“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-18

2015-08-29 11:47:22 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   Base crucks and quasi-aisled construction in timber buildings

CHILHAMHURST FARM(断面図 fig45 :下図) が1300年前後の建設であるとの判定が正しいとすれば、当時、既に、梁間の大きな hall をつくる方策として、 aisled 型式以外の工法が知られていた、と考えられる。

HURST FARM の梁間 8.5mは、当時のaisled 型式の普通の hall よりも数等大きい。この事例はまったくaisled 型式を採っておらず、その幅広さに於いてきわめてユニークである。もっとも、BRENCHLEYOLD CRYALS にも、これより梁間:幅は僅かに狭いけれども、初期のaisled 型式でない hall の事例が現存する。
一般に端部の(間仕切りになる)軸組・小屋組:spere truss :は、aisled 型式を採るのが普通であったが、中間の軸組・小屋組 : open truss から上屋柱:arcade post を取り除こうとする試みが各地で為されている。
たとえば、FAWKHAMCOURT LODGE では、aisled 型式間仕切の軸組・小屋組spere truss :と同じ形状で open truss中間の軸組・小屋組をつくると hall の幅が狭くなるからであろう、fig46(下図) のように、tie beam :繋梁crown postに載っているだけで、その下には他に支持材はまったくない。
   註 おそらく、fig47 と同様に、端部の上屋柱からの斜材アーチ状の方杖を承けているものと考えられる)。

その後、1400年前後には、外壁側の下屋柱からアーチ形の斜材:方杖をまで伸ばして tie beam :繋梁を承け、arcade post を取り除いた事例が二例ある(これについては7章で触れる)。しかしこれらはむしろ特例と言ってよい。上屋柱:arcade post を省くごく普通な方策は base cruck 工法であり、この方法では、open truss中間の軸組・小屋組は、側面の柱から側廊:下屋の幅を越えて伸びる湾曲した斜材が直接 tie beam :繋梁を支える
   註 arcade、arcade post については、“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-16を参照ください。
     いわゆる「アーケード:商店街の日よけ雨よけの付いた通路」は、おそらく、「列柱にアーチが連なる側廊」の形状との類似からの呼称と思われます。

しかし、これらの事例が、はたしてbase cruck 工法と言えるのかどうかについては、base cruck 工法の起源とともに、いろいろと論議されてきている。
ケント地域以東では、「純正の」base cruck 工法の事例は一つもないことは、よく知られている。しかし、base cruck 工法は、徐々に育っていったと見るべきで、cruck に似た斜材を用いる方法は、小さな建物の、跳ねだした上階の屋根を支える方策として多くの事例で使われている(“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-14中の fig34fig35参照。柱を立てずに屋根を大きくする方策として多用されたものと思われます)。base cruck 工法のいわば完成形は、15世紀かそれよりも後になって現れると見てよいが、これについても7章で論じることになろう。
ただし、このように、base cruck 工法の初期的形態と見なせる事例は、すでに、1300年近辺に造られている。ケント地域に限れば、最も古いbase cruck 工法の建物は、おそらく HADLOWBARNES PLACE だろう( fig47 参照)。
この建物は、かなり改造されてはいたが、遺されていた部材を基にして、原型を復元することができた。中央部の小屋組は、二重の tie beam : 繋梁:上屋桁を挟み、このと、端部の小屋組の tie beam : 繋梁: は、これも柱からの二重の斜材方杖で補強されている( fig47 参照、いずれも湾曲している)。ただ、tie beam : 繋梁:上にある現在の crown post で支えている屋根は、おそらく1400年代に後補されたと考えられ、当初の屋根の形式は不明である。この事例の、木材の割り方や細部の納め方:仕口、そして特に二重梁二重の斜材を用いる方法は各地にみられ、とりわけSTAFFORDSHIREWEST BROMWICH MANOR HOUSE のような base cruck 工法の建物との強い関係を示唆している。
なお WEST BROMWICH MANOR HOUSE に用いられている木材の一部は、最近の年輪による年代測定法で1273年の伐採と判定されている。だからと言って、BARNES PLACEの建設時期の判定が惑わされる必要はあるまい。BARNES PLACEは、おそらく13世紀後期あるいは14世紀のごく初期に建てられたのである。 
その他のbase cruck 工法 の建物の時代判定は一層難しい。
年輪による年代測定法による時代判定には、いろいろな面で不都合生じることがあり、base cruck の形式が明らかに15世紀にも引き継がれていることでもあり、base cruck の建物の年代判定の援用にあたっては、さらなる注意を払う必要があろう。fig32(下に再掲) の SMARDENHAMDEN は14世紀第二四半期の建設と認定されている。
   註 筆者の感想
     著者は、年輪による年代測定法による使用木材の伐採時期に全面的に依拠した建設時期判定に疑念を抱いているように見受けられます。
     その試料とされた部材が後補である可能性もあるからです。
     おそらく、著者には、工法の変遷・経緯からの判定の方が合理的であるとの考えがあるのだと思われます。
     「工法の変遷=工人たちの思考の変遷」ですから、たしかに納得がゆきます。

