建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「筑波通信№12」 1981年度

2019-04-23 09:00:01 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №12」1982年3月 A4版8頁   

     「筑波通信 №12」 1982年3月

      冬の情景  ・・・・それぞれの冬・・・・

 北国から便りがあった。

 寒い。夜になると気温は急激に下り、寒いという感じを通り越し、ぴりぴりとした無数の冷たい細い空気の糸をひっかきながら歩いているような感じになる。朝、バスに乗れば、乗客の吐く息が窓ガラス一面に氷となってはりついて、外は何も見えない。ときどき、外を見ようとして恥しげもなく(と便りの主は書いている)息を吹きかけてみるのだが、それもたちまち凍ってしまう。あきらめてガラスの上の氷の模様などながめいるうち、ふと気がつくと、先きほどまであった氷模様が、ほんとに一瞬のうちに水滴に変っている。いつも、その変容の瞬間を見たいと心しているのだけれども一瞬いつもおそすぎるようだ。

 これは、ある一人の人の、言わば全く個人的な、その人の情景の描写にすぎないのであるけれども、氷点下〇〇度あるいは積雪〇〇センチなどという表現より、よっぽど確実にその地の冬のありさま:リアリティを私に伝えてくれる。私に伝ったと私が思っていること、それがこの人の情景と全く寸分違わず同一のものであるという保証はない。しかし、分る。この人の直面しているリアリティそのものには決して直面できているわけではないが、極めて近くまで近づいていることだけは確かである。

 筑波も寒い。凍える、という感じである。そうは言っても、この便りのようにぴりぴりした感じには程遠い。しかし夜空はあくまでも透明に凍てつき、星がおそろしいほどにまたたいている。そんな夜、車から降りて身をちぢめて小走りに戸口へ向うときなんとも言い表しようのないにおいに気づくときがある。冬のにおい。冬のにおいとしか言いようのないにおい。澄んで冴え冴えとしたにおい。そういうとき私は、思わず立ち停って深くその空気を吸いこんでいる。冷い空気が内側に浸みわたる。風はない。あたりは森閑としてただひたすらに冷えきっている。それは、雪が降り積もって森閑としている様とは違い、言うならば底ぬけの森閑さだ。こういう冬を筑波に来るまで、私は久しく忘れていた。そうなのだ忘れていたのだ。その昔子どものころ、東京でこういう冬を味わったことがあるような気がする。

 こういった私のなかに「冬」というものを形づくってきた諸々の冬の体験を、いつのまにか私自身みな忘れさってしまい、ただ「冬」の存在だけが残ってしまっていた、そんなことをこの筑波の冬は、そしてこの北国からの便りは、私に思い起こさせてくれる。

 

 こう言ってしまえばなんていうこともなくきこえるかもしれないが、私たちが「冬」というものを知っている根には、その地その地のそれぞれの冬の事象が存在するということだ。それを忘れて、ただなんとなく「冬」が分ってしまっていたような気になっていた身には、例えば先号のあとがきに書いた「ふっこし」という冬独特の、しかもあの地域特有の現象、そしてそれにあてがわれた「ふっこし」ということばに出くわしたり、この北国からの便りを受けとったりすると、それまで持っでいた「冬」の概念も吹っとんでしまい、あらためて冬が新鮮に見えてくる。

 私たちは普通、冬になったとか冬が終って春が来たとか簡単に言って済ましてしまっているけれども、いざ「冬とはなにか」などとことあらたまって問われでもしようものなら、冬とはこれこれだなどという明確な定義などできはしないだろう。数行まえで「冬の概念」などと書いたけれども、それがどういうものかと尋ねられたところで極めて漠然としていて定かにはその抽象的イメージを伝えることはできないのだ。私たちが具体的に伝え得るイメージは、つまるところ私たち自身のそれぞれの冬でしかないのである。

 私たちそれぞれが、その地その地での冬の事象、イメージをもっている。それらは具体的には皆お互い違ったものだ。だからと言って、お互いに「冬」が伝わらないかと言えば、そうではない。先ずおそらく、いまは冬だ、と共通に認めあうだろう。認めあえるだろう。だから私たちは、お互い違う事象に巡りあいながらも、決して明確な線では区画できないけれども、「冬」というあるあいまいな概念は共有していると言うことができるだろう。と言うよりもむしろ、そういう、決して定かではないあるかたまりに対して、私たちは〈冬〉という字をあてがってきたのである。そしてまた私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきたのでもある。

 しかし私たちが、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを忘れてしまったり、気づかなくなったり、あるいはそういう事象がそれ自体存在しなくなったりしたときには、そのときには、「冬」の概念だけが独り歩きをはじめてしまい、そういった概念の根にあったはずの私たちの冬自体の存在さえも、はじめからなかったの如くに扱われだしてしまうのだ.

 私が「ふっこし」のことばに感嘆し、北の便りに心ひかれ、夜気のにおいにたちどまったのも、冬=寒い、厳しい、などと簡単に済ましていたのが、そんな他愛ないものではない、もっともっと生々しいリアリティがその裏に隠されているということに思いを至らしめてくれたからなのだ。それぞれの冬が在ってはじめて「冬」があるのだということを気づかしてくれるからなのだ。

 

 ここに書いたのは、言わば形のないものの理解のしかたについてであった。しかし形あるものに対しては、形ある故に、より一層その理解のしかたが拙劣になってきている。もの私たちにとってのリアリティ:ものの名の名づけ親としての私たちを捨て去った。辞書に書かれている解説文的ものの理解があたりまえになっている。

 最近のこと、いまは造園関係の設計事務所に勤めている卒業生がたずねてきた。いま、学園都市につくる歩行者用道路の設計をしていて、現地を見にきたのだという。きいてみると、計画ではその道のそちこちに、昔の道の四つつじなどによく見かけた石の道しるべをたてるのだそうである。私は思わず道しるべ?とききかえした。

 おそらくこの設計者たちは、歩行者道ということで昔の街道すじでも思い起こしたのだろう。昔の街道は人:歩行者が主人公だった(そんなことは言うまでもない、車がなかったのだから)。そしてそういう街道すじには、そちこちに〇〇へ〇里〇丁などと記した道しるべがたっていた。いまでも古い道沿いなどにこけむした道しるべを見つけることがあり、人々はそれを見てある感懐を抱く。それは現代の標識に比べたらずっと人間的だから(実は、これからあとの展開のしかたがおかしいのだが)この人間優先の街道すじを成りたたしめていた重要な人間的要素であった道しるべを、現代の人間優先の道:歩行者道にも、それをより人間的であらしめるべく、導入・復活させようではないか。これが、この設計者たちが考え思ったことのなかみだと断言して先ずまちがいないだろう。

 

 ここには、二段構えの誤解がある。先ず昔の道しるべに対しての、現代からの思い入れがある。自然石やざっくり切った切石に刻まれた筆書きの字。人間味あふれる道しるべ。しかし、そう思いを入れるまえにもう少しめてものを見ることができないものだろうか。彼らが彼らの時代、道しるべを何でつくろうかと考えたとき、彼らの手にすることのできる材料のなかで、全く当然の帰結として石が選ばれたにすぎないのである。ペンキもプラスチックも活字印刷技術もなかったのだ。別にそういう道しるべの材料や形、あるいは筆の運び、そういったものに人間味があるからという理由でそうしたわけではないのである。それが人間味があっていいなあ、などと思うのは(思うのは全く自由だけれども)現代の人の他の現代的なものとの比較において勝手に思いこんだ思い入れにすぎず、当の道しるべをつくった人たちがそんなはなしをきいたらただただ仰天するだけだろう。

 ところが、こういう思い入れによる理解が、かの道しるべの本質であるかに思いこむと、そこに二段目の誤まりが生れてくる。つまり。道すじを人間味あるものにしているのは、こういう人間味あふるる要素をあしらってあるからだ、という思いこみである。既にそこには、最近よく言われる「人間のための街路」の概念が、そこはかとなく見えてくる。人のための道は、人間味あふれるいろいろな要素を組み合わせることでできあがる。あちこちにべンチなどのいわゆるストリートファニチュアーを置き、樹木をそれらしく植えこみ、路面には色つきタイル・ときには絵なども焼きつけ、歩く部分は直線をきらって人間的な曲線として・・・・これがいま流行りの「人間のための街路」概念を具体化した姿であり、実際にいま、あちらこちらの公園だとか〇〇モールとかで目にすることができる。そういう「人聞のための街路」を歩いていて、歩いているつまり私が自分で自分の意志に従って歩いているのではなく、歩かされているという気分になって白けてくるのは、私が少しばかりひねくれているせいなのだろうか。設計者の親切な人間的配慮にただ従順に従うのが人間的ということなのだろうか、ばかにしないでよとつぶやきたくなるのだ。私には、歩けば足もとから土煙りのあがるような田舎道の方が、よっぽど人間的に思える。

 

 おそらくこういう設計者の頭のなかには、道だとか道しるべだとかを成りたたせ、あらしめてきた、人々の営みの存在は忘れ去られ、ただ、そういった営みの結果成りたった道だとか道しるべを、単にWhatとHowの問いだけで問うてつくりあけた道や道しるべについての概念があるだけなのだ。それは丁度、先々号において書いた、蔵とは物をしまうところ、という理解で済ましてしまうのと同様の理解に他ならない。道とは交通の空間であり、人のための道は人間味のある交通空間である。道しるべとは、人のための道を人間的にあらしめている重要なアクセントである。こういう概念が、多分大かたの設計者には通用しているはずである。言うなれば、道とか道しるべとかいうことばが、その本義とは無縁なところでとびかっているわけで、そういう字に、実にいいかげんなイメージを託して済ましているのである。

 この文のはじめに私は、私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきた、と書いたけれども、いまここで書いた普通一般になってしまっている道や道しるべという字:ことばへのイメージの託しかた、そのなかみは、それとは全く比較さえもできない根なしぐさの虚像である。一言で言うならば、そこには、「私」「私」たち、がぬけおちていて、あるのは「他人」の目、局外者の目、観察者の目、だけなのである。

 考えてもらいたいのは、私たちのことばは、かならず「私」「私」たち、に根ざしていたということだ。ことばが抽象的概念を託されているというのは事実ではあるけれども、しかしそれは、決してこの根と縁を切ることではない。

 

 ほんの一寸たちどまって考えてもらえば分かることだと思うが、道しるべとは道案内いま風に言えば道路標識、そしてそんなものはなければないに越したことはない、そういうものではなかろうか。

 しかし、それがないと迷って困るときがある、場所がある、あるいはあとどのくらいあるのか知りたいことがある。そういったことへの対処として、道しるべはたてられた。だから道しるべは、そういう道行く人々の場面に即応したかたちで、最少必要限でたてられている。決してやたらにあるのではなく、もちろん人間味を付与するためのアクセントなんかでもない。もし強いてそこに人間味を見るとすれば、それは、先ず道というものが道行く「それぞれの人」にとっての道であり、道しるべはその「それぞれの人」にとっての案内であった、そうなるべくつくられていた、という点にある。

 それぞれの人、つまり道行く人々には旅なれた人も旅なれない人も、その地が初めての人も、もう何度も訪れた人もいる。よく知っている人は、道しるべなどに用はない。先ず見向きもしないだろう。しかし、よく知らない人が、ふと不安になったとき、そういう場所は限られるものだが、尋ねて確かめたいと思ったとき、そこに道しるべがたっている。書かれていることはと言えば、まさにそこで尋ねられるだろう当然のことが記されている。尋ねられて応える人の代りにそれはたっている。人ならば、尋ねる人の立場立場に応じた応答ができるだろう。道しるべはそうはゆかない。そうなると、そこに記されることが吟味されねばならないことになる。尋ねられるだろう当然のことその吟味である。そしてそれは当然のことだけれども、道ゆく人々として不特定多数的にくくられた人々ではなく、それぞれの人に思いをはせなければできないのである。そして、そうやってそれらはつくられていたのである。だから、道しるべを不要な人にまで、決して道しるべがしゃしゃりでることはないのである。(いまはどうかといえば、不要な人にまで見えたがる。)

 道そのものにしたって同じである。道がなにゆえに道として成りたつのかは既にして忘れられ、勝手な概念のもとに人間的と称していじくりまわされている。道行く人々、それは、先にも書いたとおりそれぞれの人だ。先を急ぐ人もいるだろうし、あわてる必要のない人もいる。悲しみにくれている人もいるし、有頂天の人もいるだろう。それが人生というもの、人間というものではないか。だから、一本の同じ道を、それぞれの人がそれぞれなりの歩みをもって歩むのだ。道ばたの草木一本一本に見入る人もあろうし、光景にしばし歩を息む人もいる、わき目もふらずしゃにむに歩き続ける人もいるだろう。一本の道、道すじの諸々施設は、そのそれぞれの人に適宜応えていた。人々は、それぞれなりの判断で歩をすすめたのだ。道は、それに応えていた。

 ところがいまの「人間的街路」はどうだ。曲る必要を認めない人も、無理に人間的曲線なりに歩かされ、見たくもない人まで強引に、用意された光景を見させられ、見る用もない道しるべを読まないと通れない。この「人間的街路」では、人々は一つのパターンの歩みだけ用意されている。それに基いてのみ考案されている。人々は、それぞれの人ではなく、あるいは、それぞれの人であってはならず、設計者の設定したところの「期待される人間」でなければならない。そして、あろうことか、人々の多くもまた、そうすることが、そうすることのみが現代的であるとでも思うのか、唯々諾々とその期待に従っている。いや、自らの感性に拠る判断、あるいは感性そのものを押しころすことがよいことのように思って済ましている。道や道しるべというもの、あるいはそういうことば、そして歩むということ自体、それが個々人それぞれにとって何であったか、何であるかが省みもされず、リアリティとの直面をきらい、いつの日にかに(他人の手により、あるいは目によって)つくられてしまっていたできあいの虚像のことばでことを処理して済ますのに慣れきってしまっている。

 

