*************************************************************************************************************************
Base crucks and quasi-aisled construction in timber buildings
CHILHAM の HURST FARM(断面図 fig45 :下図) が1300年前後の建設であるとの判定が正しいとすれば、当時、既に、梁間の大きな hall をつくる方策として、 aisled 型式以外の工法が知られていた、と考えられる。
HURST FARM の梁間 8.5mは、当時のaisled 型式の普通の hall よりも数等大きい。この事例はまったくaisled 型式を採っておらず、その幅広さに於いてきわめてユニークである。もっとも、BRENCHLEY の OLD CRYALS にも、これより梁間:幅は僅かに狭いけれども、初期のaisled 型式でない hall の事例が現存する。
一般に端部の(間仕切りになる)軸組・小屋組:spere truss :は、aisled 型式を採るのが普通であったが、中間の軸組・小屋組 : open truss から上屋柱:arcade post を取り除こうとする試みが各地で為されている。
たとえば、FAWKHAM の COURT LODGE では、aisled 型式の間仕切の軸組・小屋組: spere truss :と同じ形状で open truss :中間の軸組・小屋組をつくると hall の幅が狭くなるからであろう、fig46(下図) のように、tie beam :繋梁と crown post は桁に載っているだけで、その下には他に支持材はまったくない。
註 おそらく、fig47 と同様に、端部の上屋柱からの斜材:アーチ状の方杖で桁を承けているものと考えられる)。
その後、1400年前後には、外壁側の下屋柱からアーチ形の斜材:方杖をまで伸ばして tie beam :繋梁を承け、arcade post を取り除いた事例が二例ある(これについては7章で触れる)。しかしこれらはむしろ特例と言ってよい。上屋柱:arcade post を省くごく普通な方策は base cruck 工法であり、この方法では、open truss :中間の軸組・小屋組は、側面の柱から側廊:下屋の幅を越えて伸びる湾曲した斜材が直接 tie beam :繋梁を支える
註 arcade、arcade post については、“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-16を参照ください。
いわゆる「アーケード:商店街の日よけ雨よけの付いた通路」は、おそらく、「列柱にアーチが連なる側廊」の形状との類似からの呼称と思われます。
しかし、これらの事例が、はたしてbase cruck 工法と言えるのかどうかについては、base cruck 工法の起源とともに、いろいろと論議されてきている。
ケント地域以東では、「純正の」base cruck 工法の事例は一つもないことは、よく知られている。しかし、base cruck 工法は、徐々に育っていったと見るべきで、cruck に似た斜材を用いる方法は、小さな建物の、跳ねだした上階の屋根を支える方策として多くの事例で使われている(“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-14中の fig34、fig35参照。柱を立てずに屋根を大きくする方策として多用されたものと思われます)。base cruck 工法のいわば完成形は、15世紀かそれよりも後になって現れると見てよいが、これについても7章で論じることになろう。
ただし、このように、base cruck 工法の初期的形態と見なせる事例は、すでに、1300年近辺に造られている。ケント地域に限れば、最も古いbase cruck 工法の建物は、おそらく HADLOW の BARNES PLACE だろう( fig47 参照)。
この建物は、かなり改造されてはいたが、遺されていた部材を基にして、原型を復元することができた。中央部の小屋組は、二重の tie beam : 繋梁: が上屋桁を挟み、この桁と、端部の小屋組の tie beam : 繋梁: は、これも柱からの二重の斜材 :方杖で補強されている( fig47 参照、いずれも湾曲している)。ただ、tie beam : 繋梁:上にある現在の crown post で支えている屋根は、おそらく1400年代に後補されたと考えられ、当初の屋根の形式は不明である。この事例の、木材の割り方や細部の納め方:仕口、そして特に二重梁や二重の斜材を用いる方法は各地にみられ、とりわけSTAFFORDSHIRE の WEST BROMWICH MANOR HOUSE のような base cruck 工法の建物との強い関係を示唆している。
なお WEST BROMWICH MANOR HOUSE に用いられている木材の一部は、最近の年輪による年代測定法で1273年の伐採と判定されている。だからと言って、BARNES PLACEの建設時期の判定が惑わされる必要はあるまい。BARNES PLACEは、おそらく13世紀後期あるいは14世紀のごく初期に建てられたのである。
その他のbase cruck 工法 の建物の時代判定は一層難しい。
