SURROUNDINGSについて・・・・7:コルビュジェにとっては 何であったのか-2

2012-01-27 17:58:35 | surroundingsについて
[文言変更 28日9.40][註記追加 29日 17.56][追加 30日 10.47]

[「この国を・・・13」に新しいリンク先を追加しました-「3.11後のサイエンス:餅屋はどこにいる」 28日18.25]
「この国と原発」の続編を「この国を・・・13」に追加しました。[30日18.50]

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

その昔、私の目にとまったコルビュジェの設計例を、もうしばらく、見てみたいと思います。
はじめは、1930年設計の、南米チリの太平洋を望む崖状の土地に建つ別荘。
これは、コルビュジェ設計集の2巻目、“ Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1929~1934 ”から転載。
これとそっくりの山荘を、A・レーモンドが、軽井沢につくり物議を醸しました(茅葺屋根でつくった!)。

この事例については、写真は内部の写真僅か1点しかありません。あとはスケッチ風透視図。
最初は、配置図と各面の立面。

これから察するに、海へ向うかなり急峻な斜面、と言うより崖、の中腹に建っているようです。
   チリは、南アメリカ大陸の太平洋岸を南極にまで至る山脈に沿った細長い国。
したがって、建物へは九十九折(つづらおり)に崖を降りてゆく。

今回の図にも縮尺がないので、平面図の記入寸法から想定してください。
断面図の「逆ヘの字」の左側の高さがおよそ5m。
次の図の平面図の左側の矩形の短辺が800、800cm:8m。長辺は2000:20m。  

次は、平面図と建物の中の主なる空間の内観スケッチと、部分の写真。
図だけですと、どこから建物内に入るのか分りにくいので、図を補いました。
平面図の赤い矢印がこの建物の主入口。立面図にも、主入口の扉を赤く塗りました(いずれも、原本にはありません)。




この立地状態からすれば、海側の写真がないのは分ります。普通の視点では、見上げの写真しか撮れない。
しかし、崖の上から、眼下に広がる海とそのに建つ建物の写真は撮れるはずです。ところが、そういう視角のスケッチも写真もない。

私の想像では、多分、コルビュジェには、設計のときに、そういう視角、つまり、崖の上から降りてゆくときに見える「姿・景色・見えかた」は、頭にはなかったのではないでしょうか。

もし、崖の上から九十九折の坂道を降りてゆくときの「見えかた」を「気にしていた」のならば、「逆ヘの字型:V型」の屋根は思いつかないのではないか、と思うからです。
なぜなら、この雄大な景色の中では、いかなる人工物も「小さく」、その「存在」はまわりの景色の中に「吸収されて」しまうはずで、その「吸収」に素直に従わざるを得ないのが普通です。どんなにじたばたしたところで、大地の雄大さにはかなわないからです。

ところが、この「逆ヘの字型:V型」の「物体」は、その形ゆえに、「目立ち」ます。
しかしそれは、いかに目立っても、所詮、象の背中に止まった虫にすぎない。
言い換えれば、その雄大な景色の中では、「浮いて」見えるはずです。写真を撮ると、多分それが明らかになるのではないでしょうか。
   これは、日本の別荘地帯を歩いていてもよくある「風景」です。
   そしてもちろん、新興の住宅地でもよく見かける「風景」。
   建物そのものが気張ってその形を「主張」しても、まわりの景色に馴染まない。
   だから、そういう建物の紹介写真では、大抵、まわりを写さない。

そしてまた、坂道を降りてゆくときの「見えかた」を「気にしていた」のならば、建物への近づきかたにも「工夫」があってもよいのではないか、と私には思えます。
ライトの落水荘や、アアルトのカレー邸は、その「近づきかた」に入念な気遣いが見られることを紹介しました。
けれども、この建物への「近づきかた」は、かなり「無愛想」です。
崖の上から坂道を下り、V字型に坂道を左に折れ、建物の主入口の前に着く。

このような九十九折に道を設けるときは、「どのような九十九がよいか」考えるものだと思います。
つまり、建物の方に向って下り始め、折り返すには、その気分を維持するように努めるものだ、と私は思います。
そうしないと、何のために降りてゆくのか、意味が分らなくなる、逆に言えば、降りてゆく過程が面倒なものに感じられてしまうはずだからです。屈折点の設定が重要になるのです。

しかし、この図(スケッチの配置図)では、下り始めは、まったく建物のある地点とは逆の方向に向っています。言うならば、だんだん建物とは逆の方向に離れてゆく。見えているのは広大な海原。
そしてやおら折り返し、そこで初めて建物が視野に入ってくる。
そして、多分、屈折点のあたりからは、「逆ヘの字」の長い方の「屋根面」が印象強く見えてきます。
しかし、その「見えかた」は、坂を下ってゆく人の目には目立つけれども、そのように「目立つ」意味合いが分らないのではないでしょうか。人の視線は屋根面に沿って上方に向い、主入口前にはゆかないからです。
それゆえ、この九十九折は、意図ある九十九折ではなく、「やむを得ず、単に高度を下げるための九十九折」であるように、私には思えるのです。

