は、何を支援して欲しいのでしょうか。

それは、自らの「定位」のために、自らの「想像」「勘」を働かせるにあたって「効果のある」支援です。
たとえば、駅を出たらどちらに向いているか、それが「事実に即して知らされる」、そういうことが分ることです。改札を出て、方向が間違っていないか、ということです。
先に掲げた「路線図」は、その援けになるでしょうか?
残念ながら、支援の足しにはなりません。

例えば、「上野」駅。この図では、東京から上野に向ったとき、右手は「南」になる。この図を見た人は、上野駅の右手は南側だ、と思ってしまってもおかしくない。しかし、実際は、右手は東側なのです。
そう思い込んだ人が、自らの「理解」を訂正するには、私が名古屋で駅に戻ったように「出直し」が必要になるはずです。そしてその因は、この「路線図」。
つまり、この路線図は、「誤まった」「情報」を伝えてしまうのです。
他の駅についても、多分、多くの「誤解」を「伝えて」いるはずです。
結論を言えば、この「路線図」は、「必要とする案内」には、なっていない、のです。

なぜそうなるか。
その原因は、「横線、縦線、そして45度(135度)に振れた線で構成されるグリッド」に整理することに「熱中した」あまり、「実際の位置関係を無視してしまった」こと、にあるのです。
と言って、私は、このグラフィックデザインを間違っているとして批難しているわけではないのです。
なぜなら、この図を作成したデザイナーも、先回の「建物をつくるとはどういうことか-5 の追補・・・・設計者が陥る落し穴」で触れた「落し穴」に落ちただけに過ぎないのです。
このような図に整理するには、いわば徹底的に各路線を頭に叩き込まなければできません。それは大変な作業です。
ところが、全体を徹底的に頭に叩き込む作業に没頭しているとき、図の目的を忘れてしまう、別の言い方をすれば、いつの間にか「適確に整理すること」に目が移ってしまっている、からなのです。
それは、建物の設計者が、全体を俯瞰した絵:「平面」のスケッチを描いているうちに、初めてその建物に接する人も、設計者と同じように全貌が分る、と思い込んでしまうのと同じです。

地下鉄をふだん使い慣れている人は、路線図を見ないはずです。
もし見るとすると、乗ったことのない路線に乗ることが生じたとき(たとえば、何かの会の案内に、乗ったことのない路線の〇〇駅で下車、とあるようなとき)、自分のふだん使っている路線から、どう乗り換えたらよいか知る、そういった場合のはずです。
そのとき、「自分のふだん使っている路線」は、自分の定位の「前進基地」になるわけです。
問題は、初めて乗る場合なのです。つまり、「おのぼりさん」相手の場合。
これがきわめて難しい。特に地下鉄は難しい。路線そのものが「目に見えない」からです。これが、地上の鉄道なら、もう少し何とかなる。   

かつて、東京はもちろん大きな都市には路面電車、いわゆる市電が走っていました。東京や京都の場合、まさに四通八達。大体、どこへでも市電で行けた。
これがきわめて分りやすかった。
ところが、市電がバスに代替されてから、代替バスが同じ行程を通っているにもかかわらず、まったく分らなくなったのを覚えています。外には、以前と変らぬ風景が見えている、しかし、どこを通過中なのか、「見えなくなった」のです。

いったい、市電のときは、何を見ていたのか。
風景だけではなく、「線路」を見ていたのです。
詳しく言えば、道路上に敷設されているレールを基に、頭の中に「路線図」が描かれていたのです。その「路線図」は、「レールのある街路風景」と言った方がよいかもしれません。自分の乗った市電の「航跡」が、「レール」として、いつまでも消えずに残っているのです。
乗り換えの停留所なども、そこには描かれている。だから、どこそこに行くには、あれに乗って、どこそこであれに乗り換える、・・・といったことが即座に「目に浮かんだ」のです。
残念ながら、バスでは、こうはゆかないのです。「航跡」が残らない、見えないからです。

地下鉄に於いてはますます分らない、それがあたりまえ。だから案内もまた難しいのです。

最近の地下鉄案内をネットで確認してみました。だいぶ変っていましたが、それでも「おのぼりさん」の目でみると、やはり分りにくい。
案内図としての「地下鉄路線図」は、グラフィックデザイナーにとって、いわば「永遠の課題」なのかもしれません。

