建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

理解不能

2011-05-26 19:17:02 | 専門家のありよう
[文言改訂 27日 7.30][註記追加 27日 12.12][註記表記改訂 28日 16.52]

数日前、5月23日の毎日新聞夕刊「文化欄」に、次のような記事が載っていました。



   記事の執筆者が、どこまで、発言を正確に伝えているかは分りません。
   ただ、通常、こういう記事の場合、発言者の了承を得るものだ、と私は理解しています。[文言改訂 27日 7.30]
   以下の私の感想は、「この記事の伝えている発言内容」についてのものです。
   

「建築家」の「思想・思考」の様態については、ある程度は「想定内」ではありましたが、この「発言内容」は、まさに「想定外」でした。

曰く 「人間がどう自然と折り合いを付けていくのか、問い直す時期がきた」
曰く 「避難所や仮設住居に居心地のよい『心の拠点』をつくりたい」
曰く 「人間の欲望と建築が結びつき、経済も回ってきた。足元が揺れる思い」
曰く 「震災後、文化が深いところで変りつつある。自分も建物をつくるうえで変っていかなければ」
曰く 「建築家も『私』を超える必要がある」
・・・・・

順に見てゆきます。

いったい、「折り合いを付ける」も「付けない」も、これまで、「自然」をどのように「認識」していたのだろうか、その「説明」なしで、見直すも何もないでしょう。私は寡聞にして、この方の「自然についての認識」を聞いたことがありません。
「折り合い」とは、「妥協」、すなわち、「対立した同士が譲り合って解決する」という意味(「広辞苑」「新明解国語辞典」その他)。
この発言から察するに、発言者はこれまで、「自然」を対立相手として見てきた、ということをいみじくも語っている、と理解できます。
たしかに、そう言われると、発言者の「作品」のありようが「納得」ゆきます。
そして、「問い直す時期が来た」というフレーズが、地震がなかったなら、今まで通りやるだけだった、ということをも示しています。

「心の拠点」は、避難所や仮設住宅にではなく、本来、「日常」に求められるのです。
避難所や仮設住宅は、それこそ、字の通り「緊急時」のもの。人は、「日常」にそれを必要とする。
建物をつくることは、空間を「日常」に供するもの。そのように認識・理解している私にとって、この発言は、一体何なのだ。
「日常」に「心の拠点」になるものがない、
特に「建築家」の「作品」にはない、ということについての「認識」が欠如しているのではないか、そう私には思えます。
つまり、まずもって「日常」を直視してほしい、私はそう思います。[文言改訂 27日 7.30]

「人間の欲望」だと?
そんな風に人間一般に「普遍化」してはもらいたくない。
人間の欲望ではなく、「建築家の欲望」ではありませんか?だとすれば、発言はまさにその通りです。

震災後、「文化」が深いところで変りつつある?
この文言も、発言者の「文化」についての「認識(の程度)」をいみじくも示しています。
「文化」って、そんなものなのですね。
「文化」というのは、私たちの外側に、あたかも「固形物」の如くに存在するモノなのですね。
そういう意味の「文化」を英語では何て言うのでしょう。少なくともそれは culture ではない。

建築家も「私」を超える必要?
やっぱり、これまでやってきたのは、「私」のためだった、ということ?


こういう指摘は、ことによると、揚げ足取りのように聞こえるかもしれません。
しかし、決して揚げ足取りではないのです。
なぜなら、揚げ足取りとは、言葉尻をとらえて言うこと。
私は、その「内容」、そういうことを言わしめた発言者の「思考」についての感想を述べているのです。
こういうことは、「建築の世界」では、何も言わずに「なあなあ」で済ますのが常です。
しかし、「なあなあで済ましてしまう」と、「建築家の世界」では、こういう無思慮な発言がまた繰り返されるのです。だから、敢えて言うのです。

だいたい、地震で、たとえそれが如何に想定外の巨大さであろうが、
そんなことで簡単に「思想」が変るなんて、私には理解不能
「建築家」とは、気楽な稼業ときたもんだ・・・。

これらの「発言」は、「想定する」「仮定する」「検討する」・・・を「評価する」という語に置き換えて「満足する」のと同じ構造のように、私には見えるのです。

   註 私は、「自然 vs 人間」「風土 vs 人間」・・・などのような二項対立的な考え方は「不得意」な人間です。
      そんな考え方をすると、人間ではなくなってしまうように感じるからです。      
      先に、「建物をつくるとは、どういうことか」シリーズの第2回で、
      道元の「・・・うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず・・・」を引用したのも、そのためです。
      なお、このシリーズの全体は、
      「建物をつくるとは、どういうことか-16」にまとめてあります。
                                 [註記追加 27日 12.12][註記表記改訂 28日 16.52]

