近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-1

2007-06-28 02:57:58 | 居住環境

 20年ほど前、京都を訪ねたとき、車で琵琶湖を一周したことがある。12月で、ときおり雪が舞った。
 その時素通りしてしまった近江八幡(おうみはちまん)の町を訪れたのは、それから10年ほど経ってからのこと。もともと静かなたたずまいが感じられ、訪ねてみたいとは思ってはいたのだけれども、なかなか実現できずにいた。
 1988年に滋賀県から刊行された「重要文化財 旧西川家修理工事報告書」を見て、一日割いて訪れることにした。

 近江八幡は、天正13年(1585年)羽柴秀次が築いた八幡城の城下町が発端とされる。八幡城は、通称八幡山(正式名鶴翼山:かくよくさん)に築かれ、その陸地側に掘られた八幡堀は琵琶湖へ通じ、町への船入堀:運河の役を果している。

 八幡堀掘削によって出た残土は、低湿地の埋立てに使われ、そこが現市街地にあたる「町人町」のあたりにあたる。
 市街は、碁盤目状に整えられているが、それは、八幡城天守閣の延長上の「本町通り」「小幡町通り」を南北路の基準とし、「京街道通り」を東西路の基準としている。
 南北路は全部で12、東西路は7筋あり、おおよそ西部が職人町、北東部は職人町に割り当てられている。以下に紹介する西川家は、南北路の「新町通り」にある。
 なお、武家屋敷と職人のうちの「鉄砲町」は、八幡堀の内側にあった。

 八幡を拠点とした商人たちの扱った産品は、蚊帳・畳表・円座・浮御座・灯心・布縞・扇骨・蒟蒻・湖産魚介類など。特に畳表・蚊帳は八幡の代表的な商品。
 畳表の材料の藺草は、湖岸ですでに南北朝のころから栽培されていたといい、湖岸の村々で栽培加工され、蚊帳屋仲間に集荷され、町内および周辺の村々で、町人、農民の内職により生産されていた。藺草のうち、長さが短いものが使われたのが灯心。
 このような八幡産物を扱う商人たちは、今で言う組合:株仲間を組織、その種類と数は、群を抜いて多く、江戸に店を構えるものも続出、その多くは瓦葺きの本宅を八幡につくった(今も、八幡は瓦の産地でもあり、瓦の資料館がある)。

 近江八幡は、このように商人の町として発展してきたのだが、また、メンソレータムを生産販売してきた「近江兄弟社」の所在地でもある(現在はメンソレータムの商標は他社に移り、メンタームの名で販売)。
 その創立にかかわった八幡商業学校の英語教師として来日した宣教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1905年:明治38年来日、戦時中も日本にとどまる。帰化名「一柳米来留・ひとつやなぎ・めれる」)は、この地に永住し、学校や図書館、結核療養院、YMCAなどを運営、元来建築家であったため、建築家としても活躍(現在、「一粒社ヴォーリズ建築事務所」に引継がれている)、彼の設計した多くの建物が、近江八幡市内に残っている。

 ヴォーリズがこの地に永住したのは、近江八幡という風土を愛したことはもちろんだが、かつての近江商人たちの心意気に深い共感を覚えたからではなかろうか。彼の八幡での事業は、近江商人たちの行なってきたことに通じるのである。

   註 ヴォーリズについては、07年11月25日に触れている。
      「ヴォーリズの仕事」
      なお、以後数回にわたり紹介。  
 

 旧・西川家は、1706年(宝永3年)に建築された滋賀県内の現存最古の住居遺構で、「大文字屋(だいもんじや)・西川利右衛門(りえもん)」の元邸宅である。
 現在は市の所有となり、重要文化財に指定され、1988年に解体復元修理後、公開されている。
 西川利右衛門・大文字屋は、当地特産の蚊帳、畳表などを全国に行商で販売し、大商人になった人物で、「先義後利栄 好富施其徳(義を先に、利を後にするものは栄え、富を好しとしてその徳を施せ)」がその家訓であったという。

 西川家は「新町通り」にある。この通りは、かつての商人宅が軒を連ね、静かなたたずまい。ただ、写真で分るように、派手なところはなく、地味、堅実な印象を受ける。
 
  註 写真と市街図は「旧西川家修理工事報告書」(滋賀県、1988年)より

 今は「伝建地区」になっているが、他の「伝建地区」のようにはなっていないようだ。「伝建」指定以前から、町の人たちの意識、町で暮すことの意味についての意識、が高かったからだと思われる。
 今回は、西川家の外観まで。

 以上の解説は「日本歴史地名大系25 滋賀県の地名」(平凡社)による。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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教えてください (松本)
2007-07-14 11:23:30
文章中央あたり
「畳表の材料の藺草は、湖岸ですでに南北朝のころから栽培されていたといい、湖岸の村々で栽培加工され、蚊帳屋仲間に集荷され」とある「蚊帳屋仲間」は「畳屋仲間」ではないのですか?
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蚊帳屋仲間か、畳屋仲間か (筆者)
2007-07-14 16:02:13

どうやら蚊帳屋が、畳表も扱っていたようです。

近江の蚊帳の評判はよく、それを扱う多くの商人が江戸をはじめ各地に出店を持っていましたが、その出店が畳表も扱ったのです。

近江八幡の畳は「近江表」として評判がよく(有名な「備後表」などに次ぐ品質と言われていたようです)、周辺農村で栽培された藺草は、各村で畳表に加工され、それを蚊帳屋が集荷して、江戸などの出店で、蚊帳とともに主力商品の一として販売していた、ということになります。

なお、より詳しい状況(近江商人たちの株仲間や講などについて)は、参考文献として挙げた「日本歴史地名大系25 滋賀県の地名」(平凡社)に書かれています。


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