 なるほど確かに一つ一つのことがらについてその根:リアリティへの直面:にまでさかのぼってみるということは、できあいのことばで済ましてしまうよりも、しんどくて時聞のかかることであり、その意味では(とにかくことを一見早く片づけてしまうという意味では)決して効率的とは言い難く、忙しい日常では一々そんなことやっていられるかと思いたくもなり、あるいはせっかくそういうできあいのことばが既にあるのだからそこからスタートする方が効率的だと思いたくなるのも人情というものかもしれない。しかし、おそらくこれがー番(人間にとって)危険なことなのだ。特に効率的=合理的=望ましきこと、と見なしがちな現代において最も危険なことなのだ。そして特に、ものを考えたり行動したりすることに対して、一定の定型・規範が提起されるようになってきているいま:教科書を一定の型に整えようとする動きなどはその最もたるものだ:極めて危険がことなのだ。

 なぜなら、人間の係わることも含めて一切のことがらが、効率的であらんがため、そしてまた(勝手につくられてしまった)一定の定型・規範に則らせようとして、一定、特定の「機構」のなかに封じ込められてしまうからだ。そして、そうするために、個々の特殊:それぞれの人のありかたが、徹底的に切り捨てられてしまうからだ。一般的あるいは普遍的であるがためには、個々の特殊は切り捨てなければならぬとする空恐ろしくもものすごい神話が、まるであたりまえのようにはびこっている。人間的であるということさえも、人間的であると称するある一つの定型のうちに押し込められてしまうのだ。

 

 私たちの身に降りかかってくるこのような危険を避ける唯一の方法は、私たちが私たち自らの判断をする権利を留保することでしかないだろう。もし仮にいまの体制をくつがえす革命が成就したとして、しかしそれの目指すものが別種のよき定型であるならば、あの空恐ろしい神話は不滅であり私たちには相変らず危険が降りかかる。だから、つまるところ、私たちがしなければならないことは、個を捨ててよき定型を探し求めることなのではなく、私たちが私たち自らによるとことんつきつめた判断を積み重ねることなのだ。先ず初めに抽象的な冬を語るのではなく、先ず初めにそれぞれの冬を語らねばならないのだ。そして、それぞれの冬を語るためには、私たちは私たちそれぞれの感性に信をおかねばならない、それぞれの感性を研ぎ澄ませなければなるまい。

 

 春を待ちこがれる想いが、美しい言葉をつくりあけた。あざやかな日本の自然が生んだ「言葉の宝庫」、すなわち「感性の辞典」。 これは最近見かけたある「歳時記」の広告にあったキャッチフレーズである。そして、陽春・芳春・・・春寒し・おそ春・春めく、といったいくつかのことばが例記され、更に、「四季を知る。言葉を知る。日本を知る。〇〇歳時記」とある。

 私も歳時記を見るのがきらいではない。見事なことば、鋭い感性に圧倒される。四季を知る、言葉を知る、日本を知る、確かにそれはうそではない。感性の辞典、それも確かである。

 しかしふと思う。こういたことばまでもが、既にして「文化財」になってしまっているのではないか。あるいは、日常の世界においてではなく俳句の世界においてのみ、しかも既にリアリティとの対応は失い、ただリアリティとの対応のあった時代にそのことばにこめられてきたイメージ:いまではもう仮構のものでしかないイメージ:にのみ頼って、それらのことばが使われているのではないか。もちろんそれをやみくもに否定するつもりはない。それはそれで一向に構わない。それもことばというものの宿命なのだから。

 けれども、もとをただせば、これらのことばは皆、日常のことばであった。決して特殊な世界のことばでなかった。日常における感性の発露であったのだ。そしていま、私たちは私たちの感性を、どうして詩の世界にのみ押しこめてしまうのか。日常の世界からしめだしてしまうのか。「文化財」にしてしまうのか。私たちの日常に、感性の発露の場面がないとでもいうのだろうか。そんなことはない。何も感性が季節あるいは季節の移り変りに対してのみ向けられていたのではない。それは日常の生に向けられていたのだ。ただ、その日常の生活が、いまよりも、より季節とともにあった、だからそういう感性の発露:ことばを季節でもって括ることができた、それだけのことだ。いま、私たちには私たちの、いまの日常がある。

 私が「ふっこし」ということばに感嘆したのは、そこに、他のだれのでもない、まさにそこにいま生き住まう人たちの感性を見るからなのだ。そしてそのことばは、そこに往きあったその土地の者でない私にも瞬時にして「分る」ことばだからなのだ。そのことばが「本質」を示してくれるからなのだ。冒頭に引いた北国からの便りにあった言を借りるならば「大地と風と生あるものと。そこには、形をなすものたちの根源的な係わりあい、係わりかたがある」からなのだ。

 北国からの便りは、次のように終っていた。「冬は厳しい。しかし、冬の厳しさには甘えがあります。」

 

あとがき 

〇季節はずれの題目なのは、これを書きはじめたのが二月初旬のことだったからである。

先号あとがきの「ふっこし」のはなしも、先号の本文を書き終わったあとでの体験であり、もう少し早くその目に会っていたら、当然本文中で触れただろう。辛うじてあとがきに間にあった。

〇あまりに私がこのはなしにこだわるものだから、まわりの人は少しばかりけげんな顔をし、私もこれは少しばかり感激のしすぎかなと思っていたのだが、どうもそうでもないらしく、本文よりもこのあとがきのはなしに関心を示した感想がいくつかきこえてきた。今号に引いた北国の便りもその一つである。

ついでに言えば、「ふっこし」ということばが通じるのは極めて限られた地域のようだ。そこから東に二十kmほどはなれた前橋で育った人は、このことばをきいたこともないという。北に十数km行った榛名町(榛名山南ろくの町)の人は、たまたま電話したとき「いまちょうどふっこしでうっすらと白くなっています」と言っていたから、そこでは通用するのである。このことばの通用する土地を地図上に色塗りしてゆくと、おそらく、ほんとの意味の風土地図が描けるだろう。それは人と土地との係わりあいを示す地図である。このことばは言って見れば「方言」なのだが、しかしそれは、そういう事象の起きない場所には絶対輸出されないことばなのだ。

 〇試みに手もとの辞書で「ふゆ」とひくと。四季のー、秋の次の季節、四季のうちで一番寒い季節。通常十二月から二月までを言う、旧暦では・・・・などとでている。こうなれば、「あき」とひくとどう書かれているか、ひかなくたって分ってしまう。

「みち」とひくと、人や車の往来するところ、「みちしるべ」は、道すじを示すもの、道案内。これが辞書の解説である。

これらの辞書の解説は決してうそではない。まちがってはいない。しかし私が今号で言いたかったことは、こういう辞書的理解で全てを律することは危険である、少なくともものをつくる、あるいは私たちの生活を考える場面において、こういう辞書的理解から出発することはまちがいだ、ということだ。

ものをつくる、あるいは私たちの生活を考えるということは、すなわちそれらの存在の(私たちにとっての)意味を考えることだ。そうであるとき、〈冬〉も〈道〉も〈道しるべ〉も、どれも皆そのことばが先に在ったのではなく、それらは全て私たちが(古来人々が)名づけ、つくり、そしてまた妥当な名づけであるとして、妥当なものとして、認めてきたものなのだ、こういう視点で理解をすべきことなのではないだろうか。私はこのことを言いたかったのだ。そして。名づけること、つくること、すなわち生活の営み、それを根底的にとりしきってきたもの、それはつまるところ私たちそれぞれの感性なのだ、このことを言いたかった。うまく伝わる文になったか、いささか心もとない。

 〇今号でちょうど一サイクルが閉じる。来号を1号にして、また出なおして続けさせていただきます。今後もご笑覧、そしてご批判ください。

〇それぞれなりのご活躍を祈ります。そして、そのそれぞれが共有されることを!

     1982.3.1                     下山 眞司 


「Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法」 日本の木造建築工法の展開

2019-04-17 13:18:00 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法」 A4版6頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法・・・・斗拱(ときょう)に代る桔木(はねぎ)による小屋組

 日本は雨が多く、しかも風をともなう吹き降りの雨が多いのが特徴です。そのため、日本の建物では、屋根は勾配を急にして、降った雨を早く外に流し去る水はけをよくする)必要があり、また、できるかぎり雨が壁に吹き付けないようにするために軒の出を深くすることも必要でした。

 しかし、雨の少ない中国から伝来した緩い勾配の屋根は、日本の気候に適さないこと、そして、軒を深くするには中国風の斗拱(ときょう)では限界があることが少しずつ分ってきます。 そこで、当初中国風の緩い勾配の屋根で建てた建物は、急な勾配の屋根に改造されてゆきます。

 現在、中国風の緩い勾配の屋根の建物は、新薬師寺本堂などしか残っていませんが、唐招提寺金堂も当初は同様の緩い勾配で、後世に急な勾配に改造されています(53頁の写真は改造後の現在の姿です)。 

 しかし、屋根の勾配が急になると、屋根の下にできる室内空間の高さが不必要に高くなります。そうかといって、それを避けるために軒先を低くすると室内が暗くなります。

 そこで、軒の高さはそのままにして屋根を急な勾配に変え、室内には天井を設けて室内空間の高さを調節する方法が考えだされます。当初の中国風な椅子式の生活が座式中心の生活に変ってゆき、そのために室内の高さの調節が必要になった、とも言われています。

 小屋組の下に天井を張ると、小屋組の架構は人の目に触れなくなり、天井小屋組の間に小屋裏・天井裏が生まれます。(以上は、日本の美術245:浅野清 日本建築の構造を参考にしています。) 

 この天井裏を利用して、斗拱(ときょう)に代り軒の出を深くするため考案された方法が桔木(はねぎ)です。 桔木(はねぎ)を使った建物は、すでに奈良時代末に現われ、その好例が秋篠寺です(下図、右頁図・写真参照)。

 

 

秋篠寺 復元断面図 左が南 当初、南1間は吹き放しだった       西側側面 いずれも日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

 

 図のように、母屋:上屋部分の組入天井(くみいれてんじょう)堂内の高さ調節のための天井、庇:下屋の化粧垂木の部分は、従来の垂木の見える小屋裏を装った天井で、垂木の太さも細身になっています。斗拱(ときょう)や虹梁もありますが、この役割は化粧が主で、天井裏に別に設けた小屋組が屋根をつくります。天井裏の隠れた部分を野屋根(のやね)、そのうちの軒を支える部材を桔木(はねぎ)呼び、これは梃子(てこ)の原理の応用です。

 桔木(はねぎ)の上に束立てで母屋桁を組み、実際に屋根を受ける垂木:野垂木(のだるき)を架けます。桔木(はねぎは、軒を確実につくる手法でしたが、後に、軸組と小屋組を立体的に組む上でも有効なことが発見されます。 

 なお、新薬師寺本堂(56頁断面図)化粧屋根野屋根からなっていますが、化粧屋根を、従来の小屋組同様の太目の材料でつくっているため、一見したところ、化粧屋根には見えません。 

 平安時代になると、寺院建築では、桔木(はねぎ)を使う野屋根化粧屋根による二重屋根が一般的になり、斗拱が構造上は不要になります。しかし、斗拱は寺院建築の象徴になっていたため、野屋根・桔木を使った上に、構造的な役割を失った形式的な斗拱を取付ける方法が普通になります(平安時代には長押も一般化していたので、この二重屋根架構と長押を使う建て方への変化を一般に国風化と言い、そういうつくりの建物を和様と呼んでいます)。そしてこの傾向は、上層階級の建物では、後世まで引継がれます。

 

秋篠寺(あきしのでら) 8世紀末~9世紀初頭 所在:奈良市 秋篠町  日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

 復元断面図  当初、南面庇部は、唐招提寺金堂のように、吹き放しだった。 

  現状平面図

    

 現状堂内 南面庇部も囲われている        現状堂内 身舎部          現状堂内 西面庇部

現状断面図

 

 法隆寺の回廊北側に位置する大講堂の解体修理によって、平安時代の野屋根による小屋組架構法が明らかになりました。ここでは、室内から見える地垂木上に束立てで野垂木を架けて二重の架構にしていますが、地垂木が束柱を介して野垂木上の屋根の重さを支えることになるため、地垂木野垂木は同寸の太めの材料が使われています。これは、新薬師寺の二重の垂木に似た架構法です(56頁)。

 桔木(はねぎ)野垂木を受ける形を採るようになると、地垂木は屋根の重さを受ける必要がないため、断面の小さな細身の材でよく、化粧垂木になってきます(60、61頁の諸例参照)。 その意味では、秋篠寺は、先駆的な架構法を採っていたことになります。  

  

                                            △ 茅負と野垂木の取合い

部材の名称 繋虹梁(つなぎこうりょう):構造材兼化粧材  地垂木(ぢだるき):構造材兼化粧材  飛檐(ひえん)垂木:同左  大梁:構造材  二重梁:同左  野垂木:同左  茅負(かやおい):野垂木の受け材  組入(くみいれ)天井:化粧 

 

平安時代の桔木(はねぎ)を用いた建物    日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)からの図版を編集 

浄瑠璃寺(じょうるりじ)  1107年 所在:京都府 木津川市 加茂                                                        

 梁行断面図

 平面図 方位:下が南

 全景

九間四面の建物。屋根は入母屋ではなく、寄棟。   下:堂内  下右:化粧天上見上げ

  

 

 

室生寺 金堂(むろうじこんどう)  平安初期、江戸時代礼堂増補にともない改造  所在:奈良県 宇陀市 室生区 室生

  現状梁行断面図

 身舎(もや) 庇(ひさし) 孫庇(まごひさし)

現状平面図・天上見上げ図   断面図共に 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)より

 現在の外観 寺社建築の鑑賞基礎知識(至文堂)より

 

  

 写真左:内部 左手「身舎(母屋)」右手「庇」 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)より  写真右:内部 礼堂 孫庇 1672年の増補、虹梁の意匠が異なる 古建築入門(岩波書店)より

