日本の建築技術の展開-29 の補足・ふたたび・・・・高木家の架構分解図:通し柱と差物

2007-05-31 00:39:49 | 日本の建築技術の展開

[追記:5月31日9.45AM]

 「高木家修理工事報告書」に架構および差鴨居、床組の分解図が載っているので、転載させていただく。
 「差鴨居」は「六通り」、床組は「ほ通り」の分解図である(平面図、断面図参照)。

  註 追記
    「みせのま」~「だいどころ」を通る「ほ」通りの床組では
    間仕切上にあたる「六」「十四」通り直上で「鎌継ぎ」で
    継いでいる点に注目。そのため、見えがかりで継手が見えない。
    上に柱がない場合、現在でも使える手法。
    

 「高木家」では、「通し柱」への「四方差」「三方差」等が、手慣れた:あたりまえの技法として、用いられていることが分る。
 おそらく、この頃(19世紀中頃)までには、各種の「継手・仕口」が、道具の改良とともに、ほぼ完成した体系にまで到達し、しかも広く一般に行き渡っていたと考えてよいと思われる。
 なかでも「四方差」「三方差」・・といった技法は、まことに卓抜した技法と言ってよい(ここで使われている「シャチ(栓)継ぎ」などを含め、「継手・仕口」についてはあらためて触れる)。
 
  註 設計者の中には、「四方差」や「三方差」などを、
    柱の断面欠損が激しい、ゆえに柱が折れる・・として
    危険視する人が結構いるようだ。
    しかし、差口の刻まれた柱が、それだけで立っているのではない。
    たしかに、現場への移動中や、建て方時には注意が必要だが、
    組まれてしまえばまったく問題はない。

    第一、もしもこれらが危険な仕口であったならば、
    とっくの昔に廃れていただろう。
      ただし、「差物」の使用は、
      柱が4寸角(仕上り3寸8分角)以上ある必要がある。
      「差鴨居」を多用する建物で、
      4寸3分角の柱が多いというのは、その意味でも妥当なのだ。
     
    また、研究者の中には、
    これらの仕口の部分だけをとりだして強度実験をする人がいる。
    しかし、建物は、一つに組まれた架構全体で成り立つものだ。
    これでは、木を見て森を見ないようなもの。
    森を見つつ木を見るのでなければ、意味がない。
    かつての工人は、森を見る能力があったからこそ、
    「貫」や「差物」の工法を案出することができたのであり、
    また、その効能を理解することができたのだ。

    「通し柱」は、建物の構造強度を高めるためにある、と
    考えている人たちも結構多い。
    しかし、「通し柱」を使うと、ただちに建物の強度が上る、
    などということはあり得ない。
    建物の強度は、部材の組み方、架構全体の組み方に左右される。
    そのために、工人たちは、架構の組み方に工夫をこらしたのであり、
    各種の「継手・仕口」は、そのために生まれたのである。

    では、「通し柱」はなぜ使われたか。
    それは、建て方が容易になるからだ(縦方向の定規になる)。
    これは建て方の現場に立ち会えば、直ちに分ること。
    そして、「通し柱」は、何も隅柱だけにかぎる必要はない。
    このことは、「豊田家」「高木家」の例が如実に示している。
    また、隅柱ではなく棟持柱を「通し柱」として、
    その両側に向けて梁を出し、管柱で支える建て方が
    甲州の養蚕農家にある(塩山の「甘草屋敷」など)。
    つまり、自由自在な発想が肝要だ、ということ。
      残念ながら、現在は、法令の掌の平の上で右往左往し、
      発想が萎縮してしまっている。
      法令が悪いのか、それとも設計者が悪いのか・・・・

    なお、「差鴨居」は、部分的に用いるのは誤用であり、
    見栄で部分的に入れたりすると(「島崎家」の明治の改造)、
    かえって危険になる。
    その意味で、合理的な使い方の例として、
    「豊田家」「高木家」、特に「高木家」は参考になる。
コメント (3)
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日本の建築技術の展開-29 の補足・・・・高木家の図面更新

2007-05-30 20:44:12 | 日本の建築技術の展開

 先回の「高木家」の断面図が不鮮明だったので、つくり直し、平面図とあわせ再掲します。
 なお、図中の番付は「高木家修理工事報告書」記載の番付です。

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日本の建築技術の展開-29・・・・住まいと架構-その6:二階建ての町家-2

2007-05-30 00:57:47 | 日本の建築技術の展開

 「豊田家」のおよそ180年後に建てられた「高木家」。酒造・醸造業を営んでいた。
 二階建だが、「豊田家」とは異なり、二階は床がすべて同一面、天井は高さが低いが竿縁天井として小屋裏を隠す。このような二階建を、本格的な二階建「本二階」と呼ぶ。
 二階は、積極的に、私的な空間として使われたという。

 架構は、「豊田家」と同じく、各間仕切の交点を「通し柱」として相互を「差鴨居」で結び、「差鴨居」上の束柱で「根太掛け」を受け、「根太」を渡す方式。一階は基本的に「踏み天井(根太天井)。

 しかし、「豊田家」とは、次の点が大きく異なる
 ① 四周に「土台」をまわす。ただし、現在の「布基礎+土台」方式ではなく、
   礎石上に「土台」を流し、柱を立て、床位置の「足固め」「大引」で脚部を
   固める方式。
 ② 可能なかぎり「貫」を入れて柱相互を縫う。
 ③ 「通し柱」はすべて約4寸3分(130mm)角とし、大黒柱を用いない。

 つまり、この建物は、その時代までに蓄積されていた「土台」「通し柱」「足固め」「貫」「差鴨居」という技法のすべてを自在に使った、きわめて洗練された方法で建てられている、と言ってよい。
 大黒柱なしで、柱径をすべて4寸3分角とすることができたのも、この方式に拠るところが大きい。その意味で、現在でも大いに参考になる事例と言えるだろう。

 言ってみれば、「豊田家」~「高木家」の180年は、こういった数々の技法を「消化する」時間だった、と言えるのかもしれない。各所の「仕口」「継手」などもきわめて合理的な洗練されたものとなっている。

  註 この建物でも、柱径が4寸3分角である点が興味深い。
 

 ところで、現在の木造の多層建物では、各階の間仕切位置が一致しない例が多い。つまり、二階(以上)の階では、階下の構造とは無関係に間仕切が設けられる例がきわめて多く、しかもそれがあたりまえと思われている。過日、昨今見かける「不可思議な」架構の例を紹介したが(2月5日)、それもこの《習慣》によって生じている場合が多い。

