建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

1982年度 「筑波通信№5 『善意』の人々」 1982年8月

2019-06-25 10:09:38 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №5」1982年8月 A4版10頁 

     「筑波通信 №5」 1982年8月

      「善意」の人々・・・・経験すること、分ること・・・・

 経験者の目と、未経験者の目

 六月の末は、大学では期末試験の季節である。学生にとってはもちろん、教師にとってもいやな季節である。知識の量を計るというやりかたはそれなりにランクづけも楽だけれども、試験のときにたくさんの知識をまちがえずに覚えていたからといって、ずっと先までそれを覚えているはずもなく、第一仮に覚えていたとしてもそれが有効に本人のなかで働かなければおよそ無意味だし、覚えこむという努力自体徒労にすぎない、それよりもものごとを自分がどうとらえ、どう考えるか、その方がずっと重要なことのように思え、そしてそうした自分の考えかたによって必要に迫られて身につけた知識は生き生きとしているものだ、そう考えるが故に、試験問題もなんとかして各人の考えかたの展開のさまが分るようなやりかたはないかといろいろ考える。自分が感じ思っていることをどれだけ論理的に展開できる人なのか、せいぜいそのくらいでしか評定できないと思うからである。ここに掲げたのは今年の問題である。引用した文章は、先号のあとがきに紹介したもの。いったい、どんな答案がだされたか。(対象は二年生25人。建築志望の学生とは限らない。)

 

  

自分の考えかたでなく、教師に迎合したことを書けばいい点がもらえる、などと思われても困るので、そうならないように対策を講じることになる。 A,B,C,D, 四人の会話を付したのはそのためだ。A,~D,のどれかを選べというのじゃないよ、と口頭で言ったのだが、それはまったく杞憂だった。

 

 私なら、幼稚園は明るい方がいい。自分の家と幼稚園とは、子どもにとってはまったく別の世界だと思う。少なくとも私はそうだった。家でいやなこと悲しいことがあっても、幼稚園にくればみんなの明るさのなかで、いつのまにか自分も悲しいことを忘れていた。幼稚園に来てまで、(悲しむ場所を用意までされて)悲しい気分を忘れさせてくれないのでは、私なら困ってしまう。幼稚園は自分たち子どもだけの世界なのだ。しかった大人も白い目で見る人も‥‥ここには立ち入れない。そういう人たちから逃げ隠れすることもない。確かに幼稚園に来てもまだ悲しくて泣きたいこともあるだろうし、幼稚園のなかの生活でもそういう気分になることもあるだろう。そんなとき、一人で泣きたいと思う子どもは、幼稚園が明るい設計であろうがなかろうが(つくりがどうであろうが)、思う存分一人になれ、泣ける場所を自分から見つけるものだろう。私は子どものころとてもおとなしい子で、幼稚園では他の子とうちとけて遊ぶことをせず、みんなが遊んでいるのを一人で見て楽しんでいるといったタイプの子であった。もしも一人になれる暗い場所がいくつもあったら(別に悲しいことがなくたって)私はいつもそのどれかに閉じこもりきりで、友だちもできない暗い子になってしまっていたかもしれない。孤独という感覚は、大ぜいの人のなかで(かえって)十分に知ることができたのだ。私の場合、家に帰れば明るくおてんばな子であった。まわりにはその逆の子もいた。みなそれなりに、家と幼稚園とを区別していた。家のまわりでも幼稚園ででも、私たちは大人が用意してくれた遊び場などに関係なく、自分たちで、その場その場でいろんな所を遊び場にしたり、泣き隠れる場所にしていた。だから、大人がどんなに小さなところまで心配りをしても、結局子どもたちはそれとは関係なく(大人の思いをはずれて)自由に生活してゆくのだと思う。だから私なら、幼稚園には普通家では考えられないような場所(大きな部屋や大きな庭や・・・・)があればいい。あとは子どもたちが自由に使いだし、つくりだすだろうと思う。・・・・

 

 これがその答案の一つ(抄録)である。別にこれが一番よかったわけではない。

 私が意を強くしたのは、この人も含めて三分の一以上の学生諸君がこの園長さんの思考の展開にある短絡を適切に指摘してくれたことである。この園長さんよりも学生諸君の方がずっとよく、さびしさということ、孤独ということ、そして(子どもはもちろん)人の行動ということ・・・・について分っている、それで私は大いに安心したのである。専門教育をこれから受ける段階にある二年生の彼らが、極く極くあたりまえにこういう見かたを持っている。しかもそれは、いずれも自らの体験に拠って語られている。更に加えて、この答案もそうであるように、その体験があくまでも自分の体験にすぎず、他人はまた別の体験をしているということを(実際に目にもし)明確に認めた上、だからといって人はそれぞれやることが違うんだとは放っておかず、個々人の違う体験を通り越した向うに、言わば普遍的な子どもの姿を見透している。

 そして更に、多くの諸君が(これもこの答案にあるが)極めて大事なことを指摘している。それは、彼らがよく自分を見つめている故に分っているのだと思うが、大人がいかに細かく心配りをして「ここはこういう具合に使う所」として場所を用意しても、子どもがその気にならなければ子どもは大人の心配りどおりには使わない、子どもは子どもなりに(人は人なりに)自分の意志、自分の判断で自分の場面をつくりだす(あるいは探しだす)ものなのだ、という指摘である。ここまで来れば、この学生諸君は、それから先の(それが難関なのだが)「では、いったいどういう場所を用意したらよいのか」という本質的な問題:私たちの生活してゆく場所をつくってゆくにあたっての本質的な問題:に、この園長さんよりもずっとずっと近くまで近づいているのだと見てよいだろう。

 ところでこの答案は問題の2)に対してのものであった。そこで、今号は、私自身この問題の1)に答えるようなつもりで話を展開させてみようかと思う。

 

 子どものタイプ・生活のパターン

 引用された文章から想像して、この園長さんはきっと極めて子どもの教育に熱心なのだと思われる。子どもの成長、それに係わりをもつことに対し、情熟で満ちあふれている。その道に関しては人後に落ちない。その点では、なみの専門家ではない(なみの専門家は自称専門家で、その道に熱心であるまえに、専門家であるということの方に熱心だ)。 彼は、普通とかくおちいりがちな「子どもたちってのはガキ大将ばっかりで、明るく元気なものだ」などという「観念的な見かた」をしない。彼はむしろ、そういう見かたからははみだしてしまう言わば少数派の子どもたち、おねしょをしてしょげている子、しかられて泣きたいほど悲しい子、・・・・そういった子に目をやろうとする。私もまた、そういう子に目をやることには同意する。切り捨てられるものなのではないから全く当然だ。けれども、園長さんと私では、どこか一つ違うところがある。

 いま私は「少数派」という書きかたをした。そして、この園長さんは、どうもこの子どもたちを普通一般に忘れ去られてしまっている「少数派」として見ているようなふしが見うけられる。そこがどうやら私と違うところだ。それを単に子どものタイプだとして、あるいは子どもをいくつかのタイプにわけて、見てしまうだけでよいのだろうか。その点では、私は先の答案にある子ども観の方をとる。

 つまり、一人の子どもにあっても(場面に応じて)こういったタイプが出現する。それは、子どもの生活の諸相の一つにすぎないのだ。ガキ大将やおてんばの子だって一人悲しむことはあるし、内気の子だってやたらにはしゃぎたくなるときもある。いつも一つに定まっているわけがない。まして、先の答案にもあるように、家ではおてんば、外では一転しておしとやか、という具合にさえふるまうことができる。だから、場面(それは子ども自らがつくりだすのだが)に応じて、いかなる諸相をも示すことが子どもにはできるのだ(もちろん大人もそうなのだが)。

 そういった諸相のとりかた・現われかた・表わしかたに人により差がある、タイプが見られる、という意昧でのタイプ分けなら私にもまだ分る。けれどもそうではなく、その諸相の一つを子どものタイプとしてとりあげ、それに対応して建物まで用意するというのは、たとえそれが通常は切り捨てられているタイプの子どもたちを大事にするのだという「善意」で裏打ちされていようが、これも随分「観念的」だなあ、と私には思えてくる。これでは、「子どもは元気で明るいものだ」「だから、明るい建物にすればよい」というのと何も変るところがない。子どもの諸相の一つだけとりあげる点も同じだし、だからそれに対応した建物をと続けてゆく短絡的な考えかたも全く同じである。つまり思考の構造は全く同じなのである。違うのは唯一、園長さんが子どもの諸相のどこに・どれに目をつけたか、その違いだけである。そうだとすると、極端な言いかたをすれば、子どもの諸相の数だけ、あるいはその諸相のどれを園長さんがとりあげるかによって園長さんの数だけのたくさんのタイプの幼稚園が生まれることになる。はたしてそうだろうか。

 人間というもの、人間のやったこと、人間の営むこと、そして人間が考えること、それらをいくつかのタイプやパターンに分けてみることができたからといって、それで「分った」気になってしまうということ、これほどおかしな話はない。先号でも書いたように、人間だって、言ってみればプラスからマイナスの間にいろいろなタイプをとって連統的に存在しているのだと言えるし、一人の人に限ってみても、その一人のなかでまた(先の答案にもあったように)プラスからマイナスの間でいかようにもあり得るわけで、まして、ものを考えるという局面が、初めからいくつかのタイプ、パターンに分類されて設定されているなどということがあるわけがない。

 たしかに私たちはものを考えるときに、考える対象をいくつかに括って見ていることは事実である。ものに名前をつける、あるいは私たちがことばを持っているということは、私たちがものごとをいくつかの概念に括りこんで扱おうとすることの表われに他ならない。パターンに分け扱っているわけである。しかし、だからといって、名前、ことば、概念、パターン・・・・が私たちとは独立に別個に、しかもあらかじめ(私たちより以前に)存在しているなどと思われてしまってはとんでもない誤まりだ。名前や概念というものは、私たち(なにもいまの私たちだけではない)が私たちの都合で営々として築いてきた:もう少し正確に言えば、先代の為したことのうち、引き継げるものは引き継ぎ、捨てるべきものは捨て、つくり変えるものはつくり変え直し、そして新につくらなければならないときはつくり、そういった意味で常に創造してきた:そういうものなのだ。そのなかで少しも変らなかったことはなにかといえば、それは、私たちをとりかこむ(あるいは私たちが在る)世界との関係けだと言ってよい。といって、私たちをとりかこむ世界が一定不変のものとして在り続けたわけではなく、世界はその都度私たちによってとらえ直されてきたのである。ということは、私たちが何をとらえているか、それによるということだ。だからこそ時代によりものの括りかた、概念、名前・・・・つまり世界のとらえかたが違ってきたのである。そして私たちがその世界をとらえるにあたっての拠りどころは、つまるところ、私たちの私たち自身の感性:私たちのものを見る目:私たちのものの見かた:でしかない。

