建物をつくるとはどういうことか-14・・・・何を「描く」のか

2011-01-30 21:43:35 | 建物をつくるとは、どういうことか
[写真削除 8日 20.33]

重ね着はやっと0.5枚ほど薄くなりました!結構しんどい!
しかし、感じたことは直ぐ書かないと・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回のおしまいで、次のように書きました。

・・・・
私の暮す町の一角、当然あたりは畑地と混交樹林が広がっています、そこに最近保育園が建った。
壁は真っ黄色に塗られ、越屋根の壁面は真っ赤。壁には丸窓が配されている。「配されている」と書いたのは、その窓の配置に意味があると思えないから。
・・・・

それがどんな建物なのか、写真を載せます。
実を言えば、こんな事例を出すのは、恥かしい、という思いがあった。茨城県という地域の、ある意味で「素性」を広しめるようなものだから・・・。
でも、考え直し、やはり、どこのものであれ、おかしいと思ったものはおかしい、何がおかしいのか、考える必要がある、という結論に達しました。

[写真は削除しました]

この保育園は、町の幹線道路に沿って建っています。
幹線道路と言っても、まわりは畑作と牛の畜産の盛んな一帯で、そうでないところは混交林です。
第二次大戦後、外地からの引揚げてきた方がたが混交林を切り開いた開拓地、だから「新生」などという地名もあります。
集落は散村の様相を呈しています。もし、大都会に近かったら、とっくの昔に住宅地として《開発》されていたに違いありません。幸い、都会は遠かった!
そのため、ここは、主な集落からは数キロは離れています。

こういうところの林を切り開いて、高齢者向けの施設がよくつくられます。最大の理由は、地価が安く、広い敷地が確保できるからでしょう。
しかし、人びとの暮すところからは「隔離された」、と思われる高齢の方がたが居られてもおかしくない、そういう場所です。
そして、その経営をする方が、その高齢者施設の続きに、今度は保育園をつくった。
これにも訳があります。
この町では、それまで地域内の数箇所にあった保育園・保育所を、経費削減として廃止し、民間に任せるべく「方針」を転換したのです。どうやら、これは国を含めた上部行政団体の意向でもあるらしい。
本当は、先ず、この「方針」が問題なのですが、それは今回は脇に置くことにします。

その建物を、遠くから見たのが、次の写真です。

[写真は削除しました]

工事が終わってフェンスがはずされたとき、いささか驚いたのを覚えています。何だこれは!
それが保育園だと知ったのは、しばらく経ってからです。
反対側から近づくと、次のような景色が見えます。
奥に見えるのが高齢者の施設。そのさらに奥が、混交林。新緑と紅葉の季節、見事です。大きいのはケヤキ。

そして、さらに近づくと

[写真は削除しました]

出入口が見えますが、これは子どもたちの出入口ではありません。平面図を見ていませんから詳しくは分りませんが、これでは子どもたちの出入りには狭い。
多分、子どもたちは、この建屋の向う側に歩いてまわるのではないでしょうか。最初の写真に、この建屋の奥にも建屋が見えます。これが子どもたちの場所だと思われます。
書き忘れましたが、子どもたちは通園バスで連れてこられます。親が仕事に出る前に連れてくるにしても車ですが、それにはちょっと辺鄙な場所。
もっとも、このあたりでは、都会と違って、親は勤め人とは限りません。農業従事者だって、保育を頼む場合があるのです。
   今でも、この町の農業従事者には、二世代以上で暮すお宅が多い。
   だから、一定程度は幼い子どもを見護ることができます。
   しかし、高齢化が進むと、農業従事者の方がたも保育を必要になるときが来ます。
   そして、こういう集落が飛び飛びに在る地域では、保育園・保育所は近場にある方がよい。
   勤めの行きがけに保育園に預けてゆく、というのは都会の「イメージ」。
   都会の「イメージ」をこういう地域に当てはめるという考え方は、根底がおかしいのです。
   思わず「一票の格差」論を思い出してしまいます。
   一票の格差が憲法違反なら、生活権の不平等は、もっと憲法違反。
   なぜ、それを裁判で争わないのですか、弁護士さんたちは?
 
それにしても、どうしてこのような建物ができてしまうのでしょうか。
「このような」の言葉には、先回書いた色彩の話もありますが、その敷地へのつくりかたもあります。なぜ、手前に、大きく威容を誇る(異様かもしれない)が立ちはだかるのか?

おそらく、設計者の頭には、保育園に必要な「諸室」は「数え上げられていた」に違いありません。あるいは、経営者から要求されていた・・・。
その「諸室」を、どのように組み合わせればよいか、設計者が描いたのは、その「図」であったのではないでしょうか。

私は、若いころを思い出します。
私が最初に「責任」を持って設計に携わったのは、そのときいた大学の研究室が依頼された小学校の設計でした。今から45年ほど前のこと。そのころは、大学の研究室が設計をすることができた時代だった。
私のいた研究室は、主に、学校や図書館、病院など、いわゆる公共建築の「建築計画」についての研究をしていた。
そこで為される研究は、平たく言えば、それぞれの公共施設に必要とされる「諸室」は、いかに「合理的」に配列するのがよいか、というもの。
小学校についても、多くの「指針」が編み出され、「基準」のようにもなっていた。

多分、多くの建築を学ぶ学生は、設計演習では、その「指針」をいかに建物にするか、で悩むはず。なぜ悩むかと言えば、「配列」が決まったからといって、それでは「形」にはほど遠いからです。
私も学生のとき、悩んだ。形にならない。

そこで、建物の形とは何だ、だいたい、建物とは、そもそも何なのだ。それをつくるには何を考えればいいんだ・・・。しかし、それについての「ものの本」などない。今だってないはずです。
ゆえに、「独学」するしかない。しかし、表立ってそんなことを言うなど、もってのほか。
なにしろ、前にも触れたことがありますが、「その本質は何だ」、などという論議はご法度だった・・。

