とり急ぎ・・・・喜多方・登り窯:窯出し速報

2008-11-30 15:39:06 | 煉瓦造建築

登り窯の煉瓦の窯出し作業は、昨日、ほぼ終ったようです。

いずれ、詳細な報告をいただけることになっていますが、
とり急ぎ、
今日の地元紙「福島民友」と「読売新聞・福島県版」に写真入で紹介されていましたので、そこから写真を転載させていただきます。

久しぶりに、しかも素人が焼いたにしては、上出来だったようです。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-17・・・・継手・仕口の発展(2)

2008-11-28 11:29:46 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先々回、鎌倉時代初頭に建てられた「東大寺開山堂(かいざんどう)」の、現在とまったく変らない洗練された工作の「目違い付鎌継ぎ(めちがいつき・かまつぎ)」を紹介しました。
そして、先回は「鎌継ぎ」は、古代:奈良時代の建物にすでに使われていたとして、「法隆寺金堂」の「裳階(もこし)」の「台輪(だいわ)」の「角鎌継ぎ:古代鎌」の例を挙げました。

今回は、法隆寺の「東院 伝法堂」、同じく「東室(ひがしむろ)」に使われている「鎌継ぎ」の例を挙げます。
図面は以前にも紹介した図ですが、今回のために編集しなおしてあります。
上から一段目、二段目の図は「奈良六大寺大観 法隆寺一」から転載・編集。
以下三段は、写真も含め、「文化財建造物伝統技法集成」から転載・編集したものです。
最下段は、「構造用教材」(日本建築学会 編)からの転載・編集です。

「伝法堂」では、「頭貫」は「合欠き(あいがき)・釘留め」、「丸桁(がんぎょう)」は「肘木」上で「鎌継ぎ」で継いでいます。いずれも「継手」の位置は、柱の真上:芯です。
「軸組詳細図」で分るように、外観では柱芯位置に「継目」の線が見えるだけです。この「線」は、「鎌継ぎ」の「首」の付け根にあたり、「鎌」の部分は、芯位置よりもずれています(「継手詳細図」も参照)。
これは、「東室」の「桁」の「継手(角鎌継ぎ)」も同様で、この場合には、「継手」の上に「繋虹梁(つなぎ・こうりょう)」が「渡腮(わたりあご)」で架けられています。

最下段の現在の軸組工法のモデルでは(この本は教科書ですから、「模範」としてのモデル、と言ってよいと思います)、「継手」は柱位置から外にあります。
様子から判断して、よくて「鎌継ぎ」、もしかすると「蟻継ぎ」かもしれません(B を見ると「蟻」のように見えます)。
実際、私も、学校で習ったとおり、梁・桁の「継手」は、柱芯からある程度跳ねだした位置に設けるものだ、とずっと思っていました。

しかし、古代、中世の、そして近世の例を見ても、梁・桁にはそういう例は見かけず、柱直上に「継手」があります。梁・桁の「鎌継ぎ」を、柱芯からずれた位置に設ける例は見かけません(「棟木」や「母屋」桁などではあるようです)。もちろん「蟻継ぎ」も見かけません。

なぜ昔の人は「鎌継ぎ」を柱の真上に置いたのでしょうか。
これには「鎌継ぎ」という継手の特性が関係しているものと思えます。

「鎌継ぎ」は、基本的に、同じ役割を担う二つの部材を繋ぐための「継手」で、部材を材の長手方向(普通、「軸方向」と言います)の力で引張ってもはずれないようにすることが目的です(そして、「構造用教材」のA、Bのように、継がれる2材の断面が異なる例も、まず見かけません)。
例えば軒の桁の場合、「継手」の位置がどうあれ、数本の柱の上を「鎌継ぎ」で継いだ桁が架けられていれば、柱間が上方で開くことを止められます。
釘留めなしの「合欠き」で継がれていたならば、そうはゆきません。

中国直伝の「頭貫」は、当初、柱頭に彫られた孔に落し込むだけだったり、「合欠き」だけだったようですが(下註記事参照)、後に釘で留めたり、「太枘(だぼ)」で留めたり、あるいは「合欠き」の端部を「鉤型」にして相互を引っ掛けるようになりますが、それは「継手」部分が簡単に離れてしまうことを避けるための工夫です(「鉤型」にした「合欠き」については、あらためて触れるつもりです)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-7の補足」

「鎌継ぎ」は、以上のように、「軸方向」の力に対しては、一定程度、状態を維持することができます。しかし、かなり強い力をかければ、「鎌」の部分が飛んでしまうことが起き得ます。

「鎌継ぎ」で継いだ桁材を、柱と柱の間に架け(「継手」が柱の真上にない場合です)、物を載せる、つまり、柱と柱の間で「鎌継ぎ」で継いだ桁に、「継手」上方からの垂直方向の力をかけたらどうなるか。
明らかに、「継手」箇所で、「への字」型に曲がる、つまり、折れてしまうことが容易に想像できると思います。「継手」がはずれるか、あるいは破損してしまうからです。写真の d のような状態が簡単に生じるのです。
もちろん、「継手」部を下から突き上げても、「継手」は簡単にはずれます。

では、このような柱と柱の間に「継手」:「鎌継ぎ」がある「桁」に、真横から水平方向の力をかけたらどうなるでしょうか。
この場合も、力がある程度を越えれば、多分、首の部分が折れ、「継手」は簡単に破損してしまうことが想像できます。

つまり、「鎌継ぎ」は、『「軸方向」の力に対しては一定程度状態を維持する働きのある「継手」であるけれども、上下や横など、部材に直交する方向の力には弱い』という特性がある継手なのです。

そして、往年の工人たちは、この特性をよく承知していたからこそ、「鎌継ぎ」は、大きな力を受けることが少ない場面で使い、さらにその際、「柱の真上に継手を設け」、なおかつ、『柱と、あるいは梁と、そしてあるいは柱、梁・桁を、一体にからませて、「継手」部に大きな力がかからないようにする方法』を考え出したのです。こういう考え方は、先の註の「頭貫」の納め方の変遷にも現われています。

個別に見てみましょう。

「伝法堂」の場合、「丸桁」は「肘木」で受けられています。「継手」は「肘木」の真ん中です。柱と柱の間で「丸桁」に下向きの垂直方向の力がかかったとき(簡単に言えば、「丸桁」に重さがかかったとき)、どうなるか。
「肘木」がなかったら、「継手」は簡単にはずれます。「肘木」がない場合、柱~柱の間の「丸桁」の中央部を上から押さえると(重さをかけると)、中央部が下がり、それとともに両端、つまり柱に乗っている部分は上がろうとします。別な言い方をすれば、両端:柱の上では、水平ではなくなる、つまり、「継手」がはずれる方向に動くということです。
「肘木」があると、そういうことは起きにくくなります。言ってみれば「肘木」は「副え木(そえぎ)」あるいは「方杖(ほうづえ)」の役をはたしているのです。