 

 なにを見るのか

 おそらくこの園長さんは、長年の幼稚園の経験:こどもたちのとのつきあい:のなかで、普通見られる幼稚園、そこでやられているやりかたに対して一定の批判を持ったのだろう。たとえば、子どもにとっての「暗い」部分が切り捨てられているではないか、と。子どもに対して、ある観念的な子ども像や生活像が、しかも定型化したパターンで押しつけられているではないか、と。ところが、あにはからんや(引用した文から判断する限り)この園長さんのやったことといえば、いままでとは違う別種のパターンを押しつけることだった。なぜなのか。

 彼の批判の対象になったもの、それは現象としての現代的なやりかただった。私たちの目に直かに見えてくるのは、賛意を表するものであれ批判の対象であれ「現象」でしかない。この場合は、やりかたである。賛成しがたいやりかたがある。やりかたを変えたらどうだろうか。もちろんそれで済む場合がないわけではない。しかし、全てそれで快方に向うと考えてしまうと、それはまちがいだ。そういったやりかたのような言わば人為的な「現象」の場合には、言わゆる自然現象を扱うのとは違うのであって、その現象をあらしめた「人為」すなわちそれをあらしめた考えかたそのものが問題となるはずであり、批判もまた単に現象としてのやりかたの面にとどまらず、当然それをあらしめた考えかたの局面にまで到ることが要求されるだろう。

 いったいこの園長さんをして「子どもにとっての暗い」部分に関心を寄せさせたもの、普通のやりかたとの対比で彼の目をそこに向けさせたものは何であったか。それはおそらく、彼が学んだ(既存の)教育理論や心理学や・・・・ではなく、それらを越えた「彼のものを見る目」だったはずである。彼の目は、「明るく元気な」子ども像を押しつけるやりかたのなかで生きるうちに、明らかに、そのやりかたにひそむ「現代のやりかたの虚偽」を見つけたのだ。そして彼は、その「虚偽」をただそうと試みた。そしてしかし、その瞬間彼の目は、あの「明るい」部分で押し通すのでよしとするのと全く同じ目に戻ってしまったのだ。彼もまた同じように「現代の虚偽」の道連れになってしまったのである。そのときから、彼のあのすばらしい「ものを見る目」が死んでしまったのだ。これは少し酷な言いかたなのかもしれないとは私も思う。「明るい」部分だけでなく「暗い」部分があることを見ているだけ、全く見ないよりもいいじゃないか、そう思われるかもしれない。しかし、それでほんとによいか。

  

 初めに彼の目が見たこと、それは本来、本質的に「あたりまえな」ことであった。ただ、現代では通常それが見捨てられ切り捨てられていた。だからたしかに、彼がそれに目をやったことは、目をやらない、見捨てしまうことよりはよいことである。一般的に、日ごろ忘れ去られてしまっていること、その重要さ、について目をつけることは、たしかに目を付けないことよりもよいことだ。たとえば「福祉」をクローズアップする、「自然保護」を叫ぶ、「街なみ保存」を訴える・・・・、それらに目がゆくことは、ゆかないよりもいいことだ。だが、それは単純にそれらが抜けおちていたそのときまでの状況に、足し算する:追加すれば済むものなのか。そんなものなのか。違うだろう。そういったことが忘れられ切り捨てられていたのは、なにも、ほんとは入れておくべきだったのだがついうっかりして入れ忘れてしまったというような、単なる忘れものだったからではなく、そもそも「人為」において:つまりその考えかたにおいて、それらを全く必要としない(言いかえれば、忘れてしまって当然の)構造があったからに他ならない。考えかたの構造の改変を伴なわずしてことがすすむ限り、あたりまえのことも決してあたりまえにはなってこないはずである。

 

 「善意」の介在

 私が常に奇妙に思ってきたことは、この現代の世のなかで、本来あたりまえなのにあたりまえに扱われて来なかったこと:たとえば「福祉」「自然保護」・・・・について発言することが、人々の「善意」であると見られている点である。なるほどたしかに、先にも書いたように、忘れられてきたことを指摘する人々の「善意」は、私も貴重だと思う。しかしそれは、そう指摘するのが世のなかの大勢から見て希少だから貴重なのではないことは言うまでもあるまい。数の多少で言っているのではない、言うまでもなく、その指摘のなかみが大事だからである。もしそうでないと、本来あたりまえなのにあたりまえにやられていなかったこと、それに係わることが大事であり善意であって、あたりまえがあたりまえにやられている、そういうことに係わるのは大事でもなければ善意でもない、そう扱われ済まされてしまう状況さえ生じてくるだろう。そして、あたりまえをあたりまえにしようという「運動」を、自他ともに「善意」で括って済ましている限り、その目ざすべき「あたりまえ」は、常に、これから先も、「善意」によってのみ保証され続け、それは決してあたりまえなことにはならないだろう。

 しかし現実は、残念ながら「善意」が前面に押しだされている。人のやらない、気づかない「よいこと」をやること、いまの世での希少さゆえの「善意」を持つこと、それが、なにか普通の人とは違うほこりででもあるかのように見なされる。「善意」や「ボランティア」が「生きがい」となる、「目的」にされてしまう。それが、場合によると、かっこいい一つの生活の「スタイル」にさえなってしまう。異常である。私には承服できない。むしろ「虚偽」に見える。「障害児や障害児の親のため、援助して下さる方がたくさんいます。その人たちは逃げられるけれど逃げない状態でいるときは、・・・・楽しそうに気分よく手伝ってくれます。けれど・・・・逃げることのできない状態になると、とてもつらそうになり、疲れるようなのです。‥‥」これは昨年の七月の通信(№4)のあとがきで紹介した手紙の一節だが、そこに現代の「善意」の様態が象徴的に示されてはいないだろうか。

 そして、別にこの園長さんもそうだというわけではないが、ある種の専門家のなかには、その専門を「善意」によって裏付けているのではないかと思われる人が、ときおり見うけられる。

 

 善意の人々

 もう大分昔のことになるが。ある教育の専門家を囲んで話を聞く会にたまたま居あわせたことがあった。この人も、この園長さん同様熱心な人で、世のなかで忘れられてしまっている問題に光をあて、自らも実践してきたことで、世のなかでも有名であった。その人の話を聞こうと企画された会合で、集まったのは、教育に関心がある言わゆる素人ばかりである。席上、その素人とこの人との間で見解のくいちがう場面があった。そのとき彼は、自分の見解の正当性を言うのに、その考えのなかみの説明ぬきでこう言ったのである:「私は二十年以上もこの道でやってきたのです」。翻訳すれば、「私はこの道で二十年もいろいろ考えてきたのです。そういう経験を積んだ私の考えは、説明するまでもなく、あなたがた(素人)のそれよりも正しいのです」ということである。話の継ぎ穂がなくなり、たちまちにして座は白けてしまった。私もいささか彼の発言に驚いた。そして、この人もやはりそうか、とも思った。専門家にはよくあることだからだ。しかし、二十年の昔から、彼はこうだったのだろうか。おそらくそうではあるまい。彼の若い目は、先に書いたような「善意」とはおよそ無縁に、現代において切り捨てられていること、そしてそのおかしさに鋭くつきささったはずである。彼は以後、そのおかしなやりかたをただそうと、ちょうどあの園長さんと同じように、努めてきた。多分その目は初め、いまこの会合で出された素人の見解、その素人の目とさほど変るものではなかっただろう。彼はまだ未経験だったのだから。それから彼がやったこと、それは並大抵のことではなかった。それは、忘れ去られていたことを浮かびあがらせることであったから、大変なことだった。その結果、彼の仕事はそれなりに認められるようになってきた。忘れ去られ、切り捨てられていたものが、徐々に日の目を浴びるようになってきた。これは非常に(真の意味で)貴重なことであった。

 しかし世のなかは、それを本質的な高みでそれを理解せず、先に書いた意味での「善意」でしかとらえなかった。彼が明らかにしてきたことは、本来あたりまえなことなのだが、世のなかがその体質上忘れていたこと、希少なことだった。しかし世のなかは、その体質を変えることなく、彼(ら)の「善意」に頼って、それを補うことで済まそうとする。ないよりもある、それだけでも言ってみれば画期的なことであった。現代の欠落部分が「善意」で補われる、なかったものがあるようになった、それであたりまえとなる。そうなってくると、世のなかは、彼の言ったりやったりすることの「なかみ」ではなく、その現代での希少さゆえの貴重さだけで見るようになる。世のなかではあたりまえでないことをやっているえらさ。そう見られるようになったとき、多分彼の目は、若き日の目を失ないはじめたのである。もし彼が明らかにしてきたことが、世のなかにその体質を変える形で組みこまれたのであるならば:つまりあたりまえのことが「善意」に頼らずあたりまえになったのならば、当然その「なかみ」の真意が問われただろう。しかし、世のなかは言わば免罪符として「善意」に期待したのである。だから、彼の見解のなかみではなく、彼の「その道の専門家」としての存在にのみ、世のなかは価値を認めることになってしまったのである。そういう見られかたは、当然彼に反映する。彼は、なかみと関係なく、「善意」のシンボルとなってしまった。彼のやることは、そのなかみとは無縁に、彼がやることだからえらいこと、になってしまった。そして、だから、素人に、素人の素朴にして原初的な「なかみ」に係わる見解を示されたとき、彼はその貫重ですごしてきた(希少ですごしてきた)経験年数の多さでしか対応できなくなっていたのである。若き日に、彼の若い目でぶつかっていた「現代」に、彼は括りこまれてしまったのである。ミイラとりがまたミイラになる。

 