人が自分の感覚に拠って開く登山道でも、登る目的・方向にはずれる九十九折はできません。人は、「ある目標を持って」登るからです。
もしも、人の感覚と関係なくできている登山道があるとすれば、それは、人の感覚に拠ってではなく、地図上で計画された場合の道です。
これは、人が暮すことに拠ってできた曲がりくねった道と、都市計画・地域計画でつくられる幾何学的形の道との違いと同じです。

更に、その屋根面は、遠くに見えるはずの水平線に対しても「浮いて」見えるはずです。私には、その屋根面が、かえって「邪魔」に見えます。人がそのとき見たいのは、「眼前の雄大な海、水平線」なのではないか、と思うからです。そこに突出する斜面、それは何か、なぜ?

つまり、この建物へ向って降りてゆくときの「気持ち」を「つかんで」いたならば、この屋根の「形」は生まれないはずだ、と私には思えるのです。
簡単に言えば、屋根もまた、素直に崖の等高線にならう、つまり、水平を維持する形になるはずだ、ということです。
   私事ですが、筑波一小の体育館の設計の際、斜面に並行に置く案の他に、直交させる案も考えました。
   この事例も、主な近付きかたは、坂を下りて建物に至ります。
   敷地の斜面は、敷地のあたりだけにあるのではなく、筑波山の山裾をとりまき延々と続いています。
   もしも直交させる配置を採ると、その建物によって、斜面の連続が断ち切られます。
   そこで、かなり早い時点から、直交案は捨てられました。

では、この建物の「逆ヘの字型:V型」の屋根は、なにゆえに決められたのでしょうか。
その「謂れ」は、断面図で分るように思います。
2階の寝室に至る斜路の勾配と、屋根勾配が同じ、「への字」の屈折点は、斜路の屈折点に一致しています。
つまり、「への字」の屋根型は、当時コルビュジェが盛んに用いていた「斜路」が「根拠」、「動機:モティーフ」になっている、と見ることができます。
そして、この建物の主要部を成す広い空間の大きさも、斜路を「納める」ための大きさである、と理解すると、その広さ(「長さ」)になる「謂れ」が見えてきます。

   実は、最初、この建物へは、平面図の左端の開口部から入るのではないか、と勝手に想像していました。
   前方に海を見ながら降りてきて、その開口部の外にテラスでもあって、そこに至る。そこから内部へ・・・、と。
   それにしては斜路の向きが変だ、と見直したところ、入口が「見付かった」のです。
   そこで、入口に色を付けることにしたわけ・・・。


先回の終りに、
・・・
彼のイメージスケッチには、圧倒的に鳥瞰的なものも含め、視点の高いものが多いのです。この、高い位置に「視座」を置く、という点に、コルビュジエの surroundings への「対応」が読める、そのように私には感じられました。
・・・
と書きました。
今回の事例を詳細にみて、私は、この「思い」を更に強く感じています。
なるほど、それゆえに、コルビュジエは「近・現代」に受け容れられたのだ、とあらためて思ったのです。

おそらく、コルビュジェの中には、別の「想い」があったのではないでしょうか。
それはすなわち、端的に言えば、
「 SURROUNDINGS は、『絵』の『地』に過ぎない」ということです。「主」は建「物」自体。「まわり」:「地」は、単に「建物自体」を「際立てる」ためのもの。[文言変更 28日9.40]
多分、西欧の「近代」の建築は、それで成り立ってきた。建築が SURROUNDINGS とは関係なく存在する、言い換えれば、「それだけ」を「見る対象」として扱うようになったのです。「主」のために「まわり」を整える。
たしかに、その傾向のなかでは、アアルトは異質だった、ことによると「前・近代」あるいは「非・近代」と思われた(だからかえって注目された!)。

一方、日本では、「まわり」にゆとりがなくなった。特に都会では。
そこで、「背景なし」で「建物自体」を「主張」する事例が増えた、そしてそれが当たり前だと思うようにもなってしまった・・・。
   ところが、日本のアニメは「背景」を重視する、という。
   「背景」を、アニメでしか認められなくなった、ということかも知れません。
   つまり、現実は SURROUNDINGS なしの世界になってきた・・・。
   それで「平気」で「居られる」・・・。

   註 追加[29日 17.56]
   少なくとも近世までに、日本の建物づくりでは、
   「まわり」に拠って、つまり SURROUNDINGS を考えることで、その「場」をつくる、
   という考えに到達していた、と考えられます。
   いわゆる「書院造」の造営や、あるいは「茶室」造営の根底に、この考え方を顕著に見ることができるからです。
   SURROUNDINGS なしで、それらの存在を理解できた、とすると、それは可笑しい。
   SURROUNDINGS なしでは、それらは存在根拠を失うはずだ、ということです。
   この近世までの人びとの考え方を、近代になって見失い、
   更に、現在では、そんなことは必要ない、というまでに至っているのではないか、
   そのように私には思えるのです。
   そして、そういう考え方で、「書院造」や「茶室」が、若い人たちに「教えられている」としたならば、
   それは、「文化」の積極的破壊である、と私は思います。
   なにごとも、5W1Hで問わねばならない、私はそう考えています。

