[写真削除 8日 20.33]
重ね着はやっと0.5枚ほど薄くなりました!結構しんどい!
しかし、感じたことは直ぐ書かないと・・・。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
先回のおしまいで、次のように書きました。
・・・・
私の暮す町の一角、当然あたりは畑地と混交樹林が広がっています、そこに最近保育園が建った。
壁は真っ黄色に塗られ、越屋根の壁面は真っ赤。壁には丸窓が配されている。「配されている」と書いたのは、その窓の配置に意味があると思えないから。
・・・・
それがどんな建物なのか、写真を載せます。
実を言えば、こんな事例を出すのは、恥かしい、という思いがあった。茨城県という地域の、ある意味で「素性」を広しめるようなものだから・・・。
でも、考え直し、やはり、どこのものであれ、おかしいと思ったものはおかしい、何がおかしいのか、考える必要がある、という結論に達しました。
[写真は削除しました]
この保育園は、町の幹線道路に沿って建っています。
幹線道路と言っても、まわりは畑作と牛の畜産の盛んな一帯で、そうでないところは混交林です。
第二次大戦後、外地からの引揚げてきた方がたが混交林を切り開いた開拓地、だから「新生」などという地名もあります。
集落は散村の様相を呈しています。もし、大都会に近かったら、とっくの昔に住宅地として《開発》されていたに違いありません。幸い、都会は遠かった!
そのため、ここは、主な集落からは数キロは離れています。
こういうところの林を切り開いて、高齢者向けの施設がよくつくられます。最大の理由は、地価が安く、広い敷地が確保できるからでしょう。
しかし、人びとの暮すところからは「隔離された」、と思われる高齢の方がたが居られてもおかしくない、そういう場所です。
そして、その経営をする方が、その高齢者施設の続きに、今度は保育園をつくった。
これにも訳があります。
この町では、それまで地域内の数箇所にあった保育園・保育所を、経費削減として廃止し、民間に任せるべく「方針」を転換したのです。どうやら、これは国を含めた上部行政団体の意向でもあるらしい。
本当は、先ず、この「方針」が問題なのですが、それは今回は脇に置くことにします。
その建物を、遠くから見たのが、次の写真です。
[写真は削除しました]
工事が終わってフェンスがはずされたとき、いささか驚いたのを覚えています。何だこれは!
それが保育園だと知ったのは、しばらく経ってからです。
反対側から近づくと、次のような景色が見えます。
奥に見えるのが高齢者の施設。そのさらに奥が、混交林。新緑と紅葉の季節、見事です。大きいのはケヤキ。
そして、さらに近づくと
[写真は削除しました]
出入口が見えますが、これは子どもたちの出入口ではありません。平面図を見ていませんから詳しくは分りませんが、これでは子どもたちの出入りには狭い。
多分、子どもたちは、この建屋の向う側に歩いてまわるのではないでしょうか。最初の写真に、この建屋の奥にも建屋が見えます。これが子どもたちの場所だと思われます。
書き忘れましたが、子どもたちは通園バスで連れてこられます。親が仕事に出る前に連れてくるにしても車ですが、それにはちょっと辺鄙な場所。
もっとも、このあたりでは、都会と違って、親は勤め人とは限りません。農業従事者だって、保育を頼む場合があるのです。
今でも、この町の農業従事者には、二世代以上で暮すお宅が多い。
だから、一定程度は幼い子どもを見護ることができます。
しかし、高齢化が進むと、農業従事者の方がたも保育を必要になるときが来ます。
そして、こういう集落が飛び飛びに在る地域では、保育園・保育所は近場にある方がよい。
勤めの行きがけに保育園に預けてゆく、というのは都会の「イメージ」。
都会の「イメージ」をこういう地域に当てはめるという考え方は、根底がおかしいのです。
思わず「一票の格差」論を思い出してしまいます。
一票の格差が憲法違反なら、生活権の不平等は、もっと憲法違反。
なぜ、それを裁判で争わないのですか、弁護士さんたちは?
