!・・・・まだまだ春休み

2009-03-29 20:29:49 | 居住環境

先回の写真の白い点は、
雨で土が流されて現れた貝塚に埋まっている貝。
私の仕事場の近在は壮大な貝塚だったようだ。
私のところには竪穴の住居址があった。

写真の畑の南側:右手は鎮守の杜。貝塚の上に祀られたらしい。

畑を耕すと貝は埋もれてしまうが、雨が降るとまた現れる。
今回の写真の中には、見えないかもしれないが、土器の破片もある。

ときどき、考古学おたくが訪ねてくる。
コメント (2)
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?・・・・まだまだ春休み

2009-03-29 05:05:09 | 居住環境

地面の写真です。
この間の雨の後、道を挟んで向いの畑。
ちょうど集落の神社のすぐ裏手になります。
まだ耕作は始まっていません。

この地面の白い点々は何でしょう?

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続々・休工中

2009-03-26 18:22:03 | その他

別のボケです。
日ごとににぎやかになってきます。
ただ、今日も寒い。

さっき、フクロウの声がひびいた。


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続・休工中

2009-03-25 08:33:20 | その他

今日は冬に逆戻り。
ボケのとなりの「侘助」。椿は山の中のがいい、といつも思う。

今月いっぱいは、休憩タイムです。

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休工中

2009-03-22 16:44:06 | その他

休工中は、花の写真で。

少し早くボケが咲きだした。これは通称黒ボケ。深紅を黒で表現するらしい。
そばでは黒侘助も咲きだしている。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-29・・・・継手・仕口(13):中世の様態・5

2009-03-17 12:41:37 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

今回は中世の継手・仕口概観の最後。ス)「慈照寺東求堂(じしょうじ とうぐどう9」、セ)「大仙院本堂(だいせんいん ほんどう)」そしてソ)「新長谷寺客殿(しん ちょうこくじ きゃくでん)」について。
このうち、「新長谷寺客殿」については資料が手許にありません。

今回は、すでに載せた継手・仕口図のほかに、「東求堂」と「大仙院」については、梁行・桁行断面図を載せました。その図の色を付けてある箇所は、小屋裏:天井裏になる部分です。

このス)セ)ソ)の3例は、いずれも「桔木(はねぎ)」によって軒をつくるときの、その下の化粧天井:「化粧垂木」を受ける「桁」(これも「化粧」です)の柱への取付け法と、その継手・仕口の図です。
この手法・方法は、「書院造」に共通の仕様で、「慈照寺東求堂」の例が最初の事例のようです(もちろん現存建物の中で)。

「化粧桁」は、柱の半分ほどの幅で、その幅分柱を欠きとり、そこに嵌め込んでいます。
仕上りは、柱と桁は同面になり、柱が桁を受けていて、柱はそこでとまっているように見えますが、実際は、柱は天井裏へ伸びて「野屋根」の小屋組を支えています。ス)には断面詳細図を載せましたが、ちょっと分りにくいところがあります。

ス)「東求堂」およびソ)「新長谷寺」の柱への桁の取付け仕口は、同じやりかたで、柱の方に広幅の「蟻型」をつくりだし、桁および肘木側に同型の蟻型を彫り、柱の欠き取りを桁および肘木の高さ1個分大きめにつくり、その部分だけ図のように「蟻型」を設けず、そこへ材を押し付け落す、という方法です。「落し蟻」あるいは「蟻落し」と言います。柱の天井裏になったところには、最初に材を押し付ける箇所が彫られたまま残っています。

セ)「大仙院」では、柱全体を「蟻型」につくりだし、そこへ「半蟻」を彫り鎌をつくりだした桁材を落して継ぐ手法をとっています。やはりス)ソ)同様に、「蟻型」のない箇所をつくってあるものと思います。

ス)セ)の化粧の「桁」は、柱~柱が1本で、柱上の「舟肘木」上で継いでいます。「舟肘木」も化粧です。

ソ)の継手には「シャチ栓」が使われています。「シャチ栓」は、後から打込むことによって、2材を引き寄せ密着させる優れものです。室町時代の後期にすでに使われているのです。これについては、いずれ詳しく見ることにします。