 それに対して、近世につくられる二階建(以上)の建物では、「豊田家」「高木家」と同じように、主要な架構と各階の間仕切は、原則として一致させるのが当然の仕事であった。逆に言えば、各階の空間構成を見通した上で架構を考えたのである。今でも、鉄骨造やRC造では、これが「常識」ではなかろうか。

  註 なお、現行の「壁倍率の計算」をすると、
    この建物は、東西方向(桁行方向)の壁量が不足する。
    つまり《耐震性がない》とされるはずだ・・。
    しかし、かれこれ1世紀半以上健在である。豊田家」も同様。
    というより、現存の重要文化財の建物の大半は同じはず。
    《耐震》学者は、これらの建物の「対震」について、
    謙虚に検討すべきなのである。

 図・写真は「日本の民家6 町家Ⅱ」(学研)より転載・編集。
 なお、平面図中の番付は、「高木家修理工事報告書」記載の番付にしたがい、筆者加筆。

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日本の建築技術の展開-28 の補足・・・・豊田家の二階床

2007-05-28 19:27:21 | 日本の建築技術の展開

 昨日紹介した「豊田家」の断面図が小さかったので、各方向ごとの断面図に分け、あわせて二階床の組み方の詳細を上掲の図にまとめた。
 「日本の民家6 町家Ⅲ」所載の図を、「修理工事報告書」の説明も参考に加工した。

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日本の建築技術の展開-28・・・・住まいと架構-その5:二階建ての町家-1

2007-05-27 19:13:02 | 日本の建築技術の展開

 奈良盆地の南端に「橿原(かしはら)市」という町がある。京都から近鉄京都線・橿原線で南へ向い(京都~西大寺が京都線、西大寺~橿原神宮が橿原線、直通運転をしている)、近鉄大阪線(大阪~名古屋)と交差する「大和八木(やまとやぎ)」駅とJR桜井線「畝傍(うねび)」駅が最寄の駅となる町。
 近鉄橿原線で「大和八木」の一つ南の駅「八木西口」を降りて西に数百m歩くと、「今井町」という一画に着く。「大和川」(大阪・堺にそそぐ重要河川)の源流が脇を通っている。

 ここは、室町時代の末ごろ、称念寺を中心に一向宗の門徒の「寺内町」として開かれたという。東西600m×南北300mのまわりに大和川から水を引いて濠を設け、9ヶ所の門からしか出入りできないいわば城砦のような町で、町内の道もところどころに屈折部が設けられている。
 町の住人たちは自治組織をつくり、領主から解放され、自由な商業を行っていた。信長が隆盛の一時期は武装が解除されたが、江戸時代に郡山藩領になると、商業保護政策により町の活力が重用され、従来のように町は自治に委ねられ、ふたたび繁栄する。近世には天領となるが、自治の伝統は引継がれ、金融業を営むものが多かったため、「大和の金は今井に七分」と言われるほどの繁栄をきわめる。

  註 今から3・40年ほど前、町内の道路には、
    一方通行などの交通標識が一切なかった。
    住民の自治意識が強く、
    警察の指導を受け入れなかったからだという。
    今は変っている。

 江戸期を通じて人口4000人程度、戸数は約900、持ち家と借家(長屋)が半々の構成だったという。
 持ち家層の建物には、代々町の「惣年寄」を務めた「今西家」(1650年:慶安3年の棟札)をはじめ、現在重要文化財に指定されている建物が、この狭い町域に数多く集中して残っている。
 今回は、その中でも純然たる商家である1662年(寛文2年)建設と考えられる「豊田家」と、1830~40年(天保年間)の建設と見られる「高木家」をとりあげ、このおよそ180年の間の技術の変遷を見てみようと思う。

  註 この二つの建物は、およそ300mしか離れていない。

    なお、一帯は、今は「伝統的建造物群保存地区」に指定され、
    「書割り」の並ぶような街並みに変ってしまった。
    3・40年前は、歴史ある街に暮す人びとの息吹きが感じられたが、
    今は、単なる一観光地。
    これは「伝建地区」に共通する問題ではないだろうか。


 上掲の図と写真は、酒造業を営む「豊田家」。建物は元は材木商の牧村家の建物だった。

 「土台」の使用はなく、柱はほとんどすべて「通し柱」で礎石立て、脚部は「足固め」で固めている。
 軸部には「貫」が少なく、東側外壁面と北側小壁面に用いられているだけである。

 「通し柱」を各間仕切り交点に立て、相互を「差鴨居」で結んでいる。1間:約6尺5寸が基準寸法のようだ。
 「通し柱」は標準が仕上り130mm(4寸3分)角で、「どま(にわ)」境の2本だけが太い(いわゆる「大黒柱」:1尺1寸角、および8寸角)。
 この太物の使用は、軸部の強度を「差鴨居」に依存するための策と考えられる。
 差鴨居の詳細は、上掲分解図のとおり。
 
 東側壁面には@半間で「通し柱」が立ち、「貫」は3寸6分×1寸2分弱@約3尺2寸、屋内側表し。

  註 この建物でも柱径は130mm:4寸3分角である。
    4寸3分あれば、差鴨居の仕口はまったく問題がない。
    この寸法は、ことによると幾多の事例の積重ねによる
    経験値なのかもしれない。

    淡路島北淡町で、阪神・淡路地震で倒壊した家屋は、
    3寸5分角(仕上り3寸3分)の柱に丈1尺2寸の差鴨居が入れてあり、
    仕口部で見事に柱が折れていた。
    3寸5分角の使用は、近代になってからのことではないだろうか。

 小屋組は、145mm(4寸7分強)角の束柱相互を2寸5分×8分強の「貫」で@平均2尺5寸で縫う。軸部の柱より太い束柱は珍しい。

 二階建てだが、本格的な二階ではなく、小屋裏の利用と言う方がよく、二階には小屋組の見える場所もある(このような二階を「厨子二階(ずしにかい)」と呼ぶようだ)。

 この二階床のつくり方は、現行の方法とは全く異なり、「差鴨居」上の束柱で「根太受」(現在の「小梁」に相当)を支え、それに「根太」を掛ける方式である。二階床はそのまま階下の天井となる(いわゆる「踏み天井」または「根太天井」と呼ぶ)。

