建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「筑波通信№4」 1981年7月

2019-01-29 09:03:53 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №4」1981年7月 A4版8頁 

 

  「筑波通信 №4」  1981年7月

     「間」抜けの話・・・・・「間」が抜かされるということ 

 五月の末から六月のはじめ、季節はずれの夕立が数日続いた。それも雷雨である。

 そんなある夜、私の研究室に、学生の某君が興奮したおももちで本をかかえてとびこんできた。どうしてもこの本を見てもらいたいというのである。その本とは、帝国書院から出されている世界の地理教科書シリーズのうちのスイスの地理教科書(中学生対象ではないかと思う)であった。もちろん日本語訳である。不勉強でこういう本があるなどということは、ついぞ知らなかった(因みに、このシリーズに続いて、世界各国の歴史教科書シリーズが刊行されつつあることが、六月八日付朝日新聞読書欄に紹介されている)。

 たかが教科書ぐらいで、何をそんなに、と思うかも知れない。しかし、それにはそれなりの訳がある。今回は、この教科書をめぐって、この学生と語りあったこと、そしてそのあと考えたことをもとに書いて見ようと思う。

 それにしても、こういうように、心のうちになにか言いたいことをいっぱいもって話しにくる、そういうときの人の目の輝きというのが無性に好きだ。近ごろ、そういうきらきら輝くような目を見ることが少なくなったように思う。そういう人が居なくなったのか、こちらの目が曇っているのか。

  何故その学生が話をしたくなったか。実物を目のまえにすれば、それは直ちに分ると思うがいまそれができないのが残念である。

 ざっと目を通してみて、その学生が何かを言いたくなった気持が、私にもよく分った。私たちが学んだ(学ばされた)日本の地理教科書とは、まるっきり違うからである。常日ごろ望んでいたことが、この中学生あいての教科書に、大げさに言えば物の見事に書かれている(いま同じようなことを大学生に話さなければならないというのが、あほらしくなってくる)。

 一言で言ってしまえば、この教科書は、国土について、諸「知識」を単に並べたてたものではなく、国土を(そこに生活してゆくという視点で)どのように「把握」するかという見方で貫かれている、ということに尽きるだろう。(先に書いた目下刊行中の歴史教科書シリーズの紹介で、評者は、各国の教科書は日本のそれと違い、歴史を「羅列でなく構造として呈示しよう」と努めていると書いていたが、その点全く同様である)。

 詳しくいえば、スイスという国土を(子どもたちが)どのように把えるか、その把えかたを述べてある。たとえば、〇〇山脈がどこにどう走って、高さがどうで、地質やそのできかたがどうであるかというような、いわば物知りおじさん的「知識」ではなく、もちろんそれについても書いてはあるが、その「知識」だけで終るのではなく(従ってそれを無理して覚えればよいというのではなく)、そういう山脈があるところでは、どのような「自然」が展開し、そのような「自然環境」に在って人々はどのようにして暮さなければならなかったか、暮してきたか、暮しているか、つまりどのように人々の生活が変ってきたか、人々はどのようにその「自然」に対処してきたか、等々といったいわば現存の学問分野でいうところの「歴史地理学」「人文地理学」そして「集落地理学」にかかわる話が、実に分り易く淡々と述べられている。これが、それぞれの特性をもった地域ごとに語られ(特性が存在するからこそ、地方、地域という概念が生まれた、在ったのではなかったか。いま日本で「地方」「地域」というときは、はたして、そういう特性の存在を認めた上で言っているのだろうか)、それにより、スイスという国土とそこでの人々の生活が、実にはっきりと浮き彫りにされるのだ。そこには、何故ある地域がそういう地域となったのか、それを見る見かた把えかたが、それこそ懇切丁寧に書かれており、その一環としてたとえば、ある地域で暮らす人々の一日の、そして一年の生活が、その「地理」との関係で、さしずめ日課表の如くに語られ、もちろんそういう生活との関連で、彼らの家づくりのありかたにも触れられる。だから、これを読んでいると、私の行ったこともなく見たこともないスイスのある地方のありさまが、目のまえにありありと浮んでくる。そして、これが大事なことなのだと思うが、それは決して単にその地域について知ったということではないということだ。そう見てゆくなかで、たとえば我が国のあの地方のありさまは、いったいどうなのであろうか、といった具合に、それとの対比でものを見る私の視野が自ずと拡がってくるのである。つまり、一つのことを見ることが、十のことを見る見かたを示唆しているということである。ここまで書いて、私は私の好きな作家サン・テグジュペリのある文章を、どうしても引用したくなる。少し長いが読んでほしい(下段に引用、中途を省略してある)。

 サン・テグジュペリ「城砦」  山崎康一郎訳より 

……それゆえ私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。彼らの登山の質を楽しむためである。昇床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず,また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。たとえ、ただひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山を登撃しておのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力をそなえた生徒、まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。

……私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗に濡れ、その花を摘み、そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。言葉で示すことは把握することではない。

……言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう? それなら辞書と同様である。

 

  言いかたを変えれば、このスイスの地理教科書では、現象あるいはものごとの「結果」だけではなく、「過程」が語られているということである。この私をたずねてきた学生は、常日ごろ世のなか一般に「結果」だけ問題にされ、「結果」だけをつなげてものが語られ、学問・研究がされ、つまるところ、それに至る「過程」の無視されていることに言いようのない怒りを抱いており、たまたま私も、およそ人のやること、もちろん「結果」も大事だが、その「過程」:私の常用する言いかたで言えば「人間の営為」こそ大事であり、それを見るべきであると日ごろ言い続けていたものだから、私なら怒りをきいてくれるだろうと室をたずねてきたのである。

 そうなのである。毎回のように書くのだが、そしてこれからも言い続けると思うが、人が「どうしたか」「どうするか」こそ大事なのである。人のなした現象的結果をあれこれ言うことぐらい易しいことはない。しかしそこからは決して「人がどうしたか」は見えない。逆に人がどうするかが見えたとき、私たちはある一つの地域やあるいはある一つの現象を見ることで「やがて目にするべき一切の風景を理解する」ことができるようになるはずなのだ。もっともサン・テグジュペリなら、この教科書でも未だ不十分だと言うかも知れない。

  この教科書は、では、どういうかたちでその記述をしめくくっているかというと、地域ごとにその地域の特性:人々の生活を通観したあとすなおにその国土の将来の(あるべき)姿を、将来の(国土の)「景観」というかたちで書いて終っているのである。我々(スイス人)は将来へ向けて、いま何をなすべきかで終っているのである。

  ひととおり目を通して、たずねてきた学生に劣らず私も少なからず興奮し、なぜスイスではこうで、日本ではそうでないのか、少し大げさに言えば夜の白むまで話がはずんだのである。そして話をしてゆくなかで、その学生が頭にきたのには、もう一つ別の理由があることも、だんだん分ってきた。この学生は、実はこの本を地理の先生にその授業で紹介されたのだそうである。そこでこの学生は、先に少し触れたお得意の「過程」重視諭を述べたところ、彼の先生いわく、では書きかたの順序を逆にすれば良いのですかね、と言われたのだそうである。そこで先ず頭にきた。そんな書きかたの形式を言っているのではない、もっと本質的なことなのにというわけだ。そして更に、この先生、こうも言われたというのである。近ごろ建築(を学ぶあるいは研究する人たち)をはじめとして、地理学以外の人たちがどんどん地理学の分野に入りこんでくるものだから、地理学の独自性を保つために(実際こういう表現で言われたのではない。私がその趣旨をかいつまんで述べているにすぎない)地理学はいったい何をしたらよいのか、いろいろと論議がある、と。なるほど、これは私も頭にくる。この学生が頭にきて当然である。頭にこなければうそである。「ね、そうでしょう」と言って、この学生はほっとしたおももちになった。それが印象的であった。もちろん、ここでいう先生とは、大学の先生である。

  私は、なぜ日本にはこのような教科書が存在しないのか、考えた。そして、いまからでも、こんな具合の地理教科書をつくることができるだろうかと、しばらく考えた。子どもの教科書もながめてみた。そして、悲しいかな、書けないだろうという結論に達したのである。

 なぜか。なぜ在り得ないか。

 一つは、日本の現状が、このような具合の書きかたを受けいれないものとなっているからである。なるほどたしかに、ある時代までは、スイスと同じようなかたちで、国土と人々の生活について、つまり、「地理」と「人間の営為」とについて、雄弁に語ることができる。しかし、あるとき突然(ほんとは突然ではなく、下準備は着々となされていたのだが、時間を圧縮して書くと、ほんとにとうとつに見えるはずだ)、それからあと、地域の特性と人々の生活とは無関係となり、国土はそれぞれ特性をもった「土地」としてではなく、単なる「地面」として扱われ、特性もへったくれもなく、従ってどこでも全く軌をーにした生活が行い得るのだ、それがよいことなのだ、というはなしになってしまっている。だからいま(現代に生活するには)、「地理」は不要である。「地理」を学ぶこととその「生活」とは直接的に関係がないように見える。そうなっている。だからスイスの教科書のようには、すなおに淡々として書くことはできないのである。書こうとすればするほど、歴史的な意味での「断絶」と、「地理」を学ぶことと現実に行なわれている「生活」との間に横たわる「断絶」とが、より一層目に見えて明らかになってくるだけだからである。従って、できるのは、いままで慣習的(というより因習的)に行なわれてきたように、それに最新のものを盛りこむだけで、要するに地理学の諸「知識」を統的にきれいに整理して記述することしかないのである。かわいそうなのは子どもたちだ。彼らは、それらの諸「知識」が、自分たちの「生活」と何の関係があるのか分らずじまいのまま、つまり何のために「地理」を学ぶのか、学ばされるのか分らないままに、ただいたずらに暗記を強いられる。ということは、どういうことか。それは、前々号に書いた私の言いかたで言えば、子どもたちに、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」というものの見かたを教えていることに他ならないのである。

 しかし、「地理」は、「地理学」は、「地理の教科書」は、その「現実」との不整合に目をつぶってはいけないのだ。そこから逃げてはいけないのだ。「地理学」はいま何をしたらよいか、などというような世迷いごとを言うべきではないのである。まさに、この不整合な事態の不都合についてこそが、「地理学」が言及しなければならないことなのではないのか。それこそが、「地理学」の本務ではなかったのか。「地理学」とはそもそも何であったかということだ。それを忘れて、自らすすんで自分のなわばりを狭めてゆく。それから先はもう決りきっている。「学際的」研究とやらをとなえるだけだ。そして、だがしかし、そうしたからといって決して、先の不整合な事態の不都合については言及できないだろう。言及できないものがいくつ集まったところで言及できるようになるわけがないではないか。私はここに、いまの学問のありようの象徴的な姿を見る。

 そして、なぜスイス(別にスイスでなくてもよい)のような書きかたが在り得ないと私が思うか、そのもう一つの理由がここにある。

 つまり、このような書きかたのできる人が、「地理学者」「地理の教師」(つまるところ、地理の教科書を書くのは、地理学者か地理の先生である)のなかに、はたしているかということである。もしいるのならば、そんな教科書が一つや二つあってもよいではないか(それとも文部省の規制が強いからなのか?全部の教科書を調べたわけではないから、断言はできないが、必らずしもそういう外圧だけのせいではなさそうだ)。しかし、ありそうにない。ということは、私がその昔習ったことを思いだしてみてもそうだが、もともと「地理」を学ぶということは、我が国土を知るということ=我が国土についての地理学的諸知識を辞書的に積み重ねること、で長いあいだ済んできたのであって、そのことについて(その意味について)何ら考えられてこなかったのではないかと思う。辞書的編集に対し、何ら疑いがはさまれたことがないということである。もちろんそれは、書く側つまり教える側に、何の反省がなかったということであり、教えられる側は、意味不鮮明のまま(現実との不整合のまま)、やみくもに、それこそ字の本義どおりに「勉強」させられたのだ。(商人が勉強しときましよう、というようなときの「勉強」が勉強のもともとの意味であって、それが自らへ問題を課すというような自制的な意をこめた「学ぶ」ということのありかたの意に転じたのではないかと思う。いまそれは、他動的なそして受動的なそれに変ってきた。つまり「学習」がなくなった)。