    
HAMDENでは、図のように、二重の tie beam を架け、多くの部材で固めている中央部の軸組・小屋組は、fig47BARNES PLACEとはまったく異なっているが、直交する別棟を持つことや crown post の細部のつくりを見る限り、幾分遅れた時代の建設であることを思わせる。
fig48EAST PECKHAM にある LITTLE MOAT COTTAGE も14世紀第一四半期に建てられたと考えられるが、他の事例の時代判定は容易ではない。
たとえば、YALDING 教区の BENOVER の小村に在る BURNT OAKNIGHTINGALE FARMHOUSE のような密集して建つ小さな建物の場合、14世紀の後半にならなければ建てられなかったと考えられる。しかし、それらの建設がLITTLE MOAT COTTAGEなどよりも遅いとも言いきれないのである。これらについては、6章、7章で更に詳しく触れる。そこでは同時にこれらの工法や代表的な細部の納めかたから、これらの建設が15世紀にまで下ることも触れる。

現在のところ、一帯では、14世紀以降と思われるbase cruck 工法の建物が数事例見つかっているが、JOYDENS WOOD で発掘された家屋も加えていいだろう。むしろ、この形式のつくりかたが、より一般的だったのではないか、とも考えられている。CRUNDALECRUNDALE HOUSE の桁行3間の hall では、端部の軸組・小屋組は aisled 形式であるが、中央部の軸組・小屋組は spere truss :間仕切り部の軸組・小屋組:同様の形状である。他事例と違うのは、中央部の軸組・小屋組が、 tie beam : 繫梁を承けるのではなく、逆に tie beam : 繋梁が、を承けている点であろう。tie beam : 繫梁は、仕切り壁部分に嵌め込まれているが、その下部には枘(ほぞ)の痕跡がなく、斜材を留める釘などの痕跡も見当たらない。これらの事実から、この軸組・小屋組がbase cruck 工法で造られていたと見なすことができるだろう。そして更に、 spere trussaisled 形式で造られている hallopen truss 部の柱が取り除かれている事例は、いずれもbase cruck 工法の併用であったと見なすことも可能になる。たとえば、petham の dormer cottage の open truss は、すべてが aisled 形式で造られていた、と考えてよいだろう。しかし、このことを示す何らの証拠もなく、また、それに代わる説明も今のところ見つかっていない。
間違いなくbase cruck 工法と断定できる最古の事例: HADLOWBARNES PLACEEAST PECKHAMLITTLE MOAT COTTAGESMARDENHAMDEN の3事例は、その所在を、 quasi-aisled 形式に含め fig16 に示してあり、3章で詳しく触れています。fig16 は、3章を紹介する本シリーズ第10回に載っています。これらの他に、MEDWAYYALDINGSUSSEX 境の SPELDHURST に在る3事例を加えることができるが、これらは、時代が若干遅れるため、この図には載せていない。
これら6事例が在るのは、ケントの南西部あるいは中央の WEALD の地域ということになる。CRUNDALE HOUSEbase cruck 工法は、STOUR VALLEY: stour 渓谷 の中に在るが、JOYDENS WOOD はケントの北西部に在る。しかしこれらの未確認の事例を除けば、base cruck 工法がこの地域の北部あるいは北東部で発生するのは、それほど遅くはなく15世紀中であると言えるのである。これは、初期の aisled hall の分布と異なる特徴である。
   註 WEALD
     STOUR VALLEY: stour 渓谷
     いずれも、第3回の「ケント一帯の地質と地形の解説」を参照ください。