 「通し柱」の丈のほぼ中間に、二段の横架材が差されるため、「貫」で縫った軸組と同等またはそれ以上に軸組を固める効果があると考えられる。
 この方法は、商家では地域を問わず使われている。

 「みせ」のモノクロ写真は「日本の美術№288 民家」、差鴨居の分解図は「修理工事報告書」、そのほかの図・写真は「日本の美術6 町家Ⅱ」より転載。一部の図には筆者加筆。

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日本の建築技術の展開-27 の補足・・・・島崎家について追記

2007-05-25 01:15:45 | 日本の建築技術の展開

[文字、記述修正:5月25日9.50AM]

 島崎家は、300年近く、時々の暮しの様態に応じ、改造を行い暮し続けられてきた建物である。
 それが可能であった理由の一つとして、「当初の空間の設定が妥当であった」ことを挙げた。
 上掲の図の上段の2図は、当初の空間構成:用途によるゾーン分け:を梁桁伏図上に示した図と当初平面(図の向きが昨日の図、および下段の図と異なり恐縮)。

  註 A:主に作業を行うゾーン、炊事も含む。
      比較的親しい人の出入り可。
    B:食事をはじめ家族が過ごすゾーン、軽作業もなされる。
      親しい人の出入り可。
    C:就寝などきわめて私的な、あるいは神聖なゾーン。
      出入りは限定される。
    D:接客専用のゾーン。
    これは、3月15日の「住居の原型」のゾーン分けにDを加えたもの。

 明治以前までの改造では、このゾーン分けを逸脱しての改造はなされていないことに注目してよい。
 つまり、当初のゾーン分けの規模が適切であったため、ゾーン内の暮し方の変化への対応(間仕切の追加など)は、すべてそのゾーン内で処理されているのである。もしも、当初の空間設定が十分でなかったならば、他のゾーンへの「侵食」などもあったはずである。

  註 各ゾーン区分の適切な規模とその適切な配置、
    これが、永く使い続けることができる建物づくりの
    基本要件:基本設計の要件:であると言ってよい。

 さらに、架構が1間グリッドの格子梁を基本としていることが、改造を容易にしているのである。

 下段は、幕末から明治にかけての改造(柱を抜いて差鴨居を入れる改造)を示している。
 たまたま解体中の「島崎家」を訪れたとき、ある柱(それがどこであったのかは覚えていないのだが)の左右に取付く材のアンバランスに違和感を感じたことを覚えている。
 あまりにも巨大な差鴨居が片側にだけ取付き、柱が折れそうに思えたからである。なぜこんなことを・・、と不思議に思った。

 この点について、「修理工事報告書」の筆者(調査者でもある)は、報告書中で次のように述べている。
  「・・なぜこれらの柱を抜取らなければならないのか、その理由を考えると
  第一に間口を広くして各室を続部屋として使用できるようにしたことであり、
  第二には巨材を入れて見栄を競ったものとみられる。
  だが、最もな理由は、前者であると考えられ、これは明治十二年の当家八代
  の光尚の結婚披露のためとみなければならない。このときの婚姻は幕藩体制
  解体後の、近代社会になって最初の祝儀であった。・・」

 私見だが、それまでの士農工商の順位が崩れ、庶民のそれまで鬱積していた「欲望」が突出したのではないだろうか。このころ、各地の商家:町家や富裕な農家で、その地位を「巨材」「銘木」などで具現化しようとする建物づくりが続出し(高山・吉島家、塩尻・堀内家など)、それが後の「民家像」をつくりだしてしまった原因だと私は考えている。

 しかし、そのような建物づくり:《差別化目的の建物づくり》は建物づくりの本道ではないだろう。
 普通に考えるならば、建物をつくるのに、わざわざ材料を遠方から取り寄せたりするわけがなく、手近で得られる材料を上手に使って建物をつくろうとするのがあたりまえである。もちろん、無駄な労力を要するようなつくりにもしないだろう。
ましてや、「使う材料を人に見せること」などを目的に建物をつくるわけもない。
 「島崎家」は、そのような《差別化目的》の住まいづくりとは縁のない本当の意味の住まいづくり、つまり、住まいをつくる基本を示している好例だと私は考えている。

 なお、かなりの数がある文化財建造物の修理工事報告書の中で、私の知っているかぎりでは、「島崎家修理工事報告書」は、「旧西川家修理工事報告書(滋賀県)」とともに、非常に内容の濃い、つまり調査・考察の行き届いた報告書なのではないか、と私は思っている(「旧西川家」は、「近江商人」の町の一つ、近江八幡市にある商家である。「近江商人」とは何か、いずれ触れてみたい)。
コメント (5)
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日本の建築技術の展開-27・・・・住まいと架構-その4:「貫+格子梁」のつくり

2007-05-24 00:31:50 | 日本の建築技術の展開
 
[記述追加:5月24日7.25AM]
[さらに補足追加:5月24日10.27AM、5月25日11.29AM]
 
 上掲の図、写真は、長野県塩尻市の郊外に保存されている重要文化財「島崎家」である。カラー写真は、正面入口側からの全景。
 壁貫材に書き残されていた墨書から、享保年間:1716年~35年ごろに建てられたと見られている。元は武士の出で、一帯の名主を務めた農家であったらしい(ゆえに、この建物にもゲンカンがある)。
 
 塩尻郊外には、緩い勾配の大屋根で建物全体をくるむ「本棟造」が多くあるが、「島崎家」はその原形と考えられている。

  註 普通、「堀内家」が「本棟造」の例として紹介される。
    しかし、その骨太な姿は、明治初めの改造によるものである。

 「島崎家」は、享保に建てられてから現在まで、幾度かの改築・改造はなされたものの、つい最近まで、島崎家により、代々住み続けられてきた。つまり、290年近く暮し、使い続けられてきたのである。

 建物は8間×8間を基本としたつくりで、緩い勾配の石置き板葺き、切妻の大屋根が架かっている(現在は、一部を除き鉄板葺きに変えてある)。
 そして、この8間×8間の各通りに、桁行を下木、梁行を上木にした末口6寸程度の丸太の格子梁が架けられている。長尺ものが多い(最大5間)。
 梁、桁の材種は、マツが主で、他にケヤキ、クリ、サワラも使われているとのこと。[さらに補足追加]

 梁、桁は、柱に「折置」、または「ほぞ差し込み栓」。桁・梁の交差部は、柱の「重ほぞ」、柱がない箇所は「大栓」で縫う。いずれもシンプルでしかも確実な仕口。
 この格子梁構造には、この間、改変・改造はまったく行われていない。

 柱は4寸3分角が標準、礎石建てで礎石に「ひかりつけ」(礎石と貫に残されていた墨で柱の寸法が分った)。決して太くはなく、またいわゆる「大黒柱」などはない。
 材種はカラマツ、サワラ、クリ、いずれも近在で収集。そのほか古材(ほとんどサワラ)が転用されており、転用材の寸面はばらばら。

  註 書院造や塔頭建築の柱も、大体が4寸3分角前後である。

    この建物には、たまたま解体修理中に訪れたのだが、
    「堀内家」が「本棟造」の「典型」と思い込んでいたので、
    その細身の姿に驚かされた。
    以来、「民家は骨太」という《通説》は、
    まったくの誤解だ、と思うようになった。
    骨太になるのは、幕末、明治初め頃からの現象。なぜか?