年輪による年代測定法による時代判定には、いろいろな面で不都合生じることがあり、base cruck の形式が明らかに15世紀にも引き継がれていることでもあり、base cruck の建物の年代判定の援用にあたっては、さらなる注意を払う必要があろう。fig32(下に再掲) の SMARDEN の HAMDEN は14世紀第二四半期の建設と認定されている。
註 筆者の感想
著者は、年輪による年代測定法による使用木材の伐採時期に全面的に依拠した建設時期判定に疑念を抱いているように見受けられます。
その試料とされた部材が後補である可能性もあるからです。
おそらく、著者には、工法の変遷・経緯からの判定の方が合理的であるとの考えがあるのだと思われます。
「工法の変遷=工人たちの思考の変遷」ですから、たしかに納得がゆきます。
HAMDENでは、図のように、二重の tie beam を架け、多くの部材で固めている中央部の軸組・小屋組は、fig47 のBARNES PLACEとはまったく異なっているが、直交する別棟を持つことや crown post の細部のつくりを見る限り、幾分遅れた時代の建設であることを思わせる。
fig48 の EAST PECKHAM にある LITTLE MOAT COTTAGE も14世紀第一四半期に建てられたと考えられるが、他の事例の時代判定は容易ではない。
たとえば、YALDING 教区の BENOVER の小村に在る BURNT OAK や NIGHTINGALE FARMHOUSE のような密集して建つ小さな建物の場合、14世紀の後半にならなければ建てられなかったと考えられる。しかし、それらの建設がLITTLE MOAT COTTAGEなどよりも遅いとも言いきれないのである。これらについては、6章、7章で更に詳しく触れる。そこでは同時にこれらの工法や代表的な細部の納めかたから、これらの建設が15世紀にまで下ることも触れる。
現在のところ、一帯では、14世紀以降と思われるbase cruck 工法の建物が数事例見つかっているが、JOYDENS WOOD で発掘された家屋も加えていいだろう。むしろ、この形式のつくりかたが、より一般的だったのではないか、とも考えられている。CRUNDALE の CRUNDALE HOUSE の桁行3間の hall では、端部の軸組・小屋組は aisled 形式であるが、中央部の軸組・小屋組は spere truss :間仕切り部の軸組・小屋組:同様の形状である。他事例と違うのは、中央部の軸組・小屋組が桁が、 tie beam : 繫梁を承けるのではなく、逆に tie beam : 繋梁が、桁を承けている点であろう。tie beam : 繫梁は、仕切り壁部分に嵌め込まれているが、その下部には枘(ほぞ)の痕跡がなく、斜材を留める釘などの痕跡も見当たらない。これらの事実から、この軸組・小屋組がbase cruck 工法で造られていたと見なすことができるだろう。そして更に、 spere truss が aisled 形式で造られている hall で open truss 部の柱が取り除かれている事例は、いずれもbase cruck 工法の併用であったと見なすことも可能になる。たとえば、petham の dormer cottage の open truss は、すべてが aisled 形式で造られていた、と考えてよいだろう。しかし、このことを示す何らの証拠もなく、また、それに代わる説明も今のところ見つかっていない。
間違いなくbase cruck 工法と断定できる最古の事例: HADLOW の BARNES PLACE 、EAST PECKHAM の LITTLE MOAT COTTAGE 、SMARDEN の HAMDEN の3事例は、その所在を、 quasi-aisled 形式に含め fig16 に示してあり、3章で詳しく触れています。fig16 は、3章を紹介する本シリーズ第10回に載っています。これらの他に、MEDWAY の YALDING 、SUSSEX 境の SPELDHURST に在る3事例を加えることができるが、これらは、時代が若干遅れるため、この図には載せていない。
これら6事例が在るのは、ケントの南西部あるいは中央の WEALD の地域ということになる。CRUNDALE HOUSEの base cruck 工法は、STOUR VALLEY: stour 渓谷 の中に在るが、JOYDENS WOOD はケントの北西部に在る。しかしこれらの未確認の事例を除けば、base cruck 工法がこの地域の北部あるいは北東部で発生するのは、それほど遅くはなく15世紀中であると言えるのである。これは、初期の aisled hall の分布と異なる特徴である。
註 WEALD
STOUR VALLEY: stour 渓谷
いずれも、第3回の「ケント一帯の地質と地形の解説」を参照ください。
The origins of base-cruck construction
イギリスでは、base cruck 工法は、通常、上層階級の建物に見られる。石造の事例は、王族や富裕な宗教関係者の建てる建物に多い。ケントでは、COBHAM COLLEGE の hall がその例である。