   The origins of base-cruck construction

イギリスでは、base cruck 工法は、通常、上層階級の建物に見られる。石造の事例は、王族や富裕な宗教関係者の建てる建物に多い。ケントでは、COBHAM COLLEGEhall がその例である。
木造の事例の場合でも、多くは教会関係の官邸や牧師邸である。しかし、少なくともケントでは、base cruck 工法で建てる人びとは、aisled 形式hall を建てる人びととは異なるようである。3章で触れたように、初期のaisled 形式の建物は、北部の高度に荘園化された地域に多く見られる(一帯の荘園化の始まりは 11世紀のNORMAN CONQUEST の頃にまで遡るのではなかろうか)。これに対し、初期のbase cruck 工法の建物は、教会関係の官邸とは無関係で、どちらかと言えば開発の遅れた一帯に見られるようである。これは JOYDENS WOOD の事例によって明らかになるのではないだろうか。この事例の調査では、base cruck 工法による前身建物が存在したという痕跡はまったく見つかっていないのである。また逆に、その歴史を11世紀まで遡りうるAYLESHAMRATLING COAT のような遺構の場合には、現在の aisled 形式hall を建てた人びとは、その建設の際、既存の当初の建物を考慮にいれざるを得なかったであろうし、あるいはまた長年にわたる慣習・因習に従わざるを得なかったであろう。その一方で、HADLOWBARNES PLACE や、SMARDENHAMDEN を建てた新来の人びとは、新しい敷地に、新しい構築物を、過去のしがらみに一切囚われることなく、建てることができたのである。
これらのことを考えると、「base cruck 工法は遅れて出現する」という見方の方が、「base cruck 工法は数世紀の歴史がある」とする見方よりも妥当のように思われる。そして、ケントだけに限れば、そこで見られるつくりは、まったく cruck の伝統とは無縁な aisle 形式の hall の一発展形に過ぎず、それとまったく同じ時期には、最初の base cruck 工法 が出現し、また他の長い歴史のある敷地に建つ hall では、中央部の軸組・小屋組: open truss の梁間をの aisle 形式以外の方法で広げようとするいろいろな試も行われていたのだとの解釈が妥当のように思えてくる。

しかしながら、ある人びとは base cruck 工法を採り、またある人びとは、アーチ状の斜材を延長したり、あるいは他に支えのない tie beam :繋梁を架ける方策を採るのか、その選択の理由は、まったく不明である。これらは、いずれも aisle 型式 hall の中央部の邪魔な arcade post :上屋柱 を取り除くという構造的な難題に直面した人びとの為した「実験」であると言えよう。base cruck は、 aisled hall の改造に用いられたという説は新しいものではない。問題は、それらが、長い年月にわたり相互に影響しながら生まれた結果なのか、それともそれぞれまったくt外に関係ない独立の発案であったのか、という点である。しかしこれは、ケントに限っていては解決できない難題であり、かと言って、この地域においては、アーチ状の斜材を延長するような新しい方策がこの時期に発明されている、ということはそれほど意味があることではない。base cruck 工法 をが、他の方策・工法脈とは関係のないものとして扱わなければならない理由を見つけるのは難しいのである。 

14世紀に入ると、 広い hall を造る新しい方法が考え出され、かつての aisle 工法はまったく不要になってくる。完全な aisle 型式base cruck 工法も相変わらず用いらてはいたが、いずれも old fashion 旧態として見られ、最も現代的であろうとする人びとの好みからは離れてゆき、その後これらの工法は、一部地域の小さな建物に限られるようになる。
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                     この項、終わり

