知らなければ 違法ではない? 違法でなければ 何でもできる?

2015-02-28 11:20:53 | 近時雑感

久しぶりに晴れた昨日の朝。一面の霧でした。右手は神社の杜。
霧は、この後、一気に消えました。


私たち一般の人間が車で走行中、速度違反で駐車を命じられたとき、「その場所の速度制限を知らなかった」、という「言い訳」が通用することは、あり得ない。
「標識」があるのは事実で、それを「見忘れた」に過ぎないのだからである。極めて当たり前な話。
しかし、《政治の世界》では、「知らなかった」「見忘れた」ゆえの法律違反は、違法ではないらしい。つまり、「知らなかった」という「言い訳」が認められる。
我が宰相が、国会という場で、その旨、堂々と《宣言》していた。更には、違法でない限り、如何なる行為も正当である、かの言も語っている

敢えて例えれば、法定速度内であるならば、いかなる状況でも、法定速度のままで走行し続けてよい、ということ。
そのような運転は、普通はできないし、やらない。普通人は、そんなに「愚か」ではないからだ。しかし、《政治の世界》では当たり前らしい。
そして、どういうわけか、こういう《思考》の方がたにかぎって、「道徳」の必須教科化をのたまう!


     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
     「中世ケントの家々」続き、ただいま編集中です。

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議論・論議とは?

2015-02-21 11:45:41 | 近時雑感
議論:[ある問題に関し](何人かの人が)自説の陳述や他説の批判を相互に行い、合意点や結論に到達しようとすること(やり方)。
論議:[ある問題に関し]はげしいやりとりの上、より高い相互理解やより具体的な施策を進めること。
ともに、「新明解国語辞典」の解説です。

なぜ、この語の語義を調べる気になったか?
極めて単純です。ここしばらく、TVでは連日国会中継が放映されています。
そこでのやり取りを見ていて、これは議論・論議と言えるのか、と違和感を感じたのです。
とりわけ、我が宰相を含め、政権側の応答は、前掲の字義・語義とは程遠く、むしろ、それを避けているように思えます。
そしてまた、特に、我が宰相の《滔々と》自説を述べる内容は、いずれも、単に威勢がよいだけで、「論理」的に筋の通らない、今は流行らない《かつてのコマーシャル》を聞いているような趣さえあります。
その一つ、「頑張れば頑張るだけ報われるような世の中・・・・・」という文言、これは、「現下の格差の存在」についての見解を求められたときの、
いわば「はぐらかし」(質問にまともに答えず、一般論をぶったり、話題を変えて気勢を殺ぐこと)の答弁の中の文言。
「はぐらかした」つもりが、逆に「本音」が出てしまった、と私には思えました。
それはすなわち、今、現実に「格差」を感じている人びとは、「その人たちの頑張りが足りないからだ」と言っているに等しいからです。
この「認識」の底の薄さには驚きます。
しかし、国会の論議?は、そこでお終い。質問者の更なる「追及」も為されない。そういう「国会審議のすすめかたの決まり」でもあるかのよう。
ところで、この「格差についての認識」は、高所得者の相続税の負担軽減策でも露わになっています。
高所得者が、子どもや孫に教育費として生前贈与する場合は相続税を軽減する、という施策。
これは、言うなれば、教育面での高所得者の優遇策、貧乏人は教育を受ける機会が少なくて当然だ、というに等しいこと。
現政権の中枢に居られる方がたは、率先して、すべてものごとは金次第、という世の中を追い求めている、としか私には思えない。そう言えば、その昔、「貧乏人は麦を喰え」と言い放った宰相もいた・・・・。
もしかして、貧富の格差を拡大し、貧乏人救済のため、徴兵制を「取戻し」、世界各地で「自由に戦争ができる」、そういう下地づくりを画策しているのでは?とさえ思いたくなります。

春が近いというのに、暗い感想になってしまいました・・・。
「ケントの家々」の続き、進行中です!しばらく時間をください。

25日付信濃毎日新聞コラム「斜面」にリンクします。[25日 9.35 追記]

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-9

2015-02-19 10:27:47 | 「学」「科学」「研究」のありかた

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回は、3 Ground-floor halls : late 13th and early 14th centuries の章の紹介です。
この章は、概説に続き、次の節から成っています。分割して、紹介します。
  Timber-framed halls
  Stone halls
  Differences between stone and timber halls
  The form and layout of the hall
  Builders of stone houses
  Builders of timber-framed houses


     *************************************************************************************************************************
[文言補訂 19日16.55]

今回は、分量の都合で、次の節を紹介します。
  Timber-framed halls : 木造の hall
  Stone halls : 石造の hall


なお、全編を通して、地名、建物名が続出しますが、地名については、地図上ですべてを確認できていません。
また、建物は、本書に図などが載っている事例以外は(引用文献等に紹介がある事例は)紹介を省きました。ご了承ください。

参考として、ケント地域の地図を再掲します。[地図再掲追加 20日11.10]



     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
3 Ground-floor halls : late 13th and early 14th centuries

中世の住居の主な形態としてGround-floor hall 形式が長い歴史があることは、多くの遺構調査で明らかにされてきた。
また、aisled hall 形式も、イギリス中の上層社会に於いては、12世紀以来、建てられ続けてきている。HEREFORD の司教官邸SURREY FAHNHAM CASTLELEICESTERSHIREOAKHAM CASTLE などがその例である。
しかし、ケント地域には、これらに相当する例が少ない。この地域で現存する初期の hall は、一部だけが保存されている13世紀初頭建設の CANTERBURY の大司教官邸 aisled hall ぐらいではなかろうか。
この地域で最近まで遺っている中世初期の ground-floor hall の事例は、いずれも13世紀中期に造られたと考えられるが、すべて aisle hall 形式ではない。GODMERSHAMの裁判所公邸CHRIST CHURCH 修道院の邸宅 などがその例であるが、これらはいずれも石造である。

