建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

復刻・「筑波通信」―15・・・・建物は、雨露さえしのげれば よい?   

2018-03-29 10:31:45 | 復刻・筑波通信
復刻・「筑波通信」―15・・・・建物は雨露さえしのげればよい?                    筑波通信1983年3月刊の復刻

二年ほど前であったか、上州の山あいを、気の向くままに車で巡り訪ねたことがあった。
夏の終りの暑い日の昼下がりではなかったかと思う。空が都会の空と違って、抜けるように晴れあがっていたのを覚えている。
一休みしようかと思っていたところ、谷あいの小さな村、というより集落にさしかかった。私は小さな谷川沿いに下ってきたのだが、そこで、別の道が同じように小さな川に沿って下ってきて合わさっている。一般に「落合」と通称される所である。
前方に、見るからに村の社が在ると分るこんもりと繁った木々が見え、それに隣り合って、これも見るからに小学校だと分る木造の昔懐かしい形の小さな建物が在り、校庭はいい具合に木陰となって涼しそうだ。校庭には大人が数人いるだけで子どもの姿は見えない。きょうは日曜だったな、そう思いながら、あそこで一休みさせてもらおうと決め、車を乗りつけた。学校は家並みよりほんの少し高みに在り、別天地のように涼風がそよぎわたっていた。校庭の大人たちはゲートボールに興じていたのである。後者の沓脱石に腰を下ろし一息入れ、あたりを見回すと、光景は明らかに私の見知った學校そのものなのに、何となく學校らしくいないにおいがある。そこであらためて門柱の表札をみると〇〇縫製工場とある。しかし、その表札の下には、「〇〇小学校」という表札が隠れていた。おそらく、近くに鉄筋コンクリート造の建物に建替えられ、その跡地利用で工場が間借りしているのだろう。村の女性たちが子どもに代ってここへ通い多分自分たちは着ないであろう服などをしたてているのである。都会でもてはやされるいわゆるブランド品の多くは、このような地方の小さな工場で生産されるものが多いのだそうである。
そこが私の予想に反し学校ではなく工場であったことは、私の中にかなり強い違和感とでも言うべきものを湧きおこらせた。その理由の一つは、私が前方に認めた「建物の形」が、見るからに「学校らしい形」をしていたからだ。
私たちは、町中を歩いていたり、車窓から外の景色を眺めているようなとき、ある建物が目に入ると、大体その用途、建物種類を推定できているように思える。
これは、おそらく建築に係わる職業の人特有の「習性」ではなく、普通の人たちも同じように、ある用途に対して「それらしい形」を思い浮かべるのではなかろうか。最近は見かけなくなったが、新築の建物の紹介する新聞記事などで「ホテルのような〇〇」という形容句が使われることがよくあった。その根には「建物で豪華なのはホテルである」という〈認識〉と、「その種の建物は本来かくかくしかじかのものだ」という〈認識〉(しかし目の前にしている建物はその〈認識〉にあてはまらない)が在るからと見なしてよいだろう。私自体が係わった建物についても、単に「學校らしくない」というのではなく、「鶏小屋のような」とか「工場のような」とか形容されたことがある。おそらくその場合は、そこでなされている教育が質が一定のブロイラーや画一的製品が大量生産されているという皮肉が込められているわけではなく、全く単純に日ごろ見慣れている鶏小屋や工場みたいだという意味に過ぎないだろう。

私たちは、自らの経験を通してだと思うが、学校だとか工場というものについて一定の《知見》を持っているから、そういった「言葉」を目にしたり耳にするだけで、自分が知っている学校や工場の姿を思い浮かべることができるのだ。

しかし、そのとき頭の中に思い浮かべているのは、単に、「學校、工場・・・といった建物の形」だけなのだろうか?

しばし考え直してみると、こういった「ことば」で私たちが頭に思い浮かべているのは、その「建物そのものだけ」ではなく、「その建物を含めたある場景」であることに気が付く。
すなわち、私たちは、「學校」「工場」・・という「ことば」で、私たちが、「それぞれの体験・経験で獲得したある場景の中の學校や工場を思い描いている」のである。
この「場景」は、必ずしもある具体的な特定のそれではない。むしろ、その「ことば」によって頭のなかに浮んでくるいろいろな個々の場面の場景を越えた、それらを統べるそのことばに最も相応しいと思われる場景を描いているのである。その意味では、「場景」よりも「情景」と表記する方が適切なのかもしれない。
私たちは、日常、多種多様な場面に遭遇しているが、私たちはそれらの場面の場景を、便宜的に括り分け、そのそれぞれにある名前を付ける。その一つが「學校」や「工場」ということばなのだ。逆に言えば、「個々の例を統べる場景:情景」として記したことは、「學校」とか「工場」ということばに、(私が)託している「概念」の姿だと言ってよいだろう。
つまり、ある建物を工場である、とか学校であるとする私たちの判別は、建物の形自体によることもないわけではないが、むしろ、その建物が在るその背景をも含んだ光景:先の言葉で言えば場景:情景そのものによることがより大きいのではないかと思われる。
 しかし、この場景:情景というのは、建物のように物として固定し得るものではないから、便宜上言葉として置き換えることが容易な物:建物が前面にしゃしゃりでてくるのであり、更には、その物に対応していることばに、その係わる場景:情景も付託されていたのだ、ということが忘れ去られるのである。そしてその結果、このように、「私たちは固定できるものだけを見ている」、あるいは、「ことばというものは、ある物的に固定できる対象のみに対応している」かのような誤解を抱いてしまうのである。
要するに、私たちは、工場、学校という判別を、「場景」をもって察している、ということだ
私たちが工場、学校という「ことば」で知っているもの、それはすなわち経験を通じて身に着けた「知見」に」ほかならないが、それぞれの用途の建物(それは、それぞれの建物での人びとの「生活」に他ならないのだが)の持つ特有の場景:情景なのである。もっとくだいて言えば、私たちは、たちどころに「それなりの雰囲気」を察知しているのである。
ひと昔前なら、木造の平屋建ての長屋状の建物は、学校、工場、病院、兵舎・・・など、いろいろな用途の建物として見られたものである。その用途の判断は、その建物のあたりに漂う雰囲気によっていたと言えるだろう。
今はどうだろうか?駅前によく見かける鉄筋コンクリートのビジネスホテルと町なかの会社の独身寮、だいたい外形はよく似ている。しかし、駅前のビジネスホテルを独身寮と見ることはほとんどないだろう。私たちは「場違い」だと思うからである。それぞれがあるべき:それぞれにふさわしい「場」を《知っている》からである。すなわち、私たちは、建物の姿・恰好:つくりを見て、そういう建物において展開し得る生活(の場面)を知っているからである。
つまり、私たちは私たちの生活の「場面」を一定程度《知っている》ものだから、ある建物を見ると、たちどころに《その場であり得る場面》を思い描いてみることができるのだ。
しかし、当然であるが、この《ある場面》は、決してその「場面」を厳密に規定・限定しているわけではない。
以上のことをまとめると以下のようになる。
私の前方に「ある形をした建物」が見えてきた。すると私は、先ず、そういう形をした建物において展開し得るとそのとき思った《生活の全て》を頭の中に描いてみる。次いで、そこの「場景」全体を勘案して、先ほど描いた《全て》の中から、そこで「あり得る(妥当と思える〉」「生活」を選び出す。そして、あれは〇〇か〇〇だ、あるいは〇〇のような用途の建物だという《判断》を下すのである。もちろん、通常は、こういう判断を、こんな手順を意識的に踏んで下すわけではなく、瞬時にやってしまう。そしてまた、この「あり得る」との「判断」は、誰かに教えられたものではなく(教えられるようなものではなく)、私たちそれぞれの「経験・体験」によって私たち自身が会得したものだ、と言えるだろう。すなわち、その根本的な判断は、私たちそれぞれの「感性」の所業なのである。
   現代では、このような「言いかた」は、きわめて個人的な主観的な判断で客観性に欠けるとして、ひんしゅくをかうのがあたりまえだ。しかし、この《指摘》は、誤りである、と私は思う。
私には、現代というのは、私たち自らの感性に自信を持たなくなった時代、私たち自身の「経験」をもないがしろにしたがる時代のように思える。
私たちはそれぞれの毎日の生活を《だてに》送っているわけではない。私たちの日常(の「経験・体験」)は、私たちそれぞれの「感性」に拠っているのである。


筑波に暮すようになってから、いわゆる田舎の「風景」に、より強く魅かれるようになった気がする。
もちろん、ここでいう「風景」は、絵に描いてきれいな風景、というような意味ではない。それは、先に書いた「場景」という言葉の方が適切なのかもしれない。おそらく、私が忘れかけていたいろいろなことをあらためて考えさせてくれるきっかけを私に与えてくれたこと、それが私を強く惹きつけたのだと思う。
そして、あらためて思う。都会や新興の開発地で見かける建物には、どうしてああも多種多様な形があるのだろうか、と。
住居ひとつ例にしても、まずことごとく《異なった形》をしていると言ってよい。それは個人の住居に限らない。研究学園都市の公務員住宅にも、数えきれないほどの型があり、当然それに応じて一個の間取りも変ってくるのだが、なぜそうなるのか、その「必然性」は、私には皆目わからない。更に最近では、勾配屋根にして瓦を載せ、凸凹を設け、あるいはジグザグギクシャクさせる、といったようなつくりも増えてきた。その結果、形はますます多種多様にして複雑・怪奇になる。これは、「それまでの、画一的なつくりかたへの反省の上に立ち、形や建物周辺にできる場所の単調さをなくし、一戸一戸に個性とプライバシーを与え、コミュニティを形成させやすくし、人間味のある居住環境をつくりだすべく、地域の伝統をも踏まえ考えだされた」のだそうで、いまや全国的に流行りつつある。そこで私たちの目に入ってくるものは、あたかも私たちの目を傷つけんばかりに次ぎ次ぎに飛び込んでくる建物の角々。互いに競って見えたがるそれらの複雑・怪奇な形をした物たちは、私たちのなかに、いかんともしがたい「苛立たしさ」だけを積み上げてくれる。そして、そういう場景が尽きることなく単調に、延々と続くのである。その意味では、意図に反し《画一的》なのである。
これは、「個性」とか「人間味」とか言う以前の問題なのだ。こういう場景は、私にとっては、決して人の住む場景ではないし、決して住まいの場所として選ぶことないだろう。
   これは、当時の状況について記している。現在も大差なく、あるいはさらに劣化しているのではないだろうか。
このような場景には何がふさわしいか考えてみたが、遊園地のビックリハウスぐらいしか思い浮かばない。だが、こういう場景が、今の世は、あたりまえになっていて、大都会周辺だけではなく、全国的にひろまっているようだ。学園都市のまわりにも、多く目にするようになった。
一方、学園都市のまわりに目を向ければ、そこには、大きく変わりつつはあるが、相変らず昔ながらの村々の佇まいが現存する。ゆえに、そこに立てば、はからずも、《新しいもの》と《旧いもの》を対比しながら眺めることができるのである。
 これらの《近代的・先進的な》建物群を見ていて、いつも思う。あの住宅群は、たしかに住宅以外の何ものでもないが、どれも住宅でしかないな、しかも、ある極めて限定されたパターンでしか対応できないな、ことによると一代限りだな、と。つまり、そこで目にする場景には、私にいろいろな生活の場面を思い起こさせるようなところが何もない、ある場面だけ、それしかないのである。そこに物的に設定されてしまっている場景は、ある限定された生活の場面にしか対応できないのである。逆に言えば、ある限定した生活の場面を、物的に固定している、ということに他ならない。あの住宅群のなかに入って感じる《苛立たしさ》は、多分、第三者の手に拠り設定されてしまった生活の場面に自らを嵌め込まなければならない息苦しさからくるものなのだろう。第三者の意のままに(己の意のままにではなく)動かないと、十全にそこでは暮せないのである。もちろん、そこに住み着けば《慣れる》ことはあるだろう。しかしそれは、場景に応じた判断によるのではなく、いろいろな苦き経験の結果身についてしまった、いわば、「条件反射的行動」に過ぎない。しかし、これは、たとえば、《よい図書館の建物では、すぐれた図書館活動が為されている》かの「錯覚」を起こさせ、更には「よい図書館活動は、よい図書館(の建物)がないと為されない」という「誤解」をも生じさせてしまう。「専用の建物」がなくても、「活動」は行えるのだ。

さて、学園都市のまわりを取り囲む旧くから在る村々の方を見てみよう。
その光景は、今見てきたあの近代的な建物群が織りなすにぎやかなそれに比べて、ため息が出るほど、静かで単純だ。同じような屋根、同じような形の建物、同じような杜・・・。ある意味では、《画一的》だ、と言ってもよいだろう。そのなかで、際立って形の違いを見せているのは、学園都市建設で土地を売ったとおもわれる新興成金の家ぐらい。これは、(復刻・「筑波通信」―10「十人十色:人それぞれ」 とはどういうことか」)で触れた蔵の目立つ村のそれとは異なる。そこでは、単なる《形の主張》は見られなかった。そこでの《形》は、いろいろな生活の場面の可能性を想起させてくれる「示唆」に富んでいる。つまり、そこに在り得る(在って然るべき)生活の場面を「ああだ、こうだ」と規定するようなところがない。近代的な建物の多くがそうであるように、用意された器に適合した生活:誰かの手に拠る《期待される生活像》に我と我が身をあてはめる必要はない。
それでは、その用途、すなわちその使い分けは、何に拠っていたのだろうか?明らかにそれは、その建物の在る場景に拠っていたのである。その置かれる場景により、そこで在り得る生活の場面が異なることを、人びとは知っていたのである。それ故逆に、ある生活の場面のために、ある場所を選び、建物は同じ形でよしとしていたのである。彼らは、場違いということを知っていた。彼らは、杜のわきの元小学校を工場として使おうなどとは思わなかったに違いない。既存の場景のなかに、自分が求めている生活の場面が展開し得る場景が見出せなければ、そのときは、既存の場景に手を加え、それに相応しい新たな場景にしてしまうことさえ厭わなかった。「屋敷」の造成などは、そのよい例と言えるだろう。しかしそのとき、そこに建つ家は、まわりにあるのと変らない《同じ形》をしているのである。
しかし、この事実を《誤解する》と、「建物は、雨露さえしのげればよい」ではないか、という「言いかた」に行き着くのではなかろうか。
この「言いかた」を更につめれば、「・・・だから、建物など、どうでもいいんだ」という「言いかた」に行きつくだろう。この言いかたの行き着く先こそ、「建物は、雨露さえしのげればよい」という「言いかた」なのではあるまいか。
「方丈記」に「人の一生にとって『仮の住まい』」に過ぎない「家」に、気を遣って何になる・・・との一文がある。彼は、組み立て式の仮小屋をつくり、好みの場所に据えて住み家とした、とのこと。彼にとっては、「場所の選択」が重要だったらしい。
しかし、私たちは、学校だとか病院だとか・・・、ある一定の用途のための建物をつくろうとする。
では、「ある用途のための建物をつくる」というのはどういうことなのか?用の様態に応じて形を整えるということだろうか?
いわゆる建築計画学では、そのために、はじめに、「そこで行われる生活様態を設定すること」が必要と考えられた。
すなわち、先ず《期待される生活像》の設定が肝要と見なされたのである。暮しかた・使いかたの《設定・限定》に他ならない。
しかし、私たちは、必ずしも、黙ってそれに従ってはいない。私たちは、人であり続ける。

私たちに先ず必要なのは、私たちの「ごく自然な日常の振舞いのありようを再認識してみること」ではないだろうか。


コメント (1)

編集作業 遅滞してます

2018-03-28 16:53:10 | 復刻・筑波通信
続編の編集作業 遅滞してます。まだかかりそうです。

まだ編集作業中です・・・

2018-03-10 11:31:48 | 復刻・筑波通信
春休みに入ったわけではありませんが、
次回分の編集作業、まだしばらくかかりそうです。

復刻・「筑波通信」―14・・・・「今日」のない「明日」

2017-03-02 14:21:15 | 復刻・筑波通信

復刻・「筑波通信」―14・・・・「今日」のない「明日」                    筑波通信1982年12月刊の復刻

上越新幹線の開通をめぐって、開通に至るまでの諸々の《裏ばなし》が新聞紙上で紹介されていた。例にもれず、政治がらみの話だ。そのなかで私の目をひいたのは、ある駅が決定されるに至った経緯についての「解説」であった。
三国山系から越後平野に入って最初の駅の位置についてのものである。それが、在来の上越線の一小駅に設定されている、何故だ、政治がらみの駅ではないかという疑惑があるというのであった。それに対して事業者:当時は国鉄:の説明は、全く純粋に技術的な検討の結果である、というものであった。そのなかみは、ある標高で三国山系を抜けた列車の、スピードと安全を保つべく、勾配、カーブを地図上で検討したところ、妥当と思われる線が見えてきた、その線上に在来の上越線の交点を探したところ、それはその小駅の近くであった、というのである。おそらく、大方の人は、技術的に合理性が追及された結果ならば止むを得ない結論なのだろうと納得し、多少腑に落ちない点を感じた人も、《専門的な》なにやら難しい《技術的な》説明などされると、それに対抗できる反論を用意する気にもなれず、結局のところうやむやのままに終ってしまう。「技術」だとか「専門」という言葉は、今ではまるで《魔法の》言葉、その一言で大抵の人は恐れをなして口をつぐんでしまうのだ。
しかし、ここで紹介されている事業者:国鉄の説明に素直に従うと、新幹線の路線の決定に際し、いわば山越えの技術的解決にのみに熱心で、どこの町を通るか、駅は何処がよいか、といったことは考えられてはいなかった、ということになる。
これではものごとの順序が逆ではなかろうか。鉄道を敷設するのだから、先ずは通過地点をいろいろ考える、そのためには何処でいかに山を越えるのがよいか、そのためには何が技術的に問題か・・・、こういう具合に話が進むのがあたりまえ、そう私には思える。新聞の解説によるかぎり、新幹線の目的が、単に山を越えることだけに意味があった、かのようにもなりかねない。
しかし、この国鉄の説明は何らウソは言っていない。通過経路は考えられなかったわけではなく考えられていた。ただ、その際の眼目は、始点の東京、終点の新潟、途中の主だった分岐点の大宮、高崎などだけで、その他の所は、あくまでも単なる通過点:主目的を達するための止むを得ず通り過ぎる《途中》に過ぎない、と考えられていたのではないだろうか。そもそも、新幹線網という《思想》が、そういう類のもの。《途中》は、《ついで》なのだ。
しかし、近代以降、鉄道が果たしてきた効果・役割に対して、一般にバラ色の夢が持たれる。鉄道が通り駅ができる、そこには繁栄がある・・・と。それゆえ、繁栄を夢みて誘致合戦が行なわれ、政治家が絡んでくる。それゆえに、鉄道というと政治色で見るようになる・・・。
では、新幹線の敷設に、近代以降の鉄道敷設と同じような《沿線の発展》を期待できるか? 私にはそうは思えない。
鉄道の敷設にあたっては、明らかに異なる二つの《思想》あったように思えてならない。一つは、敷設により《沿線の開発》を意図するもの。「田園都市線」の《計画》などは、その典型だろう。
   最近の例では、いわゆる《つくばエキスプレス》もその例であろう。
しかし、全ての鉄道が初めから未開の地の開発を意図していたと理解することは大きな間違いであるように私は思う。
東京、浅草を起点にする東武鉄道・伊勢崎線という私鉄がある。日光に行くので知られている。ことによると、日光に行くことだけが知られていて、伊勢崎線という名称は知られていないのかもしれない。浅草を出た鉄道は、途中で伊勢崎行と日光行の二線に分かれる。伊勢崎行が本線で日光行は支線である(別掲地図参照)。


日光線は本線:伊勢崎線より大分遅れて開通したのだが、おそらく今は日光行の方がよく知られていると思われる。現在は途中まで地下鉄日比谷線と相互乗り入れををし、沿線の宅地化が進んでいる。それは、昭和30年代の後半に、住宅公団による大住宅団地が田んぼをつぶしてつくられるようになってからで、それまでは、東京を離れると直ぐ、窓の外に田園風景が拡がっていた。
東武鉄道は、営業キロ数が関東一の規模の私鉄で、約500キロに達し、全国でも一・二位を争う。鉄道に接続する沿線のバス路線もおよそ3500キロに及ぶという。
鉄道は、伊勢崎線、日光線の他にも多数の線があり、いずれもほとんど田園地帯のまんなかを走る(地図参照)。
   註 これらの数字は、1980年代の資料による数値である。
    なお、別掲の地図が小さいので、「地図帳」をご用意いただくか、図をプリントアウトしてください。
沿線に東京へ通う人たちの家が建て込んできたのは昭和30年代のこと、敷設以来およそ半世紀以上は、田園の中を走り続けてきたのである。つまり、この鉄道は、現代の新線敷設のような、沿線の開発を意図したものではなかったのである。
では、いったい、この鉄道は、何を意図して敷設されたのだろうか?
東武・伊勢崎線は、浅草を出たあと、北千住、草加(そうか)、越ケ谷(こしがや)、春日部(かすかべ)、杉戸(すぎと、現東武動物公園)、久喜(くき)、加須(かぞ)、羽生(はにゅう)、ここで利根川を渡り群馬県に入り、館林(たてばやし)、足利(あしかが)太田(おおた)を経て伊勢崎に至る。途中、春日部野田線杉戸日光線羽生で高崎線の熊谷へ通じる羽生線館林佐野線、小泉線太田では桐生線、という具合に、実に多くの支線を分けている(地図参照)。
この鉄道は、地図で分るように、関東平野の中央低地部から利根川を越え、赤城山をはじめとする平野北辺の山々の裾野一帯に点在・散在する大小の街々を、実に細やかに一つ一つつないでいるのである。
一方、この地域の国鉄は、東京・上野から浦和、大宮、熊谷、本庄を経て高崎へと至る上・信越線高崎線大宮で分れ久喜、古河、小山、宇都宮へと抜ける東北本線、そして高崎の先の前橋から伊勢崎、桐生、足利、佐野、小山と至る両毛線、この三本があるだけである。
   註 上毛野:かみつけの:今の群馬県下毛野:しもつけの:今の栃木県:を結ぶので両毛線
     なお、現在は、東北本線のこの部分を宇都宮線と呼んでいる。
東北本線の東側にあたる地域には、平野の東端沿いに走る常磐線までの間、国鉄は一本もない。わずかに北辺を走る水戸線があるだけである。
つまり、この広大な地域は、長い間、鉄道とは縁がなかったのである。同様に、先の国鉄三本が形づくる三角形の地域内も鉄道には縁がなかった。つまり、先に東武鉄道の通過地点として挙げた街々は、国鉄とは縁がなかった。それゆえ、東武鉄道がなかったころ、これらの地域へ国鉄を用いて訪れることは大ごとだったのである。これは、現在でも同じで、これらの街々へ鉄道で行くには東武鉄道のやっかいになるのではないだろうか。逆に言えば、この地域の人やものの《移動》は、東武鉄道に大きく依存しているということである。
ところで、ここに挙げた地名を、今東京に暮す人たちのどれだけが、どのくらいまで知っているだろうか?ことによると、草加は煎餅で、足利伊勢崎はそこで産する織物:めいせん:で、そして館林はぶんぷくちゃがまで・・・、と具合にその土地がらみの物や話で知っているだけで、そこへどうやって行くかとなると、一瞬戸惑うのではなかろうか。まして、加須などともなれば、読めもしないに違いない。関東は関西と違い国鉄への依存度が高いから、たとえ私鉄が発達していても、私鉄の通る土地の知名度は低い。おまけに国鉄沿線の方が発展してしまっているから、これらの街々の名は、ともすれば忘れられる。
たしかに、これらの町の中には、名前も知られず寂れかかっている町もある。しかし、それらの多くは、近世までは、名前も知られ、交通路上の要所として繁栄していたのである。
私が《この事実》に気付いたのは、数年前のことである。筑波から埼玉平野の中央部へ向って車を知らせていたとき、「加須」という場所に偶然さしかかった。見渡す限りの田んぼのなかに、突然、島のような家々のかたまりが見えてきた。そして、いささか裏寂れた風情の街並みが続く町なかにとびこんでしまった。明らかに街道筋の町だ。どうしてこんなところに、と私は戸惑った。かなり広い構内を持つ駅もある。東武伊勢崎線の加須駅であった。そして、あとで調べてみて初めて、その町は、近世までの交通・運輸の一要所であったことを知らされたのである。「加須」と書いて「かぞ」と読むと知ったのもその時である。そして、先に書き連ねた東武線の諸駅が、ほとんど全て、鉄道開通以前から、つまり鉄道に拠るのではなく、栄えていた町々の玄関・駅であることも知ったのである。私がこのことを知らなかったのは、そして多分大方の人が知らないというのは、関東平野についての《知識》:頭の中にある関東平野の地図:というのが、鉄道の網の目、しかも国鉄のそれによってこうせいされているからだ、と考えてよいだろう。」しかも、鉄道:国鉄が通ってかれこれ一世紀に近くもなると、現状があたりまえと思われ、今栄えているところが昔から栄えていた、国鉄沿いが昔から交通の要所であった、かの「錯覚」「誤解」をもってしまってもおかしくない。ある意味ではいたしかたない「誤解」ではあるが、この「誤解」を放置しておいてよいわけではない。

関東平野の地図上から鉄道線路と各市町村の市街地を示す表示を取り去ると、平野のなかを貫流するいくつもの河川が見えてくる。
関東平野の衛星写真に、その様態が写っている(下図)。


それらの河川は、平野外縁の山々から海へと、特に東京湾へと向って走っている。言いかたを変えれば、東京湾を要にした扇の骨のように河川が平野を刻んでいる。利根川だけが東進しているが、当初はこの川も東京湾へそそいでいたのである。この東京湾にそそぐ諸河川のいわば集中点に東京=江戸の中心があったのである。東京から各地へ向う道もまた、放射状に、ほとんどが河川を横切らずに河川と河川の間を河川に並行して走っている。今の国道も基本的に変らない(新設のバイパスがこれを乱してはいるが)。
これらの国道は、大半が江戸期の街道を踏襲したものなのだ。そして、先に書き連ねてきた町々が、これらの街道の上に位置していることが分る。というより、街道はこれらの町々をつないでいるのである。この地図の上に、近世の大量輸送路:水運:舟運の経路を重ねてみる。実は平野を貫流する諸河川は、農業用水としてだけではなく、交通・通運の要路としての役割を担っていたのだ。利根川には、壮大な高瀬舟が通っていた。利根川の流路を東京湾に流入させず東進させた江戸時代の大事業も、江戸を洪水から護る目的だけではなく、舟運路の水位を一定に保つためでもあったという。つまり、関東平野には、陸路:街道と水路の二種類の交通網が張り巡らされていたのである。そして、先に挙げた町々は、この交通網と深い関係にあったのである。