   近世の日本の建物づくりの様態を、下記で書きました。ご覧ください。[追加 30日 10.47]
      「日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成・その1
      「日本の建築技術の展開-16の補足
      「日本の建築技術の展開-17・・・・心象風景の造成・その2
      「日本の建築技術の展開-17の補足
      「日本の建築技術の展開-18・・・・心象風景の造成・その3
      「日本の建築技術の展開-19・・・・心象風景の造成・その4
      「日本の建築技術の展開-20・・・・心象風景の造成・その5
      「日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6」      
   
このように考えると、コルビュジエのスケッチ、そこで描かれる「建物」は、「絵」の「主題」に過ぎないのではないか、と思えます。
そうであれば、彼のスケッチに俯瞰、鳥瞰的な図が多いのも理解できる、とあらためて思えてくるのです。
そしてまた、そうであるからこそ、多くの人びとにとって「分りやすい」のです。

「 SURROUNDINGS との関係で建物を理解する」ということは、面倒な作業を必要とします。
とりわけ、現地に赴き実物に接するのではなく、写真や図面でしか接し得ない場合には、本当にその建物を「 SURROUNDINGS との関係で分る」のは非常に難しい。
相当に想像力を駆使しなければ SURROUNDINGS をつかめない、まして「 SURROUNDINGS との関係」を読み取るなどという作業は、「重労働」です。
アアルトの建物が一般受けしないのは、それを理解するのに面倒な作業を要するからだ、そのように思えます。
しかし、「対象」として扱うなら、簡単なこと。近・現代は、作業の楽な方向に向ってきたのではないでしょうか
そして、「対象」としてはアアルトの設計は「面白くない」。「妙な形」だけが目に入る・・・。「分らない形」。

そしてこの「傾向・風潮」は、まさに「近・現代」の《合理主義的思考》に「適合」した、そう思えます。
一言で言えば、 SURROUNDINGS との関係を取り外して「対象化」してみる「思考」です。

次回、さらにコルビュジェの事例を見てみたいと思います。

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この国を・・・・13: 無 識者

2012-01-21 16:03:17 | この国を・・・
web上で読めなくなりましたので、リンク先を消去しました。
  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



1990年の秋に撮った写真が出てきました。
山梨県東部、笛吹川上流の秩父に抜ける街道沿いにある総2階建ての養蚕農家。その妻面です。
最近も訪れていますが、少なくなった印象は否めません。しかし、まだかなり残っています。
これは棟持柱方式ではありませんが、その方式の建物もまだ健在です。
おそらく、養蚕が盛んだった明治初期の建築だと思います。

この写真とともに、群馬県や、山梨県西部、白州町(現在北杜市)あたりで撮った養蚕農家の写真も出てきました。
秩父山塊を囲む群馬、山梨、長野、そして埼玉・秩父、東京・奥多摩地域の養蚕農家の建築は、互いに大きく関係があったようです。1990年ごろ、仕事の関係もあり、一帯を歩きまわったことがあり、どれもそのとき撮ったもの。
定かでないものもありますが、いつか紹介したいと思っています。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

福井・大飯(おおい)原発の「ストレステスト」についての「評価委員会」が開かれたそうです。
その「結論」の報道は二種類あり、どちらなのか定かではありません。
つまり、「テストの『方法』は妥当であった」という報道と、「テストの『結果』は妥当であった」という報道がありました。具体的にはさっぱり判りません。委員会の審議「内容」についての詳しい報道がないからです。いずれにしろ、どちらの場合も、妥当とする判断(これを「評価」と呼ぶのだそうですが)の根拠については詳しい説明はありません。

この委員会が、会場内での一般の傍聴を認めるかどうかで混乱したことは、そして最終的には予定を数時間遅れ、密室でつまり非公開で開催されたことは周知の事実です。
この場合も、非公開にする理由は説明がありません。所管大臣は「科学的な専門家による議論が平穏に開催できないことは容認できない」と非難したそうです。一般の傍聴を認めよ、という見解は容認できない、と解釈してよいのでしょう。