「東室」の場合、図の右側の材が先に柱にセットされます(下になるので「下木」と言います。大工さんは「したっき」と言うようです)。柱と「下木」は「太枘(だぼ)」で固定されるようになっています。
次いで、そこへ左側の材(上になるので「上木」:「うわっき」と言います)を落し込むと、「鎌」で左右の材はつながります。
さらに、その「継手」の部分に、「虹梁」が架けられます。
よく見ると、左側の材(「上木」)の「鎌」には、「虹梁」が載る部分に「虹梁」の幅の「欠き込み」が刻まれています(図の黄色に塗った部分)。「継手」の上に「渡腮(わたりあご)」の加工を施してあるのです。そこに「虹梁」が架けられると、「桁」と「虹梁」とは噛み合って動かなくなります。

その結果、「桁」は単に「柱」の上に載っているのではなく、そして「虹梁」が単に「桁」に架かっているのでもなく、「柱」~「桁」~「虹梁」が、ちょっとした「継手」上の刻み:「欠き込み」があるだけで、見事に一体に組まれてしまうのです。
これは、見事、と言わざるを得ない工夫です。

いずれにしろ、これらは、何度も書いてきたことですが、机上で生まれたものでもなく、「理論」から生まれたものでもなく、「現場」で生まれた、「現場」だからこそ生まれ得た工夫なのです。

   註 なお、桁などを「蟻継ぎ」で継いだ例は、かつての工法では
      「母屋」などでさえ、見かけないようです。
      「蟻」は「蟻掛け」など、「仕口」としての利用例が多いのかも
      しれません。


それでは、これら古代の工作と、現在推奨されている工法での「継手」を比較してみましょう(上掲のモデル図参照)。

図のA、Bの箇所で、桁に「軸方向」の強い力がかかるとどうなるでしょうか。おそらく、容易に「継手」ははずれるか破損すると思われます。
また、「垂直方向」の力がかかれば、「継手」は簡単にはずれ、あるいは破損します。また、「水平方向」の力でも、簡単に破損するでしょう。

このやりかたは、
「筋かい」が入っているから、「継手」部分には、そのような力はかからない、と考えているのかもしれません。
けれども、A、Bとも、近くに「筋かい」がありますから、場合によると、「筋かい」を経て、桁を押上げるような力がかかり、そうなれば「継手」ははずれ、「継手」部で「への字」に折れることが容易に想像できます。

こうしてみると、私には、古代の工人たちの工夫の方が、合理的で単純明快、数等優れているように思えるのです。
いったいなぜ、何を根拠に、モデル図のような「工法」が推奨されるようになってしまったのでしょうか。まことに不思議です。

ことによると、第二次大戦後の物資不足の時代の、得られる材を寄せ集めてつくらざるを得なかった時代のつくりかたが根にあるのかもしれません(下註参照)。

   註 「桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-3」


次回に補足

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とり急ぎ・・・・「産業の《近代化》」が「近代化産業遺産」を生んだ!

2008-11-27 17:38:34 | 煉瓦造建築
喜多方の登り窯は、「近代化産業遺産」の指定を受けている。
実は、この「近代化産業遺産指定」のニュースを初めて知ったとき、私の中に「奇妙な違和感」が生まれたのをはっきりと覚えている。

喜多方の登り窯が、今から四半世紀前に操業を中止せざるを得なくなったのは、実は、「産業:ものづくり:の《近代化》」の結果である。「産業の《近代化》」が、この登り窯を《近代化産業遺産》化してしまったのだ。
はたして、「近代化産業遺産」指定制度にかかわった人たちの中のどれだけが、この「事実」を認識しているのだろうか。

私は、今回の「指定」により、「喜多方・登り窯」が単なる「観光資源」となり、ライトアップなどで人寄せパンダ化することを危惧していた(今でも)。観光客が増えることは、決して「地域の活性化」ではない、と私は思うからだ(註参照)。「登り窯の再稼動」という言い方をしてきたのもそのためであった。

   註 「風景・環境との対し方-2・・・・『観光』」

ところが、先ほど、その危惧を拭き払ってくれるような内容の「現場報告」が、現場の統括者からメーリングリストを通じてあったので、紹介させていただく。後半を一部割愛します。


皆様こんにちは、金親です。

週末の窯焚き、お疲れ様でした。

前日の大雪に始まり、神事の時の奇跡的な快晴、
夜中の雷雨と、天候もドラマチックな演出をしてくれた、
今回の窯焚きでした。

十数年振りに命を吹き返した窯が、何事も無く、すんなりと行くはずが無く、
案の定、深夜に大いなる試練を、我々に与えてくれたわけですが、
何とかそれを乗り越えた後は、とても順調に運んだ為、
最後の窯などは、かなりの余裕を持って、焼成することが出来ました。

事前の予測よりも、順調に事が運んだために、23日深夜からの焼成作業を
御願いしていた方達には、折角の機会を減らすことになってしまい、
大変申し訳ありませんでした。

参加された方々は、中学生から米寿を迎えた方まで、各年代にわたり、
そして近隣の方から、遥か遠方より来られた方々まで、多彩な顔ぶれでした。

今回のプロジェクトは、実行してみて初めて分る、といいますか、
「腑に落ちる」ことが沢山有るのですが、
今回の窯焚きは真に、その連続でした。

抽象的な言い方になりますが、
「焼き物とは何ぞや」、「登り窯とは何ぞや」、そして「ものづくりとは何ぞや」
という問いへの解答が、おぼろげながら見えて来た気がします。
参加された一人一人の体の内にも、湧き上がって来る「何か」が有ったのでは
無いでしょうか。

窯焚きという炎との対峙は、勝負というよりも対話に近い感覚を覚えました。
「もの」にも心があるのか、はたまた関わる人の意識が乗り移るのかは、
解りませんが、明らかに、こちらの心構えや所作に、反応している様に思えました。

思えば焼き物とは、とてもシンプルで根源的な要素に満ちています。
日(天日)、月(気侯)、火、水、木(薪)、金(粘土や釉薬の元)、土(粘土)
たったこれだけのものがあれば、出来るのです。
そして、これらは自然そのものです。

人は自然の中で生きています。(人そのものも自然です。)
そして、人は何かを創らずにはいられない、
時には生きるための道具を、時には自然と同調するための何かを、
その作業が大変であればあるほど、自然との調和が深まっていき、
自然の一部となり、心の平安を保つ事が出来るのではないでしょうか。

今回の窯焚きで、中学生、高校生が、徹夜をしてしかも真っ黒になりながらも
一心不乱に薪をくべている姿を見て、また遠方より来て、始めて出会った人
同士が、何の違和感も無く共同で作業に取り組んでいる姿を見ていて、
ふと、上のような思いがよぎったのです。

これだけ多くの人を惹きつけるのは、焼き物というものづくりが
人にとって根源的な、本能を呼び覚ますような行為だからなのかも知れません。

煉瓦の製造ということにおいて、近代化産業遺産に指定されたこの窯ですが、
始まりは、瓦の製造であり、登り窯という焼成技術なども、江戸時代から
連綿と続けられてきた、庶民に定着していたものづくりの一形態です。

近代化というものが、ものづくりの工業化、産業化によって成し遂げられ、
殊に日本において、短期間に成就することが出来た背景には、
この窯で見られるような、ものづくりにおける、当時の庶民の底力といったものが
有ったのではないでしょうか。