 おそらく、こういう言いかたをしてくると、何も全てが現実(の生活)との係わりをもって語られる必要はないではないか。学問の成果は成果として教えてよいではないか。なぜならそれこそが、いま人間の到達している最先端なのであって、教育とは、その先端を将来更に延ばすことにあるのだ、と。そして(自然)科学・技術(にかかわる分野の教育)は、まさにこういう局面で実践しており、人文科学の分野もこれに追随しようとしているように、私には思えてならない。

 しかし私はあえて、これは誤っていると言おうと思う。なぜなら、いまの最先端とは、いかに、どれだけ、「人間として」の立場から遠く離れるかという意味の先端でしかないからである。

 学問というものが、進めば進むほど鋭角化し、知識自体もより細部にわたるようになることはそれは当然である。しかし、そうなるまでの過程が忘れ去られ、ただ目前の状況から前へのみその意味さえ忘れて進むということ、そして、それを最先端だと思ってしまって平気でいられるということに対して、私は疑いをさしはさみたい。過程を忘れるということは、人間としての立場から、どんどん遠くなってゆくことに他ならないのである。

 そしてまた、なぜなら、こういう人間としての立場からほど遠くなった、あるいは失なったものの見かたが平気で教えられる一方で、かならず、他人へのいたわりのこころ、だとか、自然を愛するこころだとか、はたまた「道徳」だとかが、これまた平然と教えられるのが常だからである。考えてもみたまえ、こんな論理的に矛盾するはなしはないではないか。いったい、どうやったら人間としての立場を失なったものの見かたに、人間的なるものが接ぎたすことができるのだろうか。私たちは、先ずもって人間なのだ。これは疑いようのない事実である。いや、事実以前のはなしである。だから、「人間的な」とか「人間として」とかいうことを、さしづめ形容詞の如くに、あとから追加しあるいは付加すればこと足りるとするようなやりかたは私には我慢がならないのである。それは、ごまかしであり、確実に誤まっている。

 言葉を変えて言えば、いかなる最先端であろうとも、それは、人間のなしてきた営為の一環としてあるのだという認識をもつ必要があるということである。そして私たちは、常にそれを問う必要がある。私が、現実との、あるいは、いまとの係りを問うのも、その為だ。そしてそれは、なにも私が、現実と係わりをもたざるを得ない建築という仕事をしているから言うのではない。それは、本質的なことだからである。

  ふり返って、もしかなり昔から、この「地理」の教育において、指折り数えて知識を積めこむのではなく、「地理」を把える教育が行なわれていたとしたならば、短絡的にすぎるかも知れないが、我が国の現在のような状況、つまり、先に記したような「地理」がもはや「生活」とは無縁な状態だとか、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」というが如き対しかた、にはなっていなかったのではないかと、私は思う。なぜなら単に学校の成績のためとしてでなく(従って、学校を出ればきれいさっぱりと忘れてしまうのではなく)生活上の「常識」となっていたならば、すなわち極く自然にその「把えかた」でものが見れるようになっていたならば、現在のような状況にいたる以前に、だれでもが極めて正当な批判力を行使したと思うからである。然るに、ばらばらの知識を教えることによって、その知識ではなく、ものごとをばらばらにしてみる見かたを教えてしまったのだ。この修復は大変である。

 いま、全ての領域にわたって、こういう傾向が見られる。ものごとを、数えあげられるようなかたちに分解し、そうして得た知識を数えあげることによって、ものごとが分った気になってしまう。そこでは人間が喪失する。なぜなら数えあげることができるような事項をいくつかとりだすという操作を施すとき、実は、そのとりだし残されたところにこそ、人間の真実があるからだ。事項と事項の「間」にこそ人間のほんとうの姿がある。

 なるほど、一歩ゆずって、ものごとをしゃべるときには、いくつかの事項を軸にしゃべるしかないのは認めるとしよう。しかしそれは、あくまでも「何かをしゃべるために」見出した事項にすぎないのであって、決してものごとがそれらの事項によって成りたっているというわけではないのである。それを多くの場合とりちがえるのだ。問題なのは「何をしゃべろうとしたか」つまり「何を見たか」なのだ。全く同様に何故それらの事項で見るようなくせになっているかをも省りみずに、はじめから当然のことのようにそれら事項が在るものとして、それによりものごとを見て平然としているのも誤まりである。それは、前に書いた、星を見るに、星を見ずに星座を見る見かたに他ならないからだ。

 こうしてみてくると、いまの世のなか、ものの見かた、把えかたが基幹であるというあたりまえなことが、いかに忘れ去られているかが、空恐ろしいほど浮きあがってくる。言うなれば「間」の抜けた、あるいは抜かれた、デジタル思考が横行しているのである。事項を指折り数え(デジタルの原義)その量でものごとが分るというのならば、サン・テグジュペリではないが、辞書でたくさんである。

 そして、それ以上に。教育(小学校から大学まで)の現状の空恐ろしさもまた、目に見えたかたちで見えてくる。

 いま教育は、そのどのステージにおいても、その場限りでは「知識」豊富な、あるいは、ある限られた範囲についてのみ「知織」豊富な、けれどもそうであるが故に、「間」抜けな(見かたしかできない)人間?をせっせと養成しているのではなかろうか。いまさかんに教科書問題が世上をにぎわしている。しかしそれは、どう見ても、そこに盛られる「知識」の質とその相対的な量の多少だけで論じられていて、もっと重要な。「問」抜け人間入門書になっていることについては、全くと言ってよいほど何も指摘されていないのが、私は残念でならない。意地悪く勘ぐるならば、は、世のなかの構造的な不整合が目に見えたかたちで見えてきて、それにつれて、ものごとを構造的に把えようとする人たちも増えてきた、そのくらい(彼らにとって)不都合なことはないから、教科書に盛りこみ羅列する事項の議論へ話をずらしこみ、ものの構造的な把えかたから焦点をずらさせようとしているのではないかとさえ思いたくなる。そしてまた、残念ながら、この構造的に把えようとすることについては、敵も味方も同様に欠けているのは。先に見た通りである。

 先日のこと、東大入学率の高さで有名な某国立大学付属高校の先生と話す機会があった。かねてから疑問であったことを、私は尋ねてみた。彼らは東大で何を学ぼうとしているのか、何をしようとして東大を選ぶのか、と。ところが、彼らは特に何かをしてみたい、というような関心というものがないというのが特徴なのだ(全部がそうだというわけではないが、ほとんどそうだ)というこたえが返ってきた。彼らが理科系や文科系を選ぶのは、全く単に自分の「点」によるのだそうである。私は、ある程度は予想はしていたものの、驚くというよりあきれてものが言えなかった。これは更に言えば恐ろしいことなのだ。このデジタル思考に秀でた「間」抜け人間たちは、いずれの日にか、その多くが役人として行政その他に絶大な権力をもつべく予定されているのである。とんでもない再生産が、むしろ悪循環が、堂々と行なわれているわけである。

 そして、私たちは、その抜かされた「間」に止むを得ず放り出され、不特定多数として十把一からげにして、まとめて数えあげられる対象にされてしまうのだ。彼らには、私たちがあまりにも多種多様、十人十色であるために、そのデジタル能力からはみだしてしまい、そのままでは数えられないからである。

  いま私は、止むを得ずり放り出され、と書いた。しかしそれは、彼らの視点からみてのはなしであって、私たちにとっては、それはあたりまえだ。止むを得ずどころか、十把一からげにされることの方こそが、私たちの望まざる姿なのだ。止むを得ず、そうされて黙ってきた。なぜなら指折り数えることのできない世界にいる私たちにとって、指折り数えるやりかたには、指折り数えられることを、それのみを、善とするやりかたには、一見したところ、打つ手がないからである。指折り数えられるものしか分らない、分ろうとしない、そういう人に、どうしたら指折り数えることのできないものごと:「間」を分らせたらよいのだろうか。はたして「間」抜けの人に「間」を分らせることができるのだろうか。

 しかし私たちは、ついうっかりと、彼らに抵抗しようとして、数えあげることのできないものを、数えあげてみようなどという気をおこして、彼らの土俵にひきこまれて失敗をくりかえす。私たちのなかのどこかに、未だに。「数」に対しての絶大なる信仰が巣くっているからだろうと思う。そして、よく考えてみると、そのような信仰がはじめから私たちのなかに在ったのではなく、それらはあとから私たちのなかに植えつけられたことに気がつくはずだ。何が、だれが、それを植えつけたのか。その一つが、そしてその最たるものが教育、特に初等教育であることは、隠れもない事実である。

 余談だが、このごろの小学生たち特に高学年の子どもたちは、大概腕時計をもっている。そしてその大半以上がデジタル表示である。その方が先進的でかっこよく、ナウいのだそうである(もっとも、これは小学生だけでなく大学生でもそうらしいが)。心配性の私は、また心配したくなる。先きゆき、「時」に対する見かたが、変ってしまうのではないか。永遠の時の流れ:時間、という発想はなくなって、時間とは時刻の集積であるという発想が先にくるようになるのではなかろうか(いまも、既に、そのような気配が感じられるが)。そもそも、私たちにとって、時の流れという感覚があった。いまと、一瞬まえと、一瞬あとと、そしてそのまえ、うしろと延々と、決して断続的でなく連続的に、絶えることなく続く流れの感覚があった。そしてそれを、それをなぞらえるものとして、針の回転運動(による時計)が考案された。砂や水の流れに、それをなぞらえた。それは、私たちの感じている時の流れそのものではないが、それをなぞらえたものである。そういう意味で、こういう表示のしかたを、デジタル表示に対して、アナログ(なぞらえる)表示というのである。なぞらえるやりかたのとき、時刻というのは、あくまでも便宜的なものなのであった。時刻が先に存在したのではない。時の流れ(の感覚)が先ず存在した。時刻は、あくまでも、人々の便宜のために設定されたのだ。このことが忘れられて、私たちにとっての時間というものが、この便宜的に(勝手に)設定された時刻によって左右されるというような。全くの逆転現象があたりまえのことになってしまうのではないかというのが、私の心配である。それは、ますます「それはそれ、‥‥」的思考に拍車をかけることになるだろうと思われるからである。ますます「間」抜けになると思われるからである。

  私が今回、地理の教科書の話からはじめたのは、別段「地理」に対して他意があったからではもちろんない。私たちのものの見かたが、私たちをとりかこむものごとが、あるいはそれらのつくられかた、ものの言われかた全てが「間」抜けな状況になっていること、そしてそれに気づいていないこと、気がつかなくてあたりまえになっていること、更にそれを押し進めようとしていること、それらの空恐ろしさを言いたかったからにすぎない。ものごとを指折り数えるその指のすきまから、だれかがつくった枠組によってものごとを見るその枠組から、私たちのほんとの姿がみなこぼれおち、捨てられる。その空恐ろしさを、どうしても言いたかったからなのだ。そして、なんとかしなければ、というあせりに似た気持になるからだ。

 でも、どうしたらよいのだ。いったいどうしたら「間」抜けを「聞」抜けでなくすることができるだろう。

 それとも、こんなことを思うのは、全くばかげているのであって、「現実」に逆らわずに、すなおに世の大勢に従うのが、りこうというものなのかも知れない。

 しかし、たとえ「現実」に逆らうことになったとしても、「私」自身には逆らいたくない、そのような「現実」に、人の心を逆なでしてもらいたくない、ということに、結局は行きついてしまう。きざっぽく言えば、人間を、人間の営為を、ばかにしてもらいたくないからだ。

 でも、どうしたらよいのか。 どうしたら「間」抜けでなく、私たちは在り得るか。  どうしたら、「間」を抜かされて扱われてしまい、捨てられることに抵抗できるか。

 どうしたら、「間」に生きる私たちの、十把-からげにできない、十人十色、多種多様の私たち個々の、その存在を、「間」抜けな人たちに分らすことができるのか。

 

 「返信」のなかから‥‥「あとがき」にかえて

〇この「通信」に対して、たくさんの返信をいただいている。「通信」のなかみそのものに対する感想、それに関係しての所感、近況報告を混えたもの、いろいろである。

 そのなかで不思議に思ったことがある。私の室をたずねて話をしてゆく学生諸君は、今回の通信の例のように、過去にも多少あった。その人たちが卒業し、この通信を介してのみ話を交わすことになった。そうしてみて、どうも、こういう通信を介してのやりとりの方が、面と向って話をしているときよりも、いわば奥行のある話ができているということに気づいたのだ。