   ちなみに、私は初めて訪れる場所に行くときは、極力「航跡の見える乗り物」を使うことにしています。
   「安心して」いられるからです。
   初めての人を案内するときも同じです。どんなに地下鉄の方が早くても、「見える乗り物」の方が、
   その人の中に、「確実なデータ」が残るだろうと思うからです。

さて、ここまでくだくだと書いてきたのは、
私たちは常に自らの「定位」を行なうことによって行動を維持している、
そして、
その「定位」は、先ず以って私たちの「勘」によって為されているのだ、という重大な事実を確認しておきたい、そのためでした。

今、私たちは「勘」あるいは「直観」を馬鹿にしている気配があります。
多分それは、「この科学の時代に『勘』だなんて」という non scientific な考え方が広く流布しているからだ、と思えます。

先に書きましたが、「勘」とは「想像すること」であり、硬い表現で言えば「仮説を立てること」に他なりません。
裏返して言えば、「仮説」は「想像」しなければ生まれず、「想像」は、私たちの内に蓄積された経験を基にした「勘」「直観」に拠る以外にないのです。
残念ながら、私たちは、「想像すること」に臆病になっている、それぞれが備え持った「勘」を封じ込めようとしている、そのように私は思います。
  
このような話が、なぜ「建物をつくること」と関係あるのか、と問われる方もおられるでしょう。
しかし、ここまで書いてきたことのなかに、なぜ係わらなければならないか、その理由のいくつかは、すでに示されているはずです。


今回の最後に、これも「日本地図センター」の1991年版手帳にあった「鉄道路線図」を転載します(関東から中部の一部が載った部分)。これもJTBの「時刻表」にあるものと同じはずです。
頁の版面のなかに、路線と駅名をすべて表記しなければならない、それゆえこのような形になったのだと思います。これも苦労の成果。
この図もまた「分析」対象としてはなかなか面白いのです。
路線が曲って書かれているところは、実際もそうなっている場合(それには、曲る理由がある)と、たくさんの駅名を書き込むためにやむを得ず線を長くした場合、とがあるようです。[文言追加 15.33]
実際の地図と対比してご覧ください。


建物をつくるとはどういうことか-5 の追補・・・・設計者が陥る落し穴

2010-11-01 11:57:16 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 3日 10.18]

「建物をつくるとはどういうことか-5」で、新たな場所が「分ってくる」過程を簡単に見ました。要は、「点」から「面」へという過程をたどって、自分の世界の一部に取り込まれる、ということです。
それゆえ、たった一度しか訪れる必要のなかった場所については、「出発点」:「自分にとっての既知の世界からの出口」と「目的地」が、「線」でつながったことだけが「記憶」に残り、「線」の周辺(これが「途中」なのですが)については、単に「見えていた」だけで、何も分ってはいないのです。
これは、ある場所へ、自らの足で訪れる場合の話。
ところが、新幹線や飛行機で訪れる場合は、頻繁に訪れていても、「途中」は常に「分らない」、極端に言えば、「途中」は「なくてもよい」「余計なもの」になっている。
別の言い方をすれば、活動範囲は、数字上では飛躍的に広がってはいても、「自らの(既知の)世界」は、何も広がってはいないのです。ところが、それをして、自らの世界も広がったと思い込んでしまう・・・。これが現代なのではないでしょうか。

こういう思い込みが当たり前になってしまったからでしょうか、「点」から「面」へという過程をたどって初めて「自分の世界」「自分の自由に動け、分る世界」は確立する、という事実は、忘れがちになっているように思えます。
「自分の自由に動け、分る世界」の全貌・全体を、「一時に捉えることができる」と思ってしまうのです。
この「傾向」は、設計をする人によく起こりがち、陥りやすい「思い込み」です。

そこで、
この設計者の陥りやすい「思い込み」を如実に知り、
そしてまた、
私たちが「点」から「線」そして「面」へと徐々に「分ってゆく」のだ、という事実を知ることのできる
恰好の体験場所を紹介します。
そしてさらに、そこは、
目の見えない方がたは、自分を中心にした直交座標でものごとを捉える、ということ、
そしてそれは、普段忘れてはいるけれども、目の見える人びとに於いても同じである、という事実をも
「身にしみて」実感できる場所でもあります。

