地震への対し方・再び・・・・「耐震」は本当に可能なのか

2007-07-30 04:11:18 | 地震への対し方:対震

[サブタイトル追加:7月30日9.43AM]

 先に、応急危険度判定のために茨城から柏崎へ行かれた方の撮影した「屋根がずれて跳び出した土蔵」を紹介した(7月26日)。

 同氏は、茨城県建築士会HPに、柏崎で見た「現実」に対して「感想」を書き込まれている。同感なので、そのままコピーする。

 ・・・・
 人間は自然に逆らい、人間に都合の良いものを作り続けて来た。
 自然(地球)に抵抗するのではなく、協調、調和をすることを
 考えなくてはならないのではないか。

 自然にとっては、ここのところの各地の地震は
 蚊の刺した程度かもしれません。
 警笛をならしてるのか・・・

 今回の法改正で建築士に対し、かなり厳しいものとなった。
 その場しのぎの、取り繕いの法律にならなければよいが・・・

 しかし、自然はもっと恐ろしい罰則を用意しているかもしれない。


 氏は、柏崎中心部で、上掲の事例を目撃している。コンクリートブロック造の平屋建て車庫のようだ。床は無筋のコンクリートと思われる。
 両側の壁部分が沈下、土間は逆に盛り上がっている。

 この事態を防止することができるだろうか。
 たとえば、土間をRCにする、あるいはベタ基礎の一部と考えて設計・施工する。これで、このような状態になることを防げるか?
 建物全体は形状を維持することができたとしても、傾くだろう。その復原は大ごと。

 そうだとすると、残るは、杭を打つしかない。建築法令もそのように規定している。しかし、柏崎一帯の砂質層の厚さは5~6kmあるという。関東平野の比ではないそうだ。だから、杭を打つと言っても、摩擦杭にするしかない。それが砂質地盤の波打つ揺れに堪えられるという保証はない。多分、気休めにすぎまい。

 では、どうしたらよいのだろうか。
 こんな悪い地盤の場所には建物はつくらない、これが最高の策。しかし、それでは暮すことができなくなる。
 多分、「いかなる地震にも耐える建物をつくろうという考え」、つまり、「耐震建築をつくろうという考え」、を捨てるしかないのではなかろうか。
 柏崎刈羽原発の設計は、通常の建物の数倍に相当する「耐震基準」の下で成されたと言う。そして、今回は、その想定されていた「基準」を越える揺れだった、つまり「想定外」だったという「弁明」がなされている。

 しかし、考えて見るまでもなく、この「基準」は、言葉の正当な意味での「基準」ではなく、あくまでも「仮定」にすぎない。
 もっと言えば、「多分、起きてもこの程度の地震だろう」という程度のもの。それをもっともらしく言うことで、あたかも「絶対的な基準」であるかのフリをしてきたにすぎない。
 考えてみれば、一般の建物に関する「基準」もまた、この程度のもの。だから、僅か半世紀の間に、何度も「基準」が変ってきた。

 こういうのを「基準」と言うのか?「変るのは、科学・技術の進歩だ」と言うのか?
 このような「基準」にしたがって設計するのが「耐震設計」、という考え方自体が、すでに「科学的:scientific」ではない。むしろ、単なる気休め、あるいは思い過ごしと言ってよいのではないか。

 では、何が残るか。
 このような地震に際して波打つ地盤では、しかもどんな波になるか分らないところでは、分ってから考える、あるいは分ったと思い込んで考える方策から脱するしかない。ことによると、船の設計が役に立つのかもしれない。しかし、多分、重量の重い船は不適のはず。たしか、RCの船はないはずだ。

 では、たとえば、現在の法令が推奨する木造建築を、海に浮かべたらどうなるか?多分、少しの荒波で、あるいは並みの波で、バラバラになるだろう。
 では、昔ながらのつくりの木造建築ならどうなるか。全体の形状を維持したまま、つまりバラバラになることなく、波間を漂うはずだ。
 そしておそらく、かつての工人たちの考えたことは、動きに耐えよう、堪えよう、ではなく、動きに任せよう、ではなかったか。
 だからこそ、動きによって屋根瓦や壁が落ちても、骨格を成す部分、つまり木造軸組が形状を維持すればよいのだ、という考えでものをつくったのではあるまいか。
 
 絶対的に「自然」に対抗しよう、などというおこがましい考え方から、もう脱してはいかがなものか。

 柏崎刈羽原発の停止による電力不足で、あらためて省エネが言われている。出てくる策は姑息なものだけ。そういう省エネを言う前に、一番電気を喰う「都市」のあり方をなぜ考えないのだろう?それは、つまるところ、都会の消費する電力のための発電施設を、何故、遠く離れた日本海につくるのか、その問題に行き着くはず。「経済合理主義」から言えば、きわめて非合理ではないか。

 もっと、「問題」を「根源的」に考えたい。「根源的」、これを英語では“radical”と言う。根源的に考えると、とかく、世の「常識」からは「過激」に見える。それゆえ、通常、radical=過激、と訳される。しかしそれは間違い。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中越沖地震-3・・・・被害の実態

2007-07-27 01:16:15 | 地震への対し方:対震
 新潟県建築士会のHPに、同会柏崎支部の会員の被災状況について報告が載っていたので、コピーし、コメントなしで掲載する。


●柏崎支部の被害状況 [2007年07月25日22:05更新]