  寛文12年(1672年)、南面に礼堂(らいどう)を増補して、屋根を葺き下した。 当初の屋根は入母屋で、小屋組は又首組で天井はなかったと考えられている。 平面が整形ではない。  本堂部分の床は、地盤に据えた礎石に直接大引を転がし、根太を掛け床板を張る方法を採っている。それゆえ、大引は、側面では地覆を兼ねることになる。 

 

(「Ⅱ-3 参考」へ続きます。)


「Ⅱ-3 参考, Ⅱ-4 貫で軸組を縫う」 日本の木造建築工法の展開

2019-04-17 13:17:25 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「Ⅱ-3」より続きます。)


参考1 桔木と筋かい―――古建築と斜め材の使用  

 ・・・・鎌倉時代(1200年代)には、柱間に筋かいを設け、間渡し材(塗壁の下地)を密に入れ壁を塗ることが行われたが、間もなく使われなくなり、主に小屋束まわりの補強に用いるだけになる。

 中世以降、軒まわりに桔木を使い、桔木上に小屋束を立てる小屋組が増える。

 桔木には1本ごとに形状の異なる丸太が使われるため、桔木上の小屋束の寸法が決めにくく、屋根の反り・流れを決めて母屋を所定位置に仮置きし、を1本ずつ現場合せで切断、桔木母屋に、なしで釘打ちとする粗放な手法が増え、その転び止めとして筋かいが使われた。

 ・・・(その後)、あらかじめ地上で桔木ごとに墨付けを行う技術が確立、桔木母屋枘差しを立てで固める小屋組が普通となり、筋かいの使用はなくなる。・・・・文化財建造物伝統技法集成より                                 

 

参考2 現存古建築で唯一の斜め材使用例 

 銀閣寺東求堂(とうぐどう)(1490年ごろ)で使われているたすきがけ

 銀閣寺東求堂の東面(2間+1.5間が全面開口部)鴨居(内法)上の小壁に、力板を併用したたすきがけの例が遺されている(下図参照)。斜め材は、相欠きで交叉している。

 はつりは塗り壁の付着をうながすため(ただし、塗壁面に、筋かいに沿って亀裂が生じたものと思われる)。

 写真の竹小舞の裏側に、小壁の2/3程度の丈まで力板(厚約1寸:30㎜)が仕込まれ、筋かい竹小舞の上に組まれ、力板(厚約7分:21㎜、丈約2寸7分:80㎜)継手で継がれる。小壁全体を合成梁として、東面の内法鴨居下を、全面開口にするために考えられた工夫である。このような仕様は他に例を見ない。 全面開口にすることを第一に考え、それを可能にするように考えられた技術的な工夫。  

   

 

 

図は文化財建造物伝統技法集成より

 このほかの現存古建築には、又首方杖以外、斜め材使用の例がない(49,50および60頁参照)。 

 

 

 

PDF「Ⅱ-4 貫で軸組を縫う」 A4版3頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

4.貫(ぬき)で軸組を縫う・・・・大仏様(だいぶつよう)の出現

 二重屋根で桔木(はねぎ)を使い、天井を張り、寺院のシンボルとして化粧の斗拱を取付ける建て方は、平安時代を通じて寺院建築に用いられます。その間、技術面では大きな進展は見られませんでした。

 この寺院建築の技術的な停滞を打ち破ったのが、鎌倉時代の初頭平安時代末期に表れる大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる架構法です(なお、ここでは、鎌倉時代以降を中世として呼ぶことにします)。

 大仏様とは、源平の争乱の末、治承4年:1180年、平重衡の焼き討ちで焼失した東大寺の再建にあたって使われた架構法:工法のことを言います東大寺大仏殿再建に使われたために付けられた呼称です)。

 それは、古来の寺院建築の形式にこだわらず、二重屋根をつくらず、化粧のための細工をせず、長押の代りに柱列を何段もの横材:(ぬき)で貫き固め、必要とする空間を架構だけでつくる方法です。

 その意味では、架構=空間という建物をつくることの原点へ戻ったつくりかたと言えるでしょう。 

 大仏様は、東大寺の再建を委ねられた僧重源(ちょうげん)の下で、中国の技術者、とりわけ中国南部の福建省出身の技術者によって伝えられた工法で、日本にはなかった工法である、と言われています。

 たしかに福建省には、下の写真のようなを多用した一般の人びとの建物が残っていますから、福建省あたりでは普通の工法であり、当然寺院建築にも使われていたと考えてよいでしょう。 

  

    

永安槐南 安貞堡内の建物(年代不詳)が多用されている 老房子(江蘇美術出版社)より 

  しかし、それは中国・だけに特有の技術で、それがこの時代に日本にはじめて伝来した、とは思えません。 なぜなら、木造軸組工法が主体の地域では、開口部などをつくるときに、柱の間に横材を取り付けることは日常的にあるからです。

 その場合、横材の大きさより大きめの孔を柱に彫り、そこに横材を差し、横材と孔の隙間に埋木をすることは、あたりまえに行なっていたと考えられます。

 その孔を貫通させ、横材を通して埋木をすると丈夫な枠ができあがることにも気がついていたと思います。 

 つまり、木造軸組工法が主体の地域では、貫状の部材を柱の間に組み込むことは早くから行なわれていたと考えられるのです。現在の歴史観では、文化や技術が一発祥地を起源として下流へと伝播する(いわゆるルーツ論)とは考えず、同じような状況では同じような文化が生まれる、と考えます。

 佐賀県で発見された弥生時代の巨大な集落・住居遺構吉野ヶ里遺跡で発見された数多くの巨大な掘立て柱痕に対して、状の部材を使った櫓(やぐら)状の建物が推定復元されていますが、これは、弥生時代でも、柱に孔をあけ横材を差す仕事ができた、という判断が復元者にあったものと思われます。 

 日本でも、宋の技術者に教えられるまでもなく、貫状の材を柱と柱の間に設ける技術は身につけていと考えられます。寺院建築で、この技術を使わなかっただけなのではないでしょうか。 

 また、東大寺再建という大仕事は、の技術者がかかわったとしても、の技術者だけで行なったのではなく、わが国の技術者も多数協働していたと考えられます。後で詳しく見るように、大仏様の工法は、細部の設計から施工手順に至るまで、きわめて精緻に考え抜かれた仕事がなされていますから、この工法:仕事の仕方に技術者たちが手慣れていたと考えられます。

 それゆえ、同じような工法が当時の一般社会ではあたりまえに行なわれていて、その方法・工法に慣れた技術者がまわりに多数いた、そしてそれが寺院建築にも応用された、と考えられるのです。  

 この技術者たちは、多分、一般の人びとの建物づくりに従事してきた人たちだと思われます。

 一般の暮しには、形式はいりません。彼らは、より実質的な、現実の暮しに合い、環境にも合った丈夫な建物をつくることに努めてきた人たち、と言ってよいでしょう。

 平安時代の末期は、それまでの公家・貴族に代って武士が台頭し始め、一般の人たちが力をつけて、それを表すことができるようになった時代ですから、そういうことが起きてもおかしくないのです。同様の現象は、後の戦国時代の城郭建築においても見ることができます。

 では、大仏様とは、どのようなつくりかたなのか、具体的に見てみます。

 大仏様の名の由来になっている再建された東大寺大仏殿は、その後ふたたび消失してしまいましたから、その姿は、そのとき同じ工法で再建された東大寺南大門(36頁参照)や兵庫県小野市にある浄土寺・浄土堂(下の写真照)の姿から想像するしかありません。

 浄土寺・浄土堂の上棟は、東大寺大仏殿の上棟後の1194年、南大門の上棟の5年前にあたり、浄土寺・浄土堂については、詳細な「国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書」(浄土寺)が刊行されていますので、その調査・報告を基に、大仏様のつくりかたを紹介します。 

  

正面外観 日本の美術 №198 鎌倉建築(至文堂)より        堂内上部  国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書より     

    堂内東側 日本の美術 №198 鎌倉建築 より

  浄土寺・浄土堂は、写真のように、軒先は水平で、垂木の端(鼻)は、鼻隠し板があるため、見えません。また、斗拱も外に向かっては一方向しか出ていません。そのため、従来の寺院建築とは、外観が大きく異なります。多くの人が、この外観から受ける感じと、堂内に入って受ける感じの落差に驚嘆します。

 

 

参考 浄土寺・浄土堂、東大寺南大門以外の現存する大仏様の主な建物(86頁参照)

                            図・写真 奈良六大寺大観 法隆寺一文化財建造物伝統技法集成より

 

東大寺・法華堂(ほっけどう)(三月堂) 

 

 

  左側の正堂は、奈良時代:749年(天平宝字3年)以前の建立で、版築で設け亀腹に仕上げている。右側の礼堂は鎌倉時代、1199年(正治元年)大仏様により建替えられた。なお、小屋裏の筋かいは後補。

  西立面(右写真)では、奈良時代の長押と鎌倉時代のの違いを観ることができる。

 

 

東大寺・鐘楼(しゅろう)

 

 1207~10年(承元年間)ごろ、栄西によって建てられた。 横材は、下から地貫飛貫内法貫、そして頭貫組み方の手順を間近で観ながら考えることができる。

  

 

東大寺・開山堂 

 

 

 当初、1200年(正治2年)ごろ、1間四方の内陣が建てられ、1250年(建長2年)現在地に移築、外陣を増補。内陣は重源による。 大仏様の手法が各所に見られ、右図の柱-頭貫-繋虹梁の取合いはその一例。

  


「筑波通信 №11」 1982年2月

2019-04-11 12:18:51 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №111982年2月 A4版10頁   

    「筑波通信 №11」  1982年2

      「今昔」の評釈について

秦恒平著「梁塵秘抄」

 〈熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も達からず〉

熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ羽賜べ若王子〉

結局はどっちも「遠い」ということを歌っている・・・・  

 和歌山県南端の紀伊熊野の本宮、新宮への参詣は十二世紀ごろにわかに盛んとなりとくに後白河院は生涯に三十三度もはるばる往来されたと申します。‥‥

 熊野へ参る道は、京都から、大きく分けて三通りほどございました。が、いずれを通っても難路峻路。途中、「――王子」と申しまして宿舎にもあてられるいくつもの末杜があった。一行は王子ごとに神前に歌を献じたり、今様の遊びを楽しんだり、そこへ遊び女たちも寄ってきたりして、信仰と物見遊山との入り混じった行楽気分もたしかにあったわけです。が何しろべらぼうに遠い。・・・・・・・・

・・・・私どもは飛行機も新幹線ももっている。そのためにかえってせかせかしています。歩いて三十分などという距離を昨今の都会人なら決して歩こうとせず、乗物を求め、乗物がない場所を称して不便な場所という。

 その感覚で昔のものを続みますと、例えば京都から熊野まで生涯に三十三度も通う人物がいるのが信じれない。現代人にはただの一度でさえそんなことを試みる人はいない。物理的に違いどころでない、心理的に迫っつかない遠さを感じてしまいます。

 むろん「うた」にもあるように昔の人にも遠かった。そして危険で不便で難儀でした。のに、くりかえし往反する。・・・・

 西行や芭蕉の漂泊感覚と、それを現代から想いやる漂白への想像とには、よほど時間感覚や距離感覚に違いがあったことをよく弁えないととんだ錯覚を生じます。現代の論者はやたら彼らの漂白を過大に評価しすぎます。一度家を出れば生涯帰らぬかもしれぬ中国人の長旅とは違います。そのまねなのです。その実はちゃんと用向きのある旅をけろっとした顔でしていたわけです。

 歩くしかない時代に時間をかけて歩いて行くことは、乗物万能の時代の人間には分らないタチの当然という感覚が働いていたはずです。私は熊野路をバスや車で二度通っています。遠いなあ、よくこんな処を歩いたものだとあきれ返ったものですが、それは比較してものを言うのであって、昔の人にはせいぜい大空の鳥の翼を想うしかなかった。自分の脚しかなかったのだから、行きたければ歩いて行き、歩いて行ける処までは遠くても構わず疑いもせずに歩いて行った。・・・・・

 

 この正月休み、本を読むことに徹してすごした。といって、そんなに重い本ではない。ここに引いたのは、そのなかの一冊、秦恒平著「梁塵秘抄」のなかに見つけた文章である(NHKブックス311)。全般に、この著者の評釈は、私にもよく分り楽しかったのだが、丁度№10で峠道のことを書いたばかりでもあったから、この部分が私の目をひいたのである。

 実際、古文をこういう形で評釈している本には初めてぶつかったような気がする。高校あたりで習った古文は、考えてみれば実につまらなかった。こういう類の評釈も混えて教えられたならば、それは単に古きものという趣味を越えて、より生き生きとしたものとして私たちに吸収されただろう。得るところがもっともっと多かったに違いないとつくづく思う。(本当に、何故古文が教えられているのだろうか。)

 私はいま、この文章を「遠さ」のはなしにひかれて引用したのだが、実は著者は、時間感覚の時代による違いについて述べんがためにこの一節を書いている。「梁塵秘抄」に集められている「うた」は、どれも本当に「うたう」もの、つまりただ文字を目で追い読むものではなかった。著者は、それがどういう調子、どういうテンポでうたわれるのか知りたかった。残念ながらレコードも録音機もない時代のはなしである。「秘抄」には楽譜が示されているようだけれども、しかしそれだけでは調子もテンポも分らない。一度、「秘抄」の「うた」の復元の試みがなされ、著者もそれを聴いたのだが、あまりにも悠長で納得がゆかなかった。だが、納得がゆかないと思っているのは、あくまでも現代の自分であって、彼等の時代はこれでよいのかもしれない。それでもなおかつ、「うた」のなかみから考えると、いま一つその復元だという「うたいかた」に対して疑念がわいてくる。つまるところ、分らない。このことにからんで著者は上記の評釈を書いたのである。そしてその節のおしまいごろで著者は次のように書いている:「この時間感覚(上記引用部分で書かれたことを受ける)を思えば、「秘抄」の「うた」がどういうテンポで歌われたかを議論するより、それが当時の人には十分新鮮に面白く、妙味も分って楽しまれていたことを信じるので、足りているのだなと私は思うのです。」

 