江戸に向った物資は、江戸のどこに向ったのか
輸送量は圧倒的に舟運が大きい。食料をはじめとする生活物資も建築用材:木材なども、ほとんどが舟運に拠った。
その江戸での集積地は、墨田川沿いの一画であった。今の浅草界隈である。蔵前という地名は、端的にそれを示している。蔵が軒を連ねていたのである。その近くに木場がある。関東平野を下ってきた木材、海運で関東以外から運ばれてきた木材がここに集められたのである。
それゆえ、この一帯は人通りもはげしく、賑わっていた。ゆえに、遊興地も、そこに集まる人びとを相手に生まれたのである。

過日「復刻・筑波通信-11 水田の風景」で関東平野の開拓の経緯を概略ながめてみたが、そこでは、運輸・交通網については全く触れなかった。それではほんとは片手落ちというもの。平野の開拓と交通網の整備は、互いに関連し、並行して行われていたのである。
関東平野全域に目を配りつつ計画的に《開発》が行われたのは、江戸に都をつくりだしてからのことである。江戸の町の自給自足体制の確立のために、灯台随一の穀倉地帯:関東平野の掌握が不可欠であり、その政策の一環として利水・治水計画をともなう新田の開発と輸送網の整備が並行して行われたのである。
しかし、この書きかたは正しくない。
この政策は、江戸に町をつくりだしてから考えだされたのではなく、むしろ、こういう施策を行うことで江戸に町がつくれる、という《計算》が先にあったとみるべきだからである。すなわち、関東平野は開拓すれば豊かな穀倉地帯となる可能性を秘めた土地であることを見通し、それを掌握すれば、絶対的な自給自足体制を確立できるとの見通しが持てたからこそ、江戸に幕府を構える決断が為されたのである。この見通しがその通りであったから、徳川は三百年という長期にわたり存続し得たのだ。この三百年の間に、関東平野は当時として出来得る限りの整備が施された。そして、江戸の町の成熟とともに、先に触れた町々や、それらを網の目のようにつなぐ通運路も、江戸との緊密な関係の下で成熟していった。

明治になり、大都市間だけではなく、関東平野内の鉄道敷設が計画されるようになる。1881年(明治11年)日本鉄道株式会社が設立され、先ず1884年に今の高崎線が開通、翌1885年には東北線大宮~宇都宮間が開業する。これらはいずれも、東京信越、東北・奥羽を結ぶことを目的とした国家的なスケールの計画の一環であった。高崎線は、そのときまでの重要陸路であった中山道をほぼ踏襲しているが、東北線高崎線大宮から岐れているため、既存の街道とは無関係なルートをとっている。陸路の多くが河川の横断を極力避け、ほぼ河川に並行しているのに対して、東北線は河川を横切る形で平野を走っていることが地図上に認められる。その結果、東北線は、既存の町を離れて通ることが多い。
東北線に遅れること数年、1888年~1889年に、両毛鉄道、現在の両毛線が開通する。この鉄道は、旧来の街道(旧くは古代の東山道にまでさかのぼる)沿いに、既存の栄えた町々をつないでいる。高崎線東北線が東京と地方を結ぶことを意図したのに対し、これは、前橋、伊勢崎、桐生、足利、佐野、栃木、小山という江戸期に成長した江戸への通運路の起点:端末の拠点の町々:平野外縁の町々を横につなぐ役割を持っていた。つまり、1884年から僅か5年の間に、先に触れた国鉄の三角地帯が形成されたわけである。
因みに、前橋から先の上越線は大分遅れて1931年になってからの開通、信越線が1893年の開通だから、実に38年後。上越線が全通するまで、新潟長野よりも遠かった。鉄道敷設の経済的効果:いわゆる近代化という点では、新潟はいわば遅れをとったのである。もしかしたら、その《苦い経験》が、上越新幹線の建設を先行させようという《政治的行動》の動機になったのかもしれない。
鉄道経済効果は極めて大きかった。物流の構造が変り始めたのである。それまでの体調輸送機関であった舟運も鉄道にはかなわなかった。集積地も変りはじめる。平野の西半分は、それでも影響が少なかった。鉄道がほぼ従来の街道に沿って計画されたからである。一方で、それまでの大動脈であった東部の河川筋は、真っ向からその影響を受けだした。上流で、舟運路に直交する鉄道に、荷がさらわれだしたのである。当然、町々の拠って立つ基盤が揺るぎだす。鉄道の通った町に羨望の目が注がれる(生活が乱されると鉄道敷設に反対する人びとが多かったのだが、それが後悔に変ったという話も多々あったようである)。

このような状況の大変化に見舞われた関東平野の東半分、かつての繁栄の中心地域、そして鉄道敷設の恩恵に浴さなかった一帯で、鉄道への《願望》が高まってくる。そしてそれに応えるべく計画されたのが、東武鉄道伊勢崎線だったのである。
伊勢崎線は、東北線に遅れること20数年、1907年(明治40年)に開通。東武伊勢崎線の支線、日光線は更に遅く、1929年(昭和4年)、それより前の1913~14年(大正2~3年)にかけて、桐生線佐野線が開通している。
関東平野西部に重心が置かれていた鉄道敷設以来四半世紀、国の近代化政策とともに産業構造は大きく変り始め、鉄道の沿線が繁栄の中心になりつつあった。それによって、かつて舟運によって栄えていた商業町、街道沿いの町々は寂れ始めた。その役割が、鉄道沿いの町々に奪われだしたのである。東武鉄道は、まさに、そういった寂れ始めていた町々の夢よもう一度という期待、既存の生活の維持への願い・・・を背負って建設されたと言ってよい。おそらく、鉄道の経営者の願いもまた、それらの町々の繫栄との共存共栄にあった。つまり、この路線ルートの決定は、かつての通商路の代替を意図していたと見ることができる。背後には、それを支えてきた町々の「生活」があった。だからこそ、この鉄道は、かつて繁栄の中心であった街々を一つ一つ丁寧につなぎ、最終的に、これもかつての終着駅:一大集積地にして繁華な場所浅草へ到着するのである。起点・終点は浅草でなければならなかったのである。
この鉄道の第一の目的がかつての繁栄の復興をねらった、あるいは少なくとも「近代」化から取り残されだした関東平野東半分に点在する既存の町々の人びとの生活の《維持・救済》にあったということは、支線・日光線の開通時期を見ると分る。
今では東武鉄道の代表的路線と見なされる日光線の開通は、先に触れたように、本線開通より20年以上も後のことだ。現在なら、直ぐに儲けにつながる日光線の方が先に着手されるのではなかろうか。観光で商売を使用などという発想が、当初から全くなかったと言ってよい。つまり、鉄道敷設で沿線に新たな変化を生もうなどという発想はさらさらなく、あくまでも、かつてのあるいはそのときまでの人びとの生活・暮しを維持存続させることに意義を見出していたと理解できる。言うならば「保守的」なのであった。それゆえ、既存の繁栄を越えての発展や、儲かることなども期待しなかった。それでよし、としたのである。
東武鉄道と前後して、各地に、こういう《儲からない》鉄道がいくつも建設されている。それらはほとんど、国策の基幹路線から取り残された地域のかつての街道筋や舟運筋の代替として設けられた鉄道で、なかには後に国鉄に編入されたものもある。いずれにしろ、その発想は、「東武型」と言ってよい。いくつか例を挙げる。常磐線取手から水戸線東北本線小山常磐線水戸を結び、1889年に開通)の下館を結ぶ1914年開通の常総鉄道。この鉄道は、かつての鬼怒川小貝(こかい)川の舟運路沿いの町々を結んでいる。水戸線は、常磐線よりも早く開通している。前橋~水戸は、江戸期には江戸~水戸よりも重要な街道だったのである。現在は国道50号が通っている。先に挙げた両毛線は、伊勢崎に寄るためにかなり南へ経路をとっているが、そのため、前橋から桐生にかけての赤城山のふもとにほぼ等高線上に展開している町々(大胡(だいご)大間々(おおまま)など)は取り残されてしまった。そこで、それを補う役割を担って上毛鉄道が1928年に敷設された。
同じようなことは各地で起きた。長野県善光寺平では、最初の鉄道信越線が、かつての北国街道沿いではなく、まっすぐ長野に向ってしまった。おそらく、上田からの峠越えを避けたものと思われる。取り残されてしまった北国街道沿いの人びとの運動の結果、長野電鉄河東線が敷設された。その開通は、信越線開通の実に29年後の1922年(大正11年)、そのとき、繁栄の中心はすでに長野市をはじめとする信越線沿いに移っていた。その状況は現在まで続いている。
ここに例として挙げた鉄道の沿線は、東武鉄道を含め、現代的な意味では《繁栄》しているとは言い難い。中心がみな新興の地に移ってしまい、町々の誇りもいまた《過去の栄光》にのみある、と言っては言い過ぎであろうか。多少でも人通りが多くなったとすれば、それは、その町の《過去の栄光》すなわち《文化財》目当ての観光客であり、その町の「生活・暮し」に縁あっての人たちではない。これら《過去の栄光の町々》をつなぐ鉄道は、今日的な意味では決して儲からない鉄道なのである。
しかし、近世までの「生活・暮し」の上に突然敷かれた一本の鉄道が、かくも地域を変容させてしまうなどということは、当初は誰も気が付かなかっただろう。それは、過去において一度も味わったことのない類の《経験》だった

昭和に入ると、鉄道は地域を変えるという《影響力》を初めから計算にいれた鉄道が経営されだす。また、同じころ、観光客の輸送目当ての鉄道:《観光線》も増えてくる。
それまでの鉄道が、ここまで見てきたように、既存の町々をつなぐことを主目標としていたのに対し、新しく採られたやりかたは、むしろ人のあまり住んでいない所をねらって敷設される。関西で阪急電車が初めにやりだした方法で、いわば未開の地に鉄道を敷き人を住まわせ、それによって利益をあげるのである。そのためには、沿線に既存の町などない方が好ましいのだ。
   大阪と京都を結ぶ私鉄に、京阪阪急がある。京阪淀川左岸の旧街道沿いから鴨川に沿って敷かれたのに対し、阪急は山沿
   いを、かつての街道等とはほとんど無関係に走る。
人を寄せるために、沿線に大学などを誘致する例も現れる(東急東横線慶応大学・日吉校舎など)。最近の田園都市線も同様の考えかたで、一段と巧妙になり、鉄道と沿線の宅地化事業が同時進行している。
《観光線》では、昭和に入り、先の日光線、関西の南海・高野山行、近鉄の奈良、伊勢行、関東の小田急・箱根行などが、相次いでつくられる。これらの観光対象地が、つまるところは江戸期以来の人びとの参拝地だというのが面白い。もっとも、阪急のように、新たに観光地までつくってしまうのも現れる。宝塚劇場・宝塚歌劇は、人寄せのためのものであった。これは、その駅名に如実に示される。たとえば、「自由が丘」のような既存の地名とは全く無関係に、ことばがただよわす《ムード》による駅名をつくりあげる。それ以前の鉄道、たとえば東武鉄道には、最近まで、そういう類の駅名はまったくなく、どこも昔からの土地の名が付けられていた。
このような《発想の転換》は、おそらく当初は、誰も思い及ばなかったに違いない。鉄道の敷設が及ぼす影響などまさに想像を絶することだっただろう。もちろん、鉄道以前にも、進歩や改変ということは存在した。しかしその進歩や改変は、常にその時代を承けた形での変化や進歩であったから、仮に一つの手段に変化があっても、それに伴う事態の変容のさまもまた、十分に感覚的に予測し得る範囲にあった。つまり、人びとは、進歩や変革を、目の前の現実からスタートさせたのである。
考えるまでもなく、今日のありさま(それはすなわち「来しかた」でもあるが)を基に明日(すなわち「行く末」)を考えるというのが、人間にとって一番素直な発想なのだ。だから、鉄道のぬ説が、単なる交通・運輸の変革の域を越えこれほどまでの状況の変化をもたらすなどということは、字のとおりまったく予想外だったはずである。けれども、この単なる手段の近代化が進んで半世紀、《思いもかけなかった結果》が顕わになってきたとき、それ自体を商売にするという、その《結果》を目的とした考えかたが現れたのだ。すなわち、阪急、東急型の考えかたの《誕生》である。
現在、「近代化」と言えば、多くの場合、この阪急、東急型のやりかたを支えている考えかたを指すと言ってよいだろう。
しかし、明治以降各界で為されてきたいわゆる「近代化」を全て、この今日的な意味での近代化として捉えてしまってよいだろうか?
そこでの「明日」は、「今日:来しかた」が欠落している。そこで描かれる「明日」は、今日の次に来る明日ではない。
残念ながら、建築関係者の描く「明日:計画」には、そういう類が多いように私には思える。
 
                                                             了


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復刻・「筑波通信」―13・・・・「善知鳥」によせて  

2017-02-02 09:45:03 | 復刻・筑波通信


復刻・「筑波通信」―13   「善知鳥」によせて・・・土地・土地の名・・・               「筑波通信」1982年5月 刊 の復刻

信州塩尻の近くに「善知鳥」という名の峠がある。松本平から伊那谷へ通じる街道:三州街道にある中央高地に別れを告げる峠である。古代の東山道もここを通っていたという(下掲地図参照)。
問題は、これを何と読むかである。全く読めずに、私は暫し戸惑った。「うとう」峠と呼ぶのだそうである。

                   

あちらこちら歩いていて、およそ土地の名前ぐらい読むのに苦労するものはない。連取町と書いて何と読むか。「つなとりまち」というのだそうだ。これは、群馬県伊勢崎市内で見かけた名前である。たまたま入った喫茶店のマッチに書いてあったローマ字のおかげで判ったのである。この場合は、言われてみれば、」ああそうか、そう読めないこともないなと思うけれども、善知鳥はどうやったて「うとう」とは読めない。「うとう」という「音」があって、それに漢字の音を当てた当て字かとも思ったけれども、それは無理というもの。どうひっくりかえしたってそういう音はない。まして、平仮名で「うとう」と書いてみると、峠道を越えるのが「疎ましい」ので「うとう」なのかな、などとまったく勝手な想像が頭の中を駆け巡るのだが、それにしたってそれが「善知鳥」となるには合点がゆかない。要するに分らない。
ところが、もし私に能楽の素養でもあったならば、すらすらと読めたに違いない。手元の辞書によれば、世阿弥の作に「善知鳥」というのがあるのだという。実際「善知鳥」という名の鳥がいるのだそうである。海鳥の一種で、中部以北の海岸に棲む鳥だそうである。その鳥にからむ物語があって、それが「善知」という意味の字を与えるきっかけにでもなっているのではあるまいか。
そこまで分ったとしても、海鳥の名前が、およそ海とは縁もゆかりもない中央高地の地名になるというのは、さっぱり分らない。そのとき、その辞書の「うとう」の項に、アイヌ語で、嘴と眼の間に突起がある鳥、とあるのが目についた。嘴の付け根、鼻のあたりに瘤のような突起があり、それが識別の指標になっているらしい(下掲参照)。そうだとすると、「善知鳥:うとう」峠は、地形の形状かな、アイヌが中央高地にも居たという話も聞いたことがある・・・。
        
そこで思い付いて、百科事典の地図の地名索引で「うとう」を引いてみた。引いてみて一寸驚いた。
「善知鳥」という字が付く地名が、この峠を含めて、少なくとも三つ在るのである。「善知鳥崎」、これは青森湾に面する海岸、ここにはこの鳥が居てもおかしくない。「善知鳥」そのものずばり、これは秋田の山の方、海より離れていて平野が山にかかりだす尾根の突端のようなところらしいが詳しい地図でないと分らない、そしてこの「善知鳥峠」。
この索引には、「うとう〇〇」という読み方で別の漢字をあてる地名がまだかなりあった。別の書物によると、全国各地に「うとうざか」という場所があり、「謡坂」と書いたりして、そこを越えるときは「うたをうたってはならない」などという言い伝えがあったりするという。これは、「うとう」に「謡」の字を当てたことから逆に生まれた話かもしれない。また、もしやと思って、漢字の音のとおりに「ぜんちちょう」と辞書を引いてみたところ、「ぜんちちょう:うとうという鳥のこと」とあった

こういう《知識》を拾い集めていると、その量に応じて段々と何かが分ってきたかのような気分になってくるのだけれども、実は、何かが分ってきたわけでは少しもない。むしろ考えなければならない《材料》が増えただけで、「うとう」はさっぱり分らないままなのだ。強いて「足しになる」ことと言えば、各地の山中、それも坂や峠のような所の名前としてあるらしい、ということだけである。それだって、あくまでも、《あるらしい》である。
私がこの「うとう」峠に興味を抱いたのは、塩尻近くの宿場町や民家を見て歩いたとき、そのとき持っていた地図がまったく役に立たず(バイパスや新しい道が造られてしまっていて役に立たなかったのだ)、筑波に戻ってから別の地図を見直していたときのことである。初めはまったく読めなかった。というより、いろんな読みかたをしてみたけれども、そのどれにも自信が持てなかった。そこで「地名大系」を引っ張り出してみて、初めて「うとう」と読むのだと知り半ば驚嘆したのである。漢字だけでさえいささか驚いていたのに、そのような「読み」が当てられていること、そしてその「うとう」という読みの「響き」にも心を惹かれたのである。心地よい響きの言葉だが、いったいどんな意味なのか?そう思ったのが始まりで、いろいろと拾い読みすることになったのである。
つまるところ、「うとう」という心地よい響きをもつ言葉は、その意味がよく分らないまま残ってしまい、相変らず気になっているのだが、そうこうしているうちに、ふとおかしなことに気が付いた。
「うすい峠」などといった場合、そういう名の付いた峠で済ませてしまい、それが何を意味しているのだろうなどと少しも思わない。
すなわち、その意味を知りたく思う場合と、単にそういうものだ、で済ます場合があるということに気が付いたのである。
こういう二つの場合があるということ、それは明らかに《私の側の問題》である。私が、その意味を気にするか、気にしないかによるのだと言ってよい。
その名前がすっかり私の身についてしまっているような場合、それにもいろいろな場合があって、具体的には知らなくても、そういうものなのだという《知識》が身についてしまっている場合には、あまりその語の意味など気にはしないようだ。「うすい」峠などが、私の場合、その一例である。こどもの頃から「うすい」峠という名の難所が在ることは《知識》として身についてしまっていて、実際にどのような様相の場所かは全く知らないまま、「うすい峠」は私のものになっていた。もちろん「分って」いたわけではない。しかし、「うすい」峠って知っているかなどと言われたり、関東から信越に向う中山道あるいは信越線の難関は何処かなどと訊ねられたりしたら、したり顔で「知ってるよ」とか「うすいとうげ」などと答えただろう。それは、単にそういう名前として知っているわけで、別の名称でもよかったはずである。そして、この場合、その名前よりも、難関であるという《教えられた知識》が印象に残っていて、どのような所か実際に知りたく思っていたに違いない。中学校の頃、遠足で信越線でそこを通り、「これがあの碓氷峠か」と思ったことを今でも覚えている。実際に道で峠越をしたのは自動車に乗るようになってからであり、未だに歩いてはいない。
こういう程度の「碓氷峠」との「付き合い」のなかでは、「何でうすいなのか、碓氷なのか」「碓氷とはどういう意味か」などと、それほど深く思いをめぐらしたことはないように思う。
ところが、小学校の遠足で相模湖へ行ったとき、甲州街道を歩いた。結構な上り坂で歩みが遅くなったころ、もうすぐオオダルミだ、峠だ、そこからは下りだと元気づけられた。峠には大垂水峠という石碑がたっていた。おおだるみと読むらしい。そばの山の岩肌から少しばかり水がしたたり落ちていた。これで大垂水?と訝った記憶がある。子どもなりに大垂水という語の意味を考えたのだ。このときは、まったく突然、何の予備知識もなく「おおだるみ」に出くわした。それゆえに、語の意味に思いが至ったのだろう。もしも事前に、こういう名の峠があることを知っていたならば、その名の由縁に思いをはせることはなかったに違いない。



こうして考えてみると、日常慣れてしまっている名前に対しては、その由縁・由来など、まず気にすることなどない、と言ってよさそうだ。
その場所を私なりに具体的に知っているような場所に対しては、その名前に接した瞬間、その場所の具体的な姿が頭の中に浮んでくる。上野、新宿、渋谷・・・、それらは皆、私なりのその名をもつ町の具体的な姿をすぐ目の前に浮びあがらす。その名の由来・由縁が気になったりするのは、他の場所で同じ名を見つけたような時だ。例えば同じ都内で別の新宿を見つけたり、伊賀上野などという場所のあることを知ったりしたとき、あらためて、新宿新・宿だったかなどと気づいたりするのである。また、私のなかに(どういうわけか)教え込まれた《知識の体系》を形成するためのいわば一要素として土地の名前が表われてくる場合にも、それは単にその《知識体系》を標示する記号のようなものに過ぎない場合も多い(地理の授業で教えられることなどは多分この類だ)。利根川という名前をきけば、具体的に利根川を知らなくても、関東平野を潤す重要な河川という「知識」が浮かび上がる。
つまり、具体的に知らなくても、「知識」を集積できるのである(こういう「知識」をたくさん忘れずに覚え込んだ者がいわゆる優等生なのだ)。
更には、《「知識」として教え込まれたこと》をその土地の姿であるかのように思い込んでしまう場合さえある。
津和野などは、私にとって、まさにそれであった。訪ねてみて、聞くと見るでは大違い、私が《「知識」によって描いていたイメージ》は、もろくも潰え去った。
具体的には知らず単なる「知識」の場合、その名前の文字がつくりだすイメージが取付いてしまう。
私の場合、津和野がそれで、字の意味や読み・音の響きが、一つのイメージを生起させ、その土地のイメージに、理由もなくかぶさっていたのである。の場合は、その字で、ある風情を勝手に思い浮かべていたのである。
また、名前を構成する文字が、ある特定のものを示すような場合にもその名前の由来・由縁が気になりはじめる。先の塩尻などがその例で、塩の尻って何だろうと問いただしくなってくる。もしもその土地に住んでいたり実際によく知っていたリしたならば、直ちにその具体的な町の姿を思い浮かべてしまい、名前の由来を知りたいなどという気は、まず湧いてはこないだろう。ただ、そういう場合でも、塩尻という名のようなときには、例えば中野などという名前のときとは違って、ふとさめて考えてみたりしたとき、その由縁を知りたい気持ちが起きてくるのは確かである。多分それは、塩と尻という字が、あまりにも特定のものを指し示しているからであろう。と言えば普通は海のもの、ここは海岸ではないから岩塩でもあるのだろうか、というのは《果て》《終り》の意か・・・などといろいろ思いたくなるのである。だからであろう、塩尻とは、太平洋で採れる塩:南塩と日本海産の塩:北塩の輸送路の終点:尻にあたる所だから、という《もっともらしい》説明がなされたりしている(《もっともらしい》と書いたのは、そうではないという説が最近言われているようだからである)。
古今の「地誌」や「地名考」で、地名の由来について語られている事例の多くも、その名前が何らかのイメージを生起させる特定のものを指し示しているような場合ではないだろうか。いわば《平凡な名前》の場合には、気にもかけず済ましてしまうのである。もっとも「風土記」のような、その土地で暮している人ではない「よそ者」が編んだような場合には、その名前が自分とは関わりなく存在していたからであろうか、やたらにその名の由来・謂れが書かれる場合もある。それは、今私たちが、初めての、知らない土地の名前(とり分け興をそそる名前)にぶつかって、その意味を問いたくなる心境と似ているのだろう。初めての所だから、手掛かりになるものとしては、目の前に拡がる土地の他には、その呼び名:名前しかないのである。風土記の場合は、嘉き字二字をもって土地の名を報告せよとの中央政府の命令があった(下記参照)がゆえの結果だろう。
   畿内七道諸国。 郡郷名著嘉字。 其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具 録色目。及土地沃堉。 
   山川原野名号所由。 又古老相伝 旧聞意事。 載于史籍言上。
おそらく、それまで文字のあてがわれていなかった名前・地名に漢字を与えるために、その漢字をあてがう《理屈》を考えざるを得なくなったと思われる。
同様のことは明治期にアイヌの地名に漢字をあてがうときにも行われている。もっともそのときは、アイヌ語のに漢字のが適宜あてられたから、文字の意味を考えるとわけの分らなくなる場合が多い。アイヌ語の意味やその土地の様態に合っているように私に思える漢字名は神居古潭(カムイコタン)ぐらいである。要は、地名を漢字二字で表せ、というのが問題なのだ。
言うまでもなく、漢字に置き換える以前から、それぞれの土地にはそれぞれの呼び名があった。呼び名をつける側の立場を考えてみれば当然なのだが、その呼び名が付けられるのは、それなりの理由:意味があっただろう。そこへ「よそもの」が現れて《無理に》漢字の「音」や「訓」をあてがってしまった。
ところが、漢字は表意文字、一字一字が独自に意味を持つ。その結果、漢字に置き換えられた名前が、本来はその名前にはなかった漢字の意味を担ってしまうのである。その漢字の名が元の呼び名の意味することと同じであることは、まずないと言ってよいだろう。そして、一旦漢字に置き換えられた名前は、それこそ随時、安易に、別の漢字に置き換えることが、ひっきりなしに行われてきた。
埼玉県に春日部(かすかべ)という町があるが、従来の表記は粕壁であったはずである。
信州の千曲川も、筑摩の地域を流れる川筑摩川が、ちくま河と書かれたり千熊河と書かれる時期があり、千曲川に落ち着いたのは江戸時代の初めという。「ちくまがわ」というだけは変らなかったのである。多分、ちくまという呼称が先にあったのだと思われるが、そういう変遷の過程に気が付かないと千の曲りか、なるほど、などと納得しかねない。当て字にしては、川の様相にぴったりなのだ。
このように一旦漢字で表記するようになると、元の名前をさておいて、漢字の持つイメージが独り歩きを始めてしまうのである。
甲府盆地の東を笛吹川という川が流れているが、そのあたりの地図を見ていたら、その小さな支流に琴川(ことがわ)というのがあった。琴川とはまた優雅な・・と思っていたら、地元の人が、鼓川(つづみがわ)もある、と教えてくれた。調べたわけではないが、笛吹という名前が先にあって、それに引きずられてが派生したのではないかと思う。
   このあたりの学校や農協の名前では「笛川・・・」と書かれているから、元は「吹」の字はなかったのかもしれない(未確認)。

つくば市に、松見、竹園、梅園という町名があるが、これは、戦後、荒野が開拓されたとき、拠点となる地域に松竹梅のめでたい字を配ったことに始まるのだという。こうなると単なる記号と同じで、その字の生むイメージだけが問題にされ、その土地に根ざした呼び名とは全く無縁になってくる。住居表示で改名された地名や、新開地の地名には、こういう例が多いようだ。


冒頭に書いた「善知鳥峠」は、命名の過程が更に込みいっていると思われる。多分、「うとう」という呼び名は古くからあったのだろう。
一方で「うとう」と呼ばれる鳥がいた。その鳥の親子の情愛の深さについての「伝説」がある。それを題材にした能楽があるようだ。その伝説・説話の内容はまさしく「善知」ということだ・・・、おそらくそのような「解釈」があったのだろう。これには、「善知識」という仏教語がからんでいるのかもしれない(辞書で「善知」を調べていたら、「善知鳥」の一つ前の項目に仏教用語の「善知識」の「解説」があったからである)。そこで「うとう」という鳥は「善知」鳥だ、ということになり、以後、「うとう」は「善知鳥だ、「善知鳥」と書いて「うとう」と読むようになった・・・。このような場合、話を知らない限り、「善知鳥」を読めと言われても読めるわけがない。
多分こういった類の名前がたくさんあるのではないだろうか。

