打算の思考-3・・・・「打算」から脱け出す

2007-09-28 21:17:22 | 「学」「科学」「研究」のありかた
 先回の続き、現代において主流を占める「計算するだけの思考」から、いかにしたら脱け出せるか、を論じた最後の部分。
 あたかも「正法眼蔵」に接するがごとき難解の箇所が多いが、お読みいただければ幸い。


 それでは、原子時代の人間は、技術の制し難き圧倒的超力に、全く無防備に途方に暮れて、引き渡されているのでありましょうか。もし現代人が、単に計算するだけの思惟に対して、省察する思惟を、基準となる働きとして働かすことを、断念しているとすれば、確かに彼はそうでありましょう。併し、省察する思惟が目覚めますならば、気遣いつつ思いを潜める追思は、絶え間なく働かざるを得なくなるのであり、最も目立たぬ折にも働かざるを得なくなるのであり、かくして今此処に於ても、まさしくこの記念祝祭に際しても、そうならざるを得ないのであります。何故ならば、この記念祝祭は私共に或る事柄を、つまり原子時代に於て特別な程度で脅かされている或る事柄を、熟思せしめるからであり、その事柄とは、人間の仕事や作品の土着性ということであります。

 それ故、今や私共は問うのであります。すなわち、たとえ古い土着性が失われて行くとしましても、人間に或る新しい根底と地盤とが、すなわち、そこから人間の本質と彼のすべての仕事と作品とが、或る新しい仕方で、而も原子時代の内に於てさえも、生い立つことが出来るところの根底と地盤とが、返し贈られることは、不可能であろうかと。

 来るべき土着性のために根底となり地盤となるものは、一体如何なるものでありましょうか。
 私共が、このように問うことに依って、求めておりますものは、多分極めて身近かに存するでありましょう。私共がそれを余りに易々と看過してしまう程、それ程身近かに。
 何故ならば、身近かなものに至る道こそ、私共人間にとって何時でも、最も遠い道であり、そため又最も困難な道であるからであります。
 この道は、気遣いつつ思いを潜める追思の道であります。省察する思惟は私共に次のことを要求致します、すなわちそれは、私共が一つの表象に一面的に固着しないということであり、私共が一つの表象方向に一方向きに突走らないということであります。省察する思惟は私共に次のことを要求致します。すなわちそれは、一見したところそれ自身の内では決して一緒にはならないと見える如き事柄に、私共が自分自身を放ち入れるということであります。

 試みをなしましょう。
 今日私共すべての者にとって、技術的世界の諸々の設備や装置や機械は欠くことの出来ないものであります、或る人達にとっては、より大きな範囲に亙って、又他の人達にとっては、より小さな範囲の内で、孰れ(いずれ)にしても欠くことの出来ないものであります。
 技術的世界に反抗して盲目的に突走ることは、愚かなことでありましょう。技術的世界を悪魔の仕業として呪詛(じゅそ)せんと欲することは近視的でありましょう。私共は、諸々の技術的対象物に差し向けられ、それらに附託されているのであります。そればかりではなく、それらの技術的対象物は、私共を挑発し、益々高度な改良をなすべく迫っているのであります。
 併しその反面、私共は、知らず知らずのうちに、諸々の技術的な対象物に極めて固く繋ぎ着けられ、それらの奴隷の地位になり下がっているのであります。

 併し又、私共は、それとは別な行き方をすることも出来ます。私共は次のことをなし得るのであります。
 すなわちそのこととは、私共は諸々の技術的な対象物を使用しますものの、それらを事柄に適わしく使用しつつもなお且同時に、それらに依って私共自身を塞がれないように保ち、何時でもそれらを放置する、ということであります。
 私共は諸々の技術的な対象物を、それらが使用されざるを得ない仕方で、使用することが出来ます。併し、それと同時に、私共はそれらの対象物を、最も内奥の点と本来の点とに於ては私共に些かも関わるところのない或るものとして、それら自身の上に置き放つことが出来ます。
 私共は、諸々の技術的な対象物の避け難い使用ということに対して、《然り》と言うことが出来ます。そしてそれらの技術的な対象物が私共を独占せんと要求し、そのようにして私共の本質を歪曲し、混乱させ、遂には荒廃させることを、私共がそれらの対象物に拒否する限り、私共は同時に、《否》と言うことが出来ます。