 この評釈に誘われて、今回は、時代の違い、あるいは違う時代につくられたものを「分る」ということについて、少しばかり考えてみようと思う。

 いま私自身この「秘抄」に集められている「うた」の数々を読んでいると、素直にすんなりと分る(という気になる)もの:〈遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動がるれ〉などはその一例:と、うたわれていることつまり文意は分るけれどもなかなかそのリアリティにはたどりつき難いものとがある。引用した文の頭初の「うた」はこの後者の例だ。そのリアリティに到達するには、その状況をつかむために相当の想像力を働かせなければならない。

 そして、そのリアリティへの近づきかたの程度によって、その「うた」の分りかたの深浅もまた変ってくる。かといって、このリアリティなるものも、これがそれだというような絶対的な確としたものがあるわけではなく、それもまた想像力の産物以外のなにものでもない。その「うた」が言おうとしていること、その概念はすぐ分る。遠かっただろう、それは分る。そのとき、極力それが詠まれたであろう(と思われる)状況を想定して、そこへ我が身をのめりこませていったとき、その「速さ」が単なる言わば抽象的な「速さ」ではなく、「その遠さ」としてみえてくるような気になってくる。つまるところ、その状況に実際にいたわけでもない私にできることといえば、そこまでである。

 それ故、それから先、考えかたが二つに分かれてしまう。すなわち、古のものあるいは古の状況は「だから絶対に分らない、分り得ない」とするか「それでも相対的に分る。分り得る」とするかである。古の状況がいま見られるわけはないし、そのとき人々がなした営為、その過程は、あたりまえだが、その場ですぐ見えなくなる性質のものだ。残っているのは「結果」だけ。具体的に目に見える形で在るものにしか信がおけないとするならば、前者の立場になるだろう。そのときそれは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として扱い済ます立場にもうすぐだ。

 私は無論後者の立場をとる。人々のなした営為は、それが目の前に形をなして存しなくても見えるとする。つまり、決して絶対ではないが、相対的に分るのだとする立場をとる。私は人間の感性を信ずるからである。その普遍性を信ずるからである。

 いまの私たちの時間感覚、距離感覚をもって先の「うた」を分ろうとしたら、到底信じられない、ばかなことをやったもんだと思うのがおちだろう。しかし、彼等のいたと思われる状況が想定し得たとき、その想定した状況に放りこまれた私が思うことは、彼等が思ったことと、ほとんど変りないはずなのだ。感性を信ずるというのは、そういう意味だ。(なにもいまと昔とのはなしに限らず、いま私たちが互いに話ができるというのも、私たちが互いの状況を想定しそこで思うだろうことを想定し得るということに裏打ちされているのだ。互いの感性に信がおけるからこそ言葉というものが存在するのではなかったか。少なくとも日常的に私たちが使っている言語:自然言語はそれ故に存在すると言ってよいだろう。

 しかしいま、数式に代表されるような科学言語の方に信がおかれ、自然言語をも、従って人間のやることをも、科学言語的に扱おうとする気配がありはしないだろうか。自然言語つまり普通の言葉はあいまいで絶対的でなく相対的だからに違いない。しかし、自然言語というのはいわゆる科学的分析により保証されたものでなく、私たちそれぞれの感性に保証されているわけであるから、その自然言語に信がおけないということは、すなわち私たちの感性に信がおけないということに他ならない。つまりいま私たちは、日常的に自然言語は使っているのに、互いに互いの感性を信じなくなったということだ。

 「自然言語の概念は、漠然と定義されているが、知識を発展させる際には、制限された現象の群からの理想化として作られた科学言語の明確な言葉よりも、いっそう安定しているように思われる。これは事実驚くには当らない、というのは自然言語の概念はリアリティと直接結びついて形成されているからで、これらはリアリティを表している。なるほど非常にはっきりとは定義されていないが、従ってまた数世紀の間にリアリティそのものと同じように変化を受けるかもしれないが、しかしいつになってもリアリティとの直接の連絡を失うことはない。・・・・科学言語は、理想化の過程と明確な定義とを通すことにより、リアリティとの直接の連絡は失われる。その概念は研究の対象であった自然の部分においてはリアリティとやはり非常に密接に対応しているが、しかし他の現象を含む別の部分においては、対応が失われるおそれがある。」これは、いまや人文科学の分野の人たちまでもが理想の形式としてそれへの傾斜を深めているところの、当の自然科学の一つ、ある物理学者の言である。:ハイゼンベルク「現代物理学の思想」1958

 

 先にも書いたが、およそ人のやることは、それはある状況において人がやることなのだが、「結果」は残っても、その状況はもとより、そこにおいて人がやった「過程」は残らず消えてしまう。そして、考えてみれば、いま私たちのまわりをとり囲んでいるものの大部分は、そういった「結果」の群なのだと言っても決して言いすぎでないだろう。言いかたを変えれば、過去の「遺物」にとり囲まれているのである。しかし私たちは、よほどのものでない限り、それらを「遺物」とは思わずに暮している。ということは、それらの過去の「結果」が、少なくともいまのところ、私たちの日ごろの暮しに何らかの係わりを(十分かどうかは別として)はたしていてくれることを認めているということだ。

 それはすなわち、それらの過去の「結果」が、いまの私たちによって(それが過去になされたことであるにも拘らず)分るということに他ならない。つまり、その「結果」の私たちにとっての意味が分るということだ。しかし、その分りかたが、それらの「結果」をあらしめた人たちの分りかた(あるいはその状況)とまるっきり同一であるとする絶対的保証は残念ながらない。というより、あたりまえなこととして存在しない。だからといって短絡的に、それ故過去のものは絶対に分らないとするのは早計というものだろう。私たちには、その分りかたの深浅はともあれその本質は、いつの時代であれ、相対的に分ることができるのだ。私は、そう見たい。

 

 常陸風土記をはじめとする風土記において、それを編んだ人たちの生活に何の係わりもない得体の知れない「遺物」(彼等にも、得体は知れないが、自然のものでなく人為的なものと見えたのだ)に対して、彼等が彼等なりの説明を懸命に(現代の目から見ればこっけいに)施そうとしているのを読むことができる。」

 この「遺物」それは例えば、現代の考古学的知識で言えば、縄文の堅穴住居跡や貝塚である。彼等がそこら辺に住みだしたとき、それらは既にそこにあった。明らかに人為的だ。だれかが何かをやったのだ。が、彼等の生活とは何の係わりもない。「遺物」でしかない。けれども彼等はそれを放っておかなかった。彼等はそれら「遺物」と自分たちのいまとの間の空白を埋めるべく、壮大な物語を案出する。いわゆる巨人伝説につながる話などがそれだ。(当時の)海岸よりはるか離れた、それ故運ぶのさえ大変だと思われるような所に海の貝がらが山と積まれて捨てられていて、近くには大きな穴があたかも足跡のように残っている。そこで人々は、海岸とその土地を一またぎするような巨人がいて、そこで貝をとっては食べたのだという壮大な物語をつくりあげたのである。そういう人々のなかに伝わっていた話などを基に編まれたもの、それが風土記なのだ。

 そこには、こういう話の他にも、土地の名前の由来だとか、ものの由来だとか、思わず楽しくなるような大らかな解説が書かれている。言うならば荒唐無稽な話ばかりだ。しかし、壮大な物語だとか荒唐無稽だとか評しているのは、やはり、あくまでもいまの私たちの状況に身をおいての見かたなのであって、それは彼等の、その得体の知れな人為的な「遺物」と自分たちとの間の断絶を埋めようとする、彼等にあってせいいっぱいの合理化作業:科学的営為だったと見るべきだろう。(私たちが、当時の状況にいたとしたら、私たちもまた同じような話をつくったに違いないと私は思う。)

 私はいつも思う。彼等は、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として済ましてしまういまの一部の人たちよりも、数等秀れて健全な精神の持主であったと。なぜなら彼等は過去といまとの連関を問おうとした。

 しかしいま、「結果」と他の「結果」の間の連関を問おうとさえしなくなりつつあるし、ましてそのそれぞれの「結果」を成らしめた状況:人々のおかれた状況そしてそこで人々の思った情況:を想像力を駆使して思いやるなどということもなくなりつつある。むしろ、いまでは、科学的であろうとすればするほど、そんな不確なことばかりに忌みきらわれるのがおちである。

 しかしながら私たちをとり囲んでいるものの多くが、過去の「結果」であるというのは厳然たる事実のはずなのだ。それらを、いまの私たちが分るか分らないかが、だから問題なのだ。そして普通は、日常的には分っているのである。それが意識されていないだけなのだ。だから、よほどのことでもない限り、そういう過去に成されたものに対して、それを「遺物」だとは思わずにいまのもの同様に扱っている。これは、古来人々がやってきたことと、何の変りもない。そして、これは既に何度も言ってきたことだけれども、人々はそれらのものがよほどのことになってくれば、つまり状況が変ってもはや「遺物」になりかかりそうになってくれば、すすんでつくりかえを試みるのである。それは部分的な改造であるかもしれないし、あるいは全面的な更新であるかもしれない。その行動の拠りどころになっていること、それは「分る」ということであった。しかしそれは、新しいものあるいはいまが分るということではなく、既に在ったもの、とりこわそうとしているもの、それをも「分る」ということである。すなわち。ものの(私たちにとっての)意味が、時代を越えて、私たちに(相対的に)分るということが前提にあって可能であったのだ。そしてそれは、つまるところ、ものに対する人の感性に信をおいていたということに他ならないだろう。

 しかしながらいま、分るということが、目に見えるものを知ることのみであるかのように誤解される傾向が強いから、目には見えないそれを成した人々の営為が黙殺されてしまう。ある時代の結果は、ある時代の人々の成した結果であるにも拘らず、そして人々の成したことは相対的に分る性質のものであるにも拘らず、単純に古くて役にたたないもの、せいぜいある時代の記念碑としてのみ扱い済まされてしまうのである。

 確かに一方で、古いもの、伝統(的なもの)を大事にする人たちがいるけれどもその人たちの多くは、言わば骨とう趣味的に古いものに興味を示しているに過ぎないと言ってよく(先号で書いた例のように)、構造的には、上述した役たたずとして無視する立場を裏返した見かたでしかないと、私は思う。ともに、人の営為を見ず、見ようとせず、見えるもの:結果だけをあげつらう点において何の違いもない。先号の言いかたで言えば、What だけで問うようになってしまっているのである。そして、こういう傾向が強くなったからこそ、過去と現在の間に、どうしようもない裂け目が入り、そしてそれがますます大きくなってゆくのである。「伝統」などという言葉がことさらに言われるようになるということは、その裂け目に目が向きだしたことには変りないけれども、しかしそれをWhat だけで問うている限りでは、これもまた、あの風土記の時代の人々よりも数等質が悪いように、私には思えてならない。

 

 私はいま、ある住居の設計で、現場で大工さんと接している。三十代後半の人たちのようだ。私は驚いたのだが、いわゆる建築用語で言うところの見えがかりのおさまりについて、私の方がよく知っているのだ。

 見えがかりのおさまりというのは、二つ以上のもの(材料)がぶつかったときの、そのぶつけかたの作法だと言えばよいだろう。私は設計屋ではあっても大工さんではない。作業の手順だとか材料の加工だとか、たとえ知るように努めたところで、所詮それは知識の域を出ることはない。だからいつも設計図を描いて、いま一つ頼りなく、大工さんに一目おかざるを得ない、そう思いつついままで過してきた。おさまりについても、自分でいろいろ見て学んだこともあるけれども、大工さんによって教えられたことも数多くあったのである。だから、大工さんなら、いろんな場面に見合った手練手管を知っているものだ。そう私は思っていた。見えがかり、できあがったときの見えかたについても、大工さんというのは非常に神経を使うものだ、そう思ってきた。

 ところがそうでなかったのだ。至極当然だと思えること(常識的だと思えること、あるいは普通の感覚ではあたりまえなこと:それらは当然のことだと思うが故に強いて図面としては描かない)、それが当然ではなかったのである。私は困惑した。非常に安易なやりかたで、見てくれをごまかそうとするのである。表面だけつくろおうとする言うならばつくろい仕事なのだ。そこにおかれる材料に対しての(大工さんなら持っていて当然の)感覚・感性というものがまるでない。(といって、別にいわゆる技術面で下手だというわけではない。もっとも、技術というのにそこまで入れるべきだとすれば別だが。)大工さんならいろいろな実例を仮に自分がやったことはなくても当然知っていてよいと私は思うのだが、知らないのである。

 どうしてなのだろう。いろいろ考えてみると、どうも最近はそういうことを気にする仕事をしないようなのだ。なぜかと言えば、いわゆる多種多様の新建材が出現して以来、それらを表面にぺたぺた張りつけるやりかたが増え、もののおさまりと言えばそれらの化粧シートの張りつけかたのおさまりだけになってしまったと言ってもよいくらいになっているからだ。れんが積を写真で撮りそっくりに印刷したシートなどがあるから、到底れんが積があり得るはずがない(と れんがを知っていれば思う)ようなところ:例えば、か細い木の柱に支えられた壁面だとか、ときには天井:に平然と張られたりする。これは大工さんだけが悪いのではない。設計屋さん自体もそうなのだ。もののあたりまえな在りかたが分らなくなっている。道の舗装に使う御影石の切石が、舗装をそのままひっくり返してぶらさげたように張られた天井を実際に見たことがあるが、これには二の句がつげなかった記憶がある。この設計屋さん、いい神経しているとつくづく思う。科学技術が進歩すると(というのはどんな重量物だって天井につるすことぐらい何でもない)私たちの石というものに対する感性までも変ってしまうとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、それは人をばかにしたはなしである。