こんな具合に、漢字で書かれた地名を、その漢字の意味について考えだしたりすると、とんでもない結果に陥りがちだ。
旧い名前を相続していると思われるような場合、せいぜい、漢字を取っ払って元の呼び名に戻してみてその意味を考えてみることぐらいが、できることではないだろうか。
確かに、その呼び名の意味を分かること、分ろうとすることに意味がある場合もあるかもしれない。
しかし、より大事なのは、大地の上の特定の場所を区切りとってある名前で呼ぶようになった、そういう人びとの営為のなかみに思いを至らせることではなかろうか。なぜ「そこ」に、ある呼び名を付けなければならなかったのか、そうさせたのは何だったのか、と。
そうしなければ、「もの」、あるいは「土地」の私たちにとっての、ほんとの意味が分らないはずだからである。私たちにとって、土地やものは、あくまでも私たちにとっての土地やものなのであって、単に「私たち&土地」「私たち&もの」なのではないからである。
私たちのもの」について考えるのならば、辞書的解釈から始めるべきではないのである。辞書にある解説が間違っている、ということではない。辞書の解説は、辞書というものの性質上、いわば抽象的な解説に終始し、その名前の名付け親としての「私たち」の存在、「私たちにとって、そのものが存在することの意味」を背後に隠してしまうのである。
辞書的解説の範囲に閉じ籠って右往左往するよりも、この背後に注力することこそが先ず為されなければならないことなのだ
では、表音文字表記の地域の人びとは、書かれたものの名前に対してどのような感じかたをするのだろうか。
たまたま手元にあった書物のなかに、土地の名前について述べている個所があったので下に書き写す。

・・・・・言葉というものは、それの指し示す事物の明瞭にして尋常な(たとえば仕事台、鳥、とはいかなるものかという例を児童に示すために教室の壁にかけておく絵、あの同一種類のすべてのものの標準として選ばれたもののように)あるささやかな映像をわれわれに思いうかばせる。ところが、名というものは、人なり町なりの(というのは、町もその名で呼ばれるために、われわれにはいつも人物同様思われがちなものだから)その町のある漠とした映像を思いうかばせる。この映像は、その名とその名のの明朗とか沈鬱とかの響きによって色彩を導きだす。映像はこの色彩によって、ちょうど全紙が青または赤の一色で描かれているあのビラのように、一様に塗りつぶされているものなのだ。「パルムの僧院」を読んでからまず行きたい町の一つになったパルムの名は、私には、密な、滑らかな、すみれ色の、そしてやわらかな感じとして思いうかべられていたから、私の宿になるかもしれぬパルムのどんな家の話がでても、私には、滑らかな、緻密な、すみれ色の、そしてやわらかな感じのする住居に住むのだろうと思う喜びがひきおこされた。そして、そうした住居は、イタリアのどの町の住居とも似もつかぬものなのだ。というのは、なんの抑揚もないパルムというシラブルと、スタンダール風な甘美さやパルムのすみれの花びらの光沢から、パルムという名に私の含ませたすべての心象との助けをかりて、初めてその住居を想像したからである。・・・・・                 プルースト 失われた時を求めて  土地の名・名   より                             

おそらく、未だ具体的に知らない土地のイメージが醸成されてくる構造は私たちとさほど変っているわけではなく、違う点は、その名前のの響き:語感が前面にでてくることぐらいだろう。ここに引用した例の場合、「パルムの僧院」を読んでいなければ、その名前の綴りと発音だけが頼りとなるわけである。私たち日本人が表音文字圏の町の名に思うことは、この例とそんなに変りはないだろう。文学や人の話やなどを通しての諸々の《知識》が、その街の名前に取付いてイメージがどんどん膨らみ、それとその町そのものと、どちらがどちらだか分らなくなったりさえしてしまう。そのあたりのことについては、次の一文が的をついている。    
・・・・・一年前に、あるいは二年前に、芸術と思想との充ちた町パリは、私を歓喜の念でいっぱいにした。
その時私のしたことは、私がこれらの美しいと思ったものに、私の知っている名前や言葉をやたらにつけたことである。ノートルダムは崇高だ、重厚」だ。・・・・セーヌは静穏で、ほのかないぶし銀の照り返しのように輝いている。等々・・・・。そしてそれには必ず自分がそれが「好き」だという甘い感傷が伴っていた。しかしこれらの言葉は何か。それは全然別の内容をもって私の過去の生活経験を通して与えられ、あるいは教えられたものであった。言葉とその言葉に対する感激、もちろんそればかりではない。
私は実物に接した以上、それから感動の幾分かはうけていたに相違ない。しかしそれは安易な言葉と感激によって、たちまちうすめられ、混乱させられてしまっていたのではなかったか。私は自分の貧しい過去の色ガラスを通して映るパリの姿をよろこんでいたのである。これは錯覚以外の何だろうか。しかしこの色ガラスそのものは、一つの感覚的経験の蓄積されたものである以上、私が一つの生活圏を場所的にはなれた時、徐々に崩壊しはじめていたはずである。それがある程度以上になったとき、私は、私の主観的な錯覚から次第に分離してくる、そこに在る、パリそのものの姿を見、その複雑な裸形の姿の厳しさに茫然とするばかりである。それはまずその硬い物理的性質をもった石の町として、更に冷たい町として迫ってきた。・・・・      森 有正 砂漠に向って   
より


私たちが、私たちそれぞれの色ガラスを通して物事をみているという《事実》は、何人も否定し得ないだろう。
だからと言って、私たちにとっての問題は、どれだけの色ガラスがあるのか、と数え上げることではなく、ましてや、どの色ガラスが好ましいか、などと論じることではない。言葉とその言葉に対する感激を、とやかくあげつらえばよい、ということではないのである。
                                                                了




「復刻・筑波通信」続編の編集中ですが・・・・・

2017-01-24 16:00:21 | 復刻・筑波通信
作業が遅れています・・・、もうしばらくかかりそうです。
それにしても寒いですね・・・。

編集作業遅延のお知らせ

2017-01-16 09:55:31 | 復刻・筑波通信


ここ数日の冷え込みには参っています。今朝は氷点下5度くらいまで下った・・・。

「復刻・筑波通信」の続きを編集中ですが、まだ数日かかりそうです。ご了承ください。


復刻・「筑波通信」―12    「地方」の重さ

2016-12-25 10:58:51 | 復刻・筑波通信

                                                                                        晩 秋

復刻・「筑波通信」―12   「地方」の重さ               「筑波通信」1982年9月 刊 の復刻

〇地図の上のアメリカ
アメリカ帰りの人から、向うの道路地図をいただいた。1ページが「わら半紙」より一まわり大きく、見開き2ページに一州が納まるようになっている。
日本の地図を見慣れている目には、いささか驚く点が多かった。
驚きの一つは、その国土の途方もない大きさについてである。その昔、カリフォルニア半島に日本列島が全部入ってしまうと教わって驚いたことがあるが、そのときは実感の裏付けを欠いた観念的なそれであったように思う。道路や街々の所在が細かく描きこまれたこの地図を見ていると、その巨大さが、あらためて日常的感覚で伝わってくる。
はじめは日本の地図を見るような感覚で眺めていたのだが、ふと気になって縮尺を調べてみた。なんと、そのほとんどが百万分の一、百五十万分の一!見開き二ページで一州をおさめるため、州ごとで縮尺が異なっている。日本の道路地図は大抵見開き二頁でわら半紙大(アメリカのそれのおよそ半分)、縮尺は大体四十万分の一。中高の学生用地図も見開き二頁がわら半紙大だが、そこにたとえば「関東・中部地方」が百五十万分の一で収まっていて、東は福島県、西は京都府あたりまで入っている。アメリカの一州がいかに大きいか・・・。
ページごとに縮尺が違うなんて不親切な編集だな、と最初は思ったのだが、考えてみれば、彼の地では、日本のように一日のうちに数ページにわたり移動するなどということがまずないのである(そういう場合は空路を使うのでは・・・)。いずれにしろ、日本に慣れた目を修正しながら見ないと、とんだ錯覚を起こしかねない。

もう一つ驚いたのは、地図の上に示される「道」の形状であった。
もちろん例外はあるが、まず八割がたは東西・南北に向きを揃えた方形の格子状をなしている。百万分の一~百五十万分の一の縮尺では、街並みや家並みは当然表示できず、道も地物も記号化して示すことになる。そのため、かえって格子状の道の形が際立って見えてくる。それはあたかも、スケールはまったく違うが、条里制の水田あるいはその痕跡をとどめる地図を見ているかのようである。もっともそれは平原状の大地の場合で、山地はさすがにそうではない。しかし、平原状だからといって、たとえば関東平野を被う道がすべて格子状を成しているいるような姿を、私たちは想像できるだろうか。
私たちの知っている道は、川にぶつかれば素直に向きを変えるのを厭わない。
彼の地に川や大地の起伏がない、などということはない。もちろん、その向きが東西・南北を向いているわけでもない。しかし、彼の地の道は、よほどの大河でない限り、川の向きなどお構いなしに、《初志を貫徹している》、つまり突き進んでいるのである。
道というのは、人がつくったという意味で「人工物」である。しかし、アメリカの地図のうえの道を見ていると、これこそが「人工物」なのであって、私たちの見慣れている道は「自然物」であるかのように見えてくる。
しかし、全部の道が格子様なのではない。よく見ると、全体から見れば《異質》に見えるのだが、東西・南北の向きとは関係なく斜めに走る道もある。私たちが通常見かける道と同じで、少しばかりホッとする。
何故斜めに走っているのか?理由は単純。素直に川に沿っているのである。
この道の《成因》は、明らかに、格子様の道と違う。大きな町、その地域の中心と思われる町は、この斜めに走る道に沿ってあるように見える。多分、この斜めの道は、この地域の「古道」なのである。そして、格子様の道は、おそらく開拓の結果生まれた、道というよりも「地割線」なのではなかろうか。
つまり、人びとは、開拓を目的に、下流から川を遡ってくる。適当と思われる場所に仮にとどまり、そこを拠点に、定着地を決めるためにまわりの土地を探す。仮の場所はいわば前進基地。開拓中の土地が前線である。まさに字の通りのフロンティア。開拓が進むにつれ、前進基地は町として発展してゆく。開拓した農地は整然と区画され、その境界がそれらを互いに結ぶ道となる。おそらくそのときは、それらの方形の線:道が全土を被う道路網になるなどということは思いもかけないことだったに違いない。そうなったのは、ずっと後になってからのことだ。なぜなら、拠点の町へ行く道はともかく、開拓地を越えてさらに先へと進む道は、彼ら開拓者たちには当面必要なかったはずだからである。それらを全土を被う道路網に組み込んだのは、多分、後の時代の、別の目的をいだいた人びとなのだ。そのように思うのは、いかなる国・地域であろうと、その全域を被う道路網の建設が、人びとの定着・定住に先行するはずはないからである。先行するのはまず人びとが定着すること、そうしてできた村や町が、そこに暮す人びとの必要に応じて道を介してつながってゆく。
人びとが遥か数百キロ先にある彼らの生活・暮らしとは何の関係もない町とのつながりをまず先に考えるわけはない。
確かに今は、先ず基幹としての道路を整備してから開発を進めるのが常道になっているが、それはあくまでも近代合理主義的発想のしからしむるところなのであって、唯一そういう見かただけで古今の人びとがその暮す大地に拠って為してきたことを見てしまったら、大きな誤解・間違いが生じてしまう
だろう。
また、そういう近代的な見かたでは、あの格子状の網の目の下に、開拓した人びと以前に住み着いていた人びとたちの道が隠されているかもしれないことに、まったく思いが及ばなくなってしまうだろう。

〇地図のなかの人びと
こうした《驚き》をともないながら地図を見ていると、それがまったく見知らぬ土地の地図だからでもあろうが、その地図の上の隅々で暮している人たちの生活がいったいどういうものなのか、いろいろな思い・想いが湧いてくる。
たしかに初めのうちは地図を拡げその縮尺を確認し、その大きさにため息をつき、隣り町までちょうど土浦と東京ほどの距離がある、・・・などと、どちらかと言えば、その物理的な側面での《感嘆》を繰り返していたのだが、そのうちに、そのような状況のなかで暮している人びとの生活(感覚)というのはいたいどんなものなのか、とても気になりだしてきた。
たとえば、そこの町に暮している人びとにとって、ワシントンやニューヨークなど私たちも名前を知っている都市やそ子での《動向》は、いったい、いかばかりの意味をもっているのだろうか。
その町に暮す覚悟をしている限り、彼らにとって、それら大都市など、その名前などはもちろんのこと、いわば《どうでもよいこと》として受けとめられているのではないだろうか。
つまり、あそこはあそこ、ここはここ、という捉えかたが、至極当たり前に為されているのではないか、と思う。
ワシントンなどは、彼らにとっては遥か彼方の場所であり、地図で探すには何ページもめくらなければならない。仮にそこへ行くとすると、日付はともかく時計の針は何度か変更しなければならないのだ。
つまり、そこの町に暮す人びとの日常の生活のなかには、抽象的なアメリカ全体:《全国」などという概念は入り込んではこないのだ。《全国的な世界》は、日常の何段階か上の次元のはなしなのであって、日常では、先ず、その町でしかあり得ない:その町だから当然の:ものごとが考えられるだろう。そしてこれだけ広い国土だと、一生、自分の町のまわり数百キロ以上の外に出たこともなく終わってしまうというのも決して珍しくはないだろう。その土地・地域に根を張れば張るほど、「自分の世界」だけで過ごして終ってしまうのである。そう考えてくると、成功をおさめたアメリカの(いなかの)おじいさん、おばあさんが世界一周の旅にくりだしてゆくというのも、分るような気がしてくる。
少しばかり短絡的かもそれないが、アメリカの国内政治が、一つの「中央」に拠るのではなく、各地方:各州の州政治を基とした連邦制をとっているのが、まことに理の当然であると思えてくる。統一的、画一的なやりかたで一律に全国・全地域を一律に処するなどということは、物理的にもまず不可能だからである。
この百五十万分の一という地図の上に辛うじて点となって描き示されている町には、その地図上では目に見える点にもなり得ない人びとが暮している。しかし、この人びとがそこに居るからこそ、その街や村が存在し得ているのである。この人びとは、まさに「草の根」なのだ
この広大な土地の地図は、それが広大であるがゆえに、かえってこの「草の根」の人びとの存在を、ひしひしと感じさせてくれる。
そのような「草の根」が繁茂しているがゆえに「町」が在り、「州」が在る。州という「林」が成り立つ。そしてその集合体が、合州国:合衆国という「森」を形づくっているのである
現実に「草の根」たちがどのように扱われているかは知らない。しかし、アメリカの(少なくとも《建前として》の)「民主主義」とはこういうものなのだろう。このことはアメリカに限らない。どこの国でも「草の根」の存在しない村・町・・・国が在るわけがない。
とりわけ、「国」というような抽象的な概念:存在が「草の根」よりも先に在るわけがない。
しかし、日本の様相はどこか違うのではないか。
日本では、「中央」という名の《大樹》が、「草の根」を一本残らず根こそぎにしてしまうことに拠って繁茂している。更に、繁茂し続けている。はたしてそれは「国力が強くなる」ということなのであろうか?そしてこの日本の現今の様相は、国土が狭いという特性ゆえの、《日本なりの当然の様相》なのであろうか?
たしかに、「統一的」「画一的」な《ことの処理》は、狭いがゆえに数等やりやすいだろう。
しかし、「ことの処理が容易である」ということと、「草の根の存在を認めるかどうか」ということは、本来「別の問題」である。
先に触れたように、国土は広かろうが狭かろうが、画一的な処理がし易かろうがし難かろうが、「草の根」すなわち「個々の人びと」は厳然として存在するのである。その個々の人びとの個々としての存在が都合が悪いからといって、現実に、そして論理的に言っても、その「存在」を消し去ることは、絶対にできないのだ。
いま私は、アメリカの地図を見ていてそこに「草の根」の存在を見た、と書いた。しかしほんとは、日本の地図の上でも、それを見なければいけないのである。もしそこに、そこで暮す人びとの姿が見えてこないのであるならば、それは、そこに単なる地面の拡がりを見ているに過ぎない。そして、そういう見かたが当たり前になってしまうと、その地で日々を過ごしている生身の人間の姿が、頭のなかから消えていってしまう。更には、個々の人びとが存在しない前提の下で、人びとに関わるはずのことがらが、次から次へと、処理されてゆく。これを矛盾と言わずして何と言うのだろうか。

〇「地方」の《ニュース》・・・・「事実」と《ニュース》
八月の初め、所用で山梨県へ行ってきた。泊ったのは一足信州に入った所だったが、そのあたり一帯は一週間ほど前の台風でかなりの被害を受けたようであった。「・・ようであった」と書いたのは、現地に着くまで被害があったことをまったく知らなかったからで、私が走った道も一日前までは通れなかったのだという。現地に着くまで、そういう情報は何も知らなかったのである。
このような場合、私たちはどうやって「情報」を知るのだろうか。
その地に知り合いでもいればいち早く知り得たかもしれないが、そうでもない限り、せいぜい新聞、ラヂオ、テレビの報じることに拠るしかない。その頃、ニュースでは東海道線の富士川鉄橋の倒壊や東名、中央両高速道の土砂崩れによる不通など、どちらかといえば首都圏に係わりが深そうな状況が多く報じられていたように思う。私の向う先が大きな被害を受けているとは思ってもいなかったから、道路情報で状況を知ろうともしなかった。
実際はかなりの被害であった。その頃、信州は二つの幹線:中山道・信越線、甲州街道・中央線の障害で一時的に孤立した状態だったのだそうである。各地で、浸水、洪水、鉄砲水、土砂崩れが発生し、大変だったらしい。よく考えてみれば、富士川下流の鉄橋が倒壊するほどの水が流れた以上、その上流域の雨がいかにひどいものであるかは自明のはずである。しかし、ニュースで報じられると、どうしても報じられた《こと》にのみ関心が向き、それだけで終ってしまい、その背景:全景・全体像にまで目をやらないで済ませてしまうのである。
私は、その地の新聞:信濃毎日や山梨日日を読んで、やっとのことで現地の状況の概要を知ることができた。と言うより、筑波で読んだ《向う側》の中央紙の報道と、そこで読んだ《こちら側》の地方紙の報道とを合わせてみて、台風10号がどんな具合に列島を横切っていったかが、初めてよく分ったような気がしたのである。
とかくこのような場面に出くわすと、「中央紙」なる新聞の紙面をにぎわす記事というのは、いったい何なのか、とあらためて考えざるを得なくなる。
なぜなら、現場に居合わせでもしない限り、多くの人は、その読む「中央紙」に報じられる個々の事例だけに拠って、例えば今回の台風10号についてのイメージを《勝手に》描き、それで全てだと思い込んでしまい、更には、事態の全容が《分った》気にさえなってしまうのだ。もちろん、その《勝手》は、必ずしも総て読み手の責任ではないのだが・・・。
言うまでもなく、全ての事件あるいは全景を、隈なく報じることは不可能だから、報じることの内容に、ある種の選択が行なわれることがあって当然である。それゆえ、その「選択」の為され方の当否を問うことも必要ではあるが、私たちは、報じられていることは、あくまでも全体・全容のほんの一部に過ぎないということを認識しなければなならない。そして、その報じられた「ほんの一部」を基に、私たちは個々に、その全体:全景・全容あるいは背景に対して、思いを馳せるべきなのである。おそらくそうすることが、知ろうとする私たちの「最低の務め」なのである。



〇「中央発」のニュース・・・・「知らされること」と「知ること」
実際、「中央」の近くに住み時折「地方」に出向いたとき、その地の新聞やテレビを見ていると、日ごろ気付かずに見過ごしていた同一のことがらも、自分の立ち位置によって全く異なる見えかたをするものだ、ということにあらためて気付く。言わば《向う側》に押しやって見ていたものを、《こちら側》に引き寄せて見ることになり、「自分の立ち位置」の確認を迫られることになる。いつもいったい何をみていたのか、ということである。
よく「地方」でテレビのニュースを見ていると、「今日は久しぶりに夏らしい青空が拡がり・・・」だとか「今日は九月一日、新学期が始まり、真っ黒に日焼けした子どもたちが元気よく・・・」などと報じているのに出くわすことがあるけれども、「中央」に関わるニュース」を報じているからだ(寒冷の地では、8月下旬には新学期が始まっている・・・)。
ことによると、中央:東京のことは、何であろうと、《全国共通・標準である》かの錯覚に陥っているからなのかもしれない。そして、知らせる方も知る方も、錯覚どころか素直にそう思ってしまい、それどころか、その《全国共通・標準》から外れることが悪いことであるかのようにさえ思ってしまっているのかもしれない。そのニュースが、たまたま自分の身の回りで起きたことがらに関わることであった場合、事実と違うではないかと白々しく思うだけで(もしかすると、そういうことに慣れてしまって《またか》と思うだけで)、その他のことは、多分、そのまま鵜呑みにしてしまうのではあるまいか。
これはまことに怖ろしいことだ。なぜなら、《ニュース》を知ったことで、あたかも「事実」を知ったかの気になってしまうのだ。
こういう《習慣》に慣れてしまうと、《自ら知り得ていないことまで、知っている》かの錯覚にさえ陥りかねない。つまるところ、「ものごとに対する自らの判断」が放棄され、ものごとの判断まで他人まかせとなる
しかしほんとは、自ら知り得ない、それゆえ分らない、そうはっきり言い切ることが大事なのであり、そう言い切れるとき(《知ったかぶりはしない》としたとき)、逆に、そのとき初めて「自ら知ろう、分ろうと努める気持ち」が湧いてくるのではないだろうか。
「中央」から、《誰かの手に拠って整理された事実》だけが知らされるのに慣れ、それで全てだ、と思い込んでしまったとき、私たちはこの「自ら知ろう、分ろうと努める気持ち」さえも失ってしまうに違いない。
私たちがそれに慣れてしまったとき、そのとき「私たちに知らされるもの」、それはいったい何なのか。そしてそのとき、「私たちはどのような振舞いかた」をするようになるか。
多分そうなってしまったとき、私たちは、それぞれの判断を忘れ、(強制されていることに気付かず、あたかも自らの判断であるかの如くに)画一的な判断をするようになるのではなかろうか。
事実、敗戦前、私たちが置かれていた状況は、まさにそういう様態であったし、三十七年を経過した今、「ある種の人たち」が、民主主義を片方で《建前として》掲げつつ、つくろうとしているのもまたこういう状況に他なるまい。そうでなければ、あれほどしつこく教科書の画一化に拘るわけがない。私たちがともすると負いいる《知らされtらことを事実であると思い込む錯覚》が巧みに利用され、私たちの《強制されているとも気づかずに成す画一的な判断》を生む状況づくりが着々と行われている。
そしてまた、情報量の増加、一見したところ多種多様な情報は、人びとをしてただ単純にいろんなことや考えが在るのだと思わせるだけで、逆に人びと自らが、自ら知ろうとする気を喪失させてしまっているように思える。
そして、その多種多様な情報でさえ、それは決して多種多様な人たちに拠って発せられているのではなく、端的に言えば、「中央」にいる(「中央」こそ全てであると思い込んでいる)一群の人たちに拠って発せられていると言ってよいだろう。
それらもまた、テレビで報じられる事件のニュースと同じに、必ず一度「中央」を経由して「全国」に流されるのである。これは、ことによると、戦前戦後を通してなんら変らなかった日本特有の現象なのではないだろうか。
    註:「三十七年を経過した今」とは原文作成時点を指しています。以下も当時の社会の状況についての筆者の実感です。
      しかし、再編集しながら、2016年の今も、何も変わっていない・・・、と感じています。
いったいなぜ総ての情報やニュースが「中央から」、あるいは「中央を経由してから」伝えられれなければならないのだろうか。そしてなぜそれが、日本では「当たり前のこと」になっているのだろうか。
たとえば、先のアメリカの道路地図上で見つけた名も聞いたことのない小さな町でも、ニュースは「中央」から伝えられるのだろうか。
そんなことはないだろう。新聞で言えば、彼の地には、日本のような「中央紙」はない(系列はあるらしい)。「全国紙」はなく、(系列はあっても)全ては「地方紙」である。というより、「「全国紙」「地方紙」という《ことば》がないはずだ。どれもが言わば「地方紙」なのだから。ニューヨークタイムズにしたところで、その名のとおり「一地方の新聞」に過ぎまい。それが何故有名なのかと言えば、それは発行部数に拠るのではなく、その「内容」に拠ってだろう。
当然、先の小さな町にも「地方紙」があるに違いない。部数はとるに足らない小さな新聞。そしてそれは、多分、その「地方の目」で編集されているに違いない。言わば、「世界」は彼らの目でもって捉えられる。もちろん、ニュースは通信社からも配られるだろう。しかしその《扱い方》、つまり編集は、「彼らの目」に拠るはずである。つまり、《その「地方」のために》つくられるのだ。
おそらく、論説や主張・論調もまた、その「地方」に根ざして説かれるだろう。ことによると、中立を装うなどということもなく、旗印の鮮明な新聞がいくつもあるのかもしれない。
そして、その論説や主張が、その「地方」を越えて共通性・普遍性のあるものであれば、それはまた他の「地方紙」に転載されることもあるという話も聞いたことがある。
筋の通った「一地方の主張」は、それが仮に数の上ではとるに足らない「地方」や「地方紙」であったとしても、無視・黙視できない価値が認められるということだ。実態は詳しくは私は知らないが、建前は、そしてその土壌は、基本的に、こういうものなのだと思われる。第一、あの広大な拡がり・広さという物理的状況の下では、こうでなければ成り立たないだろう。
すなわち、「中央」ではなく、「中央だけ」ではなく、そして「中央」におもねることなく、「一地方」がそれぞれ「世界」を語ることができる。これが日本では、《正しい》情報は「中央」だけが持ち得るのだと自他ともに思い込んでいるから、《正しくない》あるいは情報量の乏しい「地方の見解」なんて、とばかり一笑に付されるのがおちだろう。実際、各地の「地方紙」で、自負と見識をもって編集されている例は少ないように思う。ただ、その少ない例で見ると、一般紙面はもとより、投稿欄などを見ても、一見して、強く地元の人びとに支えられていることが分る。そかし、大方の場合、第一面から三面記事のようで読む気が起きない。「地方」のことも「中央」に全てまかせておけばよいかのようである。
筑波でいわゆる「科学万博」が開かれる前、地元の新聞は万博開催のキャンペーン紙と化した。万博を開催できれば、それを契機に「公共投資」という名の「金」が地域に落ちる。それを確実のものにしようと、誘致活動の先兵となったのである。万博がどういう意味をもつかなどという論議は脇に置き落ちてくる金勘定が先になった。第一、その「金」のそもそもの出所が何処かが忘れられている。それは、元は、それぞれの「草の根」から集められたものだ。ある地方行政の担当者が、使途をやたらに細かく規定された補助金・下付金よりも、それらをまとめた金をくれた方がどれだけよいか分からない、第一、一度「中央」に吸い上げられてから戻ってくるという過程もあほらしい、と言っていたけれども、まことに正当にきこえる。しかし現実はそうでないから、できるだけ「中央」にすり寄ろう、という発想になり、それに慣れ切ってしまっている。結果として、およそ全てが「中央」の思う通りに動くことになり、「地方」も「地方紙」も、多くの場合、それに迎合する。「地方の時代」という《聴こえのよいことば》が出回ったことがあるけれども、その出元も「中央」なのであって、その趣旨:意味は、あくまでも《「中央」のため「地方」》なのであり、決して「地方の自治」を意味しているのではない。
考えるまでもなく、《「地方」からの発想》が当たり前に当たり前になっていたならば、「地方の時代」などという「新語」が生まれる訳がないではないか。