何かと言うと、「有識者」にお尋ねする、これが現在日本の常道になってます。
「有識者」、またの名は「専門家」。

当然、こういう「語」がある以上、「 無 識者」がいていい。

では、「 無 識者」は、何も分らず何も知らない者・人間なのでしょうか。

「有識者」は、何についても「識」がお在りなのでしょうか。
そんなはずがない。
たとえば、先日のTVで、地震の「専門家」が、今回の地震を通じて、他分野との交流が如何に必要か、痛感した旨、話しているのを聞いて、「驚き」を禁じ得ませんでした。
その場合の他分野とは、地質学。
地層には、過去の大地の変動が刻まれている、もちろん数千年を越える年月の・・。
その「成果」を知らなかった、という。
何でも、これまでは過去100年ほどの地震の発生状況を「精密に」検討し、地震発生のメカニズム理論を構築していた、そして、それによって各地域の地震の発生確率を「評価」していた、と言うのです。
もしかして、この日本で地震が発生するようになったのが、最近のことだ、などと考えていた?
あるいは「精密な」データが得られるものだけで(データの無いもの、得にくいものは無視して)、「理論」を構築していた?1000年も前の地震のGPSデータなんか、無い、ゆえにデータ化できない、ゆえに「捨象(しゃ しょう)」する・・・(無視黙殺することを捨象とカッコヨク言った時代がありました!)。

このTVを見ていて、私は、明治以降に生まれた「建築」の「専門家」たちの、自国の建築についてまったく「無知」であった事実を思い出しました。
その「無知な有識者・専門家」の後裔たちが、「専門」「有識」の名の下でつくりだしたのが、現下の「耐震《理論》」なのです。
彼らはいまだに日本の古建築が、当然木造ですが、数百年、地震に遭っても壊れていない、という厳然たる事実を、まったく説明できていないのです。
ことによると、それ以前に、そういう事例の存在さえも知らないのかもしれません。
   兵庫県の西部に三木という場所があります。そこに例の e ディフェンスなる振動台実験場があります。
   ここで実物大構造物実験を実施したり、あるいは見学する「専門家」で、
   そこから僅かな距離にある建築後800年ほど、壊れることなく建っている木造建物を
   見に行かれた方はあるのでしょうか?はなはだ疑問です。
   それが浄土寺・浄土堂です。
   蛇足ですが、私は何度も浄土寺・浄土堂は訪れていますが、e ディフェンスには行ったことがありません。

これらの木造建築が健在である理由を説明できない「耐震《理論》」というのは、はたして「理論」と言えるのでしょうか?
もしも、現在、究明中なのだ、というのならば、
そういう未完の状態の「成果」をもって、現実の建築を差配するような基準をつくってはならない、
と思うのが、普通の人の、つまり「 無 識者」の真っ当な感覚
だろうと思います。

「数百年、地震に遭っても壊れない」建物をつくってきたのは、現代の「有識者」たちのいう「識」はもっていない「普通の人たち」なのです。もちろん「構造力学」も「構造計算」も知らないし、ましてやコンピュータを持っていたわけでもありません。そしてまたもちろん、法令の定める基準や規定があったわけでもない。
それでも、彼らにはそういう建物をつくれたのです。これは歴史的事実
当然、頻繁に地震に遭うことは知っていました。彼らは、現代の「有識者」よりも、地震について、数等「よく分っていた」のです。
ここで当然、「分る」ということはどういうことか、あらためて考え直さなければなりません。

   参照 一昨年、「工学」特に「建築」の世界での「分る」ということの「理解の実態」について、書きました。
       ご覧ください。
    「観察、認識、そして『分る』ということ-1
    「観察、認識、そして『分る』ということ-2
    「観察、認識、そして『分る』ということ-3

地震や耐震のことは「私たち「有識者」に任せなさい、私たちのご託宣を信じなさい、などと言うのは止めてもらおうではありませんか。

そうではなくて、
地震はこんな具合に起きている、こんな現象を惹き起こしている、こんな具合の被災を生じる、あるいは、こういう場合は健在である・・・、災害に対して人びとの間ではこんな行動が見られた・・・、こういった諸般の「事実」を、(仲間うちの学会ではなく)広く世のなかに公開する、
そうであったとき、はじめて「有識者」の「尊称」を与えられてもおかしくはありません。
各地の「古老」たちこそ、本当の「有識者」だったのです。

そして、私たち個々も、誰かの言い分に頼る、頼り切る、言い換えれば「楽をしよう」などという考えを採りさえしなければ
つまり、
私たち自らが自らの「識」の領域を「開拓」するならば、
王様はハダカだ、と自信をもって言えるようになり、
その結果、「有識者」たちが「有識者」を自称することなどできなくなる

そのように私は思っています。

今から40年ほど前、大学闘争の盛んだったころ、タコツボ化という言葉がよく使われました。
蛸には申し訳ないのですが、壷に潜り込んでまわりを見なくなる、見えなくなっている「研究」「研究者」「専門」への若者たちからの批判の言です。
   蛸は、見たくないために蛸壺に入っているのではありません。
   そこを拠点に自由自在に行動しているのです。
   つまり「まわり」「世界」「 SURROUNDINGS 」を「認識」している。タコツボ化したら生きてゆけない!