新潟県建築士会 柏崎支部は会員155名のうちの約130名が被災しました。
そのうち約100名が全壊か大規模半壊のもようです。

そのような中、被災した会員の多くが地震発生直後から避難所の点検や
被災建築物応急危険度判定や住宅相談、市の地震被害調査に毎日協力しています。

皆様のご支援ご協力をよろしくお願いします。

※支部のFAX等は壊れてしまい現在通信は難しい状態です。
当面の代替 FAX 0257-32-2008
支部への電話・FAXは 岡嶋さんの携帯に転送されていますので、
FAXの送信は 0257-32-2008へ
電話は 090-6118-4567へ お願いします。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・地震と土蔵

2007-07-26 01:36:07 | 地震への対し方:対震

[記述追加:7月26日8.23AM]

 中越沖地震では、先の中越地震に比べると、土蔵の被害が大きいという。
 新潟県建築士会のHPでは、応急危険度判定士の方々からの報告が、その都度更新・掲載されている。
 それらの報告から、土蔵について集めてみたのが上掲の写真。上から1,2,4枚目は、その報告からの転載、いずれも刈羽村の被災事例。3枚目は、茨城県建築士会から出向いた判定士の方の報告で、これは柏崎市の郊外。茨城県建築士会のHPからの転載。

 5枚目の写真は、地震ではなく、手入れが行われなかったことによる老朽化した土蔵。これは先に紹介した近江八幡・旧西川家の土蔵の修復前の状態。壊れ方の比較のために掲載。

 被災の状況は、それぞれまったく異なる。
 1枚目の例は、修復は難しいように思われるが、2枚目の例は、少なくとも写真で見る限りは、壁の修理で修復できるのではないか。
 3枚目は、置屋根が激しくずれてしまった例。中を見ないと判らないが、ことによると修復可能なのかもしれない。屋根が動いたおかげで、本体に大きな力がかからなかった、という見方もできる。
 4枚目は、多分、被害が少なかった例ではなかろうか(判定士の方の目は、手前の崩壊した家屋に関心がいっている)。

 最後の写真。西川家は、昭和5年(1930年)、11代で廃絶。分家によって維持管理されては来たが、無住状態が続いた。無住の家屋は傷みが激しい。土蔵も常時目が行き届かないと、少しの破損が一挙に進行する。
 そういういわば「自然の老朽化による破損」の姿が上掲の写真。地震によるいわば強制的な破損とは姿が異なることが分るので、参考として載せた。出典は「旧西川家(主屋・土蔵)修理工事報告書」。

 今度の地震による被災例は、建屋の問題より、どうも地盤の問題のように思える。
 地震は、まったく分っていない、というのが本当のところなのだ。それでいて「耐震」とは、何ぞや?
 それにしても、刈羽原発の「想定外の被害」は、実に恐ろしい。「想定外」と言って逃げるのは、「技術者の風上にも置けない」と言った評者の言に私も同感。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土蔵の施工・・・・近江八幡・西川家の土蔵復原工程

2007-07-24 11:56:10 | 建物づくり一般
 「重要文化財 西川家住宅(主屋・土蔵)修理工事報告書」(滋賀県)に、復原にあたっての修復工事の施工工程写真が載っている。
 土蔵の施工法は、書物では解説されているが、工程の各段階の写真は見たことがない。その意味でも、きわめて貴重な記録である。
 なお、木造軸部は、ほとんどすべて既存の材の使用である(一部の柱は、写真のように、「根継ぎ」が行われている)。

 修理工事報告書は、市販されていないため、なかなか閲覧することが難しい。しかし、折角の資料が偏在するのは意味がないと思うので、少し長くなるが、報告書の掲載順に転載させていただく。参考になれば幸い。
 なお、「修理工事報告書」は、専門古書店にときおり現われる。
 

 それにしても、地震で土壁部が崩落するのは分らなくもないが、転倒するというのはなぜか、詳しい報告を知りたいと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震と土蔵・・・・近江八幡 旧・西川家の土蔵の詳細

2007-07-22 22:14:47 | 建物づくり一般

 新潟県建築士会の応急危険度判定に関わった方が、今回の地震では、前回の「中越地震」に比べ、土蔵の被害が多いようだ、との感想を述べておられた。

 一般には、軟弱地盤では通常の木造建築(軸組工法)が被害を受けやすく、しっかりした地盤では、木造建築の被害は少なく、土蔵が被害を受けやすい、と言われている。関東大震災の調査でもそのような傾向があったという。
 それから言えば、今回多く被災した地域は、大半が軟弱地盤:砂質地盤であり、これまでの「常識」とは異なることが起きたことになる。

 これは、地震の被災を、このような「図式」で一般化して理解しまうことは、危険だ、ということを示唆しているように思える。一つずつ事例を詳しく観察することから、その事例の被災の理由を探る、という方法をとらなければならないのではないか。
 これは、医学の世界、特に臨床医学では、大原則と言ってよい。個々の患者の症状を、「一般的傾向」で図式的に理解してしまっては、患者の治療にはならないからだ。第一、「一般的傾向」とは、個々の事例の集積、個々の事例への対応の集積の結果、読み取れたことにほかならない。
 ところが、こと地震被害については、この「臨床」を省略した統計が大手を振って歩いているように思えてならない。かねてから私が「疫学的」調査・検討と言っているのは、単なる統計ではなく、「臨床」結果の統計的観察のことなのだ。

  註 倒壊した土蔵のうちのいくつかは、
    写真で見るかぎり、形を維持したまま転倒しているように
    見受けられる(実際を見ていないから詳しくは分らない)。
    ことによると、地盤が波打ったことによる転倒なのでは
    ないだろうか。


 それはさておき、「土蔵」とはどのようなつくりなのか。

 先に紹介した近江八幡の旧家・西川家の修理工事報告書(「重要文化財 旧西川家住宅:主屋・土蔵:修理工事報告書(滋賀県)」)に、西川家の土蔵についての詳細な報告がなされていた。
 上掲の写真、図は、同書から転載・編集したものである。