私が、その小学校を設計するに当たってまず考えたこと、それは、学校とは、子どもたちの日常が展開する場所、それぞれの家庭の代替場所だ、ということでした。
逆に考えたのです。もし学校がなかったら、子どもたちは日常をどう過すのか。
そのとき、子どもたちは、それぞれの住まいあるいはその近くで、親に見護られつつ、日々をすごしているはずだ、その日常と、学校での日常はまったく異なるものであってよいのか?
教師の役割とは何か?読み書き算盤を教えるだけなのか?・・・・。

   保育園、幼稚園も、本質は変りありません。
   年齢が低いだけ、もっと「代替」の意味が「重い」でしょう。

そう考えることで、小学校とは何か、そのイメージが見え出しました。
学校という場所は、子どもたちそれぞれの暮す住まいと、大きく変っていてはならないのだ・・・。
そして同時に、何もない土地の上に、新たに「もの」を置く、というのはどういうことなのか、についても学ばざるを得ませんでした。
そういうことについては、教育の場面では何ら触れられないのです。これは、今でも変らないでしょう。

建物をつくるというのは、単に、建屋をつくることではない。
建屋とは、必要とされる「諸室」を嵌めこめばよい、というものではない。
第一、昔から、人は、そんなふうには建物をつくってはこなかったはずだ・・・。
私のものの見方は、大きく変りました(それは、今も続いています)。文句言われてもいい、思ったとおりにやってしまえ・・・。

私が最初に係わった小学校は、現在、この世にありません。取り壊されています。
辛うじて、その姿は、いくつかの書籍に載ってはいますが、どれも古書の類になっています(雑誌「建築」1965年5月号、「日本建築学大系」「建築設計資料集成」の旧々版の学校建築の項など)。
その小学校の名は、青森県「七戸町立城南小学校」。七戸はこのたび全通した東北新幹線の「七戸・十和田」駅のある町。元々、国道はこの町を通っていて、東北本線が海岸線を通ってから、知られなくなっていた町。今の季節、雪に埋まっているでしょう。

しかし、この建物については、批判ごうごう。ときには非難ごうごう。これは学校ではない・・・。では何だ?
   この建物については、いずれ、いつか、紹介しようとは思っています。

しかし、私は、ここで考えたことを捨てることはしませんでした。
つまり、建物の「意味」を考えない設計は、設計ではない。「形」の意味を考えない設計は、それも設計ではない。・・・・

しかし、私が知る限り、そして見る限り、なぜその建物をつくるのか、つくらなけらばならないのか、なぜそういう形になるのか、・・・これについての真っ当な論議は、現在、以前よりもはるかに少なくなっているように思えます。少なくとも、私の学生時代には、少しではあっても、喫茶店でそんな話が飛び交ったものでした。
そんな青臭いことができるか、アホクサ、何の足しにもならない・・。そんなところかも知れませんね。

なぜこんな昔話を書くか。
それは、少しでも、「保育園とは何か」、「形とは何か」について考えることができていたならば、冒頭の写真のような建物はつくれないはずだ、と思うからです。

どうして、大したことではないのに、建物づくりの根底について考えないのだ、あなたたちのやっていることは、字の通り、環境破壊そのもの、どうしてそれに気付かないのだろう?
これも、先回まで3回にわたって書いた「作法」の欠落以外の何ものでもない、そのように私は思います。

そして、見渡す限り、建築家は、建築《芸術》家も含めて、口では環境問題を唱えながら、率先して環境破壊を為している、そして、世の「識者たち」は、そのことを知らずにそれを「評価」する・・・。

「経済」も冷えているようです。
かつて、経済が冷えているときほど、いい建物が生まれています。1950年代がそうです。
工費が限られているほど、いい建物ができる。これはまことに皮肉な現象です。
お金の使い方が真剣だからなのでしょう。「遊ぶ」金などなかったのです。
そして今は、「遊ぶ」ことに使って、肝腎なことを忘れた・・、それが今の建築界。冒頭の写真は、まさに、その悪しき典型。

設計とは、自分の「遊び」のためにすることではない、自分の「遊び」を「頭に描く」ことではない、私はそう思っています。

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重ね着の季節!

2011-01-26 12:46:59 | その他
寒い! 空気が冷たい!
その中、近くのお宅の紅梅、これだけ先に咲いています。
そういう種類なのかもしれません。



さて、
重なっている一枚は、昨日何とかクリア。
あと二枚。いずれも今月中にクリアしたいのが願望!

ゆえに、今週は、更新をお休みにさせていただきます。

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建物をつくるとはどういうことか-13・・・・建物をつくる「作法」:その3

2011-01-21 18:54:43 | 建物をつくるとは、どういうことか
未だ、いろいろと重なっていますが、何とか、まとめました・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回、次のように書きました。

・・・・
こういう所に居を定めようとするときも、往時の人びとなら、その為すことは、基本的に変りはないはずです。
すなわち、「そこにある全て(地物、人為、人びと・・)とともに「一人称の世界」にいる、という「認識」には変りはない。

たしかに、自然界だけの場合にはなかった「自分以外の人びとの暮し」がそこにはあります。
けれども、その場合でも、彼らの為すことは、本質的に、対自然・地物と同じなのです。
何かをする以上、対自然・地物と同じく、「許し」を請う必要があるのは当然だからです。
・・・・

何を寝ぼけたことを言ってるんだ、・・・。おそらく、そう思われた方が居られたのではないでしょうか。
そんなことを言っていたら、設計などできないではないか。
たとえば150平方メートルほどの分譲地。借金までしてやっと手に入れた土地に家をつくってくれ、と頼まれた。要求は山ほどある。
敷地に係る「建築法令」を護り、「建築協定」を護り、「建て主の要求と好み」を斟酌してつくっている。それでいけないのか、何がいけないのか、と。

おそらくこれが今「普通の」「設計の論理」だと思います。
   「建築《芸術》家」の「設計の論理」は、この際、とりあえず脇に寄せておきます。
しかし、私には、この「論理」に違和感を感じるのです。
「判断」が、「どこに於いて為されているか」、という点が「あいまい」だからです。