そういった意味で、この窯は近代化以前の姿を宿している、貴重な遺産であり、
しかも未だ生きていて、近代化への道筋を追体験できるという、稀有な存在です。

近代化以来進めて来た、ものの大量生産、大量消費の文明が、
今まさに崩壊しようとしている、最近の世界情勢ですが、

この三津谷の登り窯で、ものづくりの原点を追体験することで、
近代化に至る過程で、落とし、忘れてきた「何か」を再発見できそうな気がします。

ただ単に煉瓦を製造して販売するだけでは、この窯の存続は適わないでしょう。
しかし、体験ということに目を向けた時、この窯の存続へのヒントがありそうです。

理屈めいたことを言わなくても、既に多くの参加している方々の口からは、
そのような事が、語られ始めています。
来年に向けての提案も、多数寄せられています。

・・・・(後略)・・・


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とり急ぎ・・・・喜多方登り窯・無事焼成終了:続報

2008-11-26 06:44:05 | 煉瓦造建築

昨夜、「とれたて」の煉瓦の写真が送られてきました。
まだ全部を窯出ししたわけではなく、孔をあけて窯の中を覗いて撮ったようです。
明日、27日からが窯出し。待ちきれない・・・・。
上の写真がそれ。
どうやらうまくいったらしいです。窯出しが楽しみ。

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とり急ぎ・・・・喜多方登り窯・無事焼成終了

2008-11-24 12:36:31 | 煉瓦造建築
11月22日午前から始まった喜多方登り窯の再稼動、第一回の火入れ:焼成は、今朝ほど無事終了した、との連絡がありました。

雪が降ったり雷がなったり、窯の温度が十分上がらない時があったり・・・と、大変だったようです。
おって、詳細の報告をきけると思います。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-16の補足・・・・「大和葺き」と「台輪」の説明

2008-11-23 13:58:50 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先回の補足として、「大和葺き」の外観写真と、「台輪」についての説明を「日本建築辞彙」からそのまま転載します。

「大和葺き」の写真は、「奈良六大寺大系 法隆寺 一」がらの転載ですが、スキャナーの関係で、原版の全部はスキャンできていません。
上段は「金堂」外観、ならびに「裳階」の屋根の「大和葺き」の接写。

中段の写真は「裳階(もこし)」の内部。この写真では天井はありませんが、天井板を受ける部材:現在の「竿縁」にあたる材:の仕口部が「繋梁」に見えます。
これを見ると、「裳階」は、本体の壮大な屋根の沈下を支えるためだったのかもしれないと思えます。

下段は「日本建築辞彙」の「台輪」の項。前後の語彙も入っています。

次回

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日本の建物づくりを支えてきた技術-16・・・・継手・仕口の発展(1)

2008-11-22 19:17:58 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加:11月23日 9.33][解説文言訂正 12.35]

設計者の多くが、木造の建物の「継手・仕口」の話になると急に黙り込んでしまう場面によく遭遇します。触れたくないのです。それは施工をする職方のかかわる話であって設計することとは関係ない、と考えているからのようです。より端的に言えば、だから知る必要がない、知る必要もない、だから知らない、と自己弁護しているにすぎないように思えます。さらには、「継手・仕口」をつくれる大工さんがいなくなったから使えない、などと広言する方々さえおられます。これもまた、自分が知らないことを正当化する言のように私には思えます。

その一方、「継手・仕口」を知っている設計者は、「知っている」ということを誇らしげに語り、「継手・仕口」は手仕事でなければ・・・・機械によるプレカットなんて・・・・などと得々と語るのです。大工さんのなかにもそういう方がおられます。
そういう方には、そうだというなら、何故いま、いろいろな道具のなかった時代に戻って仕事をしないのですか、と訊ねたくなります。彼らもまた、昔とは違う道具をつかっているはずだからです。
プレカットに使われる機械もまた、道具に過ぎないのですが、彼らには道具に見えない、機械が勝手にやってくれているかのように見えるらしいのです。

最近も、伝統工法を知る会(正確な名称は忘れました)の企画で、何をやるかと言えば、「ちょうな」で木を削る「実演・実習」をやるというのです。
「ちょうな」でなければ伝統的な工法はできないのでしょうか。「ちょうな」という道具があったことを知ることは悪いことではありません。使い方を知っているのもよいでしょう。
しかし、「ちょうな」がどうして今は使わなくなったか、それに代るどういう道具が、何故生まれたか、その過程を知ることの方が大事なはずではないでしょうか。私はそう思います。

いずれにしても、上記のような事態は、長い年月をかけて日本の工人たちが考案し洗練させてきた技術を貶め、あるいはその正当な継承を妨げる大きな原因になっているように私には思えるのです。

このような事態になってしまったのは、何度も触れてきたように、従前の技術を、明治の「近代化」は「廃棄する」こと、それから「脱却すること」を目指して突き進んでしまったことに起因しています。新たに生まれた「建築教育」においては特にそれが顕著に表れ、それは現在にまで及んでいるのです。


私たちに必要なのは、「継手」や「仕口」は、伊達や酔狂で生まれたのではなく、「建物をつくるにあたって、現場での必要に迫られて発案され、工夫を積み重ねてきたものだ」という視点で見ることだ、と私は思います。
その「積み重ね」とは、「継手・仕口」箇所での「あるべき力の伝わり方」に対しての理解を基に、加工のしやすさ、仕上がった後の見栄えのよさ・・・など全てを考える試みの積み重ねであったはずです。
そしてまた、その「積み重ね」は、「全体を視野に入れながら部分を考える」という視点・視座なくして行ない得なかった、現在のような「部分の足し算=全体」と考えるような思考法では(たとえば「耐力壁」が「一定量」あれば地震に強くなる、などという思考法では)、生まれ得なかったはずなのです。


前置きが長くなってしまいました。

先回、「大仏様」と呼ばれる「東大寺南大門」「東大寺開山堂」「東大寺鐘楼」に使われている「継手・仕口」のいくつかを紹介いたしました。
いずれもきわめて理に適い、しかも洗練されていて、思わず「なるほど・・」と唸ってしまうような工作です。
それらは、一見したところ「複雑な形」をしてはいますが、よく見ると、力を伝える点で理に適っており、加工も決して難しくなく、むしろ簡単だ、と言った方がよいのです。実際、理屈が分ると、「複雑な形」には見えなくなります。
逆の言い方をすれば、理に適った形にしたところ、「複雑に見える」形になったに過ぎないのです。それはあくまでも、目的のために考えあぐねた「工夫の結果」なのです。しかも仕上りも見事。もちろん今でも使えます。

しかし、調べてみると、これは「大仏様」になって突如として生まれたのではなく、そしてもちろん、中国の技術者に教えられたものでもない。似たような工夫はそれ以前から至るところで試みられ、発展していたのであり、言わば、たまたま東大寺の再建にあたって集中的に「現われた」のだ、と考えた方がよいと思われます。

そこで今回からしばらく、そういう発展を重ねてきた「継手・仕口」のいくつかを、時代を遡って集めてみることにしました。そこに、継手・仕口の「原理」を訊ねたいと思うのです。
その資料として「文化財建造物伝統技法集成」に集められている諸例を参考にさせていただきます。

初めに、「開山堂」の「桁」にも使われている「鎌継ぎ」について、しばらく資料を見ながら考えてみたいと思います。

上掲の図版は、古建築の宝庫、法隆寺から、「金堂」の「裳階(もこし)」の「台輪(だいわ)」の「継手・仕口」、「出桁」の「継手」の「鎌継ぎ」を紹介します(「出桁」の図は、「五重塔」の「裳階」の例ですが、多分、「金堂裳階」も同様と思われます)。
ここに掲げる例は、現存する最も古い「鎌継ぎ」の事例と考えてよいのではないでしょうか。

「台輪」とは、一般に、あるものの上や下に設けて、上に載るものを受け、あるいは下にあるものを覆う役割のための平らな材を言います。たとえば、家具:箪笥などでも、引出しなどの容器となる本体を納めた箱の部分を置く「台座」となる最下段の部分も「台輪」と呼んでいます。

「裳階」がなぜつくられたのか、いろいろの説があるようですが、それはともかく、「裳階」は「金堂」本体の屋根の下になる部分には、断面図で分るように、屋根がなく、「繋梁」があり、部分的に天井が張られているようです。[解説文言訂正]
「裳階」の外周の柱の頭に載っている材が「台輪」です。柱頭を繋ぐ材、「桁」同様の役割をはたしている材と言ってよいでしょう。そして、外から見える板葺きの屋根は、その柱に植えられた「肘木」が受ける「出桁」で支えられています。このやり方は、現在の「霧除け庇」の取付け方と同じです(もっとも、最近「霧除け庇」は滅多に見かけなくなりました)。

この「台輪」の「継手」、「鎌継ぎ」の詳細図が上掲の図です。
現在は、梁や桁などの横材の継手は柱位置から外れた位置に設けるのが一般的ですが、古代の建物では、柱の上に設けるのが普通のようです。
上掲の図では、一般部の「柱と台輪の仕口」(右側)と、「継手」の位置での「柱と台輪の仕口」(左側)が示されています。
継手部分は、上から見れば「鎌継ぎ」の形が見えますが、側面では、つまり普通の視角では、柱上の一本の線しか見えません。

なお、この例では、柱の頭の「枘(ほぞ)」が短い枘になっています。一般に長い枘が構造的には望ましいのですが、この場合は「継手」の真下に設けることを考えたからでもあり、また、「裳階」自体、それほど頑丈な架構にする必要がない、という判断によるものと思われます。

「出桁」の例は、「裳階」の軒先部分を、現在の呼び方で「大和葺き(やまとぶき)」と呼ぶ厚い板を一枚おきに交互に上下に葺く「板葺き」で(上掲の見上げの写真参照)、桁の断面を屋根勾配にあわせ、しかも「大和葺き」の形にあわせた「刻み」を設けているため複雑な形になっていますが、それがないものとして見れば、簡単な形です。


現在の「鎌継ぎ」は、普通、先端がバチ型に刻みますが(先回の「開山堂」の桁で使われている「鎌継ぎ」の形がそれです)、この場合は端部が「角型」です。そのため、一般に「角鎌」と呼ぶようです。そして、「角鎌」は古代の建物に多いことから、「古代鎌」とも呼ばれます。

「鎌継ぎ」の名称は、草を刈る「鎌」からつけられた名称と言われています。しかし、「鎌」の「形」は「鎌継ぎ」の形とは結びつきません。
「鎌」は刃を草に「引っ掛けて」刈ります。「鎌継ぎ」は、「凹」型に刻まれた相手に、「凸」型に刻んだ材を「引っ掛ける」ことで2材を繋ぐ「継手」です。
おそらく、この「引っ掛ける」という「行為」の類似点から付けられた名前なのではないでしょうか。
「鎌を掛ける」という言い方があります。「相手に本音を吐かせるために、たくみにさそい掛ける」ことを指します。おそらく、これと似たような用法なのでしょう。

今では、構造上重要な場所:主要な「梁」や「桁」にも「鎌継ぎ」は使われますが、かつては、比較的力のかからない場所に使われているようです。これは次回以降の例で紹介します。

次回に補足

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日本の建物づくりを支えてきた技術-15・補足・・・・開山堂とその図面

2008-11-17 11:24:45 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先回の「開山堂」の継手・仕口分解図、数字などが見にくいので、大きくして再掲します。また、内部:外陣の写真と、仕口の解体時の写真も転載します。仕口の写真は解像度を上げてスキャンしましたが、それでも不鮮明です。
外陣の写真は「奈良六大寺大観 東大寺一」、仕口の写真と説明は「文化財建造物伝統技法集成」からの転載です。
なお、図面記載の寸法は、原本の図中の数字がかすれているので、私が判読して記入したものです。

先回の「繋虹梁」を「頭貫」への取付けが「全蟻」であることについての解説で、「これをみると、むしろ、現代の木造技術は、特に建築法令や住宅金融公庫などが《推奨してきた木造技術》は、数等退化している、と言わざるを得ません。
そして、これらを《推奨してきた方々》は、「頭貫」へ「虹梁」が「蟻」だけで架かっているのを見たら、恐れおののいて、羽子板ボルトで補強せよ、と言うに違いありません。架構全体を見る習慣がなく、部分だけしか見ないからです。」と書きました。
この場合の「全体」とは何のことなのか、説明不足でしたので、あらためて外陣の内部写真をもとに補足します。

上掲の写真の左側が開山堂正面の入口にあたります。そして右手が内陣の入口です。写真の正面は、外陣の側壁になります。
この写真から、入口以外の外壁各面には、「頭貫」の下に、入口の鴨居の高さ(「内法(うりのり)」または「内法高」と呼んでいます)と腰の高さに横材が設けられています。これは2本とも「貫」で、柱相互をつないでいます。内法の貫を「内法貫」、腰の貫を「腰貫」と言います。
入口脇にある「連子(れんじ)窓」(格子の入った窓)は、この二段の「貫」の間にあけられています。

   註 なお、図面では外陣は板張りの床になっていますが、
      写真では土間になっています。
      図面は、ある時期の姿で、
      元来は写真のように、土間であったようです。

それゆえ、建物の外側面の4面(=「外陣」の外側面)は、「貫」で縫われていて、架構全体は格子状の立体になっていると言えるでしょう(ただし、入口部分だけは「腰貫」がありません)。
「貫」は各柱に「楔」で締めつけられていますから、この立体はきわめて頑丈です。
今の(建築法令の)構造の考え方では、一般に立体の強さを「壁」に求めるのが《習慣》になっています。普通「耐力壁」と呼ばれている「壁」です。
しかし、この格子組の立体では、「壁」がなくても、つまり各面が「透け透け」であっても頑丈なのです。これは、竹ヒゴでつくった虫かごが丈夫であるのと同じです。

   註 外陣の外側を囲む柱の脚部にまわっている「土台」様の材は
      「地覆(ぢふく)」と呼び、内部の土間の見切りのために
      後入れする材で、構造にはさほど効いてはいません。
      内陣の脚部は、「大仏様」の方法で、「鐘楼」同様に
      「地貫(ぢぬき)」がまわっています。端部が写真で見えます。
      これは、柱脚を固める部材として構造的に効いています。

「全蟻」で架けた「虹梁」が危ない、と恐れおののくのは、何かの拍子で「蟻」が破損し外れてしまう、と思うからです。
たしかに、この「仕口の部分だけ」をつくって力をかければ、そういう事態は簡単に起こすことができます。
ところが、実際はこの仕口部分が独立してあるわけではなく、建物に組み込まれているわけですから、しかも、先のような頑丈な立体格子の中に組み込まれているわけですから、「蟻」が外れる(破損する)ような事態は起きようがないのです。

ところが、困ったことに、数字信仰の強い《科学者》たちは、全体が見えない(この場合では、立体格子上の一部である、という事実が見えない)上に、「こういう事態は起きようがない」ということを数字化して示さないと《納得できない》と言う人たちなのです。数字で示されない、示すことができないものだから、彼らは恐れおののき、補強、補強、ボルト、ボルト・・・と叫んでしまうことになるのです。
おそらく、医学の世界であるならば、800年間以上も無事であるならば、それは参考になる方法なのだ、と理解するでしょう。それが、どんな実験室での実験よりも優れた実験である、と認めるからです。これが「疫学的」研究の考え方の基本です。

そして、800年という時間をかけなくても、現場で実際に架構組立にかかわる人たちならば、そしてまた、その「現場」を想像することのできる人ならば、「大仏様」の工法、つまり「貫工法」が、いかに優れているか、数字がなくても理解・認識するはずなのです。

だから私は時折り思うのです。
現行法令の構造諸規定の「策定」にかかわる方々、確認申請の「審査」にかかわる方々、そして、構造「計算」にかかわる方々(木造に限りません)は、かかわるにあたって、ペーパーテストではなく、「木工」などの「工作の実習授業」を受けるべきだ、と。それを通じて、仮に「工作」を職としない場合であっても、「想像力」を養うことができるはずだからです。

そして、「工作実習をクリアできない方々」は、「策定」や「審査」や「計算」に、かかわってはならない、と。

次回

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日本の建物づくりを支えてきた技術-15・・・・東大寺・鎌倉再建:新たな展開-3

2008-11-16 10:58:07 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版編集に手間取り、間が開きました]

先回まで、僧「重源(ちょうげん)」の下で言わば突如として出現した「大仏様(だいぶつよう)」と呼ばれる工法・技術による「鎌倉再建大仏殿」「鎌倉再建南大門」をみてきましたが、東大寺の寺域には、「大仏様」の建て方による建物が、3事例遺っているようです。「法華堂・礼堂(らいどう)」「開山堂」「鐘楼(しゅろう)」です。
その所在とそれぞれの簡単な紹介が上掲の図版です。
写真、図面は「奈良六大寺大観 東大寺一」、分解図は「文化財建造物伝統技法集成」からの転載・編集です。

   註 1190年代は、平安末、鎌倉初、のどちらとも言える頃です。
      ここでは、一般に言われる時代区分・呼称によっています。

「法華堂」は、「東大寺」建立以前から同地に在ったことは以前に紹介しました。
当初の「法華堂」は、「正堂」と「礼堂(らいどう)」の建物が二つ並んで建つ「双堂(ならびどう)」の形式をとっていたようです。神社の「本殿」と「拝殿(はいでん)」の関係と同じです。
ところが、「礼堂」は、平安時代の末には、かなり状態が悪くなっていて、東大寺鎌倉再建時に修繕が行なわれ、その際、離れて建っていた「正堂」と「礼堂」の間をつなげてしまったのが現在見る姿です。いわば、増改築と言ってよいでしょう。
この「礼堂」の改修にあたって「大仏様」の建て方が採られています。

「法華堂」は仏像の宝庫、拝観自由です(拝観料は必要)。写真の右手、南面から「礼堂」に入ります。そこで目にするのは、屋根を支えている豪快な小屋組の姿です。梁間6m弱の小さな堂ですが、それに対してこれだけの小屋組。見事なつくりなのですが、「ここまでやるか」と思ってしまいます。「法華堂」に対する「思い入れ」が強かったのかもしれません。しかし、きわめて頑丈で、何があっても壊れないでしょう。
なお、前にも書いたと思いますが、写真の西面では、「長押(なげし)」の時代のつくりかたと、「貫」の時代のつくりかたの違いを、よく知ることができます。


「開山堂」は、「良弁」僧正を祀った堂で、当初は、図に「内陣」と付した約3m四方の小さな「方形(ほうぎょう)屋根」の堂であったようです。「外陣」を増築するにあたって、建物の高さを高くしていますが、小屋組は当初のまま。ここでもきわめて頑丈な小屋が組まれています。この建物は一般に開放されていません。私も中に入ったことはありません。

   註 「方形屋根」:四角錘型の屋根。
      「外陣」増築後の「開山堂」も同じです。

小さな堂ですが、仕口や継手は確実、丁寧。
「外陣」の外側の柱と「内陣」の柱とは「繋虹梁」で結んでいますが、上の分解図は、「柱」と「頭貫」、「繋虹梁」との取合いを示したもの。番号は、据付けの順番を示しています。
まず①:左側の「頭貫」は「柱」につくられた凸型突起部に落し込み、
次いで②:右側の「頭貫」を同様に落とし込みます。
左右の「頭貫」は、先端が「鉤型」に刻まれているため、落し込むと一体になり、しかも「柱」の突起部に噛み合っているため、「柱」と「頭貫」も一体になる、というわけです。
そして一体になった「頭貫」へ③:端部の全高を「蟻型」に刻んだ「繋虹梁」を落し込みます。このように端部全部に「蟻型」を刻んだ場合を「全蟻」などと言います。

「繋虹梁」は、「内陣」側の柱では、「貫」となって「内陣」内を貫通して反対側の「繋虹梁」に至ります。
[「外陣」柱~「内陣」柱]~[「内陣」柱~「外陣」柱]の計4本の柱が、「貫」によって一体に縫われた形になるわけです。
古代の「繋梁」は、「内陣」の柱に引っ掛かっていただけですから、これは大きな違いです。

なお、「頭貫」の上端は「柱」の上端より高く納まり、組み上がると柱の上部に凹部ができ、そこに「斗」が嵌まる細工になっているのです。それゆえ、古代の「斗」と異なり「太枘(ダボ)」で固定する必要がありません(写真があるのですが鮮明でないので省略しました)。

下の図は「側桁」:「外陣」の外側の柱上の桁:に使われている「継手」です。
これは、現在も使われる「目違い付・鎌継ぎ」とまったく変りありません。
つまり、現在も使われる「継手」が、800年以上前に、すでに完成形になっていた、ということです。

これをみると、むしろ、現代の木造技術は、特に建築法令や住宅金融公庫などが《推奨してきた木造技術》は、数等退化している、と言わざるを得ません。
そして、これらを《推奨してきた方々》は、「頭貫」へ「虹梁」が「蟻」だけで架かっているのを見たら、恐れおののいて、羽子板ボルトで補強せよ、と言うに違いありません。架構全体を見る習慣がなく、部分だけしか見ないからです。


下段の「鐘楼」は、「大仏様」工法を理解する絶好の事例と言えます。自由にみることができます。
ここでは、柱を貫く「貫」の様子、組み方がきわめてよく分ります。
同じ高さの「貫」が柱内でどのように交叉しているのか、先に「南大門」の例を紹介しました。
「南大門」では、柱に穿つ孔の大きさ:高さは、「貫」の断面より僅かに大きいだけでしたが、「鐘楼」では、堂々と、「貫」の高さの1.5倍の高さの孔をあけています。写真の〇で囲んだ場所を見ると、左から来た「貫」の上に大きな穴があいて埋木をしてあるのが分ります。右から来た「貫」にはありません。
つまり、右から来る方向の「貫」は、断面と同じ大きさの孔、左から来る「貫」に対しては1.5倍の高さの孔をあける。交叉部では、両者は「合い欠き」で納まっているのです(もっとも、同じ大きさ、1.5倍の高さ、と言っても多少の「逃げ」を見た寸法になっています)。
このようにして組み上がると、「柱」と直交する二方向の「水平材:貫」とは、簡単には動かない「一体の架構」に仕上ることになります。

また、軸組の最下部にも、土台のように水平の材が「井桁」様にまわっています。「地貫(ぢぬき)」と言われ、建て方に際しては、先ずこの「井桁」が組まれ、柱はその四隅の交点をまたぐ形で据えられます。その結果、柱の足もとは四角に固定されることになります。そして、上の各段の「貫」が、これも「井桁」様に組み上がったとき、軸組は確固たる形状を構成し、外力に対して形状を維持し続けることができるのです。
なお、「地貫」は、礎石の上に据えられているだけで、アンカーボルトなどはありません。

「大仏様」工法のいわば「極意」は、まさに、「柱とそれに交わる二方向の水平材を一体化することで軸組を強固にする」点にある、と言えると思います。
それゆえ、この方法の「利点」「特徴」は、その後、一般にも理解され、広く普及してゆくのです。後に商家、農家で使われるようになる「差物、差鴨居」工法も、その延長上の工夫であったと考えられます。


しかし残念ながら、ここ半世紀あまり、「貫」を用いる工法は、「建築法令」や、それを支える《学者・専門家》からは、ダメな工法として黙殺されてきました。

以前、「在来工法」なるものの生じた理由について触れたとき書いたように(下記参照)、「1本ごとに異なる木材を組んで一体化する工法」が現在の《科学的方法論・分析法》では解析不能ゆえに、《科学的に》無視・黙殺されてきたのです。

私には、800年以上前の工人たちの方が、数等「科学的な頭脳の持ち主」であったように思えます。

   註 「『在来工法』はなぜ生まれたか・・・・『在来』の意味」
      なお、この前後に書いた記事も参照ください。

なお、「鐘楼」に使われている「貫」の詳細形状などは、以前の記事で紹介してありますので参照ください(下記)。

   註 「東大寺・鐘楼-2」


次回

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喜多方訪問・余録・・・・喜多方のトラス

2008-11-11 10:20:58 | トラス組:洋小屋

「・・・支えた技術」の合間に、喜多方訪問の続きを。

喜多方はラーメンの町ではなくトラスの町だ。
最近の建物には見かけないが、明治・大正そして昭和初期に建てられた建物にはトラス組の小屋の建物が多い。つまり建ってから約80年以上は経っている。
トラスは、喜多方地域に多い煉瓦蔵だけではなく、木造建物でもあたりまえのように使われていたのだ(過去形にしたのは、今は使われていないから)。
しかも、どれも洗練されている。
木造の例は、06年12月19日紹介の写真に載せた(下記註参照)。この木造の倉は、まだ健在であった。

   註 「『実業家』たちの仕事・・・・会津喜多方の煉瓦造建築-2」

上の写真は、「登り窯」の覆屋に使われているトラスと、町の中心部にある「甲斐商店」の元倉庫。
登り窯の覆屋は大正年間、「甲斐商店」の倉庫は明治末年の建設(一時、「吉川商店」の倉庫であった)。

「登り窯」の覆屋はすべて木造だが、「旧甲斐商店倉庫」は煉瓦組積造の二階建て。外観は写真のとおり。一階は煉瓦2枚半、二階は2枚積み。
二階の床は、煉瓦壁間に5寸×8寸ほどの松梁が3尺ピッチで架けられ、根太なしで板張り。

釉薬をかけた煉瓦が全体に使われているから、06年12月16日に紹介の赤煉瓦の組積造の蔵より後の建設と考えられる(下註記事参照)。赤煉瓦は凍害を受けることがあり、そのため釉薬をかけた煉瓦を使うようになるからだ。

   註 「『実業家』たちの仕事・・・・会津喜多方の煉瓦造建築-1」

      なお、甲斐商店倉庫は、以前は中に入ることができなかった。
      今は喜多方の住人が買い取り、整備中。普段は入れない。
      今回は、その方のご好意で内部を見せていただいた。
     

写真のように、ここで使われているトラスには、金物がまったく使われていない。覆屋のトラスの真束下部の「箱金物(はこかなもの)」は最初はなく、「陸梁(ろくばり)」に「枘差込栓打ち(ほぞさしこみせんうち)」だったと思われる。
覆屋は吹きさらし、下からは熱気、煙がいぶす。しかも軸部は木造。そのため、仕口が傷み補強されたものだろう。
「甲斐商店倉庫」のトラスは屋内だから傷んではいない。金物が使われていないことが歴然。仕口に隙など少しもあいていない。仕事はきわめて丁寧、しかも手慣れていて、洗練されている。

   註 写真の陸梁が撓んでいるように見えるが、
      これは、カメラをあおっているため。実際は水平。

トラス組は日本の工法ではない。そうであるのに、この洗練さは、長年使い慣れていたかのようだ。
しかし、以前にも調べたのだが、いったい何時ごろ喜多方地域にトラス技法が伝わったのか、いまだに不明である。
ことによると、鉄道工事(現在の磐越西線)の技師が伝えたのかもしれない。
あるいは、洋風建築が早くからつくられていた山形の方から伝わったか。喜多方から北に峠を越えるとすぐに米沢(もっとも、その峠:「大峠」は難所に近かった。今はトンネルが通っている)。

とにかく喜多方のトラスは一見の価値がある。


ここ四半世紀で喜多方が大きく変ったのは、町なかに、住宅メーカーの手になるどこにでもある住宅が増えたこと。そこだけ写真に撮れば、どこの町だか分らない。多少違う点があるとすれば、屋根。雪が降るため、比較的勾配がきついのと雪止めが付けられている。
ここでも「地域の特性」は、失われつつあるあるようだ。
コメント (2)
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とり急ぎ・・・・喜多方・登り窯再稼動:現在の動き

2008-11-09 20:15:01 | 煉瓦造建築

[文言追加、図版更改 11月10日 3.55][現場連絡メール コピー転載 10日 9.40]

喜多方は、すでに冬の気配だった。
日帰りで喜多方登り窯を訪ねてきた。
片道280キロほど、以前は5~6時間はかかったが、今は常磐道、磐越道経由で3時間半。磐越道は人家の少ない今は盛りの紅葉の山中を走る。

登り窯も秋の景色に馴染んでいた。
久しぶりの訪問。登り窯の覆屋の屋根は鉄板葺きに変っていたほかは昔のまま。
登り窯の南側で何やら作業をしている人たちは、喜多方工業高校の学生さんたち。
彼らはボランティアで、学校ぐるみで今回の煉瓦焼成へ向けての活動に参加している。

11月23・24日の焼成へ向けての準備が、少し遅れ気味ながら進んでいた。

主な作業は、煉瓦素地に釉薬を付ける作業、施釉済みの煉瓦素地を窯の中に運び積む作業、そして焼成用の薪をつくる作業・・・・。
人手が足りない・・・。

釉薬を付ける作業は、中段の写真のa 。桶にためた溶いた釉薬に煉瓦の面を漬ける。施釉するのは小口と前面の2面。釉薬は益子の釉薬。
簡単に見える作業だが、一個の重さが2キロを越えるから、長いことやっていると手首、指の付け根が痛くなる。そして、付けた釉薬内に気泡ができないように注意が必要。

施釉した煉瓦は窯内に運び、よく火が通るように並べる。そのために、窯の外で樋口憲一氏(樋口窯業の後継者)から並べ方を教わった。予行演習である。写真 b はそのときの写真。
写真 c は、積み込み作業。d は積み込みの途中。これから手前まで約1千本積む。

かわって、e は薪割機を使っての薪割り作業。この機械は市販されているとのこと。長さ1mほど。
機械の端にはV字型をした刃が据えられていて、そこへ向けて断面が樋のような長めの薪受け台が付いている。そこへ大きい薪を乗せ、油圧で刃に向けて押し付ける。たしかに力はいらない。木目を見て割る位置を見極めるのがコツのようだ。
この機械を大型化したのが下段の写真。

小割にした薪は、投げ入れやすいように、窯の近くに積んでおく。写真 f は、通路に沿って積まれた薪の山。 h も薪の積まれた通路。
薪の大半は赤松材(地場産)だが、製材の端材も使われる。端材は小割にせずそのまま使う。その写真が g 。
写真 i は、暗くて見難いが、焼成の最初に使われる重油バーナーの点検作業。

薪の赤松材は、大きいもので直径30~40センチ。これを長さ50~60センチに輪切りにする。そしてそれを割ることになるが、これが大ごと。斧や鉈では大変である。
そこで見かねた喜多方工高の先生が、町の機械メーカーの社長さんに大型の薪割機がつくれないか相談して生まれたのが下段の写真の機械。
既成の中古部品を集めてつくったとのこと。原理は市販の小型薪割機と同じ。試作機を何度かつくったようだ。現場は強い。
ペンキ塗りは喜多方工高の学生さんたちが担当。

写真の黄色に塗られた部分に丸太を置き、油圧で押すと、丸太は右側にある大型の刃(V字型)に押し付けられ、割れてゆく。割れた材は、左右の受け皿に転がる。2番目から5番目の写真は1本の丸太が割れてゆく過程。

最後の写真は、補助具を付けたときの作業。
この機械は既成の部品でつくったため、油圧のピストンのストロークが短く、場合によると薪を最後まで押せない。そこで、そのときのために用意されているのが青色の円筒状の部品。写真はそれを使っているときの様子。
割られた材は、斧、鉈、先の小型の機械で小割にする。


人手が足りないというのに、大した手伝いもできないまま、窯を後にしたのは、あたりに寒風が吹きとおりだした夕暮れ時。
ほかの方々は、日が暮れるまで、というより、手先が見えなくなるまで、作業を続けるとのこと。
これからは夜業も要るかな、というのは段取りをあづかる現場の統括者(写真の大型薪割機を操作してみせてくれた方)の話。
昼ごろから始めた窯詰めの作業は、200本ほど積めた、とのことだった(先ほど、夜業もやって、9日の夕方までで1000本になったとの連絡があった)。


〇人手が足りません!
〇現場に関心のある方へ
  現場の連絡先は、以下を経由してください。
   NPO法人 まちづくり喜多方 0241-24-4541
   喜多方市観光協会      0241-24-5200

先ほど受けた現場の生々しい状況連絡メールをコピーします。
なお、文中の金親氏は現場の統括者、山中氏は事務局の統括者です。

№1
本日作業された方々はお疲れさまでした。窯詰め、釉薬掛け作業が日程的に大ピンチです、22日の火入れに窯詰め作業が間に合わない、という恐ろしい事態
が懸念されます、夕方5時以降でも現場に行ける方は1時間でも2時間でも作業応援お願いします。金親さんが夕方以降現場に詰めます。山中


ヘルプページ: http://help.yahoo.co.jp/help/jp/groups/
グループページ: http://groups.yahoo.co.jp/group/renga/
グループ管理者: mailto:renga-owner@yahoogroups.jp

№2
皆様今晩は、金親です。
この週末も延べ30人ほどの方が参加されました。
皆さん、本当にお疲れ様でした。

山中さんのおっしゃるとおり、きつい状況ですが、打開していくしかありません。

若干、補足します。

この週末から、施釉、窯詰めを開始したわけですが、最初の数時間は、
樋口さんに、レクチャーを受け、段取りを検討するなど、殆ど作業が進行しませんでした。
ようやく軌道に乗ってきたのが、午後でしたから、土日合わせて、賞味10時間の作業でした。

この間、約1000個の素地を、窯詰め出来ましたので、100個/1時間かかったことになります。
平均、6人でこの作業にあたっていましたので、100個/6時間/1人ということになります。
残り、4000個ありますので、あと240時間/1人かかります。
4人で、毎日10時間の作業をしたとしても6日かかる計算です。
これだけの時間を費やす事は、不可能ですので、何か考えなければなりません。

ところで、今回の作業の流れの中で、樋口さん達が行っていなかった工程が一つ入っています。
施釉後、脇にはみ出した釉薬を丁寧に拭う作業です。より良い焼き上がりを目指して、
皆の同意の上に、自然派生的に組み込まれることになった工程ですが、
見ていますと、ものすごい手間がかかって、恐らく2人分位の手間が取られてい
ると思います。

樋口さん達が、不要と判断していたこの作業が、本当に必要なのでしょうか。
帰宅してからずっと、手元にある中森さんが焼いた煉瓦を見ていて、ふと気付いたのですが、
脇にはみ出した、この釉薬部分は、実は必要なのです。

煉瓦は積み上げるときに、目地を詰めますが、目地は、外面よりも引っ込むのです。
引っ込んだわずかな部分ではありますが、その部分は、雨や雪が着き易いのです。
つまり、この部分にも、釉薬がかかっている必要性があります。

確かに、脇に付いた釉薬を拭わない事で、焼成時に煉瓦同士が、
くっついてしまうリスクは有りますが、それでも煉瓦の実用性を採るべきです。
しかも、手間が格段に減ります。
恐らく2/3くらいになりますので、残り160時間/1人の作業で済みます。
次の週末(15、16日)は、12時間×10人位で作業できるでしょうから、それまでの平日で、40時間分の作業をすれば何とかなります。(多分)

4人集まって、2時間づつの作業なら、5日間です。
まあ、今までと同じスタンスで、出来る人が無理の無い範囲で作業をしていく、ということにしましょう。何とかなるでしょう。

皆さんは、どうお考えでしょうか。
それでは、もう少しの踏ん張り、がんばっていきましょう。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-14の補足・・・・鎌倉再建南大門の継手・仕口図

2008-11-04 20:57:33 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[解説文言更改 5日 15.21]

先回の図版、鮮明な図面にして載せなおします。

いずれの図も、断面の縦横比は、写真から判定しておおよそ揃えてありますが、あくまでも概念図で、実寸によってはいません(実は、部材の寸法は、資料がなく分らないのです)。

なお、「柱内断面図」で見えている「貫」は、先回の図には「下左」「下右」と記入してありますが間違い。見えているのは、交叉部(網掛け)の左側が「上右」材の端部、右側の点線が「上左」材の端部です。今回の図では、記入してあった文字を消してあります。[解説文言更改]

部材寸法の分る資料をご存知の方、ご教示ください。

次回

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日本の建物づくりを支えてきた技術-14・・・・東大寺・鎌倉再建:新たな展開-2

2008-11-03 21:21:30 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版・図面、修正更改 11月4日 9.33]

先回、大岡実氏による「鎌倉再建・東大寺大仏殿」の推定図面を紹介しました。
今回は、推定復元の拠りどころとなった「鎌倉再建・東大寺南大門」について、「挿肘木(さしひじき)」や「貫(ぬき)」の納め方を中心に紹介したいと思います。

「挿肘木」は、古代の「組物」が手前とともに左右にも広がるのに対して、上掲の写真のように、壁に直交して手前へ向ってあたかも「板」のように飛び出していて、その「板」が左右に振れないように、何本かの「通肘木(とおしひじき)」が「板」相互を結び、宙を飛んでいます。写真は「奈良六大寺大観 東大寺 一」から部分を転載させていただきました。

また、「挿肘木」のうち、何本かはそのまま建物内に延びて、「貫」として柱相互を結んでいます。その様子を、梁行断面図に色分けしてみたのが上掲の図です。
桁行断面図も色分けしてみたかったのですが、探したかぎりでは図面がみつかりませんでした。


このように、鎌倉再建東大寺の建物でとられた工法は、古代のそれが言わば「部材の積み重ね」であったのに対して、「部材を立体的に組み合わせて一体の架構にする」ことに考えが注がれている、と言えると思います。その典型が、柱を縦横に結ぶ「貫」の使用です。

現在でも「貫」は使われますが、多くの場合、梁行方向、桁行方向それぞれの「貫」を通す位置:高さを変えるのが普通です。「貫」同士がぶつかりあうことがなく、仕事が楽だからです。

ところが、「南大門」の「貫」は、写真、断面図で分るように、交叉する「貫」が同一レベルに通っています。
軒の「挿肘木」と「通肘木」の場合も同様に同一レベルです。

いったい、「貫」は、どのように同一レベルで納めてあるのか、いったい「貫」はどこで継いでいるのか、
また、「通肘木」と「挿肘木」はどのように納めてあるのか、継手はどうなっているのか・・・
といったことが疑問として生じます。


「貫」の継手については、「文化財建造物伝統技法集成」に分解図が載っていて、これは先のシリーズではそのまま転載しました。

   註 「日本の建築技術の展開-9の補足」

しかし、それではきわめて分りにくいので、今回は、その図をもとに、図面を起こしてみました。それが上掲最下段左側の図です。
「通肘木」と「挿肘木」の取り合いについては図がなく、「奈良六大寺大観 東大寺 一」に、「通肘木は挿肘木に蟻落し」との旨の解説があり、それを私なりに解釈して図にしたのが最下段右側の図です。
なお、いずれも「概念図」で、実寸ではありません。


「貫」の継手を「文化財建造物伝統技法集成」の図を参考にして起こしながら、正直仰天した、というのが私の感想です。すごく単純な加工:刻みなのですが、その効能・効果はあまりにも優れているからです。
たとえば、ある方向の「貫」部材同士は、それだけでは継がれていません。引張れば離れてしまいます。
では、どうして継がれることになるか、というと、ある方向の「貫」は、直交する「貫」に引っ掛かっている、それによって継がれているのと同じことになっているのです。つまり、組み上がると、2本の一材の「貫」が「合欠き」で組まれたのと同じ状態になっているのです。

刻んだ「貫」材の取付け工程を想像してみます。
当然、下になる材から取付けることになります。図には、便宜上、「下左」、「下右」と名を付けてあります。とりあえず、「下右」を柱に穿った孔に差し込みます。次に「下左」を「下右」の材にぶつかるまで、挿し込みます。そこに、上向きの「欠き込み」が生まれます。
その大きさは、幅は「貫」材の幅、欠き込みの高さは「貫」の高さの半分。
できた「欠き込み」を直交する孔から覗いて、その孔の幅に揃う位置に調整します。
ただ、この段階では、2材は継がれたわけではなく、ただぶつかっているだけです。

次いで、直交する上の材「上右」を直交する孔に挿し込みます。このとき、材を持ち上げ気味に、つまり孔の上側をこするように挿し込みます。加減すると、材の竿状の部分の中途に下向きに刻まれた「欠き込み」が、先に挿し込んである下の材:直交する材に引っ掛かります。同様にして「上左」を下の材に引っ掛かるまで挿し込みます。そのとき、「上右」「上左」2材はただぶつかっているだけですが、下の材の欠き込みに引っ掛かっているため、抜けなくなります。「下右」「下左」もまったく同じです。
つまり、「下の材」「上の材」の左右の材は、いわば、直交する他材を介して継がれたと同じことになっているのです。

   註 作業は、左右の材のどちらを先行しても可能ですが、
      「挿肘木」の延長の「貫」を「下」として先行したのでは・・・。

この作業を行なうために、柱に穿つ「貫」を通す孔は、幅は「貫」の幅、高さは、「貫」の高さより相互の引っ掛かりの分以上大きく彫ります。
したがって、下の材と上の材が噛み合ったとき、「貫」の上部に引っ掛かり分(以上)の隙間が空いていることになります。
その隙間に「埋木:楔」を打ち込むと、「柱」と二方向の「貫」とは、固く締って動かなくなります。このすごい知恵には感動を覚えます。

おそらく、「貫」は、柱間ごとに一本ずつ入れられているのではないか、と思われます。柱間ごとに1本とすると、材の長さも短くて済むし、彫る孔も小さくて済むからです。
もちろん、長い材を用意して、柱間2つ以上跳ばすこともできますが、そのときは、中途の柱では「合い欠き」で交叉させることになり、そのためには、孔の高さを最低でも「貫」の高さの1/2は大きく彫らなければなりません。
写真でそのような場所がないかどうか探しましたが判然としません。また、その点については、探してみましたが、どこにも解説がありません。
どなたかご存知の方がおられましたら、「真相」をお教えください。

「通肘木」の取付けは、取付け箇所の「挿肘木」が組まれた後の工程になると思われます。
「通肘木」に長い材を使って数個の「挿肘木」に「合い欠き」で納めることも考えられますが、そうすると「挿肘木」の上側に「欠き込み」ができてしまうため、「挿肘木」の外側先端部が、上の重さで折れてしまうことが考えられます。それゆえ、こういう仕事はせず、「挿肘木」~「挿肘木」ごとに「蟻落し」で納めるのが妥当ということになります。
「南大門」で使われた「蟻落し」の図はありませんので(どこかにあるのかも知れません)、私ならこうするのではないか、という想定で描いたのが上の図です。これについても、「真相」をご存知の方がおられましたらお教えください。

いずれにしても、「再建東大寺」では、難しく刻みが面倒な「継手・仕口」は使われていない、しかし、解決策はきわめて「理が通って字の通り合理的」、と言えると思います。
柱内の「貫」の「継手・仕口」も、一見複雑に見えますが、加工:刻みはそんなに難しくはないのではないでしょうか。
それにしても、このパズルのような細工を発案した工人たちには、心底敬意を表したいと思います。

次回も鎌倉時代初頭の工人たちの見事なアイディアを紹介の予定です。

次回

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