 西川家の土蔵は、主屋よりも20年ほどさかのぼる天和年間:1681年~1683年:の建設とされる(妻梁に墨書)。ただ、明治44年:1911年に、屋敷内の南西隅から北西隅(現在位置)に曳家されている。
 長い間空き家の時期があったため、修理時には、壁はほとんど剥落に近い状態であった。
 写真、図面は解体修理後の状態である。


 一般に、土蔵は完成まで最低でも三年かかると言われているが、西川家の解体・復原工事では、次の工程がとられている。

 初年度(1985年):実測調査および解体の一部(野地、1階床組、
          1・2階壁板、土壁全面)。
 次年度(1986年):実測調査および解体(軸組、小屋組を残して完了)、
          基礎工事、木工事、屋根工事、壁は小舞掻き・斑直しまで。
 三年次(1987年):木工事残、および壁工事の中塗り~上塗り完了、
          建具修理等。

 木工事は、ほとんどすべて元の材が使用可能であったから、材料の収集、墨付け、刻みの工程が不要であった。
 それにもかかわらず三年を要しているのは、単に実測調査が加わったからだけではないだろう。もっとも、仕事もきわめて丁寧に往年の工法を復原している(工程の写真も報告書にあるので、紹介したい)。

 なお、この土蔵で破損・腐朽が著しかったのは、1階の床で、何度も取り替えられていたらしい。
 写真(上掲写真右列下段)で分るように、1階の床は、布石(数段積みの高さ)に囲まれた中に、軸組とは別個に組まれ、きわめて床下の通風も悪い。これは腐朽の最たる原因。
 もっともこれは、想定済みで、だからこそ、軸組とは無関係に組んだものと思われる。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中越沖地震-2・・・・柏崎市の地形・地勢

2007-07-20 19:49:55 | 地震への対し方:対震

 上掲の写真は、散歩中の男性が建物倒壊で難にあった「円通寺」の周辺のgoogle earthからの航空写真。
 ゼンリンの地図を見ると、あたりには、驚くほど寺院が多い。そこで、上掲の写真には、周辺の主な寺院名を加筆した。
 そして、それがなぜなのか、あらためて、柏崎市について調べてみた。資料は、「日本歴史地名大系15 新潟県の地名」(平凡社)。

 先ず地形。その部分をそのまま転載する(読みやすいように段落変更)。

   黒姫山より発する鵜川(うかわ)が河谷平野を形成しながらほぼ北流し
  柏崎の平野部に出て日本海に注ぐ。
   鵜川との間に黒姫山から北に延びる丘陵を挟んで東方に
  ほぼ並行するように鯖石川(さばいしがわ)が北流し、
  これも河谷平野を形成しつつ刈羽平野に出て日本海に注ぐ。
   途中右岸へ長鳥川(ながとりがわ)・別山川(べつやまがわ)を
  合わせる。
   鵜川・鯖石川は河口部で、7~8メートルの柏崎砂丘によって
  しばしば堰止められ、流路が変更している。
   河口部の旧柏崎町は砂丘上から東に向かって発展した。

 この「旧柏崎町」が、現在の柏崎市のいわば中心、そこで「本町」の名があるものと思われる。
 同書によると、「柏崎町」は日本海に鵜川が注ぐ河口に発祥した町で、その名はモチガシワの木が群生する岬の意という。北陸道の宿駅、日本海海運の港として発展。陣屋が設けられているが、領主はたびたび変わっている。

  [註] 北陸道:佐渡国の国府に通じる古代の官道。
      近世までは山中を通る道であったらしいが、
      近世には海浜沿いに変る。

 地内には、真言宗五、禅宗三、法華宗二、浄土宗四、浄土真宗七、時宗一の多数の寺々があり、円通寺は真言宗の寺院の一。上掲の航空写真の範囲内でも五つの寺がある。
 つまり、栄えた町の人びと向けに競って各宗派の寺院ができた、ということなのではないだろうか。

 寺院だから、ほぼ似たようなつくりのはず。「耐震の専門家」の解説のような、古く、瓦屋根で、壁が少ない・・が倒壊の理由であるならば、大半の寺院が倒壊してもよいはずだが、そうではない。上の航空写真の中の、円通寺以外の寺院には、被害がないようだ。だから、「理由」を、そのような点だけに絞ることはまちがいだろう。
 円通寺の北隣は、数階建ての駐車場ビルらしい。一帯は深い砂質地盤。ことによると、その工事によって周辺地盤に変化が生じていたことが影響したのかもしれない、とも思う。

 いずれにしろ、素直に、何が倒れず、何が倒れたのか、それを見てこそ、「科学的」調査というもの。
 「専門家」には、先入観を捨て、是非そういう態度で調査をしていただきたい、と思う。そして、その報告を期待する。
 ただし、阪神・淡路の際の報告書のような内容ならば要らない。結論を勝手に出してくれなくてもよい。単純に「事実」を伝える生の資料の開示で十分(その際、被災建物だけではなく、隣接の建物はもちろん、無被害の建物も含め、一帯の状況を、地図なども含めて示さないと、片手落ち)。

 いま私が見たいのは、地震後の一帯の航空写真。得るところが多いのではないかと思う。
  

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中越沖地震-1・・・・何が壊れたのか (タイトル変更)

2007-07-17 23:15:11 | 地震への対し方:対震

 [記述加筆:7月18日 1.36AM]
 [註記追加:7月18日10.10AM]
 [タイトル変更:7月20日11.10AM]

