建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「利」と「理」

2015-03-24 17:38:39 | 近時雑感

今が盛りの侘助です。自然に散る前に、ヒヨドリに啄まれ、落されてしまいます。

地面に落ちた花の蜜を目指して、アリが寄ってきてます(小さくて映ってない!)。


関連記事が26日付毎日新聞朝刊に載っていましたので、web 版から、追加・転載します

かつて、エコノミック・アニマルという新造英語がありました。economic には、本来の「経済」の意を越えて、「実利的な」、「儲かる」、という意があります。animal は、「動物」という意を越えて、「けだもののような人間」、「人非人」、という意にも使われます。要するに、economic animal なる造語は、「金儲け」だけに夢中になる日本人の行状を揶揄した語です。つまり、倫理も道理もない行状。一部の日本人の行状は、世界の中で、あまりにもひどかったのです。
今は少しは良くなったのか?どうも、変っていないらしい。
特に「政界」「経済界」の「指導者層」では、相変わらず、その傾向が強いようです。
その好例が、「原発」についての「対応」。
『理』で考えるならば、どう考えたって、原発の存立を「是」とする見解は導きだせない、はずです。
人びとの多くは、「NO」の見解を出している。
しかし、「指導者層」は、そうではない。世界で最も高い安全基準で審査するから安全だ、という《論理》で再稼働や新設、あるいは他国への「売り込み・輸出」を企てている。
そのどこに「理」があるでしょうか。見えてくるのは、もっぱら「利」だけです。やはりeconomic animalか・・・。

この日本の現状と好対照なのがドイツのようです。
ドイツの実状についての報告が毎日新聞に載っていました。 web 版から転載させていただきます。
印象的なのは、脱原発は国民の考えに拠っている、ゆえに政権が変っても変らない、ということ。経済界もその見解を共有している。そこが日本と大きく異なるようです。
日本の「指導者層」は、「国民は金を積めば誤魔化せる」と考えているかのようだ。
その勝手な「思い込み」は、昨今の献金問題で明らかなように、自分たちが「金次第」だからなのでしょう。
「法に触れないから・・・」と言って筋の通らない金をもらい、それを糾されると、返しゃいいんでしょう・・・。
これでは「法治国家」ではなく、「放置した国家」です。
しかし、こういうご都合主義的「法治国家論」を、沖縄の辺野古問題でも、沖縄の民意をなきものと思いたい政権側が持ち出しています(24日現在)。





関連コラム記事を追記します。
同じく青野氏の執筆です。「理」がどこにも見当たらない日本になっているのではないか・・・・・。
[26日 9.25]

“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-11

2015-03-21 11:23:15 | 「学」「科学」「研究」のありかた

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今回は、3 Ground-floor halls : late 13th and early 14th centuries の章から、前回の続きの次の2節の紹介です。
  Builders of stone houses
  Builders of timber-framed houses
少し分量が多くなります。

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   Builders of stone houses  石造の家屋を建てた人びと

家屋を石造にするか、木造にするか、その選択に、社会的な意味があった、という論を実証するのは容易ではない。
なぜなら、現存する13世紀後半から14世紀初期に建てられた一般庶民の家屋について、その建て主についての情報は部分的にしか知り得ないからである。
一方、いくつかの全石造の家屋については、詳しい記録が遺っている。
NURSTEAD COURT は、HORTON KIRBY の爵位領の一部を成す NURSTEAD 荘園の中心であり、NURSTEAD 荘園の領主は、DOVER CASTLE の守護役を担っていた。
NURSTEAD 荘園は、GRAVESEND 家の領地にあるが、同家は、13世紀後記~14世紀前期にかけて、三つの教区を差配していた。NURSTEAD COURTの建屋は1309年に建てられているが、一家の教区在住の聖職者の一人 Sir STEPHEN de GRAVESEND が建て主である。彼は、スコットランドへ EDWARD Ⅰに同行し 1311年に州の爵位をを得ている。
   註 HORTON KIRBY ケント地域北西部の町 SEVENOAKS 近郊の村。SEVENOAKSは、「一般図」(再掲)のノースダウンズ丘陵の文字の下あたりにある。




SOUTHFLEET RECTORY(牧師館)fig14 ) は、1323年から~1356年にかけて牧師を務め、また ROCHESTER 教区の管区長でもあった ALKHAMTHOMAS のために建てられたと考えられる。
CLIFFE-at-HOOTHE RECTORY HOUSE は、また別の給付によるもので、CANTERBURY大司教職の特権であった。
すなわち、14世紀の前半を通して、牧師職を継続することで聖職の禄が得られ、ケントはもとより各地に教会を構える特権も得ている。また、PENSHURST PLACE を建てたのは、商業・金融業を営み、ロンドン市長でもあり、ケント各地の大地主であった Sir JOHN de PULTENEY が、1341年に licence to crenellate を取得後に建てた建物である。
   註 licence to crenellate : 資産保持保護特権?wikipedia には、下記のようにあります。
     In medieval England a licence to crenellate (or licence to fortify) granted the holder permission to fortify their property.
      Such licences were granted by the king, and by the rulers of the counties palatine within their jurisdictions, i.e. by the Bishops of Durham,
      the Earls of Chester, and after 1351 by the Dukes of Lancaster.
   註 <この部分に出てくるstrong>SOUTHFLEET RECTORY(牧師館)( fig14 )の建物の図・写真等は、後章に紹介されるはずです。
     いずれも、イギリスの「文化財指定建物」と思われます。

     中世イギリスにおいて、教会関係者が、いかに社会的に優位にありまた優遇されていたかが分ります。

しかしながら、他の事例については、その石造の建物が新築されたとき、誰が資産を保持していたかは、知ることが難しい。
14世紀初期の、 ACRISEHOAD FARM (農家)や LEEDS BATTEL HALL の場合、その保有者が誰であったかを探る方策がないのである。IGHTHAM  の IGHTHAM MOTE もまた同様である。その建て主と考えられてきた Sir THOMAS CAWNE についての記録は、14世紀の建物が建てられて30年後から記録されているだけであり、彼の死去した1372年当時の彼の一家の状況を考えれば、彼が、1330年代に IGHTHAM MOTE を建てることができたとは考えられないのである。同様に、PLAXTOL OLD SOAR も、現存の CHAMBER RANGE CHAPEL が建てられた13世紀の頃の所有者を知り得ない。その後、その資産は CULPEPER 家に引き継がれるが、その15世紀初期以前の所有についての記録は存在しない。
EAST FARLEIGH GALLANTS MANOR のように、所有者のよく知られている事例の場合でさえ、所有者一家の正確な状況記録は漠然としている。GALLANTS MANOR の所在する土地は、AYLESFORD PRESTON HALL CULPEPER 家によって1319年に取得されているが、1322年建設の建物を CULPEPER 家の誰が建てたのか、また、彼がその後の同家とどのような関係にあるのか、などはまったく不明である。