次回からは  6 The evolution of the late medieval house  の章の紹介になります。数回に分けます。   

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筆者の読後の感想 [文言追加 30日11.00am]
     以上で語られている「根本」は、
     構築法・工法:技術は、常に、同時に多様な工法:技術上の試行錯誤が行われることで発展するのだ、という「事実」の「立証」にある、と思われます。
       もちろんこれは、現代風な単純な競争原理の意味ではありません。
     すなわち、「歴史は単純に図式化できない、また、歴史を単純に図式化して見てははならない」という著者らの方法論の立脚点の表明と思えます。
     具体的に言えば、base cruck 工法も独立して存在したのではなく、
     「広い hall を造ろう」とする人びとの各種の試み:工法の開発との「関係」のなかで生まれたのだ、ということです。
     筆者も、これは、技術の変遷・発展の歴史を考える上で(一般に「歴史」を考える上で)きわめて重要な視座である、と考えますので、同感です。
     ことによると、西欧でも、「単純図式化による《理解・認識》」が横行していたのかもしれません。
       この点について以前の記事「本末転倒の論理・・・複雑系のモデル化を誤ると」で触れています。

     日本でも、たとえば、一時、東大寺南大門の構築法:いわゆる大仏様は、宋の工人によるとする説が、主流でした。いわゆる「文化の伝播論」です。
     しかし、そのころ、民間では、貫を使う構築が一般的に為されていたのです。
     このあたりについては、そこに至るまでの経緯を、「日本の建物づくりを支えてきた技術」シリーズで詳しく触れていますので、順にお読みください。
      

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-17

2015-08-19 10:03:03 | 「学」「科学」「研究」のありかた
前回からだいぶ間が空きましたが、その間に、自然界はツクツクボウシの時季になっていました。今日から再開します。


     
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   Crown post and king struts in timber buildings

     crown post 、king-struts については、先回を参照ください。

木造の建物で crown-post を用いた事例では、建設時期を1300年近辺まで遡り得る事例が一、二ある。
fig44dfig44 を下に再掲) のAYLESHAMRATLING COURT の木造建屋( aisled 形式hallcrown-post と king struts を併用している)は、13世紀の第四四半期(1275~1300年)~14世紀初頭の10年(1300~1310年)頃の建設と見なして何ら問題はないだろう。
hall 端部の king struts から collar繋ぎ梁に至る brace :斜材を設ける工法は、EASTBRIDGE HOSPITALTHE TABLE HALLCHAPEL に於いても同様に使われている。

そういう事例がある一方、fig44cfig45(下掲) のaisle 型式ではない CHILHAMHURST FARM では、長いアーチ状の斜材が繋ぎ梁まで高く登り、二重の斜材で支えた先端を断ちきったような繋ぎ梁の変形のように見えるが、EAST SUSSEX WARBLETONOLD RECTORY の事例とも似ていない。

   註 この部分の原文は以下の通りです。fig45 を見ても、truncated tie beam の意がよく分りません。 
     ・・・an arrangement which,like the use of a truncated tie beam with duplicate bracing below,is not dissimilar to features fonde at the OLD RECTORY・・・

この事例の屋根も、 crown postscissor brace を併用しているが、形状は異なっている。ただ、この形状の屋根は、BRENCHLEYOLD CRYALS ( CRYALS は固有名詞か?)や、LYNSTEDLYNSTED COURTopen hall など一・二の家屋でも使われている。
HURST FARM は、間違いなく1290~1310年頃の建設と見なしてよいが、その他は、それより若干遅いと考えた方がよいだろう。