今回の調査研究の過程で、20件あまりの14世紀前期あるいは中期の ground-floor hall の事例が収集・記録されたが、その半数は石造、残りの半数が木造である。
知り得る限り、最も初期の ground-floor hall 形式の建物は石造と思われるが、しかし、石造の住居が木造の住居よりも以前から造られていたのだ、と言い切ることはできない。何故なら、事例を見ると、木造の建物のいくつかの架構は、明らかに1300年代以前のつくりと考えられる「古風な: archaic 」形をしているからである。それゆえ、現存する石造事例の大部分は、14世紀(1300年代)前半以降の建設と見た方がよいのではなかろうか。

Timber-framed halls : 木造の hall

最も旧い(初期のもの)と思われる木造建物の建設時期の判定は難しい。附録1APPENDIX Ⅰ )で明らかなように、これら「古風な架構」事例から採取した試験体は、いずれも「年輪年代測定法」にそぐわなかったため、いまのところ、その判定は従来の方法に拠るしかない。
   註  APPENDIX Ⅰ 本書の巻末に Tree-ring dating の詳しい解説及び50余の実測事例が紹介されていますが、今回の紹介では省かせていただきます。
      いずれ、紹介いたします。
建設時期がよく分っている事例が一つだけある。CHRIST CHURCH 修道院の官邸 EASTRY COURT である。その1293~1295年の「資財帳」に、木材と石材の購入、古い草葺の hall の取り壊し、新しいhall chamber 建築のための大工職への支払い、などの記録が残されている。
   註 「資財帳」:原文は serjeant's rolls です。内容から、日本の資財帳に相当する文書ではないか、と推察しました。
     〇〇COURTCOURT は「中庭」「路地」の意で、地名に用いることもあるようです。この場合は「〇〇邸」の意、とも思われますが、原文のままとします。
                英語の用法・用語に詳しい方、ご教示ください。
この13世紀後期建設の hall は、14世紀に入ると、はじめに木材部が補強改修され、次いで外壁が石造に改修されている。そして、その後の改築では、一つのトラス組を残し、全てが取り壊されてしまっている。その一部遺っていたトラスを想定復元したのが下図( fig8)である。しかしこの事例は、全容は当初の形で遺されてはいないが、ケント地域に残存する最古の遺構の中でも、 aisled hall の初期の架構ならびに形態を想起させるに十分な遺構と言ってよい。ケント地域での正統な木造架構の起源は、13世紀末の10~20年の間であろう、との仮説は、この事例の状況の考察により生まれたのである。


EASTRY COURT に類似のaisled hall は、EASTLING EASTLING 邸SITTINGBOURNE CHILTON 邸SUTTON VALENCE BARDINGLEY 家(農家)などがあり、更に洗練された例として、TONGE の、 NEWBURY 家(農家)、AYLESHAM RATLING COURT ( fig9:下図) が挙げられよう。


その他の初期の木造建築では、HADLOW BARNES PLACE ( fig47:下図)や EAST PACKHAM LITTLE MOAT COTTAGE ( fig48:下図)、 FAWKHAM COURT LODGE ( fig46 a )のように、open truss aisle 形式(身廊+側廊形式)を採っていない。
   註  open truss とは、部屋の中央の「 open : 全容が現わしになっているトラス組:をもつ梁間軸組」の意と解します。
      fig46 bのような場合を spere truss と呼ぶようです。後註参照。




また、時には、CHILHAM HURST 家(農家)のように( fig10:下図 、)まったく aisle (側廊下屋に相当する部分)を設けていない事例もある。
この側廊:下屋を設けない形式は、 aisle 形式(身廊+側廊形式)よりも若干遅れて出現するようである。

   註 open trussspere truss の語義についてwikipediaから抜粋。
     The terms closed truss and open truss are used in two ways to describe characteristics of truss roofs.
     Closed truss:  1) A truss with a tie beam;
                2) A roof system with a ceiling so the framing is not visible.
     Open truss:   1) A truss with an interrupted tie beam or scissor truss which allow a vaulted ceiling area;
                2) Roof framing open to view, not hidden by a ceiling.
     spere, speer, spier, spure.
      Screen, usually treated decoratively, and with one or two doorways, at the lower end of a medieval hall defining the screens passage between hall and
       kitchen, or separating the cross-entry from the hall.
       Its top often coincided with the tie-beam of a roof-truss above, in which case the screen and truss were termed the speer- or spere-truss.

      base-cruck : 下記をご覧ください。
       “CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS”:イギリスの古建築ー4

屋敷地も含めての遺構調査の分析から、最も初期の木造架構は、建設がすべてほぼ同時期の建設で、また、広さも大体同じであることが分ってきた。
ケント地域では、農家住居が2事例だけ完全な形で見つかっている。LEIGHPIVINGTONPLUCKLEY MOAT FARM である。これに BEKLEY 近在の JOYDENS WOOD の事例も付け加えてもよい(この建物は、現在、GREATER LONDON に在る)。
この3事例は、同時に見付かった陶器から、13世紀後半あるいは14世紀初期の建設と判定されている。いずれも、基本は aisle 形式であるが、側面に arcade を備えた軸組は(アーチ状の支えを設けた軸組の意か:下柱参照)設けられていない。
   註 MOAT FARM MOAT は都市や城の周りの堀、濠のこと。ゆえに、濠で囲まれた農場:環濠の農場だろうか?
     arcade : fig9 右手奥の出入口部のように、桁を柱から斜材で支えるとアーチ状になります。ゆえに「アーチ状の支え」と解しました。
     これを連続させるつくりが、  arcade の原義のようです: 拱廊(きょう ろう) と訳すとのこと。は斗です。
     斜材は直材でなく弧を描いていてもよい。その方が、よりアーチ状になる。上註の cruck 構造の記事を参照ください。
JOYDENS WOOD の家は、おそらく base-cruck 構造であったと考えられるが、その他の事例は、梁間1間の軸組(2本の柱の間=1間に梁が架かる軸組: cruck 構造でもなく、 aisle 構造でもない、という意と解します)で組まれた hall であったらしい。
   註 fig10のような構造もこれに該当すると考えられますが、この説明は、梁がもっと単純な(日本の束立組のような)場合の意と推察します。
このような単純な架構を採ることは、それぞれの広さに明白に反映している。たとえば、 JOYDENS WOOD の事例は72㎡で、最近の現存家屋とほぼ同じである。そして、 BEKLEY の事例は、 JOYDENS WOOD の事例よりも狭く52㎡、 PIVINGTON の例は31㎡にすぎず、他の14世紀に建てられた事例に比べても数等小さい。
   註 中世の人びとは、「定型」に拘らず、用に応じて(所要の部屋の広さに応じて)適切な架構方式を考えていた、ということの解説と思われます。