fig15 の「14世紀中期以前の域内石造家屋の分布図」(下図:再掲)は、今回の研究で調査・作成された。

この図から、少なくとも一部が完全な形で遺っている20余の事例と、部分的に遺っている事例(それらは、後世の木造架構の下のヴォールト天井を支える壁の存在から初期の石造建物の痕跡を推測できる事例である)の分布状況が分る。
立派なつくりの20余の建物の半分以上は、CHRIST CHURCH PRIORY ST AUGUSTINE'S ABBEY によって建てられ、ケント地域の東半分に在る。この地域の土地の大半は、当時、主要な教会関係の団体・組織の所有下にあった。実際、 ACRISE HOAD FARM を除けば、ケント東部には、一般人の建てた石造家屋は見当たらないのである。
一方、ケント中西部には、11余の一般の石造家屋が健在である。そのうちの二つ、TONGE NEWBURY FARMHOUSE LEEDS BATTEL HALL は、中部域に在る。その他は、MEDWAY 川の西側に在り、最古の事例はこの中に含まれる。このことは、ケントの東部域には、取り壊されて断片的な遺構しか存在しないことに比べ対照的である。
しかし、一般の人びとの初期の遺構事例が西部域に偏在している確とした理由は、よく分らない。
すでに触れたように、ケント東部や北部域では教会関係者の所有地が広大な面積を占めてはいるけれども、一般の所有地も多く存在している。その上、この地域の14世紀初期の一般の人びとの資産評価も最高の評価になっている。
1127年~1340年の間州の SHERIFF :長官や KNIGHT : を輩出してきた58の家系・家族の他にも30の家系・家族が SITTINGBOURNE から TENTERDEN に至る当地域の中心部を南北に貫いて領地を構えている。一方、その頃、その西側には僅か19の家族の領地しか存在していない。このことは、この時期のケント東部域では、上層階級が優勢であったことを示している。
このような状況から、上層階級が建てたと見なされる初期の遺構建物のほとんどは、東部地域に在るはずだ、と考えられもするが、しかし実際は、13~14世紀の重要な遺構の大多数は、先に触れたように、ケント西部域に在るのである。
   註 SITTINGBOURNE : 「ケント一般図」の中央、北部に載っているギリンガム近くに在る町。
     TONGE は、SITTINGBOURNE近在の村。
     TENTERDEN : 同上地図のロイヤル タンブリッヂ ウェルズの文字の右下あたりに在る町。
      LEEDS : 村だと思われますが、調べましたが位置不明。同名の大きな都市がヨークシャーにあります。

今のところどれが正解とも言えないが、この矛盾を解く二つの方策が考えられる。
一つは、地域の官職保持者の分布の様態を考察の拠りどころとするのは、たしかに一つの手掛かりではあるけれども、しかし、逆に迷路へ引きずり込まれかねないから、余りにそれに拘るまい、という考え方を採ることである。
すなわちケント西域の現存遺構の建設に関わった家系・家族の階層は、東部域の建設者たちよりも数等上層であり、少なくとも異なっていたのでないか、と考えてみることである。そう考えれば、彼らの建てる建物が、東部域の人たちの建物よりも豪奢になり、そしてまた、よく維持・保全されることになり、遺構として多くが現存するのは、自然の成行きではないだろうか。
一二の事例が、この説を裏付けているように思われる。ここまで検討されてきたのは、最古の3遺構: LUDDESDOWN COURT NETTLESTEAD PLACE SQUERRYES LODGE であるが、その建て主は、いずれも上層階級・貴族との強い関係があったことが知られている。
更に、14世紀の最も豪奢な建物の2事例は、ケント域を越えた広域で権益を持つ一家により建てられている。
NURSTEAD COURT の建て主と考えられる Sir STEPHEN de GRAVESEND は、1311年にはケント州の knight爵位を得ていて、一家はまた13世紀後半から14世紀前半にかけて、 LONNDON で2区、LINCOLN で1区の bishop 主教を輩出している。
   註 bishop : 英国国教会では、国土を約40の教区に区分し、各区分を一人の bishop :主教が統括する。(「英和中辞典」による)
     LUDDESDOWN COURT : fig7 第8回参照
     NETTLESTEAD PLACE: fig6 同上
     SQUERRYES LODGE : fig5 第7回参照
     NURSTEAD COURT : fig12 第9回参照

一方、 PENSHURST PLACE の建て主の Sir JOHN PULTERNEY は、地域内では何の官職も持たなかったが、王室と親密な関係があり、域内全体に領地を有し、1334年の課税記録では、ケント地域では個人の最高の評価額になっている。これらの人たちの活動範囲は、ケント地域内よりも国土全体に拡がっており、これも既に触れたように、彼らの多くは、主にレクリエーションのためにケントを訪れていたに過ぎないようだ。
彼らの家系・家族が常に地域の要職を務めていたわけではない、という事実は、彼等にとっては、(上層・貴族階層であるという)「地位」の方が意味のあることであったことを示している。 OLD SOAR の遺構 IGHTHAM MOTE BATTEL HALL は、建て主が資産家であると見られているが、しかし、彼が地域の上流社会でも高位に属していたのであれば、彼等の資産の状況が何ら記録に残っていないということはあり得ず、それゆえ、彼の一家が地域の有力者・富裕な家系・家族であったと見なすことには疑問が生じる。それゆえ、これらの詳細を知ることも、矛盾解明のカギを握る事項として考えるべきだろう。

教会関係・上流階級の勢力の強かった東部域よりも勢力が弱かった西部域に、完全な遺構が多い理由についてのもう一つの解釈は、東部域では、建設後の諸事情による改築が多かったからである、という解釈である。
しかし、この説を立証することは後世の建物の詳細が分らないと難しいが、その点については、諸種の法定の記録文書や Buildings of England を詳しく読むと、得られる事実が多い。
1272~1340年の間のケント州の SHERIFF KNIGHT を輩出していた58の家族・家系が特定でき、そのうち主な20の地位に就いていた家族・家系には、「謂れ」の分る建物が存在している。
たとえば、地域の西半分の地域では、全体の33%にあたる2事例が中世以降の建設であり、東部域では79%、11事例が16世紀の後に大きく改築されていることなどを知り得る。
こういった調査で得られた概況や少数の遺構からだけでは、確証を得ることは難しいが、15世紀以降の諸記録は、ケントの東部域では上層階層が増加を続け、しかもその一部がその中でも高位に在ったことを示している。
これらのことから、ケント東部域に上層階級の中世の建物遺構が少ないのは、その時代の造りかたの違いに拠ることもあるが、多くは後世の改築に拠ると見なせるのである。
BOUGHTON ALUPH BOUGHTON COURT ELMSTEAD DEAN FARM に遺されている石造の円天井( undercroft )の断片の存在などを考えると、ケント東部の注目すべき一般の人びとの家屋の建設は、 BLACK DEATH( 14世紀 ) の時代に始まる、と言えそうである。
   註 BLACK DEATH :14世紀中期(1346年~1453年ごろ)ヨーロッパを襲った黒死病の流行。

     Builders of stone houses の項 終り
     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
   Builders of timber-framed houses  木造の家屋を建てた人びと