 15日に、きわめて開放的なつくりの古河・鷹見泉石邸を紹介し、こういうつくりは今の法令の下ではつくりにくい、と書いたばかりの翌日16日午前、こういうつくりをますます否定する動きに拍車をかけそうな、大きな地震が柏崎地域に発生した。ちょうどそのとき車に乗っていて、揺れを感じることができなかったが、うねるような揺れだったらしい。

 上掲の航空写真は、google earthからのコピー。被災建物が多かった柏崎市西本町周辺。
 市街地が、海岸に沿った堆積平野の上にあることがよく分る。


 またぞろ、古い建物が壊れた、重い瓦屋根の建物が壊れた、壁が少ない建物に被害が多い、耐震補強をしてない建物が壊れた・・、と言う「耐震の専門家」が出てくるのではないか、と思っていたら、案の定だった。
 
 被害を報じるTVを見ていて私が奇妙に感じたのは、阪神・淡路地震で多く見かけた「屋根瓦が屋根面上でずれるだけの事例」がないことであった。壊れた建物を見ると、屋根瓦を載せたまま、屋根がそのまますとんと落ちている。落ちてから瓦が屋根面からはずれている。土居葺き(土の上に瓦を葺く方法)でもそうだ。これはどういうことか。

 私の想像では、軸部、つまり屋根を支えなければならない部分が、地震によって建物に生じた慣性による変形に耐えられなかったからだろう。だからといって、それを、屋根が重かった、壁が少なかった・・だから壊れた、と言うのは、あまりにも安易にすぎないか。
 建物によっては、たとえば倉庫や作業場のような、中に壁を設けることができない場合がある。それをもって、壁が少ない、などと言うのは、明らかに「建築の専門家」とは言い得ない(まして、だからそれらの建物には木造が不適、などと考えるのも論外)。

 わが国の「建築の専門家」は、日本という風土に適した建築方法を身につけていたはずなのだ。木造で、壁も設けず、それで地震にともなう慣性の力に耐えるような方策を考える、これが本当の「建築の専門家」。そうして、先に観てきたように、日本の建築技術は進展し、体系化されたのだ。これは、「耐震」しか目に入らない「耐震の専門家」とは、まったく異なる(第一、彼らは、日本の建物づくりを観ていないし、知りもしないし、知ろうともしない)。
 当然、壊れた建物でも、そういう方策(用に見合った架構をつくる)を採っていたものと考えられる。なぜなら、それらもまた、「建築の専門家」が建てたはずだからだ。
 第一、「耐震の専門家」は、屋根が重く、壁も少ない多くの寺院建築が、阪神・淡路の地震の際でも、健在だった(これについては、1月23日に書いた)ことを、どう理解するのだ。いまだに、「見解」を聞いたことがない。

 今回、倒壊した寺院があったが、見たかぎり新しい建物。そしてこれも瓦を載せた屋根が、そのまますとんと落ちている。
 おそらくこの場合は、新しいがゆえに、法令に従い基礎に軸部が緊結されていて、基礎(つまり地面)が激しく動いたとき、重い瓦屋根は、重いがゆえに現状位置を保とうとし、結果として軸部が耐え切れず破損、屋根がそのまま、多分元あった位置の真下に、落下したと考えられる。礎石建てだったら(つまり、基礎に緊結されていなかったら)、こうはならなかったのではないだろうか。

  註 この寺院の場合、「耐風」のためとして、瓦もかなりの数、
    釘留めされていたのではないだろうか。
    その上、木造部が基礎に緊結されていれば、
    地震により生じる慣性力は、きわめて大きくなる。

 私がTVで見たかぎりでは、この新しい寺院以外の壊れた事例は、軸部、特に柱の老朽化:腐朽が進んでいたように思える折れ方をしていた。その他の外観にも、手入れ・営繕の行われていた気配が感じられない。つまり、メンテナンス不良。

 第一、古い建物、重い瓦屋根の建物、壁の少ない建物が壊れた・・、というなら、それに該当する建物はすべて同じように壊れてよいはずだが、そうではない。
 「耐震の専門家」の現地での見聞は、「現在の耐震の《常識》」をもってものごとを見てしまい(つまり先入観でものを見てしまい)、ものごとをフラットに見て考える「疫学的」調査になっていないのである。端的に言って、「科学的」でない。こういう非科学的な観方で、ものごとを決めて欲しくない。だからこそ、私は、「理科系」の方がたは、本当に「科学者:scientist」なのか、と問うのである。

 「新潟県建築士会」のホームページに、「被災情報」が刻々と報じられている。
 その中に、応急危険度判定士として、刈羽町、旧西山町で判定をされて来た方の報告が載っていた(柏崎市内の様子も、逐一報告されると思う)。
 その内容は以下の通りである。
 段落は読みやすいように変えたが、内容はホームページ掲載のまま。


 地震情報 [2007年07月17日18:42更新]
 
 現在、県の要請に基づき判定士(会員)が
 現地(刈羽村、柏崎市西山町)へ入り
 判定活動を開始しました。

 ◎17日 刈羽の判定結果
  5班10人 本部1人
   赤‐23
   黄‐42
   緑‐80
  (民家のみ)
 ◎17日刈羽村をまわった判定員の感想◎
  テレビで報道されている全壊建物の大半は
  非住宅(車庫、物置等)で築年数の古いものである。
  ここ数年に建築した住宅は、建物内部の家具などが
  落下、転倒によりひどく散乱していて見た目被害が
  大きいように感じるが、その殆どの建物については
  構造的な被害は少ないようだ。

 柏崎市内の報告は目下のところないが、刈羽町、西山地区についてのこの方の感想が、事実に一番近いのではないだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古河のまちを歩く・・・・江戸~明治の名残りを味わう