それにしても、どうしてこのような建物ができてしまうのでしょうか。
「このような」の言葉には、先回書いた色彩の話もありますが、その敷地へのつくりかたもあります。なぜ、手前に、大きく威容を誇る(異様かもしれない)が立ちはだかるのか?
おそらく、設計者の頭には、保育園に必要な「諸室」は「数え上げられていた」に違いありません。あるいは、経営者から要求されていた・・・。
その「諸室」を、どのように組み合わせればよいか、設計者が描いたのは、その「図」であったのではないでしょうか。
私は、若いころを思い出します。
私が最初に「責任」を持って設計に携わったのは、そのときいた大学の研究室が依頼された小学校の設計でした。今から45年ほど前のこと。そのころは、大学の研究室が設計をすることができた時代だった。
私のいた研究室は、主に、学校や図書館、病院など、いわゆる公共建築の「建築計画」についての研究をしていた。
そこで為される研究は、平たく言えば、それぞれの公共施設に必要とされる「諸室」は、いかに「合理的」に配列するのがよいか、というもの。
小学校についても、多くの「指針」が編み出され、「基準」のようにもなっていた。
多分、多くの建築を学ぶ学生は、設計演習では、その「指針」をいかに建物にするか、で悩むはず。なぜ悩むかと言えば、「配列」が決まったからといって、それでは「形」にはほど遠いからです。
私も学生のとき、悩んだ。形にならない。
そこで、建物の形とは何だ、だいたい、建物とは、そもそも何なのだ。それをつくるには何を考えればいいんだ・・・。しかし、それについての「ものの本」などない。今だってないはずです。
ゆえに、「独学」するしかない。しかし、表立ってそんなことを言うなど、もってのほか。
なにしろ、前にも触れたことがありますが、「その本質は何だ」、などという論議はご法度だった・・。
私が、その小学校を設計するに当たってまず考えたこと、それは、学校とは、子どもたちの日常が展開する場所、それぞれの家庭の代替場所だ、ということでした。
逆に考えたのです。もし学校がなかったら、子どもたちは日常をどう過すのか。
そのとき、子どもたちは、それぞれの住まいあるいはその近くで、親に見護られつつ、日々をすごしているはずだ、その日常と、学校での日常はまったく異なるものであってよいのか?
教師の役割とは何か?読み書き算盤を教えるだけなのか?・・・・。
保育園、幼稚園も、本質は変りありません。
年齢が低いだけ、もっと「代替」の意味が「重い」でしょう。
そう考えることで、小学校とは何か、そのイメージが見え出しました。
学校という場所は、子どもたちそれぞれの暮す住まいと、大きく変っていてはならないのだ・・・。
そして同時に、何もない土地の上に、新たに「もの」を置く、というのはどういうことなのか、についても学ばざるを得ませんでした。
そういうことについては、教育の場面では何ら触れられないのです。これは、今でも変らないでしょう。
建物をつくるというのは、単に、建屋をつくることではない。
建屋とは、必要とされる「諸室」を嵌めこめばよい、というものではない。
第一、昔から、人は、そんなふうには建物をつくってはこなかったはずだ・・・。
私のものの見方は、大きく変りました(それは、今も続いています)。文句言われてもいい、思ったとおりにやってしまえ・・・。
私が最初に係わった小学校は、現在、この世にありません。取り壊されています。
辛うじて、その姿は、いくつかの書籍に載ってはいますが、どれも古書の類になっています(雑誌「建築」1965年5月号、「日本建築学大系」「建築設計資料集成」の旧々版の学校建築の項など)。
その小学校の名は、青森県「七戸町立城南小学校」。七戸はこのたび全通した東北新幹線の「七戸・十和田」駅のある町。元々、国道はこの町を通っていて、東北本線が海岸線を通ってから、知られなくなっていた町。今の季節、雪に埋まっているでしょう。
しかし、この建物については、批判ごうごう。ときには非難ごうごう。これは学校ではない・・・。では何だ?