 そんなことを思っているとき、ある文章に出会った。「小さな家でぼくが不便を感じるのは、むずかしいことばでむずかしい思想を議論しはじめると、相手と十分な距離がとれなくなるときだ。ぼくらの考えがちゃんと港へ着くには航海の準備をし、一度や二度走ってみるだけの余裕が必要なのだ。思想という弾丸は、聞くものの耳にとどく前に上下左右のゆれに打ち勝ち、最終的な安定した弾道に落ちつかなければならない。さもないと、それは相手の頭からこぼれおちてしまう‥‥。‥‥もしぼくらがそれぞれの内部にあって話すことのできないもの、あるいはそれを越えたなにかと深みのある交わりをしようとするならば、ぼくらは沈黙をまもるだけでなく、‥‥お互いの声が聞こえないほど肉体的にも離れていなければならないのだ。‥‥」

〇そんな返信のなかに次のようなのがあった。 「‥‥年年歳歳花相似タリ、歳歳年年人同ジカラズ。(という詩があるが)私はそう(ことばどおりには)思わない。人もまた花と同じではないだろうか。同じように見える花にも‥‥それぞれの個性があり美しさがある。花は一時咲きほこり、先を急ぐように散ってゆく。そして次の年になれば、また同じような、でも一本一本がそれぞれに異なった唯一の花を咲かせる。人もまた、大地の流れから、命の流れから見るならば、一時の間花開き次々に移りかわってゆく。どれ一つとして同じものはない。それは、花とどれだけのちがいがあるというのだろう」という趣旨のものであった。

 私は一瞬たじろいだ。それまで私は、たしかにこの句は知ってはいても、単に、人の世の無常を表わす常識的「成句」として扱い済ましていたからだ(つまり、「星座」で見ていたのである)。たしかに、この人のいう通りである。おそらくこれは、多少まだ観念的な気配も見えるけれども、自分がどう生きるべきか考えぬいたその延長上の解釈なのではないかと思う。私にも「星」があらためて見えてきた。そして、次の展開として。こんな詩を思いだした。「‥‥‥どのものも一度在る。一度だけでそれ以上ではない。そしてわれらもまた/一度だけ存在する。二度とない、しかし/たとえ一度だけだが一度存在したこと、/地上に存在したこと、これはかけ換えの無いことらしい。/‥‥‥旅びとが高い山の絶壁から谷間へと持ち帰るのは/だれにも言葉で確かにつかめぬような一握の土ではなく/それはむしろ、確かに獲得した純粋な一語--すなわち黄色や青のりんどうだ。たぶんわれらは、言うためにここに存在しているー一一/家・橋・泉・門・甕・果樹・窓一一一/せいぜいまた一一円柱・塔‥‥と言うために。しかし理解せよ、それは/物たち自身さえも内心に、そういうもので在るとは思いもかけなかったような風に言うためだ。‥‥‥・‥」 この返信の主のような人生観を、もしこの年年歳歳‥の作者がもっていて(多分もっていたと思うが)なおかつこういう「表現」をしたのであるとするとき、この詩の意味が、また一つ深いものになるなあ、私はそう思った。     いずれにしろこういう奥行のある「交流」は机をはさんでの対話では、たしかになかなか生まれないように思う。

〇次のような返信もいただいた。    「障害児や障害児の親のため、援助して下さる方がたくさんいます。その人たちは、逃げられるれど逃げない状態でいるときは、不安定ですけれど、楽しそうに気分よく手伝ってくれます。けれど、本職になったり、押しつけられたりして、逃げられない状態に追い込まれると、とてもつらそうになり、疲れるようなのです。はじめから逃げられない親にしては、何とも複雑な気持です。時には淋しくなります。そうしたことが見えた時に。

 親はまだ一部分逃げられるし、逃げられていた時代もあったのだけれど、本人ははじめから終わりまで逃げれないのだからと思いなおすのですけれど。‥‥」 私は先回、態度としての「逃げる」「逃げない」ということを、そのはじめの所で書いた。しかし、書いていま一つふっきれないものがあった。そこのところを、この返信は、もののみごとに掘りあててくれてしまった。 要は、いま何をするか、しているか、なのではないだろうか(常に苦い思いをかみしめつつ)。

〇返信の一部を勝手に引用したことを。お許しください。   〇今回から字の大きさを変え、レイアウトも変えました。省資源のためです!   〇それぞれなりのご活躍を祈ります。

    1981年7月1日                     下山 眞司 


「筑波通信 №3」 1981年6月

2019-01-21 12:42:21 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №3」1981年6月 A4版12頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

    「筑波通信 №3」  1981年6月

      「逃避」考・・・・・・・・・原子力発電所は「絶対に」安全なのか?

 この通信をはじめて、あっという間に二ヶ月が通りすぎてゆく。ほんとに早いと思う。あの新鮮に輝いていた樹木の緑も、うっとおしい色に変ってゆく。これから梅雨があけ夏の陽が顔をだすまで、この筑波は、一度雨が降ったら水気のなかなかぬけない、吸いこむだけ吸いこんで、それ以上吸いこめない水のたまった、早くいえば泥沼だらけの、いやな季節にさしかかる。しかし、この「いやな」という形容詞は、舗装された地面の上の生活に慣れきった私の言わば勝手気ままな感想にすぎず、そういう土地で、「人は生きてきた」のである。「いや応もなく」生きてきた。「住んだ」のである。人々は、逃げなかった。この場合、「逃げる」とは、その局面から逃けだすことだが、たとえ願望はあっても、それはできない。「そこ」にいることが生きることだからだ。

 正直言って、月に一度ずつ、何かを書く、ましてそれを人に送りつけ読んでもらうなどという大それたことをやれる自信があったわけでもなく、いまだってあるとは言いきれない。第一号をポストに入れるとき、一瞬の間ためらったというのがほんとのところである。しかしもういまさら、逃げだすわけにはゆかない。この場合の「逃げる」では、なにもこんなことをやらなければよいのだから、言わば私は「逃げる」ことのできる局面にいる。だから、逃げられるのに逃げだすわけにはゆかない、と私が思っているということになる。なぜそう思うのか。

 けれども、こういう「制約」を課したためだと思うが、毎日が、身のまわりのことどもが、新鮮に見えてくる。見ざるを得なくなってきた。そういうこともあるけれど、まあこの際目をつぶってまたいつか、などという「逃げ」がきかなくなった。そのせいか、せっかちになったような気がする。そしてたしかにくたびれる。というようなことを、ふとある卒業生にもらしたところ、「もうそんな弱気になってるんですか、だから大学の教師なんて‥‥」という痛烈な一言がかえってきた。どうしてこんなこわい卒業生をつくっちゃったのだろう?! それはともかく、せっかちなのは少し気をつけるとして、くたびれるなどということを口にすること自体、それは既にしてたしかに大学教師の特権(?)に甘えた「逃げ」口上だ。つまるところ、そういう状況をつくってしまった以上、いまさらそこから逃けだすことの合理化はできないのだ。この場合の「逃けだす」というのは、その状況にいることを「やめる」ことだ。大学教師は、なにもその状況のなかに身をおかなくたって、つまり「逃けだしたって」、「生きて」ゆける。しかし、その「生きる」は、農民の場合の「生きる」とは、意味がちがうように思える。大学教師は、なにもしない方が、むしろ安閑として生きてゆける。自分の「研究」という美名にかくれて、なにもしなくたって、なにも見なくたって、生活が保証されてしまう、という意味で「生きて」ゆける。農民はそうはゆかない。彼らは、「生きる」ために、いまいる状況から逃げだすことができない。逃げだすことは、即ち農民をやめることに等しいからだ。大学教師は、逃げだすことの意味も分らなくなっている。私は、そういう大学教師の定型から、「逃けだしたい」。

 こんなこと書くつもりはなかった。ぶっつけなもので、話がすぐ横道にそれる。実は今回は、「逃げる」はなしをしたかったのだ。

  

 昨年、折あって、中国の河西回廊いわゆるシルクロードを訪れることができた。それは非常に貴重な体験であった(それには二つの意味がある。一つはここに書くところの人々の住むすがた見たこと、もう一つは、たまたま一緒に行った人たちが建築の関係者でなく、その関心が私とはちがう研究者であったがために、学問とは何か、いま学問や研究というものが、一般に、どうなってしまっているのか、それがものの見事に見えてきたからだ。また横道にそれだしたくなるが、要は彼らは人々からの金でくらしているくせに、学者・研究者としては「生きて」はいるが、「人間として」の視点を欠いてものを見るだけだ。ああなると、人間の学問でなく、学問・研究のための学問になってしまう。)

 さて、シャンハイからセイアン(昔の長安)を経てトンコウまでおよそ三千km、これほど目に見えて変ってゆく「大地」あるいは、「自然」「風土」というのは、日本に住み慣れた目には、全く想像を絶するはなしであった。それにつれて、その大地への人の対処のしかたも、ものの見事に変ってゆく。

 普通、中国の建物というと、たいがい瓦屋根のそっくりかえったいわゆる中国風の建物を思いうかべるだろう。しかし、あれは中国の建物のなかの全く極く一部のものにすぎず、中国だからといってすぐその姿を思いうかべるのは、ヨーロッパの建物を全て石造りだと思いこんでしまうのと同様に誤りである。単なる事実の見誤りならまだ許せるが、そういう「事実」を基に、西洋の思想は「石の思想」で日本は「木の思想」だなどと言われると、全く困ってしまう。

  それはともかく、ここでは、その屋根のはなしにしぼろうと思う。シルクロードを東から西へ行くにつれ、はじめかなりの勾配(六寸勾配:水平に十行くと六だけ高くなる:以上もある)の瓦屋根であったものが、だんだんとゆるくなり、次いで瓦がなくなり土泥だけの屋根となり、そしてついにはほとんど水平に近い土泥の屋根になってくる(いずれの場合も、その骨組は木造のはりたるきの上によしの類を敷きならべ、その上に、屋敷まわりの土をこねた泥を塗りつけるのが基本となる。瓦は、その上にならべることになる)。

 この変りかた、それは実に見事に、あたりまえだと言ってしまえばそれまでだが、「雨次第」なのだ。

 日本においても、地方、地方によってそれぞれ独特な屋根の形が見られるが、日本のそれは、ただ見た限り、これほど単純明解にあっさりと「雨次第」などと言い切れるようには見えてこない。

 おまけに中国では、日本ではそれこそ絶対にお目にかかれない瓦屋根にぶつかった。

    

よく昔のお寺さんの屋根に見かける本瓦ぶきというやりかたがある。     というやりかたである。ところが、この上側のかぶせの部分のない、つまり      というふきかたに出会ったのだ。すきまからの雨は「問題ない」ということなのだろう(ふいているところを見ると、と石でといですりあわせていたけれども、それですきまがなくなるわけではない)。日本だったらとてもじゃない。

 そうかといって、かぶせがあるから、日本の場合瓦で完全に雨は防げているのだろうか。そうではない。雨だって、そんな他愛ない降りかたじゃない(中国の乾燥地帯に比べると、その百倍以上の雨の降るのが日本である)。中国の場合でも、いかに雨が少いからといって、雨はすきまから入っているはずである。いずれにしろ、雨は瓦の下まで入りこんでいる。瓦だけで雨は防げてない。

 それでいて、なぜ「問題ない」のか。

 要は、たしかに雨は瓦の下へ侵入している。しかし、ぬれては困るところへは顔を出さずに、その前にどこかへ消えてしまう。かといって、雨水がなくなったのではない。室内と関係のないところで処理されたということだ。それを、それ故「問題ない」というのである。

 昔から日本の建物は、四周に軒の出をもつ勾配屋根であった。私が建築を学びだした当時、一般になんとなく、そういう見慣れた屋根の形が古くさく感じられたものであった。平らな屋根の方が、なんとなく新鮮で、「現代的」な形であるように思えてしまい、平らでないとすれば、せいぜい片流れの屋根が「好まれた」のである。おまけに、軒の出も(特に片流れの屋根では)きらわれた。(ところがいまは、これもある卒業生にきいたはなしであるが、逆に平らな屋根に見慣れすぎて、勾配屋根の方が好まれるという。)

 その当時のことをふりかえってみると、屋根の形が「建物の形」としてしか見えず、「屋根の形」としては見えていなかったのではないかと思う。屋根の形は建物の形であることにちがいはないから、この言いかたは妙にきこえるかもしれない。要は、建物という「立体」の形が、それだけが考えられた、ということである。屋根は、ただその「立体」の一部として考えられ、従って、立体の形に対する美的!感覚だけが、その形の決定権をもっていたのだと思う。美的!感覚をくすぐるには、目新しいものの方が手っとりばやく、それ故、見慣れた形が見捨てられ、ただやみくもに「新しい」形が追いもとめられたということだろう。おそらく「新しい」ということの意味さえよく分らなかったのだ。