TVを見ていて、あの頃とまったく変っていない、ことによると更にひどくなっているのではないか、もしかしたらコンピュータの普及がそれを助長してはいないか・・・、そんなことを考えました。
つまり、
私たち固有の「感性」が失せてしまっている・・・
真っ当な「感性」をもっていたなら、私たちのご託宣を信じなさい・・、などという「発想」はもちろん、あれは「想定外」などと言って済まそう・・・、などとは思わないはずではないですか。

私は「 無 識者」で居続けたい、と思っています。


追記 前にも紹介した一文を転載します。

   ・・・・・・
   彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象を与えたのは、
   廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。
   その言葉を生きることは、
   知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、
   どの都会でも、
   極めてむずかしいことだろう。
   「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。
   「幸いにして」と私が応じると、
   「幸いにして」と彼は繰り返した。 
   
      加藤周一「山中人話・スタインバーグは言った・・・より」


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SURROUNDINGSについて・・・・6:コルビュジェにとっては 何だったのか

2012-01-17 18:14:05 | surroundingsについて
[書き忘れ追補 18日 7.45]




ここしばらく、時間があると、コルビュジェの初期の設計事例を見ています。
コルビュジェの設計を見るのは、ほんとに久しぶり。
だから、設計集には、紙が貼り付いてしまったり、変色している頁もありました。

   註 普通は「設計集」ではなく「作品集」という語が使われます。
     ただ、建築には「作品」という語は相応しくないと考えていますので、
     私は「設計(事例)集」を使うようにしています。
     「作品」というと、何となく「個人の作品」というイメージが強くなりますが、
     建物はそうではない。
     なぜなら、設計者は個人であっても、通常、
     つくられる建物等は、「設計者個人だけのものではない」からです。
       第一、多くの場合、設計者が身銭を切っているわけではない。
       もちろん、身銭を切ろうが、だからと言って個人のものと考えるのは間違いです。   
     絵や彫刻などの「作品」なら、気に入らなければ、見なければいい。押入れにしまうこともできる。
     建物は、そうはゆきません。
     否が応でも、顔を合わせなければならないのです。
     つまり、その点では、建物は「設計者個人のものではない」のです。
     「作品」という語に慣れてしまうと、この厳然たる事実を、つい忘れてしまう、
     そのように私は思っています。
     この厳然たる事実を忘れると、どうなるか。
     あの「理解不能」者たちのような「感覚」になってしまうのではないでしょうか。

なぜコルビュジェを見る気になったか。
ここ数回、 SURROUNDINGS に素直に拠って設計をしている、と私が理解しているアアルトの設計事例を見てきました。
では、戦後の日本の建築界を風靡したコルビュジェは SURROUNDINGS をどのように捉えていたか、あらためて見てみよう、と思ったからです。
SURROUNDINGS は、誰のまわりにも在ります。
建物づくりに関わるのであるならば、それについて、何かを「想って」いるはずだ

そう思ったのです。

私の記憶の中で印象に残っていた事例を探しました。
先ず、そのいくつかを紹介します。

   参考にしているのは、
   “Le Corbusier & Pierre Jeanneret” Les Editions d'Architecture刊
    この書物は、年代別に編纂されています。
    今回は、“Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1910~1929”から。きわめて初期の事例集です。

Le Corbusier は 本名 Charles Edouard Jeanneret のいわば「号」。
設計事例集に名のある Pierre Jeanneret は従弟。

コルビュジェはスイス生まれ(1887年生)、最初は画家を目指し、美術学校に通っていたようです。そこで、建築転向を奨められ、先に建築の仕事をしていた従弟のところへ行った。それで、当初は連名になっている。

コルビュジェは、諸国を観て歩いていて、日本にも来たらしい。その各地への旅行のときのスケッチ:クロッキーが冒頭の図です。
描かれていることから判断すると、建築に「転向」してからの旅ではないでしょうか。
彼の設計には、地中海周辺の建物に倣った事例が多いのは、スイス生まれの人間にとって、地中海周辺は魅力があったのでしょう。
地中海周辺には、ローマの影響や、サラセン文化の影響を受けた SURROUNDINGS が多く見られ、それに通じるところが設計に現れているように思います。
一方で、日本をはじめ、東洋(の考え方)は彼に刺激を与えたようには私には思えません。「湿っぽかった」のかもしれません。


さて、はじめに、“Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1910~1929”から、パリの街中とおぼしき場所に建つ LA Maison du Peintre Ozenfant a Paris。
1922年とありますから、コルビュジェ30代初めころの設計。
外観は下の写真。


この設計集には「配置図」付の事例紹介がきわめて少なく、この場合も載ってません。
3階建てで平面図を集成したのが下図。スケールも不明です。


写真と図から「判定」すると、比較的樹木の多い街角の、既存の煉瓦造の建物を改修・改造・増築したものと思われます。
つまり、既存の surroundings に応じている、既存の建物の持っていた「性向」に従った、と考えてよいでしょう。