Stone halls : 石造の hall

石造の邸宅は、世俗、教会関係の別を問わず、 14世紀前半から現れだす。
CHRIST CHURCH 修道院の「 Memorandum Book of PRIORY EASTRY」 に、当修道院が行なった1285年~1322年の間の事業・業務が記録されているが、そこには、修道院関係の建物の更新と拡張が、この時期盛んに行われていたことが記されている。
更に、この「 Memorandum Book 」には、修道院が手を付けたすべての建築以外に、先に触れた「資財帳」からしか分らなかった EASTRY COURT の建築についての記録もあり、1303年の CHARTHAM 、1313年の GREAT CHART石造 hall の建築も記録されている。なお、これらの建物はすべて現存している。
MERSHAM MERSHAM 邸(fig11:下図)や

   註 窓まわりの煉瓦積は、修理によるものと思います。
SHELDWICH COPTON 邸( fig18:下図)の hall も、これらにきわめてよく似ているのだが、

Memorandum Book には触れられていないから、これは1322年までには建てられていなかったみてよく、様式的な点から、1320年から1340年の間に建てられたと考えるのが妥当だろう。ほとんど同時期に、 St Augustine's Abbey でも、建物改修が進められ、THANETMINSTER SALMESTONE の農園の新しい建設が始まっている。
このような教会・宗教界に見られる突然の建設ラッシュは、1279年の MORTMAIN 法による規制が一因のようである。
この法律は、宗教団体による新規の土地の取得を禁じていた。そこで、彼らは、手元の資金を既存建物の改修・改築に費やすことに熱中し、その一環として、堅固なつくり:石造:の建物の新築が盛んに行われたのである。 
   註 MORTMAIN 法 : 宗教団体への不動産の譲渡を禁じた法律か?ご存知の方ご教示ください。

現存する一般の人びとの石造家屋の建設時期も、そう大きくは違っていない。その唯一の事例である石造の aisled hall を持つ MEOPHAM NURSTEAD COURT ( fig12 :下図)は、「年輪測定法」で、1309年建造と判定されている。

一方、EAST FARLEIGH GALLANTS MANOR には、「年代測定法」が1322年を示した建屋を持つ事例が在ったようだ。
ACRICE HOAD 家(農家)は、 MERSHAM 邸(前掲: fig11) と類似点ががあり、LEEDS BATTEL HALL は、1330年代あるいは1340年代初め頃に建てられたことが知られている IGHTHAM MOTE ( hall 内観 fig13 :下図 )に匹敵する。

PENSCHURST PLACE は1340年代に建てられているが、ほぼ同時期14世紀中頃とおぼしき事例として石造の牧師館が2例分っている。すなわち、CLIFFE-at‐HOO THE RECTORY HOUSE SOUTHFLEET OLD RECTORY 別称 SOUTHFLEET RECTORY ( FRIARY COURT and OLD FRIARY としても知られている:後章で紹介。この建物の長手の断面図が fig14 : 下図 )である。
   註 rectory : 牧師館
      friary : 托鉢修道会の修道院 詳しくは分りません。

 

                 以上で、Timber-framed halls 、Stone halls の項の紹介は終りです。

              
     *************************************************************************************************************************
     次回は Differences between stone and timber halls と The form and layout of the hall の項を紹介の予定です。
     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
   筆者の読後の感想
   石造と木造のように異なる架構技術がが併存し、互いに影響しあいながら進展・展開するという状況は、日本ではありませんでした。
   イギリスは、近代建築に於いても、先頭を走ったはずです。彼の国の人びとは、鉄やコンクリートが現れても、特段慌てることがなかったのです。
   そういう状況の経験・体験がなかった、ということが、日本が「いわゆる近代技術との接し方」においてギクシャクした因なのかもしれません。
   そのギクシャクは、日本の建築界では、今もって、尾を引いている、そのように思えます。
   大事なのは、虚心坦懐に「建物をつくるとはどういうことか考えること」だと改めて思っています。

   
   


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後になって過去を変えたり、起こらなかったりすることはできない

2015-02-12 09:59:03 | 近時雑感
標題にした「後になって過去を変えたり、起こらなかったりすることはできない」は、
昨日国葬が行われた元ドイツ大統領ワイツゼッカー氏の有名な演説(「荒れ野の40年」と呼ばれています)の一節です。
先日、何気なく見ていたNHKのTV画面で、この文言が字幕にでていたので、どなたかの現政権の動きを憂えての発言か、と一瞬思い、最近のNHKにしては踏み込んだな、と思っていたら、そうではなく、大統領死去の報道で、その有名な「演説」を紹介していたのでした。

全文を知りたくなって探していたところ、東京新聞にその要旨が紹介されていたことを知りました。下に web 版から記事全文をコピー転載させていただきます。
なお、標題に引用した一節の前後は、以下の通りです。
・・・問題は過去を克服することではない。
後になって過去を変えたり、起こらなかったりすることはできない。
過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる。
非人間的な行為を記憶しようとしない者は、再び(非人間的な行為に)汚染される危険に陥りやすいのである。・・・


そして、更に、次のようにも述べています。
・・・われわれ年長者は、過去を心に刻んで忘れないことがなぜ決定的に重要なのか、
若者が理解できるよう手助けしなければならない。
冷静かつ公平に歴史の真実に向き合えるよう、若者に力を貸したいと思う。・・・



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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-8

2015-02-10 15:09:48 | 「学」「科学」「研究」のありかた

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[予告追記 12日 14.50]