2007-07-15 22:42:50 | 建物づくり一般

 古河の町なかを散策する機会があった。
 古河は茨城県最西端の町。利根川を挟んで埼玉に、渡良瀬川を境に群馬・栃木に接する。
 水運の要所でもあり、奥州への街道の要所でもあり、文物もここを通過し、一帯を差配した古河藩の下、ここに独自の文化が醸成された。

 雪の結晶図譜『雪華図説』を編んだのは古河藩主・土井利位(としつら)、そして「解体新書」以前に『解屍編』を出版したのは、藩医の河口信任である。

 上掲の建物の主、鷹見泉石(たかみ・せんせき)は、天明5年(1785年)古河の生まれ、古河藩の家老を務めた人物。
 洋学に深い関心を持ち、長崎出島のオランダ商館ともつきあいが深かったという(オランダ商館長ブロンホフから、ヤン・ヘンドリック・ダップルという西洋名をつけてもらったほど)。
 彼の収集した資料は、ペリー来航、間宮林蔵の北方探検等多岐にわたり、それら資料3000余点は、現在重要文化財に指定され、「古河歴史博物館」に収蔵・保存されている。

 上掲の建物は、鷹見泉石の最晩年の住まいを改修したもの。
 瀟洒で、気張ったところのない好感のもてる建物。洗練された、武骨さのとれた書院造。
 襖を開けると全部が見通せる室の並び、その南と東に矩折りにつづく縁は実に気持ちよい。縁の前には、手の程よく入った樹木がいっぱい。蒸し暑い日だったが、ここでは涼風が吹き渡る。まさに夏向きの日本のつくり。
 残念ながら、今は、法令にがんじがらめにされ、こういうつくりはなかなかつくりにくくなった。その一方で、省エネなどというあほらしさ・・・。

 古河の町なかには土蔵造、石積みの蔵、そして煉瓦蔵が目立つ。かつての商業の繁栄の名残りだろう。
 作家・永井路子の旧居は、土蔵造、いわゆる蔵座敷。ここも中は涼しい。石積みの三階建の蔵は、今はわが国唯一の篆刻美術館として活用。登録文化財に指定されているとのこと。

 そして、数ある煉瓦蔵。この材料の煉瓦は、古河の北隣の町、栃木県野木町にあった「下野煉化製造所(しもつけれんがせいぞうしょ)」の製品。ここは、埼玉県深谷の「日本煉瓦製造」とともに、明治の煉瓦建築の煉瓦を一手に引き受けていたと言っても過言ではない工場。
 もちろん現在は製造していないが(日本煉瓦製造も、最近、ついに煉瓦の製造を停止した)、その煉瓦焼成窯「ホフマン窯」は、重要文化財として保存されている。その特異な形は、一見の価値がある(いつか紹介の予定)。

 これまでいつも、古河の町なかは素通りしてきたが、もう一度訪ねて、じっくりと観てみようと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長期にわたり閲覧が多いのは?・・・・ホールダウン金物の件!

2007-07-13 16:53:21 | 日本の建築技術

 数日、風邪気味でダウン。
 その間の閲覧状況から、このブログで、長きにわたりよく読まれるのが、2月20日の木造軸組工法のホールダウン金物について書いた件であることに気がついた。
 おそらく、多くの方が、ホールダウン金物の使用、そして、いわゆる「在来軸組工法」なるものに、ある種の疑問を感じているからだろうと思う。

 しかし、その一方で、元来の日本の建築技術(いわゆる「伝統工法」)と、最近の法令の規定の違いについて、実感を持って知っている方が減っている、というのも、最近強く感じることでもある。
 1950年以降生まれの方々が、大多数を占める時代になったのだから、それもあたりまえなのかもしれない。

 そこで、多少は理解の助けになるかもしれない、と考え、最近、講習会などでお配りしている資料から、
  ①いわゆる「伝統工法」(その特徴から「一体化・立体化工法」と呼ぶ)
  ②「現行法令が規定・推奨する工法」(特徴から、「耐力壁依存工法」と呼ぶ)
の違いを、要約した表を掲載することにする。

 本当は、「日本の建築技術の展開」のまとめにおいて掲載すればよかったのかもしれない。
 そして、若い世代の方々には、是非、日本の建物の歴史を、「形」だけでなく、それをつくった人びとの「想い」、それを実現しようとした「技術」の観点で、観て見ることをお願いしたいと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「まちづくり」とは?・・・・「終の栖」のまちづくり:近江八幡市の試み

2007-07-09 21:24:39 | 居住環境

 「まちづくり」という「あいまいな」言葉が使われだしたのは、日本では1970年代の後半ぐらいからだろうか。
 「あいまいな」というのは、何か「ばら色のイメージ」をともなうが、よく見てみるとその実態が浮かんでこないからだ。そうでありながら、建築にかかわる人びとの多くが、比較的好む言葉なのは事実である。そのあたりに、建築にかかわる人たちの(もちろん、すべてではないが)「思想」を見るような気がしてならない。近ごろでは、狭隘な敷地に建て売りさばく建売住宅の業者まで、「まちづくり」の語を使ったりする。


 よく見かける「まちづくり」は、「地域社会の活性化」、端的に言えば町の「経済」の活性化(=潤すこと)を求める例である。そして、そのネタとして、先に紹介した「大内宿」のように、地域の「歴史的遺産」を「観光資源」として、「観光」客を誘致し、簡単に言えば「金を落させる」ことを求める例が多いのではないか。町の人びとの暮しの視点が欠落するのが常。だから、「歴史的遺産」を有する町が脚光を浴びる。そういった「資源」のない地域では、「まちづくり」のきっかけがない・・・みたいだ!