〇「知ること」と「知らせること」
このように見てくると、今私たちが置かれている状況、そして(当たり前だと思い)それに慣れ切ってしまっている状況、更には、エライ人たちから知らされることをもって事実の全てと思い込みがちな私たちの状況・・・、これはまた大変に怖ろしい。
益田 勝実 著「『北越雪譜』のこと」に、次のような一節がある。
  ・・・中央と地方の問題は、その地域がそれぞれにもつ固有性によって、いっそうむつかしいものになっている。地域の社会と文化、
  人間の暮らしかたの総体を真に深く理解し得るのは、まずそこに住むもの自身であり、そこに住むものが、自分たちの暮らしかたの
  実態と地域に深く横たわっている問題とを、広く他の地方や中央の人々に知らせる必要がある。だが、情報時代といわれる今日に
  おいても、それが実際にはむつかしいこと、無限にむつかしいことは変りがない。
  近世末期に越後湯沢の一商人にすぎない 鈴木 牧之 が、「北越雪譜」二編七巻を著して、雪に埋もれて暮らす自分たちの地域のこ
  とを、巨細、天下の人々に知らせ、その理解を深めようとしたのは、稀有の出来ごとであった。・・・

難しいことは分り切っている。しかし、私たちに残されているのは、それはつまるところ《始めにして終りでもある》のだが、私たちが私たち自らを語ることだけだろう。
なぜなら、「中央」という「大樹」が「草の根」よりも先に存在するわけがないからである。
「草の根」は、得体の知れぬ「中央」のために在るのではないからである。
知るということは、《知らされることを知る》ことではなく、《私たち自らが自分の目で知る》ことだからである。
これは、少なくとも、私たちの世代が、1945年8月15日以降、身をもって身に着けてきた考えかたなのである。
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   まとまりのない文章を、最後まで読んでいただき有難うございました。

   シリーズものの続きは、年明けになると思います。

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復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた

2016-11-30 11:12:35 | 復刻・筑波通信


復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた                   「筑波通信」1982年6月 刊 の復刻

〇水田の風景・・・、それは驚異的である
筑波の近在では、四月末から五月初めにかけての連休の前後が田植えの季節である。水の張られた田んぼが、少し大げさに言えば、はてしなく延々と拡がっている。
その昔、私が子どもの頃、田植え時には田んぼという田んぼは、これも大げさに言えば、人で埋っていたものだ。しかし今は、田植え機があっという間に済ましてしまう。人の手に拠っていたとき、苗は実に見事な平行直線をなして植えられていたものだが、機械になってからは、ぎくしゃくした並行線が描かれるようになった。機械の走った軌跡なのである。こんな不揃いでもいいのなら、糸を張って一直線に植えていたあの努力は何であったのかと思わずにはいられない。辺りを見回しても、人影はあちらに二人、こちらに三人・・・といった具合にまばらにしか見当たらない。昔の活気あふれる田植えどきを見知っている者の目には、噓のような、何か気の抜けた「これで大丈夫なのかな」という不安感さえ湧いてくる、そんな光景である。
中国の畑作地帯で、これも大げさに言えば地面が見えなくなるほど人が群がって土地を耕していた姿、これで農業が機械化されたらこの人たちはどうなるのかと考えた、そんな光景が対比的に私の頭をよぎっては消えた。だから、ほとんど人影の見えない、目の前の水平面の連続は、なお一層広々と見えたのである。

水の張られた水田を見ていつも思うのは、およそ人間のやってきたことのなかで、この水田開発ぐらい凄いこと、驚異的なことはないのではないか、ということだ。
この田んぼの水平面は、天然自然の海原や湖水ではない、まったくの人工の水平面なのだ。しかも、ただの水平面ではない。ただの水平面なら穴を掘って水を溜めれば直ぐできる。水田は、しかし、そんな生易しいものではない。先に水平面の連続と書いたが、それは、言わば無数に近い異なった水平面で構成されているのである。
それぞれの面が一定の水深を保ちつつ、水上から水下へと微妙な段差で隣り合う。水は、幅広い水面を成しながら、僅かな落差の《ひな壇》形の滝を落ちつつ、時間をかけて流れてゆく。落差は、勾配千分の一などざらである。建物などの排水の場合のそれは、どんなに緩くても百五十分の一程度なのだから、水田の勾配の緩さが、いかに驚異的であるか!!しかも、水田をゆっくりと流れ下ってきた水の末端は、現在のような排水ポンプのなかった時代には、自然流下で下の河川すじに戻らなければならなかった。大規模住宅団地の土地造成で排水計画をたてたところ、どうやっても末端で排水ポンプでくみ上げることになってしまうのに、ふと、隣り合う水田を見たところ、そこでは当たり前のように自然流下にまかせており、あらためて水田造成技術の卓越さに舌を巻いたという話を聞いたことがあるが、ことほどさようにこれはそんなに簡単なことではない。
つまり、自然流下にまかせ延々と続く水田風景は、単にのどかな風景として見て済ましてしまうにはまことに畏れ多い、人びとが古来為してきた一大偉業なのである。驚異的なのである
もっとも、私たちが今目にする水田は、ほとんどが、元もとは自然流下によって開かれたものを、農業の近代化により《改善・改良》を施した水田である。水源となる河川は排水を容易にするため深く掘り下げられ、給水はポンプで汲み上げることになる。これにより深田も改良される。しかし、掘り下げられた河川は全長の高低差のつじつまが合わなくなり、ところどころで排水ポンプが必要になる。
このような《近代化》により、今まで考え及びもしなかったようなところにも水田をつくれるようになり、丘のてっぺんに田んぼがあっても珍しくもないし、山林の一部が伐採されて突然田んぼが出現したりもする。昔の田んぼを知っている者の目には、こういう風景は違和感を抱かせるに十分である。
しかし、この違和感は、単に私の既製の田んぼ観と比べての違和感ではなく、よくもここまで機械に頼れるものだ、もしも台風による停電で機械がストップしたらどうするのだ?という思いも抱かせるような、つまり機械に対する絶大な信頼に対しての違和感でもある。

〇水田風景、その成り立ちの経緯
このような機械力による近代農法が水田の拡大・整備を、それなりに進めたことは確かではあるが、しかし、その基になっている私たちが「田んぼ」ということばでイメージする広々とした水田地帯の風景自体も、その成立の時期はそんなに旧いものではない。
たとえば、関東平野の中央部:利根川の南(埼玉県の北部にあたるが)その一帯に拡がる見事な一面の水田風景、背後には村々の杜が島のようにぽっかりと浮いている、こういう典型的ともいえる農村の風景:これはほとんど、高々三百年、徳川の世になってから徐々に開かれ出来上がってきたのである。水を引き、その自然流下にまかせた広く延々と続く水田開発という一大農業土木工事が営々として行われてきたのだ。
しかし、かくも見事になったのは:全面的に埋め尽くされるようになったのは:むしろ最近ということばの範囲にはいる時期のことだとみてよく、明治期には未だあちらこちらに手の付けられない湿地帯:池沼が数多く残っていた(下図参照)。



初期の機械による排水は、このような湿地帯の解消のために為されたのである。各地の排水機場のそばには、その地の水との闘いの経緯を記した石碑を見かける。それは、単なる排水機場の竣工記念ではなく、その地で為されてきた農民の苦労の積み重ね:営農の記録と見た方がよいだろう。
明治以来数度にわたり編集しなおされた国土地理院の地図(当初は陸軍参謀本部作成)を年代順に見比べてみても、そこに、人びとの努力の様態:営為の変遷を如実に読み取ることができる。
   「日本図誌体系」など、このような見かたで「時代ごとの地図」を編集した図書資料もある。
つまり、今私たちが目にする水田風景が成り立つ少し前に、しばらくの間、あちらこちらに湖沼を残したままの状態、すなわち幾たびか水田化を図りつつも一進一退を余儀なくさせられていた時期が続いたのである。
これを、単に、技術がなかったからだと見るのは簡単な話である。
しかし、技術というのは、やみくもに天から降ってくるものではない。
技術というのは、問題の解決のために編み出されるものだ。問題意識の高まりが、新しい技術を生み出す下地となる。問題意識のない場面では新しい技術は生まれないのだ。
だから、この時期は、それなりの問題は抱えていても、それを解決する技術を思いつかない時期であった、と見るのが妥当な見かたではあるまいか。
彼らには、排水すればよいのだということはよく分っていたのだが、高きから低きへ流れるという水の《原理》を覆す効率的な方策を見つけられなかっただけなのだ。排水ポンプという機械の導入によって、彼らの問題意識の高まりを抑えていた堰が切れ、あっという間に低湿地の水田化が進んだのである。
私たちは、とかく。技術が先ずあって、それを如何に利用するか、という段階へ進む、という発想を採りがちだが、当然ながら、これは誤りである。
「技術の意味」を本当に知ろうとするならば、その「時々の問題」とその「問題意識」がどのように高まり、どのように解決されていったか、その「過程」をこそ見なければならないだろう。「技術の利用」は、それを「利用」しようとする側に、「解決すべき問題」が「確として存在していることが前提」なのである。残念ながら、現在は、多くの場合、それが逆転しているのではなかろうか。
もしも、今私たちが更地の関東平野を目の前にして、その水田化を目指そうとしたとき、私たちはどうするだろうか?
おそらく、私たちは既にいろいろな水田づくりについての《知識》を持っているから、それらの知識を総動員して、低湿地の解消:乾地化から手を付ける、あるいは手は付けなくても、そのことを念頭に置いて事を進めるだろう。
更地としての関東平野には、もともと自然現象としての低湿地が各所に散在している(前掲の地図参照)。
今の私たちならば、平野全体を見回して、低・高のつじつまを考慮に入れ、低地から高地へと攻め上ってゆく方策を採るだろう。最低の地は東京湾の海面にほかならず、そこを基準面にして上へ上へと考えてゆくのが《容易》だからである。
しかし、この平野で実際に行われてきたのは、これとは全く逆に、高地から低地へと攻めてきたのである。しかも、高地から低地へ、そして次の低地へと、順次、その都度、その局面でのつじつまだけを考えて攻めてきたから、低地がより低地になればなるほどつじつま合せが苦しくなるのは当然。最終的には既存の天然自然の湿地帯に行き着き、そこで足踏みしてしまうか、あるいは、その自然の湿地帯をさらに拡げて一層始末に負えない湿地帯にしてしまったのである。江戸期末~明治初め頃の関東平野は、多分、こういう様態を呈していただろう。当時まで考えつくされた技術では、そこまでだった、と言ってよい。それまでの比較的順調な水田面積の増加は足踏み状態になり、そのような状況は、初期的な機械の導入までのしばらくの間続くのである。

〇なにが合理的か
先に述べた今の私たちが為すであろうやりかたに比べたら、現実に為されたことは、たしかに極めて非合理的ではある。しかしそれを非合理と切って捨てるのは容易なことだ。だが、そう思うのは、むしろ根本的に誤りと言ってよいだろう。結果論に過ぎないからだ。結果を云々することぐらい楽なことはないからだ。
実際にこの平野の開拓に関ってきた人びとは、合理的ではなかったのだろうか?
今の私たちなら為すであろうことをもって「合理的」と見なすのならば、確かに彼らは合理的ではない。
しかし、私たちにとって「合理的」なやりかたとは、あくまでも私たちにとってしか意味がないということを忘れてはならないだろう。
彼らもまた、彼らにとって合理的なやり方を為してきたという意味で合理的であったのだし、ことによると、今の私たちよりも数等合理的であったのかもしれないのだ。
彼らは、今私たちが機械に頼って水の流れの原理に逆らってまでして(自然の良田を一方で休耕田と称して荒地に変えながら)開田をしている様を見たら、何という無茶な非合理なことを・・と言うに違いない。
この状況について、中公新書 小出博 著「利根川と淀川」に、以下のように述べられている。
・・・・研究者は近代合理主義と経済合理主義を強く押し出して、解釈しがちになる。しかし、河川開発は、時に思わぬ猛威をふるう自然現象に対する人間の挑戦である。とくに江戸時代の自然河川に相対したとき、いわゆる近代科学を足場とする近代合理主義で理解できない部分が非常に多い。・・・
では、関東平野の開田にあたり、なぜ低地から高地へではなく高地から低地へと下りてくる方策が採られたのであろうか。おそらく、その理由は簡単な話なのだ。人は、《その時》抱いている「目的」を達成するために、《その時の状況》に於いて最も良い結果を生むだろうと予測され、なおかつその状況下で最も容易なやりかたを採ろうとするからである。この《原理》は、今の私たちにもあてはまるはずだ。
稲を栽培することに拠って生きることを見つけた人たちがいたとする。実際、縄文時代後期には、そういう人たちが居たのである。彼らは、初めに稲作について詳しく研究・学習をし尽くした上で、しかるべき土地:水田を造成し・・・、しかる後に稲作にとりかかったのだろうか。
今の私たちならそうするかもしれないが、彼らはそんな気長なことはしなかった。最も手っ取り早く、既存の自然地形の中に適当な場所を探し出した。深すぎもせず浅すぎもせず、洪水でもすぐに流されることもない、ほんの水たまり程度の湿地帯:「ぬた」「のた」「やち」「うだ」などと呼ばれるちょっとした湧き水や小川の傍、そういう猫の額ほどの谷状の場所をそのまま、手を加えずに利用することから始めたのである。
そういう所を捜しまわっては、《住めるところ》に人は定住しだした。なぜなら、彼らにはそれで十分だったからである。人びとに拠る開田という壮大なドラマはそういう場所から始まったのだ。
人びとが定着し、人口が増えると、水田も増やさねばならない。そこで人びとは、かつて彼らが自然地形のなかに探し求めていた土地と同じような状況の土地を「造りだす」ことを覚え、同時にそのための技術をも覚え、かつての自然田に続く下流へと徐々に平野へ向けて下りだす。つまり、自然利水の段階から、人びとの目的の変化に応じて、次ぎ次ぎに利水の技術が生み出される段階へと変っていったのである。これは関東平野だけではなく、どこの平野でも同様の毛化を見ることができる。つまり、人びとが最初に定住するようになるのは、平野を取り囲む山々の縁(へり)の部分だったということになる。それは、(当時の)人びとにとってきわめて「合理的な」営みであった。だから、今でこそ、人びとは平野の最低地部に集中しているけれども、古代から中世にかけては平野の縁の部分、主に、現在の県名で言えば埼玉県西部、群馬・栃木県の北部が栄えていたのである。ここで触れてきたことは、(遺跡)地図上で、初期の稲作いそんで暮した人びとの住居・村跡、水田の条里制遺構、古墳、国府の所在地、東山道の道すじ、有力荘園の所在地、古代豪族の拠点の地、あるいは中・近世の村の位置・・・などの分布状況、その性向を確かめることに拠って自ずと明らかになる。遺構・遺跡は人が何かを考え、何かを為した、その名残りだからである。下図は、関東平野の古墳の分布地図である。

このあたりの状況について、先に引用した専門研究者 小出 博 氏の著書「利根川と淀川」(中公新書)に明快な解説があるので、当該箇所を以下に抜粋する。
・・・・・・(鎌倉時代、埼玉平野の)古利根川筋、中川筋の湖沼・沼沢地帯に大規模な開発工事を行うことは、たとえ鎌倉幕府の強い 権力を背景とし、関東武士団が・・・・・多くの農民層の労役を駆使したとしても、技術的に不可能であったと思われる。
技術的にという意味は、当時この低地を乱流する利根川、渡良瀬川、荒川を治めることがむずかしいため、開発ができなかったということではない。この考えはいかにももっともらしく、良識的である。
しかしわが国水田の開発経過をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発ができない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果すというのが普通であった。
この意味で、利水は常に治水に先行する。従ってこの場合、問題は利水(水田化)のむずかしさにあったといわなくてはならない。
湖沼・沼沢の開発は、技術的に非常にむずかしい多くの問題をもっている。まず湖沼・沼沢の排水をどうするか、排水に必然的に伴う用水の確保は可能か、ということは開発に当って直面する重要な課題である。その解決は、当時まだ経験的に知られていなかっただろうし、ことに水田農業ですすんだ技術をもつ西南日本で(も、そういう場面はほとんどないから)ほとんど経験のないことである。従って広大な湖沼・沼沢に(対してその水田化へ向けて)不快関心をもったとしても、ただちに大開発をすすめることはできなかったにちがいない。湖沼・沼沢を取り囲む自然堤防に居を構え、地先を部分的に排水して低湿田とし、可能な場合にかき上げの囲堤を設け、不安定な水田を開くことがせいいっぱいで、先ず農民の発想でこれが行われたのではなかろうか。・・・・・・


〇風景の見えかた
都会の雑踏を逃れ、いわゆる《田舎》に出向いたとき、目の前に拡がる山々や川や湖沼や森、林そして田園・・・の風景。
そのような風景を、最近の私たちは、単に、《映像としての風景》=《景観》としてしか見ないようになっているのではなかろうか。目の前にする風景の「背景」と「奥行きの深さ」について想いをめぐらす、そういう見かたをしなくなってしまった・・・。
人と大地の係わりだとか風土と人間の関係などについては、確かにあちらこちらで語られてはいるけれども、その多くは観念的でリアリティを欠いているように思う。
「水田」という語を見たり聞いたりした瞬間から、《稲を植えるために仕立てた土地のこと・・》などという辞書的解説が頭に浮び、「それは人間がつくりあげたのだという事実」については思い及ばない。
そこで見えているのは、まさに《映像としての風景》に過ぎず、それと人間一般とをただ突き合わせたところで、人と大地、風土と人間の係わりが分る道理もないにもかかわらず、相変らずそのような見かたが大手を振ってまかり通っている。
稲を植えるために「仕立てた」のは、その稲に拠ってその地で生きてゆかなければならなかった人びとであった、という理解・認識が失われてしまっているのだ。
私がこの「事実」を身にしみて「知った」のは、というより、理解のいとぐちが私に見えてきたのは、筑波に移り住んで、実際にそういう風景の一画に身を置くようになってからのことだった。遅すぎたなぁと何度思ったかしれない。こういう見かたがあるのだ、大事なのだ、ということを、その時まで、学んでいなかったのだ・・・。
もしも、こういう見かた:単に映像としての風景としてのみ見て終るのではなく、その背景にまで思いを至らしめて見ようとする習慣が当たり前になっていたならば、畑や山林一つをとっても、単に〇〇が栽培されている畑、〇〇の林という扱いで済ますのではなく、これはあの村の、そしてこれはこの村の人びとが営んでいる畑・山林である、あるいは、それが今のような姿になるまでにはかく「かくしかじかの過程があったに違いない・・・」、といった、それこそまさに「人と風土との関り」がはっきりと目に見えてくるだろう。
そして、そうであったならば、仮に、そこを貫いて新しい道を通さなければならないというような場面にぶつかったときでも、いいかげんなことはできない・・・、という「正当なためらい」が心に湧き上がってくるはずだ

先日、自転車で散歩に出た。かねてから土浦市の自然保護団体が保存を訴えている宍塚(ししづか)大池を見に行ってみようと思い立ったのだ。このあたりは霞ヶ浦に続く低地が拡がっているのだが、そこだけ小高い丘陵が続いていて、その丘陵の中の谷地の一つである。
舗装された道を行くのは面白くないので、集落の点在するこの丘陵を縫って自転車を走らせた。微妙に襞(ひだ)が入り組んでいるから道は激しく登ったり下ったりする。それとともに、林があり、田んぼがあり、また林があり、畑が拡がる・・・といった風景が次ぎ次ぎに展開する。そのような山林の中で、草で覆われて辛うじて道らしいとしか思えない畦道風の道が交叉しているところに出た。どちらに行こうか思案していたところ、なんとその草陰に道しるべ、しかも石の道しるべが立っている。宍塚へ〇丁、古来(ふるく)へ〇丁、吉瀬(きせ)へ〇丁、上室(うえのむろ)へ〇丁とあった。いずれも集落名である。明治の町村合併以前は、村名であった。
今私の目の前に続いている道は、ほんの少し前まで、これらの集落を結んでいた主要な道だったのだ。村を訪れる人たちは、皆この道を歩いた。その人たちのための道しるべ
あらためて、この丘陵地がこの地域においてもつ意味、集落の立地要件、道とは何か、・・・こういったことが実感をもって見えてきた。
現代の主要道は、自動車の都合のためだろうか平坦な低地の真ん中を通る。そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。
道しるべに従って藪をこいで走ると、右手に静まり返った水面が見えてきた。まわりは繁った森に囲まれ、木々の枝が水面に被さっている。季節には渡り鳥が群れていると聞いていたがもっともだ。
これはそのまま「公園」になる、と思った。しかし、そう思った次の瞬間、ある種の違和感とでもいうべき思いが私のなかに湧いてきた。「公園」?「公園って何だ?」私に「そのまま公園になる」と思わせたのは、いったい何か?
子の近在に暮してきた人たちは、「ここは公園になる」などと思うだろうか?そうは思わないだろう。しょうもない沼地、むしろそんな風に見るのでは、見てきたのではなかろうか。私の見かたは、こういう景観:映像としての風景は公園のものだ、という見かたが、当たり前のものとして私の中に在ったからではないか。それは、私の勝手な思い込みに過ぎない・・・。これは間違いだ。
一つの映像としての風景が、見る人の見かたに拠って異なる。それが当たり前だ。この池を、しょうもない沼地と見るであろう今の農民の見かたも、それは今の見かたであって、古代の農民なら、もってこいの田だ(田になる所だ)、と見たかもしれないのである。
ものごとを「一つの見かた」で一律に処理することがどんなに危険なことか!都会人、都会に育ち、慣れてしまった私たちは、これまでどんなに多くの「見間違い」を押し付けてきたことか・・・。
この池を目の前にして私の頭の中に去来したこと、思い至ったこと、それは私にとって久しぶりの衝撃的なできごとだった。
帰りはバス道路を行こうと思い、往路と逆に谷地沿いに走りだした。谷地に沿って、今では滅多に見られなくなった昔ながらの不整形の田んぼが続いていた。傍に苗代があり、田植えの準備が始まっていた。ふと見ると苗代の端に向かい合わせに二本の太めの竹が突き刺してあり、その先に黒いものがぶら下がっている。何だろうか?近くに寄ってみた。カラスの死骸であった。鳥避けなのだった。多分、近代以前から代々引き継がれてきた方策なのだ。
近代は突如として近代という形を成して私たちの目の前に現れたのではなく、常に前代の人びとの営みを引きずっている、ゆえに近代以前が今・現在と共存することが在ってもおかしくない、そのことをこのカラスは教えてくれたのである。


〇「知ること」「分ること」「ためらうこと」
先に、「・・・・そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。・・・」と書いた。それで当たり前なのだ。今の日常の生活は今の現実との対応で明け暮れるのだから、それで当たり前なのであり、それは都会からの移住者にとっても、代々この地に住んできた人にとっても、《現象としては同じ》だろう。昔はどうだったか、などとも思いはしまい。しかし、同じだというのはあくまでも《現象として》なのだ。新規の移住者は単純に知らないからそう思うのであり、代々この地に住んできた人たちは、知ってはいたけれども現実の暮しのなかで、単に忘れてしまっていたに過ぎない。だから、必要に迫られたときには、かつての方策を、近代農法の世の中でも、思い出すこと:もちだすこと:ができるのである。
これを非合理だとか残酷な仕打ちだ、などと思うのは、多分、近・現代は突如として近・現代というかたちを成して目の前に現れた、とでも思い込んでいる人たちだ。
   今でも、近在の種子を蒔いたばかりの畑で、こういう風景を、普通に見かける。本当に効き目があるようだ。
それぞ入れの地域・土地で、人びとは、その時の「今」を、」その時の「昔」を意識下にしまいながら生き、そしてその「今」を、その時の生活を基におき、《変えてきた》のである。それが「生活・暮し」というものなのだ。「その時の今」に生きている:暮している人びとにとっては、「その時の昔」は《空気のようなもの》でしかないだろう。だからそれらは、日常眼中にないし、よほどのことでもない限り頭に浮んでこないだろう。それが「当り前」ということの意味だ。
そしてまた、おそらく、近代以前にあっては、その土地に新しく移り住んだ人びとが先ずやったことは、その土地の「空気のようなもの」を知ろうとすることではなかったか。
なぜなら、人びとは、日ごろの生活・暮しから、そうすることが、それこそが、今その土地で生きる・暮すことだということを知っていたはずだからである。
そして多分、その地で何ごとかを為すにあたっては、必ず、「これでいいのだろうか」という「思い」「ためらい」を抱いただろう。それは、単なる《新入り》の遠慮のそれではなく、「正当なためらい」であった。

今私たちは、ともすると、その僅かな期間現代に暮した経験だけを基に(しかも多くの場合、都会で経験することが唯一絶対だと思い込み)「一つの映像としての風景」に「一つの見えかた」だけをあてがい、一律に処理して済ませてしまっている。
そして更には、今現在の私たちのとる「見かた」、そしてその「見かた」を形成した私たち自らの「経験」に、私たちの「意識下にある昔」「空気のような存在の昔」が大きな比重を占めているという「事実」に気付かず、何ごとも自分が編み出したかのような錯覚に陥っているのではなかろうか。
とりわけ、近代合理主義的な思考法に徹すれば、率先して「空気のようなもの」は切り捨てようとするだろう。というより、端(はな)からそんなものの存在は認めないだろう。
日ごろ吸っている「空気」の存在を知らず認めず、《現代は現代という形を成して突然現れた》と思い込んでいる《幸せな》人たち。今や、《建築や地域の計画の専門家》と称する人たちの多くは、この《幸せな》人たちになってしまっている。そして、彼らの為していることの多くは、私たちにとっては「環境破壊」以上に怖ろしいことなのではなかろうか。
逆に言えば、この「空気のようなもの」を、「専門家」こそ、専門家である以上、積極的に、意識的に見よう、捉えよう、とすべきなのではないだろうか。
何ごとかを為すにあたって、私たちは、一瞬でも「ためらうこと」が必要なのではあるまいか

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復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」 とはどういうことか

2016-11-14 09:35:10 | 復刻・筑波通信

                                                                                     夕暮れの筑波

原文が春に書いたものであるため、今回の書きだしが季節外れの風景の描写から始まります。
また饒舌部分をかなり整理しましたがそれでも長文になっています。ご承知おきください。