今回の調査・研究で明らかになった中世初期の木造の OPEN HALL のケント地域内の分布状況は、石造のそれとはいささか異なる。
fig16 の示すように、木造の家屋は、 NORTHDOWNS (ノースダウン)丘陵の北側の斜面、あるいは LOW WEALD 地帯に多く在り、STOUR 渓谷流域や HIGH WEALD 地帯にも飛び飛びに存在する( outliers )。


建物は二つに分類できる。一つは、完全な 「aisled 形式」のつくりで、ほとんどがNORTHDOWNS (ノースダウン)丘陵の急斜面の北側に在り「古風な( archaic 」特徴を備えている。
もう一つは、南部により多く分布する「疑似 aisled 形式」あるいは「 unaisled 形式」のつくりで、そのいくつかは「 base cruck 」を備えていて、前者のような「古風な( archaic )」特徴は見られない。類型論的には、「aisled 形式」の方がより古くからあると考えられるが、年代学的には、両者が併存する時期が在ったと考える方が妥当だろう。
EASTRYCHRIST CHURCH PRIORY 官邸を除き、現存する木造架構の建物はすべて、一般の人びとの建物のつくりかたに根があると見なせるだろう。
しかしながら、この時代に、木造建物を建てた人びとについては、石造の建物を建てた人びとに比べ、数等その詳細が分らない。
HASTED 氏(後掲註参照)の著書に拠ると、最も archaic な構造のうちの4事例、すなわち NEWBURY FARMHOUSECHILTON MANORHURST FARM 、そして RATLING COURT はいずれも大住宅・邸宅と見られるが、これらの所有者は、時代が14世紀に変る頃は、建物名となっている一家・家系の所有であった。しかし、CHILTON 家NEWBURGHS 家の姿は、13世紀、14世紀前半の諸記録からははっきりとは浮かび上がらず、彼らの資産状況が明らかになるのは、両家がすでに没落しかけていた14世紀後半になってからであり、建設時の様態は分らずじまいなのである。
残る2事例については、もう少し詳細が分る。HURST FARM は、DOVER CASTLE の守護職を務めることに拠る CHILHAMKNIGHT'S FEE として維持されていた。1346年、相続人JOHN de HERSTHERSTSYBERSTON、FELBOROUGHFEE (としての土地)を保有しているが、このことは一家は HURST FARM 周辺以外にも土地を保有していたことを示している。14世紀中頃には、HURSTMURSTON との縁組で、HERST 家は消滅する。
AYLESHAMRATLING COURT は、当初 ARCHIBISHOP (大司教) KNIGHT'S FEE として維持されているが、その不動産の保有権の経緯は、少なくとも11世紀後半までさかのぼり知ることができる。1171年の RATLING COURT の評価額は年間5ポンドに過ぎないから、保有地は決して広くはなかったと思われる。
RATLING 家は13世紀~14世紀前半まで続いているが、その所有地は、14世紀末には、より有名な家族・家系の保有地の一部に編入されている。
ARCHIBISHOP (大司教)KNIGHT'S FEE として維持されていた多くの土地が記録に残っているが、HURST FARM RATLING COURT の遺構は、中世初期のいくつかの木造建物の建て主が、このような KNIGHT としては最低位にあたる比較的小さな土地しか保有し得なかった名もない家族・家系であったと考えてよいのではなかろうか。
これらの多くは、地域の北東部に多く在るが、そこは、古い荘園の中央部にあたり、大地主層の土地と並んで、封建時代の小さな領地が多数存在していた一帯であった。また、1334年の一般庶民の課税記録の最高評価額は、この一帯から出ている。これらの諸事実を総合すると、何故旧い木造建物が北部域に偏在するかが説明できるのではないだろうか。

fig16 に点在して示されている南部にある木造建物は、形式が若干異なり、主に LOW WEALD 地帯の西部に在る。SUTTON VALENCEBARDINGLEY FARMHOUSE だけは、ケント北部で多く見られる「古風な」( archaicaisled hall 形式のつくりであるが、他はすべて quasi aisled 形式である。そのうち3例には明らかに base cruck があり、他の事例にもあったのではなかろうか。
LOW WEALD 地帯には、このほかに、小さな base cruck のある3事例( YALDING に2例、SPELDHURST に1例)を挙げることができる。いずれも14世紀前半の建設と思われるが、fig16 には載せていない。この3例には archaic な様態がうかがえず、また後世に建てられたのではないか、と思わせる点もあるからである。これらは今は現在の呼称で呼ばれているが、それぞれの旧名称が分っている。すなわち、BRENCHLEYOLD CRYALS base cruck ではない)、HADLOWBARNES PLACESMARDENHAMDEN である。
HASTED 氏の著書に拠れば、OLD CRYALS は13世紀中期には、ALICA de WALTHAM からの OSTENHANGERCRIOL FAMILY の腹心としての KNIGHT FEE として維持されていた 。彼女は、GLOUCESTER の伯爵 CLARES 家(この一家は大司教から LOWY of TOMBRIDGE を委ねられていた)を引き継いでいる。
   註 このあたり、家系の説明と思われますが、よく分りません。直訳です。
     HASTED : 中世の歴史家のようです。
           Edward Hasted (20 December 1732 OS (31 December 1732 NS) – 14 January 1812) was the author of a major county history,
           The History and Topographical Survey of the County of Kent (1778-99).
しかしながら、14世紀の初期、多分現在の建物が建てられる前に、 CRIOL 家の資産は相続により Sir RICHARD ROKESLE の所有となり、その後、OSTENHANGER に併合されるが、それもまた相続で、より裕福な POYNINGS 家の所有となっている。これらの家族・家系はいずれも上層階級であって、また他の事例の状況は、OLD CRYALS は、こういう一家が自分たちの住居として建てる通常の住居の類とは異なる建屋であることを示唆している。ここに新たな疑問が生じる。すなわち、その資産を自ら管理していたのか、代理人によって管理されていたのか、あるいはまた「また貸し」されていたのか、・・など、その所有の様態についての疑問である。しかし、現在のところ、納得のゆく答は見付かっていない。
BARNES PLACE もまた TONBRIDGECLARES 家の所有である。それは、13世紀に MEDWAY 川とその支流域にCLARES 家がつくりだしたとされる多数の小荘園の一つである。BARNES PLACE自体は、借地権を得た小作農が維持していた土地であったらしい。CLARES 家が記録に現れる15世紀後期、新たな不動産の購入や地域の上流階層やロンドンの商人たちとの交流を通じて、一家は上流階層に成り上がる途上にあった。
SMARDENHAMDEN 家 については、1362年、JOHN HAMDEN が、 SMARDEN 教区の教会の鐘楼の維持費として年額6sの 寄付金を永代提供することを約束していることは分っている。しかし、彼がどのような人物で、どの程度の土地の所有権を持っていたのか、は不明である。彼が遺産相続で不動産を得たことは十分に考えらるのだが、何処が彼の保有地であるかが明らかでないから、詳細は分らない。しかし、HAMDEN 家 BARNES PLACE BARNES 家と似たような家族・家系であったと見なしてよいだろう。
彼らは、ケント北部平野域で aisled hall を建てた人びととは財政的には差があったけれども、彼等は数代さかのぼっても武力で得た土地は保有していないのである。(自らの営為で築き上げた資産である、という意と解します。)