今回は、2  Houses of the early and mid 13th century2 13世紀初期~中期にかけての家々 )の章の紹介、その3 として、次の二項を紹介します。
   NETTLESTEAD PLACE and LUDDESDOWN COURT
   Status of builders of early houses

     *************************************************************************************************************************
NETTLESTEAD PLACE and LUDDESDOWN COURT  :  NETTLESTEAD PLACE 及び LUDDESDOWN COURT の検討

これまで述べてきた hall の位置や chamber block についての諸仮説・試論を、より深めるためには、NETTLESTEAD PLACE 及び LUDDESDOWN COURT の遺構についての考察・検討が必須と考えられる。第一は、各遺構の主室の大きさが、私室としては大き過ぎる点についてである。 NETTLESTEAD PLACE の地上階の内部の面積は102㎡、 LUDDESDOWN COURT の二階の最も大きい部屋は95㎡もあり、それは付属する諸室の合計よりも大きい。
NETTLESTEAD PLACE の場合( fig6:下に再掲)は、遺構が、fig6aのように、ヴォールト天井の undercroft で分割されていないこと(一部屋である、という意?)から、想定できることは少ない。けれども、部屋の長辺の壁2面と西側の短辺の壁は、明らかに独立している。また fig6b のように、latrines として説明されている2箇所の突出しのある南面の壁以外、階上の壁の他の三方の壁が消失しているため、出入口、暖炉などの附属設備などの所在がまったく分からず、興味は尽きない。15世紀までには上階は区分けされ外付けの階段で出入りしていたと考えられる(図の▼印の個所か?)。この階段は、後に増補された小さな部屋の出入りにも使われたのだろう。南面の突出し部が latrines であり、この建屋が当初から分割されていたのであるならば、二つの突出しのうち西側のそれは、壁の中央部に在ることから、壁体中に多数の煙突が仕込まれていた可能性が高い。そしてまた、latrines があるが内部階段がない、内部を分割した形跡がない、などから、これは first floor hall ではなく、並外れて大きな部屋に過ぎない、と見なせるのである。
 
   註 undercroft : 辞書には、「円天井の地下室」とありますが、単に、「円天井の(下の)室」 という意ではないか、と解します。

LUDDESDOWN COURT は、下図 fig7(再掲)のように、NETTLESTEAD PLACE よりも多くの部分が遺っている。


階上の三つの部分に分れた部屋は、頑丈な根太床の上に載っていて、158㎡の広さがある。見た限りでは、階下の部屋は、当初、区切られていた気配はない。二階では、主室には中央部に壁付の暖炉が設けられている。この暖炉は、14世紀初期に新設あるいは造り替えられたのではないか、と思われる。この部屋には、おそらく、常時、(外階段から)部屋の東端の出入口を通り出入りしていたものと思われ(図の▼印の個所)、上下階を結ぶ別の階段の存在を示す痕跡は何もない。部屋の西端を右に曲がると別室への出入口があり、この部屋には、隅に暖炉が設けられている。この小室に続いて狭い部屋があり、その端部は latrines らしき箇所へと続いている。現存する各出入口の様態から、この現存部分はすべて同時に建てられたと見てよいだろう。二つの大きな部屋は、屋根が木造の scissor-brace の梁組で組まれていて、壁には中世様の壁画(おそらく13世紀か?)が施されている。
   註  scissor-braced scissorは「鋏」の意。brace は「つっかい棒、突っ張り用の支柱⇒筋違・筋交を入れる」の意。
      下図のような、木材:斜材をX形に交叉させて「登り梁または垂木: rafter 」を支える鋏のような形の架構を言うようだ。
      
         なお、この図は、次回以降で再掲、説明があります。
      木造の最も単純な小屋組は、木材を逆V形に組む合掌組ですが、合掌の底辺:梁間が長かったり、重い荷が架かると、木材が撓むことがあります。
      その対策として、斜材に対してつっかい棒:支柱を入れる方策があります。好例が以前の記事(下記)に載せた信州・塩尻の「小松家」の小屋組です。
     「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-4」
      scissor-braced は、この系統の架構と考えられます。いわばトラス組の原型です。下記もご覧ください。
     「形の謂れ-4…トラスの形
     なお、以前の記事:「CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS:イギリスの古建築」で、イギリス中世の各種木造架構を紹介しています。
     本記事末尾にリンク先を載せてあります。

上記は、「 LUDDESDOWN COURT first floor hallであった」とする論の裏付けとされてきた事実である。当初の小さな開口部が遺されているだけだが、自立している3枚の壁のすべてに窓があったことは明らかであり、それゆえ、ground-ffloor hallは離れて在ったことも 疑いない。調度類も多く遺っており、かつては更に多く在ったのではないかと思われる。
また、 LUDDESDOWN COURT の主室は95㎡の広さがある。教会関係の建物群には、 EAST ESSEXBATTLE ABBEY の修道院長の邸宅や WILTSHIRESALISBURY の司祭の邸宅などのように、これよりも広い事例が在るが、一般の非教会関係の住居でchmber block と見なされている他の最新事例には、このように広い部屋の例はない( NETTLESTEAD PLACE は例外)。
一方、階上の主室が first floor hall であるとの解釈に対してはいくつかの異論が出されるはずである。たとえば、同時代の STROODTEMPLAR MANORcamera (89㎡)に比べ著しく大きいとは言えない、主室を区分して使った気配が見られず、また上下階間の動線の所在が不明である、などは、 RIGOLD 氏の説く first floor hall の必須条件を満たしていない、この建物のつくりは、この建物の持主の暮しに適ったものだったのか、判じかねる、などなどの論議である。
   註 要は、 LUDDESDOWN COURT first floor hall である、と断定する根拠がない、ということと解します。
12、13世紀の住居遺構については、その建物の所有者や建設者の実態について深く留意して研究されることは、これまで滅多になかった。
最近では、 first floor hall のつくりかたは、社会の下層にまでは拡がっていない、むしろ、そういうつくりは彼等とは無縁であったと言われるようになっている。現存するこの時代に建てられた石造住居が、すべて、上層の人びとの建屋である、というのは自明ではある。しかし、人びとの社会的地位と住まいのつくりかたとの関係は、よく分らないのである。 first floor hall は、上層階級特有のつくりである、との説には、社会的地位が高いのであるならば、 hall に加えてもっと豪華な調度も求めていてよいはずだ、との反論が出るだろう。また、住居の構成には、王宮のしつらえ(13世紀も進めば、一家の重要な構成員や従者は、それぞれ一組の部屋:最低でも私室+衣裳部屋:を持つのが普通になっていた)の「写し」があってしかるべきだという論も出されるに違いない。たしかに、ややもすると、hall の所在についてだけに論議が集中し、部屋のしつらえの意味と性格についての考察をないがしろにしてきた傾向がある。
   註 武士階級が、住居の範を、彼らより高位と見なされた寺院の「客殿」に求めたのと同じ「慣習」がイギリスでもあったものと考えられます。
     おそらく、この「慣習」の延長に、いわゆる「文化の伝播論」が発生するのかもしれません。 