私が日ごろ思っていることの一つに、
最近、建築に係わる方がたで、5W1Hで問う方が少なくなっているのではないか、という「疑問」があります。
何で問うているか?
残りのもう一つのW、Which だけ問うているのではないか?
与えられている選択肢の中から《正しい》と思うものを選べ・・・。
法令の規定に適合していること・ものを《正しい》と見なす。なぜか。そうすれば文句を言われないから・・・。
法令の規定そのものの内容は、盲目的に《信じる》。なぜか。そのように教えられたから・・・。
それが「合法的な判断」というわけです。

判断とは、自ら「もの・こと」について考えて為すものではなく、誰かのつくった「判断」の中から「選ぶ判断」、あるいは「従う判断」をすることだ・・・
法治国家なのだから、それでいいのだ・・・。第一、国家もまた、それを望んでいるフシが窺える。第一、「学識経験者」も、率先してその「御用」を務めているではないか・・・。
一般のタダの人が、判断をするのはマチガイなのだ!?

   
前にも紹介しましたが、原初的な段階では、建屋の中に部屋をいくつも用意する、という発想はありません。第一の目標は、「暮せる空間」をつくること。それがつくるときの基本の発想。そして、この「基本」は、どんな場合でも普遍であり不変のはずです。
狭い敷地なら、そこに多くの部屋を持つ建屋をつくることは無理。まして建蔽率、容積率目いっぱいに建てれば、所詮、周辺の環境:隣家との「隙間」は悪化するのは目に見えている。少なくとも、それを見きわめることこそ、最たる「判断」の中味なのではないか、と私は考えます。

たしかにこれはおいそれとはゆかない。仮にそうしたところで、隣地がそうするとは限らない。だからバカバカしい、そう思ってしまっても不思議ではありません。
だからと言って、最初から「判断停止」「思考停止」でよい、ということにはならないのではないでしょうか。そういうことには目を瞑る。それでよい、ということなのでしょうか。


前に書きましたが、
建物をつくるということは、「既存の環境の改変であり、破壊にほかならない」のです。必然的に、そうなります。これは「事実」です。
   ここで「破壊」と言うとき、その語に、否定的な意味合いを含ませてはいません。
   単なる「事実」を示しているだけ。
たとえ、自分は敷地の中を十全に考えてつくった、まわりのことは知らない、と言ったところで、本人がどう思おうと、結果としては周辺の環境を改変しているという事実は否定できないのです。
そしてまた、自身はそんなことの責任はとれない、と言ったところで、事実として改変しているのは間違いない。したがって、結果責任は免れない。
これも「事実」を示しているにすぎません。

たとえば、1970年代以降多発するようになった日照権や景観権などの裁判は、司法の性格上、法令への適合性だけで判断されます。だから、簡単に言えば、「常識」には勝ち目はない。
なぜなら、法令は、「常識」つまり、当たり前の「作法」に依拠しているわけではないからです。なぜ依拠できないか?「作法」は明確に規定できない、端的に言えば、「数値化」できない。
だからこそ、近世まで(今から半世紀ほど前までも)、「作法」は、「不文律」として、「人となり」に委ねられていたのです。
近世の人びとは、ものごとが「分っていた」のです。
   「作法」を教育で叩き込もうとしたのが戦前の「修身」、戦後の「道徳」という科目。
   しかし、その場合の「作法」は、とかく「期待される人間像」になる。これもまた一種の「数値化」の変形:「鋳型化」。 
   「合法」精神遵守のための「鋳型化」がちらちら窺える。
   そして、今の日本では、法令もまた「鋳型化」が目的であるかのようになっている。

半世紀ほど前から、日本では、急速に《 Which 思考》が跋扈(ばっこ)するようになり、それとともに、私たちの暮す環境、つまり私たちが日々を過す空間では、その「破壊」が進みました。この場合の「破壊」は、字義通りの意味。
その結果、私たちは常にまわりを「三人称」の世界に囲まれ、常に「不快感」を抱き、常に「道に迷い」・・・、ついには「それで当たり前」と思うようになってしまいました。
そして、しばらくして、
いわゆる「サイン」計画:案内表示計画が「脚光」を浴びるようになります。そしてついには「ナビ」の「全盛」。
その一方での「伝統的建造物群保存」の「動き」。これも、時期が符合しています。


しかし、残念なのは、なぜ「サイン」が問題になるのか、なぜ「伝統的建造物群」が話題になるのか、その点について語られることなく、「サイン・デザイン」の有無、良し悪し、あるいは「伝統的建造物群」の《観光資源》としての「経済効果」が語られるだけ・・・。
挙句の果ては、先回も触れた「伝統的建造物群」の形体模写をもって「保存」と見なす「誤解」までもが蔓延する・・・。ここでも5W1Hでの問いがない。
これもまた、《 Which 思考》にどっぷり浸かったまま、動きがとれない。
   そうでありながら、前にも書いたように、
   無縁社会だ、絆だ、という話には、建築に係わる方がたも、やすやすとのっかってくる。
   それはバリアフリーというと無思慮にのっかってくるのと変りはない。無思慮という点で・・・。
   今年の大学入試センター試験の国語の第一問は、この誤解にまみれたバリアフリーについての問題だった!