コメントがありました。
そのご意見の参考として、かつて書いた記事をリンクします。
「アンリ・ラブルースト・・・・architect と engineer 」     
コメント (2)

号外-集成・「再検・日本の建物づくり」

2011-05-18 19:55:29 | 再検:日本の建物づくり


今、田畑のわきの道端で、あやめ の群生が盛りです。昨年より、一週間ほど遅いようです。
  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[関連記事リンク追加 20日8.55、20日 11.33、19.21、28日 9.39]

各地で、宅地造成地での液状化による建屋の損壊が話題になっています。
こんなにまで多く、しかも各地で、そのような宅地が造成されているなどということは、私にはまったく思いもかけないことでした。
そして、二つのことを考えました。

一つは、いわゆる「技術」の(考え方の)劣化。
これは、簡単に言えば、「工学技術」への信仰に近い《信頼》。これは、原発事故にも連なります。モノが見えなくなっている・・。
もう一つは、被災された方がたにはきつい言葉に聞こえると思いますが、一般の方がたの「偉い人依存」思考の増加。
つまり、多くの人びとが、自分で考え、判断しなくなった、ということ。
かつては、各自が適切に判断できた・・・。そのような所に住まいを設けるなど、当然のこととして考えなかったはずだ・・・。

そんなとき、私の深夜のお好みのTV、「NHK高校講座」の「日本史」で、「明治維新」についての講義をたまたま観ました。

たとえば、「明治維新」で高らかに唱えられた「四民平等」、当然、「国民皆兵」の場面でも四民平等であるかのように見えるでしょう。
しかしそうではなかった。
士族(江戸時代の武士階級)、華族(江戸時代の公家)の子弟は免除、そして、当時の金額で270円を納めた者も免除だったとのこと。
この金額は、とんでもない額。ゆえに、「兵」になったのは、農民の二・三男・・であった・・・、という「事実」。

おそらく、「近代化」以降、こういう「建前」で庶民を「欺く」手法が「発案」され、それは、何と、現在まで続いている・・・。
「教育」も、「義務」化され、しかし、そこで念入りに進められたのは、上意下達であった・・。そのころから、各自の判断停止が進められた、と見ることができます。
   以前に使った言い方をすれば、
   天は人の上に人をつくらなかった、が、人は人の上に人をつくった!

もちろん、「高校講座」の講師(都立立川高校の先生でした)は、ここまでは語らず、ただ「事実」だけを示してくれていました。
けれども、その「事実」を知れば、その「事実」の向う側に見えてくるのは、「現代」の様相にほかなりません。
   私の高校で学んだ「日本史」では、これらの「事実」は、示されていませんでした・・・!

今、建物づくりを含め、私たちは、「上」からの指示に従うことがいわば強制され、人それぞれの思考・判断が疎まれています。
しかし、少なくとも近世までは、そうではなかった。

「建物づくりの技術」の場面でも、「技術」は、普通の人びとが、それぞれの「現場」でつくりあげてきたのであって、決して一部の偉い人がつくりあげ、人びとに従うことを指示したものではなかった、というこについて先に書きました。2009年~2010年にかけて書いた「再検・日本の建物づくり」シリーズです。
このシリーズでは、「建物づくりの技術」そのものよりも、それを支え、担ってきた人びとの「考え方」について考えてみたシリーズです。

以下に、まとめて見ました。
かつて、人びとは、液状化の起きるような場所を埋め立てたり、山を削って盛土したような場所には、決して住もうとはしなかったのです。もちろん、そんな「開拓」はしなかった!そういうことをやるのは「技術」者として、恥だったのです。

再検・日本の建物づくり-1:人は何処にでも住めたか
再検・日本の建物づくり-2:人は何処にでも建てたか
再検・日本の建物づくり-3:日本は独特な環境である
再検・日本の建物づくり-4:四里四方
再検・日本の建物づくり-5:遺構・遺跡・遺物
再検・日本の建物づくり-6:「掘立て」の時代がなかったならば・・・
再検・日本の建物づくり-6の補足:最新の遺跡地図
再検・日本の建物づくり-7:掘立ての時代から引継いだもの
再検・日本の建物づくり-8:しかし、すべての建屋が天変地異に耐えたわけではない
再検・日本の建物づくり-9:「技術」の「進展」を担ったのは誰だ
再検・日本の建物づくり-10:「名もなき人たちの挑みの足跡」
再検・日本の建物づくり-11(了):「専門家」を「専門家」として認めるのは誰だ