むしろ、彼らは新興の階層、すなわち上層・貴族階層と小作農の間に位置する後世の富裕層の先駆者だったと言えるだろう。
彼らが建てた北部域のaisled hall とは別種のつくりの木造家屋は、BLACK DEATH の直後から記録に現れ始める富裕な小作農や自営農民( yeoman )の住居の原型と見なせるのではないだろうか。

     Builders of timber-framed houses の項 終り

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以上を読んでの筆者の感想

   「とりあえず」でない住まいを建てるには、当然、一定の資金がいる。
   資金は、その建て主がいかなる形で取得したかにより異なってくる。端的に言えば、建て主の生業(なりわい)により異なる。
   その生業は、建て主が、その地のその時代の社会構造の中で、どこに位置するかによって異なってくる・・・。
   本書は、この点について、主に「社会構造の中での位置」の視点で論究しているように思えました。
   建て主が、その地域の領主から土地を( fee として)賦与されていることまでは分るのですが、その土地での生業が具体的に見えてきません。
   例えば、FARM での暮しの様態について、詳しく知りたい、と思いました(後章に触れられるのかもしれません・・・。)

   それはそれとして、ここで述べられているような「記録」文書が、日本の場合どのくらい存在するのだろうか、とふと思いました。
   たとえば奈良・今井町の商家の場合でも、その所有者が現在と当初で異なっている場合がかなりあります。
   それぞれの菩提寺で過去帳などの精査である程度は分るかもしれませんが、他のいわば公的な記録文書などが、一般に、どの程度存在するのでしょうか。
   一方、ケント地域で、諸経緯が一定程度分るのは、本書の初めに、地域の「行政区」と「教区」とが同一であることが紹介されていましたが、
   この「行政」をも兼ねる「教会組織」の存在が大きいのではないでしょうか。
   もっとも、そこから分ることが、はたして、「事実」であったのかどうかの検証も別途必要になりますが・・・。

   それにしても、あたかも推理小説を読むかの趣の「論証の過程」の叙述は、日本では見かけず、くたびれはしましたが、新鮮ではありました。


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次回からは、4.Subsidiary accomodation : late 13th and early 14th centuries の章の紹介になります。
新たな事例の紹介が増えてきます。
   

「有識者(会議)」とは?

2015-03-19 15:36:30 | 近時雑感

よく撮れていませんが、遠くから見ると淡緑色に見える梅の花です。
花びらは白ですから、多分、が緑色を帯びているのではないかと思います。
白梅、紅梅とは別の風情があります。


「中世のケントの家々」次回分、あと1~2日かかりそうです。ご容赦。

先回紹介させていただいたインタビューの中に、「・・有識者よりも有倫者を・・」という言葉がありました。
現宰相の発言には、しばしば「有識者の見解を下に・・・」、という文言が出てきます。
ところで、有識者とは、何か?
「新明解国語辞典」の解説には、「それぞれの専門についての知識が広い上に経験も深く、大局的な判断が出来る点で社会の指導的地位に在る人。」とあります。
「大局(的)」とは、元は囲碁の世界の用語、「ものごとを全体的に見渡した場合の、動きや成行き。」のこと。石の動きの基本は「理」のはずです。

しかし、昨今、政府や行政が多用する「有識者(会議)」が、はたして、この字義に相当するのでしょうか?
「求利よりも究理を・・・」などで、もう何度も触れてきましたが、いわゆる〈科学者〉がすべて scientific であるとは限らないのと同じく、いわゆる〈有識者〉が「大局的に理の通った」判断」をするとは限らないのです。
第一、昨今政治の世界で話題になる「有識者会議」のメンバー:「有識者」なる方がたの人選は、誰あろう宰相あるいはその近辺の差配に拠っているのです。つまり、自分の《考え・見解》が叩かれるのを避けるための明らかな目眩し(めくらまし)のためであると、私には思えます。会議の設立意図自体が既に「理」に欠ける・・・。
その根底に、かつての下々は、エライひと:お上(の言うこと)に従えという恐ろしき《思考》が潜んでいなければ幸いです。

そんな折、昨日の毎日新聞夕刊の特集ワイドは、まさに、その点を衝いた記事でした。再び、web 版から全文を転載させていただきます。その論調は、理が通っています。是非ご一読ください。



「人と自然の境界線」 「指導層の知的貧困」 「科学の生んだ退廃」

2015-03-14 14:35:30 | 近時雑感

暖かい日が続き、当地でも梅がほぼ満開になりました。


3月11日から3日間、毎日新聞夕刊に「この国はどこへ行こうとしているのか 震災4年の重み」という特集が載っていました。
各界の方へのインタビューです。表題の文言は、その方がたの語られた言葉の一節です。

赤坂 憲雄 氏は、被災地で進む巨大な防潮堤や土地のかさ上げ工事を目にして、次のように語ります。
「・・・気仙沼のある地域では、失われていた干潟環境が津波によって復活し、そこでアサリが大繁殖を始めました。南相馬では絶滅危惧種のミズアオイの種子が一斉に芽吹き、各地に水鳥が飛来している。津波が人間のテリトリーを侵したわけですが、そこに思いがけず自然が復元・再生を始めている。ならば、自然が示した境界線を受け入れるシナリオがあってもいい、潟に還してやる選択があってもいい、と思うようになりました。・・・・」

柳田 邦男 氏は、現宰相の、《復興は確実に新たなステージへと移りつつある・・・。》との被災地での「発言」に接し、次のように語ります。
「・・・それは表面的だ。生身の人間のレベルで捉えないと、真実は見えない。地域の未来像を示せない政治・行政の指導層の知的貧困が、歳月が経過するほどに多くの被災者の生活、人生を深刻なものにしている。その実態にこそ目を向けるべきだ・・・。」

また、倉本 聡 氏は、壊れてしまった原発の廃炉よりも原発の再稼働を優先させ、さらに原発輸出に突き進む現状に対し、次のように語るのです。
「・・・僕は戦後70年を、科学によって生み出された退廃の時代だと思うのです。今後、政府は『有識者』ではなく、倫理のある人『有倫者』にこそ意見を聞くべきではないでしょうか。・・・」


毎日新聞の読者だけが読むのではもったいないと思い、web 版から全文を転載させていただきます。







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「中世ケントの家々」続き、英文と、出てくる固有名詞の「理解」に呻吟しています。まだまだ時間がかかりそうです・・・・。

「檻(の中に)にいるみたい・・・。」

2015-03-09 10:42:43 | 近時雑感

曇天のなか、山茱萸(サンシュユ)の花が開きました。
沈丁花(ヂンチョウゲ)も咲きだしたようで、香りが漂っています。
春 近しです。


[11日 9.45追記]