先回載せた建築法令と建築協定を遵守した街並みと、江戸時代にできた街並みの「通り」の写真を並べます。
左は長野県の「伝統的建造物群保存地区」海野宿(うんの・じゅく)の通りの姿。今から20年前、保存地区に指定された数年後の、まだそれほど《観光資源》としての《保存修景》がなされていない頃の様子です。



一言で言えば、「通り」への「愛想がいい」のが海野宿。もちろんそれは、宿場町だから当然なのですが、しかし、かつての(少なくとも50年ほど前までの)街並みは、宿場町でなくても「通り」への「愛想がいい」のが当たり前。

右の現在の住宅地の「通り」。せめて歩道に対してぐらい愛想がよくてもよいのではないか、と思えるほど「無愛想」。生垣つくれば何とかなるさ、というのが「建築協定」のようです。

航空写真で両者を見てみます。ただし、それぞれの縮尺は異なります。いずれも google earth から。
先ず、最近の海野宿。



次は、最近の分譲地。



この写真からでも、違いが分ります。
この違いは、決して、宿場町であるか否かによるものではないはずです。宿場町も町家の街並みの一つに過ぎません。
町家の街並みの成因は、かつての、建物づくりにあたる人びとの「当たり前の作法」にあったことは既に触れたと思います。

ところが、この「作法」について、建築界では、これまで話題になったことがないのです。もちろん、教育の場面でも・・・。

くどいようですが、前回に引き続き、ふたたび、かつては、建築にかかわる人は、そして建築を依頼する人にも、「当たり前の常識」としての「作法」があった、そして、ここ半世紀、それが失われてしまった、ということを書きました。

そうではない、現在は、「現代の作法」があるのだ、と言われるかもしれません。
そうであるなら、その「作法」を示して欲しい、と私は思います。
いまだかつて、「現代の作法」を、私は聞いたことも見たこともないのです。
それとも、知らないのは私だけなのでしょうか?
   「建築協定」は、「作法」ではありません。法令の変種にすぎません。
   なぜ変種か?5W1Hで問うことができない点が、法令と同じだからです。


先回、次のようにも書きました。
・・・・
ここまでお読みの方の中には、なぜ、想定するのが「一つ屋根」の「ワンルーム」なのか、という疑念を抱かれる方が大勢居られると思います。
・・・・

そして、それに対して、現在は、のっけから「住まいを室の集合体で考える」、だから、室数を確保するために室の大きさを小さくして員数合せをする、・・・と書きました。

私が、初めに「一つ屋根」の「ワンルーム」を想定する、と言うのは、そうすれば、当面の敷地に想定する「ワンルーム」のいわば適切と思える「容量」の設定にミスが生まれないはず、と考えるからなのです。
もちろん、「一つ屋根」というとき、その「屋根」は「抜けていて」もいい。
つまり、「そこに在るべき全体の姿」「そこに在るべき全貌」のことを、端的に「一つ屋根」という語で表わしたのです。
なぜなら、そう言わないと、身に付いてしまっている「全体=部分の足し算」として考えるクセ、「部分」を先ず初めに考えてしまうクセから脱却できない、と思うからなのです。
さらに言えば、「部分」は「常に」「全体の部分」である、という認識に立てないからです。

先に、これから建物を建てる土地に赴いたとき、自ずと足が止まる場所がある、ということは書きました(下記)。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/489cd84b322257f0853945e315c922b0

実はそのとき、そこでの「暮し」に応じた、そこに「在るべき建物の姿」をも観ているはずです。たとえば、「ある人の住まい」、あるいは「ある病院」あるいは「ある学校」・・・。その「その場所にあるべき姿」をも観ているはずです。
それはあくまでも、「もの」の形態・形体ではなく、そこに「在るべき空間」の姿。

   この姿は、直ちに見える場合もありますが、そうでない場合もあります。
   たとえば、山の急斜面に建つような場合。この場合は、比較的簡単に想定ができます。
   あるいは、何もメリハリのない土地、というのがあります。
   現在造成中の宅地、などの場合です。まわりではブルドーザが土をかき回している・・。
   こんなときは、足の止まるところさえない。拠りどころがない・・・。
   こういうときは現地での想定不能です。分るのは、その土地への近づき方、その方向だけ。
   そういうとき、援けになるのが模型。敷地模型です。
   模型は敷地周辺もある程度含めてつくる場合もあるし、敷地だけの場合もある。
   いずれにしても大事なのは、上から見ないこと。敷地だけ見ないこと。
   模型を見るのではなく、模型を通して「現地」を見る。模型はそのための「手段」。

そこで「観るもの」は、かつて、農業者たちが、定着する土地を見つけ、そこに初めての住まいを設けるときに「観たもの」と同じです。
逆に言えば、
彼らは、その姿を頭に描くことができるからこそ、定着地を見つけることもできたのです。それがなくて、探せるわけがない。「判断」する根拠がない。何かを探すときに、あてずっぽうで探すことはあり得ない。
どういう場所・土地なら暮せるか、どういう空間なら夜を過せるか、そのイメージがなくて適地を探すことはできず、適所をつくることもできない、ということです。
つまりそれは、いつか書いた(「住まい」の)「必要条件と十分条件」についての「確としたイメージ」。

はたして、現在、私たちは、彼らと同等の「感覚」「感性」を持ち合わせているでしょうか?
ことによると、現代の人たちの多くは、(「住まい」の)「必要条件と十分条件」についての「確としたイメージ」抜きで、いきなり「形体」そのものをイメージしているのではないか、と思いたくなります。
なぜなら、つくられる「形体」は、なるほど「写真映り」はいいかもしれませんが、その「形体」によって生まれている「空間」は、正直言って、馴染めない、そういう例が多いように思えるからです。

私の暮す町の一角、当然あたりは畑地と混交樹林が広がっています、そこに最近保育園が建った。
壁は真っ黄色に塗られ、越屋根の壁面は真っ赤。壁には丸窓が配されている。「配されている」と書いたのは、その窓の配置に意味があると思えないから。
どうも、こども向きの建物だから、派手な色彩がいい、面白い形がいい、そう思っているように窺える。それが多分、設計者の「保育園」観。こどもが面白がるだろう・・・。それは勝手な想像、というより思い込み。
「保育園」に通う、とはどういうことか、それが失念されている。
なぜこどもを預けるか、こどもはそこでどう一日暮すのか、・・・保育園とはいったい何か、そういった「問い」は、多分、設計者の念頭にない。ことによると、保育園の創設者にもないに違いない。もし、あるのならば、こんな建物ができるはずがない・・・。

最近、大方の建物が、一時に比べれば比べものにならない経費を費やして、根本に於いて、同じような《思考》でつくられている、私にはそのように思えます。
そしてそれは、かつて当たり前であった建物づくりの「作法」が失せたのと、軌を一にしている、そのようにも思えます。