この頃までには、工人たちの間では、木材という材料の特徴、その扱い方について、知り尽くされていたのかもしれません。


ス)セ)のように、「舟肘木」に「太枘(ダボ)」や「栓」が用意されているのは、単に「桁」と「肘木」が見かけの上で綺麗に密着することだけを考えているのではなく、この「桁」に強度上の役割を持たせているからだと思います。
すなわち、軸組は下から「足固め」、「内法」、「天井」の三段の貫だけで架構をつくっていますが、「桔木」の部分が、小屋組部分と軸組を結びつける役割をはたしているのです。

これは「大仙院」の断面図でよく分ると思います。
「大仙院」では、小屋組の梁のうち、「桔木」のある箇所の梁は、梁行、桁行とも、中央部:室中の箇所の梁よりも低い位置に架けられています。そうすると、その箇所では、「桔木」と繋ぎの梁が三角形を形成することになります。
そして、「断面が三角形をした立体」が、軸組の低い部分と高い部分の段差の部分で、中央の高い軸組部分の四周をひとまわりする恰好になるのです。
その結果、軸組と小屋組とは一体の立体になることになります。

おそらく、長年の経験で、「桔木」を四周に設けると、単に軒を楽に深く出せるだけではなく、軸組と小屋組を一体化できることを発見していたのではないでしょうか。
そしてそのとき、「化粧垂木」もまた有効であることも気がつき、だからこそ、それを受ける、そして柱列を固めることになる化粧の「桁」にも細心の注意を注いだのだと考えられます。
実際、「書院造」の化粧垂木は、平安時代の細身の「見かけ」のものとは違い、それだけでも荷を背負えるような、しっかりした断面をしています。

いずれもきわめて手の込んだ仕事で、セ)の「内法貫」の継手、僅か1寸(約3cm)厚の貫の継手にこのような細工をするとはまことに恐れ入ります(柱が仕上り4.3寸ですから、貫厚は柱径の約1/4にあたります)。


以上、分る範囲で説明してみました。知れば知るほど、まだ先があるなあ、と思わずにはいられません。

なお、3月いっぱいに締めなければならないことがあるので、しばらくここで休憩いたします。
その間には、次回以降のための新しい資料も手に入るかと思います。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-28・・・・継手・仕口(12):中世の様態・4

2009-03-11 15:39:19 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

引き続き、ク)からシ)まで。
残念ながら、これらの建物についての資料が手元にありません。そこで、それぞれの建物について知る方策を調べました。以下の通りです。

ク)燈明寺 本堂:とうみょうじ ほんどう 
  現在は廃寺。元は京都府相楽(さがら)郡加茂町にあった寺です。
  現在、横浜の「三渓園」内に移築・保存されています。
  この図は内陣のもの。
  「文化財建造物保存技術協会」開設の「文化遺産オンライン」で
  概略をみることができます。
  下記から「燈明寺 本堂」で検索してください。    
   「文化遺産オンライン 建造物修復アーカイブ」

ケ)久安寺 楼門:きゅうあんじ ろうもん
  大阪府池田市にあります。
  「久安寺」自体のHPはないようですが、「久安寺」検索で、
   いろいろな方の撮られた写真が見られます。

コ)円教寺 食堂:えんきょうじ じきどう 
  書写山(しょしゃざん)園教寺
  所在地:兵庫県姫路市書写。
       姫路城の北西にあたる。
  総二階建て、長さおよそ40mの建物。
  下記から「食堂(じきどう)」の項をご覧ください。
   「書写山園教寺」

サ)円成寺 本堂:えんじょうじ ほんどう
  本堂は「阿弥陀堂」が正式。
  所在地:奈良県奈良市忍辱山町(にんにくせんまち)
       奈良盆地の北東、柳生街道沿い。
  寺内多宝塔にある大日如来座像は運慶の第一作とのこと。
  下記から「本堂」の項をご覧ください。
   「円成寺」

シ)不動院 本堂:ふどういん ほんどう
  所在地:奈良県 大和高田市(桜井線「高田」駅近く)
  本尊:大日如来像(鎌倉時代)ゆえに「大日堂」とも言う。
  下記に外観写真と簡単な説明が載ってます。
   「奈良の寺社」

恐縮ですが、以下は、図版をプリントしていただき、それを片手にお読みください。

さて、ク)「燈明寺本堂」の「継手」。
二つの継手はともに「鎌継ぎ」。
その内の左側の「足固貫」の「継手」が、どういう場所で継いでいるのか分らない。左側の材を先に据え、それに被せるように右の材を置く。「鎌」が斜めに刻んであるので滑り降りて固く締る。それは分るのだが、ではどこで継いでいるのかが分らないのです。???