 この最も早い、時間的に言うと最も古い例は、「伝統的建造物群保存地区」制度の「はしり」となった、中山道の「妻籠(つまご)宿」。
 そこは今、どうなっているか。
 訪れる人は年毎に減り、人を呼ぶべく、あるいは生活を維持すべく建屋を改造しようにも、「資源」である「歴史的遺産」の形状維持がネックになり、四苦八苦している。時間が止められているのだ。
 最も早いがゆえに、問題点の現われ方もまた、最も早かったのである。そして、これこそが、「伝建地区」制度の内包する最大の問題点なのだ。

 「価値のある過去の遺産」を、「絶滅危惧種」として、保護し維持することの意味は、たしかに一定程度は認めることはできる。
 しかし、その一方で、人びとが「今」なすべき「日常の営為」について、何も問わず、また問われないで来たからこそ、そしてまた「遺産」を商売のネタとしか考えて来なかったからこそ、さらに、その「商売」で得た金で「遺産」の維持ができると考えてしまったからこそ、そしてさらに、町中に人がいること:人数が多いことを「活性化」と考えてしまった、つまり、町に暮す人、そうでない人の別なしに人数の多少でものを見てきてしまった・・・、これらのことが、こういう結果を生んだのだ、と私は思う。人は、博物館の中では生きられない。
 おそらく、この先多くの「伝建地区」で、同様の問題が起きるに違いない。同時にこれは、「世界遺産」のはらむ問題でもある。


 このようななかで、今あたりまえになっている「まちづくり」とは全く対極にある例を、先日のNHK・TVの介護問題の特集で知った。
 滋賀県近江八幡市の『「終の栖家(ついのすみか)」のまちづくり』である。
 ここ数回紹介してきたように、近江八幡は近江商人発祥の地。見事な町並も残っている。
 早速、無理を承知で近江八幡市に問い合わせたところ、資料を紹介いただいた。
 平成18年(2006年)3月発行の『第3期 近江八幡市 総合介護計画』である(近江八幡市 健康福祉部 高齢福祉・介護課 編集発行、A4判約250頁。頒価1000円、送料別)。

 この計画書の冒頭に、「総合介護計画」の「総合」は、介護は高齢者にとどまるものでなく、障害者なども含め介護が必要な市民すべてを対象とした事業計画であるという思いを込めて名付けています、との説明がある。つまり、この計画は「介護保険法」の趣旨の実現を契機に考えられたものだが、高齢者だけを対象には考えていない、ということ。
 この計画の「理念」と「施策の方針」そして、その実施・実現例を、同計画書から要約して引用・転載する。

1.基本理念
 この計画は、本市が標榜する『終の栖』づくりを実現するために、市民が介護が必要になった時でも住み慣れた地域で安心して暮らし続けることができるよう、社会全体で連帯して介護を支え、個人としての尊厳に基づいて当たり前の権利として介護(予防)サービスを利用できるようにする介護保険法の理念はもちろんのこと、市民の福祉の増進および生活の安定向上を図ることを目的として、下記の理念を策定した。
 ①個人としての尊厳
 ②個人としての能力を活かした、自立した生活の保持
 ③個人としての遺志による選択
 ④共同連帯による地域支援
 ⑤社会参加と計画の参画
 (各項の詳しい説明は省略)
2.具体的な考え方
 ①平成27年(2015年)を見据えた取り組み
  注 平成27年 戦後ベビーブーム世代が65歳以上になる年
 ②市民参画による計画策定
 ③市民・事業者・行政の間でのパートナーシップそして責任に基づく運営
 ④住み慣れた日常生活圏域での在宅介護の重視
 ⑤低所得者への配慮
 ⑥健康の保持増進と寝たきり予防施策の充実
 ⑦障害者の支援

3.高齢者支援体制整備の重点事項
 ①高齢者の権利擁護の充実
 ②要介護状態になる前からの介護予防サービスの充実
 ③地域密着型サービスを中心とした在宅介護の充実
  日常生活圏域ごとに、「通える」「泊まれる」「訪問を受けられる」ことができる
  小規模多機能型居宅介護中心の地域密着型サービスの基盤整備を推進、
  定員30人以上の特別養護老人ホームなどの大型施設の整備は極力控える。
 ④包括的・継続的マネジメントの充実
  地域包括支援センターに「高齢者・障害者総合相談センター」を設置。
 ⑤認知症高齢者支援の体制整備 
 ⑥総合相談の充実
  高齢者だけではなく、「障害」「子育て」など、個人ではなく家族を視点にお
  いた幅広い「ワンストップサービス」の相談体制の推進
 ・・・
4.地域密着型サービス施設の展開
 市内にある民家の空家を利用した「民家改修型小規模デイサービス施設」を、「近江八幡市・地域包括支援センター」のブランチとして「地域密着型サービスの拠点施設」とする。

 この「民家改修型施設」に使われている建物には、建設後170年の町家や築25年の最近の住居まで、種々ある。

 また、この小規模施設の運営は、すべて地域の人たちのボランティア:NPO法人でなされていることも注目してよい。
 最近、怪しげなNPOが増えているが、これは正真正銘のNPO。これによって、町の人たちの「連帯意識」が徐々に醸成されているようだ。

 近江八幡は、すでに紹介したように近江商人のつくった町並が遺っていて、「伝建地区」にも指定されいる。
 しかし、近江八幡で行われているのは、指定建物だけに目をやらず、また古いものを単なる「観光資源」として扱うのではなく、そしてもちろん、空家=無用のもの、廃棄すべきものとして扱うのではなく、市民の共通の「生活財産」として有効に活用しよう、という施策と言うことができる。
 これは、昔ならあたりまえのことだったのだが、《現代の常識》から言えば、見事な発想の転換である。

 町中にある空家が、有効に活用されだした結果、かなりの活気がよみがえってきているようである。町なかを歩く人に、観光客だけではなく、地元の人たちが増えた、ということ。

 つまり、多くの「まちづくり」とは異なり、近江八幡では、どのような「まち」にするか、目標が明確な「まちづくり」である、と言えばよいだろう。
 その目標がすなわち「終の栖」。これほど明快な目標はない。
 
 上掲の写真は、平成17年に市の広報に載せられた空民家募集の記事と、「民家改修型施設」の2実例。いずれも同計画書から。 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「法令遵守」・・・・法令がすべての規範なのか?