つまり、「建物をつくるとはどういうことか」という「問い」がないのです。

次は、「作法」から離れて、その先へ。

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工事の遅れ

2011-01-18 20:03:08 | その他
先週末から、いろいろと重なり、「建物をつくるとはどういうことか-13」の工事が遅れています。もう少し。

そのつなぎに、庭先の風景。

    

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“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS” :イギリスの古建築-3

2011-01-13 20:44:37 | 建物づくり一般
[註記追加 14日 9.57][註記追加 14日 10.20][文言改訂 14日 10.23][註記追加 14日 17.08]

今回は、「 Purlin:母屋桁」を使った小屋組・屋根について。
次のような解説があります。そのまま転載します。



どうやら、地中海沿岸の石造建築が盛んな地域=木材の乏しい地域での木造建築から生まれた工法が、北方の急勾配を要する屋根の架構を考える中で発展した、と考えられているようです。
一言で言えば、「 Rafter Roof 又首組:垂木構造」より一歩進んで、各部材を組んで立体的な架構に仕上げる方法だ、と言えるでしょう。

前提となる木材は、オークを主とする広葉樹です(いずれ紹介しますが、オークの使い方を詳しく解説した章があります)。針葉樹のような長大で真っ直ぐ、しかも太さもある、そういう材が得にくい樹種。

次の図は、「棟:ridge 」部分の架構の一例。



「 king post :真束」に、細身の材で2段の「棟桁:ridge 」を差して「棟」を構成しています。
上段の「桁」は、「真束」上で「相欠き」で継いで、「真束」の「頭枘」を貫通させて留めています。「柱」と2本の「棟桁」が、これで一体の立体となるわけです。
   古来、日本でも使っている継手・仕口です。「鉤型」を付ければ一層確実。    

下段の「桁」は、[真束~真束]間を一材とし、継手は使わず、真束を介して連続させることを考え、「真束」に段違いで「枘差し」。「込み栓」と「鼻(端)栓」を併用して留めています。
   同じ高さで継ぐ方策がないとき、あるいは面倒なとき、日本でも見かける方法です。
   下記で紹介の「広瀬家」の棟持柱への梁の取付けに、この方法が採られています。[註記追加 14日 17.08]
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/a558f2498c1f364f9ab4b93d7092989d

上下2段の桁の中途に2本の「 brace:支柱」が入れてありますから、結果として「 lattice :ラチス(梁)」になっています。「 lattice 」とは「格子」「格子組」。
おそらく、これも「 truss 組」発祥の一と考えてよいと思われます。
細い材でなんとか長い「棟桁」や「桁」をつくろうという工夫がいろいろ試みられ、それが「トラス組」という架構の「定型」を生みだしたのです。

   当然、構造力学誕生の前のことです。
   構造力学がトラス組を生んだのではない、という「事実」は、
   力学を先に学んでしまう現代の人びとには、理解できないことかもしれません。

   また、brace を直ちに「筋かい」と訳すのも考えものです。あくまでも、「支柱」、「副柱」という意味です。
   「現代日本の法令規定の木造建築」流に解釈すると落し穴に落ちます。

   参考 「建築学講義録」で紹介されている「洋小屋」の変遷・発展図を載せます。
       この図は、以前に下記記事で載せた図の再利用です。
       この記事で、各種の小屋組がなぜ考案されたか、
       「建築学講義録」の「力学を使わない」解説を紹介しています。[註記追加 14日 9.57]
        http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/16c9b15026d4e8bb0fe224f2acf8ffab
       黄色の色を付けた方法が「 king-post 」を使っている例です。
       「 king-post 」を「釣り束」と呼んでいます。
      

次は、「真束」はありませんが、「 Purlin:母屋桁」を使っている事例の図解。



左側の図、細い材、あるいは短い材を合成して、「 portal-frame :門型フレーム」をつくることに懸命であることが分ります。とりわけ、屋根の形をつくる垂木にあたる部分では、2本の垂木が「母屋桁」を挟んで取付いています。compound rafter :「複合垂木」と呼んでいます。

これを見ると、ここで使われている「 Purlin:母屋桁」は、日本の「母屋」とは、働き:役目の考え方がいささか異なるように思えます。
日本の場合、単純に「 Rafter:垂木」を受ける材、載せる材として考えますが、ここでは、「 Rafter:垂木」とともに、屋根面を積極的に「面」として形づくることを意図しているようです。
   もちろん、日本の場合でも、「結果としては」「面」として働くことにはなりますが、
   それほど積極的には考えていないのではないでしょうか。

先の解説文中にある「 longitudinal racking :縦方向の歪み」を防ぐための「 wind-bracing 」とは、右側の内観図で、柱ごとにある「登り梁」と、それに架かっている「 Purlin:母屋桁」との間の曲りのついた斜め材、日本で言えば「火打ち」あるいは「方杖」」にあたる材のことでしょう。
wind-・・ は多分、「曲っている」という意味では?

「 Purlin:母屋桁」と「 wind-bracing 」の関係を示すのが下の写真。



   日本の最近の木造建築の「火打ち」や「方杖」は部分的に入れて済ませていますが、
   この場合は、そのような「省略」はせず、
   全ての箇所に徹底して入れていることに留意する必要があります。
   そうすることで、組み上がった全体は、単なる部材の足し算ではなく、強固な立体になるからです。
   あくまでも、「架構全体を、一体の立体に組む」ことが念頭に置かれているのです。

   これを見ると、日本の現在の法令規定の木造建築が、
   強い部分と弱い部分の足し算で考え、強い部分が外からの力に耐えると見なし、
   「一体の立体に組む」ことをまったく考えていないことが分ります。
   中世のイギリスをはじめ西欧の工人たちの方が、scientific だ、ということです。
   わが《先達》たちは、西欧に留学して、何を観てきたのか、まことに不思議に思います。

   なお、wind-bracing は、屋根面だけではなく、図で分るように、各所に使われています。
   この場合も、部分的にではなく、入れられるところは全て入っていることに留意。[註記追加 14日 10.20]