右側の「頭貫」の「継手」については、場所は分りますが、なぜわざわざ手間をかけて「鎌継ぎ」にしたのかが分りません。
柱の側に、「貫」に喰いこむ凸部がありますから、「貫」は落とし込むだけで柱に固定されます。それゆえ、単に「相欠き」にするだけの古代の方法で十分なのではないか、と思えるからです。
それでいて、「斗」は「太枘(ダボ)」で取付ける古代の方法。

ケ)久安寺・楼門の例。
すべて「高欄」の部材の「継手」。いずれもきわめて手の込んだ細工です。
「高欄架木」の「蟻継ぎ」以外は「鎌継ぎ」の各種応用編と言ってよいくらい多様です。
継いだあと、継目に隙があかずに、そして継目が綺麗に見えるように、いかに二材を密着させるか、に意をそそいでいるようです。
これだけの細工をするには、道具も逸品が用意されていたと考えられます。

「地覆」(いわば高欄の束柱を立てるための「土台」に相当する材です)の継手は、いずれも「束」の立つ箇所で継いでいるので、上端に「束」の「枘孔」が彫られています。
一番上の図は、ごく単純な「鎌継ぎ」を下側に設け、上側に「枘孔」を彫っています。
次は「鎌」を微妙な位置で2枚設け、上側に「枘孔」を彫っています。
仕上りの外見は「束」の芯の位置に継目が1本見えるだけです。つまり、両者まったく同じです。両者の材寸が同じですから、同じ「高欄」の「地覆」でしょう。
しかし、この二つをどういう使い分けているのか、分りません。単に、「担当者」の違いなのか?

3番目、継目を斜めにした例。もっとも片側は垂直。これも、どういう箇所でこの方式にしているのかが分りません。
それにしても、二材の狂いをいかに避けるか、その工夫は並大抵ではありません。多分、二材をあてがってみては削り、あてがってみては削り・・・という作業を何度も繰り返しただろうと思います。へたをすると、一箇所完成するのに一日近くかかったりするでしょう。

「架木」の継手。何の気なしに見ている「高欄」の「架木」が、こんな継手になっているとは知りませんでした。「束」の頭を傷めずに、腰掛けるだけで、しかし二材は継がれている。単純だけれども確実です。

これらを見ていると、工人たちが、いかに綺麗に仕上げるか、楽しみながら、あるいは腕を競いながら、仕事をしている様が目の前に浮かんできます。

コ)円教寺・食堂。
「頭貫」の継手・仕口は、ク)の「頭貫」のそれと同じです。
これを見ていると、この頃になると「鎌継ぎ」「蟻継ぎ」「蟻掛け」の刻みは何の苦もなくできるようになっていたのではないか、と思えます。
とは言っても、Tの字部分も含め、「相欠き」あるいはその応用で済むものを、わざわざ手間をかけるのはなぜなのか、わかりません。

「丸桁」の「継手」を「鎌継ぎ」にするのは、先回のイ)「円光寺」、ウ)「如意寺阿弥陀堂」、キ)「桑実寺本堂」と同じで、化粧に意をつくすためでしょう。

「二重梁」の「継手」は、材の端部を細めていること、同一レベルで交叉しないことをのぞけば「大仏様」の「飛貫」の「継手」と同じです。
この方法は、「埋木・楔」さえ気にならなければ、「差鴨居」の最も簡単な「継手」として応用可能です。

興味深いのは、「野垂木」の「継手」です。
これは、「母屋桁」から持ち出した位置で継ぐための工夫と考えられます。
材寸は高さ2.5寸(約7.5cm)幅2寸(約6㎝)で、決して太い材ではありません。それにこのような細工をするというのは、たしかに確実に継がれ、一材と変らない強度が得られるとは思いますが、現在では考えられません。よほど素性のよい材料でないと、加工中に傷んでしまいそうです。

サ)「円成寺本堂」の例。
ともに「側桁」の「継手」ですが、左側は幅8寸×高さ7.5寸(約24cm×22.5cm)の材を「枘」を2枚にした「柱」の上で継ぐ場合ではないかと思います。