3月11日が近付いてきて、メディアには震災関連の話題が溢れています。
標題の文言:「檻(の中に)にいるみたい・・・。」は、宮城県で津波で自宅を流され、最近「仮設住宅」から「災害復興住宅」に移り住んだ方が語っていた言葉です。

「災害復興住宅」とは、災害で家屋を失い、自力で住宅を確保することが困難な被災者のために、地方公共団体が国の補助を受けて供給する住宅。「復興公営住宅(災害公営住宅)」などとも呼ばれています。要は、公営の賃貸「住宅」。
映像で見たのは、階段から片側廊下が伸び、その廊下に沿って住戸が並ぶ、ごく普通の中層:4~5階建ての「公営住宅」と同じでした。
そこに移られた方が、問わず語りにポツンと語ったのがこの言葉。
この言葉には、いろいろな意味が埋もれている、そう思えました。

階段を数階昇り、長い片側廊下を歩いて「自宅」に入る。出かけるときはその逆。
一つには、その一連の「過程」が、自宅からの外出を億劫にさせるため、必然的に自宅に閉じ籠りがちになること、もう一つは、外出しても、そこに拡がる「世界」は、見慣れた風景ではなく、知る人もいない・・・、それゆえ、外出の気運も失せてしまう。その結果、更に閉じ籠る・・・・。
それが「檻(の中に)にいるみたい・・・」との言葉になって口をついて出たのです。
地域の町会やNPOが、住人の交流のためのいろいろなイベントなどを企画し、外出を促している、とのことでした。

しかし私には、「檻(の中に)にいるみたい・・・。」との言は、「災害復興住宅」=「集合住宅」=「住まい」(のつくりかた)自体の根本的な「欠陥」をも突いているように思えました。
すなわち、「こういうのが『住居』なの?」という重い「問いかけ」

被災地の多くで、「復興」のための「計画」が実施されています。メディアでもたびたび紹介されます。
津波の「想定高さ」よりも高く盛土をして、あるいは、山の斜面を雛壇状に整形し平地をつくり、新たな「街区」「住区」を計画する。
その「計画図」は、私には、ほとんどすべて、かつて(そして今も)大都市周辺で行われてきた「住宅地開発」の「計画」そのもの、その「焼き直し」に見えました。
それは、一言で言えば、工場の計画と何ら変りはない
人や車の通る道路(パイプ)を《合理的に》並べ(配管し)住戸(機器)を配置(接続)する。適宜植栽でも施せば、《心地よい住環境》が整う・・・。
しかし、人は、パイプの中を流れる(流される)物質ではないのです。人は皆、自らの感覚の下に生きているのです。
そして、「住居:住まい」とは、『人』の暮す場所である。この「根本」が見失われている。


実は、被災した方がたの、「人としての思い」と、一般的に見られる《復興計画》《住宅地計画》(それはすなわち、「専門家の思考」の成果物に他ならない)との齟齬は、阪神・淡路震災の際の《復興計画》で、既に露わになっているのです。しかし、そこから何も変っていないのです、問題点を学んでいないのです!その点については、下記で触れました。
 「災害復興と再開発・・・これでいいのか?」

人の住まう場所:暮す場所、というのは、こういうものでよいのでしょうか?
   そのあたりのことについては、「建物をつくるとはどういうことか」のシリーズで私見をまとめています(下記)。
 
しかし、このような震災被災よりも更に深刻なのは、福島原発事故被災です。
我が宰相は、最近明らかになった放射能汚染水の海への漏水も港湾内に留まっている、ゆえに原発事故に伴う災禍は従前どおりブロックされていることに変りはない、と大見得を切りました。あたかも、原発事故は「収束した」かの言い様です。
しかし、未だに多くの人びとが、自宅に戻ることができないのです。子どものある若い世代は、放射能を危惧し、他地域に暮し、高齢の方がただけ戻る、という場合も多いようです。家族が分断されている。今後の見通しも立っていません。と言うより、立てようがないのです。
人びとは、従前の暮しに戻ることをブロックされているのです。それゆえ、ここ数年、老若問わず、心を病む方がたが増えているとも伝えられています。
   「除染」による汚染土の処理も未だです。しかもゴミ同様、発生地で処分せよというご都合主義の論理がまかり通っている・・・。
   棄てることができないのだから、放射性廃棄物などない、あるのは放射性廃物である、
   また除染などということは為し得ない、やっていること移染に過ぎない、これは、小出裕章 氏の言です。
   要するに「消去することができない」「いつまでも付いてまわる・・・」。
     毎日新聞6日付夕刊特集ワイドをご覧ください。

宰相はじめ現政権の方がた、そして政治家の方がたは、この実状を、心底から考えているのだろうか?私にはきわめて不遜に見えます。ましてや、現下のこういう状況下でも、未だに原発再稼働を推進すると言う。
いったい、この人たちの目には何が見えているのでしょうか?8日付東京新聞社説が、この点について、いつものように明解に論じていました。 web 版から転載させていただきます。


更に、福島の原発事故被災に焦点をあてた同紙9日付社説も転載させていただきます。


11日付信濃毎日新聞の社説もお読みください。同感です。[11日 9.45追記]

 「建物をつくるとは どういうことか」は、以下のようなシリーズです。
   第10~13回に要点をまとめてありますが、もしも気になり、お時間がありましたら、全編通してお読みいただければ幸です。
 第1回「建『物』とは何か」
 第2回「・・・うをとりいまだむかしより・・・」
 第3回「途方に暮れないためには」
 第4回 「『見えているもの』と『見ているもの』」
 第4回の「余談」 
 第5回「見えているものが自らのものになるまで」
 第5回・追補「設計者が陥る落し穴」
 第6回「勘、あるいは直観、想像力」
 第7回「『原点』となるところ」
 第8回「『世界』の広がりかた」
 第9回「続・『世界』の広がりかた」
 第10回「失われてしまった『作法』」
 第11回「建物をつくる『作法』:その1」
 第12回「建物をつくる『作法』:その2」
 第13回「建物をつくる『作法』:その3」
 第14回「何を『描く』のか」
 第15回「続・何を『描く』のか」
 第16回「求利より究理を」
 第16回・再び「求利より究理を」

「中世ケントの家々」の続きは現在編集中です。

「献金」と「寄付」

2015-03-05 10:40:15 | 近時雑感

今朝、ウグイスの初鳴きを聞きました。西側のモクセイの繁みのなかにいました。
モクセイの足元は、このところの雨で、勢いよく伸びたフキノトウの群落。
ここは、夏場は「蕗の原」になります。春は確実に近づいています。


[文言補完 14.35][追記 6日9.20]

「所得税確定申告」の季節です。設計の仕事は、病気をしたあと休眠状態ですが、事務所としての「形態」の「維持」のために、申告書は作成しています。
申告項目のなかに、「寄付金控除」というのがあります。
直接現場に出て支援活動はできないので、かねてから、「社会的支援」活動を続けてこられているいくつかの団体に、毎年、ささやかながら寄付をさせていただいてきました。その寄付金に対して、一定程度(これもささやかですが)税金が控除される制度。