今回は、最後に、「 Purlin:母屋桁」の取付けにあたって使われている各種の継手や仕口の図解を転載します。



Fig18 の a)
Clasp purlin 「抱き付き」母屋桁、あるいは、日本の「吸い付き」とでも言うのがよいのか?
点線で描かれているのが Purlin 。右から来る材は、左右の「登り梁」を繋ぐいわば「繋ぎ梁」。
Purlin が載る材が principal と呼ばれている主材:「登り梁」。寸面が Purlin の載るところから上で小さくなるので reduced principal。この場合、 Purlin は、欠き取ったL型部に載っているだけ。

Fig18 の b)
同じく Clasp purlin で、principal に刻まれた「枘」で取付く。

Fig18 の c)
これは日本の「相欠き」と同じ。

Fig18 の d)
この図では、登り梁に開けられている孔が purlin の全幅で開けられていますが、そうすると、「枘」をつくりだしている意味が分りません。
多分孔の幅は、「枘」の幅:厚さ分ではないかと思います。図が違う。
そうであれば、三角形に斜めに伐った「枘」が、孔の内部でぶつかり、側面からそれぞれに釘なり栓を打って固定できます。

Fig18 の e)
splayed-scarf とは、日本の「殺ぎ継ぎ(そぎつぎ)」単純に2材の先端を同じ角度で斜めに切ってぶつけるだけ。登り梁の中で継いでいる。少しきつめにつくるのか?

Fig18 の f)
単純な「相欠き」継ぎ。
これなら、側面から栓や釘を打って留めることができる。

Fig19 の a)
brideled scarf 何と訳せばいいのか?
同じ継手が、「法隆寺東院伝法堂」の「垂木」にあります(下記に図と写真を載せています)。「文化財建造物伝統技法集成」でも、名前は付いていません。
「伝法堂」では、「栓」が1本で、その位置で「垂木」の勾配が変ります。
 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bd1f8005ded5ccf15608d1500345cbba

Fig19 の b)
この方法も、どこかで見た記憶があるのですが、思い出せません。探しています。


ここまで見てきて、またまた、人の考えることは、地域によらず同じなのだ、と感じています。
もちろん、環境が違います。気候は当然、樹木だって同じではありません。
しかし、どうすれば確実な構築物をつくることができるか、その点で考えることは同じなのです。
今見ている建物は、いずれも地震のない地域の建物です。
しかしながら、現在の日本の法令規定の木造建物などよりも、数等優れていると言わざるを得ません。

この書物が紹介している古建築群を見て感じる私の一番の感想は、
日本の建物も「一体の立体に組上げる」ことではまったく変りはありませんが、なにゆえに「 brace 」を用いなかったか、という点です。[文言改訂 14日 10.23]

その理由は、一つは、明らかに、使用材料が広葉樹か、針葉樹であるかの違い。
そして、もう一つは、少なくとも、ヨーロッパの中央部では、その根に、石造、煉瓦造のイメージが色濃く残存しているからなのではないか、と思っています。
つまり、木材で、石造、煉瓦造の如き、「揺るぎなき」構築物をつくる、という考え。

これに対して、日本では、石造、煉瓦造の「素養」はない。はじめから木造。
木造のしなやかさ、復元・弾力性を認識できていたとき、「揺るぎなき」構築物を求める必要はなかったのではないか。そのように私には思えます。
つまり、非常に弾力性に富んだ「一体の立体」であれば、「しなやかに」外力に対することができる、何もガチガチに固める必要はない、そのことを知っていたのだろう、と思います。

現在の日本の法令規定の木造建築は、「揺るぎなき」構築物にすることを意図しているはずです。
しかし、それにしては中途半端。と言うより、足し算でしか考えていない。brace を使うなら使うで結構。しかし、使うなら、ここで見てきたような使い方でなければ、中途半端なのです。先ほども書きましたが、中世の西欧の工人の方が、「揺るぎなき」木造の構築物をつくるつくり方をはるかによく知っていたのです。

しかし、木造建築は、わざわざ石造の如くに「揺るぎなき」構築物にする必要がないことは、日本の木造建築の歴史が実証しています。
このことは、元々が木造建築主体の地域、たとえば北欧や先に紹介したアルプス山麓の地域では、brace が使われていないことでも明らかではないでしょうか。

いずれにしても、日本の現在の木造建築の権威諸氏が、
西欧、日本、その双方の木造建築技術史に疎いのはたしかだ、としか言いようがありません。

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建物をつくるとはどういうことか-12・・・・建物をつくる「作法」:その2

2011-01-10 21:25:45 | 建物をつくるとは、どういうことか
年を越して、先回の続きです。長くなりそうですが、よろしく・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[語句追加 12日 19.00][註記追加 12日 19.06]

先回、原地形図を推定してみた土地を、定住地にしようと決断した人たちは、どこに最初の拠点を設けたでしょうか。
もちろん、この人たちの場合、現在のように、ここからここまでが敷地、という「縛り」はありません。
あったのは、多分、「この辺り」という感覚。これは、まったく純粋に、そこに既存の地物のつくりだしている空間そのものに接しての判断のはずです。

彼らは突然通りすがりにこの地を見て即座にとどまることを決めた、とは考えられません。何度か下見をしているはずです。
とりわけ、農閑期:冬は、樹林も透けて見通しがいい。そのころに見定め、準備をしてこの地にやってきた、そう考えられます。

彼らが見たとき、一体はどんなであったか、勝手に地表の様子を想定して見ました。
丘陵上は広葉樹、針葉樹が入り混じり、裾には潅木、蔦のたぐいが生い茂り、そして前面の低地は葦原。
林の中には、いく筋ものけものみち、葦原には水鳥たちが群れ、空には鳶が輪を描いている・・・。



彼らは、どこに建屋をつくろうと考えたでしょうか。
もちろん、その建屋も、現代風に部屋がいくつ・・・、などというものではありません。それまでも暮していたであろう、草葺き(茅葺き)の「一つ屋根」の建屋。大体大きさも形も決まっている。当座暮せて簡単につくれる大きさであたりまえの形(多分、寄棟型)。
その意味では「とりあえず」の建屋。