 経験だけで分るか

 考えてみれば、この人の場合は「その道」に熱心であって、「専門家であること」に熱心だったのでないだけ、数等(いまの世のなかでは)秀れていると言わなければなるまい。なにもこの人ばかりでなく、いま専門家と呼ばれる人の多くが、その「その道の経験年数」をもってしてことにあたろうとしがちである。私自身もまた、ふと気がつくと、そうなりかかっていて、ときおりひやっとする。私自身、建築に係わりをもつようになってから二十年以上になる。もう大分やってきたという感じを持つ一方で、たかだか二十年じゃないかという気にもなる。多分この後者の思いの方が正当なのであって、たった二十年間の経験だけて、ものごとが分ってしまった風なことが言えるわけがない。第一、専門家としての二十年のことを基にするというなら、いったい私の四十五年のこれまでの歳月の残りの二十五年というものは何なのだ。まして、専門外の素人の人たちが生きてきた歳月は、専門的には無用な歳月だとでもいうのだろうか、そしてまた、未経験の若い目にはなにも見えないとでもいうのだろうか。考えるまでもなく、それは誤まりだ。ただ、とかく横着なものだから、たった二十年の経験でものを言う誘惑についのってしまうのである。専門外の素人のなかでは、専門になにかをやっている、ただそれだけで貴重だから、なかみとは無縁に、その貴重さだけでちやほやされて、いい気分になってしまう。これはほんとに、実感として、おそろしいほどの誘惑であり、一度それを味ってしまうと、それはもう麻薬みたいなもので、あとはその専門のなかで惰性で動くのがせいいっぱいになる。たった二十年の、しかも専門だけの経験、もしそれだけでものを言うのならば、それはすなわちそれしか見えない、つまり偏狭だということに他なるまい。

 

 昨年の十二月の号で、私は次のように書いた。「いったいだれが彼ら(専門家と通称される人たちのこと)に専門家の称号を与えたのであったろうか。生身の私たちがその称号を与えた覚えはないはずで、いつの間にか彼ら自ら名乗りでたにすぎなかったのではなかったか。彼らから専門家の称号をとり去ったとき、そこにはなにも残らない、ことによると生身の彼自身さえもないかもしれない、そうだからこそ専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。・‥・」

 このときも私は、いささか自分の反省の意をこめてこれを書いた。しかしそのとき、私はまだはじめから自分を専門家として位置づけ、よき専門家たるにはどうであればよいか、そういう発想をしていたように思う。それは随分と思いあがった話である。「善意」の裏づけでいい気になっているのと、何ら変るところがない。


 批評ということ

 私はながながと、例の園長さんをまないたにのせ批評をしてきた。しかしそれは、彼を批難するためではなかった。私には彼を批難はできない。むしろ、いかに観念的でまた短絡した考えや行動を示そうとも、その前段での彼のものの見かたと、それを実行に移した行動には、一定の評価を与えざるを得ないと思うからである。考えようによれば、人間の歴史というのは常に、こういうことのくりかえしだったのかもしれないからである。完成した、あるいは完ぺきな理想のものが形をなして私たちの外側に存在し、それを私たちが探している。人がものを考える、なにかをする、というのは決してそんなことではない。全ては私たちがつくりあげことなのだ。私たちが私たち自らの感性を唯一の頼りにして、私たちの目で見ることによって、創るのだ。創り続けることなのだ。それはしかし、一度つくってしまったものを死守し、その上に積みあけ続けることではない。そんなことをしたら。私たちの目は死んでしまう。そして私は、私の目が(いま以上に)死んでしまわないために、批難ではなく、批評をし続けようと思う。それは必らず自分にはねかえってきてしまうから。

 

 あとがき

〇先月のなかみについては、正反二つの反応が返ってきた。一つは、話の種切れになったのではないか、そういう心配をしてくれたものであった。本人は別に種切れになったつもりはなかったので、どうしてそのように見えたのか、しばし考えてみた。おそらくそれは、言わんとすることが毎回同じことのくり返し、言ってみれば二番せんじに見えたからではないかと思う。私が言おうとしていることは、その心棒だけだと、それは必ず、それこそ骨ぬきにされて理解されてしまうだろう。そういう経験は、いやというほど味わってきた。今回書いたように、考えかたの構造を変えず、新しい概念あるいはやりかたとして、付加・追加されることで済まされてしまう。だから、心棒だけを言うのはやめて、具体的な現象・事実の解釈を加え続ける方法に転換した。これなら、別の考え方によるその事実・現象の解釈を誘発する可能性があり、そこに真の議論が生まれるのではないかという期待が持てるからである。そういう意味では、先回は心棒をもろに心棒としてあらわに出しすぎたのかもしれないと思う。

 もう一つの便りには次のようにあった。「・・・・本質だけを書いたとしても、それだけでは十分ではないのですね。本質を本質として十分に語らせるには、まず最初に、現実のさまざまな事例をひろいあげてその一つ一つを・・・・一本ずつ糸をほぐしてゆくようにして解き明かさなければならないのでしょう。そしてその後はじめて、本質はそのままの姿で舞台の上に立つことできるのだろうと思います。・・・・」これはもう、私の趣旨を代弁してくれているようなもので、無性にうれしかった。

〇先日、手帳をなくしてしまった。公衆電話に置き忘れたらしい。以来住所録の復原に手間どっている。そして、なくしてみてあのよれよれの手帳の重さが、身にしみて分ってきた。「空気みたいなもの」というのは、みなこういうものなのだろう。その重さは、なくしてから分るのだが、しかしそのとき気がついてももうおそい。これを読んで下さっている方の住所は幸い残っているけれども、電話番号はみな手帳とともに去ってしまった。ついでのときにお知らせ下さると幸い。

 〇筑波研究学園都市といわれる開発地区がかぶさっている六ヶ町村の合併問曜が騒がれている。促進を説くある大学教師が次のような促進理由を述べたという「一つには、現在の町村役場の職員には大学卒が5%にみたない。これでは有効な企画をたてる能力に欠ける。合併で職員の質がよくなり、行政の効率があがる。 二つに、(土地の)資産価値が高まる(地価が上がるということ:農民が土地を手放す:農業をやめるということ)、 三つに、雇用の場面が増える(といっても、学歴がないから草とりだとかガードマンだけど)。・・・・」 きいていた村の人たちが、怒るよりも先ずあきれたというけれど、やはり怒らねば。この人、東大を出て、自治省の役人をやってきた。村の人いわく、まるで私らの村は植民地。彼らは占領軍。私たちもやはり怒らねば、ああなんと怒らねばならぬことが、こうもたくさんあるだろう!

〇いまになって、梅雨空。 今日、ひぐらしの鳴くのをきいた。

〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

        1982・ 7・21                       下山 眞司

 


「第Ⅲ章-4-1 古井家」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-19 13:17:40 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー4-1」A4版12頁

 

Ⅲ-4 中世の典型-4:千年家・・・一般の建物も、壁に依存していなかった 

 古代~鎌倉時代には、一般の住居の遺構が存在しないため、ここまでは遺構のある寺院建築など上層階級の建物を観てきました。

 一般の住居の現存最古の遺構は、中世末、室町後期の千年家と呼ばれている住居です。現在、兵庫県下に古井家箱木家の2戸の千年家が保存されています。

 この2戸の建物のつくりかたには、後の住居のつくりかたの原型と考えられる点があります。それは、飛貫(ひぬき)の活用です。詳しく観てみたいと思います。

 

1.古井家 室町時代後半     所在 兵庫県宍粟市安富  古井家は現地にて保存

 兵庫県下には、千年家と呼ばれる建設年代が中世まで遡る住居が多数存在していた。その理由として、中世、兵庫県下の農村部は財政的に豊かであったため、一時しのぎではない家屋をつくることができたからではないか、と考えられている。

 古井家は、姫路から20数㎞北に入った山間の地にあるが、一帯は古代~中世の瀬戸内鳥取をつなぐ重要な街道筋で豊かな地であったという。

復元 平面図

平面・断面共に日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集

 

復元 桁行断面図  着色部は 足固貫(断面)、内飛貫小屋貫

 

 古井家は、上屋+下屋の典型的な架構。平面図の網掛け部が下屋。下屋の壁は大部分を土塗り大壁で囲う

 折置を架けた軸組を7列並べ、四周に下屋をまわす。柱間は均一の数字ではないが、桁行は約6尺5寸、行は約7尺を目途にしていたと推定されている。 礎石を据える地盤面が東へと傾斜。

 

モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 立地状況(南側から)           

 敷地周辺 右奥の茅葺は離れ座敷

▽ 修理時 南面  1970年(昭和45年)解体修理工事着手時の状況と復元後の写真。 ▽ 修理時 北面 

  

   

 復元後 南面 

 

 復元後 北面

写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 敷地は東側半分を盛土で造成。修理時には礎石の不動沈下が著しく、周辺地盤のかさ上げにより四周の礎石は地中に埋もれ、の多くは根腐れを起こし、座屈や折損、仕口の変形などが見られた。                                  

  建設後、江戸時代に2回大きな改造が行なわれ、その後も改修、改造がなされている。

 

復元 梁行断面図 着色部材は、貫  日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集    

 

壁の仕様

    

修理前 大戸口まわり                  復元竣工 大戸口

 ▽ 復元竣工 南面および開口部近影 板戸、明り障子片引き     日本の民家3 農家Ⅲより

  

 修理前  おもて南面

 

 復元竣工 おもて南面

モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 

の仕様  重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 壁は大壁真壁があり、何れも江戸中期頃の改造以降のものであるが、下屋廻りにはにわ土間北側となんどの北及び西側に粗朶(そだ)小舞とした外大壁(江戸中期と推定)、にわ土間東側にやや新しい(江戸末期と推定竹小舞外大壁がある。

 

 粗朶(そだ)小舞の材料は長さ2~3cm・元径2~3cmのソヨゴリョウブ等延びのある雑木で、これを横間渡縦小舞に用いている。 註 粗朶:切取った木の枝のこと  ソヨゴ:モチノキ科の常緑樹  リョウブ:リョウブ科の落葉樹

  間渡縛りは柱の見込み両面へ竹箆(へら)様の釣子つりこ(幅1.5cm内外、長さ7~8cmの肉厚竹を方刃尖かたばとがりに削ったものを間隔45~60㎝に打込み、その柱外面へ付けた間渡を、釣子と縄掛け二巻きで縛りつける。