復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」とはどういうことか                 「筑波通信」1982年3月28日刊 の復刻

降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりも霞んでいる。
もう少し陽射しが強まれば、陽炎の季節だ。葉の落ち切った木々も、いつの間にか、冷たい灰色から温かみを増した灰色に変ってきている。
目を遠くに霞む高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪であったらしく新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。こういう頃、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。
ここ二年ほど、ある仕事のために、関東平野を東西に、数えきれないほど往復してきた。それぞれの季節の平野の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見られるようになってきたように思う。まったく同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。
今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描き出してくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。今私は、後方:東の方に広く霞んだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端:いわゆる関東山地の麓の町や村のなかを車で走っている。
昔名がらのつくりの店や現代風なそれが並ぶ街並みをはずれ、道は、多分地形に応じているのだろう、微妙に曲がりくねり、あるいは小さな起伏を繰り返し、気が付いてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。
そういうとき、突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、「いいなあ」という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。
このあたりの家々には、切妻の瓦葺き総二階のつくりが多い。釉をかけた瓦ではないから、にぶい色をしている。切妻の単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が眩い。
家々のまわりに、遠く近く、家並みの背景を成している温かみを帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、多分、今が盛りの梅の花だ。
こういう見事な家並みの光景は、別の季節でも、もう何度となく見てきているけれども、木々が葉をつけている時季には、家並みも木々に埋もれてしまい、こうはくっきりとは見えないのである。
もちろん、四季折々の光景も、それぞれがそれなりの風情があるのだが、たとえば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもそれなりだが、ちょうど今ごろの、冬の静けさから覚めこれから先の賑わいを予感させるような風光が、私は好きだ。
多分、こういう家並みを初めて見る人には、家々がどれも同じ家であるかのように見えるのではあるまいか。
先にも触れたように、このあたりの家々は、大体東西に長い長方形の平面で、棟も東西に走る。軒の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手:南面には、出桁(だしげた)造りに拠る出窓様の突き出しが全面にわたって延々と付いている。どの家も同じと言っても過言ではない。したがって屋根面もかなり大きい長方形になる。
こういった家々が、南向きの緩い斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえて並んでいるので、山肌は同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったように覆われてしまうことになる。だから、一見すると、同じ形の家が、同じ向きにひしめきながら並んでいるように見える。時折混じる寄棟や入母屋屋根の家は、異様なものに見えてしまう。
しかし、このどれも同じように見える家々も、じっくりながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気付く。同じようでいながら一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて次々に目の前に現われる家々は、一軒一軒違っていて、十軒十様の顔をしている。
この山あいの村に入り込む前に、街の街並みを少し外れたあたりで、向いの山の斜面に、最近開発されたらしい住宅地を見かけた。建設中のも含め、住宅がひしめいていた。それでも、都会近辺のそれとはちがい、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混み方は、この辺の村村のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の家並みと大きく違う点なのだが、この信仰住宅地の家並みは、見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様の姿をしている。
ここで、二つの風景に対して、同じ「十軒十様」という言葉を用いたが、明らかにその意味する内容は同じではない。この二つの風景は質が違うからである。
この違いは何なのか。なぜ違うのか。社会が変り、生活が変り、人は変り、・・・、技術も変った・・・、それ故なのだろうか?第一、昔と今は違ってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何か、なぜ違うのか、などと問うことは、無意味なことではないか?
私はそうは思わない。
この「違い」、「この違いを生じさせているもの」、そこにこそ重要な問題があるはずなのだ。ゆえに、「この違い」は、一考に値する。
結論から先に言えば、この違いはその「成り立ち」の違いであり、唐突に聞こえるかもしれないが、それは「人それぞれ」ということに対しての、「個人」ということに対しての、今と昔の理解の仕方の違いに拠るのだ、そのように私は思っている。
ここまで、度重ねて「人それぞれ」ということを、改めて問い直してみるべきだ、と書いてきた。何を今さら、と奇異に感じる方もおられるかもしれない。個人は個人、人はそれぞれ、それは当たり前であって、今さらこと改めて言うことなどあるまい・・・。
しかし、これはそんなに簡単・単純な、考え直す必要は何もない分かりきったことなのだろうか?

今、ごく一般的な設計の場面では、この「人それぞれ」は、如何に理解・解釈されているのだろうか?
一般に採られているのは、いわゆる個人の住宅は個人個人に応じて建てられる、しかし都市社会での大量供給の住宅づくりの場面では、個人対応が成り立たずいわゆる「不特定多数」を相手にすることになるから、個人個々人に応じて用意することは現実問題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決っていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決めてそれをその多数に対応させざるを得なくなる・・・、こういう理解・解釈・考えかたであると言ってよかろう。
この理解・解釈の根底にあるのは、人はそれぞれ「まったく違う」のだから、本来、人それぞれに応じて一軒一軒まったく違うのが当り前だ、とする考えかただろう。
それゆえ、使用者を特定できない大量供給の住宅や、その利用者を特定の個人に限定できないいわゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用の様態を、如何に一つに括りこむかが課題、と考えられるようになる。
実際ここ数十年、この不特定多数の人びと:使用者・利用者の needs をどう捉えるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するかが、いわゆる公共住宅、公共建築の設計・計画の場面で(同様に、大量生産されるいわゆる工業製品の設計・計画の場面で)設計者・デザイナーそして研究者たちの頭を占領していた「問題」であった。そしてこの間、こういう考えかたに対して誰も疑問を抱かなかった、と言っても過言ではないだろう。
使用者・利用者あるいは注文者としての一般の人びとも、こういう考えかたにいささかも疑いを持たず、個人で受託を建てることができる場合、精一杯その個性:それぞれの違いという意味での個性:を具現化する、そう思ってきた、と見なしても、これも過言ではなかろう。それは、メディアではなやかに宣伝される〇〇ハウス、〇〇の家・・などのセールスポイントに、如実に表れている。
その根底にあるのは、《如何に他との違いを形あらしめるか》、という考えに他ならない。それは、「人それぞれ」とは、人それぞれが己の見えがかりに現われる違いを競い合うことである、とでも言うかのようだ。実際昨今の大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、買い手・使い手である個々人に、如何に人とは違うという感覚を抱かせるか、という点にあるのだという。それは、「隣りの〇〇が小さく見えます・・・」「これには〇〇が付いています・・・」などというキャッチコピーに、みごとに反映している。
これが昨今のものづくりの場面で考えられている「人それぞれ」観である、と見なしてよいのではなかろうか。
そして、このような考えかた、すなわち、人はそれぞれまったく違うのだから、それに対応する諸事もそれぞれまったく違って当然なのだが、対応相手を特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つに絞りこむしかない・・・、この考えかたこそ、結果として現代の街並み・家並みをつくりだしたのである。一方でまったく画一的な同形の建物が建ち並ぶかと思えば、その一方では逆に見るからに十軒十様の建物が建ち並ぶ・・・、こういうまったく対極の風景が、この全く同じ考えかたの下で生み出される。
そして、この二つに分極した風景の挟間に、所在なさげに昔ながらの村々の風景が残っている・・・、これこそ、今私たちが目の当たりにする街並み・家並みの実態に他ならない。
では、この昔ながらの村々の風景は、いかにして成り立ったのヵ。それを成り立たしめた時代、人それぞれはそれぞれであるという考えかたがなかった、つまり人が皆各位乙的であったからなのか?ひとびとがその個性の表出を規制されていたからか?しかし、いずれであるにしろ、今の当たり前の考えかたでは解釈できないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、言ン位そうしつつある。価値を認めるとすれば、《文化財》として、あるいは《観光資源》としてのみなのではないか。現に、今、「文化財=観光資源」と見なすのが《普通の感覚》になっている。

「十人十色」という成句がある。辞書には、「人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと」とある。要は、「人はそれぞれだ」ということである。それは、単純な意味で《さまざまだ》ということなのだろうか。
そこで、私たちが「十人十色」という言いかたを、いかなる場面で用いるかを考えてみると、それは決して、単に《さまざまだ》とか《いろいろある》という場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われる、ということに気付く。さまざまな国のさまざまな人が集っているからといって、あるいはスキー場で色とりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを「十人十色」とはまず言わないと思う。「十人十色」という成句が私たちの口を突いて出るのは、ことあらためて「人それぞれ」ということを私たちが意識させられたときなのだ。
すなわち、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、なにごともなく平然・平穏に過ごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこの成句が使われるようなのである。
たとえば、ある目標へ向うための具体的な行動方針を決めようとする会合で、目標自体はなにごともなく了解されても、具体的なやりかたについていろいろと案が出され、それぞれ一理あって決め手を欠き、一つに決めあぐね、見通しもたたないままにお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えを持ったもの同士、あらためて考えかたの多様さに気付き、先を思い、半ば嘆くようにぼやく、そんなときに「十人十色だからなぁ」などという具合にこの言葉はとびだすのだ。辞書にある「思う所」の違いである。あるいはまた、「好む所」の違いにあたるのでもあろう。
また、ある場面で、そういう場面でめったに見かけることのない格好の服を着た人が現れ、それが意外とその人にも場面にも合って《さまになっている》、そんなときにも、半ば感嘆の意も込めて、この言葉を口にする。
つまり、「十人十色」という成句には、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスも込められている、とも言えよう。

ここで注目しなければならないのは、この「十人十色」という成句が意味する「人それぞれ」の「それぞれ」は、決してその人それぞれが互いにまったく無関係なのではなく、むしろ、互いに関係しあう「お互い」の一員である、ということである。
すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことを普段は意識しておらず)、その上で、それぞれの振舞いかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、ということをこの「十人十色」という成句は言っている、のである。

このように見てくると、私たちはそれほど深く考えもせずに「人それぞれ」と思い、言っているけれども、「人それぞれ」という言葉の意味には、「それぞれ」の解釈の仕方により、二様の捉え方があり得るということが分かってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集っているが故の「それぞれ:多様」という意味と、異種のものが集った上での「それぞれ:多様」という意味、この二様である。簡単に言えば、「根っから違う」のか、」それとも「根は同じ」であるか、この二様である。そして、「十人十色」の意味するものは、これまで見てきたとおり、明らかに後者の意:「根は同じ」であるが互いに違う、という意:に他ならない
しかしながら、いわゆる現代的な考えかたでは、「人それぞれ」あるいは「個人」ということについて、明らかに、前者の意味、すなわち《多種であるが故の多様である》という意味:根っから違う:という意で捉えられているのである。
従って、人の集団とは、根っから違う個人の群れであり、故に互いに無関係であり、互いに共通の場面などそもそも存在せず、それぞれが独自の場面を持っている、そういう理解になる。けれども、私たちは、こういう現代的な考えかたの特性について、その中に埋もれこんでしまっているため、少しも気付いていない。  

対話・コミュニケーションが不足している、回復しなければならない・・・などとよく言われる。
しかし、互いに無関係な間柄の人と人の間のコミュニケーションは可能だろうか?コミュニケーションを回復しなければならない・・・、と言われるのは、それがないがしろにされているからであって、そうであるならば、ただ単に、その重要さを説くだけで済むわけがない。
何故ないがしろにされているのか、されるようになったのか、をこそ問わなければならない。
そう問うことで直ちに分ることは、私たちが互いに無関係な人の集まりであるという「前提」を固持している限り、コミュニケーション・対話は、そもそも存在し得ない、という単純な「事実」である。
すなわち、コミュニケーション・対話は、人と人がある局面を共有している、あるいは共有できる、という前提があってはじめて成り立つのである。
つまり、現代的な「人それぞれ観:人は互いに根っから違うとの理解・解釈」の下では、対話は存在しなくて当たりまえなのであり、対話・コミュニケーションが不足を嘆くこと自体矛盾しているのである。
そうでありながら私たちは、その不足を嘆き、回復を望み、その必要を説く・・・。
ならば、私たちは、その前提を問い直さなければなるまい。

では、「人それぞれ」という言葉は、いったい、どのような意味として理解・解釈したらよいか?
和辻哲郎が、その著書「風土」の冒頭で日本人のよく交わす時候の挨拶について、次のように書いている。
   ・・・寒さを体験するのは我々であって単にのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い表す
   言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ず
   るという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。・・・

「人それぞれ」とは、言い換えれば、「個々の私」ということである。「私」と他との関係について述べたこの一文ほど、「人それぞれ」ということについて、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないのではあるまいか。
先に、「十人十色」という成句の使いかたの検討の際に見えてきたその意味、すなわち、互いにある共通の基盤を認めあった上でのそれに対する個々の振舞いかた:身の処し方、つまり「思う所」「好む所」がそれぞれに違うということ、それが「人それぞれ」ということなのだが、しかし今、私たちは、このことをすっかり忘れてしまっているのではないだろうか。
言うまでもなく、私たちが何の共通基盤も持たない、あるいは持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間には、ことば:言語は存在しなかっただろう。
以前にも書いたが、私たちが『冬』という言葉を持ち得ているのは、私たちそれぞれが、それぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ異なるイメージを抱きながらも、『冬』という「概念」を共有し得ているからである。だからこそ、互いに冬について語ることができるのである
このことは、「方言」の存在、あるいは「地名」の付けかたを考えるとよく理解できるように思う。いずれも、ある地域・土地に暮す人びとの間に「共通基盤」がなければ存在し得ないからである。

このように考え直してみると、昔ながらの村々の風景の成り立ちが、よく理解できるのではなかろうか。
その土地に暮す人びとは、「その土地に対する共通の認識」を持っている。平たく言えば、「同じもの」を見ているし感じているのである。その上で彼らは暮している。その土地との関わりかた、彼らにとっての「その土地の意味」、そこで生活を営むことの意味、・・・それは共通なのだ。
互いに違う・異なるのは、彼らが共通に認識していることの、個々人のいわば《運用のしかの違いた》、あるいはその《取り込みかたの違い》、つまり、その共通基盤に対する思う所、好む所の違いに過ぎないのである。家の間取りも、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そしてその敷地の選定についても、長い間のその地での体験の蓄積のなかで、その地で暮してゆく上での適切なやりかた:方針(それは「思想」と言ってもよく、それは必ずしも目に見えるかたちを成しているわけではないから、一見の訪問者には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人がそれぞれの家でのその「方針」の具現化の場面に於いてなのだ。ゆえに、「同じようなもの」はあっても「同一のもの」はなく、また逆に、「同じような点が何一つない」などというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、「方針」を崩す:「思想」を異にする:わけではなく、あくまでも同じ「方針:思想」の下、個々それぞれの場合に応じて、いわば臨機応変にその具現化にあたっている、と言ってよいだろう。
これに対して現在は、ある土地に家を建てる人たちは、その土地への共通の認識を持たず、持とうともしない
それぞれが、《それぞれの敷地:それぞれの地面としての土地》に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る認識を持つだけなのだ。

今回の冒頭「・・・突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。・・・」という「感想」を書いた。
この「感想のなかみ」を考えてみる。私はいったい、そこに何を見たのか?
私はそこに、単に《美しい絵》を見たのではない。私はそこに、そこに暮す人びとの「共通基盤」を見たのである。より正確に言えば、私がその土地に住むとしたら、「その基盤とするであろうもの」をそこに見たのである。私がその地を見て得たものが、既にそこに暮している人びとが得ているものと変らないこと、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり、その地で私が為すであろうことと、彼らが現に為していること、その両者が一致する、すなわち「分った」(という気になれた)のである。ゆえに、素直にその世界に馴染んでゆくことができ、それが先の「感想」となったのである。
しかし、「現代の住宅地」の風景には、残念ながら私は、私と共通の基盤をまったく見ることだできない。それは、私に《見る力》が欠けているからだろうか?そうではない、と私は思う。
それは、それらが、もともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、「互いに分る」ということを無視・黙殺するところから始まっているからだ。「人それぞれ」ということを、互いに根っから違うこと」と考え・見做すことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界に馴染めない。
大抵の場合、こういう風景は雑然として滅茶苦茶な印象を与える。
そして、そのような場面に接すると、「環境との調和」ということが説かれるのが常だ。
しかし、私には、この「環境との調和」という《ことば・思想》を素直に受け入れることはできない。
何故なら、調和しているとか調和していないとかいうことは、単純な「見えがかり」:「表に現われた形」の話であるはずがなく、従って当然、よく言われる「修景」などという表面的な処理でことが済むようなことであるはずもないからだ。
そもそも、そのような結果を招いている因は、見えがかりにではなく、その成り立ちの根底に潜んでいるのである。

おそらく、設計という作業に於いて基本的に為さねばならないのは、ある場面・局面に於ける(人びとあるいは私たちの)「共通の基盤」を探すことと言ってよいだろう。それはすなわち、先ず、いかなる局面に置かれているいるかを見ることであり、そこに於ける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面に置かれている十人として見ることから始まるだろう(昔はそれがあたりまえであったから、意識せずにそうしていたが、今は意識してやらなければならない)。
従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことがこの作業の主たるなかみとなる。
考えてみれば、この「共通の認識」となるものこそ、私たちがつくるもののいわゆる「機能」というものなのではなかろうか。そこから先の個々の違いは、まったく臨機応変的にいわば応用問題を解くことにより生じることでしかない。そしてそこにおいて、好む所・思う所の違いが出てくるのである。
しかし、この「共通の認識」「共通基盤」は、私たちの外から一方的に与えられるものではない。また、そうあってはならない。
それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、たとえば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのである
つまり、私たちの「共通基盤」は、私たちが自らの感性に自信をもって依拠することによって生まれるものでなければならないのだ。
そして、そうであるために、私たちは、常に、自らの感性を研ぎ澄ましていなければならない。、
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   最後まで読んでいただき有難うございました。
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復刻・「筑波通信」―9   「万が一の事態」と「判断」

2016-10-08 15:36:19 | 復刻・筑波通信


言い回しの改定など編集に時間がかかり、間が空いてしまいましたが、「筑波通信」復刻版の続編を載せます。

復刻・「筑波通信」―9   「万が一の事態」と「判断」             「筑波通信」1982年7月1日刊の復刻

五月の末、梅雨入り前だというのに真夏になってしまったような暑い日が続いた(1982年のことである)。そんなある日、中央東線で特急が脱線したというニュースが夕刊に載っていた。その日の昼過ぎ、甲府盆地のある駅のあたりで、暑さで伸びて歪んだレールに乗り上げ脱線したらしい。盆地はとりわけ暑くなる。真夏なら気を付けていたと思うが、まだ五月。今年の天候は少し異常なのかもしれない。それほどの事故ではなかったようだし、まして私の日常に関わるものでもなかったから、普通だったら、季節外れの暑い日を印象づけただけで、そのまま忘れ去られてゆくだけだったろう。
ところが、中一日おいた朝刊でもこの事故が話題になっていた。復旧に意外と手間取り、開通したのが丸一日以上経った昨日の夕方だったとのこと。意外と時間がかかったのは、その列車の車両の連結が、連結器ではなく、鉄の棒でいわば固定されていたためだという。その切り放しに時間を要したらしい。それを読んで、一度忘れかけていたこの事故のことが、私の中で、再び、ある「重さ」を持ちはじめた。

子どもの頃、乗り物好きだった人なら大抵知っているのではないかと思うが、車両の連結の仕方には、「ねじ式(下図左上)」(今でも西欧をはじめ諸外国で主流のやり方で、いわばフックの付いた鎖を引掛ける方法で、これと対を成してバネの入った丸型のバンパーが二個付く。日本では博物館にでも行かなければ見られない(なぜ「ねじ式」と呼ぶのかは知らない)。
日本で、現在でも貨物列車や旧型の旅客列車に主に使われているのが、通称「自動連結器(下図左下)」。日本では、1925年㋆1日を期して「国鉄」の全車両を自動連結器に切り替えたという。これはまさに画期的なことであったらしく、諸外国では今でも「ねじ式」が大半だという。現在は、国鉄・私鉄の大部分は「密着連結器」と呼ばれるタイプになっている(下図右)。
         
 「自動連結器」には20~30㎜の「あそび」があるので、発車や停車時にがたつくことになる。停車している貨物列車が動き出すとき、機関車の発車の汽笛が聞こえても目の前の貨車は直ぐには動き出さず、前の方からガチャンガチャンという重い鉄の塊がぶつかりあう音が移動してきて近付いたと思った瞬間、ガクンと動き出す。旅客列車でも同じで、駅に停まるごとに同じことが繰り返し、おちおち居眠りもできない。このがたつきを感じさせないように動かすのが運転士の腕の見せどころであったようだ(私がよく乗る常磐線は、1980年代初めまだ電車化していなかった・・・)。このような「あそび」をなくすために考案されたのが「密着」式なのである。

ところが、この脱線した特急列車の場合には、車両間に連結器がないのだ。一列車は十数両の車両から成っているのではあるが、それらは、連結器ではなく鉄の棒で、「連結」ではなく「緊結」されていたのである。各車両は切り離すことは最初から考えていない、つまり、車両を任意に寄せ集め編成することを考えていないのである。竹の筒を十個ほど並べ、相互を針金の軸でつなぎ合わせた玩具がある。末端を持つとちょっとした持ち方の違いで微妙に形を変えるが、この列車は、この玩具のようなつくりになっているのである。
脱線した列車の航空写真は、まさにこの玩具同然であった。連結されていたのならば、連結器のところで外れてしまうと思われるが、「緊結」されていたゆえに、この玩具のような様態になってしまったのではないだろうか。
復旧にあたって「意外と手間取った」のは、まったくの推測であるが、元へ戻すために車両を切り離さねばならず、ただうっかり切り放すと、互いに鉄の棒で緊結されているため横転を辛うじて免れていたのが、支えを失って共倒れになる怖れがあり、それへの配慮に手間取ったのだと思われる。逆に言えば、緊結してあったために、全車両の半分以上が共倒れ的に引きずられ脱線してしまったと解釈することもできる。これが連結されている列車だったならば、連結器部分で切れ、別の様態になっていたのではないだろうか。当然復旧も早くなる。「意外と手間取った」という表現が為されているのは、通常の連結した列車の脱線事故の例をもとに復旧予測がたてられた、つまり、「緊結」した列車であることを失念していたからではなかろうか。

では、この列車はなぜ連結ではなく緊結されていたのだろうか。今まで大抵連結で編成していた列車を「緊結」にする、その「発想の転換」はいったい何だったのだろうか?
これには、おそらく次のような経緯があったものと思われる。先ず、従来のいくつかのハコを機関車が引っ張る、すなわち動力を一か所に集中させるやりかたから、動力を分散させる「電車化」が一般化してきた。従来は必要に応じて編成していたのを、固定化するようになった。旅客列車もほとんど電車化した。最近の特急のように二地点間を何本も往復するようになると、一編成自体が一定である方が互換性もあり都合がよい。同じ編成の列車を数組用意して置けばよいわけだ。多分、乗車券予約のシステムもプログラムが楽だろう。そうなってくると、更に進んで、一編成を一単位と見なす発想が出てくるのが自然である。車両の切り離し無用の発想である。「連結」ではなく「緊結」への転換である。当然「がた」も少なくなる。この発想の転換は、一見、いいことだらけである。
しかし、この一単位・一編成を構成しているハコ:車両のどこかで支障が生じたらどうなるか。これがそれまでの列車と大きく異なる点なのである。従来ならば、故障した部分:車両だけ切り離して運転することができたが、この方式では、故障部分だけではなく、一編成全部がダメになるのである。故障部分だけ切り離そうにも、緊結してあるから容易ではない。これが例の脱線した特急列車の様態であり、故に復旧に「意外と」時間がかかったのである。

このような事態になるのは、今では緊結した列車だけではなく普通の連結した列車でも同じようである。普通の列車に問題が生じたときも、昔のように不具合の車両だけ切り離して運転することはせず、乗客を全部おろしてきれいさっぱり運休させてしまうようだ。特に特急のように座席指定のある場合にそうなることが多い。その一本だけではなくその折り返しも運休し、一本の事故が数本にひびいてくる。運休にしないで故障部分を抜いて異常編成で運転すると、予約客に大きく影響する。その処理のことを考えるなら、一本丸ごと取り消してしまう方が「事務的に」楽になる。特にコンピュータ処理の上では・・・。また、その方が運行ダイヤの「正常化」にとっても、当然ながら楽である。一旦白紙に戻し、始発時の様態で始めれば済むからである。
私がよく使う常磐線は、(1980年代当時)よく停まってしまう。予定した列車の20分ほど前にホームに着いてみると、水戸のあたりの事故で不通。何本も動かなかったため、当の列車は既に超満員。後続の予定が立たないから、これに乗ってくれとの放送が繰り返される。後続列車すべてが故障で動けないわけではないのだから、どうして「適宜に」発車させないのか訝っていたところ、やがて、この列車は〇時〇分発の〇行きの列車として発車するとの放送。まだ 10分以上もある。本来のダイヤの数本後の列車に「読み替える」ということらしい。そこで合点がいった。運行ダイヤというのは、運行している常磐線なら常磐線の列車全部で一つのシステムを成しているわけで、その一部で起きた障害がシステム全体をダメにしてしまったのである。それを「正常に」戻す手っ取り早い方法が、このような「読み替え」を行う方法であり、その方策のために、なかなか発車させずに「時間待ち」をしていたのだ。(乗客に「負担」が生じても)「効率的」で「合理的」な方法だ、ということなのだろう。
たしかに、乱れてしまったダイヤは「正常に」復さなければならない。これは、いわば至上命令である。けれども、目の前にホームにあふれている乗客を目の当たりにしながら、それをさばくことには手を付けず、専らダイヤの修復に腐心する。ダイヤが正常なら異常は起きない、だから正常に戻すことが先決である。これはたしかに合理的に見える。しかし、そもそも運行ダイヤは客を運ぶために意味があるのであって、ダイヤのシステム自体・その「維持」に意味があるわけではない。目の前に客が満ち溢れている。ならば、交通機関の本義に戻って、満員の客をさばきつつダイヤの正常化に努めようとする、そういう発想があってもよいのではないか。多分、そういうやりかたでは、ダイヤの正常化完了をもって事後処理の完了と見なす視点からすれば手間も時間もかかり効率的・「合理的」なやりかたとは言えないかもしれない。しかし客の視点に立てば、そうしてもらう方がずっと合理的なのである。多分、かつてはその方策が採られていたと思う。だから、客が所在なくホームで過ごす時間は短くて済み、その代わり、鉄道関係者の苦労は並大抵ではなかったであろう。今は客が苦労する。
特急列車の脱線事故の処理の話から、事故一般の後処理にまで話が及んでしまったが、これらの話に通底している「ある種のものの考え方」に、私は「ひっかかる」のである。
つまりこれは、私には、今では当たり前になっているいわゆる「近代的・合理的な」考え方の典型的な様態、に見えるのである。