 ものごころついたときが戦前で、以後、戦前の様を辛じて、そして戦中、戦後とめまぐるしく変ってきた時代を通して過ごすことのできた私たちの世代、その世代に属していることが幸せであったと思うことがときどきある。なぜなら、私は、戦前、戦中、戦後の生活:三代のめまぐるしく変った生活を辛じて知っているからである。もちろん、町や村、家々、つまりそれぞれの時代につくられたもの、も知っている。しかもそれは日常のなかで知っているのであって、歴史の教科書で知ったのとは訳が違う。もののつくりかた一つをとってみてもそのやりかたの変遷を身をもって知っていると言ってもよいだろう。大きく変った生活の変遷、それを幸か不幸か知っている。だから、別に子どものころから建築に関心があったわけではないが、いろんな空間、いろんな場面、(それも現代的なやりかたによるものに限らない)を体験としてもっている。そして、思いだしてみると、設計をしているとき、そういった体験のいくつかが必らず頭をよぎっている。過去の体験というなら、だれにもあるではないかと思われるかもしれないが、私たちの世代のそれには、いまのような画一化したものでない、つまり現代のものだけでないそれだ。変遷自体が体験になっている。

 ところが、この大工さんの世代だと、戦前は戦中によって断絶させられた「遺物」にすぎず、戦後のやりかたしかその体験のなかにはないはずだ。おまけに戦後、戦前は意識的に切り捨てられたし、近代的・合理的やりかたが主流となる。建物も、昔からのつくりかえの理論でないやりかたのものが多くなる。言うならば、相互の連関を見失った独立・突発型とでも言うべきやりかたの建物だらけとなる。材料もまた、先に触れたような状況となる。いずれにしろそういった戦後の様は、人々の一貫して筋の通った感性によって裏打ちされたものではない。人々の感性は、むしろそうした感性を無視した大量のもののなかに埋められてしまう。人々は自らの感性に信をおくことが不安になる。この大工さんたちも、体験もなく、自らの感性に拠り考えることもしない、やることといえば、別に深くも考えずに、どこかにあったやりかたでお茶をにごす。

 そして、この大工さんたちがこうなったもう一つの考えられる理由。それも戦争のせいだ。唐突にきこえるかもしれないが、明らかにそのせいだと私は思う。この大工さんたちの上にたつ大工さんたちがいないのだ。全然いないのではない。相対的に少ないのだ。その世代の農民や職人たちは、お国のために、死んでいったのである。つまり、戦前と戦後をつなぐなかつぎの世代が欠けている。それは全く人為的な、無用な断絶に他ならない。この大工さんたちには、大工さんたることを教えてくれる先輩つまり妙なことをしたときチェックする役割をもったうるさい人たちがいない、少ないのである。いつの世でも、若手の人たちは、このうるさい人たちに一定の反発を感じながら、そしてまた一定程度そのうるささの理に納得しつつ、そのなかで引き継がれるべきものは継がれ、乗り越えられるものは越えられ、その時代時代の技術として成熟していったのだ。だからそれは、前に「つくりかえの論理」と私は呼んだけれども、より正確に言うなら「乗り越えの論理」と言う方がよいかとも思う。ただそれは、決して、乗り越えるからといって「無視の論理」ではないということなのだ。そして、そういう論理を保証していたものが何であったかといえば、それは、その時生きていた人々のものを見る目、もののとらえかたの確かさであったのだ。そしてそれは、その確かさは何であったか。それは決して他から与えられた理論や理屈に頼った、いま流に言えば専門家によって与えられた確かさではなく、人々それぞれの、それぞれの感性によって裏打ちされた自前の確かさであった。私は、そう思う。(いま、各地にある職業訓練校には、大工さん養成の課程がある。ところが、聞いたところによれば、そこで教えられていることは、各土地土地で培われたその土地の大工技術ではなく、むしろそれを無視黙殺した全国一律の教科書によっているのだそうである。)

 いま私が、この大工さんたちとのつきあいで感じたことは、なにも大工さんの技術に限ったはなしではないように思う。全ての局面で同じことが言えるように思う。どこにおいても、それぞれの感性に、それによって裏打ちされた自らのものの見かた、とらえかたに、自信をもてなくなってきている。もたなくなっている。裏を返せばそれは、(他)人(の感性)を信じないということに他ならない。つまり、自らのではなくもちろん他人のでもない、それとは全く別のいわゆる客観的と称する物指しで計らないと、ものが見えた気になれない、そういう状況になっているわけだ。そして、その物指しを唯一持っていると自称する人たち、それが今様の専門家 なのだ。

 そしてまた、そうであるが故に、どの局面においても、「つくりかえの論理」「乗り越えの論理」すなわちあたりまえの「創造の論理」が「無視の論理」に置き代えられてしまっている。まさに風土記の作者たちの時代以下である。

 

 おそらくいま、私の属する世代の人々は、その過ごしてきた時代体験を無視あるいは捨てることなく、自らの感性に裏打ちされた私たち自らのものの見かた、とらえかたを、より強く打ちだすべきであるように、私は思う。それはなにも、私たちだけがものごとをよく分っている、そしてそれをひけらかす、などという思いあがった意味でではない。そうではなく、つくりかえられる、乗り越えられるその対象として、その対象を強く打ちだすことだ。(もし私たちの世代自体が「無視の論理」だけでことを処理することをやり続けるなら、私たちもまた無視の対象とされてしまうだろう。)私たちが、そしてそれぞれの時代が、つくりかえられ、乗り越えられるものであったとき初めて正当な世代交代が行なわれるはずなのだ。私たちは、(若い人たちから)もっともっとうるさく思われる人たちでなければならないと、私は思う。そして、そのように身構えたとき、私たちそれぞれは、自らの感性に裏打ちされたものの見かた、とらえかたに、自信と責任を持たざるを得なくなるのである。そしてまた、そのように身構えない限り、私たちのものごとの「分りかた」自体、極めてひとりよがりな、あたかも幼児語的段階に止まり、決して「自然言語」としては通用しないだろう。

 

あとがき

前号あたりから、「感性」ということばを表にだすようにしてきている。このことばを表に出すには少しばかりためらいがあった。しかし、いろいろ考えてみて、やはりこのことばを表に出した方がよいと思うようになったのである。なぜためらったかといえば、「感性」などという言わば個人的なことばをもちだしたとき、通常ひきおこすであろうある種の誤解を気にしたからに他ならない。けれども、つまるところ私が言い続けたいのは、現在あたかも常識の如くに言われ行なわれていることどものおかしさについてであり、そのおかしさに気がつくには私たちの「感性」に拠るしかないのであるから、そのことばをもちださないということは私の考えかたから見て、つじつまのあわないことになってしまうのである。もちろん、ここでもちだす「感性」が、皮相的な、言わば皮膚感覚的な意味あいでないことはお分りいただけると思う。

ところで、ふと私にちのまわりを見まわしてみたとき、自らの感性に拠って(おかしさについて)思うところを述べる人たちが、私の経験では、いつでも、またどこでも、小さくなっているように思えてならない。そんなこと言って、先例があるの?とか、それが正しいという(目に見える)証拠は?などと言われてビビるのである。考えてみれば、王様の裸を(見えた通りに)指摘したのは子どもであって、王様に対して裸でないと思わせた(信じこませた)のも、見えている裸を裸として見なかったのも大人であった。そしてまた、(多少とも思うところのあった)大人は、自分の家の他人に知られないところで、つぼに向って「王様の耳はロバの耳」とどなるのがせいいっぱいだった。

〇久しぶりに、中野の人にちに会うために東京へ出た。その帰りの列車のなかで読んだ新聞の評論が私の目をひいたので、その一部をそのまま次に書き写してみる〈毎日1月23日夕刊山田宗陸〈虚国〉日本を撃つ:現代短歌に寄せて)。

 俳句と短歌は全く別物だが、主として俳旬を例に、日本の伝統的な短詩形を第二芸術として批判しさった論は、たしかに鋭利明快で、戦後の一つの性格であった近代主義においてきわだった説であった。  しかしいまになって、戦後を死なせ、あるいは日本を死なせたものが、ほかならぬ近代主義による近代化であったことも、また明白である。

 そして短歌の世界で、近代化機構の乾燥度に対する感性の批判、情念によるプロテストが存在することは、上に見てきた(注:引用略)とおりである。 なにも近代だけではない。どの時代にもその時代の合理主義があった。 時代がゆきづまったとき、合理のパラダイムに挑んだのは、感覚の反乱であった。

 すべての短歌がそうであるとは、もとより言わない。 道浦母都子『無援の抒情』(では)六八年の全共闘運動に参加し、やがてその新左翼の「党」の荒寥に傷つき、ひとり時にその傷をこするように、時になめるように〈無援の抒情〉を、一首一首、紡ぎだしている。

 人憎まねば立ち直れぬのか弾きて不意に涙あふるる

 生きて会う人の苦しみ悲しみの極みのごとき原色を見つ

 蒼ざめし馬にまたがり逃がれゆく雪の降る夜のわが幻は

  新左翼の向こうには当然に旧左翼がある。後者から前者への過程が、近代の生んだ革命党のマイナスの面のひきつぎにすぎなかったことは、だれの目にもあきらかである。〈無援の抒情〉は、たんに特殊な政治的ラジカリズムの局面にだけうかんでいるのではない。それはあきらかに近代のパラダイムヘのーいまは〈無援〉かもしらぬが一感性の反乱の一部である。 無援の抒情だからこそ、あげて近代のパラダイム機構である現代日本を、普遍的に撃つところに立っている。

・・・・・・・・ たんに現代を、前衛を、論じ歌うものを、わたしは信じない。たんに古代を、原始を、論じ歌うものを、わたしは信じない。その二つを結ぶ「もがり縄」こそが、「虚国(むなぐに)」日本を撃つのである。

 中野の人たちとの雑談のなかで、先号の峠道の話にからんだ話題になった。その人は諏訪の人で、小さいころ八ヶ岳のふもとを歩きまわったとき、山と山の聞の切れこんだところを「きれと」と呼ぶということを教わったのだが、そういうところに建っている山小屋が、知らない間に「キレット小屋」などと、あたかも外国語のように言われているのに気がついたというのである。私もそう言われて、山と山の切れ目の呼称にそういうのがあったのを思いだした。大学に戻って二三の人に尋ねてみたところ、ドイツ語じゃないの、という答がかえってきた。手元にあった国語辞典をひいたところ、「きれっと、きれと:切れ処」としてひらがなでちゃんとでていた。

碓氷峠のふもとへ出かけた。早春のようなうららかな日和が再び冬型へと急変するときに丁度ぶつかったらしい。平野のまんなかで風が急に荒れだし、いままで遠くに春のようにかすんでいた赤城山をはじめとする平野を囲む山々に、それこそ見る見るうちに一見して雪雲と分る灰色の雲がかかりだし、それもうずを描くように激しく動いている。碓氷峠:妙義山に近づくと、風はますます強く、ときどき日差しが雲にさえぎられるようになり、風花も舞いだし、ついにすっかり雪雲の下に入りこんでしまった。雪片が斜めに無数の筋を描いて吹き飛んでゆく。ついさっきまでの小春日和がうそみたいである。一瞬のうちの吹雪模様。妙義ももうすっかり見えない。私がいささか驚いているのに気づいた訪問先の奥さんの、「ふっこしだから直ぐやみますよ」ということばをきいて私は思わず、「これ、ふっこしって言うんですか?」と尋ねつつ、ほとんど同時に「吹っ越し」という字が頭のなかに浮んできた。どうやらそれで間違いないようであった。山あいの「きれと」から、山の向うの冬が疾風(はやて)の如く「吹き越し」てきたのである。気象学的に言えば、寒冷前線が山なみを越えるときの一時的現象なのに違いない。この辺のこどもたちは、こういうとき、「はーて(あるいは、はあて)が来た」とも言うのだそうである。これはおそらく「はやて」のなまりではないだろうか。私は、あたりの光景に感嘆するとともに、こういうことばの根ざすリアリティへの確かさに驚嘆した。

 いずれ、皆様がたそれぞれの「通信」も載せさせていただければ、などとも考えています。

寒いなか、皆様のそれぞれなりのご活躍を祈ります。

    1982年2月1日                       下山 眞司         

 


「Ⅱ-2 石場建て後の架構方式」 日本の木造建築工法の展開

2019-04-05 10:54:21 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「Ⅱ-2 石場建て後の架構方式」 A4版10頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

Ⅱ-2 礎石建て後の架構方式・・・・古代の典型

 1.架構の基本形

 現存する礎石建てに移行後の古代の建物の大半は寺院の建物で、一般の建物の例はありません。ただ、法隆寺には、大陸伝来の寺院様式の建物だけではなく、一般の建物づくりを思わせる建物も現存し、その一つが、下図の法隆寺に学ぶ学僧たちとその従者の宿舎であった東室(ひがしむろ)妻室(つまむろ)です。

    

東室 妻面、 右 妻室:妻面、内部 写真と図は、奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺 一文化財建造物伝統技法集成から転載・編集

   平面図 上:妻室 下:東室 

東室 断面図

  平面図の上が東面にあたります(57頁寺域図参照)。東室妻室は、中庭を挟んで対になっています。図のように、東室では主たる部屋の二面に庇:下屋が付き、妻室には庇:下屋は付いていません(なお、東室の右:南側の点線部は、現在、別の用途の建物に変っている)。

 これらの建物は、寺院建築の形式をとっていません。この二つの建物は、つくりかたがきわめて単純で、に円柱が使われていること以外は、当時の一般の建物のつくりかたと同じであったと考えてよいでしょう。


 A部分解図           B部分解図              C部分解図  写真と図は、奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺一文化財建造物伝統技法集成から転載・編集

 

 二つの建物とも、初めにをかけて門型をつくり並べを載せるのではなく(42頁の無庇建物がこの方法で、折置組おりおきぐみと言います)、初めに長手方向にを載せた2列の柱列を立て、それにを架ける方法をとっています(これを京呂組きょうろくみと呼んでいます。桁露:桁が露出する:の意、という説があります)。

 は長くなるので、何本かの材を途中の柱の上で継いでいます2材を長さ方向に伸ばす方法継手(つぎて)と言いますが、部の分解図のように鎌継ぎ(かまつぎ)を使っています。  

 このように何本ものの頭に横材を載せると、木製の梯子(はしご)を横にした形:門型の連続:になって、1連の門型よりも、柱列方向には変形しにくくなります。おそらくこの利点を考えて、を先に架ける方法をとったのでしょう。