 小舞は縦を間渡の内側へ構目(かきめ)5cm内外に連れ巻きに縛りつけ、横小舞は径2~3cmの丸竹を縦と同様の構目で柱間3箇所程度構きつけ、隅では横小舞を柱角に沿って折り曲げ見廻しに通している。  註 構きつけ掻きつけの意と思われる。したがって、掻目は掻く間隔

 また小舞を柱に緊結する手法として、柱内側で柱頭部より約20cm下ほどの高さに丸竹を横に通し、その竹と柱外側の小舞を縄搦み(がらみ)した箇所もある。

 壁土は藁苆(わらすさ)がかなり多く切り込まれ、石粒も大分混入したものが塗られており、にわ土間には所々に方30cmぐらいの下地窓を明けている。

 

 地盤面との立上りには、見切りがなく、いわば地面がそのまま立ち上がる形になっている。復元では足固貫胴貫があるが、当初はなかったらしい。

 

(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 復元後の内部写真」に続きます。)


「第Ⅲ章-4-1古井家 復元後の内部写真, 参考」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-19 13:16:50 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 壁の仕様」より続きます。)

 

復元後の内部写真         重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

にわ~居室部境  にわの棟通りには、内法貫飛貫の2段のが入れられている。内法貫は、梁行桁行段違い。

 

 

にわ~ちゃのま  にわちゃのまの間には、建具はない。

 

  にわ~ちゃのま北西隅 水まわり

 

材料および材寸  :クリ 上屋柱 約14.8~16.5cm角 下屋柱 平均約12.7cm角  

梁・桁:スギ、一部ツガ、ヒノキ 上屋梁 平均約16cm×11.5cm 平使い 上屋桁 平均約14cm×11.5cm 平使い 束受地棟or丑梁約19cm×12cm  

:スギ、クリ  内法貫 約丈11.0~11.6cm×厚5,3~7.4cm にわ~ちゃのま境の例 上屋部で丈11cm×厚7.4cmある材を上屋柱の手前で片胴付に加工して厚5.0cmに狭め、下屋柱枘差し楔締め   飛貫 内法とほぼ同寸 にわ棟通りだけに入る。枘差し楔締め

継手・仕口 柱~小屋梁~桁 折置組柱 頭重枘   小屋貫継手 略鎌継ぎ(柱内)楔締め 柱~貫 楔締め

 

 

おもて 南面  南面の壁は外側大壁。下屋通りの壁には、足固貫、頭貫2段(後補)。

 

 

おもて 北面なんどちゃのま境   鴨居は、内法貫とは独立して取付けられている。このことから、を優先する古くからの架構法と考えられる。 方丈建築では、付長押で隠していることに留意。   

 

 

  復元組立中の床組

足固大引は丸太材。 足固は柱に枘差し

上屋柱下屋柱間は、足固材を上屋柱手前で幅につくりだし、足固貫として下屋柱に差し楔締めとしていた。

一般の大引は、なしで玉石上に直接載せている。この方法は、室生寺・金堂の当初部分(身舎・庇部)でも採られている。

 

ちゃのま 北面  が貴重品であった時代であるため、ちゃのまなんどの床は竹スノコとし、(むしろ)を敷いていた。 板張りの床はおもてだけ。

 

 

なんど~ちゃのま 境  内法貫下に鴨居を取付け、片引き板戸を設けている。

 壁のつくりかたからみて、当初の建物では胴貫はなかったものと推測される。修理時点では、後補のがあり、復元ではそれにならっている。 また、復元に際して、大壁部には帯鉄製の筋かいを入れたという。

  ちゃのま~おもて 境を見る  手前はにわ

 板壁は、柱間に横桟をやり返しで取付け、縦張り。 写真は重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

 

古井家住宅 間取りの変遷  外周の赤く塗った部分は土塗り大壁(壁の仕様は、前出)

 

 

古井家住宅 第一次改造の方法

 

日本の民家 3 農家Ⅲ(学研)より

 

 古井家では、建設以来400年を越える期間、上図のような梁・桁・差鴨居の新設による柱の撤去は行われているが、基本的な架構の骨格は当初のままで、内壁、外壁とも、用の変化に応じ、柱間は随時随意に開口の変更が行なわれている。

 このことは、古井家の架構では、壁部分は架構を維持するための役割を担っていないこと、すなわち、木造架構そのものによって維持されてきたこと示している。その点は、浄土寺浄土堂龍吟庵方丈などと、考え方は同じである。

 

  復元 架構組立中

重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 架構模型 全景

模型では地盤面をつくらず、礎石で地盤高を調整した。 下屋柱には、貫を入れていない。

 

 架構模型 部分 

 

上屋柱下屋柱は、足固貫内法貫で縫うが、内法貫は、梁行柱通りすべてには入っていない。

 

 

参考 復元に至る考察      

 古井家住宅修理工事報告書には、復元決定に至る間の考察過程が、綿密に記されています(結果だけが述べられるのが普通)。 そのいくつかを以下に抜粋紹介します。記述中に出てくる番付は、下図の通りです。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

古井家住宅の修理工事および修理工事報告書の担当者

監修:工事監督 鈴木嘉吉  本文・写真・図面:工事主任 持田武夫  竣工写真:姫路市 八幡扶桑  大工棟梁:上月町 和田通夫 

 


1982年度 「筑波通信№4 万が一の事態」 1982年7月

2019-06-13 14:24:15 | 1982年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №4」1982年7月 A4版10頁 

     「筑波通信 №4」 1982年7月

      「万が一」の事態・・・・「正常」または「合理的」ということについて

脱線した特急

 五月の末、まだ梅雨入り前だというのに、まるでもう梅雨が明け真夏なってしまったかのように暑い日が続いた。そんなある日、中央東線で特急が脱線したというニュースが夕刊に載っていた。その日の昼すぎ甲府盆地のある駅のあたりで、暑さで延びてゆがんだレールにのりあげ脱線したのだという。明朝までには復旧する様子であった。盆地はとりわけ暑くなる。これが真夏なら、当然見まわって気をつけていたのだろうが、まだ五月。ことしの天候は少し異常なのかもしれない。事故はそれほどの事ではないらしいし、まして私の日常に影響がある事故でもなかったから、このニュースも私にとっては季節はずれの暑い日を印象づけただけで、普通なら、そのまま忘れ去られてゆくだけだったろう。

 中一日おいた朝刊で、再びこの事故がニュースになっていた。復旧に意外と手間どり、開通したのは丸一日以上もたった昨日の夕方であったという。復旧に意外と手間がかかったのは、その特急列車の車両と車両の連結が、連結器によってではなく鉄の棒でいわば固定されていたためその切り離しに時間がかかってしまったからのようだ。

 この記事を読んで。一度は忘れかけていたこの事故のことが、私のなかで、再びある重さをもちはじめた。

〇列車の編成、連結器の変遷

 その昔子どものころ乗物好きだった人なら大抵は知っていることだと思うが、車両の連結のしかたには「ねじ」式。(いまでもヨーロッパをはじめ諸外国では主流をなしているやりかた。言うならばフックのついた鎖を引っかけるようなやり方だから、これと対をなしてバネの入った丸型のバンパーが二個つくことになる。(日本では博物館にでも行かなければ見られない。)「自動連結器」(日本でいま貨車や旧型の客車の連結でお目にかかるやりかた。なんとなく人間の手を思わせるひょうきんな形をしている。因みに、日本では1925年の7月1日を期して、国鉄:当時は国鉄とは言わなかった:の全車両の連結器を、それまでの「ねじ」式からこのやりかたに取り替えてしまったのだという。これは画期的なことだったらしく、その証拠に諸外国では50年以上もたったいまでも「ねじ」式がある。)

    

 「密着連結器」という種類がある(国鉄や私鉄の大部分がこの型である。角っぽいいかにも器機という形をしている。自動連結器には20~30ミリのあそびがあるから発車や停車のときどうしてもがたつく。昔はこのがたつきをいかにして少なくして動かすかが運転士の腕の見せどころであったのか衝撃をあまり感じなかった:もっとも実にしずしずと走りだしそして停まったものだった。いまはスピードの時代、私がよく乗る常磐線の客車列車では、発車と停車のとき、むちうち症になりかねないほどのいきおいでどつかれる。貨物列車が動きだすとき、機関車の汽笛の聞こえたあと、すぐに目の前の貨車が動きだすかというとそうではなく、それが実際に動きだすまでほんの少し時間があり、前の方からがちゃんがちゃんという重い鉄のかたまりがぶつかりあう機械的な音が移動してきて、近づいたなと思った瞬間、がくんと動きだす、あれと同じことが駅に停まるごとにくり返され、おちおち居眠りもできない。この原因である連結器のあそびをなくすために、まさに字の如くこの密着式が考案されたのである。) ついでに言えば、この密着式と自動式の両性をそなえた型もあるようだ。そうしておけば、違う型をそなえた車両であってもつなぐことができる。

 ところが、この脱線した特急列車の場合には、車両と車両の間には連結器がないのである。たしかに一列車は十数個の車両から成っているのだが、それらは連結器ではなく鉄の棒で、だから連結ではなく言わば緊結されているのである。それぞれの車両は初めから切り離すことを考えにいれず(逆に言えば、車両を任意によせ集め列車を編成するという考えでなく)一列車で完成した形を成しているのである。竹の棒を数センチの長さに切ったものを大きい順に十個ほどならべ、その筒をそれぞれ互いに針金の軸でつなぎ合わせた、その末端を持つとそのちょっとした持ちかたの違いで微妙に愛きょうのある動きかたをするヘビのおもちゃが昔からあるが、この列車はあたかもこのヘビのおもちゃのようなつくりになっていると言えばよいだろう。

 脱線した列車を空から撮った写真を見ると、その曲りくねって横たわっている様子は、まさにこのヘビ同然であった。連結器でつないでいるならば、連結器のところが一番弱くてはずれてしまうものが、緊結してるものだから、まさにこのヘビ同様の格好になってしまったのではなかろうか。復旧にあたって意外と手間どったというのは、これは全くの推測なのだが、元へ戻すためには車両と車両を切り離さなければならず、そうかといって、うっかり切り離すと互いに鉄の棒で緊結されているため辛うじて横転をまぬがれていたのが支えを失なって倒れてしまうおそれがある、それへの配慮に手間どったのだと思われる。そして、互いに緊結されていたために転覆しないで済んだという見かたができる一方で、ことによると、これも推測なのだが、緊結してあるために全車両の半分以上が共倒れ的に引きずられて脱線してしまったと見ることもできるのではなかろうか。これが連結された列車だったら、脱線の様相も別の形(多分共倒れになる前に連結器が切れるのではないか)となり、復旧も早かっただろう。復旧に意外と手聞どったという表現がされたというのも、当初普通の連結列車の脱線事故の復旧の例をもとに復旧予測がたてられ、緊結列車であるという状況をつい勘定にいれるのを忘れたからではないだろうか。