そんななか、メディアは「政治献金」の話題で賑わっています。
政治家への「寄付」は「献金」と呼ばれているようです。
そこで、ふと、「寄付(金)」と「献金」の語意の違いを知りたくなり、例のごとく「新明解国語辞典」で調べてみところ、次のようにありました。
   献金ある目的に役立ててもらうように、お金をさし出すこと。また、そのお金。
   寄付人の仕事を助けるためにお金や物を無償で提供すること。「寄付金」。
今話題になっているのは、正式には「政治家への寄付・寄付金」のようです。寄付者には、個人もいるようですが、多くは企業や団体です。団体は、多くの場合、非営利団体の形態をとっています。しかし、非営利団体と言っても、多くは、同業者組合的な団体です(建築士会、設計事務所協会などもそれです)。社会的支援活動に徹している「真っ当な」NGOやNPOとは違います。団体の存在目的自体が違うのです。
   註 「真っ当な」、と書いたのは、最近NPOと称して利を貪る団体が散見されるからです。

では、なぜ「政治家への寄付」が「政治献金」と呼ばれるのでしょうか。
辞書の示す語義から判じて、寄付というからには、それは「人(政治家)の仕事を助けるため」の金やもの、ということ。では、いったい政治家の「どんな仕事」を助けよう、と言うのでしょうか?彼等は、よく、政治は金がかかる、と言います。しかし彼らは、国から「歳費」をもらっているし、「政務調査費」なる多額の費用をもらい、交通費なども特別扱いのはずで、当然「生活保護」などとも、全く無縁の世界に居るのです。
その彼らの「何を助ける」のか?
寄付者の「実態」が分ってくると、「何を助ける」のか、というより、寄付の「目的」が何か、おおよそ見えてきます。
そこから考えれば、「献金」と呼ばれるのは、論理的にも合理的表現であることが分ってきます。
つまり、「政治献金」と呼ぶのは、間違いではなく、私の感覚では、むしろ、多分に「贈賄」に近い意味合いを感じます。
補助金を付けてくれた「尽力」に感謝します・・・、つまり「謝金」。あるいは、今後も便宜のほどをよろしく・・・。[文言補完 14.35]

私には、真っ当なNGOやNPOに対して失礼千万な、きわめて「理の通らない」話にしか思えません。

「近時雑感」は、どうしても暗くなります・・・。外には陽光が輝いているというのに!

明快な論旨のコラムを紹介します。6日付東京新聞「筆洗」です。下に web 版から転載させていただきます。[追記 6日9.20]




“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-10

2015-03-03 10:23:41 | 「学」「科学」「研究」のありかた

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今回は、3 Ground-floor halls : late 13th and early 14th centuries の章から、前回の続きの次の2節の紹介です

  Differences between stone and timber halls
  The form and layout of the hall

  

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Differences between stone and timber halls石造 hall と木造 hall の違い

この時期(13世紀後期~14世紀初期)の木造建築石造建築の関係、aisled 形式の建築と unaisled 形式の建築の関係について、その様態を正確に述べることは簡単ではない。
先ず、今回の研究で調査された建物群から、fig15fig16 (下図)で明らかなように、石造架構建物と木造架構建物では、その地域内の分布に顕著な差があることが分かった。


石造建築は、fig15 のように、ケント地域内で広範囲に分布している。すなわち、石灰質や石英質の岩石が建築用材として採れる DOWNS の一帯、石灰質の岩石の露頭である THANET あるいは砂岩の採れる CHART HILLS の一帯にわたり分布している。
   註 DOWNSCHART HILLS第3回に掲載fig3 「地質図」を参照ください。
     THANETは、下図のケントの港湾都市図(再掲)の右側、ケント地域の北東端 SANDWICH の北側にある島状の部分の地域名称のようです。
     なお、DOVER 海峡に面する陸地自体が chalk :白亜質の地層の隆起した一帯です。
     
     ケントの一般図も下に再掲します。
         
中世に於いて、建築用の石材は、水運の便があれば、必要に応じ、かなりの距離を運ばれている。石材は主として教会系の建物や富裕層の住居用であった。
たとえば、1330年1月には、CHRIST CHURCH 修道院は、FOLKESTONE から SANDWICH へ、EASTRY 官邸 用に FOLKESTONE 石を運んでいる。石材は、そこから全国に運ばれていたのである。また、1322年3月には、MERSHAM の新しい Chamber Block 前回掲載の fig11 の建物?)が GREAT CHART から数マイルも山野を越えて運ばれた石材で建てられている。
けれども、こういうことが一般的に行なわれていたわけではなく、石材を遠距離運ぶなどということは、おそらく普通には、あり得なかっただろう。
その他の場所では、家屋は木造が主であった。しかし、ケント地域は森の多いところではあるが、北部と東部には建築に適した用材が少なく、木材は主に、WEALD 地帯西部から TENDERDEN 近くの港(河岸?) SMALLHYTHE を経て運ばれていた。
   註 FOLKESTONESANDWICH
     いずれも、上記「港湾都市図」のケント東部に在る。「一般図」には SANDWICH FOLKESTONE は載っていない。
      SANDWICH DOVER の北、FOLKESTONE DOVER の南東に位置し、DOWNS 地帯の東端部にあたる。
     FOLKESTONE では中石器時代の遺構が発見されているとのこと、古代から石材の産地だったのだろう。地名もそれに拠ると考えられる。
     GREAT CHART : 上掲「港湾都市図」の FOLKESTONE 北西の町 ASHFORD の近在の、多分、河川沿いの河岸(かし)ではなかろうか。    
     MERSHAM は、「山野を越えて・・・」ゆえ、 GREAT CHART から少し離れて在る農村と思われる。
      TENDERDEN SMALLHYTHE : アシュフォード: ASHFORD の南西あたりに在る町のようです。
     第3回に掲載した河川の描かれたケントの地勢図: fig4 を下に再掲します。 WEALD 西部からこの河川を経て木材が東部上流域に運ばれたのでしょう。
      WEALD 第3回に解説があります。先註からリンクできます。
     これらの街は、この河川沿いに在るものと思われます。