「鉤型付相欠き」を縦方向で使う「継手」は、柱から持ち出した位置で継ぐ時に使うのが普通で、上から荷をかけても曲がらない強い「継手」です。なぜ柱上で使ったのか分りません。
「大仏様」の工人なら、同じ「継手」を平に使って(横位置で使って)、1枚の「枘」で両者を貫く方法をとるものと思います。細工もその方が簡単です。

右側の「継手」は、先の例とは材の幅がひとまわり小さくなっていますから、別の位置の「側桁」で、柱から持ち出した位置で継ぐ例で、多分化粧桁ではないでしょうか。

シ)「不動院本堂」
この図はミリで寸法を表示しています。
「足固貫」「内法貫」は18.1cm×9.1cmの角材。この材を、「大仏様」同様、柱内で継ぐ「継手」と思われます。ただ、先端部に幅1.8cm×奥行2.1cmの凸部:「目違い」を設けている点が違います。「目違い」は、2材が捩れるのを防ぐためのもの。しかし、柱の孔の中で継ぐわけですから、捩れは心配ないはずです。それとも、材の素性が悪く、外で次いでから孔に挿したのか?

「大引」は丸太の上端と下端を平らに仕上げた材を使い(「太鼓落し」などと呼びます)、側の柱で「足固貫」に「鉤型付き相欠き」で交叉させ楔で締めているものと思われます。「大引」の手前は丸柱に取付くように見えますが、その端部の刻みは何のためか、いろいろ考えましたが分りません。

「根太」は幅9.1cm×12.1cmの太い角材です。ここで使われている「継手」は、いわゆる「略鎌」。「大引」上で継ぐ場合を示しているものと思います。
「大引」~「大引」間で「根太」に荷がかかり「根太」が撓もうとしても、この「継手」のかかりの部分が抵抗して、撓みを低減してくれるのです。


ざっと見たところ、この時代になると精緻な細工:刻みが可能になっていることがよく分るのですが、その一方で、そのような細工:刻みをする理由に一貫性がない、あるいは合理的な理由がないように見えるのは、私の思い過ごし:偏見でしょうか。

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閑話・・・・「建築が社会にできること」?

2009-03-07 11:46:19 | 専門家のありよう

過日、標記のタイトル(「 」内)の講演会の案内があった。

このタイトルを目にした瞬間、私には、どうしようもない違和感が生じた。

そしてしばらくして、もしかしたら、違和感を感じるのは私だけ、あるいは私の世代だけかもしれない、今の人たちは、違和感を感じないにちがいない、と思うようになった。なぜなら、こういうタイトルの講演会を企画しているのだから・・・。
このブログをお読みいただいている方の中にも、もしかしたら特に何とも思わない、という方もおられるだろう。

このタイトルは、講演者自ら立てたものらしい。
であるならば、こういうタイトルを立てる以上、講演者には、「建築」というのは「社会」とは無関係、独立の事象である、という「認識」があるにちがいない。
では、「建築の拠って立つ『存在理由』」は何なのだろう?
「社会」とは独立の「存在理由」を考えていなければ、「建築が社会にできること」という文言は出てこないはずだ。

講演者はまだ30代、最近「売れっ子」なのだそうである。私に案内パンフを配ってくれたのは40代の方。別にこのタイトルを訝る気配もない。まわりには同じく同世代の方が数人。これも同様。

そして更に思った。
都会を墓標だらけのような風景に変えてしまったのは、このタイトルをあたりまえと考える、あるいは、違和感を感じない「建築」家の仕業なのだ、と。

外は降り続いた雨も上がり、初春の空。雲の流れがすばらしい。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-27・・・・継手・仕口(11):中世の様態・3

2009-03-04 18:27:08 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

前回に引き続き、今回は鎌倉時代中頃のオ)「龍岩寺」と、少し間が空いて室町時代初期の、方丈建築最古の建物であるカ)「龍吟庵方丈」、そしてキ)「桑実寺(くわのみでら)」に使われている継手・仕口を見ます。

私の観ているのは「龍吟庵方丈」だけで、図面もこの建物だけ手元にあります。「龍吟庵方丈」については、大分前に「基準寸法」の話で触れていますが、柱間寸法:1間=6尺8寸としていた時代の建物です。また図版もそのときと同じです(「建物づくりと寸法-1・・・・1間は6尺ではなかった」参照)。