 の上につくられた凸型:(ほぞ)あるいは太枘(だぼ)で取付けられています。このように、交わる2材を組み合わせる方法仕口(しくち)と言います。

 次に、を載せた2列の柱列に直交してを架けます。

 は、2列の柱列が垂直の姿勢を保つための重要な役割があります。ただ載せ掛けただけでは、柱列は安定しませんが、部分解図のように、に互いに欠き込みをつくって載せると、両者がかみ合って簡単には動かなくなり、門型が維持されます。そして、柱列の各の位置ごとにが載ると、トンネル状の上屋の骨組ができあがります。

 なお、ここでの取付けに使われている方法:仕口は、現在でも、直交する2材を確実に取付けるときに用いられる渡りあご:渡り腮(あご)と呼ばれる方法です。   

 下屋柱列上にもを載せ、その上屋の間に水平にをかけて繋ぎます(このを、その役割の名をとって繋梁つなぎばりと呼びます)。その方法を示したのが、部分解図です。繋梁の桁への架け方は上屋と同じです。

 繋梁上屋の柱への取付け方は、の端部に(ほぞ)をつくりだし、上屋の柱に彫った穴:枘穴に差し込みます。の上と下側には前下がりの傾斜が付けられていて、穴も奥に向って下向きに彫られています。そのため、ここにを差し込むと自然に落ち込み、に横向きの力がかかっても、が穴に引っ掛かって、簡単には抜けなくなります。下げ鎌(さげかま)と呼ばれる簡単ですが優れた仕口です。 

 こうしてできあがった上屋+下屋の架構に又首を載せて建物の骨格ができあがります。

 なお、妻室の場合は、小屋組又首ではなく、の上に束柱を立てて棟木を支える束立組和小屋組をとっています(45~46頁参照)。

 妻面および内部の写真で又首のように見えるのは、束柱が倒れないように横から支えるための材で、方杖(ほうづえ)と呼んでいます。ただ、この方杖が支える役割をはたすのは工事中だけで、垂木が架けられると、垂木自体が棟木を左右から支える役割を担うため、棟木は動くことがなくなります。 

 

 

2.中国式架構・斗拱(ときょう)、その弱点とそれへの対策・・・・長押(なげし) 

 東室妻室は寺院の付属屋のため、材料をはじめ丁寧に仕上げられていますが、一般の建物でも、同じような架構法が行われていたと考えられます。 

 一方、寺院そのものの架構法は、複雑な方法をとるのが普通です。下の写真は29頁に内部の写真を載せた新薬師寺本堂の正面です(詳細は56頁参照)。 

 このように、桁を直接柱に載せないで、柱の上に頭貫(かしらぬき)という横材を落とし込み、その柱位置に大斗(だいと)を据えて梁を架け、その上に肘木を据えて、肘木(ひじき)で桁を受けています。大斗肘木(だいとひじき)言います。それを図解したのが下の図です。

  新薬師寺本堂 正面

軒の写真:上が法隆寺東院伝法堂、下が新薬師寺本堂    図、写真は日本建築史図集日本建築史基礎資料集成より          

 

 この新薬師寺本堂に使われている大斗肘木は、寺院の架構法の中では最も簡素な例で、同じ方法は法隆寺東院(とういん)・伝法堂(でんぽうどう)でも使われています(上図ならびに55、56頁参照)。

 なお、法隆寺東院伝法堂は上層貴族(橘夫人)の住居の転用と考えられています。 

 寺院では、軒を深く出すことと軒裏を豪華に見せるために、一般に次の図のように、大斗肘木よりも複雑な方法がとられています。これは大斗肘木も含め、中国の寺院建築の技法にならったもので斗拱(ときょう)と呼びます。斗拱(ときょう)も中国の呼称です。

 

①平三斗(ひらみつと) ②出三斗(でみつと) 

 

   

 ③出組(でくみ)(一手先ひとてさき            ④三手先(みてさき)      図は日本建築図集より

 

 斗拱(ときょう)の形によって名前が付けられていて、その形式・様式で建物建設の時代判定の指標などにも使われますが、要は、軒を柱列位置から外側前方へ迫り出すための方法です。

 なぜ中国ではこのような方法がとられたのでしょうか。参考のために、現在中国に残っている最古の寺院:仏光寺(ぶっこうじ)の断面図を載せました

 

  中国現存最古の仏教寺院 仏光寺(857年)断面図  図像中国建築史より                     

 

 日本の古代文化に影響を与えたは黄土高原に栄えた国家です。黄土高原は乾燥地帯に近く、その地域の建物は純粋の木造ではなく、版築(はんちく)でつくった壁の上に木造の屋根を架ける方法が主です(19頁参照。日本では古い土塀に見られますが、乾燥地域では現在でも行われています)。

 土壁の上に木造の屋根:小屋組設けるためには、土壁上に、木造部を載せる台が必要です。

 頭貫は、台として土壁の上に据える材で、柱頭相互をつなぐ役割はなかったと考えられます。

 わが国でも、当初はの頂部に落し込むだけで法隆寺金堂など)、風や地震などの横揺れで頭貫が容易にはずれて落ちるため、に固定する方法が工夫されます。下図は、法隆寺内の建物の、頭貫の取付け方の変遷図です(左から右へ時代順。一時頭貫柱頭への固定のために打たれた鉄製の大釘は湿気を呼んで木を腐蝕させることが分り使われなくなる。なお、頭貫は日本語、中国語では闌額と記している)。

 

 この頭貫の上に、を受けるための座として置かれたのが大斗です。 

 当初は、上の図ののように大斗に直接虹梁(こうりょう)(虹の形をしているので虹梁と言う。中国では月梁三日月型の梁)を架けていますが、のように大斗肘木を据えた上にを架ける方法がとられるようになり、さらにのように、の上にも肘木を据えることで軒の出を深くする方法も生まれます。

 は最も格の高い方法とされ、唐招提寺金堂に使われていますが、当初の東大寺大仏殿にも使われていたと考えられています(平安時代末に戦火で焼失したため、詳細は分っていません)。 

 また、梁、桁と柱の間に大斗肘木など、いくつもの部材を積んでゆくため、との取付き方にかなりのガタがあり、頭貫に固定しても、先の法隆寺東室妻室の架構法に比べ、横からの力、特に風の圧力:風圧で倒壊することもあったようです。

 そのため考え出されたのが、外周の柱列を内外から横材で挟み込み、柱列の変形を防ごうとする方法でした。これは日本独特の方法で、この横材長押(なげし)と呼んでいます(西欧の方式は49頁参照)。 

 下の図・写真は、法隆寺東院・伝法堂の背面です。頭貫の下と足元に設けられている水平の部材が長押です(図の網をかけた部分)。これは長押を2段設けている例です。

 

   

 法隆寺東院伝法堂背面  奈良六大寺大観法隆寺より      同詳細図同書より

 

 唐招提寺金堂では、下の写真のように格子窓の下にも設けられ、計3段の長押がまわっています。 

  

 唐招提寺 東面  奈良六大寺大観 唐招提寺より        唐招提寺 北面 日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰより

 

 唐招提寺金堂の軒は最も格の高い三手先(みてさき)(52頁図でつくられていて、東大寺大仏殿唐招提寺金堂をいわば拡大コピーしたような建て方であったと考えられています。

 しかし、東大寺大仏殿の巨大な瓦葺き屋根の深い軒は、三手先(みてさき)では支えられず、751年の完成直後から、副柱(そえばしら):支柱で軒を支えています(形は違いますが、法隆寺金堂斗拱も軒を支えられず支柱があります)。

 興味深いのは、大仏殿は1180年に焼失するまでの約430年間、マグニチュード6以上の地震に何回も遭遇していますが、梵鐘落下の記録はあっても建物自体が被災した記録はありません。軒は下がっても地震では平気だったのです。一方、大風による建物の被害は頻繁に記録されています(次頁参照)。

 これは、風と地震の性格の違い、つまり、風の場合は風そのものが建物を押すのに対して(風圧)、地震で建物に生じる衝撃は慣性によるものだからだ、と考えられます(下註参照)。 

 註 地面が揺れたとき、地上に置かれた物体は、直前の現状位置を保とうとします。その程度は物体の重さに比例します。そのため、巨大で重い屋根と相対的に軽い軸組部分では、現状位置を保とうとする程度に差があり、両者の間の動きにズレが生じます。多分、逃げの多い斗拱(ときょう)が、この動きのズレを吸収し、衝撃が低減されたのではないでしょうか。風の被害が多いのは、高い建物のためビル風の発生があったのかもしれません。

 

(Ⅱ-参考 に続きます。) 


「Ⅱ-2 参考」 日本の木造建築工法の展開

2019-04-05 10:53:48 | 「日本の木造建築工法の展開」

(Ⅱ-2.2 より続きます。)

 

参考 天平時代建立(こんりゅう)の東大寺大仏殿の地震履歴  

  当初の東大寺・大仏殿金堂は、天平勝宝3年(751年)完成。 治承4年(1180年)12月28日の焼失まで、現大仏殿所在地に建っていた。

 礎石から平面は桁行7間、梁行3間の母屋(もや)(身舎の四面に(ひさし)、裳階(もこし)を設け、高さは、諸種の文書の記録から15丈(150尺)と推定されている。

 下図の黒線描き部分が現状平面。茶色描き部分が天平期の推定平面。

 平面図・年表奈良六大寺大観 第九巻 東大寺 一より抜粋、編集

 

 下の年表では、大仏殿本体に係わる補修工事等の記録に着色してある。落雷、風害の記事が見える。

 

  

 

 

法隆寺 東院 伝法堂   761年以前の創建 七間二面建物(切妻) 所在 奈良県斑鳩町 法隆寺 東院内(57頁参照)

      図・写真は日本建築史基礎資料集成より  分解図は文化財建造物伝統技法集成より

現在は、創建当初の形に復元。床は板張り。

   

西南外観  は、平側では頭貫位置および位置の2段。妻面では、位置のみ。下図分解図参照。頭貫レベルで柱間に横材が入る。 右図:南立面図および平面図

 

 

 梁行断面図                        桁行断面図

     

 堂内 仏像安置前 西側から                  堂内 仏像安置後 東側から

   

 頭貫-大斗―繋虹梁―肘木―丸桁 仕口・継手分解図     床組分解図床板は、厚3寸ほどの割材を、大引、根太は用いず、柱通の床桁に直接載せている。 床位置の長押(図では腰長押)と、開口部材の取合い。 奈良六大寺大観より      

 

 

新薬師寺 本堂  750年ごろ創建 五間四面建物(入母屋)  所在 奈良市高畑町

 新薬師寺本体ではなく、別院の仏堂と考えられている。二重屋根。見えがかりの地垂木は中国建築にならい断面が円形。

  

 正面  古建築入門(岩波書店)より             正面図 

  

  堂内  日本の美術 196(至文堂)より             平面図 

                                          

  側面図                          桁行断面図  図は日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

梁行断面図 日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ 所載図面を編集 

 版築の基壇の上に礎石建て床は張られていない。 長押は、開口部上のみに設けられ、長押というよりも、開口部の上枠の役割の方が大きい。 野垂木地垂木とも、屋根の重さを担うに十分な太さを持ち、さらに登り梁をも架けている。 構造材が重複し、野屋根方式への前段階と考えられる。

 

参考 法隆寺 寺域図  奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺 一(岩波書店)より

 方位は左が北 (青文字は投稿者によります。)

 法隆寺は、当初の伽藍が焼失し、その後建てられたのが現存の建物である、とするのが現在の学説である。

 現在の法隆寺の軸線は、南北軸よりも東に寄っているが、当初の伽藍:通称若草伽藍の軸線は、現在の伽藍の軸線よりも更に東へ傾いている。

  若草伽藍の建設は、平城京の条里制施行以前であり、この若草伽藍の軸線は、下の航空写真上の黄線の方向、すなわち背後に連なる生駒山系の重心へ向いていることから、当初は、南北軸のような方位によるのではなく、敷地自体が備えもつ方向性に順じて建物が構えられたと見ることができる。

 再建にあたっては、条里制に若干歩み寄ったため、振れが減ったのではないかと考えられる。

  方位に拠る軸線の設定は、通常、方位以外に定位の基準が求めにくい地域、あるいは地域の統制者が自らの権威を顕示する(植民地につくられる都市など、自然をも支配する力を持つことを示す・・)場合に行なわれることが多い。 日本では、古来、敷地自体が備えもつ方向性に順じるのが普通であり、条里制は仏教とともに中国から伝来した方式である。

  また、中国の都市は、通常、城壁で都市を囲い(羅城らじょう)、それに倣い平城京でも試みられたが、実際には羅城だけ築かれ、囲い:城壁は築かれなかった。 とは、連ねる意:羅列の羅、には柵の意がある。羅生門は羅城門から転じた語。

        奈良盆地、法隆寺・東大寺周辺航空写真 東大寺の西に平城京跡 上が googleマップ (黄文字・線は投稿者によります。)

  法隆寺界隈 右の黄線は若草伽藍 軸線を示す。左は、現在の参詣道:軸線。(黄文字・軸線は投稿者によります。)

 

参考 東大寺 寺域図 方位は上が   奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一より   

  東大寺伽藍の敷地は、上の図の等高線の不自然な曲折からわかるように、東側に拡がる山塊:若草山の麓を条里制に合わせて切土して造成された。回廊西側の戒壇院などのあたり、東側の二月堂法華堂のあたりは自然地形のまま。

 

 (青文字は投稿者によります。)

 


「筑波通信№10」 1981年度

2019-04-01 09:45:02 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №10」1982年1月 A4版10頁   