 そして、こういう傾向をたしなめるでもなく、むしろすすんで保証してくれていたのが、当時の(そしていまも大差ないが)一般的な建築に対する考えかたであり、その最も大きい影響源であるところの「大学教育」であったと、私は思う。屋根の例でいえば、屋根とは単純に、雨水を防ぐものであるから、そうであれば、いかなる形も考えられる、極端にいえば、そのように教えられたのだと言ってよい。

 しかし、建物に降る雨は、「一般的な」雨水ではない。つまり、どこでも同じ雨ではない。ここの雨と、あそこの雨とは、同じ雨でもちがうのだと先ず思わなければならない。場所、場所にその場所なりの雨が降るのだ。雨に限らず場所、場所なりにその場所の「自然」がある。その「場所」で「どう生きるか」、あるいはその「場所」の「自然」に「どう対処するか」(どう対処すれば生きてゆけるか)、それこそがその「場所」に「住んだ」人たちの考えた(別に書斎で考えたのではない)ことなのだ。そうだからこそ、地方、地方で独特な同じような建物ができあがったのだと考えなければならない。そこで「どうするか」と人々が考えた結果が、そういう形で「結果」したのだ。そうでなくて、どうしてああも同じようにならねばならない理由があろう。

 けれどもそれは、あくまでも同じような建物なのであって、決してどれ一つとして同じ建物のないことは注目する必要がある。この点こそ、建売住宅、プレファブ宅そして「公共」住宅の「同じ形」とは「同じ」の意昧のちがう点なのだ。端的にいえば、昔からの民家の群れは、その考えかた同じなのであり、それに対し後者はが同じなのだ。あるいは、前者では、その場所での生活が根にあるのに対し、後者では、その場所とは関係ない「一般的」な生活像?がその根にあると言えばよいだろう。あるいは、流行の言いかたで言えば、前者では「すまい」についての(住むということについての)ソフトウェアが確立しているのに対し、後者では、それなしに(そのようなことはあり得ないにも拘らず)ハードウェアだけがあると言えるだろう。そして、この後者すなわち現代的一般的やりかたの根が、まさに、「水」が防ければ、どんな形でもできるとするやりかたへと連なってゆく。

 私は前回、現代的なやりかたとは、「それはそれ、‥‥」とするやりかたなのだと書いた。そして、そういうやりかたをとる最も現代的な人たちは、自らの「考えかた」は実は自らの体験のなかから抽象されたものであるにも拘らず、それを忘れ「観念的」にそう思っているのだと書いた。しかし、それは好意的で善意ある言いかただったのではないかと、いま私は思う。ことは簡単なので、彼らは、「見えていない」し、「見ない」し又「見ようとしない」にすぎないのだ。仮に「見えて」いたとしても、そんなことに係わるのは面倒くさいから、その局面から逃げて済ますのである。それがつまるところ、「それはそれ、‥‥」という形に、現象として、結果する。そうするとどうなるか。ますます「見えなく」なり、「見よう」ともしなくなるのである。

 もっとも、こんな風な分ったようなことを言っている私自身、こういうとことがなんとなく分りだしたのは、大学を出てしばらくしてからだ。大学で教わったことを、「現場」に身をおく場面において、一枚一枚ひんむかざるを得ないことに気がついてからだ。悲しいかな、未だにひんむきかたがたりないのだ。(それにしても、大学とは、いったい「何」を「教える」ところなのか)。

 また本題からずれだした。もとへ戻そう。

 

 いま私たちが極くあたりまえに目にする平らな屋根、これが日本において流行りだしたのは、極く極く近々のはなしである。もちろん、いくらそれが元をただせば「洋風」だからといって、「洋風」自体が元々から平らな屋根であったわけでもなく、そちらにおいても同様に極く極く近々のはなしなのだ。西洋にだって、わらぶきも、かやぶきも、そして木造の建物さえざらにあり、平らな屋根も全く「雨次第」だったのだ。

「近代」が屋根の「平ら」なることをのぞみ、それを可としたということは、まことによく「近代」を象徴していると、私には思えてならない。

 この平らな屋根では、雨はどうなるか。分りやすく言えば、平らな屋根というのは、建物の上に「盆」がのっているのだと思えばよい。その「盆」にたまった水を、所定の場所から排水する、これが平らな屋根の原理である。万一所定の場所以外から水が流れるようなことがあれば、それは当然ぬれては困るところへ顔をだす、つまり雨もりとなる。しかし、所定の場所を所定たらしめることは、なかなかむづかしく、万一どころか、もっとひんぱんに設計者は、所定以外からの雨もりに悩まされているはずだ。

 こういった雨水の処理のことを一般に「防水」と建築用語では言うが、平らな屋根の場合、コンクリートなどで形づくられた「盆」の上にはられたアスファルトや合成樹脂の層や膜:防水層、防水膜がその役をはたす。この層や膜は、それが水を通さないということが前提となる。もしそれが水を通したら最後、雨水は室内へ顔を出す。それ故、平らな屋根が多用されるにつれて、この防水層、防水膜の技術は、それなりに格段の進歩をみたのは確かである。

 しかし、いまほんの数行まえに、「この層や膜は、それが水を通さないことが前提となる」と、いわば簡単に気楽に書いたけれども実はこれはそんな簡単で気楽なはなしではない。なぜなら、この前提は、それが「絶対に」水を通してはならないという極めて厳しい前提だからである。一滴たりとも水が通れば、すでにして当初の目的ははたされなくなるからである。

 けれども、私自身の経験からいうのだが、水がもるのは必らずこの「絶対に」水が通ってはならないとして処理した箇所からなのだ。すなわち、「絶対に」水の入らないはずのところが「絶対に」雨もり事故の最たるものとなっているというのは疑いない事実なのだ。

 そうだとすると、この平らな屋根を成りたたせる前提たる「絶対に水を通さぬ」技術の「絶対に」とは、いったいどういうことなのであろうか。

 実は、この「絶対」をどう考えるかという点こそが、平らな屋根に代表される現代的やりかたと、瓦屋根のやりかたとの、それこそ絶対的にして本質的なちがいに他ならないのである。いやむしろ、いわゆる伝統的技術(このことばぐらいきらいなことばはない)と一般的に称せられる、人々の間で長い年月にわたる体験をふまえて培われてきた技術と、現代の科学によって裏づけられたとする「現代技術」との、根本的にして本質的なちがいが、まさにここに象徴的に現われているのだと見ることができるだろう。

  屋根について、「伝統的技術」も「現代技術」もともに、その下の屋内に雨水がもれないことを考えた(とここまで書いて、ふと、全然雨の降らない土地にたつ家々にとって、屋根とは何だ、という疑問がわいてきた。これは重要なことだと思う。すまいの本質にかかわりそうだ。屋根は雨のためのみにあるのではないということだ。しかしこの際、雨のはなしに限っておこう)。しかし、この「屋内に雨水がもれないこと」を実現させるのに、この二つの「技術」は全く別のやりかたをとっているのである。

 いわゆる「伝統技術」においては、雨を防ぐからといって直ちに雨水を拒否するというような短絡的な手段はとられていない。むしろ彼らは、雨水を「絶対に」拒否するなどということが、それこそ絶対にあり得ないということを、絶対に知っていたのではないかと思う。それは単に、彼らの技術のレベルにおいてあり得ないというのではなく、そのようなこと、つまり雨水を「絶対に」拒否することが存在し得ないという意味においてである。けれども彼らにとって、雨がもってはならないということは、絶対に必要である。そこで、「絶対に」雨水のもってこない方法が考えられたのだ。彼らは、ちゃんと、雨水のもるのを防ぎたく思うのは、屋内で雨水にぬれるのが困ることだからだということを知っていた。だから、彼らにとってぬれては困るところに雨水が「絶対に」顔を出さなければよいではないかとしたのである。どうしたか。雨水が屋根材を通して入ってきても止むを得ない。しかし、それをそのまま下へは落下させずに、無難なところへ「逃がして」しまえばよいとしたのである。それなら「絶対に」可能である。存在し得る方法である。なぜなら水は高きから低きへ流れ、土にしみこめばいずれは蒸発するという真理をわきまえてさえいればよいからだ。

  このことに気づいたのは、もうだいぶまえのはなしである。なんの本であったか忘れたが、古い茶室のひわだぶき屋根にあけられた天窓の断面詳細図が載っていた。具体的にどうしていたかは覚えていないが、とにかくその見事な「逃げっぷり」(あるいは「逃がしっぷり」)に感嘆したのだけは覚えている。たしか、三段か四段構えで、内側へ侵入してくる雨水を最終的にはまた外側へ「逃がして」しまう工夫が施されていたと思う。そこには、雨水を「止める」という発想はどこにもない。あるのはただ、流れようとする水を「流す」ことだけであり、従ってもちろん、「ためる」などということは、全く考えられてはいないのである。変な言いかたかも知れないが、そこにあるのは、水の本性に対するゆるぎない「信頼」とでも言い得ようか。

 いま私は、日本を例にして見てきたのであるが、とぼしい資料ではあるが、それで見る限り、西洋においても「伝統的技術」にあってなされてきたことは、もちろん「雨次第」ではあるが、いずれにしろ原理的には何らの差が見出せない、つまり同様である。

 これに対し、「現代技術」の雨を防ぐやりかたは、既に書いたように、雨水を「絶対に」拒否する、あるいは断つ、止める、という発想が先にくる。つまり、元でとめれば、当然屋内に入ってくるわけがない、というその意味では何ら異義をさしはさめないくらい「合理的」な考えだ。そして、(私に言わせれば、ドンキホーテ的に)その「合理的」方向で突走ったのである。そのこと自体、いま書いたように、論理的には全くその通りであるから、文句は極めて言いにくい。しかし、論理的に合理的であるということと、それが可能である、存在し得る、ということは全然別である。この防水の例でいうならば、なるほど確かに「元でとめれば、屋内には入らない」だろう。しかしこれが成りたち得るためには、「絶対に、元でとめる」ことができた場合に限られる。(そうでなければ、つまり一滴でも水がもれば、この論理は合理的に破滅する。)けれども、直ちに分ることだと思うが、このような「絶対に」は、それこそ絶対にあり得ない。「努力目標」としての「絶対に」:「絶対指向」はあり得ても、「絶対に」そのものは存在することがあり得ないのである。だから通常言われる「絶対に」は、確率的に言えば、絶対側に近いということにすぎないのである。

 

 すなわち、「現代技術」の追っている「絶対に」と、「伝統的技術」が追ってきたそれとは、全く意味がちがうのだ。「伝統的技術」においては、その目標が何であるかを十分に知った上、それが絶対的に可能な局面において、それを解決しようとする。雨水を「絶対にとめる」ということは絶対にできないという「真実」を見ぬき、その局面には立ち入ることを避けている。逃げている。これに対し、「現代技術」は、きこえよく言えば、この不可能の局面に果敢にも挑戦する。しかし、つまるところは、それは「絶対指向」あるいは「相対的絶対」「確率的絶対」でしかあり得ない。

 この「伝統的技術」の、不可能な局面から逃避し、可能な局面で勝負するやりかたは、その逃避という文字からくる消極的イメージとは逆に、極めて思慮深い、しかも積極的なやりかたなのではないかと、私は思う。しかしいま、現代科学技術への無思慮な信奉は、この不可能な局面での挑戦、「現代技術」の方を正攻法と考えてしまう。だからドンキホーテ的だというのである(彼には申しわけないが)。かといって、私は別に現代の「雨を絶対に拒否するぞ!」を目ざす技術開発を全面的に否定しようとしているのではない。その点は誤解してもらいたくない。前にも書いたが、私は、なる懐古趣味や、文化財保護論で言っているのではない。そうではない。そういう技術開発は確かによいことだ。しかし、いかにしようが、その目ざす「絶対に」はあくまでも「努力目標」にすぎないのであって、そういう「絶対に」に拠ることで、あるいは、そういう性格の「技術」であることを忘れ、それに拠って、絶対に雨がもらない、と考えてしまいがちになるのが、あぶないことだと言っているのである。その点を、わきまえていなければなるまい、と言いたいのである。