この建物については、いずれ、いつか、紹介しようとは思っています。
しかし、私は、ここで考えたことを捨てることはしませんでした。
つまり、建物の「意味」を考えない設計は、設計ではない。「形」の意味を考えない設計は、それも設計ではない。・・・・
しかし、私が知る限り、そして見る限り、なぜその建物をつくるのか、つくらなけらばならないのか、なぜそういう形になるのか、・・・これについての真っ当な論議は、現在、以前よりもはるかに少なくなっているように思えます。少なくとも、私の学生時代には、少しではあっても、喫茶店でそんな話が飛び交ったものでした。
そんな青臭いことができるか、アホクサ、何の足しにもならない・・。そんなところかも知れませんね。
なぜこんな昔話を書くか。
それは、少しでも、「保育園とは何か」、「形とは何か」について考えることができていたならば、冒頭の写真のような建物はつくれないはずだ、と思うからです。
どうして、大したことではないのに、建物づくりの根底について考えないのだ、あなたたちのやっていることは、字の通り、環境破壊そのもの、どうしてそれに気付かないのだろう?
これも、先回まで3回にわたって書いた「作法」の欠落以外の何ものでもない、そのように私は思います。
そして、見渡す限り、建築家は、建築《芸術》家も含めて、口では環境問題を唱えながら、率先して環境破壊を為している、そして、世の「識者たち」は、そのことを知らずにそれを「評価」する・・・。
「経済」も冷えているようです。
かつて、経済が冷えているときほど、いい建物が生まれています。1950年代がそうです。
工費が限られているほど、いい建物ができる。これはまことに皮肉な現象です。
お金の使い方が真剣だからなのでしょう。「遊ぶ」金などなかったのです。
そして今は、「遊ぶ」ことに使って、肝腎なことを忘れた・・、それが今の建築界。冒頭の写真は、まさに、その悪しき典型。
設計とは、自分の「遊び」のためにすることではない、自分の「遊び」を「頭に描く」ことではない、私はそう思っています。
重ね着はやっと0.5枚ほど薄くなりました!結構しんどい!
しかし、感じたことは直ぐ書かないと・・・。
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先回のおしまいで、次のように書きました。
・・・・
私の暮す町の一角、当然あたりは畑地と混交樹林が広がっています、そこに最近保育園が建った。
壁は真っ黄色に塗られ、越屋根の壁面は真っ赤。壁には丸窓が配されている。「配されている」と書いたのは、その窓の配置に意味があると思えないから。
・・・・
それがどんな建物なのか、写真を載せます。
実を言えば、こんな事例を出すのは、恥かしい、という思いがあった。茨城県という地域の、ある意味で「素性」を広しめるようなものだから・・・。
でも、考え直し、やはり、どこのものであれ、おかしいと思ったものはおかしい、何がおかしいのか、考える必要がある、という結論に達しました。
[写真は削除しました]
この保育園は、町の幹線道路に沿って建っています。
幹線道路と言っても、まわりは畑作と牛の畜産の盛んな一帯で、そうでないところは混交林です。
第二次大戦後、外地からの引揚げてきた方がたが混交林を切り開いた開拓地、だから「新生」などという地名もあります。
集落は散村の様相を呈しています。もし、大都会に近かったら、とっくの昔に住宅地として《開発》されていたに違いありません。幸い、都会は遠かった!
そのため、ここは、主な集落からは数キロは離れています。
こういうところの林を切り開いて、高齢者向けの施設がよくつくられます。最大の理由は、地価が安く、広い敷地が確保できるからでしょう。
しかし、人びとの暮すところからは「隔離された」、と思われる高齢の方がたが居られてもおかしくない、そういう場所です。
そして、その経営をする方が、その高齢者施設の続きに、今度は保育園をつくった。
これにも訳があります。
この町では、それまで地域内の数箇所にあった保育園・保育所を、経費削減として廃止し、民間に任せるべく「方針」を転換したのです。どうやら、これは国を含めた上部行政団体の意向でもあるらしい。
本当は、先ず、この「方針」が問題なのですが、それは今回は脇に置くことにします。
その建物を、遠くから見たのが、次の写真です。
[写真は削除しました]
工事が終わってフェンスがはずされたとき、いささか驚いたのを覚えています。何だこれは!