その場所とは、下の地図に示した「筑波研究学園都市」の中心部です。

    

私はこの町に20数年暮しました。このあたりへもよく行きました。車で、そして歩いても。
しかし、私の中には「確とした地図」はできていません。今でも、間違え、迷います。
当然、初めて訪れた人は皆が迷う、と言っても言い過ぎではありません。

   有名な笑い話があります。
   ここに暮している人のところへ、ある人が車で訪ねてきた。
   道が分らなくなって、やっと見つけた公衆電話から訪問先に電話をかけた。
   今どこにいる?と訊く。
   訪問者曰く、それが分らない・・・。
   これは、まだ人家が混んでいなかった頃の話。

なぜ、「分らない」のか、「分りにくい」のか。

その原因は、一に、「糸を撚ったような鎖状」の道路にあります。
まっすぐ平行して北に向って走っていた2本の道は、「糸を撚ったような鎖状」の形になるため、左側の道は東北へ、右側の道は西北へ、それぞれ135度曲ります。曲った道は交叉します。そして今度はそれぞれ向きを北に変え(そのためには135度曲ることになります)、ふたたび平行して走ることになります。
これを中心部で二度繰り返すのです(三度の場所もあります)。

このようになっている、ということは、図面の上ではよく分ります。しかし地上の人は、そんな具合に俯瞰はできません。
それこそ、目の前に「見える」景色に応じて、歩を進め、車を動かします。だから、こんな風になっている、などということは事前に分りません。
用意のいい方は、あらかじめ地図を見て、分っているつもりになっているかもしれません。

しかし、地図を見ていない人はもちろん、地図を見ている人も、かならず混乱に陥るのです。
その原因は「135度の曲り」にあるのです。
人は北に向いて歩いて、あるいは走ってきた。道なりに「右135度」に曲った。ところが、曲り終わった後、実は北東に向っているのに、本人は「東向きになった」と思ってしまうのです。曲ったことは分っているが、それが「135度だ」、「斜めだ」という意識はないのです。東に向いて走っているとの思い込みで次の135度を曲ると、北向きになったと意識します。結果としては合っています。
しかし、途中は間違った方向感覚。だから、中途の交差点を左折すると、本人は北に向いたと思い込む(実は北西に向いている)。次に135度曲る。曲ったのだからと、本人は東に向いたと思う。実際は北に向いている。・・・そこから先は、方向は滅茶苦茶になります。

これは、この場所を実際に歩いたり走ったりしていただければ、あるいは「紙上で」試みていただければ、即座に分る事実です。
135度の曲り、というのを意識・認識できるかどうか、を含め、いろいろと、験してみてください。


そしてまさに、この場所で私たちの内に生じる混乱は、「私たちは、目の見えない人も見える人も、直交座標の中心に自分を置いて、『前後-左右』でものを捉えている」ということを証明してくれているのです。その意味では、ここは、《大変貴重な場所》です。

このような「混乱」は、何度実際に歩いたり走ったりしても生じます。「慣れてくる」ことがない。
なぜ「慣れない」のか。

その最大の原因は、「なぜそこで曲らなければならないのか」、しかも、「選りに選って135度に・・・」、その「理由がない」、「(そのように)曲る必然性がない」からなのです。
すでに触れましたが、「曲るべくして曲る」、これが本来、人がつくる道の「原則」だった。
それは、人の「感覚」「感性」による判断。そして、この「感覚」「感性」は、現代でも変りはないのです。

では、なぜ、このような「計画」が実現してしまったのでしょうか。
それは、設計者の「誤解」です。
設計者は、紙の上に「絵」を描いている。「絵」は、全体を俯瞰している。

そこに、二つの問題が生じるのです。
一つは、「絵」の図柄としての「恰好」が気になってしまう。「恰好よい」「絵」にしたいという「誘惑」が生じる。
それが、「糸を撚ったような鎖状」の道路の形。