彼らには、その建屋を建てたとき、まわりにどのような空間が生まれるか、多分見えていた。隅々まで、想像できたに違いありません。
そのあたりは、現代人よりも感性が研ぎ澄まされていたはず。なにしろ、毎日、「自然」の(空間の)中で暮してきたのだから。
   
   これは、言ってみれば、テントをかついで山に入り、その日の宿営地を決める、その感覚と言えるでしょう。
   ここが宿営地、と決められているわけではなく、自ら場所を探して決めなければならない場合です。
   最近、決める「感覚」が衰えている、つまり、まわりを観ることがヘタになっている、
   という話を聞いたことがあります。

たとえば、建屋の北側。どうしても、建屋の影になる。建屋と既存の山肌でつくられる「狭間」、その醸しだす「雰囲気」も、十分に知っている。だから、山肌と「ころあい」の「空き(あき)」をとったに違いありません。
適切な「空き」がなければ、そこは陰湿で、何ものかが潜んでいる、と思いたくなる場所になってしまう・・・。そういう経験があるから、「ころあい」が分っているのです。

つまり、建屋のまわりに、新たな建屋と既存の地物との「共同」により生まれる新たな空間を「見定める」のです。
そういう「心積もり」を咄嗟に行い、おそらく、地形上の「潜み」の最奥ではなく、その「潜み」の感覚的に見て「重心」になる位置に場所を定めたはずです。
彼らには、建てる位置の選択は、比較的容易な「作業」だったと思われます。

   私は、建物づくりの「素養」として、
   いわゆる「造形」の「センス」よりも、先ず、
   このような、「場」が人に抱かせる「気分」を嗅ぎとる「感性」「習性」を、
   身に付けること、身に付ける学習をすること、が肝要ではないか、と考えています。
   「造形」を生み出す「根幹」としての感性です。
   これは、幼い子どもなら大抵持っている感性。
   大人になればなるほど、どこかに捨ててきてしまう感性・・・。
   捨てるまではしなくても、気付かなくなる、忘れてしまっている感性・・・。
   もっとも、もしかすると、最近は子供たちは、いっぱしの《大人》化しているのかも・・・。

   ここまで書いて、私は学生時代を思い出しました。
   その頃、「気分」だとか、空間の「雰囲気」などということは、口に出すことさえできなかった。
   偏狭な《唯物論》が蔓延していたからです。実は、数値至上主義はその延長上にあるのです。
   そのとき私を勇気付けてくれた書の一つが、S・K ランガー著「シンボルの哲学」(岩波現代叢書)。
   「思い描く」:conceive ( concept :「概念」の母語)とはどういうことか、
   「ことば」とは何か、・・・私の「悩み」を取去ってくれたのです。
   
   今も出版されているかどうかは不詳です。[語句追加 12日 19.00]


前にも書きましたが(下記)、原初的な住まいの空間は、「一つ屋根」で出入口が一つ。つまり「ワンルーム」。

  http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3

そして、出入口は、多くの場合、と言うよりほとんどが、南側に向いている。晴れた昼間なら、僅かにそこから陽が差し込む。

   あくまでも日本での話です。
   乾燥地域なら、立派な屋根を被っていなければならないわけではない。
   それは、以前、中国西域の住居の紹介で触れました(下記)。
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b [追加 12日 19.06]

これは、大方の建屋が草葺の時代の話。
もし現代だったら、彼らはどうしたでしょうか。

やはりそのとき、彼らは、この地に建てる建屋の姿、こうあった方がよい、と思われる建屋の姿恰好を、即座に思い浮かべたに違いありません。
なぜなら、彼らなら、この地に建てるには、材料は何がよいか・・・、判断できたはずだからです。
彼らの感性なら、材料の特性を見分けることなど、朝飯前。
何せ、机の上ではなく、地べたの上で考え、蓄えてきた知見は並大抵のものではないはずだからです。
なぜなら、そうしなければ、暮す、と言うより、生きてゆくことができないからです。
そしてそれこそ、「今の」現代人に欠けている「能力」。

   いろいろな場面で、この頃、小中学校で、工作の授業があるのかどうか尋ねると、
   どうやらないらしい。
   私は子どものころ、木材でいろいろなものをつくった記憶がある。そして、ちゃんと塗装もかけた。
   そういう工作を通じて、木の特性、鋸の曳き方、釘の打ち方・・・などはもちろん、
   材料の組み方:どうすると強くなり、どうすると壊れやすいか・・・なども「実感」として身に備わった。
   これはそれこそ「地べたの上」の学習。
   机上で得る知識、人に口頭で教えられる知識・・・とは雲泥の差。

   だから、「実物大実験」で揺さぶらないと「分らない」、と言う方がたも、
   下手でもいいから自ら加工して(大工さんに頼まないで)組み立てるならば、
   どうすると弱くなり、どうすれば強くなるか、材料にどういう具合に力が伝わるか・・・体感でき、
   実験台で揺さぶらなくても「理解できる」はずなのに、と私は思っています。
   そうしてから「理論化」しても遅くはない。

ところで、これがきわめて大事なことなのですが、
こうして建屋の位置を定めるとき、彼らは、好き勝手に目の前の地物を扱ったわけではありません。
当然のことですが、そこに住み着くには、伐採しなければならない樹木もあったはずです。けれども、その伐採は、決して現代のような皆伐ではなかった。

もちろんそれは、現代のような機械・道具がなかったためにできなかった、そういうわけではありません。
そういう道具があったとしても、そういうことは彼らはしなかった。
なぜか。
それら地物は、彼らとともに在る親しい「友だち」、「心を許しあえるものたち」、言うならば、そこに暮す人びとと地物は、「一人称の世界」にいたからなのです。
これが、現代との大きな大きな違い。
木を伐ったり、建屋を建てるにあたっては、かならず「許し」を請うていたのです。
その形式的名残りの一が、今では単なる安全祈願と見なされることの多い「地鎮祭」。