Status of builders of early houses初期の家々の建設者たちの地位について

   註 builders : 「建て主」の意と解します。

以上挙げてきたケント地域の、 LUDDESDOWN COURT NETTLESTEAD PLACE そして SQUERRYES LODGEは、すべて、BARON に位する一家またはその一家に深くかかわる者のために建てられている。
LUDDESDOWN COURT は、13世紀のほとんどは、MOUNTCHESNEYS 家が所有していた。
MOUNTCHESNEYS 家は、SWANSCOMBETALBOT の要職の半分を担い ROCHESTER CASTLE に仕える30人の従者を雇っていた。
   註 “・・・the Mountchesneys who held half of the Honour of Talbot in Swanscombe which owed thirty knights for the service of Rochester Castle.”を、
     上記のように解しましたが、自信はありません。要は、 LUDDESDOWN COURT の建て主が、地域の大物・豪族であった、ということだと思います。
この一家は、ケント地域に数戸の邸宅を持ち、他地域にも土地を所有している。現存する LUDDESDOWN COURT の建て主ではないかとされる WARINE de MOUNTCHESNEY は、1213年、相続時に2000マルクを払っている。彼は、PEMBROKE の伯爵 WILLIAM 将軍の娘 JOAN と結婚し、また彼の娘は、 HENRY Ⅲ世の異母兄と結婚している。1255年に死去したときには、200000マルク相当の不動産が遺されている。彼の死去にあたり、Matthew Paris は、イギリス王国で最も高貴で賢くそして裕福な惜しい人物を亡くした、と悼んでいる。
   註 Matthew Paris : wikipedia によれば、下記のような人物のようです。 
     Matthew Paris (Latin: Matthæus Parisiensis, lit. "Matthew the Parisian";[1] c. 1200 – 1259) was a Benedictine monk, English chronicler, artist in
     illuminated manuscripts and cartographer, based at St Albans Abbey in Hertfordshire. He wrote a number of works, mostly historical, which he scribed
     and illuminated himself, typically in drawings partly coloured with watercolour washes, sometimes called "tinted drawings".
つまり、Warine は、単なる一領主だったのではなく、王家の家系に近い貴族の一員だった、ということらしい。

LUDDESDOWN COURT は、MOUNTCHESNEYS 家のケント地域の chalk hills の中の小さな領地に在り、何故そこにこのように大きく、しかも美しく装った建物を建てることになったのかは、よく分らないが、その細部のつくりから、実際に家族の住まいとして使われたのは確かで、おそらく、狩猟の際の lodge だったのではなかろうか。狩猟は、ケントの上層階級・貴族たちに非常に好まれ、 TONBRIDGE の CLARES 家などは、TONNBRIDGE の東部に、NORTH FRITH SOUTH FRITH の二つの(狩猟用の)園地を所有していたほどである。
LUDDESDOWN COURT に似た例に、HAMPSHIREWOOLMER の1284-85年に建てられた EDWARD Ⅰ世 の狩猟用 lodge があるが、この lodge に は、二個の暖炉、二つの衣裳室、一つの chapel を持つ石造の chamber block があり、それは、木造の hall 、厨房、および他の建屋につながっていて、まさしく、 LUDDESDOWN COURT のつくりそのものである。
ゆえに、以上述べてきた LUDDESDOWN COURT の「性格」についての想定・推定は、間違ってはいないだろう。
   註 chalk hills : 第3回の記事(「ケント地域の地勢・地質」の解説)を参照ください。

>、NETTLESTEAD PLACE は、ODELLWAHULL 家のために建てられている。一家の領地は、ケントではなく BEDFORDSHIRE などにあったのだが、NETTLESTEAD PEMBURYCLARES 家から、従者としての報酬を得ていて、その財産は、1291年には、14~15世紀を通して地域の名士であった pimpes 家をしのぐほどであった。しかしながら、この点以外では、ケントではほとんど目立たない存在であった WAHULL 家が、自らの領地から離れた地に、なぜ、かくも豪壮な建物を建てたのだろうか。

13世紀の家として採りあげてきた建物の三つ目、WESTERHAMSQUERRYES LODGE は、CAMVILL 家が代表で管理していた WESTERHAM の土地の一郭にあった。CAMVILL 家は、12世紀から13世紀初頭にかけて、LINCOLNSHIRE の有力な一家なのであるが、 LEEDS CASTLECREVEQUEURS 家と姻戚関係にあること以外、ケントに於いてどのような地位にあったのかは、実際のところまったく分らない。 

以上触れてきたように、最も初期の建設と考えられる遺構三事例の建て主は、すべて、ケント以外の地の上層階層に属す一家である。彼らが何者であるかは、名前こそ分ってはいるが、彼らがケント地域でいかなる役割を果たしていたのか、なぜあの場所に住居とおぼしき建物を建てたのか、その点は曖昧のまま残されている。趣味の狩猟が、こういう建物を建てる理由になるだろうか・・・、大いに論議されていいのである。そして、そのようなことはあり得ないとするならば、別の「答」を示さなければなるまい。