もう一つは、自分は計画した全体の「恰好」を見ている(それは当たり前「俯瞰した絵」で見ているのだから)。だから、その道を歩いたり走ったりする人たちも(つまり、現実の地上の人びとも)、全体の「恰好」を分ってくれるだろう(全体が見えているだろう)・・・、という設計者の「思い込み」。[( )内、文言追加 3日 10.18]

つまり、この設計者は、人が、ある(初めての)場所を「分る」とはどういうことか、その考察を忘れていたのです。
すなわち、人は、一時に「自分の必要とするものの全体」、たとえば「自らの自由に動ける世界」を捉えることはできず、「徐に、怖ず怖ずと、少しずつ把握してゆく」のだということ、そしてそれは、それぞれの人それぞれの備えもった「感覚」「感性」に拠るのだ、ということを忘れていたからなのです。

私が「くどくど」ととここに書いているのは、それが、「建物をつくる」ということを考えるにあたって不可欠なことどもである、と思っているからです。

もう少しのご辛抱を・・・。

建物をつくるとはどういうことか-5・・・・「見えているもの」が「自らのもの」になるまで

2010-10-29 19:03:11 | 建物をつくるとは、どういうことか


   近くの集落内にある「道しるべ」。今は地図の赤い円で示した場所にある。
   「馬頭観世音」だけの碑は、あちらこちらの集落内でかなり見かける。
   書かれている土地名とそこへの方角を照合すると、
   矢印を付した道と、この道に直交する道の右手(地図の上方)は往時のままらしいが、
   左手(下方)は、右手からの延長で、等高線に沿っていたのではないかと思われる(赤い点線)。
   「道しるべ」も、多分、丁字型にぶつかるあたりにあったのだろう。
   普通、こういう石には立てた時期などが裏側に刻まれているが、
   この石の裏面は破損していて、分らない。

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◇「私の世界」が、「点」から「面」に広がるまで・・・・初めから「全体」は分らない [副題追加 30日 8.20]

「明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と出てゆく、その『展開』はどのようにして可能になってゆくか」、このことを考えるための「前段」について、先回書きました。

今回は、その本題。
ただ、そういっても、真正面から書くには考慮に入れる「要素」が多すぎます。
そこで、ごく単純な場面を設定して考えることにします。

どういう場面か。
私が、ある初めての所:まったく知らない場所へ行く、という場面です。
それでも話しにくいので、さらにもう少し状況を限定します。
たとえば、所用である人の自宅を訪ねることになった。しかし、その人は知っているが、自宅は初めて。

〇〇駅の北口で降りると、駅前から広い道が見えるから、その「道なり」に10分ほど歩くと右手に神社が見えてくる、その裏手、という「情報」は教えてもらっている。
だからと言って私にとっては「分っている」という状態ではない。あいかわらず「未知」であることには変りありません。

私にとって「分っている」のは、駅まで。
つまり、大げさに言えば、駅は、私にとって「既知の世界」と「未知の世界」の境。「既知の世界の出口」であり、「未知の世界への入口」、ということになります。
したがって、駅を出た私の目の前には「未知の世界」が広がっているわけです。それが「見えているもの」。
それは、私にとっては「未だ分っていないもののかたまり」。「何かある」ということは分っていても、それが(私にとって)「何であるか」が分らない。かたまりの大きささえ分らない。言ってみれば不気味で不安。

   これが夜だったりすると、不安は激増します。
   「見えているもの」のほとんどは「暗いもの」「よく確認できないもの」だからです。

改札を出た。目の前にはいろいろな「景色」が広がっている。いろいろなものが「見えている」。なるほど「広い道」が見える。

駅を出て歩きだします。あらかじめ「情報」を得ているから、すいすいと歩を進めているか、というとそうではありません。
おそらく傍から見ると、目はキョロキョロとあたりを見まわし続けているはずです。ときには、人にぶつかりそうになったりして・・・。つまり、いわゆる「おのぼりさん」の風情。