なお、関連の記事に、最近の「建物は、『平地・平場』でなければ建てられないか?」があります。[追加 20日8.55]
近世の「技術者」が、どのように「今の技術者」と違うか、「地方巧者」の紹介に際して触れていますので、リンクしておきます。[追加 20日 11.33]
その他、関連記事
「危ない所が街になったのは・・・・江戸の街と今の東京の立地要件は同じか?」[追加 20日 19.21]
「わざわざ危ない所に暮し、安全を願う?」[追加 28日 9.39]

再び 「評価」という「言葉」 について 考える

2011-05-13 19:46:59 | 「学」「科学」「研究」のありかた
[リンク追加 16日 8.35、12.12、20日 8.45]

毎日新聞は、他の新聞に比べ、論調が鮮明です。
今日16日の朝刊コラム:「風知草・原発に頼らぬ幸福」も、歯に衣を着せない傾聴すべき内容でした。
毎日jpにも載っていますのでリンクします。
なお、この中に出てくる「モンゴルに核廃棄物処理場を造る」という恐るべき計画がある、というスクープ記事は、数日前の毎日新聞にあります(毎日jpの記事にリンクしました)。

TOKYO web に、こんな原発賠償にからむコラム記事「オフレコ発言が示す『真実』」が載っています。偉い人たちは怖ろしい・・。[追加 20日 8.45]

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



曇天の下で咲くモッコウバラです。
数日前、ボケに大量の毛虫が発生、大騒ぎをしました。
最初は、チャドクガの幼虫?と思いこみ大騒ぎになったわけです。
しかし、よく考えたら、ボケはバラ科、チャドクガはツバキ科のツバキやサザンカなどに付くはず。
調べたら、大発生したのは、ドクガの幼虫ではないことが判明!

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[文言追加 14日 7.51][文言追加 14日 10.49]

「“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS”:イギリスの古建築-5」を書いたのは、3月7日でした。

以来2ヶ月、3月11日に起きた自然災害:東日本震災と、それにともなう人災:原発事故に係わるいろいろな事態について考えてきました。
   “CONSERVATION of ・・・”の次の用意もストップしたまま。ようやく少し始めたところです。
特に原発事故は、はしなくも、この2ヶ月、現在の日本の「学」「科学」「技術」、そしてそれに寄りかかる「政」「産」の実相を、明らかにしてきました。

普段だったら、「偉い人」たちの「まやかしのことば」で、普通の人びとは、いいようにあしらわれてしまったでしょうが、今回ばかりは、それは「無理」というもの。
まことに皮肉なことではありますが、ここまで「状況」が明瞭になるなどということは、このような状況でなければ、決して起きなかったでしょう。
目の前の「事実」には、打つ手がないからです。「自然」の「自然な振る舞い」は、そのような「まやかし」を、いとも簡単にぶち壊してしまったからです。
「自然」に口があったならば、何が想定外だ、と言うに違いありません。
「自然は人智を上回る」「人智は自然を超えることはできない」という「真実」が顕になったのです。
しかし、そのために、多くの犠牲が強いられた。

徒に「近代科学」「近代技術」を「信仰」せず、もっと謙虚に「自然の理」を弁えるべく心していたならば、つまり、「科学的」ではなく、もっと scientific であったならば、自然災害も、もちろん「人災」も、かなりの程度、避けられたのではないかと思います。

静岡の浜岡原発の停止が、「唐突に」決まりました。
この間の「経緯」にも、現在のわが国が抱えている「病理」が、いろいろと表れているように思えます。
浜岡原発停止の理由に挙げられているのが、浜岡原発の立地が、「発生確率84%の(87%という《説》も聞きます)東海地震」の震源域にあるから、ということ。
この「確率」は、「専門の委員会」なるところから出された「評価」だとのこと。