2007-07-07 02:39:16 | 論評
[7月7日10.27AM、加筆]

 最近とみに多いのが、「あってはならない」「あるはずのない」事件である。
 たとえば、「介護」が「金儲け」の手段になり、「金儲け」の手段として、文字どおりの「羊頭狗肉」がまかりとおる。他にも数え上げたらきりがないほどの、それこそ江戸時代の近江商人ならば、ありえない「商売」の数々。

  註 江戸時代にも、おそらく現代同様のえげつない商売をする手合いも
    いたにちがいない。だからこそ、近江商人たちの「家訓」が
    存在したのだと思われる。
    そして、そういった「教え」は、
    えげつない商売は、かならず泡の如くに消滅することを、
    多くの経験で知っていたからこそ生まれたのだろう。

 それらの報道に際してなされる論評に、最近特に気になる傾向があるように思う。
 それは、そういった「行為」を取り締まる法令がない、だからその整備が急務だ、といった類の論評。
 これにともなって企業の経営者がよく口にするのが、「コンプライアンス:compliance」という言葉。一般には「法令遵守」と訳されるようだ。社内のコンプライアンスを徹底させる、つまり法令に従い応じることを徹底させる・・。
 察するに、最近の企業は、法令がすべての行動基準になっているかのようだ。

 そして、WIKIPEDIAの記事によれば、たとえモラルに反する行動でも、法令に合っていればコンプライアンスは成立し、モラルに合っていても法令に従っていなければコンプライアンスに反することになるのだという。

 建築の場合について考えてみよう。
 現在《普通の》建築の設計図面。たとえば、その寸法の指示では、仕上り面の位置等を指示する寸法表示が多い。なぜなら、その寸法を法令の定める「確認申請」用の書式が要求しているからである。そして、その図面が、そのまま施工用にも供される。しかし、それでは施工には役立たない。
 なぜなら、仕上げ面は、すべての作業の最終で決まるのだからだ。やむを得ず、施工用の図面、施工の手順に必要な寸法を指示した図面を新たにつくることになる。最初の図面をその寸法指示でつくっておけば、ムダな手間、作業は不要となるはず。
 しかし、あいかわらず「確認申請」用の形式が主流を占める。さらに言えば、多くの設計者が、施工図が作成されるという前提で図面を描く。それを「実施」設計図と称する。それでは「実施」の意味がない・・・。
 試しに、建築士試験の製図の模範図面を見ると、すべてそうなっている。私はCADソフトは使わない手書き世代だが、多分ソフトもそうなっているのでは?

 設計図面は「確認申請」のため、「法令遵守」のために、描くのではない。
 

 またまた建築関係の法令が改変された。とりわけ、例の一件の結果、構造関係の条項がこと細かくなったようだ。
 ここで、常日頃私が疑問に思ってきたことを率直に書く。

 法令の定める「構造基準」を遵守して設計されていれば、そして「法令」を遵守して施工されていれば、その建物は安全なのか、安全を確実に保証されるのか? 
 私には、そうは思えない。むしろ、気休めにすぎないのではないか。
 なぜか。 
 簡単に言えば、構造基準はもとより、構造計算法自体が、仮定に仮定を積み重ねた上に成り立っているからだ。
 では、その「仮定」は何だ?「計算ができるようにする」ための、そのためだけの「仮定」にすぎないのではないか?そのとき「対象」は、「仮定」によって、すでに実態とは「似て非なるもの」、或は「擬似のもの」に置き替えられ、すり替えられているのだ。
 つまり、構造基準を充たしている、いない、と言うのは、単に、計算上の話にすぎず、実際の建物の構造の安全性とは別のことを言っているにすぎないのだ。
 おそらくこう言うと、実験をしている・・という反応が返ってくるだろう。しかしそれは、当の実際の建物の実験ではない。

 「構造基準」を充たしていて、もしも地震で壊れたらどうするか。「法令」は、壊れたことについての責任を、いまだかつて、とったことがない。そのことは、過去の事例が証明している。「基準」が変えられるだけだ。

 ではいったい「法令遵守」は何のためなのか?
 「建築ジャーナル」7月号に、「建築物の安全は自分で守る会のすすめ」という興味ある論説が載っていた。
 「建築確認は許可ではない、確認だ。見たということだけで、間違いがあれば責任は建築主と建築士にある」というのが「建築確認」のスタンス。つまり、「確認申請」をした側の「自己責任」。
 そうであるならば、建築主・建築士は、法令に縛られることなく、勇んで自ら責任をとろうではないか!
 第一、今回の法令改変のポイントは、役所と検査する側(多くは天下り)の仕事量と収入を増やすだけだ、と。

 実は、江戸時代までの建物のつくりかたは、「日本の建築技術の展開」でみてきたように、真の意味で、まさに「建築物の安全は自分で守ってきた」のであって、「お上」がどうのこうのと言ったことは一つもない。だからこそ、見事な展開を重ねることができたのである。