私としては、既存の煉瓦造の建物の改造前の姿を含め、周辺の様子:surroundings を知りたいのですが、この書の編纂者は、そういう点には関心がないようです。

   註 この書の編纂は、Introduction et Textes par Le Corbusier とありますから
     コルビュジエ自身の趣旨に沿っているものと考えられます。
     その点、まさしく「西欧の近代・20世紀」の「精神」がたくまずして現れている、とも言えます。

この建物の「目玉」は、最上階のほぼ二層吹き抜けのアトリエ。
私の印象に残っていたのがこの写真です。それで採りあげたわけ。
気持ちのよい空間です。ただ、寒そう。

ある頃まで、アトリエというのは、北側採光でしかも天空光が望ましい、とされていました。私が通った大学の彫塑室は、北側でトップライトで明るかった(建築コースでは、彫塑が必修でした)。
   知人の著名な洋画家が、蛍光灯のライティングで絵を描く、と聞いて驚いたことがあります。
   私が依頼された彫刻家の住まいでは、北側で東西からのハイサイドで採光する工房にしました。

次に紹介する事例は、同じく“Le Corbusier & Pierre Jeanneret 1910~1929”から、“ Maisons La Roche & Albert Jeanneret ”。
つまり、左半分は Roche 邸、右半分は Albert Jeanneret 邸。
   Maisons は「邸」という意と理解してます。
   英語の mansion :大邸宅と同義語。
   日本にはいたるところに mansion が建ち、笑えぬ話がいっぱいあるようです。
   日本の若者が、自分の家は〇〇マンションと西欧人の恋人に語り、恋人は日本を訪れて、
   それが apartment house あることを知って愕然とし、しかし若者は怪訝な顔をしていた・・・、などなど。
   私の「実感」では、何よりも、手紙の宛名書きで苦労するのが、この手の〇〇マンション。長すぎる。    

これも所在はパリの街中と思われます。
   後掲のスケッチに、Projet des maisons du‘Square de Docteur Blanche' とあります。
   パリを知りませんが、場所名ではないかと思います。

この事例には、当初のスケッチが紹介されています。

このスケッチとほぼ同じ向きで、建物寄りから見た外観は下の写真。

曲った壁を正面から見ると


平面図を集成すると下図。
書物では、地上階が一番上、次に2層、そして別頁に3層目。更にスケールが異なる。
それでは分りにくいので、この図は、同一スケールで下から地上階、2層目、3層目に編成し直してあります。ただし、基準スケールはどこにも表示がない(こういう建築紹介は、めったに見かけません)。

平面図の左端部を中央の階段(家人用)から見たRoche 邸の HALL が下の写真。
ここに見えている階段は、地上階の入口から、2層にある曲面の壁をもつギャラリーへの主通路。
左手に見える歩廊が、手前にある食堂へ通じています。



[書き忘れ追補 18日 7.45]
今回あらためて、先の外観の写真を見たとき、かつてこれを見たときには多分感じていなかったと思われる大きな違和感を覚えました。
それは、多分にあの曲面をなす壁の存在によるものと思われます。
簡単に言えば、あのような曲面になる「謂れ」が読み取れない、そこから生じた感覚だと思われます。
おそらく、この家を訪れるには、あの曲面の壁を正面に見ながら歩いてくるのでしょうが、その「歩く」という「行動」を受け容れてくれる「形」には、私にはどうしても見えないのです。横から見た写真でも、この曲面は、私には「しっくりこない」のです。

けれども、先に紹介したこの建物の平面のスケッチ:「形」は、コルビュジェの書物にはよく引用されていますから、おそらく「気にいっていた」のだと思われます。
ということは、彼のつくる「形」は、そこに「在る人の感覚」とはまったく関係なく決められている、そのように私には思えるのです。

この外観にタイルを張ると、最近の日本の建物に似てきませんか。


さて、この建物のイメージスケッチをもう一度見てください。
今回あらためて設計集を見ていて気がついたのは、彼の描くスケッチなどの「視点」「視座」の位置の高さ。
後に紹介しますが、彼のイメージスケッチには、圧倒的に鳥瞰的なものも含め、視点の高いものが多いのです。
この、高い位置に「視座」を置く、という点に、コルビュジエの surroundings への「対応」が読める、そのように私には感じられました。

アアルトのスケッチ群を見直してもらうと分ると思うのですが、アアルトにはこういう視点でのスケッチはないのです。
アアルトの目線は、いつも、通常そこに在る人の高さにあります。

コルビュジエのアアルトととの違いは何なのか、何に拠るのか、次回、別の事例を通して考えたいと思います。

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この国を・・・・12:一人ひとりの事故調を!