このように、各地域で使われる建築用材がその地域の特性に拠ることは確かではあるが、一方で、石という材料は、「社会的威信の証」としての一定の意味を持って使われていたようである。
14世紀までには、 PENSHURST PLACE をはじめ聖職者や宗教関係者により建てられる豪壮な邸宅は、その大半が石造で造られるようになっていた。しかし、13世紀の状況は、 first-floor hall についての論議が事態を複雑にしている。すなわち、13世紀の二階建て建物が first-floor hall であるとするならば、上層階級の hall は早くから石造であったことになるが、それが Chamber Block であるとするならば、併存の hall はおそらく木造であったはずで、石造部は単に住居の威厳付けのためであった、ということになる。
このように、これらの建屋の役割については多様な解釈があるけれども、石造 hall を富の象徴として建てる者が増えてくる1300年ごろまでは、農村地域の hall の 建築用材は、一般に木材が主であったと言えるだろう。
しかし、富の象徴としての石造の hall が木造の hall よりも大きく造られた、ということではない。この時期以降、ケント地域の PENSHURST PLACE 大司教官邸級の邸宅の壮大な hall は、7事例のうち6事例までは木造である。すなわち、富の象徴:建物の「格」=「大きさ」とは言えないのである。
aisle 形式は、建屋の幅を拡張するための一般的な方法であるが、石造では用いられていない。それゆえ、唯一の事例 NURSTEAD COURT fig12 )は、石造の aisle 形式であるが、そこでは、石材は aisle hall に特別の「格」を持たせるために用いられていると考えた方がよさそうである。そのほか、特に教会関係者の系譜の家屋では、石材の使用は、「格」や「地位」を示す方策として手っ取り早く、更に traceried window のような装飾的要素を設けることが、大きなhall をつくることよりも有効であると考えられていたようである。だからと言って、初期の石造家屋がすべて小さかった、ということではなく、これらの家屋は、そのすべてが、広大な附属室を備えている上に、46㎡を越える広さの hall を有しているのが常であった。

以上のような状況は、石材と木材は、異なる地位の、異なる考え方の建て主により選ばれ用いられていた、ということにほかならない。
現存する最も初期の木造の aisle hall は、ほとんどが、どの石造の hall よりも建設時期が旧い。したがって、以上のような状況は、最上層階級の家屋が変容してきた過程、それはすなわち彼等の生活慣習・風習の変容の過程でもあるが、その過程を経て辿りついた様態、と考えてよいのではなかろうか。 LUDDESDOWN COURTSQURRYES LODGE には、ある時期、 aisle 形式の ground-floor hall が在った可能性が強い。そして、そのground-floor hallが現存していないということは、それらが木造であったことを示唆している。
このような遺構調査に拠る明確な証拠もない推論は論議を呼ぶことは間違いないが、いまのところ、この状況・現象を説明できるそれ以外の解釈が見当たらないのである。
14世紀初期までに、高級な家屋からは aisle 形式が姿を消す。そして、大きくしかも壮麗な木造家屋では、 aisle 形式の架構の弱点を補う新しい手法が考案されていた。それは、広いhall の中央に独立の柱を設ける工夫であった。そして、1300年ごろまでに、その工夫によって、人びとは aisle 形式の木造架構の伝統を離れ、 unaisled hall 形式の石造建築に傾倒していったのである。

          Differences between stone and timber halls の項 了

この項の筆者の読後の感想
   イギリスにも、たしかに木造の建築がありますが、木材が豊かな地域ではありません。
   一方、手近には、石材、というよりも扱うのに手ごろな「石片」「小石」が多数在ったようです。
   それは、転載した石造建物の写真の壁面に、加工を施した石が見当たらないことに現れています。
   とは言うものの、扱いやすい点では木材が上。おそらく、一般庶民は、自前で、木材を使い建物を造っていたのだと思われます。
   一方、支配階級:上層階級は、堅固な城砦:castle や宮廷: palace を石で「造らせた」。
   そこから、[上級=石造]、という「感覚」が生まれ、財を得た一般庶民も、その富の表示:「見栄」のために、石造を「散り嵌める」ようになる・・・・。
   このような「過程」は、洋の東西を問わず起きるのだ、とあらためて思いました。
   大事なのは、その「過程」を経ることで、「『本質』をいかにして見失わないか」ということではないでしょうか。


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The form and layout of the hallhall の形態とその構え方

石像、木造を問わず、広い hall の(桁行:長手の)柱間(原文: bay )が数間(すう けん)に分れる。そのため、 aisle 形式の hall の場合、空間を横切る梁組(原文 : division )が、構造的にも視覚的に目障りだが、 unaisled 形式の木造建物でも同様ではあるが、小屋組のトラス tie-beam 繋ぎ梁:からへと連続し、大きなアーチ状の brace 支え:で結ばれているため、一体感がある。
   註 fig10 (下図:再掲)のような unaisled  形式の架構を説明しているものと推察し、原文をかなり意訳しました。
     
     brace : (倒れないようにする)突っ張り、支柱。
          通常、「筋違(筋交)」と訳されている。「筋交」は、「筋:直線が斜めに交差している状態」のことを言う。
          「かう」⇒「支う」ex「突っ張りを支う(かう)」。「筋」は「直線状のもの」⇒「筋」で支えを入れる=「筋を支う(かう)」⇒「筋交」= brace
          
IGTHAM MOTEBATTEL HALL の二つの石造の建物の場合、空間を横切る梁組(原文 : division )は fig13 (下図 :再掲)のように石造のアーチで造られている。この方法は、他には、唯一 SUSSEX MAYFIELD に例があるだけである。
     
しかし、石造建築の多くは、小屋組は小割の規格角材で造られ、 bay :柱間:も適当である。CHRIST CHURCH 修道院の大邸宅のほとんどの hall ACRISE HOAD 家(農家)がその例である。同様な例は PENSHURST PLACE にも見られ、そこでは、小屋組の棟束 crown post )、繋ぎ梁 tie beam )は地面よりはるか上に在り、その下に居る人の目障りにならない。
   註 棟束 crown post ):吊束(つりづか:釣束)とも言う。
      繋ぎ梁 tie beam ):陸梁(ろくばり)とも言う。
hall には、梁組 division )が1本架かる(したがって bay :柱間:2間)が、大きな場合は梁組が2本( bay :柱間:3間)が普通である。時には、 CHARTHAM THE DEANERY fig10 (前掲) の CHILHAM HURST 家(農家)のような割付け例もある。
また、 hall 端部の出入口の個所では、柱間: bay を一段狭くしたり、 spere truss を設けて空間を区切る例もある。 SUTTON VALENCE BARDINGLEY 家(農家)、 FAWKHAM COURT LODGE fig9 (下図:再掲) の AYLESHAM RATLING COURT fig14 (下図:再掲) の SOUTHFLEET 牧師館などがその例。
   