それが保育園だと知ったのは、しばらく経ってからです。
反対側から近づくと、次のような景色が見えます。
奥に見えるのが高齢者の施設。そのさらに奥が、混交林。新緑と紅葉の季節、見事です。大きいのはケヤキ。
そして、さらに近づくと
[写真は削除しました]
出入口が見えますが、これは子どもたちの出入口ではありません。平面図を見ていませんから詳しくは分りませんが、これでは子どもたちの出入りには狭い。
多分、子どもたちは、この建屋の向う側に歩いてまわるのではないでしょうか。最初の写真に、この建屋の奥にも建屋が見えます。これが子どもたちの場所だと思われます。
書き忘れましたが、子どもたちは通園バスで連れてこられます。親が仕事に出る前に連れてくるにしても車ですが、それにはちょっと辺鄙な場所。
もっとも、このあたりでは、都会と違って、親は勤め人とは限りません。農業従事者だって、保育を頼む場合があるのです。
今でも、この町の農業従事者には、二世代以上で暮すお宅が多い。
だから、一定程度は幼い子どもを見護ることができます。
しかし、高齢化が進むと、農業従事者の方がたも保育を必要になるときが来ます。
そして、こういう集落が飛び飛びに在る地域では、保育園・保育所は近場にある方がよい。
勤めの行きがけに保育園に預けてゆく、というのは都会の「イメージ」。
都会の「イメージ」をこういう地域に当てはめるという考え方は、根底がおかしいのです。
思わず「一票の格差」論を思い出してしまいます。
一票の格差が憲法違反なら、生活権の不平等は、もっと憲法違反。
なぜ、それを裁判で争わないのですか、弁護士さんたちは?
それにしても、どうしてこのような建物ができてしまうのでしょうか。
「このような」の言葉には、先回書いた色彩の話もありますが、その敷地へのつくりかたもあります。なぜ、手前に、大きく威容を誇る(異様かもしれない)が立ちはだかるのか?
おそらく、設計者の頭には、保育園に必要な「諸室」は「数え上げられていた」に違いありません。あるいは、経営者から要求されていた・・・。
その「諸室」を、どのように組み合わせればよいか、設計者が描いたのは、その「図」であったのではないでしょうか。
私は、若いころを思い出します。
私が最初に「責任」を持って設計に携わったのは、そのときいた大学の研究室が依頼された小学校の設計でした。今から45年ほど前のこと。そのころは、大学の研究室が設計をすることができた時代だった。
私のいた研究室は、主に、学校や図書館、病院など、いわゆる公共建築の「建築計画」についての研究をしていた。
そこで為される研究は、平たく言えば、それぞれの公共施設に必要とされる「諸室」は、いかに「合理的」に配列するのがよいか、というもの。
小学校についても、多くの「指針」が編み出され、「基準」のようにもなっていた。
多分、多くの建築を学ぶ学生は、設計演習では、その「指針」をいかに建物にするか、で悩むはず。なぜ悩むかと言えば、「配列」が決まったからといって、それでは「形」にはほど遠いからです。
私も学生のとき、悩んだ。形にならない。
そこで、建物の形とは何だ、だいたい、建物とは、そもそも何なのだ。それをつくるには何を考えればいいんだ・・・。しかし、それについての「ものの本」などない。今だってないはずです。
ゆえに、「独学」するしかない。しかし、表立ってそんなことを言うなど、もってのほか。
なにしろ、前にも触れたことがありますが、「その本質は何だ」、などという論議はご法度だった・・。
私が、その小学校を設計するに当たってまず考えたこと、それは、学校とは、子どもたちの日常が展開する場所、それぞれの家庭の代替場所だ、ということでした。
逆に考えたのです。もし学校がなかったら、子どもたちは日常をどう過すのか。
そのとき、子どもたちは、それぞれの住まいあるいはその近くで、親に見護られつつ、日々をすごしているはずだ、その日常と、学校での日常はまったく異なるものであってよいのか?
