桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-5

2007-06-15 21:18:10 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

4.鉄筋コンクリート造の耐久性(2)

 近代建築の発展によって、建築の構造や形態は確かに自由度を増した。理論的にはどのような形の建築もつくれるといって過言でない。しかし、これらの新技術と新しい建築理論のおおかたは、建築の耐久力を低下させ、その犠牲の上に新しい工法や新奇な造形を成立させる方向を辿ってきたといえる。新しい建築技術は、実に矛盾に満ちた方法で適用されている。
 つまり、一方では経済性・合理性の追求の名のもとに、耐久余力を殆どもたない建物をつくり、他方では機能性・近代的利便の追及の名のもとにフレキシビリティを全く欠いた建物をつくる。
 更に過度の近代的安全のために莫大な設備費を投下させ、また近代的造形と称して、殆ど維持不可能な細部や仕上げを提供し、そのために高騰するメンテナンス・コストやランニング・コストについては、これをすべて建築主に負担させるという建築のシステムを形成しているのである。
 これらはすべて、物理的・経済的な耐久力を無視ないしは軽視することから生じている。

 つまり、あらかたの近代建築の実態は、どのように見ても建築的・人間的に合理的でなく、健全でなく、5000年の歴史をもつ建築の本道にそむいているというよりほかはない。
 上記のような近代建築の諸特性を合理的だと説得するためには、いくつかの非建築的立場或は非建築的イデオロギーを前提としなければならない。
 例えば、非常に短期的な「目先の経済的利点」が建築の目標だとしたとき、上記のすべての傾向はつじつまが合い、すべての行為が合理的となる。
 しかし、そうだとすれば、すべては建設関連企業の目先の利益のためということになり、近代建築の開拓者たちの立派な言葉も、お人好しどものたわ言となってしまう。

 またひとつ、伝統的建築手法及び伝統的生活の絶滅を目差すことが近代日本の建築家の目標だったとすれば、これまたつじつまが合ってくる。
 ボールディング教授の日本観察によれば、近代日本人は日本の社会構造の複雑さを理解できず、その割り切れなさに苛らだって、古い日本のすべてを破壊したい衝動にかられるという(原註3)。

  原註3:Boulding,Kenneth “A Primer on Social Dynamics”1970
      Chap.Ⅷ
      横田洋三訳「歴史はいかに書かれるべきか」講談社学術文庫
      昭和54年刊。

 木造建築の絶滅とコンクリート造の普及は、明治・大正以来の日本建築界の宿望であり、都市の木造建築が許されていたのは、もうひとつの原理「目先の経済的利点」のためだけであったとみても、殆ど誤らない。
 ここでいう「目先」とは、せいぜい20年か30年と判定される。事実、ある著名な建築構造の専門家が、建築の躯体も造作も、ちょうど20年経ったとき同時に駄目になるのが理想的だ、と語るのを筆者は耳にしたことがある。

 建設もひとつの産業であり企業であるから、ビジネスとして遂行し、応分の利益を追求するのは当然である。ただ殆どすべての建設事業が上記のようなイデオロギーのもとにしか動いていないことを奇妙に思い、不気味に感ずるのである。
 特に奇怪なのは、そのような傾向に対して、大半の建築家、そして殆どすべての建設業者が、何の疑惑ももっていないように見えることである。建築研究や建築教育すら、そうした建築的現象への着目や分析を全く欠いているように思われる。

 その証拠として、現在では、半ば永久的存在を期待されている記念的建造物でも、当座の用だけを目差す商業建築でも、全く同じような構法や細部で設計されていることがあげられよう。
 第一流の建築家が、明らかに耐久性を欠く構法でモニュメンタルな建築を設計したりする。コンペの審査員も、建物の耐久力や維持管理の方法まで含めて判定しているとは思われず、30年経てば無残な有様となることが目に見えている建物に易々として賞を授けたりする。そこでは、記念建築の生命である耐久性という観点が全く抜けているのである。

 建築の方法が、いわばひと色に統制されているばかりでなく、建築の施工にはっきりした等級がないのも奇妙な現実である。
 日本料理によくある松竹梅や上・並の区別と同じように、かつて和風建築の工事には上等・中等・並等の区別があった。これは材料・工法・仕上げなどのすべてに亘る質の表示であると同時に、耐久力の表現であり、保証の程度の契約条件でもあった。
 現在の建築にも当然それが存在するはずであるが、故意にあいまいにぼかされて、たたひと色に偽装されている。この建築は20年しかもたないから単価はいくら、50年もたせるならいくら、100年保証せよというならいくらという単価の表示がなければ、とうてい正常な建築契約とは思われない。
 それとも現在では、すべての建築がすべて並等で20年の耐用年限を基準とし、それを知らないのは建築主だけなのであろうか。これはどう見てもフェアな状態とはいえない。
 
 もともと建築のコストとは、建設費だけでなく、メンテナンス・コスト、ランニング・コストの総和である。このトータル・コストが建築主の支払う総費用なのだから、耐久力というファクターが抜けていてはどうにもならない。
 ある建物に対して妥当なメンテナンス・コストを出す算式はないのか、とある建築経済の専門家に尋ねたことがあるが、そういうものはないという話であった。これで官庁・大学の建物が年毎に傷んでゆく理由がよくわかる。メンテナンス費用の算式がなければ説得力のある予算請求はできないからである。
 つまり、古くなった建築は、早く荒廃させて建て直した方がよいという結果になるのである。

 実際、今日の建築の状況が混乱を招いている要因のひとつは、確かに主導的建築家(かつてのコルのごときリーダーたち)の欠如であるかもしれないが、より大きな原因は、かつての指導者たちによって建築の実務があまりにも建築の本道から離れて、単なる経済行為・技術行為に堕してしまったからである。その最大のファクターは耐久力の無視であろう。

 世の中の誰一人として求めていない建築の短命化や造形には集中的な努力が傾注されているが、皆が要望している雨もれ防止や耐久力の増大、修理費・維持費の低減などに心を向けてくれる建築家はあまりにも少いのである。


  [次回は最終、5.耐久建築のすすめ]

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