2012-01-13 18:26:47 | この国を・・・
[追加 15日 8.25][追加 17日 17.10]

19日付東京新聞社説、あいかわらず真っ当な社説です。
東京web より「原発最長60年・・・」[追加 19日 15.17」
「リベラル21」の次の記事をお読みください。
2012.01.17 「民主党政権とマスメディアへ深まる失望感」  [追加 17日 17.10]

確認申請用の書類・図面づくりと並行して「 SURROUNDINGS について」の続きの作業中に目にした「記事」を転載します。
先ほど届いた毎日新聞夕刊にあった記事です。
共感を覚えましたので、毎日jpにも載るとは思いますが、取り急ぎコピーして転載します。
字が小さくて恐縮です。

その中の一節。
・・・・
これからは 自分自身の判断と力にのみ頼って
生きてゆかなければならない ということになるでしょう。
国家も企業も社会も宗教も民族意識も
頼るに値しない時代の到来が しきりに予感されるのです。
一個人としての潜在能力の何たるかを
つくづく思い知らされる、孤軍奮闘の未来の幕開けです。
・・・・
  これは丸山 健二 氏のブログ「一刀両断」中の文言。

そして
・・・・
なぜ失敗から教訓を学べないのか。
「粋とやぼですよ。
本当のことを言っちゃあ粋じゃない、やぼだという文化がある。

ところが、言わずにおくことが、
問題の本質から目を背けさせる口実になってしまう。

そもそも日本人には権力に過剰に適応するくせがある。
政府や東電はそんな国民性を知り抜いているから、
時間さえたてば国民は黙る、今さえごまかせば、
何年後のことなんか知ったことじゃないと、高をくくっているんです」

 震災直後、暴動も起こさず、整然と行動した日本人を海外メディアは称賛した。
多くの人はそれを「誇り」ととらえたが、丸山さんはそうはみない。
「あれは外国の権力者たちの
『自国の民もこれぐらい従順であってくれたら』という願望ですよ。
その裏には『お前らは羊か』というからかいも含まれています」
・・・・

そして更に
・・・・
「自立するには、個人に立ち返ることが必要であり、
そのためには勇気が必要。
勇気が必要ということは、自分しか当てにしないということです。
自分の目で見、耳で聞いたことをもとに自分で判断して、
自分の力でなるたけ生きてみる。
そうでない力が働いたときには、その力をまず疑ってみる。
国家の力、宗教の力、集団の力、そういうものに安易に寄りかからない。
絆という言葉にもだまされちゃいけない。
群れてもなんともならない、自分一人がなんとかしないと」
・・・・

全文を
毎日jpで読めます。[追加 15日 8.25]
日本よ!悲しみを越えて



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寒中お見舞い

2012-01-09 17:56:52 | その他
[追加 10日 17.04]

忘れてしまわないために
毎日 jp の記事にリンク
だって終わってない
原発見直し、根本は問わぬまま 経済優先に草の根の拒絶感」[追加 10日 17.04]

時間があれば、「この国を・・・・11」で紹介した、東 氏、池澤 氏の「見解」もお読みください。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

寒中お見舞い申し上げます。

今年は、ここしばらくなかった「寒い冬」になっているように思います。当地では、ここ数日、朝7時で-4度。
それでも、10年ほど前とは違い、まだ水道管の凍結もありません。
立春まであと少し。
陽射しは明らかに変ってきています。

寒中お見舞いのはがきのコピーを載せます。版面は年賀状と同じ。年賀状では「一陽来復」が表題でした。



これは、昨年4月の「建物をつくるとはどういうことか-16」に掲載した地図を再編集したもの。全体小さくて恐縮です。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

図面の最終チェック・調整の合間を使って、「 SURRONDINGS について」の続きにとりかかっています。
今回は、先に触れたコルビュジェの初期の設計例を採りあげようと、コルビュジェの設計集を広げています。
久しぶりに見たコルビュジェの初期の設計事例は、私のなかにあった(私が思っていた)イメージとはかなり異なっていました。それでも、初期の事例の方が好ましく思います。
何が異なっていたか、というより、あらためて何に気がついたか、そのあたりのことも含めて書きたいと思っています。
まとまるまでに、もう少し時間がかかりそうです。

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この国を・・・・11:続「民意」

2012-01-04 19:20:52 | この国を・・・
[追加 7日 7.18 8日 10.00 8日 17.35 9日 8.15]

原発事故で避難を余儀なくされた福島の方がたの「気持」を、暖かい、そして当たり前の言葉で述べている 7日付の東京新聞社説を、東京webから紹介させていただきます。
民の力を活かそう つながり望む声を聞け
   なお、東京 web の記事を読めなくなった場合を考え、プリントアウトして追加・転載しました(末尾)。[8日 10.00]

その中の一節を、以下に転載します。
  ・・・・
  悩める避難者の気持ちを政府はどう受け止めるでしょう。
  昨年末に原発事故の「収束宣言」を出し、
  汚染土壌などの中間貯蔵施設を原発のある双葉郡内に建設する方針を打ち出しました。
  まるで事故の幕引きのため、既成事実化を急ごうとする非情さがうかがえます。
  人の心まで「処理」できません。
  葛藤を続ける住民たちの心を逆なでし、怒りを増幅させるばかりでしょう。
  ・・・・