  註 この建物の基準柱間は、6尺1分:1821mm。
    6尺ではなく+1分になっているのには、意味があるらしい。
    当時、検地にあたり、6尺に1分を足して測るというきまりがあり、
    それが建物へも援用されたのではないか、という。
    このきまりごとの理由は不明。

 この建物には「差鴨居」は、わずかにゲンカンにあるだけで、構造材というよりも見かけのためらしい。したがって、鴨居は「薄鴨居」である。
 軸部は、足もとの「足固め」、そして内法上の「小壁」(かなり背丈がある)に仕込まれた「貫」で固められている(梁行断面図で小壁の背丈が高いことが分る)。「貫」は「足固め貫」も含め、4寸×1寸の材が使われている。[記述追加]
 いわゆる「耐力壁」になるような壁は存在しない。

  註 現在ヌキと呼ばれている木材では、「貫」の役割を果さない。
    丈は3.5~4寸、厚さは最低でも柱径の1/4~1/5は欲しい
    のではないか(4寸角で8分)。[註記追加:5月25日11.29AM]
    
 この建物が、なぜ、300年近く、使い続けることができたのか。
 その理由としては、
 ①構造がシンプルで、しかも丈夫であった
 ②当初の空間構成・各部の広さがきわめて妥当であった
 ③改造が可能な構造であったため、暮しの変化に改造で対応できた
 が挙げられよう。
 特に、単純な方形基準格子上に架けられた「格子梁」は、その格子の下ならば、間仕切りの追加、撤去は容易に行えたのである。実際、改造は常に格子上で行われてきている。

  註 《百年もつ家》などとよく言われる。
    しかし、仮に構造が百年もったとしても、
    暮しの変化に応じて改造もできないようなつくり
    :「筋かい」など「耐力壁」に依存するつくりの建物は、
    永く暮らし続けることはできない。
    2×4工法も同様である。
    これが、最近の木造住居が短命になった一つの理由。

 塩尻近辺には、8間×6間程度の(つまり、「島崎家」から接客部分を取り去った大きさの)「本棟造」が多い。冬の季節風が強く、ときには雪も積もる地域には、このような大きな「土間(ダイドコロ)」を持ったシンプルな形の建屋が適切であったのだろう。

 もっとも、この近在には、1月13日に紹介した茅葺又首構造の「小松家」のような建物も多数ある。
 この並存の理由は一体何なのか、いまだによく分らない。
 異なる文化が、この分水嶺の地において顔をあわせたのかもしれない。

  註 塩尻を境に、北側の水は日本海へ、南側は太平洋へと流れゆく。

 写真、図は「重要文化財 島崎家住宅修理工事報告書」(長野県)より転載。
 加筆は筆者。

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日本の建築技術の展開-26・・・・住まいと架構-その3:上屋+下屋方式からの脱却

2007-05-22 11:11:02 | 日本の建築技術の展開

 霞ヶ浦は、地図で見るとY字型、頭をやや北西に傾けた「ざりがに」のような形をしている。その形を形成する半島様の一帯は、標高25m程度の段丘と谷地田が交互に、しかも複雑に入り組み、一帯は肥沃な土地。縄文期までさかのぼる住居址はもとより、古墳も多数ある。つまり、古代以前より人が住み着いた土地。
 その一角にあるのが「椎名家」である。農家だが、牧畜(馬?)などもやっていたらしく、また村役も務めていたという(ゆえに「げんかん」がある)。

 建設は「箱木家」や「古井家」からおよそ1世紀後。
 この建物の工法は、「上屋+下屋」方式の架構からすでに抜け出している。
 屋根は「上屋+下屋」方式同様、中央を「又首」で組み、その先に垂木を掛け下す方式だが、「又首」部分の載る「陸梁」を支えているのは、かつての「上屋柱」ではなく、「繋梁」上に設けられた「束柱」である。つまり、「差物」を自由自在に扱えるようになっていたと考えてよいだろう。

 「繋梁」は外側では柱に「折置」、内側の柱の仕口は「枘(ほぞ)差し、鼻栓」である。「ひろま」と「ざしき」境の鴨居は「差鴨居」、この仕口も「枘差し鼻栓、もしくは割楔」である。「足固め(大引を兼ねる)」の柱との仕口も同様。

 「差物、差鴨居」の柱との仕口は、後の世には、一般に、もっと手の込んだ仕口が使われるが、ここで使われているのは、柱へ横架材を確実に固定するという目的を達する最もシンプルな方法、と言ってよい(金物の補強などしなくても十分丈夫かつ確実で、今でも使える)。
 なお、横架材を柱に「折置」とする方法も、現在はあまり好まれていないが、今でも使える確実な仕口で、これも金物の補強など必要ない。

  註 同じ頃、関西の町家では、
    より確かに横架材を柱に固定するための技法が
    考案されている(現在も使われている「三方差」や
    「四方差」の多用。これについては近く触れる)。

 なお、「ざしき」と「げんかん」の境は、「薄鴨居+付長押」(内側に「貫」)方式である。武家の建物のつくりかた、つまり「書院造」の影響である(「げんかん」から「ざしき」へいざなわれるのは、村々を見まわる武士である)。
 そして、「薄鴨居+付長押」の形に倣うべく、先ほどの「差鴨居」は、やむを得ず一木から長押型を彫りだしている。こういう例は結構あるらしい。