では「『近代的・合理的な』考え方」いうのは、どのような性質・性格のものか。
一言で言えば、この考え方は、「万が一」ということ、「マイナスと評価される局面・状況」は、あってはならないことゆえ、考慮の外に置き、専ら「正常」「プラスの局面・状況」のみに考慮を払う考え方である、と言ってもよい。理想状態・完成完結した状態への揺るぎない(信仰に近いほどの)信頼・願望と言ってもよいかもしれない。
別の言いかたをすれば、ある全体なりシステムが「絶対」として在り、その全体・システムを構成する部分部分は、なかば絶対的にその「絶対」に服するしかなく、構成の編成替えなどということは存在しないのである。
つまり、「一つのパターンが(望ましき完全形として)在る」というのである。そして、そのパターンが乱れることを「異常」と称するのである

これに対して、前近代的・非合理的、場当たり的に見える従来のやりかた・考えかたというのは、如何なるものであったか。
これも一口で言えば、確かにそれもある全体やシステムをつくりだしてはいるが、それが唯一つしかないのではなく(定型があるのではなく)、言わば、「万が一の状態」と「理想の状態」の両極の間で(マイナスからプラスの局面にわたって)場面場面に応じて適切と思われる全体・システムを任意に組み立てる、そのような考え方であった、と言えるだろう。
それゆえに、仮に事故が起きても、その事故の様態に応じて、まさに字の如く「臨機応変の」対応、すなわち当面の状況に於ける全体の建て直しを、考えることができる。しかも、ただ「元の完成形であったパターン」へ戻すことにのみ執心することなく、当面の「交通機関としての本来の課題(客をさばく)」に意を注ぐことができる。つまり、客をさばきつつ、徐々に「元」へ復してゆくわけである。したがって、その過程では、何度かシステムの組み直しが必要となるから手間がかかる。その点では、近代的なやりかたははたしかに効率がよい。ただ、一方で、システムの「正常な状態への復元」だけが「目的化」してしまう
つまり、本末が転倒して「状態の復元」の本来の意味:何のために復元するのか:が見失われてしまう。それはすなわち、事態への対処のしかたは、本来、場面に応じて、いくつものパターンが「任意に」用意できなければならない、という大事な視点が忘れられてしまうことに他ならない。パターンは、場面場面に対応して、場面の数だけある、無数存在するのだ、と言ってもよいだろう。
しかしそれは、場面やそれへの対応パターンが、あたかもショーウィンドウの中の品物のように並んでいて、そこから私たちが選び取っている、というわけではない。それはあくまでも、私たちの、私たち自身による「判断」に拠り創案されたパターンなのであって、それが無数存在するということである
つまり、「私たちの「判断」が無数である、ということである。場面の設定、それへの対応のしかた、いずれも「私たちの判断」なのである。今置かれている場面はかくかくしかじかであると私が「判断」し、今為すべきことを私が「判断」し、そして適切であると私が「判断した」方策をたてるのである。
言い換えれば、ものごとのとらえかたの数だけパターンがある、原理的に言えば無数あることになる。それゆえ、同じ事態・状況に対しても、それへの対応パターンは判断する人により違うだろう。しかし、違っているからといって間違い・誤りなのではなく、また違っているからと言って「方向」もまったく異なりめちゃくちゃに違っているのではなく、「方向」は同一であっての「違い」なのだ。すなわち、「多種多様」ではなく、「同種多様」である、ということ。
このような「従来のやりかた」に対して、近代的・合理的なやりかたでも、同様に「判断」を必ず伴うけれども、「判断の場所」が違う。そこでは、ある最も合理的と見なされるパターンがあらかじめ設定されていて、それに合うか合わないかが「判断のポイント」になる。その意味では、人によって違うなどということはあり得ない。正解があらかじめ唯一在り、それ以外に「解」があるなどということは、甚だしく秩序を乱すけしからぬこと。つまり、all or nothing 、〇か一か、一か八か、・・・なのである。コンピュータ用プログラムにはたしかに適しているだろう・・・。
こんなことを言うと、場面に応じたいくつかのパターンを用意しておけばいいではないか、という反論があるかもしれない。実際、複数のプログラムが用意されるようになってきているようで、そういったプログラム、パターン探しが、その面での学問分野での関心事でもあるようだ。「多様な人びと」をして、「不特定多数の人びと」として括って済ます「発想」も、そこから生まれたのではないか。「多様性」についても考えているぞ・・・、という言わば自己満足・・・。
しかし、このような、いくつかの場面とそれへの対応をあらかじめセットとして用意しておくやりかたでは、そのパターンの数は原理的には有限であり、万一用意されたパターンに合わない事態に遭遇したら最後、手の下しようもない滅茶苦茶な状態に陥るだろう。

従来のやりかたでは、パターンはあらかじめ設定はされておらず、むしろ、その都度、「万が一」と「正常」の状態、その両極の間に場面が設定されるわけで、パターンは両極の間に連続的に無数・無限に在ると言ってよく、だからこそ、いかなる場合にも臨機応変に対することができるのである。
すなわち、近代的なやりかたは、完璧のようで極めて脆く、逆に従来のやりかたは、不確かなように見えて極めて強か(したたか)なのである。
いったい、どちらのやりかた・考えかたが本当の意味で合理的と言えるのだろうか。
当然ながら、私は従来のやりかた・考え方を採る。それは、単なる私の《好み》でそうするのではない。ものごとが、あらかじめ考えておいたいくつかのパターン(としてのみ)で出現するなどとする考えかたこそ、非合理だと思うからである。まして、それへの「対応」:「判断」までもがレディメードで存在し、その中から選べばよい、というのも、極めて安易、非合理・不合理である、と思うからである。それでは、ロボットではないか。

こうやって見てくると、いわゆる近代的・合理的な考えかたというのは、いかに人びと・個々人のの判断を嫌い、あるいは信をおかず、「規範」を他に求めたがるものであるか、がよくわかる。それでいて、また、近代ほど、個人の尊厳を強くうたいあげ、個性の主張をとりたててあげつらう時代もなかったのではないだろうか。
今こうして見てきて、近代という時代の姿がまことにくっきりと見えてきたように私には思える。
すなわち、個々人を超えたところに「規範とすべきパターン」があり、個々人は、そのパターンの中のどれを選択するかの裁量権・判断権のみを有し、選択したパターンをいかに個性的に修飾するかが個人の個性であるとする、これが近代というものの姿なのではあるまいか。
では、そのパターンをあらかじめ用意して人びとに提示するのは誰なのか。その道の専門家?設計者?デザイナー?

もしそうだとするならば、その根底には、表向きの個人・個性の尊重、人間性の尊重という主張とは裏腹の、徹底した人間性無視:人間不信、その裏返しとしての選民意識が流れていると言わざるを得ないだろう。
なるほどたしかに、近代以前にも在る問題に対応したあるパターンが存在するという事例は多々ある。
しかしそれらは、そのパターンをあらかじめ設定し目指して生み出されたのではなく、個々の判断の積み重ねがそのように結果したのであって、その「拠りどころ」は個々人にあったのである。個々人の判断は、ある方向を持ちつつも、多様であったろう。しかし、その「共通の方向」ゆえに、ある時点で振り返ってみたとき、ある一つのパターンに収束しているように:つまりある「定型」のように:見えただけなのである。
ともすると、近代の人びとはそのパターンだけ:つまり「結果」だけをつかまえてとやかく云々し、背後に厳然として在った人びとの判断:「人びとの営為」を見忘れ、更には、個々の判断を越えた地点に、目指すべき、期待される像を設定し、それへの近づきかたの遠近で、ことの良し悪しを決めよう、などとさえしだしてしまう。それは、どう見ても愚行にしか私には見えない。
私は、いかにそれが多様であろうとこ、私たちの私たち自身の「ものごとの判断」を信じたい。そうでないならば、私たちの間に真のコミュニケーションは存在しないだろう。コミュニケーションとは単に「ことばを繰る」ことではない。できあいのいくつかの応答パターンのなかから、どれかを選択すればよい、などというものではあるまい。「ことば」にいったい何を託すかこそが問題なのだ。
「ことば」に託すもの、それは、私たちの私たち自らの感性に拠る私たち自らの「思考」のはずだ。その「思考」が、用意された有限のパターンのみに限定されるような状況は、私は認めるわけにはゆかない。
いわゆる「近代化」は、先進・先端の名の下に、諸作業の合理化:省力化を目指してきたと言えるだろう。しかしそれが、「思考」という作業:営為の合理化・省力化をも意味するのであるならば、そこでは真に新しいものが生み出されるはずもない。
「思考」もたしかにあるパターンをもつ。ただ、そのパターンは決して有限ではなく、臨機応変に無限であるはずだ。「思考」をも《合理化》と称していくつかのパターンに整理しようとするのが近代である、とするならば、ましてそれを《合理》というのならば、私はそれを「合理」とは認めない。そもそも、合理とは、システムにとっての整合性のことなのではなく、「私たちにとって『合理』であるかどうか」の問題のはずだからである。システムは、私たちが私たちの思考作業によって生み出すもの。しかも、システムのためにではなく、私たちのために・・・。

北海道でもまた特急が脱線したという。季節外れの異常な暑さでレールが曲がり、その復旧まで時間待ちをしたためにダイヤが狂ってしまった。一方それとは関係なく、別の保線作業:枕木交換:が行われていた。保線作業者たちは、ダイヤは正常であると頭から信じているから、列車は来ない時間帯と思い込み、枕木を外してしまった。ところがそこに、予想外の列車が来て、なるべくして脱線してしまった、ということのようであった。
今、合理化のために、保線は保線として独自に外注されているのだそうである。
運行のシステムが正常であったならば、保線は平常に行われていたのだから、別に問題がなかったのである。つまり、システムとシステムが、ある正常な状態で成り立つべく設定されていた。ゆえに、平常であったならば、システム相互の連絡は強いて必要ない。それが平常、正常ということ。しかし、それに慣れきってしまったとき、異常に対して対応できないのである。万が一の事態は容易に発生するのだ

近代というのは、こういう「薄氷を踏むような保証」の上に成り立ったシステムの群れに囲いこまれているのかもしれない。 
    

復刻・「筑波通信」―8   「今」「昔」 について・・・「分る」ということは?  

2016-09-01 11:21:45 | 復刻・筑波通信

「今」「昔」について・・・「分る」ということは?                    1982年2月1日刊 の復刻
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                                                        秦 恒平 著「梁塵秘抄」(NHKブックス311)より抜粋
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この正月休み(1982年の正月である)は本を読むことに達して過ごした。
上に掲げたのはその中の一冊のなかに見付けた文章の抜粋である。
全般に、著者の解釈はよく分り楽しかったが、先に峠道のについて書いたばかりだったから、この部分が私の目にとまったのである。
実際、古文・古典をこういう形で評釈している書物には初めて出会ったように思う。高校あたりの教科での「古文」は、考えてみれば実につまらなかった。この書のような評釈もまじえて教えられたならば、単に「旧きもの」という意味を越えて、より生き生きとしたものとして吸収され、得るところがもっと多かったに違いない(「古文」は何故教えられているのだろうか?)。
この一文を、私は、「遠さ」のはなしにひかれて引用したのだが、著者は、実は、「時代による時間感覚の違い」について述べるためにこの一節を書いているのである。
「梁塵秘抄」に集められている「うた」は、どれも「うたう」もの、つまり、ただ文字を目で追い読むものではなかった。
著者は、それがどういう調子、どういうテンポでうたわれたのか知りたかった。
残念ながらレコードも録音機もない時代。「梁塵秘抄」には楽譜が示されているようだけれども、しかしそれだけでは調子もテンポも分らない。「梁塵秘抄」の「うた」の復元の試みがなされたことがあり、著者もそれを聴いたのだが、あまりにも悠長で納得がゆかなかったという。
しかし、納得がゆかないのは、現代だからであって、彼らの時代はこれでよかったのかもしれない。それでもなお、「うた」のなかみから考えるとその「うたいかた」に今一つ疑念がわく、つまり「分らない」。上記の評釈は、この点についての著者の「感想」なのである。その節のおしまいごろで、著者は次のように著している。
  ・・・・・この時間感覚を思えば、「秘抄」の「うた」がどういうテンポで歌われたかを議論するよりも、それが当時の人には
  十分新鮮に面白く、妙味も分って楽しまれていたことを信じるので足りているのだな、と私は思うのです。・・・・・
この評釈に誘われて、今回は、「時代の違い」を「分る」、あるいは「違う時代につくられたもの」を「分る」ということについて、少しばかり考えてみたいと思う。

「秘抄」に集められている「うた」の数々を読んでいると、すんなりと分る(という気になる)もの:〈遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん・・・〉などがその一例:と、文意は分るけれどもそのリアリティにはたどり着きがたいものとがある。引用した一文の冒頭の「うた」がその例だ。そのリアリティに到達するには、その「状況」をつかむためにかなりの想像力を働かせなければならない。
そしてリアリティへの近づきかたの「程度」によって、その「うた」の分りかたの深浅の程度もまた変ってくる。
しかも、そのリアリティなるものも、これがそれだと言える確としたものがあるわけでもなく、それ自体もまた、想像力の産物以外の何ものでもない。その「うた」が言おうとしていることの概ねは直ぐに分る。遠かっただろうな、それは分る。そのとき、それが詠まれたであろう(と思われる)状況を極力想像して、そこへわが身をのめり込ませていったとき、その「遠さ」が単なる抽象的・概念的な「遠さ」ではなく、「その遠さ」として見えてくるような気になってくる
その状況に実際に居るわけではない私にできることと言えば、そこまでである
それ故、そこから先、考え方が二つに分かれてしまう。つまり、「古のもの」あるいは「古の状況」など、絶対に分らない、分り得ない、とするか、相対的には分る、分り得るとするかである。
古の状況・様相は今見られるわけがないし、もちろん、そのとき人びとが為した営為はその場限りで直ぐ見えなくなる性質のものだ。遺っているのは「結果」だけである。具体的に目に見えるものにしか信が置けないするならば、前者の立場になるだろう。そのとき、その「立場」は、「それはそれ、昔は昔、今は今」として扱い済ます立場にもう直ぐだ。
もちろん私は後者の立場をとる。人びとの為した営為は、それが目の前に形を成して存しなくても見える、と考える。つまり、相対的には分り得るとする立場をとる。人の感性を信じるからである。
今の時間感覚、距離感覚をもって先の「うた」を分ろうとしたら、到底信じられない、ばかなことをやったもんだ、などと思うのがオチだろう。しかし、彼らの時代の状況を想像し得たとき、そのような状況に放り込まれた私が思うことは、彼らが思ったであろうこととほとんど変りはないだろう。「(人の)感性を信じる」と言ったのはそういう意味だ。
今と昔とのはなしに限らず、今、私たちが互いに話ができるというのも、私たちが互いの状況を想定し、そこで思うであろうことを想像し得る、ということに裏打ちされている。互いの感性に信がおけるからこそ、言葉というものが存在できるのではなかったか。。少なくとも日常的に私たちが用いている言語:「自然言語」は、それゆえに存在する言ってよい。
しかし今、数式に代表されるような「科学言語」の方に信がおかれ、「自然言語」をも、従って人間のやることをも、科学言語的に扱いたがる気配がありはしないだろうか。自然言語つまり普通の言葉はあいまいで絶対的でないと見なされているからであろう。自然言語というのはいわゆる《科学的分析》によって保証されたものではなく私たちそれぞれの感性によって保証されているわけであるから、自然言語に信がおけないということはすなわち、私たちの感性に信がおけない、というに等しいのである。つまり、今私たちは日常的に自然言語を使っているのに、互いに互いの感性が信じられないということだ。
このれに関して、「科学」の「範」とされる「物理学」の先達が次のように語っている。

・・・・・自然言語の概念は、漠然と定義されているが、知識を発展させる際には、制限された現象の群からの理想化として造られた科学言語の明確な言葉よりもいっそう安定しているように思われる。
これは驚くには当らない。というのは、自然言語の概念はリアリティと直接結びついて形成されているからで、これらはリアリティを表している。なるほど非常にはっきりとは定義されていないが、従ってまた数世紀の間にリアリティそのものと同じように変化を受けるかもしれないが、しかしいつになってもリアリティとの直接の連絡を失うことはない。
・・・・・科学言語は、理想化の過程と明確な定義とを通すことにより、リアリティとの直接の連絡は失われる。その概念は研究の対象であった自然の部分においてはリアリティとやはり非常に密接に対応しているが、しかし他の現象を含む別の部分においては、対応が失われるおそれがある。・・・・・
                             ハイゼンベルク「現代物理学の思想」1958 より

先にも書いたが、人の為したことは、いかなる状況で為されたかはもとより、そこで人の為した「過程」も残らず消えてしまう。残るのは「結果」だけである。 考えてみるまでもなく、今私たちのまわりを取り囲んでいるものの大部分は、そういった「結果」の「群れ」なのだと言っても決して過言ではないだろう。言わば、私たちは、「過去の遺物」に取り囲まれているのである。しかし私たちは、よほどのことでない限り、それらを「遺物」と思わずに暮している。
それはすなわち、それら「過去」の「「結果」が、私たちの今の日常に何らかの関りを持っていることを、十分であるかどうかは別として、私たちが認識しているということだ。つまり、私たちは、それらの「過去の結果」、そして私たちにとっての「その意味」が、過去に為されたことであるにも拘らず、「分る」ということである。
しかし、その「分りかた」が、その「結果をあらしめた人びと」の「分りかた」と同一である、という保証は一切ない。だからと言って、「ゆえに過去のもの・ことは絶対に分らない、」分り得ない」、と思ってしまうのは誤りだろう。私たちは、その「分りかたの深浅・程度」はともあれ、その「本質」は(相対的に)分ることができる、そのように私は考えたい。

「常陸風土記」などの「風土記」には、それを編んだ人びとの生活・暮しとは何ら関りのない「得体のしれない人為的遺物」(彼らには
得体のしれない人工物に見えたのである)に対して、彼らなりの「解釈・説明」を懸命に施そうとしているのを読むことができる。
その「遺物」とは、例えば、縄文期の竪穴住居址や貝塚などである。彼らがそのあたりに住みだしたとき、それらは既にそこにあった。明らかに人為的だ。誰かが何かをやったのは確かだが、彼らとは何の関りもない「遺物」でしかない・・・。だが彼らはそれを放置しなかった。
彼らは、それらの「遺物」と自分たちの「今」との間の空白を埋めるべく、壮大な「解釈・物語」を案出する。いわゆる《巨人伝説》などがそれである。
彼らの時代の海岸より遥か離れた、それゆえ運ぶのさえ容易ではないところに、海の貝殻が山と積まれて捨てられていて、近くに足跡のような穴もある。そこで人びとは、海岸とそこを一跨ぎできるような巨人がいて貝を採ってきてはそこで食べたのだ、という壮大な物語をつくりあげたのである。人びとの間に伝わっていたこういう類の「話」を基に編まれたのが「風土記」なのである。そこには、この他にも、地名の由来、「もの」の由来などについて、読んでいて思わず楽しくなる「解説」がいろいろと書かれている。言うならば荒唐無稽な話ばかりだと言ってもよい。
しかし「壮大なものがたり」だとか「荒唐無稽な」と評するのは、今の私たちの「ものの見かた」であって、この「作業」は、彼らにとっては、目の前の「得体の知れない人為的な遺物」と「自分たち」の間の「断絶」を埋めようとするいわば懸命な合理化作業:科学的な営為であったと見なすべきであろう(私たちが当時の状況に置かれたとしたら、私たちもまた同様な「解釈」を施したのではないだろうか)。
私はいつも思う。彼らは、「「それはそれ、昔は昔、今は今」として済ませてしまう今の一部の人たちよりも、数等優れて健全な精神の持ち主だった、と。
何故なら、彼らは「過去・昔」と「今」との連関を問うている。
しかし今、「結果」と他の「結果」の間の連関を問おうとさえしなくなりつつあるし、ましてそのそれぞれの「結果」を成らしめた情況:人びとの置かれた状況そして人びとが思った情況:を想像力を駆使して思い遣るなどということも、なくなりつつある。
むしろ、《科学的であろう》とすればするほど、そのような「不確かなこと」に係わるなどということは忌み嫌われるのが目に見えている。
しかしながら、私たちを取り囲んでいるものの大部分は「過去の結果」であるというのは厳然たる事実であり、今、それらを、今の私たちが「わかるか、分らないか」、それが問題なのである。通常は、日常的には「分っている」。ただ意識されていないだけなのだ。余ほどのことでもないかぎり、過去に成されたものも「遺物」としてではなく「今のもの」と同様に対している。それは古来人びとが為してきたことと、何ら変りない。そして、人びとは、それらのものが「よほどのこと」になってくれば、つまり状況が変り「遺物」になりかかりそうになると、すすんで「つくりかえ」を試みるのである。それは「部分的改造」であるかもしれないし、「全面更改」であるかもしれない。
そして、この「行動の拠りどころ」になっていること、それは、「分る」ということであった。それはただ単に「新しいもの」あるいは「今」が分るということではなく、既に在ったもの、更改しようとしているもの:取り壊そうとしているもの、それをも「分る」ということである。
これは、「ものの意味」を、私たちが、時代を越えて相対的に分り得るということが前提にあって初めて可能である。
そしてそれは、人びとが、ものに対する人間の感性を信頼していた、ということに他ならない。
今、世の中一般に、「「分る」ということは「目に見えるものを知ること」と誤解している傾向が強いから、目には見えない「それを為した人びとの営為が無視・黙殺されてしまうのが常だ。
ある時代の「諸々の結果」は「その時代の人びとの為した結果」であるにも拘らず、しかもそれは時代を越えて相対的に分り得る性質のものであるにも拘らず、旧くて役立たずのもの、せいぜい、その時代の「記念物」としてのみ、単純に扱い済まされてしまうのだ。
確かに、その一方で、「旧いもの」、「伝統(的なもの)」を大事にしようと考える人たちもいるけれども、その多くは、言わば骨董趣味的に旧いものに興味を示しているに過ぎない、と言っては過言であろうか。それでは、役立たずとして無視する立場の裏返しに過ぎまい。
人びとの営為に目を遣らず、結果だけに拘るのは、ものごとを what だけで問うに等しい(先回触れたように、ものごとは、5w1h で問わねばならない)。残念ながら、世の中の気配には what だけで問いたがる気配が感じられる。それゆえに、「過去」と「現在」:「昔」と「今」の間に、如何ともしがたい「裂け目」が入り、大きくなっているように思われる。
「伝統」という言葉がことさらに言われるようになったということは、この「裂け目」が気になりだしたからではあろうが、ただ、それを what だけで問おうとする限りでは、風土記の時代の人びとより、数等「質が悪い」と言わざるを得ないだろう。


いま、私の属する世代の人びとは、その過ごした時代体験を無視・黙殺することなく、その「ものの見かた・捉えかた」を、より強く示すべきだと思う。もちろん、私たちだけがものごとが分っているなどという思いあがった意味ではない。そうではなく、「つくりかえる:乗り越えられる対象として、広く明示・開示するのだ。もし、私たちの世代自体が「無視・黙殺の論理」だけでことを処理し続けるならば、私たち自体もまた「無視・黙殺の対象」になってしまうはずである。
私たちの時代が、そしてそれぞれの時代が、つくりかえられ、乗り越えられるものであったとき、初めて、正当な世代交代が行われるなのだ。私たちは、次の世代の人たちから、もっと「うるさく思われ」なければならない、そのように私は思う。これは、各世代に共通に言えることであるが・・・。
そして、このように身構えたとき、私たちそれぞれは、自らの感性に裏打ちされた「もののみかた・捉えかた」に、自信と責任を持たざるを得なくなる。
また、そのように身構えない限り、私たちのものごとの「分りかた」自体、極めて独りよがりの、あたかも幼児語的段階に留まり、決して「自然言語」的レベルで、通用しないだろう。



復刻・「筑波通信」―7   「峠」について  

2016-07-25 11:57:01 | 復刻・筑波通信

草繁る


「峠」について                    1982年1月1日刊 の復刻
   復刻・編集にあたり相当整理しましたが、かなり長くなります。ご容赦ください。

昨年の春以来(1981年の春です)この三月に卒業してゆく学生の数人が、協同して鉄道の枕木を使って山小屋を造っている。これは、彼らの「卒業設計」。資金集めから木材の加工・組立てまで全て自分たちでやるのだから、これは、教室で聞く下手な授業などより、数等よい学習になったようである。また、おそらくこれは、彼らにとって、大学時代の最も充実した「体験」として心に刻まれたものと思う。
彼らの山小屋の現場は、今ごろは雪の中。

信州の中央部、西に松本、北に上田・小諸、北東に佐久、南に諏訪、少し離れて南東に甲府の街々があり、これらの街々のある平地・盆地に囲まれる形で一連の山塊がある。西から言うと、美ヶ原霧ヶ峰蓼科そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、観光地として有名な一帯でもある。
   「日本地図帳」を開きながらお読みいただければ幸いです。
彼らの「現場」は、この蓼科山中、大門峠という峠を少し北に下った標高1400mに近い地点に在る。
この峠を含め、この山系には、その南と北に展開する街々を結ぶ山越えの道が、古来数多く開かれていたらしい。古代の東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中山道も諏訪から佐久へこの山中を縫っている(現在の国道142号は、その道筋に従っている)。つまり、この山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠が並んでいたのである。その多さは他に類を見ない。
この一帯に、私は以前から興味があった。ここは高冷・寒冷の地。何故こんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからだ。そしてまた、この山系の麓の街々のあるところより一段上がった斜面、特に南面の高原状の一帯には(今は開拓地や別荘地になっているが)縄文期をはじめとする住居址、集落跡:遺跡群が所狭しとばかりに密集していて、これも私の興味をそそるものであった。
何故、この高冷・寒冷の地に?
そして、諏訪に生まれ諏訪を愛する考古学者:藤森栄一氏の諸著作でそのあたりのことについていろいろと教えていただき、かねてから実際に訪ねてみたいと思っていたのである。そして昨年の夏、彼の学生諸君の山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも歩き回り、貴重な体験を得ることができた。そこで、以下に、その際「峠」について考えたことを書くことにする。

諏訪に暮す人が、「ごく普通に」小諸・佐久・上田あるいは長野に行こうとする場合、今は鉄道を使うことになろう。しかし、鉄道は、地図で分るように、これらの山々の縁を回って走っているから、地図の上の直線距離では直ぐそこでも、かなりの時間を要するはずで、「遥か山の彼方の遠い町へ行く感じ」を抱くはずである。概して、今の鉄道は「中央」と「地方」を結ぶには非常に便がよいけれども、地方の街々を結ぶことに関しては、一時よりも便が悪くなっており、東京から長野に行くよりも、諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また、自動車を使うにしても、主要国道(国道20号、18号、19号など)も大体鉄道と並行しているから、結構時間がかかる。
主要な鉄道も主要道も、「地方」の街々を結ぶことよりも「地方」を「中央」に結びつけることに意が注がれているから、山の向うとこちら側とをつなぐことなどは念頭にはなく、もし注ぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの「中央」にとって「都合がよい」からだと言っても過言ではない。「中央」が近畿にあった古代には「東山道」は東国への近道だったし、江戸期の「中山道」も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし、「中央」が東京になってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は避けられ、山の両側に、それぞれ、東京長野東京松本を結ぶ鉄道が敷かれることになる。それは、山越えの鉄道が技術的に難しかったからではないはずである。なぜなら、鉄道の碓氷峠の山越えを見れば明らかである。
時の政府が、中山道全線の鉄道化の必要を認めなかったのである。その結果、山系の南北は鉄道とは無縁のままとなり、「山の向こうとこちら」になってしまったのである。先に「ごく普通に行く」となるとと書いたが、この「ごく普通」の状態は、鉄道敷設後の話であり、鉄道敷設以前は、「山越え」が「ごく普通」だったに違いなく、当然そのときは「山の向うとこちら」という感覚などなく、両側はもっと密で近しい関係にあったと考えられる。
つまり、鉄道敷設は地域の人びとの関係まで一変させてしまったのである。誰もわざわざ山越えをして上田へ行こうなどと思わなくなってしまった。人びとは歩かなくなった。