この数字を聞いて、皆納得するのでしょうか?
数字はいろいろな場面で出てきますが、この「確率」なる数字が、いかなる「根拠」で算出されたのか、その「説明」はどこにもありません。
「天気予報」の「降水確率」でさえ10%刻みでの「表示」であるのに対し、地震発生確率は、1%刻みの表示。
ということは、84か87かということに極めて大きな意味・差がある、という「認識」が、発表者側にある、ということのはずです。
であるならば、その「表示」の算出根拠を、「分りやすく」説明するのが当たり前。
   もっとも、降水確率自体、
   それがいかなる意味を持っているのか、分りやすい説明は見たことがない。
   
   さらに、地震や津波のメカニズムについても、「新しい」説があり、「再評価」の必要があるのだそうです。
   なぜ、「検討し直す」と言わないのでしょうか、言えないのでしょうか。

   経営者団体の会長さんが、浜岡原発運転停止の決定の過程がブラックボックスだ、と語っていました。
   違和感を感じました。何故、その部分のブラックボックスだけを問題視するのか、分らないからです。
   原発は絶対安全だ、とのこれまでの「評価」が生まれた過程について、
   この会長さんがブラックボックスだ、怪しからん、と考えたフシが見られないからです。
   問題なのは、「絶対安全」という「評価」が下されたことのはずではありませんか。
[文言追加 14日 7.51]

私の感想は、「数字」だけが、これ見よがしに一人歩きしてしまっている、という印象を免れないのです。何故?
多くの場合、一般の人を「まやかす」ために使われるのが「数値」。
そして、「究理の精神を欠いた科学者」が、自らの「実績」を人びとに無理やり押し付けるために使われるのが「数値」。
簡単に言えば、素直な人びとを「無理やり」「有無を言わせず」「納得させたい」と思う人が使う遣り方。
その根底には、数字の大小には「文句が言えないだろう」という「さもしい魂胆」が潜んでいるのです。
強く、はっきり言わせてもらえば、大小の違いが明瞭に示される「数字」「数値」だけをもって、事態の「白黒」を強引に付けてしまおう、という魂胆。そこにあるのは、science ではなく「求利」。

東海地震がいつ起きてもおかしくない、それは、数字で示さなければ、示すことができないのか?
数値という「網」にがんじがらめに捕らわれてしまっていないか?
第一、同じ機関が発表している福島第一原発立地の地震の発生「確率」は、0%。なのに、発生した!
この「おかしさ」の「説明」は、少なくとも私は聞いていません。
そうであるならば、この大きな数値の確率をもつ浜岡は、起きないかもしれないのです。
もう、こういう「数値」に「左右される」のは、やめましょう。

今、専ら、「地震・津波と原発の安全性」だけが問われています。
つまるところ、地震・津波に「絶対的に」安全なら、原発は問題ない、という「論理」です。
これはきわめて危険な「論理」です。
原発が持つ「基本的な問題」が見えなくなるからです。
地震・津波に「絶対的に」安全なら、原発は問題ないのでしょうか?

そんなことはありません。
地震が起きようが起きまいが、そんなこととは関係なく、原発:核の「安全な」利用は、「論理的に無理」なのです。
なぜなら、そこで生まれる「廃棄物」の処理が、普通のゴミのようにはゆかないからです。
原発は低コストだと言われてきました。
そのコストに、廃棄物処理の費用は含まれているのでしょうか。
化石エネルギーを使う場合、廃棄物、あるいはそれにともなう排出物の処理は、難しいとは言え、先が見えます。
しかし、原発のゴミは、いかんともしがたいことが自明です。処理に何万年もかかる、そんな馬鹿な話はありません。第一、それでさえ、保証がない・・・。
   
もしかして、廃棄にかかるコストを何万年で割っている?そうすりゃ1年あたりのコストは廉い・・・。[文言追加 14日 10.49]
上水道をつくって、汚水処理を考えていない、そういう工学的計画の一つが原発。
製品の生産にかまけて、その結果生じる汚水などを放置した足尾銅山、チッソ、昭和電工・・・、いわゆる「公害」の最たるもの、それが原発。そう考えてよいでしょう。
百年経っても近代化以降の「思想・発想」は、まったく変っていないのです。

そして、その「思想・発想」を「正当化」するために使われるのが、「評価」という言葉なのです。つまり、「危いところ」を「評価」という「中性的」あるいは「客観的」に見え、聞こえる言葉で示すことで、簡単に言えば、ごまかし、人びとを「誘導する」ための手だて。