 写真で分るように、小屋組部材の寸面は、全体に細身である。「民家」は骨太だ、というのは明らかに「誤解」であると言ってよい。

 上掲の図および屋内の写真は「日本の民家 1 農家Ⅰ」より転載。なお、図については説明を加筆した。

  註 これまで紹介の事例には、撮影不可の場合を除き、
    自分で撮った写真もあるのだが、プロの腕前にはかなわず、
    資料がある場合には、転載させていただいている。
    ご了承のほどを・・

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日本の建築技術の展開-25・・・・住まいと架構-その2:「差鴨居」の効能

2007-05-21 02:59:06 | 日本の建築技術の展開

[記述追加:5月21日、8.25AM][さらに追加、5月22日2.56AM]

 室町時代末に建てられたとされる「古井家」は、典型的な「上屋+下屋」の架構方式で建てられている。
 「上屋+下屋」の架構方式は、すでに触れたように(3月15日)寺院、住居を問わず古い時代に使われた工法である。
 寺院等では、上屋部分、下屋部分を用途に応じて使い分けているが、住居の場合は、両者を合わせて一用途に使うことがあり、空間内に上屋を支える柱が等間隔に並び、使い勝手が悪くなる場合があった。
 「古井家」はその典型例で、上掲の図のように、「おもて」「ちゃのま」「なんど」そして「にわ(どま)」に柱が並んでいる(写真参照。なお、平面図、断面図は3月15日掲載図面の再掲)。
 同じ架構方式の「箱木家」は、「古井家」ほどではないが、それでも「なんど」「うまや」「にわ(どま)」には柱が並んでいる(昨日の平面図参照)。

 「古井家」では、この使い勝手の悪さを解消するための大々的な改造が江戸時代に行われたことが保存修理工事によって明らかになった。そこで使われた技法を解説したのが上掲の図である。これは、「日本の民家 3 農家Ⅲ」(学研)からの転載である。

 その技法は、使い勝手の上で障害になる柱を、「梁」および「差鴨居」を新設して撤去する方法である。
 すなわち、次の方法である。
 ① 不用な柱を抜き、両隣の柱~柱に新たに桁行方向に梁を設けて、
   既存の梁を受ける
 ② 同じく不用な柱の下部を切り取り、両隣の柱~柱の鴨居のレベルに、
   横材:「差物」を取付け、切りとった柱の上部を「束柱」として、
   既存の梁を受ける(横材には平角材のほかに丸太も使われている)
   [記述追加]

 この方法の中で、特筆すべきなのが「差物」で、鴨居を兼ねるため「差鴨居」と呼ばれる。
 なぜ特筆すべきか。それは、公家、武家系の建物、書院造などにはない技法だからである。唯一「差物」「差鴨居」が使われたのは、城郭建築だけではないだろうか。「鹿苑寺・金閣」など通し柱を用いた多層建築でも使われていない。

 そして、この「差鴨居」方式は、一般の住居では、後に、新築時から用いられるようになる。[記述追加]

 これは、すでに紹介してきた「光浄院客殿」に代表される「書院造」や、「竜吟庵」「大仙院」などの塔頭建築(「書院造」と言ってよい)などと比べ、一般の住居の高さが低いことに拠ると言ってよい。

 両者とも内法寸法はほとんど変らないから、違いは小屋裏の大きさと鴨居上の小壁の高さに現われる。
 「書院造」などでは、小屋裏を利用した架構(桔木の利用など:記述追加)が可能であり、また、背の高い小壁内には「内法貫」を初め天井長押裏の「貫」など、「貫」を3尺程度の間隔で設け、これらによって架構を固めることができる。それゆえ、柱間を飛ばしても、鴨居は厚さの小さな「薄鴨居」を後入れにすることができた。

  註 「匠明」では、内法高さの6割を小壁の高さとして推奨している。
    つまり、内法が6尺なら、3尺6寸。
    実際には、光浄院では4尺ほどある。[5月22日、2.56AM追加]

 一方、一般の住居では小屋裏を設ける(つまり天井を張る)ことがなく、小壁の高さも低いから、「貫」を入れても間隔が狭く効果が小さい。
 おそらく、そこで考えられたのが、鴨居に丈の高い平角材を用い構造材として扱い柱間を跳ばす方法、したがって、薄鴨居のような後入れではなく、建て方時に建て込む方法、「差鴨居」方式である。
 この発想は、多分、通し柱で多層の建物をつくる工法、すなわち、床梁を通し柱に取付ける工法から生まれたのだろう。そしておそらく、戦国時代の各地の城郭建築は、その方法の進展・利用を広める効果があったにちがいない(城郭建築には、地域の工人が徴用されており、ことによると、彼らの住宅改造で生まれた発想が用いられたのかもしれない)。

 しかし、なぜ、最初から桁あるいは床梁の寸面を大きくして柱間を跳ばす架構法、すなわち現在普通の工法をとらなかったのか。

 一つは、「差鴨居」の効能の利用は、「上屋+下屋」方式の架構の改造から始まり、その方法が定着したことによる。
 そして、多分これが最大の理由と考えられるが、2本の柱の中途に設けられる「差鴨居」と、その上にある「桁」「梁」、そして「束柱」とが組み合わさり、いわば横「H」型の「合成梁」が形成され、小壁の丈が小さくても([記述追加])、架構の強度が飛躍的に向上すること(書院造などの「貫」と同等以上の効力があること)が、幾多の現場で確認されていたからだと考えられる。
 だから、最初から「差鴨居」を用いるようになると、二方以上に「差鴨居」を用いるのが普通になり、後に触れるが、商家の建築:町家では、2階の床も「差鴨居」で支える方式が採られるようになる(現在の「胴差+床梁」方式ではない)。

 これも後に触れる予定だが、明治以降の都市居住者:多くは士族:の住居には、「差鴨居方式」は少ない(ないと言ってもよい)。これらの住居が、武家階級の住居:書院造の系譜上にあるからである。
 そして、二階建ての都市住居で用いられたのは、商家:町家で発展した「差鴨居」方式の二階建てではなく、書院造のつくりかたを二階建てに用いた「胴差+床梁」方式であった。
 実は、これらは書院造の系譜上にあるといっても、かつての書院造のような背丈の高い建物ではなく、いわば農家や商家同様のスケールに縮小した建物であったことに注目する必要があるだろう。
 なぜなら、かつて農家や商家が柱間を跳ばすにあたって悩んだ背丈の低い建物の架構の強度について、考える必要があったはずだからである。
 しかし、その点についての考慮がなされないまま、ただ方式・型式だけ、書院造が援用されたのである。