ところで、13世紀の終りごろには、建設に関わったと思われる三家は、すべて、ケント地域の表舞台からは、その姿を消している。

   註 地名は、原文のままにしてあります。地図で調べましたが、比定できませんでした。
      人名、家名も不詳です。

     *************************************************************************************************************************
次回からは、3 Ground-floor halls : late 13th and early 14th centuries の章の紹介になります。
この章は、概説に続き、次の節から成っています。数回に分けて紹介の予定です。[予告追記 12日 14.50]
  Timber-framed halls
  Stone halls
  Differences between stone and timber halls
  The form and layout of the hall
  Builders of stone houses
  Builders of timber-framed houses

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
   この項を読んでの筆者の感想
   この著者たちの、いったん辿りついた「仮説・想定」に決して「安住」せず、常に5W1Hで問い続け、しかもなお問題点を公開し更なる議論を喚起する、
   その「姿勢」にあらためて感じいっています。
   また、日本で言えば平安末~鎌倉時代初期頃の建物(日本で言えば「南大門」「浄土堂」など)、しかも「住居」と思われる建物が多数遺されていることに
   驚いています。彼我の、「歴史」に対する「考え方」の違いなのかもしれません。
   なお、本書の後章に、ケント地域内の他の中世遺構の悉皆調査が報告されていますが、断片的なものも含め、結構、遺っているようです。

      下記のシリーズでもイギリスの中世遺構を紹介していますので合わせてご覧ください。
      「「The Last of the Great Aisled Barns」シリーズ、
      「CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS:イギリスの古建築」シリーズ   
   

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編集作業中です・・・。

2015-02-09 14:21:24 | その他

庭先には、常連のホオジロ、ヒヨドリのほかに、ジョウビタキ、ツグミも顔を出します。
写真は、昼過ぎの庭で地面をほじくり何かを探しているツグミ。
[写真追加]

今冬の寒さは、今が「底」なのかもしれませんね。
陽の差す昼間でも、空気が冷え込んで、関節・筋肉が痛み、さすがにこたえます。動きも鈍くなり、折角の回復が退行したのか、と思うときさえあります。
しかし、土筆が土を押し上げていたよ、との便りもあり、もう少しの辛抱なのでしょう。
     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「中世ケントの家々」の紹介の続き、ただいま、読解に難儀しつつも進めております。もう少し時間を・・・。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-7

2015-02-02 12:06:24 | 「学」「科学」「研究」のありかた

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回は、2  Houses of the early and mid 13th century13世紀初期~中期にかけての家々)の章から、・・・・その2 として、次の二項を紹介します。[文言修正2月3日14.30]
    Chamber blocks 
    Detached Chamber Blocks    
   註 Chamber blocks :「私室にもなる数室の小室からなる建屋」の意のようですので、あえて「個室群 棟」と訳します。
      Detached Chamber Blocks : 「本屋から離れて建つ数室の小室からなる建屋」の意のようですので、「分棟型 個室群 棟」と訳します。

 
文意・訳に間違いのないように留意してはいますが、なお不明、不可解な点があるかと思います。その際はコメントをお寄せください。
また、分量がかなり長くなります。ご了承ください。

     *************************************************************************************************************************
[図版をスケール入りに更改しました 2月3日14.00]

2 13世紀初期~中期にかけての(ケントの)家々・・・・その2

Chamber blocks  : 「個室群 棟」について

農村では、家事・農作業の種類に応じた建屋が用意されるのが普通であり、現存する「二階建ての石造の建屋」が hall の役割を持っていた、とは言い難く、むしろ、これらの石造部分は、かつて木造の ground-floor hall (多くの場合、現存しない)に付属していた「個室の建屋 」であった、と解釈した方がよい場合を数多く見かける。
しかし、このことを実証するのは容易ではない。何故なら、諸記録・文献からは、この事実を明らかにできず、また屋敷地に遺されている痕跡からも、確証が得られることが極めて少ないからである。
それゆえ、農村の家屋敷内の建物配置についてのより詳しい検討・検証が不可欠になる。

二階建て石造建物がすべて、これまで first-floor hall と見なされてきたわけではない。
13世紀には、多くの ground-floor hall には、それに接して二階建建屋を設け、そこに必要な諸室・設備を置いている。王宮や主教の官邸以外でも、WARNFORD 、HAMPSHIRE 、APPLETON MANOR 、BERKSAHIRE 、そして MUCH WENLOCK PRIORY や CHELMARSH HALL 、SHROPSHIRE にその例を見ることができる。
13世紀後半のでは、ケント地域でも OLD SOAR 、PLAXTOL にその事例がある。そして、これらの事例はすべて、 ground-floor hall に接して二階建ての Chamber blocks  :「個室群 棟」が設けられていたことが明らかになっている。


Detached Chamber Blocks   : 「分棟型 個室群 棟」について

石造の二階建て建屋には、それを first-floor hall とは見なし得ないタイプの Chamber blocks  :「個室群 棟」の例がある。多くは、その長辺の壁に二つの出入口が設けられているが、それは、かつては ground-floor hall に直角に設けられていたサービス棟であったと見なせば納得がゆくだろう。
この事例としては、ESSEX の Little Chesterford Manor 、OXFORDSHIRE の Swalcliffe Manor 、HAMPSHIRE の Hambledon Manor の例が挙げられる。
   註 Manor : 辞書では、「土地付きの大邸宅」「荘園」の意とあります。〇〇 Manor は、日本の「〇〇家住宅」に相当する表記と推察します。
ケントでは、 westerham に在る Squerryes Lodge (下図・fig5 再掲)がこの事例である。