折しも、アメリカでは、福島原発事故を契機に、国内の原発の「安全性」について、「検討し直す」ことを明言しました。
その文言には、「評価する」などという語はないようです。あるのは「検討し直す」です。
もっとも、原文:英語でどうなっているかは分りませんが、翻訳者は「評価」という語に置き換えなかったのは確かです。

いいかげんに、言葉で繕うのはやめませんか。
日常語ではだめなのですか?
江戸時代の「学者」の言葉は平易です。語句でごまかす気など、毛頭ないからです。

偉い人たちは、一旦、普通の人の目線に戻り、日常語の世界で語る必要があります。
そして、「数字」を使わずに、事象・事態を説明することを、心がけるべきです。
それができない、というのなら、「その人は、実は、何も分っていない」と言ってよいのではないか、と私は思います。
なぜなら、日常語で語れないのだから。

大分前に紹介した現代物理学の礎を築いたハイゼンベルク、本当の scientist の考え方を、再び紹介します。
   ・・・・
   現代物理学の発展と分析の結果得られた重要な特徴の一つは、
   自然言語の概念は、漠然と定義されているが、
   ・・・・理想化された科学言語の明確な言葉よりも、・・・・安定しているという経験である。
   ・・・・既知のものから未知のものへ進むとき、・・・・我々は理解したいと望む・・が、しかし同時に
   「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
   いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・・・。
   というのは、そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、
   だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。
   ・・・・
       
                      (ハイゼンベルク「現代物理学の思想」富山小太郎訳 みすず書房)

とり急ぎ:放射線汚染警戒区域のペットは 一時帰宅時に連れ出しできます 

2011-05-12 08:09:29 | 居住環境

飯館村の乳牛は、全頭殺処分だといいます。何故?

これまでともに過してきた犬や猫たちも、放って置かれたまま、連れて避難できない、と言われています。
が、しかし、・・・

『犬猫救済の輪』動物愛護活動ドキュメンタリー さんのブログより転載いたします。

    「警戒区域のペットは一時帰宅時に連れ出し出来ます。」

     転載お願いします。2011年05月11日15:46

     前回のGWの保護のように国に情報操作されるといけませんので、
     これまで水面下で伝達していましたが、
     一時帰宅が始まり、緊急を要しますので、本日関係者了承のもと、
     以下の情報を 全面公開いたします。

     日本は私たちの国です。一部の人間のものではありません。

     命は見捨てるのではなく、救う為にあります。
     救う為に現地で頑張っている多くの方がた、
     何十もの被害で苦しんでいる飼い主さんと、瀕死のペットたちのために
     以下の情報を至急転載、拡散お願い いたします。

  詳細は、こちらをご覧ください。

『評価』という「言葉」について 考える

2011-05-02 18:05:44 | 「学」「科学」「研究」のありかた
[リンク先追加 8日 9.25]
[追記追加 3日 9.07]
[追補追加 3日 10.02(末尾。毎日jpにもあります)]
[文言改補 4日18.07]

5月8日 東京新聞webニュースで、福島第二原発建設反対訴訟の原告の方が書かれた
   原発はいつの日か 必ず人間に牙をむく
   私たちがそれを忘れれば いつか孫たちが問うだろう
   「あなたたちの世代は何をしたのですか」
   ・・・・・
という詩があることを知りました。[リンク先追加 8日 9.25]

5月3日、憲法記念日。
毎日新聞朝刊コラム、「記者の目」に、「専門家・学者・有識者・・と呼ばれる一群の人びと」の「実相」と、「彼ら」の「言い分」を利用しての「『お上』の言いなり」になることからの「脱却」、それゆえに「自ら考える」ことの必要を、歯切れよく訴える一文が載っていました。
読まれた方もあるかとは思いますが、末尾に転載します。[追記 3日 9.07]

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



東北は、これからが素晴らしい新緑。しかし・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  「言葉」:「新明解国語辞典」より抜粋
    「その社会を構成する人びとが思想・意志・感情などを伝え合うための記号として
    伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。」
    [広義では、それを表わす文字や、文字による表現及び人工語・手話語をも含む]


先に、以下のようなことを書きました。

  今日は触れませんが、いつも私が引っ掛かる語があります。
  それは「評価」という言葉。
  たとえば、東電のHPにある「津波対策」の文言にもあります。
    原子力発電所では、敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、
    過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を
    数値シミュレーションにより評価し、・・・

こういう言葉遣いは、私がこれまで身につけ使ってきた日本語の使いかたにはなく、違和感を抱くのです。
それは、私だけの感想でしょうか?