 後に触れるが、これが明治以降、地震に弱い住居建築:木造建築:を増やしてしまった最大の原因と言ってよく、いわゆる「在来工法」は、その《救済策》として《考案》されたのである。

 一方、農家や商家では、明治以降も「差鴨居方式」が見られ、現在でも、農家住宅には利用例が多い(もっとも《見栄》のため使用が多いが・・)。

 図、写真は下記図書による。平面図、断面図は、筆者加筆。
 外観、「おもて」の写真:至文堂刊「日本の美術№60 民家」
 「にわ」の写真:小学館刊「ブック オブ ブックス 日本の美術37 民家」
 平面図、断面図、架構改造分解図:学研刊「日本の民家3 農家Ⅲ」 

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日本の建築技術の展開-24・・・・住まいと架構-その1

2007-05-20 00:07:11 | 日本の建築技術の展開

 ここしばらく、公家や武家階級の、しかも上層階級がかかわる建物ばかりで、農家や商家、あるいは普通の武士たちの住まいについては触れてこなかった。
 一つには、資料:現存例:が少ないからである。

 現存する住まいで、はっきりと建設時期が分る建物は、1607年(慶長12年)の棟札がある奈良県五條市の「栗山家」が最古という。「栗山家」は、商家で、しかも最上層の住宅であったらしい。

 はっきり建設時期を示す証はないが、現在最も古い建設と考えられているのが、神戸市郊外の山中にあった「箱木家」で(ダム建設で近在に移築・保存)、元禄のころ、つまり1680~90年代の文書に「千年家(せんねんや)」として紹介されており、調査によって、室町時代中期つまり1490年代末から1500年代初め頃の建設ではないか、とされている。
 「箱木家」は農家ではあるが、「地侍(ぢざむらい)」(中世、各地に土着した武士を言う)であったというから、これも上層の住まいである。
 「箱木家」のあたりには、かつて、「千年家」と呼ばれる住まいが他にも多数あったという。

 姫路から北におよそ30キロ、中国山地の一角、兵庫県宍粟(しそう)郡安富(やすとみ)町にも、「千年家」と呼ばれる「古井家」が保存されている。かつて農林業を営んでいたという。
 「古井家」の建設は、「箱木家」よりは遅いが室町時代末(16世紀中頃)まではさかのぼるだろうと考えられている。

  註 「古井家」の平面、断面図は、
    3月17日に、上屋・下屋の説明で掲載している。
    それにしても、なぜ、この地域周辺に「千年家」が多いのか、
    ご教示いただければ幸い。
    

 関東地方では、茨城県新治郡出島村(現かすみがうら市)の「椎名家」が、部材の墨書から、1674年(延宝2年)の建設と判明し、現在、東日本では最古の建物と考えられている。

  註 「栗山家」「箱木家」「古井家」「椎名家」は、
    いずれも重要文化財として調査の上、復原保存されている。

 以上、時系列で建物を並べてみたが、建物の構築技術の進展には明らかに地域差があり、単純に「時系列の記述=建物づくりの歴史」と見なすのは妥当ではない。
 たとえば、室町期は、特に一般の住まいではまだ掘立柱があってもおかしくない頃なのだが(室町時代末1576年:天正4年:建設の「丸岡城」も掘立柱である:4月15日紹介)、「箱木家」はすでに礎石立てで、その痕跡も見当たらない。ところが、東日本では、「箱木家」よりも数等新しい時期に建設された建物でも、掘立柱や土座すまいの例がある。
 したがって、「建物づくりの歴史」を知るには、それらの建設時期を超えて通観して、どのように変ってきたかを見ることが必要になる。そして、最も参考になるのは、建設当初から現在に至るまで(重文に指定されるまで)の変遷が明らかに分る事例である。しかし、そういう事例は決して多くはない。

 上掲の図は、「箱木家」「古井家」および「椎名家」の平面と梁行断面図。同一縮尺に編集。「栗山家」については資料が手元にないので省略。
 いずれも左側が南面にあたる。図が小さいので、拡大してご覧ください。 

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日本の建築技術の展開-23・・・・桂離宮-2:「書割り」による空間

2007-05-18 01:58:58 | 日本の建築技術の展開

 上掲の梁桁伏図を見ると、「古書院」と「中書院」とでは架構が異なることが分る。
 全体に、統一された考えが見えず、何となく雑然としているのは、おそらく、その場その場の考えで、増築していったからなのだろう。屋根にも、相当無理があることが鳥瞰写真で分る(地上からでは見えないから分らない)。
 
 「古書院」「中書院」ともに「桔木」が使われているように見えるが、「古書院」で「桔木」に見える材は、「桔木」にはなっていないことが断面図を見ると分る。なお、断面図も、修理後の断面図である。 

 「桔木」は小屋裏側で端部を押えなければ意味がないのだが(梃子の理屈)、「古書院」では、断面図で分るように、その押さえがなく、むしろ「登り梁」と呼ぶ方がよいだろう。
 その点、「中書院」の場合は押さえがあり、「桔木」になっている。ただ、「桔木」の間隔が粗い(普通の配置は、3月25日記事参照、「大仙院」や「孤篷庵」なども普通のやり方)。ここではかなり簡略化されている。
 いずれにしろ、見えがかり部分に比べると、小屋裏の手の掛け方は簡易。なんとなく、見えがかりを重視する《現代建築》を思わせる。

 また、軸部では、開口上部は鴨居だけで「付長押」がなく、「内法貫」も見当たらない。おそらく、あったにしても、薄くならざるを得ないだろう。鴨居と小屋梁の間には、辛うじて小壁があるだけである(しかし、梁まではなく、天井面で終っている)。このあたりは、いわゆる「在来工法」の住宅に共通するところがある。

  註 すでに紹介した「光浄院」「大仙院」「孤篷庵」などと比較すると
    違いが分る。

 明治の初めには、今にも倒れそうで、見るも無残な姿になっていたというが、この架構をみると、納得がゆく。
 おそらく、山荘・別荘として、当面の用に供することができればよく、永く生き永らえる建物をつくろうという意図はなかったのだと思われる。
 だからこそ、舞台の「書割り」のようなつくり方で空間を構成したのではなかろうか。


 ところで、伏図の各所にある「火打ち」や、断面図の小屋裏にある「たすきがけ筋かい」は、いわば脆弱な架構を補強すべく、今回の修理工事にあたって入れられたと思われるが、小屋だけが固められすぎて、軸部の柔らかさとアンバランス。
 床下はもともと貫で固められていたわけだから、柱間がほとんど開口装置になっている「柔らかい」軸部が、上下を「固い部分」で挟まれる恰好となり、かえって危なくなったように思える。

  註 この補強は、現在の《木造耐震専門家》の意見によるものだろう。
    普通の建物ならば、空間構成の必要性:使い勝手は無視され、
    軸部のあちこちに「筋かい」や壁を入れることになるのだが、
    重要文化財のため、それができず、小屋だけが補強されることに
    なったのだろうと思われる。
    補強法として、このやり方しかなかったのだろうか?