この「一人称の世界」にいる、という認識こそ、人びとの当たり前の所作だったのです。
つまり「作法」。 

   先日、秩父の山深い村で、かつて自ら営々として築きあげた、しかし今は耕作をやめざるを得なくなった段々畑に
   いろいろな花木を永年植え続けている高齢の農業者のご夫婦の話をTVで観ました。
   「道を行き交う人たちだって、その方が楽しいでしょ」、それが花木を植え続ける理由。
   それを観ながら、私は「多摩ニュータウン」の建設時の光景を思い出していました。
   あの一帯は、多摩丘陵として永年親しまれてきたハイキングコースがいっぱい。
   小学校の頃、よく行ったものです。野猿峠、なんていうところもあった・・・。
   そこで為されたのは、樹木を伐採しつくし、丘を削り、谷を埋める・・・、まさに現代的「開発」でした。
   そういう場合にも、地鎮祭は行なわれる・・・。虫がいい。

以上は、地物だけの空間の場合。

まわりに、地物のほかに、すでに「人為の空間」があるならば、どうするか。
つまり、現在のように、「敷地」という「縛り」がある場合の話です。
「敷地」には、ここからここまで、という範囲があり、周辺には地物もあれば人家もある。

こういう所に居を定めようとするときも、往時の人びとなら、その為すことは、基本的に変りはないはずです。
すなわち、「そこにある全て(地物、人為、人びと・・)とともに「一人称の世界」にいる、という「認識」には変りはない。

たしかに、自然界だけの場合にはなかった「自分以外の人びとの暮し」がそこにはあります。
けれども、その場合でも、彼らの為すことは、本質的に、対自然・地物と同じなのです。
何かをする以上、対自然・地物と同じく、「許し」を請う必要があるのは当然だからです。

ただ、現代、というよりも現在:最近、それをしなくなっただけ。
往時の人びとは、自らの所有の土地の上であっても、私権よりも先ず「一人称の世界に在ること」を第一に考えたのです。
そうしなかったら、その地で暮せないではないですか。

「現在の慣習」で、ものごとを見てしまうのは誤りです。
というより、その「慣習」では、往時の人びとの所作は理解できないでしょう。
彼らは非合理的だ、などと思うのはもってのほか。彼らの方が真の意味で「合理的」である、そう私は思っています。

   最近の流行言葉に「孤独死」「無縁社会」「絆」・・というのがあります。
   なぜ、こういう言葉が流行るのか。

   私は、その根に、建物や都市に係わる方がたの「無思慮」がある、と思っています。
   彼らが「そういう街」にしてしまったからなのです。
   かなり前に、阪神・淡路地震後の「復興」によって、路地が巨大な道路に拡幅され、
   路地で為されていたご近所付合いをなくさせた「都市計画」の話を書きました。
   また、目の見えない方が、
   「復興」でなされた「区画整理」で、街がさっぱり分らなくなってしまった、という話も紹介しました(下記)。
   あれもこれも、そういうことを推し進める人たちに、
   私たちと私たちのまわりの空間との関係についての「認識」が欠如しているからだ、と私は思います。

    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d47097a3494ceec540ed351a5af923c7
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5b5b07639df7d272f95aa662563b80f1
    http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/f8ef77f2085412cf444490064b27f8f2


このように考えるのならば、
今、人びとが為すべき「所作の在り方」、「作法」は、
往時の人びとが為してきたそれと、何ら変りはないのです。変るわけはないのです。
きわめて、簡単なこと、容易なことではありませんか!

それとも、変らなければならない、変えなければならない、「何か」があったでしょうか?


ここまでお読みの方の中には、なぜ、想定するのが「一つ屋根」の「ワンルーム」なのか、という疑念を抱かれる方が大勢居られると思います。
「住まい」とは「室:部屋」の集合体、それに「形」を与えるのが設計である、とお考えの方が多いのではないか、と思われます。そう教えられてきたからです。

たとえば、住宅にかかわる広告の《指標》自体、〇LDKなどというのが当たり前です。あたかも、「室:部屋」の数が「住居の価値」を決めるかのようです。

   下は、最近のタウン紙にあった広告。
   

   敷地が狭いのに(170㎡:50坪強!)、部屋数を「追求」するため、部屋の大きさは小さくなります。
   これは、まだいい方です。
   なお、「住まいの原型」で示したA~Cゾーンで、この住まいを仕分けてみてくださると、
   最近の「設計思想」「住まい観」が見えてきます。

これは、戦後の公営住宅の「計画」の「指針」のなせる結果なのです。
もう知っている方は数少なくなっていると思いますが、公営住宅の計画にあたっての「目標」に「食寝分離論」というのがあった。
要は、食事をした場所で寝る、などという暮し方はもってのほか、という論。
狭い室で、流し台を目の前にしながら食事をするというなんとも惨めなDKというのは、「食寝分離」を「促進させる」ための発案だった・・・。
隣りの、寝るべき室:六畳間で座卓で食事をする、などというのは「遅れた生活」だ・・・と非難された。本当の話です。
ここで、六畳という大きさが提言されていることにも注目。
かつては、六畳というのは、次の間、控の間の大きさだった!
これについて語ると、それだけで長くなってしまいますから、それはこれでお終いにします。

ただ、その結果、住居は「室:部屋の数」こそすべて、と考える「悪習」が、世の中に広まってしまったのです。
住居とはそもそも何か、などというのは、無意味な「そもそも」論だ、として、まったく無視されました。「本質」なんてものはない、という《思想》の時代。
この《考え方》から脱するのは並大抵のことではありません。まさに柵(しがらみ)。

しかし、洋の東西を問わず、人びとがつくってきた「住まい」は、「一つ屋根」が基本、そして根源は「ワンルーム」、というのは厳然たる事実なのです。


今回は、ここまでにします。次回、その次の展開を考えてみたいと思います。

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謹賀新年

2011-01-04 12:49:19 | その他


静かです。
遠景が霞んでいます。
雲も春の雲の形に近い。
一陽来復。一日一日と、日の入りが確実に伸びています。
ただ、風はまだ冷たい。


今年もよろしくお願いします。
コメント (3)
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