   註 「評価」という語の使いかたに違和感を感じ始めたのは、1990年代くらいからです。
      その頃から、急に「目につき始めた」ように認識しています。
      それは、例の「耐震基準」の「見直し」以後に相当します。
      つまり、その頃から、この語を使う「学術的」表現・文書が多くなったように思えるということ。
      この「風潮」の背景には、
      そういう「基準」を、「これが絶対」として「自信をもって」作成してきた人たちが、
      「『絶対』も変えなければならないこともあるのだ」と「知り」、幾分、自信喪失気味になり、     
      今後「絶対」の変更があっても、批判されないための「準備」として用意されたように思えます。


私の日本語で解釈すると、この文言は、「・・・過去に発生した津波の記録を調査するとともに、過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより、『その価値を決め(あるいは、その価値を判定し)』・・・」という意味不明な文章になります。

いろいろな辞書で、「評価」の語義・解釈を調べてみました。

新明解国語辞典(三省堂)
 「評価」
  物の価値や価格を(論じて)決めること。
  児童・生徒の学習成果について判定すること(⇒絶対評価、相対評価)。
広辞苑(岩波書店)
 「評価」
  品物の価格を定めること
  善悪・美醜・優劣などの価値を判じ定めること。特に、高く価値を定めること(用例:評価が低い、努力を評価する・・)
新漢和辞典(大修館書店)
 「評価」
  品物のねだんをきめる。また、評定した価格。
  善悪・美醜などを評論して、ねうちをきめること。また、評定した価値。
 「評定」
  =評決=はかりさだめる。話し合って決める。
字統(平凡社)
 「評」
  声符は平(へい)。平は秤で、持平の意がある。
  [広雅、釈詁]に「平なり。議なり」とあり平議、公平に評価すること。その語を評語という。
  評論の結果を評判という。中国では、審査・審判をなすものを評判員という。
  評とは、公平な議論を持する意である。
 「価」
  旧字は價に作り、賈(か)声。[設文新附」に「物の直(あたい)なり」とあり、価値をいう。
  賈に売買の義があり、その声義を承ける。
  [戦国策、燕策]に、伯楽が一たび馬を顧みると、「一旦にして馬價十倍す」とみえる。
  のち物の価値より、声価・評価のように、人の評判や品評の語にも用いる。

これらの解釈を見るかぎり、私の身につけた日本語による理解は、間違っているようには思えません。
辞書の言う 「その社会を構成する人びとが思想・意志・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。」 に離反していないからです。

だとすると、こういう言葉が、一部で流布するのには、何か「訳(わけ)」があるに違いない。

そこで、「評価する」は、英語では何になるか、調べてみました。
一般的な和英辞典では、「評価する」は evaluate, estimate がそれに当たるようです。
そこで、手元にあった「新英和中辞典」(研究社)で見てみると、
  evaluate :・・・を査定する。評価する。値踏みする。(ex:~the cost of the damage  類義語⇒ estimate
  estimate:1)(・・・を)見積もる、評価する、推定する( ex:~the value of a person's property)。
        2)人物などを(・・に)評価する。       
        3)見積もりをする。評価する(cf. aim,esteem )
    estimate の類義語
     1.estimate :個人的な判断に基づき価値・数量などを見積もる;客観性を欠く場合があることを暗示する
     2.appraise :専門的かつ客観的で正確な判断に基づき、特に金額の算定などを評価する。    
     3.evaluate :物または人の価値を厳密に評価する;金銭上の評価には用いない。
              数学では、数を求める意味で用いる。
のようになっています。
そして、estimate の類義語の2番目の appraise の語義「専門的かつ客観的で正確な判断に基づき、特に金額の算定などを評価する。」、および3番目の evaluate の補足説明「 数学では、数を求める意味で用いる。」に注目しました。

おそらく、欧米の「学術」表現での appraise (あるいは、数学で用いられる evaluate )の「意」に相当する日本語として、英和辞典にある「評価する」に対応させるのがよい、と判断したのではないでしょうか。
  因みに、appraise は、新英和中辞典では、
  「(物品・財産などを)評価(鑑定)する、値踏みする、見積もる」
  「(人・能力などを)評価する;(状況などを)認識する」
  類義語⇒ estimate とあります。