 しかし、なぜこの列車は連結ではなく緊結であったのか。いままで大抵連結であった列車が緊結になる、そうするようになった発想はいったい何だったのだろうか。


〇連結と緊結、その発想の違い

 緊結方式が生まれてきた経緯を私なりに推測すれば、それは大略次のようなことになるのではあるまいか。先ず、いくつかのハコを機関車が引っぱる:つまり動力が一簡所に集中している:やりかたから、動力その他を分散させるいわゆる電車化が一般化してきた。これはもう大分前から国電などではあたりまえのやりかたである。電車の横っぱらに書かれているハだとかハだとかいう記号は、その車両のいわば機能を表わしているのである。ただ、その場合はそれら役罰の違うハコを適宜組み合わせて一編成をつくっていた。しかし、一列車の長編成があたりまえになってくると、そうしょっちゅう離したりつないだりすることがなくなり、編成が固定化してくる。いわば単語を適宜集めて必要な文章をつくっていたのが、文意自体で固定化してきたのである。つまり、成句になってしまう。そこで、単語つまり一つ一つのハコを単位とするのではなく、いくつかのハコを成句にまとめて一単位とする考えが生まれてくる。いまの国電は多分そうのはずで、四両一単位だったように思う。だから一編成は八両、十二両というように四の倍数のはずである。そして、特急もほとんど電車化してきた。特急の場合、特に最近のように二地点間を何本も往復するようになると、一編成自体が一定である方が互換性があって都合がよい。「あずさ一号」も「あずさ五号」も同じ編成になる。「あずさ」用の同じ編成を数組用意しておけばよいわけだ(多分、乗車券予約のコンピュータプログラムもその方が楽だろう)。そうなってくると更に一歩すすんで、一編成で一単位とする発想がでてくる。切り離したりつないだりすること自体無用と見なされる。そこで、連結器によるのではなく緊結するという考えがでてくるわけだ。その方ががたもより少なくなる。というのも、たとえ密着式の連結器でも、連結時の衝撃止めの緩衝装置がついているわけで、その分のがたはやはり残ってしまうのだ。これは国電の停発車時のゆれと特急のそれ(新幹線でもよい)とを思い浮かべていただければよいだろう。緊結することにより全体が一体になるわけである。一見したところ十いくつかのハコには分かれてはいるけれども、それは言ってみれば単に一個の長いハコにすることが(直線路だけならばともかく、そんなことはあり得ないから)不可能だからで、いくつかのハコに言わば関節によって機能ともども分節されているにすぎず、これはそれまでの列車とは似て非なるものだと言ってもよいだろう。この発想の転換・展開は一点の非のうちどころもないほど合理的である。そしてこれが新幹線を可能にした技術の裏づけの一つでもあったわけである。

 しかし、もしこのハコに機能分化させた一編成の中のどこか一箇所に障害が生じたらどうなるか。これが、それまでの列車とは似て非なる点の最もたることなのであって、昔ならその故障車両を切り離しても運転することができたのだが、この最新の方式ではそうはゆかず、一編成全部が言ってみればおじゃんになる。一個の有機体が死んでしまうのである。第一、切り離そうとしたって、はじめから切り離すことは考えてない:緊結してあるのだから容易にはできないのだ。だからそんな場合には一本まるごと運休することになる。そして、あのおもちゃのヘビみたいに横たわってしまった車体の姿勢のたて直しも、意外と時間がかかってしまうことになる。

 

〇事故後のダイヤの「正常」化ということ

 いま、故障になると一本まるごと運休になる、と書いたけれども、これは昨今では緊結した列車に限らず、連結した普通の列車でも同じらしい。その場合も、昔のように不具合のハコだけ切り離すということはなく、客を全部おろして、きれいさっぱり運休させてしまうようだ。特にそれが特急のように予約席のある場合はそうなることが多い。その一本だけでなく、その折り返しも当然ながら連休するから、一本の事故が数本にひびいてくる。運休にしないで異常編成で運行したらどうなるか。

 予約客には部分的なあぶれがでる。その処理をこまめに考えるなら、いっそのこと全部とり消してしまった方が事務的には楽だ。コンピュータには楽だ。また、そうした方が運行ダイヤの正常化にとっても楽である。なぜなら、一度全てをご破算にして、ちょうど始発時のように空白を埋めてゆく方が、いろいろやりくりをしつつ(臨時の列車:ダイヤにない列車を動かしつつ)復元するよりも、よっぱど楽だし、復元を急ぐという点では合理的だからである。

  私が東京へ出るため必らずごやっかいにならなければならない常磐線は、これはもう、やれちょっと雨が多く降りすぎたとか、風が吹いた、とかいって少し大げさに言えば日常茶飯事的に停まってしまう。先日も夕方、予定した列車の二十分ほど前に上野沢について、きょうは座って帰れるぞ、とにんまりしたところが、水戸(みと)のあたりで事故。不通だという。土浦まではゆけます、ときいて一安心。ところがホ-ムにはもう人の詰まる余地がないほどいっぱいの列車が、いつ出るのか分からないまま、後続の予定がたたないからこれに乗ってくれという放送がくりかえされるだけ。この列車本来のダイヤからいえば、もう小一時間発車がおくれている。上野と水戸の間は約百km、その間の電車は事故に関係なく動けるのだから、後続だってすぐ来るはずなのに、それにもうこの列車には人は詰められはしない、どうして出ないのだろう、いささか不思議に思えてくる。やがて、この列車は〇時〇分発の◎行の列車として発車します、という放送があった。まだ十分以上も間がある。本来のダイヤの数本あとの列車に読みかえるというわけだ。そこではじめて私には合点がいった。運行ダイヤというのは連行しているその線の列車全部で一つのシステムを成しているわけで、その一部でおきた障害は全システムをだめにしてしまったのであり、ダイヤを正常に戻すためにはこういった読みかえを行なって元のシステムにのせなおすのが、最も効率的だし合理的なやりかたなのだ。そのための腐心の一環として、なかなか発車せずに時間待ちをしていたに違いない。

 なるほどたしかに、乱れてしまって異常なダイヤを正常ダイヤに戻さなければならない、それは至上命令ではある。けれども現実に客が列車にはもちろんのことプラットホームにも満ちあふれているのを目のあたりにしていながら、それをさばくことには手をつけず、専らダイヤの修復に執心する。ダイヤさえ正常なら異常は起きない。だからそれを正常にもどすことが先決である、これはたしかに合理的に見える考えではある。

 しかし運行ダイヤはあくまでも客を運ぶために意味があるのであって、ダイヤのシステム自体に意味があるわけではない。当たり前である。まして、目の前には運びきれなくなってしまった客が満ちあふれている。ならば、交通機関の本義に戻って、この満員の客をさばきつつ、しかもダイヤを正常な状態へ戻してゆこうとする発想がもたれてもよいのではなかろうか。多分そういうやりかたでは、ダイヤの正常化完了をもって事後処理完了とする視点からすれば、手間も時間もやたらとかかり効率的合理的なやりかたとは言えないのかもしれないが、客の立場に視点を移してみれば、そうしてもらう方がずっと合理的なのだ。昔はそうしていたのではなかったか。客がホームで所在なくすごす時間はずっと短かくて済み、その代り鉄道関係者の苦労は並大抵のものではなかったと思う。いまは、どちらかといえば、客が苦労する。

 脱線した特急列車の話からはじまり、その連想で事故の後処理についてまで話が及んでしまったが、これらの話の底を共通して流れているように見える、言いかえれば、これらの事態のなりたちに根本的に係わっているはずの、ある種のものの考えかたに、私はひっかかるのである。それは、いまいたるところであたりまえになっている、いわゆる近代的合理的な考えかたの典型的な姿だと見てよいのではなかろうか。

 

〇「近代的・合理的」な考えかたの正体

 この考えかたというのは、いったいどういう性格のものか。

 一口で言えば、この考えかたは、「万が一」ということ、あるいは、「マイナスの(と評価される)局面」はあってはならないことだから考慮の外におき、専ら「正常」あるいは「プラスの局面」にのみ考慮をはらう考えかただ、そう言ってよいだろう。理想状態、完成完結した状態へのゆるぎない(信仰に近いほどの)信頼と願望、そう言ってもよいかもしれない。だから、更に別な言いかたをすれば、ある全体なるシステムが「絶対」としてあり、その全体なるシステムを構成する部分部分は、なかば絶対的にその『絶対』に服するしかなく、その構成の編成替えなどということも存在しないのである。つまり一つのパターンが(望ましき完全形として)在るとするわけである。そして、そのパターンが乱れることを異常という。

 これに対し、こういう近代的合理的な考えかたからすれば非近代的、非合理的、そして場あたり的に見えるであろう従前からの考えかた:やりかたというのはどうであったか。

 これも一口で言えば、たしかにそれもある全体やシステムをつくりだしはするが、それが唯一つしかないのではなく(定型があるのではなく)言うならば、「万が一」の状態「理想」の状態の両極の間で:別の言いかたをすれば「マイナスの局面」から「プラスの局面」にわたって:場面場面において適切と思われる全体・システムを任意に組みたてることができる、そういう考えかただと言えるだろう。そうであるからこそ、仮に事故が起きても、その事故の状況に応じて、まさに字の如く臨機応変の対策:その局面における全体のたてなおし:をたてることができるわけだし、その対策も、ただ単に元の(完成形であった)パターンへ戻すことにのみ執心することなく、その判断決定の拠りどころをその当面の(交通機関としての)本来の課題(たまってしまった客をさばくこと)においてたてられる。つまり、客をさばきつつ、徐々に元へ復してゆくわけで、その過程では何度かシステムが組み直されなければならない。