この建物の場合、地上階の室に二つの出入口が並んで設けられている。上階には、図のように、妻側の壁に plate tracery window のある大きな部屋がある。
  (この図は、前回の再掲です。解説に若干の不明点があります。前回の註で、不明点について触れています。参照ください)。
しかし、この種類の石造の二階建ての例は、未だにその建屋の役割が判然としない。
Swalcliffe Manor の二つの出入口は、低層の標準的な形式の「別棟」に通じることを思わせるが、それが設けられている壁は、14世紀後期の hall のそれとは別の石造の壁である。それゆえ、その建屋が、当初の hall に接続していたのか、まったく独立していたのか、判然としないのである。
ESSEX の Little Chesterford Manor の場合は、「別棟」は、現存の aisled hall と同時代あるいは一時代早い時期に建てられたと思われるが、二つの「サービス部への出入口」は、その大きさが異なり、かなり離れているので、通常のサービス部への出入口として造られたのではないと考えられ、そしてまた、当初は、二階の部屋へは hall 側の壁の上方の出入口から通じていたようである。これは、Squerryes Lodge にも共通する特徴である。二階の部屋の出入口は hall の(天井の?)低い側から階段で直接通じているが、この形式は、LEICESTERSHIRE の Oakham Castle でも見られる。そこでは、hall の屋根の下に、大きな空間を確保できている。しかしこれは、接する hall が小さな場合には不可能であって、そのようにできるのは、 aisled hall 形式の木造の場合だけだろう。
Squerryes Lodge では、敷地が石造の建屋の壁面から15mもないあたりから急に高くなるため(急坂になっている、あるいは法面になっている?)、 hall を直角に建てる余地はない。
つまり、この建物と Little Chesterford Manor の事例はともに、(当初から) ground-floor hall とは離れて建てられ first-floor halls あるいは Chamber blocks  として供用されていた建屋ではなかろうか。この後者の解釈は、確証はないが、より適切な仮説のように思える。なぜなら、現在の建物の配置は、当初の ground-floor hall の改築の結果であると見なした方が、当初の石造建屋が、突然しかも短期間に hall から Chamber blocks へと用途替えしたと推定するよりも、数等論理的だからである。
これは都合のいい言い訳のように聞こえるかもしれない。しかし、 Chamber blocks が本屋から離れ独立して建てられる事例は13世紀を通して見られる、という事実は無視することはできない。
   註 このあたりの説明、図がないので難解なところが多々あり、当方の推定が多分に含まれております。ご了承ください。
      この部分の叙述についての筆者の感想   
      ここは、現存する遺構、特に「石造の二階建て建屋」の「謂れ」には、諸種の「仮説」があり、そこに存する諸「問題点」の概略を述べている、と解しました。
      引用されている事例には参考文献が示されていますが、せめて、平面図の転載があれば、より分りやすいのではないか、と思いました。
      しかし、多くの場合、「結論」が最初から「存在したかのように」語られるのが、「学術論文」や「報告書」の類の現在の普通の様態ですから、本書のように
      各「仮説」の問題点の所在や検討すべき「内容」などが詳しく開示されているのは、きわめて新鮮に感じられました。