そのとき、私は、まったく何もしないで、ただ「情報」どおりに、歩を進めているのではないのです。
何をしているか、というと、一所懸命、「分ろうとしている」のです。
どのようにして?
「想像」をたくましくして・・・。
「自分の歩みの方向」は正しいのだろうか、つまり、自分の歩みが「正当」であるかどうかの確認を、懸命になってやっているのです。
ところが、「正当」であることを保証してくれるものは何もない。だから、「不安」なのです。目がキョロキョロになるのです。
もしも、自分の歩みの「正当性」に「疑問」を抱いたら、つまり「正当ではないらしい」という「確信」を持ったら最後、歩みは止まるでしょう。
でも、普通は歩を進める、「見当をつけて動きまわる」のです。「見当をつけて動きまわる」とは、「試行錯誤」と言い換えていいでしょう。「見当をつけない動き」は試行錯誤ではありません。

   町なかだからこれで済みますが、山などでこれをやると遭難します。
   町なかなら、一応、何処へ行っても、人の世界。
   もっとも、人の世界だからといって、農山村では通じません。
   
つまり、私がしていることは、「自分の歩みの正当性を得よう」という試み。
「私は目的地に正しく近づいている」「私は、未知の世界の入口と目的地(この場合は駅と訪問先)を結ぶ線上に確かにいる」という「確信を持とうとする試み」なのです。
すなわちこれも、すでに触れた、人が常に行なっている「自分の所在確認の作業」「定位の作業」にほかなりません。

しかし、私がしていることは、結局のところ、「まわりに見えるものを見ての(勝手な)『私の判断』」以外の何ものでもないのです。だから「見当」なのです。「勘」「直観」と言ってもよいでしょう。
「その判断が正しいと」いう「保証」は、「自分がその目的の地にたどりつくだろう」と「信じる」こと以外にないのです。
すれ違う人が、尋ねもしないのに、あなたの歩みは正しい、などとは言ってくれません。だから不安になるのです。

つまるところ、「これでいいだろう」と懸命になって自分の「判断」を「信じている」に過ぎないのです。

目的地にたどりついたとき、私の不安は一気に吹き飛びます。
実際は「情報」どおり10分程度であっても、かなりの時間がかかったように思えているはずです。それゆえ、不安感の解消のよろこびの程度も大きいのです。
それは、単に目的地に着いた、ということだけによるのではなく、私の「定位」作業が間違っていなかった、ということへの安堵感、自分の「想像力」への感謝・評価の念も多分に入っているはずです。

   これは、事前の「情報」に簡単な地図が添えられていた場合でも変りありません。
   たしかに目に見えているものと地図とを対照して自分の現在地を容易に比定できますが、   
   「目的」が目に見えてこないかぎり、程度こそ軽いものの、不安であることには変りないのです。
   道行く人に尋ねたところで、私が訪れる人を、その人が知っているわけがなく、
   せいぜい地番で尋ねるぐらいしかできません。
   そして、〇本目の交差点を過ぎてすぐ、などという「情報」を得ても、不安は多少緩和されるだけです。

   また、この「不安」は、「案内板」「サイン」があれば解消されるか、というとそうではありません。
   たしかに一定程度、たとえば「方向」などの判断の援けにはなっても、
   「定位」の援けになっているわけではないからです。
   「案内板」「サイン」で得られる情報だけでは、「自らの了解」には達しないのです。

   駅で観察していると、明らかにこの地は初めての人だ、と見える人は、たいてい、案内板に目をやっていません。
   先ずもって「自分の感覚による定位作業」に忙しく、「案内板」に目をやる「ゆとり」がないのです。
     これについては、以前、「かならず迷子になる病院」を例にして書いています。
     http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d17820975974c21230a13c527f26af2d

   その意味で、古き駅舎、初期の駅舎では、そういうことがなかった。
   自分の感覚による「定位」作業が容易だったからです。おのぼりさんにも分りやすかった。
   だから、「案内板」も、今よりもずっと少なかった。
   設計者が、人の動き方をよく分っていたからなのでしょう。 
   「案内板」で何とかなる、などというのは、きわめて姑息な考え方なのです。
   そして、最近の町や建物は「姑息」の集積・・・。


無事に訪問先に着き、話も済んで帰途につきます。

その「帰途」も、出発点だった駅にスムーズに戻れる場合と、
そうではなく、
駅に着くまで、往路と同じく、不安でどうしようもない場合とがあります。
夜などは、後者が多いはずです。
何がそうなるのか、考えてみます。