人びとの往来が減り、人びとの往来に拠っていた町の生活が、言わばその活動を停止し「変化」が停まってしまった(停まらざるを得なくなった)その道筋の街々が、最近になって、「伝統的街並」と称されてもてはやされている。
確かに、鉄道敷設後に寂れてしまった中山道沿いの街々には、歩いてみると分るが、今現に栄えている街々にはない心和むものがあるのは事実である。
しかし、それらの街並みをそのように在らしめた中山道は、既にその役割を失ってしまっているのも事実である。つまり、それらの街々は、中山道に拠らない生活を、その昔中山道に拠って造ってしまった「つくり」の中で、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。
中山道華やかなりし頃、活気あふれる町筋の家々は、頻繁に建て替えも行われていたに違いない。そのとき街の人びとは、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるものは捨てる、つまり彼らの主体的判断でことにあたったはずである。それは、ただ受け継ぐという安易な営みではなかったのだ。
すなわち、今もてはやされている「伝統的街並」とは、そういう言わば人びとのダイナミックな活動が、鉄道の敷設にともない、突然停止を余儀なくされ、言うなれば時間が停まってしまった時の姿に他ならないのである。
昨今盛んに言われる「街並保存」の動きに、私が今一つ納得できないのは、それゆえである。一つには、そういう「保存運動」というのが、大抵(鉄道で訪れた)「よそ者」の発想であり、そこで生活・暮している人たちのことが念頭にないように思えるからである。それは、そこで生活・暮す人たちに、「時間を停めて生きろ」と言うに等しい。そのような僭越なことが許されてよいのか。
そして更に、そういった「旧いものを保存することで満足する」、その安易な考え方に同調できないからである。
確かに、こういった心和む街並がどんどん消えてゆく。そして、心和まない、むしろ逆なでするようなものになってきている。それとの対比の中で「旧きもののよさ」を見出したからといって、それらを保存すれば済むというものではあるまい。まして、それらを保存すれば、「現代のやりかた」への免罪符になるわけでもあるまい。
このような「よいものを遺しておけばよい」とするような「単純な」考えかたは、今の街並を心和まないものにしている「つくりかた・考えかた」の裏返し、つまり「構造」が全く同じであると、私には思える

彼等には、「街々や街並の形成:生成のダイナミズム」が全く見えていない。そこに生き・暮した人びとの、そのときどきの主体的な自らの感性に拠る判断の積層・蓄積のうちにそれらが成ったことが見えず、その成因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま遺ってしまった)目の前に在る「もの」、その「ものの形:造形そのもの」に求めようとしているのだ。

敢えて言えば、人間の歴史は、まさに「つくりかえの歴史」であると言ってよいだろう。
ゆえに、私たちが「保存」しなければならないのは、出来上がった結果としての「もの」そのものではなく、そのような「結果」をあらしめた「つくりかえの論理:すなわちものづくりの論理」、そしてそれを支えてきた「感性の存在」であり、その「存在」を保証することである。そうでなければ、今私たちがやることは、決してその「よき旧きもの」以上のものには成り得まい。そして、そうでなければ、「旧きよきものを保存する」ことは、単なる骨董趣味と何ら変りないことになってしまう。

先月の初め(1981年12月初め)、学生たちと桂離宮を見学した。ちょうど修復中で、檜皮葺きの屋根も新しくなって、それまでの見慣れたいわゆる古色とは全く違って見えた。おそらく建設当初はこうだったのだろう。
この姿を見て、ある人たち:同業の教師で、いわゆるデザイナーを自負する方だったが:の「感想」は、「まわりと馴染んでなく、《元通りになるのに》!!どれだけ時間がかかるだろう」というものであった。
私に言わせれば、この姿が「元通り」なのだ、いや、木材も含めすべての材料が「新しい色」をしていたとき、それが「元通り」なのだ。この山荘を実際に使ったのは、たかだか数十年だから、その時この建物はいわゆる「古色」にはなっていなかったはずだし、第一、造営者も三百年後の《よさ》を思って造ったわけでもあるまい。
この人たちのつぶやきを小耳にはさんで、私は、、《桂離宮が素晴らしい》と言う人たちは、「何をもって素晴らしい」と言っているのか、その「《素晴らしい》のなかみ」を疑いたくなった。今、自分が(勝手に)「いい」と思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思い込んでいるのだ。
ここには、「誤り」が二重に積み重なっている。そして、そうか、こういう見かたで「教育」が行なわれてきたのだな、これは大変なことだ、と改めてことの重大さに気付かされたのである。
何故このような「事態」になるのか?
端的に言えば、ものごとを what と how だけでしか問わなくなっているからではないだろうか。
すなわち、本来、ものごとは 5W1H すべての疑問詞をもって問うべきなのに、問を「省略」しているのである。
今触れてきた「伝統的街並保存のはなし」も「桂離宮のはなし」も、そこでは when where who why の問いが欠落し、あるのは、what と how だけである。はたして、それだけの視点・問いで、人間の営為を語れるか、ものが造れるか?否である。
「旧きよき街並」を実際に造ってきた人たちや桂離宮造営に関わった人たちは、当たり前のこととして、これらの全ての「問」でものごとにあたっていたはずである。それを忘れてしまったのは、今の私たちだけ。その結果、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「発想」が当たり前になってしまったのだ。
旧いものも新しいものも、このすべての「問」で問うた時、初めて、そして当然のこととして、その「本当の姿」、」「それが存在する意味」が見えてくるのではなかろうか。私が旧きものに学ぶのは、少なくとも、そして必ずしも、その「形」ではない。私が学ぶのは、それらを造るのに関わった人びとの5W1Hによる身の処し方なのだ。もし保存が必要だとしたら、彼らの「身の処し方」をこそ保存しなければなるまい。


敷石の上で一休みしているシオカラトンボ

峠の話に戻ろう。
先に、山越えの道が鉄道の開通にともない廃れてしまった、と書いた。しかし、昨今、この廃れた道が、装いを新たに復活しだしたのである。専ら歩くしかなく、まったく鉄道に比べ歩が悪かった峠越えの山道が、自動車の普及にともない、見直されてきたのである。そして今、実際に車で走ってみて山の「こちら」と「向う」が驚くほど近いということを改めて発見する。だから、徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後生まれてしまった遥か山の向こう側という感覚とは全く異なり、相当に「近しい」間柄であった、と考えるのが自然だろう。
今、これらの峠道のいくつかは、舗装道路になっているが、その道筋はほとんど古来の道を踏襲している。こういう道筋を見つけ出した先人たちの営みには、ただ驚くばかりである。彼らは、私たちの時代とは違い「正確な地形図」など持っていなかった。今の道路は、おそらく「正確な地形図」の上で策定されるのだろうが、彼らは違うのだ。道のつくられ方:策定法が、根本的に異なると言ってよいだろう。
どこが異なるのかについては、山小屋づくりの学生たちの「経験談」が明らかのしてくれる。
今話題にしている山系の蓼科から美ヶ原にかけて、新規に観光道路が造られているが、そこを走った学生たち曰く。
    古来の道を踏襲したと思われる道では、たとえば、蓼科山は、多少振れることはあっても、常に前方に見え隠れするのだが、
    新しい観光道路では一定せず、突然後方に見えたりして、どこへ向っているのか分らなくなり(現在居るところが分らなくなり)
    「道路標識」に頼るしかなかった・・・。

では、この山越えの最短ルートはいかにして造られたのだろうか。おそらく、中山道などの主要道が生まれる以前から、このようなルートはいくつもあったに違いない。主要道は、その中から選ばれて整備されたものと思われる。
こういうルートを、地図・地形図のない時代に、人びとはいかにして見付けたのか?
これについては、諸説ある。
現在主に人びとが暮している低地よりも一段高い高原状の一帯に、縄文期の人びとの居住地が在った。彼らは、背後に拡がる山地一帯を生活圏としていた。そういう山地が在るがゆえに、人びとはそこに暮したのだ。ゆえに、一帯は「彼らの(脳裡の)地図」に組み込まれていた。
彼らは、はるか山中に貴重品・必需品の黒曜石の鉱脈を発見した。この地産の黒曜石が山を越えた各地で見付かっているから、そいう地を結ぶ道も既に在ったと考えられている。と言うより、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、そこを黒曜石が通過していった、と言った方が適切かもしれない。そして、そういったルートが時を越えて受け継がれてきた、というのが主要「街道」誕生の有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったルートもあるに違いない)。
また、この一帯は、低地農業主体になる以前から盛大に牧畜がおこなわれたらしい。この地の他、信州から上州・甲州の山地一帯は馬の産地で、各地に遺る「〇〇牧」などという地名にその名残がうかがえる。
すなわち、有史以前から、この山地には常に「人びとの暮し」が在り、それゆえ、有史以前からの「道の遺産」も継承されてきた、と言うことができるだろう。
これらのルートは、どういうところを通っているか。
こういう山地の古来からの道のルートのとりかたには、いくつかのやりかたがある。おそらくその方策は、現地に立って道を探るにあたっては、今でも通用するだろう。
一つは、等高線に沿って歩を進める、いわゆるトラバースしてゆくやりかたで、これは、各地の山村で集落間を結ぶ道によく見かける。距離は長くなるが、歩行が楽になる。特に稲作主体の集落になってからは、集落は大体等高に並ぶから(水田る水の得やすい場所は、大体等高に並ぶ)道も当然等高線沿いになるのである(これは、実際に山間地の集落を訪れたり、地形図を詳しく見ると分る)。
因みに、関東平野の北辺を通っていた東山道を復元してみると、赤城山麓の、ほぼ等高線上に点在する自然湧水に拠る集落:村々を繋ぐ形で走っているという。
   註 このあたりについては、10年ほど前に、「居住の条件:人はどこに住みだしたか」で、他の場所を例に簡潔に書いています。

もう一つは、高低を詰める場合の道で、これには、谷筋道尾根(筋)道がある。古来の道で、斜面を《やみくもに》登り詰めるような道のつくりかたは、先ずないと言ってよいのではないか。私が知っている唯一の例は、武田信玄上杉攻略のために造ったという甲州から善光寺平へ向う軍事用直線道路だけである。「信玄棒道」と呼ばれ今話題にしている山系の一画にその跡が遺っている。地形図で見ると、全く呆れるほど、みごとに最短距離を強引に突っ走っている。これは、例外だろう。
   註 このあたりについても、10年ほど前に「道・・・どのように生まれるのか」で触れています。

山越えの道では、尾根筋道よりも谷筋道の方が、圧倒的に多そうだ。考えてみれば当然かもしれない。
実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道のの位置をおおよそ比定することができる。大体そこは山々の「くびれ」の部分である。いわゆる「鞍部」である。(外国語でに相当する語を探すと、この鞍部を意味する col が出てくる。外国でも、道はそういうところで山を越えるのだ。他には、外国語では pass という語がに相当するようだ。
この「くびれ」の部分には、必ず川が切り込んでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている(流れ出している)。しかも、その鞍部を境にして両側に必ず川が在ると言ってよい。これは全くの「自然現象」。すなわち、山越えの谷筋道は、両側から谷川沿いに登り詰め、最後にこの鞍部で顔を合わせているのである。
水の性質上、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。ゆえに、谷筋道は、通ることができるならば、峠:鞍部に向う最も効率のよい道筋なのである。第一、谷川という目印があるから、支流を見間違えなければ迷う恐れも少ない。
おそらく、そのような谷筋道の中から、最も歩きやすいルートが、道:街道として確立していったのだろう。
また、そういう河川が平地に出る辺りには、扇状地などの台地が形成されるが、そこは人が住み着く絶好の場所でもあった。今の大きな町は、大体そのような場所に在る。そういう場所に生活・暮した人びとにとっては、農業が生業の主体であったとしても、背後の谷筋を遡った山地もまた、彼らの手の内に在ったと考えられる。つまり、一帯は彼らの「私の地図」に組み込まれていたはずである。
私たちは、とかく、山のこちらの町と向うの町を結ぶ最短ルートの道が、「後になって、意図的に造られた」かのように考えがちだが、そうではなく、それぞれの側に人びとが、それぞれ地の理に従って生活・暮しを確立していった結果、期せずして、鞍部:峠で両者が顔を合わせたに過ぎない、と考えた方が理に適っているだろう。そして、両側の生活圏相互の交流が盛んになれば、その峠道も街道として整えられる。そしてまた、道筋の村や町は、農業だけではなく「街道」に拠った生活・暮しを営む村々、町々へと変っていった、多分、これが峠道の成り立ちの「筋書き」と言える。
先に触れた「信玄棒道」が現在のような精確な地図のない時代に造り得たのも、その土地に住み着いた人びとの生活圏をよく知り、それを繋ぎ合わせてできる全体像を、目の前に見えるものを基に想定できる鋭敏な感性を人びとが持っていたからこそ可能だったのである。
彼らは、正確な地図、各種の情報を持っている私たちよりも、数等優れた「ものの見かた、捉えかた:感性」を身に着けていた
こういう「感性」を、私たちは、何時、何処に置き忘れてきてしまったのだろうか。しかも、現実は、こういう「感性」を失ってしまった人たちが、いい街並だ、桂離宮は素晴らしい、などとその保存を説き、それどころか、人びとの生活・暮しに関りをもつものを造ったりしているのである・・・。

最近は非常に精密な航空写真(空中写真と呼ぶらしい)が撮れ、このごろの地形図は、それが基になっているらしい。それを見ると、古来から継承されたと思われる道と、最近造られた道とを直ちに見分けることができる。地形・地勢と無関係に造られている道と、そうでない地理に応じている道とが際立って見えてくる。もちろん、前者が最近の道である。最近の道は、地理から考えて極めて「無理な」形状を示すが、古来の道は言わば淡々と地形・地勢のなかに「通れる」場所を探し、選んで走っていて、ゆえに地形・地勢にすっかり馴染んで、道だけが浮きだって見えるようなことがない。先日、人工衛星から撮った関東北部から信越にかけての地域の写真を手に入れたが、そのあまりの見事さに驚嘆した。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども人が住み着いていると言ってよく、それらを結んで非常に自然な形で道が在る。そこから窺える居住地域とそうでない地域のモザイク、それらを結ぶ道の網目、その「合理性」は、現代の諸々の計画を圧倒しており、現代のそれは、古代の営為の跡に比べれば、さながら「ひっかき傷」のようなものでしかない。
それは、「大地という自然が備え持つ合理性」に対して、「科学技術という偏狭な合理性」が対抗しようとした「手負い傷」
に見えた。
古来、「大地に拠って生活・暮した人びと」は、「大地の備え持つ合理性」を知らないまま(知ろうとしないまま)、大地に手を付けるような無思慮・無謀なことは、やってこなかったのだ。



ところで、ここで何度も用いてきた「峠」という字は、いわゆる「国字」、すなわち日本で創られた文字である。峠的な地形が中国にないはずがないから、彼らはそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、中国を訪れたとき、中国人の通訳の方に訊ねてみた。ところが納得のゆく答が返ってこないのである。頭をひねっては、「頂」かなあな、どと私たちの持っているイメージにはぴったりこないような答しか戻ってこない。
結論的に言うと、「峠」に相当する字がないらしいのである。それは当然のことだ。もしもそのような字があったならば、国字が創られることはなかったはずだからである。
では、中國の人びとが、「峠」に対応する字を何故もっていないのだろうか?
いろいろ考えているうちに、もしかすると、私が「峠」という字に抱いていた観念が間違っていたのではないか、と思うようになった。
私は、「峠」を、道を登り切った所、そこから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す「地形名称」と思っていたのだが、その字は、単なる形状を示すものではないのである。
峠的形状の場所に対する地形名称に、「たわ」とか「たるみ」というのがある。これは、鞍部:col に相応する。
   相模湖の近くに「おおだるみ峠」と呼ばれる峠がある。大垂水峠と書いたと思う。
だから、地形的名称ならば、あえて「峠」という字を創らなくてもよいだろう。
そして、峠の場所を地図や実地を見ていて思い至ったのは、この字は、地形そのものを指しているのではなく、そのような地形的な場所が有するいわば「生活的な意味」が込められているのではないか、ということであった。
端的に言えば、「二つの生活圏の接点」を意味するのではないか。「峠を越える」ということは、暮し慣れた所を離れ、慣れない違う場所に行くということだ。人びとは、峠に神を祀った。人びとは生活圏の境界に立ち、それぞれの生活圏の神に、旅の前途の安全を願ったのである。
峠を境に二つの生活圏・文化圏が隣り合う。それぞれは、それぞれが独自であって、峠越しに交流する。交流で得たものを、それぞれがそれぞれなりに消化し成長してゆく。だから、峠の両側は、似ているようで異なっている

思い出して柳田国男の「地名の研究」を読み返してみた。そこに、「峠」を「ひょう」「ひょ」と読む所があることが紹介されていた。
柳田の解釈は、それは、境・境界を意味する「」の字の「音読み」ではないかという。峠的な地形が「村界」であった、というのである。後になって、「ひょう」に新字の「峠」があてがわれ、読みだけが遺ったのではないかという解釈である。
   註 :①こずえ。高い枝。②すえ、はし。いただき。③しるし。めじるし、④まと。めあて。・・・(新漢和辞典) [追記25日11.50]
なぜ中国に「峠」に相応する字が存在しないのか?
彼の地では、峠的地形は、生活圏の境界ではなかった。
彼らの生活圏の境界は、そのような自然地形に拠ることはほとんどなく、境界は、自らが言わば「勝手に設定する」ものだった。それは、彼の国には確固とした城壁・市壁:囲障・囲壁が在るのに、日本にはない、彼の国の文化を積極的に採り入れても、囲壁は造ろうとはしなかったことにつながってくるはずである。
ゆえに、彼の国では、「峠」の字は不要だったのではなかろうか。一方、日本では、それを必要としたのである。





復刻・「筑波通信」―6   「蔵」のはなし:「必要」ということ

2016-07-03 14:03:00 | 復刻・筑波通信

ムクゲが咲きだしています

「蔵」のはなし:「必要」ということ                    1981年12月1日刊 の復刻

こがねむしは かねもちだ かねぐら たてた くら たてた・・・」という童謡がある。
この「童謡」の「詞」の「裏側」には、「蓄財したもの:財産」を格納する場所、それゆえ富裕な人びとが備えるもの、という「理解」、つまり、「蔵」という概念に対する《社会的「通念」》が潜んでいるように思える。いったい、「蔵」とは何なのか。

新潟で日本海にそそぐ阿賀川を遡ると、越後平野を過ぎ山あいを渓谷状に北上し会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山塊を巻くようにその東側を再び渓谷状を成し南へと上流へ向う。つまり、会津盆地を転回点としたUの字形を成し、その囲まれたところに山系・山塊がある、ということになる。この上流部を総称して南会津と呼ぶ。川を更に遡ると(概ね南に向うのだが)、山にぶつかる。そこの峠を越えると、そこは関東平野を流れる鬼怒川の上流部になる。日光へはもう直ぐである。この川筋の道は、江戸と会津を結ぶ重要な街道の一で、川路(かわぢ)と呼ばれたらしい。今の川治温泉は、川路温泉だったわけである。
それはさておき、このUの字形に囲まれた山塊のなかに、それこそまさに「辺地」を絵に描いたような山村 S村がある。この村へは、西側の阿賀川支流沿いに入るのが比較的緩やかな道であるが、あとは、会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬季の積雪は村内で3mを軽く超えるから、冬は、先の支流沿いの道(これも時には途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。つまり、孤立してしまうのだ。
S村の村域は、先の阿賀川支流沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、元もとは二つの村であったという。
一つは、概ねその川の中下流域の比較的平らな部分、もう一つはその上流の低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこはかつて独立してO村であったという。だから、このO村は最奥の集落ということになる。
このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通り抜けて遡ってゆき、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、突然前方に家々の屋根がひしめくように、まさに呆気にとられるような形で現われる。たしかに村を名乗ってもおかしくない大きな集落である。
今は車で訪れるが、歩いて訪れたならば、そしてそれが春先で花でも咲いている頃ならばなおさら、まさに桃源郷にでも入り込んだような気分になるに違いない。そのとき一緒に訪れた皆が一様に思ったのは、「こんなところに人が住んでいる」という驚きに近いものだった。
しかし、この「こんなところに・・・」という感想は、よく考えてみる必要がある。人里からあまりにも遠く離れたところに人がいる、という意味もあるし、「常識」からすると人の住めそうにないところに人が住んでいる、という「驚き」の意味も含まれているだろう。
では、東京:都会を見て、どうして「こんなところに」人が住んでいるのか、と思わないのだろうか。何故こんなところにひしめきあって住んでいるのか、と驚いてもいいと思うのだが、誰も不思議に思わないようだ。
そうしてみると、「こんなところに・・・」という感想は、ある特定の視座から一方的に見たことによる感想に過ぎない、ということになる。だから、この「特定の視座」というのが何なのか、ということが問われなければなるまい
人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て「こんなところに・・・」と驚いてもまったく構わないし、当然かもしれないが、しかし、その「見かた」「驚き」が直ちに「標準的」普遍的」なものであると見なされてしまっては、それは誤りだ。それでは、肝腎の「人それぞれ」の存在が消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてや、そういう視座・見かたが多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたり、妥当と思われたりするのは論外のはずである。しかし今、大多数の人は都会に住み、彼らの先祖をたどればこういう山村に暮していたかもしれないなどということはすっかり忘れ、都会に慣れ切ってしまっているから、彼らの「見かた」は唯一・絶対であるかの錯覚を持ってしまうのだ。
実際、村に住み暮している人の立場から見れば、「こんなところに・・・」と思われること自体、不可思議で、不当に思えるだろう。彼らは、その場所なりに、彼らなりの生活をしてきているからである。自分他とが「辺地住まい」などとは、まったく思いもしなかったはずである。今は対比する都会や町場の話も伝わってくる。そうであってもなお、「こんなところに・・・」という「感想」は、彼らにとって不当であることは変りあるまい。
私たちの多くは、都会的生活に慣れ切ってしまっているが、しかし、それが唯一・最高の、それゆえに目指すべき標的であるかのように、つい見なしてしまいがちな、そういう悪い癖は、即刻捨て去らねばなるまい。
「期待される人間像」などというのがまったく人を人と思わぬ不当な考えかたであるのと同様、あるべき生活像みたいなものを《抽象的》に定型化するのも、これもまったく不当なのだ。

さて、この「辺地の村むら」で、私にとって印象深かったのが、「蔵」であった。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な「蔵」を持っていたことだ。遠くからも「蔵」が際立って見えた。一見したところ、一帯は決して農業生産高の高いところには見えない。両側から比高はそれほどではないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから、稲作の普及も比較的最近のことだろう。おそらく、元もとは畑作や林業が生業だったのではないか。
   「越後上布」の名で知られる織物の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培法は「焼畑」そのものである。
   こういう山間の村むらでつくられた繊維が集められ加工され献上されたのが「越後上布」である。
つまり、耕地も狭くしかも気候的にも厳しいこの土地からの収益は決して豊かではなく、そこで暮せる人口にも自ずと制限がある。そういう土地柄で、「富」や「財産」を蓄積するなどということはあり得ない。
そうでありながら、全ての家に立派な「蔵」がある。それは、私が勝手に思い込んでいた「蔵」の「概念」とはまったく相容れない。
何故、この「貧しい村」の家々の「蔵」は立派なのか? 
村の人の話を聞き、また考え直してみて、それが至極当然であることに気が付いた。
この「蔵」は、食糧備蓄用の建物なのである。この地域は、年中行事のように「冷害」に遭うのである。それゆえ、最低限来年の分は当然として更にその翌年の食い扶持を保持することが、この土地で暮してゆくために必要だったのである。余剰物や「財」をしまうのではなく、暮しの必需品をしまっていたのである。「蔵」は、この土地で暮してゆくためには絶対に欠くことのできない建造物だったのだ
このことに気が付いたとき、それまで、「蔵」を単に「一般的な意味での倉庫」と見なして済ませていた自分自身の「阿呆らしさ」にも気が付いたのである。
確かに倉庫であることには違いないが、「単なる倉庫」という区分けでは、町中の蔵もこの村の蔵も同じものになってしまうのだが、そして私たちが日ごろ見慣れているのは町なかの商家のそれであり、あるいはまた豪農の家のそれであるがゆえに、蔵というと、何となく蓄財の象徴のように思えてしまうのである。
そして私は、建物の「理解」にあたっては(既存のものも、これからつくるものも)、まずもってその建物に係わる人びとの「生活」の「理解」、その場所で生きてゆく人びとの「生活」の「理解」から始まらなければならないという至極当たり前のことを、あらためて、いやというほど思い知らされたのである。つまり、ある地域にはその地域なりの「生活」がある、という私の「理解」「考えかた」そのものが、未だに「観念的」「机上の理屈」の上のそれであった、ということが明らかになったのである。それまで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

この村の中央部に、もうぼろぼろの、しかし決して取り壊せない、正確に言えば、もう「しばらくは取り壊せない」、強いて呼ぶなら「集会所」とでも言うしかない木造の建物があった。補助金で公民館としてでも建替えることはできるのだが、今はそれはできない、取り壊す気になれないからだという。何故か?
この建物は、この村の「適正人口」と深く関わる建物なのである。
この村では、つい最近まで、こん「適正人口」を保つための策が採られていた。すなわち、長男は家を継ぐが、二・三男は、分家できず、いわば運命的に一生その家の下男同様の生活をして過ごすのだという(娘は必死になって嫁入り先を探して嫁がせる)。長男が嫁をもらうと、彼らは、夜はもちろん、家に居にくくなる。大家族的な生活が為されていたのである(だから、家一軒が白川郷ほどではないが、大きな小屋裏のあるつくりになっている)。
そこで、昭和の初め頃であったか、各家の居ずらくなった似た者同士が集って、協同で夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場に土地を提供してくれ、そうすれば、工面して自分たちで「集まり場所:小屋」をつくるから、と申し出た。そして、土地が提供され、彼の「集会所」ができあがったのだという。これは、いわゆる単なる集会所ではない。彼ら二・三男たちの「生活必需品」であったわけなのである。この「運動」への「参加」のしかたは、各人の立場に応じて、資材の現物提供、金の提供、技術の提供・・・、という具合に様々であったという。
今でこそ、このような非人間的な二・三男たちの生活はなくなったようであるが(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多くは都会に出て、農業以外で働くことになる)、しかし、この設立に関わった人たちは未だ健在である。だから、今はもう用がなくなったからと言って、この建物を取り壊すなどということは、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけだったのである。
この話を聞いた後では、先のぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、「神聖な」ものに見えてきた。これもまた、私の《観念的理屈》の欠陥を糺すには、十分衝撃的であった。
おそらく、村むらの佇まい、つまり、人びとが自らの生活に根ざし培いつくりあげてきた「ものごと」は、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、展開し、成り立ってきたのに違いない。
私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そして、できあがったものに対して人びとが向き合ってきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら、この過程は決して目に見える形では存在しない。これは、如何ともし難い厳然たる事実だ。しかし、私たちは目に見えるものを見ることを通して、目に見えるものの「背後」を、何とかして見なければならないのだ
これは、理屈としては分っていても、「言う」と「やる」では大違いなのである。その意味で、この村での「体験」は、まさに、私の《太平の夢》を覚醒するできごとであった。


ネムの花

今、私たちのまわりでは、多様な種類の「公共建築・施設」がつくられている。それらは、《社会の needs をとらえて》だとか、《建物の使われかたの研究の結果》などと称してつくられている。
私は、ここで紹介したこの村の「二・三男たちの集会所」のつくられかたは、まさに公共建築のつくられかたの一つである、と思うのだが、《社会の needs をとらえて》だとか《建物の使われかたの研究の結果》というとき、このような意味での「生活の必需品」としての発想で考えられたことがあるだろうか?はなはだ疑問に思う。
「専門家」に見えているのは、その「表現」にいみじくも現れているように、それは、建物の「使われかた」なのであって、決して人びとの「使いかた」ではない。
そして、仮に彼らが「人びと」を気にしたとしても、そのときの「人びと」は、「人びと一般」としてのそれであって、「この町の人びと」、「この村の人びと」ではないのである。
彼らは何故「使われかた」で見ようとするか?それは、「使いかた」を見るとなると、そこに必ず使う主体としての「個人」の存在を考えざるを得なくなるからだ。そんな「生身の人間」個々などは扱っていられない、ということだ。そんなことをしたら、客観的・科学的でなくなってしまう、と信じているか、信じ込まされているからである。
このような「専門家」には、決して、「この村の二・三男たちのneeds」などは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを「専門家」として認めてしまって、本当によいのだろうか?
いったい、何時、誰が彼らに「専門家」の称号を与えたのであろうか?私たちが与えた覚えはまったくない。いつの間にか、彼らが自ら名乗り出たに過ぎなかったのではなかったか。
彼らから専門家の称号を取り去ったとき、そこには何も残らない、ことによると生身の彼自身さえも残らないかもしれない。だからこそ、専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。 


先日、加藤周一氏のスタインバーグとの会見のエッセイが新聞に載っていた。
「・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・・廊下を・・・歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中では、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。『私はまだ何の専門家にもなっていない』と彼は言った。『幸いにして』と私が応じると、『幸いにして』と彼は繰り返した。・・・」

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復刻・「筑波通信」―5:「無名」考・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?