まったく同感です。

   註 下記もご覧ください。
     「苦闘する母子避難者」毎日jp 8日付記事[追加 8日 17.35]
     更に、下記も
     「作家・東 浩紀 氏の見解」毎日 jp 9日付記事[追加 9日 8.15]
     その中の一節。
       ・・・・
       「深刻な問題は日本政府の言葉を日本人が信じられなくなったことです。
       政府は福島第1原発の冷温停止状態と事故収束を宣言しましたが、
       その言葉を信じている日本人がどのくらいいるのでしょう。
       政治家の言葉が軽くなると何も決まらなくなります」
       そして、原発事故対応に「もし」が許されるならと前置きし
       「一時的なパニックを招いたとしても政府は初期段階でメルトダウン(炉心溶融)を公表しておけばよかった。
       そうすれば、ここまで信頼を失うこともなかった」と指摘した。
       「日本政府は、単純に言って、謝罪すべきだと思う。
       初期段階で事故の規模を見誤った。
       意図的な情報操作もした。
       見通しの甘い原発政策で歴史ある町や村を放棄せざるをえない状況になった。
       これは政府の責任であると謝罪しなければ、話が始まらない」と力を込める。
       しかし、謝罪の言葉は誰からも語られず、日本は年を越した。
       ・・・・      
     「作家・池澤 夏樹 氏の見解」毎日 jp 9日付記事[追加 9日 8.15]
     その中の一節。
       ・・・・
       原子力は人間の手に負えません。
       国土は国の基本なのに、日本のまん中に何十年も住めない国土をつくってしまった。
       福島の人は全国各地に避難している。ディアスポラ、流浪の民を生んでしまった。
       大きな罪です。
       除染? 
       世の中の毒は焼けば消失しますが、放射性物質は違う。
       取り除けないのだから『除染』ではなく『移染』。
       そんなものを大気に、海に放出し、国際社会においても罪を犯してしまった。
       ・・・・

     よろしければ、下記も
     「この国を・・・・10:民意



[註記追加 5日9.09]


お寄せいただいたコメントに、「・・・・原発爆発事故の 終息 が見えない状況の中・・・」という一節がありました。
思わず、「そうだ、こういう場合、収束という語彙は普通は使わない、普通は 終息 だ」という感想を抱きました。

この二つの語彙の意味を調べると、次のようになります。
  収束:① おさまりをつけること。おさまりがつくこと。
      ② 数列が、ある一つの有限確定の値にいくらでも近づくこと。・・・収斂。
  終息:事がおわって、おさまること。終止。
                         以上「広辞苑」による
  新明解国語辞典の解説もほぼ同様です。
    註 一つの「束」に収まる、まとめる⇒おさまりをつける、おさまりがつく。[註記追加 5日9.09]
    註 終息の「息」は、「熄」の置き換えです。
      英語では、cease, end, come to end.:終る
             be eradicated, be stamped out.:根絶される
      因みに、収束:be stringent 数学用語:converge

福島の人びとが、何がシュウソクだ、と憤慨しています。
ここしばらく偉い方がたの使う「収束」の語に惑わされてはいなかったか?

シュウソクという「音」だけ聞いていると、原発事故の収拾がついた、つまり事故にからんで発生した事態がすべて「終息した」と言っているように聞こえてしまうのです。

偉い方がたは、もしかして、意図的に「収束」の語を使ったのではないか?
なぜなら、皆さん、「語」の抱かせる《イメージ》で語を使う「達人」だからです。「 commercialism :営利本位の商業主義」の時代に育ったからでしょうか、生まれもって身についている。
「(現代の)政治家」というのは、《イメージ》で普通の人びとを手玉に取るのが得意な人たちへの「尊称」なのかもしれません。


そういう《イメージ》に惑わされずに「ことの本質」に迫りたい、scientific でありたい、と私は思っています。


さて、web 上ですが、年末・年始の各新聞の社説・論説の類を読ませていただきました。
六社です。
早く原発を再稼動させないと、早く「開国」しないと、日本の産業が空洞化する、という福島の人びとなんかまったく視野にない論調の新聞が三つ、煮え切らないのが一つ、少しましなのが一つ。

その中で、私が共感を覚えたのは、東京新聞の論調でした。

大晦日と元旦の社説を、web上から消えてしまったときを考えて、以下にプリントアウトしたものを転載させていただきます。

本当の「民意」とは何か、そしてメディアの「義務」について語っています。当たり前のことです。









リンク先も載せておきます。
   「人間そのすばらしさ
   「民の力を今、活かそう

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一 陽 来 復

2012-01-01 16:27:02 | その他
年末からかなり寒い日が続いていますが、陽あたりのよい場所では、もう芽吹きの用意が進んでいます。
道端のドウダンツツジ。
一昨年夏の猛暑で、だいぶ弱っていましたが、少しばかり回復してきたようです。





今年もよろしくお願いいたします。
コメント (2)
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