駅から訪問先の「途中」で私の目の前に次つぎと現れるものが、私にとって何の特徴もなく均質なものに見えるとき、
簡単に言えば、同じような感じのものが並んでいるとき(たとえば、最近の新興の住宅地の中などはそうです)、
私の内に沸き起こる不安は増幅されるばかりで、時間の経つのも長く感じられるでしょう。

そうではなく、時折り、均質に感じられないものや場所、別の言い方をすれば、何か他とは大きく異なる特徴が感じられるものや場所は、私の目にとまります。
そして、そういうものや場所は、行程の途中の私にとって、重要な役割を持つことになるのです。

先ほど、駅から歩を進めて、「自分の歩みの『正当性』に『疑問』を抱いたら、『正当ではないらしい』と思ったら最後、歩みは止まるでしょう」と書きました。
そのとき人はどうするでしょう。
一つの策は、道行く人に尋ねる。
しかし、あいにく尋ねる人に会わなければ、人は普通は出発点の駅に戻るはずです。出発点から「出直す」のです。

しかし、もしも、行程の途中で、「何か他とは大きく異なる特徴が感じられるものや場所」を認めていると、どこかで歩みが止まってしまったとき、人は出発点:駅まで戻らずに、先ほど見つけた「何か他とは大きく異なる特徴が感じられるものや場所」まで戻れば済むのです。
つまり、そこが目的地へ向うための、いわば「前進基地」になる、ということです。

通常は、行程の途中がすべて均質であることはなく、目的地までの間に、いくつもの「前進基地」が築かれます。

そして、このいくつもの「前進基地」を往路において築くことができたとき、帰路は大きな不安感を抱くことなく駅まで戻れるのです。自ら築いた「前進基地」を目指して歩けばよいからです。
逆に、「前進基地」を築くことができずに目的地へ到達したときは、帰路もまた、不安にさいなまれるのです。

   道案内をするとき、私たちは、かならず「ある指標となるもの」を指示します。
   それは、多分それが、その人の「前進基地」になるであろう、という私の「勝手な想定」が根拠です。
   つまり、私たちは、そのとき、私たちの「共通の感覚」「感性」に「信を置いている」のです。
   先ほど触れた「案内板」も、この「共通の感覚」「共通の感性」に依拠しているならば効果があるはずです。
   残念ながら、現在の多くの「案内板」は、このことを失念しています。

今でもありますが、農山村の道には、よく、要所に「道しるべ」が立っています(冒頭の地図と写真参照)。右へ行くと、どこを経て何処に至る、左は・・・、と記されています(もっとも、自動車の普及が、往時の道を替えてしまって、道しるべも失せてしまっている場合が多い)。

何が「要所」か?
道が分岐するような場所が「要所」です。
しかし、単に分岐しているわけではない。
分岐する場所は、何処でもよい、というわけではないのです。それが、現在つくられる道路との大きな違いです。
簡単に言えば、「分かれるべくして分かれる」ような場所でしか道は分かれない。
たとえば、地形が大きく変化する場所、峠状の場所、あるいは、そこへ来るとある風景が見える(「当て山」と呼ぶようです。「一本杉」「六本木」・・などというのもそれだったはずです)・・・などなど。
そういうところを「選んで」道は分岐しています。そういうところを、往時の人びとは分岐点として選んだのです。
これは、人の心の内を見通した計画であった、と言ってよいでしょう。
しかしそれは、「わざわざ意識して心の内を見通すべく努めた」のではなく、往時の人びとにとっては、「当たりまえのこと」だったのです。そういうところでなければ、道をつくらなかった。
要は、道はどのようにしてどうしてつくられるか、ということです。この点については下記でも書いています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/262176cccda7b41acd735a3d8f2732ac

   実は、カーナビに頼っての運転では、往路の「経験」は、帰路に役立つわけではなく、
   と言うよりも、「経験」にはなっておらず、
   帰路もまたカーナビに頼らなければならないはずです。

ところが、「前進基地」がいくつか設定できても、帰途で迷うことがあります。
一つは、そのいくつかの「前進基地」相互がどれも同じように見える場合です。どういう順番に並んでいたか分らなくなるのです。
もう一つは、それぞれの「前進基地」には差があるけれども、その配列の順には何の特徴がない、どういう順番だったか分らなくなる場合です。