    The relationship between crown posts and king struts

crown post は、13世紀末:1290年代にはケント地域ではよく知られていたし、14世紀前半には同地域で比較的広く使われていたというのも、長い間、いわば常識であった。しかし、CANTERBURY の宗教的な大建築に関わった大工職が、何故、居住用の建屋:住宅建築の屋根に crown post を使いたがらなかったのかは、分らずじまいである。
この地域の住居への初期の crown post 使用事例は、すべてが、secular buildings : 在俗司祭の住居 : か、rectory : 牧師の住居 : の hall の屋根である。13世紀後期~14世紀初期にCHRIST CHURCH PRIORYST AUGUSTINE'S ABBEY によって建てられたおよそ20の住居(司祭や牧師の官邸と思われる)が現存しているけれども(いずれも CANTERBURY 域内かその周辺に在る)、1326年に建てられた MARGATESALMESTONE GRANGE (邸宅)の chapel の他には crown post の使用事例はまったくない。その後、漸く1400年前後になって、CHRIST CHURCH PRIORYST AUGUSTINE'S ABBEY の関わる建築で、crown post を多用するようになるのだが、既にその頃ケント一帯では、crown post 工法は、ごくあたりまえの工法になっていたのである。
これらの事実は、ケント及び各地域での king-strut 工法crown post 工法についての新たな論議が起きて然るべきことを示している。何故なら他の工人たちの用いている工法にについて、まったく関心が示されないなどということは、工人の世界では通常あり得ないことだからである。ところが、CANTERBURY の工人たちは、彼ら独自の道を歩み、当時各地で発展していた新しい工法に、まったく関心を示さなかったのである。

CANTERBURY の大きな重要な建物のいくつかは、至る所で見られる crown post を用いた小さな建物群よりも早く建てられていると見なして間違いないだろう。そして、ケント地域ではcrown post を用いた住居用の建物が1290年代以前には見出せないことは、現存する king struts を持つ屋根のいくつかが、いずれも1200年代の早い時期の建設であることと符合する。しかしながら、crown post は、既に1260年代1270年代から英国各地で用いられており、そしてまたCANTERBURYの工人たちの屋根のつくりかたにも、king strutsから crown postへの構造的展開の経緯・過程が明確に読取れないがゆえに、両者の関係を単純に図式化して解釈することはできないのである。
CANTERBURYの宗教的建物は、大陸の影響を多く受けており、それゆえ、屋根のつくりにも大きな影響を受けたであろうことは想像に難くない。しかし、ケント地域でcrown post を用いようという動きは、これとは別の動向と言えるだろう。二つの可能性が考えられる。第一は、ケントの教会のcrown post 工法による屋根のつくりかたの影響である(ただ、その発展の経緯などは今のところ詳しく研究されていない)。もう一つは、イギリス各地の特にロンドン地域の初期の住居建築の影響である。ただ、当j所のロンドン地域の建物はほとんど喪失してしまっているから、その起源・経緯についても不明のままである。そして、このようなまわりの状況と関係なく、CANTERBURY の工人たちは、我が道を行き、長手方向の補強なしの屋根をつくり続けたのである。
   註 長手方向への方杖を設けず束柱だけ、の意と解します。日本ではあたりまえですが・・・。
そして、最終的には彼らもcrown post 工法を用いるようになるのではあるが、しかしそれは、英国南東部一帯でそれが一般的な造りかたになってから、かなり遅れてのことであった。

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以上で、crown post 工法、king struts工法の解説は終りのようですので、分量は少なく、先回の予告とも変りますが、内容の点で区切りがいいので、以下は次回にまわします。

   Base crucks and quasi-aisled construction in timber buildings
   The origins of base-cruck construction
この節は、crown post king struts工法と base-cruck construction工法 との関係の解説になります。
base-cruck は、彼の地では、構築法上、大きな影響力を持っていた工法であったようです。
このbase-cruck については、 The Last of the Great Aisled Barns -7 を参照ください。
また 「The Last of the Great Aisled Barns 」のシリーズは、 aisle 形式の諸相を紹介していますので、折りを見てご覧ください(下記)。

The Last of the Great Aisled Barns -1
The Last of the Great Aisled Barns -2
The Last of the Great Aisled Barns -3
The Last of the Great Aisled Barns -4
The Last of the Great Aisled Barns -5
The Last of the Great Aisled Barns -6
The Last of the Great Aisled Barns -8:最終回


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筆者の読後の感想

   ここまで読んだ限り、 crown-post の頭部の枝状の部分が、工人たちの間で、どの程度「構造的な意味」で考えられていたのか、よく分りません。
   印象として、ある頃から、工人たちの間でも、「構造」よりも、「形状」に関心が移っていったように思われます。
   もちろん、当初は、束とそれが支える部材:梁・桁とを強固に繋げるための斜材として工人たちが考え出した方策であったと思いますが、
   しかし、人びとは(工人たちも含め)、そうして生まれた形状に目を奪われたのです。かっこいい!
   これは、建築史上よくあることすが・・・。すなわち、当初の工人たちが予想もしなかった「形式化・様式化」の始まり。
コメント (2)
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簡潔と冗長