教師の役割とは何か?読み書き算盤を教えるだけなのか?・・・・。
保育園、幼稚園も、本質は変りありません。
年齢が低いだけ、もっと「代替」の意味が「重い」でしょう。
そう考えることで、小学校とは何か、そのイメージが見え出しました。
学校という場所は、子どもたちそれぞれの暮す住まいと、大きく変っていてはならないのだ・・・。
そして同時に、何もない土地の上に、新たに「もの」を置く、というのはどういうことなのか、についても学ばざるを得ませんでした。
そういうことについては、教育の場面では何ら触れられないのです。これは、今でも変らないでしょう。
建物をつくるというのは、単に、建屋をつくることではない。
建屋とは、必要とされる「諸室」を嵌めこめばよい、というものではない。
第一、昔から、人は、そんなふうには建物をつくってはこなかったはずだ・・・。
私のものの見方は、大きく変りました(それは、今も続いています)。文句言われてもいい、思ったとおりにやってしまえ・・・。
私が最初に係わった小学校は、現在、この世にありません。取り壊されています。
辛うじて、その姿は、いくつかの書籍に載ってはいますが、どれも古書の類になっています(雑誌「建築」1965年5月号、「日本建築学大系」「建築設計資料集成」の旧々版の学校建築の項など)。
その小学校の名は、青森県「七戸町立城南小学校」。七戸はこのたび全通した東北新幹線の「七戸・十和田」駅のある町。元々、国道はこの町を通っていて、東北本線が海岸線を通ってから、知られなくなっていた町。今の季節、雪に埋まっているでしょう。
しかし、この建物については、批判ごうごう。ときには非難ごうごう。これは学校ではない・・・。では何だ?
この建物については、いずれ、いつか、紹介しようとは思っています。
しかし、私は、ここで考えたことを捨てることはしませんでした。
つまり、建物の「意味」を考えない設計は、設計ではない。「形」の意味を考えない設計は、それも設計ではない。・・・・
しかし、私が知る限り、そして見る限り、なぜその建物をつくるのか、つくらなけらばならないのか、なぜそういう形になるのか、・・・これについての真っ当な論議は、現在、以前よりもはるかに少なくなっているように思えます。少なくとも、私の学生時代には、少しではあっても、喫茶店でそんな話が飛び交ったものでした。
そんな青臭いことができるか、アホクサ、何の足しにもならない・・。そんなところかも知れませんね。
なぜこんな昔話を書くか。
それは、少しでも、「保育園とは何か」、「形とは何か」について考えることができていたならば、冒頭の写真のような建物はつくれないはずだ、と思うからです。
どうして、大したことではないのに、建物づくりの根底について考えないのだ、あなたたちのやっていることは、字の通り、環境破壊そのもの、どうしてそれに気付かないのだろう?
これも、先回まで3回にわたって書いた「作法」の欠落以外の何ものでもない、そのように私は思います。
そして、見渡す限り、建築家は、建築《芸術》家も含めて、口では環境問題を唱えながら、率先して環境破壊を為している、そして、世の「識者たち」は、そのことを知らずにそれを「評価」する・・・。
「経済」も冷えているようです。
かつて、経済が冷えているときほど、いい建物が生まれています。1950年代がそうです。
工費が限られているほど、いい建物ができる。これはまことに皮肉な現象です。
お金の使い方が真剣だからなのでしょう。「遊ぶ」金などなかったのです。
そして今は、「遊ぶ」ことに使って、肝腎なことを忘れた・・、それが今の建築界。冒頭の写真は、まさに、その悪しき典型。
設計とは、自分の「遊び」のためにすることではない、自分の「遊び」を「頭に描く」ことではない、私はそう思っています。