建築にかかわる人は、ほんとに《理科系》なのか-2・・・・「専門」とは何?

2006-10-31 00:12:17 | 専門家のありよう
 先に(10月16日)、世界で最初にI型の鋼材を考案・使用したのは、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットと言われていることを、その設計した7階建ての工場の図面とともに紹介した。
 この工場の建設・設計を依頼されたころのワットは、肖像彫刻をつくる機械(a machine for making portrait statuary)の考案に熱中していたと言う(S・ギーディオン「空間・時間・建築」による)。あのマイヤールもまた、建築も土木も関係なく仕事をした。
 「いったい彼らは何が専門なのだ」と今の人なら思うかもしれない。しかし、あの時代、engineerとはこういうもの、それがあたりまえだった。むしろ、今の方がおかしいのだ。
 なにも、イギリス、ヨーロッパだけの話ではない。日本でも同じだった。
 江戸時代初期、小貝川流域の新田開発(旧谷和原村、旧伊奈町一帯)や、水戸の備前堀開削を差配した伊奈備前守は、測量、新田計画、土木工事、営農指導、経費の算段・・・およそ新田開発において必要なことを何でもやった。こういう人は各地にたくさんいて(甲州の信玄堤などもその成果)、「地方巧者(ぢかたこうじゃ)」と呼ばれていた。二宮尊徳もその一人。
 江戸中期の平賀源内は、国学、蘭学、本草学・・に精通し、摩擦起電機をつくり、戯作をつくるなど、今流に言えば、理科から文科まで何でもやっている。
 江戸後期の田中久重(からくり儀右衛門)。九州・久留米生まれの彼は、からくり、万年時計(万年自鳴鐘)、蒸気機関・蒸気船、銃砲・・・なんでもつくった。彼のつくった電信機製作の田中製作所が今の東京芝浦電気:東芝。

 決してこれは特殊な人物だけがやったことではない。
 かつては、「何かをする人」なら皆(農業であれ、商業であれ、工業:ものをつくること:であれ・・)、その「何か」にかかわることなら、多かれ少なかれ、何についてでも関心をもち、知り、学ぶのがあたりまえだった。
 たとえば、近世初頭までに、すでに、建築を含め各種の工作技術は多様な展開・進展を見せているが、これは決して指導者・学者がいて先導・指導したものではなく、また、時の政府が法律などで差配・誘導したものでもない。
 その成果は、すべて、「何かをする人」たち自身の日常的な営みの継続の結果であった、と言って過言ではない。

 人びとのこのようなあたりまえの営みを、「萬屋(よろずや)主義」として排斥につとめた人物がいる。福沢諭吉である。
 福沢は、一般に、日本の「近代」創生の重要人物として賞賛されるが、同時に「現代の停滞」の因をつくった人物でもある、と私は思う。
 彼は著書「学問のすすめ」で、西欧の文物に学ぶために、「一科一学」を説いた。江戸時代までのような「萬屋主義」では、西欧文物の会得には時間がかかる、手分けして学べ、というのである。「科」の字は、「分ける」「分類」の意。植物の○○科、学校の「教科」の「科」である。
 実は、この「一科一学」が「科学」なる語の語源というのが目下のところ有力な説。「科学」を字義どおりに解釈すると「分けて学ぶ」になる。そして、今一般に、「科学」とは、「専門に学ぶこと」として理解されている。
 しかし「科学」の語の当てられた“science”の語には、「分けて学ぶ」などという意味はまったくない。その原義は「ものごとのすじみち:理:を究めること」という意(「英英辞典」を参照されたい)。だから、scienceの訳語には「究理」が適切だ、と言った物理学者がいる。

 以来、近代日本は、行方を誤った、と言えるかもしれない。なぜなら、まわりの見えない、まわりを見ない、まわりを見たがらない《専門家》だらけになってしまっている。それでいて、その《専門》をもって、一般の人びとを指導したがり、時の政府もそれに従う。《専門家》も政府も、人びとそれぞれが、自らの意思で自由に考えることを嫌うようになった。

 本来、本当の専門家であればあるほど、その専門にかかわることについては、それがいわゆる《文科系》のことであれ《理科系》のことであれ、知ろうとし、学ぼうとするのがあたりまえ。残念ながら、そうでないのが今の《専門家》。むしろ、好んでそうすることを拒否しているように見える。
 《建築の専門家》もまったく同じ。あるいは一番ひどい内に入るかもしれない。何故か。

 英語の疑問詞には、who,what,when,where,why,howそしてwhichがある。私が中学のころ、前者の「5w1h」で物事を考えよ、と教えられた。これは正しい。ある事象を考えるときに、とても大事なことであるし、そうすることで事象が分かるようになる。これはこれまでの経験で実感できる。
 ところが、今の《建築の専門家》は、whichの問についてのみ答が出る。ことによると、○×式の教育の《成果》なのかもしれない。何択かの問題が出されれば答えるが、自ら問題をつくらない、考えない。たとえば、法律でAと規定されれば、Aを選んでよしとする。それにあわせようと《努力》する。批判精神などどこにもない。過日「その1」で書いた「耐震スリット」について、疑問を呈した《建築の専門家》はいるのだろうか。
 これでいいのか、《建築の専門家》諸氏!
 ほんとに理科系ならば、理詰めで考えて欲しい。 

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