2015-08-16 10:55:33 | 近時雑感
残暑 お見舞い申し上げます。

休養中のせいか、それとも時節柄か、「気になる言動」がいろいろと目・耳に飛び込んできました。

一つは、いわゆる「戦争法案」に対して反対・抗議活動を続ける若い世代の方がたに対して、《自分中心の極端な利己的考え》だとして自民党の国会議員が非難したという件。
この議員は、こういう若者が出てきたのは、「国民主権・基本的人権の尊重、平和主義」の『現憲法の三大原理』が《日本精神を破壊した結果》である、と断じ、《「滅私奉公」こそ「日本精神の心髄「である》とも言っているようです。その「論」に仰天したが、この方の年齢を聞いて更に仰天しました。なんと、30代半ば、と!! 現総理の熱烈な「支援者」のようです。怖いですね。
下に、この「発言」に対しての「信濃毎日新聞」の8月5日付社説を、web版から転載させていただきます。まったく同感です。


一昨日、14日に公表されたいわゆる「戦後70年談話」、これにも大いに仰天しました。何を言いたいのか不分明な、冗長にして冗漫な文言。私は、その中に、現総理の「本心」と思われる一節を見つけました。
即ち、「・・・私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」という「文言」です。
要するに、「一度謝ったら、それ以上、くだくだ言うな」「済んだ話にしろ」と言っているに等しい。同様な発言は、自民党の女性議員も繰り返しているようです。
このような「発言」には、「謝罪」が「何に対しての謝罪」であるか、その「何」が明確に示されていません。多分、真摯に「認識」していないのかもしれません。
つまり、「何故謝罪しなければならないのか」、その「根幹」について目を閉じている。端的に言えば、「根幹」を「過去のものとして忘れてしまいたい」、という、それこそ「利己的な願望」の表出である、私にはそのように思えます。

冗長、冗漫な言辞を弄するのは、現政権の「特徴」なのかもしれません。
よく耳にする「丁寧な説明で理解を求める」、これも、その「説明」なるものを読んだり聞いたりしても、いったい何が、どこが丁寧なのか戸惑うことばかりである、と言ってよいでしょう。何度も聞いていると、これは体のいい「脅迫」「強要」、つまり「押売り」に見えてきます。いわゆる「戦争法案」に対して「賛成」を強要し、賛成するまで、帰らない、まさに「押売り」そのもの。
ある方が、「理解したから、反対しているのである」と言っていましたが(そういう新聞投稿も多数あります)、まさにその通りです。
これは、沖縄の「辺野古移設」問題についての「対応」でも同じです。しかも、そこでは、えげつないことに、「買収」までも考えている。

暑い夏です。もうこれ以上、暑くさせないでください!

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ご挨拶 : しばらく「夏休み」をいただきます。

2015-08-03 08:43:12 | その他
この連日の暑さは、さすがにこたえます。歳とったなァと改めて感じています。
先月20日ごろから37度台の熱が毎日続き、リハビリ散歩も外出もずっと控えてきました。
夏風邪かと思いますが、関節も痛くならず咳もでず、ただただ汗をかき、何もしないのに体力が消耗するだけ・・・。
幸いなことに、食欲は衰えないので助かっています。

一昨日ぐらいから平常に戻り、昨日の日曜日は、朝7時から、集落総出の道路の清掃作業に出てきました。
集落の方がたが道路際の雑草を刈り払い、素手の私どもが埋もれていた投棄ゴミを収集する段取り。
およそ小一時間、幸い今回はゴミは少なかった。ただ、全行程往復約3㎞、病み上がりにはこたえました。最後はふらふら・・・。

そんなわけで、喪失した体力の復元を真面目に考えなければ・・・、と思い直し、ここしばらく、お盆明け頃まで完全休業にしよう、と決めました。
ゆえに、ブログ記事更新もしばらく休みます。ご容赦ください。

皆様も くれぐれもご自愛のほど!

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