2016-06-14 17:30:09 | 復刻・筑波通信

ベニシジミ

筑波通信 -5 : 「無名」考・・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?     1981年8月1日 刊 の復刻

   以下の内容と同趣旨の記事を以前に載せた記憶があります。重複ご容赦ください。

今回は、山について書かれた文章をもとに話を進めようと思う。
下に載せるのは、臼井吉見のエッセイ「幼き日の山やま」の一節である。
この一文を読んで、私が何を言おうとしているか、察しのついた方もおられるのではないか、と思う。

この文章には、私たちの「もの」への対しかた、「もの」の見かた、知りかた・・、の根本的な問題が、「思い出」というかたちでさりげなく、しかし見事に言い表されていると思う。
私たちは今、「もの」について「知る」ということは、その「『もの』の名前を知ること」に等値であるかのように見なして済ませてしまうことが多分にありはしないだろうか。
あるいはまた、「目の前に在る」というだけで、つまり、「目に見えている」というだけで、それらの「全てが均質・等質・等価に見えている・・・」、と思い込んでいないだろうか。
「存在するもの」を全て対象化してみるいわゆる「自然科学的なものの見かた」が隆盛を極め、当たり前になってからこのかた、「もの」の全てが等値に見え、それゆえ、その「ものの名前」もまた、それら等値の「もの」の《単なる区分上の符号》になってしまったような気配さえ感じられる。
いったい、私たちにとって、「あることを知る」ということ、「知っている」ということ、あるいは、「あるものの『名前』を知る」ということ、「知っている」ということ、より根本的には、「あるものに『名前』をつける」ということ、これらは本来どういうことであったのか、いろいろな知識や情報が数限りなく溢れている今、一度落ち着いて考えてみてもよいのではないか、と思い、この文章を話題にしようと思ったのである。

この文章の中の番頭と中年の客のやりとりが書かれているが、このようなやりとりが何故生まれたのだろうか。
番頭は、「木曽の御岳」と呼ばれる山が在ることは知っているようだ。しかし、毎日自分の目の前に見えている山やまのなかの一画にそれが在るなどということは全く「知らない」。ここで「知らない」というのは、そういう呼び名の山が在るということは、何となく知ってはいるが、その呼び名に対応する山については具体的には知らない、ということである。おそらく、そういえば、何処かで聞いたことが在りますね、という程度ではなかろうか。
これに対して、中年の客は、毎日見ていて(見ているはずで)しかも「あんなに有名な山」を、どうして知らないのだ、と不思議に思ったのである。そこには、毎日目の前にしているもの、しかもそれが世に有名なものであるならばなおさら、常にそれを目の前にしている人びとは、必ずそれを(直ちにそれを指し示せるぐらいに)知っていなければならない、知っていて当たり前だ、という考えが、彼の頭のどこかに潜んでいる。
だから「どこかよそから来たのかね」という言葉の裏には、「そんなことも知らないの!」という番頭の「無知」に対する非難の響きが、明らかに覗いている。文中にもあるが、今、私たちの大方は、この中年の客に右同じだろう。
しかし、この「無知」は、はたして、そんな単純に非難したり笑いものにしたりすることのできる類のものなのだろうか。
この中年の客:私たち大方の代表:の「知っていること」というのは、いったい何なのか?何故彼は木曽の御岳を知っているのか?彼がその「実物」を知らないことは、彼がそれを指示できないことで明らかだ。ところが、御岳について、いろいろと「知っている」ようだ。具体的に目の前にしたことのないものの具体的な胃兪について結構「知っている」ようだ。しかし残念ながら、それが現実に目の前に見えていても(現にそうなのだが)「あれ」を「これ」と比定する手段は、自らのものとして持ちあわせていない。人に訊ねるか地図を見ることになる。もちろん「勘」によって、これはこれだ、と思うことはあるが、それは、あくまでも、「これに違いない」である。
そうなると、この中年の客が「知っていること」というのは、実に不可思議なものだ、という気がしてこないだろうか。

中年の客が、木曽の御岳の「名」を知っていること、木曽の御岳について「知っていること」、それは多分、彼が何処かで仕入れた《知識》と思われる。本で読んだのかもしれないし、人から聞いたのかもしれない。あるいは、学校で「教えられた」のかもしれない。いずれにしろ、彼は、中部地方の一画、信州の南の方に「木曽の御岳」という山が在り、それは高さは〇〇ぐらいの際立つ山で、信仰の対象にもなっている・・・といったこと:《知識》:を持っていたに違いない。その《知識》を持った彼が、その先何を思っていたかは分らない。そんなに有名な山なら、一度は目にしてみたいと思っていたかもしれないし、ことによると、登ってみたいと思っていたかもしれない。ともあれ、おそらく彼は、「木曽の御岳」の他にも、こういった《知識》を数多く仕入れてあるに違いない。だから、おそらく、何処へ行っても、これと同じようなことが起きただろう。


シロ ツメクサ

そして今、私たちもまたこの中年の客同様だから、たとえば、「あれが槍」「こっちが穂高」・・・といった具合に、私たちが「知っている名前が」具体的に一つ一つその「対象」をあてがわれてゆくと、何だか長年の宿題が一つ一つ解けてゆくような快感が味わえ、何となく何かが分ったような《満足な気分》となり、《感慨》にふけったりすることになるわけだ。
けれども、「あるもの」の「名前」を知っている、何の名前であるかも知っている、それがどんなものなのかも知っている。しかし実物は知らない。「実物に拠って知った」のではない。では、そのとき、その「知っている」というのは何なのか。そしてまた、それに実物があてがわれて「分った気分になった」とき、いったい何が「分った」のだろうか。単なる《カード合せの快感》に過ぎなければ幸いである。
今、私たちの頭の中には、見たこともないものも含め、おびただしい数の「ものの名前」が詰め込まれている。それは何なのだろうか。何のために詰め込まれたのだろうか。それは、自分の「知識」の世界が広くなっているということなのだろうか。そのために詰め込んでいるのだろうか。それは、「自分の世界が広くなった」ということと同じだろうか。もちろんなかにはそれが等値の人もいるかもしれない。しかしそのときでさえ、その人にとって、その「詰め込むべき知識」の選別・選択の拠りどころは、いったい何なのだろう。そして多くの場合、もしも目の前に現れてきたものが、どこか際立ったものでもあればまだしも、何の変哲もない、それこそそれまで「名も知らないもの」であったとき、彼にの目には何の「気も引かないもの」としてしか映らないであろうから、彼はそれを《単なる雑物》の一として見過ごしてゆくだろう。
けだし、この中年の客的私たちの多くは、「綺麗な花を付ける」草木には(それが「際立って見えるということなのだが)、それなりの名前を付け、あるいはそれを見たことがなくてもその名前を知り、知ろうとし、そうでないものは、その他大勢、雑物・雑草として、「名もなきもの」として(ときには、あたかも「存在しないもの」の如くに)扱い済ませてしまうのだ。
単に「名前」がない、「名前」を知らないというだけで、そのときそれらは、たとえ彼らの目の前に在ったとしても、彼らの目に映らないのである。彼は何を見ていたのだろうか。彼の眼には、「知識」という「眼鏡」がかかっている
のである。
一言で言えば、彼の中年の客すなわち我が近代人代表のこれらの「知識」は、いわゆる「教養」なのだ。おそらく彼は、「専門家」ではないにしても、いろいろなものごとについて、それは「かくかくしかじかのものなり」という(誰かがつくってくれた)「知識」を、どこかで身に着けたのである。しかしそれは、あくまでも《吊るし》の「知識」を知識として仕入れたのであって、それが日ごろの自分の生活とどのように結びついているかなどということとは、全く別の話として、ただ自分がそういう諸々の「知識のかたまり」と結びついているということ自体に《意義を見出している》のだろう。《そういう博識こそが自分の人格を向上させる》のだ、何かそういう気分さえ感じているに違いない。
今、私たちの周りを見渡したとき、こういう「物識り顔」「訳知り顔」の人たちが幅をきかし、あの番頭のような《無教養な人びと》が小さくなっている、ならざるを得ない、そんな状景があちこちに見えてこないだろうか。このエッセイのエピソードは大正中ごろの話である。この中年の《教養人》と《無教養》な番頭の話の食い違いのような例は、今よりもずっと多かったかもしれない。そして《無教養》な番頭の方は、少しも《無教養》など気にもかけず、気の毒そうな顔つきの裏側で、「変な客だ、何で私が木曽の御岳を知ってなけりゃいけないんだい」などと思っていたに違いない。
しかし、今だったら、番頭も、それがサービスというものだと思って、訊かれもしないのに、観光バスのガイドの如くに、山やまの名前を得々と説明しだすに違いない。
このエピソードが大正の中ごろだというのが象徴的である。
おそらく、その頃から、こういう中年の客的人間が増えだしたのではなかろうか。自らの手で獲得したものではなく何処かで仕入れた諸々の「吊るしの知識」が、人びと(特に「教養あること」を誇りに思う人びと)の頭の中を占拠しだしたのである。
ことによると、今はもっと激しくなっているかもしれない。
そして、そういう意味で「無教養な」人びとは、由無く肩身の狭い思いを強いられるである。

では、彼の番頭は、何故《あの有名な》御岳を、それが目の前に在るにもかかわらず、指し示すことができなかったのか。
その答は、既に先の一文中に書かれている。
すなわち、「生まれたときから里近くの山に特別に深くなじんでいるので、奥の高い山などにはとんと無関心で過ごしてしまう」からなのだ。
それは何故なのか。そこにははっきりそうだとは書かれてはいないが、それは、里近くの山やまが、彼ら(その地に暮す人びと)の生活の「範囲:領域」として取り込まれたもので在ったからなのだ。そこは、彼らの生活:暮しと切っても切れない関係にある。単なる景色・景観ではないのである。
故に、目の前にするもの全ては決して等質ではなく、その内の彼らの生活・くらしに具体的に関わるものが、先ず浮き上がって見えてくるのである。しかもそれらは、「教養ある人びと」の目に見えている以上に、彼らの生活なりに、より細やかに、彼らには見えているはずだ。
そしておそらく、「よそ者」でも、中年の客的ではなく、番頭と同様の生活基盤を持つ人たちには、それが見えるだろう。そういう山やま:「もの」には、彼らに拠って、それなりの「名前」が付けられたのである。そのとき、狭間に見える遠くの高山などは、文中にある如く、どこか遠くの彼らには何の関りもない山の一つに過ぎないのであった。もちろん、それがもっと近くにあって、どうしても「日常気になってしょうがない」山であったならば、たとえそれが直接的に彼らの生活・暮しの領域に関りがなくても、それなりの「気遣い」が見られるだろう。例えば、<strong>諏訪</strong>でならば、<strong>蓼科山</strong>や八ヶ岳などは決して放って置かれたり、」ましてやその名前も知らず、「どれでしょうね」などということはあり得ない(実際それらは、諏訪(大社)と密な関係にある)。それに比べれば、木曽の御岳は、彼らとの関りで言えば「遠い」山なのである。早い話、御岳という名の山は各地に在る。それぞれの地域の人びとが、そのように「尊称」をもって呼んだのである。「木曽の」とわざわざことわるようになったのは、各地に御岳が在るということが分ってきたから、その区別が必要になってからのことである。彼の番頭にとって、いくら目の前に見えていようとも、それは「地元の」山でなかった、ということなのだ。

つまり、彼の番頭に代表されるその地に暮す人びとが日常的に名付けて呼んでいるものは、彼らのその土地での生活の都合上「知っている」ものに限られ、従ってそれは、決して「全国的に知られるようになる」とは思えない類のものが大半を占め、それゆえまた、この中年の客が興味を示すような類のものでも決してないのである。番頭が木曽の御岳(の名)を知っていたのも、たまたま泊り客からでも聞いていたことに過ぎず、せいぜい、そういう山があるんだってさ・・、という程度の、言わば、彼にとっては《余計な知識》でしかなかったのだ。実際、その地で長く暮してきた人たちのなかには、木曽の御岳も富士山も、そしておそらく東京さえも知らないで生きてきた人たちがいたに違いないのである。そういう《知識》に対しては「無知」であっても生きられたのである。
すなわち、中年の客と番頭では、その「知っていることのなかみ」が明らかに異なるのだ。だから、番頭に代表される「地元に根付いた生活をしてきた人たちの『知識』」は、いわゆる「教養」「教養的知識」などではないのである。「こういう知識」を、この現代において、いったい何と呼んだらよいのだろうか。

今私たちが「教養的知識」として得ている立えば山の名前にしたところで、私たちは、その名前によって、その名前の付いたものについての《ある程度詳細な事実》をも思い浮かべ、「名前」=「もの」のように見なして当たり前のようになってしまっているわけだが、実は、その「名前」は、私たちによって名付けられたわけではないこと、また《ある程度詳細な事実》というのも、私たちが直接それに「触れて」得たものではないこと、従って、「もの」と私たちの「知識」との間には一つ「回路」が挟まっているのだ、ということに、今こそ改めて気が付かなければならないのではないだろうか。その「回路」が問題なのだ。
そしてまた、実は、多くの場合、例えば山の名前は、彼の番頭のような暮しかたをしてきた人びと:《無教養》《無知》な人びとに拠って名付けられてきたものなのだ、ということにも気が付かなければなるまい。同じく、それらについての詳細な知識の「根」も、彼らが「暮しのなかで獲得した知識」にあることにも気が付かなければならない。
このことは、国土地理院の地図に記されている山などの地名は、それらについてのその地元の人びとの呼び名が取集され、そのなかから選ばれたということ、たとえば、ある山の名は、測量チームが、その山のどちらの側から最初に近付いたかにより(たとえば飛騨側か信濃側か)、最初に近付いた側で呼ばれていた名が与えられることが多かった、ということなどから明らかだ。つまり、一つの山に対して、「幾つもの呼び名」があったこと:「幾つかの地元」があった、ということだ(このような「地元の呼称」が無視されるときには、エヴェレスト、K2などのように、最初の測量者の名前や、測量上の符号などで済まされる)。
しかし、このような《近代的》命名は、地元の人びとの心からはかけ離れてしまう。何故なら、地元の人びとの呼称に備わっているはずの深い「根」「地下茎」をきれいさっぱり切り落として、単なる「符号」と化してしまうからである。そうなった後は、地元以外では、名前は「単なる名前」としてのみ通用するようになってしまう。
昭和初期以降、新興住宅地に、「語のにおわすイメージ」や「語のひびきだ」けで呼称が付けられることが増えたのもこのことと関係あるだろう。たとえば、自由ヶ丘、桜丘、桜台、希望ヶ丘・・・の類である。実際に「その土地」からイメージが出てくるのではなく、名前が先行するのである。
そして逆に、こういういわば「文学的」イメージを切り捨て「物理的」イメージに徹すると、最近の住居表示のごとき「中央〇丁目」などというのになる。

以上で明らかなように、彼の番頭(に代表される人びと)には、「目の前に在るもの」は、彼らの「生活体系」のなかで、その生活との関りの遠近あるいは濃淡の度合いに応じて整えられ位置付けられ、彼らの「知恵」となってゆくのに対し、中年の客(に代表される人びと)においては、《彼らの生活自体とは無関係な何らかの「基準・物差し」》によって選択される《「知識」体系》のなかに位置づけられてゆくのである。
おそらく、この違いは、重要かつ決定的な違いのはずである。端的に言えば、近代的教養人にとって、その日常は、取るに足らない、下らないものとの鬱陶しい付き合いに他なるまい。何故なら、彼らにとって大事なのは、自分の仕入れた《高尚な》「知識・教養」との付き合いだからである。
自ずとそれは、自分を懸けて
社会に関るのではなく、自分の主たる興味の中心たる「知識体系」を通じてのみそれと関り、それ以外については、我関せずとしてすごしてゆくことになる。こういう者にかぎって自ら「専門家」と称したがる。彼らは虚構の世界に遊んでいるのであり、具体的な生活に根を下ろしていないのだ。逆に言えば、泥臭い根や地下茎に触れることを避けることで、私たちは簡単に「今様の教養人・知識人・専門家・・・」になれるのだ。そして今、彼の番頭に代表されるような「草の根付きのものの見かた・知識」は一般的ではなくなっているから、そのような存在の意味さえ分からなくなりつつある、と言ってよいだろう。
つまり、番頭と中年の客の「違い」自体が分らなくなってきているのである。しかし今、私たちが突然絶海の孤島にでも放り出されたことを想定してみると、この「違い」は歴然と露になってなってくるはずだ。そのときはじめて、虚構の世界はあくmでも虚構に過ぎないこと、つまり、星座ではなく、それを構成する「星」の大事さが、そして「星座」の意味が、はじめて分ってくるだろう。「知識」というものの本当の意味が見えてこよう。しかしこんなことは、絶海の孤島に出かけずとも、それこそ「日常」において分らなければならないのだ。私たちは今、ものを「常識」という二重三重にも重なった星座でしか見ない癖がついて(つけられて)しまったのだ。


カタバミ

私は別に、「知識体系」や「教養」を持つことを否定しているのではない。日常の「営為」とそれとの遊離、言い換えれば、生活という根や地下茎を切り捨てて済ますこと、それを問題にしているのだ。正当な理由もなくそれを切り捨て済ます癖がついてしまったからこそ、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」になってしまったのだ、と私は思うのだ。このような傾向、状況は、冒頭に引用した文にもあったように、大正の中ごろから《当たり前に》なってきたように思える。
そして今、私たちの身の回りの「もの」や町や建物などが、ほとんど全て、根や地下茎を見失ってしまった彼の中年の客的発想で語られ、そして造られるようになってしまってはいないだろうか。人びとは抽象的人間として「対象化」され、生身の人間は雲散霧消してしまい、なおかつ、それが「科学的」ということなのだと愚かにも思い、目の前のものも全て「景色」「景観」としてのみ扱われ、その《見えがかり》言うなれば「写真映り」ばかりが問題にされ、それらの私たちの生活・暮しにとっての「思い意味」は決して省みられもしない。私たちの日常には、必ず、大なり小なり、彼の番頭の生活・暮し的な局面があるはずだ。そうでありながら、番頭に代表される人びとの立場・発想が切り捨てられる。
それゆえ、そういう状況下でつくられる「もの」のほとんど全ては、私たちとの語らいを許さない、白々しい、私たちの神経を逆なでするような、あるいはまた、私たちに所定の行動しか許さないような、ある詩人の言葉を借りて言えば「体験の内容となり得ないもの」「魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎないもの」になってしまっている。
   この詩人の言葉の当該部分を邦訳原文から下に転載します。
   ・・・・・・
   今の世では、嘗てなかったほどに
   物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。それは
   それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな用具に過ぎぬからだ。
   拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
   内部から行為がそれを割って成長し、別の形を定めるなら、おのづから忽ち飛散するだろう。
   槌と槌のあひだに
   われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
   歯と歯のあひだに
   依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
   ・・・・・・
                      リルケ 「ドゥイノの悲歌」: 第九の悲歌

この詩人は、別のところで、次のようにも記している。すなわち、
・・・・・・
私たちの祖父母にとっては、まだ『家』とか『井戸』とか、なじみ深い『塔』とか、それのみか彼らの着物やマントさえも、今日より段違いに大切なものであり、また親しみ深いものであった。
彼らにとっては、すべてのものが、その中に人間的なものを見出したり、またそれを貯えたりしている器であった。
ところが今は、アメリカから中身のない殺風景な物品が殺到してくる。
それらはただの仮の物、生活の玩具にすぎない。アメリカ式の考えによる住居、アメリカの林檎、アメリカの葡萄には、私たちの祖先がその希望と心やりをこめていた家やくだものや葡萄とは、少しも共通なところはない。
私たちからいのちを吹きこまれ、私たちによって体験され、私たちと苦楽をともにするところの「もの」は、いまだんだん消滅しつつある上に、もはやこれを補う道もない。
たぶん私たちは、このような「もの」を知っている最後の人びとであろう。
・・・・・・
                                     リルケ「ミュゾットの手紙」(唐木順三「事実と虚構」より孫引き)

この「手紙」は1925年に著されている。それから五十余年、今私たちはヨーロッパから半世紀遅れて「最後」に直面しているのだろうか。それとも、もう「最後」を通り過ぎてしまったのか、まだ辛うじて「最後」を引きずっているのだろうか。
そして私は、「もはやこれを補う道もない」という暗い気分に、ともすれば陥りそうになりつつも、しかし、どうしてもそのまま済ます気にもなれないのである。むしろ、補えるという確とした見通しがあるわけではないが、私たち(の世代)がそれをしなくて、いったい誰がそれをするのか、そう思うだけである。
それがきっと、今生きている私たちの、私たちに課せられた「義務」なのだ。そのように思いたい。私たちは、精一杯、切り捨ててしまった根や地下茎を再び探して繋げ直す責を、きっと背負っているのである。

ここしばらく、幸いなことに、私は「学識のない」「無知の」「専門家でもない」人たちが、一般に素人は口をさしはさむべきではないとされるいわゆる専門的なことがらについて、《学識ある》《専門的知識溢れる》専門家に対して、おずおずと、しかし「したたかに」「素朴な」問いかけをする場面に何度も会ってきた。
彼らが「おずおずする」のは、必ず専門のことは専門家の言う通り聞いていればよい、とか、専門的なことだから、どうせ説明したって分らない、などと門前払いをくらうのが常だからである。そして彼らが「したたか」なのは、そうされても彼らは酔い続けるからだ。
何故彼らは諦めないか。それは、全く単純な理由に拠る。自らの体験で「おかしい?」と思ったことは「おかしい」と言う、そして、どう考えても分らないことに対しては、素直に、分らないから説明してくれと言う。それだけである。しかしこれがいかに並大抵のことでないか。世の中の「常識」「慣習」という峠を何度も越えなければならないからだ。
実は、こういう「問いかけ」こそが、まさに学識ある専門家たちを根底から揺さぶることになる、という場面に、ことあるたびにぶつかったのだ。
彼ら専門家のほとんどは根無し草だから、ひとたまりもない。生活・暮しにがっちりと根を張っている人たちの素朴な問というのは、根源的( radical )だからである。
そして、このいわゆる素人たちは、その専門家とのやりとりの中から、自分たちなりに「知識」をどんどん吸収し、自分たちの生活体系に組み込んでゆく。そこには、生活体系と知識体系の二本立てはない。根から幹へ、幹から枝へ、そして葉へと、一本のしたたかな樹木となる。ますます自分たちの生活・暮しを取り囲むものが「分って」くる。言うなれば、あたらしい型の彼の番頭的人びとが生まれてくるのである。この「無知」で「無名のひとたちが、「知識溢れる」「有名」「高名」な人たちと、対等に、ときには対等以上に話を交わすまでになる。
そしてそのとき、あらためて、「専門家」とはいったい何か、ということが問われることになる。


モン シロチョウ>

もちろん、このような「したたかな」人たちの数は、未だ絶対的に少ない。多くの人たちが、自らを「無知」と決めこんで、雲の上の《偉い》人たちの言いなりになっている。だから雲の上の人たちは、ますますいい気になる。雲の上にいることこそ知識人、専門家の望むべき姿だとさえ思うようになる。
けれども、あちらこちらに、自分たちの上に覆い被さるこういう「暗雲」を取り除こうとする人たち、自分たちの生活・暮しに根を張ることを大事にする人たち、こういう人たちが現実に居るということ、そしてその周りに、このことの大事さに気付く人たちが増えていること、そういう現実を目の当たりにするとき、未だ決して「最後」ではないのだ、と思うのは楽観的に過ぎるだろうか。
明らかに、根や地下茎を切り捨てることを拒み、「間抜け」を嫌うひとたちが、いつも踏みつけられながら、そしてそのたびに強くなりながら、したたかに生きている。
こういう素晴らしい「無知な」人たちに、いつも私は勇気づけられてきた。それはほんとに「幸いなこと」であった。



あとがき
原文は、ワープロのない時代、和文タイプで書いています。したがって、誤字などの修正、文章の改定などは、別途タイプ打ちし、それを字の通り「切貼り」して行ないます。今回の文にまとめるにあたり、ときには、糊がとれて剥落している個所もあり、その箇所の「修復」に、結構気を使いました。
しかし、ワープロを使う現在よりも、文章の「推敲」の度合いは、数等高かったように思いました。
あらためて、「便利さ」の持つ「危うさ」について考えさせられています。