 これもすでに何度も書いてきたが、「お上」が「下々」を「指導・差配する」という《政治》、そして行政:役人が常に上位という《構図》は(それを如実に物語るのが、「申請」という語)、明治の《近代化》以降の話である、ということを改めて認識する必要がある。
 そして、江戸幕府が悪政を重ねた、というのは、明治新政府、特に「薩長」が自らの正当性を説くために言いふらした言説が根にあることも・・・。


 それにしても法令の多さ。考えてみるまでもなく、法令は、かならず、「人間の行動を後追いして成り立つ」ものだ。人間の行動以前に法令は存在しないということ。なぜなら、法令は人間がつくるものだからだ。
 しかし、最近は本末が転倒している。人の行動の前に、法令が立ちはだかる。

 江戸時代の庶民は、社会生活でのいろいろな対応を、お互いの不文律的約束の下で行い、それを代々引継いできた。それが言ってみれば「モラル:行動規範」だった。
 そのころに生れた町並が素晴らしいのは、建物を建てるにあたっての「モラル」:「向う三軒両隣に存在する地物の存在、隣人の存在・暮しの存在を、先ず第一に(己の権利を主張する前に)尊重する」:が十分に機能していたからなのだ。
 ちなみに、現行の「民法」は、収集された各地の不文律が下地になっているのだという。

  註 1960年代後半以降、所有地には法令の定める限界以内ならば、
    どのように建てようが、建築主の《自由》という《傾向》が生れた。
    「日照権」「景観権」等の騒動の根本的な原因は、
    法令の「基準」が「推賞値」「許容値」として機能したためだ。
    その一方で、法令が「景観」を云々するなどというのは、
    矛盾も甚だしい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-4 の 図面の改訂

2007-07-05 21:34:24 | 建物づくり一般

 先回載せた図面、図面は大きくても数字が読めない!
 これでは意味がないので、一日かけて、図に大きな数字を貼り込みました。
 建具の正面図・背面図は、原図を拡大コピーしただけなので、ことによると読めないかも・・・。そのときは拡大して見てください。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-4:開口部

2007-07-04 03:36:56 | 建物づくり一般

 西川家の道路側の開口部の建具詳細を紹介する。
 一つは、主出入口に設けられている「はね上げ戸」。もう一つは、「店」の「摺り上げ戸」。
 通常の「修理工事報告書」には、調査がなされていても、建具の詳細まで報告されることは滅多にない。
 しかし、「西川家」の場合、創建時とは違う形式・形体に改造されている場合には、現場に遺されている痕跡と、同時代の継承と考えられる事例を参考に、仕口に至るまで、創建時の姿に極力再現するという努力がなされている。

 西川家は主屋と土蔵とに分け調査がなされているが、主屋担当の滋賀県教育委員会文化財課主任技師池野保氏(今回紹介の詳細図等の作成者である)、土蔵を担当された同課係長大塚博氏ら(いずれも当時)の調査にあたっての熱意・執念には、まったく脱帽するしかない。
 このような貴重な資料が、報告書として公刊されたことは、おそらくこれが初めてではないだろうか。

  註 私は、「文化財建造物修理工事報告書」は、
    報告書レベルの公刊ではなく、より広く、
    一般の技術書の一つとして公刊されることを願っているが、
    残念ながら、現在のところ、一部に知られているだけである。
    今回、修理工事報告書から転載の図を
    多く掲載・紹介させていただいているのは、その「空隙」を
    多少なりとも補えれば、と考えるからである。

 さて、「はね上げ戸」は、修理時には格子戸の片開き戸になっていたが、痕跡から「はね上げ戸」であることが分り、復原された。痕跡等の説明は、上掲の「吊り方」解説図にある。

 「店」の「摺り上げ戸」は、開口を上下二段の板戸に分け、上段の戸は、摺り上げて内法上部につくられた収納部に引き寄せ、下段の戸は、摺り上げて内法貫の下端に設けた回転式の留め木によって落下を留める。
 戸の収納のため、2階「板の間」では、開口部の窓台部に「戸箱」が室内側に飛びだして設けられている。
 2階が畳敷きの箇所では、この「戸箱」を設けなくてもすむように、「上げ戸」を3枚に分割している(外部写真で手前:南側の柱間)。
 「上げ戸」の戸溝はドブで、戸の取付けは、一部に深く彫った溝の箇所で「やりかえし」で納め、後に埋木をしている。

 「摺り上げ戸」の建具の組み方詳細も紹介したいが、画面が大きくなりすぎるので、今回は省く。 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-3

2007-07-02 17:18:42 | 建物づくり一般

 梁行・桁行の断面図を転載。キープランとして、初回掲載の平面図を再掲。

 図は「西川家修理工事報告書」より転載、室名を加筆、寸法を読みやすいように大きくした。

 「日本の建築技術」でも見てきたように、この町場の建物も、下階と上階の柱通り(間仕切通り)は極力一致させ、通し柱を多用し、柱相互を梁・桁など横架材と、貫、差物で極力何段にも縫うことに努めている(最近の軸組工法の木造建物とは、大違いである)。なお、「差鴨居」と現行の「胴差」様の差物の扱いが、任意に用いられているのが分る。

 解体修理に行われた調査によると、西川家の架構には、18世紀初頭の建設にもかかわらず、架構上の致命的な問題は、何ら生じてはいない。
 つまり、この架構方式=近世までに体系化していた日本の建築技術は、十分に機能していた、と考えてよい。

 なぜ、このような技術体系が、建築基準法制定に際して無視されたのか、これは日本の近代技術史の問題として、とり上げてしかるべき問題なのではなかろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-2 の補足

2007-07-01 00:34:14 | 建物づくり一般

 先の平面図が小さかったので、大きくしました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする