建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

この国を―50・・・・「今、そこにある危機」

2014-10-03 15:00:00 | この国を・・・

モクセイの木陰で、シュウメイギクが咲きだしています。

先回の記事(「棒になった話」)にいただいたコメントに
「・・・渋谷駅をお使いにならなくて幸いでした。
東横線渋谷駅は安藤忠雄氏の設計で最近全面改装されたのですが、動線計画が滅茶苦茶で、朝など階段を登るのを待つ人で長蛇の列ができます。
動線計画の悪さをごまかすために、見苦しいサインがそこいら中に貼ってあります。使うたびに怒りが込み上げてくるので、なるべく渋谷駅を使わないようにしています・・・。」と書かれていました。
私は、このコメントに対し、次のように返しました。
「東横線渋谷駅、利用者の不便についての不満、開業当時はメディアで話題になりましたが、以後聞かなくなりました。
都会人は「忍耐強い」のかな?!それとも飽きっぽい?
・・・いくら忍耐強くても、ストレスはたまります。最近、身障者へのいじめ・暴行が街中で多発しているようです。
これなどは、都会に暮す人の中で不満をかこつ方々の、ストレスのはけ口ではないか、と、ふと思ったりします。・・・」

読みそこなった新聞をひっくりかえしていたところ、同じような危惧を抱いている方の一文を見つけました。

日曜日(9月28日)の毎日新聞日曜版にあった心療内科医 海原純子氏の「今、そこにある危機」という表題のコラム記事です。

全文を下に転載します。



私は、このような鬱憤・ストレスの大きな因のとして、「社会的格差」の存在・拡大とあわせ、都会の環境(私の言葉で言えば、 surroundings )の様態が挙げられるのではないか、と考えています。

「社会的格差」で言えば、働く人の(特に若い人の)使い捨てが顕著のようです。また女性の蔑視、障碍のある人びとへの蔑視は、相変らずのようです。
また、先回「棒になった話」で、少しばかり触れましたが、現在の都会の環境(私の言葉で言えば、 surroundings )もまた、そのほとんどが、「そこに人が居る・在る」ことが忘れられている、と私は思っています。
何故そのようになっていなければならないのか、が分らない、つまり、その surroundings が、そこに、そういう形で「存在する、存在しなければならない正当な理由・道理」を感じることができないからです。

何度となく書いてきましたが、そこで目にするのは「理」ではなく「利」。駅の構内のエキナカなどは、その身近な例です。
たしかに、そこにも人は見かけます。しかし、そのとき、人は、商売の対象に過ぎない。言い換えれば、商品の代替物に過ぎない。それを如実に示している言葉が「集客」。駅の階段を登るべく、イライラしながら登る順番を待っている人の群を見て、その数の多さに喜んでいるのかもしれません!?
私は、「階段を登る順番を待つ長蛇の列ができる」という事実を知ったとき、それなら、駅の設計は、工場設計に手慣れた方の方がまだマシではないか、と思ったものです。

便利な駅であることの条件は、そこでの乗降やその駅に乗り入れている各線への乗換がスムーズにできることです。
そして、「スムーズである」とは、おおよその「駅全体の位置・構成が分るようになっていること」、なおかつ、それが分ったら、「行きたい方向に向って思った通りに足を運べること」、と言ってよいと思います。

これは、街についても言えることです。要は、全体・全貌が容易に把握できることです。設計者は、そのようになるべく努めることが責務のはずです。それが「専門」のはずなのです。
全体が把握しにくく、それゆえ、己の感覚で自由に歩けない場所では、人にストレスがかかります。疲労はいや増しに増します。
社会的にも抑圧され、さらには、 surroundings にも苛立たされる・・・・、この憤りをどうやったら解消するか。
海原氏が文中で言われている「弱い者いじめは弱者がすることがある。」「・・・うっぷんをかかえるとそのはけ口は無抵抗な弱者にむかうことがある。今、あちこちで耳にする暴力事件、そのひとつひとつは大きな犯罪ではないと思われている。しかし、弱者に対する暴力、という側面と、心のフラストレーションのはけ口、という心の問題を通して見ると、事件の増加は非常に大きな問題を示唆している。」という指摘は、的を射ている、と私は思いました。
これを読んだとき、咄嗟に、建物づくりや街づくりに関わっている方々に、是非読んでいただき、自分たちは、こういう状況を生み出す「舞台」をつくるのに精を出していないかどうか、精査してもらいたい、と思いました。
しかし、同時に、今の《建築家》には無理だろうな、とも直ちに思い至りました。
なぜなら、彼らの東日本大震災後に発した言説(「理解不能」で詳しく論評)、最近の国立競技場改築問題についての右往左往を見れば、どだいムリなこと。皆、「自己顕示」にしか関心がないからです。彼らにとっておそらく、人は、単なる「作品の点景」以外の何ものでもないのです。

「ジワジワ進む異常は見逃されやすい・・・」これも真実です。放っておいてはならない事態だ、と私も思います。これは、まさに「今そこにある危機」なのです。

時の政権は、若い人や女性の《活用》で《地方》の《再生》などと叫んでいます。
《活用》あるいは《地方》《再生》という「用語」のなかに、既に、なぜ現在のような状況が生じてしまったのか、その真因が隠れていることに気付いてさえいません!この「怖ろしさ」。これも見過ごせない「危機」ではないでしょうか。
たとえば《活用》という用語。そこには、彼らが、人を人として把えていないことが、ものの見事に顕れています。彼らにとっては、人は、使い捨てのモノに過ぎない、との認識があることの証左なのです。
   モノも本来、使い捨てにはできない、してはならないのです。
   このことを往時の人びとは、当然のこととして認識しています。「針供養」「〇〇供養」などの語に、それが顕れています。
  「地方」という用語については、以前「山手線はlocal線だ」で触れました。
今、「地方再生」「国土強靭化」などという意味不明な言葉が飛び交っています。
その中身は、どう見ても、従前の工学的手法によって「全ての地域を都市・都会化する」イメージのように思えてなりません。
各地域、「地方」には、今の都市・都会にはなくなった「人の世」が存在しています。
「地方」に元気がない、などというのは計る物指が違うからではないか、と思います。
「都市・都会」の物指で「地方」を計っても無意味、百害あって一利なしなのです。こういう一律の物指の存在も「危機」です。
「地方」の「不便」は、考えてみれば、人間らしさのバロメーター、人間らしさの濃さの顕れと考えることができる、そのように最近私は思うようになっています。
そういうところに、「都市・都会が増殖させてしまった危機」を、わざわざ持ち込んでもらいたくありません。
私は、最近、限界集落、過疎と呼ばれる地域ほど、豊かな地域であるとさえ思うようになっています。
   そういう場所へ移住する都市の若者が増えているようです。
   この若い方がたの感性は、実に素晴らしい、彼らは「利」ではなく「理」でものごとを考えているのでしょう。
そしてまた、高齢化の今、地域に適切な高度な福祉策を率先・先行して生み出してきたのが、都市・都会から見れば「片田舎」と呼ばれる地域の町村であったこと、これも注目してよいように思います。
   国の福祉政策・制度の多くが、それらの後追い・模倣のようです。
   しかし、「體」を見ず「用」を真似るだけで「本質」は見捨てられることが多く、一律の制度化のため、地域の独自性の創出が阻害されることさえあるようです。

東日本大震災の「復興」「再生」として、新たな《街づくり》あるいは《住宅地計画》が被災地で行われつつあるようです。
詳しくは知りませんが、垣間見るかぎり、そのほとんどは、大都市近郊の「街づくり」や、いわゆる「再開発」、あるいは「新興住宅地開発」のコピーのように思われます。
その地域に生まれ存在していた「村・街」あるいは「住まい」に営々として継承されてきた「その地域なりの surroundings の様態・姿」を在らしめてきた「謂れ・道理」は、まったく顧みられていない、と言えます。それは「再生」とは到底呼べません。
   地山を崩し、埋立てをし・・・、その手法を見るにつけ、広島の土砂崩壊のような災害の引き金にならなければよいが、と思っています。

何事によらず、いかに面倒であっても、事に当っては、常に「ものの理・道理」を考えること、考え続けることが大事であると、あらためて思いを新たにしています。

この国を-53 ・・・ 「安全」 ⇔ 「暗然」

2014-07-30 09:25:43 | この国を・・・

安全」という言葉が安易に使われているように思います。

安全」とは、どういう意味か。

手元の「新明解国語辞典」には、次のようにあります。
 「安全」:「身(組織体)に危険を、物に損傷・損害を受けるおそれが無い状態(様子)。」

この語の続きに、「暗然」の語が載っています。
 「暗然」:「不幸な出来事のために、悲しみで胸が一杯になる様子。」

「原子力発電所の『安全』」は、皮肉なことに、この辞書のように、『暗然』と隣り合わせだったのです。


安全」とは、そもそもいかなる語義なのか。

白川 静 著「字通」で調べてみました。

 「安」 : [説文]に「静かなり」とあり、宀に従うのは廟中の儀礼である。宀は家廟(か びょう)。
       新しく嫁する女は、廟中で「清め」の儀礼をし、祖霊に対して受霊の儀礼をする。・・・安寧の儀礼・・・。
       ①「安寧の儀礼」より、やすらか、安んずる意。② おちつく、しずか。③ その家に安んずる、居る、おく、安置する。・・・
 「全」 : [説文に字をに作り、「完きなり。入に従ひ、工に従ふ」とし、については「玉に従ふ。純玉を全と曰ふ」とする。・・・
       ① まったし、全体、全体がそなわる形・・② すべて、すべてととのう、そろう、たもつ、おさまる。・・・

 「安全」 : 危うげなく、無事。[顔氏家訓、風操]兵は凶にして戦ひは危し。安全の道に非ず。・・・・
        中国の古人は、「真実」を見抜いていた・・・!!!

表意文字・漢字の「謂れ」はすごい、そう思わずにはいられません。


鹿児島の川内原発を再稼働させる、という気配が濃厚です。

先週の毎日新聞「風知草」は、その「動き」をして、「原発 無責任時代」と論破していました。下に記事全文をコピー、転載させていただきます。
その中の、
「日本人は適応能力が高いと言われ、多くの日本人も自負していると思いますが、
その適応とは、その場しのぎのツギハギに過ぎない。
本質的な問題を学びとり、大きな変化に対応していくことは、日本人はむしろ苦手でしょう。」

との言には、同感です。
近代以降、とりわけ戦後、(特に「科学」の「隆盛」とともに)顕著になったように私には思えます。今しか見えない、今の「利」しか見えなくなった・・・。
そしてそのツギハギに「無理」があると、「言いまわし」で言い繕う。たとえば、文中の「ほぼ最高レベルに近い規制基準」、の如し。
これでは、折角の「文字」が哭くでしょう

冒頭にある「だが、だからどこまで備えるべきかには、科学では答えられない」という一節は「真実」を語っています。
要は、「科学(的)」の語を藉りて、何を言いたいのか、ということだと思います。
真に科学的= scientific であるならば、「科学(的)」の語を「偽装」のために用いるなどということは、恥しくてできないはずです。

  

           **********************************************************************************************************
追記 「日本家屋構造・下巻の紹介」の続き、もう少し時間をいただきます。


この国を-52 ・・・ 「風化」

2014-07-27 11:30:13 | この国を・・・
敗戦69年目の今年、あの戦争の記憶を風化させようとする動きが顕著になりました。また、わずか数年前の原発事故についても、忘れ去ろう、風化させよう、という「動き」も露骨になっています。
いったい、どうしたら「風化」を止められるか。
そんな中、東京新聞電子版 TOKYO web で、次のような記事を見つけました。
 
以下に、この「伝言」の部分を、読みやすいように、コピー・編集して転載させていただきます(段落を変えてありますが文章には手を加えてありません)。

    「伝言」

    寝ていては いけないのだと思う 黙っていては いけないのだと思う あきらめては いけないのだと思う

    昨日、安倍内閣は臨時閣議で 憲法の解釈を変えるという 途方もない手段で 日本の平和憲法の柱 「戦争の放棄」が変えられた

    みなさん 知っていますか
    二年前 自民党が政権に復帰した 総選挙の得票率を
    わずかに24% 全国民の民意の四分の一 それで国会の議席 過半数を占めるという 小選挙区制度の不思議さ その不当さ

    みなさん 知っていますか
    第二次世界大戦の中で 日本軍として参戦した 兵隊二百四十万人が死んだことを
    そして 日本軍によって アジア全体で殺された人たちは二千万人ということを 
    なかでも 中国では 一千万人もの 多くの命が 奪われたことを

    みなさん 知っていますか
    戦争が終えた一九四五年の 日本の平均寿命を 男性二十三・九歳 女性三十七・五歳 
    信じられない この年齢 そのもつ意味 そのもつ重み

    一九四五年三月 東京下町への大空襲 八月六日 広島への 原爆の投下 八月九日 さらに 長崎へも…
    累々(るいるい)として おびただしい 死者の叫び 命の訴え
    けっして 取り戻すことのできない 命の代償 家族の無念さ

    そして 戦争が終えた そして 憲法が産まれた

    時の権力によって 時の政権によって 二度と再び 戦争が 起こされることがないように 
    事情や状況を問わず 外交問題の解決に 武力を行使することが けっしてないように 私たちの 日本国憲法が 産まれた

    その後 六十七年間 朝鮮戦争でも ベトナム戦争でも 湾岸戦争でも また イラク戦争でも アフガン戦争でも 
    日本が直接に 戦争を起こすことは なかった 日本が直接に 戦争に巻き込まれることは なかった

    いま 寝ていてはいけないと思う いま 黙っていてはいけないと思う いま あきらめてはいけないと思う

    子どもたちが そのまた子どもたちが 建物を くらしを 地域を破壊し ひとのいのちを 奪わないため ひとにいのちを 奪われないため

    くらしや文化 言葉や習慣は違っても 地球に住む さまざまな世界の人たちと ともに手をつないで生きるため

    知っていますか 安倍総理大臣にも 小野寺防衛大臣にも 国務大臣には 憲法を擁護する 義務があることを

    知っていますか 私たち 日本の国民には 二度と戦争を起こさないために 憲法を守り 育てる 不断の努力が 求められていることを

    寝ていては いけないと思う 黙っていては いけないと思う あきらめては いけないと思う 
    いま このときに 
    不戦の誓いのもと 憲法の骨格に 第九条「戦争放棄」を 明確にもつこの日本の国で
    憲法改正の手続きも 議論も経ず 閣議で解釈の変更を 了承する形で
    これまで六十七年間 現在の憲法下では法的にできないと すべての政権が公言していた 集団的自衛権
    これを「解釈改憲」として 閣議で決定した「現政権」

    この事態に 一人の保育者として 一人の日本人として 私になにができるか 考えました
    そして ここにみなさんに 伝える言葉を 記すことにしました

    子どもの命を守りはぐくむこと これを阻む 理不尽な動きには 学び 訴え 協同し 行動していく
    このことを理念としてもつ 我が社会福祉法人「厚生館」の 職員として 施設長として

    また これまで 多くの保護者と たくさんの子どもたちに
    輝くいのちのすばらしさを 日々の中で 教えてもらった 一人の保育者として
    あらためて訴えたい 伝えたい
    憲法を守ろう いのちをはぐくもう
    戦争につながる動きに ノーの行動を示そうと

      七月二日 ひらお保育園 園長 田中雄二


           **********************************************************************************************************

私のブログを読まれている方の中には、特に「建築」に関わる「知識」を得ようとしてお寄りになる方の中には、こういう記事は「建築をめぐる話」と何の関係もないではないか、と思われる方も居られるかもしれません。記事の中にある「若い職員からは政治の話は難しいとの声も聞かれた」とあるのと同じです。保育園の仕事と何の関係もない・・・。
私は、そうは考えておりません。
私は、いわゆる《専門バカ》(嫌な言葉ですがあえて使います)は「専門家」になってほしくないのです。
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この国を-51・・・「信頼される」ということ

2014-07-03 10:32:17 | この国を・・・

わずかに咲いているヒメジオンにとまるベニシジミ。
合歓の花はもうじきのようです。


NGO:Non-Governmental Organizations:メンバーが武装集団に襲われたときに自衛隊が救援にあたれるようにする、というのが現政権の「主張」のようです。
この「主張」は、NGO:Non-Governmental の語義を理解・認識していない暴論ではないでしょうか。
Non-Governmental である、つまり、当事国の政治状況と何の関係を持たない、勿論「国益」などとは無関係な「活動」ゆえに、現地で活動し得ているのであり、信頼をもされているのだ、という「実状」の認識を欠いている、と言ってよいでしょう。

この点について、7月1日付毎日新聞夕刊「特集ワイド」が特集を組んでいます。
紙面のコピーでは 読みにくいので、web 版から全文をコピー転載させていただきます。


この記事に出てくるJVCとは、Japan International Volunteer Center :日本国際ボランティアセンターのことで、日本のNGOの先駆的団体です。
    JVCの活動の詳細は、同センターのホームページから知ることができます。(http://www.ngo-jvc.net)。
   なお、同センターは会員の会費と寄付金で運営されています。どなたでも会員(正会員、賛助会員のどちらか)になれます。

JVCは、すでに6月10日付で、次のような「提言」を、公表しています。以下に全文を転載させていただきます。だいぶ前に知っていたのですが、紹介するのが遅れました。申し訳ありません。





平和とは戦い取るべき物騒なものではなく、一人一人が力を合わせて優しく守るものだと思う。」これは、どこかの紙面で見かけたある方の言葉です。異議なし!


この国を-50・・・民主主義とは?

2014-04-06 10:33:24 | この国を・・・
あちらこちらで「不穏な動き」が起きている、そのように私には思えます。
「教育委員会」制度の「改変」の動きもその一つ。要は、教育に関わる事項の最終判断権・決定権を「首長」に持たせる、という動き。最終的には、時の政府の中枢の意向に従わせる、という意図が透けて見えます。
竹富島教委の選択した社会科教科書の使用を、「法」の名の下で禁止を迫る政府の動向は、まさにその予兆を示しているのではないでしょうか。
ここにきて、少なくとも私が戦後身に着けてきた、と言うより、私が理解・会得してきた「民主主義」の「諸相」が、少しずつ崩されてゆくような気がしてなりません。
そのように感じているとき、次のような一文に出会いました。

  民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。
  民主主義の根本はもっと深いところにある。それは、みんなの心のなかにある。
  すべての人間を個人として尊厳な価値をもつものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。


この「文言」の存在を、今日 4月6日付 東京新聞の社説「週のはじめに考える 民主主義のルールとは」で教えていただきました。
1948年(昭和23年)文部省刊の教科書 『民主主義』 のなかにこの文言があるとのこと。
  昭和23年当時、私は中学生の成り立てだった。
    訂正 数え直してみたところ、昭和23年当時、私は小学校6年でした。訂正します。[8日 6.45]
  私は、小学校の5・6年のとき、戦地帰りの若い先生から、多分先生ご自身の「反省」ゆえだったのでしょう、「個々人の違い」を尊重するように教えられました。
  その時代、この「文言」の言うことは、むしろ、当たり前だったのです。

以下に、社説全文をTOKYO Web から転載させていただきます。全く同感です。

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この国を-49・・・「理」を通し、守ること

2014-01-06 11:03:13 | この国を・・・
ブログ「リベラル21」の1月3日の記事に、元旦の新聞6紙(産経、読売、朝日、毎日、日経、東京)の社説を読んでの論評が載っています。
評者はそのなかで、次のように述べています。
   ・・・私は東京新聞の論調が、1930年代に生れた私の世代の、民主主義観を辛くも保持しているように感ずる。
   今年は東京新聞への権力からの総攻撃が始まるだろう。東京を応援したいと思う。
   調子に乗らず頑張って欲しい。読者の声なき声をよく聞いて欲しい。
私は6紙は読んでいませんが、まったく同感です。
東京新聞(中日新聞)の社説は、何度も紹介させていただいているように、「理」が一貫して通り、ぶれることがなく、読み応えがあります。
   私はネット版東京新聞:TOKYO Webで読んでいます。

元旦から「年のはじめに考える」として、次の標題で連続して書かれています。
  1日付 「年のはじめに考える : 人間中心の国づくりへ」
  3日付 「年のはじめに考える : 障害を共に乗り越える」
  4日付 「年のはじめに考える : 福島への想い新たに」
  5日付 「年のはじめに考える : 憲法を守る道を行く」

いずれも論旨明快、しかもきわめて平易な言葉で書かれています。
多くの方に読んでいただきたい、と考え、少し長くなりますが、すべてプリントアウトし転載させていただきます。
特に、「戦前~戦後(史)」を身をもって知らない若い方がたには、5日付の「年のはじめに考える : 憲法を守る道を行く」は、是非読んでほしいと思いました。

   「異をとなえる手段、難しいです」と書かれた賀状をいただきました。
   多分、「歳の暮にあたり」をお読みいただいたのではないかと思います。

   私は、「何も難しく考える必要はない」、と考えています。  
   隣の人との茶飲み話のときだって「異をとなえることはできる」ではないですか。
   「異」が「日常の話題」になると、「異」は、世の中に「充満する」・・・。
   そうなることを嫌っている人たちがいるのです。
     










同じ表題の論説は、今日も続いています。
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この国を・・・48 : 続・十二月八日

2013-12-14 09:59:35 | この国を・・・
「教育委員会」を「形骸化」しようという動きがあります。《中央教育審議会》が、教育行政の「権限」を、「首長」に集中させるべきだ、との「答申」案を用意しているとの報道があります。「あまりにも・・・」という意見もあったため、従前どおりでよい、という意見と両論併記して、あとは政権に判断を任すのだそうです。しかし、行き着く先は見え見えです。
最近、「この手の『動き』」がきわめて多い、という印象を持っています。
法制局長官やNHK会長人事で、「身内」をもってくる。あるいは、非正規雇用問題についての審議会会長に経営者側の人物を置いて審議させる。
一見民主主義的手続きをもって、「偏った方向」、「一部の受益集団側に有利にもってゆこう」という「動き」の数々・・・。
それは、今年の初めであったか、「ナチスの手口を学んだらどうだ」という「発言」がありましたが、それを実行に移しているのではないか、と思わせるところがあります。
秘密保護法も、その一環、彼らにとって最も「重要」な位置づけなのでしょう。現に政権党幹事長は、メディアをびびらせるべく「発言」を繰り返しています。
秘密保護法に賛成した議員名を広く公表してくれ、という投稿がありました。これが、普通の人びとの感覚だと思います。

このあたりの「動き」について、radical に分析した記事を読みました。
毎日新聞の12月12日付夕刊「特集ワイド」です。
まことに明解、多くの方に読んでほしいな、と思いましたので、プリントアウトして(無断ですが)転載させていただきます

    新聞紙面のコピーでは字が小さく読みにくいと考え、「毎日jp」からプリントアウトしました。



原発再稼働や新設の動きも露骨になっています。
いったい、どこが、何が「安全になった」と言うのでしょう。除染廃棄物の中間貯蔵施設の設置でさえ容易ではない、というのに!

以下は、前回の再掲です。

時計の逆回しの《願望》は更に加速しそうです。のど元過ぎれば熱さを忘れ・・、人の噂も75日・・、これが彼らの《願望》の「拠りどころ」。
だから、私たちは、決して「歴史」を忘れてはならないのです。
時計の逆回しにブレーキをかけられるのは、十人十色の私たちです。
「王様はハダカだ」と言い続けたい、と思います。あきらめは禁物です。


求利より求理を!

この国を・・・47 : 十二月八日

2013-12-08 10:02:45 | この国を・・・
   これまで書いたシリーズものへは、今までの「カテゴリー」ではアクセスしにくいと思いましたので、
   シリーズのタイトル(あるいはその要旨)で一式括る形に変更しました(単発ものは従前のままです)。
   ただ、最終回から第一回へという順に並びますが、その点はご容赦。



少し早く咲いた白の侘助です。ときおり、ヒヨドリが蜜を吸いにきています。


[蛇足 追記 8日 19.50]
十二月八日が何の日か、身をもって知っている人は、今70代以上の方がたのはずです。
昭和十六年十二月八日、日本が対アメリカの戦いを始めた日。
今、新聞等への投稿で、「秘密保護法案」に危惧を覚える旨書かれている方がたに70、80代の方が多いのは、「戦時中」あるいは「戦前」の様子をよく知っているからです。
私はそのとき4歳、当日のことはうっすらとしか覚えていませんが、小学校(当時、「国民学校」と称するようになっていました)に入ってから、毎年、この日に《記念式典》があったのは覚えています。
そして、敗戦。
それから、教科書を黒く塗って学び、まわりの大人たちの「変節」を見ながら大人になりました。もしかしたら、それが今の私の素地をつくったのかもしれません。
しかし、こういう「反面教師」は無用、不要です。

当然ながら、現在の政権党の方がた:戦争を知らない大人たち:が「戦時中」「戦前」を知る由もない。彼らが「戦時」で辿りつけるのは「靖国神社」だけ?
しかし、現在彼らがやろうとしていること:「取り戻す」ことの中味は、どう見ても「戦前」願望。なぜ「戻りたい」のだろうか。

今の政権は、ことあるたびに、「《有識者》に判断を任せる」旨の言を弄しています。
また、政権党の憲法改変案では、「『個人』の権利・・」と言う文言を「『』の権利」に変えています。
そこから何が見えるか。
それは、彼らのなかに厳然として在る「認識」、すなわち、「人びと、つまり一般の国民は愚かである」、あるいは「人びと、つまり一般の国民は愚かでなければならない」、あるいはまた「人びとは『個人』であってはならない」、という「認識」の存在です。
「個々人」に、これ以上「権利」を云々されては厄介だ、だから「個」ではなく「人一般」で括る。十人十色ではなく、十人一色が好ましい・・・。
「人一般」とは、かつての《期待される人間像》!すなわち「一色に染められた《人びと》」
「戦前」には、それがあった。《一色》に染まらない人びとを《取締り》《矯正する》こともできたではないか。だから、人びとは為政者の言うこと、やることに従い、戦争もできたのだ。
それに反し、今は何かと言えば「反対する」、だから簡単にできない。できるようにしようではないか・・・。
   折しも、意図的に奪われた個々人の権利・尊厳の「回復」に生涯をかけたマンデラ氏が亡くなられました。
   その今、地球の反対側の《先進国》で、その逆を望む人びとがいる!

では、《期待される人間像》とは、どんな「人間像」か?それは《有識者》が《評価する》・・・。
それではいったい、《有識者》とは、どういう「者」か?それも《有識者》が《決める》?
こういう「論理」を平然と使うとは、あまりにも人びと:国民を見損なっていませんか。

どうしてこんな「思考回路」になるのでしょうか。
一言で言えば、それは、彼らの、如何ともしがたい「エリート意識」に因がある、と思います。
《有識者》として「選択された」人びとも、それに甘んじているようです。かつて、そういう人たちは「御用学者」と呼ばれたものですが、今でもすすんでそうなりたがる方がたがいるようです・・・!
   御用学者:政府や有力な企業の言いなりになって真実をゆがめ、時勢の動向を見て物を言う無節操な学者。(「新明解国語辞典」)

では、「エリート意識」はなぜ生まれるのか。

それは、日本の歩んできた「近代」の様態にある、と私は考えています。

何度も書いてきたことですが、「人の上に人をつくる」ことによって、「人びとを『分別する』こと」によって、「近代化が進む」と思い込んでしまったのです。そして、そうすることに励んできてしまった・・・。
その「思い込み」は、大学などで《専門》を学べば《専門家》になれる、という「誤解」を蔓延させてきた
たとえば、建物づくりの世界では、現場で鍛えた職方たちを、学卒の者の下に置いてきた。
「そういう現場の実際を何も分らない肩書きだけの人たち」が、建物づくりにかかわる法律をつくる・・・。
   註 このあたりのことについては、下記で書いています。[追記 9日 9.55]
     日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在 どこで間違ったか
     「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃 滝大吉著『建築学講義録』について
     「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1
     「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2
     「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺
     学問の植民地主義  《権威》の横暴

今や、各界でその気配が濃厚です。変る気配もありません。
そして、変えるべきだ、という意見・見解は《権力者》《有識者》に潰される。
   「公聴会」や「パブリック・コメント」への対処の実態で明らかです。

同様に、選挙で選ばれた以上は何をやってもいいのだ、という「誤解」が、国会議員をはじめ各議員に在る(関西のとある知事:今は市長:がその典型)。
この「誤解」に抗議すると、たとえばデモをすると、恐怖感を煽るからテロと同じだ、と言う!
十人十色の人びとが、一つにまとまって「反対・廃止」の意向を示す、おそらくこれは、彼らにとって、この上なく怖い、《想定外》の事態。その怖さを、彼は音響の大きさのせいにした・・・(音が小さければ、聞こえない振りをするでしょう・・・)。


一昨日六日、秘密保護法が強行成立してしまいました。時計の針が一歩、「戦前」側に戻ったようです。

原発再稼働や新設の動きも露骨になっています。

時計の逆回しの《願望》は更に加速しそうです。のど元過ぎれば熱さを忘れ・・、人の噂も75日・・、これが彼らの《願望》の「拠りどころ」。
だから、私たちは、決して「歴史」を忘れてはならないのです。
時計の逆回しにブレーキをかけられるのは、十人十色の私たちです。
「王様はハダカだ」と言い続けたい、と思います。あきらめは禁物です。


求利より求理を!


蛇足 

「十人十色」ということについて、だいぶ前に書いた文章から抜粋して再掲します。[8日 19.50追記]
なお、同じ趣旨を、ここでも書いています。[追加 9日 9.05]

   「・・・・十人十色ということは、ものに対する人の感覚が人によってまったく異なる、ということではない。
   むしろ、ものに対する人の感覚は人によらず共通であり、
   しかし、そこでそれぞれが捉えたものに対してのそれぞれの反応・解釈に、十人十色の違いが生まれる、と考えた方がよいだろう。
   そうだからこそ、人の世界に互いに通じる「言葉:言語」が生まれたのだ。
   けれども日常、得てして、「ものに対する率直な感覚」と、「感覚で捉えたものへの反応・解釈(簡単に言えば「好き嫌い」)」とを混同してしまいがちだ。
   そこの見極めのためには、素直にならなければならない、先入観を捨て去るようにつとめなければならないのだが、これが難しい。・・・・」

   秘密保護法案に対する「反対、廃止」の声は、人びとが、この案件について感じていることに対し、共通の見解を持った、ということです。
   誰かによって、一色に染められた、というのではないのです。法案成立に躍起になった方々には、この厳然たる事実が分らないのです。

「有識者」について書いた記事があります。「この国を・・・13」[10日 19.45追加]






この国を・・・46 : 「誤表示」と「偽装・偽計」の違い

2013-11-27 15:29:11 | この国を・・・

晩秋の山林風景。植林の杉檜の山の縁辺は実生の落葉広葉樹林。もうじき冬姿になります。

追加 12月1日付東京新聞のコラム「筆洗」へリンク]
12月3日付東京新聞「社説」も追加[12月3日 8.45]12月6日付東京新聞コラム「筆洗」へリンク[12月6日 8.35追加]

食品「誤表示」騒動も一段落したようです。
あの後、よく考えてみたら、〇〇エビを△△エビと称すること自体は、「誤表示」と称しても問題はない、まさしく表示が間違っている、誤りだからです。〇〇エビを△△エビと称するとき、「エビ」という「実体」は存在する。その種類、名称が「誤っている」だけの話。エビでないものをエビと称したわけではない。問題は意図的に誤表示をすること、それは明らかに偽装であり偽計なのです。
昨晩強行に採決した「秘密保護法案」、これに賛成した政党、その政党名は最初から偽装。と言ってよいでしょう。
「ジユウミンシュ」「コウメイ」「ミンナ」。これは、「俺々詐欺」に匹敵する。「俺々」なる者は、「子ども」を騙っている。これら政党名も「自由・民主」「公明(正大)」「皆」を騙っている、としか言いようがないからです。「ジユウミンシュ」「コウメイ」「ミンナ」、どれも実体は「非」自由民主、「非」公明、「非」みんな、なのです。
そうでない、と言うならば、つまり、本当に「自由・民主」であり「公明」であり「みんな」を標榜するのであれば、昨晩の採決強行は「論理的にできない」はず。
禁止を定めた法律がないから問題ない・・・などと言わないでください。
これは人としての当たり前の「品格」の問題、私はそう思います。
偽装・偽計、ここに極まれり、と言ってよい。この方がたに、「道徳」が必要だ、などと言ってほしくないものです
   野党も賛成しているから「強行ではない」と言う政権幹部が居るそうです。大したもんだよ・・・!

     **********************************************************

「『日本家屋構造』の紹介」、ただいま編集中です。もう少々時間がかかります。


この国を…45 : 「戦争を知らない大人たち」

2013-11-20 10:55:26 | この国を・・・

数日前、寒冷前線が通過した後、街灯が点きはじめた頃の筑波山。この翌日初氷が張った。


「戦争を知らない子供たち」、という歌があります。作詞:北山修、作曲:杉田二郎。一時流行った「フォークソング」です。
   戦争が終わって 僕らは生まれた
   戦争を知らずに 僕らは育った
   おとなになって 歩きはじめる
   平和の歌を くちずさみながら
   僕らの名前を 覚えてほしい
   戦争を知らない 子供たちさ
   ・・・・・
なぜかこの頃この歌を思い出しています。
「戦争を知らない大人たち」の「戦争のできる国にしたい、それこそが《独立国家》だ」と考えているのではないか、と思える「行動」が横行しているからではないか、と思います。

彼ら「戦争を知らない大人たち」は、権力者の独善・独裁の論理を推し進めるための《環境づくり》を着々と進めているのではないでしょうか。

今日の東京新聞「私説・論説室から」、「『道徳』を持ち出す真意」を転載させていただきます。全く同感です。



この国を・・・44 : 偽装・偽計、そして 言い繕い

2013-10-31 12:01:07 | この国を・・・
11月3日(「文化の日」)付東京新聞社説、相変わらず論旨明快です。「『文一道』の精神に立つ」」、是非お読みください。[11月3日 9.30追記]


冷たい雨が上がりましたが、空気は少し湿りがちです。筑波も、今日は霞んでよく見えません。
すっかり葉を落とした柿の木が朝日に映えています。欅の黄葉はまだです。


「言葉」とは何か、あらためて問い直したくなるようなニュースが溢れています。

辞書をひいてみました。
「言葉」とは、
「その社会を構成する人びとが思想・意思・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。・・」これは、「新明解国語辞典」の解釈。
人は、「言葉」を見たり聞いたりすると、その「言葉」の「普通に示すあるイメージ」を描きます。同辞書の「イメージ」の項に、「その言葉(名前)を見たり、聞いたりした人が(直ちに)頭の中に思い浮かべる、そのものの具体的な姿・形。」とある通りです。
通常、私たちが言葉を用いるときには、このイメージが自分の思いを出来うる限り正確に伝えるものであるように、意を尽くすはずです。
ところが、世の中にはそうではない方がたが居るのです。しかも、かなり増えているようです。
簡単に言えば、言葉の生み出すイメージだけを信じ込ませよう、という使い方をしたがる方がたです。

昨今世を賑わせている《メニュー誤表示》騒動などは、その最も簡便形。
メニューの記載事項もさることながら、《誤表示》という言い方もそれに該当します。「偽装ではない」、というイメージを抱かせるための使いかたに他ならないからです。
こういうのを「甘言」と言います。口先だけの言葉。用例に「甘言に釣られる」とあります。「メニュー《誤表示》」は、世の中に「甘言に釣られる」人びとが多いからこそ多発するのかもしれません。
昔からよくあるのが「商品の売り込み」文句。「メニュー《誤表示》」はその系統。

ところが、昨今、政治の世界の「用例」に同様の傾向が多く見られるように思います。
「秘密保護法」などの制定や「集団的自衛権」などについて政治家の語る言葉の数々は、その典型。「メニュー誤表示」の「思考法」と何等変りはない。
宰相が口にする《積極的平和主義》とは何ぞや?どうやら、武力行使をもって平和を維持することを意味するらしい。
こういう言葉遣いを平然とできるのは、ことによると、心身の成長期を、悪しきCMの流行った時期に過ごしたからかな、と思いたくなります。そういえば、偽装ではなく誤表示であると言い張る経営者と、時の宰相は、同じ年代のよう・・・。だからこそ、汚染水は完全にブロックしている、などという言葉を平然と使えるのでしょう。更には、福島を経験したから日本の原発は安全だという《論理》で原発売り込み行脚も行なっている・・。「責任」どうとるのだろう?