 それに第一、雨を防ごうという同一の目的に対して、雨をとめればよいと考えるのと、雨にぬれなければ(「生活」が雨にぬれなければ)よいとすることでは、どちらが当初の目的の理解として正解と言えるだろうか、としばし考えてみるならば、明らかに軍配は、「伝統的技術」の側、つまり「生活」がぬれなければよい、と考える側にあけざるを得ないと、私は思う。なぜなら、もともと雨を防ごうと考えたのは、人々が、雨の日にも雨にぬれないでも生活が営める場所を確保するためだったからである。技術の根に、なによりも「生活」があるということだ。これ以上の正攻法がどこにあろうか。

 

 この現代的やりかたの「絶対(指向)」も、それが雨水に対する対しかたならまだ救われる。「絶対」が絶対でなく雨もりがあったところで、それは確かに困ったことではあるが、もれたのはあくまでもただの水にすぎない。しかしそれが、いま世上をにぎわしている原子炉の放射能もれ、放射性物質のもれであったらどうであるか。

 残念ながら、この場合のもれに対しては、「伝統的」やりかたは通用しない。放射能の特性に従い、それを「逃がして」しまおうというわけにはゆかないからである。水は、ぬれるのはたしかにいやなことではあるが、ただそれだけでは無害である。しかしこれはそうはゆかない。あるのは唯一「止める」「拒否する」ことだけである。

 だがそのやりかたは、既に水について書いたように、「絶対指向」はあり得ても、「絶対」はあり得ない。ということは、放射能、放射能物質は、ある確率で「絶対に近く」防ぐことはできるが、「絶対に」防ぐことはできないということに他ならない(これは、技術がそこまで到達してなくてできないのではない。「絶対」ということ自体が、それこそ絶対に具体的には存在しないという意味だ)。だから、もれることが必らずある。そこで「許容量」という概念が登場するのである。しかし、これは一見正当なことのように見えはするが、裏をかえせば、「絶対に近い」絶対?を「絶対」であるかに装うために、いわば巧妙にしかけられた概念なのではなかろうか。絶対を指向しつつ、早々にそこから逃げだしているのに等しい。第一、「許容」量そのものも、ひとたびそれを決めてしまってからあとは、あたかもそれが「絶対」であるかの如くあつかって、「絶対に近い」絶対を「絶対」だと思いこんで追求するわけだが、よく考えてみれば、それ自体、相対的にして任意の数値でなかったか。早いはなし、この「許容量」なる概念をもちだすことは、既にして、「放射能、放射性物質のもれは、絶対に防ぐことはできない」ということの、なによりの証に他ならない。

 それにも拘らず、「原子力発電所は、絶対に安全だ」と説かれるのは、いったいどういうことだ。(最近、「原発を東京に!」という本のあることを知って、私は非常にうれしかった。そうなのだ、「絶対に安全」なのだから、電力需要の最も大きい東京に原発を置くことぐらい合理的なはなしはないではないか!)

 もしどうしても原発が必要であるとするならば、「原発は決して絶対に安全ではない」という、あたりまえの認識から出発すべきである。それを、単なる論理操作を巧みに行うことによって、あたかも絶対に安全だと思わせるというのが、現代の科学であり技術であるというならば、それはそれこそ絶対に「伝統的技術」に比べ、あるいは比べるに値しないほど数等質が悪いと思わざるを得ないのだ。

 またくりかえすが、彼らは、雨にぬれないことを欲した。けれども彼らは、それが「雨を止める」ことによって求められる、などという短絡的発想はしなかった。彼らは「雨にぬれない」とはどういうことか(彼らの生活にとってどういうことか)知っていたのである。その意味で、彼らはまともに自らの生活において勝負した。彼らは、逃げなかった

 

あとがき 〇夜更け、ほととぎすのなきごえをきいた。夜きくあのなきごえは、思わず人の歩みを止めさせる。私は、たちすくむ。    〇過日、ある人と冷たい雨のなかにいた。うんざりなんだと言ったあと、しばらく間をおいて、でもこの雨で生きてる人がいるんだよね、うん、とその人はつぶやき、独りうなづいた。    〇きびしいことばを含め、いろいろとたよりをいただきほんとにうれしい。勝手な押しつけを、読んでくださった上でのはなしだから、なおさらそう思う。

〇訂正 前号の誤りを訂正します。   1)8ページ7行目 裕然→悠然     2)6ページ末行   そこで見る浅間山が「小ぶり」だと書きましたが、その後再びその場を通ることがあり、その表現は適切でないことに気づきました。そこで見えるそれは、小ぶりでなく、それなりに雄大です。それに比べれば、関東平野のまん中で見るそれは、頂きだけしか見えず、小さい。言いたかったのは、だから、そこでの私にとっての「切実さ」とでもいうべき「感動」の質が「小ぶり」だったとでもいうような、うまく言えないのですが、そういうことだったのです。   だからなのでしょうか、再び見るまでの私は、そこで見た浅間山は実際に小さかったと思い込んでいたのです。大きいとか小さいとか、それは単に絶対的大きさをいうのか、もの同士の相対的大きさをいうのか、それともそこにいる私にとっての大きさをいうのか、よく気をつけないといけないとつくづく思いました。

〇それぞれなりのご活躍を祈ります。

                                       下山眞司

  


「筑波通信 №2」 1981年5月

2019-01-15 11:52:02 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №2」1981年5月 A4版16頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

    「筑波通信 №2」  1981年5月

      「道」楽考・・・・・・・・・それはそれ、昔は昔、いまはいま!?  

 ここしばらく、筑波には新鮮な季節が居すわっている。いろとりどりの花と若緑色の葉は地にあふれ、天にはひばのさえずり、風はおだやかに、そして夜にはその風にのり、かえるの声が遠くの潮騒のようにきこえてくる。素直な自然がうらやましい。

 今日は、できることなら関東平野の地図を拡げながら読んでもらえるとありがたい。

  私が筑波に移り住んで五年目になる。私にとって、ながく東京に住んで都会でない風景に慣れていない私にとって(というより、都会でない風景のなかで長く暮したことのない私にとってーほんとに戦争中の疎開のとき以来である)そのなかで暮すことは、まことに新鮮な体験の連続であった。

 このごろ私は、年に数えるほどしか東京に行かなくなった(刺激がないと退化する、大勢にのりおくれる、おいてきぼりをくう、と「忠告」してくれる人もいる)。その代りというか、この広大な関東平野を歩きまわる(正確には乗りまわる)ことが増えた。そして、そのたびに、東京で考えられていることは大部分誤りに近いのではないか、私が机上で考えていたことも未だなまぬるい、と何度思ったかわからない。           

 たとえば、風土、風土とよくいうけれど、栃木の方から茨城へ向けて南下してくると(地図でいえば、矢板・真岡・下館・下妻・土浦という道すじ)それにつれ、このわずか数十kmの間で、土の色が変ってしまう、そしてそれとともに家々も街々の明るさも微妙に変ってくる、というのは全く目のさめるほどの驚きであった。同じ白壁も、栃木では輝くように土地に映え、南に下るほど沈んでしまう、第一白壁が少くなる。土の色が黒くなるのだ。そして、その目だった変り目が真岡と下館の聞、つまり昔からの栃木と茨城の県境であるというのも非常に興味深いことだ。因みに、近くを流れる鬼怒川も、その辺を境にして上流には砂利の川原も見られるが、それから下流は常に泥土のなかをその色を帯びながら流れてゆく。土地土地にこんな微妙なちがいのあることを、東京にいて分るだろうか、分る気が、分ろうとする気があるだろうか。分るまい、分ろうともしまい。「地面」として(土地としてでなく)均質に見るだけにちがいない。いったい、そんなちがいに何の意味があるかと思うだけだろう。そして、明らかにこの土地土地の人たちはこの微妙なちがいに微妙に対してきたのに(対してきたはずなのに)そうであるにも拘らず、この土地土地にまで「東京」的考えが猛威をふるいだしている、というのはいったいどうしたことか。(不勉強ながら、私の知る限り、この地域の例のちがいについて触れていたのは地理学の本であったと思う。しかし、それはあくまでも関東平野の地質について、ただそれのみについて書かれていたはずだ。)

 こう思うのは、私の、「地方」に移り住んだ私の、ひいき目のせいか。それとも、地元の人にとっては空気のような存在が、私にとっては、はじめての味いの空気のように感じられるからだろうか。あるいは、こんな風に思うなどということは全く異常であって、いかなるちがいがあろうとも、我々の最新「技術」をもってすれば、いかなるところにも同じものがつくれるではないか、そんなちっぽけなちがいなど気にしていたら日が暮れる、と思うことの方が現代的な生きかたなのだろうか。もしそれが「大勢」だというならば、私はあえてそのような「現代」には、たとえ「異常」であろうとも同調したくない。私は「異常」を言いつづけるだろう。なぜなら私は、私の日常を逆なでされたくはないからだ。そして第一、かの東京にだって土地土地の微妙なちがいがあることは、その上に密集した家々などを一皮はいでみれば直ちに分ることだし、そのちがいに応じて生成してきたということも見えてくる。

 私が「異常」なほど「大勢」にさからおうと思うのは、私が「地方」にいれこんだり、昔はよかったと懐古趣昧にふけっているからではない。全くそうではない。そうではなくて、それはそれ、昔は昔、いまはいま、といってすましていられること自体が愚かだと思うからなのだ。

          

          「大日本地図帳 日本区分図Ⅱ」平凡社 (図版の挿入は、投稿者下山悦子によります。以下同じ)

 このごろ、ある設計に係っている関係から、ひんぱんに関東平野を横断して歩いている。私のいる筑波は、広大な関東平野の東端に位置している。東に10 kmも行くと筑波山から連なる丘陵台地にぶつかって、様相も変ってくる。そして西はといえば、これは広大にして壮大、はるかかなたまでかすかな起伏をくりかえしながら平原が拡がっている(だから、その夕日はまさに一見の価値があり、いかに心の冷たい人も、四季それぞれのその表情に、思わず歩をとめ、物思いたくなるだろう)。そして、よく晴れ空気が透明な冬の一日、少し小高いところからは、ほんとにまれなことであるが、はるかかなたに富士山が望見できる。同じような日、これは冬に限らず、ずっと近くに関東平野北辺の那須・日光・赤城へと連なる山々がながめられる。この山なみが一つの谷間(上越線が通っている)をはさみ榛名へと続き、そこから山々は直角に南へ折れ、関東平野西辺の山々:秩父へと連なってゆくのだが、ちょうどその折れまがるあたり、碓氷峠(信越線と国道18号:中山道が越える)のふもとへ、しょっちゅうでかけているのである。つまり、関東平野を東の端から西の端へと、まさに横断するわけである。

 この横断ルートはいろいろあるが、一つは水戸から前橋をつなぐ国道50号にのる手である。筑波から北上し、下館・結城の辺でのり、あと小山(東北線・国道4号:奥州街道と交又)佐野、足利、桐生、前橋と先ほど記した関東平野北辺の日光連山の前山や赤城山のふもとづたいに走ることになる。いうなれば、下毛野国から上毛野国へ(そして信濃国へ)という道すじだ。その一部は、完全に昔の東山道に他ならない。従って、周辺には古代遺跡が集中している。このルートは山々のきわを走っているから、先に記した山々もほとんどその全容は見えず、目にはいってくるのは、それより手前にある山々である。赤城山さえ、小さく見える。しかし、道は常にその片側に山なみをかかえ、同じような小山の連続とはいえ、それなりに場所ごとに特徴があるから、大体どの辺を走っているか、夜なかでも標識を見ずしても見当がつく。

 最近使っているルートはこれとはちがう。それは、先のルートより南へよった平野のまっただなかを走る道である。筑波から下妻を通り、古河へ出る。古河で東北線と国道4号:奥州街道と交又し、古河の西側街はずれで渡良瀬川をわたる。因みにここで奥州街道を南へ、つまり東京よりへ数㎞ゆくと利根川をわたる。つまり、この辺で関東平野を流れる大河川が、それまでどちらかといえば東南へ流れていたのが、台地にぶつかって向きを大きく南へ変えるのだ。

        

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 だから、同じように平原状ではあるが、筑波から古河までは台地の上だったのであり(従って畑作地帯であり、水田はその台地を刻むひだのような小河川、あるいは沼地の干拓地だけに見られる)、これから先、館林、太田、新田(にった)、伊勢崎、前橋あるいは高崎と、利根川と先の平野北辺の山々との間の河川の氾濫原を走るのだ。当然水田が圧倒的に多い。(書き忘れたが、50号沿いは畑地が多い。)