     
   註  spere truss : 第9回fig46 をご覧ください。spere ≒ screen
     空間の「隔て」: screen として設ける「軸組:柱+小屋組」のことと解釈します。
同様の手法は、 PLUCKLEY PIVINGTON の遺構でも認められている。他の初期の事例でも、小屋組には関係ない「隔て( spere or screen )」を設けて出入口 hall の主部とを仕切る方策が採られていた可能性が高い。その実例が、 HAMDEN SMARDEN に在り、 JOYDENS WOOD で見付かった hall にも、低い「隔て: spere 」が存在したのではないか、と推定されている。
いくつかの事例では、「隔て」により仕切られた通路へは、ポーチを経て入るようになっている。 PENSHURST PLACE には、1340年代の美麗な二階建のポーチがあり、また、 IGHTHAM MOTE の小屋組には、多分木造と思われる二階建のポーチ(外観にその痕跡は認められないが)の出入口の上に、アーチを受ける橋台abutment )が見えている。
ポーチは平屋が普通で、二階建は珍しい。なお、多くの遺構では、一般に、入口の前に突出し部(雨除けの庇のごとき設備か?)を設けていた形跡がある。 JOYDENS WOOD SURREY ALSTED SUSSEX BODIAM などにその例がある。実例が、 SMARDEN HAMDEN に現存し、また、 BORDEN THE PLESTOR の事例では、残存している多数の枘孔が、現在の煉瓦造ポーチは当初の木造のポーチを引き継いだものであることを示している。しかし、この痕跡のある出入口が、当初の aisled hall と同時代のものとは言い難い。というのも、この hall は断片的にしか残存していないからである。
   註 JOYDENS WOOD : ケントの北東部、大ロンドンの南東に接する場所に位置する林地のようです。
      SURREY : 前掲の「ケント地域一般図」の左端部の「サリー」と表記の地域。ALSTEDは、そこに位置する村。
      SUSSEX : 「ケント地域一般図」参照。BODIAMはその地域内の小村か。
      SMARDEN :「ケント地域一般図」の東部に在る アシュフォード : ASHFORD という町の西部に位置する郡(教区)名。 HAMDEN は村名か?
      THE PLESTOR :有名な煉瓦造建築の遺構、BORDENは、SITTINGBOURNEの南西に在る農村名。
        SITTINGBOURNE は、ケント地域一般図のノースダウンズ丘陵北側にギリンガムという町がありますが、その東10数キロのところに在る町。
        また、「港湾都市図」には、字が小さいですが、載っています。
CHILHAMHURST 家(農家)には、当初のままの出入口が、後世に造られたポーチの下に遺されている。その保存状態の良さは、それが建設時から大事にされてきたことを物語っている。
このように、ポーチを設けることは、家屋のいわば標準的な形式になっていたとは考えられるが、ほとんどの場合(壊すときは)跡形なく壊されているから、一般的には家屋に不可欠な場所とは見なされていなかったのだろう。

現存する建物は、 hall 上段・上座の構え方について考える上で、いくつかの手掛かりを与えてくれる。 造り付けのベンチを示す痕跡や、例は少ないが端部の壁上の「差掛け」:キャノピーcanopy )は、明らかに、後期になってから現れる。しかしながら、GREAT CHART COURT LODGE の上座側の壁の近くに設けられている(構造的には)余計な「繋ぎ梁」( tie-beam )や、fig14 のSOUTHFLEET 牧師館の同じ位置にある crown post truss も、 hall 上座に特別な意味を与えるために設けた架構かもしれない。
   註 crown post trussking post truss と同型のトラス組。
     「トラス組・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」に解説してあります。
hall では、炉床hearth )は、普通は上座側に向けて設けられる。PENSHURST PLACE では、炉床hearth )は、上座側にあたる小屋トラス組の位置にあるが、見つかったすべての hall でも、同様の位置に炉床 hearth )が確認されている。
炉床 hearth )からの煙を逃がすための開口部付の越屋根louver )も稀に遺されている。SOUTHFLEET 牧師館CHARTHAM司祭邸The Deanery )、SMARDENHAMDENには、開口部付の越屋根louver )の形跡が認められるが、それらは、hall の出入口側の端部に設けられている。多分、煙を上座側から離れた位置で逃がすためと思われる。しかし、この越屋根は、残念ながら、多くの場合、そこに集合煙突を取付けるにあたって壊され、原型をとどめていない例が多い。COPTON 邸( manor )や RATLING COURT ( fig9 )も消滅した例であろう。
   註 当初のイギリスの暖房は、日本と同様、囲炉裏状の場所で火を焚く方式で、そのために「煙出し」を設ける場合があった、ということの解説と思われます。
      開口部付の越屋根louver ): 開口部に格子louver )の付いた越屋根。こういう設備自体を louver と呼ぶようです。
      具体的な形状は解説、図がないので不詳ですが、後述の fig12 のような破風屋根のある「破風窓」か?
しかし、hall がすべて、越屋根を備えていたかどうかは確かではない。集合煙突がなく、越屋根の形跡も見当たらない事例もいくつかある。
fig13 IGHTHAM MOTE には、1860年代には集合煙突が明らかに存在していたが、現在はその痕跡もない。また、fig11MERSHAM MANOR の屋根にも越屋根の存在を示す形跡は何もない。これは、14世紀後期に建てられた GREAT CHARTGODINTON PARK などの後世の建物によく見られることである。
   註 GREAT CHART : 「ケント地域一般図」(前掲)の ASHFORD 近在の村。
      GODINTON PARK : 煉瓦造の建物で、イギリスの文化財指定建造物のようです。wikipedia で紹介されています。
hall 上座側には、両側の壁に一つずつ、時には二つの背の高い窓が設けられることが多く、その事例が石造の家屋にいくつか遺っている。ほとんどの場合、窓の上部には簡潔な「はざま飾りトレーサリーtracery )」が付けられ、屋根の低くなる側には「破風窓」が設けられる。 GODMERSHAM の COURT LODGE に最近まで存在したが、fig12 NURSTEAD COURT には現存する。この形式の窓の先例は、13世紀の CANTERBURY の大司教官邸にまでさかのぼり得るものと思われる。
木造の建物、特に aisle 形式の場合、 hall の窓は取り壊されている場合が多いが、fig10 CHILHAM HURST 家(農家)には、当初のままの窓が遺されている。

          The form and layout of the hall  の項 了

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    次回は、 Builders of stone houses と Builders of timber-framed houses の項を紹介します。
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以上を読んでの筆者の感想
    読むにあたって、layout をどのように訳したらよいか、しばし考えました。「間取り」で適切だろうか??結局「構え方」とすることにしました。
    日本の住居の研究では、いわゆる「間取り」に関心がゆくのが常です。
    しかし、この書で用いている「 layout 」という語は、この「間取り」に相当する概念ではないように思えたのです。
    解説から察するところ、 hall layout とは、「 hall の空間の構成のしかた」、というような意味合いのように思われました。
    つまり、建物は、先ず「どんな様相の空間にするか」という「観点」でつくられるのだ、という視点です。
    それゆえに、“ form and layout”との文言になると思えたのです。
    一方、わが国では、「先ず『用』があり、それに応じて『形』が与えられる」という「思考形式」を採るゆえに、「間取りから形へ」との叙述になるのです。
    つまり“form follows function”が、まさに《直訳的に》理解されているのです(この「思考形式」の問題点については、下記で詳しく触れています。
      「形の『謂れ』・補遺
    考えるまでもなく、原初、人が自らの「住まい」をつくるとき、先ず「用」を考え、それに「形」を与える、などという「過程」をたどることはあり得ません。
    「用→形」という「思考」は、いわば「結果論」つまり、「人為」を結果で云々することから生まれたものだからです。

    読んでいて、イギリス中世の人たちが、身分の上下に関係なく、いわば「大らかに」、我が家をつくっている姿が彷彿としてきました。
    そしてそれは、単に中世イギリスだけではなく何処でも、つまり日本でも同じだったはずなのです。
    そんなわけで、住まいをつくる、ということの「原初的な意味」=「根元的な意味」が、現在、見失われているのではないか、とあらためて感じています。