しかし、この「意」であるのならば、日本語には、日本語として、もっと適切な語があります。
たとえば、「(~と)想定する」「(~と)仮定する」あるいは「(~と)推定する」などなどです。
先に引用した東電のHPにある「津波対策」の文言は、「関係者」が「目の前に存在する『事実』について描写した文言」ではなく、「関係者」が「そのような状況であろう、そのようになるだろう、と判断した」ということ、つまり、「かくかくしかじかと想定した(~推定した)ということを述べた文言」に他なりません

それゆえ、この文言が言わんとしていることは、私の日本語では、
・・・過去の津波の記録を調査し、今後起こり得ると思われるそれを上回る津波を『想定し』(あるいは、『推定し』、またあるいは『仮定し』)、・・・
ということになります。
それで、文意的に、何の不都合もないはずです。しかも、より分りやすい。

では、なぜ、こういう言葉が使われないのでしょうか。
なぜ、こういう意味鮮明な言葉を使わないのでしょうか。

意地悪い見かたをすれば、
「推定」や「仮定」では、何となく主観的に聞こえ、客観性に乏しく見え、信憑性を疑われそうだ、だから、「信憑性がありそうに聞こえる」別の言葉で置き換えて言おう
ということのように、私には思えるのです。
   より強く言えば、「怪しげな」ものを「事実らしく」見せかけるための「作業」。

しかし、「推定」であり、あるいは「仮定」であることには違いはないのです。
それは、数値シミュレーションをしようがしまいが関係ない。 
そのことを明確に示しているのが「再評価」という語。
「想定」したもの、「仮定」したものならば、想定の「やり直し」、「見直し」、あるいは仮定の「見直し」があってもおかしくない。
「仮に定めた(決めた)」ものであるならば、「事実」と照合して、「見直し」があっても、決しておかしくないし、また、そうするのが当たり前です。
つまり、「再評価」とは、「見直し」ということに等しい。
なぜ、「見直し」ではいけないのでしょうか?

論理的に見るならば、私の「指摘」は、決して「意地悪」ではないのです。

こういう平易、かつ明確な日本語を使わない(あるいは、使いたがらない)「語り口」には、
「専門家、学識経験者、有識者・・・と呼ばれる一群の人たち」の、「数値で示せば厳密なのだ」という「数字・数値信仰」そのもの、そして、その先に垣間見える「数字・数値で示せば、(たとえば、原発は限りなく安全である、という「論」に)、人びと:素人:を 《従わせる》 ことができる」
という彼らの「心の内」にある意図がありありと見えてきます

これはひとえに、
彼らが「厳密であること」と「精密であること」とを混同して理解しているからなのです(下註参照)。
簡単に言えば、数値で示すことができれば、事象に正しく向き合っていることになる、と思い込んでいるからです。
さらに、その上、常に「人びとよりも一段上でありたい、なければならない」、そのためには、「事象を数値で示せばイイノダ」と思っているからなのです。

なぜ?

専門家、学識経験者、有識者・・であり続けたい、からです。
それゆえ、そこに「利」が顔を出すのです。
こと(原発の開発・設計、あるいは「耐震」設計などの)「工学的」事象に係わる方がたは、どうしても、「理」よりも「利(の計算)」に走ってしまいがちなのです。
それを「理」系に見せるために、数値・数字に依存する、ということ

私にはそう見えます。

    註 「厳密と精密」
      
しつこく、専門家、学識経験者、有識者・・の方がたの「心の内」を「解剖」すると、要するに、以下のようになるでしょう。
あくまでも「仮定」「想定」のものを、あたかも「絶対」のもの、「事実」である、かのように「装う」には、「想定」「仮定」あるいは「推定」という語を使ってはならない。
なぜなら、仮に「想定」「推定」「仮定」である、などと最初に言ってしまったら、後になって、「想定外」だ、なんて言えなくなるではないか!
論理の必然として、その「想定」「推定」「仮定」は「誤りだった」、ということに「自動的に」なってしまう、それでは沽券に係わる。


つまり、論理的に言えば、
ある人びとの間で、「評価」という語の遣い方が「定着」したのは、自らの「責任」回避が目的であった、ということになる、そう見てよいでしょう。

