日本の建築技術の展開-22・・・・桂離宮-1

2007-05-17 01:25:17 | 日本の建築技術の展開

[記述追加:5月17日8.50AM]

 日本の建築というと、かならず桂離宮が持ち出されるから、触れておかないわけにはゆかない。
 しかし、桂離宮が日本の《一級建築》として扱われるようになったのは、ブルーノ・タウトが絶賛してからのこと。
 
  註 昨年12月26日に紹介した遠藤新の論説
    「一建築家のする―日本インテリへの反省」参照。

 そのころ、日本人のほとんどがその存在を知らず(忘れ)、建物は荒廃し、倒れんばかりであったという。建物が倒れんばかり・・になったのには理由がある。倒れんばかりになっておかしくないつくり(末永く在り続けることなど、考えてないつくり)だったからだ。


 桂離宮は、「八条宮(はちじょうのみや)」家の初代、智仁とその子どもにより、1620年(元和6年)ごろから1640年(寛永17年)前後にかけてつくられた京都桂川下流の河川敷近くの元は山荘である。
 一説には、工事には、遠州配下の工人がかかわったのではないか、とも言われている。遠州流を思わせるところがあるからだろう。

 上掲の鳥瞰写真と図は、「原色日本の美術 15 桂離宮と茶室」からの転載。
 図は、建物平面図と各部屋の使い方の説明図。

 私が学生のころは、建物の中も見ることができたし、外もゆっくりと見ることができた。今は、あたかも「ところてん」のように警備員に後から押されて見るしかないらしい。修学院もそのようだ。
 
 最初に「桂離宮」を訪れたとき、庭を歩いていて、たしかに技は見事だが、計算が見え見えで不快な思いを抱いたことを覚えている。だからなんだって言うんだ・・・、という苛立ち。
 後になって、「これはまさに《現代建築》だ」と思うようになった。懸命になって「見せ場」を見せようとするからである。なぜ、それを見なければならないのか、という理由が見当たらない。だから、途中から疲れてしまう。それが不快になる原因。言ってみれば、無理な観賞を強いられるイベント会場のような印象。

  註 「視覚風景」の追求に終始し、「心象風景」とはならない。
    だから、「遠州流」ではない、と私は思っている。

 なぜ、「孤篷庵」や寺院の客殿などと、まったく異なるのだろうか。

 寺院の客殿は、客殿ではあっても日常の暮しの一環としての客殿。「孤篷庵」も住まいの一部。多分、この点の違いが生み出した差異なのではないだろうか。
 おそらく、桂離宮は、初めこそ自らの山荘だったかもしれないが、途中からは施主:作者のプライドの見せ場になってしまったのだ。そこが《現代建築》と通じるのだ。

 ただ、《現代建築》とは違う点がある。
 それは、《現代建築》は人の金でつくるが、桂離宮は自前だ、ということ。だから、いかに不快になっても許せる。

  註 私には、「修学院離宮」の方の評価が高い。
    そうである「必然性」が感じられるからである。 

  註 「桂離宮」を見たら、是非、「孤篷庵」も観ることをお勧めする。
    「孤篷庵」の拝観は、希望日時等を記し、手紙等で直接申し込む。
    ただし、少人数。写真等不可。 

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