 しかしここで簡単に「当然」と書いたが、この辺から利根川南側の埼玉へかけての広大な水田地帯が、いま見るような「当然」の形を成したのはそんなに古くなく、江戸時代前期以後であり、館林、伊勢崎なども新しく、この辺が穀倉地帯になるとともに発展したはずである。新田も、館林などよりは古いけれども、字の如く50号沿いよりは新しい(しかし、「新田」であって、街としては大きくない)。もっとも、50号沿いの足利等の街自体は新しく、ここで言っているのは、50号沿いが早く開けた、だから古代道路:東山道もそこを通っている、それに対し、平野部が開けたのはそれよりおそいという相対的な意味である。               

 四月のはじめ、冬型気圧配置が一時もどってきた極めてよく晴れあがったある日、このルートを走ってみた。渡良瀬川を渡り、道はほぼ西北西に館林へと向う。ちょうど赤城山を目ざす格好になる。そのことははじめのうちそれほど気にしていなかったのだが、その後の体験は、それを気にしないわけにはゆかぬ、という気にさせたのである。

 館林市内に入って道は一旦北へ向う。それは、東京から北上して日光へ向う、奥州街道より一すじ西側の道に他ならない。そのとき私の目にとびこんできたのは、雪をかぶった実にみごとな山容の山塊である。一瞬後それが日光・男体山であることに気がつき、それと同時に、それこそ我が身を疑った。いったいどこへ向っているのかと思ったのである。先刻来、私は北だとか西北西だとか書いてきているが、しかしそれは、いまこの文意を書きながら、地図を見てもらう人たちへの説明のため、地図を拡げて確認しながら言っているのであって、そのときの私には、そのような絶対方位の感覚など全くなかったのである。そのとき私は、極めて大ざっぱに館林、伊勢崎、とだいたいその順に西へ向えばよいと思っていたのであり、そのときも単純に、伊勢崎方向を指し示す道路標識に従って右折したにすぎなかったのである。そして真正面がこれである。しかも、道の両側の家なみの間にくっきりと浮びあがっている。これは偶然ではない。明らかに「意識的」である。これは「あて山」なのだ。日光へ向う道は、まさにこの男体山を目あてに、平野部の湿地の中の微高地(周辺よりわずかに標高が高く比較的水の心配がない:人々はそこに住み、まわりの低地で水田を営む)づたいに走ってきたのだ。館林の遠望は、平野のなかに島のように見えるが、実際それは、湿地の中に浮いている他に比し相対的に大きな島なのだ。その大きさと、平野の中での位置に恵まれていたこと(江戸時代の主要通商路:河川に近い)がその発展を保証したにちがいない。(これに対し、新田(にった)のあたりは、古代末期の新田開発にはちょうどよくても、近世の発展には不向きであったのだ。古代以来村々には栄枯成衰があったのであり、その延長上にいまの町々がある。このことは、他の大きく発展した平野の中の町について共通に言えることだろう。そして明治の鉄道敷設が:通商路の変更が、又それを変えてしまう)。そして、館林の街は、男体山を真正面にすえることで成りたったのだ。おそらくこれは、まちがいない。

  こう分ってくると、館林までの道で見えた赤城山も、あれは「あて山」であったことに気づく。そうなると、それからあとの道のりが、がぜん楽しくなってくる。これから先、たぶん赤城山がより重要な意味をもってくるにちがいない。そして予想どおり、ときには真正面に、ときには右真横に見ながら進むのだ。実際標識は不要である、というより山そのものが「あて」すなわち標識そのものだ。(しかし、夜は全くあてにならない。あてが見えないから、どこを走っているか、まるっきり見当がつかない。これは50号との絶対的なちがいである。古代の道が山ぎわを通るのは、湿地帯が物理的に通りにくいということと同等に、あるいはそれ以上に、たとえ夜は歩かなかったにしても、遠くに見える「あて」よりも、近くにあるものの方をあてにしたかったからにちがいない。)

 このあたりから見る赤城山、これはすばらしい。50号で見るそれとは比較にならない。そしてその左に見える榛名も同様に大きいし、その両山の間に、一段奥に壁をなして輝く雪の山脈:上越国境の山々だろう:もまた見ごとである。

 こういった景色をながめていると、なるほどすぐの周りは平野だけれど、「ここ」つまりこの村々が成りたち得たのは、これらの山々:あてにできる山々があるからなのだ、そんな気が、実感としてわいてくる。具体的な証拠はないが、実際そうだったにちがいない。

 現代人にとってはもはや観光、観賞の対象:見る対象でしかないこういう山々は、ここに住みつく決意をした人々にとっては、そんなものではない、「たよりになる」あるいは「たよりにしなければ居られない」ものとして見えたにちがいない。東京にいて、最も「現代」的な東京にいて、このことの意味が分るだろうか、実感としてもてるだろうか。分りはしまい、もてもしまい。単に「景観」としてしか見ないだろう。にも拘らず、こういう人たちが、「地方」の都市計画や建物を平然とつくってしまう。(私は「景観」という言葉が大きらいです、と言った「地方」出身の卒業生を思いだす。)

         

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 さて、館林・太田をすぎて伊勢崎へ向う。右手には、相変らず赤城、榛名の雄大な姿が見え続ける。そしてである。正面にまた見ごとに雪をかぶった山だ。どう見たってそれは浅間山だ。あまりのことに驚く以外ない。しかしそれは、私の知っている浅間山ではない。全く初めて見る、あれはこんなに見ごとだったかと思わずにいられないほど、他を圧して輝いている。私の知っている浅間山は、信越線あるいは国道18号:中山道を走りながら見た「景色」としての浅間山と、八ヶ岳の東側を小海から小諸に向う道すじで見た、もう少し小ぶりのそれだ(そういえば、その道も正面にこの山をすえていた)。 

 これはもう全く偶然ではない。完全に「意識的」だ。「あて山」という言葉はまえから知っていた。「あて山」としての筑波山の存在については、日ごろの実感として分っていた(遠出をして筑波に帰るとき、筑波山が見えてくると、ああ帰りついたな、まちがいなく帰ってきたな、とほっとするのである)。だから、おそらく関東平野において、他の山々がそういう意味を担っているだろうとは、ある程度予測はしていたのである。しかし、これほどまでとは、ついぞ思ってもみなかったのだ。

 そして、高崎をすぎ、安中、松井田と、いよいよ碓氷峠へと上りはじめると、当然ながら浅間山は手前の山に埋没して、あの丸味をおびた山頂がちらっと見えるだけになる。しかし道は、川沿いに上り山々のくびれ:峠をめざせばよく、両側には山はだが上るにつれ迫ってくるから、もう先ほどのようなあて「山」はいらなくてすむ。

  以上ながながと、筑波から西への、関東平野横断での情景を記してきた。そして、なにもこれは関東平野だけでの話ではない。どこでもそうのはずだ。少くとも、旧道はこうだ。だれでも一度は、道路標識のみに従い、まわりに拡がる景色を単なる「景観」として見る、というようなしかたでないしかたで歩いてみてもらえないだろうか。そしてもし、何の知識もないまま平野のまっただなかに放りだされたとしたら、我々の目はいったい何をさがし求めるか空想してみるのも一興である。そうすることによって、初めてそういう所に移り住む気になった人々や、そういう所を通過しようとした人々の「心境」に、ある程度は迫り得るのではないかと思うからだ。またそれをしないと、村や町も、「できあがってしまった」ものとしてしか見えず、「どうしてそうなったか」に対しては、全くといってよいほど関心がなくなってしまうからだ。

 先に、「少くとも、旧道はそうだ」と書いた。実際、このルートにおいても、いたるところに新道、バイ・パスがつくられている。そこでは既に、先のような情景は全く生まれない。もはや目あては、道路標識以外なく、さしずめベルト・コンベアにのっているかの如く走るしかなく、目的に近づいているかどうかは、極端にいえば距離計の目盛りだけがたよりとなる。だから、標識と標識との間を走っているときは、まさに「無用な」途中にすぎず、外に見える風景も白々しく思えてくる。まして標識に初めて知るあるいは予想外の地名でもでていると、これはもう、どうしようもなく不安でいらだってくる。その点、あて山を正面にすえた旧道では、絶対にそういうことはなく、標識を見ても、もうここまで来たか、あそこに行くにはここで分れるのか、などと裕然と構えていられるのだ。つまり標識自体を、それほど重視しないですましている。安心して走っているわけだ。無用な途中とは、少しも思わない。

 しかし、その旧道でも、その特性をなくしてしまうような建てかたの建てものが増えてきている。ここに住んでいる人たちもまた、この特性が分らなくなってきているにちがいない。

 けれども、この人たちの「分らない」ことと、東京の人たちにとっての「分らない」ことでは、その意味がちがうだろう。東京の人たちには、このようなことがあること自体が分らないのであり、ここに住んでいる人たちは、そうあることは分っている、しかしそれはこの人たちにとってはさしずめ空気のような存在だから気がつかない、そういう意味の「分らない」なのだと思われる。そのようなとき、何でも東京風にするのが「近代的、現代的」と思い、思いこまされれば、その「分らない」もまた、ますます東京流の「分らない」に近づいてゆく。そこの特性も、どんどん風化してゆくことになる。

 これも時代のすう勢、栄枯成衰の一形態として、黙って見過していればよいのだろうか。私はそうは思わない、思いたくない。

 いったい「地方」の時代などというけれども、何をもって「地方」というのだろうか。

  おそらくここまでの文章を読むと、なにか私が失なわれてゆくものへの愛惜の念にかられて、つまりある種の懐古趣味で言っているようにきこえるかもしれない。そうではない。この「そうではない」と言いたい、というのが今回の本題なのである。

 私は7ページで、村や町を「できあがった」ものとしてのみ見て「どうしてそうなったか」に関心がなくなる旨のことを書いた。しかし、「どうしてそうなったか」について関心が全く示されていないわけではない。各地方の郷土史研究者、愛好者を含めた歴史研究者、考古学研究者、地理学研究者、あるいは建築史学研究者等により、各地方の成りたちについて、立派な「郷土史」が著されている。それこそ各地で競ってその編さんが行なわれているといって過言でない。そしてまた、各地での新しい開発にともない(皮肉にも)いままで知られていなかった古代~中世遺跡が続々と発見され、新しい資料として加わってゆく。そしてまたそういった史・資料をもとに、横断的に(古代の)集落の成りたち・構成やその変遷等について、あるいは(古代の)道のつくられかたについて(あて山の存在の考証なども含め)など、ある時代の状況がいろいろと論究されている。私もまた、私なりの視点でこれらに対し関心がある。しかし、その関心の内容が、ちがうようだ。

 私が「どうしてそうなったか」と問うとき、なるほどこの問の形式は一見「客観的」なよそおいであるが、私の真意はむしろ、そこに係わりをもった人たちが「どうしてそうしたか」と問うている。

 これに対し、これらの論究のほとんどは、先ず「事実」の編年に終始し、その「事実」の流れの「変遷」に対し「客観的分析」が加えられるという方法(たとえば、ときの政治、経済、社会、技術‥‥状況による、いわゆる要因分析を行う)がとられ、そういう意味での「どうしてそうなったか」なのだといってよいだろう。

 しかし、ここでいう「事実」とは、明らかにいわゆる自然現象としての自然界に見られるそれとはちがう。人々との関係なく存在し得る類のものではない。人々が何かをした、その結果としての「事実」以外のなにものでもない。どうしてそういう「事実」として結果するようになったか、つまり、人々が「どうしてそうしたか」は、そのこと自体は絶対に「事実」としては残らないから、触れられないし、触れようとしないというのが実際である。それが「学的」態度というもので、それに触れるのは、歴史「小説」の世界であるかのようだ。(「常陸風土記」をはじめとする往古の「風土記」には、「どうしてそうなったか」に対して、「どうしてそうしたか」という語りくちで書かれている。その内容の、現代的意味での「事実」としての当否は別として、彼らは極めて「健全」であると思わざるを得ないのだが、それも私の視点がちがうからであろうか。)