「新明解国語辞典」の「言葉」の項の用例に、「「言葉だけが踊っている」というのが載っています。「空疎な表現に終始する」ことです。我が現下の宰相は、「国民など、簡単に言葉で躍らすことができる」、と思っているのもしれません。そんなに人びとは「甘い」でしょうか?「世界」は「甘い」でしょうか?

近くの国道わきに、半分ちぎれた《日本を取り戻す》と書かれたポスターが雨ざらしになっています。昨年の選挙の時の現政権党のポスターです。幸いなことに、宰相の顔の部分は色が褪せてよく見えません。

「取り戻す」という語には、所有権を取り戻す、という意と、「以前の良い状態」に帰る、という意の両義あるようです。しかし、この惹句だけでは、詳細は不明です。しかし、最近の様態からすると、取り戻すのは、どうやら、敗戦前の日本の姿、あのときは弱肉強食で「強」のアメリカに負けた、だから「強」になりたい・・・、「力」を蓄えたい、武力行使ができるようになりたい、つまりは、「合法的に」戦争がしたい、ということらしい。「原発維持」もそのためかも・・・。

言葉は、「言い繕う」ためにあるのではありません。
私たちは、「言葉」:「その社会を構成する人びとが思想・意思・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。」の本当の使い手にならなければならない、と思います。

この国を・・・43 : 続「偽計」

2013-09-10 12:01:43 | この国を・・・
[遠し番号訂正][リンク先追加]
涼しくなってきました。
週末、二日かけて、空地に生い茂った、暑い間放置し背丈が1mを越えた草刈りをしました。草に埋もれていたムラサキシキブは、だいぶ色づき始めていました(下の写真)。ハギも咲きだしています。暑かった分、秋の深まりが早いのかもしれません。

草のなかに、クサハギが可憐な花をつけていました。ほんとは、この花を撮ろうとしたのですが、一日遅れたら、もう終わっていました!
この草は繁茂力が強く、毎年面積が増えています。花はきれいなのですが、結構やっかいものです・・・(3㎜ほどのハート形が数珠つなぎになった種は、衣類に着いたら、なかなか取れません)。
   クサハギは、本名は、地面を這うように生えるゆえでしょうかシバハギといい、ヌスビトハギ科という恐ろしげな名の科に属するそうです。



2020年のオリンピックは東京開催になった。
わが首相は、IOC委員および海外メディアを前に、「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は福島第1原発の港湾内0・3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている」と語った、と報じられています。
少なくとも、日本国内でこういう「断言」は為し得ないはず。
なぜなら、日本の人びとの多くは、「収束」「とりあえずは安全だ」などの言葉で、何度も「だまされてきた」、そこから、それらの言の裏側に隠されている「事実」を知る知恵を身に着けています。ゆえに、そんなことは「公言」できない。つまり首相のこの「言」は、オリンピック誘致の「偽計」のための「虚言」なのです。それを「平然と」言える、この方の精神構造を疑いたくなります。そして、メディアもそれを「自信を持って」追及しない。

だいたい、コントロールされていないから汚染水が漏れているのであって、その漏れもコントロールされているとは言い難いのは周知の事実。何をコントロールしているのか、意味不明。
港湾内でブロックされている、というのも、どのようにブロックされているのか、実証・確認されてはいないのです。今朝の毎日新聞によれば、東電の幹部さえも首をひねって、政府に問い合わせ中、と報じています。
だいたい、港外の海水の放射能は薄められている・・というのは、かつての「公害」企業の言い分と何ら変わっていません。

招致委員長だったかの「東京は福島から250km離れているから安全だ」、という発言もありました。
この「発言」に対しての、福島から避難している方が、TVで「福島と東京は、『国』が違うんですね」と語っていたのが印象に残っています。メディアの「生温さ」よりも、的を射ている、と思いました。
そして、それを聞いて、私は小説「吉里吉里人」を思い起こしていました。
もうだいぶ前から、東北は、というより東北にかぎらず、『中央』から離れた地域(通常『地方』と呼ばれます)の人びとは、そういう「思い」を強く抱いているのです。実際、東北の震災被害さえも、「復興」の美名のもとで、「中央」の人びとの「金儲け」のネタになっている・・・。たとえば、高さ15mほどの防潮堤を、全海岸に築くという馬鹿げたハナシを「真面目に」やっている・・・。そりゃ金儲けにはなるでしょう。しかしそこには、そこに暮す人びとの姿が全く見えない!
   「地方」と「中央」という言葉づかいについて、以前に「山手線は local 線だ・・・・『地方』とlocal」で触れています。

7年後、2020年、福島の「廃炉」工事は、緒についているかどうかさえ分りません。これが「コントロール」の姿。

オリンピックに浮かれる姿に対しての「意見」、毎日新聞9月11日夕刊「特集ワイド:これだけは言いたい」をお読みください。

この国を・・・42: にんげんをかえせ ―― 想像力を働かせているか

2013-08-07 10:38:31 | この国を・・・
8月6日、広島の原爆の日、東京新聞の社説は、いつものように明快でした。
web 版からコピーして、全文を転載させていただきます。



この国を・・・42:「偽計」

2013-08-06 14:33:29 | この国を・・・
今日は広島原爆の日です。

こともあろうに、深刻な被害を生み、未だに収束の見通しさえ立っていない過酷な原発事故を起こした国の宰相が、「そういう過酷な事故を踏まえた安全な原発技術」と称して諸国を行脚し原発の売り込みに熱中しています。
この「神経の粗さ」、「感性の欠けた振る舞い」に違和感を覚えるのは、私だけではない筈です。
メディアの中には、この「行商」を、日本経済再興の起爆剤として歓迎すると論じるところもある始末。それを「経済」と言って憚らない論者の「知性」を疑います。