 その作業の点にのみ視点をしぼれば、たしかにそれは効率的ではない、それは先に書いたとおりである。それ故、近代的なやりかたでは、その点で効率的な「正常」形へ戻すこと自体が目的化し、つまり本末転倒して、ものごと:事態:への対応のしかたにはいくつものパターンが任意に用意できるということが忘れられてしまう。

 いまここで、ものごとへの対応のしかたは任意にいくつものパターンが考えられるのだと書いた。ほんとにそれはいくつもあるのであって、場面場面に対応して、場面の数だけある、つまり言ってみれば無数存在するのだと言ってよいだろう。こういう書きかたをすると、そういう場面場面やそれへの対応のしかたが、私たちをとりかこんで無数に存在しそのなかから一つを選びだすかのようにきこえるかもしれず、そしてまた、そんな無数なんかは相手にできないではないかと思えるかもしれない。もちろんそうではない。場面やそれへの対応が無数に、あたかも百貨店のショーウィンドウの中の品物のように、私たちのまわりにならんでいるわけではない。そうではなく、それはあくまでも、私たちの、私たち自身による「判断」に拠るから無数なのである。場面の設定も、対応のしかたも、それは私たちの「判断」。いまおかれている状況・場面はかくかくしかじかであると(私が)「判断」し、いまなすべきことを(私が)「判断」し、そして、適切な(そう私が「判断」する)方策をたてるのである。だから、そのものごとのとらえかただけパターンがある:原理的に言えば無数ある、わけなのである。それ故、同じ事態に対してもその対応のパターンは、判断する人により違うだろう。しかし、違っているからといってまちがいなのではなく、また、違っているからといって「方向」もなにもなくめちゃくちゃに違うというのではなく、「方向」は同一であっての違いなのだ。つまり、多種多様でなく、同種多様。

 こういう従前のやりかたに対して、近代的・合理的なやりかたでは、同様に必らず「判断」を伴うけれども、その場所が違う。そこでは、ある最も合理的だと思われるパターンが設定され、それに合うか合わないかが「判断」のポイントとなる。その意味では、人によって違うなどということはあり得ない。正解があらかじめ唯一ある。それ以外があるなどということは、はなはだしく秩序を乱しけしからぬことなのだ。つまり、all or nothing、〇かーか、一か八か、なのである。コンピュータ用プログラムにはたしかに適している。こういう極論めいたことを言うと、パターンを一つではなく、場面に応じたパターンをいくつか用意しておけば、従前と変らないではないか、そうすれば、それなりに臨機応変の、しかも人によらない対応ができるではないか、という反論がでてくるかもしれない。そして実際、いくつかのプログラムが用意されるようになってきているし、そういったプログラム、パターン探しがその面での学問分野での関心事でもあるようだ(人々を不特定多数として括る発想もそこからでてきているはずである)。

 しかし、このいくつかの場面とそれへの対応をセットとして用意しておくやりかたでは、根本的にそのパターンの数は、たとえありとあらゆる場合を考慮したといっても、有限であることに変りはなく、万が一用意されたパターンに合わない事熊にでもなったら最後、それはもう手の下しようもないほどめちゃくちゃになってしまう。

 従前のやりかたでは、パターンはあらかじめ設定されているわけでなく、むしろその都度、「万が一」と「正常」の状態、その両極の間に、場面の設定がなされるわけで、その意味でパターンはその間に連続的に無限に在ると言ってよく、だからこそ、いかなる場合にも臨機応変に対することができるのだ。だから、近代的なやりかたは完ぺきのようでいて極めてもろく、逆に従前からのやりかたは不確かなようでいて、極めてしたたかなのである。いったい、ほんとの意味で、このどちらのやりかたが合理的か。私なら、当然のことだが、この非近代的・非合理的に見える従前からの考えかたの方をとるだろう。なにもそれは単に私の好みでそうするのではない。ものごとというのが、あらかじめ考えておいたいくつかのパターンとしてのみ出現するなどという、そんな考えかたはあまりにも非合理だと思うからである。まして、それへの「対応」:「判断」までもが既製品として存在し、ただそのなかから選べばよいというのも、非合理のいや不合理だと思うからである。それではまるで、人間もロボットも変りないではないか。

 こうやって見てくると、いわゆる近代的、合理的な考えというのがいかに人間個々人の判断:それは人によりそして場面に・状況のとらえかたにより微妙に異なる:というものをきらい、あるいはそれに信をおかず、規範を他に求めたがるものであるかがよく分かる。それでいてまた、近代ほど個人の尊厳を強くうたいあげる時代もなかったのではないか。個人の主張をとりたててあげつらう時代はなかったのではないか。いまこうして見てきて、この近代という時代の姿がまことにくっきり見えてきたように私には思える。すなわち、個々人を越えたところに、規範とすべき近代的・合理的なあるべきパターンがあり、個々人はそのパタ-ンのなかのどれかを選択する判断権のみを有し、その選んだパターンをいかに個性的に修飾するかが個人の個性であるとする、これが近代というものの姿なのだ。では、あらかじめそのパターンを用意して人々に提示するのはだれなのか?デザイナー?設計者?その道の専門家?もしそうだとするならば、その根底には、表向きの個人・個性の尊重、人間性の尊重の主張とは裏はらに、徹底した人間性無視:人間不信そしてその裏返しとしての選民意識が流れていると言わざるを得ないだろう。

 なるほどたしかに近代以前にも、ある問題に対応してあるパターンが存在するということはいっぱい例がある。しかしそれらは、決してそのパターンをあらかじめ設定し、目ざして生み創りだしたのではなく、個々人の判断の積み重ねがそう結果したのであって、その拠り所は、個々人にあったのである。個々人の判断、それはある「方向」をもちつつも多様であったろう。しかし、その共通の「方向」ゆえに、ある時点でふりかえってみたとき、ある一つのパターンに収束しているように:つまりある定型のように:見えるだけなのである。ともすると近代の私たちはそれをそのパターンだけ:つまり結果だけ:をつかまえてとやかくあげつらい、背後に厳然としてあった人々の判断:人間の営為を見忘れてしまい、更にすすんで個々の判断を越えた地点に目ざすべき期待される像を設定し、それへの近づきかたの遠近でことのよしあしを決めよう、などとさえしだしてしまう。私には、それはどうしても愚行に見える。

 私は、いかにそれが多様であろうとも、私たちの私たち自身のものごとの判断を信じたい。そうでないなら、私たちの問に真のコミュニケーションは存在しなくなるだろう。コミュニケーション、それは単にことばをサグ操ることではない。できあいのいくつかの応答パターンのどれかを、あたかもマークシート方式の試験間題にこたえるが如くに、選択していればよい、などというものではない。ことばにいったい何を託すかこそが問題なのだ。ことばに託すもの、それは、私たちの私たち自らの感性に拠る私たち自らの「思考」である。「思考」が、用意された有限なパターンに限定されるような状況、私はそれを認めるわけにはゆかない。

 けれども、こういう文章自体もまた、先進先端技術を背景としたワードプロセッサーにより、いくつかの推奨される文体・言いまわしに限定されるような時代に入ろうとしている(いったいだれがその言いまわしを推奨するのか、できるのか?)。先進・先端、あるいは近代化、それは諸作業の合理化:省力化へ向ってきたと言ってよいだろう。しかし、それが「思考」作業の合理化・省力化をも意味するのならば、そこでは、真に新しいものが生みだされるはずがない。「思考」、それはたしかにあるパターンをもつ。かといって、そのパターンは決して有限でなく、言わば臨機応変に無限である。「思考」をも合理化と称していくつかにパターン整理してすすむのが近代であるとするならば、そしてそれを合理と言うならば、私はそれを「合理」とは認めない。合理とは、そもそも、あるシステムにとっての整合性のことなのではなく、私たちにとっての合理のはずだからである。システム、それも、私たちが私たちの思考作業により生みだすのである。システムのために生みだすのではない、まさに私たちのために。

 

 北海道でもまた特急が脱線したそうである。これも異常な暑さ:30度を越えたという:でレールが曲り、直すのに時間待ちをしてダイヤが狂ってしまった。一方、それとは関係なく保線作業:まくら木交換:が行なわれていた。ダイヤは正常に保たれていると頭から信じていた保線作業者たちは、通るはずのない時間帯だと思いこんで、まくら木をはずしてしまった。そこへ、通るはずのない列車が来て、なるべくして脱線した、ざっとこういうわけらしい。いま、合理化のために、保線は保線として独自に外注されているのだそうである。運行のシステムが正常であったなら、保線のシステムの方は平常に行なわれていたのだから、別に何の問題もなかったのだ。システムとシステムが、ある正常な状態で成りたつべく設定されていた。だから正常なら、システム相互の連絡は強いて不要だ。完ぺきだ。しかし、それに慣れきってしまったとき、異常に対して対応できない。万が一の事態が容易に発生する。考えてみれば、近代社会というのは、こういう薄氷を踏むような保証の上で成りたったシステムで囲いこまれているのかもしれない。

 

あとがき

〇私の勤める筑波大学では、図書館の図書目録カードを全廃してしまった。カードに載せられた情報、そんなものはみなコンピューターに組み込むことができる。必要に応じて端末機から、カードをめくるなどという面倒なことをしなくても、情報を呼び出すことができるし、カードづくりという面倒な事務作業もなくなる、そういう発想であったらしい。図書目録カードの使用法がプログラムとして覚えこまされているわけである。その代り、プログラムに載せられなかった使用法は切り捨てられてしまったから、カードを見ながらあれこれと自分の関心事に係わる書物の世界を自分で組みたててみる:つまり自分だけのプログラムをつくる自由は失せてしまった。図書の利用法が「理想化」されたパターンに限定されてしまったのである。そしていま、カードとの共存のコンピューター化がなぜ考えられなかったのかという不満がわきだしている。

〇今回、「万が一」あるいはめったに起きないことが切って捨てられる話を書いたのだけれど、それと全く逆に、「万が一」の事態を終局のものとしてものごとを考えるやりかたが、近代的な考えかたのなかに存在していることも知っておいてもらったほうがよいだろう。