      もっとも、「要点」だけ早く知りたいと思われる方には、くたびれる「作業」かもしれませんが・・・・。
王宮では、 hallcamera は離れて設けられることが多かった。
   註 CAMERA : 辞書では「判事の私室」とあり。原義は、「アーチ形天井(の部屋)」とあります。(再掲)
これは、 wiltshire の clarendon の遺構で明らかだ。そこでは、王と女王の居住区が hall から、そして相互も離れて設けられていて、その様態は13世紀中続いていたようだ。このことは、13~14世紀を通して、他の王室関係の建物でも、諸室・諸建屋間を結ぶ「通路: pentices 」の「発注・仕様書」が存在することからも推察できる。教会系の邸宅については、それを知る明確な文献資料に乏しく、上階に大きな部屋を有する独立した建屋の役割や、その適切な呼称については、更なる論議が必要だろう。
しかしながらケントの CHARING の大主教の邸宅の個室( Chamber )棟は、hall からはかなり離れていて、両者は「廊下」で結ばれていた、としか考えられない。また、OXFORDSHIRE 、Harwell の司教邸の Chamber は、14世紀後半に至るまで、hall からは独立していた。
しかし、当時の慣行・習慣は詳しく分ってはいないから、王や司教たちの居所が独立の Chamber blocks に在った、とは言い切れない。現存の建屋がまったく独立して在り、なおかつ隣接すると考えられる建屋もすべて消失している場合は、その独立して建つ建物の役割は、その敷地内の配置の状況、建屋のつくり:構造(架構法)、建物各部のつくり:詳細などを総合して推定・想定するしかないだろう。しかし、多くの場合は、遺物はきわめて断片的だったり、手が加えられたりしている場合が多く、結論を得ることは容易ではない。しかしながら、二階建ての石造建屋を Detached Chamber blocks と見なすことが適切な確証が少しずつではあるが明らかになってきている。そして、多くの場合、 hall は、石造建屋に近接し、木造で造られている例が多い。
この事例には二種類ある。一つは、それぞれの用途が推定できる多種・多様な石造建屋が在る場合であり、もう一つは、遺されている多くの細部を見る限り、そこを hall と解釈するには無理のある事例、である。見付かった事例の中で、最も説得力のあるのは、CORNWALLJACOBSTOW にある Pennhallam Manor だろう。この事例では、12世紀後半に建てられた石造の二階建建屋は、明らかに、独立の ground-floor hall (すべての痕跡は消失しているが)と同時に建てられた Chamber blocks であると考えられる。当初の hall は、13世紀に、二階建建屋に少し離れて接する石造の hall に建て替えられている。 Chamber blocks は、木造の垂木構造の地下室( under-croft : 地上階の意か?)の上に 建ち上がり、暖房は壁付の暖炉に拠っている。しかし、暖炉の位置が中心にはないから、部屋は二室に分れていたのかもしれない。この事例は、間違いなく first-floor halls の遺構であるとされてきたLINCOLNSHIRE の Boothby Pagnell Manor と同種の建物と言えよう。
残念ながら、 Pennhallam Manor のような完全な事例は他には見付かっていない。NORTH YORKSHIRE、WHARRAM PERCY の石造二階建の建物も、12世紀の Chamber blocks として判定されてきたが、この事例は、その判定根拠と併設の hall の位置に、いくつかの疑点があり、断定はできない。SURREY ALSTED に、13世紀の木造の建屋を併設していたと考えられるきわめて小さな二階建ての石造の建物があるが、ただ、遺構があまりにも断片的すぎ、これも判断が難しい。後者は、13世紀後半に、明らかに ground-floor hall と見なされる建屋に建て替えられているが、そのためには、当初の石造建物を、一部の壁を除きすべて取り壊したと考えられる。その形跡から、当初の建物群は、独立の木造建物と、石造の Detached Chamber blocks から成っていたことが窺えるのである。
すなわち、これまで first-floor halls として見られてきた二階建の建物遺構のいくつかには、 first-floor halls とは認め難い形跡があり、それらはむしろ、既に hall こそ失せてしまってはいるが、hall を含む大きな建物群の一建物であった、と考えた方が理解しやすい。
SHROPSHIREStokesay Castle の最古の二階建建物遺構や WATTLEBOROUGH の塔にも、当初は木造の halls が併設されている。他の事例には、13世紀後期の LEICESTERSHIREDonington-le-Heath Manor がある。その16世紀の壁付暖炉のある階上の大きな部屋には、妻壁に明り窓があり、かつては二つの部屋に分れていて、それぞれには、長辺の壁に設けられた別の出入口から出入りするが、その壁は建物の外に面している。反対側の長辺の壁には、更に二つの出入口があり、後側にある小さな建屋に通じている。この様子から、これは一戸の住居であると見なすことはできず、それぞれが独自の入口を持ち、内部がしつらえられた、より私的な用途の場所であると解した方がよいだろう。
より決定的に Detached Chamber blocks であることを示す事例は、同じく13世紀後期に建てられた SUFFOLKLittle Wenham Hall である。この事例は、 first-floor hall の一典型としてよく引用さる事例ではあるが、著しい矛盾点が二か所ある。二階には、一つの大きな部屋と、それに直接通じてきわめて華麗な礼拝堂( chapel )があり、その調度:しつらえが、hall というよりも個室的な部屋( chamber )なのである。それゆえ、そこは hall というよりも、礼拝堂の上階に設けられた「小さい予備室」( a poky room をこのような意と解しました)と見なした方がいいだろう。この時代のこのような高級な住居に、私的なしつらえがないなどということは考えられず、むしろ、その全体が、大きな住居の Chamber blocks であったと見る方が適切なのである。外壁は、玄関ホールが独立していたであろうことを示しているし、敷地の形状は、それが、Squerryes Lodge の如く残存建物に対して直角に配置するのではなく、並列して在ったことを示唆しているからである。
数年前、RIGOLD 氏は、ケントに在る1228年~1245年の間に建てられた STROOD の Temple Manor の石造建物は、従来 first-floor hall とされてきたが、その解釈は誤りである、との論を提示した。この Manor は、1308年時点で、hallchapelcamera と、その他の附属建屋から成っていたことが分っている。RIGOLD 氏は、この現存の石造建物は、ヴォールト天井で二つの部屋から成っているが、Knights Templar が住居と仕事場として使ったcameraである、と解釈したのである。考古学的な調査から、1308年とされている hall は、石造建物から離れていたことが分っているが、その建設地は、発掘中には確定できなかった。現在、この遺構の土地は ENGLISH HERITAGE の管理下にあるが、おそらく、 hall は、その外に在ったのではなかろうか。
  註 Templar :再掲: Knight Templar という用語があるようです。 wikipedia の解説を一部転載します。
            The Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon (Latin: Pauperes commilitones Christi Templique Salomonici), commonly
            known as the Knights Templar, the Order of the Temple (French: Ordre du Temple or Templiers) or simply as Templars, were among
            the most wealthy and powerful of the Western Christian military orders[4] and were among the most prominent actors of
            the Christian finance. The organisation existed for nearly two centuries during the Middle Ages.
            教会がらみで一定の地位を有し、財力もあった者と思われます。
     ENGLISH HERITAGE : 英国政府によりイングランドの歴史的建造物を保護する目的で設立された組織。
             同様趣旨の組織の NATIONAL TRUST は民間団体。

Temple Manor は、たしかに、当時の自国のつくりの住居(domestic dwelling )ではなかったが、 ground-floor hall から完全に分離して石造のcamera Chamber blocks を設ける配置を見る限り、ここで論じている他の建物と何ら変りはない。どの事例も、その敷地は広く、より多くの建物を建てる余地が十分ある。
しかしながら、遺構が Chamber blocks であるとの確証は、更に多くの事例が発掘され、 hall の建屋の位置が特定されて初めて見えてくるはずである。それまでは、語られる諸説は、いずれも推測・憶測の域を出ないのである。

                            Detached Chamber Blocks  の項  了

     *************************************************************************************************************************
次回は、NETTLESTEAD PLACE and LUDDESDOWN COURT および Status of builders of early houses の項を紹介予定。これで、2  Houses of the early and mid 13th century の章は終りです。
続く3 Ground Floor Halls : Late 13th and 14th centuries の章では、具体的な架構(木造、石造)について解説されます。
     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
   この項を通読しての筆者の感想
   中世のイギリスの農村には、石造と木造の建屋とが混在して建っていたものと思われます。
   石造は現在もほとんど往時の姿のまま残っていますが、木造は改築されたり取り壊された例が多いのでしょう。
   それゆえ、中世の農村の住居・家々の実相を知る=復元するために、様々な試論・仮説が呈示、論議されてきているようです。
   そして、本書は、その論議の状況・過程を丁寧に説明するべく叙述を進めている、と理解できます。
   それゆえ、結論を急ぎたい人には、多分もどかしいかもしれません。
   しかし、読み進んでゆくにつれ、私の中には、徐々に、イギリス中世の農村が姿を現してきたように思います。
   そして、このように「過程」を示すという「姿勢」は極めて重要なのだ、と感じています。日本では見られないことだからです。
   現地で「(発掘)調査」に参加してみたい気分になっています。

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