   「筑波通信 №10」  1982年1月

      「峠」を越えられるか・・・・5W1Hの復権・・・・

 昨年の春以来、この三月に卒業してゆく学生の数人が協働して、鉄道の枕木を使った山小屋を実際に造っている。これが彼等の卒業設計なのだ(建築を学ぶ学生には、卒業論文の他に卒業設計が課せられるのである。しかし普通は設計図の提出であって実物を造ることはまずない)。なにしろ資金集めから木材を加工して組立てるまでの全般、そのほとんど全てを自分たちが中心になってやるのだから、これは教室できく下手な授業よりも数等ましてよい学習になったようだ。機会(これも彼等が見つけたのだが)に恵まれたからだとはいえ そしていろんな目にあったとはいえ、おそらくこれは、大学時代、というよりも青春の日の最も充実した体験として、今後彼等それぞれのなかに、必らずや何らかの形を成して残ってゆくのではなかろうか。

 この彼等の山小屋の現場は、今ごろはもう雪の中だ。

 中部地方の地図を開いてもらうとよいのだが、丁度信州の中央部、西に松本・北に上田、小諸・北東に佐久・南に諏訪そして少し離れて南東に甲府の町々があり、それらの町々がある平地・盆地にとり囲まれた形で一連の山塊がある。西から言えば、美ヶ原・霧ヶ峰・蓼科(たてしな)そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、言わずと知れた観光地の一帯である。そして、彼らの現場はこの蓼科の山中、大門峠という峠を少し北に下ったところ、標高1400mに近い地点にある。

                          「長野県の地名」平凡社より(図の挿入と青文字は投稿者によります。)

 いま名前を出した峠を含め、この山系には、先に記した町々、特にその山系の南と北に展開する町々を結ぶ山越えの道:峠が古来数多く開かれていたらしい。古代の近畿と東国を結ぶ主要国道:東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中仙道は諏訪から佐久へとまさにこの山中を縫っている(いまの国道142号はほぼその道すじに従っている)。だからこの山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠がならんでいたのである。その多さは一寸類を見ないほどだ。

 私は以前から、このいくつもの峠が横ならびしている場所に興味があった。何故にかくも多くの峠があるのか、そして何故にこんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからである。ここは高冷・寒冷の地なのだ。

 そしてまた、この山系のふもと、現在の町々があるところより一段上った斜面、ことに南側の、いま開拓地や別荘地として開発が進みつつある高原状の斜面一帯には、縄文期を中心とする住居跡・集落跡:遺跡群が、まさに所狭しとばかりに密集しており、これもまた私の興味をそそるものであった。どうしてこんなところにと、これも不思議でならなかったからである。

 藤森栄一という諏訪に生まれ諏訪を愛した民間の考古学者がいるが、彼の沢山の著書で、その辺のことについて私はいろいろと教えてもらい、一度は実際に歩いてみたいというのが、かねてからの思いであった。

 そして昨年の夏、学生たちの山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも、歩きまわることができ、貴重な体験を得ることができた(正確には乗りまわったのであるが)。そこで今回は、そのうちの「峠」について考えていることを書いてみたい。

 

 いま仮に、諏訪に住んでいる人が小諸・佐久あるいは上田や長野に行こうとする場合を考えてみよう。極く普通に行くとなると鉄道を使うことになるが、地図を見ればすぐ分るように、鉄道はこれらの山々をまいた形で走っているから、かなり時間をくい、地図上の直線距離は近くても、鉄道に頼るのに慣れている限り、はるか山の彼方の遠い町へ行く感じを持つはずである。ついでに言えば、いま鉄道は、中央地方中心都市とを結ぶには非常に便がよいけれども、地方の町々を結ぶことに関しては一時よりもかえって便が悪くなっているから、東京から長野に行くよりも諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また自動車で行くにしても、名の知れた主要な道(例えば、20号、18号、19号など)を使うと、それらは大体鉄道と並行しているから、これも時問がかかる。

 考えてみれば、鉄道も主要道も、それは地方の町々を結ぶというよりも、地方中央に結びつけることに意がはらわれるから、こういう山の向うとこちらをつなぐなどということは念頭になく、もし山を越えた町をつなぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの中央にとって都合がよいからだと言って言いすぎではあるまい。

 中央が近畿にあった古代にあって東山道は東国への近道だし、江戸期の中仙道も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし中央が東東だけになってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は抜かされ、山の両側にそれぞれ東京と長野、東京と松本をつなぐ鉄道が敷かれることになる。それは必らずしも山越えが技術的に難しかったからだけではないはずで、それは碓氷峠のこと(先進技術を導入して、あの峠を登りきっている)を考えてみれば明らかだろう。中仙道を全て鉄道化する必要を認めなかったのである。その結果、鉄道化からはずされたあの山越えの部分:諏訪から佐久までは忘れ去られる破目になり、山の向うとこちらという感じで見られるようになってしまったのだ。先に私は極く普通に行くとなるとという書きかたをしたけれども、この極く普通にというのは、だから、鉄道ができてから普通になったのであって、それ以前ならば、この山越えの方が普通だったに違いなく、おそらくそのときは、山の向うとこちらという感じはそれほどなく、両側はもっと密で近しい関係にあっただろう。

 しかし、いざ鉄道が開通したとなれば、速度も速く、輸送量も多く、第一疲れないで済む鉄道に、いかにそれが遠まわりであろうが、頼ることは必然で、結果は町々の関係も一変させてしまったのだ。だれもわざわざ山越えをして上田へ行こうなどとは思わなくなったのだ。人々は歩かなくなった。

 

 そしていま、皮肉なことに、人々の往来が少なくなって、人々の往来に拠っていたその町の生活が言わばその活動を停止し変化が止まった(というより変ることができなくなった)その道すじの町々が、伝統的街並と称されてもてはやされている。

 確かに、鉄道が敷かれてからさびれてしまった中仙道沿いの町々には、歩いてみていま栄えている町々にはない心なごむものがあるのは事実のようだ。しかし一方で、それらの街並をそのようにあらしめた主要道:中仙道が既にその役割を失ない、その意味では言わばもう死んでしまったものだというのも事実である。

 つまり、いまそれらの町々は、中仙道に拠らない生活を、中仙道に拠ってその昔造ってしまったつくりのなかで、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。考えてみれば直ちに分ることのはずなのだが、中仙道の華やかなりしころ、その町すじの家々は活気あふれ、ひんぱんに建て替えが行なわれていたにちがいない。そのとき彼等は、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるべきものは捨てる、つまり彼等の主体的な判断のもとでことにあたったはずである。それはすなわち、過去につくられた物そのものを、単に保ち続けるというような安易な営みでは決してなかったのだ。そして、そういう言わばダイナミックな人々の活動が、鉄道の敷設とともに突然の停止を迫まられ、言うなれば時間が停まってしまったときの姿、それがいまもてはやされている伝統的街並に他ならない。

 だから私には、いま行なわれている街並保存の動きがいま一つ納得できないでいる。

 一つには、そういった保存運動というのが大抵よそもの鉄道で訪れた:の発想であって、そこで生活している人たちのことが念頭にないからである。そこで生活する人たちに、時間を停めて生きろということに他ならないからである。いったいだれに、そんな僭越なことが許されているのか。そして一つには、そういった旧い物を保存することによって満足している、その安易な考えかたが気に入らないからである。

 なるほど確かにこういった心なごむ街並みがどんどん消えてゆく。心なごまない、むしろ逆なでされるようなものになってきている。それとの対比のなかで。旧きものによさを見出したからといって、ただそれらを物として保存すれば済むというものではない。まして、それらを保存すれば、それが現代のやりかた・やられかたへの免罪符になるわけでもない。こういう単純に、というか単細胞的に、よいものを残しておけばよいとする考えは、私には、まさにいまの町々街並を心なごまないものにしているつくりかた・その考えかたの裏返したもの、つまり構造が全く変りない同じ穴のむじなに見えてしまう。彼等には、彼等がよいと思う町々や街並の、その形成:生成のダイナミズムが全くもって見えないのだ。人びと:そこに生きた数代にわたる人々の、そのときどきの主体的な、自らの感性に拠る判断の積層のうちにそれらが成ったことが見えず、そのよさの因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま残ってしまった)目の前に在る物、その物の形:造形そのものに求めようとしているのだ。 

  いま書いてきたような場面について言えば、人間の歴史は、まさにつくりかえの歴史であると言ってよいだろう。だから、私たちが保存しなければならないのは、できあがった結果としての物そのものではない。そうではなく、その物をあらしめたつくりかえの論理:すなわちものづくりの論理、そしてそれを支えてきた感性の存在である。そしてまた、その存在を保証することである。そうでなければ、いま私たちがやることは、決してそのよき旧きもの以上のものには成り得まい。そしてまたそうでなければ、旧きよきものそのものを保存することは、いわゆる骨とう趣味と何ら変りないことになってしまうだろう。

 

 ここまで書いて、つい最近の経験を思いだした。ついでだから書いておこう。先月(12月)の初め、学生たちと桂離宮を見学した。それはいま修復中で、屋根のひわだぶきも新しくなって、それまでの見慣れた黒っぽいいわゆる古色とはまるっきり違って、建設当時はこうだったろうという色になっていた。それについてのある人たちの感想(デザイナーを自負する人たちなのだが)は、まわりとなじんでいなくてあの桂離宮のよさがなくなってしまった、元通りになるのにどれだけ時間がかかるだろう、というものであった。私に言わせれば、これが、この新しい色が元通りなのだ。いや木材もなにも新しい色をしていたとき、それが元通りなのだ。この山荘を実際使ったのはたかだか数十年だから、そのときこの建物は未だ古色にはなっていなかったはずだし、造った人も三百年以上だってのよさを思って造ったわけでもあるまい。そうだとすると、桂離宮がいいと言っている人は何を見て、何をもっていいと言っているのか、そのいいのなかみを疑いたくなった。いま自分が(勝手に)いいと思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思いこんでいる。だからここには誤まりが二重に積み重なっているのだ。

 そして、そうか、こういう見かたで、見かただけで教育が行なわれてきたのだな。これは大変なことだ、とあらためてことの重大さを気づかされたのである。

 碓か中学のころであったか、英語の時間に5 W1Hということを習った覚えがある。いつ(When)どこで(Where)だれが(Who)なにを(What)なぜ(Why)いかに(How)したか、これを問えば文意が通じるというようなことではなかったかと思う。なにも英語をもちだすまでもなく、人間のやることは、これらの問いで問いつめられる。そして、考えてみると、伝統的街並保存のはなしも、この桂離宮の例も、そこにはWhen、Where、Who、Whyの問いが欠落し、あるのはWhatとHowだけなのである。はたして、それだけの視点で人間のやることを語れるか、ものがつくれるか? 否である。否のはずである。少なくとも、旧きよき街並を実際に造ってきた人たちや桂離宮を造った人たちは、あたりまえなこととして、これらの問いの全てを備えていたはずなのだ。それを忘れてしまったのは、いまの私たちだけだ。それを忘れたからこそ、以前書いた「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という発想が大手をふって歩きだすのである。

 旧きものも新しいものも、この全ての問いで問うとき、当然のこととして、その本当の姿、その存在の意味が見えてくるように思う。少なくとも私が旧きものに学ぶのは、必らずしもその形ではない。そうではなく、それらを造った人たちの5W1Hに対する身の処しかたなのだ。そして、もし保存しようとするならば、その身の処しかたをこそ保存しなければならないのだと私は思う。

 

 峠の道から大分はずれてしまったようである。山越えの道が、鉄道の開通とともに廃れてしまったという話をしていたのである。

 いま、この廃れた道が、再び装いを新にして復活してきている。専ら歩くしかなく鉄道に比べて全く分の悪かった峠越えの山道が、自動車の普及とともに見なおされてきたのである。

 そしていま、実際に車で走ってみて、山のこちらと向うが、驚くほど近いということをあらためて発見する。徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後培れた感覚:はるか山の向う側という感覚とは違って、やはり近しい間がらであったと考えざるを得ないのである。

 いま、これらの峠道は見ごとな舗装道路となっている。そしてその道すじは、ほとんど古来の道を踏襲しているらしい。

 それにつけても、こういう道すじを見つけだした先人たちの営為には驚くほかはない。なにしろ、私たちとは違い、彼等は正確な地形図など持ってはいなかった。現代の道路は、おそらくこの正確な地形図の上で考案されるのだろうが、彼等は違うのだ。だから、道のつけ方が根本的に異なると言ってよく、それは既に通信の2号で少し触れたとおりである。因みに、いま話題にしている山系の蓼科(たてしな)から美ヶ原にかけて、ビーナスラインなるはなはだ芳しからぬ名のついた道が造られているが、そこを車で通った例の山小屋づくりの学生たちが、古来の道すじを踏襲したと思われる道を走っているときは、例えば蓼科山はいつも前方の方向に、多少右左によることはあっても、見えがくれするのだが、このビーナスラインでは一定せず、ひどいときには突然後に見えたりして、ついには走っている方向が分らなくなり、正確な地形図上に指示された目的地に行くのにさえ(いまいるところが分らなくなり)えらく苦労したとこぼしていたけれども、これはまさに、古今の道のつくりかたの違いを見ごとに語ってくれている。

 それにしても、この山越えの最短ルートはいかにしてつくられたのだろうか。おそらく中仙道のような主要道が通る以前からこういうルー卜がいくつかあったに違いなく、主要道はそのなかから選ばれ整備されたに違いない。しかし、それらのルートはどのように(地形図もないのに)見つけられたのか。

  これについてはいろいろ考えられるし、また語られている。

 初めにも書いたけれども、いま主に人が住んでいる低地よりも一段高い高原状の一帯は、低地農業に拠る以前の、概して縄文期の人々の居住地であった。彼等は、そこより下の低地よりもむしろ、背後に拡がる山地一帯をその生活圏としていた。というより、そういう山地があったからこそ、彼等はその一帯に住んだのだ。だから、その一帯は、言うならば「彼等の地図」に組み込まれていた。そして、一帯を我がものにしてゆくなかで、はるか山中に、彼等の時代の貴重品:黒曜石の鉱脈を発見したのである。ここ産の黒曜石がこの地を越えたはるか彼方で見つかっていることから、この一帯のなかでの道の他に、その彼方を結ぶ道も既にあったのだと見られている。というよりも、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、それを黒曜石が通過していったと言った方がよいだろう。そして、そういったルートが、時代を越えて受け継がれてきた、これが一つの有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったものもあるだろうが)。