 建物の耐震に対する考えかたがそれである。「万が一」の地震によっても全く壊れない建物をつくろうとする。いまや建物の第一義の目的が、地震で壊れないことに置き換わってしまったと言って過言でない。地震で壊れない、そうすれば人命に損傷もない、建物も建てなおすこともない。なるほど合理的に見える。しかし、そのおかけで、残りの「万のうちの九千九百九十九」では、不便を強いられる。人間、地震のために生活することになる。はたして合理的か?「万が一」の事態では壊れても止むを得ない、しかし人命に直接的に響かないような壊れかたをするべく考えよう、どうしてそう考えられないのだろうか。これもまた、一つの対応パターンしか考えることのできない近代的合理的思考法の一結果である。これは、今回書いた話と、その思考の構造が全く同じなのだ。

気になることが語られていた、そう書き添えて、書物のコピーが送られてくることが多い。大変ありがたいことである。次の文もその一つ。

つか・こうへい「あえてブス殺しの汚名をきて」の一節だそうである。

 〇月〇日 雨

 今日久しぶりでTさんと会った。Tさんは甲府の幼稚園の園長さんだ。Tさんは今度新しく幼稚園を建てなおすため設計図を持ってきた。会うなり「どうだ」。とてもうれしそうだった。 私も少し図面は読めるのでおかしなところに気がついた。

「おい、おかしいじゃないか、幼稚園は子供たちが明るく楽しく生活しなきゃいけないんだろ。このへんに暗くなるところは何だ」「そうかい」Tさんはとてもうれしそうに白い歯を見せて笑った。「いまにわかるさ」そんなふくみ笑いだった。

 〇月〇日 晴れ後曇り

 咋日甲府にいった。Tさんの幼稚園の落成式。まったくおかしな幼稚園だ。運動場にはドラムカンだの何だのがやたらにおいてあって子供たちが遊びまわる所がない。

 「何りつもりだい」

 Tさんはとてもうれしそうに、そして恥ずかしそうに話しはじめた。子供たちってのはガキ大将ばっかりで、明るく元気なものだと思うのは観念的なのであって、なかにはメカケの子、おねしょした子、おとうさんに叱られた子、そういう子たちがたくさんいて、あの暗い屋根裏部屋やドラムカンはそういう子たちの泣き場所なのだと、さみしいということから孤独という感覚を知る所だと・・・・Tさんは教えてくれた。

 甲府からの夜汽車の中で妙な気持だった。さわやかな哀しい想いを私はかみしめていた。そんな芝居をやりたいものだ。

 ただ私は、子ども(あるいは一般的に人間)をこのように見ることはまったく賛成するけれども、それがもろにそういう設計として具現すればよいとするのは、それも少しばかり観念的なのではないかと思った。

〇梅雨に入ったと言われてから、かえってすがすがしい日が続いている。ままならぬものである。

〇それぞれなりのご活躍を!そして、その共有されんことを!

       1982・6.22                下山 眞司 


「第Ⅲ章-3-2 大徳寺 大仙院, 龍源院」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-07 10:11:52 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章-3-2」 A4版12頁

 

2.大徳寺 大仙院 本堂 1513年建立 所在:京都市 北区 紫野大徳寺町

 龍吟庵(りょうぎんあん)方丈に次いで古い方丈建築。龍吟庵方丈とは85年の隔たりがあるが、その間の事例がない。

 臨済宗 大徳寺塔頭の一。方丈とは呼ばず本堂と言う。大徳寺には20を越える塔頭があるが、その中で最古。

 元は檜皮(ひわだ)葺き現在は銅板葺きに変更。 基準柱間 1間尺5(芯々)。 庫裏(くり)方丈、書院などを別棟で建て、渡廊下でつなぐ形式。 各建物間の石庭は、連続性をつくるため、後に整備されたと考えられる。註 禅宗の思想をしめした、と言われているが後付けの見方。  近世には、各棟を一体の建物として計画されるようになる(例:大徳寺 孤蓬庵こほうあん)。


 配置図 重森三玲  実測図 日本の名園より

上の配置図は造園家の重森三玲氏による昭和初期の実測図。 樹木の種類も明記。(方丈、庫裏、書院の文字は編集)

下は、建築家西澤文隆氏による実測図。空間の把握に力点。赤線は大仙院本堂へのルート(赤線は編集)。

 配置図 西澤文隆実測図集 日本の建築と庭園より 

 

 大仙院に向わず進むと真珠庵、南側は、道を隔て、大徳寺の本堂。

 方丈(本堂)の架構の基本は、龍吟庵方丈と同じように、方丈(室中を囲む諸室広縁を含む上を桔木による架構としている。断面図参照。

 

  

左:玄関への路地 左側土塀の内側が石庭                右:玄関の扉見返り 右手は石庭

  

左:玄関~本堂の途中から本堂を見る。本堂前の広縁は 約23尺飛ばしている。  右:室中しっちゅう(方丈)正面 外・両開き戸(外付)二つ折り 内・明障子引違い4枚     写真 日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより  

 

 南側全景 すべての開口部を閉ざしたとき  屋根は銅板葺きに替えてある 玄関本堂と独立  原色 日本の美術10より 

 

 室中の北側に仏壇 広縁東は庫裏への渡廊下、大書院北側の渡廊下は書院・茶室へ 基準柱間:6尺5寸 柱径:広縁側以外5寸弱。 

   

 

 桁行断面図 着色部分は梁行断面図とも小屋裏  実線赤丸:梁行では蟻壁位置ではなく、内法~蟻壁の小壁内に入れている。破線赤丸:足固兼大引 大引は、@1/2間(龍吟庵は@1間) 破風木連格子      平面図・断面図共に日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより 断面図は転載・編集

 

 室中 北面(仏壇側)建具を払ってあるので、大書院も望める。   

柱径:仕上り5寸弱 内法長押、蟻壁長押の内側に は1.3寸×3寸程度(推定)。 

 

 

大書院と石庭  手前の室は礼間(らいのま)  外部建具を払った状態 北面は、平面図と多少異なる。 内法長押、蟻壁の内側に貫。   写真・図面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 図面は転載・編集

 

 

  

梁行断面図 左が庭側(南側) 引き渡し勾配:6寸5分  龍吟庵とは逆に、化粧地垂木を受ける桁を大寸にし、小屋裏のが小さい。 赤丸:内法長押蟻壁長押内側) ただし、a位置では柱外面に取付け、b位置室中中央の開口部上にはない。

  

 

3.大徳寺 龍源院(りょうげんいん) 本堂 1517年頃建立 所在:京都市 北区 紫野大徳寺町 

 大仙院 本堂とほぼ同時期の建設。

 

 平面図 玄関が南入りではなく、東から取付く。玄関の屋根が本堂屋根の下に入り込む点は、前2例に同じ。

    基準柱間芯々6尺5寸(図はメートル法表記、1973mm=6尺5寸)。柱径:広縁以外仕上り5寸弱。

 

 

 桁行断面図 着色部分:小屋裏。 礼間らいのま室中しっちゅう檀那間だんなのまは、天井が同一高さで、内法上に欄間がない。

 実線赤丸:、破線赤丸:足固兼大引@1間。 赤の四角は、鴨居付長押を一材で加工してあると思われる(次写真参照)。  

 

 

広縁~玄関を見る  広縁落縁(おちえん)、沓脱(くつぬぎ)の関係が分る。 沓脱は通常は石。方丈建築では、  この方式が普通。 床は平瓦の四半敷(しはんじき)。雨落(あまおち)は玉砂利敷詰め。庭は苔。  雨落の設定位置を知る好例。

 

 室中方丈)から礼間(らいのま)を見る。  間仕切は欄間がない。   同一高の竿縁天井が覆う。

 内法長押内と、小壁中途の付長押(室中中央開口部内法位置)内に設け、蟻壁長押位置にはない。 礼間~室中境の鴨居は、付長押と一体加工(逆凸型断面)。

 

 

梁行断面図 右が南側  赤丸:貫  引渡し勾配:6寸  室中裏(北側)の小屋架構は、桔木大梁に架かっていない。当初、大仙院と同じく、室中上の大梁の中心にあった棟位置を、後世に北側に移し屋根を南北対象に改修した際に生じたと考えられる。 写真・図面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 図面は転載・編集

 

 

参考 鹿苑寺(ろくおんじ) 金閣  1398年建立 1950年焼失、1955年再建

 

 梁行断面                  桁行断面(部分)  日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより転載・編集

 鹿苑寺 金閣足利義満が1397年から造営した山荘・北山殿で、義満の没後、鹿苑寺となる。金閣はその舎利殿。他の当初建築は現存しない。

 鹿苑寺 金閣方丈建築ではないが、古代の寺院建築の技法、特に、二重屋根・桔木の下で発展したいわゆる和様の工法を基に、その後の諸技法をも駆使している。

 

 

 第一層(住宅風)と第二層(和様佛堂風)は同形平面で間仕切柱の位置を一致させ、側柱を二層までの通し柱として大梁を組み、第二層の床を張る。 柱はすべて面取り6寸角。 通し柱大梁仕口は、差口と思われる。基準柱間寸法は7.0尺。すべての柱は、7.0/2:3.5尺の基準格子上に配置。

 広縁では、通常は1間ごとに入る柱を省略しているが、これは、柱を省いた最古の事例という。 

 第三層(禅宗様佛堂)は、第二層上部のに直交する横材を土台にして別個の軸組を据える古代同様の工法(後述)を採る。基準柱間寸法は6尺。それゆえ、下階の柱位置とは一致しない。

 軒まわりには、禅宗様の繰型や、大仏様挿肘木などが見られ、その意味で、当代までの諸技法の展示場的な建物である。

 

 

(「Ⅲ-3-2 参考 慈照寺 東求堂, 古代の多層工法」へ続きます。)


「第Ⅲ章-3-2 参考 慈照寺東求堂 多層工法」

2019-06-07 10:10:51 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「Ⅲ-3-2 鹿苑寺 金閣」より続きます。)

 

参考 慈照寺(じしょうじ) 東求堂(とうぐどう)  1486年(文明18年)ごろ建立 

 

 足利義政により建てられた山荘・東山殿の一建物。義政没後、慈照寺となる。後に、戦乱で東求堂などを除き、消失。 東求堂は、義政書斎持仏堂。方形平面、入母屋、桧皮葺き、基準柱間:6尺5寸。柱:仕上り大面取り3.8寸角

 平面図 平面・断面共に日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 

 

 