そして実際、今回の原発事故をめぐる「専門家、学識経験者、有識者・・・と呼ばれる一群の人たち」の言動を見ていると、それが如実に顕われています。

   註 ここ数日問題になっている被曝放射線量の限度問題では、
      その上限値なるものが、きわめて簡単・容易、安易に「再評価」されています。つまり、「変更」される。
      この状況は、「専門家、学識経験者、有識者・・・と呼ばれる一群の人たち」は、
      「科」学者であっても、決して scientist ではないことを、明白に証明しています。
      人の命に係わる要件を、「任意」に変えることができる!それで何ら問題ない!と言う。
      自然界には存在しなかったもの、つくってしまったもの、
      こういうものに「許容量」を設定すること自体、non-scientific だ、と私は思います。
      これを定めた方がたは、率先して現地に移住なさったらいかがですか?自ら範を垂れるのです。

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5月3日、毎日新聞・東京本社版コラム 「記者の目」を転載します。毎日jpにもあります。


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追補 [追補追加 3日 10.02]

私は、先に、コメント欄で、以下のように書きました。
  ・・・・
  私は、若いとき、社会に貢献したい、しなければならない、とは思っていませんでした。それは今も同じです。
  ただ、何ごとも「理」の通らないことは、やらない、やりたくない、係わりたくない、と思って来ました。
  それは今も同じです。
  とは言っても、間違いは多々あった、と思っています。
  ・・・・

もちろん、そういう「思い」(社会に貢献したい・・)が、頭の中をよぎることがまったくなかった、と言ったら嘘になります。
しかし、そういう「思い」が頭をよぎるとき、必ず、その一方で、人のやることで、「世に貢献しない、役に立たない」ことなんてあるのか?という「思い」が浮かぶのです。
つまり、そんなこと宣言しなくたって、仕事はできる。
そんなことを宣言するなど、そういうことなど言わずに仕事を重ねている、多くの技能者:建築畑で言えば、大工さん、鳶さん、瓦屋さん、左官屋さん、建具屋さん・・・:に対して、きわめて失礼。貢献したいなどと宣言するのは、まったくの「思い上がり」だ、ということです。
私は、かねてより、最高の研究者・学者は、建築の世界の場合、こういう技能者:職方である、と思ってきました。
そして、今、この本当の研究者・学者の存在を無視黙殺しているのが、「学者・研究者」を自認する人たちなのだ、と。

私が大学に入ったとき、同学年に、「土木」に進みたいという男がいました。土木の世界の雄大さ・・・などが素晴らしいからだ、というようなことを言っていたと思います。だから、そういう世界で世に貢献したいのだ、と。
それから半世紀ほど、彼は某公団の総裁として、糾弾されていました(そのとき知ったのですが、彼は数代続く土木畑官僚の子息だったのです・・・)。

つまり、社会に貢献する、世に貢献する・・・というとき、必ずと言ってよいほど、「利(への計算)」が心の隙間に入ってくるのだと思います。
貢献する、役に立つ・・・、という言い草は、そのことで「世に認められたい」という「欲」を伴ってしまうのです。そして「欲」は「利」へと連なってゆく。

私が、学生時代、一旦は入った「学会」に、会費未納で退会させられたのは、つまり、会費を払わなかったのは、「学問」「研究」とは名ばかりであることを知ったからです。
以来、私は、いかなる「学会」とも無関係です。学会に入っていなくても、「学ぶ」ことはできます。
私は、同憂の友だちと、「がっかい」ではなく「がっかり」だと言っていました。下手な平仮名で書くと、「い」は「り」に見えるからです。

もちろん、学会員にはそうでない方がたが居られることは承知はしています。
そうではなく「学界」「学会」の風潮が、一般的にそうだ、ということです。
そうでないというなら、なぜ、せめて、例えば原子力利用は、廃棄物処理が完全にできない、ゆえに、利用は時期尚早だ・・・などとぐらい、学界挙げて言えないのでしょうか。
なぜ、せめて、海岸の居住地化はやめるべきだ、あるいは湖沼の埋め立てはやめるべきだ、・・・と学界挙げて制止することぐらい、できないのでしょうか。
そうしないからこそ、一部の者が、「御用学者」になってしまうのではないですか?[文言改補 4日18.07]
scientific な「対応」は、それしかない筈です。
ところが、実際は、逆の方向を向いている。

だからこそ、人任せにせず、個々の人間が声を出す必要があるのです。
私はそう思っています。
つまり、ミツバチの羽音:buzz communication です。羽音で世の中を満たすのです。私の「民主主義」の解釈は、これです。[文言改補 4日18.07]

先のコメントは、私の私自身への戒めなのです。
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