オ)の「竜岩寺」の例は「軒桁」「母屋桁」の継手に使われている「鎌継ぎ」で、「角鎌」になっています。
この図だけでは柱との位置関係が分りませんが、おそらく持ち出した位置で継いでいるのではないでしょうか。横3.6寸×高さ3寸という断面からみて、化粧の部材だと思われます。

キ)の「桑実寺の」例では、「頭貫」に、斜めの鎌の「鎌継ぎ」と角型の「鎌継ぎ」の2種類の「鎌継ぎ」が使われています。
2種類使う理由が特にあるようには思えませんから、担当者の任意の判断ではないか、と思います。
中世になっても、「古代鎌」と呼ばれる「角鎌継ぎ」を、あいかわらず使う工人がいたのでしょう。
また「頭貫」の柱への納め方は、図から判断すると、柱の「太枘(ダボ)」で固定しています。これも古代の、しかも初期の方法です。

キ)では、「床根太」「軒桁」そして天井の「格縁」にも「鎌継ぎ」が使われていますが、どれも大きく力のかかる場所ではありません。
なお、「軒桁」の上端に彫られている小穴は、「面戸板」を納めるためのもので、丁寧な仕事です。

一方、足固めには「足固貫」が使われ、「継手・仕口」は「大仏様」で多用されている柱内で「鉤型付きの相欠き:略鎌」で組む方法がとられています。

おそらく、この「桑実寺本堂では、工法について一定の方針があったのではなく、仕上りの姿だけあって、それを何人かの分業で、手法は各自に任せ、その結果、古今の方法が適宜に使われ混在したのではないか、と思えます。


カ)の「龍吟庵方丈」では、「付長押」が室内の意匠に積極的に使われています。
中央の室では、内法上から3段の「付長押」が設けられています。それぞれの「付長押」の内側には、図では分りにくいですが、「貫」が設けられています((「建物づくりと寸法-1・・・・1間は6尺ではなかった」の図版には、位置を示してあります)。

「付長押」は柱の外側に設けられます。そのため、かならずどこかに継目が表れますから(継目が柱の芯位置になるように継がれます)、この継目をきれいに見せる必要があります(書院造では、「付長押」に、各柱ごとに「釘隠し」が飾られますが、これも継目隠しの役があったと考えられます)。
一番の問題は、木材の収縮で、継目に隙間が開いてしまうことです。
木材は一般に長さ方向に縮む傾向がありますから、それを防止するために、このきわめて狭い箇所で「鎌継ぎ」を設け、2材を引張り寄せることにしたのでしょう。
この細工には、きわめて精密な加工が必要で、道具にも相当なものが使われていたと考えられます。

小屋組の「束柱」は「貫」で固められ、その「継手」には、「鉤型付き相欠き:略鎌」が使われています。梁行、桁行の「貫」は段違いに設けられているため、柱内で交叉することはなく、梁行、桁行とも「継手」だけで組まれています。

ここまで見てきたように、「鎌継ぎ」は、中世には、主要構造部ではなく、化粧:見えがかりになる箇所の継手に使うのが普通になっていた、と見てよいようです。

次回もこの続きを。

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日本の建物づくりを支えてきた技術-26の補足

2009-03-02 18:25:38 | 日本の建物づくりを支えてきた技術
忘れていました。
「貫」に使われる「鉤型付き相欠き」:「略鎌継ぎ」についての「日本建築辞彙」の解説を転載します。

「略鎌継ぎ」:りゃくかまつぎ
側面に於いて鎌の形を顕す(あらわす)こと図の如し。此継手は通貫(とおしぬき)などにも用ふるものなり。其(その)場合には柱の所に其継手を置くものとす。「眞(しん)鎌継」に対して此(この)名あり。[図は省略]

「眞鎌継」:しんかまつぎ
桁土台などに用ふる継手にして其下には支承物あるものなり。上端は図の如くにして横は突附の如くになしあり。又鎌は上より中程迄ありてそれより下には目違あるのみ。これ「しんつぎ」の一種なり。[図は省略]

「眞継」:しんつぎ
桁などの継手を柱等の如き支承物の上に置きたる場合に之を眞継といひ、支承物を離れて置けば之を持出継(もちだしつぎ)といふ。

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