 私共が諸々の技術的な対象物に対して、このような仕方で、同時に《然り》と《否》とを言いますならば、その場合技術的世界に対する私共の関わり合いは、分裂した不確かなものに、ならないでありましょうか。
 全然正反対であります。
 技術的世界に対する私共の関わり合いは、或る不思議な仕方で、単純なものとなり、安らかなものとなります。
 私共は諸々の技術的な対象物を、私共の日々の世界の内に入り来たらせます、そして同時に、それらの対象物を外に、すなわち、物としてそれら自身の上に置き放ちます。それらの物は、決して絶対者ではなく、それら自身、一層高きものに差し向けられているのであります。
 技術的な世界に対する同時的な然りと否というこの態度、それを私は、或る一つの古語で呼びたいと思います。すなわち、それは、「物への関わりの内に於ける放下(ほうげ)」、ということであります。

   紹介者註 この段落以降は、この講演の真髄に触れる箇所であり、
        「正法眼蔵」などと共通するところを感じるが、難解である。
   訳者註  物への関わりの内に於ける放下
        :Die Gelassenheit zu den Dingen
         根本的な意味での「落着」、
         Lassenつまり「捨」とか「放下」と言われる事柄に基づいて
          初めて成り立つ如き「落着き」である。
          ・・・・
         「事に無心、心に無事」というようなことを
          想わせるところがある。・・・

 このような態度の内に入りますならば、私共は最早、諸々の物を、単に技術的にのみは見なくなります。私共の眼差しは澄み切ってきます、そして次のことを認めます、すなわちそれは、諸々の機械を製作したり使用したりすることは、諸々の物に対する今までとは全く別な或る関わり合いを、私共に要求してはおりますが、併しその関わり合いは決して無「意味」ではない、ということであります。

   訳者註 私共の眼差しは澄み切って来ます: 
        技術的な物を単に技術的に見るのみならず、
         それを透かして「物」を視るようになり、
         ・・・
         「技術の本質」をも見抜くようになる。(紹介者意訳)

 かくして、農耕牧畜つまり農業は、動力化された食料工業になっております。ここに於ても――その他の分野に於けると同様に――自然と世界とへ人間が関わるその関わり合いの内に於ける或る深い貫徹力をもった変動が起っていることは、確実であります。
 併し乍ら、一体如何なる意味がこの変動の内に有って、それを統べているのかということ、このことはなお暗がりの中に留まっているのであります。

 そのような仕方で、すべての技術的な出来事の内には、確かに或る一つの意味が支配しており、その意味は人間の営為に要求をもって呼び掛け、その要求の内に人間の営為を呼び取っているのであります。 
 或る一つの意味、それは人間が初めて考え出したものでもなければ、作り出したものでもありませぬ。原子技術の支配は益々勢位を高め不気味なものとなっているのでありますが、この原子技術の支配ということが、一体何を意として目論んでいるのかということ、そのことを私共は知りませぬ。「技術的世界の意味は、それ自身を覆蔵しております」。
 ところで併し、技術的世界の内には到る処に於て或る覆蔵された意味が私共を触れ動かしているということ、このことに私共が殊更にそして絶えず、注目しましょう、そうするならば、私共は直ちに次の如き事柄の境域の内に立つのであります、すなわちその事柄とは、それ自身を私共に覆蔵し而も私共に向って到来するという仕方で、それ自身を覆蔵している事柄であります。このような仕方で、それ自身を示すと同時に、それ自身を脱去せしめてゆく事柄、それは私共が密旨と呼んでいる事柄の根本趨性であります。その力に依って私共が、技術的世界の内に覆蔵されている意味に向って、私共自身を開け放って置くところの態度、その態度を私は、「密旨に向っての開け」、と呼びます。

   訳者註 根本趨性:根本動性にして根本性格

       「密旨」に向っての開け:
       Geheimnisに対する訳者の造語、語の通常の意味は「秘密」。
       「密旨」は、「信仰」の立場に立てば「神の言葉」、
       仏教の「自覚」の立場に立てば「空」「法身」ということに
       なろうか。(紹介者意訳)

 物への関わりの内に於ける放下と、密旨に向っての開けとは、相依相属しております。この二つの態度は私共に、或る今までとは全く別な仕方で世界の内に居留する能力を授けます。その二つの態度は私共に、その上に於て私共が技術的世界の内部にあって而もその世界によって害されることなく立ちそして存続し得る如き或る新しい根底と地盤とを、約束しております。

   紹介者註 この段落、難解至極。
        要は、何の作為もなく、無心で事柄にたいしたとき、
        物のありのままの姿が見えてくる、というようなこと
        だと理解。

 物への関わりの内に於ける放下と、密旨に向っての開けとは、私共に、或る一つの新しい土着性への展望を、与えます。この新しい土着性は、今や急速に消滅して行きつつある古い土着性を、或る変えられた形で呼び戻すことさえをも、何時の日にか、なし得るでありましょう。