私は、この「行為」は、明らかに、「偽計(欺計)」であると思います。
そこへもってきて、「ナチスの手口に学べ」という呆れ返る発言が、宰相の取り巻きから為される。これは、まさに「偽計(欺計)のすすめ」以外の何ものでもない。
   偽計(欺計):相手を騙すための策略。他人を騙すはかりごと。振り込め詐欺然り。

そんななか、8月3日の毎日新聞の特集記事「記者の目」と「発信箱」に、このような政治家や経済人、その同調者たちを問い質す記事が載っていました。全文を転載させていただきます。

「記者の目」は、いかにして一般の人びとの原発への反発を薄めるか、そのための「偽計(欺計)」の謀議を告発、つまり、いうところの「安全神話づくり」の裏側を突いた記事です。

web版「記者の目」

これほどまでに「偽計(欺計)」をしなければならない、ということは、原発がいかに危険なものかを示す証にほかなりません。
そしてそれゆえ、当の本人たちは、「危険を安全と言いくるめること」が、「お国のため」の《正義》の行為である、と思い込んでいるのです。

次に「発信箱」を転載します。
今回の「発信箱」の内容は、「偽計(欺計)」を支えてきた言葉の軽さについて論じたもの。
簡単に言えば、「安全」に基準などない、ということ。

web版「発信箱」

世の中には、「脱原発」などは「情緒論、感情論」あるいは「書生論(理論倒れで現実に合わない論のこと)」だという方がたがいます。原発製の電気がなければ世の中真っ暗闇だと考える人たち。
おそらく、この方がたには、「福島の人びとの現実」が見えないのです。
その意味では、彼らの方が書生論。経済とは金儲けのことなりと一途に思い込んだ我利我利亡者。それ以外何も見えない。見えなくなっている。

何故こうなるのだ?
人の本来備えている「感覚・感性」に基づいて獲得する「知」を、安易に《学的『知』(科学的知、経済学的知・・・)》と置き換えてしまったからではないでしょうか。それが「科学的」なことと勘違いして・・・。

本来の人の「感覚・感性」を備えているならば、記事にあるような「言動」は、あり得るはずがない。
つまり、人であることをやめてしまったのではないでしょうか。




この国を・・・・41:使用量の格差

2013-01-09 11:20:12 | この国を・・・
当地では、上下水道の使用量検針は毎月20日ごろ為されています。
先月、検針の方が、わざわざ立ち寄ってくださいました。使っていないのに、メーターが動いている。漏水しているらしい、使用量も前の月の倍近くになってます、とのこと。
設備屋さんにみてもらい、漏れているゾーンは判明。近年にない寒さで凍結事故が多く、おまけに年末、忙しくて手がまわらない、というので、自力で掘削、漏水箇所を特定。T型分岐部品(通称チーズ)に12月はじめにあった地震で無理がかかり、ヒビが入ったらしい。
水道管は塩ビ管。ヒビ部分にボンドを厚塗りし、ヴィニールテープで包帯。以来10日あまり、何とか漏れは納まっています。

ところで、通常、下水道の使用量の算定根拠は、上水の使用量に拠っています。
つまり、下水の利用量=下水への排出量=上水の使用量。上水を庭に散水しても、その使用量は下水道使用量になるわけです(井戸水を使い、排水は下水道利用の場合は井戸水の使用量を測らなければなりません)。この数量にそれぞれの単価をかけて、それぞれの料金が算出されます。

この使用量と排出量の関係について、1月5日の東京新聞:TOKYO Web:に興味深い記事が載っていました。コピーして転載させていただきます。

暮の選挙でも、一票の格差は問題にされました。
一票の格差、という論議には、根本的に異議があることは以前にも書きました。まして、小選挙区制度の下で一票の格差を論じるのは更におかしい。なぜなら、同じ投票率でも、比例代表制だったら、結果が変ってくるはずだからです。制度の論議なしで格差を論じるのは私には理解不能です。

さて、上記の記事。
この記事を書かれた記者は、通常の生活にともなうゴミは、発生した地域内で処理するという原則で行なわれているが、
この「原則」を、原発の廃棄物:核のゴミ:にも適用してよいだろうか、という重大な問題提起をされてる、と考えてよいでしょう。
そして、記者は、ゴミを発生した結果生じた産物の利用量でゴミの処理に当たるのが妥当ではないのか、という「論理」に拠って実情を調べたのです。電気料金、上下水道料金などは、利用量・使用量で計算するのだから当然です。
その結果、記事のような結果が出た。
今、いわゆる「除染」で出たゴミも、発生した地域で処理するという「方針」が採られています。これも、ゴミは発生場所で処理する、という一見すると筋の通った「論理」に拠っているようです(ご都合主義ですね)。

では、一票の格差を問題にする方がたは、都会の方がたや弁護士が多いようですが、この記者の調べた「結果」に対して、いかなる対応をされるのでしょうか。
これまで、交付金をたくさんもらってきているのだから、いいではないか、という「論理」での対応があるかもしれません。
ただし、その「論理」で押し通したいのならば、その交付金が、原発事故被災地の「被災」状況に見合うものである、という論証がなければなりません。
しかし、その「論証」が為された気配はない。
第一、それは不可能だ。人の暮しを金銭に換算するなどということ、数値化できると考えること、それ自体がそもそも不埒なのです。たとえば、心労を換算できますか?迷惑量を数字に換算できますか?
拠って立つのは数字ではない。あくまでも「理」、「人としての理」のはずだ、私はそう思います。「人としての理」は数字で示すことはできないのです。

東京新聞は、年頭から、「年のはじめに考える」とい社説を連載しています。
その中から、1月4日付の社説を TOKYO Web からコピーし転載させていただきます。
あるブログの中で、東京新聞の社説は「原理主義だ」と書かれていました。
悪い意味ではなかったようですが、私は「主義」という語に違和感を感じています。
「主義」として片づけることのできない非常に radical な、字の通り根源・本質に立ち帰った、したがって何人も否定できない「理」を述べているのだ、そのように思っているからです。
   「理」をもって否定できない、しかし否定したい、そのとき持ち出されるのが、
   それは精神論だ、「現実」的でない、との言い分。
   その人たちにとって「現実」とは何なのでしょうか。