  註 「唐招提寺金堂」(目下解体修理工事中)は、明治の修理に際して、
    母屋(身舎)の小屋だけ、トラス組に変えられた。
    その部分の頑強さが、下屋(庇)部分や母屋軸部の柔らかさと
    アンバランスで、建物全体に歪みが生じる原因になったらしい。
    「修理工事報告書」が待たれるところである。

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日本の建築技術の展開-22・・・・桂離宮-1

2007-05-17 01:25:17 | 日本の建築技術の展開

[記述追加:5月17日8.50AM]

 日本の建築というと、かならず桂離宮が持ち出されるから、触れておかないわけにはゆかない。
 しかし、桂離宮が日本の《一級建築》として扱われるようになったのは、ブルーノ・タウトが絶賛してからのこと。
 
  註 昨年12月26日に紹介した遠藤新の論説
    「一建築家のする―日本インテリへの反省」参照。

 そのころ、日本人のほとんどがその存在を知らず(忘れ)、建物は荒廃し、倒れんばかりであったという。建物が倒れんばかり・・になったのには理由がある。倒れんばかりになっておかしくないつくり(末永く在り続けることなど、考えてないつくり)だったからだ。


 桂離宮は、「八条宮(はちじょうのみや)」家の初代、智仁とその子どもにより、1620年(元和6年)ごろから1640年(寛永17年)前後にかけてつくられた京都桂川下流の河川敷近くの元は山荘である。
 一説には、工事には、遠州配下の工人がかかわったのではないか、とも言われている。遠州流を思わせるところがあるからだろう。

 上掲の鳥瞰写真と図は、「原色日本の美術 15 桂離宮と茶室」からの転載。
 図は、建物平面図と各部屋の使い方の説明図。

 私が学生のころは、建物の中も見ることができたし、外もゆっくりと見ることができた。今は、あたかも「ところてん」のように警備員に後から押されて見るしかないらしい。修学院もそのようだ。
 
 最初に「桂離宮」を訪れたとき、庭を歩いていて、たしかに技は見事だが、計算が見え見えで不快な思いを抱いたことを覚えている。だからなんだって言うんだ・・・、という苛立ち。
 後になって、「これはまさに《現代建築》だ」と思うようになった。懸命になって「見せ場」を見せようとするからである。なぜ、それを見なければならないのか、という理由が見当たらない。だから、途中から疲れてしまう。それが不快になる原因。言ってみれば、無理な観賞を強いられるイベント会場のような印象。

  註 「視覚風景」の追求に終始し、「心象風景」とはならない。
    だから、「遠州流」ではない、と私は思っている。

 なぜ、「孤篷庵」や寺院の客殿などと、まったく異なるのだろうか。

 寺院の客殿は、客殿ではあっても日常の暮しの一環としての客殿。「孤篷庵」も住まいの一部。多分、この点の違いが生み出した差異なのではないだろうか。
 おそらく、桂離宮は、初めこそ自らの山荘だったかもしれないが、途中からは施主:作者のプライドの見せ場になってしまったのだ。そこが《現代建築》と通じるのだ。

 ただ、《現代建築》とは違う点がある。
 それは、《現代建築》は人の金でつくるが、桂離宮は自前だ、ということ。だから、いかに不快になっても許せる。

  註 私には、「修学院離宮」の方の評価が高い。
    そうである「必然性」が感じられるからである。 

  註 「桂離宮」を見たら、是非、「孤篷庵」も観ることをお勧めする。
    「孤篷庵」の拝観は、希望日時等を記し、手紙等で直接申し込む。
    ただし、少人数。写真等不可。 

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日本の建築技術の展開-21 の補足・・・・孤篷庵の断面図

2007-05-16 02:36:06 | 日本の建築技術の展開
 参考として、孤篷庵の各所の断面図を「修理工事報告書」より転載する。
 この図は、修理工事後の図面。書院の小屋裏には、桁行方向に筋かいによる補強が施されているが、これは今回の修理によるもの。小屋組もしっかりしているし、小屋束が貫で縫われているから、ここまでする必要はなかったのでは、と思う。桂離宮の小屋裏も修理で筋かいだらけになったが、元もとの小屋のつくりが粗いから、こちらの方は納得がゆく(次回紹介予定)。

 断面図から、書院部分は、内法高、天井高など、ほとんど普通の住宅と同じスケールでつくられていることが分る。
 たとえば畳面~鴨居下端(現在の内法高)は、「忘筌」では1852㎜(6尺1寸強)あるのに対して、書院では1727㎜(5尺7寸)である。5尺7寸という高さは、5尺8寸とともに、かつての住宅の内法高として常用された寸法。既製木製建具の規格でも、この二種があった(住宅用アルミサッシの規格にも、かつては存在した)。
 つまり、住宅の内法高は、すでに江戸の初期に、ほぼ一定値に納まっていたと考えてよいのだろう。
 そして、天井高の2518㎜(8尺3寸)も、八畳間のごく普通の高さ。

 図面は本堂部分、書院部分を同一縮尺で整理しているが、かなり大きさが異なることが分る。それを一体にまとめてしまうというのは、大変な技と考えてよいだろう。しかも、本堂の屋根は反り、書院の屋根はむくってある。

 大分前になるが、冬の最中、訪れたときに、雪が降ってきた。書院からの雪景色は圧巻であった。寒いのも忘れ、座り込んで眺めていたのを鮮明に覚えている。

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日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6:孤篷庵-3

2007-05-14 21:30:12 | 日本の建築技術の展開

 上の平面図に記入の寸法について:[追記 5月15日9.20AM]
 先回、先々回の全体平面図に計算方法を記載してありますが、ここで再掲。
  例 130.69寸=63.0寸×2+4.69:畳2枚+柱幅4.69寸
    130.86寸=63.0寸×2+4.86:畳2枚+柱幅4.86寸