私の頭の中には、出発点と目的との間は、いくつかの「前進基地」:「点」とそれをつなぐ「線」で描かれているのですが、これは、そうして描かれた「地図」が、「あやふや」な場合にほかなりません。
もしも、その配列がきわめて印象に残るものであるときは、迷うことはありません。おそらく、当たりまえのように、すいすいと出発点の駅に着くはずです。したがって、不安感も生じません。

   私は、中学の頃、非常に野性味あふれる教師の引率で、八ヶ岳・赤岳に登りました。
   梅雨時で、雨が降っていました。野辺山から尾根沿いの登山道を登るコース。
   昭和20年代のことで、案内標識などない。
   野性味あふれる、というのは、その引率になってない引率法。
   尾根を登る、ということで、いわば、「勝手に」それぞれの判断で登る。
   雨中で頂上の小屋に着き、それから下山。これもバラバラの下山。
   尾根を下るのだから分りやすいのは確か。
   しかし、登りで見ていた風景と下りでみる風景は微妙に異なる。
   それでも、往路で見かけた風景・ものに出会うと、これで間違いない、と思い安心する。
   ところが、時に、この次には、こんな場所に出るはずだ、と思っているのに、ない。
   これは、きわめて不安になる要素。
   実際は、その風景の「出番」の記憶が、私の中で間違っていただけ。
   「思っていた」順番を変えて現われる。
   同じような「風景」であるために、配列が分らなくたっていたのです。

   しかし、約100人の生徒は、誰一人として迷子になることもなく、夕刻までには帰着。
   おそらく、引率の教師は、この尾根道筋では、
   普通の感覚があれば、迷うことはない、と考えていたのだと思う。

   今では考えられない話。

以上は、知人宅を一度訪ねる場合の顛末。

しかし、これが数度以上繰り返されると、だんだん「慣れ」が生じてきます。繰り返すたびに、不安の度合いも少なくなる。つまり「日常化」するのです。

その場合でも、二つの場合が考えられます。
一つは、「拠点」:「前進基地」の配列順を「覚えこむだけ」の場合です。これは、「繰り返し」の度合いが少ない段階です。
そのとき、私のなかに描いている地図は、あたかも鉄道の路線図のように、「点」と「線」からなっています。駅が「点」です。

もう一つは、何度か繰り返しているうちに、「拠点」をつないでいた「線」の部分に、さらにいくつかの「点」を読み取れるようになり、さらには、「線」の幅が広くなってくる場合。つまり、「面」として理解できるようになる段階。
心に「ゆとり」が生まれたため、それができるのです。

こうなってくると、私の「出発点」と「目的地」を結ぶ「線」は、今日はこのコース、・・と言う具合に、その「面」の中で任意に選ぶことができるようになります。
つまり、初めは「未知の世界」にあった知人宅は、私の「既知の世界」に組み込まれたのです。
私は、その「面」の中、言い換えれば「既知の世界」に組み込まれた一帯では、自由奔放に行動できることになったのです。
なぜなら、そこでは、自らの「定位」がきわめて容易だからです。言い方を変えれば、「定位」はしているのですが、それを意識しないで済んでいるのです。

   日常では、人は「定位」の作業をしていないように見えますが、そうではなく、
   「定位」作業は常に行なわれているのです。ただ意識していないだけ。


これまでの話の「駅」を、新たにある場所に居を構えた地点:居所に置き換え、「知人宅」をそこでの暮しで必要な場所(たとえば商店や役場、耕作地、仕事場、・・・など)に置き換えてみたとき、そこに、人が「新たな土地・地域に馴染んでゆく過程」が見えてくるはずです。
簡単に言えば、これが、「山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と出てゆく」過程にほかなりません。
「徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)」とした行動になるのは、最初は不安の度合いが大きいからなのです。

そしてまた、以上のことは、同時に、「人にとって住居とは何か」、そしてまた「建物の設計とは何をすることか」を考えるヒントをも示している、と私は考えています。

次回は、ここで見てきた「過程」で起きる諸事象、たとえば「勘違い」について・・・、考えてみます。