木造の事例の場合でも、多くは教会関係の官邸や牧師邸である。しかし、少なくともケントでは、base cruck 工法で建てる人びとは、aisled 形式の hall を建てる人びととは異なるようである。3章で触れたように、初期のaisled 形式の建物は、北部の高度に荘園化された地域に多く見られる(一帯の荘園化の始まりは 11世紀のNORMAN CONQUEST の頃にまで遡るのではなかろうか)。これに対し、初期のbase cruck 工法の建物は、教会関係の官邸とは無関係で、どちらかと言えば開発の遅れた一帯に見られるようである。これは JOYDENS WOOD の事例によって明らかになるのではないだろうか。この事例の調査では、base cruck 工法による前身建物が存在したという痕跡はまったく見つかっていないのである。また逆に、その歴史を11世紀まで遡りうるAYLESHAM の RATLING COAT のような遺構の場合には、現在の aisled 形式の hall を建てた人びとは、その建設の際、既存の当初の建物を考慮にいれざるを得なかったであろうし、あるいはまた長年にわたる慣習・因習に従わざるを得なかったであろう。その一方で、HADLOW の BARNES PLACE や、SMARDEN の HAMDEN を建てた新来の人びとは、新しい敷地に、新しい構築物を、過去のしがらみに一切囚われることなく、建てることができたのである。
これらのことを考えると、「base cruck 工法は遅れて出現する」という見方の方が、「base cruck 工法は数世紀の歴史がある」とする見方よりも妥当のように思われる。そして、ケントだけに限れば、そこで見られるつくりは、まったく cruck の伝統とは無縁な aisle 形式の hall の一発展形に過ぎず、それとまったく同じ時期には、最初の base cruck 工法 が出現し、また他の長い歴史のある敷地に建つ hall では、中央部の軸組・小屋組: open truss の梁間をの aisle 形式以外の方法で広げようとするいろいろな試も行われていたのだとの解釈が妥当のように思えてくる。
しかしながら、ある人びとは base cruck 工法を採り、またある人びとは、アーチ状の斜材を延長したり、あるいは他に支えのない tie beam :繋梁を架ける方策を採るのか、その選択の理由は、まったく不明である。これらは、いずれも aisle 型式の hall の中央部の邪魔な arcade post :上屋柱 を取り除くという構造的な難題に直面した人びとの為した「実験」であると言えよう。base cruck は、 aisled hall の改造に用いられたという説は新しいものではない。問題は、それらが、長い年月にわたり相互に影響しながら生まれた結果なのか、それともそれぞれまったくt外に関係ない独立の発案であったのか、という点である。しかしこれは、ケントに限っていては解決できない難題であり、かと言って、この地域においては、アーチ状の斜材を延長するような新しい方策がこの時期に発明されている、ということはそれほど意味があることではない。base cruck 工法 をが、他の方策・工法脈とは関係のないものとして扱わなければならない理由を見つけるのは難しいのである。
14世紀に入ると、 広い hall を造る新しい方法が考え出され、かつての aisle 工法はまったく不要になってくる。完全な aisle 型式 もbase cruck 工法も相変わらず用いらてはいたが、いずれも old fashion 旧態として見られ、最も現代的であろうとする人びとの好みからは離れてゆき、その後これらの工法は、一部地域の小さな建物に限られるようになる。
*************************************************************************************************************************
この項、終わり
次回からは 6 The evolution of the late medieval house の章の紹介になります。数回に分けます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想 [文言追加 30日11.00am]
以上で語られている「根本」は、
構築法・工法:技術は、常に、同時に多様な工法:技術上の試行錯誤が行われることで発展するのだ、という「事実」の「立証」にある、と思われます。
もちろんこれは、現代風な単純な競争原理の意味ではありません。
すなわち、「歴史は単純に図式化できない、また、歴史を単純に図式化して見てははならない」という著者らの方法論の立脚点の表明と思えます。
具体的に言えば、base cruck 工法も独立して存在したのではなく、
「広い hall を造ろう」とする人びとの各種の試み:工法の開発との「関係」のなかで生まれたのだ、ということです。
筆者も、これは、技術の変遷・発展の歴史を考える上で(一般に「歴史」を考える上で)きわめて重要な視座である、と考えますので、同感です。
ことによると、西欧でも、「単純図式化による《理解・認識》」が横行していたのかもしれません。
この点について以前の記事「本末転倒の論理・・・複雑系のモデル化を誤ると」で触れています。
日本でも、たとえば、一時、東大寺南大門の構築法:いわゆる大仏様は、宋の工人によるとする説が、主流でした。いわゆる「文化の伝播論」です。
しかし、そのころ、民間では、貫を使う構築が一般的に為されていたのです。
このあたりについては、そこに至るまでの経緯を、「日本の建物づくりを支えてきた技術」シリーズで詳しく触れていますので、順にお読みください。