 またこの地は、古代、低地農業主体になる以前に(なってからも)この山地にかけて盛大に牧畜が行なわれたらしい(この地に限らず信州から群馬の山地一帯が馬の産地であった。〇〇牧などという地名として、それが名残りをとどめている)。だから、この山地に人が係わらなかったという時代がなく、有史以前からの道の遺産が脈々と受け継がれてきた、ということもできるのである。

 それでは、それらのルートはいったいどういうところを通っているだろうか。

 こういう山地に古来からある道には、そのルートのとりかたにいくつかのやりかたがある。それは、そういうところを歩いてみればすぐ分るし、いまでも、あたりまえな感覚で道をつけようとすれば多分そうなるだろう。一つは、等高線沿いにいわゆるトラバースしてゆくやりかたであるし、これは各地の山村の集落間を結ぶ道によく見られる。距離は長くなっても一番楽な歩行ですむし、特に稲作農業主体の集落になってからは、集落の立地条件(すぐ使える水が得やすい)をみたす土地は、大体等高で並ぶから、当然道も等高線沿いになる。因みに、関東平野北辺を通っていた東山道を復原してみると、赤城山塊の自然湧水点がほぼ等高線上に点在し、それに拠る村々をつないだ形で走っているという。もう一つは高低をつめる場合の道で、それには谷すじ道と尾根道がある。古来の道で、斜面をやみくもに登りつめるような道のつけかたは先ずないと言ってよいのではなかろうか。唯一私が知っているそういうつけ方の道は、武田信玄が上杉攻略のために造ったという甲府から善光寺平へ向けての軍事用直線道路だけである。信玄棒道と称されて、いま話題にしている山系の高原の一画に、その跡が残っている。これは、地形図でみると、全くあきれるほど見ごとに最短距離を、強引に突走っている。これは例外だろう。

 そして、山越えの道は、尾根道より谷道の方が圧倒的に多そうだ。それも、考えてみれば、あたりまえなのかもしれない。

 いま、実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道の峠の位置を、おおよそ比定することができる。そこは大体、山々のくびれの部分である。いわゆる鞍部である(峠にあたる外国語を探すと、鞍部を意味するcolとでてくる。外国でも峠はそういう場所を通るわけだ。他には、そういう形状は示さないpassという語が対応する)。このくびれの部分というのは、必らず川が切りこんでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている。しかも、その鞍部を境にして両側に川が必らずあると言ってよい。それは全くの自然現象である。

 すなわち、山越えの道は両側から谷川沿いに登りつめ、最後にこの鞍部で顔をあわせているわけである。そして、水というものの性質上当然なのだが、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。だから、谷川すじというのは、もし通れれば、下からその峠部へ行く最も能率のよい道すじとなる。第一谷川という目印があるから、支流さえまちがえなければ迷うことも少ない。おそらくそういった谷川すじのなかで通れるものが道として確立していったのである。そしてまた、実はそういった河川が平地へ出るあたりには、これも自然現象として、扇状地をはじめとする台地が形成される。そこには人が住みつく。特に低地農業主体となったとき、そこは暮してゆくのに絶好の場所である。いま見る町々のうちの大きな町は大抵そういう場所にある。そういう場所に住む人たちにとって、例え農業が主たるものであっても、背後の谷川をさかのぼった山地もまた手の内であったろう。

 つまり、彼等の「私の地図」に組み込まれていたはずである。だから、山のこちら(の町)と向う(の町)とを結ぶ最短ルートが後になって意図的に造られたかのように、いま私たちはつい思ってしまいがちだが、むしろそれぞれの側で人々が、そこに展開している自然現象に素直に対応して住みつき、生活圏が確立していったとき期せずして、あの鞍部:峠で両者が顔をあわせたに過ぎなかったと見た方があたっているように思える。言うならば、理の当然として、あるいは自然現象的に、そのルートは最短であったということだ。そして、その向うとこちらの生活圏で交流が盛んになれば、当然その峠道も整えられるだろうし、事実、平地内あるいは平地間の言わば等高線上のつきあいとほとんど変らずに、山越えの交流も盛んだったと思われる。おそらくこういう山越えの交流ルート:峠道はいろいろあって、それらのなかから取捨選択して、そのときどきの中央の為都合のよい道すじを設定した、それがその時代の主要道であったのであり、たまたまその道すじにあった村々は、そこにあったが故に、単なる農業集落ではなく、道に拠った暮しをする村々、町々として変っていった、多分これが峠道が成りたっていったすじがきであると私は思う。先の信玄棒道が、今様の正確な地形図なしでできたというのも、その土地に住みついた人々の生活圏を詳さに知り、それをモザイク状につなぎあわせてできる全体像を、見えるものをもとに想定し得るだけの感性があったからこそ可能であったのだ。そういった意味では、正確な地形図を持っていて、なお且つ各種の情報を持っている私たちよりも数等秀れたものの見かた、とらえかたを彼等は身につけていたということができるだろう。そういった感性というものを、いったい私たちは、どこへ置き忘れてきてしまったのだろうか。そして、そういう感性を失なってしまった人たちが、いい街並だ、とか、桂離宮はすばらしい、などと言い、保存を説き、それならまだしも、人々の生活に係わりをもつものを平然と造っているのだ。

  

 このごろは写真の技術が進み、非常に精密な航空写真が撮れ、このごろの地形図はそれが基になっているらしい。また、その航空写真(空中写真と呼ぶようだが)も市販されていて比較的安く手に入る。それを見ると直ちに、古来からと思われる道と最近造られた道とを見わけることができる。地形・地勢とは言わば無関係に、強引に造られているもの、そうでないものが際だって見えてくる。言わずと知れた前者が最近のやりくちで、それは地形・地勢から見る限り、極めて非合理な形状を示しているのである。(もっとも、この非合理という言いいかたには私の考えかたが入っているから適切ではないかもしれない。)それに対して古来のものと思われる道すじは、それこそ淡々と、地形・地勢のなかに通れる場所を選んで走っていて、だから地形・地勢にすっかりなじんでしまい、道だけが浮きたって見えてこない。先日、機会があって、人工衛星から撮った関東北部から信越へかけての地域の写真を手に入れたのだが、私はあまりの見ごとさにほんとに驚いた。別に現代の科学技術のすごさに驚いたのではない。それも全くないわけではないが、そんなことよりも、こういう便利な地図や写真もない時代からこの地上において人々のやってきたこと、その方に驚くのである。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども全て人が住みついていると言ってよく、それらをつないで非常に自然なかたちで道がついている。そこに見られる。人の住んでいる所といない所のモザイク、つなぐ道の網目、この合理性は、全く現代の合理性による諸々の計画を圧倒しており、古来の営為の跡に比べれば、現代のそれはさながらひっかき傷のようなものでしかない。それは、大地という自然が備えている合理性に対し、科学技術という偏狭な合理性によって対抗した手負い傷のように私には見える。最近いわゆるスーパー林道が是か非かと騒がれているけれども、そして多くそれは道の開設による自然破壊が議論の焦点になっているのだが、こういう写真を見ていると、開発論者も反対論者も少しは古来人々がつくってきた道の合理性その原理原則というものを研究したらどうかと思いたくなる。なにがなんでも自然破壊反対だという言いかたをするなら、この地上で人々のやってきたことはどれも自然破壊に他ならず、なにがなんでも開発だと言うならば、大地の備えた合理性も知らないままの開発など、人々は古来少しもやってはこなかった(いまを除いて)。

 

 過去の遺物・遺産を保存すること、それは博物館的な意味では確かに必要なことだろう。しかし、私たちがしなければならないのは、それだけで十分なのではなく、そういったものを成らしめた原理原則(それは、そのときの人々が考えたことだ)を読みとり、いま使えるものは使い、捨てるべきものは捨て、いまの原理原則を主体的に考えだすことなのではなかろうか。そうでない限り、いま私たちがやっていることは、決して後世において、価値あるものだから保存しようなどと、思われもしないだろう(別に、そうなることを唯一の目標にしてつくれ、などと言っているのではない。私たちのいまの日常の意味が認められないだろうということだ)。

 

 ところで、ここで使ってきた「峠」という字は、漢字ではなく国字である。峠的地形が中国にないはずがないから、彼等はそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、一昨年の夏中国を訪れたとき、それについて中国人の通訳にしつこく尋ねてみた。ところが、当方の納得ゆく答が少しも返ってこない。頭をひねっては、「頂」かなぁ、などとどうも私たちが持っているイメージにはぴったりしないような答しかもどってこないのである。結論的に言うと、どうも私たちの「峠」に相応の字はないらしいのである。考えてみれば当然で、もしもあったならば、国字がつくられることもなく、その漢字が使われていたはずなのだ。では、彼等はなぜ「峠」に対応する字を持ってないのだろうか。

 いろいろと考えてみて、ひょっとすると私が「峠」という字に対して持っていた観念がまちがっていたのではないかと思うようになった。私はそれを、道が登りきった所、それから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す地形名称だと思っていたのである。おそらくそれは、そういう単なる形状を示すものではないのである。峠的場所に対する地形名称では「たわ」とか「たるみ」とかいうのがある。これは、鞍部:col に相当する(大だるみ峠などというのが相模湖のそばにある。たわんでいる、たるんでいる場所という意味かもしれない)。だから、地形的名称で済ますならば、あえて「とうげ」なる言いかたをしなくてもよく、字をつくりだすこともなかったろう。そして、峠の所在を地図や実地に見ていて思い至ったのは、これは地形そのものではなく、そういった地形的場所が持つ、言わば生活的な息がこめられているのではないか、ということであった。簡単に言ってしまえば、二つの生活圏」の接点を意味するのではないかと思う。峠を越えるということは、暮し慣れた所を離れ、違う所に行くということだ。峠に神をまつる、それは単なる交通の安全を祈念する以上のもの、それぞれの生活圏の境を守る神そして、それぞれの郷土の神に前途の安全を頼んだのではなかろうか。峠を境に二つの生活圏、文化圏が隣りあう。それぞれは、それぞれが独自であって峠越しに交流する。交流されたものを、また、それぞれなりに消化し成長してゆく。それが隣あっていた。だから、峠の両側は、似ているようで違う。

 ふと思い出して、柳田邦夫の「地名の研究」を読みかえしてみた。そのなかに、峠の字を「ひよう」あるいは「ひよ」と読む所のあることが紹介されている。彼の見解によれば、それは境を示す「標」の音読みではないかという。峠的地形が村界であったというわけである。そして、その「ひよう」にあとになって新字の「峠」があてがわれ、読みだけが残ったのではないかというのである。

 なぜ中国に「峠」に相当する字がないのか。おそらくそれは簡単なはしなのだ。彼の地においては、峠的地形は境界ではなかった、というよりそうなるような形状の大地ではなかった。そして第一、彼らの生活圏の境界は、そういう固定的・恒久的自然地形に拠ることはほとんどなく、言うならば自らが(勝手に)仮に設定するものであった。それは、彼の国の確固とした城壁・市壁:囲壁があるのに、我が国にはない、彼の地の文化を積極的にとりいれても、あのような確固とした囲壁をつくろうとはしなかった、そのことにつながってくるはずである。そして、そうであるとき、彼の国においては、峠の字は必要ないのである。そしてわが国では、それを必要とした。

 

 いま、我が学生たちの自力小屋建設は、いよいよ峠にさしかかったようである。私の立場では、ただ無事の落成を祈るのみである。

 

あとがき

〇私の目の前に、人工衛星から撮った写真がはってある。見ていて少しも飽きない。載せられないのが残念なくらいである。

〇私はよく車を乗りまわす。年間にして20,000kmぐらい走っている。(おかげで暴走族だなどと言われているらしい。)なぜ距離が増えるかというと、例えば片道150kmのところへ行く場合、時間のゆとりがあると、決してまっすぐには帰ってこないからである。言わばアドリブであちこち道くさをする。バイパスがあれば、わざわざ旧道を通る。自然と距離がのびる。そういうとき、大抵は一人なのだが、ときどき、そういったなかで目にすることがらで思ったこと、感じたことについて議論できる人が傍に乗っていてくれるとありがたいと思うことがある。かと言って、だれでもよいわけではない。同じように、言うならばやじうま精神あふれる人でないとだめだ。何の関心も示さない起こさない人ならば、寄り道せずに近道見つけて早々に帰った方がましというものだ。そういう意味で傍に乗ってもらいたい人は。数えるほどしかいない。

〇初めてのところに赴くとき、私は予め地図は見ない。見てもほんとにあたりをつける程度である。迷ったりしながら、「私の地図」ごしらえをする。そして、それから地図を見る。ときには帰ってから地図を開いたりもする。ある意味では合理的・能率的でないのは確かである。けれども、私にとっては、どうもこの方がよくものが見えるようなのだ。ずぼらな性格も手伝って、昔からこうなのだ。これも結局走行距離をのばすことになる。もっとも、こういうことをくり返してきたせいか、道のつくられかた、村や町のつくられかたの構造的原理が体にしみついて、走る方向についての言わば動物的は鋭くなったみたいである。(それが通用しなくなるのは、最近できた道にのってしまったとき。)

〇十分煮つめないで書くことがかなりあるように自分でも思っている。お気づきの点や異論を是非おきかせ願いたい。

〇今年もまた、それぞれなりのご活躍を!

   1982.1.1                             下山 眞司

 

投稿者補足

「信玄の棒道」: 武田信玄が信濃攻略のために作った軍事上の道路で、諏訪方面に上・中・下の三筋と南佐久郡に一筋ある。いずれも八ヶ岳の裾野を南から北へほぼまっすぐに等高線沿いに通ったのでこの名がある。   「長野県の地名」平凡社より

故人の研究室にあった「衛星写真」部分: 左隅に松本市、諏訪湖、八ヶ岳へと続く山塊、諏訪湖の北北東に火口がわずかに赤く見えるのが浅間山です。