 いわゆる「文化財」という概念は、この「学的」態度の延長上にあるのではないだろうか。ある時代の遺物・遺跡を、その時代を代表する「文化」財としてあつかう。そのこと、自体には、私も別段異論はない。しかし、何のために、そうあつかうのか。「学術的価値」の高い資料だからか、その昔こういう時代があった、ということを示すものを残しておきたいからか、あるいは「美的」価値の高いいわゆる「芸術」品だからか、あるいはまた、単に「古い」からか。もしそうであるならば、あえて言わしてもらうが、それは「趣味」。「趣好」以外のなにものでもない。学問自体も、それでは一趣味だ。もしそうだとすると、風土記の作者よりも、「健全」ではないのではなかろうか。彼らには、「いま」がある。「いま」のために「過去」をみている。しかし、「文化財」の発想には、「いま」がない、たぶんないはずだ。人類の「文化」遺産として、えらいことをしたもんだと、ただ感嘆するだけだ。

 しかし、私たちが私たちの「歴史」を知ろうとするのは、いったい何のためなのだろう。それぞれの時代の「事実」を知るということだけなのか。「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という事実を知るためなのか。むしろ、そもそも私たちが私たちの歴史を知ろうとするのは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」としてあつかわない、というより、あつかえない、からこそではなかったか。それはそれとして、どうしても独立の事象としてあつかいかねる、そこには連関がある、それを知ろうとしたのではなかったか。しかし現実はいまや全てにわたり「それはそれ、昔は昔、いまはいま」になってきている。

  この「それはそれ、昔は昔、いまはいま」ということばが頭にうかんだのは、都市計画や建築設計に係わっている人たちとのある会合の席上である。この人たちは、先ほどの表現でいえば、「できあがってしまった」町、そしてそれよりも、これから先「つくりあげる」ことに関心がある人々だといってよかろう。その席で私が「近ごろ学生のなかに、たたみの敷きかた:ならべかたや、障子やふすまなど引きちがい戸で向って左側が奥におさまる、ということを知らな人が増えてきた」という話をもちだしたところ、即座に「そんなこと、どうだっていいんじゃないか、目的がはたせればいいんだ」という反応がかえってきたのである。私には、すぐさま返すうまい言葉が見つからなかった。そして、口には出さず、「それはそれ、昔は昔、いまはいま、か」と思ったのである。この「単純機能主義者」:残念ながらこれも大学教師で都市デザインについての「権威者」で通っている:は明らかに誤っている。しかし、その誤りを指摘しようとしたら、それはもののみかたの根本にさかのぼるから、一昼夜でも済まないであろう。私は、その場での反論はやめにした。そして、これは大変だ、思っていた以上に大変なことになっている、とあらためて感じ、どうしようにもない白けた気分になったのを記憶している。彼は、なぜ学生たちがそういうことを知らなくなったかについて、少しも分っていないし、分ろうとしてもいない。知らないからといって、大したことでない、知らないなら知らないで、それはそれでいいではないかというのである。

 しかし、そういって済ますまえに、彼らが知らないのは、彼らの体験のなかにそれを知る機会がなかったからだ、そしてそれは彼らの住む家が「公団住宅」に代表されるタイプの家だからだ(因みに、「地方」の人にはそれが少い)、そして彼らが何かをつくりだすときの一つの拠りどころは、その彼ら自身の家での体験にある、という厳然たる事実に気がつかなければいけない。第一、「目的」さえはたせればよい、ということでさえ、当の本人が常識的なたたみの敷きかたや引きちがい戸のおさめかたを既に知っていて、そこから「目的」なることを抽象したのだということを忘れている。それともこの大学教師は、目的も機能も、全て自らの体験とは全く関係なく自分の頭の中で「純粋観念」としてでも生まれたとでも思っているのだろうか。おそらくそうなのにちがいない。というより、「忘れている」ことを忘れ、そう思っているのだ。彼ならびに同類の建築に係わりをもつ人々にとって、都市の機能も都市の構造もそして建築の機能も全て、私たちの体験、彼ら自身の体験とは全然別物としてあるにちがいない。いや、彼らには彼ら自身の体験のまえに、建築や都市の観念があるとでもいう方がより適切かも知れない。そう理解することによって初めて、彼らのデザインした都市や建物が、なぜああもそこに住む私たちの日常をさかなぜするものになるのか、よく分る。(しかし、こんなことが分ったってはじまらない。)

 この人たちは、ある町が「どうしてそうなったか」については、関心がない、上記のとおり、それはそれ、昔は昔、だと思っているからだ(もちろん、家々がどうしてそういうかたちになっているかについても関心がない、それは建築史学の関心事であって、彼には関係がないことなのだ)。そして、いまはいま、とばかりハッスルする。しかし、彼らにとって、「いま」とはなにか。私に言わせれば、彼らに「いま」などありはしない。いつだってよいのである。時間を超越しているとあさはかにも思い、それが「真理」だと(勝手にひとりよがって、しかし決してそれがひとりよがりだとも思わずに)思っているのである。彼らは、彼らの「いま」が、彼らだけ、純粋に彼自身によってのみによって、できていると思っているのだ。

 これは私にとって、想像を絶する恐ろしいことだ。なぜなら、それは人間を、人間のやってきたこと、していること:人間の営為をあまりにもばかにしているからだ。

 残念ながらいま、こういう人たちの考えかた、それはすなわちこれまで何度も書いてきた現代的、東京流の考えかたに他ならないが、が主導的になって、いろいろな町や都市やそして建物の計画が行なわれているのである。それがどういうものであるかは、既にこれまで書いてきたことで、ある程度分ってもらえているのではないかと信じたい。要は、「そこ」にいる私たちとは何の関係もないものが、白々しく存在するさまになるのである。おそらく未だかつて、このように恐ろしいかたちでものがつくられたことはなかったにちがいない。いや、なかったと断言していい。

 私は、私たちの生活を、私たちの日常を、私たちの卒直な素直なものに対する感じかた、見かたを先ず尊重したい、信じたいと思う。自信をもちたいと思う。

 いったい人々はいつから、私たちの体験、私たち自身に基づくものよりも、「客観的」データに基づくものの方を信じるようになってしまったのか。

 私たちは、私たちの体験:すなわち「私たち」の存在を忘れ、あるいは見失い、あるいは切り捨て、あるいは知らず、ただいたずらに「抽象的」に「人間的な」町づくり、「調和ある」開発、「豊かな」農村、「地方の」時代などなどの、おためごかしの言辞をもてあそぶ人たちに、たとえ彼らが「専門家」と自称しようが、立ちむかわなければならない。「専門」の何たるかを問い詰めなければならない。

 私たちは、私たちに係わるものごとを、「それはそれ。昔は昔、いまはいま」というかたちで処理することに慣れてしまった、あるいは慣れつつ、あるいは慣らされつつある。慣れてしまうと、人間はずっと昔からそうだったと思って不思議でなくなるから、ますます「それはそれ、‥‥」となってゆく。しかし、こうなったのは、極く近々なのだ。その根は、明治の「近代化」までさかのぼるかもしれないが、ここまで徹底しだしたのは、ここ二・三十年ではないかと思う。敗戦による「価値観」の単純な転換は、過去の「文化」の単純全否定までひきおこした(その同じ論理の上で、正反対の表れかたとしての「復古」願望が出現する)。そしてまた、戦後の、信仰に近いほどの「自然科学」あるいはその「方法」への傾倒は、それに輪をかけたと、私は思っている。この辺のことについては、改めて別に書く。

 私たちは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として、ものごとを「処理する」ことが確かにできる。そして、その方がやり易い。けれども、私たちの日常は、決してそうではない。私たちは、「それはそれ、‥‥」では生きてゆけないし、第一そのようには決して生きていない。前後の連関のない時間など私たちにとっては存在し得ないように、生きている私たちにとって、「それはそれ‥‥」などということは、論理的に言ってもあり得ない。もしも、「それはそれ、‥‥」として「処理する」ように生きているのだと思っている人がいるとすれば(現実にいるわけだが)、それは彼らが全く「うそ」をついているか、自分自身を全く「見て」いないからにちがいない。

 私たちが、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として「生きていない」と気がついたとき、そのとき、あのいわゆる「文化財」も初めて私たちの「いま」に係わってきて、ほんとの意味で「文化財」としてとらえられるのだ(もっともそのとき「文化財」と呼ぶかどうかはしらない)。

 最近、地名に関するシンポジウムが開かれたという。もっと地名を大事にし、それを破壊から守ろうというのであるらしい。その趣旨自体には、私も賛成する。しかし、参加者のなかに幾人かの建築や都市の設計・計画に係わりをもつ人(私には、破壊を卒先してやってきた人たちに見える)の名前を発見して驚いた。「いまさら地名が大事だって?地名に関心があることは、ないよりはよい。しかし、あなたがたがやってきたこと、やっていることこそ、地名を大事にしないことそのものではないのか?それに対して何らかの自己批判があったのか?それはそれとして、わきに置いといて、こんどは地名に口をだすのか?」私はこう尋ねたい。しかし彼らは、なぜ自己批判を求められるのか、そのことさえも分らないだろう。

 よくは分らないが、彼らがそれに参画するのは、地名は過去の時代の「文化」を示している、そして「いま」彼らこそが「いま」の「文化」創造に係わっている、同じ「文化」に係わる「文化人」としてそれに係わるのだ、多分こんなところだろう。要は、「いま」都市や地方の「文化」をつくるのは彼らなのだという「おごり」に近い「自負」があるにちがいない。それに、いまは「地方の時代」というのが流行だし‥‥。

 いまや「地名」まで「文化財」に成り下ってしまった(成り上ったと言うべきか)。そのシンポジウムのテーマ:「文学と地名」「歴史と地名」「地域文化と地名」「都市問題と地名」‥これらは分科会のテーマである:を見る限り(何が話されたかは具体的に知らないから誤解があるかもしれないが)、もしも、ある文学はある土地に根ざして生まれ、それゆえ文学に由緒ある地名がある、あるいはある時代の歴史が地名としてのこり、それゆえ歴史的に由緒ある地名がある、あるいはまた同様に地域文化に由緒ある地名がある、‥‥だからその由緒ある地名を破壊されないように守ろう、大事にしよう、というのであったならば、それだけがその論理、根拠であるとしたならば、残念ながら、それでは決してその破壊を防ぐ手だてにはなり得ない。なぜならば、これでは単なる懐古趣味にすぎず、地名もまた単なる「文化財」にすぎなくなってしまう。この見かたでは、これもまた「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として「処理する」しかたの、別のかたちをとった表れかたにすぎないからだ。つまり、これでは、地名を破壊する側と全く同じ論理構造なのだ。同じ論理構造ならば、資本の論理で裏打ちされた側:開発し破壊する側が「勝つ」のは自明ではないか。

 だから無意味だなどと言っているのではない。地名に関心をもつことは、もたないことより、そのことに気がつかないより数等よいことだと思う。しかし、単なる愛惜の情や趣味や教養のためならばともかく、真にこのことを考えるならば、考えようとするならば、私たちは、同じ穴のむじなであってはならないだろう。私たちは、 「勝つ」論理をもたなければならないのだ。

  私はここで、私たちの居住環境:居住空間が、そのつくりかた、つくられかたが、私たちの日常の「感覚」を逆なでするものになってきた、なじまない、なじめないものとなってきていることを、半ば嘆きつつ述べてきた。しかし、分った風に嘆いたからといって、どうにもなりはしないのだ。なんとかしなければならない、私たちが、私たちに忠実に、「うそ」つかずに生きてゆけるために、私たちなんとかしなければならない。人に頼んでいたのでは、私たちの「文化」を人に「依頼」していたのではだめだ。私たちは、私たちで「勝つ」論理を見つけ、共有する必要がある。

  私たちは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という処しかたを、この安易なやりかたを、捨てた方がよい。

        

 そして、およそ人間の係わった、あるいは係わるものごとに対し「どうしてそうなったか」と「客観的」な言いかたで問うまえに、「(人々は)どうしてそうしたか」と問うべきだ。それはすなわち「私たちはどうなるか」ではなく、「私たち(なら)どうするか」という、私たちの問題に連なってくるはずだからである。

 そして全く同様に、およそ人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる「学問」そして「学者」に対し、「専門」ならびにその「専門家」に対して、同じ問いかけをしなければなるまい。この種の学問や専門が「それはそれ‥‥」的内容である限り、それは、私たちにとっても「それはそれ」でしかなく、そういうような「学問」や「専門」が、その「学識経験」に名をかりて私たちの上におおいかぶさることを、私たちは自信をもって拒否しよう。人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる学問や専門が、私たちの「いま」と係わらないということは、その学問、専門にとって致命的な欠陥なのだ。学問の名に値しない、単なる趣味だ。どうして私たちは、彼らの言いなりになる必要があろう!