 無論、当分の間は――どれ程長くかは私共には分りませぬが――人間はこの地上に於て危険な境位の内にあります。
 何故に。
 第三次世界戦争、つまり人類の全き壊滅と地球の破壊とを帰結する如き第三次世界戦争が突如として勃発するかも知れないという理由、ただそういう理由のために、でしょうか。否、そうではありませぬ。
 第三次世界戦争の危険が除去された時、まさしくその時、或る一つの遥かに大きな危険が、既に現われ始めつつある原子時代に於て、脅かしつつ迫って来るのであります。奇矯な主張であります。全く。
 併し、この主張が奇矯に響くのは、ただ私共が気遣いつつ思いを潜めて追思しない間だけのことであります。

 それでは、今語られた言葉は、一体如何なる点に於て妥当するのでありましょうか。それは、次の如き事態が起り得る可能性の存する限り、妥当するのであります。
 すなわち、その事態とは、原子時代に於て転がり来りつつある技術革命が、人間を繋縛し、妖惑し、眩惑し、盲目にするかも知れず、その結果、何時の日にか、計算する思惟だけが「唯一の思惟として」通用し世に行われるに至るかも知れない、という事態であります。
 もしそうなりますならば、その時一体如何なる大きな危険が立ち現れて来るのでありましょうか。
 その時には、「計算的な計画と発明とに関する最も高度な最も効果の多い鋭利な洞察力」と、「思いを潜めて追思することへの無関心、つまり全面的な無思慮ということ」とが、提携して行くことになるでありましょう。
 そしてその時は。
 その時には人間は、彼に最も固有な事柄、すなわち、人間は気遣いつつ思いを潜めて追思することを本質としている有るものであるということを、既に否認し放擲してしまっていることでありましょう。

 それ故に、人間のこの本質を救い出すことが肝要であります。それ故に、気遣いつつ思いを潜める追思を、目覚めさせて置くことが肝要であります。

 併し、物への関わりの内に於ける放下と、密旨に向っての開けとは、おのづから私共に降って来るというようなものでは、決してありませぬ。それらは、決して天から降って来るような偶発的な事柄ではないのであります。
 
 それらは或る一つの、絶え間なく遂行される、心の籠った気魄(きはく)に溢れた思惟の内に於てのみ、生い立つのです。

 多分、今日の記念祝祭は、そういう思惟に向って一つの衝撃を与えるでありましょう。私共はこの衝撃を受け取りましょう、そうするならば、私共は、コンラーディン・クロイツァーの作品の由来に、つまり私共の故郷ホイベルクの蔵している根本の力に、思いを回らす(めぐらす)という仕方で、コンラーディン・クロイツァーを回想することになるのであります。
 そして私共が今此処に於て私共自身を次のような人間として、すなわち原子時代の内に入って行き更にその時代を突き抜けて行くところの道を、見出し切り開いて行かねばならない人間として、明確に知るならば、その時こそ、「私共」は、今申した仕方で思惟する当の者となるのであります。

 物への関わりの内に於ける放下と、密旨に向っての開けとが、私共の内に目覚めますならば、その時私共は、或る新しい根底と地盤とへ導いて行く一つの道の上に、出ることが出来るでありましょう。その地盤の内に、存続する作品の創造が、新しい根を張ることが出来るでありましょう。
 そのようにして、ヨハン・ペーター・ヘーベルが言っておりますことは、或る変えられた仕方で、そして或る変化した時代の内で、再び新たに真実となるに相違ないでありましょう、
 すなわち、

 《私共は草木である――そのことを私共が認めようと、認めまいと、そんなことに不拘(かかわらず)――天空に花を咲かせ実を結び得るためには、根をもって土中から生い立たねばならない草木である。》

   紹介者註 ヨハン・ペーター・ヘーベル
         バーゼルに生れた詩人(1760-1826)。

                                        了

         ハイデッガー選集ⅩⅤ「放下」辻村公一訳(理想社)より


 1955年、つまり昭和30年、いまだ高度成長最盛期には程遠いころ、語られた講演である。日本での翻訳出版は昭和38年(1963年)。

 今、日本の状況は、どうであろうか。計算する思惟、打算が横行してはいないだろうか。じっくり考えたりしていると、置いてきぼりをくう、かのような錯覚に陥り、目先の「利益」を求め、せかせかと歩いているように私には思えてならない。
 「限界耐力計算」法が出ると、すぐにそれに飛びつくというのが、それでなければ幸いである。

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