[註記ほか追加:5月14日11.17PM]

 「忘筌」の空間の構成を詳しくみてみるために、「日本建築史基礎資料集成」所載の展開図と写真を参考に、断面図をおこしてみたのが上図である。
 なお、原資料がメートル法の実測寸法で描かれているため、工人たちの考えを知るには尺貫法による数値併載がよいと考え(工人たちは当時のメジャーでつくっているはず)、1寸=30.3mmで換算した寸法(概数)を括弧内赤字で表示した。

 「忘筌」は、本堂の続きであるため、平面は6尺3寸×3尺1寸5分の畳を基準にした内法制によっている。凛とした雰囲気がつくられているのには、畳の納まり方によるところが多いように思える(平面図で、床柱の畳との取合いを参照。なお、床の間では、床柱は4寸角とし、床柱以外は5寸弱角の柱を、4寸角に見えるように、細工をしてあるのが図面でも分る)。

  註 最近流行の木造では、とかく、これでもかとばかりに木材の存在を
    強調しがちだが、ここでは、あくまでも、
    本当の意味で、「見た目」を考えていると言ってよい。
    以前に触れたが、「匠明」では柱径を柱間の1/10としているが、
    多くの建物が、4寸~5寸角としているのも(1/10以下)、
    同様のことと考えてよいだろう(2月26日記事参照)。
    なお、この建物でも、座敷まわりには、「光浄院」などと同様、
    「付樋端」が使われている(3月6日に図解)。
    
    「本当の意味」とは、柱なら柱が、柱だけ浮き出して見えるのではなく、
    その空間を構成する一部分として働くような見え方、ということ。
    そうなれば、「空間」が感じられるようになる。
    「部分」が目立つことに、何の意味もない。
    部分は、あくまでも「全体の部分」である。

 「忘筌」を最も特徴づけている西面の広縁上部に設けられた明り障子、この障子の敷居の位置は、断面で正確に調べてみると、正座したときの視線(目線)のほんの少し上かほとんど同じ位置に在ることが分る。
 寸法でいうと、畳面から2尺5寸強:75cm程度。身長により、視線の位置は変るが、その違いは僅少。だから、江戸期の人の身長は、多分、現代よりは低いと思われるが、それは大きく関係しないとみてよい。それは実際に、「忘筌」の室内に座れば実感できる。
 実際には敷居の位置は目線よりかなり上にあるように思えるが、多分それは、明り障子の下に見える露地に自然と目がゆくために生じるいわば「錯覚」ではなかろうか。

 床の間の天井を、ここでは回り縁一つ分程度高くしているが、それも目線の検討によるものと考えてよい(座っていて床の間の天井は見えない方がよい。ここでは鴨居・長押が他の箇所と同じ高さでまわっているが、床の間は一般に「落し掛け」を鴨居より上に設けるため、床の天井もこの例よりも高くするのが普通)。

  註 床の間部にある112という寸法は、床框の畳面からの上り寸法。

 広縁部分:露地からの入り口部分の天井を思い切り上げているのも、庭~露地~広縁~座敷の空間構成に「めりはり」をつけるのにきわめて効果的である(単に欄間からの明り採りであるならば、西面の欄間の設けられている位置から考えて、座敷の天井と同面でもよいはず:断面図参照)。

  註 先回掲載の写真は、座ったときの目線よりも高い位置で撮られている。
    これは、全貌を写すためにはやむを得ない。
    それゆえ、「建築写真」から実際を思い浮かべるには、
    それなりの「操作」が必要。

 つまり、詳しくみてみると、立ったり座ったり、そして動いたり、そのときどきの空間の見え方:それによる感じ方:に対しての気配り、心配りが並大抵ではないことが分ってくる。

 実は、こういう感覚は、たしかに遠州は並外れていたにちがいないが、当時は、工人はもちろん、一般の人たちも共通に持っていた感覚と言ってよいと思う。
 なぜなら、工人たちが、遠州の遠方からの指図を十分に理解することができたのは、彼らも「共通の感覚」を持っていたからであろうし、江戸期の商家や農家などでも、この「感覚」の存在を確認できるからである。
 ことによると、皆、現代人よりも数等鋭敏な感性の持ち主で、それを信じていた、と言ってよい。別の言い方をすれば、皆、自分の感覚に素直だったということ。
 そして、まわりからの《情報》に惑わされ、自分の感覚が何であったのか忘れ、自分の感覚に素直でいられなくなったのが現代、単に、他との《差別化》にだけ興味があるのかもしれない。

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日本の建築技術の展開-20 の補足・・・・孤篷庵の指図

2007-05-12 17:25:42 | 日本の建築技術の展開

 先回、当初の「孤篷庵」は、1793年(寛政5年)一度全焼し、その4年後に、ほぼ当初の姿に再建されたことを紹介した。
 焼失前の姿は、指図などに残されている。

 上の図は、焼失前の姿を伝える指図の一で、孤篷庵に保存されているもの。
 現状とは異なり、書院には「山雲床(さんうんじょう)」がない。それゆえ、この部分は、再建後しばらくたってからの増築と考えられる。

 私は実物はみたことがなく、この図は「古図にみる日本の建築」(国立歴史民俗博物館 編、至文堂 刊)からの転載。解説も同書による。
 比較対照のため、再建後の(現在の)平面図を再掲。

  註 「古図にみる日本の建築」は、1987年(昭和62年)に
    国立歴史民俗博物館で開催された同名の企画展の
    図録を基に編まれた書。
    貴重な資料が多数紹介されている。

 誰の手によるものかなど、この指図のいわれは不明。
 縮尺二十分の一。柱を黒い丸、柱通りを単線、部屋名や天井の形式を記入。庭は見取り図を描き、淡彩が施されている。露地の飛び石は寸法入り。

 「起絵図(おこしえず)」の台紙だったらしく、展開図を貼り付けた痕跡があり、そのことから、焼失前に描かれた図の、後の時代の写本であるかもしれないという。

  註 起絵図 
    平面図に各面の展開図、天井姿図(伏図)を貼り、空間を
    立体的に確認するための紙でつくる模型。
    あらかじめ各面を折り込んでおき、
    開くと立体になる「飛び出す絵本」式の起絵図もある。
    建物をつくるにあたっての事前の検討にも使われたらしいが、
    名建築(茶室など)の「写し」(真似た建物)をつくるときに、
    伝達手段として用いられることが多かったようだ。
    起絵図だけ集めた本も刊行されている。 

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