 南側2室は仏間、北東の4畳半は書斎:同仁斎(どうじんさい)。 同仁斎は、書院の原型とされる 

 いわゆる和様の形体をつくりだすため、下図の化粧桁のように、構造体を傷める方策も採られている。構造・架構=空間というつくりかたは、上層階級の建物では継承されていない。

 

 

文化財建造物伝統技法集成より

 矩計図 日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 上分解図は、矩計図赤枠内の組立て分解図。 は天井裏まで延び、野屋根を受けているが、同時に、その下方では、化粧地垂木化粧桁化粧肘木を半分ほど欠きとって取付く。化粧のための無理。この方法は、近世の光浄院客殿などの建築でも使われる。 化粧継手は、龍吟庵方丈内法長押継手同様鎌継ぎ(前出)。接続部を密着させるためで、構造的な意味はない。

 

参考 古代の多層工法

 古代寺院の塔や門、鎌倉時代末期の禅宗様の三門、楼閣建築、室町後期:戦国時代の城郭建築、そして近世以降の町屋など、日本には各種の多層建築がある。

 しかし、古代~中世の門、塔は、いずれも外観のみが多層であり、各層に床があったわけではない。東大寺南大門も同様である。

 

 古代の多層建築の構築法は、下図のように、下層の垂木上に土台台輪(だいわ)(図の着色部分)井桁状にまわし、その上に上層の柱・軸組を建てる方式であった。 五重塔では、これを二重、三重、四重、そして五重と4回繰り返す。 古代寺院の門や塔には外に欄干もまわるが、床はなく、実用に供用されてはいない。

  

法隆寺 中門 梁行断面図 奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺一 より     法隆寺 五重塔 断面図

 

  

法隆寺 五重塔  三重 平面図および断面図        日本建築史基礎資料集成 十一 塔婆Ⅰより  図は転載編集

 

 上層に床を張り、用に供するのは、遺構では鹿苑寺 金閣が最初と考えられる。より実用性が強くなるのは、後の城郭建築

 

               

参考 城郭建築の多層工法

 室町時代後期になると、中央政府の力が弱まり、各地の武士が群雄割拠の様相を見せはじめ、領地拡大の戦乱が頻発、その拠点として城郭建築が建てられるようになる。

 城郭の要件は、領地一帯を見渡すことができる望楼の役割を持ち、同時に万一の場合には立て篭もり防備に専念できること。 そのため、できるだけ標高の高いところを選び、防備のために石垣で基壇天守台)を築き、その上に可能な限り高い建物:天守が建てられるのが普通であった。 なお、土台城郭建築において考案されたと考えられている。

 

丸岡城  1576年(天正4年) 所在 福井県丸岡町 

 

平面図 下より一層二層三層   上:桁行断面図 下:梁行断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

 

 丸岡城は、現存最古の城郭で、当初、石垣で天守台を築き、天守掘立柱で建てられていた。

 二層三層は同一平面で、四隅の柱は通し柱、三層の床梁は丸太で側柱(管柱)に差口で取付く鹿苑寺 金閣に同じ)。三層では通し柱間の内法レベルに入れた飛貫小屋梁を受ける。

 

 松本城  1594年(文禄3年)~1597年(慶長2年)

 松本城 平面図 断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより 

 松本城は、平地に天守台を築いた平城。 先ず、地盤面から天守土台を支える支持柱を建て、それを埋めながら天守台が築かれている。 ここでも、通し柱飛貫が活用されている。

 城郭建築では、各地域の職人も重用されたため、上層階級の建築技術と一般の建築技術が融合して用いられている。

                       

 ここまで、1200年代:鎌倉時代に入ってからの現存遺構について、主な寺院建築および禅宗寺院のなかに生まれた方丈建築について簡単に観てきました(住居の遺構は存在しません)。

 鎌倉時代の主な寺院は、平安時代から受け継がれた密教系(天台宗、真言宗)の寺院と、新たに移入された禅宗系の寺院です。このうち、密教系の寺院は、畿内だけではなく広く全国各地域に数多く建てられ、禅宗様の寺院は武家の帰依を受けたこともあり、政治の中心地に多く建てられます(時が経つと各地域にも広まり、また、形体上の影響も見られるようになります)。

 密教系の寺院の多くは、前代までに確立していた二重屋根・野屋根・桔木(はねぎ)の技法を用いた架構法を採り、それに寺院のシンボルとなっていた斗栱(ときょう)を装飾的に取付ける方法が一般的で、鎌倉初頭につくられた再建・東大寺のつくりかた:大仏様が継承された気配はうかがわれません。

 その点では、わが国の古代以来の寺院建築の建設の歴史の中では、再建・東大寺:大仏様は、むしろ特異であったと言えるでしょう。実際、大仏様の考え方:架構=空間を実施に移した建物は、東大寺以外、皆無に等しいのです。

 禅宗様の寺院の特色は部材各部の独特な形状にあり、そのためそれは一般に影響を与えるものではなく、禅宗系寺院に限られると言っても過言ではありません。また、技法的にも、意匠を優先し、構造的な視点を欠くきらいがあったことも否めません(前出、東福寺・三門参照)。

 このように、鎌倉時代の寺院建築は、禅宗様を含め、古代以来の「寺院」というしがらみを脱することができなかったのです。

 一方、禅宗寺院に生まれた方丈建築は、寺院の本堂とは異なる道を歩みだします。

 方丈は、すでに触れたように、どちらかといえば居所・住居的な性格の強い建物です。ここでは、寺院本体と同じく二重屋根・野屋根・桔木によるつくりかたを採っていますが、桔木の利用で役割をなくした斗栱を装飾的に付けることはしていません(前出の龍吟庵 方丈の例のように梁を虹梁風に見せかけることは行なわれます)。方丈建築で使われている古代以来の技法は、肘木だけです。肘木は横材:梁・桁を柱上で継ぐには不可欠な部材だからです。

 この方丈建築のつくりかたには、当時の寺院以外の一般の建物のつくりかたが関係していると考えられます(当時の住居など一般の遺構は存在しませんから推定です)。 そして、このような寺院イメージのない方丈建築は、その後の一般の建物にも影響を与える特徴を持っていたことはすでに簡単に触れました。

 そこで、方丈建築の架構の特徴をまとめてみると、次のようになります。

1)基準柱間6尺5寸~7尺、柱径約5寸、間仕切のほとんどを開口装置とする。

 平面図で明らかなように、方丈建築では、柱間は開口装置だけで内法:鴨居上の小壁以外にはほとんど壁がないことが分ります。しかも、寺院建築に比べ、柱は太くありません。このことは、壁を、架構の自立を維持するための不可欠な部分としては考えていないことを示しています。

註 これは、方丈建築に比べればが太い古代以来の寺院建築にも共通する特徴です。古代寺院、中世寺院の平面図を見ると、方丈建築に比べると壁が比較的多くあります。ただ、それらの壁は、空間をつくりだすための壁:空間構成上必要な壁であって(たとえば、仏像の背面として、籠(こも)ことのできる空間をつくるため、など)、架構上必要とは考えられていないのです。

 このように、方丈建築が細い部材でありながら、間仕切を建具になし得たのは(柱間を開放的になし得たのは)、その架構法によると考えられます。そこで、その架構の特徴を詳しく見ることにします。

 

2)束立て小屋組上屋+四面桔木下屋からなる架構

 方丈建築も、平安期以降の寺院建築と同じく、二重屋根・野屋根・桔木による架構法を採っています。ただ、寺院建築とは、異なる点があります。

 方丈建築では、本体の四周に桔木によってつくられる庇部が、均等に設けられていることに注目する必要があります(重要なのは、四面にまわっていることです)。

 たとえば龍吟庵 方丈では、室中(しっちゅう)上部は大梁上に束立組小屋を架けていますが、室中を囲む広縁下間(げかん)上間(じょうかん)そして北側の室の上部には、先の束立組小屋組足元を基点として、これら諸室にかぶさる形で桔木による庇部が架かっています(基本的には、他の方丈建築も同じです)。

 

 これを三次元的に見てみると、室中をかたちづくる柱と梁・桁で構成された立体格子の四周に、桔木によって構成されたロの字型の鍔(つば)が設けられた形になり、建物上部の平面的な変形を防ぐ働きをしていることになります

 しかも、この庇部は、垂直断面で見ると、桔木繋梁あるいは化粧地垂木(天井)とで直角三角形を形成しています(下図)。その結果、室中部の架構上部を三角柱が取り囲むことになり、室中部の立体格子の各側面:垂直面の変形を防ぐ、つまり立体格子を垂直に維持する働きもしていることになります庇が水平で三角柱をつくらなければ、この働きはありません)。これは軒の出の確保が主たる目的の寺院建築桔木による庇部とは大きく異なる点と考えてよいでしょう。

 龍吟庵 方丈 桁行断面 

 

梁行断面図

日本建築史基礎資料十六書院Ⅰより転載・編集

 

 また、方丈建築では、建物全面にが張られます。この時代の床組は、ほぼ現在と同じで、束立ての大引上に根太を転がし床板を張っています。床板の厚さは1寸程度が普通です龍吟庵 方丈では8分)。そのため、床面自体が平面的に変形することは先ずあり得ません。

 さらに、柱通りの大引は柱相互をつなぐ足固貫として扱われ、直交方向では根太が繁く架かり、柱相互をつなぐ役割を担っています(後に、直交する柱通りにも足固貫を入れるようになります)。

 束柱礎石建て礎石の上に置かれるだけですが、摩擦で一定程度は拘束され、さらに床面レベルをで縫われていますから、礎石からずれることは簡単には起き得ません。

したがって、三次元的には、床から地面までの空間は単なる隙間ではなく、いわば地面と床面に挟まれた立体格子になっていることになります(上図)。 

 つまり、方丈建築は、主要部の立体格子の上部は桔木による庇部の働きによって、下部は床組の働きによって、立体的な形状が維持されていることになり、しかも、立体の側面にあたる間仕切部の軸組には数段のが設けられますから、立体格子はより一層安定し、それゆえ間仕切をすべて開口装置でまかなうことができるようになったと考えることができます。 

 以上のような方丈建築で練られた架構法は、近世寺院建築客殿建築書院造に発展しながら引継がれてゆき、安土桃山~江戸初頭の西本願寺などの巨大な建築群も、この架構の考え方の発展系と考えることができるでしょう(ほとんどが、壁のないつくりになっています)。