 

あとがき

・こういうもののみかたというのは、既成の「わくぐみ」があまりにも強固で、そしてまた「教育」されているので、なかなか分ってもらえません。  それで、このごろ、こういう言いかたをすることにしています。  あなたがたが冬の夜空をながめたとしよう。     冬の夜空は全くきれいだ。  しかし、あなたはそのとき、星を見ているか?  「教養」がありすぎて、あなたが見ているのは、星ではなくて、星座(の名前)ではないか?   先ず私と夜空の星が存在し、そして星座(の名前)が、私(たち人間)によって生まれたのではなかったか、と。   どうしてそれを逆に考えてしまって平気なのか、と。

・タイプに向い、ぶっつけで思ったことを、それこそたたきつけております(もっとも電動ですから印圧にでませんが)。   そんなわけで、だらだらとまとまりなくなりました。

・電話や葉書や手紙で、いろいろ便りをいただきました。うれしく思っています。   なかにはいつものような「乱筆」の手書きがいいのに(卒業生の言ですが)などというのがきこえてきましたが、それはご容赦ください。   封筒の宛名ぐらい手書きにしようかとも思いましたが、これも「事務的」に割りきりますので、これもご容赦願います。その代り(!?)署名だけ手書きにします。

それぞれなりのご活躍を祈ります。      

                                 下山 眞司 


「筑波通信 №1」 1981年4月

2019-01-08 09:07:05 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №1」1981年4月 A4版5頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

   「筑波通信 №1」  1981年4月

       「落」語考  

 ことし卒業していった学生の一人から、卒業論文にからんで、よく「自然発生的な集落」などと言うけれども、「集落って何ですか」 「自然発生的というのはどういうことですか」という半ば挑発的にして容易ならざる質問をもらってうろたえたのは、あれはまだ寒い二月のころではなかったか。いまは四月、筑波の野にも陽炎がたち、花のにおいが空気にひそみ、そしてその彼女ももういない。

 そのときのうけこたえの内容はさておき、この「集落」の「落」の字が、やたらと気になってきた。集落、村落、部落、この「落」の字はいったい何か。

 漢和辞典で調べると、「落」の字には、「おちる」「おとす」「死ぬ」‥という「落」の字に対する日常的な感覚からいってまあ分る意味につづいて、「はじめ」「完成」という意味があるのにいささか驚く(とはいえ、我々は「落成」「落慶法要」といったことばを、「落」の字をとりたてて気にもせず、それなりの「成語」として平気で使っている)。そしてその次に、「むら」「むらざと」の意という説明がでてくる。つまり、「落」の字一つで既に集落の意味がこめられていることになる。それにしても、日常的感覚での「落」の意味、そして我々の日常的な「しゅうらく」「そんらく」ということばに対するイメージからは、ちょっと思いおよばない。

 「集落」を辞書的に説明すれば、「いくつかの住居が集まって生活が展開している場所をいう。……集落は村落と都市に大別される。」(平凡社:大百科事典による)。 しかし、この説明ではあまりにもstaticすぎる。なにかしらないが、人が(住居が)まったく偶然に天から降ってわいたかのおもむきがある。それでは、この語に対する外国語はどうか。英・独語では、それはそれぞれsettlement、siedlungになり、それは辞書によればいずれもその本義は、「ある土地への定住」を意味している。つまり、いわば「ただよって」いた人々が定住すること、定住したところなのであって、そこには「天から降ってわいた」という感じがない。人々の「意志」がある。因みにsettlementの語幹settleの項を見ていたら、「据える」「移住する」「落ちつかせる」「決定する」「片づける」という意味があり、私のひいたその辞書のこの語の解説の末尾に、日本語の「すむ」(=住む、済む、澄む)に同様、という説明があって驚いた。

 同様にsiedlungの動詞siedelnは、sitzen,setzen, と同源であるとされ、(動いているものが) 「すわる」あるいは「すわらせる」つまり「おちつかせる」という意味がある。こうみてくると、先に「集落」の説明をstaticに感じたのは、それは、その説明がいけないのであって、「集落」という語そのものには、もともとこれらの外国語同様の意味のあることに気づくのである。つまり、「落」の字の日常的意味、おちる、おとす、おちつく、といった意味が、きわめて重要な意味を担っているのにちがいない。もともとdynamicな意味をもつ事象であるにもかかわらず、説明がstaticにしてしまっているのだ。

 このように、我々がなにげなく使っていることばを次から次へと順にたどってゆくことは、そういうことばをもった我々人間の心が見えてきて、ふと我にかえる場面が多い、いってみれば収穫の多い作業なのだが、ここでは、単にことばのもつ隠れた意味に驚く以上に、もっと「まじめ」に(つまり単なる「教養」あるいは「ものしり」的興味としてでなく)驚き考えねばならないことがあるように思う。

 つまりいま、我々は「すむ」とか「すまう」とか「すまい」「住居」ということの(あるいは、ことばの)本来の重い意味を、あまり重く考えていない、あるいは考えないでまるで当然のように済ましてしまうようになってしまってはいないだろうか。

 いま我々は、とくに都会風に住むのになれた我々は、ある場所に住むということを、まことに他愛なく考えてしまう。それどころかそういう都会風な考えかたが、それこそが「中央文化」の模範であるかの如く、「地方」へも流れてゆく。その他愛なさとは、人はどこにでも住める、ある広さの「地面」さえあれば住める、と気楽に考えてしまう他愛なさである。先に見た集落、siedlung、settlementということばの本来の意味は、あきらかにこの他愛なさに抵抗を示すはずである。

  いま我々は、再びこの重い意味を考えなければならないときにきているのではないかと私は思う。なるほど確かにいま、都会には各地から(中央をめざして)人々が集まり定住するようになるという点は、「現象的」には集落の語義のとおりにみえる。しかしそのときその「定住」は、そもそも先に示した集落、settlement、siedlungなる語の意味では既にない。人々は、「ある場所」にたどりつき、落ちついたのではない、いわば金のなる木にたどりつく、いや、ことばが悪ければ「文化」にたどりつくのだ。「都会の文化」「都会の文化的生活」に。だから「文化」さえあればよいとしてしまう。「すまい」でいえば、「近代的、合理的、機能的」な「すまい」であればよいと思うのだ。いや、それでよいと思うように仕向ける人たちと、それに安易に従ってしまう人たちがいるのだ。 「すまい」の地面、「職場」の地面、「公園」の地面、「レジャー」の地面、‥そういった近代的・合理的・機能的に用意された地面があれば、我々の生活が total に遂行し得ると、あまりにも安易に考えすぎてはいないだろうか。こう考える限りにおいては、ある「土地」の必要はさらさらなく、「地面」がありさえすればたしかにそれですむ。

 しかし、たちどまって考えてみればすぐわかることだが、この考えかたの根には、明らかに、人間(の生活)を理解するには、それをいくつかの要素に分離・分解すればよいという、とんでもない考えがひそんでいる。我々の生活というのは、そんなに他愛ないものなのか。

 そして、いまのほとんどの建築や都市についての考えかたは、こういう「都会風」な考えかたがもとになっている。もはや「土地」ではなく、いかにその「地面(のひろがり)」を「有効に(そこからあがる収益がいかに高く、有効に)」使えるかという視点で律しようとする。よく考えてみると、いわゆる環境破壊というのは、この、ある土地に人がすむということの重い意味を見失なったことに発していると断言して、これは決してまちがいでない。だから、土地を地面としてしかみない人たちが、その一方で自然保護、環境保全‥をとなえたりするのは(つまり視点をかえないのでは)、まったく悲劇的な漫画なのだ。

 しかし、たとえはじめは「地面」にすみついたとしても、あるいは「地面」にすみついているのだという「習慣」にならされていても、人はふと、人が住むというのは「地面」に住むのでない、「土地」に住むのだと気のつくことがある。ことしの二月、世間を一定程度にぎわした中野の教育委員準公選制実現への原動力となった中野・江原の人たちの、あの息のながい運動というのも、この人たちが、このことに気がつき、そしてつい忘れそうになるのを忘れられなかったということにその一因があるのではないかと、私はこのごろ、しきりにそう思う。(この中野・江原の人たちのこと;、やってきたことについては、別の号で紹介をかね私の見方を語らせてもらおうと思う。たぶん、語ることをゆるしてもらえると思うから。)「地面」志向が「特色」の都会にも、「土地」に気づく人たちがいる一方で、いまや、本来それこそ地面でなく「土地」とむかいあわなければならなかったはずの農村にまで「地面」志向の考えかたが浸透しはじめているし、またそれを積極的に推進する人たち:専門家!がいる。それがまた同時に「地方の時代」や「伝統的環境の保護」を説いたりするから、はなしがややこしくなるのである。(因みに、研究社の英和辞典でlocalという単語をひいてみてください。そこに重要な注釈がかいてあります。

 私はよく学生諸君に、文化財なるものを保存・保護する(すればいい)というのはおかしい。古来人々はいさぎよくこわし、建てかえてきたではないか、どんどん建てかえよう!だいたい文化財などといいだしたのは、それをこわしてしまったあと、それ以上のものをつくれそうにないと(なさけなくも)思うようになってしまったからなんだ、とはなすのだが、そうすると、学生諸君は、まさかという顔をしてきいている。悪い冗談かもしれないが、しかし、半分以上本気である。要は、人々のやってきたことの重い意味を分る気もないままに、「伝統的環境の保護」だとか「地方の時代」とか、はたまた「人間的な都市」「豊かな農村」「調和ある開発」等々という、その場かぎりのおためごかしは、おことわりしたいのだ。

 ことばというのは、なんの気なしに慣れてしまうと恐ろしい。それを使う人の考えかたまで、ことによると左右しかねないからだ。最近ある人に教えてもらった田ケ谷雅夫氏の山梨新報にかかれたエッセイに、台湾では、国際「障害者」年のことを国際「残障者」年ということが紹介されていたが(その他、盲学校といわず啓明学校という、などいくつか紹介されている)、私はそこに重い意味の差、つまり、我々の「障害者」に対する対しかたまで左右しかねない重い意味の差を、どうしても見てしまう。 

 はたして、私たちの使い慣れていることばは、その重い意味を担っているか?                                                                                                                                                              1981・4・6

 

あとがき

こんな調子でかき続けたいと思っています。  いろんな人たちに会ってきたけれど、そしてその人たちと話をしたいのだけれど、  いかんせん、みんな遠すぎます。  そこで、こういう具合に一方的に話しかける方法を、  ある人の、ふとした一言をきっかけに思いついたわけです。  田ケ谷さんのエッセイのように、ともすれば埋もれてしまうようないいはなしがあったら、教えて下さい。  そして、こんな文でも読んでくれそうな人がいたら、教えて下さい。  五月にまたかきます。  それぞれなりのご活躍をいのります。                                                                         

                                                          下山 眞司


「筑波通信」等の掲載について

2019-01-08 09:06:21 | ご挨拶

年が改まり、今月から故人が書いたものを掲載してまいります。

毎週一度の掲載を予定しています。

〇「筑波通信」1981年4月~1986年3月 毎月1号発行 全60号

〇「筑波通信復刻」1988年1月~1989年3月 全15号

〇「筑波短信」1993年1月~1996年8月 全17号

当時送付された「筑波通信」のPDFを、ソフトで読み込んで書き込みます。 併せてその「PDF」にリンクをかけます。

このPDFは、昨年11月の故人を偲ぶ会で、「筑波通信」の取りまとめ・整理をしてくださった卒業生のお一人が、ご希望の方に1号ずつ定期的に送ってくださるPDFで、数カ月遅れでこのブログに掲載させてもらうことになります。

上記の掲載期間は、毎週1通としておよそ1年10ヵ月になります。一人でこの作業を行うと、途中で心が折れそうになる時があると思いますが、共に歩んでくれる仲間がいてくれます。支えてもらいながら、力を貸してもらいながら進めて行きたいと思います。

 

また、上記同様に故人の意志によって書かれたものには、「筑波大学芸術学年報」に掲載されたものがあります。これは毎年度発行されたもので、故人は「論考」や「設計報告」を寄稿しておりました。この中からも適宜掲載を考えております。

 

故人を良く知る方から、「(故人の)書いたものを読んでいると、下山さんがまだ書き続けているように思えてしまいます。」とのメールを頂きました。私も時折そんな気がする時があります。

これからもよろしくお願い致します。

                                           下山 悦子